聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓
- 祈祷と清醒の事
四十六、 祈祷の規程の終りに至り聖教會の平安の為め王と執政との為め衆人の為め貧者と嫠婦との為め及び其他の為めに祈祷を行ふは宜しきなり、けだし此事は使徒の遺訓なればなり。さりながら此を執行しつつ己れをこれに堪へざる者又はこれに力を有せざる者と認むべし。又すべて祈祷を願ふ者の為めにも祈祷するは宜しきなり。けだし使徒は言へり曰く『互に祈祷すべし愈ゆるを得べきを致さん』〔イアコフ五の十六〕。されば某等は使徒の為めに祈祷したりき。誡命を等閑にする者は自から己を罪するなり、故に欲すると欲せざるとに論なく誡命を行ふに己を強ゆべし。
四十七、 兄弟を訪問するは宜し、されど空談するはあしし。實事は汝のいかに行ふべきを教へん聖神父等の會話したるに效ひて近者を訪ひ空談を慎むべし。
四十八、 如何なるは善き意願にして如何なるは悪しき意願なるか。――それ身の安楽はすべて我が神の憎む所なり、葢し彼は自からいへらく『窄き路をもて生に入るべし』〔馬太七の十四〕と。此路を選ぶはこれ即ち善き意願なり、されば百般の事に於て此誡命を持する者は己の力に應じ甘んじて自ら患苦を選ばん。汝は使徒の言ふ所を知らざるか、曰く『己の体に克ちてこれを服はしむ』〔コリンフ前九の二十七〕。体の反対するに拘らず神の人が願ふてこれを服はしむるを汝果して見るか。すべての人に対し救の善願を有する者は己の必要をもて促さるる所の行為に対してこれに小なる患苦を混ずるなり。例へば軟床にいぬるを能くすれども自己の願により小なる患苦をえらびて席上に横臥するの類是なり。是れ即ち神に依るの意願なり。されども肉に属するの意願はこれと反対なるものにあり、即ちすべてに於て安楽を得んとするにあり、難哉救はれんこと。すべてに於て己を安からしめて救はれんと欲する者はいかなる迷ぞ。天國はただ己を強ゆる者これを得べし〔馬太十一の十二〕、もし少しくも己を強いずんばいかんぞ救はるるを得ん。
四十九、 思念は朝に侵撃す。如何んして然るか。――誰か空虚にして居るあらば其来る所の思念の為に占領せらるべし。されどももし先きに占領せらるるあらば彼の思念をうくるの時を有せざらん。故に早晨より磨石を持すべし〈智識を己の権に持すべし〉さらば麦を磨きて食用の麺包に充つるを得ん。されどもし汝の敵が既に汝に先んずるあらば麦に易へて彼をもて〈磨石即智識をもて〉稗を磨かん。
五十、 清くして霊神なる祈祷をいかにして賜はるべきか。――けだし我等の主イイスス ハリストスは『願へよ汝に與へられん、尋ねよ得ん、叩けよ汝に啓かれん』〔ルカ十一の九〕と宣ひしより保惠師なる聖神を遣はされんことを至善の神に禱るべし、さらば彼は来りて汝をすべてに教へ悉くの奥密を汝に啓示せん。彼を尋ねて己が教導者たらしむべし、彼は誑惑或は放心を入れざらん怠慢煩悶或は思の催眠をゆるさざらん、目を照らし心を固め智を高めん。彼れに貼き彼れに信じ彼を至愛せよ、けだし彼は無智者をして智者たらしめ思を楽ませ能力と清潔と歓喜と正義とを與へん、耐忍と温柔と愛と和平とを教へ且此等を賜はん。
五十一、 主は病者より体に属するの奉事を促さずして霊に属するの奉事即ち祈祷を促す、けだし彼れいへらく『間断なく祈祷すべし』〔ソルン前五の十八〕。体には其の要求に対して幾分か少なく與ふべし、けだし父の方法は総て其の現在に於て飲を以ても食を以ても重荷を負はされざるにあり。
五十二、 来る所の思念の為に思慮することを自分に許すなかれ、神の前に俯伏し己の弱きをあらはしていふべし、曰く主よ我は汝の手にあり我れに助けて我を彼等の手より救ひ給へと。されども汝に留在して汝を捕ふる所の思念はこれを汝の父につぐべし、さらば父は神の助けにより汝を癒さん。
五十三、 詩を学ぶを廃するなかれ、けだし是れも霊神上の行に属すればなり、而してこれを暗唱するをつとめよ、是れ汝の為めに益あり。
五十四、 アゝ無智なる者よ、罵らるることなかれ、己の敵を信用すべからず。もし己の為に慮るを廃て且怠るあらば敵は重ねて来らん、兵士は戦時に要する所のものを平和の時に学ぶなり。見よ主の蛇につげたるを、曰く『彼は汝の頭を砕き汝は彼の踵を砕かん』〔創世記三の十五〕。人は最後の時に至る迄己の為に慮ることをすつべからず。されば兄弟や己れに注意せよ、而して敵の寝ねず且怠らざるを知りて忿怒、虚誇、睡眠及び其他の欲に用心すべし。
五十五、 己の心を旧人の思念より清めよ、神の賜はただ清き者に納れらるべくただ彼等に與へらるるなり。汝の心が忿怒怨恨及び其のこれに類する旧人の欲にて揺撼〈うごかす〉せらるる間は睿智はこれに入らざるなり。もし神の賜を願はば他の器具〈諸欲〉を己れより投出すべし、さらば神の賜はおのづから汝に入らん。
五十六、 もし眞實の路を知らんと欲せば其路は次の箇條にありと知るべし、即ち己を打つ者に接すること煖むる者に接するが如く、侮辱する者に接すること尊敬する者に接するが如く、及び圧虐する者に接すること慰藉する者に接するが如くすること是なり。もし常例によりて汝に與ふべき所の者を與へざることあらば哀むなかれ、却て言ふべしもしこれに神の旨のありしならば我はこれをうけしならんと、己を不當の者と思ひなして自義の心をすてよ。もし汝は何なりとも演ずるあらんに我れ善くいひたりといひ或は智識にて何か理會する所あらんに、善く理會したりといひ彼を好くなせり此れも善なりといふあらば汝は神の途を去ること遠し。
五十七、 敵は我儕に対して酷だ無慚なり、されども自ら謙するあらば主は彼を空うせん。常に自ら己を責めん。さらば勝利は常に我にあらん。三事は常に勝を奏したりき、己を責むること、己の意願を己が背後に棄つること及び己を全人間より卑く思ふこと是なり。
五十八、 神の憎める旧人の諸欲より我が心を清むるに尽力せん、我儕は神の殿なり、されど神は諸欲に汚されたる殿に住み給はず。
五十九、 汝の慮りを神に任かし其の悉くの配慮を彼れに托ぬべし、さらば彼はすべて汝に関する所のものを其の欲する如くに建設せん。己を神に付すものはすべてを全心より且死に至る迄彼れに付すべし。神は感謝と忍耐と又罪の赦しを得んが為めに行ふ祈祷との外は何も汝より促すあらず。
六十、 知るべしすべてに於て安楽を願ふ者は『汝ぢ生時に於て善をうく』〔ルカ十六の二十五〕との声を何時か聴くあらんを。弱わるべからず我等は己の病症を我等より尚善く知る所の仁慈の神を有するなり。失神せず又は難儀と思はざらんが為めに忍耐の終りに注目せよ。『我れ永く汝をすてず汝を遺れずと』宜ひし神は邇し〔エウレイ十三の五、イイスス ナウィン一の五〕。
六十一、 物体上の禁食の為めに憂ふるなかれ、〈もしこれを持続する能はずんば〉彼は霊神上の禁食なくんば何も重きを有せざらん。神は身体の薄弱なる者より禁食を促さずして強健なる者より促す、身体を少しく寛恕すべしこは罪とならざるなり。神は汝より禁食を促さず〈汝の躰の病ある時に〉何となれば汝に遣はしゝ病を知ればなり。されどもすべての為めに神に感謝すべし。
六十二、 毎日何を練習すべきか。――汝は若干〈いくらか〉唱詩を練習すべし、若干口づから祈祷すべし、己の思念を試み且守るに充てんが為に時が要用なり。正餐に種々の食物を多く用ふる者は多く食ひ且楽む、されども毎日同一の食物を用ふる者はただ楽んで食せざるのみならず時としてこれが為めに煩嘔を覚ゆることあるべし、我等の性情に於ても此の如きあり。ただ完全なる者は同一の食物を毎日煩嘔なしに用うるに己を習はすを得べし。されば誦詩と口づからの祈祷とに縛らるるなかれ、然れどもこれを為せよ、幾ばくか主は汝を堅め給はん、且讀経と内部の祈祷をもすつるなかれ。彼を若干此を若干為すべく主の意を喜ばして日を送るべし。完全なる我等が諸父は一定の規則を有せざりき、されども全日の間に其の規則を履行せり、若干唱詩を練習し、若干口づから祈祷をよみ、若干思念を試みたりき、少なくも食物の為めにも慮りぬ而してすべて此を神を畏るるの畏れにて為したりき。けだし言ふあり『何の行に論なく悉く神の榮の為めに行ふべし』〔コリンフ前十の三十一〕。
六十三、 いかに己の思念を試むべきか、如何に心の奪はるるを遁るべきか。――思念を試むることは次の如し、汝に例を挙てこれを示さん、誰か汝を怒らすことあらんに思念は汝を奨慂して彼に何なりともいはしめんとすと想像せよ、されど汝は其の思念につげていふべし、もし我れ彼れに言出づるあらばこれに由りて彼の心を擾し彼は我に対して傷まん、されば少しく忍耐して経過せんと、かくの如くすべての悪念につきても其悪念の何に誘引するを自ら己れに問ふべし、さらば悪念は止みなん。さて心の奪はるることに関しては知るべしこは更に大なる警醒を要するを。諸父はいへらくもし汝の心を淫慾に誘ふあらばこれに貞潔を想起せしむべし、されどもし貪食に誘はばこれに禁食を記憶せしめよ。さてかくの如く他の諸慾に関しても同く行ふべし。
六十四、 間断なく祈祷することは無欲の程度に関係せん且此れに由りてすべてに教へんとする聖神の来臨はあらはれん。もしすべてに教ふるならば祈祷をも教へん。けだし使徒はいへらく『我儕求むべき所のものを知らずされども聖神は言ふ可らざる慨嘆をもて我儕の為に求む』〔ローマ八の二十六〕。
六十五、 規則を必ず有すべきか。――食ひ且飲む所の人にありては其の彼を喜ばす間は食飲すること當然なるべし、かくの如くもし汝に讀経する望みの来りて己の心に此の感動を見るあらば出来る丈讀むべし、詩を唱ふにつきても同く行ふべし、されど汝の力に應じて間断なく神に感謝をたてまつり『主や矜めよ』とよばんことをつとめよ、畏るるなかれ、神の賜は易らざるなり。
六十六、 一切の為めに感謝を神に報いよ、けだし感謝は薄弱の為めに中保となればなり。汝の規則は自己の思念に注意して生活し自ら己れにつげていかんして我れ神を迎へんかいかんして我れ往時を送りしかといひつつ神を畏るるの畏れを有するにあるべし。
六十七、 いかなる場合に於ても己れを算ふるに足るものとするなかれ、他と等しからんを求むるなかれ、さらば汝に不愉快を與へざらんが為に何も汝を擾すものあらざらん。且記憶せよ汝は何の故にか兄弟を厳責するあらば神もすべて汝が少時より為しゝ所の事の為めに汝を厳責するを。
[六十八 欠]
六十九、 身の安楽を避けん、我等を神より遠ざけざらんが為めなり、けだし安楽は神の憎む所なればなり。神は我等を少しく憂愁せしむ、けだし憂愁なくんば神を畏るるの畏れに於て進歩あらざればなり。
七十、 謙遜は己を塵土灰燼と看做すにあり、即ち実際かくの如くに看做してただ言のみにあらざるにあり、又我は如何なる者か誰か我を算ふるに足るものとするかといふにあり。
七十一、 神を畏るると神に感謝するとより離れ落ちざらんが為に細に己れに注意する時は汝は善く闘ふなり。もし眞に旅行者となり赤貧者となるあらば汝は福なり、けだしかくの如き者は神の國を嗣げばなり。
七十二、 もし神に於る内部の行為の人を助くるあるなくんば外部に於て労するは徒然なり。心の悲痛を以てする内部の行為は心の眞實なる静黙を生ぜしむべく又かかる静黙は謙遜を生ぜしめて謙遜は人を神の住所たらしむるなり、されば神が住し給ふ〈人に〉により悪鬼と其の首領たる魔鬼と其の耻づべき諸欲とは逐はるべくして人は聖にせられ照らされ清められてすべての恩惠と仁慈と喜悦とに充たさるる神の殿となるを致す。此の人は捧神者となるなり。されば内部の人の力に應じて己の思念を謙遜ならしめんことを勤むべし、然る時は神は汝の心の目を啓きて眞の光を見せしめ我等が主ハリストス イイススの為めに我れ恩寵をもて救はれたりといふを得せしめん。
七十三、 神の意に適せんと欲する者は己を要して近者の前に我意を絶つべし、主が『天國は強きに得らる強き者はこれを奪ふ』〔馬太十一の十二〕といはれしは一は此事にかかるなり。
七十四、 体に属する者を霊に属するものに従はしめざらん間は諸欲は我等に弱わるあたはざらん。
七十五、 すべてに於て極至の謙遜と従順とを得よ、けだし彼等は悉くの欲を抜きてもろもろの善を植うる者なればなり。
七十六、 己の心を二の悪欲、即ち遺忘と不注意との為めに襲はるる心の睡眠より醒ましてこれを神を畏るるの畏れに煖めよ。煖められて心は未来の善を希ふの希望をうくべくこれによりて汝は未来の善を慮るの心を有すべし、且此を慮るに由りて心の睡眠のみならず五官に属するの睡眠も汝より離れん、其時汝は太闢の如くいはん、曰く『我の意に於て火爇えり』〔聖詠三十八の四〕と。此の二欲につきていひし所のものは悉くの欲にも適用すべし、すべて彼等は恰も枯れたる枝の如く夫の霊火によりて焼けん。
七十七、 霊神上の諸の苦行につきて汝に告げん、心の守りなくんば彼等は一も人に帰せず。
七十八、 汝は或は讀経を務むるも或は詩を学ぶ〈記憶する〉を務むるも間断なく神を記憶せよ、けだし神はいへらく『我が心は温柔謙遜なり汝ぢ我に学ばば汝の霊に安きを得さすべし』〔馬太十一の二十九〕。
七十九、 我等が死も生も我等が手にあり〔復傳律令三十九の十九〕。もし前罪を復ぬることなくんば最早神より罪の赦しを得ん、ただ更に惑はされざらん。『視よ汝は癒たり再び罪を犯すことなかれ、恐くは以前に勝さるの禍に遭はん』〔イオアン五の十四〕。失望より遠ざかるべし、愛と信と望とをもて神に配すべしさらば永生を得ん。
八十、 いづれの時にも人はすべてに我意を絶ちて謙遜の心を有し且死を常に眼前に有するあらば神の恩寵によりて救はるるを得ん。
八十一、 始を置くとはすべて神の憎む所のものより遠ざかるを意味するにあらずして何ぞや。されどいかんして此れより遠ざかるべきか。質問せず商議せずしては一事も為すべからず又不適当の事を絶ていふべからず而して己を無知なるもの腐敗したる者、卑下なる者及び全く何も知らざる者と承認すべし。
八十二、 汝の意願は汝に感動の心の起るに妨ぐるなり、けだし人は我意を断離せずんば中心の惻怛を得る能はざればなり。されど不信は汝に我意を断離するをゆるさざるべくして不信は我等人間の栄誉を願ふより生ずるなり。もし眞に自分の罪を哭せんと欲せば自己に注意すべくすべての人の為めに死すべし。意願と自義の心と諂媚と此の三者を断離すべし、さらば実に感動は汝に起るべく神は汝をすべての悪より庇はん。
八十三、 身体の要求を満足せしむるの外は口腹を飽かしむるが為に誘はるるなかれ、食と飲とをうくるをもて己を喜ばすなかれ、人を議せざるやうに戒慎すべし、従順なれ、さらば汝は謙遜に達すべくすべての欲は汝より消失せん。
八十四、 救を容易なる事の様に思ふなかれ、彼は労苦と勉強と幾多の汗とを要するなり。己の体を喜ばしめて自ら弱わるなかれ、然らずんば汝を貶さん。大人も己れに注意せずんば彼の為めに貶しめらるるなり。
八十五、 父イサイヤのいへらく人が罪の甘きを覚ゆるある間は罪は未だ其人に赦されざるなり。我れ罪の甘きを覚ゆるにぞ我に赦免のあらざるに由り思は我を擾すと。父イサイヤの言はただ罪の滋味を覚ゆるのみならずこれをもて自ら喜ぶ所の者に関す。されどたとひ罪の滋味を記憶し来るありといへども此の滋味の働を継続せしめず却てこれに抵抗して格闘する所の者には以前の罪をゆるさるるなり。
八十六、 役事する者〈補祭〉はヘルワィムの如く総て目なるべく総て智なるべし、彼は畏れと戦きとをもて天上の事を思ひ且考へ且称讃すべし、けだし不死なる王の体と血とを戴けばなり。彼は亦セラフィムの形状をあらはす、何となれば讃榮を歌ひ聖扇にて奥妙なる機密を覆ふこと恰も聖翼を以てするが如くしてこれに由りて地とすべて物質に属する者とより自ら高く昇るを形つくればなり。彼は智識をもて内部の人の殿に於て我等が神の荘観なる光榮を謳ふの凱歌を絶えず高くうたふべし、曰く『聖々々なる哉主「サワオフ」汝の光榮は天地に遍し』〔イサイヤ六の三〕。
八十七、 間断なく己を罪するあらば汝の心は傷み悲んで悔改に向はん、故に聖預言者により『先づ汝の不法をいへ義と稱せらるべし』〔イサイヤ四十三の二十六〕と宜ひし者は汝をも義と稱すべくすべての定罪より免れしめん。けだし聖書にいふあり『神は彼等を義と稱す、誰かこれを罪するか』〔ローマ八の三十四〕。
八十八、 天然の憤激あり又天然に反するの憤激あり。天然なるものは慾の望の成るに反対すべしされば彼は健全なるものとして治療を要せざるなり。天然に反するものは諸の慾望の成らざるあれば起る。此の後者は慾望の強き程は最強き治療を要す。
八十九、 神は霊と体とを無欲なるものに造り給へり、されども悖逆によりて彼等は諸の欲に陥りにき。諸欲は謙遜の為めに焼かるること火に焼かるるが如し。
九十、 汚穢なる欲〈淫慾〉を根絶せん為めには心の労と躰の労とを要す。心の労は心が絶間なく神に祈祷するにあり、又躰の労は人が己の体を制し力に順じてこれを服はしむるにあり。思念と同意することは百方許さざるべし。思念との同意は総て何物か人の気に入るあらんに人が心中にこれを喜び楽んでこれを回想するの時にあり。されども若し誰か思念を抗拒し、これをうけざる様にこれと共に開戦するあらば是れ即ち同意にあらずして戦なり、さらばこは人を練達と進歩とに導かんとす。