北条五代記巻第二 目次
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北条五代記巻第二
聞しは
昔。
管領上杉
修理太夫
藤原の
朝興公は。むさしの
国主として。江戸の
舘をきよじやうとす。扨又北条
左京大夫
平の氏綱公は。
伊豆さがみのしゆごとし。小田原にざい
城なり。たがひに
国務をあらそひ。
闘諍鉾楯たる事年久しかりき。然るに大永四年の比ほひ氏綱江戸の
城をせめおとす。上杉
匠作はと。川
越の城にひきこもり。十
余年の
春秋を
送りむかへぬ。いつよりか
例ならず。心ちそこなひて。天文六年卯月下
旬。世をはやくさりて。
嫡男五郎
朝定生年十三
歳にして。家をつぎ給ひぬ。ていれば。七々ケ日の
服忌さへ
経ずして。道をあらため。
兵をおこし
深大
寺と云
古城をさいこうし。
氏綱へ
向て
弓矢の
企もつはら也。人さたしけるは。
異国には父の
道三年あらためざるを。
孝といへり。其上
神はきよきにかたちをうつし。にごれるに。かげをさる
汚染の
旗の上には。いかでか
守護〈[#ルビ「しゆご」は底本では「しゆぞ」]〉の
軍神もかげをやどさんや。誠に
無道の
君子たり。氏綱は朝定
発向のよしを聞。
強敵をばしりぞけ。
自国を
治めんがため。同き七月十一日数万の
軍兵を
引率し。武州へ
出馬し同十五日
河越の
城にをしよする。三
木といへる原は。むさし野の北にて。河越の城にわづか五十余町をへだつ。此野は
人馬の
備所せばからず。
求るに
幸なる。
修羅場なりとて
陣す。たがひに
旗をあげて。両将の
軍勢うんかのごとし。しばらく
辰星の
吉凶を待が故に。合戦の
時刻うつりさつて。
漸丑みつの時にも
近くなりぬ。折から
晴明稀有の
満月は。
草露にひかりをみがき。
紅錦野亭にすだく
虫は。花のそこに
声をあらそふ。たけき
武士も。月にうそぶき花に
乗じて。
暫勇者の道を忘るゝかとおぼへたり。書にいはく
夜金鼓笳笛をもて節とすと云々。かくてしば
〳〵皷をうつて。たがひにあはする時の声は。
有頂の雲によぢのぼり。
阿鼻のそこにも聞ゆらんとぞ覚へし。すゝみあふ
兵共。こんがう
力士の
力を出し。
帝釈修羅のたゝかいひをなしたがひに
射る
矢は雨をふらして。
楊由が
射術をあざむき。しのぎをけづる
光は。
雷の
電光をとばするがごとく。
数万のはたは。こくうに
乱満して。
逆風にたゞよひ
人馬の声は。天地にどうようして。たゝかふといへども。しばらく
勝負。見へざりけり然に。神は
清浄のながれにやどり給ふにや。
朝定すでに。威をうしなひ一
陣やぶれぬれば。
残党またからず。
数軍のつはものは。
将棊だをしにことならず。爰にかばねをさらし。かしこに
頭をなげうつ。
勝にいさめる
氏綱の
軍兵は。しゆんめにむちをあげて。
東西に
馳走し。南北に
飛行す。朝定
敗北の
軍勢は。天をかける鳥の。
鷲のつばさにかゝり。地をはしるけだものゝ
獅子のはがみにあふがごとく。
左右の
足なへ
前後にまよふ有様。たとへんやうぞなかりけり。三五夜中の月は。
塵埃【 NDLJP:455】に影をまじへ。紅血にひかりをそむ。
討れぬる二千士の
外は。古人となり。あだし名を
後代に残せり。
漸天明ぬれば。河越の
舘。
破れて
甲乙きせんのさいしは。からめ手さしておち
行ぬ。
常にわれをたうとみ。
他をいやしめし。
貞女もなよびかなる。かたちをやつし。らうたけなる。
面を見へて。
田夫に手をくみ。
野人に袖を引れて。いづちともしらず
落行有様。あさましかりける次第なり。朝定は爰よりは北にあたりて。二十
余里ある松山の
舘を心がけ。落給ふ所に。松山の
城主難波田弾正忠。行むかひ
主君朝定を。松山の城に入奉る。
討もらされの
士卒ら。朝定の跡をしたひて。
彼舘にあつまりぬ。氏綱此よしを聞。朝定を
追討せずんば有べからずと。同十八日いさみすゝむ。
軍勢又かの
舘にをしよせ。
魚鱗に
陣をかごめ。
鶴翼にはたをなびかし。
近里ゑんそんはみな
万天のけふりとなす。同廿日難波田弾正。大将として。落来る
残党を
率し。がまんの
旗をひる返し。氏綱にむかつて
楯をそなへ。ふたゝび
軍を
興ずといへ共氏綱はかつに
乗て。
多勢朝定はをくれを取て。
小勢たゞ
蚊蝱〈[#ルビ「ぶんまう」はママ]〉が
雷をなし。くわぎうが
角をあらそふごとく。物にもたらず
敗北し。皆と
〴〵く
討れぬ。さればたけきが中に。やさしきあり其日のいくさ大将難波田あやなくうしろを見せ。松山さして落行を。北条がたに。山中
主膳駒かけよせ一首はかくぞ聞へける
あしからじよかれとてこそたゝかはめども難波田のくづれ行らん
と。誹諧体によみかけしに。難波田もさすがに由ある武士にて。くつばみいさゝか引返し
君をゝきてあだし心を我もたばすゑの松山波もこへなん
と。我作がほに古今集の歌を取あはせて。返答ありて。いそがはしく駒のあしはやめて。過行ぬ実さも有ぬべし。主君朝定を舘に残しをき。難波田討れなば松山はよせくる波もこしぬべし。身をまつたふして。君につかふるを忠臣の法といふ事あり。作者といひ功者といひ。懸引しれる勇者とぞみな人申侍りき。伝へ聞源頼義公みちのく衣の舘に。たてこもる。貞任宗任をほろぼせしに貞任まさなくうしろを見せしに頼義公
と。いひかけ給へば貞任駒引返し
と上の句をつぎしも今爰にぞおもひ出せる。たけき武士の心をもなぐさむるは歌なりと。貫之が書しもこれかや。然かり民綱功成名とげて。身しりぞくは犬の道なりとて。よろこびの旗をまきおさめ。本の陣に引かへす。誠に武略の達者たり。其後河越の城をさいこうし氏綱在城し給ひぬ此時は朝定公先祖のからう太田道真といへるもの。はじめて城となす。是ぞきく入間郡みよしのゝ里とかや。むかし在五中将ゐ中わたらひし。みよしのゝ田面の雁とよみしも此所ぞかし。【 NDLJP:456】さればさがみの国。金湯山早雲寺にをいて。氏綱の画像を。ぐらう拝見せしに俗体にして白衣の上に掛羅をかけ。顔相にくていに書り。物すさまじく有て。てきめんにむかひがたし。子細有ゆへにや荒人神のやうに写せり。氏綱の長兄氏康に。家督をわたし氏綱公は。天文十年七月十九日。薨じ給ひぬ。法名春松院殿快翁活公大居士と号す。ていれは。早雲寺在世までは。さがみ半国手に入。氏綱時代に至て。さがみをおさめ下総武蔵の城をおほくせめおとし。武威を関八州にふるひ。希代の大将といひ伝へり
聞しはむかし
里見義弘は。
安房かづさ両国を
先代より
数十年持来る所に。北条氏康。かづさを半国切てとりたり。然に義弘かづさの国中に城三ツあり。大
滝は正木大膳
大夫
在城す。
勝浦は正木
左近大夫
居城。
池和田は。
多賀蔵人城主たり。此蔵人は。あはかづさにおいて。弓矢を取てほまれをえたる
剛の者なり。氏康をびつのしやう。池和田の城をせめ落さんと。
軍兵を
引率しかづさの国へはつかうす。
義弘〈[#「義弘」は底本では「義引」]〉此よしを聞。蔵人一人有て。かなふべからず。
加勢として。正木大膳大夫彼城へ入。氏康城をとりまき。
昼夜をわかず。せめるといへ共
城中のもの共。
命を
軽んじたゝかふ故。百余ケ日
落城せず。扨又此城は
東は
高山あり。其
尾つゝきのさきをほり切。城となす西南北は
深田有て。べう
〳〵たり。氏康大軍にて山へ
責のぼり。
堀をうめ
矢石をはなち。
塀を引くづしせめ入ければ。正木大膳
大夫も。たが蔵人もこらへずして。からめ手よりかけゆくを氏康
軍兵。かつに
乗ていきほひ。
追かけ数千人
討捕たり。其節の
落書に
正木にてゆひたる桶の多賀きれて水もだまらぬ池のわたかな
とぞよみたり。敵ちり〳〵になりて。敗北する其中に。たが蔵人がしやてい兵衛の助。たゝ一騎とつて返し。長見の鎗をつ取て。はんくわいをふるひ。おほく味方をほろぼす所に。さがみの国の住人。中山左衛門尉矢をさしはさみ敵とたがひに。弓手に相あふ。扨又伊達越前守。弓引て敵のめてのかたよりすゝみ。両人駒をま近く乗かけ。同じ時矢をはなつ。此矢一すぢあたつて。兵衛助馬より落たり。片岡平次兵衛はしり寄て首を討捕。氏康の御前に参ず。又跡より両人来て。此敵をば。我射ころす。わが射おとしたると相論にをよぶ。氏康おほせには両人の一戦の場おなじく。馬よろひの毛を記しをかる。合戦をはりて後。氏康かの三人を召れ。首取たる片岡平次兵衛に。両人戦場の仕合をとはしめ給ふ。平次兵衛申ていはく。敵はもえぎおどしのよろひ着。鎗持てたゞ一騎味方は三人。三方よりすゝむ。其内に栗毛の馬にのり黒糸のよろひ着たる者。矢をさしはさみ敵とたがひに弓手に相あふ。又鴇毛の駒にのり。ふしなはめのよろひ着たる武者。敵のめてよりすゝみ。弓場もおなじ程へたゝり。弓をも同時はなつと見へ【 NDLJP:457】候。敵矢にあたつて馬より落たるをそれがしはせ参じ。首をうて候と申。氏康聞召。敵のよろひを尋給ふによつて。是を尋出し。御前に持来る。御覧ずるによろひの毛は。もえぎめてのわきの下を。柳葉の根にて射通したる穴たゞ一ツあり。つきげの馬に。捃縄目のよろひ着。敵のめてを射たるは。伊達越前守なり。此者申つる場所もかはらず。すこぶる矢は越前守に治定すと云々。人さたしけるは。中山左衛門尉は。敵を討そんずるのみならず。御前にをゐて。相論に負。いきがひ有べからず。むかし頼朝公下野の国。なすのゝ御狩の時。大鹿一つせこの内よりかけ下り。幕下の御前を通る。下河辺六郡行秀この鹿を射はづし。其場にて出家をとげ。ちくてんし行かたしらずとかや。耻をもる侍は鹿を射そんしてさへかくのごとし。いはんや中山左衛門尉。矢の相論にまけたるは。君の眼前にて。敵を射はづしたるにあらずや。腹を切か。ちくてんするかといふ所に。いくさしづまつて後。氏康彼三人をめし。仰出さるゝ旨。此度の合戦において。たが兵衛助を討捕に付て。三人に賞をあてをこなはる。次第のをもむき。一番に伊達越前守。是は弓にて馬上の敵を。射落すによつてなり。二番に中山左衛門尉。是は猛敵〈[#「猛敵」は底本では「敵猛」]〉とたがひに弓手にあひあふが故也三番に片岡平次兵衛。是は首を取によつて也と云々。平次兵衛仰のむねを奉り。欝憤をふくんで。申て云。中山左衛門尉は。敵を射はづし。其上御前にをいて。相論にまけ冥加にそむきたる者を。二番に御ほうびあり。首を取たる平次兵衛を。一番にこそ御ほうびなく共。三番に御さたある事。いこんやん事なきよしを申。氏康公きこしめし。それくんこうのけんしやうは。戦場にたいし。浅深けうぢうに進退有事也。軍中に至て。討もうたるゝも武士の名誉。のぞむ所の本懐也。中山左衛門尉。敵を射そんじたるは。其身の運命の厚薄にこたへたり。左衛門尉すこぶる。剛敵とたがひに。弓手にあひあふ。勇士のほまれかろからずと云々。諸卒御旨を承り感じたりと。我語りければ。或老士は此矢軍相論に付て思ひ出せり。頼朝公奥州秀衡が子共退治として。文治五年七月十九日。かまくらを打立給ふ。先陣ははたけ山の次郎重忠也。秀衡が嫡男。にしき戸の太郎国衡。大将軍として。数万騎をいんそつし。八月十日あつかし山にをいて合戦す。国衡うちまけ。軍兵と〴〵くはいぼくし。国衡もちくてんす。頼朝公其跡をおはしめ給ふ。諸卒の其中に。わだ小太郎義盛。先陣にはせぬけ。柴田のこほり大高宮の辺に至る。国衡は出羽道をへ。大関山をこえんとす。義盛是を見付。うどんげと名乗て追かけ。返し合すべき由をせうず。国衡義盛と聞。引返し名のらしめ。駕をめぐらすの間。たがひに弓手に相あふ。国衡は十四束の矢をさしはさむ。よしもりは十三ぞくの矢をとばす。その矢国衡がいまだ弓をひかざるさきに。国衡がよろひの。射向の袖を射とをし。かいなにあたるの間。国衡きずをいたみ。ひらきしりぞくところへ。はたけ山の重忠。大軍を率し出あふ。大串次郎。国衡を討取十一日に二品。舟迫のしゆくに滞留し給ふ。此所において。重忠国衛が首を【 NDLJP:458】献ず。はなはだ御感のおほせを承の所によしもり御前に参り。すゝんで申ていはく。国衡はよしもりが矢にあたり命をほろぼすの間。重忠が功にあらずといふ。重忠すこぶる笑ていはく。よしもりの口状ほうほつといつつべし。誅せしむるの支証なに事ぞ。重忠首をえて持参するの上。うたがふ所なからんかと云々。よしもりかさねて申ていはく。首の事は勿論なり。たゞし国衡が鎧を定てはぎとらるゝか。めし出され。彼実否を决せらるべし其故は大高宮の前の田の中にをいて。義盛と国術と。たがひに弓手に相あふて。義盛が討る所の矢。国衡にあたりをはんぬ。其矢の穴はよろひの射向の袖。三枚の程に。定てこれあらんか。鎧の毛はくれなゐ也。馬は黒毛なりと云々。是によつて。件の甲をめしいださるゝの所に。先くれなゐおどし也。御前に召よせ見給ふに。射向の袖三枚うしろの方に。とりよて射とをすのあと炳然なり。ほとんど鏨をとをすがごとし。時に仰にいはく。国衡に対し。重忠は矢をはなたざるか。ていれば重忠。矢をはなたざるのよしを申す。 其後是非に付て。 御旨なし是件の矢の跡。 他にとなるの間。重忠が矢にあらざる者也。義盛が矢の条勿論也をよそ義盛が申すことは。始終ふがうして。あへて一失なし。たゝし重忠は其生れつき。せいけつにして。そぎなきを持て。本意とする者也。今度の義にをいては。ことに好曲を存ぜざるか彼時は。郎従を先とし。重忠は後にあり。国衡かねて矢にあたる事。一切是をしらず。たゝ大串。彼くびを持来て。重忠にあたふるの間。打えたるのよしを存ず。物儀にそむかざるかと云々。いにしへも今もかくのごときの勇士の相論は有としられたり
聞しはむかし。
鎌倉の
公方よりつたはり。
関東の公方。京の公方と
号す。両公方まします。扨又文明の比ほひ。両上杉は関東
諸待の
統領たり。然るに両上杉の中。
不和いでき。
引分て
弓箭有つるよし。聞つたふるといへ共。其
由来をしらず。
或老士語りていはく。関東
乱国のこんぽんを尋るに。京都の
将軍よしもち公に。
御息なきによつて。かまくらもちうぢ君を。
養子にかねて御定あり。
御重書をも御ゆづり有所に。よしもち御
他界の後。京都の諸
侍同心有て。
義満公の。御
骨肉にてましませばとて。義持公の御
舎弟。二
位の
公青蓮院。えいざんの
座主にておはしますを。引くだし。将軍にあふぎ奉る。是によつて。内々持氏公京都と。御
気色あしき時分。
御息賢王殿御げんぶくの事。天下にをいて。ゑぼし
親に。取べき人是なき故。
義家公の
例にまかせ。八まん
宮にをいて。御げんぶく有べきよし。
官領上杉
安房守憲実に。
御だんかう有しに。のりざね
都鄙御一とうを。おもんぱかり京都にをいて。御げんぶくしかるべき由。申によつて。御気色にそむき。御げんぶくの義を。安房守にしらせ給はず。去程に上下の御間。水
【 NDLJP:459】火のごとく。たがひに。さうせつ有の間。
憲実は山の内をしりぞき。上州しらゐへ引こもり。京都へ
訴へ申されける間。やがて
義教公の
下知として。関東
乱国となり。
永享十一年二月十日。持氏公は
永安寺にて御
生害。御
息けんわう義久公は。
報国寺にて御
自害なり。春王殿。安王殿は
日光山へおち給ふ。
結城七郎光久。
重代の
主君にておはしますとて。御
迎に参り。ゆうきへ入申所に。のりざね
重て。とひの
軍勢をもよほし。ゆうきの
舘にをしよせ。
嘉吉元年四月十六日に。せめおとし両人の
若君をいけどり奉り。ろうよにのせ申。
長尾いなばの守御
供仕。上洛する所に。上
意下て。
濃州たるゐの
道場にて。おなじき年中。御
生害なり。それより
以来。関東
亡国となり。
近国遠国入みだれたゝかひあり。其後かまくら山内上杉
憲忠十
州にをよんで。
収領す其家老長尾左衛門尉
昌賢は。
文武二道に
達し。関八州にほまれをえたる。
無双の者也。然どものりたゞ。
運命つきかまくらにて
滅亡し給ひぬ。是によつて。東国みなもつて。
敵国となる所に。
上越のさかひに。
居住す上杉
民部大夫
顕定。
軍兵を
率し。はせ来て。
逆徒等をこと
〳〵く
追討し。もとのごとく
治りき。持氏公の四
男。
成氏公。成氏の御
息。
政氏公まで。上杉の一
家。あまた引分て。合戦すといへども又
和睦あり。其後山内顕定。
扇谷定正。此両上杉殿の関東諸侍の
統領として。
奥州までも彼下知に
従ひしが。文明年中に。
主従分て弓矢を取。其上二人の中あしく成て。
東西南北にをいて。算をみだし。たゝかひ
止事なし。ていれば。両上杉殿
不和のおこりを尋るに。
修理大夫定正の
家老。長尾
将監入道に二人の
子息あり。長兄左衛門尉。
弟尾張守と
号す。あにの左衛門尉の
子を。四郎右衛門尉
景春といふ。後は伊玄入道と
改名す。
弟尾張守が
嫡男。修理助と名付。此者
若年の
比より。
奉公いみじかりける故。君の
憐愍浅からず。是によつて。過分のふるまひをなし。あまつさへ
惣領家をつぎ来る。四郎右衛門尉を。そばだつるにより。
景春遺恨止事なし。定正の
長臣。太田
道灌。
主君をいさめていはく。長尾左衛門尉
父子。
不義のていたらくを見及び候。かれを
誅罸なくば。御
家のわざはひ。
連続たるべし。さなくば
当時尾張守
父子を。御
近辺を。しりぞかれ以後して。御
計策をめぐらさるべき由。申といへ共。定正此両条
承引なし。
者左衛門尉
父子既に。
謀叛をくはだて。
主君扇谷殿を。ほろぼし。をのれ諸侍のとうりやうにならんと。はかりごとをめぐらす所に。其家の子に。三
戸駿河守。太田
備中守。上田ひやうごの助を。はじめ
主君に
弓を引給はん事。
天道のをそれあり。思ひとゞまり給へと。いさめけれ共。
景春用ひずして。大
石一類長尾
但馬守を先とし。こと
〳〵く
引率し。四千よきにて
武州。五十子といふ所までをしよせ。ぢんとる。定正
俄の義なれば。小勢にて
叶わじと。武州
鉢形の城に。たてこもり給ひぬ。然るに。近国
他国入みだれ。矢弓おこつて。
算をみだしたゝかふ。其上両上杉殿の中。
不和に成て。
合戦止事なし。定正は
修理大夫
持朝の四
男也。子なきがゆへ。あにの
朝昌のちやくなん。
朝良を
養子になす。
【 NDLJP:460】定正。ともよしを。いさめていはく。
近年ともよしかつせんいくさの手だて
相違の
義おほく見及び候ひぬ。是
智謀兵略のたらざる故なり。定正三十余年。
数度の合戦にをいて。
勝利をうる事。ひとへに
武略をもつてせり。
者斎藤加賀守に。
団をあづくる事。
非道の
様に。ともよし
親近の者ひはんするよしを聞。
異国本朝。
古今戦国の法をしらざる故なり。
当方一二の
家老なりとて。
敷度の
戦場をふまず。
行の
異見をいはざるものに。うちわを
預け何の
益あらんや。定正二十四度の大合戦にをいて。加賀守は
片時の内にも。てだて一ツ二ツは。
善悪共に
言上す。其身此一
道を
書夜胸中に。たもち
忘るゝ事なきか。たとへ他国より
民百姓共来て。いくさのてだて
言上せば。すなはちまりしてん。八
幡のをしへと
信仰し。うちわを
預け。
異見を聞べし。
古人云
貴賤の
分者。
行之
善悪に有と云々。然に山内の御事は。御きようもいらず。其故は
幕下の大
臣守護の家なり。
者は三十余年の
乱中。定正
総領家ををもんじ。
数度の
忠功をはげますといへ共。いまだ長尾
半分限にもたらず。扨又
道灌父子山内へ
対し。
逆心のむね有によて。
折檻をくはふかといへ共。
用ひず。
城壁をけんごになす。
左伝曰都城百雉に
過たるは。国の
害也と云々。いかに江戸かわごえの両城
堅固たり共。山内へ
不義に至ては。
果て
叶ふべからずと。いさむるといへ共。用ひずあまつさへ
謀略を思ひその間。たちまちに
誅し。
則山内へ
注進す。かく
忠功をいたす所に。御心をひるがへされ。
道灌子源六を。御
膝下へめしよせられ。其上定正
父子を。
退治有べき。御
企何事ぞや。
両家士卒。
在々所々にて。たゝかひ皆ほろびぬべし。其以後他国より。
慮外の
盗跖来て。関東
恣になし。
両家たへはて
万民悲歎。三
才の
幼児も。る義也。すべて一二ケ国
無為の
刻。
安堵の思ひをなし。
上。
武。
相三ケ国をとゝのへ候に付ては。
朝良他国へうち越。
山野を住所とし
甲冑を
枕となし。夜を
征鞍にあかし。身を
溝壑になげうちかばねを
路頭にさらす事。おしむべからず。
当家として。山内へ相
双事
鵬鷃のつばさあそぶに
似たるか。あへてもつて。
愚老自讃たりといへども。五年残命にをいては。
武。
相。
上。の
諸士。皆もつて
幕下等
従ひ
属すべき事たなごゝろの内に有といへり。扨又大
森寄栖庵が。上杉民部大夫顕定へ
遣す
状にいはく。つら
〳〵御
進退を見るに。
偏に
天魔の
所行。時節
到来のみぎりか。
抑関東の
様体。今に至て見
廻候に。山の内の御事は。公方様御
在世の
時分より。上杉のとうりやう。然間
諸家彼
旗本をまもり。
尊敬比類なし。御
勢二十万騎と云々。
扇谷の御事は。わづか百騎ばかりなり。然所に
仮令御
家風。太田しんくわん。ふしぎの
器用をもつて。名を天下にあげ。ほまれを八州にふるひ。諸家心をよせ。万民
頭をうなたれ。
饗をなす事。しかしながら。天
道の至り。又はその身の
果報か。何様両条に。
過べからず。
末代しよくせたりといへ共。日月
地に落ざる事。三
歳のようちも。かくき仕事に候。かくのごとく申事。誠に
推参至極に候といへ共。
愚老累代に及び。
当方御
家風同前に候間。
心底別義を存ぜず。隔心なく申の
【 NDLJP:461】べ候。先年両家御不和の時。山の内は御一身。扇谷の御事は。公方様引立御申。すでに政氏様御
発向。其以下長尾伊玄入道御供いたし。高見
菅谷にをいて。両度御
敵御
方。はだへをあはせ。御
家風少々。かばねを
荒野にさらし。ふんこつをなされ。今に至て。
鉢形御
滅亡是なく候と書たり。
則然ば。両上杉不和のたゝかひも。数年をへたり。扨又両上杉殿。ひき分て合戦のしだひを。
記しをきたる。
古き
文に云。長
享年中。上杉のとうりやう。山内顕定公。
同名修理大夫定正公と。
波瀾を
発。然に
将軍左馬
頭政氏公は。顕定
合力として。一万よきを
引率し。
村岡如意輪寺にはつかう有て。合戦有よしを書たり。され共右に
記す。
寄栖庵が文は。関東にてあまねく。
童子共のよみ来れり。此文を見る
則は公方
政氏公は。定正一
味と
知れたり。然共おぼつかなき故。両
説ともにしるし侍る也。又両
官領と
云ならはすといへ共。定正官領の
沙汰たしかなる
文をばいまだ見ず。
者顕定と定正相州
実巻原の合戦は。文明十八年二月五日なり。すがや原の合戦は。同六月八日也。たか見原合戦もおなじ年なり。定正高見原一
戦以後は。上州へ
出陣なし。其子細は。上州へはたらくに至ては。すでに
越州の
多勢はせ来て。たちまち
難義をまねくべし。其内
案ずる。てだてあり。
若はちかたに。
憲房を
仕付申に至ては。上州の一
揆。こと
〴〵く長尾
幕下にふくし。
顕定上州しらゐにはつかうに至ては。定正
武相の両
勢を
引率し。
上野へみだれ入。
民屋を
放火し。
亡国となし。
兵略術をつくし。
昼夜をわかず。合戦すべし。其上
越国の
軍勢。千里にをよび。
運粮かなふべからず。
味方勝利あらん事。
案の内にありと云て。定正終に。上州へ
出馬せずと聞。小身たりといへ共。
智謀武略の
達人と聞へたり。其
比するが
高国寺の城に。いせ新九郎
氏茂といひて。
文武のさふらひ有。後は北条
早雲庵主と
改号す。両上杉引分て。たゝかひ有よし聞及び。軍兵を
催し
延徳の比ほひ。
伊豆を切て取。
明応。年中さがみの国へ打入。たゝかひ有しが。定正は明応二年十月五日
逝去也。その後ともよし。江戸河越両城のしゆごとし。顕定とたゝかふ。永正元年九月。ともよし
加勢として。早雲と今川
氏親大
軍を
率し。
武州へ
出馬有て。立河原にをいて。顕定と合戦あり。又顕定此
返報として。同き十月
越後の
軍兵をもよほし。武州河越の
城を。とりまひてせめたゝかふ事年をこえたり。然に和睦の義ありて。次の年三月。
顕定越後へ帰国なり。顕定は十四
歳の比。
関東へ
越山ありてこのかた。四十三年
弓矢をとり給ひぬ。
越州のしやてい。九郎
房義。家老長尾六郎
為景と。むじゆん有。つゐには。義房うちまけ。あまみぞといふ地にてうたれ給ひぬ。是によつて。顕定うつぷんをさんぜんため永正六年七月廿八日。
武州を打たち。
翌月
越州へ
発向ありて。
国中大かた手にいれ。
本意をとげられ。
為景を越中のさかひ。にしばまへついたうありといへ共。
翌年一
揆おこつて。
府中をはいぐんし絡ふ。ゑちごしなのゝさかひ。なかもり原にをいて。たかなし。
落合おなじき。七年六月廿日。とし五十七にして。しやうがいなり。
法名皓峯可淳と申き。そ
【 NDLJP:462】の後
三浦介
道寸は。かまくらの
近所すみよしに
在城す。上杉ともおきは。
武州江戸に有て。早雲とたゝかひあり。のべつくすべからずといへり
見しは昔さがみ小田原北条
家の
侍。
仁義をもつぱらとし。礼義
作法たゞしく。其様
厳重に有て。
形義をみださず。
若いやうをこのみ。
分限にすぎたる。
振舞をなす者をば。人あざける故。
律義をたしなみ。
君臣の礼いよ
〳〵をもんじ給へり。然にいせ
備中守。
山角紀伊守。
福嶋伊賀守三人は。
氏直はたもとの
武者奉行。
此等の人は。
数度の合戦に
先をかけ。
勇士のほまれをえ其上
軍法をしれる
故実の者也。ていれば伊賀守は。生れつきこつぜんと。
異様にして。大男大
髯有て。
形体風俗人にかはつて。いちじるし。氏直公へ日に三度
出仕すれば。
刀脇指衣類までも。三色に出立
長柄刀に。うでぬき打てさす時もあり。みじか刀の柄を。あかき
糸にてまくもあり。
虎の
皮のしんざやまきの太刀をさす事もあり。然共氏直
彼者。御
自愛故か。是を見とがめ給はず。諸
傍輩もそしり。あやしむる事なし。一年小田原
久野の入に。神まつりあり。諸
侍見物せり。いがの
守も是を
見物せんと。
牛の
角にぎんばくを〻し。あかねの大ぶさ
鞦。あかねのはづなを付。をのれは
草苅の
体にて。
腰にかまをさし。牛に
乗うしろむきて。
尺八をふき。女にくれなゐのそめかたびら。さきのとがりたる。ききやう
笠をさせて
牛をひかせ。
力者一人に
長刀をかづかせあとにつれ。
祭見物せしを。皆人けうがるふるまひとて。時に至て
笑しか共。
悪難をいふ者なし。町人は是を見て。侍の
形義ただしき。北条家にも。
異様をこのむ人有けり。
但いがの
守。
勇士のほまれ人にこへ。
武徳の至る
故にやとぞさたしける。ある時伊賀守。さがみばにう
河へ行。
鵜をつかふ。在所の者いはく。此川に何ものやらん。くせ者有て。近年人をおほく。取よしを申いがの
守聞て。此川にいかなるくせ者有共。よも伊賀には手をさゝじと。あざわらひ
鵜をつかひけるに。
中間を一人。
水底へ引こみ見へず。伊賀是を見。すはくせものよ。のがすまじと
脇ざしをぬき
持。
水底に入て是を見れば。
眼ひかる物有て。中間を
喰。いがは大
力。かれをいだひて。
弓手の
脇にしめつけ。つゞけて五
刀さし。水の上へあがる。その
跡に中間も
死てうかび出。
長一間程の
鱸。死てうかびたり。
福島伊賀守は。
希代の。気なげもの。
鬼の
生れがはりとぞ人さたしける
見しは今。
銭は
唐国のたからなるを。いつの
世よりか。我朝へわたり。日本の
宝とす。銭はめでたき
子細。様々有により。
異名おほし其中に。
銭を青蚨といふ事は。むかし
天竺淮南といふ
【 NDLJP:463】所に青蚨といふ
虫あり。其
母を
殺して銭にぬり。其
子を
殺して。さしにぬり。扨
市町にて。此銭を
以て物をかへば其
母銭。
子を
恋て。帰り来りさしに。つらぬかり
〳〵する事。
幾度も有て。つきず。是
淮南の
術なり。去程に一百の
青蛛にて。一
生涯つかふ。是によつて。青蚨と名付たり。
唐国の作法は。
年号改元には。銭をあらため。銭の
中の
文字。
開元。
天徳。
政和。
元祐。
永楽などゝ年号を
注せり。されば銭
品々有中に。取わり永楽を。関東にて
重宝する事
不審なり。然に
唐の
年代記を見るに。永楽は
明朝の御
代。三十六年に
当て。はじまる此年。日本は。
応永十癸未の年に
当る。此年八月三日
唐船わがてうへ来る。扨又同き年中。日本より
唐国へ。御つぎものを
納たると。是も
年代記にあり。此船共に。彼
永楽をつみ来りけるが。
慶長十一
丙午の年迄は。二百九年になりぬ。年寄たる人いふやう。
近き年迄。
関東にびた永楽取まじへ。おなじねにつかひしが。
在々所々にをいて。
善悪をあらそひ。
とはり
止事なし。其比
東八ケ国のしゆご。北条
氏康公仰けるは。
銭はしな
〳〵有といへ共。永楽にますはあらじ。
自今以後くわんとうにて。永楽一
銭をつかふべしと。
天文十九戌の年。
高札を立られければ関八州の市町にて。永楽を
用る。此義
近国他国へ聞え。びたの内より。永楽をえり出し用るゆへ。びたはいつとなく。かみがたへ上り。
関西にてつかひ。永楽は関東にとゞまつて用る。然に今は天下一
統の世となり。東西南北にて。此二銭をつかふされ共。永楽一銭のかはりに。びた四銭五銭つかふ。是により
善悪をえらび。
万民やすからず。此よし公方に聞召びた一銭を用ゆべし。永楽
禁制と。慶長十一午の年極月八日。武州江月日本橋に高れたつそれより夫下の水楽すたる故に。永楽をはかりめにかけ。
鋳物師買取て。万の道具につかふ。さればこの永楽。よのびたなみならば。
末代日本のたからとなるべきに。天文より
余銭に
秀で用る事。たとへばともし火きえんとて。其ひかりをますがごとし
慶長迄五十七年をさかんにして。めでたき
宝銭もめつする
時節にあへる事の。ふしぎさよと語りければ。
老人聞て
銭がはりといふに付て。
詠ぜし
歌あり。
古今にいせが
家をかりて
あすか川ふちにもあらぬわが家をせにかはり行物にぞありける
とよめり。是は淵の瀬にかはるを。銭によせたる也。顕昭のいはく。銭をもて直となす。法のゆへにぜにを瀬によせて。淵へんじ瀬となると云々。その上。一切万物。むかしにかはらずといふ事なし。業因の縁によりて。さうぞくあるべき程ありて。尽べき時につくる。日半なるときんば。かたぶき月みてるときんば。しよくすと。周易に見へたり。よき事も。あしき事も。世はみな不定也。不定とこゝろえぬるのみ。まにてたがはずと申されし
【 NDLJP:464】
聞しは昔。或老人物語せられしは。弘治二年の冬。上杉輝虎。上州ぬまたへ出陣す。北条氏康も上野へ遠発し対陣を張て。はたをなびかすといへ共。両陣の間に。切所有て。大合戦成がたし。数日を送る。然に前陣の役として。夜明ぬれば敵もみかたも。さかひ目へ出向て陣す。其中間へ。かち立の者五人十人互にはしり出。矢軍をなす。後は騎馬もはせくはゝり。二百も三百も集て。二日は矢いくさばかりにて日を暮し。或日はかけつ返しつ入乱れ。首を取つ。とられつする事有。みかたに岡山弥五郎と云者。金のばれんの差物をさし。つき毛の駒に駕し。木下源蔵といふ者は銀のごへいをさし。黒の馬にのり。いづれもわか武者なり。此両人日々諸人に抽で。先がけし弓鉄砲をも恐ず。敵味方の目に立て。扨も気なげもの。忠をはげます剛の者哉と。皆人ほうびする所に。伊藤びんごの守といふ老士。此もの共のふるまひを見て。両人日々先陣にすゝむといへ共。かへつて不忠の者。跡なる士卒にて功をばあらはすべけれといふ。若き衆聞て。びんごの守が聞へぬいひ事かなとつぶやきたり。然所にばれんのさし物さしたる。岡山弥五郎鉄砲に当て。馬上より落て死す敵是を見て。勝鬨をどつと作りたり。扨又みかたに千葉勘兵衛といふ。かち立の者。腰小ばたをさし。鑓持て諸人にはしりぬけ。すゝむ敵を馬上よりつき落し。頸取てほまれをえたり。其後ごへいのさし物さしたる。木下源蔵先だつ敵を目がけ。たゝ一騎はせあはせ。太刀うちしつるが。馬上よりくんで落たり。敵もみかたも是を見て。此者うたすなと。其虎口の場へはせ集る所に源蔵敵をくみふせ。頸取て退くみかた此者を引とらんとせしか共。みかたは無勢。敵は多勢にて。をしよせ源蔵討とられぬ。此両人毎日さきをかけ。戦功をはげまし軍忠の専一たりしが。討死しおしき侍哉と。各々さたする所に。びんごの守是を見て。扨こそ両人。犬死したりといふ。わかき衆聞て。是はいかなる子細ぞといへば。びんごの守いはく。軍陣にて討死するに。忠と不忠との二死あり。孟子に。君臣に義ありと云々。それ義士は。かくべき所をば有無にかけ。事のさうなるに至て。死するも義也。公私の理に付て。のがれ難時は。万人のおもてに立て討死す。是を忠死といふ。扨又血気の勇士は。のがるべき所を。のがれずして討れ。かくまじき所をかけて討死す。是を不忠死といふ。わかき衆聞て。岡山弥五郎。鉄砲にあたつて死す。勝利をえずといへども。軍中の討死は忠たり。さて又木下源蔵は。すでに敵を討て後。我命をほろぼす。是大功にあらずやといふ。備後守聞て。尤道理至極なり。然といへ共。戦場にをいて。懸引の達者をふるまふは武士の名誉なり。かの両人は。かけひきをしらず。兼日不義のはたらき。けふあらはれ。忠が不忠となるは是なり。軍陣にをいて。すゝむ共死せず。しりぞく共いきじといへばとて。懸引をしらずうたれ。なにの益あらん。聖人のおしへにも。身をまつたふして。君につかふるを忠臣の法と云々。かるがゆへに。武士は先もつて。文をまなび。武略をたしなんで忠を尽し。名を万天の雲井に【 NDLJP:465】あげ。面目をしそんに。ほどこさんとす。このわかき衆は。文武の学びは。かつてなく。人より先だてば。武威をあらはしくびをも取と心えて。両人がごときの。犬死し却て敵に。徳をゆづり。みかたにをくれをとらせ忠はなくして。不忠をかせぎ。人間一大事の。命を徒に失ひぬ。縦ば出るくゐの。うたるゝと。俗にいふがごとし。牛馬をつなぐ。杭に徳あり。徳なくして出る杭。いかでかうたれざらん。岡山弥五郎鉄砲にあたつて死たるも。唯是におなじ。数度の合戦にあふといふ共。一身の誉をあらはし。頸打取事稀有にしてかたし。去程に。功者は常に先をせず。術斗を内にかくして。時節を待て。高名を外にあらはす。その上軍は勝て負る事あり。負て勝事あり。木下源蔵敵の首を取といへ共。却てをのが首を。敵にとられぬ。是進退をわきまへず。不義の働ゆへ。勝て負るとは是也。両人に限らず。わか武者はかならず。そこつの働あり。第一いくさ珍敷。其上分別うすく。善悪のわきまへなし。去程に若者に。然るべき後見付るは。か様の時の為也。扨又千葉勘兵衛。此中日々のせりあひに。弥五郎源蔵があとに有て。見へがくれ成しが今日に至て。双方の軍旗を見定。兵気をはかつて。諸人に抽て。敵を討取。是をこそ懸引の。上手の。武士。負て勝とはいふべけれ。それ大合戦に至ては。只先をするにしかじ。扨又両陣そなへたる間にをいて。せりあひ軍には。偏に智謀武略をもてせり。其上敵をうたんには我命を万死一生と定れば。首討取事安し退く事討よりは。はなはだかたし。爰の故実を。しらんとほつせば。有識の人にしたしんで。兵術を学ぶべし。物のかうばしきは。老武者にありと申されしなり
聞しは今。若殿原達寄合。いにしへとの時代の合戦を心みに沙汰し給ふ。其中に一人申されけるは。むかしを聞に。朱雀院の御宇。東国下総の国にをいて。平将門むほんをおこし。逆威をふるふ。彼を退治の為。藤原の秀卿勅定をかうふり。天慶三年二月。討ほろぼす。れいぜん院の御宇。奥州あべのさだたう。むねたうを追討として。いよの守源のよしより馳下り。十二年合戦し。つゐには平康五年九月ついばつせられぬ。白河院の御宇。永保元年奥州の将軍。三郎武衡。四郎家衡。追放として。むつの守源の義家下向し。かれらを誅す。頼朝たかうぢ。平家を追罸し。天下一とうになし。弓箭の威光をかゞやかしたりしも。皆是りんし。ゐんぜんを下さるゝが故なり然に。近代は勅定なしといへ共。一身弓矢の手柄をもつて。天下の主となる人おほし。見よし修理亮は。将軍義輝を害し奉り。兵威をふるふ。織田三郎信長公は。尾州の住人。みの。いせ。両国を手に入。京都へ責上り。みよしを追討し。右大将に任ず。明智日向守光秀は。主君信長公をうち奉り。京都にはたをあげしに。羽柴筑前守秀よしは。明智を【 NDLJP:466】討て後。天下を治給ひぬ。世澆末にをよび。人の心たけきが故。一身の手柄をもつて。天下の主となる。なかんづく秀吉公は。数度の合戦に切かち。西国をなびかし。関東北条氏直を追討し。奥州くろ川迄下着有て。日本国を太平に治め。あまつさへ高麗国を責亡し。世に有てのたのしみに。醍醐。よし野の花見。高野詣。北野の大茶湯を興し。心のまゝの栄花栄耀をなし給ひぬといふ。又一人のいはく。秀吉は主君信長の心を移しえて。弓矢の取様おなじ。たゞ飛龍の雲をえてのぼり。大河の水まして。淵も瀬もなく。平等にをし流すがごとし。むかしより国郡を持来る大名は。武道の勇弱にもよらず。先例を追て。氏系図をたゞし。その子孫知行する処に。信長秀吉の時代より。先規の氏位を用ひず。民百姓成共。武勇の者をほうびし。国郡を出し。俄大名になりて。威勢をふるふ。かるがゆへに諸侍。大功を心がけ。弓矢も昔よりははげしかりき。件の両将は。前代未聞弓矢の。中古開山。権化の名大将末代とても有べからずと。思ひ〳〵に沙汰せらるゝ所に。老人有りしが。此由を聞て。信長と秀吉の弓矢の有様。かくべつなり。それをいかにといふに。信長永録年中。京都へ責上り。其勢ひに。あふみ。山城。摂津。いづみ。かわち。ゑちぜん。わかさ。たんご。たじま。はりま。を手に入。みの。おわり。いせ。みかは。遠江合れば十五ケ国を治られたり。然ども大坂の一向衆。坊主ひとり旗下に付ずして。敵たり。地下のだんな共一味し。籠城す。此等は一つをもつて千に当る。血気の者どもなり。され共小城なれば。輙責などすべき所に。みかたをそんざす事。思慮ある故か。五年いらへもせず打置。後和平の儀有て。城を開退ぬ。甲州武田信玄隣国に有て。逆威をふるふといへ共。却てなだめ和睦し。勝頼時代馬を出されければ。聞落にはいぼくし。亡びぬ。此いきほひに。関八州望みたるべしと思ふ所に。氏直大国をしゆごし。その上西国いまだおさまらざる故にや。甲州より帰落し給ひぬ。爰をもつて察するに。信長は武勇にたけ。心いられ短慮未練のよし聞へしかどさはなくして。智謀武略の大将なり。扨又秀吉は。一身の武勇に秀て。運にまかせ弓矢をとり。勝に乗て奢を旨とし給ひぬ。其子細は氏直旗下〈[#「旗下」はママ。「幕下」の意か。後文同じ]〉に属し。使者をのぼせ。其上来春上落〈[#「上落」はママ]〉の議定。其支度有所に。遅参のよし事を左右によせ。関東へ出馬也。名大将といふは。たゝかはずして勝事を本意とす秀吉は弓矢の手柄をもつて。国を治るを専としたまへり。然に秀吉奥州下向はなにゆへぞ。伊達正宗〈[#「正宗」はママ]〉をはじめ小田原へ悉はせ参じ。手をつかね旗下となる。其上小田原百余ケ日の長陣に。しよぐん草臥。気もつかれ果たる所に。おもひの外。計策のあつかひ有て落城す。万軍はやく帰国せんとする所に。諸勢の労苦をもわきまへず。奢るにまかせ敵もなき奥州に下り。田畠のけんちをさせ。黒川より帰路し給へり。是偏に弓矢の勢を。百姓等にしらせん為斗也孟子に君の政するは。民を養ふを本とす。是恒の産と云々。国を治る大将と云は。兆民をなで。苛政をのぞき。我身を苦しめ。万士をやすんず。然るとき【 NDLJP:467】んば。天眼くらからず。神明のかごあり。上善政をほどこす時は。下に簾士多くして。国ゆたかに。万人心すなほなり。其上天下をあらそひ。たゝかひをなすといふ共。身の為に軍をおこすは。一旦の利有といふ共。治世久しからず。果て滅亡其中にあり。国の為万民のために。弓矢を取は。神明の冥助有て。身のさいはひ出来すべし。上より下を撫育すれば。下又父母の思ひをなす。天下を治めて後は。干戈を箱に納め。弓を袋に入。佚道を専とをこなひ。民をゆたかにするが君子の道なり。然に秀吉高麗国へ出陣は。唐使ち参のよし。詞を工みにし。弓矢をのぞむが故也。人数五十万騎とかや。件の兵粮米運送は。日本国の民百姓也。其なげき悲しみ。其ついへいか計ならん。其上敵味方の死人。幾千万といふ数をしらず。これ秀吉奢を旨とし。一身のほまれを願ふ。ゆへ也。其科をそれざるべけんや。むかし頼朝公かまくらより御上洛諸侍其支度あり。当年田畠そんじたり。百姓つかれなるべしと其年をやめられ。翌年上洛也。京都より天王寺へ御参詣の御もよほしに付て。奉行等路次中の。運送を百姓等に。ふれ遣す沙汰あり。頼朝公聞めし。仏神への詣は身のため也。百姓をつかひ其くるしみ却て。頼朝が科なるべしと陸地をやめられ。俄に淀より乗船有て。天王寺へ参詣し給ふ。さて又平家追討として。関東より西国へ。軍兵進発す。其後大将軍参河守範頼へつかはさるゝ状にいはく。みかたのしよぐん勢へ相ふれ。敵国の百姓共に。憐愍をくはへ。苦しみなき様に。政道せらるべしと。度々下知せらる。国を治る大将は。かくこそ有べき事なれ。上悪政を。おこなふときんば。下に奸人おほくして。国あやうし。君一人の善悪により。一天下の人の心。皆是に応ず。すべて天下の国主として。其道にたがふは。盗賊にひとしきと。先哲も申されし。私欲をかまふる国主は。めつばうその中にあり。秀吉天下を治めて後。百姓の年貢を。むさぶり其上。日本国中田畠を検地し。百姓の悲しみ。たゞ是秀吉一身。欲するが故也。是に付て思ひ出せり。北条氏康関八州を治て後。一門家老の者共より合。評定所にをいて。田畠けんちの沙汰あり。氏康聞て其義然べからず。老子経に国を治るは。小鮮をにるがごとしと云々。弓矢を取に。身の為にいどむ軍は。神明もいかでか守り給はん。天下の悪をはらはん為。おこす弓矢は。天の助あり。然に氏康天下の望みあり。是まつたく私欲にあらず。国のため民百姓の為を思ふが故也。先祖早雲宗瑞年貢しゆなうの義を。定をかるゝより以来。北条家にをいて。五ツ取所をば。一ツゆるし四ツ地頭へしゆなうす。此外役一切かけず。日本国かくあらんにをいては。民もゆたかに。国あんたいなるべし。此一事を仏神へ。朝暮きねんす。いかで神明の御助なからん。件の願ひ。をそきがうらみなると申されし。其比永楽五十貫。百貫と名付。田地の跡は今五千石一万石ありとかや。百姓ら是をなげく度毎に当地頭をはから見ずして。秀吉重欲故と。口びるをかへし。そしらざるはなかりけり。いかにいはん後代迄をや。然ば信長は兄を殺しおはりの国をうばひ【 NDLJP:468】取。しうとを追討し。みのゝ国を取。天台山を焼ほろぼし。三千の衆徒の首を切。高野ひじり数千人をころす。是によつて。高野山にをいて。信長を調伏す。三七日まんずる日に当て。日向守が為に滅亡し給ひぬ。秀吉はねごろ覚钁上人の。霊場を灰燼となし。数千の僧徒の首を切。あまつきへ信長公の遺跡を。たやし申さんとて。主君三子信高を殺す事。皆是あだをもつて。君恩を報ずる事。いふに絶たり。下人に過分の国郡を出し。をんしやうをほどこすは。我がため子孫の為をおもふが故なり秀吉主君の恩を忘るゝは。是大鑑にあらずや。然るときんば扶持す。国大名は秀吉の大敵。いかでかをそれざるべけんや。日本国の寺領社領は。秀吉公の時代に。こと〳〵く取はなされたり。文選に君道あるときんばまもり。海外に有と云々かまくら将軍の時代。政道たゝしくおはしませば。末代までも是をまなび給へり。それ御成敗式目は天下の亀鑑との御時代。公方家に是を専用ひ給ふ。件式目五十一ケ条の最初に。神社を修理し。祭祀を専とすべき事と云々。神社をはじめにをかるゝ事。日本は神国なり。其上天地開闢のはじめ陰陽是を神といふ。神は魂なり。神は人のうやまふによつて。威をまし。人は神の徳によつて運をそふ。次に寺塔〈[#ルビ「じだう」はママ。後文同じ]〉を修造し。仏事等をごんぎやうすべき事と云々。日域仏法流布の国也。寺塔は仏の廟也。但内典には。仏を先とし。外典には。神を先とす。是水波のへだてなり。天下国家を守護する人は。仏師をそんきやくるが政道の本なり。故に君子は本をつゝしむ。本たつ時は末おさまる。件の両将。神社の為には。大尺魔。国民の為には。悪大将の出現とやいはん。異国にも此例あり。悪王有て或代には。仏経を焼すて。或代は儒書をあつめ焼うしなひ。本をたやさんとせしか共。後賢王出世し。再興有て。今の世までも繁昌す。此二文は天地のごとし。国民の父母たり。然所に家康公の御時代には日本国の寺領社領を。付をき給へば。寺社を修造し。神仏の祭祀をこたらず。世こぞつて悦びあへり。件の信長秀吉。文の学びなき故。仁義の道を知ず。仏神をも敬せず。民をもなでず。偏に私欲にまどひ。一生涯弓矢を取給ふといへ共。天道に背き給ふゆへにや。一代にて滅亡し給ひぬと申されし
北条五代記巻第二終