〈史45-162下5上時居塔刴速之野,有克烈部王可汗弟札阿紺孛來歸

〈底本-346 上時居塔朵剌之野、有克烈部汪罕可汗通世案、罕字恐衍。下同。弟札阿紺孛來歸。秋濤案、祕史云「成吉思在帖兒速地面、有客列亦種人札合敢不來降」。札合敢不、卽此札阿紺孛也。通世案、下文太祖︀責王汗語中、有塔剌速野、祕史蒙文作忽兒班帖列速惕、伯哷津作忽兒奔塔剌速特。在克烈部境內。卽此帖兒速地也。朵剌二字、疑倒置、且有譌字。札阿紺孛、朮赤台傳作札哈堅普、伯哷津作札罕不、曰「札罕不本名乞諫。幼時爲唐古特所獲、受封而得是稱。人遂呼以爲名」。洪氏曰「此節︀、華書所無。札罕不、卽唐書吐蕃傳之贊博二音。較諸︀史錄祕史諸︀音、尤爲得眞」。適蔑里乞部、通世案、祕史作篾兒乞惕。居色楞格河邊。與我會戰。上與札阿紺孛迎敵之。其衆敗走。 通世案、下文太祖︀語中云「札阿紺孛居漢︀塞、聞我招、遠來投歸。我乃登山而望。又爲蔑力乞所逼云云」。則是太祖︀招札阿紺孛、而蔑里乞妨其來歸、故太祖︀自至帖兒速地、逐蔑里乞、而救之也。是時有土滿土伯夷・董哀諸︀部〈東方學デジタル圖書館-26秋濤案、祕史云「客列亦種及那禿別干・董合等姓、亦來降」。董合、卽此董哀也。文田案、夷當作安。字之誤也。祕史作土綿土別干。曾植案、土滿卽土綿。祕史譯文無、蒙文有。又案、土伯夷、卽元史土別燕氏。通世案、土滿非部名、釋義爲萬。祕史蒙文、禿綿斡亦剌、譯文作萬斡亦剌。土綿土別干、猶言眾土別干也。原作乃。文田案、乃當作及。通世因改。克烈敗散之衆亦來降。秋濤案、元史本紀、止載札阿紺孛來歸事、而於太祖︀之敗蔑里乞、及諸︀部來降之事、皆遺漏未載。當以此書爲正。曾植案、札阿紺孛來降、葢王罕爲乃蠻亦難︀察攻敗之故是時王罕奔西遼、其眾潰散。故董哀諸︀部亦來歸也。此事、祕史叙在阿雷泉盟後、則辛酉壬戌二年。奔敗在此時、反國在此時、成吉思施德在此時、王罕萠歹心、亦在此時、似非事情。恐當以此書爲正。其事當在明昌四年、承安中也。觀後合蘭只之戰、王罕兵勢甚强、太祖︀甚危懼、非甫經𠷔敗、依人以立國者︀所能然也。通世案、沈說是也。祕史卷五第十節︀「在後成吉思云云」至「住過冬了」、當在卷首、則次第不亂。疑原本有錯簡。伯哷津書、記朶闌山戰之後、云「成吉思時年四十。是歲、王汗弟札罕不及客剌亦特分族董喀亦特部人來歸」。洪氏曰「此下有「太祖︀與戰」一語。案錄與祕史、皆謂「太祖︀與札合敢不迎禦蔑兒乞」。此處原文或有奪誤、故訛爲帝與札罕不戰也。其下更有「後仍以歸汪罕」一語。汪罕旣來、舊部必歸舊主、應有之義。祕史等書失載、附識於此」。案太祖︀年四十、據喇施特紀年、爲甲寅年。然完顏襄北伐、在丙辰年、爲甲寅後二年、則札罕不之來歸、亦當在其年。卽宋寧宗慶元二年、金章宗承安元年也。

訳文 十八-十九

上が​タドラ​​塔朵剌​の野に居た時、​ケレイ​​克烈​部の​ワンカン カガン​​汪罕 可汗​通世案、罕の字は恐らく余分である。後文も同じ。の弟​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​が身を寄せて来た。秋濤案、秘史は「​チンギス​​成吉思​​テルス​​帖兒速​の地にあり、​ケレイ​​客列亦​部の​ヂヤカガンブ​​札合敢不​の来降があった」と言う。​ヂヤカガンブ​​札合敢不​は、この​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​である。通世案、後文で太祖が​ワンカン​​王汗​を責める言葉の中に、​タラス​​塔剌速​の野があり、秘史蒙文は​クルバン テレスト​​忽兒班 帖列速惕​とし、​ベレジン​​伯哷津​​フルブン トラスト​​忽兒奔 塔剌速特​とする。 ​ケレイ​​克烈​部領内にある。これが​テルス​​帖兒速​の地である。朶剌の二字は、倒置かつ誤字の疑いがある。​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​は、​チユチタイ​​朮赤台​伝は​ヂヤハヂヤンプ​​札哈堅普​とし、​ベレジン​​伯哷津​​ヂヤカンブ​​札罕不​とし、「​ヂヤカンブ​​札罕不​の本名は​キヂヤン​​乞諫​である。幼い時に​タングト​​唐古特​に捕らえられ、閉じ込められてこの称を与えられた。人はついに名として呼ぶようになった」と言う。洪氏は「この節は、中国の書にない。​ヂヤカンブ​​札罕不​は、唐書 ​トハン​​吐蕃​伝の​ザンボ​​贊博​の二音である。諸史録と比べて秘史の諸音は、とりわけ正しく採られている」。 ちょうどそこで​メリキ​​蔑里乞​通世案、秘史は​メルキト​​篾兒乞惕​とする。​セレンゲ​​色楞格​河辺に居た。と我らが会戦した。上と​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​はこれに敵対して迎え撃った。その衆は敗走した。 通世案、後文で太祖が語る中に「​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​は漢塞にいて、私が招いたと聞き、遠くから来て身を寄せた。私はまさに山に登って眺めた。さらに​メリキ​​蔑力乞​へ迫り云云」とある。 であればこれは太祖が​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​を招き、そして​メリキ​​蔑里乞​がその来帰を妨げ、ゆえに太祖は自ら​テルス​​帖兒速​の地に至り、​メリキ​​蔑里乞​を退け、これを救けたのである。 このとき​トマン トベイ​​土滿 土伯夷​​ドンガイ​​董哀​諸部秋濤案、秘史は「​ケレイ​​客列亦​部およびかの​トベゲン​​禿別干​​ドンガ​​董合​などの姓も、また来降した」。​ドンガ​​董合​は、この​ドンガイ​​董哀​である。文田案、夷を安とする。字の誤である。秘史は​トメン トベゲン​​土綿 土別干​。曽植案、​トマン​​土滿​​トメン​​土綿​である。秘史は訳文なし、蒙文あり。又案、​トベイ​​土伯夷​は、元史 ​トベエン​​土別燕​氏。通世案、​トマン​​土滿​は部名ではなく、訳義は万となる。秘史蒙文は、​トメン オイラ​​禿綿 斡亦剌​、訳文は万の​オイラ​​斡亦剌​​トメン トベゲン​​土綿 土別干​は、あまたの​トベゲン​​土別干​と言うようなものである。 及び原書では乃。文田案、乃を及とする。通世が因んで改める。​ケレイ​​克烈​の敗散した人々も来降した。秋濤案、元史 本紀は、​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​が身を寄せた事を載せず、そして太祖が​メリキ​​蔑里乞​を破ったこと、及び諸部来降の事が、みな遺漏未載である。この書が正しいものとして当てよ。曽植案、​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​が来降し、おそらく​ワンカン​​王罕​​ナイマン​​乃蠻​ ​イナンチヤ​​亦難︀察​に攻め破られたのでこの時に​ワンカン​​王罕​は西遼に奔り、その軍勢は潰散した。 そのため​ドンガイ​​董哀​諸部も身を寄せて来たのである。この事は、秘史は​アルイ​​阿雷​の泉での盟の後について述べており、辛酉(1201年)壬戌(1202年)の二年のことである。敗走したのはこの時で、国を覆したのはこの時で、​チンギス​​成吉思​が徳を施したのはこの時で、​ワンカン​​王罕​に悪い心が芽生えたのも、またこの時で、事情は誤っているようである。恐らくはこの書が正しいとしてあてるべきであろう。その事は明昌 四年(1193年)、承安年間(1196年-1200年)にあたる。​カランヂ​​合蘭只​の戦いを見た後、​ワンカン​​王罕​の兵勢はとても強く、太祖はとても危懼し、敗退してまもなく、国を立てるにふさわしい者として民を安んじた。 通世案、沈曽植の説は正しい。秘史巻五第十節「在後成吉思云云」から「住過冬了」〈[#§150から§151]〉まで、巻首にあたり、次第に乱れがなくなる。原書に錯簡があると疑われる。​ベレジン​​伯哷津​の書は、​ドラン​​朶闌​山の戦の後を記し、「​チンギス​​成吉思​はこのとき四十才だった。この年、​ワンカン​​王汗​​ヂヤカンブ​​札罕不​​ケライト​​客剌亦特​分族​トンカイト​​董喀亦特​部の人が来帰した」と言う。洪氏は「この下に「太祖与戦」の一語がある。録と秘史を考えると、どれも「太祖と​ヂヤカガンブ​​札合敢不​​メルキ​​蔑兒乞​を迎え撃った」と言う。ここは原文に奪誤があるかもしれず、ゆえに帝と​ヂヤカンブ​​札罕不​が戦ったと間違ったのであろう。その下にさらに「後仍以帰汪罕」の一語がある。​ワンカン​​汪罕​は既に来ており、旧部は確かに旧主に身を寄せ、これは道理にかなう。秘史等の書は載せ忘れており、これを付け足した」と言う。 太祖の四十才を考えると、​ラシツド​​喇施特​の紀年に拠れば、甲寅年(1194年)になる。そして​ワンヤン シヤン​​完顏 襄​の北伐は、丙辰年(1196年)にあり、甲寅後の二年となり、​ヂヤカンブ​​札罕不​の来帰も、またその年にあったとなる。これは宋 寧宗 慶元 二年、金 章宗 承安 元年である。



〈史45-162下9汪罕可汗始與葉速該可汗和好,相稱按荅

汪罕可汗始與也速該可汗和好、秋濤案、也速該可汗、卽烈祖︀也。相稱安荅。原注「交物之友」。交原作變。秋濤案、今所云諳達、卽案荅之轉音。曾植案、史本紀注、作「交物之友」。通世案、交譌作変、遂爲變。今改。畏荅兒傳云「按達者︀定交不易之謂也」。所以然者︀、由初汪可汗之父忽兒札胡思盃祿可汗秋濤案、本書後癸亥年、作忽兒札忽思盃祿可汗。本紀作汪罕之父忽兒札忽思盃祿。祕史作忽兒察忽思不亦魯罕。旣卒、汪可汗殺︀戮昆弟、秋濤案、祕史云「殺︀其父之昆弟」、與此微異。本紀與此同。通世案、西史云「王汗祖︀默兒古斯卜欲魯克汗有二子、長忽兒札忽思卜欲魯克汗、次古兒汗。忽兒札忽思生數子、曰脫古魯兒、卽王汗、曰額兒客喀剌、曰札罕不。又有別子數人。王汗於父卒後、殺︀其弟塔帖木兒大石・布喀帖木兒及同族弟兄數人」。原注「古兒汗是人名、非喀剌乞䚟之古兒汗、不可誤混」。祕史卷七亦曰「你父忽兒察忽思不亦魯黑皇帝、有四十子。內只你最長、所以立〈底本-347 做皇帝。後你殺︀台帖木兒・不花帖木兒二弟」。據此、則卷五謂「汪罕殺︀不亦魯罕諸︀弟」、弟者︀、子之誤寫也。其叔父菊兒可汗、秋濤案、本書後癸亥年、作菊律可汗。元史本紀作菊兒。祕史作古兒罕。〈東方學デジタル圖書館-27率兵與汪可汗戰。逼汪可汗於合剌溫隘敗之。秋濤案、本紀與此同。祕史作「追至合剌溫山內」。通世案、合剌溫隘、在土拉河上。見後土兀剌河上黑林間注。僅以百餘騎脫走、奔也速該可汗。張石州曰「也速該可汗、當重一句」。親將兵逐菊兒可汗、走西夏。秋濤案、祕史云「也速該將古兒罕趕人合申地面」。合申卽西夏也。亦曰唐兀。復奪部聚歸之。汪可汗感德、遂盟案荅。張石州曰「句不完」。秋濤案、類︀編云「遂請盟稱案荅」、是也。當從之。後汪可汗弟也力可哈剌者︀、秋濤案、祕史作額兒客合剌。以其多殺︀昆弟、秋濤案、本紀云「也力可哈剌怨汪罕多殺︀之」、語意未晰。以此書爲允。通世案、本紀多殺︀之下有故字、當屬上爲句、則語意亦晰。叛歸乃蠻部亦難︀赤可汗原亦難︀赤上有立字。秋濤案、本紀「亦難︀赤爲發兵」此立字誤衍。又案、後甲子年作亦年可汗、祕史作亦難︀察。亦難︀赤可汗、發兵伐汪可汗、盡奪克烈部眾、與也力可哈剌。汪可汗脫身歷走三城、曾植案、三城見祕史蒙文。奔赴契丹主菊律可汗。〈東方學デジタル圖書館-28原作菊津可汗。秋濤校改。案、此契丹、後亦稱西契丹、卽西遼也。史云「西遼末主直魯古、改元天禧、立三十四年、乃蠻王屈出律設伏、伺其出獵擒之、而據其位、遂襲遼衣冠、尊直魯古爲太上皇、侍以終身」。西遼自耶律大石至直魯古、有國幾九十年、而屈出律奄有其國、仍號西遼。屈出律、卽此所云菊律可汗也。札木合衆、亦推爲局兒可汗。葢菊兒局兒、北方美稱、故彼此相同耳。通世案、哈剌亦哈赤北魯傳作西遼主鞠兒可汗、祕史作合剌乞塔種古兒罕。洪氏曰「蒙古語、古兒普也。猶云統轄之汗」。案此古兒罕、卽直魯古也。直魯古失位、在太祖︀卽位六年葢王汗西奔後十五年也。旣而復叛之、涉畏吾兒西夏諸︀城邑。秋濤案、祕史作「從畏兀唐兀二種經過」。唐兀卽西夏。中道糧絕、遺乳羊五頭。以繩禁羊口、奪其乳爲飮、刺槖駝血、煮︀爲食、食困甚、僅至曲薛兀兒澤。秋濤案、祕史作古泄兒海︀子。通世案、伯哷津書云「龍年、行至庫思古兒諾爾、近成吉思汗居地」。龍年、謂丙辰年。喇施特旣以札罕不歸太祖︀爲甲寅年事、故謂王汗以丙辰年東歸。然完顏襄北伐、爲丙辰年、則王汗東歸、恐當在丙辰後二年戊午歲。卽宋慶元四年、金承安三年也。庫思古兒諾爾、卽曲薛兀兒澤。洪氏曰「西域史下文云「先時汪罕與也速該、曾同住是地」、又云「汪罕至淖爾、在克魯倫河這邊、帝在河那邊」、則此淖爾、似當在克魯倫河南、或在西。今名無考」。考下文太祖︀責王汗語中、有曲笑兒澤。也速該甞偕王汗、追古兒汗至其地。西史所謂「曾同住」、葢在其時。然則此澤當在克烈部舊境內、似非克魯倫河近地。上聞之、以其初先君案荅之故、乃遣近侍塔海︀・雪也垓二人往招之來。秋濤案、祕史云「使勇士速客該去迎」。速客該、卽雪也垓。通世案、塔海︀、祕史作塔孩把阿禿兒、速勒都︀孫氏。雪也垓、祕史作速客該者︀溫、朵籠古兒氏。太祖︀始爲合罕時、甞遣二人、報之王罕。但此迎王罕之使、祕史唯有速客該、而無塔孩。上自怯綠連河親迎撫勞、安置軍中、大賑給之。通世案、祕史云「成吉思自至客魯連河源頭、迎見王罕、至營、遂使百姓供給。是年、在忽巴合牙地面、住過冬了」。忽巴合牙之地、葢在客魯連河上、王罕暫寓於此、後乃歸土剌河上舊庭也。後秋、上同汪可汗、會於土兀剌河上黑林間、結爲父子禮。秋濤案、祕史自賑給汪罕後、汪可汗爲乃蠻人所困、太祖︀復救之。汪罕遂於土兀剌之黑林行、會成吉思、結爲〈東方學デジタル圖書館-29父子。初王罕與成吉思父契交、所以呼爲父。今次又結爲父子以示親厚也。文田案、怯綠連河、卽克魯倫河。通世案、伯哷津書云「是年秋、會宴於河上喀剌溫乞卜察勒之地、重訂父子之好」。河上下注「河名字已不辨」。多遜謂「是土拉河」。洪氏曰「考諸︀親征錄與祕史、是也」。喀剌溫、祕史蒙文作哈剌屯、譯爲黑林。多遜云「喇施特解喀剌溫喀卜札勒爲黑林」。布哷特淑乃德兒曰「蒙古語、喀剌謂黑、鄂因謂林、喀卜札勒謂陝隘」。然則此黑林間、與前文合剌溫隘正同也。蒙古游牧記曰「土喇河東、有東庫倫、其地曰昭莫多。譯言有林木也。葢卽元祕史所云土兀剌河邊黑林子、爲客列亦惕種姓王罕所卓帳矣」。未知然否。又案、祕史叙是事、在忽剌安忽惕戰後。本書亦唯云後秋、不確指爲在何年。此係王罕去忽巴合牙後事、則當在後年。喇施特定爲是年秋、恐非。〈底本-348

訳文 十九-二一

​ワンカン カガン​​汪罕 可汗​は以前に​エスガイ カガン​​也速該 可汗​と仲よくし、秋濤案、​エスガイ カガン​​也速該 可汗​は、つまり烈祖である。お互いを​アンダ​​安荅​と呼んだ。原注に「物を取り交わす友」とある。原書は交を変とする。秋濤案、今でいう​アンダ​​諳達​は、​アンダ​​案荅​の転音である。曽植案、元史 本紀の注は、「物を取り交わす友」とする。通世案、交が変と誤り、ついに変となった。今改める。​ウイダル​​畏荅兒​伝は「​アンダ​​按達​は不変の交わりを定めることを言う」とする。 このようないわれは、はじめに​ワン カガン​​汪 可汗​の父​フルヂヤクス ブイル カガン​​忽兒札胡思 盃祿 可汗​秋濤案、本書の後文で癸亥年(1203年)、​フルヂヤフス ブイルク カガン​​忽兒札忽思 盃祿 可汗​とする。元史 本紀は​ワンカン​​汪罕​の父を​フルヂヤフス ブイルク​​忽兒札忽思 盃祿​とする。秘史は​クルチヤクス ブイル カン​​忽兒察忽思 不亦魯 罕​とする。の死後、​ワン カガン​​汪 可汗​が兄弟を殺戮し、秋濤案、秘史は「その父の兄弟を殺した」と言い、これと違いはない。元史 本紀と此は同じ。 通世案、西史は「​ワンカン​​王汗​の祖​ムルグシ ブユルク カン​​默兒古斯 卜欲魯克 汗​に二子があり、長男は​フルヂヤフス ブユルク カン​​忽兒札忽思 卜欲魯克 汗​、次男は​グル カン​​古兒 汗​​フルヂヤフス​​忽兒札忽思​は数人の子を生み、​トグルル​​脫古魯兒​というのが、​ワンカン​​王汗​​エルケカラ​​額兒客喀剌​というのが、​ヂヤカンブ​​札罕不​という。さらに別に数人の子がある。​ワンカン​​王汗​は父の死後に、その弟​タ テムル タイシ​​塔 帖木兒 大石​​ブカ テムル​​布喀 帖木兒​および同族弟兄数人を殺した」と言う。原注に「​グル カン​​古兒 汗​は人名であり、​カラキダイ​​喀剌乞䚟​​グル カン​​古兒 汗​ではなく、誤って混ぜるべきではない」とある。 秘史巻七も「あなたの父​クルチヤクス ブイルク​​忽兒察忽思 不亦魯黑​皇帝は、四十人の子があった。あなたはただ最年長というだけで、皇帝となった。〈底本-347のちにあなたは​タイ テムル​​台 帖木兒​​ブハ テムル​​不花 帖木兒​の二弟を殺した」とする。 これに拠ると、巻五で「​ワンカン​​汪罕​​ブイル カン​​不亦魯罕​の弟たちを殺した」と言う、弟は、子の誤写である。その叔父​グル カガン​​菊兒 可汗​は、秋濤案、本書後文の癸亥年(1203年)、​グル カガン​​菊律 可汗​とする。元史 本紀は​グル​​菊兒​。秘史は​グル カン​​古兒 罕​とする。 兵を率いて​ワン カガン​​汪 可汗​と戦った。​ワン カガン​​汪 可汗​​カラウン​​合剌溫​の狭間に追い込んで破った。秋濤案、元史 本紀とこれは同じ。秘史は「追って​カラウン​​合剌溫​山中に至った」と言う。通世案、​カラウン​​合剌溫​の狭間は、​トラ​​土拉​河のほとりである。見えたあと​トウラ​​土兀剌​河のほとりの黒林の間に流れ込む。 わずか百余騎で脱走し、​エスガイ カガン​​也速該 可汗​に奔った。張石州は「​エスガイ カガン​​也速該 可汗​は、尊ぶ一句にあたる」と言う。自ら兵を率いて​グル カガン​​菊兒 可汗​を退け、西夏に走らせた。秋濤案、秘史は「​エスガイ​​也速該​​グル カン​​古兒 罕​​カシン​​合申​の地に退けた」と言う。​カシン​​合申​は西夏である。また​タング​​唐兀​とも言う。さらに部民を奪って服従させた。​ワン カガン​​汪 可汗​は恩に感じ、ついに​アンダ​​案荅​の約束をした。張石州は「句はできあがっていない」という。秋濤案、元史類編が「ついに約束を請い​アンダ​​案荅​と称した」と言うのは、これである。これに従い当てる。 のちに​ワン カガン​​汪 可汗​の弟​エリコ ハラ​​也力可 哈剌​は、秋濤案、秘史は​エルケ カラ​​額兒客 合剌​とする。彼が兄弟を多く殺したことをもって、秋濤案、元史 本紀は「​エリコ ハラ​​也力可 哈剌​​ワンカン​​汪罕​がこれを多く殺したことを怨んだ」と言い、語意がはっきりしない。この書が正しいとする。通世案、本紀は多殺の下に故の字があり、上につけて句となるようにあてれば、語意もはっきりする。 叛いて​ナイマン​​乃蠻​部の​イナンチ カガン​​亦難︀赤 可汗​原書は​イナンチ​​亦難︀赤​の上に立の字がある。秋濤案、元史 本紀「​イナンチ​​亦難︀赤​は挙兵させられた」はこの立の字が余分で誤っている。又案、後文の甲子年(1204年)に​イネン カガン​​亦年 可汗​とし、秘史は​イナンチヤ​​亦難︀察​とする。 ​イナンチ カガン​​亦難︀赤 可汗​、兵を起こして​ワン カガン​​汪 可汗​を討伐し、​ケレイ​​克烈​部民を奪いつくし、​エリコ ハラ​​也力可 哈剌​に与えた。​ワン カガン​​汪 可汗​は脱出してつぎつぎと三つの城に逃げ、曽植案、三つの城は秘史蒙文に見える。奔って契丹の主​グル カガン​​菊律 可汗​のところに赴いた。原書では菊津可汗。秋濤が校改する。 案、この契丹は、後文で西契丹とも呼び、つまり西遼である。元史は「西遼の末主​チルグ​​直魯古​は、天禧と改元して、三十四年間在位し、​ナイマン​​乃蠻​​クチユル​​屈出律​が伏兵を使い、猟に出るところを伺い彼を捕え、その位を拠り所とし、ついには遼の衣冠を継承し、​チルグ​​直魯古​を太上皇として尊び、死ぬまで養った。」と言う。西遼は​エリユ タイシ​​耶律 大石​から​チルグ​​直魯古​まで、幾九十年のあいだ国があり、そして​クチユルエン​​屈出律奄​がその国にあり、よって西遼と号した。​クチユル​​屈出律​、つまりここで言う​グル カガン​​菊律 可汗​である。​ヂヤムカ​​札木合​の民衆は、また​グル カガン​​局兒 可汗​と推した。思うに菊児と局児は、北方の美称であり、ゆえにどちらも同じに聞こえる。 通世案、​ハライハチベル​​哈剌亦哈赤北魯​伝は西遼の主​グル カガン​​鞠兒 可汗​、秘史は​カラキタ​​合剌乞塔​種族の​グル カン​​古兒 罕​。洪氏は「モンゴル語で、​グル​​古兒​​あまね​​普​くである。ちょうど統轄の汗と言うようなものである」と言う。 この​グル カン​​古兒 罕​を考えると、つまり​チルグ​​直魯古​である。​チルグ​​直魯古​が主の位を失ったのは、太祖即位六年のことで​ワンカン​​王汗​が西に奔ってから十五年後であろう。 やがて再び叛き、​ウイウル​​畏吾兒​西夏の諸城邑を渡り歩いた。秋濤案、秘史は「すぐに続けて​ウイウ​​畏兀​​タング​​唐兀​二種族を経て行って」とする。​タング​​唐兀​は西夏である。 とちゅうで食糧が絶え、乳羊五頭を失った。縄で羊の口を縛り、その乳を奪って飲み、駱駝の血を採取し、煮て食べ、食に困まること甚だしく、かろうじて​グセウル​​曲薛兀兒​沢に至った。 秋濤案、秘史は​グセル​​古泄兒​の湖。通世案、​ベレジン​​伯哷津​の書は「辰の年、​クスグル ノール​​庫思古兒 諾爾​に至り、​チンギス カン​​成吉思 汗​の居地に近づいた」と言う。辰の年は、丙辰年(1196年)であろう。​ラシツド​​喇施特​はすでに​ヂヤカンブ​​札罕不​の太祖への帰順を甲寅年(1194年)の事とし、ゆえに​ワンカン​​王汗​が丙辰年に東に帰ったとする。だが​ワンヤン シヤン​​完顏 襄​の北伐は、丙辰年とされ、つまり​ワンカン​​王汗​が東に帰ったのは、恐らく丙辰の二年後の戊午(1198年)にあたるであろう。これは宋 慶元 四年、金 承安 三年である。 ​クスグル ノール​​庫思古兒 諾爾​は、​グセウル タク​​曲薛兀兒 澤​である。洪氏は「西域史は後文で「むかし​ワンカン​​汪罕​​エスガイ​​也速該​は、かつて同じ地に住んでいた」といい、また「​ワンカン​​汪罕​​ノール​​淖爾​に至り、​ケルルン​​克魯倫​河の辺りにいて、帝は河の辺りのどこかにいた」といい、つまりこの​ノール​​淖爾​は、​ケルルン​​克魯倫​河の南にあるようであり、西にあるようでもある。今は名についての考えはない」という。 後文で太祖が​ワンカン​​王汗​を責める語のなかを調べると、​グセウル タク​​曲笑兒 澤​がある。​エスガイ​​也速該​がかつて​ワンカン​​王汗​とともに、​グル カン​​古兒 汗​を追ってその地に至った。西史がいうところの「かつて同じ地に住んでいた」は、その時なのであろう。そうであるならばこの沢は​ケレイ​​克烈​部の古い領内にあり、​ケルルン​​克魯倫​河に近い地ではないようである。 上はこれを聞き、むかし先君が​アンダ​​案荅​だったことを理由に、そこで彼を呼び寄せに近侍の​タハイ​​塔海︀​​シユエカイ​​雪也垓​の二人を遣わした。 秋濤案、秘史は「勇士​スケガイ​​速客該​に迎えさせた」という。​スケガイ​​速客該​は、つまり​シユエカイ​​雪也垓​である。通世案、​タハイ​​塔海︀​、秘史は​タカイ バアトル​​塔孩 把阿禿兒​とし、​スルドスン​​速勒都︀孫​氏である。​シユエカイ​​雪也垓​は、秘史は​スケガイ ヂエウン​​速客該 者︀溫​とし、​ドロングル​​朵籠古兒​氏である。太祖が初めて​カガン​​合罕​になった時、ためしに二人を遣わして、これを​ワンカン​​王罕​に報せた。ただこの​ワンカン​​王罕​を迎える使いは、秘史はただ​スケガイ​​速客該​があり、​タカイ​​塔孩​はない。 上は​ケルレン​​怯綠連​河より自ら迎えていたわり、陣営のうちで安らかに落ち着かせ、大いに金品を施し与えた。 通世案、秘史は「​チンギス​​成吉思​自ら​ケルレン​​客魯連​河の源頭に至り、​ワンカン​​王罕​を迎えて会い、宿営に至り、そして家来たちに供給させた。この年、​クバカヤ​​忽巴合牙​の地で、冬を過ごした」という。​クバカヤ​​忽巴合牙​の地は、思うに​ケルレン​​客魯連​河のほとりにあり、​ワンカン​​王罕​はしばらくここに身を寄せ、その後まさに​トラ​​土剌​河のほとりのもとの経営地に帰ったのである。 そのあとの秋、上と​ワン カガン​​汪 可汗​はいっしょに、​トウラ​​土兀剌​河のほとりの黒林の間で会って、父子となる契りを結んだ。 秋濤案、秘史は自ら​ワンカン​​汪罕​に大いに金品を施し与えた後、​ワン カガン​​汪 可汗​​ナイマン​​乃蠻​人に苦しめられるところとなり、太祖はまた彼を救けた。​ワンカン​​汪罕​はついに​トウラ​​土兀剌​の黒林に行き、成吉思に会い、父子の契りを結んだ。むかし​ワンカン​​王罕​​チンギス​​成吉思​の父は契りを交わし、その所以で父と呼んだ。今ついでさらに父子の契りを結んだのは親厚を示したことによるものである。文田案、​ケルレン​​怯綠連​河は、つまり​ケルルン​​克魯倫​河である。 通世案、​ベレジン​​伯哷津​の書は「この年の秋、河上の​カラウン キブチヤル​​喀剌溫 乞卜察勒​の地で宴会し、重ねて父子のよしみを結んだ」と言う。河上については後文の注に「河名はすでにわからない」とある。​ドーソン​​多遜​は「これは​トラ​​土拉​河である」という。洪氏は「諸親征録と秘史を考えると、これである」と言う。 ​カラウン​​喀剌溫​は、秘史蒙文は​カラトン​​哈剌屯​とし、黒林と訳す。​ドーソン​​多遜​は「​ラシツド​​喇施特​​カラウン カブヂヤル​​喀剌溫 喀卜札勒​を黒林と解いた」と言う。​ブレトシユナイデル​​布哷特淑乃德兒​は「モンゴル語は、​カラ​​喀剌​を黒とし、​オイン​​鄂因​を林とし、​カブヂヤル​​喀卜札勒​を狭間とする」と言う。そうであるならばこの黒林の間は、前文の​カラウン​​合剌溫​の狭間とまさに同じである。 蒙古游牧記は「​トラ​​土喇​河の東、東​クルン​​庫倫​があり、その地は​ヂヤオモド​​昭莫多​という。訳は林木があることを言う。思うに元秘史がいう​トウラ​​土兀剌​河のほとりの黒林は、​ケレイト​​客列亦惕​種の​ワンカン​​王罕​一族が宿営したところである」と言う。 そうであるかはわからない。又案、秘史のこの事の記述は、​クラアンクト​​忽剌安忽惕​戦の後にある。本書もまたそのあとの秋とのみ言い、何年にあったかを不確かに指している。これが​ワンカン​​王罕​​クバカヤ​​忽巴合牙​を去った後の事につながるのは、あとの年にあたる。​ラシツド​​喇施特​がこの年の秋と定めているのは、恐らく誤っている。〈底本-348



〈史45-162下24是年冬,月兒斤部先脫走者薛徹、大出,追至帖列徒墜,滅之

是年冬、上討二字、秋濤酌增。月兒斤部先脫走者︀薛徹大丑、追至〈史45-163上1帖列徒之隘通世案、祕史蒙文作迭列禿阿馬撒剌、譯云迭列禿口子。伯哷津作塔剌因阿馬色剌、恐音訛。滅之。通世案、主兒乞部之滅、祕史直叙於朵剌安山役之後。此書分爲是年事。祕史又叙太祖︀責撒察・泰出誅之、收主兒乞部衆、得帖列格禿伯顏兒孫、及小兒孛羅兀勒、及主兒乞氏得名之故、次及別勒古台殺︀不里孛可之事。此書都︀不載。

訳文 二二

この年の冬、上は二字、秋濤が文脈を酌んで増した。​ユルギン​​月兒斤​部で以前に脱走した​セチエ​​薛徹​ ​タイチウ​​大丑​を討ち、追いかけて​テレト​​帖列徒​の狭間に至り通世案、秘史蒙文は​テレト アマサル​​迭列禿 阿馬撒剌​とし、訳は​テレト​​迭列禿​の口である。​ベレジン​​伯哷津​​タライン アマセラ​​塔剌因 阿馬色剌​とし、音が訛ったのであろう。 これを滅ぼした。通世案、​ヂユルキ​​主兒乞​部の滅びは、秘史はすぐに​ドラアン​​朵剌安​山役の後で述べている。此書は是の年の事を分けている。秘史はまた太祖が​サチヤ​​撒察​​タイチユ​​泰出​を責めて之を誅ち、​ヂユルキ​​主兒乞​部民を取り込み、​テレゲト バヤン​​帖列格禿 伯顏​の子や孫、および幼子の​ボロウル​​孛羅兀勒​を得て、​ヂユルキ​​主兒乞​氏が名を得た理由、ついで​ベルグタイ​​別勒古台​​ブリ ボカ​​不里 孛可​を殺す事を述べている。此書はまったく載せていない。



〈史45-163上1次年秋,上發兵于哈剌河,伐滅里乞部主脫脫,戰于莫邪察山,遂掠兀相夷、滅里乞二部

次年秋、通世案、西史作蛇年、謂丁巳年也。然王汗東歸、旣在戊午年、則其次年、當爲己未年、卽宋慶元五年、金承安四年也。但祕史不載此戰。前此太祖︀居客魯漣河源不兒吉崖時、三種篾兒乞來襲、孛兒帖夫人被掠。太祖︀乞師于王罕及札木合、襲破篾兒乞、奪還孛兒帖、走兀都︀亦惕脫黑脫阿、兀洼思荅亦兒兀孫、擒合阿台荅兒麻剌、縱掠而歸。其事在太祖︀與札木合開釁之前、國史葢移之是年、而諱孛兒帖被掠之辱、刪王罕・札木合與援、太祖︀感恩等事、却謂太祖︀施惠。葢以擬秦穆輸粟、欲深晋惠閉糴之罪也。上發兵哈剌哈河、通世案、此非流入捕魚兒海︀子之合泐合河。據祕史、札木合嘗居豁兒豁納黑主不兒之地、一作豁兒豁納川。太祖︀旣得札木合援、破篾兒乞、相携至豁兒豁納川、同住一年有餘。國史葢訛豁兒豁納爲哈剌哈、且誤爲太祖︀初居之也。伐蔑里乞部主脫脫、秋濤案、祕史作脫黑脫阿。通世案、西史作托克塔。戰於莫那察山、通世案、祕史無此名。額兒忒曼作們哲河、注云「今曼津河、在喀剌思穆楞之地」、和渥兒特曰「案栗特兒地圖、曼査河流入齊科伊河、會于色稜嘎河」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉。案齊科伊河、卽水道提綱之楚庫河。伯哷津又作孟察之地。亦見後文太祖︀責王汗語中。遂掠兀都︀夷都︀原作相。秋濤案、兀相。夷當作兀都︀夷。後太祖︀吿汪可汗語、作兀都︀夷。是書、凡都︀字多譌作相。蔑里乞二部、曾植案、二部語誤。祕史兀都︀亦惕脫黑脫阿、兀洼思歹亦兒兀孫、合阿台荅兒馬剌、爲三種蔑兒乞。兀都︀亦惕、卽此兀都︀夷。脫黑脫阿、卽此脫脫。然則兀都︀夷、乃蔑里乞一種之名。非兀都︀夷爲一部、蔑里乞爲一部也。收其衆。上盡以其獲給汪可汗。其後通世案、西史作馬年、卽戊午年也。然喇施特紀年不可信。祕史、此事在狗兒年太祖︀剿塔塔兒時、卽壬戌年也。眾稍集、不約我軍、自侵蔑里乞部、至兀剌川、秋濤案、蔑里乞後作滅里乞、兀剌川後不剌川、皆譯語偶殊。通世案、祕史、兀都︀亦惕篾兒乞脫黑脫阿在不兀剌客額兒之地。此兀上疑脫不字。否則兀當作不。不剌川、謂今布拉河邊之野、布拉又作博拉。蒙古游牧記云「土謝圖汗部中左翼末旗牧地、東北至博拉河、接恰克圖軍臺及邊喀界」。異域錄「博拉地方皆草墩、甚泥濘、潦水成澤。其東南林木森密、望之鬱然」。此卽不兀剌客額兒之地也。殺︀脫脫之子秋濤案、此下、翁本原闕一字。〈東方學デジタル圖書館-30土居思別吉、 秋濤案、祕史作脫古思別乞。虜︀忽都︀台都︀原作相。秋濤據後文校改。察勒渾秋濤案、後作察魯渾。二哈敦曾植案、祕史蒙文「要著︀他兩女忽禿黑台・察阿侖」、譯文無名。通世案、伯哷津作忽禿黑台・察勒渾兩女。一與祕史蒙文合、一與本書合。兩女亦同祕史、哈敦恐誤。及招脫脫次子和都︀通世案、祕史卷六作忽圖、祕史卷九及西史作忽都︀。赤剌溫、二人領部眾而來。所奪不以秋毫與我。脫脫奔八兒忽眞之隘。隘、原本作隊。翁單谿據本紀改。通世案、祕史作巴兒忽眞脫窟木、額兒忒曼作巴兒古眞脫古魯姆。施世杰〈[#「施世杰」は底本では「施世𤇍」。以後すべて同じ]〉曰「此乃今俄羅斯境之巴爾古情河上岸也。色楞格河北流入俄羅斯之拜喀爾湖。其湖之東北隅、有一小河西南流入湖者︀、卽巴爾古情河也。今俄國於河上置一城、曰巴爾古情城」。元史本紀、咩撚篤敦第七子納眞、於八剌忽民家爲贅壻。兄子海︀都︀稍長、納眞率八剌忽怯谷諸︀民、共立爲君、列營帳於八剌合黑河上、跨河爲梁、以便往來。八剌忽、卽巴兒古、八剌合黑河、疑卽巴爾古情河。喇施特呼色楞格河北諸︀部爲巴兒古特。瑪兒科保羅云「自喀剌科倫北行四十日、至巴兒古之野、居民名蔑斯克里特」。蔑斯克里特、卽蔑兒乞特。巴兒古之野、葢謂拜喀爾湖東之地。然則湖東之地、巴兒古特・蔑兒乞特諸︀部雜處也。巴兒古巴兒古特之稱、依地名爲部名、與依部名爲地名、未知孰然。

訳文 二二-二三

翌年の秋、通世案、西史は蛇年とし、思うには丁巳年(1197年)であろう。となれば​ワンカン​​王汗​が東に帰ったのは、すでにある戊午年(1198年)の、その次の年、己未年(1199年)、つまり宋 慶元 五年、金 承安 四年である。ただし秘史はこの戦を載せていない。過去にこの太祖が​ケルレン​​客魯漣​河源の​ブルギ​​不兒吉​崖に居た時、三種の​メルキ​​篾兒乞​が来襲し、​ボルテ​​孛兒帖​夫人が捕らえられた。太祖は​ワンカン​​王罕​及び​ヂヤムカ​​札木合​に出兵を乞い、​メルキ​​篾兒乞​を襲って破り、​ボルテ​​孛兒帖​を奪還し、​ウドイト​​兀都︀亦惕​​トクトア​​脫黑脫阿​​ウワス​​兀洼思​​ダイルウスン​​荅亦兒兀孫​を走らせ、​カアタイ ダルマラ​​合阿台 荅兒麻剌​を捕えて、ほしいままに掠めて帰った。その事は太祖と​ヂヤムカ​​札木合​が仲違いする前にあり、国史はこれをこの年に移し、そして​ボルテ​​孛兒帖​が掠められた辱めを忌み、​ワンカン​​王罕​​ヂヤムカ​​札木合​が一緒に助けたことを削り、太祖は恩を感じた等は、反対に太祖が恵みを施したこととした。思うに秦穆が粟を献じたことになぞらえることをもって、欲深い晋恵の閉糴の罪であろう。 上は​ハラハ​​哈剌哈​河に向けて兵を起こし、通世案、これは捕る魚が流れ入る湖の​カルカ​​合泐合​河ではない。秘史に拠れば、​ヂヤムカ​​札木合​はかつて​ゴルゴナク ヂユブル​​豁兒豁納黑 主不兒​の地に居て、ひとつは​ゴルゴナ​​豁兒豁納​川とする。太祖は以前に​ヂヤムカ​​札木合​の援けを得て、​メルキ​​篾兒乞​を破り、相携えて​ゴルゴナ​​豁兒豁納​川に至り、一年余り一緒に住んだ。元史は思うに​ゴルゴナ​​豁兒豁納​​ハラハ​​哈剌哈​とし、かつ太祖が最初ここに住んだと誤ったのである。 ​メリキ​​蔑里乞​部の主​トト​​脫脫​を討伐し、秋濤案、秘史は​トクトア​​脫黑脫阿​とする。通世案、西史は​トクタ​​托克塔​とする。​モノチヤ​​莫那察​山で戦い、通世案、秘史はこの名がない。​エルドマン​​額兒忒曼​​メンヂエ​​們哲​河とし、注に「今は​マンジン​​曼津​河、​カラス ムレン​​喀剌思 穆楞​の地にある」といい、​ホヲルト​​和渥兒特​は「​リトル​​栗特兒​の地図を調べると、​マンサ​​曼査​河が​チコイ​​齊科伊​河に流れ入り、​セレンガ​​色稜嘎​河にあつまる」と言う。​チコイ​​齊科伊​河を考えると、水道提綱の​チユク​​楚庫​河である。​ベレジン​​伯哷津​はさらに​メンチヤ​​孟察​の地とする。また後文の太祖が​ワンカン​​王汗​を責める語中に見える。 ついに掠めるところの​ウドイ​​兀都︀夷​都は原書では相。秋濤案、兀相。夷をあてて​ウドイ​​兀都︀夷​とする。後で太祖が​ワン カガン​​汪 可汗​に告げる語は、​ウドイ​​兀都︀夷​とする。この書は、およそ都の字の多くが相と誤っている。​メリキ​​蔑里乞​二部、曽植案、二部は語が誤っている。秘史は​ウドイト​​兀都︀亦惕​​トクトア​​脫黑脫阿​​ウワス​​兀洼思​​ダイイルウスン​​歹亦兒兀孫​​カアタイ ダルマラ​​合阿台 荅兒馬剌​を、三種の​メルキ​​蔑兒乞​とする。​ウドイト​​兀都︀亦惕​は、この​ウドイ​​兀都︀夷​である。​トクトア​​脫黑脫阿​は、この​トト​​脫脫​である。そうであるならば​ウドイ​​兀都︀夷​、その​メリキ​​蔑里乞​が一種の名である。​ウドイ​​兀都︀夷​は一部ではなく、​メリキ​​蔑里乞​を一部とする。 その衆を取り込んだ。上はその収穫をことごとく​ワン カガン​​汪 可汗​にあてがった。その後通世案、西史は馬年とし、つまり戊午年(1198年)である。よって​ラシツド​​喇施特​の紀年は信じられない。秘史は、この事が戌年に太祖が​タタル​​塔塔兒​を掃討した時にあり、壬戌年(1202年)である。 人々が少しづつ集まり、我が軍との約束を破り、自ら​メリキ​​蔑里乞​部を侵略し、​ウラ​​兀剌​川に至り、秋濤案、​メリキ​​蔑里乞​は後文で​メリキ​​滅里乞​とし、​ウラ​​兀剌​川は後文で​ブラ​​不剌​川とし、みな訳語がそろって異なる。通世案、秘史は、​ウドイト​​兀都︀亦惕​ ​メルキ​​篾兒乞​ ​トクトア​​脫黑脫阿​​ブウラ ケエル​​不兀剌 客額兒​の地にいたとする。この兀の上に不の字が抜けている疑いがある。兀に不をあてるのではない。​ブラ​​不剌​川は、今は​ブラ​​布拉​河辺の野といい、​ブラ​​布拉​はまた​ボラ​​博拉​とする。 蒙古游牧記は「​トシエトハン​​土謝圖汗​部の中の左翼末旗牧地は、東北は​ボラ​​博拉​河に至り、​キヤフタ​​恰克圖​軍台 及辺喀界〈[#訳せない。「​ビアンカ​​邊喀​の境に及ぶ」か]〉と接する」という。異域録は「​ボラ​​博拉​地方はみな草が生い茂り、とてもぬかるんでいて、たまり水が沢をなす。その東南の林木森が密で、景色は鬱蒼としている」。これは​ブウラ ケエル​​不兀剌 客額兒​の地である。 ​トト​​脫脫​の子を殺し秋濤案、この下、翁方綱本の原書は一字欠けている。〈[#四庫全書存目叢書本でも該当する一字分の空白を確認できる]〉​トクス ベギ​​土居思 別吉​秋濤案、秘史は​トグス ベキ​​脫古思 別乞​とする。 捕らえるところの​フドタイ​​忽都︀台​都は原書では相。秋濤が後文に拠って校改する。​チヤルフン​​察勒渾​秋濤案、後文は​チヤルフン​​察魯渾​とする。​ハトン​​哈敦​曽植案、秘史蒙文は「彼の二女​クトクタイ​​忽禿黑台​​チヤアルン​​察阿侖​を取り」とあり、訳文には名はない。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​クトクタイ​​忽禿黑台​​チヤルフン​​察勒渾​の二女。ひとりは秘史蒙文と合い、ひとりは本書と合う。二女も秘史と同じく、​ハトン​​哈敦​はおそらく誤っている。 および​トト​​脫脫​の次子​ホド​​和都︀​を招き通世案、秘史巻六は​クト​​忽圖​とし、秘史巻九および西史は​クド​​忽都︀​​チラウン​​赤剌溫​、二人が統べる部民が来た。わずかなもの以外は我らのために奪った。​トト​​脫脫​​バルクヂン​​八兒忽眞​の狭間に奔った。 隘は原書では隊。翁単谿〈[#「単谿」は翁方綱の号]〉が元史 本紀に拠って改める。通世案、秘史は​バルクヂン トクム​​巴兒忽眞 脫窟木​とし、​エルドマン​​額兒忒曼​​バルグヂン ドグルム​​巴兒古眞 脫古魯姆​とする。施世杰は「これはまさに今​オロス​​俄羅斯​国境の​バルグジン​​巴爾古情​河ほとりの岸である。​セレンゲ​​色楞格​河は北に流れ​オロス​​俄羅斯​​バイカル​​拜喀爾​湖に入る。その湖の東北の隅に、湖へ西南に流れ入るひとつの小河があり、これが​バルグジン​​巴爾古情​河である。いま​オロス​​俄羅斯​国の河のほとりに城がひとつあり、​バルグジン​​巴爾古情​城という」とする。元史 本紀は、​メネン ドドン​​咩撚 篤敦​第七子​ナチン​​納眞​は、​バラフ​​八剌忽​の民の家に入り婿となった。 兄の子​ハイド​​海︀都︀​はようやく成人し、​ナチン​​納眞​​バラフ​​八剌忽​ ​ケグ​​怯谷​諸民を率いて、共に君主として立ち、​バラカク​​八剌合黑​河のほとりに宿営をつらね、河に橋をかけて、往来しやすくした。​バラフ​​八剌忽​は、​バルグ​​巴兒古​であり、​バラカク​​八剌合黑​河は、おそらく​バルグジン​​巴爾古情​河であろう。 ​ラシツド​​喇施特​​セレンゲ​​色楞格​河北諸部を​バルグト​​巴兒古特​と呼ぶ。​マルコ ポーロ​​瑪兒科 保羅​は「​カラコリン​​喀剌科倫​から北に四十日行き、​バルグ​​巴兒古​の野に至り、住民は​メスクリト​​蔑斯克里特​と呼ばれる」という。​メスクリト​​蔑斯克里特​は、​メルキト​​蔑兒乞特​である。 ​バルグ​​巴兒古​の野は、思うに​バイカル​​拜喀爾​湖東の地であろう。そうであるならば湖東の地は、​バルグト​​巴兒古特​​メルキト​​蔑兒乞特​諸部が入り混じった所である。​バルグ​​巴兒古​ ​バルグト​​巴兒古特​の名称は、地名に依って部名とする、および部名に依って地名とする、いずれかはわからない。



〈史45-163上7後上與汪可汗征孟祿可汗,至黑辛八石之野,盡虜其民

通世案、西史作羊年、卽己未年也。然祕史叙於狗兒年王罕剿篾兒乞之後、亦當在壬戌年中也。上與汪可汗征盃祿可汗。秋濤案、本紀作不魯欲罕。通世案、祕史作古出〈底本-349 古敦不亦魯黑、額兒忒曼作卜欲魯克。元史魯欲、卽欲魯倒置。伯哷津書「〈[#底本では直前に「始めかぎ括弧」なし]〉乃蠻亦難︀赤汗先卒、二子曰太陽汗、曰卜欲魯克汗。太陽汗、名太亦布哈。受金封爵爲大王、故曰大王汗。蒙古人訛爲太陽汗。乃蠻有古出魯克卜欲魯克之稱號、故其弟曰卜欲魯克汗。昆弟交惡、分國而治」。洪氏曰「祕史古出古敦、當爲其名」。多遜謂「其弟轄境在北、近阿爾泰山、其兄轄地在南、近沙漠」。案、大王汗說甚鑿、分明此與王汗得名之由相混而誤。然克烈乃蠻諸︀王系屬、獨喇施特爲詳、史錄祕史皆不及也。至黑辛八石之野、文田案、黑辛八石、祕史作乞溼泐巴失、係海︀子名。劉郁西使記、稱爲乞則里八寺。乃龍骨河所瀦之海︀子。水道提綱所謂「畏隆︀古河、瀦爲奇薩爾巴思鄂模、周四十里」者︀也。奇薩爾巴思、卽黑辛八石四字之對音。通世案、西域水道記「噶勒札爾巴什淖爾、又曰赫色勒巴什」。淖爾卽鄂模也。洪氏曰「黑辛八石之野、當是淖爾近地、亦以湖名爲名。俄羅斯地圖、烏隆︀古河所注之淖爾、其北百餘里、有科則勒塔斯山、亦卽乞濕泐巴失之音」。案、西史作乞濕勒塔什。乞濕勒塔什、山名、赤石也。乞濕勒巴什、湖名、赤頭也。湖有赤頭魚、因以爲名。二名不同、然其地則相接也盡虜︀其民。盃祿可汗先遣也的脫孛魯、秋濤案、類︀編引、孛作不。文田案、祕史作也廸土卜魯黑。領百騎爲前鋒。我軍逼之。走據高山。其馬鞍轉墜、擒之。秋濤案、類︀編引、鞍作騎。通世案、祕史云「時不亦魯黑在兀魯黑塔黑的地面溑豁黑水行。成吉思與王罕到了。不亦魯黑不能對陳、起過阿勒台山去了。追至忽木升吉兒地面兀瀧古河行、遇著︀不亦魯黑來哨的官人也廸土卜魯黑。被成吉思出哨的、起上山去。因馬肚帶斷了、就拏住他。又追至乞溼泐巴失海︀子行、不亦魯黑遂窮促了」。兀魯黑塔黑之溑豁黑水、本書丙寅年作兀魯塔山莎合水。施世杰曰「溑豁黑水、卽今之索果克河、爲科布多河之上源」。阿勒台山、卽阿爾泰山、此謂阿爾泰東南幹山、在科布多城西南。忽木升吉兒、葢今布拉靑吉兒河傍之地、河以地名、又名靑吉斯河。兀瀧古河、卽烏隆︀古河。靑吉斯河、出阿爾泰山南麓、南流與東北來之布爾干河合、爲烏隆︀古河、折西流、瀦爲赫色勒巴什諾爾。地名地形皆合。據此、則擒前鋒、在烏隆︀古河邊、然後追至赫色勒巴什之地也。本書似叙述未詳。西史全同本書、唯多「卜欲魯克逃於侃侃助特」一語。侃侃助特、卽元史之謙謙州、在唐努山烏梁海︀境內、詳元史譯文證補西北地附錄釋地。冬、上與乃蠻部將曲薛吾・撒八剌二人、文田案、祕史作可克薛兀・撒卜剌黑。通世案、祕史西史、皆以爲一人此作二人、誤。喇施特謂「可克薛古爲療病之聲、撒卜剌克爲名」。遇於拜答剌邊只兒之野、文田案、祕史作巴亦荅剌黑別勒赤兒。曾植案、拜荅剌、卽今拜達里克河。通世案、蒙古游牧記云「拜塔里克河、亦作拜達里克。源出枯庫嶺南麓、西南流、經庫倫伯勒齊爾之地、瀦爲察罕泊」。則巴亦荅剌黑別勒赤兒、卽拜塔里克河邊庫倫伯勒齊爾之地歟。喇施特曰「昔時乃蠻主娶汪古部女拜荅剌克、結婚於巴勒赤列之地。蒙古遂幷人名地名爲稱。或僅稱拜荅剌克」。說殆附會。又案、伯勒齊爾、蒙古語牧場也。此名、何地無之、不必指庫倫伯勒齊爾也。觀下文王汗等過也迭而案臺河、則東歸之軍、似沿札布干河烏里雅蘇台河而進、不南至拜塔里克河。拜答剌邊只兒之地、竟不可考。日暮列陣對宿、期明日戰。是夜汪可汗多燃火於所陣地、使秋濤案、類︀編作示。人不疑、潜移眾於哈薛〈東方學デジタル圖書館-31秋濤案、類︀編薛作薩。兀里河上。文田案、西域水道記、「喀喇淖爾周數里、在布拉干河源南十餘里、東南流百里、入布拉干河」。卽此哈薛兀里河也。祕史作合剌泄兀勒河。此處當作哈剌薛兀里。通世案、類︀編作哈薩兀里河。誥必勒曰「卽今哈綏河」、哈綏河、亦曰哈瑞河、出杭愛山頂之西南幹山、東北流九百里、入色楞格河。祕史云「逆合剌泄兀勒河」、則當是西流之河。與哈綏河不合。 時札木合在幕下、合字原脫、張石州校增。通世案、西史亦云「札木合從成吉思軍」。唯祕史則云「那裏札木合王罕一同起時云云」。考札木合、雖與太祖︀爲安荅、然自十三翼戰以後、變爲深讎。何有從太祖︀之事哉。蓋是役在壬戌年末。前辛酉年、札木合率羣部、圖太祖︀及王罕、事敗衆潰、羣部離畔於是不得已降於王罕、遂寓於其軍也。設使是役在辛酉之前、如本書所述、則札木合固爲鉅姓豪族、不啻不從太祖︀、幷當不屬王罕也。日出、望見汪可汗立旗幟非舊處、馳往問之曰「王知眾否。我昆弟如野鳥依人、終必飛去。餘皆白翎鵲也。棲息幕上、寧肎去乎。我嘗言之矣」。秋濤案、此段語意未晰。祕史云「札木合對王罕說「我是存有的白翎雀兒、帖木眞是散歸的吿天雀兒」」。元史本紀「札木合言於汪罕曰「我於君是白翎雀、他人是鴻雁耳。白翎雀、寒暑︀常在北方。鴻雁遇寒則南飛就暖耳」。意謂帝心不可保也」〈[#底本では直前にもうひとつ「終わりかぎ括弧」あり]〉。二書皆與此異。然語較明。通世案、西史曰「札木合附王汗耳語曰「我友無恒心、如鴻雁遇冬則飛去。我如白翎雀、不因寒暑︀異棲」」。本書之我昆弟、元史之他人、西史之我友、皆指太祖︀也。餘皆二字、疑是余若之譌。〈底本-350 將曲憐拔都︀聞之歎曰「至愛昆弟之間、何爲此言也。」秋濤案、祕史作古鄰把阿禿兒所言。通世案、祕史云兀卜赤黑台的人、似古鄰部名。西史作兀卜赤兒古鄰巴哈都︀兒、云「兀卜赤兒、爲一種紅果名、婦女取以靧面。古鄰面赤、故以是稱之。成吉思亦甞用此果染面」。和都︀・赤剌溫、因是亦叛汪可汗、歸其父脫脫所居。通世案、因是二字、似指札木合離間。祕史則叙於乃蠻將襲掠之後、云「因這機會、也連他百姓離了、欲與他父相合、順著︀薛涼格河去了」。最協事情。 上見汪可汗移去、曰「此輩無乃異志乎」。通世案、祕史云「他將我做燒飯︀般搬了」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉、西史云「我今在火坑中、而王汗棄我」。卽解陣去駐撒里川。文田案、祕史作撒阿里客額兒。汪可汗至土兀剌河、通世案、祕史無此句。王罕歸途被乃蠻襲掠、未達土兀剌河也。伯哷津作塔塔兒土霍勒之地。雖其地今不可考、然可以證土兀剌河之誤也。其子亦剌合鮮昆、及札阿紺孛、通世案、伯哷津作伊勒喀鮮昆・札罕不。祕史作桑昆、無札合敢不。據祕史、是役在壬戌年、而札合敢不之奔乃蠻、在壬戌之前、其不從王罕軍、明也。自也迭而案臺河文田案、祕史作額垤兒阿勒台的谷子。通世案、西史云「二人同至伊迭兒阿爾泰之地、其地有河多林木」。祕史則謂帝渡此而還。葢太祖︀先渡、王罕等後至也。蒙古游牧記云「伊第爾河、舊作厄得勒。源出喀爾喀西界鄂勒伯稽山、東流、齊老圖河自西南來會。又東北流、入色楞格河」。額垤兒阿勒台谷子、葢謂伊第爾河源之地。來會父軍。曲薛吾・撒八剌、乘其不備、虜︀其部眾、通世案、祕史云「於王罕的後襲著︀、將桑昆的妻子百姓據了」。本書失載妻子。西史有眷屬字、卽妻子也。又掠汪可汗所居邊民牛馬輜重而還、通世案、祕史云「又將王罕在帖列格禿口子行的一半百姓頭口也擄將去了」。較撒察・泰出就擒之地、多一格子。伯哷津作塔剌因阿馬色剌與上同。亦剌合・札阿紺孛僅以身免︀、奔吿汪可汗。汪可汗命亦剌合、將己兵往追之。且遣使來吿、曰「乃蠻爲不道、虜︀我人民。太子有良將四人。能〈東方學デジタル圖書館-32假我雪〈史45-163下1怨復人民乎」。上釋前憾、遂遣博爾朮那顏、通世案、祕史作孛斡兒出、阿魯剌惕氏。嘗援太祖︀逐賊、至太祖︀娶孛兒帖後、遂來屬。西史作孛古兒濟諾顏、源流作阿爾拉特博郭爾濟諾顏。元史有傳。木華黎國王、通世案、祕史作模合里、又木合黎、札剌亦兒氏。初屬主兒乞部、太祖︀平主兒乞時、從父古溫兀阿來屬。伯哷津作木訶里國王。洪氏曰「木華黎封王在後、而此處已稱國王、可見脫必赤顏原本如是。祕史作木合里。此作詞字音、可見史稱木華黎、音未甚合。元史有傳」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉博羅渾那顏、通世案、祕史作孛羅兀勒又孛羅忽勒。元史本傳作博爾忽、許兀愼氏。太祖︀平主兒乞時、孛羅兀勒猶幼、在主兒乞營內、古溫兀阿弟者︀卜客得之、以獻訶額侖。西史孛羅古勒諾顏。赤老溫拔都︀通世案、赤老溫見前、伯哷津作赤老根巴哈都︀兒。祕史、速勒都︀孫氏。辛酉年、闊亦田戰後、隨父鎻兒罕失剌來屬。今是役、赤老溫已在麾下、其爲辛酉後年事益明。四將、帥兵往救之。比我軍至、亦剌合先與其將原作將其。張石州曰「二字疑倒」。今改。迪吉火力・亦禿兒干盞塔兀等二人通世案、祕史無此名。額兒忒曼作的斤火里・伊土兒干額德克、伯哷津作的斤火里・亦土兒干約塔黑。追至忽剌河山。通世案、祕史作忽剌安忽惕地面。曲薛吾・撒八剌迎敵擒〈[#「曲薛吾」は底本では「曲薜吾」]〉秋濤案、原文此下有之字、衍文也。擒字當貫下迪吉火力、亦禿兒干盞塔兀二人爲句迪吉火力・亦禿兒干盞塔兀二原作一。秋濤校改。人。流矢中亦剌合馬胯、幾爲所獲。須臾〈[#「須臾」は底本では「須叟」。他の親征錄校注本に倣い修正。以後同じ]〉四將兵亦至、通世案、西史此間有孛古兒濟駛良馬之事。救亦剌合、大敗其眾、盡掠所獲、歸之汪可汗。秋濤案、元史本紀云「汪罕命亦剌合、與卜魯忽䚟共追之」。又云「師未至、亦剌合已追及曲薛吾、與之戰、大敗。卜魯忽䚟成擒。流矢〈[#「流矢」は底本では「流失」]〉中亦剌合馬胯、幾爲所獲。須臾四將至、擊乃蠻走、盡奪所掠歸汪罕」。卽此事也。而所云亦剌合之將、曰卜魯忽䚟、與此不同。迪吉火力亦禿兒、當卽卜魯。卜魯禿兒聲近。干盞塔兀、當卽忽䚟。亦聲近。當時此書盡用蒙古字。後來譯者︀、對音用字不同、遂致互異耳。〈東方學デジタル圖書館-33曾植案、不可强合爲一。史當別有所本耳。可汗深感上德、謝曰「曩以困乏、原作用乏。秋濤依類︀編引改。荷太子加意原作切切。秋濤依類︀編引改。〈底本-351 存撫。今已亾之國、又奪歸之。不知將何以報也」。原闕不字。秋濤依類︀編補。通世案、是語純與西史同。祕史則云「在前他的好父親、將我輸了的百姓救與了我。如今他兒子、將我輸了的百姓、又差四傑來救與了我。欲報他的恩、天地護助知也者︀」。於是王罕憂其子弟無行、遂與太祖︀會于土兀剌河上之黑林、重訂父子之好。是卽本書叙於王罕東歸之後者︀也。又案、西史此處有王汗召孛古兒濟餽衣器︀之事。時聞脫脫復出八兒忽眞隘、原作入忽眞隘。秋濤校改。居統烈澤、上率兵復討之。後上與弟哈撒兒、討乃蠻部、至忽蘭盞側山、曾植案、此山、恐卽邊𡎇紀行之忽闌赤斤地方、譯改忽闌齊勤者︀、在塔米爾河西南。 大敗之、盡殺︀諸︀部衆、取其屍焉、於是申號令還軍。通世案、此條、祕史無。伯哷津書云「是冬、聞托克塔復出巴兒古眞、將謀爲變。成吉思與弟朮赤哈薩兒共議、恐非實信、且料其無能爲、姑置之」。與本書異。末二句、葢「勢弱不足慮矣」之異譯。是時原作時是。張石州曰「疑倒」。乃蠻勢弱不足慮矣。通世案、祕史成吉思自擊乃蠻還至撒阿里客額兒條下云「也將乃蠻種人的計量、大槪料得過了、不把來當數」。是乃此一句所本。

訳文 二三-二八

その後通世案、西史は羊年とし、これは己未年(1199年)である。だが秘史は狗児年に​ワンカン​​王罕​​メルキ​​篾兒乞​掃討の後を述べているので、やはり壬戌年(1202年)中にあったとあてる。上と​ワン カガン​​汪 可汗​​ブイル カガン​​盃祿 可汗​を征伐した。秋濤案、元史 本紀は​ブルユ ハン​​不魯欲 罕​とする。通世案、秘史は〈底本-349​グチユグトン ブイルク​​古出古敦 不亦魯黑​とし、​エルドマン​​額兒忒曼​​ブユルク​​卜欲魯克​とする。元史の魯欲は、欲魯の倒置。​ベレジン​​伯哷津​の書は「​ナイマン​​乃蠻​ ​イナンチ カン​​亦難︀赤 汗​がまず亡くなり、二子は​タヤン カン​​太陽 汗​といい、​ブユルク カン​​卜欲魯克 汗​といった。​タヤン カン​​太陽 汗​は、名を​タイブハ​​太亦布哈​という。金朝から冊封を受け大王となり、ゆえに​ダワン カン​​大王 汗​という。モンゴル人は訛って​タヤン カン​​太陽 汗​とした。​ナイマン​​乃蠻​には​グチユルク ブユルク​​古出魯克 卜欲魯克​の称号があり、ゆえにその弟は​ブユルク カン​​卜欲魯克 汗​という。兄弟は仲が悪く、分国して治めた」とある。 洪氏は「秘史の​グチユグトン​​古出古敦​は、その名にあたる」と言う。​ドーソン​​多遜​は「その弟は北にある国境を治め、​アルタイ​​阿爾泰​山に近く、その兄は南にある地を治め、沙漠に近かった」と言う。案、​ダワン カン​​大王 汗​ははなはだ鮮やかであることをいい、これと​ワンカン​​王汗​が得た名の由来が混りあって誤ったことが明らかにわかる。​ケレイ​​克烈​ ​ナイマン​​乃蠻​諸王の系属は、ただ​ラシツド​​喇施特​が詳しく、元史も親征録も秘史もみな及ばない。​クシンバシ​​黑辛八石​の野に至り、文田案、​クシンバシ​​黑辛八石​は、秘史は​キシルバシ​​乞溼泐巴失​とし、湖に関わる名である。劉郁の西使記は、​キゼリバシ​​乞則里八寺​と称する。それこそが​ロング​​龍骨​河の湖沼である。水道提綱にいう「​ウイロング​​畏隆︀古​河、​キサルバス オム​​奇薩爾巴思 鄂模​なる沼、周囲の長さは四十里」である。​キサルバス​​奇薩爾巴思​は、​クシンバシ​​黑辛八石​四字の揃った音である。通世案、西域水道記の「​ガルヂヤルバシユ ノール​​噶勒札爾巴什 淖爾​、また​ヘセルバシユ​​赫色勒巴什​とも言う」。​ノール​​淖爾​​オム​​鄂模​である。洪氏は「​クシンバシ​​黑辛八石​の野は、​ノール​​淖爾​に近い地とし、また湖の名を名とする。​オロス​​俄羅斯​地図、​ウロング​​烏隆︀古​河が注ぐ​ノール​​淖爾​、その北百余里、​コゼルタス​​科則勒塔斯​山があり、またそれは​キシルバシ​​乞濕泐巴失​の音である」。 案、西史は​キシルタシユ​​乞濕勒塔什​とする。​キシルタシユ​​乞濕勒塔什​は、山の名で、赤い石である。​キシルバシユ​​乞濕勒巴什​は、湖の名で、赤い頭である。湖に頭の赤い魚がおり、それにちなんだ名である。二つの名は同じでないが、その地はお互いに接している。 その民を捕らえ尽くした。​ブイル カガン​​盃祿 可汗​はまず​エチトボル​​也的脫孛魯​を遣わし、秋濤案、元史類編を引いて、孛は不とする。文田案、秘史は​エデ トブルク​​也廸 土卜魯黑​とする。百騎を前鋒として統率した。我が軍は之を追い込んだ。走って高山にたてこもった。その馬の鞍は転げ落ち、これを捕らえた。秋濤案、元史類編を引いて、鞍を騎とする。通世案、秘史は「時に​ブイルク​​不亦魯黑​​ウルクタク​​兀魯黑塔黑​の地の​ソゴク​​溑豁黑​川にいた。​チンギス​​成吉思​​ワンカン​​王罕​は到った。​ブイルク​​不亦魯黑​は対陣できず、​アルタイ​​阿勒台​山を立ち去った。​クムセンギル​​忽木升吉兒​の地の​ウロング​​兀瀧古​河を追い至り、​ブイルク​​不亦魯黑​の官人​エデ トブルク​​也廸 土卜魯黑​の哨兵に遭った。​チンギス​​成吉思​の哨兵に、山の上に追い立てられた。そこで馬の肚帯が断たれ、とどまり捕まった。​キシルバシ​​乞溼泐巴失​湖に追い至り、​ブイルク​​不亦魯黑​はついに終わりとなった」と言う。 ​ウルクタク​​兀魯黑塔黑​​ソゴク​​溑豁黑​川、本書は丙寅年(1206年)​ウルタ​​兀魯塔​​シヨカ​​莎合​川とする。施世杰は「​ソゴク​​溑豁黑​川は、今の​ソゴク​​索果克​河は、​コブド​​科布多​河の上源となる」と言う。​アルタイ​​阿勒台​山は、​アルタイ​​阿爾泰​山であり、この​アルタイ​​阿爾泰​東南の幹山は、​コブド​​科布多​城の西南にある。​クムセンギル​​忽木升吉兒​は、思うに今​ブラチンギル​​布拉靑吉兒​河の傍の地であり、地名によって河は、また​チンギス​​靑吉斯​河という名である。​ウロング​​兀瀧古​河は、​ウロング​​烏隆︀古​河である。 ​チンギス​​靑吉斯​河は、​アルタイ​​阿爾泰​山南麓を出て、南に流れ東北来の​ブルガン​​布爾干​河と合い、​ウロング​​烏隆︀古​河となり、折れて西に流れ、ため池は​ヘセルバシユ ノール​​赫色勒巴什 諾爾​をつくる。地名地形みな合う。此に拠れば、前鋒を捕らえたのは、​ウロング​​烏隆︀古​河のほとりであり、然る後に​ヘセルバシユ​​赫色勒巴什​の地に追い至った。本書は叙述が詳しくないようである。西史はすべて本書と同じで、ただ「​ブユルク​​卜欲魯克​​カンカンヂユト​​侃侃助特​に逃げた」の一語が多い。​カンカンヂユト​​侃侃助特​は、元史の​チエンチエンヂヨウ​​謙謙州​は、​タンヌ​​唐努​​ウリヤンハイ​​烏梁海︀​境内にあり、詳しくは元史訳文証補と元史 地理志 西北地附録釈地を見よ。 その冬、上と​ナイマン​​乃蠻​部将​コクセウ​​曲薛吾​​サバラ​​撒八剌​二人、文田案、秘史は​コクセウ​​可克薛兀​​サブラク​​撒卜剌黑​。通世案、秘史と西史、みな一人を二人とし、誤っている。​ラシツド​​喇施特​は「​コクセグ​​可克薛古​は結核の音とし、​サブラク​​撒卜剌克​を名とする」と言う。 ​バイダラベンヂル​​拜答剌邊只兒​の野で遇い、文田案、秘史は​バイダラク ベルチル​​巴亦荅剌黑 別勒赤兒​とする。曽植案、​バイダラ​​拜荅剌​、これは今の​バイダリク​​拜達里克​河。通世案、蒙古游牧記は「​バイタリク​​拜塔里克​河は、また​バイダリク​​拜達里克​とする。源は​クク​​枯庫​嶺の南麓を出て、西南に流れ、​クルンバルチル​​庫倫伯勒齊爾​の地を経て、沼は​チヤカンボ​​察罕泊​とする」。とすれば​バイダラク ベルチル​​巴亦荅剌黑 別勒赤兒​は、​バイタリク​​拜塔里克​河のほとりの​クルンバルチル​​庫倫伯勒齊爾​の地か。 ​ラシツド​​喇施特​は「むかし​ナイマン​​乃蠻​主は​オング​​汪古​部の娘​バイダラク​​拜荅剌克​を娶り、​バルチレ​​巴勒赤列​の地で結婚した。モンゴルはそのまま人名地名ともに称とする。ある僅かの人は​バイダラク​​拜荅剌克​を称した」と言う。こじつけることを危ぶむと説く。又案、​バルチル​​伯勒齊爾​は、モンゴル語の牧場である。この名、なんの地でもなく、きっと​クルンバルチル​​庫倫伯勒齊爾​を指さない。 後文に​ワンカン​​王汗​等は​エデ​​也迭​​アンタイ​​案臺​河を過ぎたと見え、つまりは東に帰る軍であり、​ヂヤブカン​​札布干​河と​ウリヤスタイ​​烏里雅蘇台​河に沿って進んだようで、​バイタリク​​拜塔里克​河に至る南ではない。​バイダラベンヂル​​拜答剌邊只兒​の地は、結局わからない。 日が暮れ陣を並べて宿営し、明日戦うことを決めた。この夜​ワン カガン​​汪 可汗​は陣で多くの火を燃やし、秋濤案、元史類編は示を作る。人が疑わぬようにさせて、密かに軍勢を​ハセウリ​​哈薛兀里​秋濤案、元史類編は薛を薩とする。河のほとりに移した。文田案、西域水道記は、「​カラ ノール​​喀喇 淖爾​の周囲は数里で、​ブラカン​​布拉干​河の源南十余里にあり、東南に百里流れ、​ブラカン​​布拉干​河に入る」。それがこの​ハセウリ​​哈薛兀里​河である。秘史は​カラセウル​​合剌泄兀勒​河とする。 この場所は​ハラセウリ​​哈剌薛兀里​としてあてる。通世案、元史類編は​ハサウリ​​哈薩兀里​河。​ガウビル​​誥必勒​は「これは今の​ハスイ​​哈綏​河」、​ハスイ​​哈綏​河は、また​ハルイ​​哈瑞​河ともいい、​ハンアイ​​杭愛​山頂の西南幹山を出て、東北に九百里流れ、​セレンゲ​​色楞格​河に入る。秘史は「​カラセウル​​合剌泄兀勒​河をさかのぼり」と言い、西に流れるこの河とあてる。​ハスイ​​哈綏​河と合わない。 時に​ヂヤムカ​​札木合​は幕下にあり、合の字は原書では抜けており、張石州が校増した。通世案、西史はまた「​ヂヤムカ​​札木合​​チンギス​​成吉思​軍に従った」と言う。ただ秘史は「そこで​ヂヤムカ​​札木合​​ワンカン​​王罕​がいっしょに動いた時云云」と言う。​ヂヤムカ​​札木合​を考えると、太祖と​アンダ​​安荅​だったといえども、十三翼の戦から以後、深い讎に変わった。 どうして彼が太祖に従う事があろうか。思うにこの役は壬戌年(1202年)の末にあった。前年の辛酉年(1201年)、​ヂヤムカ​​札木合​は諸部を率いて、太祖と​ワンカン​​王罕​を謀り、戦いに破れて軍勢はついえ、諸部は離れそむきやむを得ず​ワンカン​​王罕​に降り、そのまま軍に身を寄せたのである。この役は辛酉年(1201年)の前にあり、本書が述べるように、​ヂヤムカ​​札木合​はもとより大きな豪族だったので、太祖に従わないのみならず、​ワンカン​​王罕​にも属さなかったのである。日が出て、​ワン カガン​​汪 可汗​が旗幟を立て元のところにいないのを望み見て、彼を追いかけて「王は多くを知っているのか否か。我が兄弟は人にたよる野鳥のようなもので、ついには必ず飛び去る。私も同じく白翎鵲である。家の上に棲息し、安心して自ら去ろう。私がためしでこれを言おうか」と問いかけた。 秋濤案、この段は語意がはっきりしない。秘史は「​ヂヤムカ​​札木合​​ワンカン​​王罕​に対して「我は白翎雀の子であり、​テムヂン​​帖木眞​は去りゆく告天雀の子である」と説いた」とある。元史 本紀「​ヂヤムカ​​札木合​​ワンカン​​汪罕​に「我はあなたにとって白翎雀であり、他人は鴻雁でしかない。白翎雀は、寒暑で常に北方にある。鴻雁は寒さに遇えば南に飛就んで暖まるのみ」と言った。意味は帝の心は保てないと言う」。 二書いずれもこれと異なる。語を較べれば明らか。通世案、西史は「​ヂヤムカ​​札木合​​ワンカン​​王汗​に付いて耳打ちし「我が友は不変の道徳心がなく、鴻雁が冬に遇うように飛び去る。私は白翎雀と同じで、寒暑ですみかを変えない」」と言う。本書の我が兄弟、元史の他人、西史の我が友、みな太祖を指す。みな二字が余分で、この余分は同じ誤りの疑いがある。 〈底本-350​グリン バード​​曲憐 拔都︀​はこれを聞いて嘆き「愛すべき兄弟の間に至り、この言葉は何の為なのか。」と言った秋濤案、秘史は​グリン バアトル​​古鄰 把阿禿兒​の言葉とする。通世案、秘史は​ウブチクタイ​​兀卜赤黑台​という人で、​グリン​​古鄰​部の名に似ている。西史は​ウブチル グリン バハドル​​兀卜赤兒 古鄰 巴哈都︀兒​とし、「​ウブチル​​兀卜赤兒​、一種の紅い果実の名で、婦女が洗顔に使う。​グリン​​古鄰​赤面が、この名称のいわれである。​チンギス​​成吉思​もかつてこの果実を顔を染めるのに用いた」と言う。 ​ホド​​和都︀​​チラウン​​赤剌溫​は、また​ワン カガン​​汪 可汗​が叛いたことにより、​トト​​脫脫​のところに居たのを父のもとに身を寄せた。通世案、因是の二字、​ヂヤムカ​​札木合​の離間を指すようである。秘史は​ナイマン​​乃蠻​のまさに襲掠の後で、「この機会にちなみ、また彼の民を連れて離れ、彼の父と合流することを望み、​セレンゲ​​薛涼格​河に沿って去った」と言う。最も事実に合っている。 上は​ワン カガン​​汪 可汗​が移り去るのを見て、「この者は二心が無いか」と言った。通世案、秘史は「彼はまさに私を焼飯にして引き返そうとした」と言い、西史は「私は今火のあなの中にいて、​ワンカン​​王汗​は私を棄てた」と言う。ただちに陣を解いて去り​サリ セン​​撒里 川​に駐留した。文田案、秘史は​サアリ ケエル​​撒阿里 客額兒​とする。​ワン カガン​​汪 可汗​​トウラ​​土兀剌​河に至り、 通世案、秘史は此句がない。​ワンカン​​王罕​は帰途で​ナイマン​​乃蠻​に襲われ掠められ、​トウラ​​土兀剌​河に達していないのである。​ベレジン​​伯哷津​​タタル トホル​​塔塔兒 土霍勒​の地とする。その地は今はわからないが、​トウラ​​土兀剌​河の誤りである証とできるであろう。その子​イラカ セングン​​亦剌合 鮮昆​、および​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​は、通世案、​ベレジン​​伯哷津​​イルカ セングン​​伊勒喀 鮮昆​​ヂヤカンブ​​札罕不​とする。秘史は​サングン​​桑昆​とし、​ヂヤカガンブ​​札合敢不​はない。秘史に拠れば、この役は壬戌年(1202年)にあり、​ヂヤカガンブ​​札合敢不​​ナイマン​​乃蠻​に奔るのは、壬戌(1202年)の前にあり、​ワンカン​​王罕​軍に従っていないのは、明らかである。 ​エデ​​也迭​​アンタイ​​案臺​河から文田案、秘史は​エデル アルタイ​​額垤兒 阿勒台​​かわまた​​川股​とする。通世案、西史は「二人はいっしょに​イデル アルタイ​​伊迭兒 阿爾泰​の地に至り、その地は河があり林木が多かった」とする。秘史では帝はこれを渡り帰ったと言う。思うに太祖がまず渡り、​ワンカン​​王罕​等があとで至ったのであろう。蒙古游牧記は「​イヂル​​伊第爾​河は、古くは​エデル​​厄得勒​とした。源流は​カルカ​​喀爾喀​西の​オルバキ​​鄂勒伯稽​山との境を出て、東に流れ、​ヂラト​​齊老圖​河が西南から合流する。また東北に流れ、​セレンゲ​​色楞格​河に入る」。​エデル アルタイ​​額垤兒 阿勒台​​かわまた​​川股​は、​イヂル​​伊第爾​河源の地を言うのであろう。 父の軍と合流した。​コクセウ サバラ​​曲薛吾 撒八剌​は、その不備に乗じて、その部衆を捕まえ、通世案、秘史は「​ワンカン​​王罕​の背後を襲って、​サングン​​桑昆​の妻子と民衆を捕らえた」。本書は妻子を載せ忘れている。西史は眷属の字があり、つまり妻子である。 また​ワン カガン​​汪 可汗​のところの住居と民と牛馬と輜重とを掠めて帰り、通世案、秘史は「また将兵は​ワンカン​​王罕​にある​テレゲト​​帖列格禿​の口のなかばの民衆を捕えて去った」。​サチヤ​​撒察​​タイチユ​​泰出​が捕まった地​テレト​​帖列徒​と較べると、一文字多い。​ベレジン​​伯哷津​​タライン アマセラ​​塔剌因 阿馬色剌​と前文のものを同じとする。 ​イラカ​​亦剌合​​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​は僅かに身をもってまぬがれ、はしって​ワン カガン​​汪 可汗​に告げた。​ワン カガン​​汪 可汗​​イラカ​​亦剌合​に命じて、自分の兵にこれを追わせようとした。さらに使いを遣わして告げて来て、「​ナイマン​​乃蠻​は非道を行い、我が人民を捕らえた。あなたは良将を四人お持ちである。貸して我が怨みを雪ぎ人民を還すことができようか」と言った。上はさきの恨みを捨て、ついに遣わすところの​ボオルチユ ノヤン​​博爾朮 那顏​通世案、秘史は​ボオルチユ​​孛斡兒出​とし、​アルラト​​阿魯剌惕​氏。かつて太祖を援けて賊を追いかけ、太祖が​ボルテ​​孛兒帖​を娶った後に至り、遂に来属した。西史は​ボグルヂ ノヤン​​孛古兒濟 諾顏​とし、蒙古源流は​アルラト​​阿爾拉特​ ​ボゴルヂ ノヤン​​博郭爾濟 諾顏​とする。元史に伝がある。 ​ムホアリ グオワン​​木華黎 國王​通世案、秘史は​ムカリ​​模合里​、また​ムカリ​​木合黎​​ヂヤライル​​札剌亦兒​氏とする。最初は​ヂユルキ​​主兒乞​部に属し、太祖が​ヂユルキ​​主兒乞​を平定した時、父​グウングア​​古溫兀阿​に従って来て属した。​ベレジン​​伯哷津​​ムホリ コクワウ​​木訶里 國王​。洪氏は「​ムホアリ​​木華黎​は王に封じられた後、これにより国王と称し、​トビチヤン​​脫必赤顏​の原本にこれのようなものが見える」と言う。秘史は​ムカリ​​木合里​とする。これは訶の字音を作り、史に​ムホアリ​​木華黎​と称するのが見え、音はあまり合っていない。元史に伝がある。 ​ボロフン ノヤン​​博羅渾 那顏​通世案、秘史は​ボロウル​​孛羅兀勒​または​ボロクル​​孛羅忽勒​とする。元史 本伝は​ボルフ​​博爾忽​​フウヂン​​許兀愼​氏とする。太祖が​ヂユルキ​​主兒乞​を平定した時、​ボロウル​​孛羅兀勒​はなお幼く、​ヂユルキ​​主兒乞​営内にあり、​グウングア​​古溫兀阿​​ヂエブケ​​者︀卜客​がこれを得て、​ホエルン​​訶額侖​に献じた。西史は​ボログル ノヤン​​孛羅古勒 諾顏​​チラウン バード​​赤老溫 拔都︀​通世案、​チラウン​​赤老溫​は前に見え、​ベレジン​​伯哷津​​チラゲン バハドル​​赤老根 巴哈都︀兒​とする。秘史、​スルドスン​​速勒都︀孫​氏。辛酉年(1201年)、​コイテン​​闊亦田​戦後、父​ソルカン シラ​​鎖兒罕 失剌​に随い来属した。今のこの役で、​チラウン​​赤老溫​はすでに麾下にあり、辛酉(1201年)の後の年の事であることはいよいよ明らかである。 四将は、出兵しこれを助けに行った。我が軍はあわせて至り、​イラカ​​亦剌合​はその将其将は原書では将其。張石州は「二字は倒置の疑いがある」と言う。今改める。​デギホリ​​迪吉火力​​イトルゲン​​亦禿兒干​​チヤンタウ​​盞塔兀​等二人とともに先んじて通世案、秘史はこの名はない。​エルドマン​​額兒忒曼​​デギンホリ​​的斤火里​​イトルゲン​​伊土兒干​​エデク​​額德克​とし、​ベレジン​​伯哷津​​デギンホリ​​的斤火里​​イトルゲン​​亦土兒干​​ヨタク​​約塔黑​とする。 追って​クラホ​​忽剌河​山に至った。通世案、秘史は​クラアンクト​​忽剌安忽惕​の地とする。​コクセウ サバラ​​曲薛吾 撒八剌​は敵を迎えて捕らえ秋濤案、原書はこの下に之の字があり、余分である。擒の字は続く​デギホリ​​迪吉火力​​イトルゲン​​亦禿兒干​​チヤンタウ​​盞塔兀​二人にあてる。 ​デギホリ​​迪吉火力​​イトルゲン​​亦禿兒干​​チヤンタウ​​盞塔兀​原書は一とする。秋濤が校改する。人。流矢が​イラカ​​亦剌合​の馬の股に当たり、捕らえられそうになった。少しして四将の兵も至り、通世案、西史はここに​ボグルヂシ​​孛古兒濟駛​良馬の事がある。​イラカ​​亦剌合​を救い、軍勢を大いに負かし、奪い取り尽くして、​ワン カガン​​汪 可汗​に返した。 秋濤案、元史 本紀は「​ワンカン​​汪罕​​イラカ​​亦剌合​に命じ、​ブルクダイ​​卜魯忽䚟​と共にこれを追った」と言う。又「軍勢が至らず、​イラカ​​亦剌合​ゆえに​コクセウ​​曲薛吾​を追い、これと戦い、大敗した。​ブルクダイ​​卜魯忽䚟​は捕まった。流矢〈[#「流矢」は底本では「流失」]〉​イラカ​​亦剌合​の馬の股に当たり、捕らえられそうになった。少しして四将の兵が至り、​ナイマン​​乃蠻​を攻めて走らせ、奪い取り尽くして、​ワン カガン​​汪 可汗​に返した」と言う。つまりこの事である。 言うところの​イラカ​​亦剌合​の将は、​ブルクダイ​​卜魯忽䚟​と言い、これと同じではない。​デギホリイトル​​迪吉火力亦禿兒​は、​ブル​​卜魯​とする。​ブル​​卜魯​​トル​​禿兒​は音が近い。​ゲンチヤンタウ​​干盞塔兀​は、​フダイ​​忽䚟​とする。また音が近い。当時この書はみなモンゴル文字を用いていた。後に訳者を招き、対音は同じでない字を用い、ついに互いに異なる聞こえ方になった。曽植案、強いてひとつにすべきでない。史当別有所本耳。〈[#訳せない。「元史は別のところから当てただけである」か]〉 ​カガン​​可汗​は深く上の徳に感じ、謝して言うには「以前に困窮し、原書は困乏を用乏とする。秋濤が元史類編に拠って改める。あなた様を責めて自分勝手な考えを加え原書は加意を切切とする。秋濤が元史類編に拠って改める。〈底本-351なぐさめ安んじた。今すでに国を亡くし、またこれを奪い返した。いったい何をもって報いるであろうか」。原書は不の字が欠けている。秋濤が元史類編に拠って補った。通世案、この語はみな西史と同じ。 秘史は「かつて彼の良い父親があり、まさに私が負けたところの民衆を救って私に与えた。今彼の子は同じく、私が負けたところの民衆を、また四傑を遣わして救って私に与えた。彼の恩に報いるに、天地が護り助け知らんことを願う」と言う。​ワンカン​​王罕​は子弟の品行が悪いことを憂いて、ついに​トウラ​​土兀剌​河のほとりの黒林で太祖と会い、重ねて父子のよしみを結んだ。これは本書では​ワンカン​​王罕​が東に帰った後に述べている。又案、西史はここに​ワンカン​​王汗​​ボグルヂ​​孛古兒濟​を招いて衣や什器を贈った事がある。 時に​トト​​脫脫​が再び​バルクヂン​​八兒忽眞​の狭間を出てきたと聞き、原書は入忽真隘とする。秋濤が校改する。​トンレ​​統烈​の沢に居て、上は兵を率いて再びこれを討った。上と弟​ハツサル​​哈撒兒​が、​ナイマン​​乃蠻​部を討った後、​フランヂヤンチエ​​忽蘭盞側​山に至り、曽植案、この山は、恐らく塞北紀行〈[#「塞北紀行」は底本では「辺𡎇紀行」]〉​フランチギン​​忽蘭赤斤​地方であり、訳し改め​フランヂキン​​忽闌齊勤​は、​タミル​​塔米爾​河の西南にある。 大いに之を敗り、諸部民を殺し尽くし、その屍を取り、これにおいて号令を申して軍を還した。通世案、このくだりは、秘史に無い。​ベレジン​​伯哷津​の書は「この冬、​トクタ​​托克塔​がまた​バルグヂン​​巴兒古眞​が出て、まさに変を起こそうと謀ったと聞いた。​チンギス​​成吉思​と弟​チユチ ハサル​​朮赤 哈薩兒​は共に話し合い、事実ではない恐れがあるとし、またその力もないと考え、しばらくこれを放って置いた」と言う。 本書と異なる。末尾の二句、思うに後文の「勢いが弱く足りずおもんばかった」の異訳であろう。この時原書では時是とする。張石州は「倒置が疑われる」と言う。​ナイマン​​乃蠻​は勢いが弱く足りずおもんばかったのだった。通世案、秘史は​チンギス​​成吉思​自ら​ナイマン​​乃蠻​を撃ち還って​サアリ ケエル​​撒阿里 客額兒​に至るくだりの後文で「また将は​ナイマン​​乃蠻​種族人を計量し、数を当て来て取らなかった」と言う。これまさにこの一句のもとである。



〈史45-163下12上會汪可汗于薩里河不魯吉崖,發兵征泰赤烏部

上會汪可汗於薩里河不魯吿崖、通世案、祕史、太祖︀娶孛兒帖後、嘗居客魯漣河源之不兒吉岸、卽此不魯吿崖也。蒙古游牧記云「車臣汗部中右後旗牧地、當客魯倫敖嫩二河源。客魯倫河、源出肎特山東南百餘里支峯西南麓、西流又西南流、經肎特山頂之南、又西南、有白勒肎河、西北自土剌色欽之東麓、東南流來會」。白勒肎河、今圖作博爾肎河。不兒吉岸、當卽博爾肎河岸之地撒阿里客額兒、在客魯倫河之上游、其地頗廣、包不兒吉岸在中、故又稱薩里河不魯吿崖。河當作川、吿當作吉。發兵征泰赤烏部、與長沆原作流。張石州曰「紀作部長沆忽等。流字疑誤」。忽阿忽出、秋濤案、祕史云「泰赤兀部、有阿兀出把阿禿兒」、卽此。通世案伯哷津書、此作盎庫兀庫楚、上阿忽失作阿忽朱、如二人、而實一人也。祕史、此作阿兀出、而無沆忽阿忽出。 忽憐・忽都︀塔兒通世案、西史作忽里兒巴哈都︀兒・忽都︀達兒。等、大戰於斡難︀河上敗之。襲帖泥忽都︀・徒思曰哥察兒別吉通世案、葢是二人名。塔兒忽台希憐禿通世案、卽祕史之塔兒忽台乞鄰勒禿黑。〈東方學デジタル圖書館-34忽都︀荅兒、至月良禿剌思通世案洪氏譯伯哷津書、云恩古特禿剌思、而謂「本名必是烏良兀特禿剌思、譯音皆未全也」。今案、多遜作額連庫特禿剌思。之野擒之。通世案、塔兒忽台希憐禿被擒、卽前文失力哥也不干執之之事。祕史叙之甚詳。今云擒而不云縱、疎。西史云殺︀之、最誤。阿忽兀忽出、通世案、卽上沆忽阿忽出。忽敦忽兒章秋濤案、當卽前殺︀塔海︀荅魯之忽數忽兒章也。彼數字葢誤。史不載忽敦忽兒章之名。然云「塔海︀荅魯爲泰赤烏部人所殺︀」、證知卽此人也。走八兒忽眞隘、原作入兒忽其隘。秋濤校改。通世案、是役泰亦赤兀惕最頑强者︀、阿兀出把阿禿兒也。祕史云「成吉思追阿兀出。阿兀出至自己部落、將百姓起了、渡過斡難︀河、整治軍馬、候成吉思來對戰。成吉思旣到、連戰數合。日晩、各就戰地處相抗著︀宿了」。又云「成吉思將阿兀出等子孫殺︀盡、將百姓起來、至忽巴合牙地面住冬了」。今唯云「走八兒忽眞隘」、亦甚疎。忽憐奔乃蠻部。通世案、是戰、史錄皆不紀年、西史則以爲猴年春事、卽宋慶元六年、金承安五年也。然依祕史考之、辛酉十一部之連兵、泰亦赤兀惕實與焉。闊亦田軍潰、王罕述札木合、太祖︀追泰亦赤兀惕、於是有是戰、泰亦赤兀惕始滅。然則是戰在辛酉年闊亦田戰之後。史錄叙之阿雷泉會盟之前、誤也。又阿雷之盟、類︀編云「諸︀部皆畏太祖︀威不自安」、則是。元史加「聞乃蠻泰赤烏敗」一句、則非。西史云「哈荅斤撒兒助特二部、本與成吉思不協、附於泰赤烏特」、則然。其云「旣聞泰赤烏特滅亡、益不自安」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉、則不然。葢皆欲以接斡難︀河上之戰、而不知泰赤烏未嘗敗滅也。

訳文 二八-二九

上は​サリ​​薩里​河の​ブルグ​​不魯吿​崖で​ワン カガン​​汪 可汗​と会い、通世案、秘史は、太祖が​ボルテ​​孛兒帖​を娶った後、かつて​ケルレン​​客魯漣​河源の​ブルギ​​不兒吉​岸に居て、それがこの​ブルグ​​不魯吿​崖である。蒙古游牧記は「​チエチン ハン​​車臣 汗​部の中の右後旗牧地は、​ケルルン​​客魯倫​ ​オノン​​敖嫩​の二河源にあたる。​ケルルン​​客魯倫​河は、源が​ケンテ​​肎特​山東南を百余里の支峯西南麓を出て、西に流れまた西南に流れ、​ケンテ​​肎特​山頂の南また西南を経て、​ベルケン​​白勒肎​河があり、西北​トラセキン​​土剌色欽​の東麓から、東南に流れ合流する」と言う。​ベルケン​​白勒肎​河、今の図は​ボルケン​​博爾肎​河とする。​ブルギ​​不兒吉​岸、これは​ボルケン​​博爾肎​河岸の地​サアリ ケエル​​撒阿里 客額兒​にあたり、​ケルルン​​客魯倫​河の上流にあり、その地は頗る広く、​ブルギ​​不兒吉​岸を囲んで中にあり、ゆえにまた​サリ​​薩里​​ブルグ​​不魯吿​崖と称する。河は川とし、告は吉とする。 出兵して​タイチウ​​泰赤烏​部を征し、部長の​ハンフ アフチユ​​沆忽 阿忽出​と、原書では沆は流。張石州は「元史の紀は部長を​ハンフ​​沆忽​などとする。流の字は誤っている疑いがある」という。秋濤案、秘史は「​タイチウ​​泰赤兀​部、​アウチユ バアトル​​阿兀出 把阿禿兒​が有り」と言い、つまりこれである。通世案​ベレジン​​伯哷津​の書、これは​アンクウクチユ​​盎庫兀庫楚​とし、前文の​アフシ​​阿忽失​​アフヂユ​​阿忽朱​とし、二人のようで、実は一人である。秘史は、これを​アウチユ​​阿兀出​とするが、​ハンフ アフチユ​​沆忽 阿忽出​はない。 ​フリン​​忽憐​​フドトル​​忽都︀塔兒​通世案、西史は​フリル バハドル​​忽里兒 巴哈都︀兒​​フドダル​​忽都︀達兒​とする。など、​オナン​​斡難︀​河で大いに戦い、上はこれを破った。​テニフド​​帖泥忽都︀​​トスユゲチヤル ベギ​​徒思曰哥察兒 別吉​通世案、思うに二人の名であろう。​タルフタイ ヒリント​​塔兒忽台 希憐禿​通世案、これは秘史の​タルクタイ キリンルトク​​塔兒忽台 乞鄰勒禿黑​​フドダル​​忽都︀荅兒​を襲い、​ユリヤントラス​​月良禿剌思​通世案、洪氏が訳した​ベレジン​​伯哷津​の書は、​エングトトラス​​恩古特禿剌思​と言い、「本名はきっと​ウリヤンウトトラス​​烏良兀特禿剌思​であり、訳音はみな揃っていない」と言う。今案、​ドーソン​​多遜​​エレンクトトラス​​額連庫特禿剌思​とする。の野に至りこれを捕らえた。通世案、​タルフタイ ヒリント​​塔兒忽台 希憐禿​が捕らえられるのは、前文の​シリゲ エブゲン​​失力哥 也不干​がこれを捕ったの事。秘史はこれをはなはだ詳しく述べている。今捕らえたと言うが放ったと言わず、おろそか。西史はこれを殺したといい、最も誤っている。 ​アフウフチユ​​阿忽兀忽出​通世案、これは前文の​ハンフ アフチユ​​沆忽 阿忽出​​フドン フルヂヤン​​忽敦 忽兒章​秋濤案、前に​タハイダル​​塔海︀荅魯​を殺したこの​フシユ フルヂヤン​​忽數 忽兒章​である。あの数の字は思うに誤っている。元史は​フドン フルヂヤン​​忽敦 忽兒章​の名を載せていない。そして「​タイチウ​​泰赤烏​部人に殺された​タハイダル​​塔海︀荅魯​」と言うのは、つまりこの人とわかるのは明らかである。 ​バルクヂン​​八兒忽眞​の狭間に走り、原書では入児忽其隘とする。秋濤が校改する。通世案、この役で​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​の最も頑強な者は、​アウチユ バアトル​​阿兀出 把阿禿兒​である。秘史は「​チンギス​​成吉思​​アウチユ​​阿兀出​を追った。​アウチユ​​阿兀出​は自分の部落に至り、将と民衆を立たせ、​オナン​​斡難︀​河を渡り過ぎ、軍馬を整え、​チンギス​​成吉思​が来て対戦するのを待った。​チンギス​​成吉思​はやがて到り、何度も戦い続けた。 日が暮れて、各々が戦い抗しあう所で宿った」と言う。また「​チンギス​​成吉思​と将は​アウチユ​​阿兀出​ら子孫を殺し尽くし、将は百姓を起こし行かせて、​クバカヤ​​忽巴合牙​の地に至りそこで冬を暮らした」と言う。今ただ「​バルクヂン​​八兒忽眞​の狭間に走り」というのは、はなはだおろそかでもある。 ​フリン​​忽憐​​ナイマン​​乃蠻​部に奔った。通世案、この戦いは、史録みな年を書かず、西史は猴年(1200年)の春の事とし、つまり宋 慶元 六年、金 承安 五年である。秘史に拠ってこれを考えると、辛酉(1201年)十一部の連合軍は、​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​が実質か。 ​コイテン​​闊亦田​で軍が潰えて、​ワンカン​​王罕​​ヂヤムカ​​札木合​に述べて、太祖は​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​を追い、この戦いがあったことにより、​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​が滅び始める。そうであるならばこの戦は辛酉年(1201年)にあり​コイテン​​闊亦田​戦の後。 史録はこれを​アルイ​​阿雷​の泉の会盟の前に述べ、誤っている。また​アルイ​​阿雷​の盟は、元史類編は「諸部みな太祖の威を畏れ不安がった」と言い、正しい。元史は「​ナイマン​​乃蠻​​タイチウ​​泰赤烏​の負けを聞き」の一句を加え、誤っている。西史は「​ハダギン​​哈荅斤​ ​サルヂユト​​撒兒助特​二部、もともと​チンギス​​成吉思​と不和で、​タイチウト​​泰赤烏特​についた」といい、そのとおり。それは「やがて​タイチウト​​泰赤烏特​の滅亡を聞き、ますます不安になった」と言い、そのとおりではない。思うにみな​オナン​​斡難︀​河のほとりに接した戦いを望み、​タイチウ​​泰赤烏​がまだ敗滅していないのを知らなかった。



〈史45-163下17後哈塔斤、散只兀、朶魯班、塔塔兒、弘吉剌諸部會盟于河雷泉上

通世案、西史爲猴年事。祕史云「其後雞兒年」、始有紀年雞兒年、卽辛酉、宋嘉泰元年、金泰和元年也。哈荅斤通世案、祕史作合塔斤、孛端察兒長兄不忽合塔吉之裔也。散只兀 通世案、祕史作撒勒只兀惕、孛端察兒仲兄不合禿撒勒只之裔也。朵魯班通世案、祕史作朶兒邊、都︀蛙鎻豁兒四子之裔也。塔塔兒弘吉剌通世案、祕史作翁吉剌、源流作鴻吉喇特。 諸︀部、會盟於阿雷泉上、通世案、祕史作阿勒灰不剌阿。〈[#「不剌阿。」は底本では「不剌・阿」。元朝秘史 四部叢刊本に倣い修正]〉下阿恐合之譌。額兒忒曼作阿雷布拉克。腰斬白馬爲誓、欲襲我軍及汪〈底本-352 可汗。通世案、祕史云「合塔斤等十一部落、於阿勒灰不剌阿地面、聚會商議、欲立札木合做君。於是衆部落共殺︀馬設誓訖云云」。是阿勒灰之會、議立札木合也。而遂至犍河成禮。本一時之事也。本書不言欲立札木合、故如與犍河之會異時、各爲一事、非是。於是弘吉剌部長迭夷通世案、卽祕史之德薛禪、太祖︀妻孛兒帖之父也。但祕史不載此事。元史本傳作特薛禪、又作特因薛禪。源流作岱徹辰、額兒忒曼同之、伯哷津作特因色辰、同元史。遣人來吿。上聞之、遂與汪可汗發兵、自虎圖澤、通世案、伯哷津作虎敦諾爾、云「近斡難︀河」、無考。戰於盃亦烈川、通世案、伯哷津作捕魚兒諾爾。卽今之貝爾諾爾。大敗之。秋濤案、類︀編引此云「時有哈荅吉部・散只兒部・朵魯班部・塔塔兒部・弘吉剌部、皆畏太祖︀威不自安、私會於阿雷泉、斬馬爲誓、欲共襲我軍。弘吉剌部長迭彝、恐事不成、潛遣人吿變。帝聞之、遂發自虎圖澤、逆戰於盃亦烈川、大敗諸︀部眾。於是弘吉剌款附」。案、邵氏所引較詳、當是原本。今本疑爲後人刪節︀、當據以改正。通世案、祕史不載是戰。

訳文 二九-三〇

その後通世案、西史は猴年(1200年)の事とする。秘史は「其後鶏児年」といい、初めて鶏児年と紀年があり、辛酉(1201年)は、宋 嘉泰 元年、金 泰和 元年である。​ハダギン​​哈荅斤​通世案、秘史は​カタギン​​合塔斤​とし、​ボドンチヤル​​孛端察兒​の長兄​ブク カタギ​​不忽 合塔吉​の子孫である。​サンヂウ​​散只兀​通世案、秘史は​サルヂウト​​撒勒只兀惕​とし、​ボドンチヤル​​孛端察兒​の次兄​ブカト サルヂ​​不合禿 撒勒只​の子孫である。 ​ドルバン​​朵魯班​通世案、秘史は​ドルベン​​朶兒邊​とし、​ドワ ソゴル​​都︀蛙 鎻豁兒​の四男の子孫である。​タタル​​塔塔兒​ ​ホンギラ​​弘吉剌​通世案、秘史は​オンギラ​​翁吉剌​とし、蒙古源流は​ホンギラト​​鴻吉喇特​とする。諸部は、会して​アルイ​​阿雷​泉のほとりで盟約し、通世案、秘史は​アルクイ ブラア​​阿勒灰 不剌阿​。下の阿はおそらく合の誤りであろう。​エルドマン​​額兒忒曼​​アライ ブラク​​阿雷 布拉克​とする。白馬を胴切りにして誓いとし、我が軍と​ワン カガン​​汪 可汗​を襲うことを望んだ。〈底本-352 通世案、秘史は「​カタギン​​合塔斤​ら十一部落は、​アルクイ ブラア​​阿勒灰 不剌阿​の地で、聚会して話し合い、​ヂヤムカ​​札木合​を君主に立てることを望んだ。部の衆は馬を殺して誓いを云云」と言う。この​アルクイ​​阿勒灰​の会は、​ヂヤムカ​​札木合​を立てる相談である。そしてついに犍河に至り法制が成った。もともとその場限りの事である。本書は​ヂヤムカ​​札木合​を立てることを望んだことを言わず、ゆえに犍河の会と後日が、一つの事になっており、事実でない。 ここにおいて​ホンギラ​​弘吉剌​部長​デイ​​迭夷​通世案、これは秘史の​デイ セチエン​​德 薛禪​であり、太祖の妻​ボルテ​​孛兒帖​の父である。ただし秘史はこの事を載せていない。元史 本伝は​テ セチエン​​特 薛禪​とし、また​テイン セチエン​​特因 薛禪​とする。蒙古源流は​デイチエチエン​​岱徹辰​とし、​エルドマン​​額兒忒曼​はこれと同じで、​ベレジン​​伯哷津​​デインセチエン​​特因色辰​とし、元史と同じ。 人を遣わして告げて来た。上はこれを聞き、ついに​ワン カガン​​汪 可汗​​フト​​虎圖​の沢より出兵し、通世案、​ベレジン​​伯哷津​​フドン ノール​​虎敦 諾爾​とし、「​オナン​​斡難︀​河に近い」と言い、考えはない。 ​ブイイレ​​盃亦烈​川で戦い、通世案、​ベレジン​​伯哷津​は魚を捕るための​ノール​​諾爾​とする。これは今の​ベイル ノール​​貝爾 諾爾​大いにこれを破った。秋濤案、元史類編を引いてこれを「その時に有​ハダギ​​哈荅吉​部・​サンヂル​​散只兒​部・​ドルバン​​朵魯班​部・​タタル​​塔塔兒​部・​ホンギラ​​弘吉剌​部、みな太祖の勢いを畏れ不安に思い、ひそかに​アルイ​​阿雷​の泉で会い、馬を斬って誓いとし、共襲我が軍を共に襲うことを望んだ。​ホンギラ​​弘吉剌​部長​デイ​​迭彝​は、事が成らないことを恐れ、ひそかに人を遣わして変を告げた。帝はこれを聞き、ついに​フト​​虎圖​沢より出兵し、​ブイイレ​​盃亦烈​川で迎え撃ち、諸部衆を大いに破った。これにより​ホンギラ​​弘吉剌​は心から付き従った」と言う。 案、邵遠平氏が引くところを詳しく較べると、これが原本にあたる。今の本は後の人が節を削った疑いがあり、改正したものに拠るべき。通世案、秘史はこの戦いを載せていない。



〈史45-163下21冬,汪可汗分兵由怯緣憐河,指忽八海牙山,先發部衆,後成列而進

冬、汪可汗分兵自曲綠憐河、原脫自字、曲誤作由。由下、何氏補怯字、曰「本紀云「自由綠憐河而行」、則脫誤〈東方學デジタル圖書館-35久矣」。李氏曰「元史太祖︀紀、亦作「由綠憐河」。由乃曲之爛字。然則此錄誤字、自明初作元史時所見本、已如此矣。曲綠憐、卽克魯漣河也」。通世據元史補自字。怯字不必補。指忽八海︀牙山曾植案、卽祕史忽巴合牙地面。先發。部眾後成列而進。其弟札阿紺孛、以汪可汗反覆不常、遂謀於渾八力秋濤案、祕史作忽勒巴里。通世案、伯哷津作忽勒巴爾。案敦阿述〈[#「案敦阿述」はママ。四庫全書存目叢書本や他の親征錄校注本は「按敦阿述」。後文も同じ]〉秋濤案、祕史作阿勒屯阿倏黑、通世案、伯哷津作阿勒屯阿速克。燕火脫兒通世案、祕史作額勒忽禿兒、伯哷津作伊勒忽禿兒延晃火兒通世案、祕史無此人。伯哷津作伊兒晃火兒。四人曰「我兄無善處之心、屠絕昆弟、當奔於契丹。原缺丹字。張石州補。通世案當字、疑是嘗之譌。〈史45-164上1觀其心性若此、終不能存我輩、亦不使國安矣。今何計處之」。通世案、是語、祕史最詳。案敦阿述泄是語於汪可汗。令執燕火脫兒及納憐原作憐納、秋濤校改。通世案、此注本不署︀名、唯云今改。葢何氏校本、本皆書今改。及李沈二氏重校、易今字以秋濤名、而此偶未及易也。後又往往有不署︀名處。今皆改爲秋濤校改、或加秋濤案三字。二人、至帳下、解其縛、謂燕火脫兒曰「吾輩自西夏而來、道路饑困、想誓之語、㤀乎。我心非汝也」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉文田案、想誓之想、當是盟字。唾其面。座上之人、皆起唾之。案敦阿述曰「余亦與此謀。不忍捨王、所以來吿也」。汪可汗屢責札阿紺孛、曰「汝常懷其奸者︀」。札阿紺孛不安、後與燕火脫兒・延晃火兒・納憐太石石原作后。秋濤案、祕史有阿憐太子、疑卽此。后字恐誤。通世案、本書多以太子作太石。此依前捏群太石例改正。等倶奔乃蠻。通世案、西史「皆奔乃蠻」下、有「先遣人吿太陽汗曰「阿勒屯阿速克、讒於吾兄王汗、故我等來奔。願盡心力、以事新主」。乃蠻受之」數語、他書未見。又案、是事、西史繫於庚申冬。然祕史叙於辛酉之後、壬戌之前、當是辛酉冬事。

訳文 三〇-三一

冬、​ワン カガン​​汪 可汗​は兵を分けて​クリユリン​​曲綠憐​河より、原書は自の字が抜け、曲は誤って由とする。由の下、何秋濤氏は怯の字を補い、「元史 本紀は「​ユリユリン​​由綠憐​河より行き」と言い、とすれば誤りは古くからのものか」と言う。李氏は「元史 太祖紀も、「​ユリユリン​​由綠憐​河」とする。由は曲の字のくずれ。そうであるならばこの録の誤字は、明初より元史のもともとの本に見られ、すでにこのようであったか。​クリユリン​​曲綠憐​は、つまり​クルレン​​克魯漣​河である」と言う。通世が元史に拠って自の字を補った。怯の字は必ずしも補わない。​フバハイヤ​​忽八海︀牙​山を目指して曽植案、秘史の​クバカヤ​​忽巴合牙​の地。先に出発した。部の人々は遅れて列を成して進んだ。その弟​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​は、​ワン カガン​​汪 可汗​が心変わりしやすいので、ついに​フンバリ​​渾八力​で謀り秋濤案、秘史は​クルバリ​​忽勒巴里​とする。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​フルバル​​忽勒巴爾​とする。 ​アンドンアシユ​​按敦阿述​秋濤案、秘史は​アルトン アシユク​​阿勒屯 阿倏黑​とし、通世案、​ベレジン​​伯哷津​​アルトン アスク​​阿勒屯 阿速克​​エンコルト​​燕火脫兒​通世案、秘史は​エル クトル​​額勒 忽禿兒​とし、​ベレジン​​伯哷津​​イル フトル​​伊勒 忽禿兒​とする​エンコンホル​​延晃火兒​通世案、秘史はこの人がない。​ベレジン​​伯哷津​​イルコンホル​​伊兒晃火兒​の四人は「我兄は立派な心がなく、兄弟を屠り滅ぼし、敵対して契丹に奔った。原書は丹の字が欠けている。張石州が補った。通世案当の字、これは嘗の誤りが疑われる。 このようなその心性を見せて、ついに我らを保全せず、また国を安らかにさせられない。今どうしてここにどどまるよう計れようか」。通世案、この語は、秘史が最も詳しい。​アンドンアシユ​​按敦阿述​は漏らして​ワン カガン​​汪 可汗​に語った。​エンコルト​​燕火脫兒​および​ナリン​​納憐​を捕らえるよう命じ原書では憐納、秋濤が校改する。通世案、この注本は署名がなく、今改めるというのみ。思うに何氏の校本は、底本が皆そう書いており今改める。および李沈二氏が重ねて校正し、秋濤の名をもって今の字を変えているが、たまに変わるに至っていない。後文はまたときどき署名がないところがある。今みな秋濤が校改したものとして改め、ときには秋濤案の三字を加える。 二人が、本営に至り、その縛を解かれ、​エンコルト​​燕火脫兒​に言わせて「私は西夏から来たが、道中は飢えて苦しみ、誓いの言葉を思い出し、忘れた。我が心は汝にないのである」と言った。文田案、想誓の想は、盟の字を当てる。その顔に唾を吐いた。集まっていた人々は、みな立ってこれに唾を吐いた。​アンドンアシユ​​按敦阿述​は「私もこの謀りごとにくみした。王を捨てるに忍びず、それゆえに告げ来たのである」と言った。​ワン カガン​​汪 可汗​はたびたび​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​を責め、「お前は常によこしまな考えを持っている」と言った。​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​は心配になり、そのあと​エンコルト​​燕火脫兒​​エンコンホル​​延晃火兒​​ナリン タイシ​​納憐 太石​ 石は原書では后。秋濤案、秘史は​アリン タイシ​​阿憐 太子​があり、これが疑われる。后の字は恐らく誤っている。通世案、本書は太子を太石とすることが多い。これは前文の​ネクン タイシ​​捏群 太石​の類が改正したことに拠る。らがともに​ナイマン​​乃蠻​に奔った。通世案、西史の「みな​ナイマン​​乃蠻​に奔った」の下に、「まず人を遣わして​タヤン カン​​太陽 汗​に告げて「​アルトン アスク​​阿勒屯 阿速克​は、その兄​ワンカン​​王汗​にそしられ、ゆえに我らは奔って来た。心と力を尽くすのを願い、新しい主として仕える」と言った。​ナイマン​​乃蠻​はこれを受け入れた」と数語あり、他の書では見られない。又案、この事は、西史は庚申(1200年)冬につないでいる。だが秘史は辛酉(1201年)の後、壬戌(1202年)の前に述べ、これを辛酉(1201年)冬の事とする。



〈史45-164上8冬,王可汗居于忽八海牙兒。上駐軍于徹徹兒山,起兵伐塔塔兒部長阿剌忽都兒

冬、汪可汗居於忽八海︀牙兒。秋濤案、疑有山字〈東方學デジタル圖書館-36上駐軍於徹徹兒山、曾植案、遼屬國、有察。察里殆卽依徹徹兒山以居者︀乎。通世案、下文作徹兒、伯哷津作乞䚟界上札哈察兒。詳徹兒注。起兵伐塔塔兒部長阿剌兀都︀兒通世案、西史作阿剌克烏都︀兒、爲蔑兒乞特酋。哈太石原作后。張石州校改。通世案、西史作乞兒罕大石、爲泰赤烏特酋。察忽斤通世案、伯哷津作察忽兒、額兒忒曼作札烏忽兒。帖木兒通世案、伯哷津作開兒伯克、額兒忒曼作開兒伯克兒、與此不合。〈底本-353 等、戰於答蘭捏木哥兒之野、通世案、祕史作荅蘭捏木兒格思地面、額兒忒曼作荅蘭帖木兒斤。此哥兒二字、疑是倒置。其地在合泐合河與兀勒灰河之間、見後。大敗之。通世案、是戰、西史亦繫於庚申冬。然祕史云「狗兒年秋」、卽下文壬戌伐塔塔兒之役。葢本書誤以一事爲兩事。

訳文 三一-三二

その冬、​ワン カガン​​汪 可汗​​フバハイヤル​​忽八海︀牙兒​に居た。秋濤案、児は山の字の疑いがある上は​チエチエル​​徹徹兒​山に駐軍し、曽植案、遼の属国は、察がある。​チヤリ​​察里​はおそらく​チエチエル​​徹徹兒​山に住む者であろう。通世案、後文は​チエル​​徹兒​とし、​ベレジン​​伯哷津​​キダイ​​乞䚟​国境上の​ヂヤハチヤル​​札哈察兒​とする。詳しくは​チエル​​徹兒​の注にある。出兵して​タタル​​塔塔兒​部長​アラ ウドル​​阿剌 兀都︀兒​を討伐し通世案、西史は​アラク ウドル​​阿剌克 烏都︀兒​とし、​メルキト​​蔑兒乞特​の酋長とする。​ハタイシ​​哈太石​原書では后とする。張石州が校改する。通世案、西史は​キルカン タイシ​​乞兒罕 大石​とし、​タイチウト​​泰赤烏特​の酋長とする。​チヤウギン​​察忽斤​通世案、​ベレジン​​伯哷津​​チヤクル​​察忽兒​​エルドマン​​額兒忒曼​​ヂヤウクル​​札烏忽兒​とする。​テムル​​帖木兒​通世案、​ベレジン​​伯哷津​​カイルバク​​開兒伯克​とし、​エルドマン​​額兒忒曼​​カイルバクル​​開兒伯克兒​とし、これと合わない。〈底本-353 らが、​ダラン ネムゲル​​答蘭 捏木哥兒​の野で戦い、通世案、秘史は​ダラン ネムルゲス​​荅蘭 捏木兒格思​の地とし、​エルドマン​​額兒忒曼​​ダラン テムルギン​​荅蘭 帖木兒斤​とする。この哥児の二字は、倒置が疑われる。その地は​カルカ​​合泐合​河と​ウルクイ​​兀勒灰​河の間にあり、後文で見える。大いにこれを破った。通世案、この戦は、西史も庚申(1200年)冬につなげる。そして秘史は「狗児年の秋」といい、後文の壬戌(1202年)​タタル​​塔塔兒​討伐の役である。思うに本書は一つの事を二つの事とし誤っている。





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