北条五代記巻第六 目次
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北条五代記巻第六
聞しは今。
侍衆四五人
寄合。むかし
関東にての
軍物語をおもひ
〳〵にさた有。其中に一人云けるは。
我生国は
越後なり。上杉
輝虎はゑちご一国を
持て。
関八
州の
主たる。北条
氏康とたゝかひ。つゐに
討負ず。あまつさへ一
年。小田原
近所まで。をし
込たるは。其
名をえたる
猛強の大
将なりといふ。又一人われは
甲州の
住人なり。武田信玄は
甲斐するが。両国を
持て。
氏康とたゝかひ。是も一年小田原へをし入。
退く時に至て。
城より出て。
跡をしたひける所に。
相模三増にて
合戦し。
信玄討かちおほくの
敵を
討取たり。
氏康武勇よはき
故。
輝虎も信玄も。小田原へをし
込ぬ。氏康
耻辱を
末代に
残すといふ。爰にいにしへ。北条家につかへし。
老士下座のかたすみに。そらねぶりして
居たりしが。此よしを聞。
耳にやかゝりつらん。
座中へにじり出て云けるは。
愚なる人々のいひ事かな。其
時代のいくさを。あらかじめ
聞ずして。
難ぜらるゝは
僻事也。われはいにしへ氏康の
家人。其比の
軍にあひたり。然に
上野下野。
武蔵。
下総に。
前々より
居住する氏康はた
下の
侍共。
逆臣をくはだて。
輝虎信玄にくみし。小田原へはたらくといへ共。かれらか
働をばかつてさたせず。遠国よりたゞ
我独。
羽おひて
飛来るやうに。云なせる故聞人
武勇きどくに思へり。逆臣有て国を
乱すは。古
今の
例。小田原へ
働くとて。いかで氏康の
耻辱ならん。然ば
甲州衆我国の
贔屓して。大将の
威光。
諸侍の
武辺の手
柄をさたする事。其方一人にかきらず
甲州衆あまたの人の物語をわれ聞をぼえたり。され共
相違あり。其
是非を申さんに
気にかけとがむべからず。それいかにといふに。人をあなどれば。
後人にあなどられぬと古人云り。ていれば。
甲州侍。
武勇に
自慢し。
広言をはき。
他国の大将をあなどつて。
数度の合戦に
切勝多く国をて切取よし。
利口せらるゝといへ共。
丸く持たる国は
甲斐するが。両国なり其外は。
近国のかたはしの小侍を。
旗下になす斗なり。永禄十二年の冬
蒲原に。北条新三郎
在城す。小城なれば
信玄のつ取ぬ。其
節高国寺三
枚橋を。をのづから
開退ぬ。此三城を取返し手
柄にすといへ共。するが
国中に
長久保。
泉頭。
戸倉。
志師浜。此四ケ
城は氏
康持り。扨又
海浦里つゞき。
香ぬき。
志下志師浜。
真籠江の
浦。
多飛口野。此七ケ所の
浦里。もするが
領。氏康
持国なり。
信玄勝頼時代まで。此するが
領を取かへさんと。一
生涯望み斗にて
過られたり。いかにいはん。氏康
前々より
持来る
城をや。然に信玄は父
信虎を
追出し。
甲州をうばひ取て。我国とす。
駿河は
今川氏真の国なるを。氏真
若輩にて。
隣国の
源家康に。切てとらるべし。
他人にとらせ
無念なり。氏真母は
信玄があね。氏真は
我甥なりと。氏真を
遠州へ
追は
【 NDLJP:516】らつて。我国とす。いにしへ今に至るまで。大
名小名
子を
持。
親類。
縁類をねがひもとめるは。
自然の時。
力をあはせたがひに
頼。たのまれんが
為也。信玄世の
誹見をもわきまへず。
他のあざけりをもはぢず。五
常に
背き。
深欲に
着して。
悪逆無道。ことばに
絶たり。両国を
押取。
手柄をふるふといへ共。をのが
骨肉のうち。
悪子は
耻を。
父にゆづるといへる。
古人のこと葉。たゞ此人の
噂。
人非人。
鬼畜木石となんぞことならん。
論語に。
君子は
親をすてずと云々。是は
周公旦の
言葉也。をよそ
君子たる人は。
我親類一
族を
忘れ
捨ざるをもて
仁とす。
寛喜の比をひ北条
武蔵守恭時は。かまくらの
実検。
文武の
達人。天下
静謐に
治りぬ。然に日中に。
名越辺騒動す。北条
越後守の
亭に。
敵打入のよし其聞えあり。此人は
武州の
弟なり。武州
評定の
座にありて。此よしを聞。
直に
彼地にむかはしめ給ふ
相州以下出仕の人々。其
後にしたひて。
駕を
馳す。然に
越州は。
他行なり。
留守居の
侍ども。
悪党共と
戦ひ。
討亡し無事に成ぬ。
武州此
由を
聞。
路次より帰り給ひぬ。左衛門尉
盛綱。武州を
諫申て云。
重職を
帯し給ふ御身也。たとひ
国敵たりといふ共。先御
使をもつて。
左右を
聞召。御はからひ有べき事か。
盛綱等を。さしつかはされば。
謀をめぐらさしむべし。事を聞あへず。むかはせしめ給ふの条
不可也。
向後もしかくのごときの儀にをいては。ほとんど。
乱世のもとひ。
世のそしりをまねくべきかと云々。
武州答ていはく。申所しかるべし。
但人の世にあるは。
親類〈[#「親類」は底本では「類親」]〉を思ふが故也。
眼前にをいて。
兄弟を
殺害せられん事。
豈人のそしりを
招にあらずや。其時は
定て。
重職のせんなからんか。
武道は
争か。
人体によらんや。只今
越州。
敵にかこまるゝのよし。是を聞。
他人は
少事にしよずるか。
兄の心ざす所は。
建暦承久の大敵に。たがふべからずと云々。時に
駿河前司義村かたはらに
候し。是を承り。
感涙を
拭ふ。もりつなは
面をたれて
径廻す。義村
座を
立の
後御所に参じ。
御台所にをいて。此事を語る
伺候の
男女是を聞。
感歎するのあまり。
盛綱が
諷詞の
句。
武州の
陣謝。其
理猶いづれの方にあらんやのよし。すこぶる相論に
及んで。是を
決せずと云々。
誠に世に有て。
親類をば。かくこそ思ふべき事なれ。
信玄一
生涯。
六順をすてゝ。六
逆に
着し。
仏神のにくみをうけ。
弓矢の
冥加に
背き。
永代のあざけりを成ぬ。然に信玄は。
近国の
敵と。
百度たゝかつて。一度うちまけずと。
広言すといへ共。其
益なし。百度たゝかつて。百度
勝を
善とはいはず。はかりごとを。
油幕のうちに
廻し。た〻かはずして。国を
治るを。
名大将とす。するがの内氏
康持の四ケ
城を。一城取かへさぬ。
無手柄にて。人の国へいかでをよばんや。誠の
願ひ事。
益なき
過言也。上をまなぶ下なれば。
郎従等武辺の
手柄をいひ。
敵は五万三万。みかたはわづかに五千三千にて。
数度の
合戦に
切勝われは
首を百取。
誰は首を五十三十取たると。人
偽をいへば。我もいひ。たがひにほめつ。ほめられつ。他人にあひて。
手柄をいふは。国ならひぞかし。是又主君のまねをなす。
信玄は
常に
武威を
言葉にはき。
悪体〈[#「悪体」はママ。「憎体」の意か]〉を
面にあらはし。
【 NDLJP:517】けんきやう人といはるゝを。よろこべり。
故に
従者の云。
信長も。氏
康も。君の御
鑓さきにをそれ。
彼けんきやう人に。
我国を切てとられぬ様にねがひ候といへば。
微咲其者をほうびせられたり。去程に五
常の道をしらず。
父信虎を
追出し。諸国を
牢籠させ。わが
耻辱をもわきまへず。
子息太郎
義信を
籠に入。
後害す。六
親不和にして。三
宝の
加護有べからず。
忠功の
郎従等。すこし
誤あれば。
例のけんきやうおこり。
首を切事。むしを
殺すよりいとやすし。
神明の
冥感に
背き。
人罰のがれがたし。其上
信玄大
僧正と。
自名付たるとや。それ
僧正号は。大
切の
官位。
行基菩薩よりはじまりぬ。かるがゆへに。
出家の官にのばる事は。
仏道を二十年と卅年
修行し。
智得霊験のしるし有て。
禁中へ
奏聞し。其
功による。かるがゆへに。
徳なくして。
高位に有をば。
官賊と名付。
信玄一
生涯。
極欲に
着し。
逆罪はなせ共
〳〵あきたらず。
修善は一
塵ほども。たくはへず。かしらをそりても。心をそらず。
悪逆無道にして。大
僧正にすゝむ事。
誠の
官賊。
前代未聞なり。扨又
甲州侍は。義
理を知て。けなげに
死すべき所なれば。一足もひかず。
君のためにくんこうを。ぬきんで。
命をば一
塵よりも
軽く。
名をおしみ。
義を
重んずといふ。然に天正十年の
春。信長公
甲州へ
発向し給ふ。
勝頼も
郎従等も。此
威勢に
恐れ。
肝をけし。
甲冑を
帯し。
弓鑓を取てむかはん事は思ひもよらず。身をかろくし。手を打ふつて。一
足も
前へ。にげゆかん事をねがひ。
敵のはたをも見ずして。
只聞
落にはいぐんす。
勝頼古符中へ
落給ひし時迄は。一二百人
供しつるが。
皆にげ
散て。勝頼
野田といふ
在所へ
落行給ひし時。名有
侍には。
土屋惣蔵たゞ一人供す。
勝頼公さがみは
敵たらといへ共。
北のかたを
先立。氏
政をたのまんと思ふはいかにとのたまふ。北のかた云。
兄の三郎
景虎を
情なくもころし。何を
面目にやと。
勝頼より
前に
自害あり。皆人是を見て。
女姓たりといへ共。勝頼に心
勝れりと
感じたり。
家老長坂長閑を尋給ひければ。十日
以前より見えず。
跡部主爨と尋ぬれば。
昨日まで見えしが
失ぬといふ。
勝頼は
野田のおく。
天目山の
郷〈[#「郷」は底本では「卿」]〉人共に
害せられ給ひぬ。
甲州侍兼日の
広言。みぬ世の
嘲となる。
信長公
甲府へ打入給ひて後。甲州にて
古へ
誉有し侍共。みな罷出候へ。御扶
持有べしと
高札を立られければ。誠とおもひ。山
嶺を
分出て。我も
〳〵と。
着到に
仮名を
記す。然に。
甲。
駿両国の侍共。
鑓を一
挺取なをさず。
矢を一筋はなさず。敵のはたをも見ずたゞ
聞落に。主を見すて
迯行
臆病者。
後代のこらしめとて。百余人
縄をかけ。皆
首をぞ
切れたり。されば
俗語に。
能有
鷹は。
爪をかくすと云事おもひ合せり。
但古事あるやらん是をしらず。我此ことばを
察するに。
鷹は爪有ゆへに。
鳥をとる。爪なくして鳥は。とりがたし。其
爪と云は。
勝負を
決する
随一也。扨又
侍の爪は
武勇也其
武の爪を。
戦場にもあらずして。常に外にあらはさんは。
無能の
鷹のたぐひ。
高く
飛鳥をはうべからず。されば
早雲寺殿。二十一ケ条と
号し。
侍一
生涯身の
行の
教を。しるしをかれたる文有。其内二十ケ条に。
武道のさた一
言なし。
終の一
【 NDLJP:518】ケ条に。
文武弓馬の
道は
常なり。しるすに
及ばず。
左文右武は。いにしへの
法。
兼てそなへずんばあるべからずと。書とめ給ひぬ。又
氏康は。
文武の
達人。
猛強の大将にて。此
時代に至て。関八州をおさめられたり。氏康のたまふは。
数度の
合戦に
勝利をうる事。我力にはあらず。ひとへに八
幡大
菩薩の。
冥感にかなひ。其上
郎従等が
忠功によるがゆへなりと。わが
武勇を。いひかくせり。此
等の人をそも
能ある
鷹爪をかくすといつつべけれ。誠に
後代の
記録にも
残るべきは。小田原北条
家の
弓矢なり。ていれば。関東侍はいにしへより
数十
代相つたはり。かまくらの
公方の御
被官。官
領上杉の
郎従等也。然に古河の公方
春氏公。上杉
憲政と一
味し。天文十五年四月廿日
武州河越の
舘にをいて。氏康と
合戦し氏康
討かつて。公方をも上杉をも。
追討す
猛威を
遠近にふるひしかは。
関東さふらひ皆こと
〳〵く
降人と
成て。氏康
幕下に
属し。上杉は
越後へ
落行。
景虎を頼み。公方は氏康
妹聟。其上
若君御
誕生骨肉同姓の儀たるによて。さすがうちはたしがたく。
逆意をなだめ後も公方にあふぎ奉る所に。
動ばいにしへの
郎従等を相かたらひ。氏康に
敵対有によて。
或時は
相州はた野へながされ。或時は
下総の国
関宿へ
流罪せられ。世に有ても有がひなし。されば氏康は関東
諸侍の
底意を兼てはかり
知て。無事の時
境目の城々に。
多人数を入。
兵粮米を
籠をき。
敵にはかに
逆乱出来すといへ共。あへてもておどろかず。
持国を
堅固に
守護し給へり。然に関東侍
古へをしたひ。公方上杉の
帰国を一
度とねがひ。二度古主をあふがばやと其内に一人
野心をさしはさみ。文をめぐらせば。皆それにつきしたひ。
信濃。
上野。
武蔵。
下野。
常陸。
下総の侍共。一
味し
輝虎を大
将軍とし。永禄三年の春大
軍を
引率し。さがみ大
磯辺まではたらき。
在家を
放火し
帰陣す。扨又永禄十一年の冬。
武田信玄するがへ
出陣し。今川
氏真を
追討〈[#「追討」は底本では「討討」]〉す。氏真は
遠州懸川へ
落行。信玄は
駿府に
旗を立られたり。其旗のそばに。いかなる
者か。
狂歌を書ふだを立ける
かひもなき。大僧正の官賊が。よくにするがのをひたをす見よ
とぞよみたる。然に氏真は氏康の聟たり此よしを聞。氏康氏政父子同十二年正月中旬五万余騎を率し。するがへ進発す。信玄此よしを聞。急ぎ小田原へ使者として。寺島甫庵入道。宏才者を遣す所に。同十三日三島にて出合たり。氏真の不義。信玄異心なき旨謝すといへ共。しやつに物ないはせぞと。首につなさし。三枚ばしに張付にかけられけり。氏康するがへ打入。信玄押領所。こと〴〵くもて追討し同十八日。蒲原由井。薩埵山へ取のぼり。はたを上られたり信玄是を見て。興津。清見辺へ。人数を出し。たがひに。いどみたゝかふといへ共。中間に難所有て大合戦なりがたし。数日を送る所に信玄四月廿八日。惣陣をはらつて。道もなき野山をたどり。夜もすがら甲州へにげ行ぬ。氏康は信玄にげ行由聞。するが国中。かん原。高国寺。三枚橋。戸倉。志師浜。泉頭。長久保。七ツの城に人数を籠をき。氏康父子小田原へ帰陣せり。【 NDLJP:519】するが大宮。善徳寺。富士のすそ野。過半氏康に切とられ。信玄遺恨たるべしといふ所に。信玄同年六月二日。甲州を打立。駿州がはなり島に陣取。氏康も駿河へ出馬あり。対陣す。然所に蒲原。高国寺三枚ばしの二城より相図をさだめ信玄陣場へ夜討し。火をはなち焼立。四方より鯨波をどつとあぐる。信玄おどろき敗軍す。一陣破れ残党全からず。夜もすがら甲府へにげ行。信玄八幡大菩薩と書たるはたを捨たり是を拾ひ氏康へ参らすれば。敵のをくれ此旗にて知れたると笑ひ。小田原へ帰陣なり。其節落書に
名をかへよ。たけだがほすと八幡の。はた打すててにげ田信玄
とぞよみける。信玄当春夏両度の合戦に二度甲府まで迯行。是にもこりず。信玄又出陣すべしと。この人数をこと〴〵く。駿州へさしつかはして。七の城々に加勢を入。相待所に。信玄上野。下野。武蔵。下総に居住する。いにしへ公方上杉の郎従等一味し信玄甲府を同十月二日に打立。一味の加勢大軍をいんそつし。道筋の城々にをさへを置。すでに小田原へはたらきをなす。氏康案外。無勢なれば合戦かなはず。小田原の人数は。芦子河原へ打出大河をへだてゝ陣す。信玄さき手の者酒勾の宿を放火し。即刻引返す。時に至て小田原より切て出。追返し。敵敗軍す。氏康氏政。団扇をあげて。もらすな。あますな。討とれと下知し給へば。松田尾張守。山角上野守。伊勢備中守。福島伊賀守等前をかけ。酒勾より大磯平塚辺まで。をひうつ首の数。千余と云々。北条上総守子息常陸守は。甘縄よりはせ参じ同陸奥守。同安房守大道寺駿河守は。居城をあげてはせくはゝる。十月六日の事なるに。相。甲のさかひ。三増到下に。信玄人数を残しをきぬ。味方是をしらず北条助五郎同新太郎勝に乗て。前登にすゝみ追討所に。かくしをく所の多勢切てかゝる。味方くづれ坂中にて雑兵二三十人討れぬ。信玄北条家と弓矢を取て。勝利を得る事。一代に是一度なり。輝虎信玄関東逆臣の。諸侍と一味し。小田原へはたらくといへ共。我一身のはたらきの様にいひなせり。此両将の弓矢は。項羽が独けなげをたのむ所。疋夫の勇士。をそるゝにたらずとこそ。氏康は申されしに。北条助五郎をば。甲州へ証人に渡といふ。片腹いたく。言葉にたへたり。件の助五郎新太郎兄弟に。永禄七甲子正月八日。高野台合戦に。先陣にすゝみ。誉をえたる大人なり。氏綱氏康よりこのかた。信玄国をおほく切て取。証跡有といへども。氏康国を一郷一村。信玄取たる証跡有べからず。信玄西上州へ出馬せらるゝは。氏康はた下の侍。逆心有て一味するが故也。勝頼は天正五年。氏政旗下になるにより。甲州侍弓矢にをとらじと。作言のさへづりをもつて。はじをすゝがんとの謀なるべし。あまつさへ。小田原町を放火すといふ。其軍は天正十八年まで。廿二年以前の事也。今四五十歳にをよぶ。相模小田原の男女迄も。こと〴〵く其軍をば知たり。国語に民の口をふせぐ事。川をふせぐより。はなはだかたしと云々。虚実を尋らるべし。甲州衆虚笑なる事。小田原の。う【 NDLJP:520】はさのみにあらず。永禄四年九月十日。信州河中島にをいて。輝虎と信玄合戦あり。語ていはく信玄床机に腰をかけ。居所へ輝虎はせ来て。馬上にてつゞけて三刀うつ。信玄少もさはがず。小勇は太刀をとり。大勇はうちはを取といふ。兵書の軍法を知て。三度ながら団扇をもて請ながし。其外敵共にも。うちはにて請られたり。後見ればうちはにきず八刀有といふ。さぞ鉄のうちはにてこそ有つらめ。常のうちはならば。輝虎いかで一太刀に打おとさざらん。甲州衆首を一ツとれば。百といひ。十とれば。千といふ。かくのごときの虚言あげてかぞふべからず。たゞ右のうちは一ツをもて察するにしかじ信玄うちはに。太刀疵八ケ所有といひて。人の誠にせんと思ふは。女わらはへにもをとりたる。侍の所存にあらずや。論語に言をたくみにし。色を令するは。すくないかな。仁あること云々。耻べし〳〵随分我ためをいへ共。首尾不合のわきまへもなく。他人のあざけりをもしらず。口にまかせ作り言をさへする事。いふに絶たり。ていれば信玄氏康へ。逆臣の輩に手をひかれ。小田原へはたらくといへ共其いきほひに。小城を一ツせめ落すべき。てだてもせず。一時さゝゆる事もなく。たゞ是一揆の寄合にて。しりぞく時に至ては。誰が下知にもをよばず。我先にとひとり〳〵に打成て。退散しをのれ〳〵が居城へ。ひいて入有様たとへば。大名狂言に。ゑほしひたゝれを着し。太郎冠者。次郎冠者をあとにつれ。真しく大名に成て出るといへ共。舞台より楽屋へ帰れば。もとの猿楽〈[#「猿楽」は底本では「楽猿」]〉なり。輝虎信玄数国の主と成。数万騎を引ぐし。大名がほに先立て。いかめしく小田原へはたらくといへ共。たゝ一時のあいだ。邯鄲の夢。退散に至てはともなふ人もなく。手ににぎるたからもなし。ひとりに成て帰りたるは。誠に大名狂言にことならず。然に氏康。彼逆臣追討のため出馬し。先其内張本人の居城を取巻。せめらるその後に至ては。以前の科を悔悲しみ。ひたすら降参す。氏康家老の者ども云く。やゝもすれば。かれら野心をさしはさみ。敵をなす。其上一人罰すれば。衆人をそる此小城をせめ落す事。手の内にありといふ。氏康聞てそれ国を治るには民をもとゝす。われに一たび敵対の者とて。みなうちぼろほす。是仁道に背けり。小人は一旦の科を見て。遠き徳をしらず。罪をゆるうするは。是将のはかりごとなり。関八州旗下の侍共。みな是かくのごときの小城也。せめ落す事。日を過ぐべからず。然どもかれを討はたすに至ては。関東諸侍。我身の上と用心し。氏康に心をくべし。降人と成て入道し。墨ぞめの衣を着し。出仕の上は子細有べからず。其上法度は慈悲よりをこる。罪のをもきをばかろくし。功のうたがはしきをば。おもくするにしかじと。かれが罪科を。あへてもてとがめず。宥免せらる。扨又其時節。逆臣一味のともがら。此よしを聞。われ先にと急ぎはせ参じ降人となる。関八州もとのごとく治りぬ。然に隣国四方八方に敵有て。西より発向すれば又。東よりも後詰をなし。敷度の合戦有といへ共。帰降のともがら二心なく。以前の罪宥免せらるゝ。氏【 NDLJP:521】康の深恩を感じ。身命をなげうち。一筋に勲功をはげます。是に付て思ひ出せり。治承の比ほひ。頼朝公相州石橋山の合戦にうちまけ房州へ落行給ひぬ。畠山次郎重忠。河越太郎重頼。江戸太郎重長等は。有勢の者。源氏へ弓を引。三浦大介義明を討ほろばす。然に頼朝公鎌倉へ打入給ふ時。右の三人をはじめ。逆心の輩こと〴〵く降人と成て出る。味方に候する者共いはく。今先非をたゞされずんば。後輩をこらしめがたしと。然共みな宥免せられ。刑法に及ぶ事。十に一かと云々。此等の者其厚恩を感じ。後忠を尽す。国を治る大将古今ことならず。関八州の武士。輝虎。信玄にもくみせず。氏康におもひより。幕下に属し。故に多国を永久に治め。文武智謀の。名大将のほまれをえ給へり。古語に日月の蝕をば人皆見る。あらためてもとのごとく。明に立かへれば。民みなあふぐ。一度しよくするとて。日月をいやしむる事なし。氏康のあやまちも。又しか也あらためて。善にかへれば。人皆たつとぶ。一度あやまつとて。いかで其能を。うすく思はんや。孟子にまつりことをするに。人毎によろこばせんとならば。日も又たらずといへり。一つを賞してもて。百をすゝむといふ事あり。楚の荘王夜中の酒宴に。臣下共の冠のをゝ切。罪ゆるされたるも後は。荘王の命にかへられたり。古語に地うすければ大木生せず。水浅ければ大魚あそばずとかや。氏康は心を大きに持る故。幕下に大名多し。名大将は。われと手がらをいはね共。多国を守護する証跡。世に聞え。弓矢の威光をかゞやかす。小将は。われと武辺を利口すれ共。小国の主たるゆへ。武道のよはきしるしをあらはす。それ北条家の根源を尋るに。早雲は。京都の公方に仕へ。御他界以後。たゞ一人駿河へ下り。今川氏親をたのみ。其後武畧をもて。伊豆を切てとり。扨又相模を半国手に入。長兄氏綱相模をおさめ。武蔵。下総の城を。おほくせめ落し。子息氏康時代八ケ国を治め。氏政氏直まで五代。嫡々家督をつぎ。百余年関八州を静謐に治め。武運の末に到ては。大城に有て。天下を引請。百余ケ日楯籠り。滅亡し給ひぬ。引矢を取てかく。始終を治めたる武家。前代未聞。後代の亀鏡にもとゞまり。仏神へ祈ても。ねがはしきは北条家の弓矢なるべしと。広言す
聞しはむかし。北条氏
直時代。小田原にをいて。
毎月二
度づゝ。
奉行衆八州の
掟を。
沙汰せらるゝ
寄合人々。
伊勢備中守。
大和兵部少輔。
小笠原播摩守。
松田尾張守。同
肥後守。山
角上野守。同
紀伊守。
塀賀伯耆守。
安藤豊前守。
板部岡江雪入道等也。されば。
或日
奉行衆
寄合あり。かやうのさたをば。
聞をく事なりとわれ其場へ
行。かたはらに有て聞しに。様々のさたども有て
後。
上州吉村といふ
里の百
姓一人。かうべを
棒にて打わられ。
血ながれたる
体たらくにて出るあひては女なり。
男申けるは。それがしもやもめ。此女もやもめ。おなじ
里近所に罷有
【 NDLJP:522】候が。此比女の
家へよる
〳〵通ひ候所に。女又
別の
男と
近付。われをばきらひ。
盗人よと
高くよばはり候ゆへ。あたりの者にはぢ。にげ候所に。
村の者共出
合。
追かけぼうにて。かうべを打わり候。われまつたく盗人にあらず。
彼無実申かけたるいたづら女を。
罪科におほせ付られ下さるべしといふ。女いはく男と出あひ候事。一
度もしらず。
夜中にわが
家の戸をやぶり入候故。盗人よとよばゝりたると
返答すいづれ理非わきまへがたし。盗人の
男もふてきにして。
少もおどろかず。
気色とならず。
耳目たゞしく有て。
言葉のとゞこほりなし。
双方実しく申ければ。
奉行衆も。
理非を付がたく。おぼしめす
体にて。しばし
是非の御さたなし。
予が
近所に。
老人有しがいはく。さいぜんをはりたる
沙汰共は。出入様々の
子細有て。我々
浅知にはさらに。
分明に
及ばざりしが。
凡慮にをよばぬ。
当意則妙の
金言。めづらしき御沙汰共。耳目を。おどろかし。感じたり。日本国はさてをきぬ。
異国にをいて。さばきあまれる沙汰なり共。此奉行衆の。
成敗にもるゝ事有べからずとおもひつるに。此
男女の
沙汰は。させる
子細もなし。あまし給へる
体たらく。ふしんなりとつぶやきけり。然に
奉行の
中に。
江雪入道(氏直の右筆宏才利口の者也)申けるは。やもめ
男。やも女の出あひ。めづらしき沙汰なり。それ
貞永元年に。
記し
置れたる御
成敗式目に。
他人妻を
密懐する
罪科の事。
所領を
半分めされ。
出仕をやめらるべし。
所帯なくんば。
遠流に
処せらるべし。女も
同罪と云々。次に
道路の
辻にをいて。女を
捕事。御
家人にをいては。百ケ日出仕をやむべし。
郎従以下に至ては。
右大
将家の御時の
例にまかせて。
片かた及びんぱつを。
剃除すべしと云々。扨又
正応三年の比。
鎌倉にをいて。
法度をしるしたる
文に。
名主百
姓等。
他人の
妻に
密懐する事。
訴人出来らば。両方を
召决し。
証拠を
尋ねあきらむべし。名主の過料。三十
貫文。百姓の過料五貫文。女の
罪科同前と云々。ていれば。
当御
代には。
他人の
妻に密懐する者。
死罪にをこなはる。されば孀男。やもめ女。出あひの
沙汰は右大
将家以後。代々
公方の
法式にも
記さず。
昔もろこしに。
展季と云者は。りうかけいがあざ名なり。此人やもめ男にて
貧なり。となりにやもめ女有けるが。
家を雨風に
破られて。やもめ
男に
宿をかるに。すでにかしたり。時しも
冬なりければ。女さむげなりとて。
家を
破りて
焼火にし。あたゝめ
夜るは。
衣をおほひて。ふとこゝろにいねさすれ共。
懐嫁すべき心なし。扨又がんしゆくしと云男。やもめなり。又
孀女宿をかれども。戸を
閉ていれざりければ。女が云
柳下恵がごとくに。
宿をかさゞるやとなげく。
顔烈子が云。其人は
誠にかたくして。
宿をかしけれ共。をかす事なし。われはかんにん
成べからずとて。つゐにかさず。むかしはかゝる。
律義者。
正直人も有けり。今の世は。
男女共に。
淫乱ふかふして。此道にまよへり。
孀おとこ
嫠女近所に有事なれば。
男の申分。さもやあらん。され共
証拠なし。それ
訟を
聞者。其人を見るに。
五聴と云て。五ツの
品を。
周礼に。のせられたり。一に云
詞聴。二に云
色聴。三に云
【 NDLJP:523】気聴。四に云
耳聴。五に云目聴。と云々かれらが
浄論にをいては。
詞。
色。
気。
耳。目にても
察しがたし。扨又女申分にも
証跡なし。
双方いづれ。証拠を出すべしといへり。女云我三
年以前。
男にはなれ其年より。
何共しらざる。
腫物出来たり。ひそかに。
医師に
尋ねければ。是は
開茸と
名付。女の身に有
病也と
聞。是はいかなる
因果にやと。あさましく思ひて。
養生をいたすといへ共今に
平愈せず。是ゆへ
男の
道はおもひもよらずといふ。
男の云
尤女の
身に
生物有といへ共
寝臥をば心やすくいたすといふ。女のいはく身に
出来物の事わざと
虚言申たりと。大きに
笑ふ。其時
男。色を
変し
無言す。
故に男は
縄にかゝり。女は
私宅に
返されたり。
盗人もよくはちんじけれ共。女の
智恵には及びがたし。
開茸のはかりごと。
案の
外なりとかたれば。かたへなる人
聞て。
男女の
問答。まつたく。わたくしの
言葉にあらず。
是天のいはする所なり。かくのごときの。
災難に天のめぐみもなく。この
理むなしくは。
神明の
本懐も。いたづらに。
仏法の
正理も有べからず。天の
罪のがれがたしといへり
聞しは
昔。
元亀二年の
秋。北条氏
政と。
佐竹義重。ひたちの国にをいて。
対陣のみぎり。
岩井といふ
味方の
在所に。
家四五十有て。
朝夕の
煙を立る。此
里佐竹の
陣所へちかし。
敵此在所へ
夜討すべしと
味方の
足軽。二三百人。
毎夜草に
臥て。
敵をうかがふ所に。あんのごとく。佐竹かたより。
多勢をもて。此
里へ
夜討し。
引返す時に至て。味方の草おこつて。
跡をしたひ。のがさじと
追かくる。
敵とつて返したゝかふといへ共。夜討のならひ。引時はをくれてしりぞきがたし。をひかくる者は。いさんですゝみ
安し。其上
敵は。
順路方角をわきまへず。
進退成がたし。味方は詰り
〴〵の
節所を。
兼てよくしり。きほひかゝつて。
追討す。
敵数度返しあはせ。たゝかふ故。
味方小
手負死人多し。され共
退口。一
足も
前へと心ざすゆへ。
首は一ツも取えず。敵をば百余人
討とる。其首どもを氏政の
旗本へ
持来て。
実検す。其中に
岩井の百姓二人
手がらの首をとる。其内一人は
侍と
相討也。氏政此よしきこしめし。侍の
首取事は
常なり。百姓
軍中に入。
侍と相ならんで首取は
珍事也。先二人の百姓を
最前に
召出し。
賞禄をあてをこなはるべしと
仰により。二の百姓御まへに
参候す。一人申けるは。それがし
岩井の百姓にて候が。
味方毎夜草に
臥候を。
兼て
存ずる故。其心がけ有て。
竹鑓一
挺支度いたし。
今夜の
夜討に。
味方の中へくはゝり。さんをみだしたゝかふ時に。
敵とそれがし。たがひに鑓ぐみ。それがし
左のかいなを一
鑓つかれ候へ共。
敵をつきふせ。首取て候と申。氏政聞召。百姓として。気なげのはたらき。
奇特の
旨直に御ほうび有て。
後御
感状にいはく。此度
佐竹義重。
常陸の国へ
出陣し。
岩井の
郷へ。
敵夜討の
刻。いは井の百姓
味方の
陣へはせくゝはり。
前登にすゝみ。
敵とたがひに
【 NDLJP:524】鑓ぐみ其身
手負といへ共。
終には。
敵をつきふせ。
首討取事。関八州
無双の
剛民。一人
当千のはたらき。
前代未聞也故に。百余
討捕首の内にをいて一番の高名と。
着到にしるす者也。此度
勲賞に。百姓を
点じ。
侍とし
在名を
用ひ。
岩井の
名のり。
官は
兵庫助になし下さる。今日より岩井兵庫助と
名付べし。其上
岩井の
郷を
領知し。
永代子々孫々。
他のさまたげ。有べからず。御はたもとに
罷有て
以来忠功をはげますにをいては。かさねて
賞をあてをこなはるべき者也と云々。扨又
残る一人の百姓と。
相討の
小栗権之助と。両人御
前に
候す。皆人
汰沙しけるは。小栗権之助は。北条
家譜代の
武士。
由来有ものゝ
孫なり。
若輩と云ながら。いまだ
鑓のさきに
血をつけず。
首取事も
是はじめなり百姓と
相討するに至ては。其首百姓にとらせたらんは。誠に
侍の
面目たるべきに。其上うゐくびを百姓と相討し。御前へ出る事。
侍冥加に
背き。
諸卒のあざけりたり。
君もいかで其御心
付なからん。
武勇をたしなまん
輩は。小栗権之助と。
同座をもなすべからず。もしあやからんかと
目引。
鼻引。
唇をうごかす所に。百姓出て申けるは。それがしも。
岩井の百姓。
敵の
夜討を
兼て心がけ。
竹鑓一
挺用意仕
味方の内へはしり入て。
前がけ仕候所に。是なる
侍と。
敵と
太刀にて。
討つ。うたれつ。
互に
数ケ所。
手負かちまけいまだ見えざるに。それがしよこ
鑓にかゝり。
敵をつきふせ候所に。是なるさふらひ。首を取て候。それがし
相討とたしかにことはり候と申。氏政聞召。
軍中にをいて百姓かくのごときのふるまひ。
諸侍の
耻る所。
言語に
絶て
神妙なり。此度の
忠賞に。此者
毎年作するところの
田畠を
永代作取にいたし。其上
岩井の
郷の。
肝煎仕べき者也。然に百姓と
相討仕る。
小栗権之助。此度
敵の
夜討に。
前陣にぬきんで。
強敵に出あひ
雌雄をあらそひ。
猛威をふるひ。
敵に
数ケ所の
手負せ。
主も手をひ
勝負を
決しがたき所に。百姓一人
飛来て。
助鑓をし敵を
討取事。
摩利支天の
来現。権之助が
武勇のいたす所にあらず。是
神明仏陀の
冥慮にかなふがゆへなり。
彼百姓けなげ者の。手がらを
感ぜしめ給ふによつて。おほく
討捕首の内にをいて。二
番の
高名と。
着到に付らるゝ事。
小栗権之助。
軍中の
面目を。
存ずべき者也と云々。相
残る
侍共の。
討取所の
首。
戦場の
厚薄の
勲功に
応じ。一
郷一
村金銀を
諸侍に。
勲賞せらるゝ事。あげてしるしがたし
聞しは
昔北条氏康公。
近習に
仕へし。
高山
伊予守といふ
老士かたりけるは。氏
康は
文武の
達人。
弓矢を取て。関八州に
威をふるひ。
東西南北に
敵有て。たゝかひ。
昼夜いくさ
評定やんごとなく。
寸暇をえ給はず。され共すきの
道にや。其内にも
和歌を。このましめ給ひたり。
或時は
和漢の
才人を
集め。或時は
歌の
会あり。氏康百
首の
自詠を。京都へ上せられ。
逍遥院殿合点を。
度々取給ひぬ。
或夕つかた。
高楼にのぼり。すゞみ給ひける時に。其
近辺へ。
狐来て
鳴つるを。
【 NDLJP:525】御
前に
候する人々。あやしみけれ共。
兎角いふ人なし。
梅窓軒と云者申けるはむかし
頼朝公。
信州浅間。みはら
野の
御狩に。狐
鳴て
北をさして
飛さりぬ。人々是をとゞめんとて。
矢はづを取てをつかけしかどもにげ
過ぬ。
頼朝公御
覧じ。
秋の
野の
狐とこそいへ。
夏野に狐
鳴事。
不審なり。
誰か有
歌よみ候へと。
仰下されければ。
工藤祐経承りて。
誠に
昨日の
御狩にをいて。
梶原源太景季が
歌には。
鳴神もめでゝ。
雨はれ候ひぬ。是にも歌あらばくるしかるまじ。
誰々もと申けれ共よむ人なかりしに。
武蔵の国のぢう人。
愛甲三郎
季隆。ゐだけだかになり。うかべるいろ見えしがやがて
夜るならば。こう〳〵とこそ鳴べきに。あさまにはしるひる狐かな
と申ければ。君聞召て。神妙に申たり。誠に狐におほせて。吉凶有べからずとて。上野の国。松井田にて三百町を給はるとかや。慮老和歌の道をまなび候はゞ。をよばぬまでも。案じて見候べきをと申。氏康きこしめし。夏狐鳴事。珍事なり。皆々歌を案じ。出来次第に。一首仕るべしと。仰有ければ各々案ずる体見えけれ共。詠人なし。やがて氏康公
夏はきつ。ねになく蝉のから衣。をのれ〳〵が身の上にきよ
とよみ給ひしに。夜明て見れば。其狐の鳴つる所に。死て有けり。皆人。奇妙不思議也と感じあへり。氏康は希代の大将。運を天にまかせ。仁を人にほどこし。諸人を親兄のごとくおもひ。慈悲深重にして。寛仁大度なり。常に祇候の諸侍に。或は礼義を厚して対面し。或はなさけ有言葉をかけ。食するひまも仁にたがはず。累年過来る。氏康いはく。我数度の合戦に。勝利をうる事。武力のいたす所に非ず。たゞしかしながら。天運全して。神明仏陁の擁護にかゝるが故也と。仏神を信敬し。諸寺諸社を建立せり。亡父氏綱は。天文九年鶴岡山八幡宮造立し。氏康は同十一壬寅年卯月十二日。由井の浜の大鳥居を立。旧規にまかせ。千遍陁羅尼を七日をこなはるゝ。供養に至て。一切経転読先例に相かはらず。布施等品々の目録あげてしるしがたし。其大鳥井天正年中まで有。今はたえてなし。氏康かく有て。家運を守り給ひぬ。上に義あれば。下あへてもて。服せずといふ事なし。諸侍身命を君になげうち。忠をいたさんとす。されば仁義礼智信の五ツの名。ありといへ共。たゞ一心に極れり。君としては万民をあいし。臣は君に能仕へ。父としては。子を憐み。子は親に孝をつくし。友は礼義をもて。まじはりをむつまじくす。是みな智仁勇の内にあり。君臣合体すれば。国家安泰なり。其上氏康は。他国より来る侍を。あまねく扶持し。猶もて有職の者をば。慇懃にせられたり。楚国には。財をたからとせず。善をたからとすと云々。珠玉をたからとする者かならず。わざはひを招くといへり。賢人内に有ときむば。小人外に有。小人内に有ときんば。賢人外に去かるがゆへに。故実を存ずる侍は。他国に有ても。北条家に心をよせ。諸国より小田原へ来るをかゝへをき。殊に【 NDLJP:526】もて近習に召つかはれ。其国々の弓矢のてだてを。朝暮尋聞しめ給ひたり。故に諸国の大将の。弓矢のてだて。軍法をよく知て。戦場に至ては。それ〳〵の行に対して。智謀〈[#「智謀」は底本では「略謀」]〉武略をつくし。勝利をえ。持国をまつたく守護し給へり。つたへ聞。夏の桀は。無道にして君臣の礼をうしなふ。扨又殷の湯王は。賢人をもとめ。はかりごとを聞て。まつりごとを。正しく取をこなへり。故に諸候も。夏を背き。百姓も得を湯に治む。終には湯王。夏の桀を伐て。天下を治め給ひぬ。されば小田原に。小笠原播摩守。伊勢備中守。大和彦三郎。是は後。兵部少輔と改名す。此三人は京都公方様につかへ。御他界以後。関東へ下向し。牢人分にて。小田原に堪忍なり。仁義の道有て。弓法をしれる人々也。氏康御自愛なゝめならず。常に御はなしの衆なり。氏康掟に。軍陣にをいて。諸侍いくさの行を見付思ひよる兵術是あるに至ては。貴賤上下をえらばず。推参をはゞからず。急ぎはせ参じ。直に申上べし。云々。故に諸侍武略をたしなみ。軍中にをいて。存ずる。てだてあれば。すなはち言上す。其節に至て。時々刻々すこぶる。ほうびし。或は近習に召つかひ。或は賞をあたへ給ひぬ。是によて又も云しらしめ奉らん。と。下々に至までも兵法をたしなみ。有職の人に近付軍法を尋聞て。弓馬の道を日夜にまなび。其身〳〵の術計。勝利えん事を。もつぱらとす。氏康いはく。我いくさ興ずるに至ては。あまたの者に相談し。三人いふ時はかならず。二人いふかたに付。其ゆへは。数度の合戦に利をえたりと。わが分別を云かくし。郎従を取立給ひぬ。かく有により。他国の侍までも。北条家に心をよせずといふ事なし。此時代に至て。関八州静謐にをおさまりたりと。物がたりせり
見しはむかし。
関東諸国見だれ。
弓矢〈[#「弓矢」は底本では「矢弓」]〉有てやむ事なし。中にも北条
平氏
政は。
文武の大
将関八州に
威をふるひ。
並人なかりき。然に
永禄の比ほひ。
織田上総守信長。京都へせめ上り。
三好を
追罰し。
公方義昭公を
都へ
移し申。天下に
義兵を
上。
関西をなびかすといへ共。
我まゝを
振舞。
無礼をあらはし。公方を
軽しめ申さるゝによつて。
関東北条氏
政。
軍兵を
率し。上
落仕り。
信長を退治いたすべきの
旨。義昭公より
使者を下さるゝ。氏政承て。此
命を
仰下さるゝ事。
家にをいて
面目たり。
辞し申に。
却て
恐れあり
罷上り信長を。
追罰仕へき
旨言上せしむ。氏政云く。それ信長は。
高野聖をこと
〳〵く
首を
切し事
言語にたへたり。
昔仏敵と
成人を尋るに。
天竺にては。
提婆。たつた。
仏を
猜み。
血を出す。
我朝には。
守屋大
臣。
聖徳太子。
仏法を
弘め給ふをさまたげ。
清盛は
南京七
寺。扨又
囲城寺を
放火し。
松永〈[#「松永」は底本では「松長」]〉弾正は。
奈良〈[#「奈良」は底本では「良奈」]〉の大仏殿を灰燼とす。
悪逆無道によつて。
天罰のがれがたく。此
等の人々。
在世久しからず。
皆ほろび果たり。然に
比叡山は。
人皇五十代。
桓武天皇。
延暦年中。
伝教大
師と。御心をあはせ。御
建立有しより
【 NDLJP:527】以来。
王城の
鎮守として。
既に八百余年にをよぶ迄。此山をあふがずと云事なし。
詫宣に三千の
衆徒を
養て。我が
子とし。一
乗の
教法を
守て。我
命とすと示し給ふ所に。
信長元亀二年。
辛未九月十三日。
比叡山。
堂社仏閣。こと
〴〵く
焼亡し。三千の衆徒。一人も
残さず
首をはね。五
逆の
悪人。いふにたへたり。
神明仏陀の
冥感に
背き。
天道のにくみを
請。
人罰のがれがたし。其上信長は。
武道のみ
専とし。
文を
用ひ給はず。故に
仁の
道をしらず。
仁者はかならず
勇有。
勇者はかならず
仁あらずと。
文宣王の
微言。おもひしられたり。
政道理にあたる時は。
風雨時にしたがひ。
国家も
豊に。
善悪は
草の風に。したがふがごとし。
信長仁義の
道。しらざる事。
土木瓦石と。なんぞことならん。人
礼有ときんば。
則やすく。
不礼なるときんば。則あやうしと。
礼記に見えたり。
威有て
道なき者。かならずほろぶといひ
置し。
先賢の
言葉をしらず。氏
政いやしくも。
弓馬の
家に
携り。あひがたき時に。
今生れあひ。
君の御
威光。御
佳運にくみしかれが
悪逆をせめほろぼさん事。
神明の
守り。
天道もいかでかすくひ給はざらん。然に
隣国の
敵。
信玄入道は。天正元年に
卒去し。
常陸の
義重。
安房の
義頼和談し。同五年の
夏。小田原へ
証人を
渡す。
甲州勝頼も。同五年
旗下になり。其上氏
政の。
妹聟となる。
越後は氏
政舎弟。三郎
輝虎の
養子と
成て。上
杉三郎
藤原景虎と
改名し。
家督を
次。関東におもひ
残す事なし。是によて越後と。
相模一
味。
兼約有て。同
来六年には。
信長退治として。
輝虎は
東山道。氏
政は
東海道。両
旗をもて。京都へせめ上り。
信長を
追討し。
義兵をあげ。
仏法。
王法の
衰をおこし。天下の。
政を。たゞしく
執行はんと。
掌ににぎり。其
支度有所に。同六年の
春。
輝虎頓死す。此
節に至て。
長尾景勝。
源勝頼と一
味し。三郎
景虎をほろぼす。
既に
越後甲州。
敵たるゆへ。氏
政上
洛延引す
勝頼氏
政と。
父子の
契縁たりといへ共。
欲心内にあれば。
骨肉も
敵となる。世のことはり
定がたし。然に北条とたゝかひし
勝頼は
信長公にほろばされ。信長は
家人の
明智日向守に討れ。日向守は。
傍輩の。
羽柴筑前守に
誅せられ。
信長を
退治せんと。のぞみをかけし。北条
家は
秀吉公のためにほろび。是皆思ひの
外に。かたき有て。
滅亡し給ひぬと。われかたりければ。
老人聞て。それ
春栄の
謡に。われ人をうしなへば。かれ人われを
害す。
世々生涯。くるしみの
海に。うきしづみて。御
法の
舟橋を。わたりもせぬぞかなしきと。
皆人
毎の口ずさみにある事なれ共。其わきまへなし。人間は有に付てもうれへ。なきに付てもうれへ。一
生はつくれ共。
望みはつきず。是
貪瞋痴の。三
毒の
病。をもきがゆへに。
出離生死を。はなれがたし。此病は
耆婆扁鵲が
療治にもかなはず。
経にしよくしよいん。
貪欲為本と
説れたり。一
切の
悪業の
源は。
貪欲よりおこり。
却て
身を
害す。
摩阿止経に。みやう
〳〵として
独行。
誰が
是非をとふらはんあらゆる所の
財宝。いたづらに
他のために有と云々。
釈迦八十
善の
位にそなはり。
栄花にほこり給ふべき身なれ共。
生死無常の。はかなき事を
歎き。
王位をすて。十九にて
出家し。
唯〈[#「唯」は底本では「誰」]〉ひと
【 NDLJP:528】りだんどくせんに入。十二年の間。
難行苦行の
功積り。十二月八日の
暁明星現ずる時。
諸法実相〈[#「実相」は底本では「実時」]〉の理をさとり。
衆生の
苦をはなれ。三
世れうだつの
仏と
成て。三
界衆生の
導師となり給ひぬ。
王と
成て
栄花を
極め。天下の
武将と
成て。
楽びにあへるも。
唯夢まぼろしの間也。
万法心のなす所にて。
別に
法なし。今
人界に。
生るゝ
者は
実の山に入たるがごとし。手をむなしくして三
途の
古郷へ
帰る事なかれ。
如来の
彼岸にあひ。すみやかに
生死の大
海をわたり。ねはんのきしに
至らんこそねがはしき事ならめといへり
北条五代記巻第六終