美濃国諸旧記/巻之十
同今須の宿の西往還より坂を上りて、南の方の竹籔の中に、常盤御前、并に千種といへる側仕の小女の墓あり。其由来は、中昔の頃、長寛癸未年五月十一日の夜なりけるが、東の方へ下るとて此山中の宿に泊り給ふ。然るに熊坂入道長範が為に、其夜中、両人共に討たれけるとなり。然る所、里人等其死骸を此所へ埋めたりとぞ。其後牛若丸、此所へ尋ね来り、石塔を建て、入口に松を植ゑ置き給ふとなり。
不破の関、家康公関ヶ原合戦ありしは、此所なり。往還の左の方に、関ヶ原合戦の時の首塚あり。同所右の方に見ゆる山を、鶏籠山といふ。其左の空地を、
霧ぞ立つ野上の方に行く鹿はうぐひす春になるらむ〔〈本ノマヽ〉〕
古郷の見し面影や宿りけり不破の関屋に板間もる月
扨又南の方に、古城の跡あり。是は元来今須の城主長井今右衛門が要害にてありける所、関ヶ原の合戦の節には、筑前中納言秀秋の居城なりしと申伝へたり。野上川の西、土手の下り江の左の方に、弘法大師の腰掛石といふあり。扨垂井宿より東青野が原に出でて、左の方にある松の古木を、熊坂が物見の松といふなり。尤古の長範が登りたる物見の松にあらじ。二代目の松なりとぞ。里人の申しけるとぞ。同所青墓村の上りに、右の方に当りて、村の出離れ田の中に、松の大木あり。此下に、【 NDLJP:156】少し計りの清水あり。之を照手の水といふなり。是は小栗判官の室嫁。此青墓の東、赤坂の万屋丁が方に、奉公してありける時に、汲み用ひたる水なりと申しける。同青墓村の後上りに、右の方の山の上に、古墳墓あり。是は中宮大夫進朝長の墓なり。朝長といふは、左馬頭義朝の二男にして。頼朝の兄なり。平治二庚辰年二月朔日、此所にて生害なり。里人其死骸を、此所に葬りけるとなり。同所に、又左馬頭義朝の廟所あり。是は同年の正月三日、尾州野間の内海にて、長田の庄司忠致が為に害せられ給ひける。然るを故ありて、此処に廟所を建てたりぬ。其側にある少し計りの竹藪を、【葭竹の藪】今
さしおくも形見となれや後の世に源氏栄えば葭竹となれ
斯く詠じて、竹の切口に葭を挿し給へば、忽ち竹となりける。末世の今に至ると雖も往来の諸人に見せしむ。疑ふべけんや。葉は葭にして、軸は竹なり。土地より生ふる時は、竹となりて生ふると雖も、段々成長して、葉の出づる頃に至りては、其葉全く笹にあらず。皆葭の葉なり。然るに竹藪といふものは、年数を経るに随ひ、段段と蔓るものと雖も、此葭竹の藪に限りて、曽て広く蔓る事なし。只漸く二間四方計の藪にてありける。扨又此葮竹の事は、珍しき物なりと思ひて、其傍なる家の主に乞うて、一二本も取り来りて、我が庭前抔に植うると雖も、其竹つく事なし。忽に枯れ果つるなり。乃至一丁を隔つるとも、一里を隔つるとも、敢て遠近に拘らず、其処より少しにても地を替ふる時は、更につく事なし。是又、一入の不思議といふべき事共なり。扨又牛若丸の姉、夜叉御前といふは、大墓の長者が許にありけるが、大野郡谷汲山に至るとて、平治二年二月朔日、池田郡岡島といふ所にて、株瀬川に身を投げて死し給ふなり。其処を、今に身投の淵と申伝へしとなり。扨又、青墓の後なる小山をば、
赤坂宿西の入口に、亀塚あり。是は慶長五年八月廿四日、関東の旗本野一色主殿頭、此処にて討死しける。兜首を埋めし塚なり。又笠ぬき堤の方にもあり。
加茂郡勝山村の森の中に、中納言在原行平の墓あり。行平卿は岐阜稲葉山に、暫く住し給ふとぞ。歌に、
立わかれ稲葉の山の峯に生ふる松としきかば今かへりこん
又国量の歌に、
暫しともなどか止めん不破の関稲葉の山のいなばいねとや
秋の田の稲葉の峯に吹くかぜの身にしむ葦は冬のくれまで
行平
昨日にも秋の田の面に露置きて稲葉のやまも松のしらつゆ
行平は、其後、此勝山に館を構へて、住し給ふとぞ。于㆑時寛平五癸巳年七月十一日、七十五歳にして、此処にて卒去せられけるとぞ。後の古き石塔は、数多の星霜を経りし事故に、寛保年中、村の者共、石塔を再建しけり。高さ五尺程の角石にして、正面には、正三位在原黄門行平卿の墓と記しあり。右寛平五年より寛保年中迄は、凡そ八百五十年程に及びけるなり。印に植ゑたる七本の桜木あるなり。抑行平卿と申す【 NDLJP:158】は、人皇五十一代平城天皇の皇子三品弾正尹阿保親王の御子なり。御嫡男は行平、二男兼見王、三男大僧都行慶、四男正四位上左中将業平、五男蔵人守平、次は女子なり。行平の子基平といふ。一人は女子なり。四条后清和后なり。扨此所より十町程下りて、北の方なる田の中にある大塚を、鬼の首塚といへり。是は昔、関の太郎といひし鬼の首を伐りて、桶に入れて都へ送るとて、此所迄持ち来りしに、俄に重くなりて、数百人の力に及ばざりし故に依つて、是非なく此所へ埋めけるとぞ。又桶も埋めたる故に、此所を桶縄手といふなり。是より東、松井尻の辺に右の関の太郎が住みし岩穴とて、奥の知れざる大なる岩穴あるなり、
【和泉式部の屋敷跡】御岳宿より一里程東、うとふ坂の辺、和泉式部の屋敷跡とて旧跡あるなり。又石塔もあり。和泉式部は、此所に住し給ひてありける。歌に、
夜をこめてうたふそらねに松風の心にぞしむくだかけの声
長保四壬寅年十二月、此処にて卒去せられけるといふ。抑和泉式部と申すは、人皇卅一代敏達天皇五代の孫、左大臣橘の諸兄公の子、太政大臣奈良磨、其子島田麿、其子伯耆守真趣、〈是は喜撰法師の弟なり、〉真趣の子阿波守岑範、其子播磨守仲遠、其子和泉守道貞、其子和泉式部なり。小式部内侍の妹なりと云々、
大井宿と大久手宿の間、花なし山といふ所あり。其辺なる山を、西行坂といふ。此坂中の北の方の山の上に、西行法師、庵を結びて住しありけるとぞ。其時、詠める歌に
心ある人に見せばや大井なる花なし山の春の景色を
西行は此処に住して、建永元丙寅年八月、卒去せられける。則ち庵の下に葬り、五輪の石塔を建てありぬ。抑西行法師といふは、大織冠鎌足公六代の孫、村雄の一男田原藤太秀郷の子、鎮守府将軍千常、其子相模守公光、其子公清、其子兵衛尉秀清、其子従五位下左衛門尉康清、其子佐藤兵衛尉藤原憲清といふ。禁裏北面の侍なりしが、出家して西行といふ、則ち是なり。扨此所より東へ下り、大井の宿を出で、一里程下りて、南の方の山中に、根津甚兵衛是行といふ者の墓あり。是は右大将頼朝へ仕へし諸士の内なり。正治年中の卒去といふ。同所木曽川の向に、城山あり。此所に、木曽の武士落合五郎兼行といふ者の墓あり。今社を建て、愛宕権現を勧請してあり【 NDLJP:159】けるとなり。右の外、諸墳墓所々に数多ありと雖も、悉く記し難し。余は略しけるものなり、
土岐・斎藤帰依神社の事并土岐家氏神の事 土岐氏は、清和天皇の嫡流たるに依つて、八幡宮を以て氏神とせり。依つて在城の所へ、石清水の八幡を勧請して、代々之を尊敬せり。然る所、先祖多田伊豆守国房、故ありて三熊野の権現を信仰ありて、館の辺に、必ず之を勧請す。依つて彼の子孫たる故、土岐氏、熊野の両社を以て鎮守とす。八幡は是れ応神天皇の応化にして、源家鎮護の霊神なり。三熊野は、伊弉諾・伊弉冊尊にして、我が朝洞汨男女の始闢の神なり。土岐の一流、彼の両社を尊敬して、彼の氏族居住する所には、必ず其一社を、勧請せずといふ事なし。国房嫡流居住の地には、全く彼の両社を勧請す。彼の家名永く連続して、数年当国に居住しける。故に一族の旧跡数多し。然れども庶流の面々は、又我が信仰の神社を帰依して、領地の内に勧請せしまゝ、思々にして、悉く記し難しとなり。 斎藤氏神天神社の事 斎藤氏は、大織冠鎌足公四代の孫、魚名卿より五代の末、鎮守府将軍左近将監利仁の後裔、故ありて当家は、菅神の霊を尊敬す。利仁の子孫、加賀・越前・越中に住す。所謂加賀の国、林・富樫の一類、越中の井ノ口氏、越前国の吉原・河合・斎藤の一類、皆各菅神を祭りて、氏神と崇め奉る。則ち加賀の国江沼郡敷地山の天神は、林・富樫・井ノ口・斎藤・吉原・河合家の氏神なるに依つて、今濃州にある所の斎藤氏、是又、彼の一族なる故に、少しの間にても、斎藤氏が居住せし所には、此社を勧請せずといふ事なし。所謂厚見郡・加納・岐阜・長良・武儀郡関・本巣郡文殊・北寺池田郡白樫・堀・宮地、安八郡加々野江・三井・八神・前田・各務・鏡島、其外所々に至る迄、皆是れ斎藤一族の住しける所にして、天神の社を建て、則ち之を守護としけり。斎藤数代当国に住しける故に、一族の旧跡、其数多くありて、容易く知れず。委しくは尋ね知るべし。悉く天神の社【 NDLJP:160】あり。彼の斎藤家の定紋所には、梅鉢を用ふるといふ事も、是れ氏神を信じて以て、天神の定紋を申受けて、紋となす事と見えたり。堀・前田の両家も、斎藤氏の庶流なる故に、則ち梅鉢又梅の花を以て家紋とす、然るを此紋あるを以て、先代の旧記を弁へずして、何さま前田氏・堀氏の先祖は、菅原氏なるべしと称する事、是は全く後世に至りて、誤れるものなるべし。前田氏は、則ち斎藤の一族にして、安八郡前田村に住せしを以て、氏とせり。其後、尾州に至りて、荒子の郷主となりしものなり。然るを、前田氏は菅相丞の子にして、兄を前田といひ、弟を原といひし者なりといふ事、一本に見えたりと雖も、其証拠あるべきの文を聞かず。堀氏は、又池田郡堀村に住して、後に厚見郡赤鍋村に住せし者なり。扨又当国の内にても、中頃より、梅の花の紋を付くる者多し。此等は皆、斎藤の紋を賜はりて付くるなり。扨又、爰に大野郡大洞村といふに、天神の社を、一郷の総社として、其郷士に、梅鉢の紋を付くる者ありて、民俗のいふには、彼の郷士は、梅鉢を付くるに依つて鎮守と一つなりなどと申はやせり。同じ事の様なりと雖も、是は全く斎藤の一族にあらじ。或人、其郷士の家に行きて、其謂れを聞きしに、彼の大洞といふ村は、今の牛洞村とを、二つを一つにしたる地にして。洞ヶ里といひしとかや。其先祖加州の住人林の一族、山岸新左衛門光章といふ者、暦応の頃、当国に落ち来りけるが、右五代の孫、山岸加賀守光範といひけるが、長禄三年巳三月、始めて此洞ヶ里に住しけるといふ。彼の郷士は、則ち山岸氏にして、加賀守光範の末流なりといへり。則ち先代より当地に住し、いつの時にか、此天神の社を勧請し、之を氏神として、一郷の総社に崇め奉るなり。家紋又、天神を信ずる故に、之を用ひたりと申しける。是を以て按ずるに、山岸氏は、斎藤の一族にはあらずと雖も、其先祖は、利仁将軍にして、倶に菅神を信ずるの一類なる故に、其謂れ、全く斎藤と異なる所なしといふ。是等を以て見る時は、堀・前田が梅鉢を用ふるも、此一儀と同然たるべし。山岸氏は、其本義を取違へざる者なり。前田・堀は、先祖の鎌足と、氏神の菅相丞と、取違へたる事と見えたり。 霊葉山正法寺の事【 NDLJP:161】厚見郡川手の正法寺は、土岐氏の建立なり。元来土岐氏先祖、代々天台宗にして、本巣郡大日山美江寺〈美江寺村といふ〉の檀越にてありけるが、土岐伯耆守頼貞、始めて禅法に帰依して、土岐郡の内に、数ヶ所の禅刹を建立して、之を則ち氏寺とせり。然る所、其子弾正少弼頼遠、建武四年の春、厚見郡長森の城を構へて以来、甥の大膳大夫頼康代に至り、文和二癸巳年四月、厚見郡川手の城下に、三つの伽藍を建立して、則ち霊葉山正法寺と号す。土岐家一類の氏寺にして、地面高く、寺建廿八間四面ありて、次第に繁昌し、寺務豊にて、国中無双の梵刹なり。開山夢窻国師の法孫にて、難桂正栄和尚と申すなり。又諡は、大医禅師なり。抑夢窻国師と申すは、京都霊亀山天籠寺〈五山の第一の寺なり〉 の開山にして、諱は智曜と申し、又は疎石とも号し、或は木納叟とも称せしなり。其生れ、勢州の人といふ。姓は近江源氏にして、宇多天皇九世の孫なり。母は観世音に祈りて、金色の光、西より来るを呑むよと夢見て姙し、十三月にして誕生す。時に後宇多院の御宇、建治元乙亥年八月朔日なり。四歳にて母に後れ、九歳の時、平塩教院に至り出家し、十歳にして、法華経を七ヶ日に誦し、母の恩に報じ、自ら母の死屍九変の相を画いて、独座観想し、十八歳に至り、慈観律師に礼拝して、具足戒を受け、三ヶ年の間、顕密の教を習ひしかども、猶も大道の発明に足らずとて、道場を建て、百ヶ日聖慮を求められしに、期満の日過ぎて、座中忙然として、夢の如く覚え、一僧来り、夢窻を引きて一寺に至る。寺を疎石といふ。又一寺に至る。之を石頭といふ。其内に一人の長老あり、夢窻を迎へて、持ちたる一軸を与へて、能く捧持し給へといひ、覚めての後、夢窻之を開き見るに、達磨半身の画像なり。夫より志を定め、禅観に帰し、名を疎石と改め、字を夢窻といふなり。後、国師の号を賜ふ。于㆑時観応二辛卯年九月晦日、七十七歳にして寂せられけるとなり。扨正法寺は、是より土岐氏代々の氏寺として、寺務賑かにして繁栄し、天文・弘治・永禄の頃迄も、法流相続し、伽藍も恙なかりける。尾州の織田信長、斎藤道三と、甥舅の契を結びて後、此処迄信長来臨ありて、天文十八年西四月廿九日、道三は、始めて対面をせられけるは、則ち此正法寺にての事なり。時に永禄四辛酉年六月十一日、斎藤左京大夫義龍病死しけるにぞ、時節や能しと思ひけん、織田信長、其弊に乗じて、同七甲子年九月大軍を催し、稲【 NDLJP:162】葉山の城を攻立つる。其時、岐阜の東西南北を、悉く放火して焼捨つる。此時正法寺も、彼の兵火の為に焼亡されけるが、是より当国は、信長の守護となりけるが、其後再興に及ばずして、荒墟となり果てたりぬ。左京兆義龍、法名霊岸玄龍大居士。〈永禄四年辛酉六月十一日。〉
本巣郡大日山美江寺の事 当寺の本尊観世音は、国中無双の霊仏なり。往昔伊賀国より、当国本巣郡十六条の里へ移り給ひ、毒蛇を退治して、東山道の往還を安からしめ給ひてより、人皇四十四代元正天皇の勅願所として、養老三年己未九月に、始めて彼の寺を建立ありけるとなり。則ち天台宗なり。夫より以来、数百年の星霜を経ると雖も、退転の事なく、仏意冥慮に叶ひしや、法流栄え相続しける。右養老年中より、四百六十余ヶ年程過ぎての後、右大将頼朝卿の御代、文治元丁巳年、定家卿、船木の山庄より日参せられけるが、其後、左兵衛尉則重に仰せて、文治二丙午年二月、寺院堂塔を再興なして、廓を寺領に寄附せられにける。之を即ち船木の庄といふなり。扨又、土岐氏は、先祖美濃守国房より、代々当寺に帰依して、数ヶ所の庄園を寄附せり。元応二庚申年四月、土岐頼貞より、安八郡落合・斎田の二郷を寄附す。又左京大夫持益は、文明二庚寅年二月、当寺に於て落髪して、法名を道賢といふ。死去の後、程経て文亀の頃孫の政房の代に至り、一宇を建立す。道賢院と号す、則ち是なり。持益の子、美濃守成頼の代に至り、永正五年の頃、其臣和田佐渡守義繁に命じて、諸堂并に塔頭廿四院を再興せり。和田は則ち美江寺の守護職なり。然るに、佐渡守が子和田将監義直、相続いて之を守りける所、天文十一壬寅年九月三日の夜、甲州の武田信玄の軍勢乱入して、火を懸くるに依つて、和田は、居城を焼落さるゝ。然る故、に和田滅亡の後は守護の入らざる地と号して、当国他国の賊徒等一揆共、悉く当寺に集り住所となし、人民を悩まし、往来の通路を塞ぎなどして、動もすれば、岐阜を犯さんとしけり。依つて、守護職斎藤義龍、之を退治するに、堪へ兼ねて、永禄元年の夏に、寺院堂塔を破却して、観世音を岐阜に移し、今泉村に一宇を営み、是に安置せり。本巣郡十六条村といふは、今の美江寺村【 NDLJP:163】のことなるべし。 西の庄の立政寺の事 厚見郡西の庄村の立政寺の事は、昔、智通和尚の開基にして、打籠庵といひしを、後光厳院の御宇、文和二癸巳年十月、改めて一寺に建立し、亀甲山立政寺と号す。其後より、代々の帝王の勅願所と号して、寺務賑にして山威高し。後小松院の御宇に、紫の衣を勅許せらる。又大和尚の位を賜はりて、智通一派の本寺とす。永禄十一年の秋、足利新公方義昭公、信長の請待に依つて、当寺に暫く御滞留。又関ヶ原御陣の時、当寺の和尚、柿を以て家康公に献ず。はや大垣が手に入りしと仰せて悦び給ひ、其御礼状を賜ふ。今に立政寺にありぬ。然れども此寺は、土岐家の由緒の寺にあらざる故、余は之を略せり。 鏡島村梅之寺・乙津寺の事 厚見郡鏡島村の梅之寺といふは、其昔は、乙津寺と号して此処は則ち七里の渡海の大湊にてありし故に、船付大明神を以て鎮守とす。其後、一寺に点ぜり。此寺一派の本寺にして、土岐・斎藤の両家、殊に之を帰依して、数ヶ所の庄園を寄附せり。は、宗別に見えたり。当村院内、悉く梅樹を植ゑたり。故に梅之寺と号す。按ずるに、斎藤家信仰の一寺と見えたり。信長御入国の後も、尤寺務繁く、双もなく栄えたりぬ。然るに信長公は、元来仏法を嫌ひ給ひて、所々にて寺院仏閣を数多破却し給ひけれども、故ありて、当寺をのみ甚だ尊敬し給ひ、別して当山の梅を愛し給ひ、則ち之を分けて、江州安土並に京都妙心寺抔に移し給ひけるなり。依つて其寺威甚だしく、勅願所にも異ならず。然る所、天正十年六月二日、、信長生害し給ひてより、此寺の威勢も薄くなりけるといふ。其後、文禄二年癸巳閏五月、秀吉より、寺領の御朱印を改正せられけるとぞ。 厚見郡瑞龍寺の事【 NDLJP:164】当寺は、斎藤帯刀左衛門尉利藤人道大年居士の建立の地なり。大年居士は、悟渓和尚に帰依して、外護の檀越なり。応仁元丁亥年八月、天台の旧跡を点じて、此処に一宇の伽藍を建立して、主君美濃守成頼の菩提所とす。土岐氏は、近代相国寺派にて、川手の正法寺の檀那なりけるが、成頼一人、関山派に帰依して、数ヶ所の庄園を、彼寺に寄附せられたり。寄進状は宗別にあり。美濃守政房、父成頼の為めに、法事を勤めらるゝ節は、皆川手の正法寺にて勤められたり。政房の子左京大夫頼芸も、相続いて正法寺にて法事を勤めらる。然る所、天文十三年辰八月、織田備後守信秀、斎藤を攻討たんと欲して、大軍を率して、美濃国に乱入し、先手の大将織田与次郎実近と、道三と、瑞龍寺の西南の広野にて、大に相戦ふ。此時信秀は、岐阜の日方より、四方の民家に火をかけて、攻寄せける故に、瑞龍寺方丈も堂塔も、残らず此兵火の為に焼亡しける。然りと雖も猶断絶なく、法流繁栄して、悟渓一派の本寺にてありけるなり。又大年居士、外に一宇を建立して、位牌所とせり。今の開善院是なり。土岐成頼、法名瑞龍寺殿前左京兆国文安公大禅定門。〈明応六巳年四月二日、正法寺にて卒去。五十七歳といふ。〉
加納の大宝寺の事 厚見郡加納の大宝寺は、斎藤利勝が嫡子、新四郎利国入道一超公性僧都、明応三寅年、始めて之を建立し、同十二月に開堂なり。悟渓和尚を請じて開山となし、其後は、奥山和尚をして、是に居らしめける。開堂の日に当りて、利国、入道して、一超妙純と号す。或は公性とも号するなり。其家臣、石丸利光との合戦は、委しく船田乱記に見えたり。略㆑之畢。 岐阜の崇福寺の事 厚見郡岐阜長良の崇福寺は、後土御門院の御宇、文明元己丑年二月、利藤の舎弟斎藤左金吾利安、自らの居所を点じて、一寺を建立する所なり。文明二庚寅年四月十五日開堂たり。然るに当寺は、元来利安が館にてありける故なりしかども、或時、山【 NDLJP:165】神の告あるに依つて、館を点じて寺となしける事故に、神護山崇福寺と号するなり。利安の子長井豊後守利隆、相続いて当寺の檀越なり。然るに、利隆の二男長井藤左衛門尉長張は、先代より、池田郡白樫といふ所に居城を構へ、是に住してありけるが、利隆の嫡子長井利親儀、明応五年の十二月、蒲生下野守貞秀入道知閑と、江州蒲生郡日野の中野にて戦死しける。其後、利親の子勝千代と申しけるが、幼少なるに依つて、長張則ち後見の為め、本巣郡の内に要害を構へて、稲葉山の麓、瑞龍寺の西北の谷の間に、新館を構へて是に住し、国中の政務を執行ひける。然る所、享禄三年正月十三日、家臣西村勘九郎正利〈道三が事なり〉が為に、長張は、夫婦共に生害しける。法名桂岳宗昌と号す。妻の法名、法林宗珠と号す。則ち位牌は、右崇福寺に立てありぬ。又稲葉伊予守良通も、幼少の頃は、出家にして当寺に住し、崇福寺の喝食と号してありけるなり。扨又、長井長張が住したりし谷間の新館の跡は、後代迄相残りてありける所、近年此地に、一向宗の坊舎を建立して、本願寺の談議所としけり。俗呼びて、此地を今長井洞と号するなり。扨又崇福寺は、天文二年の頃、公命に依つて、此寺を山県郡大桑の城下に移しける。然るに又、同十六年の秋、大桑の城断絶の後、再び長良に移し替して、寺院長久たりとぞ。 鷲林山常在寺の事 斎藤帯刀左衛門尉〈或越前守〉利永宗甫迄は、禅法を崇敬して之を信じ、利永左京の中は、日峯和尚に参禅し、在国中は、雲谷和尚に帰依して、直指心印を得て、武儀郡汾陽寺といふ一寺を建立して、氏寺としける。其子帯刀左衛門利藤、相続いて土岐氏の執権職として、国中の政務を執行せり。然るに利藤は、嘉吉年中より、日蓮宗に帰依して、川手の府に、持是院を建立して、其身晩年には、則ち自分此院に住居し、政務を嫡子新四郎利国に相譲りける。文明五年に、一条兼良公の筆額を求めて、法城といへり。此兼良公は、本巣郡文殊里に居住ありける。其時の歌に、船木山糸ぬき川の川上に今日はつくりて明日やきの里
船木といふは、文殊村の事なり。〈当時、戸田孫十郎陣屋なり。〉是は定家卿の旧館の跡なり。此定家【 NDLJP:166】卿、一年下向し給うて、軽海の里岡野を通り、若宮を拝し給うて、
若宮のもみぢ散りしく岡の原にしき争ふあこめくさかな
文殊に着き給ひて、
いかなれば船木の山の紅葉は秋はふくれど焦れざりけり
右、名所集記に見えたり。
扨利藤入道して、法名持全院妙桂と号す。権大僧都法印の僧綱を受けて、経外には禅法を信じ、内には妙経を持して、其後は、嫡家代々妙全に至る迄、皆当宗に帰依せり。宝徳三庚午年三月、京都より、妙覚寺の住持世尊院日範僧都を請じて、厚見郡岐阜山下今泉村に一宇を建立し、鷲林山常在寺と号す。寛正六乙酉年八月に、一条関白兼良公の額を求め、寺号を賜はるなり。第二世は、蓮法院日審上人、妙覚寺の住持たりしを、文明十一己亥年三月、妙椿僧都より招請せり。同十二庚子年二月廿一日、妙椿逝去せり。法号を開善院権大僧都大年妙手椿公居士といへり。百ヶ日追福の為めに、令嗣の志を以て、嫡子利国、祖師の像を造立して、当寺に安置せり。明応七戊午年十二月七日、大献紹興大徳の第三囘忌追福の為に、令嗣勝千代より、妙覚寺の日護上人を迎へて、法事を相勤め、即ち当寺三世の住職とす。永正三丙子年二月、本山妙覚寺の日善上人の弟子日運上人を、長井豊後守利隆より請じて、四世の住職とせり。然るに此日運上人と申すは、長井豊後守利隆が舎弟にて、幼少より京都に登りて、日善上人に随身し、学は顕密の奥旨を極め、弁舌は富楼那にも劣らず、近代の名僧なり。始めは其名を南陽房といへり。又其頃、日善上人の嫡弟に、法蓮房といふあり。是は上北面松波左近将監藤原基宗が子にして、山城の国西の岡の者なりしが、内外を能く悟り、南陽房を常に引廻しけるとなり。或時、如何なる心か付きけん、三衣を脱ぎて還俗し、西の岡に住し、奈良屋某が娘を娶りて、彼の家名を改め、山崎屋と号し、後に松波庄五郎と名乗りて、毎年美濃国に来り、油を売りけるが、常在寺の日運上人吹挙に依つて、斎藤家へ出入をさせられ、斎藤・長井の得意となれり。此男、出家の中にも、遊山翫水を好みける故、乱舞歌曲に堪能なりし故に、其頃の執権長井藤左衛門長張、之を請ずる事限りなし。大守頼芸も、其行跡妄にして、酒宴遊興を好み【 NDLJP:167】給ふ故に、藤左衛門折を以て、大守へ目見えさせしが、大守の寵愛又甚しく、長井が家老西村三郎左衛門が遺跡を継がしめて、西村勘九郎といふ。其後、主人長井が行跡正しからざるを見て、享禄三年正月十三日、岐阜に於て、長井を夫婦共害し、自分長井新九郎正利と名乗りける。是に依つて、長井・斎藤が一族共大に怒りて、急に押寄せ討取らんとせしに、正利は密に館を出でて、大守の方へ逃参りける。長井が一類共、大守に申受けて、首を刎ねんと憤りけるを、常在寺の日運上人、昔を思ひ不便を加へ、大守へ願ひ申して、長井の一類と和睦させ、大守よりの内通ありし故に、江州より、佐々木義秀来りて、向後遺恨なきやうにとて、烏帽子親になりて、秀の一字を与へて、秀龍と名乗らせける。然るに此時、長張の幼子一人ありけるが、勘九郎是より親分になり、後見致し、成長の後は、執権の家を相続さすべきに相極め、此訳に依つて、長井新九郎秀龍と名乗りける。然れども継がせざりける。此幼子成長して、長井隼人正道利とて、関の城主なり。秀龍は、日運上人には、古の恩あるに依つて、我が代に至りてより、寺院を修造し、数ヶ所の庄園を別状に寄附し、猶又、子供を二人出家させて、日運の弟子とせり。常在寺第五世の住職日饒上人、第六世日覚上人是なり。義龍、又龍興も尊敬ありける庫裏・方丈・鐘楼・堂塔頭に至る迄、金銀珠玉を鏤め造立しぬ。正法寺領厚見郡領下村・竹腰領・日野領・清水領・芥見領・那波領・昼飯村・西海寺領三宅村にて、寺領五百貫文寄附す。其後、日韵上人の代迄、恙なかりしを、信長公御入城の時、寺領を召上げられしが、又日野村にて、百貫賜はりける。天正十一年、信孝岐阜を没落の時の兵火にて、朱印を焼失しける。秀信は、朱印を賜はらざれども、寺領は相違なく賜はりけり。慶長五年秀信卿御生害の後より、寺領断絶しける。今残る物とては、道三の画像と、義龍の容像のみなり。道三の絵像は、信長公の北の方の御寄進なり。義龍の真影は、龍興の寄進なり。本尊文殊菩薩は、前の左金吾利安の建立なり。本巣郡文殊堂の本尊なり。永禄年中、文殊の要害を攻めし時の兵火にて焼却し、堂舎断絶しける故に、斎藤家の由緒を以て、当寺に安置す。文殊堂・法輪寺等永く断絶の後、天正十一年、信孝落去の時、本尊薬師焼失し、此節より、文殊を本尊としけるなり。右の外、諸仏堂塔の旧記、数多ありと雖も、悉く記し難し。余は之を【 NDLJP:168】略し畢。
美濃国諸旧記巻之十終この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。