美濃国諸旧記/巻之八
我が庵は月見ヶ原の程ぞかやかたむく庭のかげぞ惜しけれ
古老の曰く、月見の里といふは、津の辺なりといへり。扨恒利は、天文九年子九月九日、此所にて卒去。或は斎藤道三と戦ひ、討死といへり。年齢五十一歳。法名桂景院と号す。遺言に依つて、家臣宗慶舎人といふ者、其死体を、津大明神の鳥居の下に埋めたりといふ。今は田所となりて、其中に五輪の石塔ありぬ。是なるべし。星霜久しくふりぬれば、当時の里人古老に尋ぬると雖も、其説を委しく知る者稀なり。只古書記に残りしを以て、信ずるのみなり。又恒利・信輝父子家の定紋には、桔梗と橘なり。或人、桔梗は、土岐氏より拝領なりといふ事誤なり。桔梗は、頼光の愛花なれば、之を家紋として、土岐氏も源三位も、子孫たる者之を用ふるなり。摂州の池田も、其先祖は泰政たり。然るを信輝の代に至りて橘の形を改め、三葉の立笹にしけると見えたり。同時に信長より、家紋平氏の蝶を拝領して之を用ふ。恒利は、始め勝山村〈加茂郡〉に住すともいへり。而して後、武儀部志津野の城主となりしなり。何れの地も、土岐の下なり。此故に、織田の臣下にあらず、土岐の幕下たるべし。信輝は、織田の臣たり。濃州岐阜・尾州犬山等に住し、後に濃州大垣の城に住す。知行高十一万石の余なり。又池田郡萩原の郷に、暫く住せし事もありとなん。嫡子を新太郎元助といふ。後に紀伊守と号す。永禄七甲子年二月八日、尾州中島郡にて誕生す。母は津田与三郎娘といふ。天正七年卯の十二月、摂州の住人荒木摂津守村重征伐の砌、伊丹・有岡の戦に、十七歳にて初陣す。二男を小新発といふ。後に三左衛門輝政と改む。永禄九年寅七月生る。十五歳にて、兄と同時に初陣す。三男小三郎、後に備中守長吉といふなり。天正十二年、織田信雄卿と羽柴秀吉、尾州小牧山の麓、長久手の合戦の節、池田勝三郎信輝入道勝入斎の聟、森武蔵守長一と倶に秀吉に随ひ、信雄と合戦す。此時徳川家、後詰之あるに付きて、勝入斎も武蔵守も、頗る勇猛の将なれども、不意を討たれ、勇に余り血戦して、森武蔵守は、井伊兵部直政と戦ひて鉄炮に中り、大久保七郎左衛門忠世の与力本多八蔵に討たるゝ。行年廿二歳なり。法名鉄囲秀公と号す。勝入斎は、永井伝八郎尚政が鉄炮に中り討死す。時に四月九日巳【 NDLJP:124】の下刻なり。法名有峯院護国勝入と号す。一説に曰、勝入斎、始め馬を打たせて、歩行立になり戦ひけるが、藤の蔓に足を引かけ倒れけるを、敵兵来りて、鑓にて突くともいへり。此故に彼の家にて、藤を悉く忌むといへり。嫡子紀伊守之助は、父勝入斎を助け落さんとて、大勢を引受け防戦して、安藤帯刀直次に討たるゝ。紀伊守之助の内室、斎藤左京大夫義龍の娘にして、長井隼人佐道利の養女とせり。二男三左衛門輝政も討死せんとしけるを、家来の軽卒塙の何某、馬の口を取つて引返しける。依つて命を保ち、子孫長久たり。神戸侍従信孝落去の後、三左衛門は、岐阜の城を相守る。尤も其先岐阜の城に天守を上げ、要害を構へ総堀を掘り、山下に屋敷を拵へ、新屋倉を造営せり。是れ三左衛門が修造なり。此故に、関ヶ原合戦の時、城の案内を能く知りたるに依つて、一番乗したると見ゆ。尤我が造営したる故に、火をかけん事を惜しみたると見えたり。其後、参州吉田に移りて、十五万石を領す。大阪陣の節は、播州姫路にて、五十万石を領せり。長吉の子豊政代に、備前岡山の城を賜はるなり。輝政は、慶長十六年五月十六日、姫路にて卒去。年齢六十三歳といへり。法名国清院と号す。濃州にある池田氏、数多あるに依つて、其由緒を是に記す。泰政の末流池田氏は、可児郡池田に住して、足利将軍義詮公の御代に断絶す。明智一族の池田氏は、応永以来にして、可児郡池田に住す。此等は、決して楠氏の血脈なし。同じ泰政の末なれども、恒利は摂州の池田にして、楠氏の血筋として、江州に来り又濃州に移り、或は尾州にも暫く住して、濃州曽我屋にて卒去したり。其嫡流の子孫は、濃州池田郡萩原にあり。三男より、尾州織田家に仕官せし者なり。其前後を紛らすべからず。
白石山姫ヶ井の事【姫ヶ井の古跡】大野郡揖斐の東なる谷汲山観音への参詣の路次、白石といふ所あり。此山の麓に、姫ヶ井といふ清水あり。又此白石山の崎半腹の所に、八畳岩といふ大石あり。是は其岩の上、平にして美しく、畳の数を八畳程敷くべきの平石なる故に、おのづから名となれり。扨美濃国に、姫ヶ井といふ所三ヶ所あり。白石の姫ヶ井、并に不破郡青墓村の西、右の方の田の中に、松の古木ありて、其下に姫池といふ清水あり。是は往昔、【 NDLJP:125】小栗判官の妾照手といふ美婦の用ひたる水にして今姿見の池といへり。照手といふは、赤坂宿の万屋の丁といふ者の所に、仕をなしてありけると云々。右丁が子孫は、赤坂にあり。又安八郡結父村にも、照手の姫勤めしてありける故にとて、彼の所にも古跡あり。扨又東美濃可児郡姫ヶ里にも、姫ヶ水といふ霊水あり。是は大昔の頃、横萩右大臣藤原豊成の御息女中条姫、或年此里に住し給ひ、其庵の前なる清水を取りて、朝夕之を用ひ給ふといふ。中条姫の住せられし郷なる故に、此地を姫の里と号せしなり。其故に、其流の今に残りてありけるを、末世の今に至る迄、姫が水と申しけるとなり。中条姫といふは、和州当麻寺にありける曼陀羅を織り給ひし人なり。此姫、又此姫の里に住し給ひける時に、蓮の糸を以て織り給ひし曼陀羅とて、恵那郡安村の禅寺に納りて、今にある事顕然たり。然るに此白石の姫ヶ井といふは、由来を尋ぬるには、是れ西国順礼の往来の道端なり。其所の山際に流るゝ少し計りの水なり。是は其源白石山の峯の所より、自然と涌き出づる清水にして、誠に細谷川の漲なるが、段々落合ひて、滝の如く流るゝを、麓に井筒を構へ、堰き入れて之を溜めつゝ道行く諸人の渇を凌ぐ便として、設けたるものなり。然れども、今はおのづ。から廃りて、心を付くる人も稀なり。されば其名久しく聞えある姫ヶ井なれば、心に止めて、古老に其謂れを尋ねて、其物語せし事をのみ記せり。是は昔、延喜以前の頃とかよ、天満天神の、谷汲山の華厳寺にて、御経を書写し給ふ事ありけるが、其時とや、此白石の川の淵より、龍宮の乙姫出現し給ひ、朝な〳〵此山の井水を汲んで、手づから携へ給ひ、阿伽の水に運び奉らる。是に依つて。此清水を、いつとなく姫ヶ井と号せしとかや。彼の乙姫の姿は、諸人の目にかゝる事なくして、聖廟の御目にのみ見えさせ給ふとぞ。又乙姫の御製とて、聖廟に伝へ給ふ古歌に曰く、この頃は汲みては知らん山の井の浅さ深さを人の心に
扨又、其御経は、谷汲山の毘沙門天の腹心に、納め給ひてありけるなり。彼の山の上に、妙法水といふ所あり。其遺跡なりとぞいふ。斯くて時移り事去りて星霜も久しく旧りたれば、姫ヶ井も、おのづから落積る木の葉に埋もれ、茂り合ひたる八重葎にとぢられて、在所さへも弁へざりしとなり。此水、元来清き霊水にして、流れ注ぐ【 NDLJP:126】程の田所、皆以て五穀豊饒なり。白石の近郷の清水などといへる里の流れも、此名を引きし故とかや。水の性清冷として、甘味潔き泉にてありける。百病を癒し、万江を沾す事、当国養老の菊水にも等しといふ。取分け難産の婦人、此水を用ひて平産し、母子共に安全たる事其例多し。殊に不思議といふ。又極暑の頃、小児の輩、汗かぶれ、汗いぼというて、頭面のあたり、病の発する事あるに、此水を以て洗ひ、且行水等なしけるに、忽ち平愈しける事神の如し。是れ則ち観音の御加護、福寿無量の大悲の誓、空しからぬ故なりといひつべし。猶其流れの末は、株瀬川に落入りて、伊勢や尾張の方、遥の南海に落ち、其果知るべからず。されば是を以て按ずるに、古は株瀬川の流も、此白石の山の麓を通りしと見えたり。谷汲山観世音、卅三ヶ年目に開帳之ありけるが、其頃には、別して参詣の貴賤袖を連ね、順礼の男女夥しく、引きも切らず、山辺を伝ひ通る体、遥にありて之を見れば、影殊に風雅にして、一入の詠なり。漸漸春の日より、炎暑の時節に向へば、道行き振の袖ひぢて、行く人殊に姫ヶ井と流を汲みて行き通ふ。誠に功徳他の水ともいひし物語なり。
桂の郷旧跡の事 大野郡揖斐の西、桂の郷といふ所あり。是は其往昔は、無双の繁華の地にして、絶景の在所といふ。代々桂の長者花ノ木氏といふ者居住しける。然るに此花木氏といふは、其先祖を尋ぬるに、碓井靱負丞貞光の末流なり。貞光と申すは、人皇卅一代敏達天皇五代の孫、左大臣橘諸兄公の孫、太政大臣清友より、六代の後裔、河内国交野の住人、交野荒太郎時澄の子、同国古市郡長野の庄確井の住人、碓井太夫公貞の一子なり。然るに貞光は、天延三年の頃、上総の国に於て、源頼光に仕へ、腹心の肱股の忠臣となりて、四天王と称せられ、片時も主君の傍を去らず、千忠万功を尽し、生涯の名誉莫大なり。然るに大守頼光朝臣は、長保三年丑の四月より、美濃守となりて、当国に入任せられ、寛弘七戌年迄十ヶ年の間、岐阜の城に住し給ひ、其後、任限充ちて、陸奥守となりて、奥州に下向せられ畢。頼光、美濃任国の中、四天王の面々は、皆君命を承り、国政を執行する為め、一国の内にて庄園を給はり、東西南北の四方の郷【 NDLJP:127】郷に在住して、政事をなしけるといふ。所謂一老の家臣渡辺綱は恵那郡中津川に、居城を構へて東方を守護し、信濃口の政務を司る。平井保昌は墨俣に住して、尾州口の政務を取る。卜部季武は、郡上郡小野に住す。坂田公時は、多芸郡横曽根に住せり。確井貞光は、則ち此桂の郷に住しけると云々。然るに貞光、当所に居住の砌、此桂の郷に、数代住しける長者に、藤内兵衛家景といふ者ありけるが、一人の娘を持つて、殊に寵愛深かりぬ。貞光、此家景が娘を相具し、暫く妾としてありけるにぞ、程なく一子を設く。其後、当国の任終りて、頼光には、奥州に至らせける故に、貞光当所を立退くの砌、形見の一子を、桂に残し置きぬ。是に依つて、祖父家景之を養ひて、我が家名を継ぎ、碓井三郎太夫貞致といふ。後に氏を花木と改め畢。貞致の子花木藤内左衛門家定、其子藤内兵衛家致といふ。当国の守護加茂次郎義綱に属して、天仁二年丑八月廿八日、江州甲賀山にて生害せり。其子弥太郎宗貞といふ。其後子孫代々、桂の郷に住して繁昌せり。確井貞光は、此外に実子ありと雖も、早世して子孫なし。然れば此花木の外に、其血筋たる者曽てなし。所々紛るゝ者ありと雖も、信ずるの所あらじといふ。然るに此桂の郷に、千代河戸というて、其所より自然と涌き出づる清水あり。其由来を尋ぬるに、足利将軍尊氏公の御母、〈或は御伯母ともいふ、〉同氏讚岐守へ嫁して、相州鎌倉に御座せしが、乱を遁れて尼となる。〈相摸次郎平時行再び起りて、建武二年七月十三日、鎌倉な攻破り畢。此時の事なるべし。〉扨禅尼は人目を忍び、星月夜鎌倉山を忍び出で、其頃名僧の聞えある京都天龍寺の開山夢窻国師を師として、諸教を修し、教外別伝不立文字、直指人心見性成仏の悟の道を明らめ、近代無双の智識たり。一説に曰く、加州千代野といふ所に、年頃住し給ひける故に、禅尼の名を、千代野の尼公と称せしなり。【千代野の禅尼】其故にや、いつとなく名となりて、千代野殿と申しけるといふ。斯くて一つ所に止まるべきにあらずとて、諸国を遍歴して、越前の国に赴き、或一流の大守に案内して、立入られける。〈平泉寺といふ。〉生得美麗の禅尼なりける故にや、彼の寺の主僧、頓て出迎ひ、何の斟酌もなくして、其前陰を顕し答〔〈本ノマヽ〉〕へて曰、坊が物は三尺と問うたり。尼更に臆する体もなく、同じく陰所を顕して、相対にして曰く、尼が物は無底と答へたりといふ。主僧心中を感ず。扨問答終りて、住持に対面なしてより、数月当院に止宿せられぬ。此【 NDLJP:128】尼天性麗質にして、美顔類なかりしかば、衆寮の若き坊主等、折に触れては懸想しけるを、うるさくや思ひけん、或時大会のありしに、此尼衣帯を解き、裸形となり、声を烈うして曰、大衆の内、何某の若僧、我に向つて日頃艶言を宣へり。心あらば、今爰に来られよ。相会せんと申されければ、彼の僧大に仰天し、面皮焼くが如く、脇汗冷くして流れ、針座の上に居するの思をなし、漸く会座を退き、這々になりて逃行きけるを、穢し返せの声只耳に止りて、足の立ちども弁へず、行方も知れずなりけるといふ。誠に希代の活漢とて、女天和尚とも称せしとかや。大会果てければ、千代尼も旅立して、東山道に差懸り、当国に来り、東美濃関の近所、見延といふ所の辺、ある尼寺に身を寄せて、暫く住し給ひ持花汲水怠らず、一日水を汲まれしが、桶の箱や切れたりけん、底抜けて、手を空しく帰られしが、禅尼の胸中、洞然たる事ありて、詠める歌に、
とにかくに頼みし桶の籠ぬけて水たまらねば月も宿らず
悟道得道の人なれば、其名近隣に聞え高く、所の名をも、則ち千代野と号せしとかや。其寺今にあり。此寺に住する尼は、必ず長老ならでは叶はずとかや。道徳といひ、族といひ、旁由緒のありける事にや。世人悉く感慮尊敬す。夫より千代野禅尼は、西美濃に移り、大野郡当所桂の郷に来り居住せらる。其年は、延元三戊寅年二月なりといへり。是は夢窻国師と、師弟の縁ある故にや、但し土岐氏の本国故にや。斯くて桂の郷長者花木弥太郎政和といふ者、禅尼を尊敬して、我が領園の辺なる山の麓に、美麗なる庵室を営み、是に入らしめて、住居させしめ畢。此花木弥太郎といふは、其先に、弥太郎宗貞より八代の孫にして、相替らず桂の郷に在住しける者なり。然るに此禅尼の住せられし庵室の前に、一流の小川ありけるが、殊に清らかにして、夏日には、其冷気甚しく、冬日に至れば、水気温々として、朝夕陽炎立覆ひぬ。人々此川を、千代河戸といひけるとぞ。尼公聞きて喜び、扨は此流れの中は、尼領にこそありけるやとて、戯れ詠める歌に、
千代に住む月のかつらの香をとめて流るゝ水はあまの川かも
一説に、此尼は、花木氏の娘なりといへる事、至つて誤なり。総じて此郷は、四囲皆以て高山峨々として、巌石上下に聳え、雲霧、山のとこしなへに迫り、片地にして、谷の【 NDLJP:129】中にありと雖も、一体の地平にして山を形どり、絶景の地たり。星霜経るに随ひ、次第に土肥えて岡を現じ、彼の洞此の洞などと様々ありて、家居すべき洞共多く、其地境、鎌倉に能く似たるといふ人もあるとなり。其頃は、大郷の地にして、山の内地面滑にして、大なる人家千軒といへり。別して農人は、朝夕の業も繁く、民の竈も賑はしく、いつの世にか、人家も次第に流亡せしや、年を追うて衰微の地となり、其名も消えて失ひぬ。一説に曰、天文・永禄の頃には、未だ人家も多くして、繁地なりといひし人もありとなん。扨又、其頃加州の落人山岸新左衛門蔵人光章といふ者、北国にありて、南朝に組し奉り、新田義貞・義助兄弟に合力して、加州より越前に打つて出で、足利高経以下と数ヶ度戦ひ、武勇を振ひけるが、暦応元年閏七月二日、越前足羽にて、大将義貞生害の後、山岸は越前を去りて、美濃国に落ち来り、土岐頼康に随順しけり。是より山岸光章は、入道して道貞と号し、此桂の郷に来り、牛ヶ崎といふ山の麓に、一の館を構へて是に隠居せり。又桂の郷の大伽藍月桂山康永寺に、閑居しけるともいふ。山岸氏、此地に来りて閑居しける事は、光章の末子新五郎といひてありけるを、花木弥太郎政和に子なき故に、養子としける。則ち此養子花木藤内貞清といふ。弥太郎の弟弥次郎政吉といふは、土岐頼康の老臣なり、旁其由縁あるを以て、光章此地に閑居しけると見えたり。千代野尼公と、其庵近く住しけるまゝ、倶に志を称して、懇情しけるとかや。其故にや、千代野の詠める歌とて、様々ありけるが、皆牛ヶ崎の山岸の館に止まり、子孫迄も伝はりてありけるとぞ。右千代野尼公、自筆にてありける歌共見けるまゝ、是に止めたりぬ。
かつら山きしの花の木ならべつゝさかえて薫る千代の橘
牛崎の館も雲井のすゑかけて住みながら行く千代の川水
かつらなる千代の清水の底澄みて心に月の影はうつるや
秋の夜の月も猶こそ澄みまされ世々に変らぬ千代が川水
夕日さすかつらの岸は雪見えてしぐれにくるゝ山岸の里
なを照らせ代々にかはらぬ桂山岸に月影うつりましけり
手弱女の姿とな見そ色も香も知る人ぞ知る千代の後には
桂の郷の内、
君が代は幾万代も重ね石確井もくちて世の終るとも
頼光の御製とて、二首あり。
残し置くみのゝ桂の重ね石碓井が住みし印なりけれ
重ね置く石の確井に身を寄せて桂にすみし貞光が跡
其時、渡辺綱の歌とて、
我みのゝ名をば残さん桂山碓井に似たる石を重ねて
住なれし桂に残す重ね石末世に止む我が名とぞ知れ 貞光
斯の如く、桂は勿論、諸所にも、斯様の事数多ありと雖も、委しく覚えざれば止め難し。又桂の郷牛ヶ崎の東の方に当りて、山の半腹に、女夫岩と号して、二つ相並びてぞ峙ちたる大石あり。是れ又貞光の造れる所なりといひ伝へける。然れども其慥なる所は知らざるなり。扨又、池田郡の内、南の方池田山の半腹に、一宇の伽藍を建て、長谷の観世音を安置して、其頃専ら利益ありとて、参詣の人々繁昌しけるが、貞光是に信仰して、日毎に詣をなしける。尤貞光は故ありて、長谷寺の観音を信じけると云々。是に依つて、此観音に寄附の為め、大なる石鉢を献じたるも、又其節の事なるべし。其路次の民家へ与へし事なりとて、大なる石を以て四方を畳み、洞屋を造りて、施せしといへり。其岩穴、今禅蔵寺参詣の路次の広野に数多あり。俗のいふには、是は大昔の頃、火の雨降りし故に、此岩穴を造りて、是に入りて暮したりといふ。信ずるに足らず。是れ只貞光の造りたる事といふ説、尤と云々。又山の岸なる長谷の観音堂は、後に至り、康和二辰年に池田山大に崩れ、土を降らし水発して、山抜しける其時、彼の堂は断絶しけるとなり。是よりして、此山は谷となりて、大雨の節などには、流水夥しく、俗呼んで之を
遥々と千代の古跡踏分けてとはでか行かん山岸の里
桂のゝ千代の川水清ければ月も流れを尋ねてぞ住む
桂の郷休石の事 大野郡桂の郷本村の入口四方辻の真中に、休石と号して大なる石あり。此石の下に【 NDLJP:133】は。蛇の死骸が埋めありけると、今世俗の言伝なり。是は其昔応安の頃、当郷の住人花木藤内貞清といふ者、之を退治しけると申しける。夫に付藤内は、妖怪ありて亡びけるといへり。其由来の事共、或老人の物語なりけるを聞置くまゝ、記しけるとぞ。扨其仔細を尋ぬるに、足利将軍尊氏公の御代の事なりけるが、桂の住人花木藤内とて、弓馬の道に能達し、而も剛力無双にして、名を得し者なりけるが、是は元来、花木弥太郎政和が養子にして、実は加州の落人山峯氏の末子といへり。藤内の妻は、養父弥太郎の娘にして、是と語らひ、其の仲もいと睦しく暮しけるが、其間にして、二人の子供を設け、妻は計らずも打悩みて、延文五年の秋とかや、終に死去したりける。藤内は、其後、妾をも迎へず暫く独身にて暮し居けるが、或時親類の勧めに依つて、江州柏原の宿の何某の娘とて、尤其氏姓は正しからぬ者と雖も、実にや氏より育とて、都人にも恥づる美麗の娘なりとて、取扱ふ者ありて頓て之を我が館内に取迎へ、愛妾として、睦しく相語らひける。其名を菊野といへり。然るに此女、若気の誤にてやありけん、藤内の家の子の若者宇佐美何某といふ美男子と、密に相語らうて、不義あるに依つて、短気剛勇の藤内、之を見顕しつゝ、害せんとしけるに、宇佐美は、漸うにして遁れ、行方知れず逐電しける。菊野は、逃ぐる事を得なさずして、終に貞清が白刄の下に懸りて、身を亡しにけるとぞ。扨其後、或夜の事なりけるが、藤内は、灯火を挑げて兵書を詠めて居ける所に、菊野忽然と来り、我が夫恨めしやと申しけるにぞ。貞清驚き、正しく彼は過ぎし夜、我が手に懸りて死せし者の今又爰に来りしは妖怪ならめ。いぶかしと思ひけれども、元来大丈夫の勇士なりければ、少しも心にかけず、其夜はつく〴〵いらへて、臥所に入り休みにける。扨夜明けて見れば、菊野は疾く起きたる体にて、まめやかに家事を営みぬ。藤内誠に勝れたる健士なれば、事ともせず、心に油断はせず、何様末には如何するぞや。其終を見んとて、只常の体にて暮しけるとぞ。月日には犯す関守もあらずして、程なく菊野が死せし月の其日に当りぬ。時に妾は、藤内に向ひていへらく、今日なん、君の御顔持勝れ給はず、何事か御心に懸る事やおはする。願はくは妾に包まず明かさせ給へと云々。貞清答へて、いや何も心に懸る事なし。家は豊にして、金銀米穀には乏しからず。兄【 NDLJP:134】上は壮にして大守に候し、そして汝と我が中も宜し、何事をか心にかけんやと申して、敢て取合はず。菊野又押返して問へど、藤内答なければ、妾も外の咄に紛らしぬ。早兎角して年も立ち、又迎ふる年となりけるが、其日は雨そぼ降りて、何か物淋しきに、妾は常よりも美々しく化粧して、藤内と膝を突並べ、いかにや我君、今日こそ思ひ当り給ふ事ありぬらん。何か隠し思ひ給ふやと尋ぬれば、貞清何の答もせず、曰く、古は武士たる者、一騎の名ある身分としては、必ず弓矢を持たせける。是に依つて武士になりしを、弓矢の道に入りしといふ。又武士を弓取ともいふ。武家に生るゝを、弓箭の家に生れしといふ。皆是故なり。近代は鑓出でし故に、弓矢を止めて、必ず鑓を持たする。然れども是れ略儀なり。武士を鑓取とはいはず、是れ古法にあらず。
元来精兵の手垂なれは、十五束五つ伏、半月の如く引絞りて、切つて放ちけるにぞ、過たず大蛇の胴中を、はつしと射通しけれは、青嗅き血と覚え、四方へ、ぱつと散り立ちて、其勢に乗りて、彼の者二三間空中へ飛上り躍り上り、狂ひ廻りて、傍の谷の中へ落入りたる。折節日は暮れ切つて夜に入り、忽ち大雨頻に降り出しにける。次第に山鳴り震動して、物凄くなりけるとぞ。藤内は、何にもせよ、曲者は仕止めたれども、日暮に入りて、正体も篤と見分け難ければ、其儘にして、我家にぞ帰りける。其翌日、早く彼の所に行きて見けるが、不思議や血潮の流れたるのみにて、尸は更に見えざりけるといふ。此大蛇は、元来此山の奥の谷に、数年住み居しものなるにや。又菊野が怨念なるや、其実否詳ならずと、老人も咄し申したりぬ。然るに又其後、何の仔細もなかりけるが、頃は応安七年の冬といひ、而も十二月の廿三日の事なりけるが、来春正月の用意の為にやありけん、花木が家にて用ひ伝へたる、十二枚の大なる釜ありけるが、家の僕共寄集り、此釜にて、蒸物をかしげる為にや。其日、蓋を取りけるに、如何して入りたりけん、大なる蛇、凡そ廻り一尺四五寸もありけると思しきが、蓋に付きて頭を出し、口を開きて飛懸らんとしける。家来大に驚き、其儘蓋をして、主人藤内に斯くと申入れける。藤内立出で、蛇なるか、定めて過ぎし頃、我が矢先に懸りし者なるべし。其後尸を見ざりしが、今以て存命なるや。時節を窺ひ、猶執念深く我に怨をなさんとするか。併し乍ら今こそ遁すべきやうなし。中に入りし【 NDLJP:137】こそ幸なれ。其儘煎殺すべし。外へ出しなば、又々逃行くべし。只早く火を焚立てよかしと命じける。是れ則ち菊野が死せし七ヶ年の其月其日といふ。家来共、頓て釜の蓋の上に大石を置きて、下より頻に焚かけゝるにぞ、忽ち釜鳴出してうごめきけるにぞ、物凄き有様にてありけるといふ。然れどもいかで怺ゆべきやうもなく、難なく彼の大蛇を、其まゝ煎殺したりぬ。夫より其釜を担ぎ出し、其釜と共に、近辺の山際を深く掘りて埋めたりける。其埋めたる上に、大なる石を居ゑて印となしける。此石を釜ヶ石ともいふ。又うはゞみ石とも申しける。此石の上平にして、往来の土民共、荷などを背負うて、此石の上に荷を懸けて休みけるまゝ、いつとなく
この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。