美濃国諸旧記/巻之十一
【西美濃四人衆】大野郡清水の城主 稲葉伊予守良通入道一鉄斎〈始は安入郡曽根の城主なり〉
安八郡大垣の城主 氏家常陸介友国入道卜全〈元亀二年太田村にて討死〉
厚見郡鏡島の城主 安藤伊賀守守就入道道足〈天正十一年に討死〉
安八郡西の保の城主 不破河内守道定〈天正九年に病死〉
右の四家を、西美濃四人衆と号して、土岐氏代々相恩の旧臣なり。尤各天文・弘治・永禄・元亀・天正の頃の人々なり。土岐頼芸より義興に属し、龍興代に至り、永禄七年の頃より、織田信長に随身しけるなり。右の内、稲葉は子孫繁昌、氏家は内膳志摩守、関ヶ原にて終る。不破は、彦三郎より北国に果つる。安藤は、関東にありと【 NDLJP:169】云々。
池田郡本郷の城主 国枝大和守正則
大野郡府内の城主 山岸勘解由左衛門光信
不破郡岩手の城主 岩手弾正道高
大野郡松山の住人 松山刑部正定
同 衣斐の住人 衣斐与左衛門光兼
同 小津の住人 高橋修理治平
同 郡家の住人 郡家七郎兵衛光春
本巣郡船木の住人 船木大学義久
同 八居の住人 八居修理亮国清
本巣郡小弾正の住人 小弾正三郎国家
不破郡菩提山の住人 竹中半兵衛重治
本巣郡唯越の城主 竹腰摂津守守久
大野郡相庭の住人 相場掃部助国信
本巣郡十七条の城主 林主水道政
同 小柿の城主 小柿四郎左衛門長秀
大野郡黒野の住人 所七郎信国
本巣郡軽海の住人 軽海五左衛門光顕
右大将分十八家、天文・弘治・永禄の頃の人々なり。
土岐氏一族の家柄分明の分 可児郡明智の城主〈一万五千貫なり〉 明智駿河守光継 同子遠江守光綱 其子十兵衛光秀右は、文明より弘治の頃迄の三代の人々なり。当家の元祖は、土岐民部大輔頼清【 NDLJP:170】の二男明智下野守頼兼と申して、大膳大夫頼康の舎弟なり。土岐氏連枝と申して、一族の内にての随一にして、此上に出づる庶流なし。代々明智の城主なり。
大野郡揖斐の城主〈一万貫、実は大守政房の五男なり〉揖斐周防守光親
当家の元祖は、明智下野守の舎弟にして、連枝の家柄と申して、明智の家に差続ぐ一家たり。
恵那郡原の城主〈実は明智駿河守の四男なり〉 原紀伊守光広〈天文・弘治・永禄の頃の人なり〉同子隠岐守久頼
当家の元祖は、土岐光定の子隠岐孫太郎定親の四男原彦四郎師親と申して、後に出家し、鏡貞と号す。北条右京大夫時村の合戦に、先登して相働き、討取しける。是れ則ち元祖たり。隠岐守久頼は、慶長五年、関ヶ原合戦に生害す。子孫池田郡東野六ノ井に蟄居。又松平安芸守総長・森美作守・成瀬隼人正、右の三子に、原の末流あり。
方県郡石谷の城主 石谷近江守光重
当家の元祖は、隠岐定親の兄隠岐太郎国時の子弥太郎国経四代の孫石谷太郎頼俊といふなり。夫より代々石谷に居住す。右近江守光重は、天文・弘治の頃の人なり。子孫は、井伊掃部頭の家にあり。
各務郡田原の城主 田原式部少輔安久
当家の元祖は、土岐出羽判官光行の子饗庭次郎光俊の三男田原三郎光継といへり。夫より代々田原に在住して、右安久は、天文・弘治の頃の人なり。
本巣郡小弾正の住人 小弾正三郎国家
当家の元祖は、土岐饗庭次郎太郎国綱の三男小弾正次郎国礼にして、夫より代々、小弾正村の住人なり。子孫猶又当郷に住し、小弾正右膳と号して、郷士にてありけるなり。小弾正村といふは、当時高家衆土岐大膳殿の陣屋なり。
大野郡衣斐の住人 衣斐与三左衛門光兼
当家の元祖は、土岐美濃守頼忠の三男海老三郎左衛門頼勝と申して、代々海老の住人にして、光兼迄六代に至りぬ。子孫は、尤衣斐村にあり。又黒田筑前守長政・山内土佐守忠義の家にもありといふ。右与三左衛門は、天文・弘治・永禄の頃の人【 NDLJP:171】にして、斎藤龍興を守護して、当国を立出づる人数の内なり。
土岐郡高山の住人 高山伊賀守光俊 同子右近光明
元祖は、浅野蔵人光元の子高山十郎光之なり。
本巣郡船木の住人 船木大学頭頼宗 同子八之丞頼次
当家の元祖は、船木左近将監頼直の子、同孫四郎頼重始めて船木に住し、夫より数代当国の住人にして、頼宗は土岐屋形頼芸に属し、斎藤義龍・龍興迄相属し、其晩年は、明智日向守に仕へて、父子共に、天正十年六月に滅亡しけるなり。
方県郡下土居の住人 土居右京亮光宣
当家の元祖は、土岐饗庭次郎太郎国綱の八男士居七郎国常、始めて是に住し、夫より光宣迄、代々居住せり。天文・弘治の頃の人なり。
大野郡本庄の住人 本庄民部少輔頼元
是は、其父本庄六郎頼胤と申して、大守成頼の六男なり。
本巣郡鷲巣の城主 鷲巣六郎光就
是は、大守政房の六男にして、始めて是に在住しける。子孫は、鷲巣伊織と号して、関東に之あるなり。
加茂郡蜂屋の城主 蜂屋出羽守頼隆
始めは、兵庫頭といへり。元祖は、隠岐孫太郎定親の子蜂屋近江守貞経と申して、始めて蜂屋に住し、其子安房守頼貞といふ。夫より代々是に住す。頼隆は、後信長に奉仕しける。子孫は、関東の旗本にありけるなり。
武儀郡篠洞の住人 金山次郎左衛門国勝
元祖は、土岐国綱の六男、可児郡金山に住して、金山六郎国政といふなり。其後武儀郡に住せり。
大野郡饗庭の住人 饗庭掃部助国信
元祖饗庭三郎信盛是に住し、代々当郷の領主なりけり。
本巣郡八居の住人 八居修理亮国清
当家の元祖は、小弾正国礼の舎弟八居三郎国幸、始めて八居村に住し、夫より代々【 NDLJP:172】国清迄在住す。右国清は、天文・弘治の頃の人なり。
土岐郡浅野の城主 浅野十郎左衛門光同
当家の先祖は、土岐光衡の二男光時、始めて浅野に住し、其子浅野光清・同光忠・同光朝などと申して、兄弟多し。然る間其子孫悉く繁昌し、所々在住せり。又尾州に住する一族もあり。或は羽栗郡本加々野江村に住する浅野源蔵といふもあり。其家数多あるの故に、余は之を略す。尤も右光同は、代々浅野に住し、弘治の頃の人なり。
土岐郡肥田の城主 肥田玄蕃頭家澄
此家は、可児郡明智の一家にして、其元祖といふは、明智兵庫介光兼の次男肥田十郎兵衛尉光寿といふ者、始めて肥田に住し、後には豊後守といへり、夫より代々当城主にして、子孫繁昌し、一門類葉数多になりぬ。右玄蕃家澄は、同郡金山の城主森三左衛門可成の妹聟にして、永禄の末の頃より、織田信長に属し、其後は、明智日向守の幕下となり、天正十年六月十四日、江州大津にて討死しける。玄蕃が一門肥田帯刀左衛門家則・同弟七蔵氏教此両人は、光秀の臣下たり。
可児郡池田の城主 池田織部正輝家
当家も、明智の一家にして、元祖は、明智遠江守光朝の三男三郎左衛門尉輝継、始めて是に住し、夫より以来輝家迄、当城主なり。右織部正は、光秀に属し、後に城州伏見の城を守り、天正十年六月十四日、羽柴の大軍を引受け、討死しける。右の外にも、明智の一家にして、隠岐・溝尾・奥田・三宅・藤田・肥田・池田・瀬田・柿田・妻木などと申して、数代血脈の一門多くして、皆悉く嫡家光秀に属し、後は天正十年、山崎の戦にて亡びたりぬ。明智光秀は、信長に仕へ、僅十五ヶ年にして、六十万石余の大名となりぬ。按ずるに、斯くの如く能き家臣等、皆以て一門たる故に、身命を捨てゝ働きある故に、自然と武功も勝れてありしと見えたりといふ。又土佐の一族の内にも、東池田と号して、此池田に住したるの家ありと雖も、是は先代の事にして、子孫なしとぞ。
土岐郡多治見の城主 多治見修理進国清
【 NDLJP:173】当家の元祖は、土岐太郎国綱の四男多治見四男国経と申して、始めて是に住し、其子多治見四郎次郎国長は、土岐伯耆十郎頼定と倶に、後醍醐天皇の密謀に与し奉りて、元徳元年巳の九月十九日、京都錦の小路高倉に於て、小串三郎左衛門範行と戦つて討死しける。其子一人は、加州に落行きて、子孫大聖寺の辺にありといふ。一人は、本国多治見に止り、子孫代々相続して、右国清迄連綿たり。国清は蔵人国好と申しけるが、光秀に随身して後に、山崎の戦にて滅亡し、子孫家名を失ひけるとぞ。
山県郡大桑の住人 大桑治郎兵衛定雄
当家の元祖は、屋形美濃守成頼二男大桑兵部大輔定頼と申しけるが、明応五年の春、始めて大桑の城に在住しける。其後定頼は、他の城に移る。右定雄は、定頼の孫なり。屋形頼芸在城の頃より、大桑の内に蟄居なり。定雄は、後に斎藤龍興に附属して、当国を立退き候人々の内なりとぞ。子孫の者、今に大桑にもあり。又東国に下りて、徳川家の大名松浦壱岐守の家に、大桑氏の子孫ありと云々。
土岐郡小里の城主 小里出羽守頼長
当家の元祖は、土岐判官代国村の次男小里太郎左衛門国定、始めて当郷に住し、其子兵庫助国平、相続いで是に住し、夫より以来頼長迄、当城主なり。右頼長は、天文・弘治の頃の人にして、右正流の子孫は、和田助右衛門と号し、其末は、松平丹波守光重の家にありと云々。
同郡萩原の住人 萩原彦次郎国繁
当家の元祖は、小里国定の舎弟萩原孫次郎国実と申して、夫より国繁迄、当郷の住人にして、天文・弘治の頃の人なり。
大野郡郡家の住人 郡家七郎兵衛光春
当家の元祖は、土岐光行の三男郡家三郎光氏、始めて是に住し、夫より数代、当郷の住士にして、尤旧家たり。右光春は、天文・弘治の頃の人なり。
土岐郡猿子の住人 猿子主計頭国基
当家の元祖は、土岐判官代国村の四男猿子三河守国宗と申して、始めて是に住し、【 NDLJP:174】夫より代々、国基迄連綿たり。小里・萩戸・猿子・郡戸・深沢等を始めとして、光行より別れたる嫡流二十二流の内なりとぞ。
本巣郡根尾外山の城主 外山修理亮頼安
当家の元祖は、土岐頼遠の子外山近江守直頼、始めて是に住せり。根尾・徳の山などといふは、此一族にして、皆在名を付けたる者なり。根尾の城といふは、往古堀江美濃守貞満の居城にして、後には新田義貞の舎弟脇屋右衛門佐義助も、住しけるとなり。
厚見郡今峯の城主 今峯頼母頭光之 同弟源八郎泰成
当家の元祖は、外山通頼の兄今峯右馬頭氏光と申して、始めて是に住す。後に氏光は、仁木右京大夫義長の養子となり、勢州長野の城に楯籠る。将軍義詮公、土岐頼康に命じて、之を攻めさせらるゝ。今峯・外山は、却て頼康に随伏せり。其後仁木は、勢尽きて、将軍家に降参しける。氏光より、其子孫当国に住し、今峯頼母頭・其子新助泰正父子、倶に後には明智日向守に属しける。尤其外、今峯氏の子孫、当国の内所々に住居し、一類数多之ありけるなり、
方県郡福光の城主 福光蔵人頼国
当家の元祖は、土岐頼貞の嫡子福光蔵人助頼通と申して、夫より代々、当城の住人なり。
恵那郡大井の住人 深沢三郎左衛門定政
当家の元祖は、土岐判官代国村の五男深沢五郎定氏と申して、元徳の頃、後醍醐天皇の密謀に組し、六波羅の使山本九郎時綱と戦つて討死しける。猶其子孫、当国に住して、定政まで連綿たり。尤右定政は、天文・弘治の頃の人なり。
土岐郡妻木の城主 妻木勘解由左衛門範凞 同源五郎
当家は、明智の一家にして、勘解由左衛門は、光秀の舅なり。其子供主計頭範賢・次男忠左衛門範武・三男七右衛門範之等、皆以て日向守に属しけり。嫡家を妻木長門守忠頼と申して、是れ又光秀とは叔姪なり。子孫は、江戸将軍に仕へ、代々妻木村の領主なりとぞ。
恵那郡山田の住人は 山田兵庫頭重正
各務郡岩田の住人は 岩田民部丞光季
方県郡郷渡の城主は 井戸斎助頼重〈始は斎藤に属し、後に信長に随身す〉
本巣郡秋沢の住人は 近松新五左衛門正良
厚見郡中鶉村の城主は 多芸大膳守定〈鶉村三千石を領せり〉
大野郡杉原の住人は 杉原六郎左衛門家盛
当家の本姓は平なり。其元祖と申すは、平相国清盛の二男小松三位重盛、其子惟盛、其子秀衡、其二男伯耆守光平といふ。平家の一族没落の後、所々に散在す。光衡は、当国大野郡小山の奥に落入りて、杉原村に住す。故に是より杉原氏と改む。光衡より数十世の後、杉原平太夫家幸といふ者あり。其子則ち六郎左衛門家盛なり。扨二男を、杉原七郎兵衛尉家則と申しけるが、是は故ありて尾州に至り、愛智郡に住す。此人一男二女を設く。嫡子を杉原七郎左衛門家次と申して、木下藤吉郎秀吉に属せり。女子は朝日といへり。杉原助左衛門入道道松に嫁す。次の女子を、七曲といふ。是は浅野又右衛門長勝の妻となる。後に高台院と号す。長勝は、秀吉の舅なり。長勝の娘は、秀吉の妻故なり。後又浅井長政の娘を取りて、別の妻とし、淀殿といふ。杉原助左衛門は、後に伯耆守家親といふ。其子肥後守家定、秀吉より、木下の氏を貰ふ。家定の子木下若狭守勝俊、二男宮内少輔利房、三男筑前守延俊、四男信濃守俊定なり。五男金吾中納言秀秋、六男木下出雲守と申しけるなり。
可児郡兼山の城主は 森三左衛門尉可成
織田信長に奉仕す。元亀元年九月十日、江州志賀郡宇佐山にて討死す。森氏の【 NDLJP:176】菩堤寺は、兼山の嘉祥寺といふ。是に位牌等あるなり。
本巣郡穂積の城主は 長井将監利満 長井雅楽頭利重
同 別府の住人は 斎藤八郎左衛門利基 同石見守利依同 大和守利盛
不破郡今須の城主は 長井今右衛門長利
大野郡府内の城主は 山岸勘解由左衛門光信
多芸郡飯田の城主は 石丸主殿助利近
方県郡御望の城主は 蔭山掃部助定重
郡上郡鷲見の城主は 鷲見大学光安
方県郡小野の城主は 鷲見美作守光実〈光実は、光安の兄弟、始め小野に住し、後加茂郡に移りぬ。其後弘治二年四月、斎藤父子合戦の時、道三暫く此城に籠れり。〉
郡上郡中坪の城主は 鷲見新藤次範綱〈是は美作守が従弟なり〉
本巣郡小柿の城主は 小柿勘六郎長定 同四郎左衛門長秀
安藤伊織盛基
池田郡堀の住人は 堀監物直有 堀与次郎直家〈直家は、後に明智光秀に奉仕す〉
厚見郡赤鍋の住人は 堀太郎左衛門秀重 同久太郎秀政
当家は、左近将監利仁将軍より八代の孫堀権太夫季高と申して、当国池田郡堀の郷に在住せり。是より代々当郷に住し、季高六代の孫堀小左衛門康重といふ。此時代に至りて、厚見郡に移り、上赤鍋・下赤鍋の二郷を領しぬ。其末流、堀掃部大夫康重といふ。其子小太郎は、斎藤道三に仕へて、秀の一字を貰ひ、太郎左衛門秀重といふ。其子久太郎秀政といふ。信長に仕へ、其後、羽柴秀吉に随身す。天正十一年、長久手の戦破れてより、濃州大野郡北山に落ち来り、慶長十四酉年七月卒す。七十五歳なり。
武儀郡関の城主は 長井隼人正道利
長井藤左衛門長張の子なり。永禄七年の秋、龍興没落の節、之を守護し、関の城を捨て、江州に落行きける。
為泰は、永禄の中頃、信長の疑を得て、城を出でて行方知れず。
郡上郡苅安の城主は 遠藤左馬助慶隆
後に、但馬守といふ。郡上の城主となるなり,当家の由緒は、平姓にして、千葉氏なり。本名東氏なり。桓武天皇五代の孫村岡次郎忠頼の一男千葉上総介平忠常といふ。長元元年に反逆して、源頼信之を征伐し、忠頼を召捕りて、京都に牽き行くの所、其路次美濃国垂井にて死せり。忠常の子小次郎千葉介常将、其子千葉太夫常兼、其子従五位下千葉介常重、其子常胤、其子千葉太郎胤正、其長子兼太夫重胤、其子東左衛門胤行〈法名素羅〉、其子行氏、其子時常、其子氏村、其子常顕、其子師氏、其子氏数、其子益之〈法名素明〉、其子東下野守常縁といふ。始めて関東より美濃国に来り、郡上郡山田の庄に住せり。其子頼数、其子元胤、其子東下野守常慶、其養子遠藤新五兵衛胤縁といふ。同郡苅安の城主となるなり。其子大隅守胤基、其子遠藤小次郎胤直、其子左馬助慶隆なり。後に但馬守といふなり。一族の嫡家は、東六郎左衛門行隆と申して、是れ連歌の達人にして、而も歌書の能筆たり。明智光秀の臣にして、京都愛宕山連歌の執筆是なり。
不破郡栗原の城主は 栗原右衛門尉義師
同 郡岩手の城主は 岩手弾正道高
同 郡梅谷の住人は 竹中遠江守重高
同 郡菩提山の城主は 同半兵衛重治 同丹後守重定〈是に岩手に後住す〉
方県郡鵜飼山黒野の城主は 加藤左衛門尉光長
是は安藤の一族にして、国枝氏と一つたり。其後又年を経て、加藤作十郎貞泰も、是に住しけり。
武儀郡跡部の城主は 跡部将監頼西
大野郡太郎丸の城主は 深尾下野守宗衡 同和泉守宗重〈子孫は徳川の御旗本にあり。又山内土佐守家にもあり〉
本巣郡見延の城主は 原掃部介頼龍 同中務丞頼行【 NDLJP:178】山県郡川屋の城主は 武藤淡路守貞好 同子助十郎基之
助十郎は岐阜中納言秀信に仕へ、慶長五年の秋、岐阜を落行きて、子孫は北国にありといふ。
【濃州七加賀】加茂郡上田の住人は 上田加賀右衛門久重
山県郡高井の住人は 高井加賀右衛門信兼
大野郡伊野の住人は 井上加賀右衛門利久
安八郡青木の住人は 青木加賀右衛門重直
大野郡志那の住人は 山峯加賀右衛門氏房
武儀郡佐野の住人は 臼井加賀右衛門義秀
方県郡川道の住人は 加藤加賀右衛門泰忠
右の七人を、濃州七加賀と号しける。尤加藤泰忠、後に久馬介といふ。其弟加藤兵部光季は、恵那郡坂下に住するなり。
池田郡八幡の住人は 石河駿河守家忠
恵那郡苗木の城主は 遠山久兵衛友政
安八郡牧村の城主は 牧村兵庫介頼豊 同子牛之助春豊
武儀郡牛牧の城主は 牛牧右京亮光久
土岐郡多治見の城主は 多治見修理進国清
山県郡岩崎山の要害は 斎藤道三の砦なり
同 郡福富の住人は 福富七郎左衛門貞吉
貞吉の子平太郎貞家、尾州に至り、織田信秀に仕ふ。一説に曰く、道三の息女婚礼の節、附属して赴きしといふ。其子平左衛門貞次は、信長に奉仕しける。天正十年六月二日、京都にて討死しける。福富の先祖は、明智家の一族なりといふ。
同 郡伊目良の城主は 臼井平太夫義連 伊目良次郎左衛門秀澄
方県郡岩利の城主は 大岡左馬助家師
加茂郡御座野の要害は 稲葉元塵の砦なり
方県郡上中村の城主は 纐纈右京安秀【 NDLJP:179】先祖は額纈源吾といふ者、文治年中に、源頼朝より当城を賜はり、数代是迄此所に住す。尤旧家たり。右京の子額纈藤太夫晴遠と申しけるが、明智光秀に仕へて、天正四年、松永弾正少弼久秀を征伐の砌、和州志貴の城攻にて、討死しけるとなり。
加茂郡野原の城主は 中江中務丞正富
伊目良谷合の城主は 臼井平太夫が居所なり
大野郡小津の住人は 高橋但馬守治通 同修理治平
土岐郡妻木の城主は 妻源木五郎忠頼
武儀郡津野の城主は 池田勝三郎信輝〈其後信長公より、尾州大山を賜はりて是に住す〉
石津郡安田の住人は 安田主税之介国利 同子作兵衛国次
国次は、明智光秀に仕へ、安田・箕浦・山本・古河と申して、四天王の内なり。
可児郡堀尾の住人は 堀尾忠左衛門氏晴
先祖は、郡上郡に住すと云々。氏晴、始めは土岐左衛門尉盛頼に仕へて当国にありける所、天文の始めに、斎藤秀龍が為に、美濃国を落去して尾州に至り、岩倉の城主織田伊賀守信昌に仕へ、武功多し。弘治三巳年、故ありて信昌の家を出で、浪人となりて、濃州に帰り、稲葉山の奥日野谷に蟄居し、永禄五年に病死す。其子茂助吉晴は、同七年の秋より、羽柴に仕へけるとなり。
加茂郡加治田の城主は 斎藤新五郎長龍 同子斎宮龍幸
新五郎は、龍興の子なり。信長に仕へて、天正十三午年六月二日、京都二条の城にて、明智が家来内藤内蔵助利一が為に討死す。其子斎宮は、岐阜中納言秀信の小姓なりしが、慶長五子年八月廿三日、岐阜落去の砌、信友・足立中務・武藤助十郎と共に、白昼に、女の姿に出立ちて、長良川を越えて、北山に落行きぬ。其子孫は、松平大和守道基に仕ふ。又池田三左衛門の家にもありと云々。
武儀郡上有知の城主は 佐藤陸左衛門正秋 同才次郎正村
両人共、岐阜中納言秀信の臣下なり。
其外、土岐の一族葦敷も是に住す。其外彦坂谷等にも、土岐の氏族住しけるといふ。
同 郡城田寺の城主は 屋形左京大夫成頼 同美濃守政房同嫡子左衛門尉盛頼
明応五年の夏六月廿日、政房の舎弟四郎元頼、并に斎藤が家臣石丸利光以下、生害せし所は、則ち是なり。其後は、斎藤の家臣交代して、之を守れり。然るに以前屋形左京大夫成頼の住居せし所は、同郡城田の庄に閑居すといふ。故に持是院の日記に、城田・城田寺の訳分明ならず。城田の里人に、成頼の旧跡を尋ぬると雖も、其館のありし所といひ伝へたる所は、更になしといふ。然らば城田寺の事なるべし。又城田の辺に、正木といふ所あり。此所に古城の跡ありといふ。按ずるに、山内氏の先祖山内掃部助実通、城田に住居せしといへば、必定是なるべしといふ。
安八郡一木の要害は 稲葉兵部が砦なり
同 宮田村の要害は 葦敷又三郎重貞
是は山田兵庫が弟なり。後に、山田丹後守と改む。其後、是は稲葉一鉄斎の砦となるなり。
同 大塚の所主は 松井九郎次郎直清
石津郡市瀬の城主は 桑原次右衛門家影
同 太田中島の要害は 原隠岐守久頼の砦なり
多芸郡祖父江の所主は 祖父江孫左衛門国舎 同弟源助国成其弟孫次郎国之
祖父江国舎は、織田信長に仕ふ。其子孫丸国政は、天正十午年六月二日、京都本能寺にて討死す。国成は、明智光秀に仕へ、山崎にて討死す。其子孫四郎国俊は、山内土佐守一豊に仕官せり。国之は、後に福島正則に仕へ、法斎といふなり。
大野郡九郷の所主は 稲葉権之丞通定
同 有馬の所主は 杉山刑部丞正定
【 NDLJP:181】恵那郡一宮の城主は 中条左近将監家忠
始めは、斎藤義龍に属し後に織田信長に仕へ、氏を山澄と改めさせらるゝ。
本巣郡赤石の所主は 筑間左衛門尉正守
不破郡今須の所主は 長井今右衛門長利 井上忠左衛門通勝
安八郡森部の要害は 明智十兵衛光秀 赤尾宮内少輔常政不破壱岐守重貞
同 今尾の城主は 大塚飛騨守真政 足立中務丞宣成丸毛河内守兼利 市橋下総守長勝
大塚は、土倉・大藪の一族にして、飛駅守が一類大塚久一郎真之・同孫三郎真春・同主税助真元等は、信長に属しけるとなり。
恵那郡明地の城主は 遠山勘右衛門友治
本巣郡文珠の城主は 中納言定家卿の旧館の地なり。本名船木山ともいふなり。其後小笠原四郎泰綱是に住す。文珠の西の城は、祐向山の城といへり。此城は土岐の砦なり。長井新九郎正利、則ち是に住す。定家卿の歌とて、
君が代は幾万代も重ぬべき糸貫川の鶴の羽衣
本巣郡本田の要害は 稲葉長左衛門住す〈是は稲葉一鉄斎の家臣なり〉
同 定原の北方の城は 安藤伊賀入道道足 同三男七郎左衛門守之
池田郡本郷の城主は 国枝大和守守房 同大和守正利
和田佐渡守義繁 其子八郎将監義直
本巣郡美江寺の城主は 其子瑞門院可心 其子杉本市兵衛直定
林土佐守越智正長
天文十一年九月三日夜、武田信玄の軍勢来り、火を懸くるに依つて、城を焼落され、防ぎ難く、和田将監討死。其子両人、共に城を落ちて行方知らず。其後十七条の城主林左近が嫡子林土佐守正長住せり。信玄の夜合戦に、正長嫡子玄蕃亮は、討死しける。次男総兵衛は落去しけり。
本巣郡十九条の城主は 織田勘解由左衛門信益
【 NDLJP:182】永禄五年五月三日の夜に、信長と龍興と、軽海の合戦にて討死しけり。
池田郡市場の住人は 内藤十郎左衛門盛重
大野郡呂久の住人は 那波上野入道久昌軒 同内匠助久之
安田郡前田の住人は 佐合修理忠正
厚見郡江崎の住人は 江崎三郎右衛門光知
本巣郡長屋の住人は 宇佐美左衛門実助
厚見郡西の庄の住人は 永田靱負昌道
本巣郡十七条の城主は 林主水正道政
加茂郡板井の住人は 私市太郎左衛門信家
恵那郡高山の城主 平井宮内少輔光行 同子頼母光村
天正二年戌の二月二日、武田勝頼、当城を攻落し、光村は討死す。
恵那郡串原の城主は 串原孫左衛門親春〈右同時に落去せり〉
同 飯狭間の城主は 飯狭間右衛門尉重政〈右同時に落去せり〉
武儀郡高野の城主は 高野作十郎宣家 同作右衛門政家川尻与兵衛重遠
武儀郡於里の要害は 池田勝三郎信輝砦なり
方県郡則武の住人は 則武織部丞武景 同三太夫武之
三太夫は、堀尾帯刀吉晴に仕へ、子孫は、安藤対馬守重信の一家にあるなり。
各務郡野村の住人は 野村越中守正俊
多芸郡小倉の住人は 羽賀五郎左衛門常遠
安八郡加々野江の城主は 日比下野守弘近 同大三郎〈信長と森部の合戦に討死〉加々野江弥八郎重望
本巣郡曽井の住人は 長屋信濃守義豊
恵那郡下村の城主は 下村丹後守幸近
本巣郡木倉の住人は 梶原平九郎景久
同 山口の城主は 古田左金吾安長 安長弟同吉左衛門長宗
【 NDLJP:183】 長宗弟同兵部少輔長政 長政子同織部正長脇
此城は、昔梶原平三景時の居城なり。当城に住しありける砌、此所の鴨を取りて、頼朝に献じたりしと、東鑑に見えたり。又文治の頃、判官義経を、木振寺に於て調伏しける由。此事、五大尊寺にあるなり。扨又古田吉左衛門は、羽柴秀吉に仕へたり。播州三木の城攻の砌、討死しける。其子古田兵部少輔長幸二男大膳大夫長盛とて二人あり。慶長五年、勢州松坂の城主となりて、六万石を領しけり。其後兵部少輔は病死す。其時六歳の孤子あり。将軍家康公より、大膳大夫に、兄の跡目を相続して、則ち兵部少輔となるべき旨を、仰せありけるにぞ、大膳承りて申しける様は、有難き上意に候へども、孤子を成長させて、父が名に候へば、是は兵部少輔と名乗らせ申度の由を望みける。家康公聞召し、今の世には稀なる者かなと感じ給ふ。孤子漸々成長せしかば、父が挙具、残らず目録を以て、元和六年の頃相渡し、勿論六万石の地をも附与して、其身は物淋しき様にて、江戸に住しける。潔き事、誰か此上に立たんぞや。稲葉内蔵助・一柳監なども、兄の跡目を、名代として相続せしが、何れも古田には及ばざるといふ。
加茂郡川浦の住人は 武市常三光邦
同 郡伊辺の住人は 同善兵衛光種
光種は、常三が兄なり。善兵衛は、羽柴秀吉に仕へて、天正十一年に討死す。其時三歳の幼子あり。伯父常三之を養育し、長となして、父の名なればとて、善兵衛重植と名乗らせ、兄の家を修理し、勿論知行所家財等悉く相渡し、常三は、鍋一つ手鑓一本を取りて、別家しける。此等、古田に劣らぬ信義、賢き勇士なりと云々。
池田郡和田の住人は 和田弥太郎秀定
美江寺の城主和田将監が従弟にして、屋形土岐頼芸に属しける。秀之生質の所は、其風、常に美婦人の如くにして優しく、物事応揚なり。戦場に出でて、魁殿の時も、一向騒がしからず、動ずる心も見えざりしかば、何とも知れぬ男にてありしよと、人々沙汰しけるに、傍友浦野若狭守・日根野兄弟・日比野下野守抔も、頗る勇士と雖も、つまる所の武功は、和田弥太郎すべきぞと、兼々いへり。果して卅六歳の【 NDLJP:184】春、江北の浅井下野守久政、前前勢を語らひ、一万五千の着到にて、濃州西方表に発向し、猛威を振ひ、味方危く見えしが、弥太郎は、諸人の目を驚かす程の鑓を、二日の間に三度合せ、敵を突散らし、終に土岐頼芸運を開き、泰平を唱へけるとなり。
安八郡結父の住人は 立田大蔵近季
同 横井の住人は 松井刑部宗久
大野郡瑞原の住人は 村瀬権九郎重勝
厚見郡藤生の住人は 兼松右京国氏 同又四郎国行
安田郡中沢の住人は 臼井宮内少輔盛一
大野郡郡家の住人は 小森隼人長常
同 西方の住人は 所七郎信国
羽栗郡三宅の城主は 三宅式部少輔光遠 同周防守業朝
可児郡大森の住人は 可児才兵衛吉家
羽栗郡江川の住人は 可児才蔵吉長
可児郡室原の住人は 奥田宮内少輔景綱
安八郡長沢の住人は 宮内左衛門尉治久
同 小泉の住人は 佐藤和泉守信通
厚見郡中島の城主は 日根野備中守弘就
同 古津の城主は 同弟弥次右衛門弘継
土岐郡豊田の住人は 豊田民部一政
不破郡榎戸の住人は 大倉右京貞正
多芸郡三笠の住人は 石井遠江守氏辰
武儀郡坂元の住人は 村山兵庫介行輝 同主税行家
郡上郡粥川の城主は 粥川備中守光延〈子孫は、金森出雲守可重の家にあり〉
方県郡谷の城主は 谷五郎左衛門重衡 同大膳亮幸衡
加茂郡福島の城主は 福島左近将監政清
政清の二男、与右衛門政家といふ。大永の頃尾州に至り、二つ寺に住す。其子新【 NDLJP:185】左衛門政元、其子市松正則なり。
恵那郡釜屋の住人は 浅岡新八郎村重
郡上郡高原の住人は 国井治郎左衛門祐重
池田郡池戸の住人は 国枝八郎守景
本巣郡曽我屋の住人は 曽我屋内蔵亮家治
同 生津の住人は 松景右京高介
池田郡田中の住人は 池田庄兵衛政義
大野郡下方の住人は 後藤右馬允貞乗
郡上郡小川の住人は 小川治左衛門頼包
同 木尾の住人は 関谷兵庫助行景
安八郡佐渡の住人は 岡主馬俊春
大野郡高科の住人は 松岡内膳義兼
多芸郡津谷の住人は 浅屋助三郎元常
羽栗郡松原の住人は 松原源吾芸久 同内匠芸定
同 米野の住人は 矢代左衛門尉与安
安八郡笠木の住人は 堀部新左衛門義広
本巣郡軽海の住人は 軽海五左衛門光明
各務郡各務の住人は 各務右近将監常久
羽栗郡成光の住人は 小牧源太道家
大野郡樫原の住人は 樫原但馬治定
同 野村の住人は 汲田左衛門佐道順
同 城主は 織田河内守長孝〈是は織田源五郎長益の子なり〉
美濃国諸旧記巻之十一終この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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