<< 知識の三の方法の事、その作用とその意味の同じからざる事、心の信仰の事、信仰に隠るる奥密なる富の事、此世の知識は、その方法に於て信仰の正直明白と幾ばく差異ある事。 >>
行為の径と信仰の路とを経て、頻りに信仰に進歩したる霊魂は、もし知識の方法に再び転ずるならば、信仰は直に跛行し始めん、而して相互の助を以て純潔の霊にあらはれ、正直明白にして穿鑿討究に渉るものには絶て入らざる精神の力は失はるべし。けだし一たび信仰を以て己を神に従はしめ、しばしば経験を以て神の助を試みたる霊魂は最早自己のことに掛念せずして、却て驚愕と沈黙の為に縛らる、ゆえに知識の方法に再び立戻りて之を行為に使用する能はざるべし。然らずんば倦まずして窃に霊魂を監視し、之を慮りて、悉くの方法により不断之を追尋する神の照管は、知識の方法の反対により奪はれん、即霊魂は知識の力により自から充分に己を慮るを得べしと妄想して、無智になれるにより奪はれん。けだし信仰の光が照らし始むる者は、更に祈祷に於て神に願ひ、『此を我らに與へ給へ』或いは『此を我らより取り給へ』といふ如くなる無耻には最早至らざるべくして、彼らは自己のことは少しも慮らざるべし、何となれば真実なる父の彼らを庇蔭する父たる照管を信の霊妙なる眼を以て時々目撃すればなり、けだし彼は無量に大なる愛を以ていかなる父の愛にも卓越し、我らの願ひ且慮り且想像するよりも更に大なる餘あるの量を以て我らに助くべき力を殊に有するによる。
知識は信仰に反対す。信仰はすべて之に属するものに於て知識の法の破壊にして、且非霊的なる知識の破壊なり、知識の定限は捜索と考究となくんば何事をも為すの権を有せずして、返つて彼は思ふ所のものと欲する所のものの能ふべきや否やを捜索するにあり。されど信仰は如何なるか。彼は不正にして近づく者には止まるを肯ぜざるなり。
知識は討求を待たず行為の方法を待たずんば認識する能はざるべし。これ真理に躊躇する徴候なり。之に反して信仰は工夫を凝らし方法を詮索するものにはすべて遠ざかる思想の有様の唯一、潔白、単純なるを要求するなり。視よ、彼らは如何に相反するか。信仰の家は幼児の如くなる概念と単純なる心なり。けだし言ふあり、心の正直を以て神を讃美せりと、又言ふあり、『爾らもし轉じて幼児の如くならずば天国に入るを得ず』〔マトフェイ十八の三〕。されど知識は心とその概念の正直明白の為に網を立てて之と反対す。
知識は天然をその悉くの経路に保護する天然の法則なり。之に反して信仰は天然より高く進行す、知識は天然の為に破壊的なるものを自から容るるを敢て試みずして此より遠ざかる、然れども信仰は容易く之を許容す、言へらく、『爾蝮と毒蛇とを踏み、獅と大蛇とを踏まん』〔聖詠九十の十三〕。知識は畏懼を伴ひ、信仰は希望を伴ふ。人は知識の方法に導かるる程、畏懼の為に縛られて、之より免るる自由を享る能はざるべし。之に反して信仰に従ふ者は直に自由自主なる者となりて、神の子の如くあらゆるものを権を以て自由に利用す。此信仰を愛する者はすべて造を受けたるものを天然に指麾すること神の如くならん、何となれば信仰には神の如く新なる造物を造成し得べき力を與へられたること、録していふ如くなるによる、言ふあり、欲するあるや万物は汝の前に現はれん〔イオフ二十三の十三〕。彼はすべてのものを存在せざるより生ぜしむること度々なり。之に反して知識は物質なくんば一物も生ぜしむる能はず。知識には天然を以て與へられざるものを生ぜしむる程の自負あらず。然り、如何にして彼は之を生ぜしむべきか。水の流るる性はその瀬に顕然たる足跡をうけざるべく、火に近づく者は己を焚かん。もし之を敢てする者あらば禍之に従はん。
知識は警戒して己を之より保護し、此界限を踰ゆることを如何しても肯ぜざるなり。しかるに信仰は自由の権を以てすべてに超越す、言へらく『汝火の中を過るとき焚かるることなく、河も汝らを溺らさず』〔イサイヤ四十三の二〕信仰は凡ての受造物の前に此事を行ひしこと屡なり。之に反して知識は己を此事に試むべき場合の此処にあらはるるありとも、彼は之に対して決行せざること疑なし、けだし多くの者は信仰により火焔に入り、火の焚き尽す力を止め、無害にしてその中を経過し、海の急湍を陸の如く進行したりき。これ皆天然より高く、知識の方法とは反対にして、知識はその悉くの方法と法とに於て空しきを示せり。知識は如何に天然の界限を守るを見るか。信仰は如何に天然より高く踰えて、彼処にその進行の路を啓くを見るか。知識の此方法は大略五千年の間世界を統御したりしも、人は幾何もその首を地より挙げて造物主の力を認識するあたはず、以て我らの信仰が照らし始めて、我らを暗より脱し才智の無益なる高超に任ずる浮世の行為と之に従ふ空しき従属とを免れしむるに至れり。然るに今や我らは動揺せざるの海と乏きを告げざる宝とを発見したるも、更に又涓々たる泉に離れ去らんを願望す。たとひ大に富むといへども乏きを告げざる知識はあらじ。之に反して信仰の宝は天も地も容れざるなり。信の希望を以て信を固めらるる者は何物も決して失はざるべくして、有せざるものあるときは人は信仰を以てすべてを包有せん、録して言ふ如し、『祈祷の時信じて求むる所は悉く之を得ん』〔マトフェイ二十一の二十一〕又言ふ『主は近し、何事をも慮るなかれ』〔フィリッピ四の六〕。
知識は之を求むる者を保護する為に常に方法を尋ぬ。之に反して信仰は言ふ『もし主は家を造らずば、造る者徒に労す、もし主は城を守らずば、守る者徒に警醒す』と〔聖詠百二十六の一〕信仰を以て祈祷する者は自護の方法を決して利用せず、之が助けを求めざるなり。けだし知識は何の処にも畏懼を讃美すること睿智者の言ひし如し、曰く『主を畏るる者の霊魂は福なり』〔シラフ三十四の十五〕。されど信仰は如何なるか、録して言ふあり『懼れて溺れんとす』と〔マトフェイ十四の三十〕而して又言ふあり『爾らは奴たる者の復び懼を懐く神をうけたるに非ずして、子たる神即神を信ずると望むとの自由によるものを受けたり』〔ロマ八の十五〕又言ふあり、彼らを懼るるなかれ、彼らの面を避るなかれと。畏懼には常に疑念を伴ひ、然して疑念は審問を伴ひ、審問は用ふべき方法を伴ひ、用ふべき方法は知識を伴ふ。ゆえにその考究と審問に於て畏懼と疑念は常に認得らるるなり、何となれば知識は如何なる時にもすべてに於て成功するにあらざることは是より先我らが證せし如くなればなり。けだし知識と智慧の方法が茲に幾ばくも助くることの全く能はざる困難なる事情の相集まりて衝突すると、多くの危険を充ち満てる機会の霊魂に遭遇するとは屡々之あればなり。しかれども他の一方には人間の知識の全力を極むるも拒ぐことの能はざる困難に於て、信仰は此らの困難の一にも毫も打負されざるなり。けだし人間の知識はその徒の為にすべて天然に遠ざかる所のものに近づくことを禁ず。然れども信仰の力を此に於て察すべし、信仰は之を学ぶ者の前に何を提出するか。録して言へり『我が名によりて魔鬼を逐出し、蛇を捉へ、毒を飲むとも彼らを害せざらん』といへり〔マルコ十六の十七〕知識はその法に依り、凡てその途を進行する者に、すべての事に於てそれを始むる以前にその終を審問し、然る後始めんことを提出す。これその事の終りが人力を尽くしたる限りに於て困難と遭遇することのあらはるるや、之が為に徒に労するを免れん為なり、事の困難にして成就する能はざるものとならざらん為なり。されど信仰は如何に言ふか。『信ずる者には能くせざることなし』〔マルコ九の二十三〕何となれば神の為に能はざる所なければなり。吁言ふ可らざる何らの富なるか。信仰の波と信仰の力を以て大に注がるる奇異なる宝とに富む如何なる海なるか。信仰と共にする進行は如何なる善心と如何なる満足と慰安とに充ち満たさるるか。その軛は如何に易くして、その活動は幾何甘きか。
問 信仰の甘きを甞むるを已に賜はりて、更に誠実なる知識に轉ずる者はその行為を何人に比すべきか。
答 貴重なる真珠を得て之を銅製の小蟲に易へたる者に比せん、又自主自由を棄てて畏懼と奴隷の状態にみたさるる極貧の身分に帰る者に比せん。
知識は非難せらるる可きに非ず然れども信仰は知識よりも上なり、もし非難せらるるも知識そのものは非難せらるべきにあらず。願くは之あらざらんことを。さりながら知識が天然に悖りて進行する種々の方法を如何に弁別すべきか如何して知識は魔鬼の列に近づくか〔此事は後に至て明に弁ぜん。〕此らの方法により知識の昇るべき階級は幾許あるか。各階級に如何なる差異あるか。知識はその各方法と共に如何なる概念を持するときは、之を以て覚醒せらるるか。此らの方法の中何れの方法に従ふ時は信仰と反対して天然より脱するか、而して之に如何なる差異あるか、その原始の目的に返り、その天然に達して善なる生涯に於て信仰と一なる階段に立つときは如何なる階級にあるか、而して同一の級に於て差異は時として何処まで廣まるか、而して此級より更に高き級に如何にして移るか、此の級或は原始の級の方法は如何なるか、而して知識が信仰に結合して之と一になり、火の如くなる概念を衣被して、神にて燃え、無欲の翼を求め得て、地に属するものに勤むるより、他の方法を用いて造成者の国に昇るは何の時なるか。さりながらその時に至る迄は信仰とその上昇とその活動とは知識より上なるを知るを以て我らに充分なり。
眞の知識は信仰を以て成全せられて、上方に昇り、何らの感触よりも上なるものに接触し、人間の知覚と知識とを以て捉え得べからざる彼の光線を見るの力を受けん。知識は階段なり、之により人は信仰の高きに登るべくして、既に之に達するときは、最早復た之を利用せざるべし。けだし現時は言ふべし、『我ら知ること全からず、預言すること全からず、全き者の来るとき全からざる者は息まん』と〔コリンフ前十三の九〕今や信仰は最早完全の現実を我らの目前にあらはすものの如し、ゆえに彼の人智の及ばざるものは我らが信仰を以て学ぶべくして、知識の審問とその力とを以てせざるなり。
視よ真実の行為は左の如し、禁食なり、矜恤なり、成聖なり、及びその外凡て身体の助により行はるるものなり、近者に対する愛なり、心の謙遜なり、過を赦すなり、善行の為の慮りなり、聖書に隠るる真正なる奥義の研究なり、最完全なる行為と心中の慾の節度を守るとを以て智力を煉るなり。是れ皆知識に必要を有す、何となれば知識は之を保護して、此事に於るの秩序を教ふればなり然るに是れ皆階段のみにして、之により霊魂は信仰の天の高きに登らん、之を名づけて道徳とはいふなり。しかれども信仰の生活は道徳より一層高くして、その働は動作にあるに非ず、完全なる平安と慰藉と心中に於るの談話とにして、此働は霊魂の概念に於て行はるるなり。且此働は霊的生涯の全く奇異なる方法にして、霊的生命を感ずるなり、悦楽なり、霊魂の安息なり、願望なり、神の為に喜ぶなり、及びその外凡て彼処の福楽の恩寵をうくるに当るべき霊魂に此生涯に於て與へらるるものと、神聖なる書中信仰の指示す如くその賜に富める神を以て此処に行はるる所のものなり。
疑 誰か言はん、此の悉くの幸福と是より先に教へたる道徳の行為と、悪に遠ざかると、心中に起る機微の念頭を弁別すると、思念と闘ふと、刺激する慾念に抵抗すると、すべてその外之なくんば信仰そのものが霊的活動に於てその力をあらはすことの能はざるものとは是れ皆知識を以て成就せらるるならば、何故知識は信仰に反対なるものとしてあらはるるか。
解疑 答ふ、思想の方法は三あり、之によりて知識は或は上るべく、或は下るべし、而して知識のみちびかるる方法にも、知識そのものにも、変化のあるありて、之により知識は或は害すべく、或は助くべし。三の方法とは何ぞ体と霊と神となり。知識はその性質に於ては一なれども思想に属するものと感覚に属するものの此範囲に関しては精微になりて、その方法とその明悟の働とを変ずるなり。終りに此の働の順序の如何なるとその原因の如何なるとに注意せよ。之によりて知識は或は害すべく、或は助くべし。知識は霊智ある造物の性に最初之を造るときに與へられたる神の賜なれば、天性単純にして分れざるものなることは、たとへば太陽の光の如し、然れどもその働に順じて、変化と分割とを受くるなり。