北条五代記
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武陽 とよしまのかたはらに。はふれたるひとりの翁 あり。脊 を夕陽 にさらし。衰世 の興 の手 するびにや。見聞 し事を書 あつめたる双紙 三十二冊あり。是を見聞集 と名付。され共他見 に及 事なく。草案 のまゝ打をき。たゞをのが気味をなぐさみぬ。我 旧友 なれば。彼翁 が室内 に入て。此書 を披見 するに。昔 鎌倉 の公方 持氏公 。永享 十一年に御滅亡 なり。それより以来 関東 諸国 みだれ。たゝかひやむ事なく慶長 十九歳 まで。百七十三年世の移 りかはる次第 。なかんづく当 御時代 栄久 を記 し【 NDLJP:436】たり。扱 又此内に。北条早雲 入道氏茂 より。氏綱 氏康 氏政 氏直 まで。五代の弓箭 の事あり。予 相州 の住 人往年 床 しさに。北条 家 の沙汰 ばかりをひろひ出し。今又十冊 にあつめ一部 とし是を北条五代記 と名付たり。数 十巻 より抜 出も一所によする故 。五代の次第 おなじからず。本書 のごとく。前後 を取まじへ。写 し侍 る者也
【 NDLJP:5】解題
博文館編輯局校訂
校訂北条五代記
東京 博文館蔵版
北条五代記序
【 NDLJP:5】解題
北条五代記十巻
本書は三浦浄心の撰する所なり。浄心名は茂正、五郎左衛門と称す。其祖は三浦介道寸と同族なりといふ。永禄八年に生れ、天正五年に小田原の北条氏政に仕へ、同十八年には小田原籠城の中に在り。北条氏亡びける後は、暫く三浦に閑居せしが、尋で江戸に来り、伊勢町に住して商賈となれり。浄心戎馬の間に長ずと雖も、少より文藻に嫻ひて述作を好み、北条氏の世の戦事を記述しては、本書并に見聞軍抄あり。江戸開府の頃の世事を編録しては、そゞろ物語、慶長見聞集等あり。共に史家の好資料たるが中に、世に小田原北条の事を記せし者は、浄心の此書を以て第一とすべし。小田原記、東乱記などの企て及ぶ所にあらず。本書小田原以前の事は、東鑑もしくは北条九代記等に拠りたらんも、其以後は悉く見聞の及ぶ所を以て記せり。
五郎左衛門江戸に来りてより、晩年天海僧正に帰依し、入道して浄心と称しぬ。かくて正保元年三月十二日、八十歳にして歿れり。其奉持せし弥陀の像は、浄心の肖像と共に、【 NDLJP:6】上野寛永寺中普門院に伝へたりといふ。墓は普門院に在りて、新古二碑ありしが、其地域の鉄道会社用地となりしより、谷中東漸院の墓地に移されぬ。古碑の背に、寛永十五年〈壬寅〉七月十七日、三浦五郎左衛門尉茂正と刻せり。是は逆修なるべしとなり。
明治三十二年五月 岸上質軒 識
北条五代記總目錄