一応永年中。禅秀乱といひ伝ふる事。其比鎌倉の公方をば。兵衛督持氏公と申。然に関東官領上杉右衛門佐氏憲 法名禅秀入道。公方持氏公へ。逆心を企。満隆と一味し。関八州は扨をき。奥州までも文をめぐらし。軍勢はせ来て。鎌倉にて夜日。十日の大合戦あり。持氏公討まけ。応永二十三年丙申。十二月駿河の国。大森山まで落させ給ひ。上杉安房守憲基は。越後へは【 NDLJP:482】いぼくの事
一応永二十四年持氏公。駿河におはしまし。京都へうつたへ給ふにより。義持公下知として。鎌倉にて合戦あり。持氏公うち勝。満隆公。持仲公をはじめ。上杉犬懸の禅秀入道一類。悉く雪下にて滅亡の事
一応永二十五年。武田悪八郎討追の事付信元帰国の事
一永享の比ほひ公方持氏公。鎌倉におはします。然所に。関東官領上杉安房守憲実。叛逆をくはだて。京都の公方義教公へ申により。京勢馳下り。鎌倉にをいて。合戦あり持氏公うちまけ。同き十一年己未〈[#「己未」は底本では「已未」]〉二月十日父子御自害有。それより関東諸国に。鉾楯出来して。修羅のちまたとなる事
一永享年中持氏公の次男。春王殿。三男康王殿両君。結城七郎光久が舘にまします所に。上杉安房守憲実大将として。大軍にて嘉吉元年辛酉。四月十六日結城の城をせめ落し両若君を。生捕奉り終には。濃州垂井の道場にて。同き年の秋。勅使下り。春王殿。康王殿自害し給ふ事
一文安の比まで。関東諸国見だれ。弓矢を取て止事なし。其比長尾左衛門入道昌賢は。文武のものなり。関東に主なくして有べからずと。持氏公の四男。永寿王殿。信州にかくれましますを。引出し天気をうかゞひ。四位少将成氏公に任じ。鎌倉の公方と号す。是によつて関東無事になる事
一享徳三年甲戌。十二月廿七日。公方西御門成氏公。かまくらにをいて。上杉左京亮憲忠を誅したまふ。此時上杉引分てたゝかひ。長尾一族鉾楯有て。成氏公叶はず。古河へ御馬を入給ふ事
一康正年中。諸国兵乱やまざる処に。上。越のさかひに居住する。越のさかひに居住する。上杉民部大夫顕定馳来て。逆臣等を追討し。東国治る事
一文明三辛卯の年。公方茂氏公上杉とたゝかひ。成氏公討まけ。古河を去て千葉へ。引籠給ふ事
一文明年中。主従たゝかひ有しが。和睦の義ありて。同き十年戊戌七月十七日。成氏公古河へ帰城の事
一文明年中。長尾四郎右衛門尉景春。主君上杉修理大夫定正に。逆心有て。武州五十子にをいて合戦す。定正討まけ鉢形の城にこもり給ひぬ。但是は上杉顕定へ。逆心としるしたる文あり。此義二説ある事
同十八
丙午年
扇谷上杉
定正家老太田道灌を
誅す。此時に
至て上杉の
棟梁山内
顕定と。
不和出来両上杉たゝかひの事
【 NDLJP:483】一同年二月五日上杉顕定と同名定正。相州実巻原合戦の事
一同年六月八日相州須賀谷原にをいて。鎌倉の公方左馬頭政氏公定正と一味し顕定と合戦の事
一同年十一月三日両上杉武州高見原一戦の事
一長享二戊申〈[#「戊申」は底本では「戊甲」]〉年武州松山にをいて両上杉戦ひの事
一延徳年中伊豆国北条に堀越の御所まします駿州に居住する伊勢新九郎早雲氏茂御所をほろぼし伊豆の国を切て取事
一明応三年甲寅九月廿三夜相州新井落城三浦の時高滅亡の事
一明応年中相州小田原に大森筑前守在城す伊豆の早雲せめおとす事
一文亀年中相州にて北条早雲氏茂と上杉顕定戦ひの事
一永正元年甲子九月武州河越の城主上杉五郎朝良加勢として今川氏親北条氏茂と一味し武州立河原にをいて。上杉顕定と合戦の事
一同年十月。上杉顕定越後の軍兵を率し。武州河越上杉朝良居城をせむる。翌年の春。和平の義有て。顕定越後へ帰陣の事
一永正年中。越中の上杉九郎房義と。家老長尾六郎為景とたゝかひあり。房義討まけ雨溝といふ地にて。滅亡の事
一同四年公方政氏公と。高基公父子不和の義出来。関東鉾楯する事
一同六年七月廿八日。上杉顕定武州に有しが。舎弟〈[#「舎弟」は底本では「含弟」]〉房義滅亡遺恨。やむことなく武州を打立。越中にをいて長尾為景と合戦し顕定うち勝て。越中西浜へ為景はいぼくの事
一同七年越中の一揆おこつて上杉顕定はいぐんし。越後と信濃のさかひ。長森原にて高梨に出あひ。同六月廿日顕定滅亡の事
一同九年壬申。八月十三日相州岡崎の城に。見うらの介道寸居城を。北条早雲せめ落す。道寸は同国。すみよしの城に移る事
一永正年中。三浦介道寸と北条早雲。かまくらにをいて合戦す。道寸討まけ敗北し。三浦新井の城に引こもる事
一同十五年戊寅。七月十一日三浦介。陸奥守義同法名道寸。子息荒次郎弾正少弼義意。新井の城に三年たてごもり。つゐには北条早雲。せめ落し。父子切腹の事
一大永四年甲申。正月十三日武州江戸。上杉修理大夫朝興居城を。北条氏綱せめおとす。朝興は河越の城に。引こもる事
一同六年十二月十五日。
房州里見義弘。
舟にて鎌倉へ
渡海し。
鶴岡を
破却す。北条氏綱はせ向
里見討まけ
同名右近大夫
討捕らるゝ事
【 NDLJP:484】一享禄三庚寅。上杉朝興。武州河越の地にをいて北条氏綱とたゝかひの事
一天文六丁酉の年。上杉五郎朝定。武州河越の舘にをいて。七月十五日の夜軍。北条氏綱討勝て朝定めつばうの事
一同月廿日。上杉朝定。家老難波田弾正忠。武州松山の地にをいて。北条氏綱と合戦し。難波田討まけはいぐんの事
一天文七戊戌年。十月七日下総の国小弓の御所。義明公高野台にをいて。北条氏綱と合戦し。義明公うちまけ。父子こと〴〵く滅亡の事
一同十四乙巳の年。駿河長久保の城は。北条氏康城なり。然処に今川義元。上州上杉憲政と一味し憲政は武州河越の城をせめ。義元は長久保の城をせむる事
一同十四年。古河の公方春氏公。上杉憲政と一味し。武州河越の城を両年せめる。北条氏康出馬し。同十五年七月廿日合戦す。公方討まけ古河へ落行。上杉は越後へ敗北の事
一同廿三年。甲寅二月今川義元加勢として。武田信玄駿州へ出馬す。北条氏康伊豆へ出陣し。たゝかひの事
一同年十月四日。北条氏康古河の城をせめ落し。春氏公父子を。相州羽田野へながし申さるゝ事
一弘治二丙辰年。北条氏康天気をうかゞひ。晴氏公の若君。御元服有て。左馬守義氏公に任じ。葛西谷へうつり。晴氏公と和平の事
一弘治年中まで。武田信玄今川義元は。北条氏康とたゝかひしが。同二年あつかひ有て。三家一度に縁者をくみ。和平の事
一同二年十月三日。上杉輝虎。太田三楽斎と。一味し上州へ出陣す。北条氏康出馬し。たいぢんをはりたゝかひの事
一同二年。房州里見義弘舟にて。三浦へ渡海し城ケ島に陣取。北条氏康とたゝかひの事
一同年十二月十五日。義氏公下総の国関宿へうつり。同三年晴氏公父子四人。流罪の事
一同三年。駿州今川義元。尾張の国を切てとらんと。軍兵を率し。責のぼる処に。尾州にをいて。織田三郎信長出あひ。五月十九日義元めつばうの事
一永禄の比ほひ。上杉憲政越後に有て。上杉輝虎を頼み。常陸。下野。信濃。上野。武蔵の侍ども悉一味し。輝虎大将軍として同しき三年庚申三月。小田原へはたらく事
一同三年。北条氏康武州へ出馬し。岩付の城主。太田三楽斎追討の事
一同四年九月十日。上杉輝虎信濃の国。河中島にをいて。武田信玄と合戦の事
一同五年の春武州松山上田
安徳斎。
城を北条氏康せめおとす事
【 NDLJP:485】一同七年甲子。正月八日房州里見義弘。下総高野台に出陣す。北条氏康。氏政出馬合戦し義弘うちまけ敗北の事
一永禄年中上杉輝虎上州沼田へ出陣。北条氏康氏政出馬したゝかひの事
一同年中。里見義弘。上総の国。池和田の城に。多賀蔵人在城す。北条氏康。氏政出馬し。責落す事
一同十一年戊辰極月。武田信玄駿州へ出馬し。今川氏実を追出し。駿府にはたを立る。氏実は遠州懸川へはいぼくの事
一同年中まで北条氏康と。上杉輝虎とたゝかひ有しが。和睦の義有て。同十二年の春。氏康の七男三郎輝虎の養子と成て。越後へ越山の事
一同十二年正月上旬。北条氏康。氏政駿州へ進発。三枚橋。高国寺。蒲原の城をのつとり。由井薩埵山にはたを立。武田信玄と同四月迄。戦ひあり。信玄惣陣をはらつて。甲州へ迯ゆく事
一同年の六月廿日。武田信玄。駿州加波鳴嶋に陣す。北条氏康。氏政。駿河へ発向し。信玄はたもとへ夜討し。鬨音を上れば。信玄おどろきはいぐんす。八幡大菩薩のはたを打すて。夜もすがら。甲府迄諸軍こと〴〵くにげゆく事
一同年十月上旬。武田信玄。信濃〈[#ルビ「しなの」は底本では「しのの」]〉。上野。武蔵の侍共と一味し。信玄大将軍として。相摸酒勾まで働事。同三増合戦の事
一同年極月。駿州蒲原に。北条新三郎在城す信玄せめおとす事
一同十三年の春。武田信玄駿州へ出陣。北条氏政するがへ進発。たゝかひの事
一元亀元年庚午の夏。氏政西上州へ出陣。武田信玄も出馬。たゝかひの事
一同二年の秋。北条氏政常州にて佐竹義重と。対陣の事
一天正元年癸酉の冬。下総の国。関宿の城主。簗田中務大夫謀叛す。北条氏政出馬し。関宿の城をせむる。佐竹義重後誥として。出陣すといへ共。かなはず引しりぞく。簗田降参し。次の年五月十一日城を。あけ渡す事
一天正年中の。いくさをば。愚老出陣し。覚侍る。源勝頼と。平氏政と。和睦の義有て。同五年勝頼旗下になる。其上勝頼は。氏政のいもうとむことなり。甲。相一味の事
一同年中まで北条氏政と。里見義頼たゝかひ有しが。同五年の夏。あつかひ有て。里見小田原へ。証人を渡し。和平の事
一同六年。越後の上杉三郎景虎と。長尾喜平次景勝と。鉾楯あり。景虎討まけ滅亡の事
一同七年の春。北条氏政西上州へ。
進発す。
武田勝頼も。
出馬手切のたゝかひの事
【 NDLJP:486】一同八年三月。源勝頼駿州浮島原へ。出陣平氏直も。伊豆の三島に。はたをたて。たゝかひあり。駿河の海にて。舟いくさを勝頼うきしまが原下へ出見物の事
一同年の冬。駿河の国中。戸倉の城代。笠原新太郎。平氏直へ謀叛し。源勝頼に一味す。是によつて。勝頼駿州へ出陣。氏直も伊豆へ出馬有てたゝかひの事
一同九年二月。源勝頼駿河へ発向す。平氏直出陣たゝかひの事
一同十年三月十一日。信長公甲州へ発向。源勝頼めつばうの事
一同年六月十八日。滝川左近将監。上州前橋の城に有。北条氏直出馬合戦し。滝川うちまけはいぼくの事
一同十三年の夏。佐竹義宣下野へ出馬し。太田和に陣取。北条氏直も出陣。藤岡にはたを立。四月より七月まで対陣すといへども。両陣の間に。節所有て合戦なりがたし。あつかひ有て。双方馬をおさむる事
一同十八年の春。秀吉公関東へ発向。同き三月廿九日。豆州山中の城をせめおとす事
一同年七月六日。小田原落城。北条家滅亡の事
一慶長五年庚子の春。上杉中納言景勝。陸奥にをいて。鉾楯す。家康公。秀忠公。同七月廿日江城を御出陣。会津逆乱をおさめ給ふ事
一同年七月の比ほひ。石田治部少輔三成。謀叛是によつて。家康公。秀忠公御出馬。同九月十五日。美濃国春野原の合戦に。関西衆討まけ滅亡の事
一同十九甲寅の年十月の比ほひ。秀頼公将軍秀忠公へ対し鉾楯。則秀忠公諸軍を率し摂州大坂へ発向。城をせめ給ふ。秀頼降参。身命無事に有て。同き極月下旬。落城の事