- ダウィドの詠〔ダウィドの凱旋歌〕[1]
一。 『我主を恃む、爾等何ぞ我が霊に謂ふ、鳥の如く飛びて爾の山に至れ』他の訳者は『鳥の如く山に上れ』〔アキラ[2]〕となし、第三の訳者は『移住せよ』〔不明の訳者〕となす。『盖視よ、悪人弓を張り其矢を弦に注へ、暗に在りて心の義なる者を射んと欲す。』『基壊られたらば、義人何をか為さん』。他の訳者は『律法にして壊られたらば』〔シムマフ[2]〕となし、第三の訳者は『教にして投棄てられたらば』〔不明の訳者〕となす、神を仰望む力は大なるものなり。此力は近づく可からざる柵、侵し難き墻壁、勝たれぬ援助、静なる港、破るべからざる城、防ぎ難き武器、勝ち難き力、通過すべからざる途なり。武装せざる者は此力を以て武装せる者に打勝ち、妻は夫に勝ち、子供は此力を以て戦術に経験ある者よりも容易に甚だ強き者となれり。彼等は全世界の上に勝利を博したるも、其敵に勝ちたるは驚くべきことにあらず。万有は彼等の前に己の天性を忘れて之に利益を與へたり、猛獣は已に猛獣たらざりき、爐も已に爐たらざりき、神を仰望むことは凡てのものを変ずればなり。狭隘なる牢獄、猛獣の鋭き歯、其天性の猛悪、其苦痛の飢餓、其腮は預言者の身辺に在り、而して彼等は之を防御すべき何ものをも有せざりしが、唯神を仰望むことは、千百の轡よりも猛獣の腮を強く抑へつつ彼等を後方に轉ぜしめき。聖詠者は此事を思ひつつ、彼に安全なる場所に避け、逃走して救はるべきことを勧めたる人々に対ひて『我主を恃む、爾等何ぞ我が霊に謂ふ』と云へり。爾は何事を云ふや。我は己の佑助者として世界の主宰を有し、常に凡てを容易に為し行ふ者を己の大将及び保護者として有するに、爾は住居はれざる場所に我を遣し、安全を曠野に求むべきことを勧むるか。凡てを至と容易に為し得る者に勝る所の佑助者は曠野にあるか。何の為に爾は強く武装したる我を、恰も裸体者の如く、武装せざる者の如く逃走せしめ、又放逐者たらしめんと欲するか。爾は軍隊を有し、墻壁及び武器にて防御せらるる者に対して、曠野に逃走すべきことを勧めざりしならん、若し勧めたらんには笑はれん、何故に爾は世界の主宰と偕にする者を窘逐し、罪人の攻撃より流浪逃走せしむるか。我は以上に述べたることの外にも逃走せざる他の理由を有す。神若し助け、而して攻撃する者の罪人なる時は、臆病なる鳥に倣ふことを勧むる者は甚しき不虔に陥らざるか。爾が我に対して備へし軍隊は、蜘網よりも弱きことを知らざるか。此世の王の敵が、何処に行くとも到処危険に遭遇して恐懼戦慄する時は、况て萬物を造りし神の敵をや、彼は何処に行くとも、凡ての人々は彼の敵なり、万有も亦彼の敵とならん、何となれば天然及び猛獣も神の友を畏れ、万有も之を尊ぶが如く、無生の万物も亦神の敵、神の反抗者に対して武装し、之を攻撃すればなり。視よ、之に由りて或者は其未だ地に触れざる前既に猛獣に掻裂かれ、或者は火の焚く所となりて滅びたるを。敵は箭と箭筒とを持し、凡ては彼等に準備せられたり、即ち預言者の曰ふが如く、已に其矢を『弦に注へたり』然れども彼等には何の勢力もなし、吾人は毫も斯るものを恐れざればなり、我若し人の矢を発つを見るとも、斯る時にも尚恐れざりしならん。実際武器にして効力なくば何の益あらんや。斯くの如く彼等には勢力なく、神の祝福なし。彼等は詭計を設けて直接に攻撃せざれども、彼等が特に己の矢を暗黒に於て投ずるは笑ふに堪へたり。何ものも詭計を行ふ人の如く無力ならず。他の人々を以て彼を攻撃するの要なし、彼は自ら己の手によりて倒れ、己の奸計に由りて滅ぶ。何ものか己の武器にて征服さるる者より無力なるあらん。加之ならず彼等は神によりて固められたる吾人を、罪人としてのみならず、而も奸計を以て攻撃するのみならず、彼等に如何なる悪をもなさざりし無罪者を攻撃す。是亦彼等を弱き者となすこと少しとせず。荊を踏む者は〔使徒行実九の五〕如何なる害をも之に蒙らしめざるも、自ら己の足を害するが如く、彼等も亦斯くの如し。之と偕に尚彼等の攻撃の力を無力ならしむる所の原因あり。其原因とは如何なるものなるか。預言者曰らく『基壊られたらば、義人何をか為さん』と。此言の意味は左の如し、彼等は爾の誡と爾の命令とを壊りつつ攻撃して爾と戦をなす。眞に彼等は爾の誡、而も『完全なる』誡を『壊ること』に尽力す。或は預言者は之を言ひ、或は彼等が律法の犯罪人たることを云ふなり。彼等の弱きことの小ならざる證據は、彼等が爾の誡を守らずして戦に出でしことにも存す。彼等は爾の命令を聞かざるによりて『義人』に対して戦ひ、又奸計を廻らすなり。
二。 預言者は敵の弱きを示し、而して之を示すや他の者が示す所の事に於てせず、(故に預言者は他の者が財貨をも、城砦をも、同盟者をも、市街をも、戦術をも有せずとは云はずして、此等のことをば、毫も知らざる者の如くに之を遺て、之を軽蔑し、而して彼等の不法者なること、彼等に対して如何なる悪をも為さざりし人々を攻撃すること、彼等が神の誡を破ることを云へり)次に之によりても彼等が敵に勝つことの容易なるを顕しつつ、義人の武装に就きて云へり。吾人も亦強きものと弱きものとを分ちて、特に笑はるべき人々が畏るる所のことを畏るべからず。彼等は実際何事を云ふか。敵は斯る残酷者なり、奸計を行ふ者なり、多くの財貨と大なる権利とを有すと。然れども我は是に由りて特に彼等を笑ふなり、此等は皆薄弱なるものなればなり。然れども爾は云はん、彼は奸計を為し得るかと。爾は此事に於て我に任弱きことの新しき状態を示せり。
斯る人々の中多くの者は何故に勝つや。爾は能く彼等と戦ふことを得ず、爾は自ら彼等を弱きものとなす所の栄誉・権威を切願するに由る。宜しく仇の此源因を避けて反対者を攻撃すべし、換言すれば、謙遜を以て傲慢なる者を攻撃し、無慾を以て利を貪る者を攻撃し、節制を以て不節制なる者を攻撃し、友誼を以て嫉妬する者を攻撃すべし、然らば爾は容易に彼等に勝たん。我が前に述べたるが如く、預言者は反対者の任弱を顕して、如何に義人の武装することを画くを見よ。曰く『義人は何をか為さん』と。乃ち爾は問はん、敵が斯く準備するに際して『義人は如何に武装するか』と。聞かれよ。曰く『主は其聖殿に在り、主の宝座は天に在り』〔四節〕と。爾は彼が如何に簡短に其保護を言ひ顕したるを見るか。爾は彼が何を為せしと問ふか。彼は天に住ひて何処にも在す所の神に趨り就けり。彼は敵の如く弓を張らず、箭筒を備へず、暗に向はずして、此等の一切を棄て、神に於ける希望を以て凡てのものに対する防御となし、又斯ることにも、時にも、場所にも、武器にも、金銀にも必要を有せず、一の手號を以て凡てを為す所の者を彼等に対表せり。爾は勝れぬ迅速にして容易なる其保護を見るか。『其目は貧しき者を見、其瞼は人の諸子を試みる。主は義者を試み、其心は悪人と暴虐を好む者とを疾む』〔五節〕。他の訳者は『其瞼は穿鑿す』〔アキラ〕となし、第三の訳者は『主は義なる試験者なり』〔不明の訳者〕となし、第四の訳者は『義者を試み、其心は悪人と不義を好む者とを疾めり』〔アキラ〕となす。『其心は暴虐を好む者を疾む』。爾は到処に存在し、凡てのものを見、凡てのものを観察して助くるに備ふる者、恃むべき保護者を見るか、彼は何人の彼に願はずとも自ら照管し、自ら配慮す、即ち陵辱する者に障害をなし、陵辱さるる者に助け、或者には善行の為に報賞を與へ、他の者には罪の為に罰を定む。彼は萬事を知り、其目は全世界を見る、啻に知るのみならず、凡てを改良せんと欲す。故に預言者は他の個所に於て同一のことを表言しつつ、彼を『義人』〔七節〕と名づく。彼若し義なる時は唯斯る業事を見ざらん。彼は悪人を避け、義人を嘉す。次に彼は前の聖詠に於て言ふ所と同一なること、即ち悪癖は自ら充分に罪人に罰することを此にも表言しつつ『其心は暴虐を好む者を疾む』と附加ふ。悪癖は心に反対し、即ち仇をなし、又亡滅的なり、悪を行ふ者は罰を受くるの前已に罰を甞む。爾は義人が斯る幇助者を有するも、諸敵は如何に諸方より捕はれ易く、又彼等は自ら己に害と亡滅とを蒙らしめつつ、其保護せらるるべき己の武器を以て征伐さるるを見るか。爾は此幇助の容易なるを見るか。何処に行き、何処に走り、又財産を費すの要あらず、神は何処にも在して萬物を照覧し給ふに由る。『彼は熱炭・烈火・硫磺を雨の如く悪人に注がん、炎風は彼等が杯の分なり。盖主は義にして義を愛し、其顔は義人を視る』〔六節七節〕。他の訳者は『彼は不法を行ふ者に熱炭を注がん』〔不明の訳者〕となし、第三の訳者は『彼等』(義人)若くは彼(神)の『顔は公正を視る』〔同上〕となす。預言者は悪癖より生ずる所の罰に就きて語り、又多くの者は之を観ざることを知りて、遂に強硬なる表言、畏るべき罰を用ひつつ、上より遣さるる罰を以て不虔者の霊を震動す、預言者が上より烈火・硫磺・暴風・熱炭の彼等に注がるることを云ふは、此等寓意的の表言を以て復讐の避くべからざること、非常なる苦、罰の迅速なること及び破壊的勢力を顕さんことを欲すればなり。
三。 『彼等が杯の分なり』とは何の意なるか。言ふ意は、此は彼等の分なり、此は彼等の所有なり、此は彼等の生活に及び、彼等は之によりて亡びんとなり。次に彼は其原因をも引用す、凡てを見給ふ所の者は、不法にして通過することを許さざればなり。他の預言者が『汝が目清くして、肯て悪を観たまはざる者、肯て不義を視たまはず』〔アワクム(ハバクク)一の十三〕と言へる如く、彼も亦『盖主は義にして義を愛す』てふ言に於て同一のことを表言せり。義、即ち正義を受くるは特に神に適す、然れば神は何時も義に背けることを許し給はざるなり。
視よ、何に由りて預言者は此聖詠の始に於て『我主を恃む、爾等何ぞ我が霊に謂ふ、鳥の如く飛びて爾の山に至れ』と云ひしか。世上の幸福を望む者は、人々の為に容易に捕へらるる野の鳥に勝らず。富を欲する者も亦斯くの如し。鳥は網若くは係蹄、其他種々の方法にて子供等の為に捕はるるが如く、富者も亦友又は敵の為に捕はるるなり。悪人は己を捕へんと欲する多くの人々を有しながら、鳥よりも大なる危険の中に生活す、然れど爾を捕ふるものは、何ものよりも先づ己が悪癖の希望なりとす、彼は常に時の事情に左右せらるる放逐者なり、彼は劊手[3]の残忍をも、王の怒をも、諂媚者の奸計をも、友の欺騙をも畏る、諸敵の彼に対して起つ時は、彼は衆人よりも多く戦慄す、又彼は平安の時にも奸計を危懼る、其堅固にして奪はれざる財貨を有せざればなり。故に彼は山野を通過し、暗黒の中に住し、日中に深き暗黒を見出し、且つ奸計を作しつつ、常に一の場所より他の場所に流離輾転す。義人は然らず。『義者の途は旭光のごとし、いよいよ光輝を増す』〔箴言四の十八〕。彼等は奸計を作さんともせじ、不正を行はんともせずして其心は平安なり。然れど悪人は常に奸計を行ひ、盗賊・強盗及び姦淫者の如く、何時も暗黒と恐懼との中に在り、彼等は日中に於て暗黒を見る、彼等の霊は恐懼を以て抑へらるればなり。此暗黒は如何なる状態に散布せらるるか。爾は縦し、大罪人たらんも、若し此等のことを避けて神に於ける希望に固めらるれば如何。睿智者曰く『古の族を観て誰か主を信じたる、又誰か耻ざりしかを視ん』〔シラフ書二の十〕と。彼は『義人』と云はずして『誰か』と云へり。彼曰らく、縦ひ此は罪人たりしも、罪人等も此錨を持して衆人の為に征服されぬ者となることは驚くべきなり、神に対する順従の特質は斯くの如きものなり、爾諸罪の重荷を負へる者も、神の仁慈の中に嘉せらるることを見出さん『人を恃む人は詛はるるが』如く『主を恃とする人は』福なればなり〔イエレミヤ書十七の五、七〕。然れば他の一切を棄てて此錨を持て。神は凡てを見て正しく審判す、否審判するのみならず、乃ちその審判を実行す。是に由りて預言者は神の正義に就きて述べ、以て火及び不安の精神を以て罰することをも顕せり。彼の之を為すは、罪人の為に慮り、罰を以て彼等を矯正せんと欲してなり。吾人は凡そ此等の理由によりて彼に趨り就きて常に己が目を彼に向けん。然らば吾人は光栄の世々に帰する所の吾人の主イイスス ハリストスによりて凡ての福を得ん。アミン。
- ↑ 投稿者注:第十聖詠は詩篇第十一篇に相当する。
- ↑ 2.0 2.1 投稿者注:アキラ(アキュラ)、シムマフ(シュンマコス)はヘブライ語聖書のギリシャ語訳の翻訳者。w:ヘクサプラを参照。
- ↑ 投稿者注:「劊手」は音読みでは「かいしゅ」と読み、首斬り役を意味する。〔中原中也「山羊の歌」外字考察を参照。〕
第十聖詠
- 伶長に之を歌はしむ。ダワィドの詠。
1 我主を恃む、爾何ぞ我が霊に謂ふ、鳥の如く飛びて爾の山に至れ。
2 蓋視よ、悪人弓を張り、其矢を弦につがへ、暗きに在りて心の義なる者を射んと欲す。
3 基壞られたらば、義人何をか爲さん。
4 主は其聖殿にあり、主の寶座は天に在り、其目は貧しき者を見、其瞼は人の諸子を試みる。
5 主は義者を試み、其心は悪人と暴虐を好む者とを疾む。
6 彼は熱炭烈火硫黄を雨の如く悪人に注がん。炎風は彼等が杯の分なり。
7 蓋主は義にして義を愛し、其顔は義人を視る。
詩篇第11篇(文語訳旧約聖書)
- うたのかみに謳はしめたるダビデのうた
1 われヱホバに依頼めり なんぢら何ぞわが霊魂にむかひて鳥のごとくなんぢの山にのがれよといふや
2 視よあしきものは暗處にかくれ心なほきものを射んとて弓をはり絃に矢をつがふ
3 基みなやぶれたらんには義者なにをなさんや
4 ヱホバはその聖宮にいます ヱホバの寳座は天にありその目はひとのこを鑒 その眼瞼はかれらをこころみたまふ
5 ヱホバは義者をこころむ そのみこころは惡きものと強暴をこのむ者とをにくみ
6 羂をあしきもののうへに降したまはん火と硫磺ともゆる風とはかれらの酒杯にうくべきものなり
7 ヱホバはただしき者にして義きことを愛したまへばなり 直きものはその聖顔をあふぎみん