美濃国諸旧記/巻之四
信昌の内室は、加納殿と号して、将軍家の御長女なり。寛永二乙巳年逝去せらる。法名盛徳院殿香林急雲大姉。
信昌の嫡子、氏を改め、加納二代目松平摂津守忠政といふ。慶長十九甲寅年十月二日逝去。法名光国院殿前摂州大守雄山英公大居士。
信昌の二男加納三代目松平飛駅守忠隆、寛永九壬申年正月五日逝去。法名実相院殿前駅州大守大林功公大禅定門。此年より大久保加賀守長重、是に住す。同十六乙卯年より、松平丹波守藤原光重に賜はり、居住なり。
厚見郡鏡島の城の事附安藤氏の事【鏡島城】当城は、橘姓の嫡流関東の武士平山左衛門尉橘季重三代の孫、花城冠者頼綱、建暦三酉年和田合戦の後、当国に落ち来り、稲葉山の城主伊賀三郎左衛門尉光資へ好あるの故に、則ち此鏡島の地へ要害を構へ、建保二戌年五月、始めて是に移り住す。是より氏を改め、鏡島左衛門尉頼綱と号す。頼綱、実は右大将頼朝の胤子なり。母は於亀の前といふ。美女にして、鎌倉殿の愛妾なり。子孫代々当国に住し、後には土岐氏【 NDLJP:58】の幕下となりぬ。扨頼綱は、其後承久三年六月、後鳥羽院の御味方に与力し、一方の大将を承り、関東の大軍と戦ひ、同七日、当城にて生害す。【鏡島頼綱自尽】是より久しく当城主断絶して、なかりける所、寛正二辛巳年、斎藤帯刀左衛門利藤、当城を改築し、少しの間是に住す。夫より後は、土岐氏代々の旧臣安藤氏の居城とす。安藤民部藤原守利、永正元甲子年より是に住す。其子伊賀伊賀守〈始日向守〉守就入道道足、是に住す。守利の二男五左衛門尉守宗は、土岐氏の砦の城、軽海の要害に住せしが、守就・守宗兄弟、共に信長公に随ひ、元亀二辛未年五月、信長公、勢州長島の一揆を征伐の為め、彼の城へ御出馬ありけるが、一戦利なくして、味方退陣の所、敵徒等に追詰められ、難戦して、五左衛門守宗は、同十二日の夜多芸郡太田村七屋敷といふ所にて、氏家十全と一所に討死す。時に守宗、四十九歳なり。其舎弟七郎左衛門尉守之は、本巣郡芝原の北方の要害を自ら構へて、天文廿三年の春より是に住す。又同じ分れの国枝大和守守房は、池田郡本郷村に住す。明応四卯年七月五日卒去。法名前和州大守宗捧禅定門。同じく加藤左衛門尉光長は、方県郡頼嗣の、黒野の城に住す。是れ皆藤原守長卿の末孫にして、土岐氏の守臣なり。安藤伊賀守守就の子、同太郎左衛門〈後伊賀守〉尚就といふ。二男七郎左衛門尚重といふ。道足の弟に、瑞の蔵主尚龍といふあり。太郎左衛門尚就の子を、忠次郎尚政といふなり。然るに安藤伊賀守守就、代々土岐氏の旧臣にして、其後義龍・龍興に至りて相属しける所、永禄七年の春、稲葉・氏家・不破・安藤、右の四人衆、倶に変心して、信長公に属す。依つて相続いて当城に住しける所、安藤は、天正の始に心変りして、武田信玄に内通せり。信長怒り給ひ、攻亡すべきの御支度なりしかば、安藤守就、叶はざるを察して、罪を陳じて降参す。故に信長公、其罪を赦免せられ、元の如く差置かれけるが、元来信長公は、心に狐疑深く、少しにても心に懸けられし事は、腹黒にして、年久しく経ると雖も、忘れ給はずして、終には其胸を散らし給ふ心なり。是に依つて伊賀守守就、武田に内通の不埒の儀、一旦其儘に差置かれ、終に其沙汰なかりしに、天正八年に至り、旧悪のありし面々、佐久間右衛門尉信盛父子・林佐渡守通豊・安藤伊賀守等所領を召上げられ、追放仰付けられける。是に依つて、安藤も同年三月廿日、当城を改易せられ、住慣れし旧地を立出で、北山に落入り、身を【 NDLJP:59】隠して入道し、道足と改め蟄居せり。其後、天正十年六月二日、信長公生害の後、御子信雄・信孝・孫の秀信三人家督の儀に付、柴田修理亮勝家と、羽柴筑前守秀吉と確執たり。神戸三七郎信孝は、岐阜の城に在住し、柴田勝家是に組して、羽柴秀吉と合戦す。時に天正十一未年四月十七日。安藤伊賀守守就入道道足は、信孝に組して、北山より本巣郡に出張して、北山の要害に楯籠る。是に依つて、羽柴秀吉の味方稲葉伊予守通朝入道一鉄斎儀は、元来安藤とは旧友たりと雖も、其中不和なるの故に、今度安藤を退治として、大野郡清水の城より出張して、富田村に要害を構へ、安藤と対陣す。一鉄斎の嫡子右京亮貞通は、曽根の城より出陣して、同じく富田村の要害に陣を取る。稲葉が家臣稲葉長左衛門・加納悦右衛門等は、本巣郡本田村の要害に在りて打出づる。同郡見延村の柵よりは、原掃部亮打出づる。扨斯の如く、北方の要害を諸方より差挟みて、一同に攻立つる。同四月十七日の宵より合戦を始め、入乱れて戦ひける。一鉄は富田の要害に在りて、郎等江崎六郎左衛門を馳せて下知を伝へ、攻立てければ、稲葉左近・加納悦右衛門・其子雅楽・山本六郎右衛門等一陣に進み、粉骨を尽し戦ひける。北方にては、安藤伊賀守守就入道、八十有余の老功の士にして、軍場に練りたる勇士なりしに、子息舎弟、父兄に劣らぬ輩なれば、多勢に臆せず、自ら真先に進み、士卒を下知して、爰を先途と挑み戦ひける。是に依つて稲葉が先手稲葉左近・加納雅楽・山本六郎右衛門等、多勢に取込められ討死しける。是に依つて、稲葉が勢乱れんとしければ、須藤権右衛門・石丸権六郎・山岸権左衛門等、一人当千の勇士等口惜しく思ひ、乱るゝ味方を励まし、命を捨てゝ攻戦ひければ、安藤道足・伊賀守尚就・其子忠次郎尚政父子孫、并に道足の二男七郎左衛門尚重・道足の弟瑞の蔵主尚龍、并に家老松田雁助就行・岡八兵衛友久等を始めとして七百余人、三段に備へ防ぎ戦ひ、既に四月十七日の宵より、翌十八日の午の刻迄、追ひつ返しつ、火花を散らして戦ひけるが、安藤が兵士も、百五十余人討死しける。稲葉が兵も、二百余人討死しけるが、元来稲葉多勢なるが故に、新手を入替へ、息をも継がせず攻戦ひける。安藤が勢微にして、一昼夜の戦に兵労れ、救ふべき勢もなかりければ、爰に於て苦戦となり、道足も討死と覚悟を極め、自ら鑓を追取り、稲葉が勢に突いて懸り、敵を五六騎突いて落し、六人【 NDLJP:60】に手を負はせけるを、稲葉が郎等村瀬大隅、并に弟古田五郎兵衛両人、各鑓を持つて、左右より突いて懸るを、道足、二人を、弓手馬手に引受け戦ひ、老人といひ腕弱り、古田が突く鑓を受損じ、弓手の脇をしたゝかに突かれ、馬上に怺へず落つる所を、村瀬大隅飛懸りて、終に首を取つたりける。【安藤道足討たる】道足、行年八十四歳なり。道足が舎弟瑞の蔵主尚龍も大に働き、兵士二人迄討取りしが、終に村瀬大隅と渡り合ひ討たれける。道足の二男七郎左衛門尚重は、隠れなき大力量の勇士にて、二間半の大身の鑓を持つて、稲葉が兵を十四人突伏せ、猶も勇を振ひて戦ひけるを、武藤小左衛門・遠山作之丞両人、之を討たんとして渡り合ひ、暫し戦ひあひけるが、尚重が剛勇の鑓〈郷渡城又猪右衛門ともいふ。〉後、対馬守といふは、是なりとかや。
郷渡の駅古城の事 方県郡郷渡の城は、古、堀河院の御宇永長年中、美濃四郎義仲といふ者、始めて此地に、一城を築きて住しけると云々。此義仲といふは、加茂二郎源の義綱の四男なり。義綱は、伊予守源頼義の次男にして、八幡太郎義家の弟なり。長久二辛巳年八月朔日、河内の国香呂峯にて生る。童名源次丸といふ。母は平直方の娘なり。父頼義の遺言に依て、永承四己丑年正月七日、加茂の社に参詣し、明神の氏族に奇附し奉り、宝前に於て元服させ、則ち氏を改め、加茂二郎義綱と号す。武勇に勝れ、強弓の達人たり。奥州前九年の戦に、僅十歳にて、兄義家と倶に、父頼義に従ひ、彼の国に下向し、安部の貞任と戦ひ武功あり。其後、承暦三己未年より、正五位下美濃守に任じて、州の守護職となり、同年八月十二日当国に移り、則ち岐阜の城に住居す。其後天仁二己丑年八月、悪名を蒙りし事ありて、陰謀を企て、江州甲賀山に楯籠りけるが、陸奥四郎為義の為に攻破られ、降参して佐渡の国に配流せられ畢。此義綱に、六人の男子あり。嫡子加茂太郎院判官代義弘といふ。当国筵田郡の府に住す。天仁二年八月廿七日、江州甲賀山にて討死す。二男美濃次郎義明といふ。池田郡青柳に住す。腰の滝口大夫季賢が館に於て討死す。三男を、宮三郎義俊といふ。是も池田郡に住す。義弘同時に討死す。四男則ち四郎義仲也。甲賀山籠城の砌は、他に在りて之を知らず。故に其企に組せず。其後、剃髪して貞山と号し、厚見郡今泉村に住す。大治五年十月二日卒去。五男美濃五郎義範といふ。大野郡結城に住す。【 NDLJP:63】甲賀山にて討死す。六男宮ノ冠者義公といふ。本巣郡生津に住す。扨郷渡は、四郎義仲退兵の後、断絶しける所、程経て承久の戦の砌に至て、江州佐々木の一族鏡右衛門尉久綱、院方に組し奉りて、大井の渡に馳向ひ、攻上る所の関東の大軍を防ぎ戦ひけるが、小勢にして勝つ事能はず。大井の渡に破れてより、郷渡に退きて、再び戦ひ畢。然れども院方利あらざるに依て、諸兵悉く逃散す。然りと雖も、久綱一人曽て退散せず、郷渡の渡にて烈しく戦ひ、我が姓名を旗の表に記して、要害の内に建立して、其後、本丸に於て自害したりける。是に依つて、郷渡の城は断絶したり畢。然れども、東山道往来の駅路たるに依つて、地銘繁賑は衰へざりける。其後、遥年数を経て、文明の頃に至り斎藤が持城になりける所、又程過て、永禄五戊年五月より、井戸十郎兵衛頼重後、斎助とといふ者、是に住す。此井戸頼重は、奥州の出産にして、当国へ来り住す。後には織田信長の幕下となりて、廿一年此城に在住せり。然る所、天正十壬午年六月二日、信長公、京都本能寺にて御生害ありけるが、其後程なく、天下の政事、羽柴秀吉の執に寄せり。然れども井戸頼重は、何方へも出仕せずしてありける。〈一説に、頼重の父頼利、奥州より来るといへり。〉頼利の嫡子井戸若狭守利兼、二男斎藤頼重、三男監物といふ。和州郡山の主筒井法印順慶に仕へり。若狭守が一子井戸左馬助利政といふ。明智日向守光秀の姪聟にして、則ち光秀に随ひ、天正十年の頃は、山城の国宇治都槙島の城に住せり。光秀滅亡の後は、細川与一郎忠興〈是又、光秀の聟なり〉の客分となりて、丹後の国田辺に在りけるが、其子新右衛門と申しけるを、徳川家に召出され、御旗本に候しける。井戸美濃守といふ。〈屋敷、愛宕下にあり。〉井戸斎助は、信長卒去の後出仕せず、郷渡に籠居して在りける所、元来曽根の城主稲葉伊予入道一鉄斎は、常に其中、不和にてありける。是に依つて伊予入道は、羽柴秀吉に属して、其下知と号し、天正十一年の七月廿七日、居城安八郡曽根より出陣して、多勢を以て取懸り、一戦に郷渡の城を攻取りける。是に依つて当城は、稲葉の持城となせり。尤此頃一鉄斎は、曽根の城を本城として、是には嫡子右京亮貞通を住せしめ、其身は、大野郡の清水の地城に居住なり。尤貞通は、天正十年より、暫く大野郡揖斐の城にも在住しけるなり。扨二男彦六、三男右近、四男作右衛門此三人を、郷渡の城に入れて守らしめ畢。曽根・郷【 NDLJP:64】渡・鏡島等の三ヶ所の城共、程遠からず、相隣りての在城たり。一鉄斎は、天正十八年に、郡上郡八幡の城へ移る。其後、秀吉逝去の後、江戸将軍家に帰服し、慶長五年に、豊後国臼木の城を賜はり、是に移る。然れども、一鉄斎は、当国に止まり、清水村の北なる長良山に隠居す。嫡子右京亮貞通は、其後、国に移りぬ。彦六は、早世す。右近は、東美濃七組山の村下に住居す。是よりは郷渡の城は、家老林宗兵衛正三に守らせける。此宗兵衛は、〈稲葉丹後守が事なり、〉始め七郎右衛門というて、本巣郡十八条村の出産にして、稲葉右京亮貞通の妹聟なり。宗兵衛は、林駿河守通政入道道慶の二男なり。兄を林市助玄蕃亮長正といふ。又通政は、林右近大夫越智通忠の子なり。先代は、大野郡清水に住しけるが、左近代より、十八条村の城主なりと云々。玄蕃長正は、十七条村の住人たり。当国高須に住せしといふ事、誤なり。林宗兵衛は、其後、江戸将軍に仕へ、稲葉内匠と改名せり。其子稲葉佐渡守正成といふ。関東の大名たり。扨郷渡の城は、文禄・慶長の頃より頽破しける。慶長八卯年の秋、石垣を崩し堀を毀ちて、終に破却せられ畢。此城、家中居屋敷の所、南表は堀切の川なり。尤タ部ヶ池の流れ迄相続けり。北は寺田村の境なり。東は大川、西は日詰の橋切なり。城の天守台、二十間四方にして、常の住居の台の西にあり。上河辺村の里人の住居は外にあり。井戸十郎兵衛は、三百貫の小知なり。〈二千四百石なり。〉稲葉右京亮は二万石にして、曽根の割地なり。此城構は、井戸頼重が身上には相違に見えたり。又井戸氏の知行は、方県郡鵜飼の黒野の城主加藤左衛門景泰に奪はれ、漸く城を守るの由。然る所、一鉄斎持城として、殿中の修理等増補せし故に、一城の名を得たるとなり。 本巣郡【軽海城】本巣郡軽海の城の事、此城地は、元祖加留見中納言長勝卿旧館の地なり。長勝卿は、安八郡中川の加納村にて逝去なり。今軽海村の長勝寺といふは、此古跡なり。其後は、朝倉太郎太夫高清住しけるが、其砌、軽海の里に、高清、天台宗長翁院香柳寺を建立しける歌に、
五月雨に蛍集まり飛ぶ池に風こそ匂ふ香は柳寺【 NDLJP:65】其後高清は、甲州へうつりぬ。越前の朝倉氏は、高清の末流なり。右の寺は、永禄七年、織田・斎藤との兵火の為にて、本尊・縁記・重器等残らず焼失して、再興なし。此軽海の地は、数度の戦場たり。永禄五年の五月廿三日の夜合戦に、織田勘解由左衛門信益の討死しけるも、此の所なり。扨又朝倉氏といふは、人皇卅七代孝徳天皇の御子表米の宮といふ。天智天皇の御宇、異賊襲ひ来るの時、防戦として、表米王に、日下部の姓を賜はる。其子荒島といふ。但馬国の大守として、朝米郡に住し給ひ。日下部氏の大祖たり。荒島の子治良、其子国良、其子国守、其子乙長、其子磯主、其子貞禰十七代の後胤、朝倉又四郎高繁、其長子太郎太夫高清なり。其子朝倉右衛門督広景といふ。足利尾張守高経の臣となり、越前に住す。広景五代の孫教景、其子孫次郎家景、其子弾正左衛門敏景入道英林といふ。戦功あるに依つて、義政将軍より越前を賜はり、足羽郡〈或は、大野郡〉一条谷に城を築き、文明三辛卯年五月廿一日、黒丸の城より、始めて是に移住す。同十三年丑年七月廿六日卒す。法名宗雄。其子弾正忠氏景、同十八午年卒す。廿八歳。其子左衛門尉貞景、永正九壬申年三月廿五日卒す。其子弾正左衛門孝景、其子左衛門督義景なり。天正元癸酉年八月、朝倉義景・浅井長政・土岐龍興右の三家、織田信長の為に滅亡して、子孫断絶せり。朝倉家は、越前の事なれども、高清一代、当国軽海の里に住する故に、是に記せり。扨軽海の里は、其後、土岐氏より要害を構へて、稲葉七郎越智通高、康暦元年十二月、始めて是に住す。是より稲葉数代、当城主たり。通高の子通兼、其子左衛門通祐、其子備中守通以入道元塵といふ。稲葉元塵の老国記にも、我が館は、糸貫・六種の二川を請じて要害とすと記せり。元塵の歌に、
岡の原松の下草霜枯れてすみかや虫の声も淋しき
元塵代に至り、応仁二戊子年の秋、御座野の里遠見山に要害を構へて、是に移り住す。子孫繁昌して、所々に住せり。元塵の子稲葉伊予守通富、法名塩塵、其子備中宇通則、其六男伊予守通朝入道一鉄斎なり、扨其後、軽海の城は、六十余年、明城にてありけるを、其後、天文十一壬寅年三月より、安藤伊賀守守就の舎弟五左衛門守宗、是に住す。然る所、元亀元年五月十二日の夜、太田村の七屋敷といふ所にて、勢州長島【 NDLJP:66】の一揆と戦ひ、氏家常陸介と倶に討死しける。是に依つて、以後当城主断絶なり。扨又同所西の城は、松波庄五郎、大永五年の春、始めて是に住す。其後、文殊村の祐向山に移り住せり。其後、西の城へは、永禄三庚申年より、片桐半右衛門、要害を改め是に住す。後に片桐は、池田勝三郎信輝の臣となる。片桐縫殿助為春の子にして、助作且元が従弟なり。天正十五年の夏、半右衛門は、安八郡池尻村の城へ移りぬ。同十七丑年三月より、一柳伊豆守越智直季、西の城に住せり。翌十八庚寅年、相州小田原の北条氏直攻の合戦の時、直季は太閤に随ひ、小田原山中の城にて討死しける。是より。城主断絶なり。直季は、軽海にて六万石余なり。尤直季、始めは岐阜の今泉にて成長しける。童名を市助といふ。伊豆守討死の後、舎弟四郎右衛門直盛といふを、太閤より召出され、尾州黒田の城を賜はりて、三万五千石を領するなり。後に監物と改名す。其子一柳丹後守直重、二男美作守直家、三男蔵人直家といぶ。子孫徳川家へ仕へて、繁栄長久たり。
大垣の城の事并地の戦記【大垣城】安八郡大垣の城は、源尊氏公十二代の将軍源義昭公の御下知として、牛谷川を形取りて、天文四乙未年三月、宮川吉左衛門尉友種といふ者、始て城を築き是に住す。本来は、牛谷の城といへり。其後、城主代る〴〵なり。天文十七年の夏より、織田播磨守信辰。同廿亥年より、竹腰摂津守道陳。永禄二己未年より、氏家常陸介友国入道卜全。元亀元年五月十二日の夜、太田村にて討死す。其跡嫡子左京亮直元。天正三乙亥年四月より、羽柴秀吉の弟木下美濃守秀長。同六戊寅年より、加藤作内光泰。〈権兵衛景泰の長男なり。景泰は、光長の子なりといふ。〉同八辰年七月より、氏家内膳正直元、後に勢州桑名に移る。同十一未年二月より、池田勝入斎・同紀伊守之助。同十二甲申年より、秀吉の甥三好孫七郎秀次。同年の十一月より、一柳伊豆守直季。同十七丑年三月、軽海に移る。是より羽柴少将秀勝住す。是は信長の四男にして、童名を於次丸といふ。天正九年に、秀吉の養子となる。文禄年中高麗陣の時、在都にて病死せらる。天正十九卯年より、伊藤【 NDLJP:67】長門守住す。慶長四亥年より、伊藤彦兵衛住す。然る所、石田三成に組して、同五子年五月十五日、関ヶ原にて討死す。同六丑年より、石川長門守康通。同十二年より、石川日向守家成なり。
大垣地の戦記に曰、牛谷川景清の瑞といふ事ありける。其故は、天文十七年の九月三日、尾州古渡の城主織田備後守信秀、濃州の斎藤道三が逆意を憎み、之を攻付けんと欲して、織田因幡守を大将とし、一万余人の兵を率して、濃州に乱入して、在々所々を放火し、同月二十二日、稲葉山の城下に取懸り、村々へ押詰めて、悉く火を放つ。町口迄押寄せ、已に日も晩景に及んで、軍兵を引退きけるが、諸手半分程引取りける所に、道三之を見て、究竟の勢を揃へ、歩行立の兵となして、前後に立て、敵を只討捨にして、必ず首共を取るべからずと下知を伝へ、南向に進んで、一同に切て懸りぬ。尾州勢甚だ周章て、支へ兼ねて切崩され、悉く敗軍す。爰に於て、織田与次郎実近・織田因幡守・同主水・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・寺沢又八・毛利藤九郎・岩越喜三郎を始として、尾州五十余人討死しける。中にも千秋紀伊守は、其頃古の平家の盲士悪七兵衛尉景清が重宝の蘚丸といふ太刀を所持しけるに、最期の時、此太刀を帯したり。紀伊守討たれて後、斎藤方の兵蔭山掃部助、又此太刀を求めて帯したり。爰に彼の大垣の城には、尾州より、織田播磨守信辰を入置きたりぬ。斎藤道三、今度尾州勢の敗車に利を得て、此勢の冷めぬ中に、急ぎ大垣の城を攻取るべしとて、道三より、江州の佐々木義秀・浅井久政の許へ加勢を乞ひて、同十一月の始より、多勢大垣の城を取り巻、攻めたりぬ。此時蔭山掃部助は、道三方の先手の将として、彼の蘚丸の太刀を持ちて、大垣の近所牛谷の寺内を焼払ひて、敵に働かんとす。其時、即ち牀几に腰をかけて、諸卒を下知して居たりけるに、流れ矢一筋、寺内より飛び来りて、蔭山が左の眼へ、二寸計り射込みたり。其矢を抜きて捨てければ、又矢一つ飛び来りて、右の眼を射潰されたり。一度に両眼盲ひたる事、是れ只事にあらずと風説しける。其後、故ありて、此太刀、丹羽五郎左衛門手に入りて所持しけるが、五郎左衛門長秀も、又眼病を煩ひて難儀しぬ。所詮此太刀所持の人は、両眼に崇ある由、世以て皆沙汰しける故、此太刀を、則ち熱田大明神へ奉納しける。然れば即時に、五郎【 NDLJP:68】左衛門眼病平愈しける。是なん、正しく景清の太刀故なるべし。扨も尾州の古渡へは、斎藤方より、大垣の城を攻むる由、聞えけるに依つて、備後守信秀、又頼み勢を申遣られ、同じく十七日、後詰の為にとて、濃州に出張あり。起して川を船にて渡し、打越えて、美濃の地に乱入し、竹が鼻・森部の辺を放火して、稲葉山の近所の在家民屋を焼立て、赤鍋村の口迄佳氏欣堀久太郎が働き入る。道三之に驚き、大垣の城攻を差置きて、井ノ口の城に人数を入れける。信秀、猶も濃州にて、合戦をせんと相議しける所に、其頃尾州清洲の城には、織田彦五郎在住しける。是は織田大和守入道常祐の跡目なれども、実は去る九月に討死しける因幡守の子にして、清洲三奉行の棟梁なり。此家老坂井大膳・同甚助・河尻与一郎などといふ者共相談して、謀叛を起し、信秀の留守を幸として、軍兵を催し、同月二十日、信秀の居城古渡へ働き来りて、町口を放火し敵となる。此註進聞えける間、信秀先づ濃州の軍を止めて、尾州に帰り、是より度々彦五郎と戦ひ、度々止む間なかりける。是に依つて、道三再び出馬して、終に織田播磨守を攻出し、大垣の城を受取りて、竹ノ腰を入れ置きけるなり。
十九条の城の事并地の戦記【十九条城】本巣郡十九条村の城は、始は斎藤新四郎利良、之を築き、少しの間住しけるが、其後、他に移りて、是には住せず、明城となりてありける故に、年々に頽破したりける。然る所、永禄四年、織田信長濃州を窺ひ、斎藤龍興を征せんと欲して、数度当国に軍馬を発して、合戦に及びけるが、毎度織田方敗軍して帰国せり。是に依つて信長、右合戦の工夫勝負の所を考察ありて、老臣諸士を集めて、評議せられけるに、我れ数ヶ度濃州に出馬して、合戦すと雖も、必勝の利なく、味方のみ敗軍する事は、是れ偏に足溜の砦などのなき故なり。是に依つて、中野・円城寺・笠松・墨俣、又は十九条などの辺に、一二ヶ所の砦を築き、要害を構へ、此方の人数を籠置きて、夫を便として、次第次第に彼の国へ乱入せば、可なるべしと云々。諸士尤と是に同ず。さるに依つて、先づ濃州斎藤家の領分の内、墨俣に、一ヶ所の砦を築くべしとて、老臣佐久間右衛門尉信盛をして、普請奉行と定め、人数を率して墨俣に来り、敵を恐れず砦を築かんとす。【 NDLJP:69】時に永禄五年四月二十三日。斎藤方の勇士、彼所に砦を築かせては悪かりきとて、武儀郡関の城主長井隼人佐道利・大野郡揖斐の城主揖斐周防守光親、府内の城主山岸勘解由左衛門光信・各務郡鵜沼の城主大沢次郎左衛門為泰・不破郡の菩提の城主竹中半兵衛重治、其外日根野備中守弘就・同弟弥次右衛門弘継・牧村牛之助春豊・野木沢右衛門為頼等以下多勢を率して、稲葉山を出馬し、墨俣に馳せ付きて、一戦に佐久間を追ひけり。石材木の類を悉く取捨て、十分に打勝ち、稲葉山に引取り畢。佐久間這々清須に帰りて、敗軍の由を訴ふ。信長殊に残念に思召し、再び柴田権六郎勝家に仰せて、是非砦を築かせんとせらる。依つて勝家、又墨俣に来りて普請を始む。斎藤方甚だ憤りて、同五月二日、揖斐・日根野・長井・井上・山岸・国枝・安藤の面々、不時に彼の所に攻め至り、結府下宿の辺にて大に戦ひ、文々柴田を追払ひ、石材木等を、皆以て取捨てけり。勝家打負けて無念乍ら帰陣す。信長弥心をいらち、三度目として、木下藤吉郎秀吉に命ぜらるゝ。其頃木下は、尾州愛知郡の内にて百貫、海西郡の内にて百五十貫、都合二百五十貫の知行を所領せり。佐久間・柴田仕損ぜし後にして、諸士各難渋に申すの所、木下則ち望んで之を勤む。同五月廿七日の夜中より墨俣に来て、砦の普請を始め畢。斎藤方之を見て、味方を侮りし織田の振舞、再三の乱妨捨て置き難し。早く馳せ行きて、以前の如く追払はんと云々。其時、西美濃十八将の勇士の内、山岸勘解由左衛門光信、〈明智光秀実母の兄なり、〉木下が振舞凡ならざるを察し、今度麁忽に懸らば、却て敵の謀計に落つべし。川手と陸手と二方に分れて押寄せ、火を以て攻付くべしと、軍慮必勝の良計を勧む。然れども、日根野・長井の面々、只血気にして、勇戦のみを心懸け、山岸が良策に随はざりぬ。是に依つて、山岸善諫の至らざるを患ひ、此上味方の敗軍せん事を見るにあらず。所詮斎藤を助くるとも、始終の全き事あるべからずと察し、是より斎藤家内変起り、西美濃勢山岸・揖斐・国枝・竹中等の面々、悉く居城に退きて出仕せず。日根野・長井・牧村等は、直に墨俣に馳せ向ひて、木下と戦ふ。【秀吉墨俣城を築く】秀吉謀計を以て之に当り之を砕く。斎藤方是より勝つ事を能はず。終に日ならずして、墨俣の砦は成就しける。信長甚だ悦喜ありて、木下が功方を称せられ、是より則ち秀吉をして、墨俣の城主とせらる。【秀吉墨俣城主となる】是れ木下が、城主となり【 NDLJP:70】し始めなり。尤此時より先、地を加へ、六千貫の知行となりて、侍大将の列に加はり畢。後に江州長浜の城主となりて、是に移る。以後墨俣は、漸々に頽破しける。扨又墨俣の一城、全く成就しければ、信長再び議せられ、同時に今一ヶ所、濃州の内にて能き地を見積り、足溜の一城を築くべしとて、前日より仰出され、則ち此本巣郡十九条村に一城を築かれ、一族の内、織田勘解由左衛門信益を、入れ置かれける。是は尾州犬山の城主織田十郎左衛門信盛弟なり。信盛といふは、与次郎信康の子なり。信康は信秀の弟なり。然るに勘解由左衛門信益、五六百の勢を以て、十九条の城を守り在りける所に、其頃五月雨降続きて、起して・墨俣の両川悉く水増りて、中々渡もなり難く見えける故に、斎藤方より其体を見察して、実にも此洪水にては信長が後詰も思ひも寄らず、早々攻ほすべしとて、龍興下知して、稲葉山を出馬し、十九条の城に押寄せたりぬ。一陣牧村牛之助・二陣稲葉又右衛門・三陣日根野兄弟、其外段々に備を立て、攻懸けゝる。勘解由左衛門、水練の飛脚を馳せて清須に遣し、急ぎ後詰を給はるべき由を申送る。信長聞召し、時刻を移さず、清須を出馬ありて向はせ給ふ。一番池田勝三郎信輝・二番佐久間右衛門尉信盛・三番柴田権六郎勝家・四番林佐渡守通豊、其外佐々・森・塙を始として、既に墨俣川に着きけれども、洪水湛へて渡り難く、少しためらひ居ける所を信長真先に進みて、河水増さればとて、勘解由左衛門を、眼前に討たすべきかとて、只一騎乗入りて渡らせ給ふにぞ、大将斯様に進み給へば、我も〳〵と諸勢乗入り、総軍一同に川を渡て、向の岸に着きにければ、勘解由左衛門出向へて、忝き由を御礼申上ぐる。さらば合戦の手分有べしとて、兼てより池田を先手に御定め有けれども、勘解由左衛門、此地に住し居ながら、他に先陣を渡さん事、面目を失ふ由、頻に先手を望みければ、然らば汝、先陣を仕るべしとて、福富平左衛門貞次を御使にて、池田は二の手に進むべき由を、仰付けられ畢。扨五月廿三日の夜、目さすも知れぬ暗の夜に、何処を敵とも知らねども、只々懸れ〳〵と下知せらる。勘解由左衛門、一陣に進み案内して、軽海村の深田を伝ひ溝を越えて、向の岡野へ打上りければ、斎藤の先陣牧村牛之助、鬨を作りて切て懸る。勘解由左衛門暫く戦ひ打勝ちて、牧村を追立てけるに、二陣の稲葉又右衛門入替りて、繁く駈入り、爰を【 NDLJP:71】先途と戦ひける程に、勘解由左衛門が手の者共、切立てられて敗軍す。然れども信益は猶、一足も退かず、多くの敵と戦けるが、頓て斎藤方の兵、野々村三十郎と渡り合ひ、暫く戦ひけるが、心身労れて、終に爰にて討死しける。【織田信益戦死】野々村、後に信三十郎は甚だ長に仕官す。勇み、織田勘解由左衛門信益を、討取りたるぞといふ程こそあれ、池田勝三郎・佐々内蔵助等、二陣より鎚を揃へて、透間もなく切つて懸り戦ひけるが、美濃勢打負けて、稲葉又右衛門をば、佐々と池田と相打にして、討取りけるが、互に首をば譲り合ひて、首を取り得兼ねたるを、柴田勝家、脇より進み出でて、さあらば其首を取りて、御辺方の其次第を言上せんとて又右衛門が首を取りて、信長に見せ奉り、池田・佐々が手柄の次第、残らず申上げたりぬ。扨此時池田は痛手を負うて、引兼ねてありけるを、郎等土倉四郎兵衛・伊木清兵衛、敵の馬を奪ひ取りて、主人池田を搔乗せて、味方へ引きて帰りける。斯くて暗夜にして、敵味方の勝敗も知れざりければ、又右衛門を討取りたるを、能き潮合として、信長は、勝鬨を上げらる。斎藤方も、勘解由左衛門を討取りたるを、幸として引取り畢。信長其夜は、軽海村にて夜を明し、翌朝早々尾州へ帰り申されける。今十九条村の北の出離れの道の傍に、五輪形の石塔あり。勘解由左衛門が墳墓、即ち是なりと云々。扨十九条の城は、其後、織田方よりも、強ひて守る事をせざりければ、いつとなく明城となりて、次第に頽破に及び、幾程なく断絶したりける。 福塚の城の事并地の戦記【福塚城】安八郡福塚の城は、応永廿一午年九月、土岐左京大夫頼益の命として、福束蔵人十郎益行、始めて当城を築き、是に住して、南伊勢の便とせり。其後、正長元申年より、丸毛中務少輔光慶、是に住す。光慶は、土岐大膳大夫頼康の従弟、明智五郎頼高の子なり。〈丸毛氏の養子と云々。〉光慶の子、丸毛三郎左衛門光益といふ。相続いて当城主なり、其子河内守光長といふ。文明二寅年八月、同郡脇田の里へ移る。光長の子三郎兵衛兼行は、又福塚に帰りて住せり。其子兼定、其子三郎兵衛光兼、後に兵庫、晩年河内守に改む。右光兼は、斎藤龍興に属して、相続いて福塚の城に住しける所、永禄七年の秋、信長の為【 NDLJP:72】に、龍興は国を奪はれ、稲葉山の城を明渡して落行きける。其時、斎藤譜代恩顧の家臣等は、主人龍興を守護して、倶に退去せり。外様幕下の諸将は、思々になりて家を立てんと欲し、悉く織田家に随身せり。稲葉・氏家・不破・安藤の四人衆は、先年より龍興を捨てゝ、信長に帰伏せり。又其後には、遠藤左馬助・遠山久兵衛・原彦次郎・金森五郎八・加藤権兵衛・伊東彦兵衛・徳山又兵衛・西尾小兵衛・竹中半兵衛等も降参せり。今度龍興退去に及びて、丸毛光兼・井戸斎助頼重等の輩、信長に随身したりぬ。信長降参御許容ありて、即ち丸毛には、是迄の城福塚を、一旦改城仰付けられて、同郡今尾の城を賜はる。是に依つて、永禄七年の秋九月より、丸毛は今尾の城に移りて、是に住す。十ヶ年の余過ぎて、信長御生害の後は、丸毛、又羽柴秀吉に随ひて、天正十一未年の春より、又福塚に移り、帰りて是に住せり。其跡今尾の城には、市橋下総守長勝住す。此市橋といふは、藤原氏にして、市橋長利が子にて、池田郡市橋村の出産なり。文禄二癸巳年二月三日、丸毛光兼卒す。六十二歳。法名善孝と号す。其子三郎兵衛兼利、太閤に仕へ、相続いて福塚に住す。然るに、慶長五庚子年関ヶ原の合戦に付、丸毛兼利は、石田が語ひに応じ、是に合体して、福塚に楯籠り畢。是に依つて、福島左衛門大夫の幕下、尾州赤目の住人横井伊織は、丸毛とは多年の知音ある故に、福塚に来り、早く石田の味方を離れ、関東へ随順せられ然るべしと勧めける。然れども兼利承知せず、遮つて敵対の色を発したりぬ。是に依つて、横井も止む事を得ず、関東の命に応じて之を攻むる時、同八月十六日、今尾の城主市橋下総守長勝・同石津郡高須の城主徳永法印昌寿、横井伊織・同孫左衛門・同作左衛門等勢を率して、福塚の東加知村の川を船渡して攻寄せける。丸毛少しも恐れず、川端に出向へて、大に戦ひ畢。其時、大垣の城主伊藤彦兵衛尉・不破郡長松の城主武光式部少輔棟忠、并に石田方よりの加勢前野兵庫頭・高野越中守・武藤右京・雑賀内膳等、時を移さず福塚に馳せ着きて、三千余騎になりて丸毛を助け、大藪村と大樽村との間に陣を取りて、大川を隔て合戦す。然れども三町計の大川を隔てし事故に、勝負相決せざりける。是に依て、市橋下総を思慮を巡らし、我が家来の金森平左衛門・竹田四郎左衛門に下知を伝へ、十六日の夜半に、密に川を渡させ、敵の陣取りし所の後なる目蓮房村と偷役村【 NDLJP:73】へ忍び入りて、火をかけて裏切をさせ、相図を違へず攻立つる。是に依つて、忽ち丸毛方打負け、大に敗走して、援兵伊藤武光等爰を捨て、大垣の城へ逃帰る。然る間、丸毛兼利も、今は城に怺へ難くして福塚を捨て、是又大垣へ引入り逃つぼみける。依つて、市橋則ち城を乗取り、忽ち入替り畢。関ヶ原合戦終りて後、当城破却仰付けられ、以後は城主なく、断絶したりける。
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