通俗正教教話/十誡の第一誡命

十誡じっかい第一だいいち誡命かいめい

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<<われしゅなんぢ神也かみなりわれほかなんぢかみあるなし>>

問 この十誡じっかいの第一誡命かいめいの『われしゅなんぢ神也かみなり』とことばもつしゅわたくしども人間にことしめしになったので御座いますか。

答 神様はじつこのことばもつ人々ひとびとおのれ如何いかなるものなるかをおしめしになり人々ひとびとしゅなるまことかみらねばならぬことをおめいじになったので御座います。


問 それではこのいましめしたがってまことの神様のことをわきまへるには如何いかがいたしたならばよろしいので御座いませうか。

答 それにはふだんからこころけてすこしでもおほく神様のことをろうとこころざし、かいどうもうでて神様のことをばかりでなくいえかえっても聖書せいしょとか、聖人せいじんおろした書物しょもつとかをつとめてようにしてつねこころから『神様かみさま』とふことをはなさぬようにさへすれば神様のことはおのづかわかってるので御座います。


問 『われほかなんぢかみあるなし』とことばふことをおめいじになったことばで御座いますか。

答 それわたくしども一心いっしんらんまことの神様にこころけてそれごころからあがうやまはねばならぬとふことをおしめしになったことばで御座います。


問 それでは神様をごころからあがうやまふにはことをしたならばよろしいので御座いませうか。

答 それにはづ第一に神様をごころから信仰しんこうし、第二にはわたくしどもなにことおこなひまするときには何時いつでもちょう自分がすべてをぞんじである神様のおんまえるやうなおもいもつことおこなひ、第三には神様をおそうやまひ神様のいかりれぬようつとめ、第四には神様をたのみ、第五には神様をこころからしたひ、第六には神様の命令めいれいならば設令たとへそれぶんはなくともそれ絶対ぜったい服従ふくじゅうし、第七には神様をあがうやまひ、第八には神様の御徳おんとくたたへ、第九には神様がわたくしども被下くださおんめぐみを神様に感謝し、第十にはつねに神様のおんこころからはなさず何事なにごとをなすにも神様の御名みなもつはじむるようにすれば神様をうやまふことが立派りっぱ出来できるので御座います。


問 じょうのことはすべて、こころけでたならば神様を充分じゅうぶんあがうやまふことが出来できますか其事そのことおしへたもので御座いませうが、ほかにはわたくしどもが神様をうやまときこころくべきことはいので御座いますか。

答 いえだ御座います、それこころなかこころがけでなくはば外部そとのことでは御座いまするがしかまことに神様をうやまはんとするひとには是非ぜひとも此事このことをもあわおこなはねばなりませぬ、そのおこないもうしまするのは第一に神様の御名みな人々ひとびとあいだひろめることでこれめには如何いかなる困難こんなんをもしのばなければなりませぬ、第二には教会のさだめたとう熱心ねっしんあづかり、そのそくしきとをかたまもることで御座います。


問 それでは十誡じっかいの第一誡命かいめいもとつみもうしまするとつみで御座いますか。

答 それつぎようつみで御座います、此様このようつみわきまへますれば一層いっそうく第一誡命かいめい意味いみ明瞭あきらかになるので御座います。
づ第一は神論しんろんもうしましてひとかみることをみとめずかみものるなどとふことなので御座います、其様そのようなことをひと大抵たいていわるおこないをするひとで、かみみとめぬことは第一誡命かいめいもとつみうちでも中々なかなか大罪だいざいで御座います、第二は神論しんろんただひとつまことかみへて種々しゅじゅ様々さまざまなか物体ぶったいいただいてかみとすることで御座いますつみ基督教クリスチヤニンしんじない日本人にはなはおほつみで御座います、第三は薄信はくしんもうしましてひとが神様のることはしんじててもその神様のおん誡命いましめやおしめししんじないことで御座います、第四はたんもうしまして、まことかみおしへに神様のむねはぬひとかんがしたいつわりおもいくわへることで御座います、第五はきょうもうしまして教会でおしへてりまするただしいしきやぶってほしいままそのしきくわへをすることで御座います、第六は、背信はいしんひとおそれたりけんはばかったりまためいためまことおしへすてることで御座います、第七はぼうもうしまして神様から到底とてぶんおんちようきゅうしょくくることが出来できないものであるとおもんでみづかぼう自棄じきしづむことで御座います、第八は迷信めいしんようじゅつやらじゅつやらすべなかなるちからしんそのちから只管ひたすらたよることで御座います、第九は妄信もうしんもうしましてなかつう物体ものしんりょくがあるとおもって神様にたよらず、それることで御座います、第十はたいただしきおしへくべき便べんるにもかかわらず怠惰なまけめにそれかなかったりまたは神様にたいするとうおよ義務つとめおこたつみで御座います、第十一は偏愛へんあいもうしましてかいものを神様よりもじょうあいごすことで御座います、第十二は阿諛あゆで神様によろこばれることをおもんばからずひとよろこばるることを熱心ねっしんつとむることで御座います、第十三はしんもうしまして神様のおんいつくしみ扶助たすけたのまずおのれしくはひとさいせいりょく只管ひたすらたのむことで御座います。


問 何故なにゆえひとへつらまたひとちからたのむことが十誡じっかいの第一誡命かいめいそむいてるので御座いますか。

答 それわたくしどもひとへつらって其人そのひとよろこびることに汲々きゅうきゅうとし又人またひと権勢けんせいたのんで神様をわすれてまうなればとりもなほさずわたくしどもまことの神様をてて其人そのひとおのれかみとするにひとしいので御座います、ですから其様そのようおこないは第一誡命かいめい反対はんたいするおこないで御座います。


問 聖書せいしょにはひとへつらひとちからをのみたのむことをなんもうして御座いますか。

答 せい使徒しとパエルひとへつらふことのかみそむくことをもうしてります『われいまひとこころんとほっするかかみこころんとほっするか、抑々そもそもひとよろこばしめんことをつとむるか我仍われなおひとよろこばしめばすなはちハリストスぼくたらざらん』(ガラテヤ一の十言者げんしゃエレミヤひとちからたのむことのかみはづかしむるものなることをようもうしてりまする『しゅたまおよひとたのにくそのちからとしこころしゅはなるるひとのろはるべし』(エレミヤ書十七の五


問 わたくしどもかみたいする義務ぎむかんぜんつくしまするにはかくことおこなったならばよろしう御座いますか。

答 それしゅもうされましたとほなかばん放擲うっちゃって只管ひたすらかみことこころそそおのれてたるこくおこないをなさねばなりませぬしゅイイスス ハリストスかつかみたいする充分じゅうぶんつとめをなさうとこころざしながらしかなかことれんのこして一人ひとりしょうねんいましめてもうされましたには『なんぢかんぜんならんとほっせばきてなんぢ所有もちものりて貧者ひんしゃほどこしからばたからてんたもたんきたりてわれしたがへ』(馬太十九の二十一)とこれひとかんぜんに神様にたいする義務つとめつくさうとおもったならばすべてのなかばん放擲うっちゃってただかみのことばかりをかんがへなければならぬことをおしへられたことばで御座います、しゅまたおのれつことをおしへられましたには、『われしたがはんとほっするものおのれそのじゅう字架じかひてわれしたがへ』(マルコ八の三十四ここもうされてまする『十字架』とはするかく意味いみなので御座います。


問 おのれつとはふことで御座いますか。

答 おのれつとはすべてのよく打殺うちころし、なかばん恋々れんれんたることをめてことおこなふにもつねするかくもつおこなふことで御座います。


問 それでは其様そのようなかすべてのよくひとぜん要求もとめててまひましたならばわたくしども人間にんげんにはほかなんたのしみるので御座いますか。

答 それには神様からくる立派りっぱめぐみなか娯楽たのしみよりくる慰藉なぐさみ数倍すうばいした慰藉なぐさみるので御座います、此様このようめぐみ慰藉なぐさめこそくるしみわざわいやぶることの出来できぬもので御座います聖書せいしょもうして御座いますには『ハリストスくるしみわれうちぞうするがごとくのごとハリストスりてわれなぐさめぞうするなり』(コリンフ後一の五[1]このことばわたくしどもかみためくるしめばくるしむほど神様のめぐみだいおほくなるとふことをもうしたもので御座います。


問 十誡じっかいの第一誡命がかみほか何物なにものをもたのんでは不可いけないとふことをおしへて御座いますものとしましたならば教会が聖人せいじんじんけいそのちからたのむのはすこしくこのいましめもとってりはしませんでせうか。

答 けっしてもとってはりませぬ教会が聖人せいじんじんたのむのはけっして聖人せいじんじんかみとするのではなくかれうちにある神様のめぐみちからうやまかれちからりて共々ともどもに神様をたのむので御座いまするからけっして十誡じっかいにはもとってりませぬ。


▼十誡の第二誡命

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<<なんぢ自己おのれためなん偶像ぐうぞうをもきざからずまたかみてんものしもものならびしたみづなかものなんかたちをもつくるべからずこれおがこれつかふるべからず>>


問 第二誡命にもうして御座いまする『偶像ぐうぞう』とはなんのことで御座いますか。

答 偶像ぐうぞうとは誡命いましめうちもうして御座いまするとほひとかみとしてあがうやまはんためつくした諸々いろいろすがたのことで御座います神様はじつ十誡じっかいうちの第二誡命におい其様そのようひとつくした偶像ぐうぞうかみとしておがむことをきんじになったので御座います。


問 それでは正教会でとうときもちいてりまする聖像せいぞうかみかたどりえがいたものまた聖人せいじんじん姿すがたえがいたるあぶらまたじう字架じかふもので御座いませう、其様そのようなものをとうもちいてそれ礼拝れいはいすることは偶像ぐうぞう崇拝すうはいにならないので御座いますか。

答 けっして偶像ぐうぞう崇拝すうはいにはならないので御座います、わたくしどもその聖像せいぞうじゅう字架じかかみとしておがんだならば其時そのとき偶像ぐうぞう崇拝すうはいになるで御座いませうがしかし正教会でとうそれもちふるのはそれかみとしておがむのではかみおもたすけとするのでわたくしども聖像せいぞうじゅう字架じかこころなかきよかみこころけるので御座います、又其またその聖像せいぞうじう字架じかたっとうやまふのはちょうわたくしどもおや写真しゃしんうやまそれ敬礼けいれいをするとおな意味いみなので御座います、たれおや写真しゃしん御辞儀おじぎをしたからとて其親そのおやかみとしておがんだとものは御座いますまい、わたくしども聖像せいぞうじゅう字架じか敬礼けいれいをしましてもそれおなじでそれかみとせずかみ写真しゃしんとしたならばけっして偶像ぐうぞう崇拝すうはいにはならないので御座います、それならば何故なぜ彫刻ほりものもちいませんかとへば彫刻ほりものもすれば無智むちものそれかみとしますようなことが出来できやすいもので御座いますから教会ではことこれけたので御座います。


問 それでは聖像せいぞうじゅう字架じかもちいなければ教会ではとう出来できないもので御座いませうか。

答 もちいなくてもとう出来できないことは御座いません、教会では屡々しばしばむをときにはじゅう字架じか聖像せいぞうもなくとうをすることも御座いまするが、しかおやとか友人ともだちとかをおもおこしてその健康けんこういのるとかそのしょうとむらふとかいたしまするとき其人そのひと写真しゃしんりますれば一層いっそう其人そのひと面影おもかげしのしてふか其人そのひとまつることが出来できまするとおなじでわたくしども聖像せいぞうじゅう字架じかればいよりも一層いっそうよく神様をまつることが出来できるので御座います。


問 それでは聖像せいぞうまえわたくしどもっているときこころけを一口ひとくちもうしますればことで御座いますか。

答 づ第一にぞくまったわすこころうへけて、聖像せいぞうあらはところじんのことをおもうか熱心ねっしんに神様におのれ救贖すくいねがはなければなりませぬ。


問 十誡じっかいの第二誡命にそむつみそうしょうしてなんもうしてりますか。

答 『偶像ぐうぞう崇拝すうはい』ともうします。


問 『偶像ぐうぞう崇拝すうはい』とはそれではつちもつひとつくしたぞうかみとしておがむことばかりをもうすので御座いますか、それともほか此罪このつみうちれらるるつみるので御座いませうか。

答 ほかほ『偶像ぐうぞう崇拝すうはい』のつみうちかぞへらるるつみが御座います、それは『強慾ごうよく』と『しゅしょくふけること』に『傲慢ごうまんめいあこがるること』で御座います。


問 何故なぜ強慾ごうよく』が『偶像ぐうぞうを崇拝おがむこと』になるので御座いますか。

答 それは『強慾ごうよく』なひとかみわすれて金銭きんせんたからとをおが一生いっしょう懸命けんめい其為そのためほねりますから畢竟つまり金銭きんせん偶像ぐうぞうとしておがむとおなじで御座います、聖書せいしょにも此事このこともうして御座います『貪慾どんよく拝偶像也ぐうぞうをおがむなり』(コロサイ三の五


問 ではただしいみちこのひとは『強慾ごうよく』なることをなさず如何いかなることをなさねばなりませぬか。

答 それひとなさけこころ潔白けっぱくにしてとみたから齷齪あくせくしないやうにするので御座います。


問 何故なにゆえに『しゅしょくふけること』が『偶像ぐうぞうを崇拝おがむこと』になるので御座いますか。

答 これ矢張やっぱしゅしょくふけひとは神様をまったわすれてただおのれくちはらよくみたためあさから晩迄ばんまでほねるからで御座います、かれ畢竟つまおのれはらを神様としてこれ使つかへてるので御座います、聖書せいしょにももうして御座いますには『かれかみはらなり』(ヒリッピ三の十九これへますればかれしゅしょくふけひとおのれはらかみとしておがんでるので御座います。


問 ではしゅしょくふけひとにはふことをすすめなければなりませぬか。

答 其様そのようひとには節制せっせいをなしものいみおこなってこころ飲食上のみくひのうえのことよりはなようすすめなければなりませぬ。


問 それでは『傲慢ごうまんめいあこがるること』がうして『偶像ぐうぞうを崇拝おがむこと』になるので御座いますか。

答 傲慢ごうまんひとおのれさい学問がくもんひとまえほこおのれみづからがおのれかみとしてあがむるばかりではなくひとをしておのれおがましめんとし、『めいいたづらひと』はめいかみとしてつねおがんでりまするから偶像ぐうぞうを崇拝おがむことになるので御座います。


問 其他そのほかには偶像ぐうぞう崇拝すうはいになるつみは御座いませんか。

答 今一いまひとつ御座います、それは『ぜん』とってこころうちにないことおもてよそってひと尊敬そんけいひとをしてぶんおがましめやうとするおこないで御座います。


問 それでは第二誡命にいましめて御座いまする『傲慢ごうまん』と『めいあこがるること』と『ぜん』とのかわりにわたくしどもおこないをなさねばなりませぬか。

答 謙遜へりくだり隠徳かくれたるとくひとほどこさねばなりませぬ。

脚注 

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  1. 原文は「コリンフ一の五」ですが「コリンフ後一の五」に修正しました。