目次
【 NDLJP:138】
美濃国諸旧記 巻之九
宮守山木守の宮の事
池田郡粕川谷の奥にある高山を、俗呼びて
宮守山といひ、其山にある小社を、ゐもりの宮といひ伝へたる事、其由縁を爰に記せり。扨其ゐもり山の上に、長者がだいらといふ所あり。是は長者がだいらか、長左がだいらか、不分明なりと申合へり。按ずるに、昔文永の頃とかよ、宮守長左衛門といふ大勇士、此山に住みしといふ。是に依つて、長左がだいらといふなるべし。美濃大系図を見るに、其由緒漸く顕然たり。然れども宮守と号する事、其謂れ知れずと云々。扨此宮守長左衛門といふ者、其先祖を尋ぬるに、俵藤太秀郷より十代の孫に当りて、所六郎従五位上佐藤伊賀前司藤原朝光といふ者あり。是は頼朝卿の御代、鎌倉の大名の由にて、建保三年、九十
【 NDLJP:139】四歳にして、鎌倉に於て頓死せりといふ。右東鑑に出でたり。朝光の子を、所右衛門太郎伊賀左衛門尉光孝といふ。是は京都の諸司代として、後鳥羽院承久の義兵の始に、召に応ぜざるに依つて、官軍来つて之を攻立て、承久三年五月十五日、京都高辻京極家に於て討死す。右承久戦記に見えたり。二男を、伊賀次郎左衛門光宗入道式部大夫光西といふ。是は鎌倉政所の執事たり。三男、伊賀三郎左衛門光資といふ。然るに朝光並に次男光宗・三男光資迄、父子三代の間、代る
〴〵当国厚見郡岐阜の城に在住せり。扨又光資代に、氏を稲葉と改名す。光資の子、是より永く当国にありて、所々に在住せり。光資の子伊賀隠岐守光盛、其子光房、其子光有といふ。然るに此光有の末子に、伊目良太郎太夫光遠といふ者あり。是は当国山県郡伊目良村に住せり。光遠の子に、伊目良四郎左衛門光益といふ者あり。後に中山総左衛門といへり。池田郡に移り、中山に住すといふ。其子を、宮守長左衛門義益といふ。此者大力量にして、身の丈九尺有余なりしといへり。是を見たる柚人共は、山男なるべしといへり。義益の子を、次郎左衛門光治といふ。元弘・建武の頃の者なり。然るに元弘三年五月、京都に於て、新帝並に後伏見・花園上皇を始め奉り、足利高氏・赤松則村が勢に、六波羅を攻め落されて、関東へ落行き給ふ。其路次に於て、同十一日、近江の国を越え給ふ時に、当国不破郡の住人小笠木次郎左衛門貞政といふ者、大将となりて、先帝後醍醐天皇の第五の宮恒良親王を、江州伊吹山の辺にて守立て奉り、六波羅の落勢を待受けて、之を支へ攻戦ふ。此時宮守光治も、貞政に一味して、宮を守立て奉り、東山道番場の切所にて、大に戦ひ打勝ちて、主上を囚にして、京都に送り奉る。其余の軍兵を、悉く攻殺す。是に依つて、宮守が家に、恒良親王の令旨、並に錦の御旗等ありといへり。一説に曰く、中山の長左衛門といふ者、宮を守立て奉りし故に、氏を宮守と号しけるといふ。則も是が光治の事なるべし。氏の事、又此方本説なるべし。然るを後世に至りて、ゐもりと読み変へしと見えたりといふ。古老の物語に曰く、青木氏・堀氏などは、此末流なりともいふ。扨
木守の宮の事を問ふに、過ぎにし足利御代永和年中に、池田郡中山の山の奥に、いつの程もなく、年の頃三十歳余なる男の、いとやん事なきがありけるが、山の片陰に、いぶせき柴の庵
【 NDLJP:140】を結び、朝夕の煙さへもたえ
〴〵に、いかなる世の営を悲みて、斯くは住めるよと、此山に来りて、稀に逢うたる木樵柚人も、不審なる事に思へり。此男の有様を見るに、長高く健にして、色は極めて白く、眼尖くさかしまに切れ、緑の林に草鹿を書きたる萠黄色の小袖の垢付きたるに、白浪に帆掛舟附けたる素袍の破れたるを、玉だすきかけ、褐のはぎして小節巻の弓の大なる握り太なるに、色色の羽にてはぎたる矢を負ひ、輪宝鍔のかけたる、五尺もありける大太刀を帯し、九寸五分の差添して、峯に攀ぢ谷に下り、麓の里へは出でたる事もなく、山里の習ひ、幼き童人は、貧なる女共の、芝などを苅りに来て、其帰るさに、重荷を負うて難道するなどを見ては、助けて荷を持ち遣り、炭焼する翁の、老苦なるを労り、斯くする程に、後には自ら人も能く見慣れ覚えて、いかなる人と問へども、定かに答へず。是に依つて柚人共、只此人をして、山の大将様と唱へたりける。近世里の子供等の遊び戯れにも、竹木を以て、大小となして腰に差し、小高き所に打乗りなどして、山の大将をして遊びけるといふは、此事なりといふ。然る処、或日の事なりけるが、当国大野郡西国三十三番の札所谷汲山華厳寺の住僧、其頃名を得し不思議の智識たり。金胎両部の壇の上には、四曼相即の花を翫び、瑜伽三密の道場には、六大無碍の月を磨き、久修練行年を重ね、観音の加持日を積れり。去頃、京白河にて、両部の大法を伝へ、諸尊の床を学び、金剛薩陀の位に住せり。其法恩の為め上京しけるが、不破の山越に懸り、池田郡市場滝村を経て、此所を通られけるが、秋の日の習ひ、程なく暮れかゝり、日も山根に傾き、遠近のたづきも知らぬ山中に、往来の人は更になく、猿樹上に叫びて閨を急ぎ、鳥の声かまびすし。計らずも彼男に行逢ひぬ。僧は、いかなる山賊強盗やらんと猶予して、道の傍に蹲り居けるに、此男、やゝ御坊には、何方へ御通り候ぞ。日も傾きかゝる山中、殊に夜に入りぬれば、豺狼の恐れも侍る。里は遠し、いかゞし給ふらん。いたはしき次第なり。我れ夜猟の為め、仮に結び置きたる庵あり。一夜を明し、夜も明けなば、何方へも通り給へと、懇に申せば、僧は、斯る恐しき者の、優しき志やと、兎角伴ひけるが、彼の峯を越えて、一叢茂れる木影の、浅ましき庵に入りける。小柴折くべし炉のもとに、藁を束ねし夜の物ならでは調度もなし。枕の上と思はしき処に、守
【 NDLJP:141】護の本尊と書きたる不動尊の絵像をかけたり。都て食すべき物なし。いかんとしてか年月を送りけん、世には斯くしても過ぐるものかなと、思ひ続けしに、男申す様は、山中の宿に、いかゞしてかは物をも参らせんと、漸う芋といふ物を焼きて、僧にも参らせ、我身も打喰ひてけり。僧はありし次第を見て、抑貴辺は、如何なる御事にて、斯る人倫稀なる山中に、斯く一人居し住まひ、旁不思議に侍る。願はくは其故を、包まず語り給へとあれば、男答へて、申すに付きて便なう候へども、且は懺悔の為め、又は再会も期し難し。夜すがら語り申さん。某は数代当国の武士なりしが、幼少の砌、父の命に依つて、伊賀国の住人名郷太郎安盛といふ者の養子となりぬ。
〈是は新田義貞の英臣名張八郎が兄と云々〉然る所、十四歳の秋、養父を山田の一族が為に討たせて、安からず思ひ、其翌年其敵を討殺しける。然れども敵山田が一族数多ありて、所の住居もなり難く、伊賀の山中にさまよひしに、浮世の習、兎角存ふべきよすがもなく、自ら夜打強盗の身となり、世には我名を、仁王冠者と呼びけり。数多の郎等を従へ、富貴尊家を窺ひ、明暮切取追剥を業としぬ。或時党を組み、卅人計同心して、人家を取廻し打入りて候ひしに、家の主、心早き者にて、散々に切つて追出す。人々を数多討取られ、或は疵を蒙り引きける程に、我が腹心の愛臣たる者、引後れて行方を知らす。扨は家主に討取れぬるにやと、思ひしかども、嗚呼の者なれども、麁忽には討たれまじと思ひ、人鎮まりて後、又我れ一人跡に戻り、隠れてあるべき所々を、小声に呼びて尋ねけるに、大なる柚の木の茂りたる梢に登りて居たりけるが、爰にありしと答ふ。某声をかけ、汝いかにしたるぞ、早く下りよといへども、棘に懸りて下り得ず。時移りける程に、夜已に明けなんとす。いかゞはせんと思ひて、某大音上げ、盗人一人、此柚の木に上りてありぬ。取返して討殺せよと呼びたりければ、彼の男難儀と思ひけるにや、思ひ切つて飛下り、我と連れて逃げたり。彼者身をたばひて、命を失ふべかりつるを、身を捨てゝ下さんと、我れ態と謀事にて助けたり。是を以て、万事をつく〴〵思ふに、只心一つの仕業なるにや。夫より以後、一向に世を捨て、山林幽谷を住家として、我が先祖より数代の住国なれば是に帰り、暮山に薪を拾ひ、一霊の性を見て、万緑の執心を断ち、居安からざれども、彼の浄妙居士の丈室を観じ、食乏しけれども、顔【 NDLJP:142】回が道を楽んで、山河の大地を踏臨し、一乾坤の外に道遥し、形は塵俗に同じけれども、無為を楽み、心は仁聖に通じて、一心法界の源を悟り、多念無相の理を観ず。又此山に年月を送る。されば何方ともなく、美しき女性一人、夜毎に通ひ、独臥を慰め、美食を運ぶ。いつの頃より馴初めて、夫婦と語らひ、浅からざりしに、恩愛の衾の下より、一人の男子を設けて、彼に慰み生を送る。御僧の御宿も多生の縁にて侍れば、又此縁に引かれて、後生こそ頼もしけれ。世も静ならねば、道の程も心元なし。小童を路次の守に附添へ奉らんと、いと頼もしく語りける。此僧も、奇異の思をなし、扨御妻女・御貴子はと問へば、男、答に、御侍ち候へば、暫く過ぎて、母子共に来りなんとて、兎角する程に、亥の刻計にもやと覚ゆる時に、嵐一通り烈しく落ちて、其凄じく山谷に轟き、樹木の枝に靡き、物淋しき折節、十四五歳計りの童の、髪を唐輪に束ね、面の色白く清らかに見え乍ら、目の内するどきに、小弓に小矢を打番ひ、松明を点し来れり。後に年の頃廿余歳に見えて、容顔美麗の女性、組みたる籠を左の手に下げ、物優しく静に内に入りぬ。扨亭主に、慇懃に礼を尽して、此僧を見て、驚きたる体もなく、いとゞさへ旅のうきなるに、斯るいぶせき庵に宿らせ給ふ事の痛はしさよ。未だ夜も深く侍りしとて、斎を供養し侍らんと、持ちたる籠の内より、様々の美しき目馴れぬ物を、数多取出して、小童に通ひをせさせ、僧にも与へ、亭主にも喰はしめける。女性の容体、童子の取成、山中にありと雖も、其気高き事譬へん方なく、少しも賤しき体曽て見えず。又斎の味ひ、又と世に有難き珍味にてぞありける。斯くて小筒の内より、酒を取出し進めければ、僧は禁酒にて呑まず。僧の曰く、斯く離れたる住居、いかに夜毎に通ひ給ふらんといへば、女性答へて曰く、其事に候。我が身は、此峯の彼方に住む者にて侍るが、さる仔細ありて人目を包む身なれば、斯く夜毎に通ひ侍る悲しさ、思ひやらせ給へとて、詠める歌に、
世の外に住みやならへるやま祗の木もりと人の名にや立つらん
主の男取敢ず、
おのづから馴れて来ぬれば木の下に世を捨つる身の名をもいとしゝ
斯くて東雲漸う明けなんとす。帰京の折節、尋ね問はせ給へと出立ちて、小童を、道【 NDLJP:143】の案内者とし、弓矢搔負ひて、甲斐々々しく伴ひ連れ、山中を凌ぎ出で、歩みを進むる駅路の、駒の沓懸の里を打過ぎて、愛知の河原に出でけるに、昨日の雨に水増して、白浪岸を洗ひ、逆水堤に余れり。橋落ち舟なうして、登り下りの旅人道絶えて、南北の岸に群れり。此僧、川端に大なる石のありけるに座を組みて、南方に向ひて秘印を結び、真言を誦し、三密平等観に住し給ひければ、此石忽に浮びて、河を南へ渡る。毛室が亀に乗り、張騫が浮木に会へる如く、向の岸へぞ着き給ふ。此童之を見て、やゝ待ち給へ。御供しつる身の、是より罷帰らば父母の恨みん。是非御供といひも敢ず、箙より鏑矢一筋抜出し、弦巻なる弦を取り、片端を鏑の目に附け、今片端を我が脇に結び付けて、其矢を弓に差はげて、向の岸を指して、能引きて放ちたれば、其矢彼の童を引下げて、川の西五丁余を飛びけるに、川の中程にて、勢や尽きけん、落ちんとしけるを、又其矢を取つて射放ちたり。則ち川を過ぎて、向の岸に遥なる、大日堂の前なる畠の中へぞ立ちにける。あれは如何に〳〵と、数十人の者共、両方よりどよめきける中に、此童、何地ともなく失せにけり。斯くて僧は、泣々京着しけるに、思の外なる事共ありて、心ならず程経ける。然るべき寺院に入寺しけるが、供の仕丁もなく、如何せんと案じけるに、彼の童、何処ともなく罷出でて、御供の仕丁の事、営み侍らんとて、夜すがら藁にて人形を拵へ、密に行しけるに、残らず人の形となり、きらびやかなる仕丁となり、僧の興を仕りて、公用を勤め、童申すやうは、猶是迄御供し侍りて、御先途に会ひ参らする事、身の本望なり。返す〴〵父母の後生、助けさせ給へ暇申すとて、人形も倶に失せぬ。僧不思議の思をなし、又もや当国に帰り、今一度尋ね見ばやと思はれけれども、公請に暇なく、せめては報恩を謝せばやとて、三七日道場に籠りて、金剛摩尼法を修し、逆修を行ひ給ひしが、遥に過ぎて弥生の頃、只一人、谷汲を出でて、忍びやかに粕川の谷に赴き、ありつる所を尋ね給へども、誰れ知る人もなく、終日山路を分入りて求め給へど、そことだに知らず、其夜は、中山の麓の家居に至り、亭の翁に、爾々と物語せられければ、老人答へて、其事に候。過ぎつる年の夏、不思議に左様の人、我が方に来られ、暇を告げて行方知らずなりにけり。其年月を案じ見るに、疑もなく、御僧の都にて摩尼法を行ひ給ひし日に当れり。さ【 NDLJP:144】るにても、彼の女の歌がらこそ、いかさま其辺に社やあると、彼の老人を案内にして尋ねければ、其峯の彼方の山の影の茂みに、木守の社とて、山の神の祠ありぬと、彼の翁がいへば、さればこそと思ひて、彼の老人を案内として、山又山に、奥深く尋ね上り見けるに、疑もなく小社のありければ、過ぎつる事も懐しく、彼の者共の行ひ澄まして、社の前にて、種々の秘法を修し、暫く観念し給へば、神木の椎の梢に、白雲一村覆ひて、三人の形、ありつるに引換へ、衣冠正しく顕れ、上人を礼し、去頃の摩尼咒の功身に依つて、忽に神仙の身となり、無量の楽を受け、朝には風雲に乗じ、夕には仙境に遊ぶ。誠に報じても猶余りありとて、三拝合掌して、雲と共に消え失せけり。僧も、衣の袖を絞りけり。扨夫より彼の社に並べて、二つの祠を新に建て、翁にも米銭を与へて帰りけるとぞ。依つて此山を、木守山といひけるを、近世俗呼びて、ゐもり。山といひ習はしけるが、是れ又、此故を以て見れば、其謂れなきにしもあらずといふ。何れ此仁王の冠者といひしは、宮守長左衛門光治の子にてもあるべしと申合へり。又右の歌二首は、彼の僧の手跡にて書写して、谷汲山の院下の中に、今にありといふ。当国の中と雖も、此池田郡の山奥に至りては、さのみ深く分入りて、行く人も稀なれば、何さま古は、さま〴〵の事もありしと見えたり。右の女性といふは、蛇身にてもありけるにやともいふ。中山の奥山、越前境の方にて、山の絶頂に、夜刄が池といふ大池あり。当山里にて、百姓共、夏の頃日照打続き、田所旱魃に及ぶの時には、必ず此山上の夜刄ヶ池に雨乞をかける。其例には、馬の首を切つて此池に投入れけるに、忽ち大雨降り出しけるまま、百姓共一散に、山を逃下りけるとぞいふ。扨又、同郡上野村の山の下に、ふるかが池といふあり。是に雌雄の大蛇住みしといふ。天正の頃とかや、岩音兵衛といふ炮術手練の者、此池に至りて、雌蛇を打取りぬ。其時雄蛇出でて、兵衛を追懸けゝるが、漸うにして遁れしといふ。瑞岩寺の谷迄追ひ来り、悲み歎きけるとぞ。是に依つて、此谷を面目谷と号しける。扨又、夜及ヶ池虫損□□ 山々谷々の間に、いぶせき家居して暮しける者とも見えけるが、今以て月代を剃る事を知らず、又言語更にわからず。俗のいふには、平家の落人の子孫なりともいへり。何さま其故も知れざる事なり。其外、大野郡北山の奥にも、平家の余流の者なりと【 NDLJP:145】かや申して、面々の名を聞くに、伝内左衛門・弥平左衛門・甚五太夫・前司・親王・権頭・平内兵衛などといふ。都て近代にあらぬ名を付けたる者共多し。古老のいふには、或頃此面々なるにや、かろさんとかやいふ物を着して、里々に出でて、すはうはなきやというて尋ね歩き、買ひ求めんと申しけるにぞ、里人共之を聞きて、すはうといふは、染物にする物なるやといふ。彼の者共の曰く、さにあらず、着用する礼服なりといふ。其時、里人申すには、近世は素袍は廃りて、上下といふ物流行にて、礼服に着すると申聞かせたりとぞ。是を以て按ずるに、何さま素袍を着用しける時節に落入りて山中に住し、世間を見ざる故に、今の上下といふを見知らざると見えたりと、物語しけるなり。右古老の物語なりけるまゝ、旧記として止めたりける物なり。
白樫村金吾が穴の事
池田郡白樫村の郷士矢野五右衛門といふ者あり。此者の屋敷の後なる山の峯に、一つの横穴あり。金吾中納言秀秋を、此穴に入れて、隠し申しけるとぞ。其故に、金吾が穴といふといへり。扨其由来を尋ね、古老の物語を、是に止めたりぬ。爰に中国の大家宇喜多和泉守直家といふは、赤松家の臣とも、又浦上氏の家臣にて備前国岡山の城主なり。後天正五年の頃かとよ、羽柴秀吉に降参して、備前・美作両国を随へ、五十万石を領して、天正八年に逝去す。此人、生涯の内には、不義の事共多かりきといふ。其子八郎秀家、恙なく両国を領して、太閤に随ひ、任官中納言になりて、威光を天下に輝かしにけるが、父直家が、一生作りて置きける悪種の程、其子秀家に勢ひ来りけるにや、其家を亡しにける。然るに慶長五年、石田三成が反逆に組して、関ヶ原へ出陣せり。其時は、騎馬の侍千五百、雑兵合せて一万五千余人の勢を率して、一方の大将なり。已に九月十五日合戦の時は、関ヶ原の
詰、海道筋より北に常りて、天間山とて小山ありけるに、則ち此所に本陣を居ゑて、先手の備は山を下し平場に立てさせけり。斯くて合戦始まり、双方入乱れて挑み争ひける所、其戦の半の頃ほひ、秀家は牀儿を外してふと立上り、伊吹山の方、道もなき山中に歩み行き給ふ。近習の侍近藤三左衛門尉・黒田勘十郎といふ二人、跡に付きて行きつゝ、何方へ行き給ふと
【 NDLJP:146】窺ひ見れば、次第に足早に歩み給ふ。両人跡を慕ひ行きけるに夫より直に、山奥指して落行き給ふ。近藤・黒田両人も、是非なく主君の供をして、落行きにけり。秀家卿は、二人の者と諸共に、伊吹山の方へ行き、夫より山又山に、奥深く分入りて、不破越といふ山路伝ひに、当国池田郡糟川谷の奥へ踏迷ひ落入りて、中山といふ山里に出でたりぬ。時は九月十六日の七ツ下りといふ。此所を今に浮田越といふなり。夫より漸うとして辿り着きて、河合・小神・上香六などといふ山里を踏迷ひ歩きて、其夜は河合村の辻堂にて、夜を明しけるとぞ。翌十七日谷川に着きて、麓の方へと下りける。然る所に、関ヶ原の合戦にて、西国勢敗北して、多く落人共は、糟川の谷へ落入りて、段々と逃げ来る由を、専ら風聞しけるにぞ。依つて池田郡の里々の郷士土民共、矢野・窪田・国枝・野原・栗野・宇佐美などといへる郷士共、之を聞きて、さらば分捕すべしとて、手鑓を提げて、立集る事夥し。中にも白樫の郷士矢野五右衛門といふ者、粕川を登りに山手を指して、滝村の奥迄至りける所に、半途にて、浮田秀家に行逢ひたり。矢野之を見て、適れ能き取物こそ御参なれと、持ちたる手鑓を取延べ、進み寄りて、其体を見れば、容貌気高くして、大将の出立なり。いかさま只人にてはあらじと思ひ、五右衛門も、何となく痛はしき志出で来て、近く寄りて申上ぐるやうは、殿には、何方へか知辺のありて落ち給ふぞ。見る目も余り痛はしく覚え侍れば、何方迄も、御導き申参らせんといふ。秀家卿始め二人の侍共、爾々の由を物語して、宜しく頼み入るの旨を申されければ、五右衛門心得、召連れたりし家来の九蔵といふ者に命じ、背負ひ参らせよと申しければ、九蔵則ち秀家を負ひ参らせ、足早に急ぎ行きける。然るに、他の郷士国枝左門・野原乙三郎などといふ者共之を見て、追懸け支へけるを、矢野漸う弁を以て言紛らし、鰐の口を遁れ、其日の暮方に、白樫村に着きしかば、我が家に入れ申して、之を大に労はり、さま
〴〵信を尽し介抱しける故に、二人の侍も心を
救し、是に於て中納言秀家卿なりと、有の儘を物語したりける。秀家は、加賀大納言利家の聟君なり。又秀家も、矢野の事を尋ね給ふに、五右衛門曰く、某儀、斯る民間には住し候と雖も、一族共の内にも、作左衛門と申者御座候。是は関東の大名本多出雲守忠朝に仕へ罷在候。今度青野表合戦に付きて、武功御座候由
【 NDLJP:147】風聞に候。併し乍ら、御心安かるべし。親類の者、関東方にありと雖も、変心仕るべき某にはあらず。御安堵ありて、御休足せらるべしと申したりける。是に依つて、秀家始め二人の近習、共に矢野が志を感じ、漸く安心して逗留しける。而して後、二人の侍は、秀家卿の御出世の方便を巡らすべしとて、関東へ下りけり。扨矢野は、秀家卿を深く隠して、人の目耳にも知らさじと、心を付けてかくまひけるが、幸に後の山に、岩穴のありけるを拵へ囲ひ籠めて、其内へ入れ参らせ、いと懇に介抱し、朝夕の食事をも、夫婦の者懐中して進めつゝ、深く隠して、知れざるやうに取かくまひける。折しも秋の末つ方、後の山風吹下し、夜嵐凄じく、其音森々として山彦答へ、株瀬川や糟川の水の瀬の音、鞳々として物凄く、越方行末の事共思ひ廻され、今にも敵兵襲ひ来るかと、肝心を驚かし、扨は夜に入りければ、見咎むる者もあらじと思ひ、土室の内よりよろぼひ出で、昔大塔の宮の鎌倉に於て、土牢に入れられしも、斯くやあらんと恨めしく、小萩が下の虫の鳴きける声々に、鹿の妻恋ふ鳴く音も羨しく、月を友としては、暁の明星に名残を惜み、昼は土中へ埋れ給ふ籠居の苦み、哀れ便なき有様なり。せめての心を慰むる為めにとて、硯と料紙等を乞寄せて、手習などをせられけるが、其折柄に、古歌などを吟詠し、心に浮みしかば、狂歌をして書付け給ふ。
おもひきや天が下なる美濃に着て涙の露に袖ぬらすとは
有明のさすがつれなき命にて人のそしりにあふぞ悲しき
武も運もつき尽き果てし我がみのゝ国かゝる浮世といかで知らなん〔〈本ノマヽ〉〕
山里の岩もと去らず鳴く虫も何れ悲しきことのあるらん
しばしなるうき世の夢のさめぬべし其暁をまつの葉風に
右の歌は、秀家の自筆にして、五右衛門に給はりけるが、今以て矢野が家にあるなり。手蹟最見事なり。然るに、大阪表にては、秀家の奥方等は、加賀黄門利家卿に預りとなりて、恙なく屋形住居せらるゝの由聞えければ、一先づ利家方へ音信して、再び出世の事をなさんとて、大阪へ送りくれべきの由を、申されける故に、矢野領掌して、夫より秀家を、あんだを拵へ是に載せて、病人の体に見せ掛け、其年の十月廿九日、白【 NDLJP:148】樫村を夜深に舁き出でて粕川を渡り、赤坂の宿に出で、上方指して上りけるに、垂井と関ヶ原には、新関を構へて、厳しく守り居けるを、五右衛門、病人なりとかこつけて、数ヶ所の関を通り抜け、其夜は江州鳥居本に泊り、其翌日十一月朔日には、森山の宿に泊り、其翌日、伏見の京島に着きしかば、矢野則ち舟場を廻り、大坂へ乗合の船を語らひ、其夜大坂へ、事なく赴きにけり。斯くてたび屋に至りて、浮田殿も、奥方に対面をせられて、何か始終の事共、委しく物語をせられけるとぞ。扨矢野も、奥方に対面しけるに、我君を厚く世話しくれられし事、忝く候と、懇に御会釈ありて、様々の報謝の礼をせられ畢。秀家も、頓て我れ世に出でなば、此度の厚恩を報謝すべしとて、秀家自筆にて、証文を書認めて、矢野に渡し給ふ。此書付、今以てありける。扨又、奥方より音物として、黄金三十枚に、又妻子の方へとて、小袖を二重賜はりつゝ、御暇申して、頓て古郷に帰りけり。依つて弥矢野氏は、家富み繁昌して、子孫代々白樫村の郷士として連綿たり。秀家卿は運拙くして、石田方の大将分たる故に、其罪軽からずとて、伊豆の八丈島へ配流せられて、跡は断絶したりける。【秀家八丈島へ遠流せらる】扨又、秀家の奥方より、矢野が妻子の方へ送られたる所の小袖二重は、いかにも大切にして、持伝へけるが、是は息女の物なりとて、五右衛門は娘ありけるが、此女子他へ嫁しける時に、其家へ持参しける。又其家にて、女子出生して、成人の後、他へ嫁付しける時には、又其娘に持たしめて遣しぬ。いつ迄も斯くの如くにして、女子に譲りけるとぞ。扨又、此矢野氏といふ者、其由緒を聞きて、あらましを止むるに、元来其先祖は、当国の士にあらじ。右の来由を見るに、元祖の本苗を楊井氏といふなり。始めは周防の国熊手郡楊井津県の出姓たりと云々。昔百済国琳聖太子来朝の時、百司官人供奉の輩に、推古天皇より、多々良の姓を賜はる。其末流、彼国に流布して、武家となりぬ。其内より一家分派して、安芸国矢野郷に出姓して、始めて氏を改め、矢野と号す。則ち姓は多々良なり。後又、大友・大内と、二家分れて繁栄せり。矢野の末流、安芸守通義といひしが、康暦年中に、芸州竹布にて、細川武蔵守頼之と戦ひ打負けて、稲葉七郎通尊と倶に、始めて美濃国に落ち来り、土岐氏の幕下となりて、加茂郡切戸村に住すといふ。美濃大系図に曰く、矢野安芸守通義といふは、明智下野守頼兼入道の聟な【 NDLJP:149】りといふ。加茂郡切戸は、明智の領内といへり。然るに、文安・宝徳の頃に当りて、矢野氏は子息なくして、此時已に家名断絶せんと欲す。然る所、切戸の隣郷福地の城主福地新左衛門光守といふ者の五男作五郎貞範、父の命を受けて、矢野氏の家名を取立て、自ら之を受継ぎて矢野作五郎と号し相続して、後に周防守と申しける。此福地新左衛門といふは、則ち明智下野守入道の曽孫、明智駿河守光清の子なり。然る間、矢野氏は、多々良の姓を捨て、血筋の姓を用ひ、本系には、源姓をすともいふ。周防守貞範の子二人あり。長男矢野右京進貞長・二男作右衛門貞国といふ。右京進貞長の子を、五左衛門貞重といふ。是は当国の執権長井藤左衛門尉長張が老臣となりぬ。然るに長井は、其始め明応の頃、池田郡白樫に要害を構へて是に住し、其後、岐阜の城に移りける。其跡白樫には、矢野を目代として居ゑ置きける。長井は後に、斎藤道三に亡されしと雖も、目代矢野は、相替らず白樫に住して、子孫は後に郷士となりぬ。浮田をかくまひ申したるは右貞重の孫の代なりと云々。其一族に、白樫左馬助貞成といふあり。是は大坂にて、秀頼殿に召抱へられ、武勇の聞えありて、諸人能く知る所なり。扨又、作右衛門尉貞国五代の孫、矢野作左衛門弘資といふは、本多出雲守忠朝に仕へけるが、関ヶ原・大坂両度の戦に武功ありぬ。然るに元和二年、本多家にて政事正しからざる儀あるに依つて、弘資、主家の仕置を恨み身を退き、浪人となり、諸国を徘徊して、其後西国に至り、肥前国に移り、大矢野村といふ所に住しけるとぞ。寛永十五年、肥前天草兵乱の節、大矢野作左衛門といふ剛勇の武士ありけるは、何様此者の出でたるなるべしと、見えたりとぞ。
安次村安八太夫の事
安八郡安次村の辺に、髻つけ池というて、今田所の中に、葭の生ひたる古池あり。并に安次村の大百姓に、高橋伝右衛門といふ者ありけるが、其先祖を、安八太夫と号して、大なる長者なりと、世の人々旧くいひ伝へて、之に付きて、さま
〴〵といふ説ありけるまゝ、其故を知らんと欲して、心に止めて、或古老に其謂れを尋ねて、其物語の次第を聊か記して、旧記に入れたりぬとぞ。其来由は、昔承和・嘉祥の頃とかよ、安八
【 NDLJP:150】郡安次村に住める安八太夫といふ長者あり。一説に曰く、安次といふは、太夫の名乗なりけるまゝ、おのづからあだ名となりていひしなり。氏は高橋といふ。安次を始めとして、其東西の近郷神戸・川西・田村・末森・一色・丈六道・鹿野・受屋敷・騒動島などといふ村々の長として、一かり八町の田地を持伝へて、無双の長者なりといふ。或説に曰く、
【濃州の三長者】青墓の長者太夫と、安八太夫と、桂の花木長者とを、濃州の三長者なりともいへり。然るに安八太夫は、右の里々の長として、家富み栄え暮しける所、或年天下大旱にして、数月雨降る事なく、干魃に及び、人民歎き苦しむ事甚し。安八太夫の一かり八町の田地も、悉く水渇して、干潟となり、稲の作物皆々枯れて、実る事なし。依つて太夫も大に歎き悲しみ、諸所の宮神霊社に参籠し、雨を祈ると雖も、夕方の空もなく、又天水の溜水だになかりき。或日太夫、一僕を召連れて、田地を見廻りに出で、爰彼と順見をなし、稲の枯れたるを見、くよ
〳〵として歩みける所に、とある一つの田地の中に、大なる蛇の一疋、つゞらかきてありぬ。太夫之を見て、何と思ひけるにや、戯ともいふべけん、申して曰く、いかに蛇、汝畜類なりとも、生あらば我がいふ事慥に聞け。我れ今大地の長として、何不足なき身と雖も、数月の旱に依つて、田地旱魃し、米穀を得る事を失へり。汝今其田の内に臥し居るならば、我が領内の者なるべし。殊更汝蛇身なり。然らば、我が頼みに応じて、速に大雨をも降らしめ、数多の田地を助くべし。此事全くならしめなば、我れ又、汝が心に任せて、何なりとも、望の旨を叶へて得さすべしと、語りけるとぞ。扨其夜に入りてけるも、太夫は終日の田廻りに、身心労れけるにや、其夜は早く打臥して、前後も知らず寐入りたりける。然る所、大なる蛇体一疋、太夫が枕元に忽然と顕れ出で、安次に向つて申して曰、我は今昼田所に於て、貴殿の目に懸りし蛇なり。実は是れ大野・池田両郡の境なる株瀬川の奥の、夜刄が池に住める蛇王の眷族なり。貴殿旱魃を患ひて、雨の事を乞ふ。我れいかにも蛇王に願ひて、一夜の中に大雨を下して、全く田作を助くべし。就いては申さるゝ旨に任せ望あり。必ず叶はしめ給ふやといふ。太夫答へて、雨さへ降らしめなば、其願、急度承引せりと申しける。蛇体之を聞きて。さらばというて喜びけるかとすれば、忽ち大雨頻に降り出しけるとぞ。其烈しき雨の音に目覚めて、起
【 NDLJP:151】上りて見けるに、怪しきかな、いかにも大雨降出して、盆を傾る如し。然れども、蛇体とては更に見えず。是れ南柯の一夢にしてありけるとぞ。さり乍ら不思議にも雨降りける儘、且は悦び、且は奇異の思をなし、田作の様子を見るに、忽ち稲葉共、悉くさへ返り、青々として、豊年の耕作となれり。太夫喜び、其日をこそは暮しける。扨其翌日に、太夫が家に、大なる山伏姿の者一人、おとなひ来りて、太夫に対面を乞ふ。長者則ち之を請じて一間に通し、其故を問ひけるに、山伏申して曰く、我は夜刄が池の使の者なり。貴殿の乞ふに任せて、大雨を降らして、耕作を助けたり。定めて満足たるべし。然る上は我が望、約束の如く叶はしめ給へといふ。太夫、実にもと答ふ。行者の曰く、然らば貴殿息女三人あり。其中何れの女子なりとも一人、我に給へかしと望みける。太夫之を聞きて当惑し、我子何れか憎しといふ方なく、不便やる方なしと雖も、一旦誓言を立てし事なれば、いかんとも否み難く、夫より末娘を呼出し、汝家の為めなれば、父の為に、行者の許に参るべしといふ。然れども得心せず、様々歎きて、行く事を否めり。然らばとて、第二番目の女子に向ひ、参るべしといふに、是又さめざめと泣き悲みて、否みたりぬ。太夫も甚だ当惑し、此上は嫡女をして勧めなんと欲しける所に、其総領娘は、此時、一間の中にて、機を織りてありけるが、頓て機屋を下りて、父の前に出でて申して曰く、父上の願に応じ田作を助け、数万の人々渇命をも救ひ給はりし報恩の為め、殊更父の約束の事、子として之を見るに忍びんや。然れども妹両人、辞する事、力なし。此上は妾参るべしとて少しも否める色もなく、織かけたりし白き布機を携へ、父母にも暇を告げて立出でける。山伏頓て先に立ちて出でけるに、前なる池のありけるに、彼の娘姿を映し、櫛を取りて鬢の髪を撫で付けたりとぞ。今の鬢付池といふは是なり。父母も別れを惜み、暫く之を見送りけるに、頓て黒雲起り、又々大雨烈しく降り出しつゝ、四方水煙叢立ちて、両人の面影も、見えざるやうになりける。扨其後、二三ヶ日過ぎて、彼の娘、太夫が許に、忽然として入り来り、全く家居に帰りしにてはあらねども、父母のいとゞ懐しきに、暫く暇を乞うて、対面の為に参りたりと申しける。父母大に悦び、如何なる所に住居し侍るや。折に触れ、尋ね行きたしと申しけるに、されば彼の行者のいはれし如く、夜及ヶ池の
【 NDLJP:152】水底に宿り帰りぬと申しける。母の曰く、何ぞ物憂き事もあるやと尋ねけるに、娘の申すやうは、何も是とて、苦しき事もなかりけれども、昼三度夜に三度、蛭共の多く身に纒ひて、喰悩さるゝ事ありぬ。只是のみ苦しき事なりと申しつゝ、頓て暇を告げて出行きける。其後父母は、猶もいとゞ娘を懐しくあこがれて、紅・白粉・伽羅、其外香具の品々、凡て女子の用ふべき色々の物共を取調へ、之を土産として、遥々夜刄ヶ池に辿り行き、池の辺に佇みて、女子に対面の事を乞ひ歎き、彼の土産の品々を、小き板の上に載せ、扇を持ちて扇ぎ立て、池の半に押出しけるに、頓て右の品々、池の真中などに至りけると、忽ち浪掻立上りつゝ、彼の土産の物を、水中に巻入れけるとぞ。程なく娘は顕れ出で、父母に対面に及びぬ。然れどもありし姿の、露程も変る事なく、互に無事を問尋して、時を移しける其折柄、父母申しけるは、池の中にて存へあるには、如何なる形となりてありけるぞ。其姿を見せよかしと乞ひける。娘聞きて、是計りは見せ申す事歎かはしく候まゝ、達つて許し給へかしと否みける。然れども父母、是非其姿を見せて呉れよかしと、深く頼みあるまゝ、娘も今は辞するに詞もなく、其儘水中に入りけるが、暫くして逆浪大に立上りて、池の内どう
〳〵として鳴り渡りけるが、彼の娘の姿、見しに変りて、恐しき大蛇となり、長き角を振立て、総身悉く鱗顕れ、父母に向ひて頭を垂れ、其儘水中に入りけるとぞ。父母大に歎き苦しみ、呼び叫びつゝあこがれけるが、夫よりしては、再び出づる事なかりけるまゝ是非なく心を残して帰りけるとぞ。娘も、我が父母ながらも、浅ましき我が身の上を、恥ぢたりけるにや、其後、家居に尋ね来る事もなく、又父母尋ね行きても、顕はれ出づる事はなかりける。然れども父母は、娘の事のみ忘るゝ隙なく、其後とても、折々右の用具、其外娘の好める品々を取調へ、夜刄ヶ池に持参して、以前の如くして、扇ぎ出しければ、いつにても池の中程にて、水中に巻入れけるとなり。右の娘、始めて夜刄ヶ池に至るの砌、持参しける白き布機を、株瀬川の流れの中を、引ずり行きしというて、其布の形なりしといひ伝へて、今に大雨にても降りて、水出づる節には、株瀬川の真中にて、而も水底に、白き布のやうなる物、長くうね
〳〵として、所々に見ゆるなり。然れども之をきつと見んとしては、又ある事にてなければ、見定むる事もなし。さり乍ら
【 NDLJP:153】ふと立寄りて、水面を見る時には、誠に水中を、白き布にても流れ行くやうなる体にて、微に見ゆる、尤爰にありぬと思へば、又遥隔ちたる所にも見ゆる。夫を見んと立寄る時は、又其外の方に見ゆるやうなり、此事尤実たりぬ。扨又、右の安八太夫が家は、子孫長久にして数代の星霜を経たりといふ。尤昔の九分一が程もなき身体たりと雖も、当代の安次村の郷士高橋伝右衛門と申すは右太夫の末流とも申す事、何さま虚説にてもあるまじといふ。其故には、近代にても、其辺の里々にて、夏日の頃旱して水に渇し、耕作旱魃に及びける時は、百姓共集りて、彼の夜及ヶ池に祈り、雨乞をかくるに。此時、安次の伝右衛門方へ頼みて手紙を貰ひぬ。百姓共則ち此手紙を以て、夜刄ヶ池に来り、土産として櫛・笄・紅・白粉の類を相添へて、小さき板に載せて、手紙と共に、池の面に浮ましめ、扇を以て扇ぎ出しけるに、忽ち池の真中と思ふ所迄浮み行きて、其儘水中に巻入りける。果して時ならず天掻曇りて、大雨降り出しける。其験ある事、末世の今と雖も、全く不思議の事共なり。其手紙の文体は、只雨を降らしめ給へかしとの事のみなり。扨今安次村と、近郷神戸村にある鎮守山王大権現は、年々祭礼の日には、安次の伝右衛門方へ、神戸村より、七度半の使を立て、而して伝右衛門参向してより社を開き、神輿を舁き出して、祭礼相渡りぬ。所を相離れし事と雖も、今以て右山王の鍵預りは、伝右衛門なり。七度半の使として、神戸より安次へ、七度の使を立て、八ヶ度目には、伝右衛門来り懸りて、彼の使と、半途にて行合ふやうに、相なせし事なり。此山王の鍵預り、伝右衛門仕来りし事如何といふに、彼の先祖安八太夫、雨を乞ふ事に、我が娘蛇身になりし事故、父母之を歎きて、何卒娘其苦界を免れ、成仏得道するやうにとて、其追善の為め、江州坂本の比叡山延暦寺の開山伝教大師を招待申し奉りて、回向を頼み申しける。依つて伝教大師、遥々太夫が許に来向ありて、御経を読誦せられ、懇に供養をせられ畢。其時、太夫が願に依つて、此神戸の郷に、江州坂本の山王を移し申して、一社を造営したりけるとなり。是を以て按ずるに、安八太夫は承和・嘉祥の頃の者にあらじ。桓武天皇の御宇、延暦の頃の者と見えたり。何さま千歳の余を経て、星霜久しく旧りし事なれば、其前後詳ならずといふ。又彼の鬢付池をば𥲆〔
〈椶カ〉〕が池ともいふ。是は此地にて、娘鬢を付くる
【 NDLJP:154】とて、持ちたる適を取落して行きし故に、適が池ともいふなり。蓮といふは、簇〔
〈機カ〉〕を織る道具なりといふ。右池の跡、今田所の中にて、少し計りの空地にして、葭葦の生ひてありける所なりとぞ。是れ皆古老の物語をのみ聞きけるまゝに、記し置くものなり。
美濃国諸旧記巻之九終