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美濃国諸旧記 巻之五
 
 
安八郡曽根の城、西尾在住の事
 
安八郡曽根の城主西尾氏は、其先祖籾井兵庫頭光家というて、丹波国の大守波多野上総介藤原晴通の旗下なり。然る所、籾井兵庫頭光家義、仔細ありて、参河国播豆郡西尾といふ所に住す。是に依つて、郷名を取りて氏とせり。其子、出羽守信光といふ。天文の頃より濃州に来り、多芸郡野口に住し、氏家常陸介友国入道卜全の組下なり。知行三千石といふ。其子、西尾小六光教といふ。二男、小左衛門吉次というて、参州に来り徳川家に仕ふ。後に隠岐守と号す。然るに小六光教は、相続いて氏家に属し、元亀二年、勢州長島の退口太田村七屋敷の戦に武功を尽す。天正二年の秋より、信長に召出され直勤となる。是より西尾与左衛門光教と名乗り、相続いて濃州野オープンアクセス NDLJP:74口に住し、諸度の戦に武功あり。信長公生害の後は、秀吉に属し、豊後守に任ず。天正十八年の三月下旬より、稲葉が居住の跡、安八郡曽根の城を賜はり是に住す。知行二万石なり。此曽根の城主といふは、稲葉伊予守良通入道一鉄斎、天文廿一壬子年八月、始めて之を開築し居城とせしより以来、天正十八年迄、父子共に卅九箇年住せり。尤此頃は、稲葉一鉄斎、大野郡清水の城に住し、嫡子右京亮貞通、則ち曽根に住しありけるなり。西尾光教家康に与す然るに西尾豊後守義秀逝去の後は、江戸将軍に随順し、慶長五年の乱には、石田に組せず、家康公上杉退治に御発向の御跡を慕ひ、大坂より曽根へ来る道にて、大谷刑部に出合ひ、佐和山の城に行きて、石田三成に参見し、弟修理亮光次を残し置き、其身は小山の御陣に参じ御供をなし、又関ヶ原の軍に、大垣の城へ、家臣谷清兵衛を人質に入れ置きて城を受取り、諸度の勲功ありける。然るに、其時石田三成は、西尾を味方に招き催すと雖も、是に応ぜず。依つて三成は、諸士に下知して、曽根の城を攻取らんと思ひて、其工夫をなしけるが、曽根の城を攻取らんには、搦手の方瀬古村へ火を付けなば城中より駈出でて騒動すべし。其機に乗じて城を乗取るべしとて、三成が家臣林半助重利に命じける。此半助は、其父を、林半四郎武利というて、明智左馬助光春の勇兵にして、身の丈七尺七寸ありて、無双の大力量、明智光秀丹波の国を征伐の砌、彼の国の保月の城主赤井悪右衛門景遠を討ちたりし強勇、後に大津八町打出の浜にて、恐しき戦して、入水しける者なり。其子半助重利は、明智滅亡の後、生国なれば濃州に帰り、池田郡青柳村に住し、土民の如くなりてありけるが、元来半助は大力量、勇猛鋭にして、而も才智も勝れし者なるに、三成が嫡子石田隼人が乳母の兄なる故に、三成之を召し出して、七百石を与へて使ひける。半助、石田に仕へて、白きしなひの指物をなして、関ヶ原の戦に出でて、勝れたる武功あり。殊に本多平八郎忠勝と、烈しき挑をなし、家康殿にも之を見られて、敵乍らも白しなひの剛の者の強さよとて、称美せられし程の者なりける。然るに半助は、石田が下知を受けて、曽根の城を攻取らんと、其思慮を巡らしけるも、我が無二の智音なる者、馬淵兵左衛門尉を相語らひて、右の旨を申伝へける。此馬淵、元は氏家左京亮が家人なりしが、其頃浪人となりて、安八郡呂久村にありけるなり。今半助が申す旨に応じオープンアクセス NDLJP:75て、則ち朋友高田村の村瀬五郎兵衛と横山多兵衛と二人を相催し、九月十日の申の刻に、瀬古村の北なる田所に入りて相窺ふ。然る所、此所は、西尾の領地なる故に、刈田をする者に見顕され、三人共に逃出しけるに、二人は東の方へ走り行きて、落合川を越えて逃去りぬ。馬淵は、曽根を指して逃込みけるが、頓て瀬古村の名主右衛門尉といふ者の家に走り込みけるに、此所には、西尾光教の姉娘青野殿というておはせしを、馬淵之を捕へて、我を害せば、之を刺殺さんというて、人質に取りたり。此故に追懸け来りし者も、すべき様なく控へたり。此事城将へ聞えたれば、西尾の侍共駈け来り、様々偽り宥め賺して、漸う馬淵を相捕へ、木曽海道の境目に出し、首を刎ねたりける。是に依つて石田が手術も、事成らざりける故に、西尾方にては恙なく、落城の儀なかりけるとなり。斯の如く光教は、心を一致にして、志を関東へ通じ、曽て石田に組せず、誠忠を顕しける故に、徳川殿其志を御感ありて、関ヶ原の乱後、光教に一万石の加増を仰付けられ、慶長五年十月十日、同国大野郡楫斐の庄三輪村の城を賜はり是に移り、三万石にて在住せり。此揖斐といふは、今岡田将監の陣屋なり。然るに此揖斐の城は、天正十八年迄、稲葉一鉄斎の持城にして、一鉄斎は、同郡清水の城に住し、揖斐には、子息右京亮貞通在住し、天正十八年に、同国郡上の城へ移れり。其後は石河備中守、揖斐に住せり。其後、又犬山の城に移る。又西尾光教の舎弟修理亮光国といふは、天正十八年より、清水の城に住しありけるが、今度石田方に組しける故、其科に依つて、清水を没収せられ畢。然れども、舎兄豊後守光教の武功に代へて、光教に御預けとなり、揖斐に来りて蟄居なり。此清水といふは、当時岡田将監の分知、同姓龍蔵の陣屋にして、揖斐より十五六町程東の方なり。扨又曽根の城は、其後守将なかりける故に慶長十年の頃より、破却いたしけるとなり、曽根といふは、中仙道の駅路にして、美江寺の宿より、赤坂宿の間にして、曽根・北方・三つ屋・弘福寺、青木・池尻、皆此間の宿なり。
 
高須城の事地の戦記
 
高須城石津郡高須の城は、天文の頃、氏家常陸介友国が、要害に構へたる所なり。然る所、元オープンアクセス NDLJP:76亀三壬申年三月、安八郡成田の城主高木十郎左衛門尉好康、是に移り住居せり。高木好康は、其始めの名を佐吉というて、織田信長に仕官してありける。晩年、十郎左衛門と改名せり。好康の父を、高木彦之丞正朝といふ。当国山県郡の高木村より出でたる者なり。又好康の舎弟に、高木権右衛門安正といふあり。是又信長に仕へける者なり。然るに十郎左衛門好康、当城に久しく住しける所、時移り慶長五年に至り、青野ヶ原合戦の砌、石田治部少輔三成に合体して、高須の城に楯籠り畢。然る所既に関ヶ原の合戦始りなんとする其以前、尾州清須の城主福島左衛門大夫正則、濃州の内、西の方を順見として、僅二百余騎にて、尾州より打出で、西美濃安八郡今尾の城主市橋下総守が方へ参陣して、今度美濃路へ差出でたる所の、敵方の強弱を聞合せ、軍の評定をなしけるが、所謂高木は、三成に与力せり。然る間、先づ高木が居城高須を第一に乗取るべしとて、軍談せり。是に依て、即刻同郡松木の城主徳永式部卿法印寿昌に、右の由密談ありければ、法印領掌して、家来布家市右衛門、並一向宗の坊主安八郡加納村の室寿坊を語らひ、密に高木が方へ遣し、速に石田が一味を離れ、甲を脱ぎ関東に降参し、開城して相渡され然るべき旨、利害を示して申しける、高木之を聞きていかゞせんとて、原隠岐守久頼儀、此程太田村の中島の郷に在陣して居ける故に、之と相談したりけれども、原は無二の石田方故に、兎にも角にも承知せざるの旨然るべしとて、其旨を徳永が方へ返答しける。然ども法印、様々の計策を以て、高木を大に欺き、越方行末の事迄を申遣し、一戦して城を明け退くべしと相究めける。扨慶長五年八月十九日、徳永法印・同左馬助父子・市橋下総守長勝・横井伊織・同孫左衛門・同作左衛門、并に福島より加勢の人数三百余騎、馬の目口へ押寄せける。高木は、兼て期したる事故少しも臆せず、兵士を励し防戦せり。寄手横井作左衛門、并に徳永が家人河村忠右衛門等は、成田村より搦手へ廻りて攻け懸たり。高木が家司河瀬小太夫防戦して爰にて討死す。又寄手の徳永左衛門、姓名を名乗りて、番に乗入らんとす。城兵寺倉孫左衛門、之に渡り合ひて相戦ふ。寺倉は二間柄の鑓、徳永九尺柄の大身鑓にて、相戦ひけるが、此所横間甚だ狭く小道にして、而も両方は高藪にて、跡へ廻らんとする者なくして、只二人のみ戦ひけるが、徳永左衛門戦ひ労オープンアクセス NDLJP:77れて、深手を負うて引退く。寄手は大に駈立てられ、敗走に及びぬ。時に徳永が家人河村所右衛門、二の丸へ攻入りけれども、城中の鉄炮に打竦められ、首を取られける。斯の如くして、中々城を乗取る事能はず。福島が加労も、数多討たれければ、正則方より之を制して、一先づ囲を引取るべしと申来りぬ。是に依つて、徳永も無念乍ら高須の囲を引取りける。高木も先づは安堵しけるが、然れども当城にて後詰もなきに、永く籠城のなり難きを察して、敵の退きしを幸に、夜中城を出でて、福岡の綱手に差懸り、駒野の渡に棹して、山手の方へ退きけり。是より徳永法印、松木城より是に移り在住し、其子左馬助、相続いて是に住しけるが、寛永五辰年、故あつて所領没収せられて、是より城は破却して、守将又断絶しけるなり。
 
伊木城の事
 
伊木城各務郡伊木の城主は、信長公の臣伊木七郎右衛門常籏〔〈範カ〉〕なり。此常簇といふは、千葉氏の末流にて、後には秀吉の黄母衣衆なり。幼年の時は、半七郎遠雅といひ、後にふ。常七郎右衛門常簇と改め、剃髪して有斎と号す。常簇の祖父を、武馬和泉守常春といへり。当国の遠藤氏を便りて、享禄の頃、下総の国より来りて、織田備後守信秀に仕春の子、武馬七右衛門常重といふ。相続いて上総介信長に仕ふ。然るに美濃の国各務郡に、伊木山といふあり。其下を、伊木野といふ。木曽川を相隔て、東は尾州犬山、西は濃州伊木山なり。其頃此伊木山の城に、香川左衛門尉といふ将楯籠りて、信長に敵対す。是に依つて永禄三年の春、信長の下知にて、武馬七右衛門先登して相戦ひ、伊木山の城を乗取りける。信長殊に悦喜ありて、其賞として、伊木山の城を、七右衛門常重に賜はりぬ。剰へ末代迄の名誉の印たるべしとて、是より氏を伊木に改めさせらるゝ。扨又此城の本丸に、石の井桁ありける。伊木氏の紋所は、千葉氏なる故に、月星にてありけるが、此時より、井桁を以て家紋とせり。其子七郎右衛門常籏なり。常簇、伊木に住してありける時にやありけん、詠める歌に、

   夕ざれば伊木の川風さそひ来て隈なき月ぞ鏡野の里

   伊木の川玉ちる瀬々の岩波に砕けてうつる秋の月〔〈本ノマヽ〉

オープンアクセス NDLJP:78常籏は秀吉に仕ふ。天正十九年秋、当城破却したりける。

 
岩村の城の事地の戦記
 
岩村城恵那郡岩村の城は、当国第一の山城にして、苗木と同じき地形なり。往古文治元己巳年三月、右大将頼朝公より、其臣加藤次藤原景廉に賜はりて、始めて一城を開築し、是に住しける。抑此景廉といふは、其先祖魚名卿より六代の孫、鎮守府将軍武蔵守利仁の子叙用、其子加賀守吉信、其子重光、其子加藤滝口貞正、其子加藤修理少進景通、其孫加藤五郎景貞といふ。其長男を加藤太光員・二男加藤次景廉なり。曽祖父景通は、源頼義の勇臣にして、奥州前九年合戦の時、頼義・義家・坂戸判官則明・加藤景通・大宅太夫光任・清原貞広・首藤権介範季とて、主従七騎の名誉の内なり。景通の子加藤右馬允景季・同武蔵介貞輔等、八幡太郎義家に随ひぬ。景季の子景貞・其子光員・景廉父子三人は、頼朝伊豆国に於て、初めて義兵を上げらるゝ時、第一番に属し、殊に景廉は、八牧の司和泉判官を討取りしより、石橋山敗北の後、艱難の内よりも、猶忠節を尽し、度々の武功莫大なるに依つて、頼朝之を感ぜられて、伊勢の国の守護を賜はり、景廉は、又美濃国の岩村を拝領して、是に一城を築きて居住し、実朝将軍の御代に至りては、鎌倉評定衆となり、後に入道して、覚蓮坊妙順と号し、承久三辛巳年八月三日、六十七歳にて卒す。今岩村の城内に於て、八幡宮の社あり。是れ則ち彼の景廉の霊を祭れる所なりと云々。一説に曰く、景廉は藤原氏なり。此霊を祭る時には、必ず春日大明神を祭れり。八幡は、源氏の祖神なりといへり。按ずるに、右大将頼朝、久安三丁卯年正月元日、尾州の幡谷にて出産の時、虚空より白簇一流れ、其産家の上に舞下りぬ。後、白雲となりて消えぬと云々。依つて童名を白幡丸といへり。然る故やありけん、又何れ源氏の祖神なる故にや、頼朝生涯の内、殊に八幡宮を信仰ありて、国々の諸社にても、別して八幡へは、段々の奇進の事共多かりき。扨又常に八幡の像を所持せられて、朝夕に深く之を信仰ありけるが、正治元己未年正月十三日逝去ありける。其砌、加藤景廉を近く召されて、段々遺言の伝ありて、彼の所持の八幡の像を下し賜はり、我が信心の余営を受継ぎて、子孫永く崇敬なし呉れよかしオープンアクセス NDLJP:79と宣ひしと云々。然れば右岩村の城内に崇め申す所の八幡宮は、頼朝所持の像にして、景廉自ら之を祭りし一社なるべし。曽て景廉の霊にあらず、必ず誤りて論ずべからず。扨又一説に曰く、此岩村の城を、霧が城ともいへりとなん。其故を尋ぬるに、若し此城変事ありて、敵の攻寄する事あれば、前後谷々より霧下り、嵐障立起りて思尺も見えず立掩ひ、敵軍の為に、害をなすといひ伝へたりとなん。然る故にやありけん、武田信玄、其子勝頼程の者だにも、度々攻懸けたりと雖も、終に之を落す事をせざりしとかや。昔は水の手なかりけれども、小宇津が代より、水の手を仕懸けたりと云々。兵糧だに沢山ならば、如何なる大軍にて攻むるとも、容易く落つる事なしと云々。然るに景廉卒去の後は、城主も断絶して、永く無住たりける所、遥に年を経て、建武・延元の頃、土岐の一族小宇津美濃守といふ者、其身一代住して、其後は又明城たり。而して後、遠山加藤太景政暫く是に住す。遠山氏は、則ち加藤次景廉の末流なり。扨又永正より大永・享禄・天文の頃には、土岐氏の一族岩村筑後守清次といふ者、住しけるの所、死去の後は、遠山内匠助友通、是に住す。又同郡苗木の城には、遠山久兵衛友忠住す。同郡明地の城には、遠山勘右衛門友治住す。是を其頃恵那郡の三人衆といふ。又三遠山ともいふなり。尤又同国可児郡に明智あり。恵那郡には明地なり。倶に紛らはし、必ず誤るべからず。然るに、此岩村の城主遠山内匠助の内室は、織田信長の伯母なり。〈信長の父信秀の妹故なり〉然る所、此夫妻の間にして男子なし。是に依つて、信長の六男御坊丸〈信吉〉といふを、養子として家督と定め、相栄えけり。然るに内匠助は、日頃多病にてありけるが、元亀二辛未年十二月三日、終に卒去す。家督御坊丸、幼少たりと雖も、兼ての約束なる故に、乳父の五十若久助勝貞といふ者、之を守立て在住しける。然る所、爰に信濃国伊奈郡高遠の城主秋山伯耆守源晴近といふ者あり。是は清和天皇七代の後胤新羅三郎義光の孫、逸見黒源太清光の子、加々美二郎遠光の嫡男、秋山太郎光朝の末葉なり。代々甲州武田家の一族として、無二の幕下なり。元来勇猛絶倫の士にてありけるが、是より先、武田信玄の下知を受けて当国に乱入して、岩村の城を攻めんとす。是は元来信玄の計略にて、織田信長と是迄は縁者の間にして、音信を通ぜし中と雖も、信玄大志あるの故に、信長と不和にオープンアクセス NDLJP:80ならんが為に、秋山をして濃州を乱妨させし事と云々。是に依つて秋山伯耆守は、手勢相備、共に三千余人の兵を率し、高遠を出馬して、武田信玄岩村城を攻む元亀元年十二月中旬、始めて濃州に働き入りぬ。是に依つて、東美濃の諸将恵那郡岩村の城主遠山内匠助友通・同明地の城主遠山民部友春入道宗春・同子勘右衛門友治・同郡苗木の城主遠山久兵衛友政・同久太郎友忠・同串原の城主串原弥左衛門親春・同高山の城主平井宮内少輔光行・同子頼母光村・同郡飯狭間の城主飯狭間右衛門尉重政等を始めとして、東美濃・西参河の者共相集り、五千余人の兵をならし、防戦の用意して、十二月廿八日、恵那の上村といふ所に於て、秋山が勢を引受けて、合戦を始めける。此時秋山は、三千余人を五備に作り、魁兵要の陣を敷きて、火花を散らして戦ひ畢。所謂自ら五百余人を率し、魁勢と定め、之を先駈の備となし、次に兵勢と定めて、左右中と三備になし、中備には望月与三郎信重、左は原藤吾昌定、後は芝山主水且春、各五百余人宛、此兵を以て敵と戦はしめ、後陣には松本右京亮長継、雑兵を率して、一千余人にてしんがりと定む。右の五段後を詰め、連々に押出して戦ひける。一番に串原弥左衛門親春、一千余人を率し、近々と進み寄りて、一通りの鉄炮を放しかけ、直に足軽組子をたゝみて切結び畢。秋山が二陣の兵勢と定めし中備望月与三郎、五百余人にて駈向ひ、鑓を入れて突交しける。串原も勇を振ひて、是非に敵を追破らんとす。望月爰ならんと、敵の英気を見て、逃ぐるとなく引くとなく、串原が鋒先に押さるゝ体にもてなして、戦ひ乍ら二三町も退き畢。串原得たりと気に乗りて、勇に任せ進みけるを、望月、頓て足場能しと見定めければ、爰に於て弓手妻手を差招きければ、左右の二手原・芝山、五百宛にて駈向ひ、両方より鑓を入れて、突崩し畢。然れば串原が軍勢、忽ち乱れ破れけるを、望月再び勇を振ひ、正面より烈しく駈立てければ、串原勢弥乱れ、散々になりて敗走し畢。此時岩村の遠山内匠助、是も同じく一千余人を率し、串原が後に進み、先手を助け、入替らんとする所に、早や串原敗軍して、なだれ懸りければ、戦はんとするに力なし。されども是非に取直さんとして、彼是相支ふる所へ、武田の軍兵、三方より進み来り、ひた攻に揉立てけるにぞ、爰に於て串原・岩村悉く崩れ靡き、右往左往に敗走しける。此時明地の遠山民部入道宗俊は、後陣を守り、諸手を示してオープンアクセス NDLJP:81ありける所、先手の崩れしを見て備を進め、戦はんとする所に、魁勢と定めし先駈の一手秋山伯耆守、五百余人を自ら相率し、谷を越えて切所を通り抜け思ひも寄らぬ敵の右の方より、遠山が勢に突いて懸りて、無二無三に切崩しければ、遠山勢大に周章し、軍勢忽ち四度路になりける所を、遥の後に控へし三陣の要備、松本右京亮一千余人の勢、急に押し来るの体に見せて、只鬨の声を発し、打つて懸る色を顕しければ、遠山勢之を見て堪へ兼ね、悉く破れて敗北せり。秋山下知して、追懸け討ちける程に、爰にて遠山入道宗俊を始め、角野高四郎繁氏・同磯之助氏幸・同覚八氏益・多性子宮内義正・田代弾正・小泉義左衛門・吉村源蔵などといふ者、悉く討死しける。其外、苗木が手の者も卅余人、同所にて討死し畢。秋山は十分に打勝ち、数多の首級を得て、甲府へ進上申しける。濃州にては、三遠山をはじめ、坪内作蔵定国・同式部国鑑・倉橋与五郎等以下、并に西参河の軍勢・作手の城主奥平美作守貞能・同子九八郎貞昌・駄峯の戸田以下の面々、秋山が鋒先尖なるに当り難く、皆面々の居城に逃げ入りぬ。扨秋山乱入の様子、遠山内匠助方より、岐府表に註進し、早く御勢を給はるべしとぞ申送りぬ。信長之を聞召し驚き給ひ、急ぎ秋山を追払ふべしとて、土地の案内者明智十兵衛光秀に命ぜらるゝ。然るに光秀、其頃は江州表より帰陣の後、疲労少なからざるに依つて、其伯父光廉入道長閑斎、即ち勢を率して、恵那郡に着陣し、先方の諸士と一手になりて、同十二月廿九日、秋山と駈向ひ、小田子村に於て合戦し畢。長閑斎は、秋山が軍立を能く知りたる者故に、則ち其裏を謀りて、四五ヶ所に伏兵を仕懸けて、一戦に秋山を切崩し、火攻を以て、悉く追立てたり。爰に於て、さしもの秋山、大に後れを取り、散々に打負け、早々に信州へと退きける。依つて長閑斎も、早早に岐阜に帰りて、一戦勝利の由を註進せり。然る間、東美濃も、暫く静謐に及びける。然りと雖も織田信長、上方の敵と取合等ありて、江州・越前或は五畿内などへ御出馬ありし時には、岐阜の留守を窺ひ、秋山、時々乱入の沙汰もありと雖も、岩村の内匠助、随分心を尽して支へけるまゝ、何れにも、恵那を取敷く事を得せざりけるが、然る所、元亀二年の十二月三日、遠山内匠助病死しけるにぞ、秋山晴近、此由を聞きて甚だ喜び、扨は心安し、今こそ岩村を攻取るべき時至れりと大に勇み、即時に多勢を率オープンアクセス NDLJP:82し、又々信州高遠より乱入して、岩村の城を攻動かし畢。是れ元亀二年の十二月下旬の事なり。然るに岩村にては、大将既に死去しけると雖も、家督御坊丸の乳父五十若久助勝貞、元より勇猛の士なりければ、曽て恐れず、後室を諫め励し、幼君御坊丸を守立て、猶も烈しく防戦しける。秋山又厳しく攻立てけれども、落去の色も見えざりけるまゝ、爰に於て秋山きつと思慮を巡らし、和平の儀を計つて、無事に城を受取らんと欲し、頓て岩村の地侍なる坪内靭負国宗といへる者を語らひ、口上の趣を申含め、城中に入らしめ、後室に対面して申させけるは、晴近未だ定まる妻なし。依つて今より御身を室嫁として、御坊丸を是迄の如く養子となし、秋山則ち当城主となり、御坊丸を取立て、始終是に家督を相譲るべし。願はくは、某が心に随ひ給はんや。若し得心なくんば、拠なく多勢を以て攻崩し、御身も御坊丸も、倶に苦しき死を与ふべきなりといふに、後室も之を聞きて、流石に岩木ならず、女心の果敢なき故にや、妻女にならん事を悦びて、終に秋山が意に伏し畢。是に依つて、和睦調ひ城を渡して、秋山を請じ入れたりける。而して秋山は、後室をたぶらかして申して曰く、某今御身と、夫婦の結縁をするの上は、武田信玄老此事を聞かれなば、晴近こそ、信長の伯母聟と相なりしなり。然らば家を背き、信長に志を通ぜんは必定なるべし。早く之を誅すべしと怒りて、軍勢を差向けられん事は計り難し。然る時は難儀なるべければ、信玄殿の心を休め、疑をなからしめん為に、養子の御坊丸を人質となして、甲州へ送り遣し、預け置くべしと云々。後室も、御坊丸が事は、実の我子にもあらざるに依り、さのみ可愛と思ふ心もなかりけるにや、是又否みなく得心しぬ。秋山喜び、頓て御坊丸を、甲府表へ送り遣して、是は信長よりの人質なりと申し、段々の手段の事共言送り畢。時に御坊丸は七歳なり。織田信長、此次第を聞かると雖も、其頃は折節上方に取合ありて、之を征せらるべき隙なかりける故に、無念乍ら秋山が狼藉の振舞を、捨置き給ひけるが、時節を以て、此憤を散ずべしと、心を懸けて居給ひけると云ふ。斯て甲州にては、武田信玄、人質御坊丸を受取り甚だ喜び、則ち武田左馬助信豊に預け畢。信玄岩村城を領す而して岩村の一城は、秋山に与へて城主となさしめ畢。猶又秋山一円の勢にて、岩村の城を守らんも、難儀なるべければとて、加勢として、同じく信州の住オープンアクセス NDLJP:83人座光寺左近之進晴友・同勘左衛門晴氏・同与市・大鳥杢之助義重・同織部義安等を差越し、并に下地の城兵遠山五郎友長・同市之丞・同次郎三郎・同大膳・串原弥兵衛等、彼是合せて三千余人の勢にて、相守り居ける。爰に於て岩村の一城は、終に武田方の物となりて、秋山伯耆守が居城と相成畢。是れ元亀三年の春なり。然るに其後、武田信玄は、足利公方義昭公の御教書を得て喜び勇み、早々上洛して、天下に旗を上げんと欲し、天正元年の三月九日早天に甲府を打立ち、自ら四万余の大軍を率し、濃州恵那郡に発向し、織田を破つて上洛せんと議す。織田信長之を聞きて、武田が軍勢を我が国に差入れ、今は捨置くべきにあらず。早く駈向つて、一戦に追払ふべしとて、同十四日、二万余の勢を率し、岐阜を御出馬ありて、東美濃岩村表へ発向あり。始めて武田勢と合戦をせられ畢。其翌日双方矢合して、戦発しける。武田方の老臣馬場美濃守信房、手勢一千余人を以て、第一番に進み懸り、蛇籠の馬印を押立て、信長信玄と戦ふ織田勢に突懸りぬ。之を見て織田方より、佐々内蔵助成政、菅笠三蓋の馬印を押立て、向ひ合うて戦ひぬ。同じく河尻与兵衛重遠は、金の釣鐘の馬印、池田勝三郎信輝は、金の三本傘の馬印にて進み懸り、其外、敵味方一同に備を出し、聚散離合して、烈しく挑み戦ひたりける。既に今日辰の上刻より合戦始まり、申の中刻迄、終日戦ひ暮し、人馬の労れ少なからず、双方倶に相引になり、退きて陣取り畢。是より相互に陣々を守り、敵味方対陣して、何れよりも打つても出でず、合戦もなくして、四五日爰にて睨み合ひて暮しける。然るに信玄は、是より直に陸地を経て、早々上洛せんと思ひけれども、信長、濃尾の間に相支へ、通すまじとせらるゝに依つて、信玄も、左右なく打つて上り難ければ、是より信長を押へ置きて、参州表を切随へ、吉田の城を攻落し、夫より船を求め取りて、海上を経て、勢州長島に上り、上洛せんと欲し、秋山伯耆守を以て、信長を押へさせ、信玄は、則ち馬場・山県以下に下知して、三月廿日に、岩村表を引払ひ、参州に引取り、夫より直に鳳来寺に発向して、牛久保・長沢・御油等迄を手遣して、岡崎筋へ押出し、而て徳川の臣下酒井左衛門尉忠次が籠りたる、吉田の城を攻落すべしとて、押寄せけるが、時に信玄、不運なるかな、軍中にて矢疵を蒙り、痛手なりしかば悩み煩ひ、参州国中を働く事能はずして、根羽禰といふ所に至りて在陣し、オープンアクセス NDLJP:84則ち爰にて疵養生致しけるが、信玄逝去其後、四月十一日死去すと云々。扨又信長にも、岩村表に在陣しておはしけるが、信玄既に参河表へ引取りける故に、聊か安堵し給ひ、然らば此方も帰陣すべしとて、三月廿四日に、岩村表を引払ひ、岐府へ御帰城なされける。然るに信玄、終に死去すと雖も、忠臣等之を披露せず、深く隠して、病気と沙汰して、少しも死去を他へ知らせず、武威は又曽て落さず、益壮にして、則ち内々にて、四郎勝頼を家督となして、臣等之を守立て、以前の如く勇威を震ひ畢。依つて秋山伯耆守も、主君信玄死去ありと雖も、其事を他所へ更に知らせざれば、相替らず岩村の城に在住して、少しも武威を屈せざりぬ。信長は、秋山夫婦を憎み、早く之を征伐せんと思はれけれども、兎角にも上方に敵ありて、其隙なき故に、暫く其儘に差置かれけるが、岩村の近所にて、小城を一つ宛構へ居ける。織田方の諸将、東美濃に多くありけるを、信長則ち此面々に御下知ありて、十騎廿騎程宛の加勢を給はりて、丈夫に相守らせ、又は新規に砦を築きなどして、凡そ十八箇所の城々を構へて、兵士籠め置き岩村の城の押へとぞせられける。所謂其面々は、恵那郡高山の城には、平井宮内少輔光行が、居城にしてありけるが、宮内は先年死去して、其子頼母光村、七百余人にて相守る。同苗木の城には、遠山久兵衛友忠が居城として、千余人にて相守る。明地の城には、遠山勘右衛門友治が、居城として相守る。同串原の城には、串原弥左衛門親春。同飯狭間の城には、飯狭間右衛門尉重政。土岐郡妻木の城には、妻木彦右衛門範重。同兼山の城には、森勝蔵長一が留守代。其外、恵那郡東野の城・久須元の城・阿木の城・孫目の城・大井の城を始として、田瀬・鶴井・瀬戸・振田・中津川・幸田・大富・千檀村等、都て十八箇城なり。武田四郎勝頼、此事を聞きて安からず思ひ、然らば早く濃州へ出馬して、彼の小城共を悉く攻干すべしとて、甲斐・信濃・飛騨・越中・西上野の軍勢を率して、三万余人にて、天正二年戌の正月廿七日、甲府を出馬して東美濃に着陣しける。斯くて勝頼、恵那郡に着するや否や、二月二日、先づ第一番に、高山の城を攻落し、夫より苗木の城をも攻落し、而して串原・阿木・久須見・瀬戸・大井・中津川・孫目・大富・振田・田瀬等、既に十六箇所の城々を、四五日の内に攻潰し、夫より直に遠山勘右衛門が守り居る明地の城を攻落さんと、勢猛に押寄せ畢。然るに織田信長オープンアクセス NDLJP:85には、岐府におはしまして、武田勢を追払ふべしとて、御嫡子勘九郎信忠に仰せて差向けらるゝ。是に依つて勘九郎信忠は、在美濃の諸将池田勝三郎信輝・蜂屋兵庫頭頼隆・川尻与兵衛重遠・森勝蔵長一・塚本小大膳安頼・中条将監家忠・安藤伊賀守守就・福富平左衛門貞次・高野作右衛門・斎藤新五郎長龍等以下、三万余人を引率して、二月七日、岐府の城を打つて出で、其日は御岳宿に着陣し給ひ、翌日八日には、明地の向なる鶴岡といふ所に取登りて対陣せらる。此所を、本須の若禰山といふなり。武田方にては、織田の後詰来らん事、兼て覚悟ありければ、其受手として山県三郎兵衛昌景・大熊備前守昌依・相木市兵衛為三・朝比奈駿河守・三浦兵部丞など、一万余人にて進み来り、大草村に陣を取れば、二の手として勝頼自ら旗本を以て進み出で、大草の郷に相続いて、一万余人にて、大草平といふ所に、本陣を居ゑて対陣し、残り一万は、相替らず明地の城を取巻きて攻立て畢。武田の先将山県三郎兵衛、鶴田山の麓を左の方へ少し廻り、備を立直して突懸り、爰にて敵味方入乱れて、大に挑み戦ひぬ。織田方利を失ひ、上道三里を退きて陣取りぬ。而して武田勢は、終に明地の城を攻落し続いて飯狭間をも乗取りて、其の猛威あたりを払ひ、以下十八ヶ城、悉く攻落して悦び勇み、其辺の仕置は、岩村の秋山に命じ置き、猶又加勢を添へて守らしめ、同三月二日、恵那郡を打立ちて、参州の方へと引取りける。依つて信忠も、軍勢を引上げ帰陣せらる。尤武儀郡高野と於里の両所に要害を拵へ、高野には、川尻与兵衛を籠め置き、於里には、池田勝三郎を入置き、土岐郡鹿山には、森勝蔵を差置き、岩村を押へさせ、岐府へ御帰陣なされける。而して後、天正三年の五月、織田信長、徳川家と一手になりて、参州長篠に於て、武田勝頼と大合戦あり。長篠の合戦此時、武田方大に破れ名ある諸士共、悉く討死し畢。信長甚だ勇み給ひ、其勢を以て、直に岩村に押寄せ、攻動かし給ひぬ。然れども、守将秋山以下二千余人、少しも屈せる色もなく、命を惜まず防戦しけるにぞ、寄手の大軍、数日烈しく攻立てけれども落落の体もなかりけるまゝ、依つて信長、諸兵に下知ありて、城攻を暫く止めしめ給ひ、只々遠巻にして、兵糧の尽くるをぞ待ち給ひ畢。是に依て、天正三年の六月二日より、城を攻め始め、十月に至る迄、勝負の色もなく、城を取巻き日を送り畢。然るに城中の輩、秋山を始め、何れも頗るオープンアクセス NDLJP:86勇士なりしかども、当夏参州長篠にて、味方敗軍の後よりは、何となく心怯れ、自然と兵卒も労れけるの所、而も形の如く城を取囲まれぬれば、次第に糧も乏しくなり、落去近く見えぬれば、秋山も斯くてはならじとて、夫より甲州へ使を立て、早く後詰をなし給はるべしと乞ふ。然れども勝頼、長篠にて後れを取りしより以来、能き勇臣等なくなりけるまゝ、後詰の事も叶はざりける。依つて勝頼、信州木曽にありける勝頼の妹聟木曽左馬頭義昌に下知して、二千余人の兵を以て、後詰をさせしむる。然れども義昌も、織田勢の勇猛尖なる気色を見て恐をなし、信州可児の辺迄は来りつれども、夫よりは敢て進み得ず、只徒に日を送りぬ、然れば岩村の城中、弥兵糧尽きて難儀となり、落行かんと思へども、織田の大軍、十重廿重に取囲み、水も洩らざるやうに、遠巻にして守りぬれば、何れ出づべき透もなければ、只忙然としてありけるが、斯くては、城中終に飢死になるべし。此上は、命を捨てゝ打つて出で、織田の陣に夜討をなし、悉く追払ふべしと評議をなし、十月二日の夜、怺へ兼ねて打つて出で、寄手の陣へ、夜討を懸けたりける。織田信忠を始め、各勢を繰出し、相支へて烈しく戦ひ、又々城中へ追入れける。尤此戦にて、城兵の内、浅利与三郎義益・遠山五郎友長・沢中左忠太光利・飯妻新五郎・小杉勘兵衛などいふ兵共討死しける。又後詰に来り居し木曽左馬頭も恐をなし、木曽の福島へ引退き畢。然る上は、城中弥気力労れ、兵糧なくなりけるまゝ、大に難儀困窮して、貯へある所の金銀財宝はいふに及ばず、鎧・甲・馬・物具に至る迄、段々に取出し、手頼たよりを求め、近郷近村の百姓共を頼み売渡し、兵糧塩噌等に取替へてやうとして、其日々々を送りけるが、是又永からず、終には又々其手段も尽果て、今日早悉く飢に臨み、中々城をも抱へ難く相成りけるに、後詰の勢も来らざれば、さしもの秋山以下の輩も、最早詮方なかりければ、此上は降参をなし、城を渡して落行くべしと評議をなし、同十一月五日に至り、秋山伯耆守・座光寺左近之進・同勘左衛門・同与市・大島杢之助・同織部等、笠を出して降参を乞ひ、一命を助け給はらば、城を渡し申すべしとわびけるにぞ大将信忠之を聞召し、其儀ならば、一先づ父君に申上ぐべしとて、右の趣、言上せられ畢。信長聞召し、此期に至り、降参して命を生きんとは事をかしけれ。さり乍ら先づ其由得心すべし。而して斯様オープンアクセス NDLJP:87斯様に相計はるべしと、御下知をせられ畢。信忠畏りて、其由を味方の諸軍に相示し給ひつゝ、信忠岩村城を陥る斯くて降参承知せり。早々開城して、何処へなりとも落行くべしと、申送りけるにぞ、城兵共に甚だ喜び、各妻子従類を引連れ城を出でて、信州の方へと落行きける。時に天正三年十一月六日なり。此面々、段々に打連れ、切所の地を越えて落行きける所を、織田勢之を遣過して、四方よりひたと取包み、後先を取切つて、悉く駈立てけり。武田勢は大に驚き、扨は信忠にたばかられたるか、口惜しやと怒り憤り、必死となりて戦ひける。然れども織田の大軍に叶ひ難く、爰に於て悉く討たれ畢。大将秋山伯耆守は、織田方の蜂屋兵庫頭が郎等勝山頓兵衛・同頓八兄弟の為に生捕られける。扨又座光寺左近之進・大島杢之助等も、池田・河尻の手へ生捕りぬ。其外、座光寺勘左衛門・同与市・并に城兵遠山市之丞・同次郎三郎・同大膳・串原弥兵衛・高木十内・高坂求馬・深淵伝左衛門・久保原内匠・大船五六太等以下、悉く討死しける。信忠、勝鬨を作り、悦び勇み、頓て三人の生捕を引立て、信長の方へ送り参られ、則ち岩村落去の由を言上せらる、信長殊に悦喜ありて、内々秋山には、多年の恨浅からず、段々重なる存念ありしに、今こそ本望を達したりとて、直に夫より兵士に命じて、又秋山が妻をも倶に搦め捕らしめ、此夫婦の者共、不義を発し、我が子御坊丸を甲州に送りて、人質となしつる事、其憎しみ止む間なし。因果歴然、其報、思ひ参らせんなりとて、頓て秋山夫婦の者を、役人の手に渡し給ひ、十一月八日、岐阜長良の河原に於て、両人を一所に立並べ、終に磔に掛けて、殺し給ひ畢。其時、秋山の妻室は、声を上げて泣き悲しみ、我れ計らずも、女心の果敢なき故に、何心なく得心せしとはいふものゝ、信長の為には、我れ現在の伯母なるぞや。斯る死を与ふる迄には及ぶまじきに、情なき非道の振舞、不孝とやいはん大悪とやいはん、我は其罪赦すとも、争でか天が許し給ふや。見よ追付因果巡り来て、苦しき死に逢ふべきよと泣叫び、声を発して死せられけると云々。曰く彼の秋山が妻女といふは、正しく信長には実の伯母なり。然れどもいかに憎しみあればとて、是程迄に、辛き沙汰には及ぶまじき事なれども、夫秋山と一味して、御坊丸を甲府へ遣したる、其恨みぞと申しける。然れども、磔迄には及ぶべけんや。信長の悪心、莫大なり云々。現在の伯母をオープンアクセス NDLJP:88殺す事、其罪最深し。古語にも曰く、伯父は父に続く、伯母は母に続くと云々。不孝の罪最多し。御坊丸を殺したる恨にても、又格別の事、まして質として送りしのみなり。我子の憎ありとて、父母に同じき者を殺すの謂れ、曽てなし。然れば信長時の運と、暫くは果報のいみじき武徳を以て、一旦天下の武将となり給ふとは雖も、天の憎まんずる時節来れば、暫も耐らず、後に其臣光秀の為に、父子共に敢なく討たれ給ひけるは、斯様の罪や報の数々、年々に重なり、月々に増り、積りて、終に亡び給ひけるものなり。己が罪己を責むるとは、此等の事をや申すべきと云々。斯くて岩村の城、既に落去したれば、信長御満足ありて、則ち岩村の城をば、川尻与兵衛重遠に下し給はり、其上肥前守になされて、城主とさせられ畢。又毛利河内守秀頼には、同郡明地の城を下されける。是は其先、遠山勘右衛門が居城なり。扨又蜂屋兵庫頭〈出羽守といふ〉には、旧領加茂郡蜂屋の城に、一万石の加増を仰付けられ、守らしめらるる。過ぎし元亀二年の春、秋山・岩村の城に住し、天正三年十一月に滅亡しける。其間五ヶ年なり。然れども城の破滅はなく相続いて、是より川尻肥前守在住せり。誠に当城は、其守将代るなりといへども、要害堅固にして、城地、神慮には叶ひし故にや、数百年来破滅の事なく、万代不易の名城なり。此河尻肥前守といふは、其先祖清和源氏として、摂津守頼光の舎弟大和守頼親の三男、福田次郎頼遠の末流なり。頼遠の子柳津源太有光、其子石川四郎光家・其子石川太郎光盛、其子河尻五郎光兼、其子河尻修理亮助廉・其子同太郎助光・其子又次郎俊助・其子河尻孫次郎俊光・是より十一代の後裔、肥前守重遠なりと云々。此度岩村に住し、五万二千石を領せり。其後天正十壬午年四月、武田四郎勝頼、甲州天目山にて滅亡の後甲斐・信濃・上野等の武田の闕国を、信長より、諸将に分け与へ下し給はる。此時、河尻肥前守には、甲州を一円に給はり、岩村を捨てゝ、甲府に移り、十九万石にて在住なり。其跡岩村には、森蘭丸長定拝領して、五万石にて在住なり。此森蘭丸は、信長の旧臣濃州土岐郡兼山の住人、森三左衛門可成が二男にして、勝蔵長一が弟なり。然るに蘭丸、是に住すると雖も、其守護永からず。同年六月二日、京都本能寺に於て、明智日向守が臣安田作兵衛国次が為に討たれ畢。其後、城主断絶してありける所、青木民部一重、少しのオープンアクセス NDLJP:89間之を守る。而して後、天正十八庚寅年九月より田丸中務少輔倶忠、四万石にて是に住す。是は其先、田丸幸太夫というて、勢州田丸より出でし者、太閤取立の武士なり。其後慶長六丑年より、大給の松平和泉守家乗・二万石にて在住なり。
 
美濃国諸旧記巻之五
 
 
 

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