- 八絃の楽器を以て歌はしむ。
- 『主よ、我を救ひ給へ、盖義人は絶えたり、眞理は人の子の中に減少す』。他の訳者は『人の子の中に忠信の者なし』〔アキラ[1]、一節二節〕となす。[2]
一。 元来善を行ふことは困難にして行ひ易からざるも、特に之を行ふ善人の少き時を然りとなす。旅行は困難なるも、特に旅行者が唯一人にして同伴者なき時に然るが如く、爰にも亦同様なり。兄弟の関係と慰藉とは実に重大なる事なり。然ればパウェルは『我等互に顧みて愛と善き行とを励ますべし』〔エウレイ(ヘブル)書十の二十四〕と云へり。吾人は古昔の義人等をも特に尊ばざるべからず、啻に彼等が善行を行ひしが為のみならず、善行の甚だ乏しき時、何処にも善行者のあらざりし時に善行を行ひしが為にも尊ばざるべからず。聖書に『ノエは義人なり、其世の完全き者なりき』〔創世記四の九〔ママ〕[3]〕とあるは此事を顕すなり。吾人はアウラアム ロト モイセイに驚く、彼等は恰も深夜の星、荊棘の間なる薔薇、狼の間なる羊の如かりき、彼等は衆人と反対なる途を歩みて止まざりき。群集の中にありて善を行ふの困難にして又多くの者が反対の方向に行くに際して善を行ふに困難ならば、独り群集に反して行く所の者は無数の困難を迎へん、若し航海に際して反対の方向に波浪の運ばるる時、波浪に逆ひて船を進むることの困難ならんには、况て善行に於てをや。視よ、他の者が反対の途を歩むに際して、善行の途を歩める此義人は、何故に神の照管に趨りて『主よ、我を救ひ給へ』と云ふかを。彼の表言す所は左のことに外ならず、曰く我には至上者の右手、天の佑助、神聖なる助成を要す、我は衆人と反対なる途を歩みつつ大なる照管に必要を有すればなり。彼は我を救ひ給へ、義人なければなり、と云はずして、悪は主権を採り、疾病の強まりしに由りて、在りし所の者も亡びたるを顕しつつ『盖義人は絶えたり』と云へり。パウェルも亦之より預戒して『豈知らんや、僅なる酵は尽くの洩麪を酸くするを』〔コリンフ前書五の六〕といへり。又曰く『悪しき交は善き習を壊る』〔コリンフ前書十五の三十三〕と。『眞理は減少せり』とは何の意なるか。眞理は多し。色及び他物の間には眞のものと偽のものとあり、例令ば真正の紫色と贋造の紫色とあり、又泪夫藍(薬草の名)・宝石・香料及び其他のものにも真偽あるが如く、善行にも亦真偽あり。眞理は実に在る所のことなり。然れば眞理は変じたることあり、蔽はれたることあれども、其本質に於て害されしにあらず、乃ち人々によりて排斥されたるなり、是に由りて預言者は『眞理は減少せり』と云ひしのみならず、之を表言さんことを望みつつ『人の子の中に』てふ言を附加へたり。視よ、眞の飾あり、偽の飾も亦あることを。眞の飾とは如何なるものなるか。心的飾なり。偽の飾とは如何なるものなるか。肉的飾なり。眞の富あり、偽の富も亦あり。偽の富は財産にあり、眞の富は善行にあり。喜にも真偽あり、美にも、権威にも、光栄にも、亦あり。然れども多くの人々は眞の事物を遺てて、偽の事物を追跡す。人自らにも眞の者と偽の者とあり――生きて動作く者は眞の人なれども、絵画に描かるるは偽の人なり、此くの如く善行に於ても亦然りとす。
二。 『人各其隣に偽を言ひ、媚び諂ふ口にて貳心より言ふ』〔三節〕。他の訳者は『別々の心より言ふ』〔アキラ〕となす。預言者は二種類の悪に就きて云ふなり、彼等が偽を言ひしことと、其隣に対して云ひしことと是なり、而して譌の下に偽なること、或は余分なること、或は無益なることを意味す。パウェルも亦『互に謊を言ふ勿れ』〔コロサイ書三の九〕と云ひて、同一のことを表言せり。而して特に重きことは衆人が蠱惑さるることなり。彼は斯々の人と云はずして『人各』と云へり。悪は啻に外部のみならず、内部にもありき、即ち『貳心』或は他の訳者が彼等の心に大なる表裏あることを顕しつつ『別々の心』と云へる如く、心内にありしなり。此は凡ての敵よりも悪しし。明なる及び顕然なる敵は容易に戒心することを得れども、外部に或状態を顕して内部には他物を隠す所の敵に至りては、之を捕ふること困難にして、公然剣を携ふる人々よりも一層危険なりとす。『主は悉くの媚び諂ふ口、誇り高ぶる舌を絶ち、彼の言ひて、我が舌にて勝たん』〔四節五節〕。他の訳者は吾人は『主宰せん』〔不明の訳者〕となす。『我が口は我等と共にあり、誰か我等に主たらん』。他の訳者は『誰か我等を主宰せん』〔アキラ〕となす。爾は預言者が如何に彼等のことを慮るを見るか。是れ彼等に反対して云へるにあらずして、彼等の為なり。預言者は彼等亡びんとは云はずして、悪は亡びんと云ひ、主は彼等を絶つとは云はずして『諂ふ口』を絶つと云へり。
三。 爰に預言者が絶たれ及び滅ぼされんことを希望するは、彼等の実在の絶たるるを云ふにあらず、乃ち彼等の舌と高慢と奸計及び傲慢の滅ぼさるることを云ふなり、又彼は彼等の無智を笑ひて『我が口は我等と共にあり、誰か我等に主たらん』といへり。是れ悪鬼に憑られたる者及び発狂者に相応なる言なり。故にパウェルは彼等に反して云ひつつ『爾等己に属するに非ず、價を以て買はれたり』〔コリンフ前書六の十九、二十〕と注意し、又己の為に生活せざるべきを命ず〔ロマ書十六の七〔ママ〕[4]〕。言ふ意は左の如し、此等の口は爾に属せずして主に属す、何となれば主之を造り、之を整へ、之に生命を吹入れたればなり。然れども爾は口を有するか。吾人が有する所のものは、悉く吾人のものならず、吾人の之を有するは、是れ猶他人より依托されし金銭を有するに等しく、他人に雇はれて任せられたる地を領有するが如きもの也。然れば神が口を爾に與へたるは、荊棘を生ぜん為にあらず、乃ち有益なる種子を蒔き之を以て高慢及び詭譎にあらで、乃ち謙遜と祝讃と愛とを弘布せしめん為なり。又神が爾に目を與へたるは、爾が見て以て色欲に溺れん為にあらず、貞操を以て之を飾らん為なり、又爾に手を與へたるは、爾の人を打たん為にあらず、施済を與へん為なり。爾口を以て罪を行ひ姦淫・不潔を行ふの武器となさば、如何で『我が口は我等と偕にあり』と云ふを得んや。『誰か我等に主たらん』。嗚呼是れ悪魔の言なり、悪鬼の心なり。人よ、爾は萬物が爾の主宰の能力・睿智・配慮及び照管を報じ、爾の体と霊生命及び凡そ見ゆると見えざるものは、殆ど皆造物主の全能を宣べ傳ふるを見ざるか――爾も亦『誰か我等に主たらん』と云ふ、是れ、無智・憤激・心霊的放肆の言なり、無数の悪は多く之よりして生ず。斯る人々は『誰か我等に主たらん』と云ふ、然るに他の人々は主を認むるも、審判及び懲罰に関する教誨を排斥し、暫時的快楽の為に大なる苦を得、又彼等は地獄のことを忘れて己を慰めんことを望みつつ認めずして斯る大胆を以て己を亡滅の淵に陥擠すなり。是故に我は爾に地獄のことを記憶し、地獄のことを説話し、斯くの如き麗しき状態を以て己が霊を飾らんことを勧む、何となれば斯る談話は甚だ有益なればなり。神が地獄を以て吾人を威嚇すは空しきことにあらず、且つ之を以て地獄を疑なきものとなすのみならず、畏を以て吾人を善良なる者となさん為なり。故に悪魔は力めて地獄に就きての記憶を滅さんが為に全力を用ふ。然れば地獄のことを忘れずして、何の為に我は時ならず己を煩すやと云ふ勿れ。此煩悩は時ならざるか。此煩悩は爾が地獄に於て苦む時に時ならざるものたらん、現世は痛悔の時にして未来は其時にあらず。ラザリの時に生活したる富者が死後無数の苦を受けしも、彼に何等の益をも與へざりしは此事を證するなり。然れど彼若し好時を得て痛悔したらんには、斯る苦を受けざりしならん。『主曰く、貧しき者の苦、乏しき者の嘆に因りて、我今興き、執へられんとする者を危からざる所に置かん』〔六節〕。他の訳者は『明なる救をなさん』〔シムマフ[1]〕となす。
視よ、謙遜の力は如何なるものなるかを。貧しき者〔爰に貧しき者とは痛悔の心ある者を云ふ〕の力は彼等の苦の為に與ふる神の保護なり。預言者は爰に貧しき者の生活及び善行に就きて言はず、唯彼等の苦が神を傾けて罰と復讐とに鼓舞するを言ふなり。勇みて陵辱を耐忍ぶは是れ何の意なるか、視よ、如何に神が不正にして耻めらるる者の為に慮るかを。不幸と苦艱とは彼等の為に至大なる保護となる。愁嘆の力や大なり、此力は至上者の佑助を呼べばなり。爾等貧しき者を陵辱むる者は畏るべし。爾等は権威・財宝・金銭及び裁判者の懇切を有するも、彼等は何ものよりも強き所の武器――愁嘆・涕涙及び陵辱を忍耐することを有す、彼等は此武器を以て天の佑助を己に引付くるなり。此武器は家を破毀し、根底を崩壊し、市街を絶滅し、全人民を溺没せしめたり、是れ不正にして陵辱めらるる者の愁嘆の力なり。善良なる貧者が苦を受けて一の悪言をも出さず、唯嘆きて己の不幸を泣く時は、神自ら彼等を眷顧み給ふなり。『執へられんとする者を危からざる所に置かん』とは何の意なるか。言ふ意は、我は勇敢しく顕然に、明白に彼等を保護せん、是れ衆人の之を知らん為なりと。然れども何時明かに救はざることあるか。時としては明かに救はずして密かに救ふことあり、彼は人の誉を要めざればなり。言ふ意は、今諸敵は現然として彼等を攻撃し、恰も神の佑助を有せざる者の如く彼等を悲ましめ、彼等を讒謗するに際して、敵自らも実験に於て主の佑助を認め、之を悟りて善良なる者とならんが為に、我は明かに彼等の救を立てんとなり。『主の言は浄き言なり、爐に於て土より浄められたる銀なり』。此等の言と前に述べたる言との間に如何なる連続あるか。大なる而も直接の連続あり。彼曰く、是れ空言若くは虚喝なりと思ふ勿れ、神の言は浄くして悪を遠ざかればなり。熔解されたる銀の、他の汚物を混ぜざるが如く、神は如何なる言を述ぶるとも、其言は必ず成遂げられざるべからず。故に曰く『爐に於て土より浄められ、七次練られたる銀なり』〔七節〕と。
四。 爾は預言者が如何に物体を以て、神の偽なきこと、即ち眞理を表言すを見るか。能く反復注意して熔解紅熾し、斯くして浄めたる銀の、毫も他の物質を混ぜざるが如く、神の表言も亦斯くの如し。『主よ、爾は我等を保ち、我等を護りて、斯世より永遠に至らん』〔八節〕。他の訳者は『彼等を』〔不明の訳者〕となし、第三の訳者は『之を護りて、斯世より永遠に至らん』〔アキラ及びフェオドチオン[1]〕となす。『人の子の中小人高にあれば、悪者四方に環る』〔九節〕。他の訳者は環るを『歩まん』〔アキラ、シムマフ、フェオドチオン〕となす。『主よ、爾は我等を保ち、我等を護りて』。視よ、預言者が如何に『数々』或は之を尚能く云へば『常に』神に趨就きて彼より佑助を求むるは、此佑助が偉大なる能力にして、如何なる時にも限られざるに由るなり。言ふ意は、爾は断えず吾人を守護するによりて、吾人は如何なる人事的のことにも必要を有せずとなり。『悪者四方に環る』とは何の意なるか。七十翻訳者の訳に拠れば左の如く会得せざるべからず、曰く、縦ひ悪人吾人を環るとも、吾人は毫も苦を受けざらん、爾吾人を護り、吾人を高めて光栄なる者となせばなりと。他の訳に拠れば、左の如く会得せんことを要す、曰く、爾賤卑しき人の諸子を高むる時、即ち爾が軽蔑せられ、及び卑微なる者と数へられたる吾人を栄し、悪人を遠ざけ、之を逐ふ時は悪人遠ざかると。『高に在れば』とは何の意なるか。之を換言すれば、爾は人が爾に肖たる者となり得る程之を爾に肖たる者と為せり。主曰へり『吾人の肖と像とによりて人を造らん』〔創世記一の二十六〕と。彼天に在りとは、吾人が地に在ることなり、又天の上には彼より上に何もののなきが如く、地上には其価値の人に似たる者なし。彼は吾人に『天に在す爾等の父の如く為れ』〔マトフェイ福音五の四十五、四十八〕といひ、吾人に、吾人自らの名をすら傳へて『我曰へり、爾等神なり、爾等皆至上者の子なり』〔聖詠八十一の六(詩篇八十二の六)〕といふ、又『我爾をしてファラオンにおけること神の如くならしむ』〔出埃及記七の一〕といへり。然ればモイセイは或天然物を変化し、又或者は或天然物を変化せり、神は吾人に己自らを神の殿と作すことを命じたり。縦ひ爾は天を造らざるも、神の殿を造らん。天の光華あるは、其中に神の住居し給ふに由る、况て吾人はハリストスによりて天に住するをや、使徒曰へり『彼と偕に復活せしめ、天に座せしめたり』〔エフェス書二の六〕と。ハリストスは吾人に其自ら為ししよりも多く為すの権を吾人に與へたり曰く『我が行ふ所の事を彼も亦行はん、且此より大なる者を行はん』〔イオアン福音十四の十二〕と。旧約に於ても或者は海の流を変じ〔出埃及記十四の二十一〕或者は太陽を支へ、月に止まることを命じ〔イイスス、ナウィン記[5]十の十三〕或者は太陽を還し〔第四列王記[6]二十の十一〕爐にある少年等は火の自然力を止め、激烈なる火焔の動作をも失はしめて、縛られたるものの如く呻吟せしめ〔使徒行実三の二十三〔ママ〕[7]〕猛獣も神の友の尊ぶべきを知りて己の甚く餓え居たるにも拘らず、之を害せざりき〔ダニイル書六の二十二〕。口腹の快楽に耽ける者は、猛獣の斯る節制を見て愧づべし。獅はダニイルを見て怜悧き者となれり、然れど吾人は神の子の吾人に来れるを見て怜悧しき者とはならざるなり。彼等は聖者の体に触れんよりは、寧ろ餓えて死なんと決心せり、然れど吾人はハリストスの裸となり、又餓え疲れたるを見て、余分あるものをすら之に頒たず、乃ち裕に生活して諸聖人を蔑視す。地は神の他の友に対して、後来嘗てなかりしが如き豊富なる贈物を己の懐より産出せり〔イオフ四十二の十〕。彼等の衣服及び影が悪鬼・死及び病の為に畏るべきものなりし時は、彼等自身の尊ばれたるや怪しむに足らず〔使徒行傳五の十五、十九の十二〕。天使等も斯る人々を尊敬して、之に特別なる尊敬を顕せり〔創世記十八の十五、十九の三〕。然れば彼等は主自ら尊敬を顕しし所の者を如何で尊ばざるを得んや。是は旧約にも新約にもありしことなり。故に預言者は『人の子の中小人高に在れば、悪者四方に環る』と云ふ。然れば吾人は此尊貴の偉大なるを思ひ、之が為に適当なる尊敬を以て報いん。是れ異れる尊敬の、吾人の為に罰の発端とならざらん為なり。之を教ふる者及び教へらるる所の吾人は、皆光栄・尊貴・叩拝の世々に帰する所の吾人の主イイスス ハリストスによりて救はれん。アミン。
- ↑ 1.0 1.1 1.2 投稿者注:アキラ(アキュラ)、シムマフ(シュンマコス)、フェオドチオン(テオドティオン)はヘブライ語聖書のギリシャ語訳の翻訳者。w:ヘクサプラを参照。
- ↑ 投稿者注:第十一聖詠は詩篇第十二篇に相当する。
- ↑ 投稿者注:原文は創世記四の九となっているが明らかに創世記六の九の誤りなので誤植と思われる。訂正はしていない。
- ↑ 投稿者注:原文はロマ書十六の七となっているが、この箇所は全く引証になっていないので、おそらくロマ書六章十三節の誤りだと思われる。訂正はしていない。
- ↑ 投稿者注:ヨシュア記のこと。
- ↑ 投稿者注:第四列王記は正教会での呼び方。一般の『列王記下』に相当する。
- ↑ 投稿者注:原文は使徒行実三の二十三となっているが、明らかにダニイル書三の二十三の誤りなので誤植と思われる。原文のまま訂正はしていない。
第十一聖詠
1 伶長に八絃の楽器を以て之を歌はしむ。ダワィドの詠。
2 主よ、我を救ひ給へ、蓋義人は絶へたり、人の子の中に忠信の者なし。
3 人各々其の隣に譌りを言ひ、媚び諂ふ口にて貳心より言ふ。
4 主は悉くの媚び諂ふ口、誇り高ぶる舌を絶ち、
5 彼の言ひて、我が舌に勝たん。我が口は我等と共にあり、誰か我等に主たらんと言ふ者を絶たん。
6 主曰く、貧しき者の苦しみ乏しき者の嘆きに因りて、我今興き、執へられんとする者を危ふからざる處に置かん。
7 主の言葉は浄き言葉なり。爐に於て土より浄められて、七次錬られたる銀なり。
8 主よ、爾は我等を保ち、我等を護りて、斯の世より永遠に至らん。
9 人の子の中、小人高きに在れば、悪者四方に環る。
詩篇第12篇(文語訳旧約聖書)
- 八音にあはせて伶長にうたはしめたるダビデのうた
1 ああヱホバよ助けたまへ そは神をうやまふ人はたえ誠あるものは人の子のなかより消失るなり
2 人はみな虚偽をもてその隣とあひかたり滑なるくちびると貳心とをもてものいふ
3 ヱホバはすべての滑なるくちびると大なる言をかたる舌とをほろぼし給はん
4 かれらはいふ われら舌をもて勝をえん この口唇はわがものなり誰かわれらに主たらんやと
5 ヱホバのたまはく 苦しむもの掠められ貧しきもの歎くがゆゑに我いま起てこれをその慕ひもとむる平安におかん
6 ヱホバの言はきよきことばなり 地にまうけたる爐にてねり七次きよめたる白銀のごとし
7 ヱホバよ汝はかれらをまもり之をたすけてとこしへにこの類より免れしめたまはん
8 人の子のなかに穢しきことの崇めらるるときは惡者ここやかしこにあるくなり