<< 知識の第一階級。 >>
知識は肉体の望に従ふ時は左の方法を引誘して之と一にならん、富なり、虚栄なり、修飾なり、身の安佚なり、此世に処するに便利にして、発明と芸術と学問とに新規を出す言の智慧を勉むると、その他すべて此の有形世界に於て身を飾る所のもの是なり。此らの特別なる方法に依れば、我らが既に言ひ且定めたる如く、知識は信仰に反対するものとならん。彼は裸体なる知識と名づけらるべし、何となればすべて神聖なる慮を排除し、肉体の優勝の故に無智陋劣を心中に入れて、すべて慮る所のものは全くただ此世の為なればなり。視よ、此知識の自己に対する意見は左の如し、言へらく知識は奥密に人を統治する思想の力にして、人々を監視し、全く人の為に慮る神聖の後見たることは何の疑の之あらんと。ゆえに彼は世界の統治を神の照管に帰せずして、すべて人に於る善なるものと、人の為に有害なるものより人を救ふと、陰にも陽にも我らの性に随伴する困難なるもの、及び多くの反対なるものより人を警戒する天然の預防とを以て人自己の勉励と自己の方法の結果なる如く思ふなり。知識を弄ぶ者の自己に対する意見はかくの如し。彼はその経画の如く万事成るべしと妄想す、此点に於ては彼は此の有形世界を治むるの掌理無しと主張する者らと一に帰す。さりながら彼は身体の為に不断慮るなく、懼るるなくして居るあたはず、故に小胆、悲哀、絶望、魔鬼の為の恐れ、人々の為の恐れ、賊の風説、死の伝聞、疾病に於る掛念、必要なるものに欠乏するの心配、死の恐れ、災難及び悪獣の恐れ、及びその外すべて此に類するものと、時々刻々昼も夜も動乱して航海者に波を傾注する海に似たるものとは彼を主宰するなり、何となれば此知識は神を信ずる働きにより自己に対する慮りを神に負はしむる能はざるによる。ゆえにすべて彼れ自己に関係するものに於てはその方法を考へ、工夫を凝すが為に占領せらるるなり。さればその発明の方法が一の或る場合に於て不成効となり了れども、奥密なる照管をも窺はざるにより、その時彼は之を妨げて之に反対する人々と争はん。
愛を剿絶する善悪認識の樹は此知識に植附らるるなり。ゆえに彼は他の人々の小なる錯誤とその過失とその弱点とを捜し、人の師となると、言を以て逆ふと、狡獪なる発明と詭計とを用ふるを人に勧め、人の為に陵辱的なる他の方法にも助を假らんとす。彼には高慢と驕傲とあり、何となればすべて善なる行為を自己に奪ふて神に帰せざればなり。しかれども信仰はその行為を以て恩寵に帰す、ゆえに自負することあたはず、録して言ふ如し、曰く『我を堅むるハリストスに由りて能せざる所なし』と〔フィリッピ四の十三〕、又言ふ、『我に非ず乃我と偕にする神の恩寵なり』と〔コリンフ前十五の十〕。然るに福なる使徒が『知識は誇を致す』〔コリンフ前八の一〕と言ひしは、是れ神を信ずると神を望むとを以て溶解せられざる如上の知識につきて言ふものにして、真実の知識を言ふにあらず。願くは之あらざらんことを。
真実の知識は之を得たる者の心霊を完全にして、謙遜ならしむること、モイセイ、ダワィド、イサイヤ、ペトル及びその他の諸聖人を完全にしたる如くなるべし、彼らは人性の尺度にしたがひて此の完全なる知識を賜はりぬ。此ら諸聖人の知識は常に非常なる直覚と神聖なる黙示と霊界の高尚なる直観と言ひ得ざる奥義との為に呑まる、ゆえにその霊魂は彼らの眼中に塵芥視せらるるなり。されど他の知識はそれに相応して自負す、何となれば暗中を往来し、その有する所のものを地上にあるものと比して、之に價を附し、更に極めて美なるもののあるを知らざるによる。人皆高慢に引入れらる、何となれば彼らは地上にありて、その生涯を肉体を以て秤り自己の行動に依頼して、人智の及ばざるものを心に考へざればなり。されば彼らは此の波間に漂ふ間は之が為に圧せらるるなり。しかれども聖人は光栄神聖なる道徳に大に進歩してその活動は上方に向ひ、その思は発明の事と空しきものの慮りに離れ去らず、何となれば彼らは光の中を行きて、迷ふあたはざればなり。ゆえにすべて神の子を認識する光に遠ざかりて、真実より離れたる者は、此狭路に由りて来往す。これぞ知識の第一の級にして之により人は肉体の慾に従ふ。ゆえに我らは此知識を非難し、之を以て信仰に反するものとするのみならず、道徳の何らの働にも反するものと為す。