〈史45-168上13甲子〈宋景定五年,金泰和四年。〉春,大會于帖木垓川,議伐乃蠻

〈底本-368 甲子原注「宋景定五年、金泰和四年」。張石州曰「當作宋嘉泰四年」。〈東方學デジタル圖書館-61春、大會於帖木垓川、秋濤案、當卽癸亥年之帖麥該川。通世案、西史前作帖蔑延客額兒、此作帖木該必丁禿勒庫珠特。祕史蒙文帖蔑延客額兒下、有禿勒勤扯兀的地名。較西史、少必丁音。議伐乃蠻。百官謀曰「今畜牧疾疫。待秋高馬肥、而後可進」。上弟斡赤斤那顏通世案、卽也速該第四子帖木格斡惕赤斤、史表之鐵木哥斡赤斤。斡原作幹、今改。曰「毋慮馬瘦、我騎尙壯。今勢已如此、其可緩乎。以吾料敵、必敗之。苟戰勝、他日指此地嘗擒太陽可汗、當圖此名。然勝負在天、必當進矣」。上弟別里古台那顏亦曰「乃蠻欲奪王弧矢。若果爲奪、則身將安之。彼國大馬繁、恣爲誇語。今我卒然入之、國雖大、必逃散於山林。馬雖繁、必遺棄於原野。掩其不虞、奪其弓矢、豈難︀哉」。眾稱善。望日祭纛、詰朝進兵伐乃蠻。通世案、西史作望日起師。額兒忒曼謂「西域曆六月十五日起師。歐羅巴曆、則在二月十九日」。洪氏曰「中西曆相差、至多四十餘日、至少十餘日、則當爲中曆正月望日」祕史云「四月十六日、成吉思祭了旗纛、去征乃蠻」。四月旣望、葢蒙古大祭之日也。祕史卷二、帖木眞被泰亦赤兀惕擒時、「正當四月十六日、泰亦赤兀惕每、於斡難︀河岸上做筵會」。卷三、帖木眞・札木合、同住一年半、「一日自那營盤裏起時、正是四月十六日、一同車前頭行云云」。太祖︀擧大事、用四月旣望、葢由此也。正月望日之說、恐未足據。秋、再會哈勒合河建忒垓山、忒孩原作或檀、張石州據翁本改。通世案、伯哷津云「行至乃蠻境外客勒忒該哈荅、濱哈剌河。駐軍多日、而敵不至、不得戰。秋又會將士、議進兵」。哈剌河、卽此哈勒合河。太祖︀責王汗語中、亦有哈剌河濱、本書作哈兒哈山谷。皆今喀魯哈河也。客勒忒該哈荅、哈荅謂山、卽此建忒該山。祕史之合勒合河斡兒訥兀地的客勒帖該合荅地、亦卽此地、而誤書於出征之前。先遣麾下虎必來哲別二人爲先鋒。太陽可汗至自案臺、通世案卽阿爾泰山、亦曰阿勒坦。胡語阿勒坦謂金。卽古金山也。其頂在科布多城西北烏普薩池西、爲西北諸︀山之祖︀。支峯蔓壑、分爲四枝。其東北繞特思河之北千里、東爲唐努山一枝、又東南接杭愛山之陰。其頂南百餘里向東一枝、爲烏蘭郭馬山、繞奇勒稽思泊之北、又東南爲白勒克那克科克依山、又東接杭愛山之陽。白勒克那克科克依山南麓、今有烏里雅蘇台城。塔陽汗葢居其近地。營於杭海︀山通世案、祕史作康孩、今作杭愛山、在鄂爾坤河之西。山脈自阿爾泰東北支唐努嶺來、南南趨。其頂爲色楞格河北源所出之山、其尾爲塔米爾河南源、鄂爾坤南源所出之山。之哈只兒兀孫河、曾植案、卽祕史之合池兒水也。蒙語謂水爲兀孫、今書作烏蘇者︀是。旣稱兀孫、又稱河、於文重複、與後辛目連河同。引兵迎敵。我軍至斡兒寒河。寒原作塞。曾植案、塞當作寒。文田案、斡兒寒河、卽今鄂勒昆河。通世案、祕史前作斡兒洹河、斡兒罕河、後作斡兒豁水、今作鄂爾坤河。源出杭愛山尾、東南流、而東、而東北、折西北流、塔米爾河自西南來會、又北流、折東北、土剌河自南來會、又東北、折流、入色楞格河。又案、西史無此句。引兵迎敵、作遣兵爲先鋒。據祕史、蒙古軍似不至鄂爾坤河。渡河者︀、則塔陽汗、而戰地納忽崖、乃在河東。我軍二字、恐誤衍。或當作先鋒。太陽可〈史45-168下1汗、同蔑里乞部長脫脫秋濤案、祕史作脫黑脫阿。又案、元史巴而朮阿而忒的斤傳、誤以脫脫爲太陽可汗之子。〈東方學デジタル圖書館-62克烈部長札阿紺孛、阿隣太石、秋濤案、札阿紺孛、卽克烈部汪可汗之弟、前奔乃蠻者︀。葢汪可汗亡後、部衆歸之、故稱克烈部〈底本-369 長也。阿隣太石、疑卽前與札阿紺孛同奔乃蠻之納隣太后、葢人名。彼文阿譌爲納、石譌爲后也。通世案、西史前作納鄰、今作阿鄰、與此同。惟無礼罕不。猥剌部長忽都︀花別吉、 秋濤案、忽都︀花別吉、已〈[#「已」は底本では「己」]〉見前盃祿可汗來犯我軍條中、又見後戊辰年、云「幹亦剌部長忽都︀花別吉、遇我前鋒、不戰而降」。幹當作斡。斡亦剌部、卽猥剌部、音同、譯字偶異也。及札木合通世案西史作札只剌部長札木合。本書似以札木合爲部名。本書元史往往有此誤。禿魯班・塔塔兒・哈荅斤・散只兀諸︀部相合。時我隊中一白馬帶敝鞍、通世案、西史作「以鞍翻墜於腹」倶與祕史異。見後。驚走突︀乃蠻軍。太陽可汗與眾謀曰「彼軍馬羸、可尾而進。然待馬稍軟、健與之戰也」。通世案、意不全。西史云「蒙古之馬尙瘦。我若退軍、彼必尾追、則馬力益少。我再與戰、可操必勝」。驍將〈[#「驍將」は底本では「饒將」。他の親征錄校注本に倣い修正]〉火力速八赤秋濤案、前作火里速八赤。曰「昔君父亦年可汗、秋濤案、前作亦難︀赤可汗、祕史作亦難︀察必勒格、乃太陽可汗之父也。〈東方學デジタル圖書館-63勇戰不回。士背馬後、未嘗使人見也。今何怯邪。果懼之、何不令菊兒八速來」。原注「太陽可汗妻也」。秋濤案、祕史作古兒別速、乃太陽之母、非妻也。文田案、錄云太陽妻、祕史云塔陽母。此錄是而祕史非者︀。塔陽能與太祖︀逐鹿。其母當亦中壽之人。而祕史云「太祖︀戰勝塔陽、納之後宮」。則天下多美、何必老婦乎。錄云其妻、此言允矣。 太陽可汗因率眾來敵。通世案、祕史不載與乃蠻連兵諸︀部名。然叙事甚詳。云「成吉思征乃蠻。逆客魯連河、使者︀別・忽必來爲頭哨、至撒阿里客額兒地、遇乃蠻哨兵在康合兒合山、往來相逐。隊中騎敝鞍白馬者︀、被乃蠻人獲。皆曰「達達馬瘦」。大軍踵至。朵歹扯兒必曰「我兵寡遠來。宜牧馬於此多設疑兵、布滿撒阿里之野、夜令人各燒火五處、彼兵雖衆、其主軟弱、必驚疑矣。如此則我馬已飽、然後追彼哨兵、直抵大營、擊其不備、必勝矣」。成吉思從之。乃蠻哨兵驚曰「聞達達兵寡。如何燒火如星」。以報塔陽。塔陽方在康孩之地合池兒水邊、使吿其子古出魯克曰「達達燒火如星、其兵必衆。人常言「達達刺眼不轉睛、刺腮不躱避」今若與彼構兵、後必難︀解。聞達達馬瘦。我率衆而退、誘彼至金山、則彼馬力益乏。然後還與之戰、可以勝乎」。古出魯克聞之、罵其父、比之婦人。豁里速別赤歎曰「汝父亦難︀赤必勒格臨敵、士背馬後、未嘗使人見也。今汝何怯邪。早知汝如此、則汝母古兒別速、雖婦人、足以管軍矣。可惜可克薛兀撒卜剌黑老子、我軍法度頗慢。此非達達得天運乎」。跨馬叩箭筒而去。塔陽聞之、怒而奮進、遂順塔米兒河、渡斡兒豁水、至納忽山崖東察乞兒馬兀惕之地」。云「逆客魯連河」、恐誤。似可云順土兀剌河。撒阿里客額兒、非龍庭之地。漠北多名撒阿里處。此撒阿里之野、當在喀魯哈河之西。康合兒合山、亦似因河名得名。塔米兒河、今作塔米爾河。源出枯庫嶺東麓、東流、瀦爲台魯勒倭黑池、又東北流、入鄂爾坤河。塔陽渡鄂爾坤河、戰于納忽山。納忽山、亦當在鄂爾坤・喀魯哈兩河之間、庫庫赤老圖山以南連山中。上以弟哈撒兒主軍、躬自指揮行陣。通世案、祕史云「成吉思整軍排陳、自爲頭哨、令弟合撒兒主中軍、斡赤斤管從馬」。時札木合從太陽可汗、望見上軍容嚴整、因謂左右曰「汝等見案荅擧止英異乎。乃蠻語嘗有言「雖駁革去皮、猶貪不捨」。豈能當之」。通世案、語頗蹇拙。祕史云「您曾說「若見達達時、如小羖䍽羔兒、蹄皮也不留」。儞如今試看」。洪氏譯伯哷津書云「乃蠻向來臨敵、謂「如宰小牛羊、自足至項、併皮革亦不在留」。今試視︀能否」。最明暢。元史亦云「乃蠻初擧兵、視︀蒙古軍、若羖䍽羔兒。意謂、蹄皮亦不留」。語甚似祕史。編者︀或見祕史耶。抑祕史譯者︀却用元史字耶。遂提本部兵走。通世案、祕史此條、叙塔陽・札木合問荅。如讀傳奇小說。札木合雖與太祖︀爲敵、心固服太祖︀之英武、對塔陽誇達達勇猛無敵。其情略似我齊藤實盛在平氏軍中、誇坂東武士之勇。札木合旣答塔陽、遂遣使以其語吿太祖︀、曰「塔陽聞之、驚懼昬眩、遽退上山、咸無戰志。我已棄彼去矣。安答勗哉」。末一節︀生出札木合被擒後許多問答。史錄都︀省此等語、可惜。是日、上與之大戰至晡、擒殺︀太陽可汗。乃蠻眾潰、夜走絕險、墜納忽崖者︀、不可勝計。明日、餘衆悉降。通世案、祕史云「太祖︀見日色晩、圍納忽山宿了。其夜乃蠻欲遯云云。明日、拏住塔陽。其子古出魯克、因不在一處、得脫身、領些人每走出、見軍追及、就依塔米兒河要剳營不定、又走了。襲至阿勒台山前、勢愈窮促、遂將他百姓盡收捕了」。西史又叙太陽重傷不起、火力速八赤等勵之、不應。諸︀將遂皆下山力戰而死、成吉思奬其勇等事。此亦祕史本書所均不載也。於是禿魯班・塔塔兒・哈荅斤・散只兀諸︀部亦〈底本-370 來降通世案、祕史作「與札木合一同有的達達、札荅闌・合塔斤等種、也都︀來投降了」。札荅闌字不可少。

訳文 六二-六六

甲子(1204年)原注「宋 景定 五年、金 泰和 四年」。張石州は「宋 嘉泰 四年とする」と言う。春、​テムカイ​​帖木垓​川で大会を行い、秋濤案、癸亥年(1203年)の​テメゲイ​​帖麥該​川とする。通世案、西史は前文で​テメエン ケエル​​帖蔑延 客額兒​とし、ここは​テムガイ​​帖木該​ ​ビヂントルクヂユト​​必丁禿勒庫珠特​とする。秘史蒙文は​テメエン ケエル​​帖蔑延 客額兒​の低い所、​トルギンチエウヂ​​禿勒勤扯兀的​の地名がある。西史と比べると、​ビヂン​​必丁​の音が少ない。​ナイマン​​乃蠻​討伐を相談した。百官は察して「今は流行り病のなかで畜牧している。秋高く馬肥ゆるまで待ち、のちに進めば良い」と言った。上の弟​オチギン ノヤン​​斡赤斤 那顏​通世案、これは​エスガイ​​也速該​第四子​テムゲ オツチギン​​帖木格 斡惕赤斤​、元史 表の​テムゲ オチギン​​鐵木哥 斡赤斤​。斡は原書では幹、今改める。 曰「母は馬が痩せているのを心配し、我が馬はなお健やかである。今や勢いはこのように癒え、それは緩んだとすべきであろう。私が敵を見たところでは、きっとこれを破る。もし戦いに勝つなら、後日この地を目指す​タヤン カガン​​太陽 可汗​に捕らえられれば、この名誉は奪われる。勝負は天にあり、必ずや進むべきである」。上の弟​ベリグタイ ノヤン​​別里古台 那顏​も「​ナイマン​​乃蠻​は王の弓を奪うことを願っている。もしついに奪われれば、我らはどうするのか。彼の国は大きい馬が多く、大言を吐くのは欲しいままになる。今我らが不意にこれに攻め入れば、国が大きいといえども、必ずや山林に逃げ散る。馬が多いといえども、必ずや原野に捨て去る。その油断を不意に襲い、その弓矢を奪うのが、どうして難しかろうか」と言った。人々は大いに褒めた。満月になる十五日に纛を祭り、早朝に​ナイマン​​乃蠻​を討伐する兵を進めた。 通世案、西史は十五日に兵を起こしたとする。​エルドマン​​額兒忒曼​は「西域暦六月十五日に兵を起こした。​ヨウロツパ​​歐羅巴​暦では、二月十九日になる」と言う。洪氏は「中国暦と西暦は食い違い、多ければ四十余日に至り、少なければ十余日に至り、中国暦の正月十五日と当てる」と言い秘史は「四月十六日、​チンギス​​成吉思​は旗纛を祭り終え、​ナイマン​​乃蠻​に征伐に行った」と言う。四月十六日は、おそらくモンゴルの大祭の日であろう。秘史巻二、​テムヂン​​帖木眞​​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​に捕らわれた時、「まさに四月十六日、​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​の人々は、​オナン​​斡難︀​河のほとりで宴会をした」。巻三、​テムヂン​​帖木眞​​ヂヤムカ​​札木合​は、一年半同居し、「いつぞや住まいをそこから起こした時は、まさに四月十六日であり、一同は車の前を先頭で行き云云」。太祖が大事を挙げるのは、四月十六日に行うのは、おそらくこれに基づく。正月十五日の説は、おそらく根拠がまだ足りない。秋、再び​ハルハ​​哈勒合​​ゲンテカイ​​建忒垓​山で会い、 忒孩は原書では或檀、張石州が翁方綱本に拠って改める。通世案、​ベレジン​​伯哷津​云「​ナイマン​​乃蠻​との境外の​ケルテガイハダ​​客勒忒該哈荅​に行き至って、​ハラ​​哈剌​河にせまった。駐軍で多くの日が経ち、敵が到着せず、戦えなかった。秋にまた将士が会い、兵を進める相談をした」。​ハラ​​哈剌​河は、この​ハルハ​​哈勒合​河である。太祖が​ワンカン​​王汗​を責める語の中にも、​ハラ​​哈剌​河のほとりがあり、本書は​ハルハ​​哈兒哈​山谷とする。みな今の​カルハ​​喀魯哈​河である。​ケルテガイハダ​​客勒忒該哈荅​は、​ハダ​​哈荅​は山をいい、つまりこれは​ゲンテガイ​​建忒該​山である。秘史の​カルカ​​合勒合​​オルヌウ​​斡兒訥兀​の地の​ケルテガイ カダ​​客勒帖該 合荅​の地も、またこの地であり、誤って出征の前に書いた。 まず麾下の​フビライ​​虎必來​ ​ヂエベ​​哲別​二人を先鋒として遣わした。​タヤン カガン​​太陽 可汗​​アンタイ​​案臺​より至り、通世案これは​アルタイ​​阿爾泰​山で、​アルタン​​阿勒坦​とも言う。胡語で​アルタン​​阿勒坦​は金を言う。これは古い金山である。その頂きは​コブド​​科布多​城の西北​ウプサ​​烏普薩​池の西にあり、西北諸山の祖とされる。支峯は谷のように延び、分かれて四つの枝となる。それを​トス​​特思​河の北千里を東北にめぐると、東は​タンヌ​​唐努​山の一枝をなし、また東南に​ハンアイ​​杭愛​山の北を接する。その頂きの南は百余里を東に一枝向かい、​ウランゴマ​​烏蘭郭馬​山をなし、​キルキス​​奇勒稽思​泊の北を繞り、また東南は​バイルクノクカクイ​​白勒克那克科克依​山をなし、また東は​ハンアイ​​杭愛​山の南に接する。​バイルクノクカクイ​​白勒克那克科克依​山の南麓は、今は​ウリヤスタイ​​烏里雅蘇台​城がある。​タヤン カン​​塔陽 汗​はおそらくその近い地にいた。​ハンガイ​​杭海︀​通世案、秘史は​カンガイ​​康孩​とし、今は​ハンアイ​​杭愛​山とし、​オルクン​​鄂爾坤​河の西にある。山脈は​アルタイ​​阿爾泰​の東北より​タンヌ​​唐努​嶺を支え来て、南へ南へと向かう。その頂きは​セレンゲ​​色楞格​河の北源が出るところの山をなし、その尾は​タミル​​塔米爾​河の南源、​オルクン​​鄂爾坤​の南源が出るところの山をなす。​ハヂルウソン​​哈只兒兀孫​河に陣取り、曽植案、つまり秘史の​カチル​​合池兒​の水である。モンゴル語は水を​ウスン​​兀孫​とし、今の書が​ウス​​烏蘇​とするのはこれである。すでに​ウスン​​兀孫​と称し、また河と称し、文を重複するのは、後文の​シン ムレン​​辛 目連​河と同じである。兵を引き寄せて敵を迎えた。我が軍は​オルハン​​斡兒寒​河に至った。 寒は原書では塞。曽植案、塞を寒とする。文田案、​オルハン​​斡兒寒​河は、今の​オルフン​​鄂勒昆​河である。通世案、秘史は前文で​オルハン​​斡兒洹​河や、​オルカン​​斡兒罕​河とし、後文で​オルゴ​​斡兒豁​水とし、今は​オルクン​​鄂爾坤​河とする。源は​ハンアイ​​杭愛​山の尾を出て、東南に流れ、そして東に、そして東北に、折れて西北に流れ、​タミル​​塔米爾​河が西南から合流し、また北に流れ、東北に折れ、​トラ​​土剌​河が南から合流し、また東北に、折れて流れ、​セレンゲ​​色楞格​河に入る。又案、西史はこの句がない。兵を引き寄せて敵を迎えたことは、先鋒として兵を遣わしたとする。秘史に拠れば、モンゴル軍は​オルクン​​鄂爾坤​河に至らなかったようである。河を渡ったのは、​タヤン カン​​塔陽 汗​であり、​ナク​​納忽​崖の地で戦い、それが河の東にある。我軍の二字は、おそらく余分な誤りであろう。あるいは先鋒とする。​タヤン カガン​​太陽 可汗​は、​メリキ​​蔑里乞​部長​トト​​脫脫​秋濤案、秘史は​トクトア​​脫黑脫阿​とする。又案、元史​バルチユアルテチキン​​巴而朮阿而忒的斤​伝は、​トト​​脫脫​​タヤン カガン​​太陽 可汗​の子と誤っている。​ケレイ​​克烈​部長​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​​アリン タイシ​​阿隣 太石​秋濤案、​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​は、​ケレイ​​克烈​​ワン カガン​​汪 可汗​の弟で、前文で​ナイマン​​乃蠻​に奔った者である。おそらく​ワン カガン​​汪 可汗​が亡くなった後、部衆はこれに身を寄せ、ゆえに​ケレイ​​克烈​部長と称したのであろう。〈底本-369 ​アリン タイシ​​阿隣 太石​は、おそらく前文の​ヂヤアガンボ​​札阿紺孛​とともに​ナイマン​​乃蠻​に奔った​ナリン​​納隣​太后であり、人名であろう。あの文の阿を誤って納とし、石を誤って后としたのである。通世案、西史は前文で​ナリン​​納鄰​とし、今は阿鄰とし、これと同じ。ただ​ヂヤカンブ​​礼罕不​がない。​ヱイラ​​猥剌​部長​フドハ ベギ​​忽都︀花 別吉​秋濤案、​フドハ ベギ​​忽都︀花 別吉​は、すでに前文の​ブイル カガン​​盃祿 可汗​が来て我が軍に攻め入ったくだりの中に見え、また後文の戊辰年(1208年)にも見え、「​オイラ​​斡亦剌​部長​フドハ ベギ​​忽都︀花 別吉​、我が先鋒に遇い、戦わずして降った」と言う。幹を斡とする。​オイラ​​斡亦剌​部は、​ヱイラ​​猥剌​部であり、音は同じで、訳字がたまたま異なる。および​ヂヤムカ​​札木合​ 通世案 西史は​ヂアヂラ​​札只剌​部長​ヂヤムカ​​札木合​とする。本書は​ヂヤムカ​​札木合​を部名としているようである。本書と元史は往往にしてこの誤りがある。​トルバン​​禿魯班​​タタル​​塔塔兒​​ハダギン​​哈荅斤​​サンヂウ​​散只兀​諸部と合流した。時に我が隊の中の一頭の白馬の帯が鞍を損なわせ、通世案、西史は「鞍が翻って腹に落ちた」と言い秘史とともに異なる。後文で見える。驚き走って​ナイマン​​乃蠻​軍を突いた。​タヤン カガン​​太陽 可汗​と人々は気づいて「かの軍の馬は弱っており、可尾而進〈[#訳せない。「後ろに進んでさしつかえない」か]〉。馬が少し穏やかになるのを待って、兵士にこれを与えて戦おう」と言った。通世案、意が整わない。西史は「モンゴルの馬はやはり痩せている。我らが軍を引けば、彼らは必ず後ろを追ってくるが、馬の力はいよいよ減る。我らが再び戦えば、必ず勝ちを手にできる」。 勇将​ホリ スバチ​​火力 速八赤​秋濤案、前文は​ホリ スバチ​​火里 速八赤​とする。「昔君父​イネン カガン​​亦年 可汗​秋濤案、前文は​イナンチ カガン​​亦難︀赤 可汗​とし、秘史は​イナンチヤ ビルゲ​​亦難︀察 必勒格​、その​タヤン カガン​​太陽 可汗​の父である。勇戦し避けなかった。士の背と馬の尻は、未だかつて人に見られたことはなかった。今何を怯えるのか。まことにこれを危ぶむならば、なぜ​グルバス​​菊兒八速​に来るよう命じないのか」と言った。原注「​タヤン カガン​​太陽 可汗​の妻である」。秋濤案、秘史は​グルベス​​古兒別速​とし、その​タヤン​​太陽​の母で、妻ではない。文田案、親征録が言う​タヤン​​太陽​の妻は、秘史が言う​タヤン​​塔陽​の母。この録が正しく秘史が誤り。​タヤン​​塔陽​は太祖と帝位を上手く争うことができた。その母も中年の人。秘史は「太祖が戦って​タヤン​​塔陽​に勝ち、これを後宮に納めた」と言う。天下に美人多く、なぜなにがなんでも老婦なのか。録はその妻と言い、この言が当を得ている。 ​タヤン カガン​​太陽 可汗​はよって軍勢を率いて来て手向かった。通世案、秘史は​ナイマン​​乃蠻​とともに兵を連ねる諸部名を載せていない。しかし叙事ははなはだ詳しい。「​チンギス​​成吉思​​ナイマン​​乃蠻​を征伐した。​ケルレン​​客魯連​河をさかのぼり、​ヂエベ​​者︀別​​クビライ​​忽必來​を先鋒として使い、​サアリ ケエル​​撒阿里 客額兒​の地に至り、​カンカルカ​​康合兒合​山にいた​ナイマン​​乃蠻​の先鋒と遇い、行き来し退けあった。隊中の騎兵が鞍を壊した白馬は、​ナイマン​​乃蠻​の人に捕らえられた。皆は「​タタ​​達達​の馬は痩せている」と言った。大軍が続いて至った。​ドダイ チエルビ​​朵歹 扯兒必​は「我が兵は少なく遠くから来た。よろしくここで馬を養い多く疑兵を設け、​サアリ​​撒阿里​の野に広げ満たし、夜に各人五か所に火を焚かせるよう命じるべきで、彼らの兵は多いといえども、その主は軟弱で、必ず驚き迷う。 このようにして我らの馬を満腹にし終えて、その後に彼らの哨兵を追い、じかに本陣にあてて、その不備を撃てば、必ず勝つ」。​チンギス​​成吉思​はこれに従った。​ナイマン​​乃蠻​の哨兵は驚いて「​タタ​​達達​の兵は少ないと聞く。焚火が星のようなのはどうしたことか」と言った。そして​タヤン​​塔陽​に知らせた。​タヤン​​塔陽​方は​カンガイ​​康孩​の地​カチル​​合池兒​川のほとりにあり、その子​グチユルク​​古出魯克​に告げさせて「​タタ​​達達​の焚火が星のようで、その兵は必ず多い。人は常に「​タタ​​達達​は眼を刺されても眼を動かさず、顎を刺されても身を避けない」と言う 今もし彼らと兵を構えれば、後は必ず解き難いであろう。 ​タタ​​達達​の馬は痩せていると聞く。私が軍勢を率いて退き、彼らを誘って金山に至れば、彼らの馬の力はいよいよ乏しい。そのあとに戻ってこれと戦えば、勝てる」と言った。​グチユルク​​古出魯克​はこれを聞いて、その父を罵り、これを婦人と比べた。​ゴリ スベチ​​豁里 速別赤​は歎いて「あなたの父​イナンチ ビルゲ​​亦難︀赤 必勒格​は敵に臨んで、士の背と馬の尻、未だかつて人に見られたことはなかった。今あなたは何に怯えるのか。すでにあなたがこのようであるのを知れば、あなたの母​グルベス​​古兒別速​、婦人といえども、軍を率いるに足りるであろう。惜しむべきは​コクセウ サブラク​​可克薛兀 撒卜剌黑​老で、我が軍の法度はすこぶる緩んでいる。これは​タタ​​達達​が天運を得ないことがあろうか」と言った。馬に跨り矢筒を叩いて去った。​タヤン​​塔陽​はこれを聞き、怒り奮い立って進み、遂に​タミル​​塔米兒​河に従って動き、​オルゴ​​斡兒豁​水を渡り、​ナク​​納忽​山の崖の東の​チヤキルマウト​​察乞兒馬兀惕​の地に至った」と言う。「​ケルレン​​客魯連​河を遡った」と言うのは、おそらく誤り。 ​トウラ​​土兀剌​河に従って動いたと言うべきなようである。​サアリ ケエル​​撒阿里 客額兒​は、竜庭の地ではない。漠北には​サアリ​​撒阿里​という名のところが多い。この​サアリ​​撒阿里​の野は、​カルハ​​喀魯哈​河の西にあるとあてる。​カンカルカ​​康合兒合​山も、河の名が名を得たことにちなむようである。​タミル​​塔米兒​河は、今は​タミル​​塔米爾​河とする。源は​クク​​枯庫​嶺の東麓を出て、東に流れ、たまって​タウルルヲク​​台魯勒倭黑​池をなし、また東北に流れ、​オルクン​​鄂爾坤​河に入る。​タヤン​​塔陽​​オルクン​​鄂爾坤​河を渡り、​ナク​​納忽​山に戦った。​ナク​​納忽​山も、​オルクン​​鄂爾坤​​カルハ​​喀魯哈​両河の間にあるとあて、​ククチロト​​庫庫赤老圖​山は南連山中をもってする。上は弟​ハツサル​​哈撒兒​の主軍をもって、自ら軍列を指揮した。通世案、秘史は「​チンギス​​成吉思​は軍を整え陣を押し出し、自ら先鋒となり、弟​カツサル​​合撒兒​が中軍を指揮し、​オチギン​​斡赤斤​が従軍する馬を管理した」と言う。 時に​ヂヤムカ​​札木合​​タヤン カガン​​太陽 可汗​に付き添い、上の軍容が厳しく整っているのを望み見て、そこで左右に語って「あなたたちは​アンダ​​案荅​の動きが秀でて優れているのを見た。​ナイマン​​乃蠻​の言葉に「革を作り損ねて皮を失っても、なお貪って捨てない」がある。なんとこれに当たるではないか」と言った。 通世案、語がすこぶる拙劣である。秘史は「あなたたちは「​タタ​​達達​を見れば、小さな黒い牡羊や子羊、蹄の皮を残さないかのようである」と重ねて言う。あなたはただいま試して見よ」。洪氏訳の​ベレジン​​伯哷津​の書は「​ナイマン​​乃蠻​は向って来て敵に臨み、「小さな牛羊を屠って、足から首筋に至るまで、あわせて皮革も残さないかのようである」と言われている。今できるかどうか試して見よ」と言う。最も筋道が通っている。元史も「​ナイマン​​乃蠻​はやっと挙兵し、モンゴル軍を見て、黒い牡羊や子羊のようである。意は蹄皮までも残さない」。語は秘史と甚だしく似ている。編者は或いは秘史を見たか。そもそも秘史の訳者は逆に元史の字を用いたか。遂にもとの部兵をたずさえて走った。通世案、秘史のこのくだりは、​タヤン​​塔陽​​ヂヤムカ​​札木合​の問荅を述べる。伝奇小説を読むかのようである。​ヂヤムカ​​札木合​といえども太祖に敵せず、もとより太祖の英武に心服し、​タヤン​​塔陽​に対して​タタ​​達達​の勇猛無敵を誇った。その供述は我が斉藤実盛の平氏軍中にあって、坂東武士の勇を誇るかのようである。​ヂヤムカ​​札木合​​タヤン​​塔陽​に答え終え、遂にはその語を太祖に告げる使いを遣わし、「​タヤン​​塔陽​はこれを聞き、驚き恐れ乱れ迷い、あわてて退き山を登り、戦う意志をことごとく無くした。私はすでに彼を棄てて去った。​アンダ​​安答​よ励め」と言った。末の一節は​ヂヤムカ​​札木合​が捕らえられた後のあまたの問答を生む。史録すべてがこれらの語を省いたのは、惜しむべきである。この日、上とこれの大戦は夕方に至り、​タヤン カガン​​太陽 可汗​を捕らえて殺した。​ナイマン​​乃蠻​勢は潰え、夜に険しい所に走り、​ナク​​納忽​崖を落ちた者は、数えあげられなかった。日が明けて、残りの人々がことごとく降った。 通世案、秘史は「太祖は日の光の色が夕方になるのを見て、​ナク​​納忽​山を囲んで宿った。その夜​ナイマン​​乃蠻​は遁れようと望み云云。日が明けて、​タヤン​​塔陽​を捕らえてとどめた。その子​グチユルク​​古出魯克​は、一所にいなかったことで、抜け出すことができ、わずかの人を連れて逃げ、軍が追いかけてくるのを見て、​タミル​​塔米兒​河に拠った宿営は定らず、再び走った。​アルタイ​​阿勒台​山の前まで襲って至り、勢いはますます苦しく行き詰まり、遂に将兵をことごとく捕らえた」。西史も​タヤン​​太陽​が重傷で起きられず、​ホリ スバチ​​火力 速八赤​らがこれを励まし、応えなかったと述べる。諸将は遂にみな下山し力戦して死に、​チンギス​​成吉思​はその勇を褒めたなどとする。これも秘史と本書はともに載せていないのである。これにおいて​トルバン​​禿魯班​​タタル​​塔塔兒​​ハダギン​​哈荅斤​​サンヂウ​​散只兀​諸部も〈底本-370来降し通世案、秘史は「​ヂヤムカ​​札木合​と一緒にいた​タタ​​達達​​ヂヤダラン​​札荅闌​​カタギン​​合塔斤​などの種も、またすべて来て投降した」とする。​ヂヤダラン​​札荅闌​の字が少ないのは良くない。



〈史45-168下15冬,再征脫脫,至迭兒惡河源不剌納矮胡之地

冬再征脫脫、通世案、祕史云「秋、太祖︀與蔑兒乞脫黑脫阿、戰於合剌荅勒忽札兀剌之地敗之、追至撒阿里客額兒之地、虜︀其衆。脫黑脫阿同二子忽都︀赤剌溫、領從者︀數人走去」。至迭兒惡河源不剌納矮胡之地。通世案、伯哷津作塔兒河。兀花思蔑兒乞部長帶兒兀孫、兒兀原倒置。秋濤案、祕史作豁阿思蔑兒乞種的人荅亦兒兀孫。據此、應作帶兒兀孫。曾植案、此三種蔑兒乞之一、卽祕史卷三之兀洼思歹亦兒兀孫也。通世案、下文作帶兒兀孫、因乙兀兒。獻女忽蘭哈敦於上、秋濤案、忽蘭、祕史作忽闌。哈敦原作吟敕、秋濤校改。率眾來降。爲彼力弱、散置諸︀翼中、室壩之。秋濤案、此句未詳、疑有脫文。據祕史、獻女之荅亦兒兀孫、〈東方學デジタル圖書館-64未嘗復叛。叛者︀、乃蔑里乞之他部也。與之𮞉異。通世案、西史云「帶兒兀孫謂「部衆無馬、不能從征」。成吉思令散其衆於輜重後營、每營百人以分其勢」。其人頗不安、復同叛、𤰛復輜重。秋濤案、𤰛字、字書所無、疑有缺誤。曾植案、此𤰛字當是略字。我兵與戰復奪之。通世案、祕史云「先投降的蔑兒乞在老營內反了、被在營內家人戰勝。成吉思說「敎他在一處、他又反」。就敎各人盡數分了」。據本書西史、則先分而後反也、據祕史則先反而後分也。不知孰是。上進兵圍蔑兒乞於泰安寨、寨原作塞。秋濤案、元史本紀、作泰寒寨。通世案、祕史蒙文作台合勒豁兒合、譯文作台合勒山寨、西史作台合勒忽兒罕。塞當作寨。盡降麥古丹・脫里孛斤・蔑兒乞諸︀部而還。通世案、伯哷津作「盡取麥端・脫塔哈林・哈俺諸︀衆、皆蔑兒乞部人」。洪氏曰「麥端卽麥古丹、脫塔哈林當卽脫里孛斤之訛。哈俺無考。多遜作支恒。案元史牙忽都︀傳、娶察渾滅里乞氏。察渾支恒音近、或卽此族」。部長脫脫挾其下闕一字。通世案、西史有子字、當補。奔盃祿可汗盃原作盈、秋濤校改。案、本紀「已而復征蔑兒乞部。其長脫脫奔太陽罕之兄卜魯欲罕」。卜魯欲罕、卽盃祿可汗也。帶兒兀孫旣叛、率餘累至薛良葛河祕史有薛涼格河、卽此。秋濤案、當卽今之色楞格河。洽剌溫隘通世案、伯哷津作色楞格洪氏曰河濱呼魯哈卜察。「卽錄之洽剌溫。哈卜察、義謂隘也。呼魯與洽剌音異、疑洽爲哈之訛」。案此哈剌溫隘、與土兀剌河濱之黑林異。築室以居。通世案、據西史、室當作寨。上遣孛羅歡那顏及赤老溫拔都︀弟闖拜二人、都︀原作相、秋濤校改。案、闖拜、祕史作沈白、又作沈伯。通世案、孛羅歡那顏、卽前博羅渾那顏。西史作孛兒忽勒諾顏。祕史不載領右軍、討平之。通世案、據祕史、則沈白領右手軍攻破者︀、台合勒寨、而無帶兒兀孫據哈剌溫隘之事。與本書稍異。又云「成吉思自去追襲脫黑脫阿、到金山、住過冬。明年春、踰阿來嶺去」。此事、本書不載。又云「適乃蠻古出魯克與脫黑脫阿相合了、於額兒的失不黑都︀兒麻地面根源行、整治軍馬」。是本書丙寅年事也。又云「成吉思至其地、與他厮殺︀。脫黑脫阿中亂箭死了云云」。是本書戊辰年事也。祕史之文、似終言後事矣。

訳文 六六-六七

その冬再び​トト​​脫脫​を征伐し、通世案、秘史は「秋、太祖は​メルキ​​蔑兒乞​ ​トクトア​​脫黑脫阿​と、​カラダル クヂヤウラ​​合剌荅勒 忽札兀剌​の地で戦いこれを破り、追って​サアリ ケエル​​撒阿里 客額兒​の地に至り、その人々を捕らえた。​トクトア​​脫黑脫阿​と同二子​クド​​忽都︀​ ​チラウン​​赤剌溫​は、従者数人を連れて走り去った」と言う。​デルオ​​迭兒惡​河源の​ブラナアイフ​​不剌納矮胡​の地に至った。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​タル​​塔兒​河とする。​ウハス メルキ​​兀花思 蔑兒乞​部長​ダイルウスン​​帶兒兀孫​は、児兀は原書では倒置している。秋濤案、秘史は​ゴアス メルキ​​豁阿思 蔑兒乞​種の人​ダイルウスン​​荅亦兒兀孫​とする。これに拠って、​ダイルウスン​​帶兒兀孫​とあてる。曽植案、この三種の​メルキ​​蔑兒乞​のひとつが、秘史巻三の​ウワス​​兀洼思​ ​ダイイルウスン​​歹亦兒兀孫​である。通世案、後文は​ダイルウスン​​帶兒兀孫​とし、因乙兀児〈[#訳せない。「何らかの名詞​イウル​​乙兀兒​に因む」か]〉​フラン ハトン​​忽蘭 哈敦​を上に献じ、秋濤案、​フラン​​忽蘭​は、秘史は​クラン​​忽闌​とする。​ハトン​​哈敦​は原書では吟勅とし、秋濤が校改する。人々を率いて来降した。彼の力を弱めて、諸翼の中に散らせ置き、室壩之〈[#訳せない。「壩」は水をせき止める堰の意。「これを家の守備とした」か]〉秋濤案、この句はまだ詳しくわからず、おそらく脱文がある。秘史に拠ると、娘を献じた​ダイルウスン​​荅亦兒兀孫​は、まだ再び叛いていなかった。叛いた者は、その​メリキ​​蔑里乞​の他の部である。これとともに謀叛した。通世案、西史は「​ダイルウスン​​帶兒兀孫​は「部衆は馬がなく、征伐に従えなかった」と言う。​チンギス​​成吉思​はその衆を輜重と後営に散らし、営ごとに百人ずつその勢を分けるよう命じた」と言う。その人々はすこぶる不安がり、再びともに叛き、再び輜重に留まった。秋濤案、𤰛の字は、字典になく、欠けて誤りがあるかもしれない。曽植案、この𤰛の字は略字とする。我が兵と戦い再びこれを奪った。通世案、秘史は「先に投降した​メルキ​​蔑兒乞​が老営内で背いて、在営内にいた家人は戦いに勝たれた。 ​チンギス​​成吉思​は「彼らを一所におけば、彼らはまた叛く」と言った。各人をいくつかに分けさせた」と言う。本書と西史に拠れば、先に分けて後で叛かれ、秘史に拠れば先に叛かれ後に分けるのである。いずれが正しいのかわからない。上は兵を進め​メルキ​​蔑兒乞​​タイアン​​泰安​寨で囲み、寨は原書では塞。秋濤案、元史 本紀は、​タイハン​​泰寒​寨とする。通世案、秘史蒙文は​タイカル ゴルカ​​台合勒 豁兒合​とし、訳文は​タイカル​​台合勒​山寨とし、西史は​タイカル クルカン​​台合勒 忽兒罕​とする。塞を寨とする。​メグダン​​麥古丹​​トリボギン​​脫里孛斤​​メルキ​​蔑兒乞​諸部をことごとく降して帰った。 通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「​メドン​​麥端​​トタハリン​​脫塔哈林​​ハアン​​哈俺​諸衆をことごとく取り、みな​メルキ​​蔑兒乞​部人」とする。洪氏は「​メドン​​麥端​​メグダン​​麥古丹​であり、​トタハリン​​脫塔哈林​​トリボギン​​脫里孛斤​の転訛である。​ハアン​​哈俺​は考えがない。​ドーソン​​多遜​​チヘン​​支恒​とする。元史​ナフド​​牙忽都︀​伝を調べると、​チヤフン メリキ​​察渾 滅里乞​氏を娶っている。​チヤフン​​察渾​​チヘン​​支恒​は音が近く、あるいはこの一族」と言う。部長​トト​​脫脫​はそれを抱えて下が一字欠けている。通世案、西史は子の字があり、補い当てる。​ブイル カガン​​盃祿 可汗​に奔り盃は原書では盈、秋濤が校改する。案、元史 本紀「ゆえに再び​メルキ​​蔑兒乞​部を征伐した。その長​トト​​脫脫​​タヤン カン​​太陽 ​罕の兄​ブルユ カン​​卜魯欲 罕​に奔った」。​ブルユ カン​​卜魯欲 罕​は、​ブイル カガン​​盃祿 可汗​である。​ダイルウスン​​帶兒兀孫​はやがて叛き、残っていた家来を率いて​セリヤンゲ​​薛良葛​河に至り 秘史に​セレンゲ​​薛涼格​河があり、つまりこれである。秋濤案、今の​セレンゲ​​色楞格​河とする。​キヤラウン​​洽剌溫​の狭間通世案、​ベレジン​​伯哷津​​セレンゲ​​色楞格​とし洪氏は河浜​フルハブチヤ​​呼魯哈卜察​を「つまり録の​キヤラウン​​洽剌溫​である。​ハブチヤ​​哈卜察​は、義は狭間と言う。​フル​​呼魯​​キヤラ​​洽剌​は音が異なり、おそらく治は哈の誤りであろう」と言う。この​ハラウン​​哈剌溫​の狭間を考えると、​トウラ​​土兀剌​河のほとりの黒林とは異なる。に家を築いて住んだ。通世案、西史に拠って、室は寨とする。上は​ボロホン ノヤン​​孛羅歡 那顏​および​チラウン バード​​赤老溫 拔都︀​の弟​チンハイ​​闖拜​の二人を遣わし、都は原書では相、秋濤が校改する。案、​チンハイ​​闖拜​は、秘史は​チンベ​​沈白​とし、また​チンベ​​沈伯​とする。通世案、​ボロホン ノヤン​​孛羅歡 那顏​は、前文の​ボロフン ノヤン​​博羅渾 那顏​である。西史は​ボルフル ノヤン​​孛兒忽勒 諾顏​とする。秘史は載せていない右軍を率いて、これを討ち平らげた。 通世案、秘史に拠ると、​チンベ​​沈白​が右手軍を率いて攻め破ったのは、​タイカル​​台合勒​寨で、​ハラウン​​哈剌溫​の狭間にたてこもった​ダイルウスン​​帶兒兀孫​の事ではない。本書とやや異なる。また「​チンギス​​成吉思​自ら行って​トクトア​​脫黑脫阿​を追い襲い、金山に到り、住んで冬を過ごした。年が明けた春、​アライ​​阿來​嶺を越えて去った」と言う。この事、本書は載せていない。又「ちょうどそこで​ナイマン​​乃蠻​ ​グチユルク​​古出魯克​​トクトア​​脫黑脫阿​が合流し、​エルチシ​​額兒的失​ ​ブクドルマ​​不黑都︀兒麻​河の源で、軍馬を整えた」と言う。これは本書の丙寅年(1206年)の事である。また「​チンギス​​成吉思​はその地に至り、彼らと殺し合った。​トクトア​​脫黑脫阿​は矢が集中して死んだ〈[#「乱箭」は流れ矢ではなく弓矢による集中攻撃の意]〉」と言う。これは本書の戊辰年(1208年)の事である。秘史の文は、終わりの言葉は後文の事のようである。



〈史45-168下23乙丑,征西夏,攻破力吉里寨,經落思城,大掠人民,多獲橐駝以還

乙丑、〈東方學デジタル圖書館-65秋濤案、宋開禧元年、金泰和五年。通世案、祕史、牛兒年、太祖︀造一鐵車賜速別額台、命窮追脫黑脫阿子忽都︀等、期必剿誅之、且誡勅行軍之道。考東西諸︀史、此事在太祖︀十二年丁丑歲。葢蒙古用年支、不用年干、故紀年易誤、遂以丁丑爲乙丑也。次敍札木合被執、從容就死事、詳載太祖︀札木合問答。葢二人幼爲親友、長爲仇敵。雖數相見於干戈之間、然互稱安答、終身不渝。不似張耳陳餘、怨隙一開、變爲路人。而札木合自知其罪、重耻安命、亦有足多者︀。如太祖︀誅札木合叛奴、則與前褒納牙阿、刑賞兩中、誠協君道、可比漢︀高赦季布、而誅丁公。至太祖︀所以遇札木合、則寬仁大度、由義遵禮、最愈漢︀高待田橫。是等美談、史錄不載、可惜。征西夏、攻破力吉里寨・經落思城、通世案、伯哷津作乞鄰古撒城、音不近。然經卽乞鄰之合音。舊讀以爲虗字、恐誤。據西史、二城皆攻而下之、不可言經。大掠人民、多獲槖駝以還。曾植案、力吉里寨、當作也吉里寨。卽曷思麥里傳之也吉里海︀牙、河源附錄之應吉里州也。力是也之壞字。此時克而未守、丙戌再〈底本-371 取之。

訳文 六七-六八

乙丑(1205年)、秋濤案、宋 開禧 元年、金 泰和 五年。通世案、秘史、牛児年、太祖はひとつの鉄車を造り​スベエタイ​​速別額台​に与え、​トクトア​​脫黑脫阿​の子​クド​​忽都︀​らをどこまでも追いつめるよう命じ、必ずこれを滅ぼし、かつ誡勅行軍之道〈[#訳せない。「行軍の手引きを命じていましめた」か]〉。東西諸史を調べると、この事は太祖 十二年 丁丑(1217年)にあった。おそらくモンゴルは十二支を用い、十干を用いず、ゆえに紀年が誤りやすく、ついに丁丑(1217年)を乙丑(1205年)としたのである。次に​ヂヤムカ​​札木合​が捕らえられ、従容として死に就いた事を述べ、太祖と​ヂヤムカ​​札木合​の問答を詳しく載せる。おそらく二人は幼いころ親友となり、長じて仇敵となった。干戈の間に相まみえること数度といえども、互いを​アンダ​​安答​と称し、生涯変わらなかった。張耳と陳余のようではなく、仲が悪くなるや、赤の他人へと変わった。​ヂヤムカ​​札木合​自らその罪を知り、重く恥じて運命に安んじ、ほめるに足る者でもあった。太祖が​ヂヤムカ​​札木合​に叛いた下僕を誅し、および前文で​ナヤア​​納牙阿​をほめたように、刑賞ふたつは適っており、誠が君道に適い、漢の高祖が季布を赦し、丁公を誅したことに比べるに値する。太祖の所に至り​ヂヤムカ​​札木合​を遇するに、心が広く大らかで、義に由り礼に従い、最もますます漢の高祖が田横を待つ。これらの美談は、史録は載せず、惜しむべきである。 西夏を征伐し、​リギリ​​力吉里​寨・​ヂンラオス​​經落思​城を攻め破り、通世案、​ベレジン​​伯哷津​​キリングサ​​乞鄰古撒​城とし、音は近くない。であれば​ヂン​​經​​キリン​​乞鄰​の合音である。古い読みで虚字とするのは、おそらく誤りである。西史に拠れば、二城ともに攻めこれを下し、経と言うべきではない。大いに人民を掠め、多くの駱駝を捕らえて帰った。曽植案、​リギリ​​力吉里​寨は、​エギリ​​也吉里​寨とする。これは​フス メリ​​曷思 麥里​伝の​エギリハイヤ​​也吉里海︀牙​で、元史 河源附録の​インギリ​​應吉里​州である。力は也の壊れ字である。この時は勝って守っておらず、丙戌(1226年)に再びこれを取り上げる。〈底本-371



〈史45-169上1丙寅,大會諸王百官于斡難河之源,建九游之白旂,共上尊號曰成吉思皇帝

丙寅、秋濤案、是年爲元太祖︀稱帝之元年。今逐年甲子下增注之、以便稽攷。時宋寗宗開禧二年。本紀云「是歲、實金泰和之六年也」。大會諸︀王百官於斡難︀河之源、建九斿之白旗、通世案、祕史作九腳白旄纛。蓋纛竿九腳、各繫一自旄、非九斿、亦非白旗也。蒙古源流有九烏爾魯克之稱、謂親軍九隊之帥也。西人據源流蒙文、擧九帥之名、曰博郭爾濟、博羅郭勒、托爾干沙剌、摩和賚、者︀別、蘇伯格特依、濟勒墨︀、錫吉呼圖克、哈剌乞拉果。霍渥兒特因謂「建一大纛、以九白施重繫之、以表九烏爾魯克」。考九烏爾魯克之稱、他書無所見。然白旄之必用九、當有其由、而他無解義。故姑附記、以備參考。共上尊號曰成吉思皇帝。通世案、祕史、阿勒壇・忽察兒・撒察別乞等相議、立太祖︀爲皇帝、號成吉思、在十三翼戰之前。至是又云「成吉思旣將衆部落百姓收捕了。虎兒年、於斡難︀河源頭、建九腳白旄纛、做皇帝」。說者︀疑其再卽位。然創業開國之君、再擧騰極之典、古今屢見其例。晋末羣雄、多初稱天王後稱皇帝者︀。後魏道武帝初稱魏王、建元登國、後稱皇帝。遼太祖︀初嗣契丹可汗之位、後稱天皇王、建元神︀册。淸太祖︀稱滿洲國可汗、建元天命。太宗繼之、改元天聰、後稱大淸皇帝、改元崇德。是皆初爲小國之主、後爲大國之主也。錢竹亭曰「紀但云「丙寅歲、羣臣上尊號、曰成吉思皇帝」、不知成吉思之號、蓋已久矣。先稱合罕者︀、一部之主。後稱皇帝、乃爲群部之主。豈可略稱罕一節︀而不書乎」。此說得之。又案、蒙古源流云「戊戌年、特穆津年十七歲、布爾德哈屯甫十三歲、遂爾匹配。特穆津年至二十八、歲次己酉、于克魯倫河北郊卽汗位、稱索多博克達靑吉斯汗」。據此、則太祖︀以金世宗大定十八年娶元妃、以大定廿九年卽汗位。是時太祖︀居客魯連河源不兒吉崖、故云卽位于克魯倫河北郊。非謂斡難︀河源之大會也。源流叙事、固多荒誕、紀年亦槪不足據。然此二事則無所乖忤、足以補祕史之闕矣。洪氏乃謂「源流固爲囈語、祕史亦屬妄談」、非篤論也。其後「歲次戊辰、年四十七歲、以九烏爾魯克以下、倶爲國效力、著︀有勳勞、編次美號顯爵重賞厚祿、以施行賞」、則祕史九十五功臣受賞之事、而其年則差二年。至己酉以來二十年間事蹟、則皆與祕史史錄多不合。又案、志費尼之書云「嘗遇蒙古人知掌故者︀、吿我「昔時有闊闊出、其人似有前知。冬令極寒時、裸體而行、大呼於途、謂「聞天語、將卑帖木眞以天下」」」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉。喇施特云「蒙力克額赤格之子闊闊出、好言休咎、形如狂。衆稱之曰帖卜騰格理。揚言於衆、曰「今已勝許多古兒汗。古兒汗名卑不足稱。皇天賜以成吉思汗之號」。衆從之。成爲堅强之義、吉思爲衆數。世或訛傳「平王汗後、卽稱成吉思汗」。然蒙古國史、實載於平乃蠻後虎年卽位時也」。源流云「前三日每朝、室前方石上、有五色鳥、鳴云靑吉斯靑吉斯。遂叶其祥︀、號稱索多博克達靑吉斯汗。其石忽然開裂、內有一玉寶印、方廣倶五寸許。背爲龜鈕盤龍條、鐫有篆字云云」。考成吉思之號、亦不過猶稱古兒汗而已、非有深義。太祖︀僅襲蒙古合罕之位、己用其號。至丙寅之大會、則所重不在名號、而在論功行賞、制定法度也。祕史謂「太祖︀命孛斡兒出・木合黎・納牙爲右手左手中軍萬戶、功臣九十五人、皆爲千戶、增設宿衞護衞將士、定揀選給養之法、明其職掌、嚴其賞罰」。其奬慰誡飾羣臣、尤極親切篤摯。是在蒙古史中、可比典謨者︀、而元之基業、於是始定矣。後來定此年爲太祖︀紀元者︀、蓋以此也。今史錄失載此建國之大事、而唯記尊號一節︀。疎漏之甚。復發兵征乃蠻。盃祿可汗飛獵於兀魯塔山莎合水上、擒之。張石州曰「紀作「帝旣卽位、復征乃蠻。時卜魯欲罕獵於兀魯塔山、擒之」。蓋卜魯欲罕、卽盃祿可汗、而「水上擒之」一語、又此書之加詳也」。通世案、伯哷津作「卜欲魯克獵飛鳥於兀魯黑塔克山下莎酌河上。兵至殺︀之」。洪氏曰「飛獵二字、得此始解」。祕史卷六、有兀魯黑塔黑地面溑豁黑水、見前征盃祿可汗條注、卽此兀魯塔山莎合水也。霍渥兒特曰「兀魯黑塔克、猶言大山、謂阿爾泰山也」。又案、祕史不載不亦魯黑破擒之事。乞溼泐巴失戰後、不亦魯黑之名不復見。志費尼述古出魯克・托克塔西走之事、亦不言奔卜欲魯克汗。是時太陽可汗子屈出律可汗、秋濤案、後倶作曲出律、本紀作屈出律罕。與脫脫遁走、奔也兒的石河。 秋濤案、祕史作額兒的失河。通世案、祕史云「成吉思自去追襲脫黑脫阿、到金山、住過冬、明年春、踰阿來嶺去。適乃蠻古出魯克與脫黑脫阿〈[#「阿」は底本では「河」]〉相合了、於額兒的失不黑都︀兒麻地面根源行、整治軍馬」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉。明年謂前年乙丑歲也。洪氏曰「也兒的石河、卽額爾齊斯河。案額爾齊斯上游、有華額爾齊斯、喀剌額爾齊斯。華言黃、喀剌言黑。黃黑二水合流、則爲額爾齊斯河。光緖九年、中俄科布多界約、有黑伊爾特什河、卽喀剌額爾齊斯河。伊爾特什與也兒的石音合。據此以觀、則額爾齊斯河、亦必稱爲也兒的石。今西國圖、卽作伊爾帖石」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉〈底本-372

訳文 六八-六九

丙寅(1206年)、秋濤案、この年は元朝の太祖を帝と称した元年とされる。今や年ごとの干支の下にこれを増注し、検証に都合が良い。時に宋 寧宗 開禧 二年。元史 本紀は「この年、実に金 泰和の六年である」と言う。諸王百官が​オナン​​斡難︀​河の源で大会を開き、九つの吹流しの白旗を立て、通世案、秘史は九脚の白い毛の飾りがついた纛とする。思うに纛の竿は九脚、各々ひとつの毛の飾りが繋がれ、九つの吹流しではなく、白旗でもない。蒙古源流に九つの​ウルルク​​烏爾魯克​の名称があり、親軍九隊の隊長を言う。西人は源流蒙文に拠り、九師の名を挙げ、​ボゴルヂ​​博郭爾濟​​ボロゴル​​博羅郭勒​​トルガン シヤラ​​托爾干 沙剌​​マホライ​​摩和賚​​ヂエベ​​者︀別​​スベゲデイ​​蘇伯格特依​​ヂルメ​​濟勒墨︀​​シギ フトク​​錫吉 呼圖克​​ハラキラゴ​​哈剌乞拉果​と言う。​ホヲルト​​霍渥兒特​はふまえて「ひとつの大きな纛を立て、九つの白施を重ねてこれに繋き、もって九つの​ウルルク​​烏爾魯克​を表した」と言う。九つの​ウルルク​​烏爾魯克​の名称を調べると、他の書には見えるところがない。白旄に必ず九つを用いる、その理由があるが、彼は意味を解き明かすことを軽んじている。ゆえにとりあえず附記し、参考に備える。ともに上の尊号を​チンギス​​成吉思​皇帝と名付けた。 通世案、秘史は、​アルタン​​阿勒壇​​クチヤル​​忽察兒​​サチヤ ベキ​​撒察 別乞​などが相談して、太祖を皇帝に立てて、​チンギス​​成吉思​と号したことは、十三翼戦の前にある。ここに至ってまた「​チンギス​​成吉思​は将兵や部民をことごとく捕らえた。寅年に、​オナン​​斡難︀​河の源頭で、九脚の白旄纛を立て、皇帝となった」と言う。言わんとするところはおそらくその再即位であろう。このように創業開国の君が、再び即位の式典を挙げるのは、古今にしばしばその例が見える。晋末の群雄は、多くが初めに天王を称してのちに皇帝を称した。後魏の道武帝は初めに魏王を称し、登国という年号を定めて、あとから皇帝を称した。遼の太祖は初め​キダン カガン​​契丹 可汗​の位を継ぎ、後に天皇王と称し、神冊という年号を定めた。淸の太祖は​マンヂウグオ カガン​​滿洲國 可汗​を称し、天命という年号を定めた。太宗はこれを継ぎ、天聡と改元し、あとから大淸皇帝を称し、崇徳と改元した。これはみな初めに小国の主となり、のちに大国の主となった。銭竹亭は「元史の紀はただ「丙寅歳(1206年)、羣臣が尊号をたてまつり、​チンギス​​成吉思​皇帝と名付けた」と言い、​チンギス​​成吉思​の号が知られないことが、おそらくすでに久しかったのであろう。さきに​カガン​​合罕​を称した者は、一部の主である。のちに皇帝を称し、はじめて群部の主となった。どうして罕の一節を略して書かないことがあろうか」と言う。この説は合っている。又案、蒙古源流は「戊戌年(1178年)、​テムヂン​​特穆津​は十七歳、​ブルデ ハトン​​布爾德 哈屯​はやっと十三歳で、遂にこれ夫婦となった。​テムヂン​​特穆津​は二十八才になり、干支が己酉(1189年)の年に、​ケルルン​​克魯倫​河の北のはずれで汗の位についた、​ソド ボグダ チンギス カン​​索多 博克達 靑吉斯 汗​と称した」と言う。これに拠れば、太祖は金 世宗 大定 十八年に第一夫人を娶り、大定 二十九年に汗の位についた。この時に太祖は​ケルレン​​客魯連​河源の​ブルギ​​不兒吉​崖にいて、ゆえに​ケルルン​​克魯倫​河の北のはずれで即位したとする。言うところの​オナン​​斡難︀​河源の大会ではない。蒙古源流の叙事は、言うまでもなくでたらめが多く、紀年もおおむね根拠が不足している。だがこの二つ事は食い違う所がなく、秘史の欠落を補うに足る。洪氏はしかし「蒙古源流はまことにたわ言であり、秘史も妄談に属する」と言い、的確な評論ではない。 その後「干支が戊辰(1208年)の年、四十七歳で、九つの​ウルルク​​烏爾魯克​をもって命令を下すに、ともに国を作り力を尽くし、功労が著しい者を、美号と爵位と重賞と厚禄を集めて序列し、褒美を与えた」、とあるのは秘史の九十五功臣の受賞の事で、その年は二年の差がある。己酉(1189年)から二十年間に至る事蹟は、みな秘史や史録と合わないことが多い。又案、​ヂヹニ​​志費尼​の書は「かつて故事を司るモンゴル人に出会い、私に「むかし​ココチユ​​闊闊出​がいて、その人は予知能力があったようである。冬季の極寒の時、裸体になって歩き、道で大声で、「天の言葉を聞くに、まさにいやしくも帖木真に天下を率いさせんとす」と叫んだ」と告げた」と言う。​ラシツド​​喇施特​は「​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​の子​ココチユ​​闊闊出​は、吉凶の言葉を好み、顔立ちは狂っているようであった。人々はこれを称して​テブテンゲリ​​帖卜騰格理​と言った。人々に言いふらして、「今すでに​グル カン​​古兒 汗​にあまた勝った。​グル カン​​古兒 汗​の名はいやしくも称するに足りない。大いなる天は​チンギス カン​​成吉思 汗​の号を与える」と言った。人々はこれに従った。 ​チン​​成​は堅く強いの義とし、​ギス​​吉思​は数が多いとする。世にはあるいは誤って「​ワンカン​​王汗​を平らげた後、ただちに​チンギス カン​​成吉思 汗​を称した」と伝わった。そしてモンゴル国史は、まさに​ナイマン​​乃蠻​を平らげた後の虎年が即位の時であると載せている」と言う。蒙古源流は「むかし三日間毎朝、家の前方の石の上に、五色の鳥がいて、​チンギス​​靑吉斯​​チンギス​​靑吉斯​と言って鳴いた。遂にそのめでたいことが叶い、呼び名を​ソド ボグダ チンギス カン​​索多 博克達 靑吉斯 汗​と称した。その石はたちまち裂け開き、内にひとつの玉宝印があり、四角で縦横ともに五寸ほどの長さだった。背には亀のつまみと竜のすじが施され、篆書体の字が彫られ云云」。​チンギス​​成吉思​の号を考えると、ただ​グル カン​​古兒 汗​を称したようなことに過ぎずもはや、深い義はない。太祖がやっとモンゴルの​カガン​​合罕​の位を継いで、自らその号を用いた。 丙寅(1206年)の大会に至り、要職に名前がなく、だから論功行賞と法度の制定があったのである。秘史は「太祖は命じて​ボオルチユ​​孛斡兒出​​ムカリ​​木合黎​​ナヤ​​納牙​を右手左手の中軍で万戸とし、功臣九十五人は、みな千戸とし、宿衛 護衛 将士を増設し、食糧や飼料を選り分ける法を定め、その職務担当者を明らかにし、その賞罰を厳しく言った」とする。それが羣臣を褒め慰め戒めることは、もっともこのうえなく適合し実直である。これはモンゴルの歴史の中にあって、比べるべき手本はなく、元朝の基礎となる事業は、これにおいて初めて定まったのである。のちにこの年が太祖の紀元とされたのは、おそらくこれが理由である。今や元史と親征録はこの建国の大事を載せ忘れ、ただ尊号の一節を記す。手抜かりなこと甚だしい。再び兵を起こし​ナイマン​​乃蠻​を征伐した。​ブイル カガン​​盃祿 可汗​​ウルタ​​兀魯塔​​シヨカ​​莎合​川のほとりまで飛ばして狩りをしていたのを、これを捕らえた。 張石州は「元史 紀は「帝はすでに即位し、再び​ナイマン​​乃蠻​を征伐した。時に​ブルユ カン​​卜魯欲 罕​​ウルタ​​兀魯塔​山で狩りをしていたのを、これを捕らえた」とする。おそらく​ブルユ カン​​卜魯欲 罕​は、​ブイル カガン​​盃祿 可汗​であり、「川のほとりでこれを捕らえた」の一語も、この書で加わった偽りであろう」と言う。通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「​ブユルク​​卜欲魯克​​ウルクタク​​兀魯黑塔克​山の下の​シヨチヨ​​莎酌​河のほとりで鳥を飛ばして狩りしていた。兵が至りこれを殺した」とする。洪氏は「飛猟の二字は、これで始めて解けた」と言う。秘史巻六は、​ウルクタク​​兀魯黑塔黑​の地の​ソゴク​​溑豁黑​水があり、前文の​ブイル カガン​​盃祿 可汗​征伐のくだりの注を見ると、ほかでもなくこの​ウルタ​​兀魯塔​​シヨカ​​莎合​川である。​ホヲルト​​霍渥兒特​は「​ウルクタク​​兀魯黑塔克​は、大きな山と言うようなもので、​アルタイ​​阿爾泰​山を言う」。又案、秘史は​ブイルク​​不亦魯黑​を破りこれを捕らえた事を載せていない。​キシルバシ​​乞溼泐巴失​戦の後、​ブイルク​​不亦魯黑​の名は再び見えない。​ヂヹニ​​志費尼​​グチユルク​​古出魯克​​トクタ​​托克塔​が西に走った事を述べ、また​ブユルク カン​​卜欲魯克 汗​に奔ったと言わない。この時​タヤン カガン​​太陽 可汗​の子​クチユル カガン​​屈出律 可汗​は、秋濤案、後文はみな​クチユル​​曲出律​とし、元史 本紀は​クチユル カン​​屈出律 罕​とする。​トト​​脫脫​とともに遁走し、​エルチシ​​也兒的石​河に奔った。 秋濤案、秘史は​エルチシ​​額兒的失​河とする。通世案、秘史は「​チンギス​​成吉思​自ら行って​トクトア​​脫黑脫阿​を追い襲い、金山に到り、留まって冬を過ごし、明くる年の春、​アライ​​阿來​嶺を越えて去った。ちょうどそこで​ナイマン​​乃蠻​​グチユルク​​古出魯克​​トクトア​​脫黑脫阿​が合流し、​エルチシ​​額兒的失​ ​ブクドルマ​​不黑都︀兒麻​河の源で、軍馬を整えた」と言う。明くる年は前年の乙丑歳(1205年)を言う。洪氏は「​エルチシ​​也兒的石​河は、​エルチス​​額爾齊斯​河である。​エルチス​​額爾齊斯​の上流を調べると、​ホアエルチス​​華額爾齊斯​​カラエルチス​​喀剌額爾齊斯​がある。​ホア​​華​は黄を言い、​カラ​​喀剌​は黒を言う。黄と黒の二つの川が合流し、​エルチス​​額爾齊斯​河となる。光緒 九年(1883年)、中俄​コブド​​科布多​界約〈[#「中俄科布多界約」は中ロ間で結ばれた国境協定]〉には、黒​イルデシ​​伊爾特什​河、つまり​カラエルチス​​喀剌額爾齊斯​河がある。​イルデシ​​伊爾特什​​エルチシ​​也兒的石​は音が合う。これに拠って見ると、​エルチス​​額爾齊斯​河も、必ずや​エルチシ​​也兒的石​と称する。今の西方の国の地図は、​イルテシ​​伊爾帖石​とする」と言う。〈底本-372



〈史45-169上5丁卯夏,頓兵。秋,再征西夏。冬,克幹羅汝城。先遣按彈、不兀剌二人使乞力吉思部

丁卯二年、宋開禧三年、金泰和七年。夏、頓。此下有脫字、秋濤校補「兵避暑︀」三字。通世案、何氏葢依壬戌夏之例也。〈東方學デジタル圖書館-66秋、再征西夏。冬、克斡羅孩城。斡原作幹。通世據元史改。西史云「兔年秋、以合申不納貢、不奉約束、再征之、攻下各城」。合申卽河西之轉、謂西夏也。通世案、元史作是歲、西史作是役之先。遣案彈不兀剌二人曾植案、不兀剌、祕史作不合、卽九十五功臣中之不合駙馬也。通世案、伯哷津作阿勒壇布喇二人。布喇奉使、與不合引路異。不合、本書作不花、見戊寅大太子北征條。使乞力吉思部。其長斡羅思亦難︀及阿忒里剌二人、偕我使來、獻白海︀靑名鷹也。秋濤案、本紀云「是歲、遣案彈不兀剌二人使乞力吉思。旣而野牒亦納里部、阿里替也兒部、皆遣使來獻名鷹」。是獻鷹者︀、他部之人、非乞力吉思部長也。二說互異、未詳孰是。曾植案、本紀野牒亦納里・卽祕史萬乞兒吉思種之官人也迪亦納勒也。此之亦難︀、葢卽其人。阿忒里剌、疑當作阿里忒剌、卽阿里替也兒、皆人名、非部名。又案、祕史蒙文、禿綿乞兒吉速那顏歸附者︀凡四人、曰也迪、曰亦納勒、曰阿勒迪額兒、曰斡列別克的斤。也迪、卽本紀野牒、亦納勒、卽本紀亦納里、此之亦難︀。阿勒迪額兒、卽本紀阿里替也兒、此阿里忒剌也。忒里二字應乙無疑。通世案、祕史云「兔兒年、成吉思命拙赤、領右手軍、去征槐因亦而堅、令不合引路。斡亦剌〈[#「斡」は底本では「幹」]〉種的忽都︀合別乞比土綿斡亦剌、先來歸附、就引拙赤去征土綿斡亦剌、入至失黑失惕地面。斡亦剌・不里牙特・巴兒渾・兀兒速特・哈卜哈納思・康哈思諸︀種、都︀投降了。至土綿乞兒吉速勒種處。其那顏也迪亦納勒・阿勒迪額兒・斡列別克的斤等、也歸降了、將白海︀靑白騸馬黑貂鼠、來拜見拙赤。失必兒・客思的音・巴亦特禿哈思・田列克・脫額列思・塔思巴只吉等槐因亦而堅、拙赤都︀收捕了。遂領著︀乞兒吉思萬戶千戶、幷槐因亦而堅的那顏、將著︀海︀靑騸馬貂鼠等物、回來拜見成吉思。成吉思以斡亦剌種的忽禿哈別乞先來歸附、將扯扯亦堅名的女子、與了他的子亦納勒赤、將拙赤的女豁兒哈與了亦納勒赤的兄」。槐因亦而堅、譯作林木中百姓。蒙古語、槐因謂林、亦而堅又作亦而干亦而根、皆謂百姓。土綿、萬也、謂其衆盛。乞兒吉速勒、卽乞兒吉思、又卽本書乞力吉思。多遜曰「此部居地甚廣、在安噶剌河之西、阿爾泰山之北偏東 乃蠻在其東南、肯河・肯肯助克、在其境內。俗雖游牧、亦有城郭」。也迪亦納勒、阿勒迪額兒、皆人名。本紀誤爲部名。多遜引喇施特云「乞兒吉思人、稱其酋長曰伊納勒」。卽祕史之亦納勒、本書之亦難︀。又云「乞兒吉思分數部。一部名哲寧俺別提。其酋長名、則原書字跡、模糊不辨。一部名別提烏倫、或作別提阿福︀隆︀。其酋長名烏洛斯伊納勒」。別提烏倫、伯哷津作也迪鄂倫。烏洛斯伊納勒、卽本書之斡羅思亦難︀。然則祕史所謂也迪亦納勒、卽也迪部酋長、而烏洛斯其名也。西史人名不辨者︀、葢祕史之阿勒迪額兒也。伯哷津云「二部酋盛禮欵接、遣二使臣阿里克帖木兒・阿特黑剌黑偕來獻獵鳥色白」。阿里克帖木兒、額兒忒曼作阿里伯克帖木兒、卽祕史之斡列別克的斤〈[#「斡列別克的斤」は底本では「斡列伯克的斤」]〉。據一使名阿特黑剌黑、則本書阿忒里剌、里當作黑。祕史有委吾種使臣阿惕乞剌嘿。此誤以委吾使爲乞兒吉思使。此役、是朮赤北征、先降斡亦剌諸︀部、遂定乞兒吉思及林木中諸︀族。與太祖︀西征脫黑脫阿之役、全不相關。本書乃以忽都︀合歸降之事、書於戊辰再征脫脫條下、誤也。洪氏曰「本紀、斡亦剌之降在三年、而乞力吉思之附在二年。考之西圖、應從祕史、先定斡亦剌、由東而西、軍程乃合」。

訳文 七〇-七一

丁卯(1207年)二年、宋 開禧 三年、金 泰和 七年。夏、留まった。この下に脱字があり、秋濤が校正して「兵避暑」の三字を補う。通世案、何氏はおそらく壬戌(1202年)夏の例に拠っているのであろう。秋、再び西夏を征伐した。冬、​クオロカイ​​克斡羅孩​城。斡は原書では幹。通世が元史に拠って改める。西史は「兔年秋、​カシン​​合申​が貢物を治めず、奉らず言い交わしたので、再びこれを征伐し、おのおのの城を攻め下した」と言う。​カシン​​合申​​ハシ​​河西​の転訛で、西夏を言う。先に通世案、元史はこの年とし、西史はこの役の先。​アンタン​​案彈​ ​ブウラ​​不兀剌​の二人を遣わし曽植案、​ブウラ​​不兀剌​、秘史は​ブカ​​不合​とし、九十五功臣中の​ブカ​​不合​駙馬である。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​アルタン​​阿勒壇​ ​ブラ​​布喇​の二人とする。​ブラ​​布喇​は使いを受け賜り、​ブカ​​不合​と道案内が異なった。​ブカ​​不合​は、本書は​ブハ​​不花​とし、戊寅(1218年)​チユチ​​朮赤​太子北征のくだりで見える。 ​キリギス​​乞力吉思​部に使いをした。その長​オロス イナン​​斡羅思 亦難︀​及び​アテリラ​​阿忒里剌​二人は、我が使いが来たのをともにし、白い海靑と名鷹を献じた。秋濤案、元史 本紀は「この年、​アンタン​​案彈​ ​ブウラ​​不兀剌​の二人を使いとして​キリギス​​乞力吉思​に遣わした。やがて​エヂエイナリ​​野牒亦納里​部、​アリテエル​​阿里替也兒​部は、みな使いを遣わして名鷹を献じて来た」と言う。この鷹を献じた者は、他部の人で、​キリギス​​乞力吉思​部長ではない。二説は互いに異なり、どちらが正しいかまだ詳しくわからない。曽植案、元史 本紀の​エヂエイナリ​​野牒亦納里​は秘史での​トメン キルギスト​​禿綿 乞兒吉速惕​の官人​エデ イナル​​也迪 亦納勒​である。これの​イナン​​亦難︀​は、おそらくその人であろう。​アテリラ​​阿忒里剌​は、おそらく​アリテラ​​阿里忒剌​とし、つまり​アリテエル​​阿里替也兒​であり、みな人名で、部名ではない。又案、秘史蒙文は、​トメン キルギス​​禿綿 乞兒吉速​ ​ノヤン​​那顏​で帰順した者は全部で四人、​エデ​​也迪​と言い、​イナル​​亦納勒​と言い、​アルデエル​​阿勒迪額兒​と言い、​オレベク チギン​​斡列別克 的斤​と言う。​エデ​​也迪​は、元史 本紀の​エヂエ​​野牒​であり、​イナル​​亦納勒​は、元史 本紀の​イナリ​​亦納里​であり、これの​イナン​​亦難︀​である。 ​アルデエル​​阿勒迪額兒​は、元史 本紀の​アリテエル​​阿里替也兒​は、この​アリテラ​​阿里忒剌​である。忒里の二字が乙〈[#「乙」は中国で文字の転倒を意味する記号表現]〉に当たるのは疑いない。通世案、秘史「兔児年、​チンギス​​成吉思​​ヂユチ​​拙赤​に命じて、右手軍を率いて、​ホイイン イルゲン​​槐因 亦而堅​を征伐しに行き、​ブカ​​不合​に道案内を命じた。​オイラ​​斡亦剌​種の​クドカ ベキ​​忽都︀合 別乞​​トメン オイラ​​土綿 斡亦剌​といっしょになって、さきに来て帰順し、付き従って​ヂユチ​​拙赤​を導き​トメン オイラ​​土綿 斡亦剌​に進んで行き、​シクシト​​失黑失惕​の地に入り至った。​オイラ​​斡亦剌​​ブリヤト​​不里牙特​​バルクン​​巴兒渾​​ウルスト​​兀兒速特​​ハブハナス​​哈卜哈納思​​カンハリ​​康哈思​諸種は、すべて投降した。​トメン キルギスル​​土綿 乞兒吉速勒​種のところに至った。その​ノヤン​​那顏​ ​エデ イナル​​也迪 亦納勒​​アルデエル​​阿勒迪額兒​​オレベク チギン​​斡列別克 的斤​など、もまた帰順し、白い海靑と白い騸馬と黒い貂鼠をささげて、​ヂユチ​​拙赤​にお目どおりしに来た。 ​シビル​​失必兒​​ケスチイム​​客思的音​​バイト​​巴亦特​ ​トハス​​禿哈思​​テンレク​​田列克​​トエレス​​脫額列思​​タス​​塔思​ ​バヂギ​​巴只吉​など​ホイイン イルゲン​​槐因 亦而堅​は、​ヂユチ​​拙赤​がすべて収め捕らえた。そのまま​キルギス​​乞兒吉思​の万戸千戸、ならびに​ホイイン イルゲン​​槐因 亦而堅​​ノヤン​​那顏​を率いつつ、海靑や騸馬や貂鼠などの物をささげつつ、戻って来て​チンギス​​成吉思​にお目どおりした。​チンギス​​成吉思​​オイラ​​斡亦剌​種の​クトハ ベキ​​忽禿哈 別乞​を先に帰順させ、​チエチエイゲン​​扯扯亦堅​という名の娘を奨めて、彼の子​イナルチ​​亦納勒赤​に与え、​ヂユチ​​拙赤​の娘​ゴルハ​​豁兒哈​を奨めて​イナルチ​​亦納勒赤​の兄に与えた」と言う。​ホイイン イルゲン​​槐因 亦而堅​は、訳では林の民とする。 モンゴル語では、​ホイイン​​槐因​は林を言い、​イルゲン​​亦而堅​​イルゲン​​亦而干​​イルゲン​​亦而根​にもし、みな民衆を言う。​トメン​​土綿​は、万であり、その衆が盛んであることを言う。​キルギスル​​乞兒吉速勒​は、​キルギス​​乞兒吉思​、または本書の​キリギス​​乞力吉思​である。​ドーソン​​多遜​は「この部ははなはだ広い地に住み、​アンガラ​​安噶剌​河の西、​アルタイ​​阿爾泰​山の北を東に偏って居た。​ナイマン​​乃蠻​はその東南に居て、​ケン​​肯​河・​ケンケンジユク​​肯肯助克​、その境内にあった。生活様式は遊牧とはいえ、城郭もあった」と言う。​エデ イナル​​也迪 亦納勒​​アルデエル​​阿勒迪額兒​、みな人名である。元史 本紀は誤って部名とする。​ドーソン​​多遜​​ラシツド​​喇施特​を引いて「​キルギス​​乞兒吉思​人は、その酋長を称して​イナル​​伊納勒​と呼ぶ」と言う。 つまり秘史の​イナル​​亦納勒​で、本書の​イナン​​亦難︀​である。また「​キルギス​​乞兒吉思​は数部に分かれている。一部の名は​ヂエニン アン ベチ​​哲寧 俺 別提​。その酋長の名は、原書の字跡が、ぼんやりして判別できない。一部の名は​ベチ ウルン​​別提 烏倫​、あるいは​ベチ アフロン​​別提 阿福︀隆︀​とする。その酋長の名は​ウロス イナル​​烏洛斯 伊納勒​」と言う。​ベチ ウルン​​別提 烏倫​は、​ベレジン​​伯哷津​​エデ オルン​​也迪 鄂倫​とする。​ウロス イナル​​烏洛斯 伊納勒​は、本書の​オロス イナン​​斡羅思 亦難︀​である。そうであるならば秘史のいわゆる​エデ イナル​​也迪 亦納勒​は、​エデ​​也迪​部の酋長であり、そして​ウロス​​烏洛斯​はその名である。西史で人名が判別できなかった者は、おそらく秘史の​アルデエル​​阿勒迪額兒​であろう。​ベレジン​​伯哷津​は「二部の酋は盛大な儀式で歓待し、​アリク テムル​​阿里克 帖木兒​​アトクラク​​阿特黑剌黑​の二人の家臣を遣わしともに来て狩りに使う白色の鳥を献じた」と言う。​アリク テムル​​阿里克 帖木兒​は、​エルドマン​​額兒忒曼​​アリバク テムル​​阿里伯克 帖木兒​とし、つまり秘史の​オレベク チギン​​斡列別克 的斤​である。 一人の使いの名である​アトクラク​​阿特黑剌黑​に拠れば、本書の​アテリラ​​阿忒里剌​は、里を黒とする。秘史に​ウイウ​​委吾​種の使臣​アトキラク​​阿惕乞剌黑​がある。これは​ウイウ​​委吾​の使いを​キルギス​​乞兒吉思​の使いとし誤っている。この役は、​チユチ​​朮赤​の北征であり、先に​オイラ​​斡亦剌​諸部を降し、そのまま​キルギス​​乞兒吉思​および林の民諸族を治めた。太祖の​トクトア​​脫黑脫阿​西征の役とは、まったく関わりがない。本書はしかし​クドカ​​忽都︀合​の帰順のことを、戊辰(1208年)の​トト​​脫脫​再征のくだりを後文に書き、誤りである。洪氏は「元史 本紀は、​オイラ​​斡亦剌​の降伏が三年(1208年)にあり、そして​キリギス​​乞力吉思​の帰順が二年(1207年)にある。これを西の地図で考えると、秘史に従い当てるのは、先に​オイラ​​斡亦剌​を治めた、東から西への、軍の進路にまさに合う」と言う。



〈史45-169上8戊辰春,班師,至自西夏,避暑于龍庭

戊辰三年、宋嘉定元年、金泰和八年。春班師至自西夏。夏原闕此字、秋濤依本紀補。避暑︀於龍庭。鳳鑣案、耶律鑄雙溪集凱樂歌詞、有下龍庭詩、注曰「東漢︀書燕然銘「凌高闕、下雞鹿、經磧鹵、絕大漠、踰涿邪、跨安矦、乘燕然、至龍庭」。以前後諸︀傳事迹攷之、又以出塞三千餘里校之、龍庭和林西北地也」。文田案、元史太祖︀本紀、三年夏、避暑︀龍庭。是時王罕乃蠻倶滅、故可至和林西北也。則避暑︀葢在太陽罕故宮。通世案、西史云「龍年自合申班師、歸舊居避暑︀」。洪氏曰「可見龍庭並非地名、爲譯者︀文飾之詞」。

訳文 七一

戊辰(1208年)三年、宋 嘉定 元年、金 泰和 八年。春に西夏から凱旋した。夏に原書は夏の字が欠落しており、秋濤が元史 本紀に拠って補う。竜庭で避暑した。鳳鑣案、​エリユチユウ​​耶律鑄​の双渓酔隠集の凱楽歌詞には、後ろに竜庭の詩があり、注は「後漢書の燕然の銘に「高い門を越え、鶏や鹿を下げ、石の多い河原や荒地を経て、大きな砂漠を渡り、流れしたたる水を越え、ようやく馬に跨り安んじ、乗りながら酒盛りをして、竜庭に至った」とある。前後の諸伝の出来事をもってこれを考え、また塞を出て三千余里をもってこれを考えると、竜庭は​ホリム​​和林​の西北の地である」と言う。文田案、元史 太祖本紀、三年夏、竜庭で避暑。この時​ワンカン​​王罕​​ナイマン​​乃蠻​ともに滅び、ゆえに​ホリム​​和林​の西北に至ったとしてよいであろう。とすれば避暑はおそらく​タヤン カン​​太陽 罕​の故宮で行われたであろう。通世案、西史は「竜年に​カシン​​合申​から凱旋し、本拠に帰って避暑した」と言う。洪氏は「竜庭に合う地名はないと見てよく、訳者の文飾の詞とみなせる」と言う。



〈史45-169上8冬,再征脫脫及曲出律可汗

冬、再征脫脫及曲出律可汗。時斡亦剌部長忽都︀花別吉等、斡原作幹。秋濤案、幹當作斡。通世依元史改。遇我前鋒、不戰而降。曾植案、祕史征禿綿乞兒吉思、忽都︀合別乞兒引路、則此先降乞力吉思、後降忽都︀花、葢誤。通世案、忽都︀花降於北征之師。與此西征之役、本不相關、見前注。因用爲卿導、至也兒的石河、盡討蔑里乞部。脫脫中流矢而死。曲出律可汗、僅以數人〈底本-373 脫走、奔契丹主菊而可汗。〈東方學デジタル圖書館-67秋濤案、此所謂契丹、卽西遼也。亦稱西契丹。曾植案、遼史天祚本紀、大石卽位、稱葛兒汗。葛兒、卽菊而、亦作古兒局兒。其子孫葢世稱之。史布魯海︀牙傳、又稱居里可汗。通世案、祕史云「成吉思至額兒的失不黑都︀兒麻地、與脫黑脫阿厮殺︀。脫黑脫阿中亂箭死了。其尸不能將去、其子只割將他頭去。人馬敗走、渡額兒的失水、溺死者︀過半。餘亦皆散亡。於是乃蠻古出魯克過委兀・合兒魯種去、至回回地面垂河行、與合剌乞塔種的人古兒罕相合了」。垂河、卽古碎葉河、西遼都︀城虎思斡耳朶所在也。俄圖云珠河、淸圖云吹河。多遜譯志費尼書云「一二〇八年、乃蠻大陽汗之子古出魯克、與蔑兒乞特汗托克塔合、聚銳兵於伊兒的失河上。成吉思軍擊敗于哲姆河邊、獲托克塔。古出魯克遁去、奔別失八里克、奔庫札、一二〇八年、遂達于喀剌乞䚟古兒汗之境」。西暦一二〇八年、卽此戊辰年也。古出魯克與托克塔合、祕史在乙丑年、本書在丙寅年。志費尼以爲一二〇八年、疑係數字之誤。哲姆河、卽下文嶄河也。志費尼以也兒的失之役與嶄河之戰、誤混爲一。唯古出魯克達于西遼之年、則與本書合。祕史繫之於乙丑年、葢終言之也。別失八里克、畏吾兒都︀城、卽今新疆迪化府屬之濟木薩也。庫札、多遜曰「卽今庫車」。然伯哷津作庫爾車。洪氏曰「此殆非今之・庫車、當是伊犁屬城、華文曰固爾札」。祕史云「過委兀合兒魯種」。委兀卽畏吾兒、固爾札、葢合兒魯部之境、則洪氏說可從。又案、長春眞人西遊記、鎭海︀述白骨甸、曰「古之戰場。凡疲兵至此、十無一還。死地也。頃者︀乃滿大勢、亦敗于是」。考記之行程、白骨甸在不爾干河之前。葢古出魯克等敗於伊兒的失河上、南欲奔畏兀兒、至白骨甸、爲蒙古所追剿、兵復多殪也。

訳文 七一-七二

その冬、再び​トト​​脫脫​および​クチユル カガン​​曲出律 可汗​を征伐した。時に​オイラ​​斡亦剌​部長​フドハ ベギ​​忽都︀花 別吉​などが、斡は原書では幹。秋濤案、幹を斡とする。通世が元史に拠って改める。我が先鋒に遇い、戦わずに降った。曽植案、秘史は​トメン キルギス​​禿綿 乞兒吉思​​クドカ ベキ​​忽都︀合 別乞​の兵への征伐の道案内は、この先に降った​キリギス​​乞力吉思​は、後に降った​クドハ​​忽都︀花​の、おそらく誤りであろう。通世案、​フドハ​​忽都︀花​は北征の師で降った。この西征の役と、もとは関わりがなく、前文の注に見える。卿らを案内に用いたついでに、​エルチシ​​也兒的石​河に至り、​メリキ​​蔑里乞​部をことごとく討った。​トト​​脫脫​は流れ矢に当たり死んだ。​クチユル カガン​​曲出律 可汗​は、わずか数人とともに〈底本-373脱走し、契丹の主​グル カガン​​菊而 可汗​に奔った。 秋濤案、ここで言う契丹は、西遼である。西契丹とも称する。曽植案、遼史 天祚本紀では、​タイシ​​大石​が即位し、​ゲル カン​​葛兒 汗​を称した。​ゲル​​葛兒​は、​グル​​菊而​であり、また​グル​​古兒​ ​グル​​局兒​ともする。その子孫はおそらく代々これを称したのであろう。元史​ブルハイヤ​​布魯海︀牙​伝は、また​グリ カガン​​居里 可汗​と称する。通世案、秘史は「​チンギス​​成吉思​​エルチシ​​額兒的失​ ​ブクドルマ​​不黑都︀兒麻​の地に至り、​トクトア​​脫黑脫阿​と殺し合った。​トクトア​​脫黑脫阿​は乱れ矢に当たり死んだ。その遺体を救い去ることができず、その子はただ彼の頭を切って救い去った。人馬は敗走し、​エルチシ​​額兒的失​水を渡り、溺死者は過半におよんだ。残りも皆ちりぢりに逃げた。これにより​ナイマン​​乃蠻​​グチユルク​​古出魯克​​ウイウ​​委兀​​カルル​​合兒魯​種を過ぎ去って、​フイフイ​​回回​の地に至り​チユイ​​垂​河に行き、​カラキタ​​合剌乞塔​種の人​グル カン​​古兒 罕​と合流した」と言う。​チユイ​​垂​河は、​グスイエ​​古碎葉​河であり、西遼の都城​フスオルド​​虎思斡耳朶​のあるところである。 ​オロス​​俄羅斯​の地図は​ヂユー​​珠​河と言い、淸の地図は​チユイ​​吹​河と言う。​ドーソン​​多遜​訳の​ヂヹニ​​志費尼​の書は「1208年、​ナイマン​​乃蠻​​タヤン カン​​大陽 汗​の子​グチユルク​​古出魯克​は、​メルキト​​蔑兒乞特​の汗​トクタ​​托克塔合​と合流し、​イルヂシ​​伊兒的失​河のほとりに強い兵を集めた。​チンギス​​成吉思​軍は​ヂエム​​哲姆​河のほとりで打ち破り、​トクタ​​托克塔​を捕らえた。​グチユルク​​古出魯克​は遁れ去り、​ベシバリク​​別失八里克​に奔り、​クヂヤ​​庫札​に奔り、1208年、遂に​カラキダイ​​喀剌乞䚟​​グル カン​​古兒 汗​の国境にまで達した」と言う。西暦1208年は、この戊辰年である。​グチユルク​​古出魯克​​トクタ​​托克塔​が合流したのは、秘史に乙丑年(1205年)とあり、本書に丙寅年(1206年)とある。​ヂヹニ​​志費尼​は1208年とし、かかる数字の誤りが疑われる。 ​ヂエム​​哲姆​河は、後文の​ヂヤン​​嶄​河である。​ヂヹニ​​志費尼​​エルチシ​​也兒的失​の役と​ヂヤン​​嶄​河の戦をもって、誤ってひとつに混ぜた。ただ​グチユルク​​古出魯克​が西遼に達した年は、本書と合っている。秘史はこれを乙丑年(1205年)に繋げ、おそらくこれを言うのを終えたのであろう。​ベシバリク​​別失八里克​は、​ウイウル​​畏吾兒​の都城で、今の新疆​ヂハ​​迪化​府に属する​ヂムサ​​濟木薩​である。​クヂヤ​​庫札​は、​ドーソン​​多遜​は「つまり今の​クチエ​​庫車​」と言う。だが​ベレジン​​伯哷津​​クルチエ​​庫爾車​とする。洪氏は「これはおそらく今の​クチエ​​庫車​ではなく、​イリ​​伊犁​に属する城で、華文では​グルヂヤ​​固爾札​と言う」。秘史は「​ウイウ​​委兀​​カルル​​合兒魯​種を過ぎ」と言う。​ウイウ​​委兀​​ウイウル​​畏吾兒​​グルヂヤ​​固爾札​は、おそらく​カルル​​合兒魯​部の国境で、洪氏の説に従うべきであろう。又案、長春真人の西遊記で、​チンハイ​​鎭海︀​は白骨甸について述べ「古戦場である。すべての兵が疲れてここに至り、十のうち一も帰ってこない。死地である。近頃は​ナイマン​​乃滿​の大軍勢も、ここで敗れた」と言った。西遊記の行程を考えると、白骨甸は​ブルガン​​不爾干​河の前にある。おそらく​グチユルク​​古出魯克​らが​イルヂシ​​伊兒的失​河のほとりで破れ、南に​ウイウル​​畏兀兒​へ奔ろうとして、白骨甸に至り、モンゴルに追われ掠めとられるところとなり、兵はさらに多く倒れた。



〈史45-169上13己巳春,畏吾兒國王奕相護聞上威名,遂殺契丹所置監國少監,欲求議和

己巳四年、宋嘉定二年、金衞紹王大安元年。春、畏吾兒國主亦都︀護秋濤案、亦都︀護、乃國主之稱、非人名也。其人名則爲巴而朮阿而忒的斤。元史有傳。所載事迹、不及此書之詳。通世案、祕史作委吾種的主亦都︀兀惕。西史作伊第庫特、義爲福︀主。聞上威名、遂殺︀契丹主所置監國少監秋濤案、此西遼所置官。通世案、一本作沙監。伯哷津作「哈剌乞䚟所遣監國大臣曰沙均」。洪氏曰「卽錄之沙監」。岳璘帖穆爾傳云「其兄仳理伽普華年十六襲國相。時西契丹方强、威制畏兀、命太師僧︀少監來臨其國、驕恣用權、奢淫自奉。畏兀王患之謀於仳理伽普華曰「計將安出」對曰「能殺︀少監、挈吾衆、歸大蒙古國、彼必震駭矣」。遂率衆圍少監斬之」。欲求議和。上先遣案力也奴奴・答拜二人使其國。曾植案、案力也卽祕史阿惕乞剌黑、奴奴荅拜、卽祕史蒙文之荅兒伯也。祕史稱亦都︀護使臣、不言太祖︀所使。通世案、伯哷津作阿勒潑魚土克、迭兒拜。據下文作安魯不也女〈[#「安魯不也女」は底本では「安魯不安也女」]〉・答兒班、則似力當作不、答下脫兒 字。亦都︀護大喜、待我禮甚厚。卽遣其官別吉思・阿鄰帖木兒二人、曾植案、卽哈剌亦哈赤北魯傳之阿憐帖木兒都︀督。通世案、伯哷津作博古思阿世阿忽赤・阿闌帖木兒。洪氏曰「上一人名、錄未全。別吉思似古字之誤」。案知服齋本、吉作古。祕史作阿惕乞剌黑荅兒伯。本書西史、並以上一人爲乞兒吉思使、下一人爲太祖︀使。多遜作喀塔勒迷施喀塔・鄂穆兒烏古勒・塔塔哩三人。入奏曰「臣國聞皇帝威名、故棄契丹舊好、方將遣使來通誠意、躬自效順、豈料遠辱天使、降臨下國。譬雲開見日、冰泮得水。喜不勝矣。而今而後、盡率部眾、爲僕爲子、竭犬馬之勞也」通世案、西史語意同之。祕史云「俺聽得皇帝的聲名、如雲淨見日、冰消見水一般、好生喜歡了。若得恩賜呵、願做第五子、出氣力者︀」。布哷特淑乃德兒曰「西史之文、似依元朝祕史逐字譯出。若此類︀甚多。可以證祕史與喇施特史所本者︀同」。葢本書西史皆本於脫必赤顏、而脫必赤顏多以祕史原本爲底本也。當是時蔑里乞脫脫中流矢死。脫脫之子四人、以〈東方學デジタル圖書館-68不能歸全屍、遂取其頭、涉也兒的石河、「脫脫之子四人以」七子原闕、秋濤據元史補。曾植案、史巴而朮傳「脫脫之子火都︀・赤剌溫・焉札兒・禿薛干四人、以不能歸全屍、取其頭、涉也兒的石河」。攷異云「焉 爲馬」。通世案、元史類︀編、引親征記、有脫脫四子名、與巴而朮傳同。洪氏譯伯哷津書、作忽都︀・赤剌溫・赤攸克・呼圖罕蔑兒根、曰「忽都︀謂是托克塔弟、則西域史之臆說」。然布哷特淑乃德兒、引伯哷津書、列托克塔六子、曰忽都︀、赤剌溫、禿撒、呼勒圖罕蔑兒根、禿球思、赤攸克。禿球思、卽祕史脫古思別乞、爲王汗所殺︀者︀。伯哷津前文、爲托克塔長子。禿撒、額兒忒曼作禿薛、卽禿薛干。祕史卷九、有忽都︀合之名。洪氏曰、「似卽呼圖罕而非忽都︀。無從考異、祇可存疑」。馬札兒與赤攸克、音大〈底本-374 異、不知其人同異。將奔畏吾兒國。將原作特、秋濤據元史改。脫脫先遣別干者︀通世案、伯哷津作哀不干。先遣使之上、無脫脫之名。則發使者︀、脫脫四子、而非脫脫也。使亦都︀護。亦都︀護殺︀之。四人至、與畏吾兒大戰於嶄河。秋濤案、元史巴而朮阿而忒的斤傳、襜河、一作蟾河。又案、元本此下衍殺︀字、今删。通世案、作蟾河者︀、速不台傳也。西史作哲姆河。今昌吉河也。昌吉城、元時稱彰八里、又作昌八里。八里城也。城臨昌河、故名。巴而朮阿而忒的斤傳云「帝征大陽罕、射其子脫脫殺︀之。脫脫之子四人、以不能歸全屍、遂取其頭、涉也兒的失河、將奔亦都︀護、先遣使往。亦都︀護殺︀之。四人者︀至。與大戰於襜河。亦都︀護遣其國相來報」。以脫脫爲大陽之子、偶與曲出律相混也。餘皆與本書合、葢本於本書也。據此、則脫脫死於也兒的失河上、四子大戰於嶄河、而與四子戰者︀、則畏吾兒人、非蒙古人也。伯哷津所譯、亦同本書。案本書西史、太祖︀十二年丁丑、再有嶄河之戰、與此役異。此役、四子與畏吾兒戰、本書及巴而朮傳、皆不言其勝敗。伯哷津云「戰於哲姆河、逐其衆」、則是四子敗走也。丁丑之役、則速不台戰於嶄河、剿滅蔑兒乞。速不台傳所載、是也。似與此嶄河異地。見後。亦都︀護先遣其官阿思蘭・乾乞・孛羅的斤・亦難︀海︀牙倉赤四人、通世案、伯哷津作阿兒思蘭兀喀・察魯忽兀喀・孛拉的斤・亦納兒乞牙松赤。來吿蔑力乞事。通世案、西史此間、有「旣而二使偕成吉思使亦至」句。洪氏曰「錄云先遣四人來吿。以西域史語意合之、似四使行在先、二使行在後也」。上曰「亦都︀護果誠心戮力於我、以〈史45-169下1其已有來獻」。通世案、此句疑有誤脫。西史無此句、而下文作「復遣二使往徵貢献」。尋遣安魯不也女・答兒班二人、通世案、安魯不也女、卽前案力也奴奴、西史阿勒潑魚土克。答兒班、卽前答拜。西史迭兒拜。班葢拜之譌。復使其國。亦都︀護遣使奉珍寶方物爲貢。

訳文 七二-七四

己巳(1209年)四年、宋 嘉定 二年、金 衛紹王 大安 元年。春、​ウイウル​​畏吾兒​国主​イドフ​​亦都︀護​秋濤案、​イドフ​​亦都︀護​は、その国主の称号であり、人名ではない。その人名は​バルチユアルテチキン​​巴而朮阿而忒的斤​となる。元史に伝がある。事績を載せるところは、この書の詳しさに及ばない。通世案、秘史は​ウイウ​​委吾​種の主​イドウト​​亦都︀兀惕​とする。西史は​イヂクト​​伊第庫特​とし、義は幸いの主となる。上の威名を聞き、遂に契丹の主が置いた監国少監を殺して秋濤案、これは西遼が置いた役人である。通世案、ある書物では​シヤヂヤン​​沙監​とする。​ベレジン​​伯哷津​は「​ハラキダイ​​哈剌乞䚟​​シヤユン​​沙均​という監国大臣によって遣わされた」とする。洪氏は「親征録の​シヤヂヤン​​沙監​」と言う。​ヨリンテムル​​岳璘帖穆爾​伝は「その兄​ビリガブカ​​仳理伽普華​は十六才で宰相を継いだ。時に西契丹はまさに強く、威は​ウイウ​​畏兀​を制し、太師僧少監に命じて其国に来臨させ、驕ってほしいままに力を用い、奢ってほしいままに私腹を肥やした。​ウイウ​​畏兀​王はこれを憂い​ビリガブカ​​仳理伽普華​に謀って「謀って安心して出るよう奨めよ」と言い対して「少監をうまく殺して、わが衆を整えて、大モンゴル国に身を寄せれば、彼は必ず恐れおののく」と言った。そのまま軍勢を率いて少監を囲みこれを斬った」と言う。 和議を求めることを望んだ。上はまず​アンリエヌヌ​​案力也奴奴​​ダバイ​​答拜​の二人を使いとしてその国に遣わした。曽植案、​アンリエ​​案力也​は秘史の​アトキラク​​阿惕乞剌黑​​ヌヌダバイ​​奴奴荅拜​は、秘史蒙文の​ダルベ​​荅兒伯​である。秘史は​イドフ​​亦都︀護​の使臣と称し、太祖の使いとは言っていない。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​アルポユトク​​阿勒潑魚土克​​デルバイ​​迭兒拜​とする。後文に拠って​アンルブエヌ​​安魯不也女​​ダルバン​​答兒班​、力を不と当てたようで、答の下は児の字が抜けている。 ​イドフ​​亦都︀護​は大いに喜び、我らを待ちはなはだ厚く礼をつくした。ただちにその官として​ベギス​​別吉思​​アリン テムル​​阿鄰 帖木兒​二人を遣わし、曽植案、つまり​ハライハチベル​​哈剌亦哈赤北魯​伝の​アリン テムル​​阿憐 帖木兒​都督である。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​ボグスアシアクチ​​博古思阿世阿忽赤​​アラン テムル​​阿闌 帖木兒​とする。洪氏は「上の一人の名は、親征録は不完全。​ベギス​​別吉思​は古の字の誤りのようである」と言う。知服斎叢書を調べると、吉を古とする。秘史は​アトキラク​​阿惕乞剌黑​ ​ダルベ​​荅兒伯​。本書と西史、ともに上の一人を​キルギス​​乞兒吉思​の使いとし、下の一人を太祖の使いとする。​ドーソン​​多遜​​カタルミシカタ​​喀塔勒迷施喀塔​​オムルウグル​​鄂穆兒烏古勒​​タタリ​​塔塔哩​の三人とする。 入って奏し「臣の国は皇帝の威名を聞き、ゆえに​キダン​​契丹​の古いよしみを棄て、まさに捧げて使いを遣わし来て真心を通わせ、自ら従い奉り、なんとかたじけなくも皇帝の使いが遠く、我が国に降臨した。雲が開き日を見て、氷が溶け水を得たかのようである。喜びはこれに勝らない。今をもって後をもって、部衆をみな率いて、下僕となり子となり、犬馬の労を尽くすのである」通世案、西史の語意はこれと同じ。秘史は「私は皇帝の声と名を聞くことができ、雲が晴れ日が見え、すべて氷が消え水が表れたかのようで、非常に喜ばしい。もし恩賜が得られるなら、願わくは第五子となり、気力を出すものである」と言う。​ブレトシユナイデル​​布哷特淑乃德兒​は「西史の文は、元朝秘史に拠って順を追って字を訳し出したかのようである。この類ははなはだ多いようである。秘史と​ラシツド​​喇施特​集史の根本が同じであることの証としてよい」と言う。おそらく本書と西史どちらも​トビチヤン​​脫必赤顏​を根本とし、そして​トビチヤン​​脫必赤顏​は秘史原本を底本として多く用いているのである。 この時​メリキ​​蔑里乞​​トト​​脫脫​は流れ矢に当たり死んだ。​トト​​脫脫​の子四人は、遺体すべてを収めることができないので、そのままその頭を取り、​エルチシ​​也兒的石​河を渡り、​トト​​脫脫​の子四人は」は原書では七人の子が欠落し、秋濤が元史に拠って補う。曽植案、元史​バルチユ​​巴而朮​伝「​トト​​脫脫​の子​ホド​​火都︀​​チラウン​​赤剌溫​​ヤンヂヤル​​焉札兒​​トセガン​​禿薛干​四人は、遺体すべてを収めることができないので、そのままその頭を取り、​エルチシ​​也兒的石​河を渡り」。二十二史考異は「焉を馬とする」と言う。通世案、元史類編は、親征記を引いて、​トト​​脫脫​の四子の名があり、​バルチユ​​巴而朮​伝と同じ。洪氏訳​ベレジン​​伯哷津​の書は、​クド​​忽都︀​​チラウン​​赤剌溫​​チユト​​赤攸克​​フトハンメルゲン​​呼圖罕蔑兒根​とし、「​クド​​忽都︀​​トクタ​​托克塔​の弟を言い、つまりは西域史の仮説」と言う。だが​ブレトシユナイデル​​布哷特淑乃德兒​は、​ベレジン​​伯哷津​の書を引いて、​トクタ​​托克塔​の六子を列ねて、​クド​​忽都︀​​チラウン​​赤剌溫​​トサ​​禿撒​​フルトハンメルゲン​​呼勒圖罕蔑兒根​​トキウス​​禿球思​​チユト​​赤攸克​と言う。​トキウス​​禿球思​は、秘史の​トグス ベキ​​脫古思 別乞​で、​ワンカン​​王汗​に殺された者である。​ベレジン​​伯哷津​は前文で、​トクタ​​托克塔​長子とする。​トサ​​禿撒​は、​エルドマン​​額兒忒曼​​トセ​​禿薛​とし、つまり​トセガン​​禿薛干​である。秘史巻九に、​クドカ​​忽都︀合​の名がある。洪氏は、「​フトハン​​呼圖罕​​クド​​忽都︀​ではないようだ。二十二史考異に従うところなく、ただ疑いがあるとすべき」と言う。​マヂヤル​​馬札兒​​チユト​​赤攸克​は、音が大いに異なり、〈底本-374その人の同異はわからない。 まさに​ウイウル​​畏吾兒​国に奔ろうとした。将は原書では特、秋濤が元史に拠って改める。​トト​​脫脫​はまず​ベガン​​別干​という者を遣わし通世案、​ベレジン​​伯哷津​​アイブガン​​哀不干​とする。先遣使の上に、​トト​​脫脫​の名はない。使者を放ったのは、​トト​​脫脫​の四子であって、​トト​​脫脫​ではない。​イドフ​​亦都︀護​に使いした。​イドフ​​亦都︀護​はこれを殺した。四人が至り、​ウイウル​​畏吾兒​​ヂヤン​​嶄​河で大いに戦った。秋濤案、元史​バルチユアルテチキン​​巴而朮阿而忒的斤​伝は、​チヤン​​襜​河で、ひとつに​チヤン​​蟾​河ともする。又案、原書はこの下の殺の字が余分であり、今削る。 通世案、​チヤン​​蟾​河としているのは、​スブタイ​​速不台​伝である。西史は​ヂエム​​哲姆​河とする。今は​チヤンギ​​昌吉​河である。​チヤンギ​​昌吉​城は、元の時に​ヂヤンバリ​​彰八里​と称し、また​チヤンバリ​​昌八里​ともする。​バリ​​八里​城である。城が​チヤン​​昌​河を臨んでいるので、名となった。​バルチユアルテチキン​​巴而朮阿而忒的斤​伝は「帝は​タヤン カン​​大陽 罕​を征伐し、その子​トト​​脫脫​を射てこれを殺した。​トト​​脫脫​の子四人は、遺体すべてを収めることができず、そのままその頭を取り、​エルチシ​​也兒的失​河を渡り、まさに​イドフ​​亦都︀護​に奔ろうとし、まず使いを遣わして行かせた。 ​イドフ​​亦都︀護​はこれを殺した。四人が至った。​チヤン​​襜​河でともに大いに戦った。​イドフ​​亦都︀護​はその宰相を来報させに遣わした」と言う。​トト​​脫脫​​タヤン​​大陽​の子とするのは、思いがけなく​クチユル​​曲出律​と混ざり合ったのである。残りはみな本書と合い、おそらく根本は本書であろう。これに拠ると、​トト​​脫脫​​エルチシ​​也兒的失​河のほとりで死に、四子は​ヂヤン​​嶄​河で大いに戦い、そして四子と戦ったのは、​ウイウル​​畏吾兒​人であって、モンゴル人ではない。​ベレジン​​伯哷津​が訳すところも、また本書と同じ。 本書と西史を考えると、太祖 十二年 丁丑(1217年)に、再び​ヂヤン​​嶄​河の戦いがあり、この役と異なる。この役は、四子と​ウイウル​​畏吾兒​が戦い、本書および​バルチユ​​巴而朮​伝は、みなその勝敗を言わない。​ベレジン​​伯哷津​は「​ヂエム​​哲姆​河で戦い、その衆を退けた」と言い、それはこの四子の敗走である。丁丑(1217年)の役は、​スブタイ​​速不台​​ヂヤン​​嶄​河で戦い、​メルキ​​蔑兒乞​を根絶やしにした。​スブタイ​​速不台​伝が載せるところは、これである。この​ヂヤン​​嶄​河とは異なる地のようである。後文で見える。​イドフ​​亦都︀護​はまずその官​アスラン​​阿思蘭​​ガンキ​​乾乞​​ボロチギン​​孛羅的斤​​イナンハイヤチヤンチ​​亦難︀海︀牙倉赤​四人を遣わし、 通世案、​ベレジン​​伯哷津​​アルスラン ウカ​​阿兒思蘭 兀喀​​チヤルク ウカ​​察魯忽 兀喀​​ボラチギン​​孛拉的斤​​イナルキヤシヨンチ​​亦納兒乞牙松赤​とする。​メリキ​​蔑力乞​の事を告げに来た。通世案、西史はこの間に、「やがて二使は​チンギス​​成吉思​の使いとともに至った」の句がある。洪氏は「親征録は先に四人が遣わされ告げ来たと言う。西域史は語意がこれと合うので、四使が行くのは先にあり、二使が行くのは後にあるようである」。上は「​イドフ​​亦都︀護​は真心から尽くして私と協力し、それにゆえに来て献じることがあったのである」と言った。通世案、この句はおそらく誤って抜けがあるであろう。西史はこの句はなく、後文で「再び二使を遣わし行って貢物を取り立てて献じた」とする。尋ねて​アンルブエヌ​​安魯不也女​​ダルバン​​答兒班​の二人を遣わし、通世案、​アンルブエヌ​​安魯不也女​は、前文の​アンリエヌヌ​​案力也奴奴​であり、西史は​アルポユトク​​阿勒潑魚土克​​ダルバン​​答兒班​は、前文の​ダバイ​​答拜​である。西史は​デルバイ​​迭兒拜​。班はおそらく拝の誤りであろう。再びその国に使いした。​イドフ​​亦都︀護​は使いを遣わし珍宝と地方の産物をたてまつり貢物とした。



〈史45-169下3庚午夏,上避暑龍庭。秋,復征西夏,入孛王朝。其主失相兒忽出降,獻女爲好

庚午五年、宋嘉定三年、金大安二年。夏、上避暑︀龍庭。〈東方學デジタル圖書館-69張石州據翁本改避爲遣。秋濤案、仍當作避。通世案、西史作「馬年夏、復遣使於畏兀兒、時帝在軍中」。與本書微異。秋、復征西夏、入孛王廟。其主失都︀兒忽出降、都︀原作相。通世案、相當作都︀。夏襄宗李安全、國語名失都︀兒忽、見陳桱通鑑續編。獻女爲好。秋濤案、本紀載「四年己巳春、畏吾兒國來歸。帝入河西。夏主李安全、遣其世子率師來戰。敗之、獲其副元帥高令公。克兀剌海︀城、俘其太傳西壁氏。進至克夷門、復敗夏師、獲其將嵬名令公。薄中興府、引河水灌之。堤決、水外潰。遂徹圍還、遣太傳訛荅入中興、招諭夏主。夏主納女請和」。凡此諸︀事、皆載於己巳年、而此書載於庚午年。未詳孰是。又本紀載「五年庚午春、金謀來伐、築烏沙堡。帝命遮別襲殺︀其衆、遂略地而東。初帝貢歲幣於金。金主使衞王允濟受貢於靜州。帝見允濟不爲禮。會金主殂、允濟嗣位、有詔至國、傳言「當拜受命」。問「新君爲誰」。金使曰「衞王也」。帝遽南面唾曰「我謂中原皇帝、是天上人做。此等庸儒亦爲之邪。何以拜爲」。卽乘馬北去。金使還言。允濟益怒、欲俟帝再入貢就進場害之。帝知之、遂與金絕、益嚴兵爲備」。案以上、本紀於庚午年、詳紀太祖︀與金人開釁之事。而親征記及祕史皆不載、殊不可解。攷耶律楚材湛然居士集、有進庚午元厤表、略云「歲在庚午、天啓宸衷、決志南伐。辛未之春、天兵南渡、不五年、而天下略定。此天授也、非人力所能及也云云」。是太祖︀之有〈東方學デジタル圖書館-70意伐金、實始於庚午年。親征記未載、亦疏漏也。通世案、本紀兀剌海︀城、西史作兀剌孩城、卽丁卯年所克斡羅孩城。孛王廟、葢在其城中。丁卯克而不守、至是復入之也。又案、兩朝綱目備要云「允濟遣衆分屯山後、欲襲殺︀鐵木眞然後引兵深入。會金之乣軍、有詣蒙古〈[#「古」は底本では空白。兩朝綱目備要の四庫全書本は同じ位置に「塔坦、タタン」とある]〉吿其事者︀。蒙古遣人伺之得實、遂遷延不進」。此卽元史「金謀來伐」之事也。金史衞紹王紀云「大安二年九月丙午、京師戒嚴、上日出巡撫。百官請視︀朝、不允。是歲禁百姓、不得傳說邊事」。續綱目云「金納哈買住守北鄙、知蒙古將侵邊、奔吿于金主云云。金主以其擅生邊隙囚之」。又云「蒙古數侵掠金西北之境、其勢漸盛。金人皇皇、遂禁百姓傳說邊事」。畢氏通鑑云「金承平日久、驟聞蒙古用兵、人情恇懼、流言四起。九月丙午、中都︀戒嚴云云。旣而知蒙古未嘗大擧、始解嚴、旋禁百姓不得傳說邊事」。參考諸︀書、蒙古之南伐、實始於庚午年。但烏沙堡之役、金史獨吉思忠・完顏承裕傳、皆以爲辛未年事、與本書合。元史重叙於庚午辛未兩年、恐非。

訳文 七四-七五

庚午(1210年)五年、宋 嘉定 三年、金 大安 二年。夏、上は竜庭で避暑した。張石州は翁本に拠って改め避を遣とする。秋濤案、もとのまま避とする。通世案、西史は「馬年の夏、​ウイウル​​畏兀兒​に再び使いを遣わし、時に帝は軍中にあった」とする。本書とかすかに異なる。秋、再び西夏を征伐し、孛王廟に入った。その主​シドルク​​失都︀兒忽​が出て降り、都は原書では相。通世案、相を都とする。夏 襄宗 李安全は、国語の名は​シドルク​​失都︀兒忽​で、陳桱の通鑑続編で見える。娘を献じてよしみとした。 秋濤案、元史 本紀は「四年己巳(1209年)春、​ウイウル​​畏吾兒​国が来て服従した。帝は​ハシ​​河西​に入った。夏主 李安全は、その世子を遣わし軍を率いて戦いに来た。これを破り、その副元帥の高令公を捕らえた。​クウラハイ​​克兀剌海︀​城では、その​たいふ​​太傳​である西壁氏を捕らえた。進んで​クイムン​​克夷門​に至って、再び西夏の軍を破り、その将である嵬名令公を捕らえた。中興府に迫り、河の水を引いてここに流し込んだ。堤が切れ、水がそれて堤が崩れた。そのまま周囲を壊して帰り、​たいふ​​太傳​​エダ​​訛荅​を遣わして中興に入れ、西夏の主を招いて諭した。西夏の主は娘を納めて和を請うた」と載せる。 およそこれらの諸事は、みな己巳年(1209年)に載せ、しかしこの書は庚午年(1210年)に載せている。どちらが正しいかまだ詳しくわからない。また元史 本紀は「五年 庚午(1210年)春、金は謀って征伐しに来て、烏沙堡を築いた。帝は​ヂエベ​​遮別​にその軍勢を襲って殺すよう命じ、遂に敵の地を東に攻め取った。初めて帝は金朝に金品を毎年貢ぐようになった。金の主は衛王である允済を使わして静州で貢物を受け取らせた。帝は允済が無礼であるのを見た。ちょうど金の主が亡くなり、允済が位を継ぎ、国に至る詔があり、「ありがたく命を受けるべきである」と言ったと伝わる。「新君は誰であるか」と問うた。金の使いは「衛王である」と言った。帝はにわかに南に向かって唾を吐き「私は中原の皇帝を考えて、天上人とみなした。これらの平凡な儒者はこれにしたのか。どうしてありがたく受けるものか」と言った。ただちに馬に乗って北に去った。金の使いは帰って言った。 允済はますます怒り、帝が再び入貢するのを待って赴いて来た場でこれを害そうと望んだ。帝はこれを知り、遂に金朝と切り、ますます備えのために兵を厳しくした」と載せている。以上を考えると、本紀は庚午年(1210年)に、太祖と金人の開戦の事を詳しく記している。しかし親征記と秘史みな載せず、とりわけ不可解である。​エリユ チウツアイ​​耶律 楚材​の湛然居士文集を調べると、進征西庚午元暦表にあり、略は「庚午年(1210年)に、天の啓示が帝の心にあり、南伐を決めた。辛未(1211年)の春、天の命を受けた兵は南に渡り、五年かいなやで、天下を治め定めた。これは天の授けであり、人に非ざる力の及ぶ所であり云云」と言う。これは太祖の伐金の意志であり、まさに庚午年(1210年)に始まった。親征記は載せず、手抜かりでもある。 通世案、本紀の​イラハイ​​兀剌海︀​城は、西史は​ウラカイ​​兀剌孩​城とし、つまり丁卯年(1207年)のところの​クオロカイ​​克斡羅孩​城である。孛王廟は、おそらくその城の中にある。丁卯(1207年)では勝ったので守らず、ここに至って再びこれに入ったのである。又案、両朝綱目備要は「允済は軍勢を遣わし分かれて山に留まり守らせた後、​テムヂン​​鐵木眞​を襲って殺すことを望みその後に兵を持って来て深く入れた。金の​ヂウ​​乣​軍に会い、モンゴルまで行きその事を告げる者があった。モンゴルは人を遣わしてこれを伺い実情を知り、そのまま動くのを延ばし進まなかった」と言う。これが元史の「金は謀って征伐しに来て」の事である。金史 衛紹王 本紀は「大安 二年(1210年)九月丙午、首都は戒厳となり、良い日に巡撫を出した。百官は皇帝に謁見を請うたが、許さなかった。この年に人々をいましめて、辺りの話を伝えられないようにした」と言う。 続通鑑綱目は「金の​ナハ​​納哈​ ​マイヂユ​​買住​は北の郊外を守り、モンゴルがまさに辺りを侵そうとしているのを知り、奔って金主に告げ云云。金主はそれが勝手に争いを起こしたとしてこれを捕らえた」と言う。また「モンゴルはたびたび金の西北の国境を侵掠し、その勢いは次第に盛んになった。金人はあわただしくなり、遂に人々が辺りのことを話し伝えることを禁じた」と言う。畢沅の続 資治 通鑑は「金は太平を受け継いで日が久しく、にわかにモンゴルが戦争をすると聞き、人々の心は恐れ心配し、流言が四回起きた。九月丙午、​チユンド​​中都︀​は戒厳を云云。やがてモンゴルがいまだかつてない大人数であると知り、戒めは解かれ始め、たちまち人々をいましめてあたりの事を話し伝えられないようにした」と言う。諸書を照らし合わせると、モンゴルの南伐は、まさに庚午年(1210年)に始まった。但し烏沙堡の役は、金史 ​ドギ スヂヨン​​獨吉 思忠​​ワンヤン ヂエンユ​​完顏 承裕​伝は、みな辛未年(1211年)の事とし、本書と合う。元史は繰り返して庚午(1210年)辛未(1211年)両年に述べ、恐らく誤っている。



〈史45-169下5辛未春,上居怯綠速河。時西域哈兒鹿部主阿兒蘭可汗來歸,因忽必那顏見上

辛未六年、宋嘉定四年、金大安三年。春、上居怯綠連河。時西域哈剌魯部主阿昔蘭可汗來歸、因忽必〈底本-375 來那顏見上。忽必來原闕來字。秋濤案、必下脫來字。祕史云「太祖︀命忽必來征合兒兀惕種。其主阿兒思闌卽投降了、來拜見太祖︀。太祖︀以女子賜他」。卽此事也。合兒魯兀惕、卽哈剌魯。阿兒思闌、本紀作阿昔闌罕、卽此阿昔蘭可汗。忽必來、亦太祖︀所任驍將。曾植案、公主表、脫烈公主、適阿兒思蘭子也先不花駙馬。通世案、哈剌魯、卽唐書葛邏祿、元史地理志作柯耳魯。經世大典圖、其地在阿力麻里西北。多遜譯志費尼書云「突︀兒克喀兒魯克之酋喀押立克之君阿兒思闌汗、與阿勒麻里克之君鄂匝兒、舊屬喀剌乞䚟之古兒汗。一二一一年、來降成吉思。成吉思以宗女妻阿兒思闌」。喀押立克、元史憲宗紀作海︀押立。大佐裕勒曰「故地近今闊怕勒地」。柯耳魯哈押立、並詳元史譯文證補。沈氏以爲合剌魯、卽阿兒斯蘭回鶻、其說誤。遼史阿薩蘭回鶻、卽宋史西州回鶻、國號高昌。後又遷龜玆、或稱龜玆回鶻。後又遷別失八里、元人謂之畏吾兒、又作委兀兒。回鶻別部、有建國碎葉河濱者︀、回回敎人謂之東突︀兒克。宋初、國勢甚盛。其王往往亦稱阿兒斯闌汗。後爲西遼所逐、遷於河間之地、元太祖︀八年、爲貨勒自彌所滅。此二國皆有阿兒斯闌汗。然皆是回鶻、與海︀押立之柯耳魯種不同、不可牽混。亦都︀護兒秋濤案、卽前亦都︀護也。〈[#底本では直前に「始めかぎ括弧」あり]〉以太祖︀命爲第五子、故稱爲亦都︀護兒、猶石晉之稱兒皇帝矣。亦來朝、奏曰「陛下若恩賜臣、使遠者︀悉聞、近者︀悉見、輟袞衣之餘縷、摘金帶之星裝、誠願在陛下四子之亞、竭其力也」。上說其言、使尙公主、仍序弟五。秋濤案、此語未晣。攷祕史云「委吾種的主亦都︀兀惕、差使臣阿惕乞剌黑等、來成吉思處、說「俺聽得皇帝的聲名、如雲淨見日、冰消見水一般、好生喜歡了。若得恩賜、我〈東方學デジタル圖書館-71願做第五子、出氣力者︀」。成吉思說「儞來、女子也與儞、第五子也敎儞做」。於是亦都︀兀惕、將金銀珠子緞疋等物、來拜見成吉思。遂將阿勒阿勒屯名的女子與了」。所載較詳、故備錄以資攷證。通世案、袞衣、國君之服。洪氏譯伯哷津書云「帝若賜我得在僕役之列、使遠近皆知我依托陛下襟帶之間」。注云「語意甚難︀譯」。蓋伯哷津譯文或有誤解也。遣將脫忽察兒率騎二千原作二十。秋濤校改三千。通世案、何氏依下文「脫忽察兒三千騎」語、改爲三千。然西史云二千人。本書十字、明是千之譌。二字不必改。出哨西邊戎秋濤案、此卽後所云征西前鋒脫忽察兒也。在丁丑年。通世案、西史云「是年春、下令伐金、先令脫噶察兒率二千人防後路」。原注「所謂後路、蓋防客剌亦・乃蠻等降衆、乘大軍出而謀變也」。案二部皆在蒙古西、故此云西邊戎。

訳文 七五-七七

辛未(1211年)六年、宋 嘉定 四年、金 大安 三年。春、上は​ケルレン​​怯綠連​河に居た。時に西域の​ハラル​​哈剌魯​部主​アシラン カガン​​阿昔蘭 可汗​が帰順し、〈底本-375ついでに​クビライ ノヤン​​忽必來 那顏​が上にまみえた。​クビライ​​忽必來​は原書では来の字が欠けている。秋濤案、きっと下に来の字が抜けている。秘史は「太祖は​クビライ​​忽必來​​カルウト​​合兒兀惕​種を征伐するよう命じた。その主​アルスラン​​阿兒思闌​はただちに投降し、来拝して太祖にまみえた。太祖は娘を与えた」と言う。つまりこの事である。​カルルウト​​合兒魯兀惕​は、​ハラル​​哈剌魯​である。​アルスラン​​阿兒思闌​は、元史 本紀は​アシラン カン​​阿昔闌 罕​とし、この​アシラン カガン​​阿昔蘭 可汗​である。​クビライ​​忽必來​も、また太祖が任じた驍将である。曽植案、元史 公主表、​トレ​​脫烈​公主は、​アルスラン​​阿兒思蘭​の子​エセンブハ​​也先不花​駙馬に嫁いだ。通世案、​ハラル​​哈剌魯​は、唐書の​カルル​​葛邏祿​であり、元史 地理志は​カルル​​柯耳魯​とする。経世大典の地図は、その地が​アリマリ​​阿力麻里​の西北にある。 ​ドーソン​​多遜​​ヂヹニ​​志費尼​の書は「​トルクカルルク​​突︀兒克喀兒魯克​の酋​カヤリク​​喀押立克​の君​アルスラン カン​​阿兒思闌 汗​と、​アルマリク​​阿勒麻里克​の君​オザル​​鄂匝兒​は、以前は​カラキダイ​​喀剌乞䚟​​グル カン​​古兒 汗​に属していた。1211年、​チンギス​​成吉思​に帰順した。​チンギス​​成吉思​は一族の女性を​アルスラン​​阿兒思闌​に嫁にやった」と言う。​カヤリク​​喀押立克​は、元史 憲宗紀は​ハイヤリ​​海︀押立​とする。大佐​ユール​​裕勒​は「ゆかりの地は今の​コパル​​闊怕勒​の地に近い」と言う。​カルル​​柯耳魯​​ハヤリ​​哈押立​は、ともに元史訳文証補が詳しい。沈氏は​カラル​​合剌魯​とし、つまりは​アルシラン フイフ​​阿兒斯蘭 回鶻​であり、その説は誤り。遼史 ​アサラン フイフ​​阿薩蘭 回鶻​は、宋史 西州 ​フイフ​​回鶻​であり、国号は高昌である。 後でさらに​キウヂ​​龜玆​に移り、あるいは​キウヂ フイフ​​龜玆 回鶻​と称した。後でさらに​ベシバリ​​別失八里​に移り、元人はこれを​ウイウル​​畏吾兒​と言い、また​ウイウル​​委兀兒​とした。​フイフ​​回鶻​の別部は、​スイエハビン​​碎葉河濱​を建国した者があり、​フイフイ​​回回​敎人はこれを東​トルク​​突︀兒克​と言った。宋初、国勢ははなはだ盛んであった。その王はしばしば​アルシラン カン​​阿兒斯闌 汗​とも称した。後に西遼に追い払われ、河の間の地に移り、元太祖八年(1213年)、​ホルズミ​​貨勒自彌​に滅ぼされた。この二国はどちらも​アルシラン カン​​阿兒斯闌 汗​がいた。しかしみなこれは​フイフ​​回鶻​であり、​ハイヤリ​​海︀押立​​カルル​​柯耳魯​種と同じではなく、関連付けるべきではない。​イドフル​​亦都︀護兒​秋濤案、これは前文の​イドフ​​亦都︀護​である。太祖は第五子となるよう命じたので、ゆえに​イドフル​​亦都︀護兒​と称するようになり、石晋が児皇帝を称したようなものである。 も来朝し、奏して「陛下がもし臣に恩賜なされれば、遠くはことごとく聞き、近くはことごとく見るよう使いし、天子の服のほつれを繕い、金帯の星の飾りを拾い、まことに陛下四子の次席にあることを願い、その力を尽くすのである」と言った。上はその言葉を喜んで、息女を娶らせ、五番目の弟に序列した。秋濤案、この語はまだはっきりしない。考えるに秘史は「​ウイウ​​委吾​種の主​イドウト​​亦都︀兀惕​は、使臣​アトキラク​​阿惕乞剌黑​らを遣わし、​チンギス​​成吉思​のところに来て、「私は皇帝の声と名を聞くことができ、雲が晴れ日が見え、すべて氷が消え水が表れたかのようで、非常に喜ばしい。もし恩賜が得られるなら、願わくは第五子となり、気力を出すものである」と言った。​チンギス​​成吉思​は「あなたが来て、娘をあなたに与え、あなたを第五子にしよう」と言った。 これにより​イドウト​​亦都︀兀惕​は、金銀珠子緞疋などの品物を捧げて、来ておじぎをし​チンギス​​成吉思​にまみえた。かくて​アルアルトン​​阿勒阿勒屯​という名の娘をもって与えた」と言う。載せるところを詳しく比べるのは、考証に役立つことが親征録を補うからである。通世案、袞衣は、国君の服である。洪氏訳​ベレジン​​伯哷津​の書は「帝がもし私をしもべの列に置いてくだされば、遠きにも近きにも私が陛下の襟や帯の間に身を寄せていることを知らせることができる」と言う。注は「語意がはなはだ訳し難い」と言う。おそらく​ベレジン​​伯哷津​の訳文はあるいは誤解があるであろう。​トクチヤル​​脫忽察兒​を遣わして二千騎を率いて原書は二十とする。秋濤は三千と校改する。通世案、何氏は後文の「​トクチヤル​​脫忽察兒​三千騎」の語に拠って、三千と改めた。しかし西史は二千人と言う。本書の十の字は、明らかに千の誤りである。二字を必ずしも改めない。西の辺りの異民族の見張りに出した秋濤案、これは後文で言うところの征西の先鋒​トクチヤル​​脫忽察兒​である。丁丑年(1217年)にある。通世案、西史は「この年の春、金を討伐する命令を下し、まず​トガチヤル​​脫噶察兒​に二千人を率いて後路を防ぐよう命じた」と言う。原注「いわゆる後路は、おそらく​ケライ​​客剌亦​​ナイマン​​乃蠻​ら降った人々が、大軍が出たのに乗じて変を謀るのを防ぐことであろう」。考えるに二部はみなモンゴルの西にあり、ゆえにこれを西の辺りの異民族と言った。



〈史45-169下10秋,上始誓衆南征,克大水濼

秋、上始誓眾南征、秋濤案、本紀「二月、帝自將南伐、敗金將定薛於野狐嶺、取大水濼・豐利等縣。金復築烏沙堡。七月、命遮別攻烏沙堡及烏月營拔之」。是太祖︀誓衆南征、在春而非秋。與親征記異。湛然居士集亦云「辛未之春、天兵南渡」。當以紀爲正。克大水濼、又拔烏沙堡及昌桓撫等州通世案、水道提綱、蘇尼特部載諸︀湖、最大者︀曰呼爾泊、在左翼東南六十五里。沈子敦曰「呼爾泊、疑卽大水濼」。烏沙堡、在今山西大同府北塞外。三州、皆屬金西京路。昌州在撫州西北、今蘇尼特右翼西南。桓州、今庫爾圖巴爾哈孫、在獨石口外上駟院牧廠北。撫州、在今張家口外、鑲黄等四旗牧廠西南二十里。又案、續綱目云「蒙古侵擾雲中・九原、連歲不休。嘉定四年、遂破大水濼以進。金主始恐、四月釋買住、而遣西北路招討使粘合合打求和。蒙古主不許。金主命平章政事獨吉千家奴・參知政事完顏胡沙、行省事于撫州、西京留守紇石烈胡沙虎、行樞密院事、〈[#底本では直前の読点は句点。成吉思汗実録の同文引用に倣い修正]〉以禦蒙古。秋、〈[#底本では直前の読点なし]〉千家奴・胡沙〈[#底本では直前に句点]〉 至烏沙堡、未及設備、蒙古兵奄至、拔烏沙堡及烏月營。八月、蒙古主乘勝破白登城、遂攻西京、凡七日。胡沙虎懼、以麾下棄城突︀圍遁去。蒙古主以精︀騎三千馳之。金兵大敗。追至翠屏口。遂取西京及桓・撫州」。金史衞紹王紀、大安三年四月始書太祖︀來征、未允。蓋太祖︀親征在春、金主求和及備邊在夏、而西京諸︀州之陷、則在秋也。本書云秋始南征、非是。又元史旣書「取豐利等縣」於七月前、而明年壬申春、復云「帝破昌桓撫等州」。年月誤、而叙事複沓。速不台傳云「歲壬申、攻金桓州、先登拔其城」。石抹明安傳亦云「歲壬申、太祖︀率師、攻破金之撫州。」皆沿本紀之誤也。大太子朮赤、二太子察合台、三太子窩闊台、原注「太宗也」。通世案、原注三字、原入正文、今校改。又案、三子名、祕史作拙赤察阿歹斡歌歹、源流作珠齊察干岱諤格德依。破雲內・東勝・武・宣寧・豐・靖︀等州。金人懼棄西京。秋濤案、金之西京、卽今大同府。通世案、諸︀州皆屬金西京路。雲內州、今山西朔平府右玉縣。東勝州、在今歸化城西南百四十五里。武州、在今山西寧武府神︀池縣東北。金無宣州。宣寧、縣名、金屬大同府、今朔平府左雲縣。元史改宣寧・作朔。朔州金〈底本-376 屬西京路今屬朔平府。豐州、今歸化城土默特牧地。金無靖︀州、疑當作淨。金西京路有淨州、在今四子部落西北、與喀爾喀接界。元史往往誤淨爲靜、又誤爲靖︀。太祖︀紀四年、有「衞王允濟受貢於靜州」語。金史馬慶祥︀傳「〈[#底本では直前に「始めかぎ括弧」なし]〉 徙家淨州天山」。元史月乃合傳作靜州、馬祖︀常傳作靖︀州。又遣哲別率眾取東京。哲別知其中堅以眾墮城、通世案、以上疑脫難︀字。 卽引𨓆五百里。金人謂我軍已還、不復設備。哲別戒軍中、一騎牽〈東方學デジタル圖書館-72一馬、一晝夜馳還急攻、急原作忽、秋濤校改。大掠之以歸。秋濤案、金之東京、卽今遼陽州也。攷是年者︀別方攻中京、未能遽及東京。疑紀載有誤。本紀于辛未年載「九月、居庸關守將遁去。遮別遂入關抵中都︀。」而壬申年、載「十二月甲申、遮別攻東京、不拔、卽引去、夜馳還、襲克之」、與此書年月不合。祕史則云「者︀別將居庸關取了。成吉思入關下了營、遣軍馬攻取北平等郡。敎者︀別攻取東昌、不克回了、六宿郤翻回去、每人牽從馬一匹、晝夜兼行、使金人不意中間、將東昌取了。者︀別取了東昌、回來與成吉思相合」。是祕史又與此書所言、本係一事、而祕史以爲取東昌。攷東昌。在金時爲博州地、與中京隔遠。辛未年、元兵尙未及博州。惟癸酉年、太祖︀度居庸關、分兵三道、始破博・濟・濱・棣等州。是者︀別之襲取東昌、當係癸酉年事無疑。又案、祕史蓋係明朝初年所譯、故稱燕京曰北平、博州曰東昌。斯亦錢竹汀徐星伯諸︀先生所未論及也。因附識之。通世案、何說是也。哲別取東京、亦見西史、而事情不合。唯〈[#「唯」は底本では「睢」]〉吾也而傳云「太祖︀五年、吾也而與折不那演克金東京有功」。折不那演、卽哲別諾顏也。似哲別有克東京之事。然云太祖︀五年、與本書及太祖︀紀皆不合。耶律阿海︀傳云「太祖︀卽大位、敕左帥闍別略地漠南、以阿海︀爲先鋒、破烏沙堡、戰宣平、大㨗澮河、遂出居庸、耀兵燕北、拔宣德・德興諸︀郡、乘勝次北口攻下紫荆關」。是阿海︀常爲者︀別先鋒、而者︀別常從大軍轉戰也。者︀別雖㨗如鵞鳥、何暇能踰北京路、徑東京攻耶。又耶律留哥傳載「歲壬申太祖︀命按陳那衍、行軍至遼東。留哥率所部降之、共破金軍。帝召按陳還、而以可特哥副留哥屯其地。癸酉春、衆推留哥爲遼王云云」。是經略遼東者︀、按陳・可特哥、而者︀別不與焉。又槊直腯魯華傳載其從木華黎、歲辛未、破遼東西諸︀州、遂克東京。辛未、卽此年也。然木華黎定遼東西、在乙亥丙子之際。是紀年之誤、非誤哲別爲木華黎也。石抹也先傳又載也先從木華黎、用奇計、取東京。益知定東京者︀、木華黎而非哲別也。但祕史之北平、蒙文作中都︀、而譯文作北平、故知爲明人譯改。至東昌、則蒙文亦曰東昌、而不曰博州。此非明人譯改爲東昌也。元史地理志「唐博州、金隸大名府、元初隸東平路、至元四年、析爲博州路、十三年改東昌路」。是東昌之名、自世祖︀時始。元初史臣、安得知之。考、是歲元軍所破諸︀州、本書西史、皆有東勝、爲大同府西北境。哲別建奇功、當在此地。蓋祕史原本、本作東勝、而明人音譯、誤作東昌、不知元初無東昌也。修正祕史、又誤作東京、本書西史沿之、而不知東京非哲別所取也。

訳文 七七-七九

その秋、上は初めて人々に南征を誓い、秋濤案、元史 本紀「二月、帝自ら率いて南伐し、金の将である定薛を野狐嶺で破り、大水濼や豊利などの県を取った。金は再び烏沙堡を築いた。七月、​ヂエベ​​遮別​に命じて烏沙堡及び烏月営を攻めさせこれらを攻め落とした」。この太祖が人々に南征を誓ったのは、春であって秋ではない。親征記と異なる。湛然居士集も「辛未(1211年)の春、天兵は南に渡った」と言う。元史の紀をもって正しいとする。大水濼を治めて、また烏沙堡および昌桓撫の各州を攻め落とした通世案、水道提綱は、​スニト​​蘇尼特​部が諸湖を載せ、最大のものは​グルボ​​呼爾泊​と言い、左翼の東南六十五里にある。沈子敦は「​グルボ​​呼爾泊​は、おそらく大水濼であろう」と言う。烏沙堡は、今の山西省大同府北塞外にある。 三州は、みな金の西京路に属する。昌州は撫州の西北にあり、今の​スニト​​蘇尼特​右翼西南である。桓州は、今の​クルトバルハスン​​庫爾圖巴爾哈孫​であり、独石口の外 上駟院 牧廠北にある。撫州は、今の張家口の外にあり、鑲黄など四旗牧廠の西南二十里である。又案、続綱目は「モンゴルは雲中・九原を侵して乱し、休むことなく年が続いた。嘉定 四年(1211年)、遂に大水濼を破り進んだ。金主は恐れ始め、四月に​マイヂユ​​買住​を許し、西北路招討使​ネンカ カダ​​粘合 合打​を遣わして和を求めた。モンゴル主は許さなかった。 金主は平章政事​ドギ チエンヂヤヌ​​獨吉 千家奴​・参知政事​ワンヤン フシヤ​​完顏 胡沙​に命じて、省事于撫州に行かせ、西京留守​フシレ フシヤフ​​紇石烈 胡沙虎​を枢密院事に行かせ、モンゴルへの防ぎとした。秋、​チエンヂヤヌ​​千家奴​​フシヤ​​胡沙​は烏沙堡に至り、防備はいまだ及ばず、モンゴル兵はたちまち至り、烏沙堡 及び 烏月営を攻め落とした。八月、モンゴル主は勝ちに乗じて白登城を破り、遂に西京を攻めること、およそ七日。​フシヤフ​​胡沙虎​はおじけづき、麾下を率いて城を棄て囲みを突いて遁れ去った。モンゴル主は精騎三千でこれを追った。金兵は大敗した。追って翠屏口に至った。遂に西京および桓・撫州を取った」と言う。 金史 衛紹王紀は、大安 三年 四月に太祖の来征を書き始め、事実でない。おそらく太祖の親征は春にあり、金主は和を求め辺りを備えるのは夏にあり、そして西京諸州の陥落は、秋にあったのである。本書は秋の始めに南征と言い、正しくない。また元史は「豊利などの県を取った」を七月の前に書き終え、しかし年が明けた壬申(1212年)春、再び「帝は昌桓撫の各州を破った」と言う。年月が誤り、記述が重複している。​スブタイ​​速不台​伝は「歳壬申(1212年)、金の桓州を攻め、まずその城を登って攻め落とした」と言う。​シモ ミンガン​​石抹 明安​伝も「歳壬申(1212年)、太祖は軍を率いて、金の撫州を攻め破った」と言う。みな本紀の誤りに沿ったのである。 大太子​チユチ​​朮赤​、二太子​チヤガタイ​​察合台​、三太子​オコタイ​​窩闊台​は、原注「太宗である」。通世案、原注の三字、原書では正文に入れており、今校改する。又案、三子の名は、秘史は​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​とし、蒙古源流は​ヂユチ​​珠齊​ ​チヤガンダイ​​察干岱​ ​オゲデイ​​諤格德依​とする。雲内・東勝・武・宣寧・豊・靖等州を破った。金人は恐れて西京を棄てた。秋濤案、金の西京は、今の大同府である。通世案、諸州みな金の西京路に属する。雲内州は、今の山西省 朔平府 右玉県である。東勝州は、今は帰化城の西南百四十五里にある。武州は、今は山西省 寧武府 神池県の東北にある。金は宣州はない。宣寧は、県名で、金の大同府に属し、今の朔平府 左雲県である。元史は宣寧を改めて朔とする。金の西京路に属する朔州は今は朔平府に属する。〈底本-376 豊州は、今は帰化城​トメト​​土默特​牧地である。金は靖州はなく、おそらく浄と当てるのであろう。金の西京路は浄州にあり、今の四子部落西北にあり、​カルカ​​喀爾喀​と境を接している。元史はしばしば浄を誤って静とし、また誤って靖とする。元史 太祖紀 四年に、「衛王允済は静州で貢物を受けた」という語がある。金史 馬慶祥伝「家を浄州天山に移した」。元史 ​ユカナイ​​月合乃​伝は静州とし、馬祖常伝は靖州とする。また​ヂエベ​​哲別​を遣わし軍勢を率いて東京を取った。​ヂエベ​​哲別​はその中堅を率いて軍勢は城を落とし、通世案、前文に難の字が抜けているかもしれない。 ただちに五百里を引き退いた。金人は我が軍はすでに戻って来たと言い、再び防備しなかった。​ヂエベ​​哲別​は軍中を戒め、一騎が一馬を引き連れて、一昼夜駆けて急に攻めに帰り、急は原書では忽、秋濤が校改する。大いにこれを掠めて帰った。秋濤案、金の東京は、今の遼陽州である。この年の​ヂエベ​​者︀別​が中京を攻めた経路を考えるに、速やかに東京に至ることはできない。元史の紀は誤りを載せているかもしれない。本紀は辛未年(1211年)に「九月、居庸関の守将は遁れ去った。​ヂエベ​​遮別​は遂に関に入り​チユンド​​中都︀​に至った。」と載せる。だが壬申年(1212年)、「十二月甲申、​ヂエベ​​遮別​は東京を攻め、攻め落とせず、ただちに引き去り、夜に馳けて戻り、襲ってこれに勝った」と載せ、この書の年月と合わない。 秘史では「​ヂエベ​​者︀別​は居庸関に行って取った。​チンギス​​成吉思​は関に入り下馬して宿営し、軍馬を遣わして北平などの郡を攻め取った。​ヂエベ​​者︀別​にを攻め取らせて、勝てず帰り、六日かかる距離から翻って回り行き、人毎に馬一匹を引き従えて、昼夜兼行し、金人の不意をついて密かに当たらせて、まさに​ドンヂヤン​​東昌​を取ろうとした。​ヂエベ​​者︀別​​ドンヂヤン​​東昌​を取り終え、帰って来て​チンギス​​成吉思​と合流した」と言う。この秘史とこの書の言う所は、根本はひとつの事につながっており、秘史は​ドンヂヤン​​東昌​を取ったとした。​ドンヂヤン​​東昌​を考える。金の時代は博州の地として存在し、中京と遠く隔たっている。辛未年(1211年)、元兵はなおまだ博州に至っていない。ただ癸酉年(1213年)、太祖は居庸関を越え、兵を三道に分け、博・済・浜・棣などの州を破り始めた。この​ヂエベ​​者︀別​​ドンヂヤン​​東昌​を襲い取ったのは、癸酉年(1213年)にかかる事は疑いない。又案、秘史はおそらく明朝初年に訳したところに関わり、ゆえに称して燕京を北平と言い、博州を​ドンヂヤン​​東昌​と言う。これも銭竹汀と徐星伯の諸先生がまだ論じ及んでいない所である。 ついでにこれを付記しておく。通世案、何の説は正しい。​ヂエベ​​哲別​は東京を取り、また西史に見え、事情が合わない。ただ​ウエル​​吾也而​伝は「太祖五年、​ウエル​​吾也而​​ヂエブ ノヤン​​折不 那演​は金の東京を攻めて功があった」と言う。​ヂエブ ノヤン​​折不 那演​は、​ヂエベ ノヤン​​哲別 諾顏​である。​ヂエベ​​哲別​が東京を攻めたことがあったようである。だが太祖五年と言うのは、本書及び太祖紀とどちらも合わない。​エリユ アハイ​​耶律 阿海︀​伝は「太祖は即位し、左帥​シエベ​​闍別​に漠南を攻め取るよう勅し、​アハイ​​阿海︀​を先鋒とし、烏沙堡を破り、宣平を戦い、澮河を大いに勝ち、遂に居庸を出て、燕北に兵を輝かせ、宣徳と徳興の諸郡を攻め落とし、勝ちに乗じ次いで北口を攻め紫荆関を下した」と言う。この​アハイ​​阿海︀​は常に​ヂエベ​​者︀別​の先鋒とされ、そして​ヂエベ​​者︀別​は常に大軍を従えて転戦したのである。 ​ヂエベ​​者︀別​が鵞鳥のように素早いとはいえ、どうして北京路を越えてすぐに東京を攻める暇があるであろうか。また​エリユ リウゲ​​耶律 留哥​伝は「歳壬申(1212年)太祖は​アンチン ノヤン​​按陳 那衍​に命じて、軍を行かせて遼東に至った。​リウゲ​​留哥​が率いる部はこれに降り、共に金軍を破った。帝は​アンチン​​按陳​を召還し、​カテゲ​​可特哥​​リウゲ​​留哥​に付き添わせその地に留まった。癸酉(1213年)春、人々は​リウゲ​​留哥​を推して遼王とした云云」と載せる。これで遼東を経略した者は、​アンチン​​按陳​​カテゲ​​可特哥​で、​ヂエベ​​者︀別​は一緒でなかったか。また​シユチトルカ​​槊直腯魯華​伝はそれが​ムホアリ​​木華黎​に従ったことを載せ、歳辛未(1211年)、遼東遼西の諸州を破り、遂に東京を収めた。辛未は、この年である。そして​ムホアリ​​木華黎​は遼東西を定めたのは、乙亥(1215年)丙子(1216年)の間にあった。 この紀年の誤りは、​ヂエベ​​哲別​​ムホアリ​​木華黎​と誤ったのではない。​シモ エセン​​石抹 也先​伝もまた​エセン​​也先​​ムホアリ​​木華黎​に従い、奇計を用い、東京を取ったと載せる。ますます東京を定めたとわかる者は、​ムホアリ​​木華黎​であり​ヂエベ​​哲別​ではない。しかし秘史の北平は、蒙文は​チユンド​​中都︀​であり、訳文は北平とし、ゆえに明人が訳改したとするのがわかる。​ドンヂヤン​​東昌​に至っては、蒙文も​ドンヂヤン​​東昌​と言い、博州と言わない。 これは明人が訳改して​ドンヂヤン​​東昌​としたのではない。元史 地理志「唐の博州は、金は大名府に属し、元初は東平路に属し、至元 四年(1267年)、分かれて博州路となり、十三年(1276年)に東昌路と改めた」。この​ドンヂヤン​​東昌​の名は、世祖の時から始まった。元初の史臣が、どうしてこれを知り得ようか。考えるに、この歳に元軍は諸州を破り、本書と西史は、みな​ドンシエン​​東勝​があり、大同府西北境とする。​ヂエベ​​哲別​が奇功を立てたのは、この地に当たる。おそらく秘史の原書は、根本は​ドンシエン​​東勝​であり、そして明人が音訳し、誤って​ドンヂヤン​​東昌​とし、元初に​ドンヂヤン​​東昌​が無いことを知らなかったのである。修正秘史もまた、誤って東京とし、本書と西史はこれに沿い、東京が​ヂエベ​​哲別​の取った所でないことを知らなかったのである。



〈史45-169下16上之將發撫州也,金人以招討九斤、監軍萬奴等領大軍力備于野狐嶺

上之將發撫州也、金人以招討九斤監軍爲奴等九斤、元史作紇石烈九斤、續綱目作完顏九斤。爲奴、續綱目作完顏萬奴、伯哷津作斡奴。洪氏曰「卽爲奴」。秋濤案、爲奴二字疑誤。文田案、爲奴當作萬奴。卽元史太祖︀紀蒲鮮萬奴也。太祖︀紀金宣撫蒲鮮萬奴、塔思傳作金咸平宣撫完顏萬奴。考證云「蒲鮮爲金之庶姓、完顏爲金之國姓。無一人兩姓之理、紀傳必有一誤。或當時賜姓則未可知」。劉祁歸潜志梁詢誼條云「宣宗南渡、宗室萬奴叛據上京」。東平王世家云「完顏萬奴、金內族也」。則亦似非賜姓。然金史宣宗紀、元史王珣傳、及高麗史、皆作蒲鮮、不知其故。領大軍、設備於野狐嶺、通世案、在直隷宣化府萬全縣北三十里、張家口外。祕史蒙文作忽捏堅荅巴。忽捏堅謂狐、荅巴謂嶺。又以參政胡沙通世案、卽完顏承裕、金史有傳。率軍爲後繼。契丹軍帥、通世案、伯哷津作金將巴古失・桑臣二人。謀謂九斤曰「聞彼新破撫州、以所獲物分賜軍中、馬牧於野。出不虞之際、宜速騎以掩之也」。九斤曰「此危道也。不若馬步倶進、爲計萬全」。上聞金馬至、進拒獾兒觜〈[#「觜」は底本では「日+觜」。文求堂本は「獾兒觜」を「獾兒唃嘴」とする。成吉思汗実録や四庫全書存目叢書本の「獾兒觜」に倣い修正]〉通世案、在野狐嶺北。西史云「帝聞警、軍中方餐、棄飯︀而起、以二軍拒於權兒嘴」。九斤命麾下明安通世案、元史作石抹明安、有傳。曰「汝嘗使北方、素識太祖︀皇帝。秋濤案、九斤之言、不當稱太祖︀、又生時不當稱謚。此元代史臣之辭、猶左傳石碏言「陳桓公有寵於王」也。通世案、西史作成吉思汗、元史明安傳作蒙古國王。其往臨陣、其原作共。通世依元史明安傳改。問以擧兵之由、〈底本-377 金國何怨於君而有此擧。若不然、卽詬之」。明安來如所敎、俄策馬來降。上命麾下縛之、俟吾戰畢問之也。〈史45-170上1遂與九斤戰、大敗之。其人馬蹂躙死者︀、不可勝計。通世案、西史云「乞䚟・哈剌乞䚟・主兒只諸︀軍大敗、伏尸徧野」。謂漢︀契丹女直軍也。祕史云「者︀別將金國陸續來的軍馬殺︀敗。成吉思中軍隨後到來、將金國的契丹女眞等緊要的軍馬都︀勝了」。亦詳。因勝彼、復破胡沙軍於會合堡。通世案、金史衞紹王紀云「大安三年八月、千家奴・胡沙自撫州退軍、駐宣平。九月、敗績于會河堡。」完顏承裕傳云「八月、大元大兵至野狐嶺。承裕喪氣、不敢拒戰、退至宣平云云。其夜承裕率兵南行。大元兵踵擊之。明日、至會河川。承裕兵大潰。承裕僅脫身走入宣德」。殿本改川爲堡。宣平、金西京路宣德州屬縣、故城在今直隷宣化府懷安縣東北。會河堡、在今宣化府萬全縣西。元史本紀云「六年八月、帝及金師戰於宣平之會河川敗之」、葢據承裕傳也。又案、獾兒嘴之戰、則野狐嶺之戰也。元史辛未二月書「敗金將定薛於野狐嶺」、壬申春又叙獾兒嘴之戰、不知兩戰本一事也。且辛未二月、北軍未破撫州。安得有野狐嶺之戰耶。定薛之名、僅見於察罕傳、亦疑非大帥。獾兒嘴之戰、似據本書。然年月皆誤。金人精︀銳、盡沒於此。上歸語明安曰「我與汝無隙、何對衆相辱」。對曰「臣素有歸志、恐其難︀見、故因如所敎。不爾何由瞻望天顏。」上善其言、命釋之。

訳文 七九-八〇

上とその将は撫州を出発し、金人は招討​ヂウヂン​​九斤​監軍​エイヌ​​爲奴​らをもって​ヂウヂン​​九斤​は、元史は​フシレ ヂウヂン​​紇石烈 九斤​とし、続綱目は​ワンヤン ヂウヂン​​完顏 九斤​とする。​エイヌ​​爲奴​は、続綱目は​ワンヤン ワンヌ​​完顏 萬奴​とし、​ベレジン​​伯哷津​​オヌ​​斡奴​とする。洪氏は「つまり​エイヌ​​爲奴​」と言う。秋濤案、​エイヌ​​爲奴​の二字に誤りが疑われる。文田案、​エイヌ​​爲奴​​ワンヌ​​萬奴​とする。つまり元史 太祖紀の​ブセン ワンヌ​​蒲鮮 萬奴​である。太祖紀で金の宣撫​ブセン ワンヌ​​蒲鮮 萬奴​は、​タス​​塔思​伝は金の咸平路の宣撫​ワンヤン ワンヌ​​完顏 萬奴​とする。考証は「​ブセン​​蒲鮮​を金の庶姓とみなし、​ワンヤン​​完顏​を金の国姓とみなす。一人が二つの姓の理由はなく、紀と伝に必ずひとつ誤りがある。あるいは当時は姓を賜わったことがわからなかった」と言う。 劉祁帰潜志の梁詢誼のくだりは「宣宗は南に渡り、一族の​ワンヌ​​萬奴​は叛いて上京を占拠した」と言う。東平王世家は「​ワンヤン ワンヌ​​完顏 萬奴​は、金の宮中の一族である」と言う。であればまた賜った姓ではないようである。しかし金史 宣宗紀、元史 王珣伝、及び高麗史は、みな​ブセン​​蒲鮮​とし、その理由はわからない。大軍を率いて、野狐嶺で防備し、通世案、直隷 宣化府 万全県の北三十里、張家口の外にある。秘史蒙文は​クネゲン ダバ​​忽捏堅 荅巴​とする。​クネゲン​​忽捏堅​は狐を言い、​ダバ​​荅巴​は嶺を言う。また参政​フシヤ​​胡沙​をもって通世案、これは​ワンヤン ヂエンユ​​完顏 承裕​で、金史に伝がある。軍を率いて後に続いた。​キダン​​契丹​の大将は、通世案、​ベレジン​​伯哷津​は金の将​バフシ​​巴古失​​サンチン​​桑臣​二人とする。 ​ヂウヂン​​九斤​に謀って「彼が新たに撫州を破り、獲物を軍中に分賜して、野で馬を放し飼いにしたと聞いた。思いがけないことが起きた際は、速やかに駆けつけてこれを防ぐがよい」と言った。​ヂウヂン​​九斤​は「これは詭道である。もし馬が歩んでともに進まないなら、すべて謀略である」と言った。上は金の馬が至ったと聞き、進んで獾児觜で防いだ。通世案、野狐嶺の北にある。西史は「帝は知らせを聞き、軍中はちょうど食事をしており、飯を棄てて出兵し、二軍によって獾児觜で防いだ」。 ​ヂウヂン​​九斤​は麾下の​ミンガン​​明安​に命じて通世案、元史は​シモ ミンガン​​石抹 明安​とし、伝がある。「お前はかつて北方に使いし、もとより太祖皇帝と面識がある。秋濤案、​ヂウヂン​​九斤​の言葉は、太祖と称したのはふさわしくなく、また生きている時は謚号で称するのは正しくない。これは元代史臣の言葉であり、ちょうど春秋左氏伝で石碏が「陳の桓公〈[#「桓公」は嬀鮑の謚号]〉は王から気に入られている」と言ったようなものである。通世案、西史は​チンギス カン​​成吉思 汗​とし、元史​ミンガン​​明安​伝はモンゴル国王とする。 願わくは行って陣をよく見て、其は原書では共。通世が元史​ミンガン​​明安​伝に拠って改める。挙兵の理由を問うて、〈底本-377金国がどうしてあなたを恨んでこの出兵をするだろうか。もしそうでないなら、これを辱める」と言った。​ミンガン​​明安​は来て敎えたようにし、たちまち馬をむち打って来て降った。上は麾下にこれを縛るよう命じ、我が戦いが終わるの待ってこれに問うた。そのまま​ヂウヂン​​九斤​と戦い、大いにこれを破った。その人馬が死者を踏みにじること、数え切れなかった。通世案、西史は「​キダイ​​乞䚟​​ハラキダイ​​哈剌乞䚟​​ヂユルヂ​​主兒只​諸軍は大いに敗れ、野のすみずみまで屍が横たわった」と言う。いわゆる漢と​キダン​​契丹​​ヂユチ​​女直​の軍である。秘史は「​ヂエベ​​者︀別​は進んで絶え間なく続く金国の軍馬を殺し破った。​チンギス​​成吉思​の中軍は後に従い至り来て、進んで金国の​キダン​​契丹​​ヂユチン​​女眞​などの奮い立つ軍馬をすべて破った」と言う。これまた詳しい。彼らに勝ったことで、再び​フシヤ​​胡沙​軍を​フイハ​​會合​砦で破った。通世案、金史 衛紹王紀は「大安 三年 八月、​チエンヂヤヌ​​千家奴​​フシヤ​​胡沙​は撫州より軍を退き、宣平に駐留した。九月、​フイハ​​會河​砦で大敗した。」と言い​ワンヤン ヂエンユ​​完顏 承裕​伝は「八月、大元の大兵は野狐嶺に至った。​ヂエンユ​​承裕​は勢いを失い、防戦する勇気がなく、退いて宣平に至り云云。その夜​ヂエンユ​​承裕​は兵を率いて南に行った。大元の兵はこれを追って撃った。明くる日、会河川に至った。​ヂエンユ​​承裕​の兵は大いに潰えた。​ヂエンユ​​承裕​はかろうじて抜け出して宣徳に走り入った」と言う。殿本は改めて川を堡とする。宣平は、金 西京路 宣徳州の属県で、ゆえに城は今の直隷 宣化府 懐安県の東北にある。会河堡は、今の宣化府 万全県の西にある。元史 本紀は「六年(1211年)八月、帝は金の軍隊に追いつき宣平の会河川で戦いこれを破った」と言い、おそらく​ヂエンユ​​承裕​伝に拠っているのであろう。又案、獾児嘴の戦は、野狐嶺の戦である。元史は辛未(1211年)二月に「金の将である定薛を野狐嶺で破った」と書き、壬申(1212年)春再び獾児嘴の戦いを述べ、二つの戦いの根本がひとつの事かはわからない。さらに辛未(1211年)二月、北軍はいまだ撫州を破っていない。どうして野狐嶺の戦をできるであろうか。定薛の名は、かろうじて​チヤハン​​察罕​伝に見え、これも大元帥ではないかもしれない。獾児嘴の戦は、本書に拠ったようである。そして年月は皆誤っている。金人の精鋭は、ことごとくここで死んだ。上は帰って​ミンガン​​明安​に「私とお前に仲違いはなく、どうして人々が辱め合うことがあろうか」と言った。答えて「臣はまえまえから帰順する考えがあり、もし災いが起きたらと恐れ、ゆえに敎えに従った。天顔を仰ぎ見ない理由これあろうか」と言った。上はその言葉を善しとし、これを放つよう命じた。





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