〈史45-172上23癸未春,上兵循辛自連河而上,命三太子循河而下,至昔思丹城,欲攻之,遣使來稟命

〈東方學デジタル圖書館-96〈底本-400 癸未、十八年、宋嘉定十六年、金元光二年。通世案、喇施特云羊年、誤同本書。多遜云一二二二年、卽太祖︀十七年壬午也。春、上兵遁辛自速河而北。北原作止。秋濤案、當是北字之譌。通世案、伯哷津云「帝歸至印度河上游」。多遜云「帝自循印度河西岸北行、捕札剌勒丁餘黨。時阿格拉克與他族相仇殺︀、先死。蒙古騎兵、與波斯步兵至、或殺︀或逐、醜類︀悉平」。祕史云「太祖︀逆申河、攻取巴惕客薛城」。巴惕客薛未考。又案、西游記、辛巳十一月十八日、長春至邪米思干、以土寇壞阿母河舟梁、入城住冬。宣使洎曷剌等偵前路。閏十二月、二太子發軍整舟梁、土寇已滅。曷剌等詣營。太子云「上駐蹕大雪山之東南云云」。是時太祖︀正在印度河邊也。壬午正月十三日、阿里鮮發邪米思干、馳三日過鐵門、又五日過大河、二月初吉、過大雪山、南行三日至行宮。是阿里鮮正月二十日、過阿母河、十餘日而至行宮。則二月上旬、行宮漸北、距大雪山三日程、已至壁沙烏兒・喀不勒之間矣。太祖︀之行留年月、唯西游記可以證之。命三太子循河而秋濤案、舊本此下、有「都︀剌莎合兒」等語、今攷定、移入丁丑〈底本-401 年。其丁丑年、有「上避暑︀八魯灣川」及「候八剌那顏」之語。攷之本紀、正在此年。是錯簡互譌。今改正如左。通世案、何氏校本、而下補南字。此不要補。下帶字、卽南字之譌也。〈史45-171下2帶。秋濤案、上下當有闕文。通世案、此卽南字、而上下無關文。伯哷津云「帝令窩濶台往定印度河下游諸︀地。遂大掠嘎自尼、虜︀其人以行、城亦毀」。多遜云「帝以札剌勒丁未獲、軍退後、嘎自尼民、必復叛附、命窩濶台往、僞爲査閱戶口、令民出城俘戮之、取工匠從軍。巴魯安之敗、海︀拉脫城亦叛。命伊兒知吉歹往攻、六月餘始下。屠城、殺︀一百六十萬人。時一二二二年六月十四日也。軍旋、恐有遺孽、復遣兵突︀往、再殺︀二千人。惟十六人以居鄕得免︀」。伊兒知吉歹、卽祕史之阿勒赤歹、太祖︀弟合赤溫之子、史表之濟南王按只吉歹。洪氏曰「嘗聞波斯人云「蒙古當日殺︀戮之慘、數百年休養生息、猶未復原」。西書則云「蒙古誠好殺︀。然亦其人反覆有以致之」。觀太祖︀賜邱長春詔曰「來從去背、實力率之故然」、是可知已〈[#「已」は底本では「巳」。元史訳文証補に倣い修正]〉」。至不昔思丹城、曾植案、祕史蒙語作昔思田。又案、卽大典圖之不思忒。通世案、〈[#底本では直前の読点は句点]〉西史作昔義斯單、在嘎自尼西南。又云昔斯單、卽祕史之昔思田。其都︀城曰博斯特、在希勒們德河濱、卽西北地附錄之不思忒。布哷特淑乃德兒曰「不昔思丹、似博斯特・昔斯單合爲一名。觀俄圖、多哩河入希勒們德河處、有地名喀剌畢斯特。葢古博斯特也」。欲攻之、遣使來稟命。上曰「隆︀暑︀將及、宜別遣將攻之」。通世案、伯哷津云「窩闊台遣人稟命於父、欲往攻昔義斯單。帝曰「天已暑︀、宜卽回。當遣別將往攻」。遂由該勒姆西兒之路而回」。祕史云「拖雷取昔思田城」、係誤。夏上避暑︀於八魯彎川、曾植案、祕史作巴魯安客額兒。通世案、巴魯安又云珀魯安。前年失吉庫圖庫敗績之地也。喀不勒城與安德喇卜川之間、興都︀固斯山中、今猶有帕兒彎峽。峽中有河有小邑、亦名帕兒彎。伊本固兒達特伯以珀魯安爲巴米俺屬邑。蘇勒灘巴別兒云「帕兒彎峡路甚險、其峽與南大谷之間、有七小峽」。又云「喀不勒夏風、名帕魯彎風」。候八剌那顏、因討近敵、悉平之。通世案、伯哷津云「是夏、帝避暑︀於配爾彎、以待八剌諾顏、悉掠配爾彎近處」。西遊記、壬午三月十五日長春自邪米思干啓行、二十九日濟阿母沒輦、四月五日得達行在。則自阿母河至行在、不過六日。是帝北歸、四月已在配爾彎也。又云「時適炎熱、從車駕廬於雪山避暑︀。上約四月十四日問道。將及期、有報回紇山賊指斥者︀、上欲親征、因改卜十月吉。師乞還舊館︀。上曰「再來不亦勞乎」。師曰「兩旬可矣」。又三日、命楊阿狗以千餘騎從行、由佗路回云云」。所謂上親征山賊者︀、卽本書之討近敵也。八剌那顏軍至、遂行至可溫寨。三太子亦至。時上旣定西域、置達魯花赤於各城、監治之。秋濤案、自帶字至此、舊本誤入丁丑年吐麻部主之下。〈東方學デジタル圖書館-97今攷本紀載避暑︀八魯彎川及置達魯花赤事、均在此年、爰據移正。通世案、伯哷津云「八剌朵兒伯至、帝遂往古腦溫庫兒干。窩闊台亦至、在配克部爾過冬。其地之酋曰薩拉爾阿黑默特、自縛來降、並餽軍糧。以地熱士卒多病、令民每戶春黍米百斤、供士卒三人之食。其時哲別速不台、收定阿而俺・阿特耳佩占・義拉克・失兒灣等處、分設官吏」。多遜云「是夏、避暑︀於巴魯安。巴拉等自印度旋軍來會。六月、以西域大定、設達魯花赤監治其地。秋、起師。窩闊台來會於古腦溫庫兒干。至布雅闕沃兒、駐冬。其地在山中、近信度河之上游」。祕史云「太祖︀至額揭斡羅罕・格溫斡羅罕、巴魯安客額兒地面下了營」。古腦溫庫爾干、卽祕史之格溫斡羅罕、本書之可溫寨也。洪氏曰「錄爲寨名而祕史釋爲河名。案蒙文寨曰豁兒合、小河曰豁羅罕。有時亦作豁羅合、二音易混。或是寨名。或寨在河濱、以河爲名」。布哷特淑乃德兒曰「可溫、疑是蘇勒灘巴伯兒所記克沃克嶺、在興都︀固斯連山中」。布雅闕沃兒、卽配克部爾之異譯、其地不詳。西遊記、壬午八月八日、長春再發邪米思干、十二日過碣石、十五日濟阿母河、二十二日至行宮。行宮距阿母河、不過七日程。則古腦溫庫兒干・布雅闕沃兒、亦去八魯彎不遠。多遜謂「〈[#底本では直前に「始めかぎ括弧」なし]〉近信度河上游、殆非」。

訳文 一二七-一二九

癸未(1223年)、十八年、宋 嘉定 十六年、金 元光 二年。通世案、​ラシツド​​喇施特​は羊年と言い、誤りは本書と同じ。多遜は一二二二年と言い、つまり太祖 十七年 壬午(1222年)である。春、上の兵は​シンズス​​辛自速​河を避けて北に行った。北は原書では止。秋濤案、北の字の誤りとする。通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「帝は帰って​インド​​印度​河の上流に至った」と言う。​ドーソン​​多遜​は「帝は自ら​インド​​印度​河を避けて西岸を北に行き、​ヂヤラルヂン​​札剌勒丁​の残党を捕らえた。時に​アゲラク​​阿格拉克​と他族は互いに憎み殺し、先に死んだ。モンゴル騎兵は、​ベイス​​波斯​歩兵が至ったので、あるいは殺しあるいは追い、憎む類をことごとく平定した」と言う。秘史は「太祖は​シン​​申​河を遡り、​バトケセ​​巴惕客薛​城を攻め取った」と言う。​バトケセ​​巴惕客薛​は考えがない。又案、西游記は、辛巳(1221年)十一月十八日、長春は​ヤミスガン​​邪米思干​に至り、土着の暴民に​アム​​阿母​河の舟橋を壊させ、城に入り冬を過ごした。使いを至らせ​ヘラ​​曷剌​等に前の路を探るよう命じた。 閏十二月、二太子は軍を出発して舟橋を整え、土着の暴民はすでに絶えた。​ヘラ​​曷剌​等は営に行った。太子は「上は大雪山の東南で​ちゅうひつ​​駐蹕​云云」と言った。この時に太祖はまさに​インド​​印度​河のほとりにいたのである。壬午(1222年)正月十三日、​アリセン​​阿里鮮​​ヤミスガン​​邪米思干​を出発し、三日馳せて鉄門を過ぎ、さらに五日で大河を過ぎ、二月一日、大雪山を過ぎ、南に行くこと三日で​あんぐう​​行宮​に至った。この​アリセン​​阿里鮮​は正月二十日、​アム​​阿母​河を過ぎ、十余日でようやく​あんぐう​​行宮​に至った。であれば二月上旬、​あんぐう​​行宮​は北に進み、大雪山まで三日ほどの距離で、すでに​ビシヤウル​​璧沙烏兒​​カブル​​喀不勒​の間に至ったか。太祖の行留年月は、ただ西游記がこれを証明することができる。三太子に命じて河に従って秋濤案、旧本はこの下に、「​ドラシヨハル​​都︀剌莎合兒​」などの語があり、今考えて定め、丁丑年(1217年)に移して入れる。〈底本-401その丁丑年(1217年)は、「上は​バルワン​​八魯灣​川を避暑し」及び「​バラ ノヤン​​八剌 那顏​が伺候して」の語があり。これを元史 本紀で調べると、まさにこの年にある。これは錯簡して互いに誤っている。今改正して後文のようにする。通世案、何氏校本は、しかし下に南の字が補ってある。これは補う必要がない。下の帯の字は、つまり南の字の誤りである。 連れ立って行った。秋濤案、前後に欠文がある。通世案、これはつまり南の字で、そして前後に欠文はない。​ベレジン​​伯哷津​は「帝は​オコダイ​​窩濶台​に命令して行かせて​インド​​印度​河下流の諸地を平定させた。そのまま​ガズニ​​嘎自尼​を大いに掠め、その人を捕らえて進み、城も壊した」と言う。​ドーソン​​多遜​は「帝は​ヂヤラルヂン​​札剌勒丁​をいまだ捕らえておらず、軍が退いた後、​ガズニ​​嘎自尼​の民は、必ず再び叛くので、​オコダイ​​窩濶台​に命じて行かせ、戸口を調べると偽って、民を城から出させて捕虜を殺させ、工匠を取って従軍させた。​バルアン​​巴魯安​の負けで、​ハイラト​​海︀拉脫​城も叛いた。​イルチギダイ​​伊兒知吉歹​に命じて行って攻めさせ、六か月あまりでやっと下った。城を屠り、一百六十万人を殺した。時に一二二二年六月十四日である。軍は帰り、残した災いがあることを恐れ、再び兵を遣わしてにわかに行き、再び二千人を殺した。ただ十六人が村に居ることを許された」と言う。​イルチギダイ​​伊兒知吉歹​は、つまり秘史の​アルチダイ​​阿勒赤歹​、太祖の弟である​カチウン​​合赤溫​の子であり、元史 表の済南王​アンヂギダイ​​按只吉歹​である。洪氏は「かつて​ベイス​​波斯​人が「モンゴルのその日の殺戮の惨さは、数百年休め養い生んで増やして、なおまだ原状に戻ってない」と言うのを聞いた。西書は「モンゴルはまことに殺すのを好む。そしてまたその民の離反にはそれを用いた」と言う。太祖が邱長春に与えた詔を見ると「来て従い去り背くのは、実力がこれに先立つからでありもっともなことである」と言い、これがわかるのみ」と言う。 ​ブシスダン​​不昔思丹​城に至り、曽植案、秘史蒙語は​システン​​昔思田​とする。又案、つまり大典図の​ブステ​​不思忒​。通世案、西史は​シイスダン​​昔義斯單​とし、​ガズニ​​嘎自尼​の西南にある。また​シスダン​​昔斯單​と言い、つまり秘史の​システン​​昔思田​である。その都城は​ボステ​​博斯特​と言い、​シルメンデ​​希勒們德​河岸にあり、つまり西北地附録の​ブステ​​不思忒​である。​ブレトシユナイデル​​布哷特淑乃德兒​は「​ブシスダン​​不昔思丹​は、​ボステ​​博斯特​​シスダン​​昔斯單​が合わせて一つの名となるようである。​オロス​​俄羅斯​の地図を見ると、​ドリ​​多哩​河は​シルメンデ​​希勒們德​河のところに入り、​カラビステ​​喀剌畢斯特​という名の地がある。おそらく古い​ボステ​​博斯特​である」と言う。 これを攻めることを望み、使いを遣わして来させて命令を与えた。上は「暑い盛りがまさに及ぼうとしており、別れて将を遣わしこれを攻めるべきである」と言った。通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「​オコタイ​​窩闊台​は人を遣わして父からの命令を受けとり、行って​シイスダン​​昔義斯單​を攻めることを望んだ。帝は「天はすでに暑く、直ちに帰るべきである。別の将を遣わして行って攻めさせるのがふさわしい」と言った。そのまま​ガイルムシル​​該勒姆西兒​の道を経て帰った」と言う。秘史は「​トルイ​​拖雷​​システン​​昔思田​城を取った」と言い、誤りに係わる。夏に上は​バルワン​​八魯彎​川に避暑し、曽植案、秘史は​バルアン ケエル​​巴魯安 客額兒​とする。通世案、​バルアン​​巴魯安​はまた​ポルアン​​珀魯安​と言う。前年に​シギ クトク​​失吉 庫圖庫​が大敗した地である。​カブル​​喀不勒​城と​アンデラブ​​安德喇卜​川の間、​シンドグス​​興都︀固斯​山中、今なお​パルワン​​帕兒彎​峡谷がある。峡谷の中に河があり小さな町があり、やはり名を​パルワン​​帕兒彎​と言う。​イブン グルダテボ​​伊本 固兒達特伯​​ポルアン​​珀魯安​​バミアン​​巴米俺​に属する町とする。​スルタン バベル​​蘇勒灘 巴別兒​は「​パルワン​​帕兒彎​峡谷の路ははなはだ険しく、その峡谷と南の大谷の間は、七つの小さな峡谷がある」と言う。 また「​カブル​​喀不勒​の夏風は、​パルワン​​帕魯彎​風という名である」と言う。​バラ ノヤン​​八剌 那顏​が伺候し、近くの敵を討ったついでに、ことごとくこれを平らげた。通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「この夏、帝は​ペイルワン​​配爾彎​に避暑し、そして​バラ ノヤン​​八剌 諾顏​を待って、​ペイルワン​​配爾彎​に近いところをことごとく掠めた」と言う。西遊記は、壬午(1222年)三月十五日に長春は​ヤミスガン​​邪米思干​より出発し、二十九日に​アムモレン​​阿母沒輦​を渡り、四月五日に​あんざい​​行在​に達することができた。であれば​アム​​阿母​河から​あんざい​​行在​まで、六日を超えない。この帝は北に帰り、四月すでに​ペイルワン​​配爾彎​にいたのである。また「時はまさに炎熱で、車駕と宿舎に従い雪山で避暑した。上は四月十四日に長春に教えを問う約束をした。まさに約束の時に及ぼうとして、​フイフ​​回紇​の山賊が公然と非難したと知らせがあり、上は親征を望み、そこで改めて十月一日を選び定めた。長春師はもとの館に帰ることを乞うた。上は「再び来るのは苦労ではないか」と言った。師は「20日ほど」と言った。さらに三日、​ヤンアゴ​​楊阿狗​に命じて千余騎で従って行かせ、佗路より戻った云云」と言う。上が親征した山賊というのは、つまり本書の近くの敵を討ったである。 ​バラ ノヤン​​八剌 那顏​軍は至り、そのまま行って​ケウン​​可溫​寨に至った。三太子も至った。時に上は西域を平定し終えて、​ダルハチ​​達魯花赤​を各城に置き、これを取り締まって治めた。秋濤案、帯の字からここまで、旧本は誤って丁丑年(1217年)​トマ​​吐麻​部主の下に入っている。今は元史 本紀が​バルワン​​八魯彎​川での避暑及び​ダルハチ​​達魯花赤​を置いた事を載せていることを考え、この年にあったと整え、これに拠って正しく移す。通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「​バラ ドルベ​​八剌 朵兒伯​が至り、帝はそのまま​グナウン クルガン​​古腦溫 庫兒干​に行った。​オコタイ​​窩闊台​も至り、​ペイクブル​​配克部爾​で冬を過ごした。その地の酋長は​サラル アフメト​​薩拉爾 阿黑默特​と言い、自分で自分の体を縛って来降し、あわせて軍糧を贈った。地面が熱いことにより士卒が多く病気になり、民の戸毎に春の黍米百斤を、士卒三人の食に供給した。その時​ヂエベ​​哲別​​スブタイ​​速不台​は、​アルアン​​阿而俺​​アテルペイヂヤン​​阿特耳佩占​​イラク​​義拉克​​シルワン​​失兒灣​などのところを収めて定め、官吏を分けて設けた」と言う。 ​ドーソン​​多遜​は「この夏、​バルアン​​巴魯安​で避暑した。​バラ​​巴拉​などは​インド​​印度​より軍を返して来て会った。六月、西域を大いに定め、​ダルハチ​​達魯花赤​を設けてその地を取り締まって治めた。秋、軍を起こした。​オコタイ​​窩闊台​が来て​グナウン クルガン​​古腦溫 庫兒干​で会った。​ブヤケイヲル​​布雅闕沃兒​に至り、冬に駐留した。その地は山中にあり、​シンド​​信度​河の上流に近い」と言う。秘史は「太祖は​エヂエ オロカン​​額揭 斡羅罕​​ゲウン オロカン​​格溫 斡羅罕​に至り、​バルアン ケエル​​巴魯安 客額兒​の地に下馬して宿営した」と言う。​グナウン クルガン​​古腦溫 庫爾干​は、つまり秘史の​ゲウン オロカン​​格溫 斡羅罕​は、本書の​ケウン​​可溫​寨である。洪氏は「親征録は寨名とし秘史釈は河名とする。考えるに蒙文で寨は​ゴルカ​​豁兒合​と言い、小河は​ゴロカン​​豁羅罕​と言う。また​ゴルカ​​豁羅合​とする時もあり、二音は混じり易い。あるいはこれは寨名である。あるいは寨は河岸にあり、河を名とした」と言う。​ブレトシユナイデル​​布哷特淑乃德兒​は「​ケウン​​可溫​は、おそらくこれは​スルタン ババル​​蘇勒灘 巴伯兒​が記す所の​クヲク​​克沃克​嶺で、​シンドグス​​興都︀固斯​連山の中にある」。​ブヤケイヲル​​布雅闕沃兒​は、つまり​ペイクブル​​配克部爾​の異訳であり、その地はつまびらかでない。西遊記、壬午(1222年)八月八日、長春は再び​ヤミスガン​​邪米思干​を出発し、十二日に​ヂエシ​​碣石​を過ぎ、十五日に​アム​​阿母​河を渡り、二十二日に​あんぐう​​行宮​に至った。​あんぐう​​行宮​​アム​​阿母​河と隔たること、七日ほどを超えない。であれば​グナウン クルガン​​古腦溫 庫兒干​​ブヤケイヲル​​布雅闕沃兒​も、また​バルワン​​八魯彎​と遠く離れていない。​ドーソン​​多遜​は「​シンド​​信度​河上流に近いというのは、おそらく違う」と言う。



〈史45-172下2甲申,旋師住谷,避暑,且止且行

甲申十九年、宋嘉定十七年、金哀宗正大元年。旋師通世案、伯哷津云「帝欲由欣都︀斯丹、至唐古特之路而回、行未數程、聞唐古特又叛、一路山荒林密、道途險巇、水土惡劣、行旅易病、乃回至費薩倭兒、仍循來時之路而返」。洪氏曰「此卽元史「帝至東印度國」一語所由來也。當是脫必赤顏原有斯語。特欲往未果。譯者︀不察、遂謂已至東印度。然西游記並無是事。豈帝遣別隊探路、長春未之知耶」。「猴年、順八米俺山路行。南征時、留輜重於八格闌。至是取以行、渡質渾河。冬至撒馬爾干、令蘇爾灘母妻、在輜重前先行、俾其辭別故土而哭。諸︀軍在後、不使聞其哭也。帝至費那克河、除朮赤外諸︀子至。會議旣畢、徐行回軍」。多遜云「帝在信度河上游駐冬、一二二三年春欲從印度入體伯特、以征西夏、率軍而東。而山高林深、險巇難︀進。乃回珀沙倭兒、踰八米俺山路、至八喀闌過夏。秋過巴勒克、屠民集城墟者︀。渡質渾河、入布哈爾、召熟悉天方敎之敎士曷世哀甫等二人來見、詳述敎規。帝謂「所言亦是。惟赴麥哈禮拜、我不謂然。上帝降鑒、無在不燭。何爲拘拘一地哉」。令此後祈︀禱文用己名、免︀敎士賦役。召朮赤來會、並令驅獸向東南、備畋獵、經撒馬爾干、渡錫爾河、令蘇爾灘母妻及其親族、辭別故土、向國而哭。察合台・窩闊台、獵於布哈爾、來獻所獲。朮赤自以與弟不睦、〈底本-402 己所封地遠在異域、恆鞅鞅不樂。帝屢召之、稱疾不至、惟驅獸至塔什干、供上行圍」。案西暦一二二三年、卽太祖︀十八年癸未也。本書自庚辰以來各年紀事、皆誤後一年、則此甲申固當作癸未。然太祖︀旋師、實在壬午、不在癸未、多遜亦誤。而帝在信度河上游駐冬、本無其事。況率軍東行乎。長春西游記、可以證也。西游記云「壬午八月二十七日、車駕北回。九月朔、渡航橋而北。(渡阿母河也)。十五日、十九日、二十三日、在途設幄論道。自爾扈從而東、時敷奏道化。又數日至邪米思干。十月、上駐蹕于城之東二十里。六日見上、請不從車駕、或在先、或在後、任意而行、上從之。十一月二十六日卽行、十二月二十六日、東過霍闡沒輦、至行在。聞其航橋中夜斷散、葢二十八日也。癸未正月十一日、馬首遂東。二十一日、東遷一程、至一大川、東北去𧶼藍約三程。水草豐茂、可飽牛馬、因盤桓焉。二月七日入見、請先行。上曰「少俟。三五日太子來云云」。八日諫獵。二十四日再辭朝。三月七日又辭。十日辭朝行、三日至𧶼藍、望日致奠於趙道堅之墓、明日遂行」。所謂一大川、葢齊兒齊克河也。過塔什干城南、西流入錫爾河。伯哷津所謂「除朮赤外諸︀子至」、多遜所謂「二子來獻所獲」、卽癸未二月會於此地也。太祖︀以癸未之春已至塔什干邊、閱二年始歸國、在途歲月過多、不詳其故。洪氏曰「此時、正哲別・速不台入欽察、敗俄羅斯之時。豈因二將暴師於遠、故遲行以俟軍信耶」。住冬避暑︀、冬原作各、秋濤校改。且止且行。通世案、據西游記、壬午秋旋師、冬駐于撒馬爾干近郊。癸未春、駐于齊兒齊克河上。多遜云「察合台・窩闊台來會後、駐營喀闌塔什之地、以圍獵過夏」。喀闌塔什、當卽塔什干。癸未二月、長春諫獵、自後兩月不出獵。長春去後、乃復大獵、是癸未之夏也。其冬駐營之地不可考。祕史云「太祖︀遂回、至額兒的石地面過夏」。是甲申之夏也。伯哷津云「猴年在路駐夏過冬、行及己境。皇孫呼必賚(卽世祖︀)・忽拉護(卽旭烈兀)來迎。時呼必賚十一歲、忽拉護九歲。在乃蠻界上阿拉馬克委之地、呼必賚射一兔、忽拉護射一山羊以獻。行至布哈蘇赤忽、支金帳、設宴、大犒三軍」。多遜云「二孫迎於葉密爾河」。布哈蘇赤忽、多遜作布喀蘇起庫、其地不詳。此皆甲申年中事也〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉

訳文 一二九-一三〇

甲申(1224年)十九年、宋 嘉定 十七年、金 哀宗 正大 元年。軍を帰し通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「帝は​ヒンドスダン​​欣都︀斯丹​より、​タングト​​唐古特​の路に至って帰ることを望み、行未数程〈[#訳せない。「さほど行かないうちに」か]〉​タングト​​唐古特​がまた叛いたと聞き、道中は山が荒れ林が茂り、道が危険で、水と土が悪く劣り、旅を行くに病になりやすかったが、それでも帰り​フエサヲル​​費薩倭兒​に至り、やはり来た時の道に従って返した」と言う。洪氏は「これはつまり元史「帝は東​インド​​印度​国に至った」の一語の所のことである。これは​トビチヤン​​脫必赤顏​の原書にはこの語があると見てよい。とりわけ行くことを望み果たしていなかった。訳者はわからず、そのまま東​インド​​印度​に至り終えたと言った。しかし西游記はともにこの事がない。どうして帝が別の隊を遣わして路を探したことを、長春が知らないことがあろうか」と言う。 「猴年、​バミアン​​八米俺​の山道に従って行った。南に征伐した時、輜重を​バゲラン​​八格闌​に留めた。ここに至って取って行き、​ヂフン​​質渾​河を渡った。冬に​サマルカン​​撒馬爾干​に至り、​スルタン​​蘇爾灘​の母と妻を、輜重の前に先行させ、それに故郷への別れの辞を言わせて泣かせた。諸軍は後ろにいて、それが泣くのを聞かせなかったのである。帝は​フエナク​​費那克​河に至り、​チユチ​​朮赤​を除くほかの諸子が至った。会議が終わり、ゆっくり進んで軍は帰った」と言う。​ドーソン​​多遜​は「帝は​シンド​​信度​河の上流にいて冬に駐留し、一二二三年春に​インド​​印度​から​チバト​​體伯特​に入ることを望み、西夏を征伐するために、軍を率いて東に行った。而山は高く林は深く、危険で進むのが難しかった。そこで​ペシヤヲル​​珀沙倭兒​に戻り、​バミアン​​八米俺​山路を越え、​バカラン​​八喀闌​に至り夏を過した。 秋に​バルク​​巴勒克​に立ち寄り、城跡に民が集まったのを屠った。​ヂフン​​質渾​河を渡り、​ブハル​​布哈爾​に入り、天方敎を熟知する敎士を呼び寄せ​フシアイフ​​曷世哀甫​など二人が来てまみえ、宗教上の規則を詳しく述べた。帝は「言うところは大いに正しい。ただ​マイハ​​麥哈​礼拝に赴くことは、私はその通りと思わない。上帝は戒めを降し、灯のないところはない。なんのためにひとつの地にこだわるのか」と言った。令この後は祈禱文に己の名を用いるようにさせて、敎士に賦役を免じた。​チユチ​​朮赤​を呼び寄せて来て会い、並びに獣を駆り立てて東南に向わせ、備えさせて狩りをし、​サマルカン​​撒馬爾干​を経て、​シル​​錫爾​河を渡り、​スルタン​​蘇爾灘​の母と妻及びその親族に、故郷への別れの辞を言わせて、国に向かって泣かせた。​チヤガタイ​​察合台​​オコタイ​​窩闊台​は、​ブハル​​布哈爾​で狩りをし、来て獲物を献じた。 ​チユチ​​朮赤​は弟と不仲であるため、〈底本-402己の封地が遠く異域にあり、常に不平に思って楽しまなかった。帝はたびたびこれを呼び出し、病気と称して至らず、ただ獣を追い立てて​タシユゲン​​塔什干​に至り、上に奉じて囲いに行った」と言う。考えるに西暦一二二三年は、つまり太祖 十八年 癸未である。本書は庚辰(1220年)より以来各年の紀の事は、いずれも誤って一年遅れ、であればこの甲申(1224年)はもちろん癸未(1223年)とするべきである。そして太祖が軍を帰したのは、実は壬午(1222年)にあり、癸未(1223年)になく、​ドーソン​​多遜​も誤っている。そして帝が​シンド​​信度​河上流にいて冬に駐留し、根本はその事はない。まして軍を率いて東に行くであろうか。長春西游記は、証拠となる。西游記は「壬午(1222年)八月二十七日、車駕は北に帰った。九月一日、船橋を渡って北に行った。(​アム​​阿母​河を渡ったのである)。十五日、十九日、二十三日、途中で帷幄が設けられ道を論じたことがあった。これより帝に随行して東に行き、時に道教を普及させた。さらに数日で​ヤミスガン​​邪米思干​に至った。十月、上は城の東二十里に​ちゅうひつ​​駐蹕​した。六日に上にまみえ、車駕に従わず、ある時は先にあり、ある時は後ろにあり、心に任せて行くことを請い、上はこれを聞き入れた。十一月二十六日ただちに行き、十二月二十六日、東に​ホチヤンモレン​​霍闡沒輦​を過ぎ、​あんざい​​行在​に至った。 その船橋の中ほどが夜に断たれて散ったと聞いたのは、おそらく二十八日である。癸未(1223年)正月十一日、馬首はそのまま東に向かった。二十一日、東に動くこと一つほどで、一つの大きな川に至り、東北に​サイラン​​𧶼藍​を離れて約三つほど行った。水草は豊かに茂り、牛馬は腹を満たせ、そのためここを立ち去りにくかった。二月七日に入ってまみえ、先に行くことを請うた。上は「しばらく待て。三五日で太子が来る云云」と言った。八日に狩りを諫めた。二十四日に再び政庁で話した。三月七日また話した。十日に政庁で話して行き、三日で​サイラン​​𧶼藍​に至り、十五日に趙道堅の墓にお供え物をし、明くる日にそのまま行った」と言う。いわゆる一つの大きな川は、おそらく​ヂルヂク​​齊兒齊克​河であろう。​タシユゲン​​塔什干​城の南を通り、西に流れて​シル​​錫爾​河に入る。 ​ベレジン​​伯哷津​が言うところの「​チユチ​​朮赤​を除く他の諸子が至り」や、​ドーソン​​多遜​が言うところの「二子が来て獲物を献じた」は、つまり癸未(1223年)二月にこの地で会ったのである。太祖は癸未(1223年)の春すでに​タシユゲン​​塔什干​のそばに至っており、二年を経てやっと帰国し、途上にあった歳月が過多であり、その理由がよくわからない。洪氏は「この時は、まさに​ヂエベ​​哲別​​スブタイ​​速不台​​キムチヤ​​欽察​に入り、​オロス​​俄羅斯​を破った時である。二将が遠くで軍を長く戦場に置いていたので、遅く進んで軍の使者を待ったのかもしれない」と言う。冬を過ごして避暑し、冬は原書では各とし、秋濤が校改する。しばらく止まりしばらく進んだ。通世案、西游記に拠ると、壬午(1222年)秋に軍を帰し、冬に​サマルカン​​撒馬爾干​の近郊で駐留した。癸未(1223年)春、​ヂルヂク​​齊兒齊克​河のほとりで駐留した。 ​ドーソン​​多遜​は「​チヤガタイ​​察合台​​オコタイ​​窩闊台​が来て会った後、​カランタシユ​​喀闌塔什​の地に駐留し、巻狩りをして夏を過ごした」と言う。​カランタシユ​​喀闌塔什​は、つまり​タシユゲン​​塔什干​にあたる。癸未(1223年)二月、長春は狩りを諫め、後から二か月狩りに出なかった。長春が去った後、はじめて再び大いに狩りをしたのが、この癸未(1223年)の夏である。その冬の駐留地はわからない。秘史は「太祖はそのまま帰り、​エルヂシ​​額兒的石​の地に至って夏を過ごした」と言う。これは甲申(1224年)の夏である。​ベレジン​​伯哷津​は「猴年は道の途中で夏に駐留し冬を過ごし、行って己の国境に至った。皇孫​フビライ​​呼必賚​(つまり世祖)・​フラフ​​忽拉護​(つまり​クレウ​​旭烈兀​)が来て迎えた。時に​フビライ​​呼必賚​十一歳、​フラフ​​忽拉護​九歳であった。​ナイマン​​乃蠻​との境の上の​アラマクヱ​​阿拉馬克委​の地にいて、​フビライ​​呼必賚​は一つの兔を射とめ、​フラフ​​忽拉護​は一つの山羊を射とめて献じた。​ブハスチフ​​布哈蘇赤忽​に行き至り、金の帳殿を分け与え、宴を設け、大いに三軍をねぎらった」。​ドーソン​​多遜​は「二人の孫が​エミル​​葉密爾​河で迎えた」。​ブハスチフ​​布哈蘇赤忽​は、​ドーソン​​多遜​​ブハスキク​​布喀蘇起庫​とし、その地はよくわからない。これみな甲申年(1224年)中の事である。



〈史45-172下3乙酉春,上歸國,自出師凡七年。是夏,避暑。秋,復總兵征西夏

乙酉二十年、宋理宗寶慶元年、金正大二年。春、上歸國。自出師此下秋濤增西域二字。 至此凡七年。至此二字原闕。秋濤依類︀編所引增。案、祕史云「雞兒年秋、回到禿剌河黑林的舊營內」。通世案、伯哷津云「雞年春至老營。」多遜云「一二二五年二月、至蒙古之鄂爾多」。西曆一二二五年二月、卽乙酉正月。乙酉歸國、東西諸︀史皆同。惟祕史云秋、與諸︀書異。多遜又云「帝東歸、定四子分地、以和林舊業分拖雷、以葉密爾河濱之地封窩闊台、以錫爾河東之地封察合台、以鹹海︀西南貨勒自彌之地幷鹹海︀裏海︀之北封長子朮赤。朮赤令其將成帖木兒駐烏爾鞬赤」。蒙古源流云「令長子察干岱于俄羅斯地方卽汗位、次子珠齊于托克瑪克地方卽汗位、三子諤格德依留守汗位、其幼子圖類︀守產」。長子次子名互誤。是時俄羅斯地、尙未平定。且朮赤後王、雖已服俄羅斯、而都︀城在奇卜察克境內、云「于俄羅斯地方卽汗位」、非也。西書云「察合台夏至伊犁近處之山避暑︀」、則東界應至伊犁。托克瑪克在伊犁西、說當不謬。圖類︀守產者︀、謂守蒙古舊業也。又案、哲別・速不台入欽察敗斡羅思、本書不載一語。元史有速不台・曷思麥里等傳、僅叙及其事、亦甚踈略。西書多述之者︀、而多遜博引眾書、所紀最詳。今據洪氏譯文、補叙於此、以資考究。伯哷津云「札剌勒丁自你沙不兒遁嘎自尼時、哲別・速不台遣人請命於帝、謂「蘇爾灘已死、札剌勒丁已遁。我等應往何處、待命而行。惟望於一二年間、仰賴天祐︀得遵主上所立期限、繞奇卜察克之地、以往摩古里斯單」。其後又屢遣人奏事。時西域之地多亂、每次奏事、皆以三四百人護送。軍入義拉克、取哈耳城(卽大典圖之胡瓦耳)・西模曩城、至立亞城掠之、至枯姆城大殺︀掠、西往哈馬丹。其酋𧶼特密哲哀丁阿拉曷都︀勒餽衣騎。遣官入守。聞別隊至薩哈斯、(洪氏曰合以下文、當是贊章)。爲其酋塔勒沙拉赤庫赤布克汗所敗、遂往贊章、大屠戮。又往可斯費音、以民守城辱詈、力攻下之。民猶力戰、兩軍共亡五萬人。義拉克境內、〈[#底本では直前の読点は句点]〉多罹兵鋒。是年冬、寒最甚。兵在立亞境內、帝在忒耳迷斯・那黑沙不之地。(然則是庚辰年冬矣)。旣而兵入阿特耳佩占(貨勒自彌國之隣部)、所過殺︀掠。將及其都︀城台白利司。部主阿塔畢鄂思伯克、匿不敢出、遣人迎降、餽牛羊馬及衣服。二將卽入阿而俺駐冬」。阿而俺、多遜作莫干、在裏海︀西、庫耳河南。多遜云「二將以其部內莫干之地、饒水草、便游牧、遂駐冬。西北有角兒只國、 (卽曷思麥里傳之谷兒只、在裏海︀・黑海︀間、高喀斯山南。)聞大敵近境、亟謀設備。不知阿特耳佩占已降附、無鬭志、遣使約鄂思伯克、明春合力夾攻蒙古。而是冬、二將卽往角兒只、鄂思伯克之將阿庫世、反爲先鋒、突︀兒克蠻人庫兒忒人皆從征、鈔掠其境」。洪氏曰「曷思麥里傳「招諭曲兒忒失兒灣沙等城悉降」。曲兒忒卽庫兒忒、在阿特耳佩占西南山中。族類︀之名、非城名。此時當已降附、故來從軍」。「未及其都︀城帖弗利司、角兒只人來禦。阿庫世戰不利。蒙古繼進敗之。時一二二一年(太祖︀十六年)二月也」。伯哷津云「谷魯斤部萬人來禦、臨陳痛詈。戰敗其眾。以其境內路隘林密、退往梅︀拉喀。(在台白利司南、近倭而米雅湖東南隅。)路經台白利司、部主復遣官曰薩木斯哀丁土格雷、出餽軍貲。進攻梅︀拉喀。城主爲婦人、不習戰事。城民乃自募丁壯爲守。蒙古人驅俘獲之眾爬城、退縮者︀斬。數日城破、大殺︀掠」。多遜云「三月三十日、破梅︀拉噶城、大殺︀掠。欲從梅︀拉噶往哀而陛耳、(小國、在梅︀拉噶西南、)以山路狹隘、改而南行、意趨巴格達特。哈里發那昔爾聞警、徵哀而陛〈底本-403 耳・毛夕耳・美索卜塔米牙各部主、發兵助守。僅哀而陛耳・毛夕耳兵至。(毛夕耳、卽地理志之毛夕里、在哀而陛耳西北、隔體格力斯河。)蒙古軍聞有備、亦未往。回至哈馬丹、徵民貢獻。民以去年已輸納、不堪一再需索、遂殺︀留守官。攻城兩日、蒙古兵多夷傷。而守將遁去、民無固志、城遂破。縱兵大掠」。伯哷津云「哈馬丹城、有貨勒自姆沙舊將只馬哀丁阿比亞、糾眾作亂、殺︀所置守吏、並擒阿拉曷都︀勒、下於獄。二將復回哈馬丹、破其城。只馬哀丁阿比亞求降。仍戮之、平毀哈馬丹。往那希拉彎、破其城。城酋乞降、允之」。那希拉彎未詳。多遜作愛而達必爾、台白利司東南鄰近之城。多遜云「復北行破愛而達必爾城、復西至台白利司。鄂思伯克畏而避去、留將居守、納幣得免︀。復北下𧶼拉白城、遣使招下阿而俺之貝列堪城。使人被害。攻下之、無男婦悉誅。 (西曆一二二一年十月、爲太祖︀十六年九月)。甘札城(阿而俺州城)迎饋輸款、得不被兵。西北入角兒只、復敗其眾」。伯哷津云「谷魯斤兵來禦。哲別以五千人設伏。速不台迎戰伴敗。敵追而伏起、殺︀其眾三萬」。多遜云「角兒只南境大擾、國都︀驛騒。時哲別・速不台、已奉太祖︀命、北征奇卜察克。以角兒只境內、山逕峻險、溪澗繁繞、戎馬艱阻、不欲假道、退而東行、渡庫耳河、破失兒灣之沙馬起城、(洪氏曰、「失兒灣國名、沙馬起都︀城、名、裏海︀西濱部落。曷思麥里傳云失兒灣沙城。豈彼土省文之稱耶」。今案、失兒灣沙城、猶言失兒灣王城也。而史臣誤以失兒灣沙爲城名)。又破得耳奔特(卽地理志之打耳班)。失兒灣部主拉施忒、守山堡未下。二將令以鄕導人來、卽罷攻。拉施忒遣十人至。殺︀一人以徇、九人不善導者︀視︀此。軍遂踰高喀斯山而北」。土土哈傳云「太祖︀征蔑里乞。其主火都︀奔欽察。欽察國主亦納思納之。太祖︀遣使諭之曰「汝奚匿吾負箭之麋。亟以相還。不然禍︀且及汝」。亦納思荅曰「逃鶴︀之雀、叢薄猶能生之。吾顧不如草木耶」。太祖︀乃命將討之」。洪氏曰「奇卜察克、嘗納逃人、索之不與。土土哈傳之外、各書皆無佐證。惟觀太祖︀討平諸︀國、雖未必兵以義動、亦大都︀師出有名。裏海︀北濱、素無往來。何至窮兵絕域。土土哈傳、語必有因。惟親征錄・祕史垂河之役、已言速不台盡滅蔑兒乞、則又不合矣」。又曰「曷思麥里傳云「帝遣使趣哲伯疾馳以討欽察」。今觀多桑所紀師程、則自哈馬丹北行後、不再向南。是時爲太祖︀十六年辛巳、正親將追札剌勒丁之時、西域指日底定。乃令移得勝之師、北征欽察。遣使授策、必在是年。速不台傳、於庚辰年追西域王之役、誤繫之於壬午。又誤云「明年請討欽察」。本紀於北征之師、又一字未及。元史疏舛闕略、於斯爲甚。細考西書、則印度河之戰、哲・速二將、並未在列。此又祕史之誤。」伯哷津云「軍入阿蘭部(西北地之阿蘭・阿思)、阿蘭人糾合奇卜察克人來戰、無勝負。二將遣吿奇卜察克人「我等皆一類︀、阿蘭爲異類︀。我等當立約議和、不相侵犯。若欲財物、皆可致餽」。因厚餽之。奇卜察克人引去。由是戰勝阿蘭、大殺︀掠。奇卜察克人散歸、不爲備。二將出不意、攻入其部、盡返所遺物。敗眾逃入俄羅斯」。阿蘭靑目、欽察非靑目、洪氏有考證。多遜云「軍入高喀斯山。奇卜察克・阿速(卽阿蘭)・扯而開斯(卽西北地之撒耳柯思)等部、集眾來禦、眾寡不敵、復迫於險。乃以甘言誘奇卜察克云云。奇卜察克引退。軍旣出險、敗阿速等兵、追奇卜察克、出不意、突︀至奮擊、殺︀其部酋庫灘之弟玉兒格及子塔伊兒」。速不台傳云「速不台上奏請討欽察、許之。遂引兵繞寬定吉思海︀展轉至太和嶺、鑿石開道、出其不意。至則遇其酋長玉里吉及塔塔哈兒方聚於不租河、縱兵奮擊。其眾潰走、矢及玉里吉之子、逃於林間。其奴來吿、而執之。餘眾悉降、遂收其境」。寬定吉思海︀、又作寛田吉思海︀。洪氏曰「寛田吉思海︀、卽裏海︀。太和嶺、卽高喀斯山。鑿石開道、則軍迫於險可知。奇卜察克已退、而爲蒙古所乘、故曰出其不意。玉兒格卽玉里吉也。塔阿兒、卽塔塔哈兒也。西文原作塔伊兒。阿剌比文阿伊二音、西人每每誤譯。證之元史、必是塔阿兒。土土哈傳謂欽察國主亦納思。西域書及馬加國史、皆謂奇卜察克王名庫灘。華文霍忽等字音、西人每譯成庫、猶之蒙古源流每譯豁忽等音爲郭。則庫灘必是霍灘。曷思麥里傳「與其主霍脫思罕戰、遂平欽察」。據此二語、則欽察國主、當是霍灘。霍脫・霍灘音叶。思字或是恩字之誤。西北種族、國非一部、部各有長。意者︀亦納思爲欽察東部之酋、霍灘爲西部之酋、未可知也」。多遜云「軍東北至浮而嘎河、吿捷於朮赤太子、請濟師。時朮赤已下烏爾鞬赤、駐軍於裏海︀東部、眾多暇、分兵大半往助。一二二二年(太祖︀十七年)冬、新兵旣至、浮而嘎河冰合、遂下阿斯塔拉干、焚掠其城、遇奇卜察克、又敗之」。洪氏曰「浮而嘎河入裏海︀處、地名阿斯塔拉干、商賈大埠也。曷思麥里傳「尋征康里、至孛子八里城、與其主霍脫思罕戰、又敗其軍、遂平欽察」。西人考得「阿斯塔拉干、先時波斯商人貿易所萃。回紇語謂城曰八里。孛子當卽波斯之誤、猶言波斯城」。揣擬有情。惟康里在鹹海︀東、決不在烏拉嶺以西、裏海︀之北。以此爲康里、不合。傳又云「與其主霍脫思罕戰、又敗其軍、遂平欽察」、則仍是欽察、而非康里。霍脫當是欽察國主、說見前。觀速不台傳、卽與曷思麥里傳、軍行次第不同。明人修元史、絕不知康里・欽察與阿速等部、孰東孰西、以致紀述各異、不足據也」「軍分爲二、復引而西。一軍追敗兵、過端河。(軍至阿索富海︀之東南、平撒耳柯思・阿速等部。遂自阿索富海︀、履冰以至黑海︀、入克勒姆之地、大掠而北。克勒姆、卽元史西北地之撒吉剌。喇施特作速達克城。速達克、卽嚕卜嚕克・馬兒科玻羅之索勒岱雅、克勒姆東南岸之大埠頭也)。兩軍復合。庫灘遁入俄羅斯境、乞援於其壻哈力赤侯穆斯提斯拉甫。俄羅斯者︀、西北之大國也。西曆八六二年 (唐懿宗咸通三年)、始立國於北海︀之南。其後拓地益廣、南隣黑海︀。至第十一世紀之半(宋仁宗時)、俄行封建〈底本-404 之制、諸︀侯自以其地分畀子孫、國分七十、同族日事爭奪。哈力赤爲南俄列邦。其君穆斯提斯拉甫能兵、屢戰勝同族、視︀蒙古蔑如也、允其妻父之請、遣吿計掖甫侯穆斯提斯拉甫羅慕諾委翅、集列邦之君議兵事。於是扯耳尼哥甫侯穆斯提斯拉甫司瓦托司拉勒委翅、與南俄諸︀侯、皆至計掖甫。羣議、出境迎擊、勿待其至、並吿俄首邦物拉的迷爾太公攸利第二、出兵爲援。分運軍糧、自帖尼博爾河・特尼斯特河、以至黑海︀東北。哲別・速不台聞俄羅斯起師、遣使十人、往吿「蒙古所討者︀、奇卜察克。夙與俄羅斯無釁、必不相犯。蒙古惟敬天、與俄敎相若。奇卜察克、素與俄有兵怨、盍助我以攻仇人」。諸︀侯謂「先以此言餌奇卜察克。今復餌我、不可信」。殺︀其使。二將復遣人至、謂「殺︀我行人、其曲在汝。天奪汝魄自取滅亡。今以兵來、請決勝負」。庫灘又欲殺︀之。俄人釋歸約戰」。洪氏曰「俄史謂「蒙古又遣人來吿「前言非誑、我已誓於天矣。決不相犯、請勿用兵」。以此觀之、實俄自取兵禍︀」。〈[#底本では直前に「始めかぎ括弧」あり]〉哈力赤侯先以萬騎東渡帖尼博爾河、敗蒙古前鋒、獲裨將哈馬貝殺︀之。諸︀侯皆隨而東。蒙古軍退。追九日至喀勒吉河(或稱喀勒喀河、或稱喀剌克河。喀喇姆津曰「卽今喀埓子河、合喀勒迷斯河入阿索富海︀」。喇施特云「追十二日」。)遇二將大軍。時俄兵八萬二千、分屯南北。南軍爲計掖甫・扯耳尼哥甫等部之兵、北軍爲哈力赤等部及奇卜察克兵。哈力赤侯輕敵貪功、不謀於南軍、獨率軍北渡河、戰於孩耳桑之地。勝負猶未決、而奇卜察克兵、怯敵先退、陳亂。蒙古軍乘之、俄兵大敗。哈力赤等候得脫、渡河而西、卽沈其舟。後至者︀不得渡、悉被殺︀。俄之南軍、不知北軍之戰、亦不知其敗。而蒙古軍猝至、困其營、三日不下。誘令納賄行成、俟其出疾攻之、殲馘無算。(喇施特云「劇戰七日、盡敗敵眾」。)獲計掖甫扯耳尼哥甫・等部之君、縛置於地、覆板爲坐具。蒙古將領高坐其上、飮酒歡會、多壓斃者︀」。是役、據西域書、爲癸未年事。俄史或云一二二四年六月十六日、或云同年五月三十一日。然謂一二二三年者︀多、乃合西域書之說、葢在太祖︀十八年夏。速不台傳云「又至阿里吉河、與斡羅思部大小密赤思老遇、一戰降之」。阿里吉河、卽喀勒吉河。密赤思老、卽穆斯提斯拉甫之訛略。哈力赤・計掖甫・扯耳尼哥甫三候、皆名穆斯提斯拉甫。洪氏曰「計掖甫君年長、故爲大。扯耳尼哥甫君年幼、故爲小」。曷思麥里傳云「進擊斡羅思於鐵兒山克之、獲其國主密只思臘。哲伯命曷思麥里、獻諸︀朮赤太子誅之」。鐵兒山、卽孩耳桑之訛、乃地名、非山名。密只思臘、卽大小密赤思老。「是役也、俄亡六侯七十將、兵士十死其九。太公攸利第二、得請兵信、令其姪遏羅斯托侯瓦西耳克康斯但丁諾委翅率眾往助。(遏羅斯托城、今曰遏羅斯托弗哀)。行至扯耳尼哥甫、聞軍敗、亟引退。是時俄列城皆無備禦、不能爲戰守計、惟俟兵至、乞降免︀死、擧國大震。乃蒙古軍、西至帖尼博爾河、北至扯耳尼哥甫・諾拂郭羅特・夕尼斯克城而止。是冬端河・浮而嘎河冰合、全軍涉冰東行。捷書至太祖︀行在。命以馬十萬犒師、封朮赤於奇卜察克、以轄西北之地。一二二四年 (太祖︀十九年甲申)、朮赤遂自錫爾河北儻塔之地、西踰烏拉嶺、至奇卜察克東境、轄治所部、命哲別・速不台班師。二將歸朮赤部兵、自率所部東返。中道哲別卒」。喇施特云「遵帝所命之路而還」。曷思麥里傳云「軍還、哲伯卒」、與西書同。洪氏哲別補傳云「平康里而東返」。自注「蒙古之滅康里、不知在何年。西書亦失考、但似在戰勝俄羅斯之後而已。元史阿沙不花傳「阿沙不花、康里國王族也。初太祖︀拔康里時、其祖︀母苦滅古麻里氏新寡、有二子皆幼。國亂家破、無所依。一夕有數駝皆重負、突︀入營中、驅之不去。發視︀其裝、皆西域重寶。遂驅馳至京師。時太祖︀已崩、太宗立、盡獻其所有」。據此、則康里之滅、當在太祖︀季年西域還師之後、故距崩期不遠。奇卜察克在西、康里在東、繫於哲・速二將東還之下、庶爲近似」。多遜又云「太祖︀東行、召朮赤、未至。繼又命其西平布而嘎爾(卽西北地之不里阿耳)・奇卜察克・扯而開斯等部未定之地。而朮赤稱疾不行。太祖︀滋不悅。一二二五年、太祖︀旣還行宮、有蒙古人自西來、詢以朮赤之疾、則云「但見出獵、未聞有疾」。太祖︀大怒、命察合台・窩闊台率兵往逮問。無何薨。信至、太祖︀大慟、欲治其人妄言之罪、而已逸︀去。遂命斡赤斤大王往視︀其喪、定嗣子位」。是夏、避暑︀通世案、西史云「〈[#底本では直前に「始めかぎ括弧」なし]〉夏在舊居駐夏」。秋復總兵征西夏。通世案、伯哷津云「聞唐古特又叛、雞年秋、整軍攻合申、令察合台以本部兵守老營後路。其時朮赤卒、窩闊台從帝軍。拖雷汗因婦西兒忽克屯別姫出痘、緩行數日」。西兒忽克屯、元史憲宗紀作唆魯禾帖尼、后妃表作唆魯和帖尼、后妃傳作唆魯帖尼。祕史作莎兒合黑塔泥、王汗弟札合敢不之次女也。本紀云「二十一年春正月、帝以西夏納仇人赤﨟喝︀翔昆及不遣質子、自將伐之」。赤當作亦、亦臘喝︀翔昆、卽本紀上文之亦剌合、本書之亦剌合鮮昆、王汗之子也。癸亥年、王汗滅、亦剌合奔西夏。太祖︀責西夏納仇、葢乙丑始征西夏時之事。至今年之役、則不必以此爲口實也。西夏書事云「亦臘喝︀翔昆、乃蠻部屈律罕子」、大誤。又本書西史、皆云乙酉秋出師、本紀則以爲明年正月、祕史則以爲明年秋。祕史云「成吉思旣往過冬、欲征唐兀、從新整點軍馬。至狗兒年秋、去征唐兀、以夫人也遂從行。冬間於阿兒不合地面圍獵。成吉思騎一匹紅沙馬、爲野馬所驚。成吉思墜馬跌傷、就于搠斡兒合惕地面下營。次日、也遂夫人對大王幷衆官人說「皇帝今夜好生發熱。您可商量」。於是大王幷眾官人聚會。其中有脫侖議說「唐兀是有城池的百姓、不能移動。如今且回去、待皇帝安了時再來攻取」。眾官人皆以爲是、奏知成吉思。成吉思說「唐兀百姓見咱回去、必以我爲怯。且這裏養病、先差人去唐兀處、看他囘甚麽話」。遂差人對唐兀主不兒罕說「你曾說「要與咱做右手」。及我征囘囘、你不從、〈底本-405 又將言譏諷我。如今已取了囘囘、我與你折證前言」。不兒罕說「譏諷的言語、我不曾說」。有阿沙敢不說「是我說來。要與我厮殺︀時、你到賀蘭山來戰。要金銀緞疋時、汝往西涼來取」。使臣囘、將前言說與成吉思。成吉思說「他說如此大話、咱如何可囘。雖死呵、也去問他。長生天知者︀」。遂到賀蘭山云云」。

訳文 一三〇-一三六

乙酉(1225年)二十年、宋 理宗 宝慶 元年、金 正大 二年。春、上は帰国した。自ら軍を出しこの後文に秋濤が西域の二字を増やす。ここまでおよそ七年。至此の二字は原書では欠けている。秋濤が類編を引いたところに拠って増やす。案、秘史は「鶏児年秋、帰って​トラ​​禿剌​河の黒林のむかしの宿営内に到った」。通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「鶏年の春に古くなった宿営地に至った。」と言い​ドーソン​​多遜​は「一二二五年二月、モンゴルの​オルド​​鄂爾多​に至った」と言う。西暦一二二五年二月は、つまり乙酉正月である。乙酉の帰国は、東西諸史いずれも同じである。ただ秘史は秋と言い、諸書と異なる。​ドーソン​​多遜​はさらに「帝は東に帰り、四子の分地を定め、​ホリム​​和林​の旧営地を​トルイ​​拖雷​に分け、​エミル​​葉密爾​河岸の地を​オコタイ​​窩闊台​に封じ、​シル​​錫爾​河の東の地を​チヤガタイ​​察合台​に封じ、鹹海の西南の​ホルズミ​​貨勒自彌​の地並びに鹹海裏海の北を長子​チユチ​​朮赤​に封じた。​チユチ​​朮赤​はその将​チエンテムル​​成帖木兒​​ウルヂヤンチ​​烏爾鞬赤​に駐留させた」と言う。 蒙古源流は「令長子​チヤガンダイ​​察干岱​​オロス​​俄羅斯​地方の汗に即位させ、次子​ヂユチ​​珠齊​​トクマク​​托克瑪克​地方の汗に即位させ、三子​オゲデイ​​諤格德依​を留守の汗位とし、その幼子​トレイ​​圖類︀​が生業を守った」と言う。長子と次子の名は互い誤っている。この時に​オロス​​俄羅斯​の地は、なおまだ平定していなかった。また​チユチ​​朮赤​は後に王となり、すでに​オロス​​俄羅斯​を征圧したといえども、しかし都城は​キブチヤク​​奇卜察克​の境内にあり、「​オロス​​俄羅斯​地方で汗に即位した」と言うのは、誤りである。西書は「​チヤガタイ​​察合台​は夏に​イリ​​伊犁​に近いところの山に至り避暑した」と言い、であれば東の国境は​イリ​​伊犁​に至るはずである。​トクマク​​托克瑪克​​イリ​​伊犁​の西にあり、解釈は間違っていないとして良い。​トレイ​​圖類︀​が生業を守ったというのは、モンゴルの昔からの生業を守ったことと言うのである。さらに考えるに、​ヂエベ​​哲別​​スブタイ​​速不台​​キムチヤ​​欽察​に入って​オロス​​斡羅思​を破り、本書はわずかな言葉を載せない。元史は​スブタイ​​速不台​​フス メリ​​曷思 麥里​などの伝があり、わずかにその事を述べ及び、ただはなはだおろそかである。 西書が多くこれを述べるのは、​ドーソン​​多遜​が広く多くの書を引いており、記す所が最も詳しい。今洪氏の訳文に拠り、補ってこれを述べ、助けとして考え究める。​ベレジン​​伯哷津​は「​ヂヤラルヂン​​札剌勒丁​​ニシヤブル​​你沙不兒​より​ガズニ​​嘎自尼​に遁れた時、​ヂエベ​​哲別​​スブタイ​​速不台​は人を遣わして帝に指示を求め、「​スルタン​​蘇爾灘​はすでに死に、​ヂヤラルヂン​​札剌勒丁​はすでに遁れた。我らは何処に向かうべきか、命令を待ってから行く。ただ一二年間を望み、天祐を仰ぎ頼み主上に従って立てる所の期限で、​キブチヤク​​奇卜察克​の地をめぐって、そして​モグリスタン​​摩古里斯單​に行く」と述べた。その後さらにたびたび人を遣わして事を申し上げた。時に西域の地は乱が多く、そのつど事を申し上げ、いずれも三四百人で護送した。軍は​イラク​​義拉克​に入り、​ハル​​哈耳​城(つまり大典の地図の​フワル​​胡瓦耳​)・​シムナン​​西模曩​城を取り、​リア​​立亞​城に至りこれを掠め、​クム​​枯姆​城に至り大いに殺し掠め、西に​ハマダン​​哈馬丹​に向かった。その酋長​サイテミヂエアイヂン アラフドル​​𧶼特密哲哀丁 阿拉曷都︀勒​は衣服と馬を贈った。 官入を遣わして守った。別隊が​サハス​​薩哈斯​に至ると聞き、(洪氏は後文に合うと言い、これを​ザンヂヤン​​贊章​とする)。その酋長​タルシヤラチクチブクハン​​塔勒沙拉赤庫赤布克汗​が敗れたので、そのまま​ザンヂヤン​​贊章​に行き、大いに屠り殺した。さらに​カスフエイン​​可斯費音​に行き、民が城を守り辱め罵ったので、力を入れて攻めこれを下した。民はなお力戦し、両軍みな五万人が死んだ。​イラク​​義拉克​境内は、軍勢の矛先を多く被った。この年の冬、寒さは最も甚だしかった。兵は​リア​​立亞​境内にあり、帝は​テルミス​​忒耳迷斯​​ナクシヤブ​​那黑沙不​の地にあった。(そうであるならばこれは庚辰年(1220年)の冬か)。やがて兵が​アテルペイヂヤン​​阿特耳佩占​(​ホルズミ​​貨勒自彌​国の隣部)に入り、通ったところを殺し掠めた。将はその都城​タイベリス​​台白利司​に至った。部主​アタビ オスベク​​阿塔畢 鄂思伯克​は、隠れて出る勇気がなく、人を遣わして迎え降り、牛羊馬及び衣服を贈った。二将は直ちに​アルアン​​阿而俺​に入って冬を駐留した」。​アルアン​​阿而俺​は、​ドーソン​​多遜​​ムガン​​莫干​とし、裏海の西、​クル​​庫耳​河の南にある。 ​ドーソン​​多遜​は「二将はその部内の​ムガン​​莫干​の地が、水草が豊かで、游牧に都合が良いので、そのまま冬に駐留した。西北に​ヂアルヂ​​角兒只​国があり、(つまり​フス メリ​​曷思 麥里​伝の​グルヂ​​谷兒只​であり、裏海・黒海の間、​ガオカス​​高喀斯​山の南にある。)大敵が国境に近づいたと聞き、速やかに謀って防備を設けた。​アテルペイヂヤン​​阿特耳佩占​がすでに降ったことを知らず、闘志はなく、使いを遣わし​オスベク​​鄂思伯克​と約束し、春が明けて合力してモンゴルを挟み攻めした。そしてこの冬、二将は直ちに​ヂアルヂ​​角兒只​に行き、​オスベク​​鄂思伯克​の将​アクシ​​阿庫世​は、背いて先鋒となり、​トルクマン​​突︀兒克蠻​​クルテ​​庫兒忒​人はみな従って征伐し、その国境を掠め取った」と言う。洪氏は「​フス メリ​​曷思 麥里​伝「招いて​クルテ シルワンシヤ​​曲兒忒 失兒灣沙​等城が降るよう諭した」。​クルテ​​曲兒忒​はつまり​クルテ​​庫兒忒​であり、​アテルペイヂヤン​​阿特耳佩占​の西南の山中にある。族類の名であり、城の名ではない。この時はすでに降っており、ゆえに来て従軍したとすべきである」と言う。「いまだその都城​テフエリス​​帖弗利司​に至らず、​ヂアルヂ​​角兒只​人が来て防いだ。​アクシ​​阿庫世​は戦って不利になった。モンゴルは続けて進んでこれを破った。 時に一二二一年(太祖 十六年)二月である」。​ベレジン​​伯哷津​は「​グルヂン​​谷魯斤​部万人が来て防ぎ、対陣して痛く罵った。戦ってその人々を破った。その境内は路がせまく林が茂っていたので、退いて​ムラカ​​梅︀拉喀​に行った。(​タイベリス​​台白利司​の南にあり、​ヲルミヤ​​倭而米雅​湖の東南の隅に近い。)​タイベリス​​台白利司​を往来して通り、部主はまた​サムスアイヂン トゲライ​​薩木斯哀丁 土格雷​と言う役人を遣わし、出て兵と金を贈った。​ムラカ​​梅︀拉喀​に進攻した。城主は婦人とされ、戦う事に慣れていなかった。城民はそこで自ら守るために青年を募った。モンゴル人は駆けてこの人々を生け捕りにして城を引っ掻き、退けば斬った。数日で城は破れ、大いに殺し掠めた」と言う。​ドーソン​​多遜​は「三月三十日、​ムラガ​​梅︀拉噶​城を破り、大いに殺し掠めた。 ​ムラガ​​梅︀拉噶​に従って​アイルビル​​哀而陛耳​に行こうとし、(小国、​ムラガ​​梅︀拉噶​の西南にある、)山路は狭く険しいので、改めて南に行き、思うに​バゲダド​​巴格達特​に向かった。​ハリフア ナシル​​哈里發 那昔爾​は知らせを聞き、〈底本-403​アイルビル​​哀而陛耳​​マオシル​​毛夕耳​​メソブタミヤ​​美索卜塔米牙​各部主を召し出し、兵を出して守りを助けた。わずかに​アイルビル​​哀而陛耳​​マオシル​​毛夕耳​の兵が至った。(​マオシル​​毛夕耳​は、つまり地理志の​マオシリ​​毛夕里​で、​アイルビル​​哀而陛耳​の西北にあり、​チゲリス​​體格力斯​河を隔てる。)モンゴル軍は守りの備えがあると聞き、やはり行かなかった。帰って​ハマダン​​哈馬丹​に至り、民から貢物と年貢を取り立てた。民は去年すでに貢物を納めていたので、再びの求めには堪えられず、そのまま留守官を殺した。城を攻めること二日、モンゴル兵は多くが傷ついた。 しかし守将は遁れ去り、民は固い意志はなく、城はそのまま破れた。兵はほしいままに大いに掠めた」。​ベレジン​​伯哷津​は「​ハマダン​​哈馬丹​城は、​ホルズム シヤー​​貨勒自姆 沙​の旧将​ヂマアイヂン アビヤ​​只馬哀丁 阿比亞​があり、人々を束ねて乱を作り、置いていた守吏を殺し、並びに​アラフドル​​阿拉曷都︀勒​を捕らえ、獄に下した。二将は再び​ハマダン​​哈馬丹​に戻り、その城を破った。​ヂマアイヂン アビヤ​​只馬哀丁 阿比亞​は降ることを求めた。やはりこれを殺し、​ハマダン​​哈馬丹​を平らげて壊した。​ナシラマン​​那希拉彎​に行き、その城を破った。城の酋長は降ることを乞い、これを許した」と言う。​ナシラマン​​那希拉彎​はまだ明らかでない。​ドーソン​​多遜​​アルダビル​​愛而達必爾​とし、​タイベリス​​台白利司​の東南に近く隣り合う城である。​ドーソン​​多遜​は「さらに北に行き​アルダビル​​愛而達必爾​城を破り、さらに西に​タイベリス​​台白利司​に至った。​オスベク​​鄂思伯克​は恐れそして避けて去り、留将が居て守り、銭を納めて許しを得た。 さらに北に​サイラベ​​𧶼拉白​城を下し、使いを遣わして​アルアン​​阿而俺​​ベイレカン​​貝列堪​城を招き下した。使いの人は殺された。攻めてこれを下し、男女の別なくことごとく殺した。(西暦一二二一年十月は、太祖 十六年 九月となる)。​カンヂヤ​​甘札​城(​アルアン​​阿而俺​州城)は迎えて贈り物を献上してよしみを通じ、災いを被らずにすんだ。西北に​ヂアルヂ​​角兒只​に入り、再びその軍勢を破った」。​ベレジン​​伯哷津​は「​グルヂン​​谷魯斤​兵が来て防いだ。​ヂエベ​​哲別​は五千人で伏兵を設けた。​スブタイ​​速不台​が迎え戦いともなって敗れた。敵が追って伏兵が起ち、その軍勢三万を殺した」と言う。​ドーソン​​多遜​は「​ヂアルヂ​​角兒只​の南境は大いに乱れ、国都の早馬は騒いだ。時に​ヂエベ​​哲別​​スブタイ​​速不台​は、太祖の命令を受け終え、北に​キブチヤク​​奇卜察克​を征伐した。 ​ヂアルヂ​​角兒只​の境内は、山道は厳しく険しく、谷川が多くめぐり、軍馬は苦しみ阻まれ、仮の道を望まず、退いて東に行き、​クル​​庫耳​河を渡り、​シルワン​​失兒灣​​シヤマキ​​沙馬起​城を破り、(洪氏は、「​シルワン​​失兒灣​は国名で、​シヤマキ​​沙馬起​都城の、名で、裏海の西岸の部落である。​フス メリ​​曷思 麥里​伝は​シルワンシヤ​​失兒灣沙​城と言う。どうして彼の地が文字を省いた呼称にするだろうか」と言う。今考えるに、​シルワンシヤ​​失兒灣沙​城は、やはり​シルワン​​失兒灣​の王城を言っているのである。しかし史臣は誤って​シルワンシヤ​​失兒灣沙​を城名とした)。さらに​デルベンテ​​得耳奔特​(つまり地理志の​ダルバン​​打耳班​)を破った。​シルワン​​失兒灣​部主​ラシテ​​拉施忒​は、山の砦を守っていまだ下らなかった。二将は道案内の人に来させて、直ちに攻めるのをやめた。 ​ラシテ​​拉施忒​は十人を遣わして至った。一人を殺して従わせ、九人は良く導かなければこれに倣った。軍はそのまま​ガオカス​​高喀斯​山を越え北に行った」と言う。​トトハ​​土土哈​伝は「太祖は​メリキ​​蔑里乞​を征伐した。その主​ホド​​火都︀​​キムチヤ​​欽察​に奔った。​キムチヤ​​欽察​国主​イナス​​亦納思​がこれを受け入れた。太祖は使いを遣わしてこれを諭して「お前はどうして私の矢を受けた大鹿を匿うのか。速やかに返せ。さもなければ禍はまさにお前に及ぶであろう」と言った。​イナス​​亦納思​は答えて「逃げた鶴は小鳥であり、草むらは薄くてもなおこれを生かすことができる。私がどうして草木と同じであろうか」と言った。太祖はそこで将に命じてこれを討たせた」と言う。洪氏は「​キブチヤク​​奇卜察克​は、かつて逃げた人を受け入れ、これを求めても与えなかった。​トトハ​​土土哈​伝のほかは、各書いずれも証拠がない。ただ太祖が討ち平らげた諸国を見ると、必ずしも義によって動いたのではないとはいえ、やはり大総力軍は抜きん出て名声がある。裏海の北浜は、つねづね往来はなかった。どうして遠く離れた地に至って軍を突き詰め訪ねるだろうか。 ​トトハ​​土土哈​伝は、必ずや由来のあることを語っている。ただ親征録・秘史​チユイ​​垂​河の役は、すでに​スブタイ​​速不台​がことごとく​メルキ​​蔑兒乞​を滅ぼしたと言い、であればさらに合わないか」と言う。また「​フス メリ​​曷思 麥里​伝は「帝は使いを遣わし​ヂエベ​​哲伯​に馳け走って​キムチヤ​​欽察​を討つよう促した」と言う。今​ドーソン​​多桑​が記す軍の道のりを見るならば、​ハマダン​​哈馬丹​より北に行った後、再び南には向かわなかった。この時は太祖 十六年 辛巳(1221年)となり、まさに自ら率いて​ヂヤラルヂン​​札剌勒丁​を追った時であり、西域が指し示す日は定まっている。そこで戦争の勝利を伝えさせて、北に​キムチヤ​​欽察​を征伐した。使いを遣わして策を授けたのは、必ずこの年にある。​スブタイ​​速不台​伝は、庚辰年(1220年)での西域王を追う役が、誤ってこれが壬午(1222年)に繋いでいる。さらに誤って「年が明けて​キムチヤ​​欽察​を討つことを請うた」と言う。元史 本紀は北征の軍に、さらに一字も及んでいない。元史がおろそかで違えて欠けて省くのは、ここにおいて甚だしいのである。細かく西書を調べれば、​インド​​印度​河の戦いは、哲・速二将が、並んで列なっていない。これまた秘史の誤りである。」と言う。 ​ベレジン​​伯哷津​は「軍は​アラン​​阿蘭​部(西北地の​アラン​​阿蘭​​アス​​阿思​)に入り、​アラン​​阿蘭​人は​キブチヤク​​奇卜察克​人を寄せ集めて来て戦い、勝負がつかなかった。二将は​キブチヤク​​奇卜察克​人に「我らはみな同族、​アラン​​阿蘭​は異民族である。我らは和議を約束し、互いに侵犯しないようにすべきである。もし財物が望みなら、みな贈り届けよう」と告げさせた。そこで手厚くこれを贈った。​キブチヤク​​奇卜察克​人は引き去った。この戦いは​アラン​​阿蘭​に勝ったので、大い殺して掠めた。​キブチヤク​​奇卜察克​人は散って帰り、備えをしなかった。二将は不意に出て、その部に攻め入り、ことごとく残された物を返した。敗れた軍勢は​オロス​​俄羅斯​に逃れ入った」と言う。​アラン​​阿蘭​は靑目で、​キムチヤ​​欽察​は靑目でないのは、洪氏の考証がある。 多遜は「軍は​ガオカス​​高喀斯​山に入った。​キブチヤク​​奇卜察克​​アス​​阿速​(つまり​アラン​​阿蘭​)・​チエルカイス​​扯而開斯​(つまり西北の地の​サルケス​​撒耳柯思​)などの部が、軍勢を集め来て防ぎ、衆寡敵せず、再び険しいところに迫った。そこで甘言で​キブチヤク​​奇卜察克​を誘い云云。​キブチヤク​​奇卜察克​は引き退いた。軍は険しいところを出終えて、​アス​​阿速​などの兵を破り、​キブチヤク​​奇卜察克​を追い、不意に出て、突き至り奮い撃ち、その部の酋長​クナン​​庫灘​の弟​ユルゲ​​玉兒格​及び子の​タイル​​塔伊兒​を殺した」と言う。​スブタイ​​速不台​伝は「​スブタイ​​速不台​​キムチヤ​​欽察​を討つことを請う上奏をし、これを許した。そのまま兵を率いて​カン ヂンギス​​寬 定吉思​海をめぐり転々と移動して​タイフ​​太和​嶺に至り、石を掘って道を開き、不意にそこに出た。至ったことでその酋長​ユリギ​​玉里吉​及び​タタハル​​塔塔哈兒​方の軍勢と​ブズ​​不租​河で出会い、ほしいままに兵は奮い立って敵を討った。その軍勢は潰走し、矢が​ユリギ​​玉里吉​の子に及び、林間に逃れた。その下僕が来て告げ、そしてこれを捕らえた。残りの軍勢はことごとく降り、そのままその場所を収めた」と言う。​カン ヂンギス​​寬 定吉思​海は、また​カン テンギス​​寛 田吉思​海とも言う。 洪氏は「​カン テンギス​​寛 田吉思​海は、つまり裏海である。​タイフ​​太和​嶺は、つまり​ガオカス​​高喀斯​山である。石を掘って道を開き、であれば軍は険しいとわかるところに迫ったのである。​キブチヤク​​奇卜察克​はすでに退き、そしてモンゴルが乗じるところとなり、ゆえに不意にそこに出たと言う。​ユルゲ​​玉兒格​はつまり​ユリギ​​玉里吉​である。​タアル​​塔阿兒​は、つまり​タタハル​​塔塔哈兒​である。西文の原書は​タイル​​塔伊兒​とする。​アラビ​​阿剌比​文の阿と伊の二音は、西人がしばしば誤訳する。元史がこれの証拠であり、必ずやこれは​タアル​​塔阿兒​である。​トトハ​​土土哈​伝は​キムチヤ​​欽察​国主​イナス​​亦納思​と言う。西域書及び​マヂア​​馬加​国史は、いずれも​キブチヤク​​奇卜察克​王の名を​クナン​​庫灘​と言う。華文の​ホ​​霍​​フ​​忽​などの字音は、西人は常に訳して​ク​​庫​となり、なおこれ蒙古源流は常に訳して​ホ​​豁​​フ​​忽​などの音が​ゴ​​郭​となる。であれば​クナン​​庫灘​は必ずや​フナン​​霍灘​である。​フス メリ​​曷思 麥里​伝「その主​フトスハン​​霍脫思罕​と戦い、ついに​キムチヤ​​欽察​を平らげた」。この二語に拠れば、​キムチヤ​​欽察​国主は、​フナン​​霍灘​とするべきである。​フト​​霍脫​​フナン​​霍灘​は音が合う。思の字はあるいは恩の字の誤りである。西北の種族は、国は一部ではなく、部にそれぞれ長がいる。意味は​イナス​​亦納思​​キムチヤ​​欽察​東部の酋長とみなし、​フナン​​霍灘​は西部の酋長とみなす、かもしれないのである」と言う。 ​ドーソン​​多遜​は「軍は東北に​フルガ​​浮而嘎​河に至り、​チユチ​​朮赤​太子に勝利を告げ、軍の助けを請うた。時に​チユチ​​朮赤​​ウルヂヤンチ​​烏爾鞬赤​をすでに下し、裏海の東部に駐軍し、軍勢の多くが休み、兵を分けて大半が行って助けた。一二二二年(太祖 十七年)冬、新兵が既に至り、​フルガ​​浮而嘎​河が凍り、遂に​アストラガン​​阿斯塔拉干​を下し、その城を焼いて掠め、​キブチヤク​​奇卜察克​に出会い、さらにこれを破った」と言う。 洪氏は「​フルガ​​浮而嘎​河は裏海のところに入り、地名は​アストラガン​​阿斯塔拉干​で、商人の大きな船着き場である。​フス メリ​​曷思 麥里​伝「​カングリ​​康里​を尋ねて征伐し、​ボツバリ​​孛子八里​城に至り、その主​フトスハン​​霍脫思罕​と戦い、さらにその軍を破り、そのまま​キムチヤ​​欽察​を平らげた」。西人は考えて「​アストラガン​​阿斯塔拉干​は、むかし​ベイス​​波斯​商人が貿易で集まる所だった。​フイフ​​回紇​語で城を​バリ​​八里​と言う。​ボツ​​孛子​はつまり​ベイス​​波斯​の誤りであり、なお​ベイス​​波斯​城と言う」ととらえた。推測するに興味深い。ただ​カングリ​​康里​は鹹海の東にいて、​ウラ​​烏拉​嶺の以西や、裏海の北には決していない。これを​カングリ​​康里​とするのは、合わない。伝はまた「その主​フトスハン​​霍脫思罕​と戦い、さらにその軍を破り、そのまま​キムチヤ​​欽察​を平らげた」と言い、であればやはりこれは​キムチヤ​​欽察​であり、​カングリ​​康里​ではない。​フト​​霍脫​​キムチヤ​​欽察​国主にあたり、説は前文で見える。​スブタイ​​速不台​伝を見ると、つまり​フス メリ​​曷思 麥里​伝と、軍の行った順序が同じでない。元史を修めた明人は、少しも​カングリ​​康里​​キムチヤ​​欽察​​アス​​阿速​などの部や、どちらが東でどちらが西かを知らず、記すに到って各々異なり、拠りどころが不足したのである」 「軍は分かれて二つになり、再び率いて西に行った。一軍は追って兵を破り、​ドン​​端​河を過ぎた。(軍は​アソフ​​阿索富​海の東南に至り、​サルケス​​撒耳柯思​​アス​​阿速​などの部を平らげた。そのまま​アソフ​​阿索富​海より、氷を歩いて黒海に至り、​クルム​​克勒姆​の地に入り、大いに掠めて北に行った。​クルム​​克勒姆​は、つまり元史 西北地附録の​サギラ​​撒吉剌​である。​ラシツド​​喇施特​​スダク​​速達克​城とする。​スダク​​速達克​は、つまり​ルブルク​​嚕卜嚕克​​マルコ ポーロ​​馬兒科 玻羅​​ソルダイヤ​​索勒岱雅​であり、​クルム​​克勒姆​の東南岸の大きな埠頭である)。両軍は再び合流した。​クナン​​庫灘​は遁れて​オロス​​俄羅斯​の境に入り、その壻​ハリチ​​哈力赤​​ムスチスラフ​​穆斯提斯拉甫​に助けを乞うた。​オロス​​俄羅斯​は、西北の大国である。西暦八六二年(唐 懿宗 咸通 三年)、始めて北海の南で立国した。その後に土地を拓きますます広くなり、南は黒海に接した。第十一世紀の半ば(宋の仁宗の時)に至り、〈底本-404にわかに封建の制を行い、諸侯はひとりでにその地を分けて子孫に与え、国は七十に分かれ、同族は日々争い奪うことに努めた。 ​ハリチ​​哈力赤​は南​オロス​​俄羅斯​の諸国とする。その君主​ムスチスラフ​​穆斯提斯拉甫​は戦争が上手く、しばしば同族との戦いに勝ち、モンゴルを卑しみ軽んじ、その妻の父の要請を認めて、​ヂエフ​​計掖甫​​ムスチスラフ ロムノヱチ​​穆斯提斯拉甫 羅慕諾委翅​に告げさせ、諸国の君主を集めて軍事を相談した。ここにおいて​チエルニゲフ​​扯耳尼哥甫​​ムスチスラフ スワトスラルヱチ​​穆斯提斯拉甫 司瓦托司拉勒委翅​は、南​オロス​​俄羅斯​諸侯とともに、みな​ヂエフ​​計掖甫​に至った。集まって相談し、国境を出て迎え撃ち、それを待たずに至り、並びに​オロス​​俄羅斯​の首邦​ウラヂミル​​物拉的迷爾​太公​ユーリ​​攸利​二世に告げ、兵を出して助けとした。分かれて軍糧を運び、​テニボル​​帖尼博爾​河・​テニステ​​特尼斯特​河より、黒海の東北に至ることにした。​ヂエベ​​哲別​​スブタイ​​速不台​​オロス​​俄羅斯​が兵を起こしたと聞き、使い十人を遣わし、行って「モンゴルが討つのは、​キブチヤク​​奇卜察克​である。昔から​オロス​​俄羅斯​と仲違いはなく、必ず互いに犯さなかった。モンゴルはただ天を敬い、​オロス​​俄羅斯​の教えと互いに似ている。 ​キブチヤク​​奇卜察克​は、まえまえから​オロス​​俄羅斯​と戦争の怨みがあり、どうして我らを助けて仇ある人を攻めないのか」と告げた。諸侯は「先にこの言葉を餌に​キブチヤク​​奇卜察克​を誘った。今再び餌で我らを誘うのは、信じられない」と言った。その使いを殺した。二将は再び人を遣わして至り、「我らの行った人を殺し、その不正はお前たちにある。天はお前たちの魂を自ら奪い取って滅亡させる。今や兵を来させて、勝負を決することを請う」と言った。​クナン​​庫灘​はまたこれを殺そうとした。​オロス​​俄羅斯​人は帰ることを許し戦いを約束した」。洪氏は「​オロス​​俄羅斯​史は「モンゴルは再び人を遣わして来て「前言は偽りではなく、我らはすでに天に誓っている。決してお互いに犯さず、兵を用いないことを請う」と告げた。これを見ると、実に​オロス​​俄羅斯​は自ら兵禍を取った」と言う。​ハリチ​​哈力赤​侯は先に万騎で東に​テニボル​​帖尼博爾​河を渡り、モンゴルの先鋒を破り、副将​ハマベイ​​哈馬貝​を捕らえてこれを殺した。諸侯はみな続けて東に行った。モンゴル軍は退いた。九日追って​カルギ​​喀勒吉​河に至り(あるいは​カルカ​​喀勒喀​河と称し、あるいは​カラク​​喀剌克​河と称した。​カラムジン​​喀喇姆津​は「つまり今の​カリツ​​喀埓子​河であり、​カルミス​​喀勒迷斯​河と合流して​アソフ​​阿索富​海に入る」と言う。​ラシツド​​喇施特​は「十二日追った」と言う。)二将の大軍と出会った。 時に​オロス​​俄羅斯​兵は八万二千で、分かれて南北に駐留した。南軍は​ヂエフ​​計掖甫​​チエルニゲフ​​扯耳尼哥甫​などの部の兵となり、北軍は​ハリチ​​哈力赤​などの部及び​キブチヤク​​奇卜察克​兵となった。​ハリチ​​哈力赤​侯は敵を軽んじ功を欲ばり、南軍に謀らず、ひとりで軍を率いて北に河を渡り、​ハイルサン​​孩耳桑​の地で戦った。勝負はなお決まらず、そして​キブチヤク​​奇卜察克​兵は、敵に怯え先に退き、陣が乱れた。モンゴル軍はこれに乗じ、​オロス​​俄羅斯​兵は大いに敗れた。​ハリチ​​哈力赤​などの候は抜け出すことができ、河を渡って西に行き、ただちにその舟を沈めた。後に至った者は渡れず、ことごとく殺された。​オロス​​俄羅斯​の南軍は、北軍の戦いを知らず、またその敗北も知らなかった。そしてモンゴル軍が速やかに至り、その陣営は行き詰まり、三日下らなかった。贈り物をして平和交渉をするよう誘い、それが出てくるのを待って激しくこれを攻め、皆殺しにして切った首は数えらなかった。(​ラシツド​​喇施特​は「激しく戦うこと七日、ことごとく敵の軍勢を破った」と言う。)​ヂエフ​​計掖甫​ ​チエルニゲフ​​扯耳尼哥甫​などの部の君主を捕らえ、縛って地に置き、板で覆って坐具とした。モンゴルの将軍はその上に高く坐り、酒を飲み集まりを楽しみ、圧死した者が多かった」。この役は、西域の書に拠ると、癸未年(1223年)の事となる。​オロス​​俄羅斯​史はあるいは一二二四年六月十六日と言い、あるいは同年五月三十一日と言う。だが一二二三年と言うのが多く、まさに西域書の話と合い、おそらく太祖 十八年(1223年)夏にあったのであろう。 ​スブタイ​​速不台​伝は「さらに​アリギ​​阿里吉​河に至り、​オロス​​斡羅思​部大小​ミチス​​密赤思​老と出会い、一戦でこれを降した」と言う。​アリギ​​阿里吉​河は、つまり​カルギ​​喀勒吉​河である。​ミチス​​密赤思​老は、つまり​ムスチスラフ​​穆斯提斯拉甫​の訛略である。​ハリチ​​哈力赤​​ヂエフ​​計掖甫​​チエルニゲフ​​扯耳尼哥甫​の三候は、いずれも名を​ムスチスラフ​​穆斯提斯拉甫​と言う。洪氏は「​ヂエフ​​計掖甫​君が年長で、よって大とする。​チエルニゲフ​​扯耳尼哥甫​君が年幼で、よって小とする」と言う。​フス メリ​​曷思 麥里​伝は「​オロス​​斡羅思​に進撃し​テル​​鐵兒​山でこれに勝ち、その国主​ミヂスラ​​密只思臘​を捕らえた。​ヂエベ​​哲伯​​フス メリ​​曷思 麥里​に命じて、多くを​チユチ​​朮赤​太子に献じこれを殺した」と言う。​テル​​鐵兒​山は、つまり​ハイルサン​​孩耳桑​の転訛で、それこそが地名であり、山名ではない。​ミヂスラ​​密只思臘​は、つまり大小​ミチス​​密赤思​老である。「この役もまた、たちまち六侯七十将を滅ぼし、兵士は十のうちその九が死んだ。太公​ユーリ​​攸利​二世は、兵が信じるよう請うて親しみ、その甥​エロスト​​遏羅斯托​​ワシルク カンスダンヂノヱチ​​瓦西耳克 康斯但丁諾委翅​に軍勢を率いさせて行って助けさせた。(​エロスト​​遏羅斯托​城は、今は​エロストフアイ​​遏羅斯托弗哀​と言う)。 行って​チエルニゲフ​​扯耳尼哥甫​に至り、軍が敗れたと聞き、速やかに引き退いた。この時に​オロス​​俄羅斯​の多数の城はいずれも防ぐ備えがなく、戦い守り計ることができず、ただ兵が至るのを待ち、降って死を免れることを乞い、国を挙げて大いに震えた。そこでモンゴル軍は、西に​テニボル​​帖尼博爾​河に至り、北に​チエルニゲフ​​扯耳尼哥甫​​ノフゴロト​​諾拂郭羅特​​シニスク​​夕尼斯克​城に至り留まった。この冬に​ドン​​端​河・​フルガ​​浮而嘎​河は凍り、全軍は氷を渡って東に行った。素早い手紙が太祖の​あんざい​​行在​に至った。馬十万でねぎらうよう命じ、​チユチ​​朮赤​​キブチヤク​​奇卜察克​に封じ、西北の地を取り締まるのに用いた。一二二四年(太祖 十九年 甲申)、​チユチ​​朮赤​はそのまま​シル​​錫爾​河の​ベタンタ​​北儻塔​の地より、西に​ウラ​​烏拉​嶺を越え、​キブチヤク​​奇卜察克​の東国境に至り、部のところを取り締まり治め、​ヂエベ​​哲別​​スブタイ​​速不台​に命じて軍を帰させた。二将は​チユチ​​朮赤​の部兵を帰し、自ら部のところを率いて東に戻った。途中で​ヂエベ​​哲別​が亡くなった」。​ラシツド​​喇施特​は「帝が命じた道にしたがって帰った」と言う。​フス メリ​​曷思 麥里​伝は「軍は帰り、​ヂエベ​​哲伯​は亡くなった」と言い、西書と同じ。洪氏の​ヂエベ​​哲別​補伝は「​カングリ​​康里​を平らげ東に戻った」と言う。 自注「モンゴルの​カングリ​​康里​の滅びは、何年にあったのかわからない。西書も考えを失っており、但し​オロス​​俄羅斯​に対する戦勝の後には終わっていたようである。元史 ​アシヤ ブハ​​阿沙 不花​伝「​アシヤ ブハ​​阿沙 不花​は、​カングリ​​康里​国の王族である。初めて太祖が​カングリ​​康里​を攻め落とした時、その祖母​クメグマリ​​苦滅古麻里​氏は未亡人になったばかりで、二子がありいずれも幼かった。国は乱れ家は破れ、頼れるところはなかった。ある夕暮れに数頭の駱駝がありみな荷を背負い、宿営地に突き入り、これを追い払っても去らなかった。その装いを暴き見ると、いずれも西域の大切な宝であった。そのまま駆け走って天子の都に至った。時に太祖はそののちやがて崩れ、太宗が立ち、所有していたものを献じた」。これに拠れば、​カングリ​​康里​の滅びは、太祖の晩年に西域から軍を戻した後にあったとすべきであり、よって亡くなった時期と遠くへだたっていない。​キブチヤク​​奇卜察克​は西にあり、​カングリ​​康里​は東にあり、哲・速二将の東還の後に繋がり、いろいろよく似ているのである」。 ​ドーソン​​多遜​はまた「太祖は東に行き、​チユチ​​朮赤​を呼び出し、いまだ至らなかった。つづけてさらにその西の​ブルガル​​布而嘎爾​(つまり西北の地の​ブリアル​​不里阿耳​)・​キブチヤク​​奇卜察克​​チエルカイス​​扯而開斯​などの部のまだ平定していない地を平らげるよう命じた。そして​チユチ​​朮赤​は病気と称して行かなかった。太祖はますます楽しくなかった。一二二五年、太祖は​あんぐう​​行宮​に帰り終え、西から来るモンゴル人があり、​チユチ​​朮赤​の病のことを問えば、「ただ狩りに出るのを見たが、病があるのは聞いていない」と言った。太祖は大いに怒り、​チヤガタイ​​察合台​​オコタイ​​窩闊台​に兵を率いて行って捕まえ問うよう命じた。いくばくもなく亡くなった。使いが至り、太祖は大いになげき、その人を妄言の罪で処理しようとしたが、しかしすでに走り去っていた。そのまま​オチギン​​斡赤斤​大王にその喪を見に行くよう命じ、跡継ぎの位を定めた」と言う。この夏、避暑し通世案、西史は「夏には旧居にいて夏を駐留した」と言う。 秋に再び兵を率いて西夏を征伐した。通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「​タングト​​唐古特​が再び叛いたと聞き、鶏年の秋、軍を整え​カシン​​合申​を攻め、​チヤガタイ​​察合台​に本部の兵で古くなった宿営地と後ろの路を守らせた。その時に​チユチ​​朮赤​が亡くなり、​オコタイ​​窩闊台​が帝の軍に従った。​トルイ カン​​拖雷 汗​は妻の​シルフクトン ベヂ​​西兒忽克屯 別姫​が疱瘡になったので、数日遅れて行った」と言う。​シルフクトン​​西兒忽克屯​は、元史 憲宗紀は​ソルカテニ​​唆魯禾帖尼​とし、后妃表は​ソルフテニ​​唆魯和帖尼​とし、后妃伝は​ソルテニ​​唆魯帖尼​とする。秘史は​シヨルカクタニ​​莎兒合黑塔泥​とし、​ワンカン​​王汗​の弟​ヂヤカガンブ​​札合敢不​の次女である。元史 本紀は「二十一年(1226年)春正月、帝は西夏が仇ある人​チラヘシヤンクン​​赤﨟喝︀翔昆​を受け入れるとともに人質の子を遣わさないことにより、自ら率いてこれを討伐した」。赤は亦とし、​イラヘ シヤンクン​​亦臘喝︀ 翔昆​は、つまり元史 本紀の前文の​イラカ​​亦剌合​、本書の​イラカ セングン​​亦剌合 鮮昆​で、​ワンカン​​王汗​の子である。 癸亥年(1203年)、​ワンカン​​王汗​は滅び、​イラカ​​亦剌合​は西夏に奔った。太祖は西夏が仇を受け入れたことを責め、おそらく乙丑(1205年)初めて西夏を征伐した時の事であろう。今年の役に至るのは、必ずしもこれを口実にしたのではない。西夏書事は「​イラヘ シヤンクン​​亦臘喝︀ 翔昆​は、​ナイマン​​乃蠻​​クルハン​​屈律罕​の子」と言い、大いに誤っている。また本書と西史は、いずれも乙酉(1225年)秋の出兵を言い、元史 本紀は明くる年の正月とし、秘史は明くる年の秋とする。秘史は「​チンギス​​成吉思​は行って冬を過ごし終えて、​タング​​唐兀​を征伐することを望み、新しく整え選び出した兵馬を従えた。戌年の秋に至り、行って​タング​​唐兀​を征伐し、夫人​エスイ​​也遂​を従わせて行った。冬の間は​アルブカ​​阿兒不合​の地で巻狩りした。​チンギス​​成吉思​の騎馬の一匹の紅沙馬が、野馬に驚いた。​チンギス​​成吉思​は馬から落ちて馬蹄で傷つき、​シユオルカト​​搠斡兒合惕​の地に赴いて下馬し宿営した。次の日、​エスイ​​也遂​夫人は大王並びに諸官人に対して「皇帝は今夜とても発熱している。あなたたちは協議すべきである」と話した。 これにおいて大王並びに諸官人は集会した。その中に​トルン​​脫侖​が論じて「​タング​​唐兀​は城と堀の人々があり、移り動くことはできない。ただいましばらく帰り去り、皇帝が落ち着くのを待ってその時に再び来て攻め取ろう」と言ったのがあった。諸官人はいずれもこれを是とし、奏して​チンギス​​成吉思​に知らせた。​チンギス​​成吉思​は「​タング​​唐兀​の人々が私が帰り去るのを見れば、必ずや私が怯えたとみなす。しばらくここで病を養い、先ず人を遣わして​タング​​唐兀​のところに行かせて、彼が帰って何を話すか見よう」と言った。そのまま人を遣わして​タング​​唐兀​​ブルカン​​不兒罕​に対して「お前はかつて「必ずや右手として私に与えよう」と話した。私が​フイフイ​​囘囘​を征伐する時になり、お前は従わず、〈底本-405さらに将は私を遠回しに悪く言った。ただいま​フイフイ​​囘囘​を取り終えて、私はお前とともに前言をはっきりと明らかにしよう」。​ブルカン​​不兒罕​は「遠回しに悪く言った言葉については、私は話したことがない」と言った。​アシヤガンブ​​阿沙敢不​が「これは私が話して来させた。私と殺し合いたい時は、お前は​ハラン​​賀蘭​山に到って来て戦う。金銀緞疋が欲しい時は、お前は西涼に向かって来て取る」と言うことがあった。使臣は帰り、将の前言を​チンギス​​成吉思​に話し与えた。​チンギス​​成吉思​は「彼がこのような大きな話を言って、私はどうして帰られようか。死のうとも、それでもまた行って彼に問うであろう。永遠なる天が知る」と言った。そのまま​ハラン​​賀蘭​山に到り云云」。



〈史45-172下5丙戌春,至西夏。一歲間,盡克其城,時上年六十矣

丙戌二十一年、宋寶慶二年、金正大三年。春至西夏、一歲閒盡克其城。時上年六十五矣。原闕五字。秋濤案、癸亥年、稱上春秋四十二。紀云丁亥〈東方學デジタル圖書館-98崩、壽六十六。則此「上年六十」句內、必脫五字也。今增矣。通世案、祕史云「遂到賀蘭山、將阿沙敢不敗了、走上山寨。咱軍將他能厮殺︀的男子幷䭾䭾等物盡殺︀虜︀了、其餘百姓、縱各人所得來自要。成吉思在雪山住夏、調軍去、將阿沙敢不同上山的百姓盡絕虜︀了。賞孛斡兒出・木合黎財物、聽其儘力所取云云」。上文已有狗年秋冬、此住夏、似謂猪︀年之夏、與本紀異。祕史年月多誤。又木合黎已以十八年癸未薨、此文亦誤。本紀云「二月、取黑水等城。夏、避暑︀於渾垂山」。渾垂山、在肅州北、葢祕史之雪山。祕史又云「成吉思自雪山起程、過兀剌孩城、郤來攻打靈州城」。靈州、蒙文作朵兒蔑該。伯哷津云「軍至唐古特、取甘州・肅州、又取兀剌孩城、圍滴兒雪開城。合申主失都︀兒忽、土人稱曰李王、由其伊兒開都︀城、率五十營兵來援。帝移軍往迎。地多河、皆從黃河出、已冰合。兵皆從冰上行。令眾射矢、無許虛發。此戰、殺︀人無算。蒙古兵死十之一、合申兵死者︀增兩倍。失都︀兒忽逃回都︀城」。洪氏曰「史錄皆謂丙戌入西夏。其取甘・肅等州、本紀繫之於夏。下文之狗年、當移於此乃合。祕史蒙文朵兒蔑該、葢卽滴兒雪該。伊兒開都︀城、原注「土語伊兒開、蒙古語則云額兒起牙」。葢卽本紀所謂夏王城。祕史蒙文稱甯夏曰額里合牙是也」。本紀云「取甘・肅等州、秋、取西凉府・搠羅・河羅等縣、遂踰沙陀、至黃河九渡、取應里等縣。冬十一月庚申、帝攻靈州。夏遣嵬名令公來援。丙寅、帝渡河擊夏師敗之。丁丑、五星聚見於西南。駐蹕鹽州川。是歲、皇子窩闊台及察罕之師、圍金南京。遣唐慶責歲幣于金」。金史哀宗紀云「正大三年十一月、大元兵征西夏、平中興府」。

訳文 一三六

丙戌(1226年)二十一年、宋 宝慶 二年、金 正大 三年。春に西夏に至り、一年の間その城を取り尽くした。時に上は六十五才であった。原書では五字欠けている。秋濤案、癸亥年(1203年)に、上は年齢が四十二歳になったと称している。元史 紀は丁亥(1227年)にみまかり、年齢は六十六と言う。であるならばこれは「上年六十」の句の中に、必ずや五字の抜けがある。今増やす。通世案、秘史は「そのまま​ハラン​​賀蘭​山に到り、将​アシヤガンブ​​阿沙敢不​は敗れ、走って山寨に登った。我が軍将その他は血気盛んな若者と能く殺し合うとともに積み荷などの物をことごとく殺して捕らえ、その残りの人々は、ほしいままに各人が自ら求めて得て来るところとなった。​チンギス​​成吉思​は雪山にあって夏を過ごし、軍を整えて行き、将​アシヤガンブ​​阿沙敢不​とともに山に登った人々をことごとく絶やし捕らえた。​ボオルチユ​​孛斡兒出​​ムカリ​​木合黎​に財物を与え、それが力尽きるまで取るところとするのを許し云云」と言う。前文はすでに狗年秋冬にあり、この夏を過ごしたのは、猪年の夏を言うようであり、元史 本紀と異なる。秘史は年月が多く誤っている。また​ムカリ​​木合黎​はすでに十八年癸未(1223年)に亡くなり、この文も誤っている。元史 本紀は「二月、黒水などの城を取った。夏、渾垂山で避暑した」と言う。渾垂山は、粛州の北にあり、おそらく秘史の雪山であろう。 秘史はまた「​チンギス​​成吉思​は雪山より旅立ち、​ウラカイ​​兀剌孩​城を過ぎ、退いて霊州城に来て攻めて打った」と言う。霊州は、蒙文は​ドルメガイ​​朵兒蔑該​とする。​ベレジン​​伯哷津​は「軍は​タングト​​唐古特​に至り、甘州・粛州を取り、さらに​ウラカイ​​兀剌孩​城を取り、​ヂルシエカイ​​滴兒雪開​城を囲んだ。​カシン​​合申​​シドルク​​失都︀兒忽​は、地元民は李王と呼んで称し、その​イルカイ​​伊兒開​都城から、五十の営兵を率いて来て助けた。帝は軍を移して行って迎えた。地は河が多く、いずれも黄河に従って行き、すでに凍っていた。兵はみな氷の上を従って行った。軍勢に矢を射させ、弱く放つことを許さなかった。この戦では、殺した人は数えられなかった。モンゴル兵は十のうち一が死に、​カシン​​合申​兵の死者は二倍に増した。​シドルク​​失都︀兒忽​は都城に逃げ帰った」と言う。 洪氏は「元史と親征録いずれも丙戌(1226年)に西夏に入ったと言う。その甘・粛などの州を取ったのは、元史 本紀はこれを夏に繋げている。後文の狗年は、ここに移してまさに合うとすべきである。秘史蒙文の​ドルメガイ​​朵兒蔑該​は、つまり​ヂルシエガイ​​滴兒雪該​である。​イルカイ​​伊兒開​都城は、原注「土着語の​イルカイ​​伊兒開​は、モンゴル語では​エルキヤ​​額兒起牙​と言う」。おそらくつまり元史 本紀がいうところの夏王城である。秘史蒙文が寧夏を称して​エリカヤ​​額里合牙​と言うこれである」と言う。 元史 本紀は「甘・粛などを州を取り、秋に、西凉府・​シユロ​​搠羅​​ハロ​​河羅​などの県を取り、そのまま​シヤダ​​沙陀​を過ぎ、黄河に至って九回渡り、​インリ​​應里​などの県を取った。冬十一月庚申、帝は霊州を攻めた。西夏は嵬名令公を遣わし来させて助けた。丙寅、帝は河を渡り西夏の軍を叩きこれを破った。丁丑、五星聚という天文現象が西南で見えた。塩州川で​ちゅうひつ​​駐蹕​した。この歳、皇子​オコタイ​​窩闊台​及び​チヤハン​​察罕​の軍は、金の南京を囲んだ。唐慶を遣わし金に毎年の貢物を求めた」と言う。金史 哀宗紀は「正大 三年(1226年) 十一月、大元の兵は西夏を征伐し、中興府を平らげた」。



〈史45-172下6丁亥,滅其國以還。太祖聖武皇帝昇遐之後,太宗皇帝卽大位以前,太上皇帝時爲太子

丁亥二十二年、宋寶慶三年、金正大四年。滅其國以還。秋濤案、此句下有脫文。通世案、金史哀宗紀「正大四年三月大元兵平德順府、節︀度使愛申、攝府判馬肩龍死之。五月丁丑、議乞和于大元。大元兵平臨洮府、總管陀滿・胡土門死之」。元史太祖︀紀云「二十二年丁亥春、帝留兵攻夏王城、自率師渡河、攻積石州。二月破臨洮府。三月、破洮河・西寧二州。夏四月、帝次龍德、拔德順等州。德順節︀度使愛申、進士馬肩龍死焉。五月、遣唐慶使金。閏月、避暑︀六盤山」。伯哷津云「帝曰「彼經此敗、力不能復振矣」、不甚措意、越其都︀城、往取他城。旣攻下各城、後卽入乞䚟境」。洪氏曰「此皆猪︀年事、原書失次。豈國史未詳、故親征錄槪不言及、而元史及此書、皆釆諸︀他處歟」。「狗年春初至盎昏塔朗︀呼圖克之地、身不甚健、得夢知死期將屆」。洪氏曰「地名無考。果有此夢、必是猪︀年面非狗年」。「是時諸︀子在側者︀、惟亦孫哥阿克。(注云、朮赤哈薩兒之子)。因問「窩闊台・拖雷、今何在、相離遠否」。亦孫哥阿克謂「僅離二三里」。卽遣人召至。次晨、帝吿諸︀將及從官「今有事與諸︀子商、汝等暫避」。迨眾退、乃曰「我殆至壽終時矣。我爲汝等剏此基業、無論東西南北、自此首往彼首、皆有一歲程期。我遺命無他。汝等欲能禦敵、多得民人、必須合眾心爲一心、方可享受永遠國祚。我死後、汝等奉窩闊台爲主」。又曰「汝等可各歸理事。我享此大名、死無所憾。我願歸於故土。察合台雖不在側、當不至背我遺命生亂」。言畢、卽麾諸︀子出、自率兵往南紀牙斯。所至之地皆迎降。行至六盤山、爲主兒只・南紀牙斯・合申三處交界之地」。洪氏曰「南紀牙斯、必係指南宋、而名稱不得其解。久乃悟爲南朝二字變音、斯字爲尾文」。金史哀宗紀云「六月戊申朔、遣前御史大夫完顏合周爲議和使」。太祖︀紀云「六月、金遣完顏合周・奧屯阿虎來請和。帝謂羣臣曰「朕自去冬五星聚時、已嘗許不殺︀掠。遽忘下詔耶。今可布吿中外、令彼行人亦知朕意」」。伯哷津云「主兒只聞其至、遣使納賄行成、一大珠盛於盤、圍小珠無數。帝問「何人之耳穿眼、可來領珠」、盡散於眾。有續至求珠者︀、擲珠滿地、俟其自取」。祕史云「唐兀惕主不兒罕、將著︀金佛幷金銀器︀皿及男女馬駝等物、皆以九九爲數來獻。成吉思止令門外行禮。行禮間、成吉思惡心了至第三日、將不兒罕改名失都︀兒忽、命脫侖殺︀了。對脫侖說「初征唐兀時、我因圍獵墜馬。你曾愛惜我的身體來、提說要回。因敵人言語不遜、所以來征。蒙天祐︀助、將他取了。今有不兒罕將來的行宮並器︀皿、你將去者︀」。成吉思旣虜︀了唐兀惕百姓、殺︀其主不兒罕、滅其父母子孫、敎但凡進飮食時、須要提說唐兀惕盡絕了。至猪︀兒年成吉思崩後、將唐兀惕百姓、多分與了也遂夫人」。本紀云「是月(六月)、夏主李睍降。帝次淸水縣西江。秋七月壬午不豫、己丑崩于薩里川哈老徒之行宮。臨崩、謂左右曰「金精︀兵在潼關、南據連山、北限大河、難︀以遽破。若假道于宋、宋金世讎、必能許我。則下兵唐・鄧、直擣大梁。金急、必徵兵潼關。然以數萬之眾、千里赴援、人馬疲弊、雖至弗能戰。破之必矣」。言訖而崩、壽六十六。葬起輦谷」。伯哷津云「失都︀兒忽自念「屢叛屢敗。今已全境被擾、不能復振。惟有乞降」。因遣使來立誓歸誠、謂「不敢望收之爲子」。帝允其請。又以備貢物、遷民戶、須展限一月乃得自來朝謁︀。帝亦允之。吿以今我尙病、且無來、令脫侖扯兒必、前往安撫失都︀兒忽。帝自此病日漸。臨崩之前、吿其大臣「我死、且不發喪、勿令敵知、待合申主來、卽盡殺︀之」。猪︀年八月十五日帝崩。諸︀將遵遺命、不發喪、俟合申主來謁︀殺︀之、而後發喪、奉柩歸老營。四鄂爾多同日〈底本-406 擧哀。遠處得信、亦皆奔喪、三月而後畢集。先時帝至一處、見孤樹愛之、盤桓樹下良久、謂左右曰「我死、卽葬於此」其後有人述前命、遂卜葬樹下。據云、墓在克魯倫河、葬後樹皆叢生、後成密林、不辨墓在何樹之下。雖當日送葬者︀、亦莫能識。拖雷汗・蒙哥汗・呼必賚汗・阿里布喀、皆附葬於此、他子孫則別葬。守墓者︀爲烏梁海︀人」。案太祖︀紀「戊子年、皇子拖雷監國」。太宗紀「太祖︀崩、自霍博之地來會喪、元年己丑夏、至忽魯班雪不只之地、皇弟拖雷來見」。是太祖︀崩時、太宗葢在數千里之外也。西史謂窩闊台在側、恐非。閏五月、避暑︀六盤山。山在甘肅平涼府固原州西南三十里。六月、帝次淸水縣西江、爲今甘肅秦州境、在六盤山南三百餘里。七月己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。薩里川、卽克魯倫河上游撒阿里客額兒之地。哈老徒、今作噶老台、有噶老台嶺・噶老台河・噶老台泊。此行宮、卽克魯倫河〈[#「克魯倫河」は底本では「克魯河」]〉邊之大鄂爾多、太祖︀所久住。故西史云老營。續綱目云「鐵木眞死於六盤山」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉、與西史合。葢太祖︀崩於六盤山若秦州境、奉柩歸蒙古、然後發喪。所謂「壬午不豫、己丑崩于薩里川」、皆發喪所稱之辭、而本紀依之也。洪氏以哈老徒爲鄂爾多斯之哈柳圖河、非是。至其崩期、本紀以爲七月、西史爲八月十五日。西史蓋依西曆言之。西曆八月、卽東曆七月。西史又云「金棺至老營、在當年某月十五日」。伯哷津注「原文某月字不能辨」。然則所謂八月十五日者︀、金棺至老營之日、而崩期實在其前也。徐霆黑韃事略「霆見忒沒眞墓、在瀘渚︀河之側、山水環繞」。瀘渚︀河、卽克魯倫河。與西史合。本紀云起輦谷、起輦亦怯綠連之轉也。本紀云「至元三年冬十月、追謚聖武皇帝。至大二年冬十一月庚辰、加謚法天啓運聖武皇帝、廟號太祖︀。帝深沈有大略、用兵如神︀、故能滅國四十、遂平西夏。其奇勳偉跡甚眾。惜乎當時史官不備、或多失於紀載云」。太祖︀聖武皇帝昇遐之後、太宗皇帝卽大位以前、太上皇帝時爲太子。錢辛楣先生曰「此書載烈祖︀神︀元皇帝、太祖︀聖武皇帝諡。攷元史、烈祖︀太祖︀諡、皆在世祖︀至元三年、則是錄至元以後所撰。故於睿宗有太上皇之稱。然記太宗事而加太上之稱於其弟、所謂名不正而言不順矣」。秋濤案、太祖︀以丁亥崩、至己丑、太宗始登極。太祖︀紀云「戊子年、皇子拖雷監國」、太宗紀云「太祖︀崩、自霍博之地來會喪。元年己丑夏、至忽魯班雪不只之地、皇弟拖雷來見。秋八月己未、諸︀王百官大會於怯綠連河曲雕阿蘭之地、以太祖︀遺詔、卽皇帝位」。睿宗傳云「諱拖雷、太祖︀第四子。方太祖︀崩時、太宗留霍博之地、國事無所屬、拖雷實身任之云云」合紀傳所載觀之、則此條當云「太祖︀昇遐之後、太宗卽大位以前、皇子拖雷監國」、則事理明顯。今乃云「太上皇帝時爲太子」、實爲不解其意、葢以監國爲太子之事。然豈可竟指爲太子乎。厥後武宗立弟仁宗爲太子、明宗立弟武宗爲太子、名不正而言不順。皆此等紀載、有以啓之也。以辛楣先生未論及此、故詳言之。彭云、明宗和世㻋、武宗長子、在位半年、傳文宗圖帖木耳。文宗、武宗次子也。若指此、則立弟武宗、殆字誤耶。通世案、阿卜勒噶錫云「蒙古俗、諸︀子長大者︀、皆居他處、而幼子得父遺產。故斡赤斤之名、惟幼子得稱之 義爲竈主」。葢游牧之民、一帳之內、不能與群兒同居、故大兒以次出牧於外、留者︀幼子而已。及太祖︀分封四子、與三子以遠地、而拖雷受蒙古舊業、亦依舊俗也。伯哷津云「雞年征合申時、帝在途間、窩闊台之子庫延・古由克歸。二孫求賞賚。帝曰、「所有之物、已盡歸拖雷、彼係家主」。其後拖雷汗以衣物分餽之」。洪氏曰「拖雷以幼子從父、儼如家主。其後帝崩、遂監國。親征錄謂「太上皇帝時爲太子」、皆卽斯義。未可斥其誣妄」。然承家產、與襲汗位不同。蒙古俗有大事、擧部會議決之、謂庫哩勒台、選汗出師皆然。家產必歸於幼子、而汗位則決於庫哩勒台、故不必父子相繼。太祖︀遺命欲立窩闊台、然不敢立爲皇太子、必也俟庫哩勒台議決、而後位定。定宗憲憲之登極亦皆然。及世祖︀從漢︀臣勸自立、此制始變矣。然則拖雷固非太子、窩闊台亦非太子。史臣不達於蒙古之俗、故載筆易誤也〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉

訳文 一三六-一三九

丁亥(1227年)二十二年、宋 宝慶 三年、金 正大 四年。その国を滅ぼして帰った。秋濤案、この句の下に脱文がある。通世案、金史 哀宗紀「正大 四年(1227年) 三月に大元の兵は徳順府を平らげ、節度使​アイシン​​愛申​は、摂府判官の​マヂアンロン​​馬肩龍​とともに死んだ。五月丁丑、大元に和を乞う話し合いをした。大元の兵は臨洮府を平らげ、総管の​トマン フトムン​​陀滿 胡土門​を死刑にした」。元史 太祖紀は「二十二年 丁亥(1227年)春、帝は兵を留めて西夏の王城を攻め、自ら軍を率いて河を渡り、積石州を攻めた。二月に臨洮府を破った。三月、洮河・西寧の二州を破った。夏四月、帝は竜徳に駐留し、徳順などの州を攻め落とした。徳順の節度使である​アイシン​​愛申​と、進士の​マヂアンロン​​馬肩龍​は死んだ。五月、唐慶を遣わして金に使いさせた。閏月、六盤山に避暑した」と言う。​ベレジン​​伯哷津​は「帝は「彼はこの負けを経て、力は再び振るわなくなったか」と言い、あまり気に留めず、その都城を落とし、行って他の城を取った。各城を攻め下し終えた、あと直ちに​キダイ​​乞䚟​の国境に入った」と言う。洪氏は「これみな猪年の事であり、原書は続きを失っている。どうして国史はまだ明らかでなく、ゆえに親征録もおおよそ言及がなく、そして元史及びこの書は、みな諸々の他所と見分けるのか」と言う。「狗年春の初めに​アングンタランフトク​​盎昏塔朗︀呼圖克​の地に至り、身はあまり健やかでなく、死期に及ぶことを感じる夢を得た」。洪氏は「地名は考えがない。結局はこの夢があったのは、必ずやこれは猪年に向いたのであり狗年ではない」。 「この時諸子で側にあった者は、ただ​イスンゲアク​​亦孫哥阿克​であった。(注は、​チユチ ハサル​​朮赤 哈薩兒​の子と言う)。そこで「​オコタイ​​窩闊台​​トルイ​​拖雷​は、今どこにいるのか、互いに遠く離れていないのか」と問うた。​イスンゲアク​​亦孫哥阿克​は「わずかに二三里離れている」と言った。直ちに人を遣わして呼び寄せ至らせた。次の日の早朝、帝は諸将及び従官に「今や諸子とともに相談することがあるので、お前たちはしばらく避けよ」と告げた。人々が退くに及んで、そこで「私はおそらく寿命が終わる時に至っている。私がお前たちに始めさせたこの基業は、東西南北はいうまでもなく、この先頭からあの先頭までいくのに、いずれも一年かかる。私が残す命令は他に無い。お前たちはよく敵を防ごうとし、多くの民衆を得て、必ず人々の心を一つの心にしなければならず、まさに永遠に国の幸せを受けるに値する。私の死後、お前たちは​オコタイ​​窩闊台​を奉じて主人とせよ」と言った。さらに「お前たちはそれぞれ帰って事を治めるべきである。私はこの大きな名誉を受け、死ぬことに心残りはない。私は故郷に帰ることを願う。​チヤガタイ​​察合台​が側にいないとはいえ、我が遺命に背いて乱を生むに至ることはないとみなす」と言った。言葉が終わり、直ちに諸子が出るよう指図し、自ら兵を率いて​ナンヂヤス​​南紀牙斯​に向かった。至ったところの地はいずれも迎えて降った。六盤山に行き至り、​ヂユルヂ​​主兒只​​ナンヂヤス​​南紀牙斯​​カシン​​合申​の三か所の境界が交わる地とした」。 洪氏は「​ナンヂヤス​​南紀牙斯​は、必ずや南宋を指し示し、しかし名称からはその見識を得られない。古くからの理解では南朝の二字の変音とされ、斯の字は末尾の文字となる」と言う。金史 哀宗紀は「六月 戊申 朔、前の御史大夫​ワンヤン ハチユ​​完顏 合周​を遣わして和を議する使いとした」と言う。元史 太祖紀は「六月、金は​ワンヤン ハチユ​​完顏 合周​​アオトン アフ​​奧屯 阿虎​を遣わして来させて和を請うた。帝は羣臣に「朕は去年の冬の五星聚の時より、すでにこれまでに殺さず掠めないことを聞き入れている。早くも命令を下したことを忘れたのか。今は内外に布告して、彼を行かせた人に朕の考えを知らせるべきであろう」と語った」と言う。​ベレジン​​伯哷津​は「​ヂユルヂ​​主兒只​はそれが至ったのを聞き、使いを遣わして財物を納めて平和交渉を行い、一つの大珠を盤に盛り、小珠を無数に囲んだ。帝は「どうして耳に孔を開けた人が、珠を受け取りに来られようか」と問い、ことごとく人々に分けた。続けて珠を求める者があり、珠を投げ出して地面に満たし、それを自ら取るに任せた」と言う。 秘史は「​タングト​​唐兀惕​​ブルカン​​不兒罕​は、名高い金の仏像並びに金銀の器皿及び男女と馬や駱駝などの物を、いずれも九つずつ数を揃えて来て献じた。​チンギス​​成吉思​は止めて門外で礼を行わさせた。礼を行う間に、​チンギス​​成吉思​は気分が悪くなって第三日に至り、​ブルカン​​不兒罕​​シドルク​​失都︀兒忽​に改名し、​トルン​​脫侖​に殺すよう命じた。​トルン​​脫侖​に対して「むかし​タング​​唐兀​を征伐した時、私は巻狩りで落馬した。お前はかつて我が身体を惜しみ、帰るよう求める意見をかかげた。敵人の言葉が不遜だったので、来て征伐するのである。永遠なる天は助け、彼を取った。今や​ブルカン​​不兒罕​​あんぐう​​行宮​に来て器皿を並べたのを、お前が納めるのである」と言った。​チンギス​​成吉思​​タングト​​唐兀惕​の人々を捕らえ終えて、その主​ブルカン​​不兒罕​を殺し、その父母や子孫を滅ぼし、飲食時にはひたすら常に、​タングト​​唐兀惕​が絶え尽くすよう言わねばならないようにさせた。猪児年に至り​チンギス​​成吉思​が亡くなった後、​タングト​​唐兀惕​の人々を、​エスイ​​也遂​夫人に多く分け与えた」と言う。 元史 本紀は「この月(六月)、西夏の主 李睍が降った。帝は淸水県の西江に宿泊した。秋 七月 壬午に天子は病気で、己丑に​サリ​​薩里​​ハラト​​哈老徒​​あんぐう​​行宮​で亡くなった。死に臨んで、左右に「金の精兵は潼関にあり、南は連山に拠り、北は大河がへだて、速やかに破るのは難しい。もししばらく宋に従うならば、宋と金は代々仇敵であり、必ずこれは我らに良い。そうなれば唐州・鄧州に出兵し、すぐに大梁を討つ。金は急ぎ、必ず潼関に兵を召し出す。しかし数万の軍勢をもって、千里を出かけて行って助け、人馬は疲弊し、至ったといえども良く戦えない。これを破るのは確かではないか」と言った。言葉が終わって亡くなり、享年六十六。​キレング​​起輦谷​に葬った」と言う。 ​ベレジン​​伯哷津​は「​シドルク​​失都︀兒忽​は自ら「たびたび叛きたびたび敗れた。今すでに全ての国境を乱され、再び賑わすことはできない。ただ降ることを乞うしかない」と考えた。そこで使いを遣わして来て誓いを立てて本当に服従し、「子となってこれを収めることは敢えて望まない」と言った。帝はその請いを許した。さらに貢物を整え、民戸を移し、一か月のうちに自ら来て謁見することを申し述べて待った。帝はまたこれを許した。今や私はなおも病いなので、しばらく来ないようにと告げ、​トルン チエルビ​​脫侖 扯兒必​に命じて、​シドルク​​失都︀兒忽​を導いて行かせ安んじさせた。帝はこれより病が日ごとに進んだ。死に臨む前、その大臣に「私が死んだら、しばらく喪を明らかにせず、敵に知られないようにし、​カシン​​合申​主が来るのを待って、直ちにこれを殺し尽くせ」と告げた。猪年八月十五日に帝は亡くなった。諸将は遺命に従い、喪を明らかにせず、​カシン​​合申​主が来て謁するのを待ってこれを殺し、そしてのちに喪を明らかにし、柩を奉じて古い宿営地に帰った。四つの​オルド​​鄂爾多​が日を同じくして〈底本-406哀悼を捧げた。 遠いところは便りを得て、やはりいずれも喪に駆けつけ、三か月の後に集まり終えた。以前に帝はあるところに至り、孤樹を見てこれを愛で、立ち去りにくく樹下にややしばらくの間いて、左右に「私が死んだら、ただちにここに葬れ」と言いその後に前の命令を述べた人がいて、そのまま選び定めて樹下に葬った。言うところに拠ると、墓は​ケルルン​​克魯倫​河にあり、葬った後で樹がともに多く生え、後に密林を成し、どの樹の下に墓があるのか区別できない。当日に送葬した者といえども、またよくわからなかった。​トルイ カン​​拖雷 汗​​モンゲ カン​​蒙哥 汗​​フビライ カン​​呼必賚 汗​​アリ ブカ​​阿里 布喀​、いずれも付き従ってここに葬り、他の子孫は別に葬った。墓を守る者は​ウリヤンハイ​​烏梁海︀​人とされた」と言う。 元史 太祖紀を調べると「戊子年(1228年)、皇子​トルイ​​拖雷​が代理で国政を執った」。元史 太宗紀「太祖が亡くなり、​ホボ​​霍博​の地より来て集まり喪に服し、元年 己丑(1229年)夏、​フルバン シエブヂ​​忽魯班 雪不只​の地に至り、皇弟​トルイ​​拖雷​が来てまみえた」。これは太祖が亡くなった時に、太宗はおそらく数千里の外にあったのであろう。西史が​オコタイ​​窩闊台​は側にあったと言うのは、おそらく誤りである。閏五月、六盤山に避暑した。山は甘粛 平涼府 固原州の西南に三十里にある。六月、帝は淸水県 西江に宿泊し、今の甘粛 秦州の国境であり、六盤山の南に三百余里にある。七月己丑、​サリ​​薩里​​ハラト​​哈老徒​​あんぐう​​行宮​で亡くなった。​サリ​​薩里​川は、つまり​ケルルン​​克魯倫​河上流の​サアリ ケエル​​撒阿里 客額兒​の地である。​ハラト​​哈老徒​は、今は​ガラタイ​​噶老台​とし、​ガラタイ​​噶老台​嶺・​ガラタイ​​噶老台​河・​ガラタイ​​噶老台​泊がある。この​あんぐう​​行宮​は、つまり​ケルルン​​克魯倫​河のほとりの大​オルド​​鄂爾多​であり、太祖が長く住んだ所である。ゆえに西史は古い宿営地と言う。 続綱目は「​テムヂン​​鐵木眞​は六盤山で死んだ」と言い、西史と合う。おそらく太祖は六盤山もしくは秦州境で亡くなり、柩を奉じてモンゴルに帰り、その後で喪を明らかにした。いわゆる「壬午に天子は病気で、己丑に​サリ​​薩里​​ハラト​​哈老徒​​あんぐう​​行宮​で亡くなった」であり、いずれも喪を明らかにした所を称する言葉で、そして元史 本紀はこれに依る。洪氏は​ハラト​​哈老徒​​オルドス​​鄂爾多斯​​ハリウト​​哈柳圖​河とし、正しくない。その亡くなった時期に至っては、元史 本紀は七月とし、西史は八月十五日とする。西史はおそらく西暦によってこれを言う。西暦の八月は、つまり東暦の七月である。西史はまた「金の棺が古い宿営地に至ったのは、当年の某月十五日にあった」と言う。​ベレジン​​伯哷津​注「原文の某月の字は区別できない」。そうであるならばいわゆる八月十五日は、金の棺が古い宿営地に至った日であり、そして亡くなった時期は実にその前にあったのである。徐霆の黒韃事略「霆が見た​テモヂン​​忒沒眞​の墓は、​ルヂヨ​​瀘渚︀​河の側にあり、山と水が囲んでめぐる」。​ルヂヨ​​瀘渚︀​河は、つまり​ケルルン​​克魯倫​河である。西史と合う。 元史 本紀は​キレング​​起輦谷​と言い、​キレン​​起輦​​ケルレン​​怯綠連​の転訛である。元史 本紀は「至元 三年(1266年) 冬 十月、聖武 皇帝という追号を贈った。至大 二年(1265年) 冬 十一月 庚辰、追号を加えて法天 啓運 聖武 皇帝とし、廟号を太祖とした。帝は落ち着き払って大略があり、軍の使い方は神のようで、よって四十の国を滅ぼすことができ、西夏を平らげ終えた。その優れた手柄と見事な功績ははなはだ多い。当時の史官が不備であったこと、あるいは紀に載せる多くを失ったことが惜しまれる」と言う。 太祖 聖武皇帝がはるか遠くに昇った後、太宗皇帝が即位し以前は、太上皇帝が時に太子とされた。銭辛楣先生は「この書は烈祖 神元皇帝と、太祖 聖武皇帝の追号を載せている。元史を調べると、烈祖と太祖の追号は、いすれも世祖 至元 三年(1266年)にあり、であればこの親征録は至元の以後に作られたものである。よって睿宗に太上皇の称がある。だが太宗の事にその弟に太上の称を加えて記すのは、名正しからざれば則ち言順ならずではないか」と言う。秋濤案、太祖は丁亥(1227年)に亡くなり、己丑(1229年)に至り、太宗は初めて即位した。元史 太祖紀は「戊子年(1228年)、皇子​トルイ​​拖雷​が代理で国政を執った」と言い、元史 太宗紀は「太祖が亡くなり、​ホボ​​霍博​の地から来て集まり喪に服した。元年 己丑(1229年)夏、​フルバン シエブヂ​​忽魯班 雪不只​の地に至り、皇弟​トルイ​​拖雷​が来てまみえた。 秋 八月 己未、諸王百官は​ケルレン​​怯綠連​​クヂオアラン​​曲雕阿蘭​の地で大集会し、太祖の遺言により、皇帝に即位した」と言う。睿宗伝は「諱は​トルイ​​拖雷​で、太祖の第四子。ちょうど太祖が亡くなった時、太宗は​ホボ​​霍博​の地に留まっており、国の事は所属がなく、​トルイ​​拖雷​が実に身をもってこれを担い云云」と言い紀と伝が載せて示すところのこれと合い、であればこのくだりは「太祖がはるか遠くに昇った後、太宗が即位し以前は、皇子​トルイ​​拖雷​が代理で国政を執った」と言うのに当たり、であれば事の道理は明らかであろう。今まさに「太上皇帝が時に太子とされた」と言い、実にその意味を解けないとみなせ、おそらく監国を太子の事にしたのであろう。だがどうしてついに太子と指してしたのか。その後に武宗が弟の仁宗を立てて太子とし、明宗は弟の武宗を立てて太子とし、名正しからざれば則ち言順ならずである。 ことごとくこれらの紀が載せるのは、これの手引きになる。辛楣先生はこれに及んで論じておらず、ゆえに詳しくこれを言った。彭〈[#訳せない。「彭」は人名か副詞の「盛んに」か]〉言うには、明宗​ホシラ​​和世㻋​は、武宗の長子で、在位半年で、文宗​トク テムル​​圖 帖木耳​が継いだ。文宗は、武宗の次男である。もしこれを指すなら、弟の武宗を立てるのは、字の誤りに近いのではないか。通世案、​アブルガシ​​阿卜勒噶錫​は「モンゴルの習俗では、諸子の成人は、いずれも他所に住み、そして幼子が父の遺産を得る。よって​オチギン​​斡赤斤​の名は、ただ幼子がこれを称することができ 意味は竈の主である」と言う。おそらく游牧の民は、一帳の内に、子の群れと同居することができず、よって大きな子は続けて外へ放牧に出るので、留まる者は幼子だけであった。太祖が四子を分封する時になり、三子はともに遠い地となり、そして​トルイ​​拖雷​がモンゴルの古くからの家業を受け継いだのも、旧俗に依るのである。​ベレジン​​伯哷津​は「鶏年に​カシン​​合申​を征伐した時、帝が移動中に、​オコタイ​​窩闊台​の子​クエン​​庫延​​グユク​​古由克​が身を寄せて来た。二孫は褒美をたまわることを求めた。帝は、「所有の物は、すでにことごとく​トルイ​​拖雷​に任せており、彼は家主である」と言った。その後​トルイ カン​​拖雷 汗​は衣物を分けてこれを贈った」と言う。洪氏は「拖雷は幼子なので父に従い、家主のように厳かであった。その後に帝は亡くなり、そのまま代理で国政を執った。親征録が「太上皇帝は時に太子とされた」と言ったのは、みなつまりその意味である。それをでたらめと退けるべきではない」と言う。だが家産を継ぐのは、汗位を継ぐのと同じではない。モンゴルの俗は大切なことがあると、部を挙げて会議してこれを決めるのは、​クリルタイ​​庫哩勒台​と言い、汗を選ぶのも兵を出すのもそうである。家産は必ず幼子が受け継ぎ、しかし汗位は​クリルタイ​​庫哩勒台​で決めたので、必ずしも父子の相続ではない。太祖は​オコタイ​​窩闊台​を立てることを望む言葉を遺したが、しかし皇太子にしようとはせず、必ず​クリルタイ​​庫哩勒台​の議決を待ち、その後で位を定めた。定宗と憲憲の即位もみなそうである。世祖が漢臣の勧めに従って自立するに及んで、この制は始めて変わったのである。そうであるならば​トルイ​​拖雷​はもとより太子ではなく、​オコタイ​​窩闊台​もまた太子ではない。史臣はモンゴルの習俗に通じておらず、よって記録をつけるのは誤りやすかった。



〈史45-172下8戊子,避暑于幹思罕,金主遣使來朝。太宗皇帝與太上皇共議,遣搠力蠻復征西域

〈東方學デジタル圖書館-99 戊子、宋理宗紹定元年、金正大五年。避暑︀於輪思罕。秋濤案、此所言避暑︀、不知何指。或云「謂睿宗也」。湛然居士集云「戊子、馳傳來京、人問異域事、慮煩應對、遂著︀西遊錄」。案耶律晉卿西遊錄今不傳、可惜也。文田案、輪思罕、當作斡里罕、卽鄂勒昆河也、太宗本紀「二年春、與拖雷獵于斡兒寒河。夏、避暑︀塔密兒河」。葢合兩事爲一耳。又案、耶律楚材西遊錄、大半採入元人盛如梓庶齋老學叢談中。又國朝兪浩西域攷古錄所引西遊錄、有出於盛引之外者︀甚多。余採而注之。此書爲唐後元前外域輿地沿革之圭皋、不可以不觀也。通世案、輪思當作斡兒。睿宗避暑︀於斡兒寒河也。胡俗每年冬夏異居。丙子避暑︀、自與戊寅避暑︀不同、李氏欲强合之、非也。金主遣使來朝。太宗皇帝與太上皇共議搠力蠻復征西域。秋、太宗皇帝自虎八 秋濤案、史作霍博。會於先太祖︀皇帝之太宮。曾植案、太當爲大。大宮、大斡耳朵也〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉

訳文 一三九

戊子(1228年)、宋 理宗 紹定 元年、金 正大 五年。​ルンスハン​​輪思罕​に避暑した。秋濤案、この避暑というところが、何を指すのかわからない。あるいは「睿宗と考えられる」と言う。湛然居士集は「戊子(1228年)、駅継ぎ馬車が京に来て、人は異域の事を問い、応対が煩わしいことをおもんばかり、そのまま西遊録を著した」と言う。耶律晋卿の西遊録が今に伝わっていないのを考えると、惜しむべきことである。文田案、​ルンスハン​​輪思罕​は、​オリハン​​斡里罕​とすべきで、つまり​オルフン​​鄂勒昆​河であり、元史 太宗本紀「二年(1230年)春、​トルイ​​拖雷​とともに​オルハン​​斡兒寒​河で狩りをした。夏、​タミル​​塔密兒​河に避暑した」。おそらく二つの事を一つとしただけであろう。また考えるに、​エリユ チウツアイ​​耶律 楚材​の西遊録は、大半が元人の盛如梓の庶斎老学叢談の中で採り入れている。また清朝の兪浩の西域攷古録が西遊録を引くところは、他の書が盛んに引いたのを出すのがはなはだ多くある。私は選び取ってこれに注をつけた。この書は唐の後と元の前の外域輿地沿革の標準とみなされ、見ずにはいられないのである。通世案、輪思を斡児とすべきである。睿宗は​オルハン​​斡兒寒​河に避暑したのである。胡の習俗では毎年冬夏に居るところが異なる。丙子(1216年)の避暑は、自ずと戊寅(1218年)の避暑と同じでなく、李氏が強いてこれを合わせようとしたのは、誤りである。金主は使いを遣わして来朝させた。太宗皇帝と太上皇は​シユリマン​​搠力蠻​と相談して再び西域を征伐した。秋、太宗皇帝は​フバ​​虎八​より秋濤案、元史は​ホボ​​霍博​とする。先の太祖皇帝の太宮に集まった。曽植案、太は大とすべき。大宮は、大​オルド​​斡耳朵​である。



〈史45-172下11己丑八月二十四日,諸王、駙馬、百官大會怯綠連河曲雕阿蘭,共册太宗皇帝登極

己丑太宗元年、宋紹定二年、金正大六年。八月二十四日、諸︀王駙馬百官、大會怯綠連河曲雕阿蘭、共冊太宗皇帝登極。太宗遂議征收金國、收原作牧。文田案、牧當爲服、或是收字。曾植案、作收是。助貧乏、置倉戍、剏驛站。剏原作瓶、張石州校改。〈東方學デジタル圖書館-100命河北先附漢︀民賦〈底本-407 調、命兀都︀撒罕主之。都︀原作相、秋濤案、此書相皆當作都︀。兀都︀撒罕、卽耶律文正楚材賜名也。元史作吾圖撒合里。此作都︀、則與圖音近。相則遠矣。錢竹汀先生、尙未悟此字之誤也。 西域賦調、命牙魯瓦赤主之。秋濤案、本紀云「麻合沒的滑剌西迷主之」。是年、西域伊思八剌納城主遣使來降。又西域之西忻都︀原作折相、秋濤校改。及不剌夷國主躬來朝會。秋濤案、本紀云「印度國主木剌夷國主來朝」。印度卽忻都︀也。不剌夷當從本紀作木剌夷爲是。此書載壬午年四太子征西域、道經木剌夷國、大掠而還、亦作木剌夷、可證也〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉

訳文 一三九-一四〇

己丑(1229年)太宗 元年、宋 紹定 二年、金 正大 六年。八月二十四日、諸王駙馬百官は、​ケルレン​​怯綠連​​クヂオアラン​​曲雕阿蘭​で大会し、共に相談して太宗皇帝が即位した。太宗はそのまま金国を征伐して収めることを話し合い、収は原書では牧。文田案、牧を服か、あるいは収の字とするべき。曽植案、収とするのが正しい。貧乏な者を助け、倉の守備兵を置き、駅站を始めた。剏は原書では瓶とし、張石州が校改する。河北の先に附いた漢民に労務と貢物を命じ、〈底本-407​ウド サハン​​兀都︀ 撒罕​にこれを司るよう命じた。都は原書では相とし、秋濤案、この書では相はみな都とすべき。​ウド サハン​​兀都︀ 撒罕​は、つまり耶律 文正 楚材が賜った名である。元史は​ウト サハリ​​吾圖 撒合里​とする。これが​ド​​都︀​とすれば、​ト​​圖​と音が近い。​シヤン​​相​は遠い。銭竹汀先生さえも、この字の誤りに気づかなかった。西域の労務と貢物は、​ヤルワチ​​牙魯瓦赤​に命じてこれを司らせた。秋濤案、元史 本紀は「​マハムヂ フアラシミ​​麻合沒的 滑剌西迷​がこれを司った」と言う。この年、西域の​イスバラナ​​伊思八剌納​城主が使いを遣わして来て降った。また西域の西​ヒンド​​忻都︀​原書は折相とし、秋濤が校改する。及び​ブライ​​不剌夷​国主自ら来朝してまみえた。秋濤案、元史 本紀は「​インド​​印度​国主と​ムライ​​木剌夷​国主が来朝した」と言う。​インド​​印度​はつまり​ヒンド​​忻都︀​である。​ブライ​​不剌夷​は元史 本紀に従って​ムライ​​木剌夷​とするのが正しいとすべき。この書は壬午年(1222年)四太子が西域を征伐したことを載せ、道は​ムライ​​木剌夷​国を経て、大いに掠めそして帰り、また​ムライ​​木剌夷​とするのは、証明できる。



〈史45-172下17庚寅春,遣軍將攻守京兆。金主以步騎五萬來援,敗還,其城尋拔

庚寅二年、宋紹定三年、金正大七年春、遣將攻守京兆。金主以步騎五萬來援、敗還。其城尋拔。秋七月、上與太上皇親征金國。發自闕郡隰過川、由宮山・鐵門關・平陽南下、渡河攻鳳翔。秋濤案、疑有脫誤。文田案、此鐵門關、似雁門關之誤。山西無此地名。葢緣上文西域鐵門關而妄改之耳。曾植案、宮山疑當作官山。金史地理志、西京大同府宣寗縣有官山。睿宗列傳、「〈[#底本では直前に「始めかぎ括弧」なし]〉辛卯太宗還官山、大會諸︀矦王」。

訳文 一四〇

庚寅(1230年)二年、宋 紹定 三年、金 正大 七年春、将を遣わして京兆を攻め守った。金主は歩兵と騎兵の五万で来て助け、破れて帰った。その城はまもなく攻め落とされた。秋七月、上〈[#「上」は太宗オゴデイを指す。以後すべて同じ]〉と太上皇は金国に親征した。​ケヂユンシゴ​​闕郡隰過​川を出発し、宮山より鉄門関・平陽を南に下り、河を渡って鳳翔を攻めた。秋濤案、おそらく抜けと誤りがある。文田案、この鉄門関は、雁門関の誤りのようである。山西はこの地名はない。おそらく前文の西域の鉄門関つまりこれをでたらめに改めたことにちなむだけであろう。曽植案、宮山はおそらく官山とすべき。金史 地理志では、西京 大同府 宣寧県に官山がある。睿宗列伝、「辛卯(1231年)に太宗が官山に帰り、諸侯と王が大集会を開いた」。



〈史45-172下20辛卯春二月,遂克鳳翔,又克洛陽、河中數處城邑而還,避暑于官山

〈東方學デジタル圖書館-101 辛卯三年、宋紹定四年、金正大八年。春二月、遂克鳳翔、又克洛陽・河中數處城邑而還。避暑︀於宮山。秋濤案、宮山當作官山。紀作九十九泉、當是一地。攷元一統志、官山在廢豐州東北一百五十里、上有九十九泉、流爲黑河、卽其地也。在今歸化城境內。北魏太祖︀紀、天賜三年八月丙辰、西登武要北原、觀九十九泉、卽此。然水經㶟水注、又謂「沮陽城東八十里、有牧牛山、下有九十九泉、山上有道武皇帝廟」。沮陽故城、在今宣化府懷來縣南、卽水經注所稱、乃嬀水上源也。疑北魏有兩九十九泉。北俗入山避暑︀、皆選名勝、不嫌兩地泉源、皆登臨之地。若元祖︀所幸、則爲歸化城之黑河無疑。文田案、元史西雷傳、出北口、住夏于官山。特薛禪傳、葬官人山。大率元人以居庸關外、今張家口之北、皆稱艸地、亦名官山也。金史地理志、西京路大同宣甯、遼宣德縣、有官山。宋徐霆黑韃事略、居庸關北、如官山・金蓮川等處、六月亦雪。大清一統志云「官山在毛明安旗西南七十里。崑都︀倫河、經官山、入吳喇忒界」。曾植案、山西通志、黑河發源大靑山九十九泉、經歸化城南、西流至脫脫城、伏流入於黃河。案大靑山、蒙古稱翁袞山、亦作翁觀、譯言神︀也。官山上有九十九泉。則卽是大靑山翁觀山。官觀對音字耳、 會諸︀王百官、分三道、征收金國、期於來年正月、畢集南京。是年秋八月十四日、至西京。秋濤案、西京仍金舊名。本紀云幸雲中、是也。執事之人、各執名位。兀都︀撒罕中書令、都︀原作相、秋濤校改。黏合重山右丞相、鎭海︀左丞相。〈東方學デジタル圖書館-102張石州曰「紀作以耶律楚材爲中書令、黏合重山爲左丞相、鎭海︀爲右丞相」。秋濤案、鎭海︀傳亦作右丞相。文田案、徐霆黑韃事略云「其相四人、曰案只䚟、黑韃人、曰移剌楚材、曰粘合重山、曰鎭海︀」。是當時實有四人、皆稱曰必澈澈、無相稱也。其云宰相者︀、後來翻譯而文其詞耳。宐乎左右無定也。必澈澈、卽畢且齊、或作必闍赤也。自此遣使撒哈塔 秋濤案、紀作撒禮塔。曾植案、征高麗者︀、祕史爲札剌赤兒歹豁兒赤〈[#「札剌赤兒歹」はママ。李文田十五卷本や四部叢刊本では「札剌亦兒台」]〉。與此撒哈塔火兒赤、葢一人也。史塔出傳、「蒙古札剌兒氏。父札剌台、歷事太祖︀憲宗」。火兒赤、征收高〈史45-173上1麗、克四十餘城還。冬十月初三日、上攻河中府、十二月初八日克之。時有西夏人速哥者︀、來吿黃河有白坡可渡。從其言。曾植案、火兒赤、祕史蒙語作豁里赤、撒哈台之官也。連上讀。又案、史一百廿四速哥傳、卽此速哥也。彼云蒙古怯烈氏〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉

訳文 一四〇-一四一

辛卯(1231年)三年、宋 紹定 四年、金 正大 八年。春二月、遂に鳳翔を取り、さらに洛陽と河中のいくつかのところの都市を取って帰った。宮山で避暑した。秋濤案、宮山を官山とする。紀は九十九泉とし、これは一つの地とすべき。元一統志を調べると、官山はかつての豊州の東北を一百五十里にあり、上に九十九泉があり、流れて黒河となり、つまりその地である。今は帰化城の境内にある。北魏 太祖紀は、天賜 三年(406年) 八月 丙辰、西に武要北原を登り、九十九泉が見え、つまりこれである。そして水経注という地理書の㶟水に関する注は、さらに「沮陽城を東に八十里に、牧牛山があり、下に九十九泉があり、山上には道武皇帝廟がある」と言う。沮陽故城は、今は宣化府 懐来県の南にあり、つまり水経注が称する所の、まさに嬀水の上流である。おそらく北魏はふたつの九十九泉があった。北の習俗では入山して避暑し、いずれも名勝を選び、ふたつの地が泉の源であることは疑いなく、いずれも登山して水に臨む地である。もしも元朝の皇帝が行幸するところであれば、帰化城の黒河で疑いない。文田案、元史 西雷伝、北口を出て、官山で夏を過ごした。特薛禅伝、〈[#子の​アンチン​​按陳​を]〉官人山に葬った。 たいていの元人は居庸関の外にあり、今の張家口の北で、いずれも草地と称し、また官山と名付けられたのである。金史地理志は、西京路の大同と宣甯、遼の宣徳県に、官山がある。宋の徐霆の黒韃事略は、居庸関の北、如官山・金蓮川などのところは、六月でも雪がある。大清一統志は「官山は毛明安旗の西南を七十里にある。​クンドルン​​崑都︀倫​河は、官山を経て、​ウラテ​​吳喇忒​の境界に入る」と言う。曽植案、山西通志は、黒河は大靑山九十九泉に源を発し、帰化城の南を経て、西に流れて​トト​​脫脫​城に至り、伏流は黄河に入る。大靑山を考えるに、モンゴルは​オングン​​翁袞​山と称し、また​オンガン​​翁觀​とし、訳は神を言うのである。官山の上に九十九泉がある。であればつまりこれは大靑山​オンガン​​翁觀​山である。官と観は対音の字というだけ、諸王百官を集め、三道に分け、金国を征伐して収め、来年正月を期限として、みな南京に集まった。この年の秋八月十四日に、西京に至った。秋濤案、西京はやはり金の旧名である。元史 本紀が雲中に行幸したと言うのは、これである。 人事を行い、それそれが官名と官位を司った。​ウドサハン​​兀都︀撒罕​は中書令に、都は原書では相、秋濤が校改する。​ヂヤンハ ヂヨンシヤン​​黏合 重山​は右丞相に、​チンハイ​​鎭海︀​は左丞相になった。張石州は「元史 紀は​エリユ チウツアイ​​耶律 楚材​を中書令とし、​ヂヤンハ ヂヨンシヤン​​黏合 重山​は左丞相とし、​チンハイ​​鎭海︀​は右丞相とする」と言う。秋濤案、​チンハイ​​鎭海︀​伝も右丞相とする。文田案、徐霆の黒韃事略は「その大臣四人は、​アンヂダイ​​案只䚟​と言い、黒韃人で、​イラ チウツアイ​​移剌 楚材​と言い、​ヂヤンハ ヂヨンシヤン​​粘合 重山​と言い、​チンハイ​​鎭海︀​と言う」と言う。この当時は実に四人があり、いずれも称して​ビチチ​​必澈澈​と言い、相という大臣の称はなかったのである。それが言う宰相は、将来の翻訳のような文の言葉だけである。左右を定めないのがふさわしいか。​ビチチ​​必澈澈​は、つまり​ビチエチ​​畢且齊​、あるいは​ビヂエチ​​必闍赤​とするのである。 ここより遣わして​サハタ​​撒哈塔​秋濤案、元史 紀は​サリタ​​撒禮塔​とする。曽植案、高麗を征服したのは、秘史は​ヂヤライルタイ ゴルチ​​札剌亦兒台 豁兒赤​とする。この​サハタ ホルチ​​撒哈塔 火兒赤​は、おそらく一人であろう。元史 ​タチユ​​塔出​伝、「​モング ヂヤラル​​蒙古 札剌兒​氏。父は​ヂヤラタイ​​札剌台​で、太祖から憲宗まで次々と仕えた」。​ホルチ​​火兒赤​に、高麗を征伐させて収め、四十余の城を取って帰った。冬十月初めの三日、上は河中府を攻め、十二月初めの八日にこれを取った。時に西夏人​スゲ​​速哥​という者があり、黄河は​バイポ​​白坡​で渡れると告げて来た。その言葉に従った。曽植案、​ホルチ​​火兒赤​は、秘史蒙語は​ゴリチ​​豁里赤​とし、​サハタイ​​撒哈台​の役人である。前とつなげて読む。又案、元史 一百廿四の​スゲ​​速哥​伝は、つまりこの​スゲ​​速哥​である。彼はモンゴルの​ケレイ​​怯烈​氏と言う。



〈史45-173上4壬辰春正月初六日,大兵畢渡,及獲漢船七百餘艘

壬辰四年、宋紹定五年、金正大九年。春正月初六日、大兵畢渡、及獲漢︀船七百餘艘。太上皇遣將貴由、來報集軍兵等、已渡漢︀江。上亦遣使於太上皇、曰「汝等與敵戰日久。秋濤案、翁本敵下有速字。今不取。可來合戰」。上於正月十三日至鄭州。守城馬提控者︀以城降。秋濤案、本紀作馬伯堅。太上皇旣渡漢︀水、有金大將哈荅秋濤案、金史元史、倶作合達。〈東方學デジタル圖書館-103麾下欽察者︀逃來、吿哈荅伏兵於鄧西隘截等候。太上皇是夜會兵明燭而進。哈荅移剌聞知、入鄧以避其鋒。太上皇正月十五日至鈞州、雪作。〈底本-408 上遣大王口溫不花國王荅思、將軍兵至。十六日、雪又大作。是日與哈荅移剌合戰於三峰山、大敗之、遂擒移剌。十七日、上行視︀戰所嘉之。原作佳、秋濤校改。二十一日、克鈞州。哈荅匿於地穴、亦擒之。又克昌州漷州嵩州曹州陝州洛陽濬州武州易州鄧州應州壽州遂州禁州等來降。秋濤案、本紀云「遂下商・號・嵩・汝・陝・洛・許・鄭・陳・毫・穎・壽・睢・永等州縣」、與此多異。攷金時、河南無昌・漷・易・應・遂・禁等州。疑昌漷卽商號之音譌、應卽穎之音譌、遂卽唯之音譌、禁卽永之音譌、餘未詳也。上月、上至南京、令忽都︀忽攻之、上與太上皇北渡河、避暑︀於官山。秋濤案、紀云「夏四月、出居庸關、避暑︀官山」。速不歹拔都︀・都︀原作相、秋濤校改。惑水歹火兒赤・貴由拔都︀・塔曾植案、塔下有脫字、當是塔察兒火兒赤也。等、適遇金遣荆王守仁之子曹王入質我軍、遂退、留速不台拔都︀、以兵三萬鎭守河南。〈東方學デジタル圖書館-104秋七月、上遣唐慶使金促降、因被殺︀。八月、金之參政完顏忠烈張石州曰「紀作思列」。曾植案、惑水當作忒木。食貨志有忒木台駙馬、又有忒木台行省。不知忒木歹火兒赤是何人也。又案、行省之忒木台在憲宗時。此自當此公主表之闕名公主適忒木歹駙馬者︀也。又案、經世大典馬政篇(在永樂大典中)太宗十年戊戌、驗天下戶科、定馬匹、東平府路、訛可曹王撥訖新戶一十戶、次査剌溫火兒赤回回大師之下、則曹王、金亾之後、猶得保其爵祿也。元初撥給民戶、惟宗親勳舊有之。訛可無功於時、而王封不改。豈其後得尙主與。恆山公武仙、將兵二十萬、會於南京、至鄭州西合戰。是年、高麗王復叛。再命撒兒荅火兒赤原作大兒亦、秋濤校改。征收。九月、南京城中倉廩倶竭。金主帥兵六萬、北渡河、欲復東平・新衞二城。我軍逐北。潰散存〈史45-173下1千餘人、逐北原作遂北。張石州疑有脫誤。秋濤案、當作逐北。通世案、姚士達刊本、存作尙。原本葢有尙存二字、姚本脫存字、此本脫尙字也復渡河北。

訳文 一四一-一四三

壬辰(1232年)四年、宋 紹定 五年、金 正大 九年。春正月初めの六日、大兵は渡り終るとともに、漢船七百余艘を捕らえた。太上皇は将​グイユ​​貴由​を遣わし、軍兵らが集まったことを知らせに来させ、漢江を渡り終えた。上はまた太上皇に使いを遣わし、「お前たちは敵と戦って日が長い。秋濤案、翁本は敵の下に速の字がある。今は取り上げない。合戦に来るべきである」と言った。上は正月十三日に鄭州に至った。城を守る​マチコン​​馬提控​という者は城を率いて降った。秋濤案、元史 本紀は​マボヂアン​​馬伯堅​とする。太上皇は漢水を渡り終え、金の大将​ハダ​​哈荅​秋濤案、金史と元史、ともに​カダ​​合達​とする。麾下の​キムチヤ​​欽察​の者で逃げて来たのがいて、​ハダ​​哈荅​が鄧州の西の狭間に兵を伏せて遮ることなどを伺っていると告げたことがあった。太上皇はそこで夜に兵を集めて燭で明るくして進んだ。​ハダ​​哈荅​​イラ​​移剌​は知られたと聞き、鄧州に入りその鋒を避けた。太上皇は正月十五日に鈞州に至り、雪が降った。〈底本-408 上は大王​クウン ブハ​​口溫 不花​と国王​ダス​​荅思​を遣わして、軍兵を率いさせて至らせた。十六日、雪がまた大いに降った。この日に​ハダ​​哈荅​​イラ​​移剌​と三峰山で合戦し、大いにこれを破り、そのまま​イラ​​移剌​を捕らえた。十七日、上は戦場を見に行きこれを褒めた。原書では佳、秋濤が校改する。二十一日、鈞州を取った。​ハダ​​哈荅​は地面の穴に潜んでいたのを、やはりこれを捕まえた。また昌州を取り潡州 嵩州 曹州 陝州 洛陽 濬州 武州 易州 鄧州 応州 寿州 遂州 禁州などが来て降った。秋濤案、元史 本紀は「そのまま商・号・嵩・汝・陝・洛・許・鄭・陳・毫・穎・寿・睢・永などの州県を下した」と言い、これと多くが異なる。金の時代を調べると、河南は昌・漷・易・応・遂・禁などの州はなかった。おそらく昌と漷は商と号の音の誤りで、応は穎の音の誤りで、遂は唯の音の誤りで、禁は永の音の譌りで、残りはまだ詳しくわからない。先月、上は南京に至り、​フドフ​​忽都︀忽​にこれを攻めさせ、上と太上皇は北に河を渡り、官山で避暑した。秋濤案、元史 紀は「夏四月、居庸関を出て、官山で避暑した」と言う。 ​スブダイ バード​​速不歹 拔都︀​都は原書では相、秋濤が校改する。​ヲシユイダイ ホルチ​​惑水歹 火兒赤​​グイユ バード​​貴由 拔都︀​・塔曽植案、塔の下に脱字があり、これは​タチヤル ホルチ​​塔察兒 火兒赤​とすべきである。などが、まさに金が荆王守仁の子曹王を我軍へ質に入れに遣わすのに出会い、そのまま退き、​スブタイ バード​​速不台 拔都︀​を留め、兵三万で河南を鎮め守った。秋七月、上は唐慶を遣わして金に降伏を促しに使いさせ、そこで殺された。八月、金の参政​ワンヤン ヂヨンレ​​完顏 忠烈​張石州は「元史 紀は​スレ​​思列​とする」と言う。曽植案、惑水を忒木とすべき。食貨志に​テムタイ​​忒木台​駙馬とあり、また​テムタイ​​忒木台​行省とある。​テムタイ ホルチ​​忒木歹 火兒赤​が誰なのかわからない。又案、行省の​テムタイ​​忒木台​は憲宗の時にいた。これは元史 公主表で名の欠けた公主が嫁いだ​テムダイ​​忒木歹​駙馬とすべきである。又案、経世大典の馬政篇(永楽大典の中にある)太宗 十年 戊戌(1238年)、国全体の住民と租税を調べ、馬を整え、東平府路は、​エケ​​訛可​曹王が新戸一十戸を納め終え、ついで​チヤラウン ホルチ​​査剌溫 火兒赤​​フイフイ​​回回​大師の降伏があり、曹王は、金が滅んだ後、なおもその爵禄を保ち得たのである。元の初めに民戸を支給したのは、ただ同族の手柄のある古い家だけであった。​エケ​​訛可​はその時に功がなく、王の領土は改まらなかった。どうしてその後に公主を娶ることができるのか。 と恒山公武仙は、兵二十万を率いて、南京に集まり、鄭州の西に至って合戦した。この年、高麗王が再び叛いた。再び​サルダ ホルチ​​撒兒荅 火兒赤​に命じて原書では大児亦とし、秋濤が校改する。征伐して収めた。九月、南京城中の穀物倉庫がみな尽きた。金主は兵六万を率いて、北に河を渡り、東平・新衛の二城を取り戻そうとした。我が軍は北に追いかけた。軍が潰えて散り散りになって千余人を保ち、逐北は原書では遂北。張石州は脱誤があると疑う。秋濤案、逐北とするべき。通世案、姚士達の刊本では、存は尚とする。原書はおそらく尚と存の二字があり、姚本は存の字が抜け、この本は尚の字が抜けたのである再び北に河を渡った。



〈史45-173下2癸巳春正月二十三日,金主出南京,入歸德

癸巳五年。宋紹定六年、金正大十年。春正月二十三日、金主出南京、入歸德。金人崔立、遂殺︀南京留守參政二人、開門詣速不台拔都︀降。四月、速不台拔都︀至靑城。崔立又將金主母后太子二人曁諸︀族人來獻。遂入南京。六月、金主出歸德府、入蔡州。原作八察、無州字、秋濤校改。塔察兒火兒赤統大軍圍守。是月十日、遣人入城催降、勿應。四面築城攻之。八月、別遣案脫等、抄籍漢︀民七十三萬有奇。十一月、南宋遣太尉孟珙等、領兵五萬、運糧三十萬〈東方學デジタル圖書館-105石、至蔡來助、分兵南面攻之。金人擧沂・萊・海︀・維原闕此字。張石州據翁本增。秋濤案、本紀當作濰。文田案、孟珙有蒙韃備錄、撰於此時也。曾植案、案脫、元史太宗紀作阿同葛。又案、案脫、元史前與不兀剌同使乞里吉思之案彈、史公主表之阿昔倫公主適阿脫駙馬、是也。又案、中堂事紀、火赤達剌罕大名府民戶五百餘、斷事官案脫定下與民體當差、卽案脫抄籍漢︀民事也。等州來降。

訳文 一四三

癸巳(1233年)五年。宋 紹定 六年、金 正大 十年。春 正月 二十三日、金主は南京を出て、帰徳に入った。金人​ツイリ​​崔立​は、南京留守参政の二人を殺し尽くし、門を開き​スブタイ バード​​速不台 拔都︀​に行って降った。四月、​スブタイ バード​​速不台 拔都︀​は靑城に至った。​ツイリ​​崔立​はまた金主の母后と太子二人とともに諸族人を率いて来て献じた。そのまま南京に入った。六月、金主は帰徳府を出て、蔡州に入った。原書では八察で、州の字がなく、秋濤が校改する。​タチヤル ホルチ​​塔察兒 火兒赤​は大軍を統率して守りを囲んだ。この月の十日、人を遣わして城に入らせて降伏を促し、応じなかった。四面に城を築いてこれを攻めた。八月、一方で​アント​​案脫​らを遣わして、漢民七十三万あまりの戸籍を書き写した。十一月、南宋は太尉の孟珙らを遣わし、兵五万を率いて、食糧三十万石を運び、蔡州に至り来て助け、兵を南面に分けてこれを攻めた。金人は沂・萊・海・維原書では此の字が欠けている。張石州が翁本に拠って増やす。秋濤案、元史 本紀は濰とすべき。文田案、孟珙は蒙韃備録にあり、この時に遣わしたのである。曽植案、​アント​​案脫​は、元史 太宗紀は​アトンゲ​​阿同葛​とする。又案、​アント​​案脫​は、元史で前に​ブウラ​​不兀剌​と同じく​キリギス​​乞里吉思​に使いをした​アンタン​​案彈​であり、元史 公主表の​アシルン​​阿昔倫​公主が嫁いだ​アト​​阿脫​駙馬、これである。又案、中堂事紀は、​ホチダラハン​​火赤達剌罕​の大名府の民戸は五百余で、断事官​アント​​案脫​が定めて下した民と劣って食い違っているのは、つまり​アント​​案脫​が漢民の戸籍を書き写した事である。等州を挙げて来て降った。



〈史45-173下11甲午春正月十日,塔察兒火兒赤急攻,蔡城危逼,金主傳位于族人承麟,遂縊焚而死

甲午六年、宋理宗端平元年。是歲金亾。春正月十日、正字原闕、秋濤據本紀增。塔察兒火兒赤攻蔡城危逼。金主傳位於族人承麟、遂縊焚而死。我軍入蔡、獲承麟殺︀之。金主遺體、南人爭取而逃。平金之事如此。是年五月、於荅蘭荅八思始建行宮、大會諸︀王百官、宣布憲章。是年、羣臣奏曰「南宋雖稱和好、反殺︀我使、原作死、注曰「音使」。秋濤案、死當作使。「音使」二字、後人〈底本-409 妄加。此明明錯誤、而後人不能是正。亦足證前後抵牾處多由傳寫譌謬也。文田案、殺︀使謂搠不罕也、辛卯、元太宗遣使宋。宋沔州統制張宣殺︀之。見耶律鑄雙溪醉隱集。侵犯我邊。奉揚天命、往征其辜」。又遣忽都︀原作相、秋濤校改、卽忽都︀虎也。忽、主治漢︀民、別遣塔海︀紺孛征蜀。

訳文 一四三-一四四

甲午(1234年)六年、宋 理宗 端平 元年。この年に金は滅んだ。春 正月 十日、正の字が原書で欠けており、秋濤が元史 本紀に拠って増やす。​タチヤル ホルチ​​塔察兒 火兒赤​は蔡城を攻めて危機が迫った。金主は一族の承麟に位を継がせ、そのまま首をくくって火をかけて死んだ。我が軍が蔡州に入り、承麟を捕らえてこれを殺した。金主の遺体は、南人が争い取って逃げた。金を平らげた事はこのようであった。この年の五月、​ダランダバス​​荅蘭荅八思​​あんぐう​​行宮​の建設が始まり、諸王百官が大いに集まり、憲章を宣布した。この年、羣臣は奏して「南宋は仲よくすると称しながら、反して我が使いを殺し、原書は死とし、注は「音使」と言う。秋濤案、死を使とすべき。「音使」の二字は、後の人が〈底本-409みだりに加えた。これは大変はっきりとした錯誤であり、そして後の人はこれを正しいとできなかった。また前後の食い違いが多くやはり伝写の誤りであることは証明に足りる。文田案、使いを殺したというのは​シユブカン​​搠不罕​であり、辛卯(1231年)、元太宗は使いを宋に遣わした。宋の沔州統制の張宣はこれを殺した。耶律鋳の双渓酔隠集で見える。我が付近を侵犯した。天命を奉り揚げ、その罪を征伐しよう」と言った。また​フド​​忽都︀​原書では相とし、秋濤が校改し、つまり​フドフ​​忽都︀虎​である。​フ​​忽​を遣わし、漢民を治めることを司り、別に​タハイ ガンボ​​塔海︀ 紺孛​を遣わして蜀を征伐させた。



〈史45-173下18乙未,建和林城宮殿。夏,遣曲出、忽相都籍到漢民一百一十一萬有奇,遂分賜諸王城邑各有差

乙未七年、宋端平二年。〈東方學デジタル圖書館-106建和林城宮殿。秋濤案、本紀云「春、城和林、作萬安宮」。湛然居士集、有和林城建行宮上梁文、繫於乙未年三月祭姪女文之後也。鳳鑣案、耶律鑄雙溪集凱樂歌詞曲、有取和林詩、注曰「和林城苾伽可汗之故地也。歲乙未、聖朝太宗皇帝城此、起萬安宮。城西北七十里、有苾伽可汗宮城遺址。城東北七十里、有唐明皇開元壬申御製御書闕特勤碑。案唐史突︀厥傳、闕特勤、骨咄祿可汗之子、苾伽可汗之弟也。名闕。可汗之子弟、謂之特勤。開元十九年、闕特勤卒。詔金吾將軍張去逸︀、都︀官郞中呂向、齎璽書、使北弔祭、幷爲立碑、上自爲文。別立祠廟、刻石爲像。其像迄今存焉。其碑額及碑文、特勤皆是殷勤之勤字。唐新舊史、凡書特勤、皆作銜勒之勒字、誤也。諸︀突︀厥部之遺俗、猶呼其可汗之子弟爲特勤特謹︀字也。則與碑文符矣。碑云「特勤、苾伽可汗之令弟也。可汗猶朕之子也」。唐新舊史、竝作毗伽可汗。勤苾二字、當以碑文爲正」。案雙溪此注、辨論頗詳。故備錄之、以資攷證。夏、遣曲出忽相都︀籍到漢︀民一百二十萬有奇。遂分賜諸︀王城邑、各有差。秋濤案、忽相都︀據耶律楚材傳、當作忽都︀虎。本紀、乙未遣皇子曲出胡土虎伐宋、不言籍漢︀民事。丙申夏六月、復括中州戶口、得續戶一百一十餘萬。秋七月、詔以眞定民戶、奉太后湯沐、中原諸︀州民戶、分賜諸︀王貴戚、當卽此事、而本紀屬之次年也〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉

訳文 一四四-1

乙未(1235年)七年、宋 端平 二年。​ホリム​​和林​城宮殿を建てた。秋濤案、元史 本紀は「春、​ホリム​​和林​を築き、万安宮を作った」と言う。湛然居士集に、​ホリム​​和林​城で行宮を建てた棟上げの文があり、乙未年(1235年)三月の姪を弔う文の後に繋がるのである。鳳鑣案、耶律鋳の双渓酔隠集の凱楽歌詞曲に、​ホリム​​和林​を題材にした詩があり、注は「​ホリム​​和林​城は​ビチエ カガン​​苾伽 可汗​の故地である。歳乙未(1235年)、聖朝太宗皇帝はここに築いて、万安宮を起こした。城の西北七十里に、​ビチエ カガン​​苾伽 可汗​宮城の遺址がある。城の東北七十里に、唐明皇 開元 壬申(741年) 御製御書 ​チユエ テキン​​闕 特勤​碑がある。唐史 突厥伝を調べると、​チユエ テキン​​闕 特勤​は、​グドル カガン​​骨咄祿 可汗​の子で、​ビチエ カガン​​苾伽 可汗​の弟である。名は​チユエ​​闕​​カガン​​可汗​の子弟は、これを​テキン​​特勤​と言う。開元 十九年(731年)、​チユエ テキン​​闕 特勤​は亡くなった。金吾将軍の張去逸と、都官郎中の呂向に命じて、詔書を持って行かせ、北に弔祭に使いさせ、並びに碑を立てさせ、上自ら文を作った。別に祠廟を立て、石を刻んで像を作った。その像は今でもある。その碑の額及び碑文は、​テキン​​特勤​がいずれも殷勤の勤の字である。唐新旧史は、すべて特勤と書き、いずれも銜勒の勒の字とするのは、誤りである。諸突厥部の遺俗は、なおその​カガン​​可汗​の子弟を​テキン​​特勤​​テヂン​​特謹︀​という​あざな​​字​で呼ぶのである。であれば碑文と合う。碑は「​テキン​​特勤​は、​ビチエ カガン​​苾伽 可汗​の令弟である。​カガン​​可汗​は朕の子のようなものである」と言う。唐新旧史は、並びに​ピチエ カガン​​毗伽 可汗​とする。勤と苾の二字は、碑文が正しいとすべきである」と言う。 双渓酔隠集のこの注を考えると、弁論がすこぶる詳しい。よってこれを記し備えることは、証明を考えるのに役立つ。夏、​クチユ フシヤンド​​曲出 忽相都︀​を遣わして漢民一百二十万あまりに到る戸籍を記した。そのまま諸王に都市を分け与え、それぞれ遣わすことがあった。秋濤案、​フシヤンド​​忽相都︀​​エリユ チウツアイ​​耶律 楚材​伝に拠って、​フドフ​​忽都︀虎​とすべき。元史 本紀は、乙未(1235年)に皇子​クチユ フトフ​​曲出 胡土虎​を遣わして宋を征伐し、漢民の戸籍の事は言わない。丙申(1236年)夏六月、再び中州の戸口を取り締まり、続けて戸一百一十余万を得た。秋七月、真定の民戸を、太后が湯沐する場所として奉じ、中原諸州の民戸を、諸王や王族の親戚に分け与える命令があり、つまりこの事に当たり、そして元史 本紀はこれを次の年に寄せたのである。



〈史45-173下20丙申,大慶和林城宮。冬十一月,赤曲、闕端等克西川

丙申八年、宋端平三年。入慶和林城宮。秋濤案、本紀、丙申春正月、諸︀王各治具來會、宴萬安宮落成。冬十二月、赤曲秋濤案、疑亦人名。文田案、赤曲者︀、卽祕史之曲出。曾植案、赤曲、卽太宗紀之曲出、黑韃事略作屈朮。□說誤。此赤駒駙馬也。・闊端原作關端、秋濤據本紀改。〈東方學デジタル圖書館-107等克西川。

訳文 一四四-2

丙申(1236年)八年、宋 端平 三年。​ホリム​​和林​城宮に入って祝った。秋濤案、元史 本紀、丙申(1236年)春正月に、諸王はそれぞれ接待の準備をして集まって来て、万安宮の落成を楽しんだ。冬十二月、​チチユ​​赤曲​秋濤案、おそらくやはり人名であろう。文田案、​チチユ​​赤曲​は、つまり秘史の​クチユ​​曲出​である。曽植案、​チチユ​​赤曲​は、つまり元史 太宗紀の​クチユ​​曲出​であり、黒韃事略は​クチユ​​屈朮​とする。□の意見は誤りである。これは​チグ​​赤駒​駙馬である。​コドン​​闊端​原書は関端とし、秋濤が元史 本紀に拠って改める。などが西川を取った。



〈史45-173下21丁酉夏四月,築掃隣城。秋八月,試漢儒選擢除本貫職位

丁酉九年、宋理宗嘉熙元年。夏四月、築掃鄰城。秋濤案、本紀「夏四月、築掃鄰城、作迦堅察寒殿」。元史類︀編云「在和林北七十餘里」。文田案、輟耕錄、掃鄰者︀、宮門外院官會集處也。曾植案、山居新話云「內八府宰相寄位於翰林院官掃鄰」。注云「卽宮門會集處也」。秋八月、仿漢︀儒選擢、除本貫職位。秋濤案、本紀八月命木虎乃劉中式諸︀路儒士中選者︀、除本貫議事官、得四千三十人。此書於他政務不盡載。獨記此者︀、記太宗崇儒、所以肇世祖︀之興也〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉

訳文 一四四-一四五

丁酉(1237年)九年、宋 理宗 嘉熙 元年。夏四月、​サオリン​​掃鄰​城を築いた。秋濤案、元史 本紀「夏四月、​サオリン​​掃鄰​城を築き、​カヂアンチヤハン​​迦堅察寒​殿を作った」。元史類編は「​ホリム​​和林​の北七十余里にある」と言う。文田案、輟耕録では、​サオリン​​掃鄰​は、宮門外院官が集まるところである。曽植案、山居新話は「内八府宰相は翰林院官の​サオリン​​掃鄰​に集まって居場所とした」と言う。注は「つまり宮門の集まるところである」と言う。秋八月、漢儒の選擢を真似て、本貫の職位に就かせた。秋濤案、元史 本紀には八月に​ムフナイ​​木虎乃​と劉中に命じて諸路の儒士を試験して選び、本貫議事官に就かせ、四千三十人を得たとある。この書は他の政務をことごとく載せていない。ただこれを記したものは、太宗が儒を崇めたと記すだけで、それゆえ始まりは世祖が盛んにしたこととするのである。



〈史45-173下23戊戌夏,築禿思兒忽城

戊戌夏、築禿思兒城十年、宋嘉熙二年。秋濤案、本紀云「作圖蘇湖城、築迎駕殿」。圖蘇湖、疑卽禿思兒也。元史類︀編云「去和林三十餘里」。文田案、禿思兒、卽朔漠圖之禿忽思城也。禿忽思、卽圖蘇湖三字之對音、華言涼也。耶律鑄與太宗后有連。后以姪女嫁鑄、生耶律希亮於涼樓中。故名曰涼。涼亮音轉、故改希亮。蒙古語名曰禿忽思。義見希亮傳中也。曾植案廣輿記朔漠圖、有禿思忽嶺、有禿思忽涼樓、均在哈喇和林河之南、卽圖蘇湖城也。今皇輿圖、朱爾馬台河之、南、有達爾湖喀喇巴爾哈孫、疑卽是其遺址。喀喇巴爾哈孫者︀、蒙古語黑城之謂。凡蒙人於廢城故址、大都︀以黑城名之。達爾湖與圖蘇湖、則舊語流傳、音詞微變。獨可據其地望準之。對音譯義、不必皆能密合矣又。案、祕史蒙文語解、圖思正主也。

訳文 一四五-1

戊戌(1238年)夏、​トスル​​禿思兒​城を築き十年、宋 嘉熙 二年。秋濤案、元史 本紀は「​トスフ​​圖蘇湖​城を作り、迎駕殿を築いた」と言う。​トスフ​​圖蘇湖​は、おそらくつまり​トスル​​禿思兒​であろう。元史類編は「​ホリム​​和林​を行くこと三十余里」と言う。文田案、​トスル​​禿思兒​は、つまり元史類編の朔漠図の​トフス​​禿忽思​城である。​トフス​​禿忽思​は、つまり​トスフ​​圖蘇湖​三字の対音であり、中国語で言う涼しいである。耶律鋳と太宗后が関わる。后は姪を鋳に嫁がせ、涼楼の中で​エリユ ヒリヤン​​耶律 希亮​を生んだ。よって名は涼と言う。涼と亮の音が転訛し、ゆえに​ヒリヤン​​希亮​と改めた。モンゴル語の名は​トフス​​禿忽思​と言う。意味は元史 希亮伝の中で見える。 曽植案 広輿記の朔漠図は、​トスフ​​禿思忽​嶺があり、​トスフ​​禿思忽​涼楼があり、ともに​ハラホリン​​哈喇和林​河の南にあり、つまり​トスフ​​圖蘇湖​城である。今の皇輿図は、​ヂユルマタイ​​朱爾馬台​河の、南に、​ダルフ ハラバルハスン​​達爾湖喀喇巴爾哈孫​があり、おそらくつまりこれがその遺址であろう。​ハラバルハスン​​喀喇巴爾哈孫​は、モンゴル語で黒い城を言う。おおむねモンゴル人は廃城故址において、大きな町は黒城の名をこれに用いる。​ダルフ​​達爾湖​​トスフ​​圖蘇湖​は、古い言葉が世間に広まったもので、音と言葉はかすかに変わっている。ただその地が望む目安に拠るべきである。対音と訳義は、必ずしもまたみな近く合ってはいない。考えるに、秘史蒙文の語を解くと、​トス​​圖思​は正主である。



〈史45-173下24己亥

己亥。十一年、宋嘉熙三年。

訳文 一四五-2

己亥(1239年)。十一年、宋 嘉熙 三年。



〈史45-174上1庚子春正月,命暗都剌合蠻主漢民財賦

庚子十二年、宋嘉熙四年。春正月、命暗都︀剌蠻張石州曰「元史太宗紀、作奧都︀剌合蠻」。 主漢︀民財賦。秋濤案、先是漢︀民財賦、皆耶律楚材晉卿主之。今以命暗都︀剌蠻者︀、葢太宗晩年惑於言利之臣、晉卿漸見疏外故也。元史類︀編云「初楚材定課額、歲止五十萬兩。及河南降、戶口滋息、增至一百餘萬。至是回鶻人奧都︀剌合蠻請以二百二十萬兩撲買之。楚材極諫、至聲色倶厲、言與涕俱。帝曰「汝欲搏鬭耶。又欲爲百姓哭耶。姑試行之」。楚材不能奪、歎曰「民之窮困、將自此始矣」」〈[#底本では直前に二つ目の「終わりかぎ括弧」なし]〉

訳文 一四五-3

庚子(1240年)十二年、宋 嘉熙 四年。春正月、​アンドラマン​​暗都︀剌蠻​に命じて張石州は「元史 太宗紀は、​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​とする」と言う。漢民の財産取り立てを司らせた。秋濤案、先にこの漢民の財産取り立ては、いずれも耶律楚材晋卿がこれを司った。今​アンドラマン​​暗都︀剌蠻​に命じたのは、おそらく太宗が晩年に利をもたらす家臣の言葉に惑い、晋卿が次第に疏外されるのが明らかになったからである。元史類編は「初め​チウツアイ​​楚材​は割り当てる額を定めて、年に五十万両にとどめた。河南が降るに及び、戸口は増えて盛んになり、増えて一百余万に至った。ここに至って​フイフ​​回鶻​​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​は二百二十万両の物品税を請うた。​チウツアイ​​楚材​ははなはだ諫め、声色がともに激しくなるに至り、語るとともに涙がともなった。帝は「お前は格闘したいのか。さらに民衆を泣かせたいのか。しばらくこれを試行する」と言った。​チウツアイ​​楚材​は失効させることができず、嘆いて「民の困窮は、まさにこれより始まらんとするか」と言った」と言う。



〈史45-174上2辛丑春,高麗王遣姪子入貢。冬十月,命牙老瓦赤主管漢民

辛丑十三年、宋理宗清祐︀元年。春、高麗王遣子弟入貢。冬十月、命牙老瓦赤主管漢︀民公事。秋濤案、主管原作王營、不可解。元史太宗紀作羊管。今案、當作主管。其漢︀民下、原脫公事二字。今依本紀補之。己丑年云「河北先附漢︀民賦調、命兀都︀撒罕主之、西域賦調、命牙魯瓦赤主之」、當卽此牙老瓦赤也。一作牙剌瓦赤。以其工於治財賦、故命之、兼掌漢︀民公事云爾。又案、姚樞傳云「歲辛丑、牙老瓦赤行省事於燕京、主管漢︀民公事、以樞爲行省郞中。牙老瓦赤惟事貨賂、以樞爲幕長分致之。樞拒絕、因辭職去、攜家之輝州蘇門山、讀書鳴琴、若將終身。世祖︀爲太弟時、遣趙璧召之至、待以客禮」。邵戒山曰「姚牧菴集載姚樞神︀道碑云「上遣趙璧、驛至彰德。璧恐樞避去、獨至輝、以過客見、審其爲樞、始致見徵意。樞恐使者︀誤徵、不敢應。璧曰「君非棄牙〈東方學デジタル圖書館-108老瓦赤隱此者︀乎」。曰「然。」乃偕往彰德受命」」。十一月初七日、秋濤案、此下有脫文。地名月惑哥忽聞、秋濤案、聞當作闌。元史云「帝大獵五日、還至鈋鐵𨬕胡蘭山」。今改作烏特古呼蘭、〈底本-410 卽此地也。方輿紀要云「地在和林東北」。文田案、惑當作忒病、次日崩。秋濤案、元史太宗紀云「庚寅、奧都︀剌合蠻進酒、歡飮極夜乃罷。辛卯、遲明崩於行殿」詳繹史記進酒一尊、葢以太宗疏耶律晉卿、而專信西域言利之臣、如奧都︀剌合蠻、於庚寅進酒、而辛卯帝卽暴崩、深有可疑、故詳著︀之。惜此書闕脫。無可證其端末也。元史類︀編、但云進酒歡飮、而删奧都︀剌合蠻之名、則失史氏別嫌明微之意矣。以此書與本紀月日相證、知初七日爲庚寅、是月朔當爲甲申、而錢氏侗四史朔閏攷未載、可補其闕。壽五十六、原本壽下衍至字。秋濤校删。在位一十三年。原作一十二年。秋濤依本紀校改。


校正增注元親征錄

訳文 一四五-一四六

辛丑(1241年)十三年、宋 理宗 清祐 元年。春、高麗王が子弟を遣わして入貢した。冬十月、​ヤラワチ​​牙老瓦赤​に命じて漢民の公事を統率させた。秋濤案、主管は原書では王営とあり、不可解である。元史 太宗紀は羊管とする。今 考えるに、主管とするべき。その漢民の下、原書は公事の二字が抜けている。今 元史 本紀に拠ってこれを補う。己丑年(1229年)は「河北はまず漢民の財産取り立てを実施し、​ウドサハン​​兀都︀撒罕​に命じてこれを司らせ、西域の財産取り立ては、​ヤルワチ​​牙魯瓦赤​に命じてこれを司らせた」と言い、つまりこの​ヤラワチ​​牙老瓦赤​とすべきである。ほかに​ヤラワチ​​牙剌瓦赤​とする。財産取り立てを治めるの上手かったので、よってこれに命じて、漢民の公事を司ることを兼ねたと言うだけである。 又案、姚枢伝は「歳辛丑(1241年)、​ヤラワチ​​牙老瓦赤​行省事は燕京で、漢民の公事を統率し、姚枢を行省郎中にした。​ヤラワチ​​牙老瓦赤​はただ贈り物に努め、姚枢を幕長にしてこれを分けてつかわした。姚枢は拒絶し、ついでに職を辞して去り、家族を携えて輝州蘇門山に行き、書を読み琴を鳴らし、まさに命を終えようとするかのようであった。世祖が皇帝の弟となった時、趙璧を遣わしてこれを呼び寄せるに至り、客として待遇するかのように待った」と言う。邵遠平は「姚燧が牧菴集に載せる姚枢神道碑は「上は趙壁を遣わし、早馬が彰徳に至った。趙璧は姚枢がはばかって避けるのを恐れ、ただ輝州に至り、旅人が会ったことをもって、それが姚枢であるとわかり、初めて会って召し出す意志を伝えた。姚枢は使者が誤って懲らしめるのを恐れて、応えることができなかった。璧は「君は​ヤラワチ​​牙老瓦赤​を棄ててここに隠れた者ではないか」と言った。「そのとおり。」と言いようやく一緒に彰徳に行って命令を受けた」と言う」と言う。十一月初めの七日、秋濤案、この下に脱文がある。​ユフオゲフヱン​​月惑哥忽聞​という名の地で、秋濤案、聞は闌とすべき。元史は「帝は大いに狩りをすること五日、帰って​エテグフラン​​鈋鐵𨬕胡蘭​山に至った」と言う。今改めて​ウテグフラン​​烏特古呼蘭​とし、〈底本-410つまりこの地である。 方輿紀要は「​ホリム​​和林​の東北にある地」と言う。文田案、惑は忒とすべき病いにあり、次の日に亡くなった。秋濤案、元史 太宗紀は「庚寅、​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​が酒を進め、楽しく飲んで徹夜してようやく止めた。辛卯、明け方に行殿で亡くなった」詳しく史や記を探すと酒一樽を進めたのは、おそらく太宗が耶律晋卿を疎んじ、そしてひたすら利をもたらす、​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​のような西域の家臣を信じ、庚寅に酒を進め、そして辛卯に帝がすぐにたちまち亡くなり、はなはだ疑うべきものがあり、よって詳しくこれを著した。この書が欠落しているのが惜しまれる。その最初から終わりまでを明らかにできない。元史類編は、ただ酒を進めて楽しく飲んだと言い、そして​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​の名を削り、とすれば隠す意図が明らかになるのを嫌がった史官の過ちか。この書と元史 本紀の月日が互いに証明になり、初めの七日を庚寅とするのを知り、その月の一日を甲申とし、そして銭侗氏が増補した四史朔閏攷が載せなかったことは、その欠けを補うことができる。年は五十六、原書は寿の下に余分な至の字があり秋濤が校正して削る。在位一十三年。原書では一十二年。秋濤が元史 本紀に拠って校改する。





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