〈史45-161上1皇元聖武親征錄

〈底本-337 校正增注元親征錄

光澤何秋濤願舩校正

順德李文田仲約校注

嘉興沈曾植子培校注

日本盛岡那珂通世增注

〈東方學デジタル圖書館-9皇元聖武親征錄。文田案、元史察罕傳云「又命譯脫必赤顏、名曰聖武開天記、及太宗平金始末等書」。據史文、則此書初以蒙古國書寫之、名曰脫必赤顏。察罕奉命譯之、始命聖武開天記。然則記名、乃察罕以漢︀語改定之也。然則此卽聖武開天記。其又名爲皇元聖武親征錄、當由傳寫改變耳。以元代官書攷之、多有皇元二字、如皇元經世大典、皇元一統志之類︀。然則聖武開天記之上、亦當有皇元二字也。此與祕史、均藏之內府、漢︀人不得窺見。是以虞集傳稱「修經世大典、欲請脫卜赤顏。當時大臣謂「事關祕禁非可令外人傳寫」」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉。是此錄、在元代、凡漢︀人均不得見也。至明代脩史時、始從元宮殿中得之耳。

訳文

〈底本-337皇元聖武親征録。文田案、元史の​チヤハン​​察罕​伝は「さらに​トビチヤン​​脫必赤顏​を訳すよう命じ、聖武開天記、及び太宗平金始末等書と名付けた」と言う。元史の文に拠れば、この書はモンゴル文字で書き表した最初のもので、これを​トビチヤン​​脫必赤顏​という。​チヤハン​​察罕​は訳したものに名をつけるよう命じられ、はじめて聖武開天記と名付けた。そうであれば名を記したのは、まさに漢語に改定した​チヤハン​​察罕​である。ならばこれこそが聖武開天記である。またの名を皇元聖武親征録といい、やはり伝写し改変するだけなのは当然である。元代の公文書について考えると、皇元経世大典、皇元一統志の類のように皇元の二字が多くある。そうであるならば聖武開天記の上にも、皇元の二字があるべきである。この書と秘史はともに宮中で所蔵され、漢人は覗き見できなかった。これは虞集伝が「経世大典を編修するにあたり​トブチヤン​​脫卜赤顏​を請うた。当時の大臣は「機密に関する事は部外者に伝写させることが禁じられている」と言った。」と称したことによる。このようにこの録は、元代にあってはすべての漢人は等しく見ることができなった。明代に至って史書を編集する時、初めて元朝の宮殿の中でこれを得ただけであった。



〈史45-161上2烈祖神元皇帝,諱也速該。初征塔塔兒部,獲其部長帖木真幹怯、忽魯不花輩

烈祖︀神︀元皇帝、諱也速該秋濤案、亦作也速該可汗、亦作葉速該拔都︀。元祕史作也速該把阿禿兒。把阿禿兒卽拔都︀也。通世案、把阿禿兒、蒙古之美號也。多遜作巴哈都︀兒、以勇解之。元朝祕史或譯爲勇士。洪文卿曰「今奧國之馬加部、實是東方族類︀、卽元史之馬札兒。其人稱巴圖爾、音如把阿禿兒。足見祕史譯字、必非率爾操觚」。又案、蒙古源流作伊蘇凱巴圖爾。稱也速該爲可汗、本書一見。祕史卷二亦有也速該罕蓋皆追王之義。初征塔塔兒部、獲其部長帖木眞斡怯・忽魯不花輩、斡原作幹。秋濤案、帖元史作鐵。祕史云「與塔塔兒厮殺︀時、也速該把阿禿兒、將他帖木眞兀格・豁里不花等擄來。太祖︀生時、因擄將帖木眞兀格來時生、故就名帖木眞」。攷〈東方學デジタル圖書館-10祕史所云、是帖木眞兀格爲一人名、卽此帖木眞幹怯。幹當作斡、與兀音近。豁里不花爲一人、〈底本-338 卽此忽魯不花也。然此錄下文云「獲帖木眞」乃以帖木眞爲一人。元史亦云「獲其部長鐵木眞」。未詳孰是。通世案、幹爲斡之譌無疑。今改。伯哷津譯喇施特額丁蒙古史、亦以帖木眞兀格爲一人、庫魯不花爲一人。下文唯云帖木眞、省文也。蒙古源流作特穆津。還駐軍跌里溫盤陀山秋濤案、祕史作迭里溫孛勒荅里山。朱一新案、據祕史、里當作黑。通世案、蒙古源流作德里袞布勒塔干地方。額兒忒曼曰「今名第倫博爾達克。聶爾泌斯克人裕琳斯奇、訪査其地、在敖嫩河右岸額克阿拉爾河洲之上七露里」。多桑蒙古史云「布爾都︀克、蒙古語、山也」。洪氏譯伯哷津書、作迭溫布兒荅克之地、曰「祕史音是。西人譯黑字音、每重讀成克華書謂山名、西域史謂地名或此處以山名爲地名也」。時我太祖︀聖武皇帝生、右手握凝血、長而神︀異。以獲帖木眞、故命爲上名。

訳文 一-二

烈祖 神元皇帝、​いみな​​諱​​エスガイ​​也速該​秋濤案、また​エスガイ カガン​​也速該 可汗​、また​エスガイ バード​​葉速該 拔都︀​とする。元秘史は​エスガイ バアトル​​也速該 把阿禿兒​とする。​バアトル​​把阿禿兒​はつまり​バード​​拔都︀​である。通世案、​バアトル​​把阿禿兒​はモンゴルの美称である。​ドーソン​​多遜​​バハドル​​巴哈都︀兒​とし、勇ましいとしてこれを解く。元朝秘史はあるいは訳して勇士とする。洪文卿〈[#「文卿」は洪鈞の号]〉は「今​アオヂリ​​奥地利​国の​マヂア​​馬加​部、実は東方民族で、元史の​マヂヤル​​馬札兒​である。その人を称する​バートル​​巴圖爾​は、音が​バアトル​​把阿禿兒​のようである。秘史の傍訳の文字を見れば十分で、必ずや文字を書き損じたものではない」と言う。又、蒙古源流は​イスガイ バートル​​伊蘇凱 巴圖爾​​エスガイ​​也速該​​カガン​​可汗​として称する箇所は本書に一度見える。秘史巻二にも​エスガイ カン​​也速該 罕​とある。おそらくいずれも王位追号の意味であろう。 初めて​タタル​​塔塔兒​部を征伐し、その部長である​テムヂン オケ​​帖木眞 斡怯​​フル ブハ​​忽魯 不花​らを捕らえ、斡は原書では幹。秋濤案、帖は元史では鉄とする。秘史は「​タタル​​塔塔兒​と殺し合った時に、​エスガイ バアトル​​也速該 把阿禿兒​は、異族の​テムヂン ウゲ​​帖木眞兀格​​ゴリ ブハ​​豁里 不花​らを捕えて来た。太祖が生まれた時、将​テムヂン ウゲ​​帖木眞 兀格​を捕らえて来た時に生まれたので、帖木真と名付けられた」と言う。秘史の場合を考えると、この​テムヂン ウゲ​​帖木眞 兀格​なる一人の名は、これは帖木真幹怯である。幹に斡を当てるとともに音が近い。​ゴリ ブハ​​豁里 不花​なる一人は、〈底本-338つまり​フル ブハ​​忽魯 不花​である。であれば録の後文に言う「​テムヂン​​帖木眞​を捕らえた」こそが​テムヂン​​帖木眞​なる一人である。元史もまた「その部長​テムヂン​​鐵木眞​を捕らえた」と言う。いずれが正しいかまだ詳しくわからない。通世案、幹が斡の間違いであることは疑いない。今改める。​ベレジン​​伯哷津​​ラシツド エツヂン​​喇施特 額丁​のモンゴル史を訳し、​テムヂン ウゲ​​帖木眞 兀格​を一人、​クル ブハ​​庫魯 不花​を一人とする。後文でただ帖木真と言うのは文字の省略である。蒙古源流は​テムヂン​​特穆津​とする。軍勢を​デリウン ボンダ​​跌里溫 盤陀​山に帰還して駐留秋濤案、秘史は​デリウン ボルダリ​​迭里溫 孛勒荅里​山とする。朱一新案、秘史に拠って里を黒とすべき。通世案、蒙古源流は​デリグン ブルタゲン​​德里袞 布勒塔干​地方とする。 ​エルドマン​​額兒忒曼​は「今の名は​ヂルンボルダク​​第倫博爾達克​​ネルビスク​​聶爾泌斯克​​ユリンスキ​​裕琳斯奇​が現地調査して​オノン​​敖嫩​河右岸の​エクアラル​​額克阿拉爾​中州の上流七ロシア里にある」と言っている。​ドーソン​​多桑​モンゴル史は「​ブルドク​​布爾都︀克​はモンゴル語で山である」と言っている。洪鈞は​ベレジン​​伯哷津​の書を訳して​デウンブルダク​​迭溫布兒荅克​とし、「秘史の音が正しく、西洋人は状態の悪い字を音訳し、読み重ねる毎に漢字文書が述べる山名に収まり、西洋史は地名あるいはそこの山名をもって地名とする」と言った。している時に太祖 聖武皇帝は生まれ、右手に血の塊を握り、人間業でない不思議なことと尊ばれた。捕らえた​テムヂン オケ​​帖木眞 斡怯​が名の由来である。



〈史45-161上5初,族人泰赤烏部居別林,舊無怨于我,後因其主阿丹可汗二子塔兒不台、忽鄰拔相有憾,遂絕

初族人泰赤烏部長別林、秋濤案、泰赤烏、祕史作泰亦赤兀惕。通世案、泰赤烏、元史同、而宗室世系表、又作大丑兀禿。畏荅兒傳作大疇。蒙古源流作岱齊果特。又案、別林、蓋祕史之俺巴孩也。爲海︀都︀第二子察剌孩領忽之孫。元史作咸補海︀罕、源流作阿木拜。別林二字、當有奪誤。舊無怨於我。後因其主阿丹可汗曾植案、祕史一俺巴孩之後、爲泰亦赤兀惕氏。俺巴孩爲金人所虜︀、寄語其十子中之合荅安太子、令其復仇。通世案、伯哷津書、哈丹大石之外、有阿達爾汗、爲泰赤烏部長塔兒忽台哈拉兒禿克之父。卽此阿丹可汗也。似與合荅安太子不同。二子塔兒不台秋濤案、祕史作塔兒忽台。通世案、不當作兀。下文作塔兒忽台希憐禿。忽鄰拔都︀忽原作忍。通世案、忍爲忽之譌無疑。今改。伯哷津書、以塔兒忽台哈拉兒禿克爲一人名。別有忽力兒巴哈都︀兒、爲塔兒忽台從父兄弟。卽此忽隣拔都︀也。額兒忒曼以乞哩兒禿克爲特兒忽台之號、釋爲毒心、以忽魯兒巴哈都︀兒、爲特兒忽台從子。祕史之塔兒忽台乞鄰勒禿黑、依下文納牙阿放去條考之、亦似卽一人也。有憾遂絕。烈祖︀早世時、上沖幼、部眾多歸泰赤烏。通世案、泰赤烏有憾遂絕、在烈祖︀歿後。祕史云「也速該携帖木眞、到翁吉剌氏德薛禪家、約取其女孛兒帖爲帖木眞妻、還過塔塔兒部、被毒殺︀。其年、俺巴孩合罕二夫人斡兒伯・莎合台祭祀時、訶額侖後至、胙肉不分。訶額侖言其侮︀已。二夫人怒。翌日、塔兒忽台・乞鄰禿黑・脫朶延・吉兒帖等、遂棄訶額侖母子而去。」此書不載烈祖︀毒死及祭時起衅事、當是國史諱言。又案、元之先世譜系、史多闕略。據祕史、也速該之祖︀父合不勒、始自稱合罕。卽史所稱葛不律寒也。喇施特蒙古史云「合不勒汗、威望甚盛、統轄蒙古全部。是時始有汗號。」是也。合不勒捨其七子、而使再從弟俺巴孩代領其衆。是爲泰赤烏氏。俺巴孩爲塔塔兒人所執、以獻於金、被殺︀。遺言其子合荅安及合不勒子忽圖剌、盡力報讎。諸︀部因立忽圖剌爲合罕、與合荅安太子、數攻塔塔兒。喇施特極稱忽圖剌有勇力。蓋大金國志所謂熬羅自稱祖︀元皇帝者︀也。忽圖剌歿後、汗位久不定。蓋兄把兒壇、先於忽圖剌卽位而歿、俺巴孩・忽圖剌、皆有衆子、諸︀部莫知所適從。把兒壇子也速該善戰。觀其嘗定客列亦惕之難︀、使王汗復國、約爲安答、則其爲乞顏之豪可知。然未嘗陟汗位、未嘗統蒙古全部也。今元史於俺巴孩・忽圖剌之事、無一語及之、而唯曰「葛不律寒歿、子八哩丹嗣。八哩丹歿、子也速該嗣。國勢愈盛大。」如也速該承蒙古之正統、而太祖︀生居家嫡者︀。此與祕史不合、其誤顯然。至於喇施特曰「也速該轄尼倫、各族咸畏服之」、元史類︀編曰「也速該並呑諸︀部、勢愈盛也、是爲元之始祖︀」、則均係史之飾筆、益非事實。故備辨之。喇施特蒙古史後唯云西史。上聞近侍脫端・火兒眞秋濤案、祕史有脫朶延・吉兒帖、疑卽此也。文田案、吉當〈東方學デジタル圖書館-11作古。通世案、喇施特以二人爲帖木眞族人最年長者︀。脫端、葢元史之掇端斡赤斤、祕史之脫朵延斡惕赤斤、太祖︀祖︀父把兒壇把阿禿兒之季弟也。火兒眞無考。額兒忒曼譯拉施特史、作喀呼兒濟。亦將叛、自泣留之。脫端曰「今淸潭已涸、堅石已碎。留復何爲」。遂去。上母月倫太后、秋濤案、太后爲斡勒忽訥氏。元史太祖︀紀、稱宣懿太后。月倫者︀、名也。祕史作訶額侖。攷烈祖︀歿後、賴太后賢能、太祖︀兄弟、皆足以成立。乃元史不爲立傳、亦疏略也。文田案、元史不爲月倫太后立傳者︀、也速該本虜︀而得之。若敍所從來、則蔑里乞部之婦也。元人自諱之。明人撰元史、益草率矣。通世案、蒙古源流作烏格楞哈屯 鄂勒郭諾特氏。伯哷津作諤倫額格爲翁吉剌分族斡勒忽訥特氏。麾旗通世案、是語誤。祕史蒙文作禿黑、西史作禿克。卽所謂纛也。昔時蒙古無旗幟、但以施牛尾若白馬尾繫於竿頭、謂之旄纛。祕史譯爲英槍、亦誤。將兵、躬自追叛者︀、大半還。部將察剌海︀秋濤案、祕史作察剌合。中鎗、創甚。上親視︀勞〈底本-339 慰。察剌海︀曰「自先君登遐、原作「自居登避」四字、未詳。秋濤案、當作「自先君登遐」。葢君譌爲居、遐譌爲避、皆爲形似。先字又因傳寫脫落也。部人多叛。臣不勝忿、遠追原作迎。張石州據翁本改也。苦戰、以致然也」。上感泣而出。通世案、此間、猶有大事可叙者︀數條、詳見祕史。一、叛者︀半還、尋皆離去、歸泰亦赤兀。二、訶額侖艱難︀、長育諸︀子。三、太祖︀與合撒兒共殺︀異母弟別克帖兒。四、泰亦赤兀惕襲擒太祖︀、賴鎻兒罕失剌救得免︀。五、太祖︀逐賊、孛斡兒出援之。六、德薛禪以女配太祖︀。七、孛斡兒出來屬。八、太祖︀往謁︀父友王罕、尊爲父。九、者︀勒篾來屬。十、篾兒乞人來襲、掠別勒古台母及太祖︀妻孛兒台而去。十一、太祖︀乞師於王罕及札木合、擊破篾兒乞。孛兒台逃歸。別勒古台尋其母不得。軍中收幼兒曲出。十二、太祖︀與札木合、再爲安荅、同營而居。旣而離去。諸︀部多棄札木合而歸太祖︀、遂立太祖︀爲成吉思汗。此十二條、皆在烈祖︀歿後二十許年之間、於叙太祖︀創業之艱難︀、決不可闕者︀矣。而本書脫之、直以十三翼之戰、接太祖︀幼時事、疏略殊甚。喇施特蒙古史、亦與之同。可見國史脫必赤顏、與喇施特所用金册同本。皆不及祕史原本之眞率而曲詳也。

訳文 二-四

最初の​タイチウ​​泰赤烏​部長​ベリン​​別林​は、秋濤案、​タイチウ​​泰赤烏​、秘史では​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​。通世案、​タイチウ​​泰赤烏​、元史も同じ、そして元史 宗室世系表では​タイチウト​​大丑兀禿​​ウイダル​​畏荅兒​伝では​タイチヨウ​​大疇​。蒙古源流では​ダイチゴト​​岱齊果特​。又案、​ベリン​​別林​は、おそらく秘史の​アンバカイ​​俺巴孩​であろう。​ハイド​​海︀都︀​の次男​チヤラカイ リンク​​察剌孩 領忽​の孫とされる。元史では​ハンブハイ ハン​​咸補海︀ 罕​、源流では​アムバイ カン​​阿木拜 汗​。別林の二字は、脱字や誤字があるとすべきである。昔は我らとの間に恨みはなかった。​アダン カガン​​阿丹 可汗​が部長の跡を継いだ。曽植案、秘史の最初で​アンバカイ​​俺巴孩​の後に​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​氏になったとある。​アンバカイ​​俺巴孩​は金朝の官吏に捕まり、その十人の子のうちの​カダアン タイツ​​合荅安 太子​に仇を返すよう託した。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​カダアン タイツ​​合荅安 太子​が外れ​アダルカン​​阿達爾汗​があり​タイチウ​​泰赤烏​部長​タルクタイ ハラルトク​​塔兒忽台 哈拉兒禿克​の父と書いている。これが​アダン カガン​​阿丹 可汗​である。​カダアン タイツ​​合荅安 太子​と同じではないようである。 二子である​タルブタイ​​塔兒不台​秋濤案、秘史は​タルクタイ​​塔兒忽台​とする。通世案、不を兀と当てる。後文に​タルフタイ ヒリント​​塔兒忽台 希憐禿​とある。​フリン バード​​忽鄰 拔都︀​忽は原書では忍。通世案、忍が忽の誤りであることは疑いない。今改める。​ベレジン​​伯哷津​​タルクタイ ハラルトク​​塔兒忽台 哈拉兒禿克​一人の名を書いている。ほかに​クリル バハドル​​忽力兒 巴哈都︀兒​があり、​タルクタイ​​塔兒忽台​の従兄弟とされる。つまりこの​フリン バード​​忽鄰 拔都︀​である。​エルドマン​​額兒忒曼​​キリルトク​​乞哩兒禿克​​トルクタイ​​特兒忽台​の称号とし、訳は害意となり、​クルル バハドル​​忽魯兒 巴哈都︀兒​​トルクタイ​​特兒忽台​の甥とする。秘史の​タルクタイ キリンルトク​​塔兒忽台 乞鄰勒禿黑​は、​ナヤア​​納牙阿​による解放のくだりを考えると、やはり似ており一人である。無念にもそのまま途絶えた。烈祖が早死にした時、上〈[#「上」は太祖チンギスを指す。以後、太宗オゴデイが即位するまですべて同じ]〉は幼く、部民の多くが​タイチウ​​泰赤烏​を頼った。 通世案、​タイチウ​​泰赤烏​が無念にもそのまま途絶えたのは、烈祖の死後のことである。秘史は「​エスガイ​​也速該​​テムヂン​​帖木眞​を連れて、​オンギラ​​翁吉剌​氏の​デイ セチエン​​德 薛禪​家に到り、その息女​ボルテ​​孛兒帖​​テムヂン​​帖木眞​の妻とする約束をし、帰りに​タタル​​塔塔兒​部に立ち寄り毒殺された。その年、​アンバカイ カガン​​俺巴孩 合罕​の二夫人​オルベ​​斡兒伯​​シヨカタイ​​莎合台​が祭祀の時、​ホエルン​​訶額侖​が遅れて来て、供え物の肉を分配されなかった。​ホエルン​​訶額侖​はそれを嘲った。二夫人は怒った。翌日、​タルクタイ キリントク​​塔兒忽台 乞鄰禿黑​​トドエン ギルテ​​脫朶延 吉兒帖​等が遂に​ホエルン​​訶額侖​母子を捨てて去った」と言う。この書は烈祖の毒殺と祭事に起きた仲違いを載せておらず、国史が言うのを忌み憚ったとすべきである。また、元朝の祖先の譜系は欠けて省かれている。 秘史に拠れば、​エスガイ​​也速該​の祖父​カブル​​合不勒​が、​カガン​​合罕​を自称し始めた。すなわち元史にある​カブル カン​​葛不律 寒​である。​ラシツド​​喇施特​のモンゴル史が云う「​カブル カン​​合不勒 汗​は威光と人望が甚だ盛んで、モンゴル全部を統括した。この時に​カン​​汗​の称号が始まった。」がこれである。​カブル​​合不勒​は七子を顧みず、​はとこ​​再従弟​​アンバカイ​​俺巴孩​に民衆を統治させた。これが​タイチウ​​泰赤烏​氏である。​アンバカイ​​俺巴孩​​タタル​​塔塔兒​の人に捕らえられ、金朝に献じられ、殺された。子​カダアン​​合荅安​​カブル​​合不勒​の子​クトラ​​忽圖剌​に、力の限り報復するよう言葉を遺した。諸部は​クトラ​​忽圖剌​​カガン​​合罕​とし、​カダアン タイツ​​合荅安 太子​と共にしばしば​タタル​​塔塔兒​を攻めた。​ラシツド​​喇施特​​クトラ​​忽圖剌​を勇ましく力があると称賛した。おそらく大金国志のいわゆる​アオロ​​熬羅​は元朝皇帝の祖が自称したのであろう。 ​クトラ​​忽圖剌​が亡くなった後、汗位は長く定まらなかった。おそらく兄​バルタン​​把兒壇​が、まず​クトラ​​忽圖剌​に先んじて即位するも亡くなり、​アンバカイ​​俺巴孩​​クトラ​​忽圖剌​みな分家があり、諸部は従うのに適した者がわからなかったのであろう。​バルタン​​把兒壇​の子​エスガイ​​也速該​は戦いが上手だった。​ケレイト​​客列亦惕​の内紛を治めようと考え、​ワンカン​​王汗​を国に戻し、​アンダ​​安答​の盟約をし、それで​キヤン​​乞顏​の豪が知られるようになった。だが、汗位につくことはなく、モンゴル全部を統べることはかつてなかった。さて、元史には​アンバカイ​​俺巴孩​​クトラ​​忽圖剌​の事が一語もなく、ただ「​カブル カン​​葛不律 寒​が没し、子​バリタン​​八哩丹​が継いだ。​バリタン​​八哩丹​が没し、子​エスガイ​​也速該​が継いだ。国の勢いはいよいよ盛大になった。」と言っている。​エスガイ​​也速該​がモンゴルの正統を受け継いだかのようで、太祖がその家の嫡男に生まれ育ったかのようになっている。これと秘史は合わず、誤りは明らかである。​ラシツド​​喇施特​は「​エスガイ​​也速該​​ニルン​​尼倫​〈[#「ニルン」はモンゴル語で「背骨」。「一族」の意]〉をとりまとめ、各部はみなこれに畏服した」と言い、元史類編は「​エスガイ​​也速該​は諸部をみな取り込み、勢いはいよいよ盛んになり、これが元の始祖となった」と言い、みな歴史の飾筆によるものであれば、いよいよ事実ではない。よってこれを整える。​ラシツド​​喇施特​のモンゴル史は後でただ西史について言う。上は、近侍​トドン ホルヂン​​脫端 火兒眞​秋濤案、秘史は​トドエン ギルテ​​脫朶延 吉兒帖​とあり、おそらくこれであろう。文田案、吉を古とする。通世案、​ラシツド​​喇施特​​テムヂン​​帖木眞​部の最年長者の二人とする。​トドン​​脫端​は、おそらく元史の​トドン オチギン​​掇端 斡赤斤​、秘史の​トドエン オツチギン​​脫朶延 斡惕赤斤​、太祖の祖父​バルタン バアトル​​把兒壇 把阿禿兒​の末弟である。​ホルヂン​​火兒眞​については考えがない。​エルドマン​​額兒忒曼​​ラシツド​​拉施特​史は、​カフルヂ​​喀呼兒濟​とする。やはり まさに叛いたと聞き、自ら泣いてこれを留めた。​トドン​​脫端​は「今や清き沢はすでに涸れ、堅き石はすでに砕けた。なんのために帰って留まろうか」と言った。そのまま去った。上の母​ウエルン​​月倫​太后は、 秋濤案、太后は​オルクヌ​​斡勒忽訥​氏。元史 太祖紀は、宣懿太后と称する。​ウエルン​​月倫​が名である。秘史は​ホエルン​​訶額侖​とする。 烈祖の没後を考えるに、太后の賢能のおかげで、太祖兄弟は、みな成人できた。しかし元史は伝を立てず、またおろそかである。文田案、元史は月倫太后を伝を立てるべき者とみなさず、​エスガイ​​也速該​が昔これを捕らえて得た。 従来の記述に従えば、​メリキ​​蔑里乞​部の女性である。元朝の人といえどもこれを忌んだ。明朝の人が元史を編纂し、次第におおざっぱになったか。 通世案、蒙古源流は​ウゲレン ハトン​​烏格楞 哈屯​ ​オルゴノト​​鄂勒郭諾特​氏とする。​ベレジン​​伯哷津​​エルン エゲ​​諤倫 額格​​オンギラ​​翁吉剌​分族の​オルクヌト​​斡勒忽訥特​氏とする。 旗を指し通世案、この語は誤り。秘史蒙文は​トグ​​禿黑​とし、西史は​トク​​禿克​とする。いわゆる纛である。昔のモンゴルに軍旗は無く、単に牛の尾もしくは白馬の尾を棹の頭に繋げて、これを毛飾りのついた旗・纛とする。秘史は英槍と訳すが、これも誤り。 将兵を自ら追いかけ、大半が戻ってきた。部将​チヤラハイ​​察剌海︀​秋濤案、秘史の​チヤラカ​​察剌合​鎗にあたって大けがした。上は自らいたわりねぎらった。〈底本-339 ​チヤラハイ​​察剌海︀​は「先君が亡くなってから、原本では「自居登避」の四字、まだ詳しくわからない。秋濤案、「自先君登遐」とする。おそらく間違って君を居、遐を避としたのか、みな形が似ている。むかし字が再び伝え写され脱落したのである。部民の多くが叛きました。わたくしめは怒りに勝てず、遠く追いかけ追は原書では迎。張石州が翁方綱本に拠って改める。苦戦し、このようになりました。」と言った。上は感涙し出ていった。通世案、このあたりは、大切なことがいくつか述べられるべきで、秘史を詳しく見る。一、叛いた者が半分帰ってきて、まもなく皆離れ去り、​タイイチウ​​泰亦赤兀​をたよった。二、​ホエルン​​訶額侖​は苦労して、子らを育てる。三、太祖と​カツサル​​合撒兒​がそろって異母弟​ベクテル​​別克帖兒​を殺す。四、​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​が太祖を襲って捕え、​ソルカン シラ​​鎖兒罕 失剌​に救って逃がすよう頼る。五、太祖が馬泥棒を追い、​ボオルチユ​​孛斡兒出​これを援ける。六、​デイ セチエン​​德 薛禪​が息女を太祖にめあわせる。七、​ボオルチユ​​孛斡兒出​が来て服従する。八、太祖が父の友​ワンカン​​王罕​にまみえに行き、父と敬う。九、​ヂエルメ​​者︀勒篾​が来て服従する。十、​メルキ​​篾兒乞​人が襲って来て、​ベルグタイ​​別勒古台​の母と太祖の妻​ボルテ​​孛兒台​を掠めて去る。十一、 太祖が​ワンカン​​王罕​​ヂヤムカ​​札木合​に出兵を乞い、​メルキ​​篾兒乞​を打ち破る。​ボルテ​​孛兒台​が逃れ帰る。​ベルグタイ​​別勒古台​が得られない母を探し求める。戦争中に幼児​クチユ​​曲出​をとらえる。十二、太祖と​ヂヤムカ​​札木合​が再び​アンダ​​安荅​となり、共に営み暮らす。やがて離れ去る。諸部の多くが​ヂヤムカ​​札木合​を棄て太祖に味方し、遂に太祖を​チンギス カン​​成吉思 汗​として立てる。 この十二条は、みな烈祖没後二十年ぐらいの間にあり、太祖創業の艱難を述べるうえで、決して欠くべからざるものであろう。だが本書はこれが抜け、すぐに十三翼の戦いで、太祖幼時事からのつなぎの、おろそかなこと殊に甚だしい。​ラシツド​​喇施特​のモンゴル史は、またこれと同じ。国史​トビチヤン​​脫必赤顏​​ラシツド​​喇施特​が金冊の同じ本を用いていることがわかる。みな秘史原本のありのままの飾り気のなさと詳しさに及ばない。



〈史45-161上12時上麾下搠只塔兒馬剌別居薩里川,札荅蘭氏札木合部人禿台察兒居玉律哥泉

時上麾下搠只塔兒馬剌、秋濤案、邵遠平元史類︀編、引此錄、無塔兒馬剌四字。文田案、元史本紀作「搠只別居薩里河」。故邵據以節︀去四字。祕史作拙赤荅兒馬剌。通世案、伯哷津書作札剌亦兒人拙赤塔兒蔑勒。注云「札剌亦兒人、卽被海︀都︀俘爲奴僕者︀」。別居薩里河。秋濤案、元史類︀編、引作薩里川。通世案、祕史作撒阿里地面、又作撒阿里客額兒。客額兒、蒙古語謂曠野。多遜作薩里奇哈兒、釋爲黃野。據祕史客魯漣河源不兒吉岸、本書作薩里河不魯吿崖、則薩里之野、當在克魯倫河之上游。元史類︀編朔漠圖、置撒里怯兒于斡難︀河之南、附記「元初起此」四字。札答蘭氏 通世案、祕史作札荅剌氏、又作札荅闌氏。其祖︀札只剌歹、孛端察兒子巴阿里歹之異父兄也。而札木合爲札只剌歹四世孫。考太祖︀幼與札木合爲親友。太祖︀、孛端察兒十世孫、而札木合僅五世。世系恐有誤。西史作札只剌特氏、爲托邁乃第七子烏都︀兒伯顏之裔。元史孛禿傳作札赤剌歹。札木合部人禿台察兒、通世案、祕史作札木合弟紿察兒、伯哷津作紿古察兒。居玉律哥泉、 通世案、祕史作札剌麻山前斡列該不剌合地面。多遜作烏拉該布拉克、釋爲赤泉、且曰「此今烏楞該河也。發源敖嫩河北山、流入音果達河。」然赤泉與黃野接壤、故有牧人爭鬪之事、不當在敖嫩河之北。是說未足據也。今大肎特山西、有集隆︀山、或作卽龍、音近札剌麻。斡列該泉、當在集隆︀山南麓、則與薩里之野相接也。〈東方學デジタル圖書館-12原缼擧字。秋濤據元史類︀編增。眾來薩里河、掠搠只牧馬。搠只麾左右匿羣馬中、射殺︀之。秋濤案、謂射殺︀禿台察兒。札木合以是爲隙。遂與泰赤烏・亦乞剌思通世案、祕史作亦乞列思、輟耕錄蒙古氏族、作永吉列思。額兒忒曼作音乞剌思、與輟耕錄音近。兀魯吾秋濤案、兀舊作元、今改。通世案、此卽元史之兀魯兀禿、祕史之兀魯兀惕、納臣長子兀魯兀歹之裔也。那也勤原作郡也勒、通世校改。案、祕史、合臣子那牙吉歹、爲那牙勤氏。版本、勤誤作勒。祕史卷五、或作那牙乞。伯哷津書、托邁乃長子札克蘇、有子曰那牙勤、其後爲那牙勤氏。洪鈞氏譯文、亦誤作那牙勒氏。 八魯剌思・霸鄰諸︀部合謀、以衆三萬來戰。秋濤案、霸鄰部、當卽八鄰部也。文田案、祕史有巴魯剌思氏、出自巴魯剌台。又有巴阿鄰氏、出自巴阿里歹。又案、輟耕錄蒙古七十二種氏族、有八魯剌忽、又有八鄰。均卽此二部也。通世案、八魯剌思、喇施特作火魯剌思。八疑是火之譌。見下火魯剌注。祕史云「札木合領著︀他一種幷十三部、共三萬人云云」。葢札木合率十三部而來、故太祖︀亦分十三翼應戰也。上時駐軍答蘭秋濤案、元史本紀作闌。版朱思之野。通世案、祕史作荅闌巴勒主惕地面、卷九引此役、作巴勒渚︀納地面。額兒忒曼作荅闌巴勒朱思、解荅闌爲平地、巴勒朱思、爲屬巴勒朱那。和渥兒特査栗特兒地圖、曰「巴勒朱那、小湖也。圖剌河自此流出、入於音果達河。敖嫩音果達之分水嶺、曰阿拉沙那山湖在此山之東」。洪氏曰「巴勒渚︀納、是淖爾名、此乃地名、且多荅闌二字、必非一地。或祕史卷九、主惕誤作渚︀納也」。案敖嫩河自小肎特山東流千餘里、至東經百十一度半、有巴爾集河自西北來會。又東北流數百里、有他拉巴爾濟河自西北來會。荅闌巴勒朱思、當是巴爾集河邊之平野、否則他拉巴爾濟河邊之地。巴勒渚︀納、本書作班朱尼河、見後。亦乞原作迄石州校改。剌部人秋濤案、亦乞剌部、卽上亦乞剌思部。元史孛禿傳、云〈東方學デジタル圖書館-13亦乞列思氏。列與剌皆譯語偶異。凡居某部者︀、卽以其部爲氏。故傳言氏、卽與此記言部同也。文田案、亦乞剌部、出自駙馬昌王阿失之祖︀孛禿。卽此記之孛徒也。詳元文類︀駙馬昌王碑。捏群原作辟。秋濤案、當作群。注見下。之子孛徒、〈底本-340 原作字徒。秋濤案、當作孛徒。先在麾下。至是自原脫至字、是自二字倒置。秋濤依元史類︀編補正。說見下。曲鄰居山、山原作小。秋濤校改。通世案、祕史作古列勒古地面、又作古連勒古地面。伯哷津作古魯之地。曲隣居與古魯、皆古列勒古之變音。遣卜欒台欒、原作奕。通世依元史祕史改。見下。慕哥二人、逾阿剌烏・禿剌烏二山曾植案、卽祕史之阿剌兀惕・土兒合兀嶺。通世案、伯哷津書、作阿剌烏特・禿剌烏特二山。來吿變。秋濤案、元史類︀編引此、答蘭作塔蘭、捏辟作捏羣、字徒作孛徒。「自是曲鄰居小」句作「至是自曲鄰居山、遣卜奕台慕哥三人、逾阿剌禿剌烏干山吿變」。案、類︀編所引、多是未譌時本、宜從之。惟卜奕台慕哥、史作波欒歹、磨里禿禿、人名迵異。波卜聲同、奕欒形似。俗書欒字上䜌作亦也。未知孰是。〈東方學デジタル圖書館-14又案、今本山名、與類︀編所引亦殊。案下文有「札木合敗走、彼軍初越二山」之語、則作二山者︀、是也。葢類︀編、阿剌下脫去烏字。干則二之譌耳。又案、元史本紀云「札木合以爲怨、遂與泰赤烏諸︀部、以衆三萬來戰。帝時駐軍答闌版朱思之野、聞變、大集諸︀部兵、分十有三翼以俟」。不載何人吿變。今據類︀編所引聖武記、校知此字徒爲孛徒之譌。因攷得元史卷一百十八、有孛禿傳、卽此孛徒也。其傳載孛禿亦乞列思氏、太祖︀以皇妹妻之、與此「先在麾下」之說梢異。又云「旣而札赤剌歹札朮合脫也、以兵三萬入寇。孛禿聞之、遣波欒歹・磨里禿禿・來吿云云」。卽此事也。攷札赤剌歹、卽泰赤烏、札朮哈、卽札木合。朮者︀、木之譌也。以一事分載紀傳、姓名各殊、孰能辨之。元史之疎、於此可見。故歷來修續通鑑綱目等書者︀、於是事全不登載。賴此書尙存、細心鉤攷、得以覈其原委耳。又案、戊寅年、木華黎率亦乞剌部孛徒駙馬二千騎、卽此孛徒也。史稱「太祖︀先以皇妹帖木倫妻孛禿。皇妹薨、復妻以皇女火臣別吉」。是孛徒凡兩尙主、故後稱駙馬。惟史載妻以皇妹事、在吿變前。觀此及伐汪可汗時、孛徒皆不稱駙馬、至戊寅年、始有是稱則孛徒正以吿變功尙主。史所載未爲確也。曾植案、札赤剌歹、卽札木合部名、非泰赤烏。又案、孛禿、祕史作不圖。其壻於太祖︀家、及後吿變事、均載卷四書中。非以吿變得尙主也。又案、〈東方學デジタル圖書館-15卜欒歹、祕史作孛羅勒歹。慕哥、祕史作木勒客脫塔黑。通世案、祕史云「時成吉思在古連勒古之地。有亦乞列思種人木勒客脫塔黑・孛羅勒歹二人來報」。伯哷津則云「捏坤在泰赤烏特部下、而其子孛徒從成吉思汗。故其父亦歸心焉。時兵在古魯之地。有巴魯剌思人木勒客脫塔克等二人、先以事來、今將歸。捏坤乘其便、遣來吿變」。案、此戰以前、太祖︀事蹟、史錄西書皆闕而不載。據祕史、太祖︀少時免︀泰亦赤兀惕之難︀、乃始居古連勒古。卷二所謂「不兒罕山前、有古連勒古山、山裏有桑沽兒河、河邊有合剌只魯格小山、有靑海︀子。帖木眞下營其間」、是也。尋娶孛兒帖兀眞、遷于客魯漣河源不兒吉岸。後被篾兒乞襲掠、乞師於王汗・札木合、以報其讎、遂從札木合、居豁兒豁納黑 主不兒之地。及與札木合分離、衆奉爲可汗、復居于古列勒古地內桑沽兒河邊合剌主魯格地之闊闊納浯兒海︀子處。闊闊納浯兒、卽靑海︀子也。其後葢十餘年、至辛酉年、未嘗撤古列勒古本營。今遇札木合來侵、乃進戰于荅闌巴勒主惕之地、安得敵先在古列勒古耶、然則本書西史、以古列勒古爲敵兵所在者︀、恐不允。然至西史叙事悉情節︀、則較東書爲詳。又案、元史之磨里禿禿、卽木勒客脫塔黑之譌、此慕哥、亦木勒客之譌也。類︀編引作三人、三、二之誤。西史無孛羅勒歹、以木勒客脫塔克爲二人、亦 非。上集諸︀部、戒嚴、凡有十三翼秋濤案、當作兵凡十有三翼。通世案、翼字、祕史蒙文作古列額惕、譯爲圈子。喇施特作古闌、解爲環、卽圈子也。洪氏曰「庫倫義爲圈子。古闌實卽庫倫。各處方言有異音耳」。月倫太后曁上諸︀昆弟爲三翼。秋濤案、類︀編引此作「凡十有二翼。月倫太后曁上諸︀昆弟爲一翼」。豈邵戒山所見聖武紀、本偶誤一字邪。通世案、伯哷津書、以諤倫額格、並其族斡勒忽訥人、爲第一翼、以成吉思汗及其子弟、與其從人、並各族之子弟、爲第二翼。此已有三翼、恐誤。哈初來之子奔搭出拔都︀ 原作板相。秋濤案、當作拔都︀。曾植案、哈初來、卽祕史之哈出剌、世系表之合產、蔑年土敦之子。與太祖︀長八世、不容其子至此尙在。又哈出剌之子孫、爲小巴魯剌思、而阿荅兒斤、乃合出剌弟合赤溫後。世系表與祕史竝同。此與不合。葢此節︀舛誤極多、不能一一詳攷矣。通世案、自哈初來至火魯剌諸︀部、伯哷津爲第三翼。哈初來之子奔搭出板相、伯哷津作撒拇哈準之後人布拉柱巴哈都︀兒。板相爲拔都︀之譌、無疑。今改。撒拇哈準者︀、卽元史之葛赤渾、祕史之合赤溫也、元史以爲敦必乃第五子、西史以爲托邁乃第四子、而祕史則以爲篾年土敦〈[#底本では篾年と土敦の間に読点]〉第五子與二史異。然其爲阿荅兒斤氏祖︀、則一也。哈初來之來、疑當作永。急讀乃爲哈準。奔搭出拔都︀與祕史之不勒帖出把阿禿兒音近。不勒帖出、祕史爲合不勒汗弟撏薛赤列之子。然撏薛赤列之名、諸︀本不見、則不勒帖出、疑卽與布拉柱同人、祕史系或有誤。布拉柱、據西史、爲哈準之玄孫、太祖︀三從兄之子也。子當爲裔之誤。禿不哥逸︀敦、通世案、是句、伯哷津作「又有客拉亦特之分族人」。洪氏曰、「客亦特與哥逸︀敦音近。恐是西域史誤以人名爲族名」。木兒忽・好闌等、統阿答兒斤・察忽蘭・火魯剌火原作大、秋濤校改。通世案、火魯剌卽火魯剌思、葢一部中或從札木合、或從太祖︀也。祕史卷一云「豁里禿馬敦部落的官人豁里剌兒台篾兒干、聽得不兒罕山野物〈底本-341 廣有、全家起來、投奔不兒罕山的主人、名晒赤巴顏、因此就做了豁里剌兒姓」。豁里剌兒台篾兒干、孛端察兒母阿闌豁阿之父也。西史云「阿闌郭斡、火魯拉思氏」。洪氏曰「豁里剌兒氏、祕史僅一見。殆卽火魯拉思」。然則火魯剌思氏、豁里禿馬敦之分族、而南從於不兒罕山者︀。諸︀部、通世案、木兒忽以下、伯哷津作「又阿荅兒斤人、將曰木忽兒忽闌。又火魯剌思人、將曰察魯哈」。洪氏曰「木忽兒・忽闌、錄作木兒忽・好闌、誤將忽兒二字倒置。察魯哈當卽察忽闌。錄爲部名。統考束西著︀述、無此部名。或誤以人名爲部名也。木忽兒・忽闌、與布拉柱、皆阿荅兒斤人。細玩親征錄文義、以合貝勒津書、當是「奔塔出・哥逸︀敦・與木忽兒、統阿荅兒斤部、察忽闌統火魯剌部。則說皆圓矣」。又案、孛徒傳云「乃與哈剌里・札剌兀塔兒哈泥等、討脫也等」哈剌里卽火魯剌之訛。兀塔兒哈泥卽阿荅兒斤之訛。札剌卽次翼札剌亦兒之略。脫也無考。」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉及鮮明昆那顏秋濤案、那顏原作邪顏、誤。今改。〈東方學デジタル圖書館-16之子迭良統火力台不答合輩爲一翼。曾植案、不答合、卽不答安惕部、合闌歹後。通世案、鮮明昆以下、伯哷津爲第四翼、作「蘇兒嘎圖諾顏之子得林赤、並其弟火力台、及博歹阿特人」。鮮明昆、與蘇兒嘎圖、字音難︀合。明恐是兒之譌。迭良、卽得林赤。火力台、據伯哷津書、爲合不勒汗兄博歹阿庫兒格之曾孫。父曰塔兒古台、卽蘇兒噶圖之異文。博歹阿特、卽元史之博歹阿替氏、祕史之不荅安惕氏。其祖︀博歹阿庫兒格、元史作哈剌喇歹、爲敦必乃第四子、西史以爲托邁乃第五子。祕史作合闌歹、與元史音協。而謂爲篾年土敦第六子、與二史異。不答合之合、當爲台之譌。札剌兒及阿哈部爲一翼。通世案、此翼、伯哷津以爲第五第六翼、作「莎兒哈禿月兒乞之子薛徹別乞、並其從兄弟泰出、及札剌亦兒人、莎兒哈禿人」。莎兒哈禿月兒乞、卽祕史之莎兒合禿主兒乞、合不勒汗長子斡勤巴兒合黑之子、稱主兒乞氏、或云主兒斤氏。元史作岳里斤、本書下文作月兒斤。莎兒禿哈、當卽月兒斤氏之異稱。本書作阿哈、疑有奪誤。又案、此間、伯哷津書、有第七翼、爲渥禿助・忽都︀・朵端乞及其麾下。人名不詳。注云「乞要特人」。又有第八翼、云「蒙格禿乞顏之子程克索特及其兄弟、皆爲成吉思汗從兄弟。又巴牙兀特人。將曰翁古兒」。蒙格禿乞顏者︀、元史之蒙奇睹黑顏、也速該之長兄也。翁古兒、祕史爲忙格禿之子。答里台里原作聖。曾植案、當是里字之誤。通世依西史改。見下。火察兒二人及忽都︀〈史45-161下1蘭・捏古思・火魯罕・撒合弟直部秋濤案、後汪可汗與太祖︀相攻時、有撒合弟部、則撒合弟自爲一部。直字疑誤行。或云、當是諸︀字。曾植案、捏古思、亦稱捏兀歹、見祕史第四卷。輟耕錄作捏古歹。後文王汗敗後、「答力台・斡眞・八隣・撒合夷・嫩眞諸︀部、稽顙來歸」、則直上脫嫩字也。撒合弟、當依後文作撒合夷。祕史之撒合亦惕、卽此部也。爲一翼。通世案、此爲伯哷津第九翼、作「答里台斡赤斤、及捏坤大石子火察兒、族人達魯、幷都︀黑剌特・努古思・火兒罕・撒哈夷特・委神︀諸︀部」。洪氏曰「此惟增達魯人名、委神︀部名。忽都︀闌、當卽都︀黑剌、而誤倒都︀忽二字。捏古思、卽努古思。火魯罕、卽火兒罕。撒哈弟直、卽撒哈夷特。委神︀、卽元史之許兀愼。輟耕錄蒙古七十二種有忽神︀、卽委神︀也」。案、答里台者︀、也速該之弟。揑坤者︀、也速該之兄。都︀黑剌特、據西史、合不勒汗弟布端察兒朵黑闌之裔也。祕史作脫忽剌兀惕、爲納臣第四子朵輍剌反之裔。撒哈夷直、後文無直字。直卽眞之譌、而其上脫一字也。忽都︀徒𢗅納兒、秋濤案、忽相當作抜都︀。此卽後伐汪可汗時所云「吾麾下𢗅納兒拔都︀」也。曾植案、忽相徒𢗅納兒、卽祕史忽禿黑禿蒙古兒、史表作忽都︀魯咩聶兒。合不勒罕之子。祕史忽禿黑禿蒙古兒之子、爲不里孛闊。卽此書後文之播里。不知與蒙哥怯只兒哥爲一爲二也。之子蒙哥怯・只兒哥爲一翼。通世案、此翼、西史不載。西史第七翼渥禿助忽都︀、似忽禿黑禿之譌。此蒙哥怯又似西史第八翼蒙格禿之譌。恐兩書皆有誤。忽蘭脫可汗之子搠只可汗曾植案、忽蘭脫可汗、卽祕史忽圖剌合罕、史表作忽魯剌罕。亦 〈東方學デジタル圖書館-17合不勒罕子。搠只卽祕史拙赤。爲一翼。通世案、此爲伯哷津第十翼、作「忽都︀剌汗之子拙赤汗及其從人蘭脫二字誤倒」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉按爲一翼。此句原脫。石州據翁氏本校增、云「𡊨似當作垓」。秋濤案、按𡊨、與後案彈・案攤、當是一人。文田案、𡊨卽壇字之破體也。村俗人往往作此等字。翁以爲𡊨字、誤矣。曾植案、按𡊨、卽阿勒壇。通世案、此爲伯哷津第十一翼、作「阿勒壇、亦忽都︀剌子」。忽蘭脫端爲一翼。秋濤案、脫端事見後。通世案、忽闌、祕史爲合不勒汗第五子。元史以爲庶子、列於諸︀子之後。脫端、合不勒汗之季子、見前。此條、伯哷津〈[#「伯哷津」は底本では「伯津」]〉爲第十二翼、作「答忽巴哈都︀兒、及晃火攸特人、速客特人」。與本書不合。疌相赤紬秋濤案、紬當作納。玉烈二郞曾植案、郞當作部。爲一翼。秋濤案。所載止十一翼。疑有脫誤。通世案、此爲伯哷津第十三翼、作「更都︀赤那、烏魯克勤赤那之後努古思人」。疌相者︀、建都︀之譌、卽更都︀也。玉烈者︀、烏魯克勤之訛略也。此誤以人名爲部名、疑當有奪文。兩赤那者︀、據拉施特、爲扯勒黑領昆之子。其後爲赤尼思氏、亦曰努古思。然則赤那思、卽赤尼思、又卽努古思也。扯勒黑領昆、卽祕史之察剌孩領忽、史表之察剌哈寧昆也。其長子想昆必勒格、則俺巴孩之父、而泰赤烏氏之祖︀。伯哷津作莎兒郭勒魯赤那。史表之大丑兀禿、卽泰赤烏特、直拏斯、卽莎兒郭〈底本-342 勒魯赤那之上略也。而輟耕錄誤以爲察剌哈兄拜姓忽兒之次子。葢錄表寫名、偶誤偏於右傍也。軍大戰於答蘭版朱思之野。札木合敗走。彼軍初越二山、半途爲七十二竈、烹狼爲食。秋濤案、此下疑有脫文。曾植案、此事與祕史絕異。不解其改此之由。及讀首卷孛端察兒無食一條內狼字、蒙文竝作赤那因、乃知赤那因是蒙語呼狼、而彼之地面、又適名赤那思、譯人莽鹵、改有此誤。益知作此書人、見蒙文祕史、未見譯文祕史也。又案、此戰、太祖︀之兵大敗、後得兀魯兀惕𢗅忽惕兩部、而後復振。此云「札木合敗走」、非實錄也。祕史云「札木合將赤那思地面有的大王每、敎七十鍋都︀煮︀了」、卽此七十二竈事。通世案、沈說是也。蒙古語、赤那謂狼、思複數之辭也。更都︀赤那、雄狼也。烏魯克勤赤那、母狼也。赤那思地面、兩赤那子孫所居之地也。祕史又云「札木合又斫斷捏兀歹・察合安的頭、馬尾上施著︀去了」。赤那思氏、又云努古思。捏兀歹、卽努古思也。察合安、赤那思大王每之一也。赤那思一族、罹此慘禍︀、故後裔不顯。乃西史云「成吉思軍雖寡、而大勝敵衆、令以七十钁烹俘虜︀」。此不啻以太祖︀之敗爲勝、併以札木合之烹俘虜︀、爲太祖︀事也。葢脫必赤顏原文已諱敗爲勝。然叙赤那思氏之慘禍︀、則從祕史舊文。而本書誤譯爲野獸矣。西史則疑七十钁烹人、非敗者︀所能辨、乃以爲太祖︀事、遂刪赤那思之名、唯云俘虜︀也。比較三書、可以悟史傳生誤之由矣。

訳文 四-一〇

ときに上の家来​シユヂ タルマラ​​搠只 塔兒馬剌​は、秋濤案、邵遠平の元史類編はこの親征録を引いており、塔児馬剌の四字がない。 文田案、元史 本紀は「​シユヂ​​搠只​は別れて​サリ​​薩里​河に住んだ」とする。ゆえに邵遠平は文節の四字を減らしている。秘史は​ヂユチ ダルマラ​​拙赤 荅兒馬剌​とする。 通世案、​ベレジン​​伯哷津​の書は​ヂヤライル​​札剌亦兒​人の​ヂユチ タルメル​​拙赤 塔兒蔑勒​とする。注に「​ヂヤライル​​札剌亦兒​人は、​ハイド​​海︀都︀​によって捕えられ奴僕となったもの」と言う。 ​サリ​​薩里​河に別れて住んでいた。秋濤案、元史類編を引いて​サリ​​薩里​川とする。通世案、秘史は​サアリ​​撒阿里​地面、また​サアリ ケエル​​撒阿里 客額兒​​ケエル​​客額兒​は、モンゴル語で「広野」という意味である。 ​ドーソン​​多遜​​サリキハル​​薩里奇哈兒​とし、黄色い野と訳す。 秘史にある​ケルレン​​客魯漣​河の源の​ブルギ​​不兒吉​岸は、本書では​サリ​​薩里​​ブルグ​​不魯吿​崖、つまり​サリ​​薩里​の野とし、​ケルルン​​克魯倫​河の上流に当たる。 元史類編の朔漠図は、​サリケル​​撒里怯兒于​​オナン​​斡難︀​河の南に置き、「元朝はここを始まりとして起こった」の四字を付記する。​ジヤラダン​​札答蘭​ 通世案、秘史は​ヂヤダラ​​札荅剌​氏、また​ヂヤダラン​​札荅闌​氏とする。その祖​ヂヤヂラダイ​​札只剌歹​は、​ボドンチヤル​​孛端察兒​の子​バアリダイ​​巴阿里歹​の異母兄である。 そして​ヂヤムカ​​札木合​​ヂヤヂラダイ​​札只剌歹​の四世孫。太祖は幼い頃に​ヂヤムカ​​札木合​を親友としたと考える。太祖は、​ボドンチヤル​​孛端察兒​の十世孫だが、​ヂヤムカ​​札木合​はわずか五世である。 おそらく系統図は誤っている。西史は​ヂヤヂラト​​札只剌特​氏とし、​トマイナイ​​托邁乃​の第七子​トドル バヤン​​烏都︀兒 伯顏​の子孫とする。元史 ​ボト​​孛禿​伝は​ヂヤチラダイ​​札赤剌歹​とする。 ​ヂヤムカ​​札木合​の部民である​トタイチヤル​​禿台察兒​は、通世案、秘史は​ヂヤムカ​​札木合​​タイチヤル​​紿察兒​とし、​ベレジン​​伯哷津​​タイグチヤル​​紿古察兒​とする。​ユルゲ​​玉律哥​の泉に住み、 通世案、秘史は​ヂヤラマ​​札剌麻​山の前にある​オレガイ ブラカ​​斡列該 不剌合​の原とする。​ドーソン​​多遜​​ウラガイ ブラク​​烏拉該 布拉克​とし、赤い泉と訳し、さらに「これは今​ウレンガイ​​烏楞該​河である。​オノン​​敖嫩​河北山を源とし、​インゴダ​​音果達​河に流れ入る」と言う。であれば赤い泉は黄色い野と近接し、遊牧民の闘争があるので、​オノン​​敖嫩​河の北にあるというのは正しくない。この話は根拠が足りない。 いま大​ケンテ​​肎特​山の西に、​ヂロン​​集隆︀​山があり、あるいは​ヂロン​​卽龍​とし、音は​ヂヤラマ​​札剌麻​に近い。 ​オレガイ​​斡列該​の泉は、​ヂロン​​集隆︀​山南麓にあり、​サリ​​薩里​の野と接している。攻め落とし原書は挙の字が欠けている。秋濤が元史類編をもとに足した。 多くの人が​サリ​​薩里​河に来て、​シユヂ​​搠只​の牧馬を掠め取った。そばにいた​シユヂ​​搠只​の配下が馬群をかくまい、これを射殺した。 秋濤案、​トタイチヤル​​禿台察兒​を射殺したと考える。​ヂヤムカ​​札木合​はこれをもって仲違いした。ついには​タイチウ​​泰赤烏​​イキラス​​亦乞剌思​通世案、 秘史は​イキレス​​亦乞列思​とし、輟耕録はモンゴル氏族、​インギレス​​永吉列思​とする。​エルドマン​​額兒忒曼​​インキラス​​音乞剌思​とし輟耕録と音が近い。 ​ウルウ​​兀魯吾​秋濤案、兀は原書では元とし、今改める。通世案、これは元史の​ウルウト​​兀魯兀禿​、秘史の​ウルウト​​兀魯兀惕​​ナチン​​納臣​長子​ウルウダイ​​兀魯兀歹​の子孫である。 ​ノエキン​​那也勤​原書は郡也勒となっており、通世が校改する。案、秘史では​カチン​​合臣​の子​ノヤギダイ​​那牙吉歹​​ノエキン​​那也勤​氏とする。版本は勤を誤って勒とする。秘史巻五では、あるいは那牙乞とする。〈[#「那牙乞」とするのは巻五ではなく巻三]〉​ベレジン​​伯哷津​の書、​トマイナイ​​托邁乃​長男​ヂヤクス​​札克蘇​​ノヤキン​​那牙勤​という子があり、その後​ノヤキン​​那牙勤​氏とされた。洪鈞氏の訳文も、​ノヤル​​那牙勒​氏と誤っている。​バルラス​​八魯剌思​​バリン​​霸鄰​諸部が共謀し、三万の軍勢で戦いに来た。秋濤案、​バリン​​霸鄰​部は​バリン​​八鄰​部にあたる。 文田案、秘史に​バルラス​​巴魯剌思​氏は​バラルタイ​​巴魯剌台​から出たとある。また、​バアリン​​巴阿鄰​氏は、​バアリダイ​​巴阿里歹​から出た。また、輟耕録の蒙古七十二種氏族には、​バルラク​​八魯剌忽​​バリン​​八鄰​がある。この二部とひとしい。通世案、​バルラス​​八魯剌思​​ラシツド​​喇施特​​ホルラス​​火魯剌思​とする。八は火を誤ったのであろう。後文にある​ホルラ​​火魯剌​の注を見よ。 秘史は「​ヂヤムカ​​札木合​が十三部をひとつにまとめて治め、あわせて三万人、云云」と言う。おそらく​ヂヤムカ​​札木合​が十三部を率いて来たので、太祖も十三翼に分かれて応戦したのであろう。 上はそのとき駐留していた、​ダラン​​答蘭​秋濤案、元史 本紀は蘭を闌とする。​バンヂユス​​版朱思​の野に。通世案、秘史は​ダラン バルヂユト​​荅闌 巴勒主惕​の地とし、巻九がこの戦役を引用し、​バルヂユナ​​巴勒渚︀納​の地とする。​エルドマン​​額兒忒曼​​ダランバルヂユス​​荅闌巴勒朱思​とし、​ダラン​​荅闌​を平地と解釈し、​バルヂユス​​巴勒朱思​を、​バルヂユノ​​巴勒朱那​とする。​ホヲルト​​和渥兒特​​リトル​​栗特兒​地図を調べて、「​バルヂユノ​​巴勒朱那​は、小さな湖である。​トラ​​圖剌​河はここから流れ出て、​インゴダ​​音果達​河に入る。​オノン​​敖嫩​​インゴダ​​音果達​の分水嶺は、この山の東にある​アラシヤノ​​阿拉沙那​山という」と言う。洪氏は「​バルヂユナ​​巴勒渚︀納​​ノール​​淖爾​〈[#「ノール」はモンゴル語で「湖」の意]〉の名とし、ここの地名は、まさに​ダラン​​荅闌​の二字であり、必ずやひとつの場所ではない。あるいは秘史巻九は、​ヂユト​​主惕​を誤って​ヂユナ​​渚︀納​としたのであろう。」と言う。 小​ケンテ​​肎特​山から東に千里あまりの​オノン​​敖嫩​河を考えると、東経百十一度半に至り、北西から合流する​バルヂ​​巴爾集​河がある。また、東北に数百里流れると、北西から合流する​タラバルヂ​​他拉巴爾濟​河がある。​ダランバルヂユス​​荅闌巴勒朱思​は、​バルヂ​​巴爾集​河のほとりの平野にあたり、よって​タラバルヂ​​他拉巴爾濟​河のほとりの地ではない。​バルヂユナ​​巴勒渚︀納​は、本書では​バンヂユニ​​班朱尼​河とされ、後文で見える。​イキラ​​亦乞剌​部人乞は原書では迄とし張石州が校改する。秋濤案、​イキラ​​亦乞剌​部は、前文の​イキラス​​亦乞剌思​部。 元史 ​ボト​​孛禿​伝は、​イキレス​​亦乞列思​氏と言う。​レ​​列​​ラ​​剌​はみな訳語訳がたまたま異なっている。通例として某部に住む者はその部を氏とする。ゆえに元史の伝が氏と言えば、この記が部を言うのと同じである。文田案、​イキラ​​亦乞剌​部、出自は駙馬昌王​アシ​​阿失​の祖​ボト​​孛禿​。この記の​ボト​​孛徒​である。元文類 駙馬昌王碑に詳しい。​ネクン​​捏群​原書は辟とする。秋濤案、群を当てる。注は後文に見える。の子​ボト​​孛徒​は、〈底本-340 原書は字徒とある。秋濤案、孛徒とする。早くから配下だった。ここに原書は至の字が抜けている。是自の二字が倒置されている。秋濤が元史類編によって補正する。後文で言う。​グリング​​曲鄰居​山より至り、山は原書では小とある。秋濤が校改する。通世案、秘史は​グレルグ​​古列勒古​の地、または​グレルグ​​古連勒古​の地とする。​ベレジン​​伯哷津​​グル​​古魯​の地とする。​グリング​​曲隣居​​グル​​古魯​、いずれも​グレルグ​​古列勒古​の変音。​ブロンタイ​​卜欒台​欒は原書では奕。通世が元史と秘史に拠り改める。後文に見える。​ムゲ​​慕哥​二人を遣わし、​アラト​​阿剌烏​​トラト​​禿剌烏​二山を登り越えて曽植案、秘史の​アラウト​​阿剌兀惕​​トルカウ​​土兒合兀​の峰。通世案、​ベレジン​​伯哷津​の書は​アラウテ​​阿剌烏特​​トラウテ​​禿剌烏特​二山とする。変を告げに来た。 秋濤案、元史類編はこれを引用して、​ダラン​​答蘭​​タラン​​塔蘭​、捏辟を​ネクン​​捏羣​、字徒を​ボト​​孛徒​とする。「この​グリング​​曲鄰居​小から」という句を「​グリング​​曲鄰居​山からここに至り、​ブイタイ​​卜奕台​ ​ムゲ​​慕哥​三人を遣わし、​アラトラウゲン​​阿剌禿剌烏干​山を登り越えて変を告げた」とする。元史類編が引く所は、間違いのない時期の書が多く、これに従うのがふさわしい。思うに​ブイタイ​​卜奕台​​ムゲ​​慕哥​は、元史は​ボロンダイ​​波欒歹​​モリトト​​磨里禿禿​とし、人名がまったく異なる。​ボ​​波​​ブ​​卜​の音が同じで、奕と欒は字の形が似ている。低級な書が欒の上の䜌を亦にしたのである。どれがよいのかは知らない。又案、今のこの山名と元史類編が引く所も異なっている。後文にある「​ヂヤムカ​​札木合​敗走、彼軍初越二山」の語を考えると、二山とされたのはこれである。おそらく元史類編は阿剌の下の烏の字を取り除いたのであろう。 二つの間違いのみに関わる。又案、元史 本紀は「​ヂヤムカ​​札木合​は恨みに思い、ついに​タイチウ​​泰赤烏​諸部とともに、三万人で戦いに来た。帝はその時​ダランバンヂユス​​答闌版朱思​の野に駐留しており、変を聞いて諸部の兵を大いに集め、十三翼に分けて待ち受けた」。だれが変を告げたか載せていない。ここで聖武記を引くところの元史類編に拠れば、この字徒という孛徒の間違いを正したとわかる。 元史 巻一百十八をよく考えると、​ボト​​孛禿​伝があり、それがこの​ボト​​孛徒​である。その伝は​ボト​​孛禿​​イキレス​​亦乞列思​氏で、太祖は皇妹をこれの妻にしており、これが「早くから配下だった」と本書が言っているのと、やや異なっている。また「やがて​ヂヤチラダイ​​札赤剌歹​​ヂヤチカ​​札朮合脫​が抜けてしまい、三万の兵で入寇した。​ボト​​孛禿​はこれを聞き、​ボロンダイ​​波欒歹​​モリトト​​磨里禿禿​を遣わし告げてきた云々」と言う。つまりこのことである。​ヂヤチラダイ​​札赤剌歹​を考えると、つまり​タイチウ​​泰赤烏​であり、​ヂヤチハ​​札朮哈​は、つまり​ヂヤムカ​​札木合​である。朮は、木の間違いである。 思うに一つの事が紀伝に分かれて載せられており、姓名はそれぞれ異なっており、誰がうまく判別できるであろうか。 元史のおろそかさは、ここに見ることができる。古い従来の続通鑑綱目などの書は、この事をまったく掲載していない。この書の存在を頼み、注意深く考え、厳しくその原書の詳細を得るのみである。 又案、戊寅年(1218年)、​ムホアリ​​木華黎​​イキラ​​亦乞剌​​ボト​​孛徒​駙馬二千騎、つまりこの​ボト​​孛徒​である。。 元史は「太祖はむかし皇妹​テムルン​​帖木倫​​ボト​​孛禿​の妻とした。皇妹が亡くなり、再び皇女​ホチン ベキ​​火臣 別吉​を妻とした。」と唱える。 この​ボト​​孛徒​、二人いずれも皇帝の娘をめとり、ゆえに後に駙馬と称された。思うに元史は皇妹を妻としたことが、変を告げる前にある。これと​ワン カガン​​汪 可汗​戦の時を見ると、 孛徒はどちらも駙馬を称していない。戊寅年に至り、変を告げた功をもって初めて孛徒が尚主したとある。元史ははっきりと載せていない。曽植案、​ヂヤチラダイ​​札赤剌歹​は、 ​ヂヤムカ​​札木合​部名であって、​タイチウ​​泰赤烏​ではない。又案、​ボト​​孛禿​は、秘史では​ブト​​不圖​とする。その太祖家への婿入り、および変を告げた後のことは、ともに巻四〈[#「巻四」は十五巻本であり十二巻本では巻三に当たる。以後すべて十五巻本での数え方]〉に載せられている。変を告げたことをもって尚主されたのではない。又案、​ブロンダイ​​卜欒歹​、秘史は​ボロルダイ​​孛羅勒歹​とする。​ムゲ​​慕哥​、秘史は​ムルケ トタク​​木勒客 脫塔黑​とする。 通世案、秘史は「ときに成吉思は​グレルグ​​古連勒古​の地にいた。​イキレス​​亦乞列思​族の​ムルケ トタク​​木勒客 脫塔黑​​ボロルダイ​​孛羅勒歹​の二人が伝えに来た」と言う。 ​ベレジン​​伯哷津​は「​ネクン​​捏坤​​タイチウト​​泰赤烏特​部の下にいて、その子​ボト​​孛徒​​チンギス カン​​成吉思 汗​に従った。ゆえにその父も身を寄せたか。ときに兵は​グル​​古魯​の地にいた。​バルラス​​巴魯剌思​人の​ムルケ トタク​​木勒客 脫塔克​ら二人があり、まず来て、今まさに身を寄せた。​ネクン​​捏坤​はそれを頼って、変を告げさせに来た。」と言う。案、この戦い以前の、太祖の事蹟については、西書みな欠けて載せていない。秘史に拠れば、太祖が若い頃に​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​の難を免れ、まさに​グレルグ​​古連勒古​に住み始めた。巻二のいわゆる「​ブルカン​​不兒罕​山の前に、​グレルグ​​古連勒古​山があり、山中に​サングル​​桑沽兒​河があり、ほとりに​カラ チルゲ​​合剌 只魯格​小山があり、青い湖があった。​テムヂン​​帖木眞​はその間で居住した」は、これである。 ついで​ボルテ ウヂン​​孛兒帖 兀眞​を娶り、​ケルレン​​客魯漣​​ブルギ​​不兒吉​岸に還った。その後​メルキ​​篾兒乞​に襲われ、​ワンカン​​王汗​​ヂヤムカ​​札木合​に派兵を乞い、仇を返し、そのまま​ヂヤムカ​​札木合​につき従い、​ゴルゴナク ヂユブル​​豁兒豁納黑 主不兒​の地に住んだ。​ヂヤムカ​​札木合​と別れるにいたり、人々は​カガン​​可汗​と奉じ、​グレルグ​​古列勒古​の地の内にある​サングル​​桑沽兒​河のほとり​カラ ヂユルゲ​​合剌 主魯格​​ココ ナウル​​闊闊 納兀兒​の湖に戻り住んだ。​ココ ナウル​​闊闊 納兀兒​はつまり青い湖である。その後十数年、辛酉年(1201年)、まだ​グレルグ​​古列勒古​を去らずにいた。今​ヂヤムカ​​札木合​の侵攻に遇い、​ダラン バルヂユト​​荅闌 巴勒主惕​の地に進んで戦うに及び、敵が​グレルグ​​古列勒古​を取ることに甘んじたか、そうであるならば西史が、​グレルグ​​古列勒古​が敵兵の居場所となったとするのは、おそらく事実ではない。とはいえ、西史のつぶさな事情の叙事は、東書に比べると詳しい。又案、元史の​モリ トト​​磨里 禿禿​は、​ムルケ トタク​​木勒客 脫塔黑​の誤りであり、この​モゲ​​慕哥​は、​ムルケ​​木勒客​の誤りである。元史類編は三人に三、二の誤りを引いており、西史は​ボロルダイ​​孛羅勒歹​がなく、​ムルケ トタク​​木勒客 脫塔克​を二人とし、これも間違い。 上は諸部を集め、厳重に備え、およそ十三翼で秋濤案、兵をおよそ十有三翼とする。通世案、翼の字は、秘史蒙文が​クレエト​​古列額惕​としており、集団と訳している。​ラシツド​​喇施特​​グラン​​古闌​とし、環と訳し、つまりは集団である。洪氏は「​クルン​​庫倫​の意味は集団で、​グラン​​古闌​はまさに​クルン​​庫倫​である。各所の方言が音が異なっているだけである。」と言う。 ​ウエルン​​月倫​太后および上の兄弟は三翼となった。秋濤案、元史類編を引いてこれを「およそ十有二翼。​ウエルン​​月倫​太后および上の兄弟は一翼となった。」とする。邵戒山〈[#「戒山」は邵遠平のあざな]〉が見たところの聖武紀が、たまたま一字間違っていることがあろうか。通世案、​ベレジン​​伯哷津​の書は​エルン エゲ​​諤倫 額格​を、出身部の​オルクヌ​​斡勒忽訥​人とともに、第一翼とし、​チンギス カン​​成吉思 汗​と兄弟を、家来や、各部の若者とともに、第二翼とする。ここはすでに三翼とあるので、誤りかもしれない。​ハチユライ​​哈初來​の子​ブンタチユ バード​​奔搭出 拔都︀​ 原書は板相とある。秋濤案、抜都とあてる。曽植案、​ハチユライ​​哈初來​は秘史の​ハチユラ​​哈出剌​、世系表の​カチヤン​​合產​​メネン トドン​​蔑年 土敦​の子。太祖から八世祖先の、その子がなお健在とは受け入れられない。また​ハチユラ​​哈出剌​の子孫は、小​バルラス​​巴魯剌思​とされるが、​アダルギン​​阿荅兒斤​は、​カチュラ​​合出剌​の弟​カチウン​​合赤溫​の子孫。世系表と秘史がともに同じ。これと合わない。 どうやらこの節は間違いが極めて多いらしく、ひとつひとつを詳しく考えられない。通世案、​ハチユライ​​哈初來​から​ホルラ​​火魯剌​諸部に至るまで、​ベレジン​​伯哷津​は第三翼とする。哈初来之子奔搭出板相については、​ベレジン​​伯哷津​​サムハヂユン​​撒拇哈準​の子孫​ブラチユ バハドル​​布拉柱 巴哈都︀兒​とする。板相が抜都の誤りであること、疑いなし。今改める。​サムハヂユン​​撒拇哈準​は元史の​カチフン​​葛赤渾​、秘史の​カチウン​​合赤溫​であり、元史は​トンビナイ​​敦必乃​の第五子とし、西史は​トマイナイ​​托邁乃​の第四子とするが、秘史は​メネン トドン​​篾年 土敦​の第五子とし二史と異なる。 とはいえそれを​アダルギン​​阿荅兒斤​氏の祖とするのは、同じである。​ハチユライ​​哈初來​の来は、おそらく永を当てるのだろう。​ナイ​​乃​を急いで読んで​ハヂユン​​哈準​とする。​ブンタチユ バード​​奔搭出 拔都︀​と秘史の​ブルテチユ バアトル​​不勒帖出 把阿禿兒​は音が近い。​ブルテチユ​​不勒帖出​は、秘史では​カブル カン​​合不勒 汗​​セムチレ​​撏薛赤列​の子とする。​セムチレ​​撏薛赤列​の名は、諸本に見あたらず、したがって​ブルテチユ​​不勒帖出​​ブラチユ​​布拉柱​と同じ人かもしれず、秘史系に誤りがあるかもしれない。​ブラチユ​​布拉柱​は、西史に拠れば、​ハヂユン​​哈準​の孫の孫とされ、太祖の三人の従兄の子とある。子は子孫の間違いとあてる。 ​トブゲイドン​​禿不哥逸︀敦​通世案、この句は、​ベレジン​​伯哷津​が「また​ケライド​​客拉亦特​の分族の人があった」とする。洪氏は「​ケイド​​客亦特​​ゲイドン​​哥逸︀敦​は音が近い。西域史は人名を族名と誤ったのかもしれない」と言う。​ムルク​​木兒忽​​ハウラン​​好闌​など、​アダルキン​​阿答兒斤​​チヤクラン​​察忽蘭​​ホルラ​​火魯剌​火は原書では大とし、秋濤が校改する。通世案、​ホルラ​​火魯剌​​ホルラス​​火魯剌思​であり、おそらく部内のある者は​ヂヤムカ​​札木合​に従い、ある者は太祖に従ったのである。秘史巻一は「​ゴリ トマト​​豁哩 禿馬惕​部落の官人​ゴリラルタイ メルゲン​​豁里剌兒台 篾兒干​​ブルカン​​不兒罕​山の狩りの動物を広くあるのを得られると聞き、〈底本-341みなで移り住み、​ブルカン​​不兒罕​山の主人をたより、​シンチ バヤン​​晒赤 巴顏​と名のり、​ゴリラル​​豁里剌兒​姓の由来となった。」と言う。​ゴリラルタイ メルゲン​​豁里剌兒台 篾兒干​は、​ボドンチヤル​​孛端察兒​の母​アラン ゴア​​阿闌 豁阿​である。西史は「​アラン グオ​​阿闌 郭斡​は、​ホルラス​​火魯拉思​氏」と言う。洪氏は「​ゴリラル​​豁里剌兒​氏、秘史にわずかに一度見える。おそらくこれは​ホルラス​​火魯拉思​」と言う。そうであるならば​ホルラス​​火魯剌思​氏は​ゴリ トマトン​​豁里 禿馬敦​の分族であり、つまりは​ブルカン​​不兒罕​山に従う家来〈[#「南」は家来の意]〉である。 諸部を統率、通世案、​ムルク​​木兒忽​以下、​ベレジン​​伯哷津​は「また​アダルギン​​阿荅兒斤​人、指揮官は​ムクル クラン​​木忽兒 忽闌​という。また​ホルラス​​火魯剌思​人、指揮官は​チヤルハ​​察魯哈​という」とする。洪氏は「​ムクル クラン​​木忽兒 忽闌​、録は​ムルク ハウラン​​木兒忽 好闌​、まさに忽児の二字が倒置する誤りである。​チヤルハ​​察魯哈​​チヤクラン​​察忽闌​をあてる。録は部名とする。 東西〈[#「東西」は底本では「束西」。「東西」の誤植と判断]〉の著述をまとめて調べると、この部名はない。あるいは人名を部名の誤りである。​ムクル クラン​​木忽兒 忽闌​、および​ブラチユ​​布拉柱​、みな​アダルギン​​阿荅兒斤​人。親征録の文義を味わうと、​ベイルジン​​貝勒津​の書と合い、これは「​ブンタチユ​​奔塔出​​ゲイドン​​哥逸︀敦​、および​ムクル​​木忽兒​​アダルギン​​阿荅兒斤​部を治め、​チヤクラン​​察忽闌​​ホルラ​​火魯剌​部を治めた。つまり言うところはみな円である」にあたる。又案、​ボト​​孛徒​伝は「そこで​ハラリ​​哈剌里​​ヂヤラウタルハニ​​札剌兀塔兒哈泥​らが、​トエ​​脫也​らを討つ」と言う。 ​ハラリ​​哈剌里​​ホルラ​​火魯剌​の誤りである。​ウタルハニ​​兀塔兒哈泥​​アダルギン​​阿荅兒斤​の誤りである。​ヂヤラ​​札剌​は次翼​ヂヤライル​​札剌亦兒​の略である。​トエ​​脫也​は考えがない」と言う。 するとともに​センミングン ノヤン​​鮮明昆 那顏​秋濤案、那顔は原書では邪顔で、誤り。今改める。の子​デリヤン​​迭良​​ホリタイ​​火力台​ ​ブダカ​​不答合​の人々を統率して一翼をなした。曽植案、​ブダカ​​不答合​、これは​ブダアント​​不答安惕​部、​カランダイ​​合闌歹​の子孫。通世案、​センミングン​​鮮明昆​以下、​ベレジン​​伯哷津​は第四翼とし、「​スルガト ノヤン​​蘇兒嘎圖 諾顏​の子​デリンチ​​得林赤​、ならびにその弟​ホリタイ​​火力台​、および​ボダイアト​​博歹阿特​人」とする。​センミングン​​鮮明昆​は、​スルガト​​蘇兒嘎圖​と、字の音が合い難い。明はおそらく児の間違いであろう。​デリヤン​​迭良​は、​デリンチ​​得林赤​​ホリタイ​​火力台​は、​ベレジン​​伯哷津​の書に拠ると、​カブル カン​​合不勒 汗​の兄​ボダイアクルゲ​​博歹阿庫兒格​のひ孫。父は​タルクタイ​​塔兒古台​といい、​スルガド​​蘇兒噶圖​の別名。​ボダイアト​​博歹阿特​は元史の​ボデアテ​​博歹阿替​氏、秘史の​ブダアント​​不荅安惕​氏。その祖​ボダイアクルゲ​​博歹阿庫兒格​、元史は​ハララダイ​​哈剌喇歹​とし、​トンビナイ​​敦必乃​の第四子とし、西史は​トマイナイ​​托邁乃​の第五子とする。秘史は​カランダイ​​合闌歹​とし、元史と音が一致する。​メネン トドン​​篾年 土敦​第六子としており、二史と異なる。​ブダカ​​不答合​の合は、台の誤りとあてる。 ​ヂヤラル​​札剌兒​​アハ​​阿哈​部で一翼をなす。通世案、この翼は、​ベレジン​​伯哷津​は第五第六翼とし、「​シヨルハト ユルキ​​莎兒哈禿 月兒乞​の子​セチエ ベキ​​薛徹 別乞​、ならびにその従兄弟​タイチユ​​泰出​、および​ヂヤライル​​札剌亦兒​人、​シヨルハト​​莎兒哈禿​人」とする。​シヨルハト ユルキ​​莎兒哈禿 月兒乞​は、つまり秘史の​シヨルカト ヂユルキ​​莎兒合禿 主兒乞​であり、​カブル カン​​合不勒 汗​​オキン バルカク​​長子斡勤 巴兒合黑​の子、​ヂユルキ​​主兒乞​氏を称し、あるいは​ヂユルギン​​主兒斤​氏とも。元史は​ユリギン​​岳里斤​とし、本書の後文では​ユルギン​​月兒斤​とする。​シヨルハト​​莎兒禿哈​は、​ユルギン​​月兒斤​氏の別称とあてる。本書は​アハ​​阿哈​とし、奪誤があるかもしれない。又案、このあたり、​ベレジン​​伯哷津​の書は、第七翼があり、​ヤトヂユ​​渥禿助​​クド​​忽都︀​​ドドンキ​​朵端乞​およびその麾下。人名不詳。注は「​キヤト​​乞要特​人」。また第八翼があり、「​モンゲト キヤン​​蒙格禿 乞顏​の子​チエンクソト​​程克索特​およびその兄弟、みな​チンギス カン​​成吉思 汗​の従兄弟とする。また​バヤウト​​巴牙兀特​人。軍を率いる人は​オングル​​翁古兒​という」と言う。 ​モンゲト キヤン​​蒙格禿 乞顏​は、元史の​モンキド クヤン​​蒙奇睹 黑顏​​エスガイ​​也速該​の長兄である。​オングル​​翁古兒​、秘史は​モンゲト​​忙格禿​の子とする。​ダリタイ​​答里台​里は原書では聖。曽植案、里の字の誤りとあてる。通世が西史に拠って改める。後文を見よ。​ホチヤル​​火察兒​二人および​フドラン​​忽都︀蘭​​ネグス​​捏古思​​ホルハン​​火魯罕​​サカデヂ​​撒合弟直​秋濤案、のちに​ワン カガン​​汪 可汗​と太祖が攻めあった時、​サカデ​​撒合弟​部があり、よって​サカデ​​撒合弟​を一部とする。直の字は誤った文字ならびが疑われる。あるいは諸の字を当てる。 曽植案、​ネグス​​捏古思​は、​ネウダイ​​捏兀歹​とも称し、秘史第四巻に見える。輟耕録は​ネグダイ​​捏古歹​とする。後文で​ワンカン​​王汗​が敗けた後、「​ダリタイ​​答力台​​オヂン​​斡眞​​バリン​​八隣​​サカイ​​撒合夷​​ヌンヂン​​嫩眞​諸部が、頭を地面につける最敬礼で服従してきた」、これはすぐ上の嫩の字の抜けである。​サカデ​​撒合弟​は、後文に拠って​サカイ​​撒合夷​とする。秘史の​サカイト​​撒合亦惕​は、この部である。 を一翼とする。通世案、これを​ベレジン​​伯哷津​は第九翼とし、「​ダリタイ オチギン​​答里台 斡赤斤​、および​ネクン タイシ​​捏坤 大石​の子​ホチヤル​​火察兒​、族人​ダル​​達魯​、ならびに​ドクラト​​都︀黑剌特​​ヌグス​​努古思​​ホルカン​​火兒罕​​サハイト​​撒哈夷特​​ウイシエン​​委神︀​諸部」とする。洪氏は「これは思うに​ダル​​達魯​という人名、​ウイシエン​​委神︀​という部名が増えている。​クドラン​​忽都︀闌​は、​ドクラ​​都︀黑剌​とし、都忽の二字が間違ってさかさまになっている。​ネグス​​捏古思​は、​ヌグス​​努古思​​ホルハン​​火魯罕​は、​ホルカン​​火兒罕​​サハデヂ​​撒哈弟直​は、​サハイト​​撒哈夷特​​ウイシエン​​委神︀​は、元史の​フウヂン​​許兀愼​。輟耕録の蒙古七十二種に​クシエン​​忽神︀​があり、​ウイシエン​​委神︀​である」。 案、​ダリタイ​​答里台​は、​エスガイ​​也速該​の弟。​ネクン​​揑坤​は、​エスガイ​​也速該​の兄。​ドクラト​​都︀黑剌特​は、西史に拠れば、​カブル カン​​合不勒 汗​の弟​ブドンチヤル ドクラン​​布端察兒 朵黑闌​の子孫である。秘史は​トクラウト​​脫忽剌兀惕​とし、​ナチン​​納臣​第四子​ドユラハン​​朵輍剌反​の子孫とする。​サハイヂ​​撒哈夷直​は、後文に直の字がない。直は真の間違いであり、上の部分が字から抜けたのである。 ​フドト モンナル​​忽都︀徒 𢗅納兒​秋濤案、忽相を抜都とする。これはのちの​ワン カガン​​汪 可汗​との戦いの時に言う「わが麾下の​モンナル バード​​𢗅納兒 拔都︀​」である。曽植案、忽相徒𢗅納児は、秘史の​クトクト モングル​​忽禿黑禿 蒙古兒​であり、元史の表は​クドルメネル​​忽都︀魯咩聶兒​とする。​カブル カン​​合不勒 罕​の子。秘史​クトクト モングル​​忽禿黑禿 蒙古兒​の子、​ブリ ボコ​​不里 孛闊​とする。これはこの書の後文の​ボリ​​播里​​モンゲケ​​蒙哥怯​​ヂルゲ​​只兒哥​が一つなのか二つなのかわからない。の子​モンゲケ​​蒙哥怯​​ヂルゲ​​只兒哥​を一翼とする。通世案、この翼は、西史に載っていない。西史の第七翼​ヤトヂユ クド​​渥禿助 忽都︀​​クトクト​​忽禿黑禿​のなまりに似ている。この​モンゲケ​​蒙哥怯​も西史の第八翼​モンゲト​​蒙格禿​のなまりに似ている。両書みな間違っているかもしれない。 ​クラント カガン​​忽蘭脫 可汗​の子​シユヂ カガン​​搠只 可汗​曽植案、​クラント カガン​​忽蘭脫 可汗​は、秘史の​クトラ カガン​​忽圖剌 合罕​、元の史表は​クルラ カン​​忽魯剌 罕​とする。また​カブル カン​​合不勒 罕​の子。​シユヂ​​搠只​は秘史の​ヂユチ​​拙赤​を一翼とする。通世案、これを​ベレジン​​伯哷津​は第十翼とし、「​クドラ カン​​忽都︀剌 汗​の子​ヂユチ カン​​拙赤 汗​およびその従者」とする。蘭脱の二字が誤ってさかさまになっている。​アン​​按​を一翼とする。この句は原書では抜けている。張穆は翁方綱本に拠って校正増補し、「𡊨は垓を当てたようである」と言う。秋濤案、​アンタン​​按𡊨​と、後の​アンタン​​案彈​​アンタン​​案攤​を、一人とする。文田案、𡊨は壇の崩し文字である。田舎の俗人はしばしばこれらの字を作る。彼は𡊨の字を誤りとした。曽植案、​アンタン​​按𡊨​​アルタン​​阿勒壇​とする。通世案、これを​ベレジン​​伯哷津​は第十一翼とし、「阿勒壇、これも​クドラ​​忽都︀剌​の子」。​クラン​​忽蘭​​トドン​​脫端​を一翼とする。 秋濤案、​トドン​​脫端​のことは後に見える。通世案、​クラン​​忽闌​は、秘史は​カブル カン​​合不勒 汗​の第五子とする。元史は庶子とみなし、列は諸子の後になっている。​トドン​​脫端​は、​カブル カン​​合不勒 汗​の末の子で、前に見える。このくだり、​ベレジン​​伯哷津​は第十二翼とし、「​ダク バハドル​​答忽 巴哈都︀兒​、および​コンハユト​​晃火攸特​人、​スケト​​速客特​人」とする。本書と合わない。 ​ネイシヤンチチヨウ​​疌相赤紬​秋濤案、紬を納とする。​ユレ​​玉烈​二男子曽植案、郎を部とする。を一翼とする。秋濤案。十一翼で記載が止まっている。抜けた恐れがある。通世案、これを伯哷津は第十三翼とし、「​ゲンド チノ​​更都︀ 赤那​​ウルクキン チノ​​烏魯克勤 赤那​のあと​ヌグス​​努古思​人」とする。​ネイシヤン​​疌相​は、​ケンド​​建都︀​の誤り、つまり​ゲンド​​更都︀​である。​ユレ​​玉烈​は、​ウルクキン​​烏魯克勤​のなまりと省略である。これは人名を部名と誤り、文が失われている疑いがある。ふたつの​チノ​​赤那​は、​ラシツド​​拉施特​に拠ると、​チエルクリングン​​扯勒黑領昆​の子とする。そのあと​チニス​​赤尼思​氏とされ、また​ヌグス​​努古思​とも言う。そうであるならば​チノス​​赤那思​は、​チニス​​赤尼思​、または​ヌグス​​努古思​である。​チエルクリングン​​扯勒黑領昆​は、秘史の​チヤラカイ リンク​​察剌孩 領忽​、元史の表の​チヤラハ ニングン​​察剌哈 寧昆​である。 その長子​シヤングン ビルゲ​​想昆 必勒格​​アンバカイ​​俺巴孩​の父で、​タイチウ​​泰赤烏​氏の祖。​ベレジン​​伯哷津​​シヨルゴルルチノ​​莎兒郭勒魯赤那​とする。元史の表の​タイチウト​​大丑兀禿​は、​タイチウト​​泰赤烏特​​チナス​​直拏斯​は、​シヨルゴルルチノ​​莎兒郭勒魯赤那​〈底本-342の上の部分を省いたものである。輟耕録は誤って​チヤラハ​​察剌哈​の兄を​バイ シングル​​拜 姓忽兒​の次男とする。おそらく表の名を書き写す時に、たまたま右傍に偏ったのであろう。〈[#文求堂本十一頁欠損始め]〉軍勢は​ダランバンヂユス​​答蘭版朱思​の野において激しく戦った。​ヂヤムカ​​札木合​は敗走した。彼の軍はやっと二山を越えたばかりの、途中で七十二の竈を作り、狼を煮て食べた。 秋濤案、この下に脱文があるかもしれない。曽植案、この事と秘史はきわめて異なる。改めた理由がわからない。巻の始まりで​ボドンチヤル​​孛端察兒​が食えずにいるくだりに狼の字を読むうちに、蒙文の連なりは​チノイン​​赤那因​とあり、まさに​チノイン​​赤那因​はモンゴル語で狼と呼び、彼の土地も、たまたま​チノス​​赤那思​という名で、訳者はそそっかしくおろかで、この間違いのあるものに変わった。 この書を作った人が秘史の蒙文を見て秘史の訳文を見ていないことをだんだんと知った。又案、この戦いは、太祖の兵が大敗し、あとで​ウルウト​​兀魯兀惕​​モンクト​​𢗅忽惕​の両部を得た後でとりあげている。 この書が言う「​ヂヤムカ​​札木合​敗走」は、事実の記録ではない。秘史は「​ヂヤムカ​​札木合​​チノス​​赤那思​の地の王子たちを捧げて、七十鍋ですべて煮てしまった。」と言い、それがこの書の七十二の竈である。 通世案、沈曽植の説は正しい。モンゴル語で、​チノ​​赤那​は狼とされ、複数の言葉を想起する。​ゲンド チノ​​更都︀ 赤那​は、雄狼である。​ウルクキン チノ​​烏魯克勤 赤那​は、母狼である。​チノス​​赤那思​の地は、ふたつの​チノ​​赤那​の子孫が住む地である。秘史はまた「​ヂヤムカ​​札木合​はまた​ネウダイ​​捏兀歹​​チヤカアン​​察合安​の頭を断ち切って、馬の尾に付け加えて晒して去った」という。 ​チノス​​赤那思​氏は、また​ヌグス​​努古思​ともいう。​ネウダイ​​捏兀歹​は、つまり​ヌグス​​努古思​である。​チヤカアン​​察合安​​チノス​​赤那思​の王子たちのひとりである。​チノス​​赤那思​一族、この惨禍をこうむり、ゆえに後裔は明らかでない。しかし西史は「​チンギス​​成吉思​軍は数が少なかったが、敵衆に大勝し、七十のくわで俘虜を煮殺させた」という。これは太祖の負けを勝ちとするのみならず、あわせて​ヂヤムカ​​札木合​による俘虜煮殺が、太祖による事とされている。おそらく​トビチヤン​​脫必赤顏​の原文は負けをおおいに忌んで勝ちとしたのであろう。そして​チノス​​赤那思​氏の惨禍の叙述は、秘史のもとの文に従った。よって本書は誤訳して野獣とした。西史は七十のくわで人を煮殺したことを疑い、敗者のおさめるところではなく、そこで勝った太祖のこととし、​チノス​​赤那思​の名を除き尽くして、ただ俘虜と言ったのである。三書を比較すると、史伝の誤りが生じた理由を理解できよう。



〈史45-161下6是時泰出烏部地廣民衆,而內無統紀,其族照烈部與我近,常獵幹禪札剌馬思之野

是時泰赤烏部、地廣民衆、而內無統紀。其族照烈部通世案、祕史作沼兀列亦惕氏、巴阿里歹異母弟沼兀列歹之裔也。伯哷津書作朱里耶特氏、爲札只剌特氏之異稱、係誤。與我近、常獵幹幹札剌馬思之野。通世案、伯哷津書作烏者︀兒哲兒們山。卽祕史上文札剌麻山。札剌馬思之野、當卽札剌麻山麓之地上時亦獵圍〈[#「時」は底本では「野」。他の何氏校注本に倣い修正]〉、陳隅相屬、旣而合。上曰「可同宿於此乎」。彼曰「獵騎四百、糗糧不具、已遣半還」。上曰、通世案、曰字疑衍。否則曰下恐有奪文。命給助同宿者︀。越明日、再合圍。上賓︀之、使驅獸近彼陳、讓多獲、以厭其心。彼衆咸相吿曰「泰赤烏雖我兄弟、〈東方學デジタル圖書館-18常攘我車馬、奪我飮食。憂恤我者︀其此人乎」。大稱羨而歸。上因遣吿之曰「可來結盟、否」。照烈原作。造律石州依翁氏本校改。文田案、照烈與造律皆對音。據祕史、有沼列亦歹其人。此部乃其後也。之長玉律拔都︀、原作拔相。秋濤案、通校前後文、拔相、皆拔都︀之譌。通世案、伯哷津作烏魯克巴哈都︀兒。此略克音。祕史札剌麻山前斡列該泉、本書作玉律哥泉、與烏魯克音近。此人葢以地名爲名也。謀於族長馬兒牙答納。通世案、伯哷津作馬喝︀亦巴答納。對曰「泰赤烏何惡於我。彼亦爲兄弟。何遽降之」。不從。玉律拔都︀原作拔相。秋濤校改。遂與塔海︀答魯、通世案、伯哷津作圖該・烏魯、分爲二人。領所部來歸。謂上曰「如我屬、將有無夫之婦無牧之馬、而來。以泰赤烏長母之子討殺︀我也。我擔當棄、從義而拈之」。秋濤案、此句疑有脫誤。通世案、擔、疑是誓之譌。棄、棄泰赤烏也。上曰「我方熟寐。捽髮而悟之」。兀坐掀髯而起、曰「汝之言、我素心也。汝兵車所至、余悉力而助也」。通世案、額兒忒曼譯喇施特史、曰「烏魯克謂「我等之來、如無夫之婦、無主之馬、無牧之牛羊。所以然者︀、由我舊主長母之子虐害我也。故棄而來從」。成吉思曰「我似熟寐、汝捽我髮以覺我、又托我頦以起我。我當悉力以助汝矣」」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉。較本書、文義稍明。文卿曰「托我頦以起我、卽「兀坐掀髯而起」一語之異譯」。旣盟後、二人食言、叛歸。少秋濤案、少字有誤。文田案、少下當有時字族人忽數・忽兒章、秋濤案、當卽後之忽敦忽兒章〈[#「兒」は底本では「而」。後文に倣い修正]〉。說見後。怨塔海︀答魯反側、遂殺︀之。秋濤案、元史作「爲泰赤烏部人所殺︀」。與此不同。通世案、洪氏曰「祕史卷五蒙文、泰亦赤兀族內、有豁敦斡兒長之人。是爲泰亦赤兀人無疑。」〈東方學デジタル圖書館-19照烈部已亾矣。泰赤烏部衆、苦其長非〈底本-343 法、相吿曰「太子原注「謂太祖︀也」。衣人以己衣、乘人以己馬。安民定國、必此人也」。因悉來歸。赤〈史45-162上1老溫原作老赤溫。文田案、當作赤老溫。通世因改。案、源流作齊拉袞。伯哷津作赤老根。拔都︀原作拔相、秋濤校改。父梭魯罕失剌密釋之。 秋濤案、此句上下有脫文。葢謂太祖︀蒙難︀事也。文田案、此卽四傑之赤老溫也。而元史無傳。葢戰功失傳、無家狀銘志之故、但知爲梭魯罕失剌之子耳。祕史作鎖兒罕失剌。又案、脫文在赤老溫拔都︀之上。葢述族人泰赤烏部虜︀太祖︀、以板枷枷之之事也。見祕史。通世案、源流亦載蘇勒德遜托爾干沙喇援太祖︀免︀難︀之事。是時歸我。哲別之原作子、秋濤校改。來、實以力窮故也。 通世案、伯哷津書云「速兒都︀思人鎖兒干失剌、曾脫成吉思於難︀。其子赤老根、與亦速特人哲別、本在泰赤烏特部長哈丹大石之子布答麾下。至是赤老根來附。哲別則因泰赤烏特旣敗、遁山林中無所得食、力乏、亦降」。布答、祕史作脫朵格又脫迭干、哲別作者︀別。祕史載鎖兒干失剌及者︀別來降之事、在辛酉年斡難︀河戰後。本書西史、皆叙在此、係誤。見後。又案、者︀別、元史用字、岐互最甚。太祖︀紀、前作哲別、後作遮別、木華黎、耶律阿海︀傳〈[#「律」は底本では「津」]〉作闍別、吾也而傳作哲不那顏、曷思麥里傳作哲伯、速不台傳作只別、巴而朮阿而忒的斤傳作者︀必那演、布智兒傳作別那顏、郭寶玉傳作柘栢。元史譯文證補、有哲別補傳。失力哥也不干 秋濤案、祕史作失兒古額禿。曾植案、祕史蒙文作失兒古額禿額不堅、解曰「額不堅、老人也」。此也不干、卽彼額不堅。然則失力哥也不干、是一非二。通世案、失力哥、卽祕史之失兒古額禿也。元史作述律哥圖、八隣氏。伯哷津亦作巴鄰部長述兒哥圖。

訳文 一〇-一二

このころ​タイチウ​​泰赤烏​部は、地に広がり民は多かったが、部内に法秩序がなかった。その仲間の​ヂヤウレイ​​照烈​通世案、秘史は​ヂヤウレイト​​沼兀列亦惕​氏とし、​バアリダイ​​巴阿里歹​異母弟​ヂヤウレダイ​​沼兀列歹​の子孫である。​ベレジン​​伯哷津​の書は​ヂユリエト​​朱里耶特​氏は、​ヂヤヂラト​​札只剌特​氏の異称とし、これは誤り。 と我らは近く、常に​オチヤン ヂヤラマス​​斡禪札剌馬思​〈[#「斡禅」は底本では「幹幹」。王国維著「王国維遺書」(1983年)「聖武親征録校注」p.286に倣い修正]〉の野で猟をしていた。 通世案、​ベレジン​​伯哷津​の書は​ウヂエルヂエルメン​​烏者︀兒哲兒們​山とする。これは秘史の前文​ヂヤラマ​​札剌麻​山である。​ヂヤラマス​​札剌馬思​の野は、​ヂヤラマ​​札剌麻​山麓の地にあたる。 上が巻狩りした時、境界がつらなりあい、やがてひとつになった。上は「ここで同宿しよう」と言った。彼らは「四百騎で猟をして食糧が足りず、半分を帰らせた。」と言った。上が言うには、 通世案、曰の字は余分かもしれない。そうでなれば曰の下に脱落文があるのかもしれない。同宿者を助け給うよう仰せになった。日が明けて、再びひとつになって巻狩りをした。上はこれを客としてもてなし、 獣を駆り立てて彼らに近づかせ、多くの獲物を譲り、その心を従わせた。彼らの多くが感じ入り「​タイチウ​​泰赤烏​は我が兄弟だが、我が車馬をぬすみ、我が飲食物を奪う。我らをあわれみいつくしんでくれるのはこの人ではないか」と言いあった。大いに褒め称え慕いそして帰った。上は使いを送って「仲よくする誓いを結ばないか」と言った。​ヂヤウレイ​​照烈​原書では​ザオル​​造律​。張穆が翁方綱本に拠って校改する。文田案、​ヂヤウレイ​​照烈​​ザオル​​造律​はどちらも音がそろっている。秘史に拠れば、​ヂヤウレイダイ​​沼列亦歹​そこの人がある。この部はまさにその後である。 の長​ユル バード​​玉律 拔都︀​は、原書では抜相。秋濤案、前後の文を校して通したが、抜相、みな抜都の間違い。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​ウルク バハドル​​烏魯克 巴哈都︀兒​とする。これは克の音が略されている。秘史​ヂヤラマ​​札剌麻​山の前の​オレガイ​​斡列該​の泉は、本書では​ユルゲ​​玉律哥​の泉、​ウルク​​烏魯克​は音が近い。この人はおそらく地名を名としている。族長​マルヤダナ​​馬兒牙答納​に相談した。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​マヘイバダナ​​馬喝︀亦巴答納​とする。答えて「​タイチウ​​泰赤烏​がどうして我らに悪いものか。彼らはそれでも兄弟である。どうしてこれに降れようか」と言った。聞き入れなかった。​ユル バード​​玉律 拔都︀​原書では抜相。秋濤が改める。ついに​タハイダル​​塔海︀答魯​とともに、通世案、​ベレジン​​伯哷津​​トガイ​​作圖該​​ウル​​烏魯​と、二人に分ける。 役人たちが身を寄せて来た。上に「我らのごときは、夫のない妻・牧夫のない馬、だから来た。よって​タイチウ​​泰赤烏​の長の母の子は我々を探して殺す。我らは打ち〈[#文求堂本十一頁欠損終わり]〉棄て、道義に従いこれを摘まみ取る」と言った。 秋濤案、この句に脱落の疑いがある。通世案、担は、誓の間違いかもしれない。棄は、​タイチウ​​泰赤烏​を棄てる。上は「私はまさに眠りこけていた。髪をつかまれ気づいた」と言った。ぼんやりと坐っていたのをひげを高くあげられ起こされて、「お前の言葉は、私がいつも考えていたことである。お前が兵車を至らせるところは、私が力を尽くして助けよう。」通世案、​エルドマン​​額兒忒曼​​ラシツド​​喇施特​の史を訳して、「​ウルク​​烏魯克​は「我らが来るのは、夫のない妻、主のない馬、牧夫のない羊のようなものである。これにより、旧主の長の母の子が我らを虐げ殺すのである。ゆえに棄てて来て従う」と言った。​チンギス​​成吉思​は「私は眠りこけるかのようであったが、お前は私の髪をつかんで私を覚まし、また私のあごを持ち上げて私を起こした。私は力をつくしてお前を助けよう」と言った」と言う。本書と比べると、文の意味がややはっきりしている。 洪氏は「托我頦以起我は、「兀坐掀髯而起」という語の異訳である」と言う。約束した後、二人はうそをついて、叛いて戻った。少秋濤案、少の字は誤りがある。文田案、少の下に時の字を当てる。 族人​フシユ フルヂヤン​​忽數 忽兒章​が、秋濤案、後文の​フドン フルヂヤン​​忽敦 忽兒章​を当てる。見えた後に述べる。​タハイダル​​塔海︀答魯​が叛いたことを怨み、ついにこれを殺した。 秋濤案、元史は「​タイチウ​​泰赤烏​部人が殺すところとなった」とする。これと同じでない。通世案、洪氏は「秘史巻五の蒙文、​タイイチウ​​泰亦赤兀​族内に、​ゴドン オルチヤン​​豁敦 斡兒長​この人がある。これは​タイイチウ​​泰亦赤兀​人として疑いはない。」と言う。​ヂヤウレイ​​照烈​部は滅んでしまった。​タイチウ​​泰赤烏​部の多くの民は、部長の非法に苦しみ、〈底本-343言い合うことには「太子は原注「太祖のことである」。自分の衣を人に着せ、自分の馬に人を乗せる。民を安らかにし国を治めるのは、必ずやこの人である」。それにより皆が身を寄せて来た。​チラウン​​赤老溫​原書では老赤温。文田案、​チラウン​​赤老溫​をあてる。通世が理由を改める。案、蒙古源流は​ヂラグン​​齊拉袞​とする。​ベレジン​​伯哷津​​チラゲン​​赤老根​とする。​バード​​拔都︀​原書では抜相、秋濤が校改する。​ソルハン シラ​​梭魯罕 失剌​はこれを密かに解いた。 秋濤案、この句の上下に脱文がある。おそらく太祖の受難であろう。文田案、これは四傑の​チラウン​​赤老溫​である。だが元史に伝がない。思うに戦功は伝を失い、家系や碑文の記録がなく、ただ​ソルハン シラ​​梭魯罕 失剌​の子と知られるのみである。秘史は​ソルカン シラ​​鎻兒罕 失剌​とする。又案、​チラウン バード​​赤老溫 拔都︀​の上に脱文がある。おそらく​タイチウ​​泰赤烏​部の人々が太祖を捕まえて、首かせをはめた事であろう。秘史を見よ。通世案、蒙古源流も​スルデスン​​蘇勒德遜​ ​トルガン シヤラ​​托爾干 沙喇​が太祖が難を免がれるのを助けたことを載せている。この時、我らに身を寄せた。​ヂエベ​​哲別​これが原書では子とし、秋濤が校改する。来て、力尽きたから来たと告げたのである。 通世案、​ベレジン​​伯哷津​の書は「​スルドス​​速兒都︀思​​ソルカン シラ​​鎻兒干 失剌​、かつて​チンギス​​成吉思​を難から逃がした。その子​チラゲン​​赤老根​と、​スト​​速特​​ヂエベ​​哲別​も、もとは​タイチウト​​泰赤烏特​部長​ハダン タイシ​​哈丹 大石​の子​ブダ​​布答​の手下だった。この​チラゲン​​赤老根​が来て従うに至った。​ヂエベ​​哲別​​タイチウト​​泰赤烏特​がすでに敗れたので、山林の中に遁れて食べ物がなく、力尽きて、やはり降った」。 ​ブダ​​布答​は、秘史の​トドゲ​​脫朵格​また​トデゲン​​脫迭干​であり、​ヂエベ​​哲別​​ヂエベ​​者︀別​である。秘史は​ソルカン シラ​​鎻兒干 失剌​および​ヂエベ​​者︀別​の来降の事を載せ、辛酉(1201年)の年にあった​オナン​​斡難︀​河戦の後にある。本書と西史、いずれここで述べており、誤りがつながっている。後文を見よ。又案、​ヂエベ​​者︀別​は、元史の用いる字は、わかれみちが最も甚だしい。 太祖紀は、前で​ヂエベ​​哲別​、後で​ヂエベ​​遮別​​ムホアリ​​木華黎​​エリユ アハイ​​耶律 阿海︀​伝は​シエベ​​闍別​とし、​ウエル​​吾也而​伝は​ヂエブ ノヤン​​哲不 那顏​とし、​フス メリ​​曷思 麥里​​ヂエベ​​哲伯​とし、​スブタイ​​速不台​伝は​ヂベ​​只別​とし、​バルチユ アルテ チキン​​巴而朮 阿而忒 的斤​伝は​ヂエビ ノヤン​​者︀必 那演​とし、​ブヂル​​布智兒​伝は​ベノヤン​​別那顏​、郭宝玉伝は​ヂエボ​​柘栢​。元史訳文証補は、​ヂエベ​​哲別​補伝がある。​シリゲ エブゲン​​失力哥 也不干​ 秋濤案、秘史は​シルグエト​​失兒古額禿​。曽植案、秘史の蒙文は​シルグエト エブゲン​​失兒古額禿 額不堅​で、「​エブゲン​​額不堅​は、老人である」と解する。この​エブゲン​​也不干​、かの​エブゲン​​額不堅​である。そうであるならば​シリゲ エブゲン​​失力哥 也不干​は一人であって二人ではない。通世案、​シリゲ​​失力哥​、秘史の​シルグエト​​失兒古額禿​である。元史は​シユルゲト​​述律哥圖​​バリン​​八隣​氏。​ベレジン​​伯哷津​​バリン​​巴鄰​部長​シユルゲト​​述兒哥圖​とする。



〈史45-162上2手執忽阿赤拔相、塔兒忽台二人來,至忽相渾野,復從之,止將己子萬才、阿剌二人來歸

手持阿忽失拔都︀原作忽阿失拔相。秋濤改相爲都︀。曾植案、忽阿、當作阿忽。阿忽失拔都︀、卽泰亦赤兀部長阿兀出把阿禿兒也。此文叙事、與祕史小不同。亦不當在此。葢錯簡也。通世案、伯哷津作泰赤特酋阿忽朱巴哈都︀兒。因烏乙忽阿。又案、失、卽出之譌字。塔兒忽台通世案、卽上文塔兒兀台。二人、來至忽都︀渾野、秋濤案、祕史作忽都︀忽地面。復縱原作從。秋濤案、似當作縱。之去、通世案、祕史載此事、亦在斡難︀河戰後、情事最詳。失兒古額禿之所執而復縱、唯塔兒忽台乞鄰勒禿黑一人。阿兀出把阿禿兒、則無縱去之事。祕史云「成吉思將阿禿出等子孫殺︀盡、將百姓起了」。乃本書西史、倶云「阿忽朱亦被縱」、誤矣。止將己子乃牙阿剌牙原作才。秋濤案、乃才當作乃牙。祕史作納牙。阿剌祕史作阿剌黑〈[#底本では「祕史作納牙阿阿剌、祕史作阿剌黑」。他の何氏校注本に倣い修正]〉。通世案、伯哷津亦作納牙。阿剌黑。〈[#「納牙。阿剌黑。」は底本では「納牙阿剌。黑。」]〉 因改才爲牙。〈東方學デジタル圖書館-20二人原此下衍才字、秋濤校刪。來歸。後搠只魯・鈔罕二人率朵郞吉・札原作卽利。秋濤據元史改剌兒部 曾植案、祕史十三晃塔合兒、蒙文姓朵籠吉兒氏。朵籠吉兒、卽朵郞吉也。奧魯赤傳、祖︀朔魯罕、札剌兒氏。疑鈔字當在魯字上。卽其人也。通世案、伯哷津作「札剌亦兒分族朱郞吉部長、朮只角兒海︀、率所部」。洪氏曰「本紀「若朵郞吉、若札剌兒」、分爲二部、疑未是」。案拉施特云「札剌亦兒分爲十部」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉。朵郞吉其一也。又案、搠只鈔魯罕、一人名也。本書爲二人、亦非。及荽菜勝和秋濤案、未詳。當是人名。文田案、荽菜勝和、當作妥果勒和。卽祕史多豁勒忽四字之對音。曾植案、荽菜勝和、當作妥果勒和、此說至確多豁勒忽、正𢗅忽部人。率𢗅兀部亦來歸。通世案、忙兀、祕史之忙忽惕氏、納臣次子兀台之裔也。案祕史、是時兀魯兀惕種主兒札歹、與忙忽種忽余勒答兒、各率其族、離札木合、歸太祖︀、又晃豁壇種蒙力克、率其七子來。而哲台・多豁勒忽兄弟之來、則在前此太祖︀與札木合分離時。本書不言主兒扯歹・蒙力克等來歸、而唯載多豁勒忽之事於此、亦似失。又祕史云「太祖︀喜諸︀人之來、宴於斡難︀河邊。本書唯云「日後云云。」饗宴之故未晣」。

訳文 一二-一三

手に持つところの​アフシ バード​​阿忽失 拔都︀​原書では忽阿失抜相。秋濤が相を都と改める。曽植案、忽阿は、阿忽とする。​アフシ バード​​阿忽失 拔都︀​は、​タイイチウ​​泰亦赤兀​部長​アウチユ バアトル​​阿兀出 把阿禿兒​である。この文の記述は、秘史との不同が少ない。またここにあるべきでない。おそらく錯簡であろう。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​タイチト​​泰赤特​の首領​アフヂユ バハドル​​阿忽朱 巴哈都︀兒​とする。因烏乙忽阿〈[#訳せない。「何らかの名詞​ウイフア​​烏乙忽阿​に因む」か]〉。又案、失は、出の誤字である。​タルクタイ​​塔兒忽台​通世案、これは前文の​タルウタイ​​塔兒兀台​〈[#「塔児兀台」は前後に見当たらない]〉二人、​フドフン​​忽都︀渾​の野に来るに至り、秋濤案、秘史は​フドフ​​忽都︀忽​の地とする。再び解き放ち原書では従。秋濤案、似せて縦とする。 彼らは去り、通世案、秘史はこの事を載せ、​オナン​​斡難︀​河戦があった後にも、事実を最もつまびらかにする。​シルグエト​​失兒古額禿​の治めるところとなり再び解き放ち、ただ​タルクタイ キリンルトク​​塔兒忽台 乞鄰勒禿黑​ひとり。​アウチユ バアトル​​阿兀出 把阿禿兒​は、解き放って去ったくだりがない。秘史は「​チンギス​​成吉思​​アウチユ​​阿禿出​らの子孫のほとんどを殺し尽くし、ほとんどの民衆を生かした」という。しかし西史を書いた本は、みな「​アフヂユ​​阿忽朱​も解き放たれた」と言い、誤っている。己の子​ナイヤアラ​​乃牙阿剌​を一方では引き止め牙は原書では才。秋濤案、乃才を​ナイヤ​​乃牙​とする。秘史は​ナヤ​​納牙​とする。​アラ​​阿剌​を秘史は​アラク​​阿剌黑​とする。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​ナヤ​​納牙​ ​アラク​​阿剌黑​。才を牙と改めたことに因む。 二人が原書では下に余分な才の字。秋濤が校正して削った。身を寄せて来た。そのあと​シユヂル​​搠只魯​​チヤオカン​​鈔罕​二人が率いるところの​ドランギ​​朵郞吉​​ヂヤラル​​札剌兒​札は原書では利。秋濤が元史に拠って改める。 曽植案、秘史十三の​コンタガル​​晃塔合兒​、蒙文の姓は​ドロンギル​​朵籠吉兒​氏。​ドロンギル​​朵籠吉兒​は、​ドランギ​​朵郞吉​である。​アウルチ​​奧魯赤​伝は、祖は​シユルハン​​朔魯罕​​ヂヤラル​​札剌兒​氏とする。魯の字の上に鈔の字をあてるべきかもしれない。つまりはその人である。通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「​ヂヤライル​​札剌亦兒​分族​ヂユランギ​​朱郞吉​部長、​チユヂヂアハイ​​朮只角兒海︀​は、部を率いた」とする。洪氏は「本紀に「​ドランギ​​朵郞吉​が従った、​ヂヤラル​​札剌兒​が従った」とあり、二部に分けており、これかは疑わしい」と言う。調べると​ラシツド​​拉施特​は「​ヂヤライル​​札剌亦兒​は十部に分かれている。​ドランギ​​朵郞吉​はそのひとつである」と言う。又案、​シユヂチヤオルカン​​搠只鈔魯罕​は、一人の名である。本書は二人とし、やはり誤っている。 および​スイツアイシエンフ​​荽菜勝和​秋濤案、まだ詳しくわからない。人名とする。文田案、​スイツアイシエンフ​​荽菜勝和​は、​トゴルフ​​妥果勒和​とあてる。秘史の​ドゴルク​​多豁勒忽​四字にあたる音である。曽植案、​スイツアイシエンフ​​荽菜勝和​​トゴルフ​​妥果勒和​とすべきで、この解釈ははっきりと​ドゴルク​​多豁勒忽​に至り、まさに​モンク​​𢗅忽​部の人。​モンウ​​𢗅兀​部を率いてまた身を寄せて来た。通世案、​モヌ​​忙兀​、秘史の​モンクト​​忙忽惕​氏、​ナチン​​納臣​の次子​ウタイ​​兀台​の子孫である。秘史を考えるに、この時​ウルウト​​兀魯兀惕​族の​ヂユルヂヤダイ​​主兒札歹​、および​モンク​​忙忽​族の​クユルダル​​忽余勒答兒​が、おのおのの部を率いて、​ヂヤムカ​​札木合​を離れ、太祖に身を寄せ、また​コンゴタン​​晃豁壇​族の​モンリク​​蒙力克​、その七人の子を率いて来た。だが​ヂエタイ​​哲台​​ドゴルク​​多豁勒忽​兄弟が来るのは、太祖と​ヂヤムカ​​札木合​が分離する前にある。本書は​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​モンリク​​蒙力克​らが頼って来たことを言わず、ただ​ドゴルク​​多豁勒忽​のことをここで載せるのみで、これも失われたようである。また秘史は「太祖は諸人が来たことを喜び、​オナン​​斡難︀​河のほとりで宴を催した」と言う。本書はただ「後日うんぬん。」と言い饗宴の理由が明らかでない。



〈史45-162上5日後,上同月倫太后曁哈撒兒、幹貞那顏昆弟族薛徹、太出等,各以車載潼酥,大會于斡河林木間

日後、上同月倫太后、曁哈撒兒、通世案、此太祖︀長弟、祕史拙赤合撒兒。元史食貨志搠只哈撒兒。宗室表作搠只哈兒、脫撒字也。源流作哈薩爾。元史類︀編有傳。 斡眞那顏通世案、斡原作幹、今校改。此太祖︀幼弟帖木格斡惕赤斤之別稱。宗室表云「鐵木哥斡赤斤、所謂斡眞那顏者︀也」。元史類︀編有傳。諸︀昆弟薛撒、曾植案、當作薛徹。 大丑通世案、薛徹、下文作薛徹別吉、祕史作薛扯別乞、又作撒察別乞。大丑、祕史作台出。倶把兒壇兄斡勤巴兒合黑之孫也。元史以薛徹大丑爲一人、其下更加薛徹別吉、誤。等、各以旄車載湩酪、大會於斡難︀河林木間。通世案、斡難︀河、今名敖嫩河。自肎特山西之特勒爾集嶺西北小肎特山東麓、東流、折東南流、經特勒爾集嶺北麓、又東經集隆︀〈底本-344 山北麓、又東經大肎特山北麓、又東流稍東南、有齊札婁河自西南來會。又東、有巴爾喀河、自巴爾喀嶺、東北流來會。又東南、有齊母爾喀河自南來會。又東北、有科勒蘇河自南來會。又東北、有巴爾集河自西北來會。又東北、折東流、又折北流、有音果達河東流來會。又東北流、經尼布楚城南、爲失爾喀河、又東北流、折東流、與阿爾渾河會、爲黑龍江。會中太后曁上謂曾植案、當作爲。族人薛徹別吉及其母忽兒眞哈敦通世案、祕史作忽兀兒臣娘子。共置酪湩一革囊。其次母野別該通世案、祕史作額別該。 前、獨置一革囊。忽兒眞哈敦怒曰「今不尊我、而貴野別該乎」。遂笞主膳者︀失邱兒。 張石州曰「失邱兒、卽帝之主膳者︀」。通世案、祕史作失乞兀兒、伯哷津作薛徹兒。又案、伯哷津書云「主酒者︀、旣行酒於忽兒眞、復行酒於那母該。忽兒眞見那母該之酒、不與衆同、故怒、以掌撻主膳者︀薛徹兒」。祕史云「先爲訶額侖合撒兒撒察別乞等、置一甕馬妳子、又爲額別該置一甕。豁里眞・忽兀兒臣二娘子曰「我前何不先置」。打厨子失乞兀兒」。據本書、則爭酒之多寡、伯哷津則爭酒之善惡、祕史則爭行酒之先後、不知孰是。但本書西史、皆失載豁里眞。是則似祕史爲長。泣曰「葢以捏群太石、葉速該此下原衍命字。秋濤校刪。拔都︀原作相、秋濤校改。〈東方學デジタル圖書館-21二君去世、捏群太石、原作捏群太后。秋濤案、此二語有誤。攷元祕史云「將厨子失乞兀兒打了。失乞兀兒說「也速該把阿都︀兒捏坤太子死了的上頭、被人這般打」說著︀、大聲哭了」。案、失乞兀兒、卽此失邱兒。也速該把阿都︀兒、卽此葉速該拔都︀、卽太祖︀之父烈祖︀也。捏坤太子、卽烈祖︀之兄也。捏坤、本紀作聶坤。此作捏羣。葢坤字或寫作群、群誤爲辟。后字、乃石之譌。太后、卽太子也。通世案、西史亦作也速該捏羣大石。因從何意、改辟后二字。 我專曾植案、專當作等。爲他人所辱至此」、因大哭。是時別里古台那顏原無那字。張石州曰「當作那顏」。秋濤據增。通世案、祕史作別勒古台、元史本傳作別里古台、太宗紀作孛魯古帶、食貨志作孛羅古䚟〈[#「䚟」は底本では「解」。元史 卷九十五志第四十四食貨三に倣い修正]〉、伯哷津作別勒格台、源流作伯勒格德依。太祖︀異母弟也。掌上乞列思事、原注「係禁外繫馬所」。文田案、元史本紀注云「乞列思、華言野外牧場也」。親搖上馬。秋濤案、搖字疑誤。文田案、搖當作控。播里文田案、祕史作不里孛闊、通世案、伯哷津作播魯。祕史、忽禿黑禿蒙古兒之子、太祖︀之族父也。掌薛徹別吉乞列思事。播里從者︀、因盗我馬靷、別里古台執之。播里怒斫別里古台、背傷。左右欲鬭。別里古台指之曰「此仇、汝等欲卽報乎。我傷不甚也。姑待之。不可由我致隙」。秋濤案、元史別里古台傳、不著︀事之始末。本紀具始末、與此同、而不載此數語。均不如此書之詳也。〈東方學デジタル圖書館-22其眾不聽、通世案、祕史作太祖︀不聽。西史作衆怒不可遏。葢祕史據實直書、係草創之筆。二書則已經潤色也。各執馬亂撞、斫木枝疾鬭。我衆勝之、乃奪忽兒眞・火里眞通世案、祕史作豁里眞。 二哈敦、屆麾下。文田案、屆當作居。於是絕好。後復議和、遣二哈敦歸。行成之際、塔塔兒部長蔑兀眞笑里徒蔑原作篾、張石州校改。秋濤案、祕史作蔑古眞薛兀勒圖。通世案、伯哷津作摩勤蘇里徒。背金約。金主遣丞相完顏相、帥兵逐塔塔兒北走。秋濤案、元史類︀編、引作「金遣丞相完顏襄、帥兵逐叛者︀北走」。通世案、喇施特以是役爲帝年四十時事。據其稱「帝生於黑蚩拉曆五百四十九年七十三歲而歿」、則是役在甲寅年、當宋光宗紹熙五年、金章宗明昌五年也。洪氏曰「案完顏襄北伐、見金史、當卽塔塔兒之役。合紀傳考之、乃是丙辰年事、爲甲寅後二年。元初無史官、太祖︀本紀、爲後來追憶著︀錄、年分未可盡憑也」。今依本書癸亥年「上春秋四十二」文推之、則金承安元年丙辰、太祖︀年三十五歲也。見癸亥年條注。又案、通鑑輯覽云「金自明昌末〈[#「末」は底本では「未」。御批歴代通鑑輯覽 卷八十九の五十六葉に倣い修正]〉、北部合底忻與山只昆、恃强擾邊。又有廣吉剌者︀、尤桀驁〈[#「驁」は底本では「鷔」]〉、屢脅諸︀部入塞。而阻䪁亦叛、連歲用兵」。詳見金史內族宗浩傳。又內族襄傳云「左丞相夾谷淸臣北禦邊、措畫乖方、屬邊事急、命襄代將云云。乃命支軍出東道、襄由西道。而東軍至龍駒河、爲阻䪁所圍、求援甚急。襄疾馳襲破之。衆皆奔斡里札河」。合底忻卽合塔斤。山只昆、卽撒勒只兀惕。廣吉剌、卽翁吉剌惕。阻䪁疑是塔塔兒分部之名。但喇施特擧塔塔兒六部名、無似阻䪁者︀。龍駒河、今克魯倫河。斡里札河、卽祕史浯勒札河、今烏爾匝河也。諸︀部叛金、而太祖︀王汗爲金協力。後年諸︀部同盟、與太祖︀王汗戰、旣發端於此也。又案、完顏襄、祕史作王京丞相。王京葢完顏之轉也。上聞之、遂起近兵、發至斡難︀河、迎〈底本-345 討之。秋濤案、斡原作幹。今依類︀編所引改。又案、祕史云「大金因塔塔兒篾古眞薛兀勒圖等、不從他命、敎王京丞相領軍來剿捕。太祖︀知了。太祖︀說「如今趁著︀這機會、可以夾攻他」。遂使人對脫斡鄰說「如今金國差王京、將塔塔兒篾古眞等、逆著︀浯勒札河襲將來也。他正是廢了我祖︀父的讐家。父親可以助我夾攻」。脫斡鄰許了、軍馬整治了三日、親自到來。太祖︀又使人對主兒乞種的撒察別乞・泰出、將這報讐的意思說將去、要他來助。待了六日不來。太祖︀遂與脫斡鄰引軍、順浯勒札河、與王京夾攻塔塔兒」。案、太祖︀是時兵力尙單、故必借脫斡鄰兵〈東方學デジタル圖書館-23力同往。脫斡鄰、卽後稱王罕者︀也。此書不載脫斡鄰助兵一事、疑有脫文。又案、祕史載太祖︀之父烈祖︀、先爲塔塔兒部人所鴆、故太祖︀志在復仇。此書亦失載其事。又諭月兒斤來助。張石州曰「案本紀作「仍諭薛徹別吉帥部人來助」。葢月兒斤、卽薛徹別吉部人也」。秋濤案、祕史作主兒斤、又作主兒乞。卽此月兒斤之異文。曾植案、史表、葛不律寒七子、長窠斤八剌哈哈、今岳里斤、其子孫也。月兒斤、卽岳里斤。又案、月兒斤對音、與主兒乞不近。葢一部而異稱。其稱月兒斤者︀、主兒乞係出斡勤巴兒合黑、史表作窠斤八剌哈哈。斡勤〈[#「斡勤」は底本では「斡勒」。前後の内容から誤植と判断。以後すべて同じ]〉窠斤月兒斤岳兒斤、皆一音之轉、以祖︀名爲部名也。其稱主兒乞、則祕史具其解。二者︀不必牽合。通世案、祕史莎兒合禿主兒乞、伯哷津作莎兒哈禿月兒乞。月兒乞、卽主兒乞之轉、則月兒斤、亦卽主兒斤之轉也。稱一人、則云主兒斤、稱數人、則云主兒乞、蒙古語法然也。子培以爲「一部而異稱、月兒斤卽斡勤〈[#「斡勤」は底本では「斡勒」]〉之轉」者︀非是。候六日不至。上以麾下兵與戰紬剌禿失圖秋濤案、類︀編引此書紬作納、是也。忽剌禿失圖秋濤案、類︀編引、無此五字。之野、秋濤案、祕史作忽速禿失禿延、卽此忽剌禿失圖也。乃塔塔爾立寨處。通世案、速剌二字、必有一誤。盡擄車馬糧饟、殺︀篾兀眞笑里徒、又獲大珠衾、銀綳車各一。〈東方學デジタル圖書館-24秋濤案、類︀編引此、衾作金。曾植案、衾字不誤。祕史蒙文、是銀搖車、大珠被。此文其詞耳。據此語、祕史譯文所不載、知作此紀者︀曾見蒙文原本也。通世案、喇施特作嬰兒銀搖車及車中金繡被、自注「當日蒙古人素所未見、託爲珍異」。金兵回。金主因我滅〈史45-162下1塔塔兒、拜上爲察兀忽魯。原注「若金移計使也」。秋濤案、類︀編引此、作「金主授帝爲察兀忽魯」。曾植案、金一制、招討使下、有副使、有判官、有勘事官云云、秩從七品、爲元制斷事官名所自昉。太祖︀受札兀忽魯名分、其西北路招討司之勘事官與。又案、祕史作札兀忽里。祕史蒙文、斷事曰札兒忽。然則札兀忽里者︀、斷事官也。元百官志、斷事官曰札魯忽赤。布只兒傳作札魯忽。又案、移計者︀、招討之誤。字形相近、傳寫致譌也。祕史、王京語太祖︀「歸奏金主、再大的名分招討官、與你做者︀」。此括其語意。然札兀忽里、非卽招討使也。原注葢微誤。通世案、續綱目作察兀禿魯、祕史蒙文作札兀惕忽里、西史作察兀特忽里。又案、祕史王京、卽完顏之轉、謂完顏襄。亦冊克烈通世案、祕史作克列亦惕、喇施特作客剌亦特、元史朮赤台傳作怯列亦。部長脫憐爲王。秋濤案、原作「爲主」、誤。今依類︀編所引改正。又案、脫憐與祕史合。而類︀編所引此書、前後皆作脫里以聲近、而譯語偶異也。此云「金册克烈部長脫憐爲王」、下云「克烈部汪罕可汗」卽此册爲王之脫里也。攷當時如卜魯欲罕、太陽罕、皆止稱罕。此脫里因金册爲王、故稱王罕、亦作王可汗、見元史木華黎傳。此作汪可汗、亦譯文之異。史太祖︀紀云「汪罕名脫里、受金封爵爲王。番言音重、故稱王爲汪罕」。其論甚断。類︀編曰「案、元史皆稱王爲罕。其曰汪罕者︀、是以二字而諧一音。而舊史不察、竟稱汪罕、亡其名與部。今皆書脫里之名、而冠以克烈部、以正因譌之失」。秋濤以爲汗乃北方君長之名、不待冠王號於王。類︀編此論、尙未攷金册爲王之事也。通世案、脫憐、祕史作脫斡鄰勒、元史哈剌哈孫傳作脫斡璘、伯哷津作脫忽魯兒。洪氏曰「脫忽魯兒雖微誤、然可證祕史譯音確而且備」。時我家居哈連徒澤間、爲乃蠻部人所掠。秋濤案、元史太祖︀紀云「帝之麾下、有爲乃蠻部人所掠者︀。帝欲討之、復遣六十人、徵兵於薛徹別吉。薛徹別吉、〈東方學デジタル圖書館-25以舊怨之故、殺︀其十人、去五十人衣而歸之。帝怒曰「薛徹別吉、曩笞我失邱兒、斫傷我別里古台。今又敢乘敵勢以陵我邪」。因帥兵踰沙磧攻之」。祕史則云「太祖︀落後下的老小營、在合澧泐海︀子邊、被主兒乞將五十人剝了衣服、十人殺︀了。太祖︀大怒」。案、二說雖有不同、然其載薛徹別吉起衅則同。此書原本、當亦載是事、與本紀同。爲傳寫者︀脫去耳。所云敵指乃蠻、彼則指薛徹別吉也。曾植案、哈連徒澤、卽祕史合澧泐海︀子。上怒曰「昔者︀別里古台、爲彼所傷。我捨釁議和、而不聽。今何乃乘敵勢陵我」。通世案、祕史太祖︀落後下的老小營、葢太祖︀敗塔塔兒、置戍而還也。合澧泐海︀子、以本書較之、當云合澧泐惕。祕史略惕音。其地雖不可知、必在蒙古東、不與乃蠻相接。安得爲其所掠哉。祕史西史、並無乃蠻侵掠之說。西史云「事定、欲與月兒斤人修好、餽以俘獲。月兒斤殺︀十人、奪五十人之衣騎。成吉思怒曰「昔者︀傷我別勒格台、與修好而不從。今又與我之敵相合而陵我」」。祕史云「太祖︀大怒、說「何故被主兒乞如此做云云。今遍爲祖︀宗上頭、要同他報讎、他又不來、倒〈底本-346 倚著︀敵人、又做了敵人」」。二書所謂敵、皆指塔塔兒也。葢本書所記哈連徒澤遭侵掠者︀、本亦被月兒斤殺︀掠之事、而誤以月兒斤爲乃蠻也。元史知其不通、更加欲討乃蠻而徵兵之說、於是乃蠻之侵掠、與月兒斤之殺︀掠、分爲二事矣。唯祕史最近實喇施特所。稱修好餽俘、恐亦潤色之辭。因發兵於大川、至朵欒盤陀山、欒原作奕、脫陀字。通世案、奕爲欒之譌無疑。祕史作朵羅安孛勒荅兀。孛勒荅兀。蒙古語孤山也。本書常作盤陀。今因改補。大掠月兒斤部。薛徹大丑、僅以妻孥數人脫走。秋濤案、自此月兒斤部、爲太祖︀所併。祕史云「初合不勒〈[#「合不勒」は底本では「合不勤」]〉皇帝有七子。長名幹勤巴剌合。合不勒、於百姓內、選揀有膽量、有氣力、剛勇能射的人隨從他。但有去處、皆攻破、無人能敵。故名主兒乞」。太祖︀得此、兵力始强。

訳文 一三-十八

後日、上とともに​ウエルン​​月倫​太后と​ハツサル​​哈撒兒​通世案、この太祖の長弟は、秘史の​ヂユチカツサル​​拙赤合撒兒​。元史 食貨志は​シユヂハツサル​​搠只哈撒兒​とする。宗室表は​シユヂハル​​搠只哈兒​とし、撒の字が抜けている。蒙古源流は​ハツサル​​哈薩爾​。元史類編は伝がある。 ​オヂン ノヤン​​斡眞 那顏​通世案、斡は原書では幹とし、今校改する。これは太祖の幼弟​テムゲ オツチギン​​帖木格 斡惕赤斤​の別称。宗室表は「​テムゲ オチギン​​鐵木哥 斡赤斤​は、いわゆる​オヂン ノヤン​​斡眞 那顏​という人である」。元史類編に伝がある。諸兄弟​セサ​​薛撒​曽植案、​セチエ​​薛徹​とする。​タイチウ​​大丑​通世案、​セチエ​​薛徹​、後文は​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​とし、秘史は​セチエ ベキ​​薛扯 別乞​とし、また​サチヤ ベキ​​撒察 別乞​とする。​タイチウ​​大丑​は、秘史は​タイチユ​​台出​。みな​バルタン​​把兒壇​の兄​オキン バルカク​​斡勤 巴兒合黑​の孫である。元史は​セチエ​​薛徹​​タイチウ​​大丑​を一人とし、その下に更に​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​を加え、誤っている。などが、おのおの旄車に馬乳酒を載せて運び、​オナン​​斡難︀​河と林の間で大いに集まった。 通世案、​オナン​​斡難︀​河、今の名は​オノン​​敖嫩​河。​ケンテ​​肎特​山の西の​テルルヂ​​特勒爾集​の嶺の西北の小​ケンテ​​肎特​山の東麓を、東に流れ、折れて東南に流れ、​テルルヂ​​特勒爾集​の嶺の北麓を経、また東に​ヂロン​​集隆︀​山の北麓を経、〈底本-344東に大​ケンテ​​肎特​山の北麓を経、また東への流れはしだいに東南になり、​チヂヤル​​齊札婁​河が西南から合流する。また東は、​バルカ​​巴爾喀​河があり、​バルカ​​巴爾喀​の嶺から、東北に流れて合流する。また東南は、​チムルカ​​齊母爾喀​河が南から合流する。また東北は、​コルス​​科勒蘇​河が南から合流する。また東北は、​バルヂ​​巴爾集​河が西北から合流する。また東北は、折れて東に流れ、また折れて北に流れ、​インゴダ​​音果達​河が東に流れ合流する。また東北に流れ、​ニブチユ​​尼布楚​城の南を経て、​シルカ​​失爾喀​河となり、また東北に流れ、折れて東に流れ、​アムフン​​阿爾渾​河と合流し、黒竜江となる。集会中に太后と上が言うには曽植案、作って当てたか。族人​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​とその母​フルヂン ハトン​​忽兒眞 哈敦​通世案、秘史は​クウルチン​​忽兀兒臣​娘子〈[#「娘子」は秘史では妃の意]〉馬乳酒の入った革袋ひとつをともにした。その継母​エベガイ​​野別該​通世案、秘史は​エベガイ​​額別該​ の前に、革袋がひとつ置かれた。​フルヂン ハトン​​忽兒眞 哈敦​は怒って「いま私を敬わず、​エベガイ​​野別該​を敬うのか」と言った。ついには給侍の​シキウル​​失邱兒​をむちで叩いた。 張石州は「​シキウル​​失邱兒​は、帝の給侍である」という。通世案、秘史は​シキウル​​失乞兀兒​とし、​ベレジン​​伯哷津​​セチエル​​薛徹兒​とする。又案、​ベレジン​​伯哷津​の書は「酒を汲む者は、​フルヂン​​忽兒眞​に汲みおわり、戻って​ナムガイ​​那母該​に汲んだ。​フルヂン​​忽兒眞​​ナムガイ​​那母該​の酒を見て、みなと同じでない、ゆえに怒り、給侍の​セチエル​​薛徹兒​を掌でむち打った」と言う。秘史は「まず​ホエルン​​訶額侖​​カツサル​​合撒兒​​サチヤ ベキ​​撒察 別乞​などにひとつの甕から馬乳酒を汲み、また​エベガイ​​額別該​にひとつの甕を置いた。​ゴリヂン​​豁里眞​​クウルチン​​忽兀兒臣​ふたりの妃が「我らの前になぜ先に置かないのか」と言った。給侍の​シキウル​​失乞兀兒​を叩いた」と言う。本書に拠れば、酒の多い少ないを争い、​ベレジン​​伯哷津​は酒の善し悪しを争い、秘史は酒を汲む順番を争い、どれが正しいのかわからない。ただしこの事について西史は、すべて​ゴリヂン​​豁里眞​を載せ忘れている。これは秘史を重視すべきである。泣いて言うには「どうして​ネクン タイシ​​捏群 太石​​エスガイ​​葉速該​ この下に原書では余分な命の字がある。秋濤が校正して削る。​バード​​拔都︀​都は原書では相、秋濤が校改する。二君が世を去り、​ネクン タイシ​​捏群 太石​は、原書では​ネクン​​捏群​太后。秋濤案、この二語は誤りがある。元秘史が「そして給侍の​シキウル​​失乞兀兒​を叩いた。​シキウル​​失乞兀兒​は「​エスガイ バアドル​​也速該 把阿都︀兒​​ネクン タイシ​​捏坤 太子​が死んでしまったので、このように人に叩かれる」と言ってから、大声で泣いた」と言ったことについて考える。案、​シキウル​​失乞兀兒​は、この​シキウル​​失邱兒​である。​エスガイ バアドル​​也速該 把阿都︀兒​は、この​エスガイ バード​​葉速該 拔都︀​、太祖の父・烈祖である。​ネクン タイシ​​捏坤 太子​は烈祖の兄である。​ネクン​​捏坤​は、本紀は​ネクン​​聶坤​とする。この書は​ネクン​​捏羣​とする。​クン​​坤​の字をある写本が群としたのかもしれず、群を誤って辟とした。后の字は、なんと石の誤りである。太后は、すなわち皇太子である。通世案、西史も​エスガイ​​也速該​ ​ネクン タイシ​​捏羣 大石​とする。何秋濤の考えに従い、辟と后の二字を改める。 私はひたすら曽植案、専を等とする。他人から辱められるに至った」と、そして大いに泣いた。このとき​ベリグタイ ノヤン​​別里古台 那顏​原書では那の字がない。張石州は「那顔とあてる」。秋濤が拠って増した。通世案、秘史は​ベルグタイ​​別勒古台​、元史 本伝は​ベリグタイ​​別里古台​、太宗紀は​ボルグタイ​​孛魯古帶​とし、食貨志は​ボログダイ​​孛羅古䚟​​ベレジン​​伯哷津​​ベルゲタイ​​別勒格台​、蒙古源流は​ベルグデイ​​伯勒格德依​とする。太祖の異母弟である。上の​キレス​​乞列思​の仕事を受け持ち、原注に「外で馬を繋ぐ囲いの担当」とある。文田案、元史 本紀の注は「​キレス​​乞列思​は、中国語で野外牧場である」。上の馬をかわいがり動かしていた。秋濤案、揺の字は誤りかもしれない。文田案、揺を控とする。​ボリ​​播里​文田案、秘史は​ブリ ボコ​​不里 孛闊​とする、通世案、​ベレジン​​伯哷津​​ボル​​播魯​とする。秘史は、​クトクト モングル​​忽禿黑禿 蒙古兒​の子とし、太祖の大叔父である。​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​​キレス​​乞列思​の仕事を受け持っていた。播里の従者が、我らの馬具を盗もうとしたので、​ベリグタイ​​別里古台​がこれを捕えた。​ボリ​​播里​は怒って​ベリグタイ​​別里古台​を切り、背が傷ついた。家来たちは闘おうとした。​ベリグタイ​​別里古台​がこれを咎めて「この仇に、お前たちは仕返ししたいのか。私の傷はひどくない。しばらくこれを待て。私を理由に争ってはならない」。秋濤案、元史の​ベリグタイ​​別里古台​伝、事の次第を述べていない。本紀は次第を書き、本書と同じだが、本書の数語を載せていない。本書の詳しさと同じでないに等しい。 家来たちは聴かず、通世案、秘史は太祖が聴かなかったとする。西史は家来たちは怒りを抑えられなかったとする。おそらく秘史は実直に書いたものに拠り、下書き文書とつながりがある。二書はすでに潤色を経たものを手本としている。それぞれ馬をとって乱れ突き、木の枝を切って激しく闘った〈[#前文の王国維は「執馬乱撞」を「執馬乳橦」と校正し秘史でいう​撞馬乳椎​​不列兀​büleġüd​つまり馬乳酒のかき回し棒を執ったとする]〉。我らの家来がこれに勝ち、かえって奪うところの​フルヂン​​忽兒眞​​ホリヂン​​火里眞​通世案、秘史は​ゴリヂン​​豁里眞​とする。 ふたりの​ハトン​​哈敦​を、麾下に届けた。文田案、届を居とする。これによりよしみを絶った。のちに再び和をはかり、ふたりの​ハトン​​哈敦​を返しに遣わした。和平交渉をしている時、​タタル​​塔塔兒​部長の​メウヂン セウリト​​蔑兀眞 笑里徒​蔑は原書では篾、張石州が校改する。秋濤案、秘史は​メグヂン セウルト​​蔑古眞 薛兀勒圖​。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​モキン スリト​​摩勤 蘇里徒​金との約束に背いた。金朝皇帝は丞相​ワンヤン シヤン​​完顏 相​を遣わし、軍兵は​タタル​​塔塔兒​を追い払い北に走らせた。秋濤案、元史類編を引いて「金は丞相​ワンヤン シヤン​​完顏 襄​を遣わし、軍兵は叛いた者を追い払い北に走らせた」とする。通世案、​ラシツド​​喇施特​はこの役を帝が四十歳の時とする。その記述に拠れば、「帝はヒジュラ暦549年(1154年)に生まれ七十三歳で没した」とあり、この役は甲寅年(1194年)、宋の光宗 紹熙 五年、金の章宗 明昌 五年である。 洪氏は「​ワンヤン シヤン​​完顏 襄​の北伐について考えて、金史を見るに、​タタル​​塔塔兒​の役にあたる。紀伝を合わせてこれを考えるに、なんとこれは丙辰年(1196年)の事で、甲寅の二年後である。元ははじめは史官はおらず、太祖本紀は、後から追憶して録を著したもので、年くぎりはまったく頼りにならない」と言う。 今、本書の癸亥年(1203年)に拠って「上春秋四十二」の文をこれに推しはかると、金の承安 元年 丙辰(1196年)で、太祖は三十五歳である。癸亥年のくだりの注を見よ。又案、通鑑輯覧は「金の明昌〈[#金朝の元号。1190年-1196年]〉の末から、北部​カヂキン​​合底忻​​シヤンヂフン​​山只昆​は、強さを恃みにして辺りは乱れていた。また​グンギラ​​廣吉剌​というものがあり、とりわけ凶暴でなまいきで、たびたび諸部を脅し塞に入らせた。そして​ズブ​​阻䪁​も叛き、何年も続けて戦争した」と言う。詳しくは金史 内族宗浩伝を見よ。また内族襄伝は「左丞相​ヂアグチンヂン​​夾谷淸臣​は北を防衛し、不法行為に対処し、従属する辺境の統治があわただしくなり、襄を代わりの将軍に命じ云云。そこで軍を分けて東に向かう道に出し、襄は西に向かう道を通った。かくて東軍は竜駒河に至り、​ズブ​​阻䪁​にいどころを囲まれ、はなはだ急いで援けを求めた。襄は速く動いてこれを襲い破った。群衆はみな​オリヂヤ​​斡里札​河に逃げた」と言う。​カヂキン​​合底忻​​カタギン​​合塔斤​​シヤンヂフン​​山只昆​は、​サルヂウト​​撒勒只兀惕​​グンギラ​​廣吉剌​は、​オンギラト​​翁吉剌惕​​ズブ​​阻䪁​​タタル​​塔塔兒​支族の名かもしれない。 ただ​ラシツド​​喇施特​​タタル​​塔塔兒​六部の名を挙げ、​ズブ​​阻䪁​に似たものはない。竜駒河は、今の​ケルルン​​克魯倫​河。​オリヂヤ​​斡里札​河は、秘史の​ウルヂヤ​​浯勒札​河、今の​ウルザ​​烏爾匝​河である。諸部は金に叛き、そして太祖や​ワンカン​​王汗​は金に協力した。後年諸部が同盟し、太祖や​ワンカン​​王汗​と戦うが、すべての発端はこれである。又案、​ワンヤン シヤン​​完顏 襄​は、秘史の​ワンキン シヨウジヤウ​​王京 丞相​​ワンキン​​王京​​ワンヤン​​完顏​の転訛であろう。上はこれを聞き、ついに近い者で兵を起こし、出て​オナン​​斡難︀​河に至り、これを迎え討った。〈底本-345 秋濤案、斡を原書では幹とする。今、元史類編を引くところに拠って改める。又案、秘史は「大金は​タタル​​塔塔兒​​メグヂン セウルト​​篾古眞 薛兀勒圖​などが、命令に従わないことを理由に、王京丞相に軍を指揮させ捕えに来る。太祖は知らせをうけた。太祖は「ただいまこの機会に乗じ、挟み撃ちにすべきである」と述べた。 そして​トオリン​​脫斡鄰​に対して人をやり「ただいま金国は​ワンキン​​王京​をつかわして、まさに​タタル​​塔塔兒​​メグヂン​​篾古眞​らが、​ウルヂヤ​​浯勒札​河で迎えうち襲って来た。彼らはまさに亡くなった我らが祖父の仇敵である。父は自ら我らを助けて挟み撃ちにすべきだ」と言わせた。 ​トオリン​​脫斡鄰​は聞き入れて、軍馬を整えること三日、自らやって来た。太祖はまた​ヂユルキ​​主兒乞​部の​サチヤ ベキ​​撒察 別乞​​タイチユ​​泰出​に対して人をやり、まさにこの復讐の意思を述べてまさに去り、彼が助けに来ることを求めた。待つこと六日来なかった。太祖は遂に​トオリン​​脫斡鄰​と軍を率いて、​ウルヂヤ​​浯勒札​河に沿って動き、​ワンキン​​王京​とともに​タタル​​塔塔兒​を挟み撃ちにした」と言う。 案、太祖はこの時兵力なおひとつだけで、ゆえにきっと​トオリン​​脫斡鄰​の兵力を借りてともに行った。​トオリン​​脫斡鄰​、のちに​ワンカン​​王罕​と称した。この書は​トオリン​​脫斡鄰​が援軍を出したことを載せておらず、脱文の疑いがある。又案、秘史は太祖の父烈祖が、過去に​タタル​​塔塔兒​部人によって毒殺され、ゆえに太祖が復讐を志したことを載せている。此書はその事も載せ忘れている。 また​ユルギン​​月兒斤​に助けに来るよう諭した。張石州は「考えるに元史 本紀は「しきりに​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​に部を率いて助けに来るよう諭した」とする。おそらく​ユルギン​​月兒斤​は、​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​部の人である」という。秋濤案、秘史は​ヂユルギン​​主兒斤​また​ヂユルキ​​主兒乞​とする。これはこの​ユルギン​​月兒斤​の字形を異にしたものである。曽植案、元史 史表、​カブル カン​​葛不律 寒​七子の、第一子である​コキン バラハハ​​窠斤 八剌哈哈​、今の​ユリギン​​岳里斤​は、その子孫である。​ユルギン​​月兒斤​は、この​ユリギン​​岳里斤​。又案、​ユルギン​​月兒斤​の音は、​ヂユルキ​​主兒乞​と似ていない〈[#「不近」は誤りにみえるが小漚巣刊本の第14葉7行にも文求堂本にもあるのでそのまま訳す]〉。おそらく同じ部の異称であろう。その称​ユルギン​​月兒斤​は、​ヂユルキ​​主兒乞​​オキン バルカク​​斡勤 巴兒合黑​の出、史表は​コキン バラハハ​​窠斤 八剌哈哈​とする。​オキン​​斡勤​ ​コキン​​窠斤​ ​ユルギン​​月兒斤​ ​ヨルギン​​岳兒斤​、みな同じ音の転訛で、祖先の名を部名としたのである。その称​ヂユルキ​​主兒乞​は、秘史がその説明をそなえている。二者は必ずしもこじつけられない。 通世案、秘史の​シヨルカト ヂユルキ​​莎兒合禿 主兒乞​​ベレジン​​伯哷津​​シヨルハト ユルキ​​莎兒哈禿 月兒乞​とする。​ユルキ​​月兒乞​は、​ヂユルキ​​主兒乞​の転訛であり、​ユルギン​​月兒斤​も、​ヂユルギン​​主兒斤​の転訛である。ひとりを称して、​ヂユルギン​​主兒斤​と言い、数人を称して、​ヂユルキ​​主兒乞​と言い、モンゴルの語法はそのようである。沈曽植が「同じ部であれば異称、​ユルギン​​月兒斤​​オキン​​斡勤​の転訛である」とするのは誤りである。 六日待ったが来なかった。上は麾下の兵とともに​チヨウラトシト​​紬剌禿失圖​と戦う秋濤案、元史類編がこの書を引用して紬を納とするのは、これである。 ​クラトシト​​忽剌禿失圖​秋濤案、類編の引用は、この五字がない。の野で、秋濤案、秘史の​クスト シトエン​​忽速禿 失禿延​は、この​クラトシト​​忽剌禿失圖​である。 それこそが​タタル​​塔塔爾​が砦を作った場所。通世案、速剌の二字は、必ずやひとつに誤りがある。車馬と食糧を獲りつくし、​メウヂン セウリト​​篾兀眞 笑里徒​を殺し、また大きな真珠のついた布団、銀で包んだ車をそれぞれ獲った。秋濤案、元史類編はこれを引用し、衾を金とする。曽植案、衾の字は誤りではない。秘史蒙文は、これを銀の乳母車と真珠の布団とする。この文はその詞だけである。 この語に拠れば、秘史訳文を載せておらず、この紀を作った者がかつて蒙文原本を見たことがわかる。通世案、​ラシツド​​喇施特​は嬰児の銀の揺車で車中の布団は金が刺繍されているとし、「当時のモンゴル人はつねづね見たことがなく、珍しいので言い伝えた」と自注する。 金兵は帰った。金主は我らが​タタル​​塔塔兒​を滅ぼしたことを理由に、上に​チヤウフル​​察兀忽魯​の官を授けた。原注に「金の移計使のようなものである」とある。秋濤案、元史類編はこれを引いて、「金主は帝に授けて​チヤウフル​​察兀忽魯​とした」とする。曽植案、金の官制にある、招討使下、有副使、有判官、有勘事官云云、秩従七品が、元の官制の断事官の職位にあたることは自明である。太祖は​ヂヤウフル​​札兀忽魯​の職位を受ける、それは西北路招討司の勘事官か。又案、秘史は​ヂヤウクリ​​札兀忽里​とする。秘史蒙文は、断事を​ヂヤルク​​札兒忽​と言う。そうであるならば​ヂヤウクリ​​札兀忽里​は、断事官である。 元史 百官志は、断事官を​ヂヤルフチ​​札魯忽赤​という。​ブヂル​​布只兒​伝は​ヂヤルフ​​札魯忽​とする。又案、移計は、招討の誤り。字形が似ており、伝写が誤るに至ったのである。 秘史で、​ワンキン​​王京​は太祖に「帰って金主に奏上し、かさねて大いなる招討官の職位に、お前をならせよう」と語る。ここにその語意をまとめる。されば​ヂヤウクリ​​札兀忽里​は、招討使ではない。原注は少し間違っているようである。通世案、続綱目は​チヤウトル​​察兀禿魯​とし、秘史蒙文は​ヂヤウトクリ​​札兀惕忽里​とし、西史は​チヤウトクリ​​察兀特忽里​とする。又案、秘史の​ワンキン​​王京​は、​ワンヤン​​完顏​の転訛であり、いわゆる​ワンヤン シヤン​​完顏 襄​である。 また​ケレイ​​克烈​を冊封して通世案、秘史は​ケレイト​​克列亦惕​とし、​ラシツド​​喇施特​​ケライト​​客剌亦特​とする、元史 朮赤台伝は​ケレイ​​怯列亦​とする。部長​トーリン​​脫憐​を王とした。秋濤案、原書は「為主」とし、誤り。いま元史類編の引くところに拠って改正する。又案、​トーリン​​脫憐​と秘史は合う。元史類編がこの書を引くところは、前後みな​トーリ​​脫里​とし発声が近く、訳語はたまに異なっている。これは「金は冊封して​ケレイ​​克烈​部長​トーリン​​脫憐​を王にした」と言い、後文の「​ケレイ​​克烈​​ワンカン カガン​​汪罕 可汗​」はこの冊封して王とした​トーリ​​脫里​である。 当時を考えると​ブルユ カン​​卜魯欲 罕​​タヤン カン​​太陽 罕​のごときは、みな罕の称でおわっている。この​トーリ​​脫里​は金に冊封されて王となったことにちなみ、ゆえに​ワンカン​​王罕​、また​ワン カガン​​王 可汗​と称し、元史 ​ムホアリ​​木華黎​伝で見られる。これは​ワン カガン​​汪 可汗​とし、また訳文の違い。元史 太祖紀は「​ワンカン​​汪罕​は名を​トーリ​​脫里​といい、金から爵位をもって封じられ王となった。西方の異民族は音を重く言い、ゆえに王を​ワンカン​​汪罕​と称した」という。この論はまったく絶えた。元史類編は「案、元史はみな王を罕と称する。それにいう汪罕は、二字で一音を整えるものである。しかし旧史には表れず、汪罕の称号は終わり、その名と部は亡くなった。今みな​トーリ​​脫里​の名を書き、​ケレイ​​克烈​部を冠し、これにより誤りを正す」という。 秋濤は汗を北方君長の名とし、王を王号に冠するあしらいはしない。元史類編はこれを論じ、いまだに金が王に冊封したことを考えるのを尊ぶ。通世案、​トーリン​​脫憐​、秘史は​トオリンル​​脫斡鄰勒​とし、元史 ​ハラハスン​​哈剌哈孫​伝は​トーリン​​脫斡璘​とし、​ベレジン​​伯哷津​​トフルル​​脫忽魯兒​とする。洪氏は「​トフルル​​脫忽魯兒​はかすかな誤りがあるとはいえ、秘史の訳音が確かに備わっている証と認められる」と言う。 おりしも我が家は​ハレント​​哈連徒​沢の間に居て、​ナイマン​​乃蠻​部の人に掠奪されたとした。秋濤案、元史 太祖紀は「帝の家来が、​ナイマン​​乃蠻​部の人に掠奪にあった。帝はこれを討つことを望み、さらに六十人を遣わして、​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​から徴兵した。​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​は、旧怨を理由に、その十人を殺し、五十人の衣服を捨て去ってそれらを帰した。帝は怒り「​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​は、以前に我が​シキウル​​失邱兒​をむち打ち、我が​ベリグタイ​​別里古台​を斬って傷つけた。今またあえて敵の勢いに乗って我らをあなどるというのか」と言った。そこで将兵は砂の河岸を越えて攻めた」と言う。 秘史では「太祖が攻め落とした後の本営は、​カリル​​合澧泐​湖辺にあり、​ヂユルキ​​主兒乞​によって五十人が衣服を剝がれ、十人が殺された。太祖は大いに怒った」と言う。 案、二説は同じでないところがあるとはいえ、​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​が仲違いを起こしたと載せているのは同じ。この書の原本もまた、この事を載せており、本紀と同じ。伝写者によって取り除かれただけである。こちらが敵と言うところは​ナイマン​​乃蠻​を示し、あちらは​セチエ ベキ​​薛徹 別吉​を示す。曽植案、​ハレント​​哈連徒​沢は、秘史の​カリル​​合澧泐​湖である。 上は怒って「以前この​ベリグタイ​​別里古台​は、彼に傷つけられた。我らは仲違いを捨て和を選んだが、聴かなかった。今なぜ敵の勢いに乗って我らを侮るのか」と言った。通世案、秘史で太祖が攻め落とした後の本営は、太祖が​タタル​​塔塔兒​を負かし、守備兵を置いて帰った時であろう。​カリル​​合澧泐​湖は、本書とこれを比べると、​カリルト​​合澧泐惕​というのにあたる。秘史は惕の音を略している。その地はわからないとはいえ、必ずやモンゴルの東にあり、​ナイマン​​乃蠻​と互いに接してはいない。 どうしてその場所が掠奪されるであろうか。秘史西史、ともに​ナイマン​​乃蠻​による侵掠の話がない。西史は「争いが収まり、​ユルギン​​月兒斤​人との修好を望み、捕虜を送った。​ユルギン​​月兒斤​は十人を殺し、奪五十人の衣服と馬を奪った。​チンギス​​成吉思​は怒って「以前これは我らの​ベリグタイ​​別里古台​を傷つけ、修好を与えたが従わない。今また我らと互いに敵対し我らをあなどった」と言った」とする。 秘史は「太祖は大いに怒って、「なぜ​ヂユルキ​​主兒乞​にこのようなことをされるのか云云。今回これまでの祖宗のために、ともに報復しようとしたが、彼らはまたも来ず、〈底本-346 さかさまに敵をたより、またも敵となった」と言った」とする。二書のいわゆる敵は、みな​タタル​​塔塔兒​を示す。おそらく本書が​ハレント​​哈連徒​沢で侵掠に遭ったことと、この​ユルギン​​月兒斤​に殺掠されたことを、誤って​ユルギン​​月兒斤​​ナイマン​​乃蠻​としたのである。元史は話が通らないのをわきまえて、さらに​ナイマン​​乃蠻​討伐と徴兵の話を加えようと望んだのは、​ナイマン​​乃蠻​の侵掠と、​ユルギン​​月兒斤​の殺掠という、はなれた二つの事のためか。ただ秘史は​ラシツド​​喇施特​のところの中身と最も近い。修好して捕虜を帰したと称するのは、おそらくこれも潤色の辞であろう。 そこで大いなる川から兵を出し、​ドロン ボンダ​​朵欒 盤陀​山に至り、欒は原書では奕、陀の字が抜けている。通世案、奕が欒の誤りであること疑いなし。秘史は​ドロアン ボルダウ​​朵羅安 孛勒荅兀​とする。​ボルダウ​​孛勒荅兀​。モンゴル語で孤山である。本書は常に​ボンダ​​盤陀​とする。今これに拠って改補する。 大いに​ユルギン​​月兒斤​部を掠めた。​セチエ​​薛徹​​タイチウ​​大丑​は、わずか妻子数人とともに脱走した。秋濤案、これより​ユルギン​​月兒斤​部は、太祖に併合されるところとなった。 秘史は「はじめ​カブル​​合不勒​皇帝に七子いた。長男は​オキン バルカ​​幹勤 巴剌合​​カブル​​合不勒​、民衆のうちから、度胸があり、気力があり、強く勇敢で弓のうまい人を選んで従わせた。ただ行くところ、みな攻め破り、敵対できる人はなかった。ゆえに​ヂユルキ​​主兒乞​と名付けられた」と言う。太祖はこれを得て、兵力は強くなり始めた。





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