目次
 
オープンアクセス NDLJP:106
 
美濃国諸旧記 巻之七
 
 
清水の地銘の事稲葉氏の事
 
大野郡清水といふは、揖斐より十八町程東の方の在郷なり。此所白石の里に、姫ヶ井といふ霊水涌き出づる所あり。此縁を以て、清水といひしといへる説あり。然れども詳ならず。抑此清水は、往昔暦応年中、土岐弾正少弼頼遠の領地なり。然る所同五年、頼遠は京都に於て、持明院の御幸に行逢ひて、不慮の狼藉を振舞ひ、其罪に依つて誅せられてより、其舎弟律師周斎坊、相続いて領しける。然るに周斎坊は、京都天龍寺の開山夢窻国師の弟子の義あるに依つて、之を尊敬して、則ち此清水の山の麓に、一宇の寺院を建立して、清水山釣月寺と号す。是を以て、其師国師の隠居所として、進じ申しける故に、夢窻国師は、此寺に来りて住しける。是に依つて、清水オープンアクセス NDLJP:107は、釣月寺の寺領と相なりける。尤周斎坊の寄附なり。扨又、貞和年中に、東美濃土岐郡高田の郷に、一寺を建立して、定林寺と号す。其後、夢窻国師は、此寺に移りける。其跡釣月寺へは、国師の弟子嬾椿和尚入寺して是に住せり。忝くも釣月寺は、其頃天子の勅願所となりぬ。其故は、爰に伯州の住人山名伊豆守時氏、心を変じて南朝に組し、吉良・石堂・和田・楠・赤松等以下、伯耆・出雲・隠岐・因幡・丹後・但馬の軍兵、悉く一手になりて京都に打入り、八条・九条の在家に火を放ち、相図を示して乱入す。其時山名時氏、之に謀じ合せて、嵯峨・仁和寺・西七条に火を発し、京中に攻入りて戦を議す。此時北朝にては、足利宰相義詮朝臣・土岐・細川・佐々木・長山等、馳せ向つて防戦しげる所、殊に無勢なりける故に、一戦に利を失ひ、京都に止まり難く、義詮朝臣主上を守護して、東坂本に落ち給ひけるが、爰にも止まり難く、再び坂本を出でて落ち給ふ。時に文和二年巳の三月十三日、義詮朝臣、龍駕を守護して、美濃国不破郡垂井の宿迄落延び給ふ。時に行幸の供奉の人々には、二条前関白左大臣・三条大納言実継・西園寺大納言実俊・集築地大納言忠秀・松殿大納言忠嗣・大炊御門中納言家俊・四条中納言隆持・菊亭中納言公道・花山院中納言兼定・左少弁俊冬・右少弁経方・左中将時光・勘解由次官行知・梶井二品親王を始めとして、武士には、義詮卿を大将として、細川相模守清氏・尾張民部少輔・舎弟左京権大夫・同左近将監・土岐大膳大夫頼康・同長山遠江守光明・今川駿河守頼貞・同兵部大輔助時・同左近蔵人・熊谷備中守直鎮・佐々木三郎左衛門秀綱・山内五郎左衛門信詮等以下なり。扨垂井の宿に着き給ひて、長者が家を借りて皇居となし、官軍の面々は、四辺の在家に宿を取りて皇居を警固し奉りてありけるが、其後、又垂井を立ちて、池田郡に来り、瑞岩寺を皇居となしておはしましける。其翌年の春、尊氏将軍の上洛せらるゝ時迄、則ち瑞岩寺に皇居し給ひける。然るに其居住の間に、美濃の国中の諸寺諸社へ、勅願をせられんとの叡慮に依つて、諸卿を勅使として、所々の寺院へ赴き給ふ事数度なり。此時に至りて、大野郡清水の釣月寺は、土岐大膳大夫頼康の祈願所なれば、勅使立てらるべしとて、大炊御門中納言家信に仰せて赴かせらる。然るに勅使、釣月寺に至らせ給ふ路次にて、俄に雨降り出せしに依り、傍にありける栴檀の木の下に立休らひ、暫く晴間をオープンアクセス NDLJP:108見合せおはしけるが、其家の主杉原与左衛門といふ者なるが、表へ立出で、之を見て気の毒に思ひ、頓て勅使を、我家に請じ入れ奉り、御酒を進め、肴として杭瀬川の鮎を焼きて、捧げ申しけるにぞ、勅使も其奇特に感じ思召し、斜ならず悦喜なし給ひて、即席にて一首の和歌を詠じ、杉原に下し置かれけるとぞ。

   尋ね来てあふちが許を宿るなり若葉の花のゆかりとやいふ

又一本の書に見えたるには、


   あづけてぞ主がもとをば出づるなり若紫のはなのゆかりに

                          家信

                          杉原与左衛門へ

斯の如く詠じ給ひける。是れ大炊御門中納言家信卿と知られたり。夫より与左衛門は、釣月寺へ案内をなし奉り、直に又池田郡瑞岩寺の皇居の所迄、御供仕りけるにぞ、頓て主上にも聞召し叡感ありて、是より与左衛門を、其郷の頭となされて、杭瀬川を賜はりける。則其綸旨に曰、

去廿八日、勅使家信釣月登山之処、令案内之条御感不斜。為忠賞株瀬川賜。天気仍如件。

                    左中弁時光

  文和二酉七月七日          大膳大夫頼康取次

                    清水郷頭方へ

此時より、杭瀬川に関所を建て。川運上を取りしといふ。其後とても、清水は釣月の寺領なりしが、土岐左京大夫成頼の代よりして、漸く釣月寺も断絶に及びぬ。然れども、聊か印のみの庵室残りて、今長良村の岸に、釣月庵といふあり。扨又彼の杉原が綸旨といふは、与左衛門が子孫に伝はりて、与三右衛門といふ者、所持してありけるが、不慮に彼の与三右衛門乱心となりて、常に所々に出歩きけるに、然れども彼の綸旨を放さず、我が着たる簑の襟に括り付けて、人にも見せず持廻りぬ。或時、清水の隣郷科村したむらの三右衛門といふ者の方に至り、簔を着ながら、釜の下に火を焚きてあたオープンアクセス NDLJP:109り居けるが、終に其火、簑に焼付きて、其身も、綸旨も焼亡しけるとなり。其写、清水村の江崎七郎兵衛・志那三右衛門等にありといへり。其後清水には、林七郎右衛門通兼住す。然る所、又程経て、斎藤道三の時代に至りては、其臣加納悦右衛門寛之といふ者、清水の山上に城を築きて居住しけるが、道三亡びて後、弘治三年の春、稲葉伊予守通朝、安八郡曽根の城より攻め来りて、大軍を以て押寄せ、一時に之を攻落しける。城将加納悦右衛門は生害す。其子武藤右衛門尉といひけるが、是より稲葉に降参して、後に又悦右衛門と改名し、通朝に仕へける。其以後、此山上の城は破却しける。其城跡は、今腰切山の上に形あり。又永禄八乙丑年三月、稲葉通朝は、清水の地に一城を築き、隠居城と号して是に住せり。居城曽根には、嫡子右京亮住せり。稲葉伊予守は、其後天正十八年の秋より、郡上郡八幡の城に移る。其跡清水へは、西尾豊後守の舎弟修理亮光国、一万石にて居住せり。然る所、慶長五年、関ヶ原の合戦の砌、西尾修理は、石田方に組せしに依つて、其科として、清水を召上げらるゝ。然れども舎兄豊後守は、関東に忠節を運びける故に、其武功に代へて、舎弟の刑罪御免ありて、豊後守に御預け仰付けられ、揖斐に入りて蟄居せり。然る間此時より、清水の城は断絶しける。今は其形堀の跡など相残りて、田所となり、俗呼びて、其所を城の内とも、又城屋敷ともいふなり。慶長五年の秋より、御蔵入領となり、林丹波守支配地となりぬ。此時清水に、覚林寺といふ一宇を建立ありて、清水の郷、残らず法華宗となしける。寛永八年より、岡田伊勢守の知行所となりて、夫より後は、代々岡田家の領分と相なりける。稲葉氏の略系、左に記す。

 人皇八代孝元天皇御弟伊予親王と号す。〈孝霊天皇第三の皇子なり。〉

   伊予親王より四十五代河野四郎通信十三代の孫河野弾正通直。

 越智通直​河野弾正忠遠江守​​────────​​ ​──通実​伊予守始名彦三郎通成と号す。​​────────────────────​​芸州竹原にて細川武蔵守頼之が為に生害す。​─────┐
                                          │
 ┌────────────────────────────────────────┘
 │
 └通高​稲葉七郎刑部少輔始め予州の住人なり。後美濃国に入りて​​──────────────────────────​​土岐氏に随順せり。本巣郡軽海の城に住す。​────────────┐
                                          │
 ┌────────────────────────────────────────┘
 │
 ├通以​稲葉備中守法名元塵​​──────────​​本巣郡軽海の城に住す​────────────────────────────┐
 │                                        │
オープンアクセス NDLJP:110 └通兼​林七郎右衛門、後に左衛門尉といふ。大野郡清水の城主林氏の家督となるなり。​​────────────────────────────────────​​永徳三亥年五月生、嘉吉二戌年十月二日卒す。​─┐│
                                         ││
 ┌───────────────────────────────────────┘│
 │                                        │
 ├通祐​林左衛門尉、稲葉氏家督となるなり。​​                 ​​ ​                     │
 │                                        │
 └通村​林佐渡守、後号駿河守、​​────┬──────​​ ​─通安​林新左衛門尉​​───────────​​方県郡下土居村に住す。​────────────┐│
        │                                ││
        └通忠​林新五郎​​──────────​​後に左近大夫といふ。​───────────────────┐││
                                        │││
 ┌──────────────────────────────────────┘││
 │                                       ││
 └通政​又政長ともいふ。林駿河守入道道慶本巣郡十七条村の城主なり。​​───────────────────────────────​​元亀三申年十月廿五日卒す。法名寿昌院前駿州大守月郎宗伯大居士。​─────┐││
                                        │││
 ┌──────────────────────────────────────┘││
 │                                       ││
 ├長政​林玄蕃亮、始名市之助といふ。​​              ​​甲州勢と夜合戦にて討死。​                       ││
 │                                       ││
 ├正三​林宗兵衛、十七条落去の後は稲葉伊予守良通に仕へ老臣となる。​​─────────────────────────────​​故に其後氏を受けて稲葉と名乗るなり。​───────┐││
 │                                      │││
 └女子​江州の住人鯰江左近大夫綱房室といへり。​​                   ​​ ​                 │││
                                        │││
 ┌──────────────────────────────────────┘││
 │                                       ││
 └正成​ 
始め林市助といふ。後に稲葉佐渡守といふなり。濃州を出でて後、筑前の国主小​
​───────────────────────────────────​​早川中納言金吾秀秋に仕へたり。正成の妻は、斎藤内蔵助利三の娘にして、おふ
くといふなり。後に此妻は江戸将軍の御乳母に召出され、春日の局といふなり。​
─┐││
                                        │││
 ┌──────────────────────────────────────┘││
 │                                       ││
 ├女子​堀田勘左衛門正利の室なり。秀秋家臣たり。​​                    ​​母は斎藤内蔵助利三の娘なり​                 ││
 │                    ┌──────────────────┘│
 ├正次​稲葉八左衛門​​      ​​ ​            └​通安子​​通勝─​​ ​​林佐渡守​​────​​ ​───────────┐│
 │                    ┌──────────────────┘│
 ├正勝​稲葉宇右衛門、後改丹後守。​​                  ​​子正勝の美濃守正則七万石に召出さる。​└通豊​ 
林佐渡守、尾州知多に住す。織田備後​
​────────────────​​守信秀其子信長に仕へ老臣となる。
後に信長の意に違ひ追放せられ畢。​
┐│
 │                    ┌──────────────────┘│
 ├正定​同七之丞​​    ​​ ​              └通国​林新之丞​​    ​​ ​             │
 │                                        │
 ├正利​内記。正利の子は堀田勘左衛門養子とな​​                  ​​り、徳川家より召出され七万石を領す。​                    │
 │                                        │
 ├正房​稲葉出雲守​​     ​​ ​                                 │
 │                                        │
 └正吉​同伊勢守​​    ​​ ​                                  │
                                          │
 ┌────────────────────────────────────────┘
 │
 └​通以子​​通富─​​ ​​稲葉伊予守法名塩塵、加茂郡​​─────────────​​御座野村遠見山の城に住す​──通則​稲葉備中守、始の名右京亮、郡上郡下田​​───────────────────​​の城主なり。永正年中牧田合戦に討死す。​─┐
                                          │
 ┌────────────────────────────────────────┘
 │
 ├通勝​稲葉右京亮​​ ​​ ​
 │
 ├通房​宮内少輔​​ ​​ ​
 │
 ├通朝​刑部少輔​​ ​​ ​
オープンアクセス NDLJP:111 │
 ├通豊​四郎兵衛​​ ​​ ​
 │
 ├通広​又五郎​​ ​​右兄弟五人父と同時に討死す​
 │
 └通朝​彦六郎伊予守入道一鉄斎、後良通と改む。慶長六辛丑年十一月廿四日卒す。法名清光院殿​​ ​​予州大守三品法印一鉄宗勢居士、石碑清水の北長良の月桂院にあり​

 
稲葉・林由緒の事
 
稲葉氏家系抑稲葉氏といふは其先祖を尋るに、人皇七代孝霊天皇第三の皇子伊予親王を以て元祖とす。其頃南蛮西戎等起りて、王命に随はざるに依りて、伊予の皇子を、藩屏将軍に任じ、彼の国に発向なさしめ給ふ。伊予王より五代の孫を、三並朝臣といへり。是は神功皇后の三韓征伐の時、十人の大将軍の内にて、海上の先陣なり。三並より十一代の後裔を、益躬といへり。此人、血気の勇将にてありけるが、推古天皇の御宇、三韓より日本を攻めんと欲し、数万騎を率し乱入す。其大将軍は、鉄人といへる不思議の勇将にて、倭軍悉く討負けゝるにぞ、益躬も鉄人と戦ひて、叶はざるの故に、謀計を以て降参し、播磨国蟹ヶ坂にて射殺しぬ。益躬より六代の後胤を、守興といふ。此人は、勅命に依つて、新羅国に赴き、反逆を退治せり。守興より三代の孫を、越智の玉澄といへり。此人は、称徳天皇の御宇宣旨を蒙りて、朝敵太宰少弐広嗣を討つて、天忠を励ます。玉澄八代の孫を、河野好方といふ。此人は、天慶二年、錦の鎧直垂を賜はり、軍船を以て、藤原純友を退治す。好方四代の孫を、河野新太夫親経といふ。此人は、伊予守源頼義より、伊予の国の守護職を賜ふ。然るに親経に子なき故に、頼義の四男親清を養子として、家督を継がしめ、三島四郎親清と号す。是は快誉阿闍梨の弟にして、頼義伊予任国の時に、彼の地にて出生の子なり。親清の子を、河野新太夫越智通清といふ。予州河野の住人なり。其子三人あり。長男河野四郎通信といふ。北条四郎時政の聟となりて家栄え、殊に源家の一族なりければ、頼朝に一味して、度々の武功あり。二男河野五郎通孝といふ。是は元暦の頃、高純の城にて、能登守教経に攻められて、父通清と一所に討死す。三男河野六郎通富といふ。扨通信九代の孫を、河野隼人助通有といふ。是れは弘安四辛巳年、蒙古国より襲来の時、海上の先陣を承り、筑前の国に押渡り、武功ありし勇将なり。通有より五代の孫、河野弾オープンアクセス NDLJP:112正忠遠江守通直、其子伊予守通実といふ。芸州竹原にて、細川武蔵守頼之入道常久が為に生害しける。河野家は、此時に滅亡す。然るに通実が末子、出家をして、芸州の安国寺にありけるが、此時より還俗して、稲葉七郎越智通高と名乗る。康暦元年の十一月、予州外木の城にて、細川頼之と戦ひ打負けて始めて美濃国に落ち来り、土岐氏の臣下となり、刑部少輔と号す。則ち加留見長勝卿の開基せられし本巣郡軽海村の明城を修覆して、始めて是に住せり。是より代々、土岐の旧臣となりて、当国に住せり。而も稲葉・安藤・不破・氏家とて、美濃の四人衆といふなり。此内にても、稲葉を以て第一とせり。又一説に曰、稲葉・林の先祖は、治郎高光といふ人にて、本巣郡

〈又は、郡上郡ともいふ〉粥川村の辺に居住の由、天暦年中に、武儀郡洞戸村の山中の悪魔を退治して、粥川の辺に帰り、太刀・長刀の血を洗ひ、悪鬼の骸を、其所に埋めけるとぞ。是よりして、粥川を、赤瀬川といふといへり。其子を藤原長勝といふ。後には安八郡中川村に住す。是れ林・稲葉の元祖なりといへり。然れども時代遥に隔ちたる事故に、其慥なることを知らずと云々。また林と名乗ることは、安八郡林といふ所に住せし故に、其在名なりといふなり。然れども是れ又、其由来詳なる事を知らず。稲葉元塵の老国記に曰く、我館は、糸貫・六種の二川を請けて、要害にすと記せり。本巣郡軽海村の城主故なり。其後、応仁二子年、加茂郡御座野村の遠見山に要害を構へて、是に移住せり。総じて子孫繁昌して、所々に住せり。又稲葉備中守通則は、郡上郡下田の城主なり。今の北辰寺山に城跡あり。又林の先祖、中頃武儀郡山中村に住居するの由。林駿河入道道慶も、武儀郡に居城あり。其後、川手の領下といふ所に、屋敷を構へて住すといへり。其外、林主水・林主馬・林外記・林右衛門佐・林忠助・林新九郎とて、歴々の一族多し。扨又稲葉備中守通則に、六人の子あり。長男右京亮通勝・二男宮内少輔通房・三男刑部少輔通明・四男四郎兵衛通豊・五男又五郎通広・六男彦六郎通朝なり。然るに濃州牧田合戦に、稲葉通則并子息五人共に討死す。六男彦六郎は、岐阜長良の崇福寺にて出家して、崇福寺の喝食と申してありけるが、父兄討死の後還俗して、伊予守通朝と名乗りける。性質勇猛絶倫にして武功あり。先代より相続いて、土岐氏の旧臣なり。通朝は、始め土岐左京大夫頼芸に仕へ、頼芸落去の後、暫くオープンアクセス NDLJP:113道三に伏し、而して後、一色左京大夫義龍、其子斎藤右兵衛大夫龍興に随身し永禄十一年より、変心をなして斎藤を背き、織田信長に仕ふ。信長生害の後は、羽柴秀吉に属したりぬ。始は郡上郡下田の城に住し、天文廿一壬子年八月、安八郡曽根村に一城を築きて、是に移り住しぬ。其後、弘治三年の春、大野郡清水を攻取りて、是より此所に在住す。信長生害の後には、又方県郡郷渡の城を攻取り、城主井戸十郎を追出し、三男左京・四男勘右衛門を入置きぬ。二男彦六兵衛重通は、曽根に住す。一説に曰、一鉄斎は、天正十六年巳十一月十九日卒去といへり。然れども誤なるべし。其故は、慶長五年、関ヶ原合戦の砌、一鉄斎八十有余にて、郡上の城にありて、犬山勢と戦ひし事あるの故なり。然るに一鉄斎は、勇猛の剛将たるの故に、生涯の内には、不義不仁の事共多かりけるとなり。傍友安藤伊賀守、信長の意に違ひ、居城鏡島を改易せられ、濃州を追放の砌、稲葉は、郎等をして鏡島に遣し、狼藉をさせしなどの事共、以の外の不道なり。夫故に、其臣斎藤内蔵助利一・那波和泉守等之を憎みて、稲葉の家を出でて、明智光秀に仕へし事などあり。其外斎藤を背きて、織田家に身を寄せし事も、天下国家の為と雖も、実は非義の振舞なり。而して天正九年の正月元日、揖斐光親を攻落し、是よりして発心せしと云々。三代相恩の主君の連枝を追落しぬる事、本意にあらずと思ひて、入道して一鉄斎と号しける。されば其後よりは、善道を行ひけるといへり。其故にや、天正十年の夏なりしが、当国先の大守土岐頼芸は、斎藤道三が為に国を奪はれ、零落の身となりて、其節は上総の国海喜といふ所に、蟄居しておはしけるが、此人先年より、眼病を受けて悩み煩ひ、後には盲人となり、剃髪して宗芸と号し、世を頼みなく暮し居給ひけるにぞ、稲葉一鉄斎、倩思ひ出し、君臣の義を重んじ、痛はしく思ひ、何卒宗芸入道を、美濃国に帰し迎へ参らせんと欲しける。然りと雖も一鉄斎は、先年揖斐五郎を、攻出せし程の事なれば、之を聞かれなば、我を恨みありて、来向はあるまじと思ひければ、夫より思慮を運らして、厚見郡江崎村に住し居ける江崎六郎といふは、頼芸の末子なる故に、則ち之を以て、迎の為めに遣すべしとて、六郎を尋ね出して、其由を申含めける。然れども、六郎は、幼少にて頼芸に別れて、久々父子の対面もせざりし事なれば、心元なく思ひける故に、乳父の十オープンアクセス NDLJP:114八条村の住人林七郎右衛門を差添へ、天正十年七月、上総の国へ遣して、宗芸を呼迎へける。是に依つて、頼芸入道、再び当国に来向せられ畢。則ち一鉄斎之を請じて、大野郡岐礼村に新館を構へ、頼芸を住せしめ、米二百石参らせ、侍女五六人付けて労はりける。尤此岐礼の里は、稲葉暫く住せし所なり。然るに頼芸は、同年の十二月四日、仮初に病に臥して、終に此所にて逝去なり。法名東春院殿前濃州大守左京大夫文閣宗芸大居士、年齢八十二歳なり。則ち一鉄斎より、南化玄奥和尚を招き、導師とせり。下火拈香等、南化文集に見えたり。日頃住居せられし館を、東春庵といひける故に。東春院殿と号しける。其墳墓は、今岐礼村の東春庵の西南の隅にあり。頼芸の遺命に依つて、山本数馬芸重が舎弟の僧衆知に庵を賜ふ。其後、火災に依つて、庵中の重器地蔵尊等、焼失しける。然るに、此山本数馬といふは、先祖代々より、岐礼村の住人にして、則ち頼芸の近習なり。忠節無双の者にして、始終少しも傍を去らず、美濃国を出で越前に至り、又上総国にも随ひ行き、此度又本国に帰り、我が在所に於て、主君を介抱し奉りける。後には山本次郎左衛門と改名せり。誠に主君の臨終迄随身して、忠心を尽せし者なり。子なくして、小津の住人高橋但馬が二男を養子とす。次郎左衛門娘は、野村の住人飯田道純が妻なり。二代目の次郎左衛門娘は、岩手弾正が妻なり。山本の子孫は、今に郷士となりて、岐礼村にあり。又江崎六郎の子孫は、清水にあり。一説に曰く、竹中半兵衛と、父子の好ある故に、紋所に九枚笹を付くるといへり。扨又、林七郎右衛門は。江崎六郎に随ひて、清水に住しけるが、其後は西国に至り、筑前中納言金吾秀秋に仕へ、林宗兵衛正三と改名せり。其子は、稲葉佐渡守正成と号す。関ヶ原の合戦には、金吾秀秋に随ひ、在陣の中に、主君秀秋を、関東への味方に進めける。是は関東の御殿内に、春日の局といふ女、正成の妻なるに依つて、内通是ある故なり。是に依つて、正成は、脇坂中務少輔・小川土佐守・朽木河内守・平野遠江守・赤座久兵衛等六人、申合せて裏切をなし、武功ありける故に、江戸将軍御感の上、御取立ありて、十万石に立身し、今の丹波守の祖なり。扨彼の春日の局といふは、女儀に稀なる人にて、隠居屋敷を賜はり住しけるが、寛永十一甲戌年九月十四日逝去なり。法名麟祥院殿仁淵了儀尼大姉と申しける、扨稲葉オープンアクセス NDLJP:115父子、天正十八年に、郡上の城を賜はり、是に移りぬ。彦六は早世なり。左京は、東美濃七組村の山下に住す。一鉄斎の長女を、一色小次郎頼秀に遣す。土岐小次郎昭頼・其弟稲葉勘解由良頼などの母なり。又右京貞通の妹は、林宗兵衛の妻なり。関ヶ原合戦の後、稲葉右京亮は、豊後国白木の城太田飛騨守没落の地を賜はり、是に移り、以後は臼木の城主となるなり。一鉄斎は濃州に止まり、旧領清水の北なる長良村の釣月庵に住しける。右釣月の西の面に、一つの額をかけて、一鉄斎の自筆にて、辞世の一首あり。

   幾度かかくすみ捨てゝ出でぬらん定めなき世のさゝのかり庵

其翌年慶長六年丑十一月廿四日、逝去なり。墳墓は、長良月桂庵の境内にあり。其後、一鉄斎に相随ひ居し所の家人等、残らず豊後に引移りける。相残りて加納道益といふ者一人、極楽寺村に住し居ける所、豊後より召に依つて赴きけるが、其道すがら、船中にて病死しける。女子二人ありけるが、一人は清水の若原市右衛門に嫁す。一人は、極楽寺村にて、竹中氏より聟を取りて、家名を相続して、若原も倶に子孫今にあり。稲葉両家倶に徳川家に仕へて、武運長久たり。

 
不破氏の事
 
不破氏家系安八郡西の保の城主不破河内守通貞は、東美濃遠山刑部允正元の孫なりといふ。通貞の父は、不破彦左衛門通直というて、西の保村の城主なり。一説に、不破氏の先祖は、山城国の松井蔵人直家といひける者なるが、笠置の城没落の後に、六波羅の命に随ひ、後醍醐天皇を尋ね奉る。此恩賞として、美濃国にて、数ヶ所の庄園を六波羅より賜はりて、始めて当国に来り、不破郡府中村に住せり。其後、氏を不破と改め、其子孫は、不破・多芸の両郡に数多し。府中の住人不破隼人直重江州の篠原にて討死しける。是れ通貞の先祖なりと云々。扨又、退翁新法印の日記を見るに、天正元癸酉年十二月、不破河内守通貞儀、滝川左近将監一益に対し、刄傷に及びける事あり。是を以て見る時は、源姓なるべきにや。其故は、滝川一益の長女を、不破通貞の嫡子彦三郎通家に、嫁し申度の由を申入るゝの所、滝川、如何なる故にや之を承引せず。オープンアクセス NDLJP:116我が娘は、筋目正しき大名の内へ嫁せんとこそ思へ。不破などには、得参らせ難しといへり。通貞之を聞きて大に怒り、心得ざる左近が申条かな。我れ今信長の臣たりと雖も、其昔をいはゞ、清和源氏の後裔土岐・遠山の正統にして、当国の本家たり。滝川は、何程の者なるぞ。渠は只江州佐々木出の浪人者とは聞きつるものゝ、祖父の来歴も知れず、近年漸く信長公の御取立に預かりし者なりしが、今勢に乗つて当家を侮りし事、奇怪なりと立腹して、其年の十二月十一日の夜、滝川が宿所へ打入り、刄傷に及びけると記しありぬ。然れば、此等を以て考ふる時は、当国の侍にて、土岐氏の庶流なるべし。山城の国より来れりといふは不審なり。按ずるに、土岐頼貞の末子に、五郎頼之といふあり。不破郡府中に住すといへり。是れ則ち通貞の先祖なるべし。然れども通貞迄の来歴の次第、詳ならずと云々。扨通貞、土岐の旧臣にして、美濃の国四人衆の内より、土岐頼芸・一色義龍・斎藤龍興に属し、永禄七年の秋より心変りして、織田信長に属したり。此人勇猛武功の事は、さして其名なし。然れども、其気質温和にして、人愛深くして、其形、威相なり。殊に弁舌綺麗にして、談合扱等の事に、能く其理明白の人なり。然れども戦功に於ては、生涯の中、一立の働勝れたるを知らず。于時天正九巳年八月卒去せり。其子、彦三郎通家は、柴田勝家の与力として、北国征伐の烈将たり。依つて越前国に住せり。後には加州に移りぬ。天正十一年の賤ヶ岳の合戦には、前田家に組し、度々武功を顕したり。子孫は何れにあるや、其名知れず。今濃州不破郡にも、不破氏を名乗る小百姓等、少々ありと雖も、通貞の子孫とも見えず。何れ彦三郎が子孫は、北国にありと見えたり。今西の保村にも、少しの堀の跡、并に小高き岡などのやうなるもの見ゆる。是れ則ち河内守居城の跡と見えたり。
 
氏家氏の事
 
氏家氏家系氏家の先祖は、越中の国の住人なり。中頃足利尾張守高綱の与力にして、氏家中務丞重国というて、延元の頃、北国の戦に武功あり。殊に延元二年閏七月二日、越前国足羽郡藤島の郷に於て、新田義貞の首を取つて、京都に差上げける。尊氏将軍、其功オープンアクセス NDLJP:117を賞せられて、美濃国にて、闕所の地を数多給はり、是より当国に来り、石津郡高須の庄に住せり。尤重国の父は、弥三郎胤義と申して、桃井氏の一族なりといへり。扨中務丞重国の子を、氏家内膳胤国といへり。相続いて高須に住しける所、土岐氏の勢、殊に壮なりける故に、いつとなく彼の家臣と相なりける。然れば、尤土岐の旧臣たり。胤国の子を、左京進則国といふ。安八郡浅草の城に住せり。其子越中守政国、相続いて浅草の城主なり。其子蔵人政幸といふ。同郡楽田村の城に住せり。其子民部少輔幸国といふ。同じく楽田の城主なり。其子氏家常陸介友国といふなり。入道して卜全といふ。是れ又、西美濃四人衆の内なり。始め楽田に住し、永禄二年より、牛谷の城に住す。〈大垣の事なり。〉土岐頼芸・一色義龍・斎藤龍興に仕へて、永禄七年の秋より心変りして、稲葉・安藤、不破と諸共に信長に属しぬ。勇猛武剛の人なり。然るに其頃、尾州と勢州の境なる長島といふ所に一揆蜂起して、織田家の領地を、乱妨狼藉する事数度なり。依つて信長之を征伐あるべとて、元亀二年五月十日、岐阜を御出馬ありて、五万余人の軍勢を率せられ、長島表に御発向なり。則ち三道に分れて押寄せらる。所謂中道通りは、佐久間右衛門尉信盛・池田勝三郎信輝・佐々内蔵助成政・前田又左衛門利家・蜂屋兵庫頭頼隆等以下、一万五千余人と云々。又西美濃多芸山の麓より押寄する人々は、柴田修理亮勝家・氏家常陸介、友国入道卜全・同子左京亮直元・安藤伊賀守守就・同子小太郎尚重・五左衛門守宗〈是は守就の弟なり〉稲葉伊予守良通・同子右京亮貞通・市橋九郎左衛門貞正・国枝大和守正則・不破河内守通貞等以下、一万五千余人なり。又石津・安八郡の間を経て、大将軍信長先陣には、明智十兵衛光秀・簗田右近政長・菅谷九右衛門行清・小瀬三左衛門国家等以下、二万余人なり。然る所織田の大軍押寄すると聞きて、剛気英勇の一揆共、少しも恐れず、貝・鐘・太皷を鳴らして、我もと寄せ集り、下間三位坊蓮龍・小倉三河左衛門・手槌与兵衛など大将として、長島の近辺近江五十余ヶ村駈集り、貴賤老若女童に至る迄、弓・鉄砲・鑓・長刀・斧・鉄・鎌・鋤・鍬の類、得物々々を提げ、一同に起り立ち、防戦の用意して、之を相待ちけり。是に依つて信長にも、案に相違し給ひ、百姓一揆と侮り、何心なく攻寄せし所、斯くの如く速なる振舞なしけるに依つて、今は麁忽に進み難し。而も此長島オープンアクセス NDLJP:118といふは、隠れなき屈竟の要地にして、溝田深沼等多く、別して雨天の節は、洪水して道なめり、土地不案内にしては、甚だ難儀する所なり。さしもの信長も、大に困り給ひ、之を無体に攻めんとするならば、味方の軍勢、大半は討たるべし。然らば先づ此度は退陣して、重ねて不意に押寄せ、攻干すべしと仰せて、俄に軍勢を返し給ひ、十二日の晩景に及んで、両口より向ひたる味方の軍勢を早々引上げ、退くべきの旨を触遣さる。是に依つて面々、俄に備を畳みて引取りけるが、中道通りの寄手佐久間・池田・佐々・前田が輩は、敵も追懸け慕はざりしかば、何の災もなく退きける。本道通りの津島なる信長の本陣二万余人、引返さんとする折節、早や一揆原追懸け来り、犇々と喰付きて駈悩ましけるにぞ、信長甚だ難儀なりける所、此手の先陣明智光秀、後殿して戦ふ隙に、信長は備を返さず、其まゝ後陣を先陣として引取り給ふ。光秀は、後に下りて勇戦をなし、敵を追払ひ、是も難なく引取りける。然る所、多芸口の寄手柴田・氏家・安藤以下は、急に進んで、敵地深く押寄せたりしに、十二日の夕暮方に及び、俄に信長より退陣すべき由を触れ給ふに依つて、諸将驚き乍ら、其日の酉の刻頃、直に備を畳み、引返さんとする所を、一揆共之を喰止め、やらじというて支へたり。是に依つて各難儀となり、後殿を定めて退くべしとて、第一番の後殿柴田勝家なりしが、甚だ苦戦し、其身も手を負ひ、漸うとして淡海加島を過ぎて引取りける。二番に安藤伊賀守、是も大に難儀し乍ら、漸うに切抜け、居城鏡島を指して、遠引に退きにける。第三番の後殿、氏家常陸介なりしが、此時には、早や夜に入りて案内知れず、いとゞ難儀なりける所、折節大雨降り出し、甚だ困窮してありけるにぞ、一揆原之を幸として、数多群り来り、追懸け追討して、氏家、殊に難儀せり。されども漸うとして、太田村七屋敷といふ所迄、退き来りし所、又爰にて敵に囲まれ、戦難儀なりける所、卜全は、深田の中へ馬を乗入れ、進退自由ならざる所、一揆原群り

氏家卜全戦死来りて、終に是を討取り畢。時に卜全五十九歳なり。此時、安藤五左衛門守宗も、討死しけるなり。卜全卒して後、其子氏家左京亮直元、相続いて大垣の城主なり。天正元年八月、越前の敦賀にて、斎藤龍興を討取りぬ。天正三年より、又楽田の城に住せり。其後、又同八年七月より、氏家内膳正直元、〈改名なり、〉其弟志摩守、大垣に再び住オープンアクセス NDLJP:119せり。而して後、勢州桑名の城に移住しける。慶長五年に、氏家兄弟石田三成に組し、桑名の城に楯籠りける。是より没落して子孫なく、衰微しけるなり。

 
美濃国諸旧記巻之七
 
 
 

この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。