北条五代記巻第一 目次
挿絵 ※サーバーの状態により挿絵が表示されない場合があります。
【 NDLJP:441】
北条五代記巻第一
聞しはむかし。いせ新九郎氏茂といふ
侍。
遠国より来て。伊豆の国を切て取よし。いひ伝ふといへども多説有ていずれ知がたし。新九郎は京
都よりするがへ下り。
今川氏親をたのみ。
牢人分にてありしが。
武略の侍。ふねにて
渡海し伊豆の国を切て取よし
老人物
語せり。此
説おぼつかなしさればわれ
江戸に有て。
近辺の町人の
噂をけふ聞あくる日は事をとへば
虚言のみおほし
况江戸中の事をや其上
年月を過し
堺をへだてたる事をば。いひたきまゝに
語るはよのつねのならひ。聞人
誠とをもひ。筆にもしるしをきぬれば。
後世の人是を
治定とす。とにも
角にもそら事おほき世なり。さ有とてことさら世の
噂いはじにもあらず右の新九郎
名をえたる。
達人なれば。
古き文に一
言つゝあまたに事
残したるを
愚老きんねん見出し。其おもむきを
予記す者也新九郎
後は。
北条早雲宗瑞と
改号す。
住国は山城うぢの人也。又一
説には
大和ありはらともあり。此人の先祖を
尋るに。むかしいせの国に
伊勢いせのかみ
平氏貞といふ侍あり。小松
内大
臣重盛公より。十五代の後胤たり。
国の名を。あざなの上にをく事。
侍の
名誉といへり。其
【 NDLJP:442】比京
都公方様に。御
若君あまた出来給ふといへども。
短命にして十にもたらず。
皆逝去し給ふ。是をなげき。おぼしめす所に。御むさうに。公
方の御
先祖。平家をこと
〴〵くほろぼし給ふ。其
報に
御息。ちやうめいならず。天下にゆらいある
平氏を召よせ。からうとなし。まつりごとを。取をこなひ給ふに至候へば。御そく
長命たるべしと。
夢さめ御
感悦なゝめならず。天下に。
平氏の
侍たれ
〳〵と。
尋ゑらび給ふといへ共いせ伊勢守に。しくはあらじと伊勢守を召のばせられ
家の
子と
定。本人のまつもごと自由度。御
子孫繁昌にさかへ給ふと云々中古にも去ためしあり。かまくらのかさいが
谷は。
北条時政のやしき。代々北条
家。
居住とす。
高時。
行行。ぼつらく
以後。
源尊氏公かまくらにおはしまして。御いくわういみしかりき。然所に御
当家に様々の
怪異出来す。是たゞ事ならずとて。
占方に尋給へばいにしへほろびし。
平家の
亡魂共。
恨みをなすよし申によりて。
高時がやしきの
後に。
宝戒寺といふ寺を。
建立しおほくの平家の
亡霊を。とふらひ高時を。
徳崇権現と号し。此寺の
鎮守にいはひ給ひければ。扨こそさとしもしずまりぬ。
者いせ伊勢守うしろ見の
時節。するがの
国主。今川五郎
氏親。京
都へ上り。
公方へ御礼申
下国に至て。いせの守殿の
息女を申
請。我つまとなし。ともなひするがへ下り給ひぬ。然るにいせの守殿
子息するがのかみ
照康と名付。照康の
嫡男太郎
貞次。じなん新九郎
氏茂と号し。二人の子息あり。いづれも京都の。
公方様へつかへり。然に御所様いつよりか。
例ならずおはしまして。つゐには世をはやく御
他界なり。其後新九郎は。
関東へ
下向の
思慮をめぐらす。されば今川
氏親は。新九郎ためにをばの
夫なれば。新九郎するがを心ざし。下る処に。
朋友此よしを聞。
同道せんと。
荒木ひやうごのかみ。ため権兵衛。山中
才四郎。あら川又次郎。大道
寺太郎。在竹兵衛
尉。いせ新九郎と共に七人いひ合。
東国へ下向しするがの国に
着たり。今川
氏親。と新九郎
縁者たる故。するがにとゞまる。
義元親父の時代也。其時分今川
家中に。むほんの
侍おほく有しを早雲
武略をもつて。こと
〳〵く
退治し。七人の中にも
早雲文武ちぼうの人なる故に。今川の
縁者となる。是によつて。諸
侍早雲を。
尊敬す残る六人も後は。早雲の
家老となる。早雲は伊豆とするがのさかひ。
高国寺にさいじやう有。其比両上杉と云て。
上州相州に
居城有て。関東諸侍のとうりやうたり。然るに両人の中。不和出来たゝかひあり。扨又堀越の御所と
号し。伊豆の国北
条にまします
外山豊前守。
秋山蔵人と云て二人のからう有
侫人の
讒により此両
臣をせつぷくせしめ給ふ。此義に付て伊豆の国さはぎ諸人の心しずかならず。早雲するが
高国寺に有て。此由を聞是天のあたふる所なりと。
延徳年中に。人
数をもよほし夜中に
黄瀬川を取こし。
北条にみだれ入。御所はをもひの
外とおどろき。はるかに
落行。大もり山へにげ入給ぬ。早雲は北条に。はたをたて
近辺の
民屋を。
放火しまういをふるひければ。此いきほひにをそれ。三
津の松下三郎左衛門尉。
江梨の
鈴木ひやうごの助。大見の三人衆と
号して。
梅原【 NDLJP:443】木工ゑもん。さとう四郎兵衛。うへむら
玄蕃これらの者。在々所々に有て名をえたる
侍。いそぎはせ来て。早雲
幕下に付。時日をうつさず御所を。ほろばさんと。大もり山へ。せめのぼり御所は。山を下り。
会下寺に入て。
切服し給ひぬ。此威勢にをそれ。
土肥の。
富長三郎左衛門
尉。
田子の山本太郎左衛門尉。雲見の
高橋将監。
妻良の村田市之助などいふ
侍共。こと
〳〵く来て。
降人となる。伊豆一国は三十日の中に。
相違なくおさめられたり。是によつて。右の侍共。
氏直時代〈[#ルビ「じだい」は底本では「じだた」]〉まで其
在所を知行し
居住す。然るに新九郎。北条と
名乗事。北条のゆかり有て。
系図をわたす共いひ。三島大明神の
霊夢のつげともいふ。扨又早雲とは
子細有て。
若年より
名付といへり。
明応の比ほひ。さがみををさめて後も。伊豆のにら山に。
在城のゆへ伊豆の。早雲と。あまねくいひ伝へり。
仁義もつはらとし。ひとへに
民をあわれみ給ふゆへ。人の国までも思ひふくせずと云事なし。むかし関東にをいて。
早雲寺殿。をしへの状と
号し。
小札あり心。をろかなる者は。これをよみならひたりし。其文にいはく
一第一仏神信じ申べき事
一朝はいかにも。はやく起べし。をそく起ぬれば。召つかふ者まで。由断しつかはれず。公私の用をかくなり。はたしては。かならず。主君に見かぎられ申べしと。ふかくつゝしむべし
一夕べには五ツ以前に。寝しづまるべし。夜盗はかならず。子丑の刻に忍び入者也。宵に無用の。長雑談子丑に寝入。家財をとられ。損毛す。外聞然るべからず。宵にいたづらに。焼すつる。薪灯を取をき。寅の刻にをき。行水拝みし身の形儀をとゝのへ。其日の用所。妻子家来の者共に申付。扨六ツ以前に出仕申べし古語にはねにふし。とらに起よと候へ共。それは人により候。すべて寅におきて。得分有べし。辰巳の刻まで臥ては。主君の出仕奉公もならず。又自分の用所をもかく。何の謂かあらん。日果むなしかるべし。
一手水をつかはぬさきに。厠より厩庭門外まで見廻り。先掃除すべき所を。にあひの者にいひ付。手水をはやくつかふべし。水は有物なればとて。おほくうがひし捨べからず。家の内なればとて。高く声ばらひする事も人にはゞからぬ体にて聞にくし。ひそかにつかふべし。天に跼地に蹐すと云事有
一拝みをする事。身のをこなひ也。只心を
直にやはらかに持。
正直憲法にして。上たるをばうやまひ。下たるをばあはれみ。有をばあるとし。なきをばなきとし。ありのまゝなる心持。
仏意冥慮にも叶ふと見へたり。たとひいのらずとも。此心持あらば。
神明の
加護これ有べし。いのるとも心まがらば。天
道にはなされ申さんとつゝしむべし
【 NDLJP:444】一刀衣裳。人のごとく結構に有べしと思ふべからず。見ぐるしくなくばと心得て。なき物をかりもとめ。無力かさなりなば。他人のあざけり成べし
一出仕の時は申にをよばず。或は少き煩所用有て。今日は宿所に有べしと思ふ共。髪をば早くゆふべし。はふけたる体にて、人々に見ゆる事慮外又つたなき心也。我身に由断がちなれば召仕ふ者までも。其ふるまひ程に嗜むべし。同たけの人の尋来るにも。とくつきまはりて見ぐるしき事也
一仕出の時御前へ参るべからず。御次に伺候して。諸傍輩の体見つくろひ。扨御とをりへ罷出べし。左様になければ。むなづく事有べき也
一仰出さるゝ事あらば。遠くに伺候申たり共。まづはやくあつと御返事を申。やがて御前へ参。御そばへはひ〳〵より。いかにも謹で承べし。扨いそぎ罷出御用を申調御返事は有のまゝに申上べし。私の宏才を申べからず。但又事により此御返事は何と申さんと。口味ある人の内義を請て申上べし。我とする事なかれといふ事也
一御とをりにて物語などする。人のあたりに居べからず。傍へよるべし況。我身雑談虚笑などしては。上々の事は申にをよばず。傍輩にも心有人には。見限られべく候也
一数多まじはりて事なかれと云事あり。なにごも人にまかすべきなり
一少の隙あらば。物の本文字の有物を懐に入。つねに人目を忍び見べし。ねてもさめても。手なれざれば。文字忘るゝなり。書事又同事
一宿老の方々。御縁に伺候の時。腰を少々おりて。手をつき通るべし。はゞからぬ体にて。あたりをふみならし。通る事以外の慮外なり。諸侍何れにも慇懃にいたすべき也
一上下万民に対し。一言半句にても。虚言を申べからず。かりそめにも有のまゝたるべし。そらごと云付れば。くせに成てせゝらるゝ也。人にやがて見かぎらるべし。人に糺れ申ては。一期の耻と心得べき也
一歌道なき人は。無手に賤き事也。学ぶべし常の出言につゝしみ有べし。一言にても人の胸中しらるゝ者也
一奉公のすきには。馬をのりならふべし。下地を達者に乗ならひて。用のたづな以下は稽古すべき也
一よき
友をもとめべきは。
手習学文の友也。
悪友をのぞくべきは。
碁将棊笛尺八の友なり。是はしらずとも
耻にはならず。
習ても
悪事にはならず。
但いたづらに
光陰を
送んよりはと也。人の
善悪皆友によるといふ事也。三人行時かならずわが
師あり。其
前者をえらんで。是にしたがふ。其よからざる者をば是をあらたむべし
【 NDLJP:445】一すき有て宿に帰らば厩面よりうらへまはり四壁垣根犬〈[#ルビ「いぬ」は底本では「いき」]〉のくゞり所を。ふさぎ揃さすべし下女つたなきは。軒を抜て焼当座の事をあがなひ。後の事をしらず。万事かくのごとく有べきと。深く心得べし
一夕には。六ツ時に門をはたとたて。人の出入により。あけさすべし。左様になくしては。未断に有て。かならず悪事出来すべき也
一夕には。台所中居の火の廻り。我と見まはりかたく申つけ。其外類火の用心を。くせになして。毎夜申付べし。女房は高きも賤も。左様の心持なく。家財衣裳を取ちらし由断多き事也。人を召仕候共。万事を人に斗申付べきと思はず。ばかり我と手づからして。様体を知り後には人にさするも。よきと心得べき也
一文武弓馬の道は常也。記すに及ばず。文を左にし。武を右にするは。古の法兼て備へずんば有べからず
右の文を。愚老見馴し事なれば則是にしるし侍る者也者相摸湯本に。早雲菩提寺を立をき給ふ。是を金湯山早雲寺と号す。早雲は永正十六年己卯八月十五日に逝去也。法名早雲寺殿。天岳瑞公大居士と名付。此寺礼験あらたなるが故。綸旨を被㆑下勅願寺と号し。関東第一の名寺也。下万民に至る迄偈仰のかうべを。かたぶけずと云事なし。勅書にいはく
当寺為㆓勅願浄刹㆒至㆓仏法紹隆㆒宜㆑奉㆑祈㆓皇家再興㆒者天気如㆑此仍執達如㆑件
天文十一年六月廿四日 左大弁 為㆓早雲寺大隆禅師禅室㆒
かくのごときの霊寺たりといへども末代に至て。破却しなきがごとし。皆是むかし語りとなり。今は早雲の寺号ばかりぞ残りける
見しは。
昔老士有しが。源家のいにしへをよく
覚て語る。予問ていはく。関東の公方古河の
晴氏公。上杉憲政と一
味有て。
北条氏康と合戦し晴氏公うちまけ御
滅亡は。天文年中のよし云伝へり。源家には何れのこうゐんにておはしまし候。
老士答て。そのかみより源家の
末流あまたにわかれて
分明しがたし。され共あらかじめ聞
伝るに。
頼朝公より
守邦公に
至て九代の間を
先代と云。
足利治部大輔尊氏公以来。義輝公まで十四代の間を。御当家と申。尊氏公は源家にても。八幡太郎
義家公の三
男。
式部大
輔義国公の
末孫。其より相つゞき。左兵衛
佐満兼公。
関東御
遺跡。
勝光院殿と申。満兼公の御
息。兵衛
督持氏公。
長春院殿是也。一
男賢王殿次男
春王殿三男
安王殿四男。
永寿王殿此永寿王殿は。持氏御
生害の
時節。
信濃の国へ。落給ふを大井殿
【 NDLJP:446】扶助御申有しを
以後として
長尾左衛門
入道昌賢。
文武に
達し。
関八州にほまれを得たる。
無双の者なり。此人
永寿王殿を取
立公方にあふぎ奉り。天
気をうかゞひ四
位少将
成氏。
乾享院殿と申是也。成氏公の一
男。
左馬頭政氏公。政氏の
嫡子高基を。
熊野御堂殿と申。高基公の
長男。
晴氏公是は。
高氏公より十代。
持氏公より。五代是を。古河の
公方と申候。又
問ていはく。上杉殿の
系図は。いつの
時代よりはじまり。
源平藤橋いづれの
氏にてわたり候ぞ。
老士こたへて。上杉殿は
藤原氏なり御
先祖を
尋るに。
宗尊親王一
年。
鎌倉へ御
下向の時御
介錯として。
勧修寺の
重房公御
供有て下向の時。
丹州上杉の
庄を給はり。
武家に下り。
修理大夫を左衛門
督に
任ぜらる。此重房。
足利治部大
輔頼氏を。
聟に取給ひぬ。
伊予守家時は。上杉
腹修理大夫殿の
子孫也。重房の嫡男。
掃部頭頼重法名座高と申き。
文武二
道のほまれ有人なり。頼重の
嫡子兵庫頭憲房。
法名道忻道号雪渓と申。
丹州にては。
瑞光院殿と申。
京都にては
杉谷殿と申。
尊氏公御
親類たるにより。御同心あり。四条河原の
合戦にて
討死し給ふ。かの
嫡男民部大夫受領。
安房守憲
顕。
法名道昌。道号
佳山と申。此時代。
上州。
豆州。
越後三ケ国を
知行し給ふ。
関東官領職のはじめなり。
応安元年
戊申九月。ぼだい所として。
伊豆の国に
国清寺を立給ふ。国清寺殿是なり。
憲顕の嫡男。
兵庫頭憲
将。憲将の
舎弟兵部少輔能憲へ。官領職をわたし給ふ。
敬堂道謹報恩寺殿是なり。其次
舎弟安房守憲方。
康暦元年
己未四月廿日官領職を給はりはじめて。山内にまします。
応永元年
甲戌十月甘四日六十
歳にて。
逝去なり
道号天椒法名道合。
明月院殿是なり。其次
憲方の
嫡男安房守憲
定。
応永十二年八月十七日。
官領職を給り同十九年
壬辰十二月十八日。三十八
歳にして
死去。
大全長基先照寺殿是也。其次右衛門
佐氏憲。三ケ年官領職たり。
法名禅秀。其次安房守
憲基。応永二十三年五月十八日。官領職を給はり。同二十五年正月四日。三十四歳にして
逝去す。法名
心無悔宗徳院殿是也。其次安房守
憲実。是は越中の
民部大輔房実の
次男。
憲基の
養子なり。六
歳の時
関東へ
越山あり。其後
持氏公に
逆心の人なり。
子息三人あり。三
男龍若丸をば
伊豆のおくに。
捨をき
徳丹清蔵主。両人を引つれ。
上方へ
行脚し。
応仁元年
丁亥。
周防の
国にをいて。
逝去し給ふ。
高岳長棟庵主是なり。次に
右京亮憲忠是は
長棟の三
男。
享徳三年十二月廿七日。
鎌倉の
西御門にて。御
生涯なり。
大韶長釣興雲院殿是なり。然に
西御門憲忠を
誅し給ふ。
根本と申は。
持氏御
生害の御時。
成氏は。
永寿丸にて。
信濃へ
落行給ふ。
憲忠は。
龍若丸にて。
伊豆の国に有けるを。其比
関東に
主なくては有べからずと。
入道昌賢。
永寿丸殿を。取立御
元服有て。
主君にあふぎ奉り。同
龍若丸憲忠をも
引出し。天下一
統にして。
国家安泰也。
者成氏公。先年
持氏公御
生害の
野心をさしはさみ。憲忠を
誅せらる。此時又上杉相
分て。
日夜朝暮
合戦す。上杉の一
家長尾一
類。
調談し。
綸旨と日月の御
旗を申下し。其いきほひますによつて。
成氏公。かなはずして。
古河へ御馬を入
【 NDLJP:447】給ふ。其後
政氏公関東の
公方と
号す。
越州上杉
民部大輔顕定。かつは
治国のため。かつは
万民をやすんぜんがため。
和睦〈[#ルビ「くわぼく」はママ。後文同じ]〉なすによつて。関東一
統になる。
夫武家の大
系図は。
神武より
以来を
記し。
和漢合運は。
慶長十六歳までを
記せる。
明鏡也。扨又。
鎌倉持氏公。御
滅亡より。
関東乱国の次第。上杉
家の事を。
私に
記し
置たる
古き
小札共を見るに。右の二文に
相違おほし。され共
見聞集の
題号に。
応じ
記し
侍る。其比
鎌倉山
内の
顕定。
扇の
谷の
定正。此両上杉殿は関東
諸侍の
棟梁たり。然に
逆臣有て。主従
分てたゝかひ。其上両上杉殿の中。
不和にして。
東西南北に。
算を見だし
合戦す。
公方政氏公は。
修理大夫定正と。一味し
顕定とたゝかひ。やむ事なし。其
時節駿州に
伊勢新九郡
氏茂といひて。
文武智謀の
侍あり。
後は
北条早雲庵主と
改名す。此人両上杉のたゝかひを
聞及。是天のあたふる所とよろこび。
延徳年中。
軍兵を
率し。はせ来て。
伊豆の国を
切て
取。
明応の
時節。
相摸の国に打入。たゝかひやまざりしが。
定正は
病死。
顕定は
高梨に
討れ。其後
早雲子息氏綱時代に
至て。上杉
朝定をほろぼし。
武州。
総州へ手をかけ。
関八州に
猛威をふるふ。其
節氏綱。
高基公の。一
男晴氏公を
取立。
公方にあふぎ。むこ
君になし。
総州古河に
仕付申。氏綱
下総の
国小弓の
御所。
義明公父子を。ほろぼし。
氏綱子息氏康時代に。上杉
憲政と。たゝかひ。やむ事なし。然所に
古河の
晴氏公。
憲政と一
味有て。
武州河越の
城をせむる。
氏康武州へ。
出馬し。
河越の
舘にをいて。天文十五年四月廿日。
合戦し氏康
討勝。こと
〴〵くほろぼし。それより
以来。
関東公方。たえはて。上杉の
家も。
滅亡す天文
乱といひ
伝ふるは是なりといへり
聞しはむかし。
武州河越の
舘にをいて。
官領上杉五郎
朝定と。
北条氏綱。
合戦は天文六年七月十五日なり。朝定うちまけ。
滅亡し給ひぬ。
敵の
軍兵。はいぼくする其中に。上杉
左近大夫朝成の
郎従。あまた取て返し
討死す。其
隙に
朝成。おほくのかたきを。のがれたまひぬ。後たゞ一
騎に成て
落行所に。
相模国の住人
平岩隼人正重吉。是を見て。をひかけあはれ
大将と見へたり。
敵にうしろをあやなくも見せ給ふ物哉。
引返し
勝負を決せよと。
名乗かくる。
朝成のがれがたく。
駒引返す
隼人正。
馬上よりくんで
落。はじめは
隼人正下に
成しが。えいやと。ねぢ返し上になりたり。
味方に山
岡豊前守落合。
郎等あまた来て。
敵を
生捕隼人正をば。をしへだてうばひ取て。
氏綱の御
前へ参じたり。又
隼人正来て。此敵をば。それがしくみふせ候処に。
豊前守跡より来て。うばひ取よし。
相論に
及ぶ
氏綱其者の申
言葉。
并に両人の馬
鎧の
毛を。
記しをかれ。
生捕をば。山
角信濃守に
預らる。
彼両人
相論実否決しがたし。
生捕にたゞ
今尋ぬるといふ共。あへてもて。こたふべからず。
気色を見
合。
尋ぬべし。
彼左近大夫朝成は。上杉
修理【 NDLJP:448】大夫
朝興のおとゝ。
朝定のおぢなり。いたはり候へと給付られたり。
合戦の
後。
氏綱河越の
城に入給ひぬ。
信濃守朝成の
居所へ参じ。折々
昔を語りなぐさめぬ。
頼朝公奥州へはつかうの事をかたる所に。朝成いはく。
頼朝みちのくにて。合戦の事。
古記にもくはしくは見へず。いかなる文にしるしをきたるやととふ。
信濃守いはく。
或老士の物語を
聞おぼへ候。
語りて御つれ
〴〵をなぐさめ申べし。
頼朝公奥州泰衡退治として。
文治五年七月十九日。
鎌倉を打立八月十日。あづかし山の
合戦に。
頼朝公討勝て。
秀衡が子ども
悉くちうばつし。所々のたゝかひに切かち。
陣が
岡に
着御し給ふ。九月七日に。宇
佐美平次実政。
泰衡が
郎従。
由利八郎を。
生捕相
具して。
陣が岡に
参上す。然に
天野右馬丞則景是を生捕のよし
相論す。二
品行政におほせ付られ。両人の
馬并に。よろひの
毛等を。しるしをかるゝの
後。
梶原平三
景時。
由利に
向ていはく。
汝は
泰衡が。
郎従の中に。
名有者也。なに
色の。よろひ
着たる者の。
汝を
生どるやと
云。
由利こたへて。汝は兵衛
佐殿の
家人か。今の
口状過分の
至り。たとへをとるに物なし。
故御舘者秀郷将軍の。ちやくりうの。正
統たり以上三
代鎮守府将軍の。こうをくむ。
汝が
主人は
猶かくのごときの
言葉をばつかふべからず。いはんや又
汝と
我と。たいやうの所いづれか
勝劣あらんや。
運つきて
囚人となるは
勇士の
常なり。
鎌倉殿の
家人をもて。きくわいを。あらはすの
条。はなはだ。いはれなし。
問所の事。さらに
返答にをよばずと云々。
景時すこぶる。おもてをあかめ。御
前に参じ。申ていはく。此
男悪口の
外別の
言語なきの間。
糺明せんとするに所なし。ていれば仰にいはく。
無礼をあらはすによつて。
囚人是をとがむるか。
尤道理也。はやく
畠山次郎
重忠に。是をめしとはすべし。ていれば
仍重忠。手づからしきかはを取。
由利が
前に
持来て。
座せしめ。
礼をたゞしうして。いざなつていはく。
弓矢に。たづさはる
者。をんできの。ためにとらはるゝは。
漢家本朝のつうぎなり。かならず
耻辱と。せうすべからず。中について。古
左典厩永暦に。
横死あり。二
品も又
囚人と成て。六はらにむかはしめ給ひ。
結句豆州に。
配流せられ給ふ。然共
佳運つゐに。むなしからず。天下を取給ふ。
貴客生捕の名をかうむらしむといふ共。
始終ちんりんの
恨みを
残すべからざるか。おく六
郡の中に。
貴客武将の。ほまれを
備るのよし。
兼てもて其
名をとゞむるの間。
勇士等勲功を。たてんがために。
客をからめえるの
旨。たがひに。
相論に
及ぶによつて。よろひをいひ。
馬の
毛付をいひをはんぬ。かれらが
浮沈此事をきはむべき者也。何
色のよろひを
着たる
者に。
生どられ給ふぞや。
分明に是を申さるべしと。ていれば。
由利がいはく。
客は
畠山殿が。ことに
礼法を存じ。前の
男がわいに
似ず。
尤是を申べし。
黒糸おどしの
鎧を
着。
鹿毛の馬に
乗たる者。
先我を取て引おとす。其後をひ来る者は。かう
〳〵として其
色目をわかずと云々
重忠帰参せしめ。つぶさに此
趣を
披露す。
件のよろひ
馬は。
実政が也。すでに不
審をひらきをはんぬ。次に
仰にいはく此
男の申
状【 NDLJP:449】を。もて心中のようかんを
察する者也。
尋しるべき事あり。御
前に召参らすべし。ていれば
重忠又是を
相具して。
参上す。御
幕をあげられ是を見給ひ。
仰にいはく。をのが
主人泰衡は。
威勢を
両国の間にふるひ。
刑をくはふるの条。
難義のよしをおぼしめすの所に。よのつねの
郎従なきかの故に。
河田次郎一人が為に。
誅せられをはんぬ。
凡両国を
官領し十七万
騎の
官首たりながら。百日相さゝへず廿日が
中に。一
族みな
滅亡す。いふにたらざる事也。
由利申ていはく。
尋常の
郎従少々相したがふといへ共。
壮士は所々のようがいにわかちつかはし。
老軍は
行歩進退ならざるによつて。
不意に
自殺す。
予がごとき
不屑のやからは又。
生どられたるの間。
最後に相ともなふ者なし。
抑故左馬頭殿は
海道十五ケ国を。
官領せしめ給ふといへ共。
平治逆乱の時一日をさゝへ給はずして。
零落す
数万騎の
主たりといへ共。
長田庄司が
為に。たやすく
誅せられ給ふ。いにしへと今と
甲乙いかん。
泰衡官領せらるゝ所の物は。わづか
両州の
勇士なり。
数十ケ日の間。けんりよ一ぺんをなやまし奉る。
不覚にしよせしめ給ふべからずと申。二
品重て仰なく。
幕をたれ給ひぬ。
由利は
重忠に
預られ。はうせいをほどこすべきよし。仰付られ重て。
由利八郎
恩免に
預る。是ようかんのほまれ有によつてなり。
但兵具をゆるされずと云々。然ば
能郎等をば。
持べき事也。
彼由利八郎。
頼朝公言葉の。あやまりをとがめ。
至極の
道理をもて。
主人の名をあげ。
生どらるゝ身として。
勇士のほまれを。あらはし
末代に
名をとゞめ。
希代の
剛者に候。扨々そこつに。
生捕の
沙汰を申出したり。御
気にかけ給ふべからずといふ。
朝茂がいはく。生捕の
昔を聞に付ても。
遺恨やんごとなし。
語て
益なしとおもへども。我
運命つき。
合戦に
勝利を。うしなひ
落行所に。
跡より
黒革威の。
鎧を
着。あし
毛の馬に
乗たる。
武者一
騎名乗て。をつかくるの間。
駒引返し。
馬上にてくむ。かれはさしくゞりて。
下手をとり。我は上手に有て
馬上より
落たり。され共物の数ともせず。かれをくみふせ。
刀に手をかけしに。下よりえいやと。をし返し。
朝茂下になりぬ。其時あまた
落合。かさなつて。
生捕れ
耻辱をさらす事。
無念口おしきといへり。
信濃守氏綱公へ。此よし
言上す。
氏綱聞召。
件のよろひ
馬は。
平岩隼人正なり。申つる
言葉。
始終かはらずと。
御感有て。けんしやうを。あてをこなはる。
氏綱いはく。かれら生捕たる手がらを
朝成に尋る共。かたきに。くみふせられ。こたへがたからんか。然るを。
信濃守むかしの
生捕を
語り出し。
朝成を。なだめたる。
智略を
感じ給へり
見しは
昔。北条
氏直公時代。関八州の武士の旗。家々に伝ふる紋をあらはし。さし物は其身一代に。かはると見へたり。おもひ
〳〵のさし物。
品様々の
紋あり。去程に
我指物に。
似たる紋あれば。他の
家中たりといふ共。
由来を尋ね。とがむる其上。ほまれなくして。
異様を。このみ
【 NDLJP:450】分際に過たる。
紋のさし物をば。見る人あざける故。身に
応じたるを。さしたり然に。
氏康は
赤旗十ながれ。いろこがたの大四方一本あり。馬じるしは五
色に。
段々の。大のぼりなり。
氏政は白地に。
鑊湯無冷所と。
五文字をかけり。
氏直は。
金地に
無の一
字を。書れたり。されば氏直
旗本の。弓
大将に。
鈴木大
学頭といふもの。ことには。
精兵の大
矢づかを引。上手の
名を。えたりき。
数度の
合戦に。先をかけ。ほまれをあらはす故にや
白地のさし物に。やりと云二
字を。
仮名に
書たり。人是を見て。
鈴木大学頭は
旗本の弓
大将其上。
関八
州に
比類なき
射手なり。かれといひ。是といひ。
弓と
書ては。
子細有べからず。
鑓と
書事。
推参なりと。しかりしかども。あへて
以とがむる人なし。
太田十郎
家中。
武蔵国岩付の
住人に
春日左衛門
佐といふ
者。大
学に
向て。其方鑓は。
旗本の鑓か。
関東の
鑓かと
尋る。大
学旗本の鑓と
答ふ。
春日左衛門聞て。
旗本の
鑓にをいては。
是非なし。いやしくも此
春日左衛門有て。
関東の鑓と
名付人有べからずと。
荒言を
咄たり。
皆人聞て大
学がやり。春日左衛門にとがめられ。
関東の
鑓とこたへざるは。大
学が
鑓をば
銘矛とこそ名付べけれと。
難ぜしが。
小田原籠城の
時節。大
学はしぼとり口の。
役所に有て。
矢倉へ日々あがり。
敵を目の下に見て。
鈴木大
学頭と矢じるしを書つけ。はなつ
矢にあだ矢は一ツもなし。人云それ大
将たるは。
万人に
勝事を
専とす。敵の
鉄炮かけならべたる前へ出る事。
飛蛾の火に入がごとしと。いさめけれども大
学もちひざりしを。
敵大学をうたんと心がけしが。
終には
鉄炮にあたつて。
果たり扨又
北条左衛門大夫
家中に。
相州甘縄の住人。
三好孫太郎といふ
勇士あり。さし物に
挑灯を七ツ付たり。孫太郎が七ツ挑灯といひて。かくれなし。然る処に
松田肥後守よりきに。山下
民部左衛門尉がさし物は。六ちやうちんなり。天正十三年の秋。
氏直と
佐竹義宣。
下野の国にをいて。
対陣をはり。たゝかひの
時節民部左衛門が六ツちやうちんのさし物を。孫太郎見て。馬を
乗よせ其方さし物に。
子細有やととふ。
民部左衛門
聞て。
挑灯に何の
子細あらん。
我このみなりといふ。孫太郎いはく
武功を。つまずして六ツ挑灯さしがたし。それ天文十五年の比ほひ。上杉と
氏康と。
武州にをいて。
合戦の見ぎり。
某一
番やりのほまれありて。
氏康よりほうびの。
感状あり。其節我一ツ
挑灯をさしたり。其後又
忠有て二ツちやうちんをさす。三度
功有て三ツ
指。四度五度六度七度
忠勤をぬきんで。
重々の功によつて。七ツ挑灯をさす。かるがゆへに孫太郎が七挑灯と名付。
関八州に其
隠有ベからず。たがひに
馬上にて。
問答しつるが其日のせりあひいくさに。
佐竹がたに。大
石八郎と
名乗て。つり
鐘のさし物をさし。
諸人に
先立。われとおもはん者あらば。くんで
勝負を
決せよと。
長刀にて切てまはる所に。
民部左衛門はせあはせ。馬より
組で
落。民部左衛門大
力なれば。八郎をくみふせ。
首とつて其
場にて。
気を
点じかへ。
挑灯を五つ引
切て
捨一ツちやうちんをさしたり。
皆人是を是て。
民部左衛門が
問答の
時日を。うつさず。はまれをあらはし。一ツ挑
【 NDLJP:451】灯さす事。かへつてきどくなり。孫太郎が
武勇にも
劣べからず
各ほうびせり。其日の
軍入見だれ。首をとつつ。とられつ
半時たゝかひしが。相引して。いきをつぎ。
両陣そなへたり。
北条がた
岡辺権太夫といふ者
猪のさし物をさし。あまたの
敵とたゝかひ。
首一ツ取て
帰陣しつるがさし物を取おとしたり。
敵にとられ
無念にやおもひけん。
首引さげ馬にむち打て又
敵陣へはせむかふ。
味方も
不審し。あれや
〳〵といふ敵は是を見て。心がはりの
侍かと
待所に。
敵陣間近く馬をひかへ。大
音あげ。
抑是は
下総国の住人。
岡部権太夫
先陣のかけにをいて。敵と
馬上よりくんで
落首一ツ取たりしが。我さし物を取おとしたり
紋は
猪なり。此首いまだじつけんにあはせず。ねがはくば
首とさし物に。取かへて
給かしいふ。
敵是を見てやさしき心ばせの
侍哉と。ひろひたる
猪のさし物を手に
持て。
武者一
騎乗出し。返さんといふ。
権太夫いはく。とてもの
芳志に。それがしさし
筒へさしてたべとて。馬のくちを引返し。うしろむきて。
敵さし物をさゝせて首を敵に返し味方の
陣へしづ
〳〵と帰り入りをてきも味方もあつはれ
希代の
剛のものかなとかんたんせり
見しは
昔。
北条氏直公関八州に威をふるひ給ひし時は
恐れぬ
敵もなし。なびかぬ
草木もなかりしが。
武運末になり。天正十八
寅の年。北条家こと
〳〵く
滅亡す。
関東諸侍共に。
運つき
果身のをき所なく。
行べき方もなしうさの
余に
入道し
今は。われまろばにとげる。
腰刀世につかはれぬ身とぞ成けると。
古歌など
口号み。こつがひの
体にて。
爰やかしこに。さまよひ
面をそばたて。
肩をすぼめ。
木にもあらず。
草にもあらず。
呉竹のはしに我身は。成ぬつらなりと。よめる
古今の
歌を。思ひ出侍りぬ。
悲しき哉や。此等の人。いにしへは。
智者にむつんで。其
名を
雲上にあげんとほつす。今は
情ある人のほそ言葉をしたひより。
朝夕の
世路を
渡らんとねがふ。中にも
不便に見へけるは。
相模の国の住人
朝倉能登守と
云て。
関東弓矢の時
節。
数度の
合戦に。
先をかけ
武勇に
達せし
者あり。此人すてやらで。
身はさびはてぬふる
刀。さすがに
世をば。思ひたてどもと。よめる
古歌を
珍吟しつるがいかなるおもはくにや。
入道し
犬也と
名付。はふれにたるすがたを見て。けんやと
名をよぶ者もあり。いぬなりと云人もあり。
乞食してぞ
世を
送る。あはれなる
哉身は
萍の根を
絶て。さそふ
水あらば。いづくへもいなんとぞおもふ。
風情なり
有職の人云けるは。此者
犬也と
名付をいやしむべからず。
犬を
養てもつて。
盗人をふせぐ盗人なきをもつて。
吠ざるの
犬を
飼べからずと。
東坡は云り。此者此
言葉を信じて
名付たるにや。是は
逸物の
犬なり。
飼をきなば
益有べしと
云。然るに
結城相宰秀康卿。おほせけるは。今
弓矢治り天下
太平の御
代たり。然といへ共。
晏子春秋に
難に
望んで井を
堀と。
愚人のあざけ
【 NDLJP:452】りを
註せり。かるがゆへに。
炎天に。
水道をはらひ。無事に
武具を
求るは。是
君子の
道なり。いにしへ
関東弓矢の
時節。
武のほまれ有者を。尋ね出し
扶持し給ふ
清水太郎左衛門
入道。大石四郎右衛門入道。山
本信濃入道。
松下三郎左衛門入道。
朝倉能登入道此人々は
文武に達し。一人
当千の。その
名を得たりし
勇士。
年は六十七十にをよべり。
過分の
智行せしめ。
常に御
前に
近習し。御
自愛浅からず。
或老人申されけるは。むかし
四皓秦の
乱を
去て。商山と云山に隠居す。八十
有余鬢眉皓白と。
白かりければ。四皓といへり。
漢の
高祖の
太子。けいてい此四人を
召出し。
師とし。まつりごとたゞしく。
治世久しかりき。
源氏物
語などにも。しろがみを
耻ず出てつかふるといへるは是なり。と又
秀康卿世に
捨られたる。
老士を
召出さるゝ事
感ぜりと云り。
秀康卿おほせけるは。
関東侍は
馬上にて。
達者を。はたらくよし。
聞及びぬ。さぞつよ馬を
好みつらん。
朝倉犬也承て。
関東さふらひ。あながちにつよき馬をも。このまず候。
唯自力に
叶ひたる馬をもつはらと
乗候。
愚老旧友に
伊藤兵庫助と申て。馬
鍛練の
勇士有しが。
或時
口ずさひに。大ばたや。大
立物に。つよき馬。このまん人は
不覚なるべしとよみ候。馬
下手の。つよ馬このむをみては。馬にはのらで。馬にのらるゝと申候。むかし
頼朝公御
前に。
諸老候する
砌。
仰によつて。
各徃事を
語る所に。大
庭平太景能。
保元の
合戦の事を
語る。其間に申ていはく。
勇士のしゞめ
用べき物は。
弓矢の
寸尺。
騎馬の
学びなり。
鎮西八郎は。
我朝無双の弓矢の
達者たり。然ども
弓箭の
寸法を
案ずるに。其
涯分に
過たるか其
故は。
大炊御門の
河原にをいて。
景能。八郎が
弓手にあふ。八郎
弓をひかんとほつす。
鎮西より出給ふの間
騎馬の時。
弓いさゝか心にまかせざるか。
景能は
東国にをいてよく馬になるゝ也。ていれば
則。八郎が
妻手に。はせめぐるの時。こと相ちがふ。
弓の
下をこゆるにをよんで身にあたるべきの
矢。ひざにあたりをはんぬ。此
故実にをよばずんば。たちまち。
命を
失ふべきが。
勇士はたゞ
騎馬に
達すべき事也。
壮士等耳の
底にとゞむべし。
老翁の
説。
嘲哢する事なかれといふ。
当座見な
甘心す。
猶以御
感の
仰をかうふると云々。されば。
治承の頃ほひ。
足利又太郎
忠綱。
宇治川をわたす時。よはき馬をば。
下てにたて。つよきに
水をふせがせよと。
下知したるも。さも有べき事也。扨又
佐々木。
梶原。
生食。
摺墨とやらんといふ
強馬にのり。
宇治川の
先陣仕たるも。ゆゝしかるべし然共。大
河をわたすは。まれ事一
得をおもひて。
多失を
忘るゝは。おろかに候。むかしの人も馬。たんれん仕たるにや。
武者絵などに。馬をとばせ
走る間に。
弓を
引。
矢をはなつ
見へたり。それ馬に
乗て。
遠路を
行は。
足を
休めんため。
軍中にて
乗は。
馬上にて
弓鑓を
用に
立んためなるが
故に。むかし
関東にて
戦場をも。いまだ
踏ざる
若き者は。
広き
野原へあまた。ともなひ出て。
敵味方と
人数をわかち。
旗をさし。
弓鎗長刀。をのれ
〳〵がえての
道具を
持て。馬に
乗。馬のこゝろ見んため。
鉄砲をならし。
矢さけびの
声を。あげておめきさはぐ。
【 NDLJP:453】時にいさんですゝむ馬あり。をくれて。しさりおどろきてよこへきるゝ馬あり。山へ
乗上岨のかけ道を
乗。
堀をとばせ
自由を。はたらく様にと。
鍛練いたし。
先陣にぬきんで。
懸引達者を。ふるまひ
勝利えん事を。
専と
嗜候。
早雲教の二十一ケ
条の内に。馬は
下地をば
達者に。
乗ならひて。
用の
手綱をば
稽古せよと。しるせり。
侍たる者。馬の
口とらするは。一
代の
不覚。
仮初の
馬上にも。
名利を
忘れ。
乗方を心がけ。大
将たりといふ共。馬の口とらするをば。馬
下手故か。
弓馬の心がけなき人かと。
指をさし候。永
禄七年
甲子正月八日。
下総の
国高野台にをいて。
里見義弘と。
氏康合戦の
砌。
氏康団をあげて
衆をいさめ。
下知せられしが。すでに
敵味方入
乱たゝかふ。時に
至て
氏康賀美と
名付らる。
黒の馬に
乗。一そりそつたる。
白柄の
長刀にて。すゝむ
剛敵を。三十
余騎切ておとし。
猛威をふるひ。
合戦に
勝利をえられ候。
惣じて
氏康身に。
鎗刀疵七
ケ所。ほうさきに。
太刀疵有。かるがゆへに。さふらひのおもて
疵をば人。ほうびして。
氏康きずと申候ひし。馬
鍛練の
儀は。
御前に
候するいにしへの
傍輩共よく存る事にて候。御
尋あるべしと申ければ。
秀康卿聞召。
犬也も
若き
比は。さぞ馬たんれんしつらん。むかしの
面影を。そとまなんで見せよかしと仰なり。
犬也承て。
愚老七十に
及び。
馬上のふるまひ
叶ひがたく候。然ども
貴命辞し申に。
却て
恐れあり。御
遊興に。そといにしへをまなんで御目に
懸候べしと。
用意の
為に。
私宅に
帰る。
秀康卿御
見物のため。
馬場にゆかをかゝせ。
登らせ給ひ
諸侍芝の上に。なみ
居たり。
犬也鴾毛の
駒に。
黒糸威の
鎧着。
星甲の上に。
頭巾あて。
白袈装をかけ。いぶせき山
臥のすがたに。
出立矢をひ
弓持て。
郎等一人めしぐし。
鑓を
提させ馬に打
乗て。御
前近くしづ
〳〵とあゆませ。
軍陣に候
下馬御
免と申もあへず。
馬場を二三返はせめぐり。馬場のむかふに
築地の有を。
敵方とはるかににらんで。
手綱を
鞍の
前輪に打かけ。またにて馬を
乗。
弓に。
矢をはげ
声をかけ。
走るうちに。矢を二ツ三ツはなち。
扨弓をすて。
飛でおり。
従が
持たる
鎗おつ取て。
従が
先立てにぐるを。
追かけ
従がとつて返せば
我しりぞき。
馬も心有にや。
跡をしたひ来るを。又うち
乗て。いつさんにはしらせ
弓手妻手へ。
鑓を
自由自在に。ちらしはせ
廻るを。
秀康卿御
覧有て。
目をおどろかし。
御感なゝめならず。
犬也召にて有ぞとよびければ。馬をしづめ。
近く
乗よせ。
飛でおり。御
前に
候す。
当時の御
褒美として。
刀に
長刀をさしそへ。くださるゝ。
老後のおもひ
出。是にしかじとぞ申ける。
犬也入道老悴の
翁なれ共。たんれんの道。達者をふるまふ事。わかき
比さぞやと。
諸人かんたんせずといふ事なし。此人
誠に老たる
犬なりといへ共。
諸侍尊敬し給ふ。
弓馬の
威徳のべつくすべからず
北条五代記巻第一終