目次
【 NDLJP:89】
美濃国諸旧記 巻之六
府内村古城の事并鼻闕泥亀の由来
【府内村古城】大野郡の北の方は、谷汲山観世音参詣の路次の辺、結城の庄の内に、府内といふ所あり。此所に古城の跡あり。其城主の事を尋ぬるに、文安二乙巳年四月、山岸加賀守藤原光範といふ者、始めて之を改築あり。居城とせり。抑此山岸氏といふは、其祖は、加賀の国の住人なり。大織冠鎌足公四代の孫、川辺左大臣正二位の魚名卿の子、従五位下中務少輔鷲取、其子従四位下加賀守藤嗣、其子越前守中宮亮正四位下高房、其七男正五位下常陸介時長、其子鎮守府将軍左近将監利仁、其子斎藤斎宮頭叙用、其子加賀守吉信、其子加賀介忠頼、其子加賀守吉宗、是より六代、今城寺太郎光平五代の孫、山岸新左衛門尉光章といふ。加州江沼郡山岸といふ所に住し、建武・延元の頃、名越太郎時宗・相模次郎時行などを、北国にて討取りしより以来、南朝に組し奉り、新田義
【 NDLJP:90】貞に味方して、越前にて数ヶ度の戦功あり。然る所、義貞生害の後、其舎弟脇屋右衛門佐義助越前を去りて、美濃の国に落ち来りて、大野郡尾徳の山の城に入りて楯籠りけるが、土岐頼康に攻立てられ、其後吉野に参りぬ。扨又、山岸新左衛門蔵人は、脇屋義助の後を慕ひて、是又当国に落ち来り、根尾の長崎の城に入りて籠りけるが、勢尽きて、是より土岐氏に属しける。依つて子孫相続いて、長峯の城主たりける所、光章より五代の孫加賀守光範此結城の庄、府内の地を見立て、自ら一城を構へて、長峯より是に移りて在住せり。然るに光範に男子なし。是に依つて可児郡明智の城主明智刑部少輔光宣の二男を養ひて家督として、山岸作左衛門尉光貞と号し、相続いて当城に住す。其子加賀守貞秀、其子勘解由左衛門光信迄、相続いて住しける所、勘解由左衛門は、斎藤龍興の幕下にして、其頃西美濃十八将といふ其内なり。永禄の頃より、龍興は、織田信長と確執になりて、合戦度々に及ぶ。山岸勘解由左衛門・竹中半兵衛等以下、西美濃の老功の謀士等、軍慮を示して、龍興を助く。然れども龍興暗将にして、其諫を用ひず、非義の事共多かりき。是に依つて、各天命なるを察し、所詮斎藤の家運傾きぬる時節到来ならんと、案に之を推し、竹中は菩提山の城を捨て、栗原山の奥に入りて閑居しける。又山岸も府内の城を捨て西美濃桂の郷の山林に入りて閑居しける。夫より程なく斎藤は没落しける。是れに依つて、府内の城も、永禄七年より断絶し畢。光信の子作左衛門貞連・作之丞光連とて兄弟ありけるが、明智光秀の近士となりて仕へけるなり。天正十壬午年六月十三日、光秀山崎の合戦破れて、坂本に退くの刻、其夜、伏見の小栗栖の里にて生害しける。其時、第一番に光秀の供して、殉死をなしたりけるは、此作左衛門貞連なり。扨又此結城の郷といふは、西国三十三番の札納所、谷汲山華厳寺へ参詣の通路にして、其辺の沼田の内に、鼻闕
田亀といふあり。其由来は、結城府内の城主山岸作左衛門尉光貞、当城主として、明応二年の事なりしが、遊興川狩の為めとて、結城村の辺なる沼田の流を渡りける時に、泥中に一つの
鼈くゞまり居て、光貞が足に喰付きけるにぞ、山岸事ともせず、頓て自ら手を出し、彼の鼈を取つて、引放しけるに、喰付きたる疵口より、血の出づる事夥し。光貞怒りて曰く、此者、我が領内の沼地に住んで、他人の猟害を遁れ、安く身を置き乍
【 NDLJP:91】ら其恩を知らず。領主たる我が足に喰付きて害をなす事、物を知らぬ曲者なり。魚鳥獣虫、共に命を大事と思ふ事同じ。恩を知らずんばあるべからず。此鼈こそ、奇怪の者なれとて、頓て士卒に命じ、領内を出し、他の川水へ流すべしと云々。其時、郎等林半四郎といふ者申して曰く、君宣ふ如く、恩を得て恩を知らず。却て害心をなす魚甲、助けて捨つべき謂れなし。只一剌にして害すべしと申しけるを、光貞制して曰く、死せし怨は、死を以て与ふ。かれが仇は、只一つの喰疵のみなり。然らば只疵をして与ふべし。さり乍ら報じても止みなんかと云々。林が曰く、恩を受けし君にさへ、害をなす悪鼈、余人にはいかなる害をなさんも計り難し。其災を断たん為め、上顎を切つて捨つべしというて、彼の田亀の鼻の所より上の片顎を切落し、主君に害をなしたる悪鼈、永く斯くなりて、苦しめかしといひつゝ、其辺の沼水に投込みけるとかや。然るに其翌日、又光貞、彼の所に至りけるに、泥の面に、鼈数多群り居けるが故に、如何なる事やらんと思ひ、林をして見せしめけるに、不思議や、数多の泥亀共寄りたかりて、昨日の鼻闕田亀を喰殺し居けるとかや。誠に此辺の泥中に住する泥亀共、皆悉く光貞が領内なる故に、人之を害し取る事能はず。さるに依つて、泥亀共安住しぬ。然るを彼の一つの鼈、計らずも光貞が足を悩し、臣下怒りて詞をかけて捨てたりぬ。林が其申す所、則ち理なり。是に依つて、其余の泥亀共之を殺して、領主の恩を思ひ仇を報じて、其怒を安からしむるものか。生ある者、いかでか其理を知らざらんや。恐るべし。光貞も、殊に之を感ぜしと云々。然るに此辺は、山々の間なる地にして、水の流れ悪しく、深き沼沢多かりけるが、不思議なるかな、其所より出づる泥亀は、今以て悉く上の顎なく、見苦しき形なり。俗呼びて、之を鼻闕田亀といふなり。西国三十三番の札所、谷汲の観音へ参詣の通路にして、是に詣でし順礼等は、里人に聞きて、能く知る所なり。右明応年中よりして、星霜遥に経ぬると雖も、今以て鼻闕田亀となりて出生する事、偏に光貞が貴き威徳の故と、知られけるといへり。
十七条村の城の事
【十七条城】本巣郡十七条の城は、土岐伯耆守頼貞入道存孝の八男、土岐八郎頼胤、暦応二己卯年
【 NDLJP:92】八月、始めて改築し是に住す。其後、又同郡穂積に移り住居す。故に穂積九郎といへり。又頼胤は、土岐伯耆十郎頼貞の四男とも云々。後に舟木次郎といふ是なり。又十七条の城は、建武三丙子年正月に、草創せしともいへり。于
㆑時暦応元年正月十六日、奥州の国司北畠中納言顕家上洛の時に、土岐頼遠と倶に是と戦ひ、頼胤も深手を負うて、我が城に引取り帰るといふは、此要害の事なり。同年寅五月十一日卒去す。法名秀山道殿と号す。大日山美江寺の過去帳に見えたり。幼少の子あり。家臣松田何某之を養育して、十七条に住せしむ。成長して、武藤次郎頼実と名乗りて、江州の塩津の合戦に大勢を引受け、武勇を顕しける事、隠れなしと云々。一説に曰、土岐の庶流に、舟木氏はあれども、武藤と名乗りし事ありといふ説、其由来を知らず。頼胤の子ならば、清和源氏の後裔なるべし。塩津の合戦には、武藤次郎藤原頼実討死とあり。然るに頼胤の妻女は、武藤氏の娘なる故に、母方の氏姓を名乗るかと云々。然れども、其子武藤七郎・同八左衛門とて、両人ありけれども、併し一城を守る程の器量もなく、武勇の英名もなし。又後々、何国へ行きけるにや、其先をも知らざりける。又近江山県郡笹賀村に、七条氏の者二三軒あり。其先祖を聞くに、本巣郡十七条の城主武藤の末孫なりといへり。又秋田城之介実季の家に、彼の子孫ありともいふ。然るに、頼実討死の後、十七条の要害は、二階堂三蔵・其子安右衛門尉之を領せり。其後、仙石権左衛門尉秀是に住す。嘉吉二戌年十一月十七日病死、法名雪峯院道寛と号す。此後、和田五郎兵衛利詮是に住せり。享禄の頃より、林駿河守政長住す。
〈或は通政ともいふ。〉其子玄蕃長正
〈幼名市助〉・二男林宗兵衛正三、是に住せり。政長は、元亀三申年十月廿五日卒す。法名前駿州大守月郎宗白大居士。嫡子玄蕃は、甲州の武田信玄の勢乱入して、夜合戦しける時に、討死せり。宗兵衛は落去しける。其後、当城断絶なり。
明智城の事并地の戦記
可児郡明智の庄長山の城主の事、一説に曰、池田の庄・明智の里とも云々。実は明智の庄なるべし。明智の城のありし地を、長山の地といへり。
【明智城】是は字名なるべし。抑
【 NDLJP:93】明智城といふは、土岐美濃守光衡より五代の嫡流、土岐民部大輔頼清の二男、土岐明智次郎長山下野守頼兼、康永元壬午年三月、
【明智頼兼明智城を築く】始めて是を開築し、居城として在住し、子孫代々、光秀迄是に住せり。頼兼の舎兄を、土岐大膳大夫頼康といふ。是は其伯父頼遠卒去の後、総領職となりて、将軍尊氏公より、美濃・尾張・伊勢三ヶ国の守護職を賜はり、其武威甚だ壮なり。又頼兼の弟を、土岐揖斐三郎新蔵人出羽守頼雄といへり。大野郡揖斐の城を開基の人是なり。然るに明智頼兼は、舎兄頼康と倶に、足利将軍尊氏・義詮御父子両公に属して、南朝官軍と戦ひ、数度の武功あり。舎兄頼康の威勢盛なりし故に、頼兼倶に自ら其武威の名高く、近国に隠れなし。東美濃を守護として家富み繁昌せり。貞治六丁未年十二月十二日出家す。善桂と号す。将軍義詮公逝去故なり。其後、嘉慶元卯年七月十六日卒す。年齢七十一歳。法名真誠寺殿前野州大守二品法印善桂と号す。頼兼始の妻は、尾張民部少輔高国の娘なり。後妻は、二木右京大夫義長娘なり。頼兼の子明智小太郎といひ、後長山遠江守光明と号す。将軍義詮公の台命を蒙り、従弟頼兼の猶子となりて、明智家の総領職を拝し、彼の家名を相続せり。此人、智謀軍慮に達し、勇猛絶倫の士なり。身の丈高く七尺八寸、無双の大力量にして、打物の達人たり。其頃足利将軍家の御代にして、五畿内・東山・北陸に於て、無双の大力と云々。北朝に属し、武功の名誉数ヶ度なり。其評、記すに計るべからず。殊に文和二年癸巳の六月九日、京都四条河原の戦に、頗る名誉あり。南方の官軍吉良・石堂・和田・楠・赤松等の諸将、山名時氏が勢と一手になりて、京師に押寄せ、四条河原に陣を取る。此時、北朝将軍方は、大将足利宰相中将義詮朝臣・細川清氏・土岐頼康・佐々木佐渡判官等之を支へ、神楽岡に陣を居ゑ、河原に出でて合戦す。折節此頃は、尊氏公、鎌倉に御座ありて、京都以の外無勢にして、北方の勢、一戦に利を失ひ、京師に溜らず。義詮朝臣、主上を守護し奉りて、東坂本に落延び給ふ。官軍甚だ勇み、少しも透さず後に逼り、襲ひ来る事頻にして、味方退くに難儀なりける所、長山遠州一騎のみ、諸軍に抽んで態と引下り、後殿をなし、比類なき勇戦を尽して、以て主上を安く落し奉る。其談に曰く、洗革の鎧を着し、鹿角の前立の中に、龍頭を居ゑたる六十四けんの星甲を載き、五尺九寸の太刀
〈関の住人金重といふ〉・五尺三
【 NDLJP:94】寸の添指、
〈志津兼氏、〉此二振を横たへ、又刄の渡り一尺六寸に打つたる関鍛の大鉞、柄の長さ七尺二分、之を持つて数多の敵を打崩し畢。其働業、凡者の所行にあらず。而して敵将の内、播磨国の住人赤松弾正少弼氏範と渡り合ひ、双方此鉄を引合ひて、頓て其柄を半より二つに引切つて、物離れとなりぬと云々。後に此両勇の争を論ずるに、光明が勇力、遥に増さりしといふ。宜なるかな赤松は、刄の方を持つて力にし、溜る所あり。光明は柄の方にして、握る手の外るゝ事ありといへり。斯の如く光明が振舞、生涯の武功、記すに際限なし。今度の勲功、主上を始め義詮朝臣、殊に御感ありて、一通の御感状に、九頭龍の星甲を添へて、光明に賜ふ。右光明より六代の孫、明智作十郎光継といふなり。後に駿河守といふ。入道して宗善と号す。文明より大永の頃の人なり。光継に子息数多あり。嫡子を、十兵衛尉光綱といひ、後に遠江守と号す。日向守光秀の父是なり。二男を、山岸勘解由左衛門尉光信といふ。大野郡府内の城主山岸加賀守貞秀の養子なり。
〈光信事は、府内の城記の所にあり。〉三男を、明智兵庫頭光安といふ。後に入道して宗宿と号す。明智左馬助・三宅第十郎などの父是なり。四男を、次左衛門尉光久といふ。明智治右衛門光忠の父是なり。五男を、原紀伊守光頼といへり。原隠岐守久頼の父是なり。
〈原久頼は、関ヶ原合戦にて討死なり。〉次は女子なり。斎藤道三の室となる。織田信長の北の方、井に金森五郎八郎長近等の内室の母は是なり。次の六男を、明智十平次光廉といふ。後に入道して長閑斎といふ。十郎左衛門光近の父是なり。遠江守光総、家督を受継ぎ、明智に住し、代々の知行一万五千貫を領す。
〈今の七万五千石なり〉大永元年の春、山岸加賀守貞秀の娘を迎へて室とせり。光綱、日頃多病なり。天文七年戊戌年八月五日卒す。嫡子光秀、其時僅に十一歳なり。右幼少なる故に、祖父光継入道の命として、叔父光安・光久・光廉三人、之を後見として光秀を守立て、城主とせり。然るに光秀は、生立凡人に変り、幼少より大志の旨ありける故にや、明智の城主として、僅一万五千貫の所領を受継がん事を、望と思はず、家督を嫌ひ、居城を叔父に任せ置いて、其身は遊楽となり、武術鍛錬の為に、諸方を遍歴しける。然る所、当国の守護職斎藤左京大夫義龍は、実父頼芸の仇なる故に、養父道三と父子の義を断ちて合戦を始め、弘治二年辰の四月、方県郡城田寺村にて、終に道三を討取り、【 NDLJP:95】一国を押領し、一色左京大夫と改め、稲葉山の城に在住し畢。誠に道三が多年の不義、諸人皆之を憎んずる所故に、其日の合戦には、多く子息の義龍の手に加はり、道三が許へ馳せ参る者は、少なかりけるなり。然るに、明智兵庫助光安入道宗宿、兼々道三に尊敬せられ、常に厚情を尽しける。元来宗宿が妹は、道三が本室にして、尤早世をすと雖も、一度縁者の因を結びし中なりけるが、宗宿元より大丈夫の勇士なれば、道三が威を慕ふにあらず、縁辺の義父駿河守光継入道宗善が在世の時に、道三之を乞ひ、大守頼芸に申して縁結せし所なり。道三は元来大志あるが故に、明智の家を、一方の楯ともなすの心なれば、常々礼儀を厚くして、懇情を尽しぬ。或は尾州の織田を、他国の垣となして、我が娘をして信長に嫁せしむ。皆是大志の下心なり。既に弘治二年の春に至り、子息義龍義兵を起し、合戦に及びける所、国中の諸士、皆実義を糺し、悉く義龍の手に至りて、道三方微勢となりて、忽に武威衰へて、戦はざる以前に、道三打負けなん事、必然と見えたりぬ。此時、宗宿〈或は寂の字を用ふ〉思ひけるは、某今度の合戦こそ、何れも加はり難し。道三は頗る逆臣なれば、之を誅するは利の当然たれども、渠日頃我を重んじ厚情を尽す事、詞に述べ難し。其下心の程は、身の上難儀の事あらば、頼むべきとの会釈なり。渠既に今大事の期に及べり。某思情に心を引かれて、傾くるにはあらざれども、彼が衰へたる時節を見て、無体に之を攻討つは、大丈夫の所為にあらず。又義龍、実父の仇を討つと号して義兵を揚ぐるに、某道三に与力し是と戦はゞ、土岐・明智の先祖代々へ対して、大不孝といひつべし。此故に両儀決せず、何れも加はり難し。併し某は、進退究まれりと雖も、甥の光秀は、当家の真嫡なれば、是一人は、義龍の許へ参らすべしとて、光秀のみを、稲葉山へ遣し畢。扨弘治二年、鷺山の合戦終り、道三既に討たれて後は、道三一味の面々悉く討死し、残る輩は、皆以て義龍に降参して、国中漸く平均せり。然る所、宗宿は、曽て出仕せず、倩倩思へらく、義龍義兵の名ありと雖も、現在の養父にして、胎内よりの恩甚だ深し。又先の大守頼芸には、本室の実子数多あり。長男一色小次郎頼秀尾州にあり。二男左京亮頼師も又当国にあり。然れば此等を以て義兵を発しなば、実に忠義孝心なるべし。然るに今既に義龍が代となり、我又是に伏しなば、世上の人に之を憎み、宗宿【 NDLJP:96】こそ懇情なる道三をも助けず、又合戦の砌には、義龍にも組せず、命を惜み、運を両端に計り、勝負を詠めて何方へも出馬せず、軍治まり、義龍が代となりしを見て、忽ち身を寄せしなどと、嘲り笑はれんも口惜しき次第なり。殊に某、道三が尊敬を受けし身なれば、諸人の心には道三を心贔屓のやうに思ひ、義龍始め我が心中を疑ひ思はんは必定なり。所詮存らへ、諸人の口外に残らんも残念なり。只速に、当城に楯籠り、華々しく討手の勢を引受け討死して、武名を残さんこそ本意ならめ。さなくとも某、道三とは一腹にもあらんやと、諸人疑ひ思ふ折なれば、城に籠りて、出仕せまじといはゞ、忽ち討手の来らんは必定なり。某潔く死しなば、義ある道三が為にも道立ちぬ。主家の恨は心にあれども、現在の妹の聟の名あり、厚情猶甚し。某五十歳の上に満ちて、惜しからぬ命を、一つ捨てんとして死に迷ひ、恥かしき名を取らば、清和天皇より廿一代の血脈を保ち、汚名を付けざる明智の一家、我のみにて悪名を付け、末代迄恥辱を残さん事、無念の儀なり。早く義龍方へ手切の使を送り、一門を催し当城に楯籠り、討手来らば、思の儘に戦ひて、尸を大手の城門に曝し、本丸に墳墓を残すべしと、思惟を決して、討死と覚悟を極めたりける。時に弘治二年九月に至り、【明智宗宿明智城に籠る】一門を催して、明智の城に籠りける。大将宗宿五十三歳、同次左衛門光久五十歳。其弟十平次光廉は、尾州にありて之を知らず。相随ふ一族には、溝尾庄左衛門・三宅式部之助・藤田藤次郎・肥田玄蕃・池田織部・可児才右衛門・森勘解由等を始め、其勢僅に八百七十余人なりしが、義心金石と固まり、心を一致して籠城しけり。扨右の仔細、稲葉山に聞えければ、斎藤義龍甚だ驚き、早く誅せずんば、東美濃過半、是に従ふべしとて、即時討手を差向けゝる。其時、揖斐周防守光親、義龍を諫めて曰、明智宗宿古今の義士なり。名を重んじ、叶はざるを知つて籠城するは、大丈夫の振舞なり。只速に利害の使者を送り、平に帰伏の旨を申宥め、然るべしといふ。然れども義龍、血気の破将故に之を用ひず、只攻討に決しぬ。是に於て、揖斐も是非なく討手に向ふ。其人々は、長井隼人正道利・井上忠左衛門道勝・国枝大和守正則・二階堂出雲守行俊・大沢次郎左衛門為泰・遠山主殿助友行・船木大学頭義久・山田次郎兵衛・岩田茂太夫等を先として、【斎藤義龍明智光安を攻む】其勢三千七百騎、九月十九日稲葉山を出陣し、明智を指して押寄せ【 NDLJP:97】ける。宗宿少しも恐れず、爰を先途と防ぎ戦ひける。元来城の要害堅固にして、何れ破るべき浅間もなく、攻め兼ねて見合せける故に、其日は、既に暮れたりぬ。依つて其翌日、再び鬨を発し攻寄せけるが、宗宿前夜より酒宴をなし、夜もすがら謡ひ舞ひ、死出の盃をなし、翌日城外に打つて出で、思ふ程に一戦して、早々城に入りて、其日の申の刻、【明智光安自殺】本丸の真中にて火をかけ、悉く自害して果てたりける。康永元午年、明智開基してより、年数二百十五年にして、今日既に断絶しける。然るに嫡子光秀、是迄も城中にありけるが、宗宿是に申しけるには、我々生害せんと存ずる。御身定めて殉死の志なるべけれども、某等は不慮の儀にして斯くなり、家を断絶す。御身は、祖父の遺言もあり、又志も小ならねば、何卒爰を落ちて存命なし、明智の家名を立てられ候へ。并に我々が子供等をも召連れて、末々取立て給はり候やう、頼み申すなりと申置きて死し畢。是に依つて、死を止まり城を落ちて西美濃に至り、叔父山岸光信の許に暫く身を寄せ、則ち此所に妻子、并に従弟共を預け、夫より六ヶ年の間、諸国を遍歴して、武術の鍛錬をなし、夫より永禄五年に、越前の大守朝倉左衛門尉義景に仕官し、其後、同十一年の秋より足利新公方義昭公の吹挙を以て、織田信長に仕へ、後に六十万石余の大名たり。光秀に子数多あり。嫡子を作之丞光重といふ。母は山岸勘解由左衛門尉光信の娘にして、千草といふ美婦たりし。光秀、部屋住になりてありける砌、遊客となりて山岸の許に来り、桂の郷の下館に暫く住しけるが、倶に若年の頃なる故に、密通して設けたる長男なり。是に依つて、明智氏の家督ならず、氏を憚り、母方の氏を用ひて西美濃に住し、子孫は郷士となりてありける。次は女子なり。母は妻木勘解由左衛門範凞の女、本室なり。此女子は、明智左馬助光春の室なり。次の女子は、同治右衛門尉光忠の室なり。次の女子は、細川越中守源忠興の室なり。次の女子は、織田七兵衛尉平信澄の室なり。〈信澄といふは、織田信長の弟武蔵守信行の子なり。〉次は男子にして、明智千代寿丸といふ。後に十兵衛尉惟任光慶といふ。次の男子を、十次郎光泰といふ。次は乙寿丸といふなり。外に養女あり、盛姫といふ。嫡家光重の室なり。実は是れ土岐要〔〈蔵カ〉〕助盛秀の娘なり。古今希代の英婦にして、光秀・光重に後れてより後、自ら大義を志して、国々の諸大名を語らひて、羽柴の世を傾けん【 NDLJP:98】と欲したる程の烈婦なりける。又外に、妾腹の男子あり。子孫は細川家にありといへり。実は是れ左馬助光春の一子たりともいふ。又一人の男子あり。丹波の国桑田郡に、其子孫ありといふ。然るに明智の城は、弘治二年落去してより後、守将なし。斎藤亡びて、織田の支配となりて、又光秀先祖代々の旧跡なればとて、拝領して、家臣石森九郎左衛門を、代官として置きける。地形のみにて、改築はなかりける。
揖斐城の事并地の戦記
【揖斐城】大野郡揖斐の城は、土岐大膳太夫頼康の舎弟土岐三郎頼雄、康永二年未八月、始めて揖斐の山上に一城を開築し是に住し、池田郡本郷城の後見とせり。
【揖斐頼雄揖斐城を築く】故に頼雄は、揖斐新蔵人と号す。舎兄頼康に随ひ、将軍尊氏公・義詮公御父子に属し奉り、文和・延文の戦に功あり。頼雄の兄を明智次郎頼兼といふ。其兄頼康なり。各土岐頼清の子なり。次男頼兼、可児郡明智の里に一城を築き住す。舎兄頼康、将軍家の高家衆として、濃尾勢三ヶ国の守護に任ぜしかば、権威殊に壮なり。頼兼・頼雄、倶に其威甚しく、繁栄他に越えたり。頼兼は、東美濃連枝と号し、頼雄は、西美濃の連枝と号せり。頼兼後には下野守といふ。頼雄は、貞治元寅年四月、摂州芥川の城に移り、是に住して、揖斐出羽守と改む。其跡には、樋口兵庫頭兼親を残し置き、守将とせり。後又、永徳元酉年二月、芥川より揖斐へ帰城し、入道して祐禅と号す。至徳三丙寅年十二月四日卒去なり。頼雄の子数多あり。揖斐左衛門尉讃岐守詮頼・二男兵部少輔光名・三男治部少輔光詮、次は女子、今川貞世入道了俊の室なり。讃岐守頼詮の子も数多あり。長男志津山太郎頼国・二男土岐左馬助頼且・三男揖斐野村三郎河内守頼三・四男揖斐四郎左近大夫友雄・五男左近将監頼友といふなり。四男の左近大夫友雄、家督を受継ぎ、当城主となるなり。友雄の子長男太郎摂津守友行、池田郡西の保の城主なり。二男左近大夫基春といふ。応永十三年戌九月生るといへり。家督相続して、揖斐の城主なり。基春の子、周防守基信といふ。相続いて当城に住す。然る所、基信代に至り、男子なき故に、当国の屋形美濃守政房の五男五郎光親を養子として、家督を譲り、相続させしむるなり。政房の長男を盛頼といふ。二男頼芸・三男治頼・四男光
【 NDLJP:99】尚・五男光親なり。光親は、永正五戊辰年三月二日誕生して、大永二壬午年五月、揖斐基信の家に養子となる。然るに此光親は、生得利発にして、智謀軍慮に賢く、仁義倶に正備の勇士なり。其上父政房は、当国の屋形舎兄頼芸、又大守たるの故に、弟光親其威勢甚しく、諸家も之を尊敬なしける所なり。光親、後に周防守と号し、天正七卯年八月二日卒去なり。七十二歳。然るに近代の説に、光親は、天正八年十二月大晦日、稲葉良通、清水より攻め来りて、翌九年正月元日焼落しぬといひ伝へり。是れ誤なり。実は伊予守に攻落されしは、光親の子五郎光就の代の事なり。依つて其正しき所を、是に止むる。考合して知るべし。扨光親代に、揖斐の山下三輪村に要害を構へ、家臣の出頭堀池備中守氏兼・大西源吾を守護代として、光親は、大桑に出仕なり。古来大野郡に名城なしと雖も、揖斐の城は、其頃名を得し堅城にして、山上本丸天守台卅間四方、二の丸台廿四間四方、各其土形、今に残りあるなり。桂大手、三輪搦手にして、東西北の三方は山続き、其間々の地に、侍屋敷を建てたり。南三輪村表は、杭瀬川の流なり。扨光親の子五郎光就、家督を受継ざ当城主なり。光親は、大守頼芸の舎弟にして、当国の屋形連枝の一家なれば、光就とても大守の甥なれば、其威勢強く短慮にして、武勇人に勝れて剛傑なり。然るに天文十一年、屋形頼芸は、逆臣道三が為に落去ありけるが、道三の嫡子義龍は、頼芸の胤子なる事顕然たる故に、道三も、主君頼芸を攻出すと雖も、嫡子義龍を以て、大守となすべき由誓言す。故に光親を始め当国の諸士、是に随ふ。後に至り、道三は実子ある故に、渠に家督を譲り総領職になさんと欲し、義龍を隔つる振舞ありける故に、揖斐光親、其外の一族外様の面々之を憤り、義龍を守立て、弘治二年秋、終に道三を攻殺し、義龍を以て大守となし、
〈道三が事前にあり、〉光親則ち之を補佐す。義龍の子龍興代に至り、終に信長の為に当国を奪はる。此時光親、稲葉山にて織田勢と戦ひ、討死すと沙汰しけれども、其説詳ならず。然れば是より、揖斐も織田家に降参して、相続いて揖斐に在住なり。扨揖斐落城の事を尋ぬるに、其頃池田郡本郷の城主国枝大和守正則といふあり。是は安藤一族、国枝大和守藤原守房の末孫なり。数代本郷村の城主にして、又本郷の内に、良徳寺といふ禅寺あり。当時には、稲葉良通の父臨仁定門、隠住して居ける故に、正則・良通、折節
【 NDLJP:100】参詣せり。又稲斐光就も、時々参会しけるが、光就・良通・正則・良徳寺に参会して、碁会を催しける所に、光就と正則、碁の勝負の事に付、互に口論に及びけるが、良通之を扱ひ、双方を宥め、漸く怒を晴らし、其日の参会は終りけるが、然れども光就の利分、尤も正しき所なり。良通は、正則の舅なる故に、非を枉げて無体に扱ひける振舞なう。是に依つて、光就甚だ憤り、是より遺恨を挟みける。其後、天正六年寅八月十八日の事なりしが、正則、大野谷汲の観音へ参詣の為め、主従僅にて本郷を出で、株瀬川を越え、道行の慰み、四方の気色を遊覧して赴きける。光就此由を聞き大に悦び、日頃の憤を散ずべき時至れりと、郎等を下知して、正則来る道筋、名礼の崎の広野に伏勢を隠し居ゑ、揖斐城の裏手へ出でて待受けゝる。斯くとも知らず、其日の巳の刻に至り、正則、僅の士卒召具して来りけるを、光就、すは懸れと呼ばはつて大音上げ過ぎし頃碁会の遺恨、良通が不道の扱ひ、其憤を晴らさん為め、疾くより是に相待ちたり。遁すまじと呼ばはりぬ。正則大に驚き、覚のある儀なれば心を決し、少しも恐れず、郎等を下知し切つて懸る。揖斐勢も、鎗刀打振り血戦しけるが、国枝勢も、爰を先途と戦うたり。折節木蔭より、揖斐の伏兵五十余人、瞳と叫んで突いて懸れば。国枝も仰天し、是迄なりと心を究め、太刀を持つて自害せんと思ふ所へ、揖斐の郎等大西太郎兵衛切つて懸り、
【揖斐光就正則を討つ】終に首をぞ取つたりける。正則既に討たれければ、相残る郎等、七転八倒の働して、悉く討死をぞしたりける。其輩には、国枝八郎守則をば、花木藤五郎討取り、上田玄蕃常房をば、小野新六郎討取り、遠藤佐助は、林久次郎親綱討取り、早崎主馬は、松井内記討取り、早崎三次郎は、横屋平兵衛・堀池内蔵両人にて討取り、高橋利左衛門義昌は、山岸十次郎・花木藤五郎両人にて討取り、宇佐美兵太夫は、宮城弥六討取り、中山主水員氏は、松岡幾之丞討取り、中山次郎員俊は、土屋藤三郎家重討取り、久保田才二郎は、揖斐勝之丞討取り、国枝玄休坊は、佐藤金兵衛討取り、萩原刑部丞は、野村十左衛門討取り、荻原友之丞は、玉木久四郎討取り畢。都て名ある郎等十三騎討死しける。其余の士卒、皆散々敗走しける。揖斐方の討死は、細野源四郎・松本主馬春利・桂藤兵衛・弟総兵衛・田中勘兵衛・服部杢左衛門・太田繁之助・兼田藤兵衛・小森五郎兵衛等なり。然れども光就大に悦び、兵士を下知して、早々城中へ
【 NDLJP:101】引入りける。本郷勢の十三の輩、其死骸を取集め、名礼・結城村の辺の土中に埋め、十三ヶ所にて葬りける。其形今に相残りて、谷汲道の傍なる十三塚といふ是なり。然るに、国枝が舅清水の城主稲葉伊予守良通方へ、名礼の戦に命を遁れし者一両輩逃込んで、斯くと様子を告げければ、良通大に驚き、現在の聟を討たしめて、打捨て置く様なし。速に馳付け、敵光就を討取らんと、即時に士卒を下知して清水を乗出し、戦場指して馳せける所に、深坂の峠にて、国枝が家来又一両輩遁れ来り、主人は既に討たれて候。揖斐は早や兵士を纒め、城中へ引入りたりと申しければ、良通無念骨髄に徹し、徒に揖斐の方を白眼みつめ、歯噛をなすと雖も、光就既に居城へ引入りければ、力なく馬を返し、清水へぞ帰りける。光就は頗る勇剛の士なれば、容易には誅し難し。是に依つて折を窺ひ、油断を見済し、不意に押寄せんと、月日を送りけるに、天正八年に至り、十二月下旬に及び、清水に於て、良通急病なりと沙汰しける。是に依つて、家の子郎等、騒動する体にて、近辺を行違ふ輩引きも切らず、揖斐にては、稲葉が振舞、気遣に思ひぬる所なれば、之を聞きて実と思ひ、大に悦び油断をなす。已に十二月大晦日となれば、早春元朝の儀式等取繕ひけるが、明くれば天正九年巳正月元日なり。良通は、形の如く士卒に令を伝へ、大晦日の夜より出馬の用意をなし、兵糧等十分にして、其夜の丑三つ過ぐる頃に、清水を出陣して、揖斐坂
〈揖斐といふは、谷汲道にして、白石より深坂へ越ゆる坂なり〉の辺より打上り、山続に押通りて、城際へ押詰めける。揖斐の城中には、元日新玉の儀式として、斯くとも知らず居たる所に、頓て寅の一天に至りければ、城の前後より、一同に鬨を作り攻立てたり。城中大に騒ぎ立ち、こは敵に不意を討たれたり、面々持口に至り防ぎ候へと、上を下へ周章しける所に、良通下知して、数多の明松を灯し連ね、城の四方山上の樹木へ、一同に火をかけゝれば、忽ち猛火八方へ燃上り、烟の下より、寄手短兵急に攻立てければ、堀池備中守・其子千代寿丸・大西源吾・花木藤五郎以下、思の儘に戦つて討死す。城将光就も、既に討死と馳せ出でけるを、士卒等之を制し、一先づ城を落ちて、遁れ給へと勧めける故に、光就も力なく、城の西より、桂の郷へ遁れ出で、山岸勘解由左衛門光信の、隠館へ落入りたりけるが、東南の風荒く吹き来りて、山上の猛火、忽ち桂の郷へ焼下りければ、其辺残らず、一片の烟とな【 NDLJP:102】りて、残なく焼亡しけり。此時、堀池父子・宇佐美平馬・稲川治左衛門・大西・佐藤・花木・畑野等数多の勇士、討死したりける。稲葉が郎等に、加納悦右衛門、比類なき武功を顕しける。扨光就は桂を出でて、安八郡大垣へ落行き、氏家左京亮直元〈後内籍正といふ〉を頼み蟄居しける。其後氏家は、勢州桑名へ移りける故に、同じく桑名へ赴き、其後、文禄元壬辰年、【光就死去】|濃州石津郡駒野村にて卒去す。五十六歳なり。扨稲葉良通は、光就を討ち得ずと雖も、揖斐の一城焼落し大に悦び、清水へぞ帰りける。此時、揖斐山上の城は断絶しけり。天正九年正月元日の事、未明に落城なり。此故に今に於て、揖斐にて俗説に、朝寝すると城が落つるといふは、此例なり。今に揖斐中、元日の礼勤をば、朝未明よりなしけるは、此例を引きたる事といへり。扨又稲葉は、是より揖斐の山下三輪村の要害に、嫡子右京亮を入置きて守らしむ。然るに良通は、聟の怨なりとて、揖斐光就を攻出し、聊か憤怒散ずと雖も、三代相恩の主君の連枝を、攻落しぬる事なれば、勇士の本意あらずと思ひけるにや、其年の秋、清水の北の方なる山の麓、長良村の釣日寺にて法体して、一鉄斎と号しける。〈一説に、岐阜長良の崇福寺ともいふ。〉然るに光就落去の砌、子息三人あり。長男栄千代丸といふ。此時より、江州坂本に至り、明智の養育にて成長し、後には江戸将軍に仕へけるといふ。二男早世、三は女子なり。成長の後他家へ嫁す。光就の室は、此砌より尼となりて、横倉寺に入るといふ。又徳山五兵衛に嫁すとも聞けり。扨此度の放火に依つて、桂の郷皆類焼して、鎮守八幡宮も焼失せり。然れども、本地は恙なしといふ。後に当社へ、明智光秀の霊を祭るなり。扨又、周防守基信妾腹の子に、揖斐六郎太夫基行といふあり。桂の郷戸〔虫損〕□ 渡といふ所に住しけるが、弘治元年卯八月病死。其子六郎太夫貞行、山岸勘解由左衛門の聟なり。後に勢州近士の家に養子に行くといへり。晩年明智に仕へ、近士となりて、四手衆の内なり。天正十年六月二日、京都本能寺に於て、湯浅甚助友俊と組んで、双方刺違へて死す。貞行の子揖斐造酒三郎といふ。後に作之丞貞次といふ。母は山本対馬守和之入道仙入斎の娘なり。貞次は、明智が山崎合戦の前日に、光秀の遠計に随ひ、濃州に落ち来り、後に江戸将軍に仕へ、子孫関東にあり。康永元巳年三月、揖斐出羽守頼雄、始めて当城を築きて在住せしより以来、揖斐氏代々是に住し、二百四十ヶ【 NDLJP:103】年の星霜を経て、天正九年正月元日、終に落去したりけり。当城は、山上に本丸ありて、山下三輪村には要害ありて、侍屋敷満々たり。山上落去の後は、山下の要害計なり。故に後に之を城に改築し、屋倉・塀・土居・堀などを修覆して、能き一城たり。抑此揖斐といふは、庄号にして、甚だ広大なり。城のある所は、揖斐の庄三輪村といふ。然れども揖斐の本城ある所故に、三輪といはず、只揖斐と号す。揖斐の庄の村々数多し。三輪村を始めとして、桂・南方・北方・房島・仁坂・中津・原野村の内なり。当時此揖斐は、岡田伊勢守の陣屋なり。
揖斐三輪村の城の事
【三輪城】大野郡揖斐といふは、庄号にして、其内の村々多し。然れども三輪山上に城を築きて、土岐出羽守頼雄、始めて是に住し、揖斐と号し、代々在住なせし故に、三輪村を以て、揖斐とのみ唱へしものなり。城は山上にありて其下に曲輪あり。其曲輪は、則ち三輪村なり。然る所に、天正九年正月元日、同郡清水の城主
〈揖斐より清水迄十八丁といふ〉稲葉伊予守、攻め来りて山上に放火し、城を焼落し畢。是に依つて当城破却せり。然る所、山下の曲輪、恙なく相残りてありける所、屋倉・塀・堀共、全く堅固に営ありて、究竟の要害なりける儘、良通之を見積り、捨て難く思ひけるにや、則ち其三輪の要害を、彼是修覆して、嫡子右京亮貞通を守将として入置き、其身は、清水を隠居城として是に住せり。貞通は是迄、安八郡曽根の城に住みしなり。然るに此揖斐の要害は、全く三輪村なりと雖も、揖斐とのみ申伝へて、一城の名を立てたり。扨稲葉は、此節父子四人にして、清水・揖斐並に安八郡曽根、又郷渡、共に四ヶ城を懸持ちしといふ。然る所天正十年六月二日、信長公、明智の為に、京都本能寺にて生害の後、羽柴秀吉中国より帰陣して、同十日、摂州尼ヶ崎に於て、織田家の諸将を集め、弔合戦の評議をなしける。此故に稲葉父子も、是に馳せ加はらんと、濃州より出馬して、江州迄出陣なしける所に、安土・佐和山の辺にて、明智の家臣同名左馬助光春・荒木山城守行重等に駈立てられ、通行する事能はず、空しく居城に退き、病気と称して出でざりける。扨こそ山崎合戦に、稲葉の洩れたるは此故なり。是に依つて、秀吉の不興を蒙り、後暫く
【 NDLJP:104】不和となりけるといふ。扨其後、秀吉の下知として、天正十八年の秋、稲葉父子共に、東美濃郡上郡八幡の城に移りける。是又、郡上の城と世にいふ所なり。其跡揖斐の城へは、石河備中守康行、秀吉に仕へて是に住す。此時、本丸を修造せり。又此時より、清水は断絶。曽根の城へは、西尾豊後守光教入替るなり。又一説に、清水へは、西尾の舎弟修理亮光国在住せりともいふ。然る所、揖斐の城主石河備中守は、其後尾州犬山へ移り、岐阜中納言秀信に属し、関ヶ原の乱には、石田方に組して敗軍せり。後に当城へは、慶長五年子の十月十日より、西尾豊後守光教、江戸将軍に随ひ、関ヶ原合戦に忠節ありけるに依つて、之を感ぜられ、三万石を受領して揖斐を賜はり、曽根より是に移りて居住せり。光教于弟光国は、石田に組せし科に依つて、清水を没収せられ、豊後守に御預にて、揖斐に蟄居せり。然るに光教揖斐に住し、三万石の分限にて城を修造し、二の丸を築き、西尾父子、廿余年在住せり。光教は、元和元年卯七月、駿府に於て卒去す。嫡子ありと雖も、幼少に付きて、秀忠公より、木下淡路守利当の嫡子を養子として、家督を相続し、後又豊後守といふなり。其後江戸内室の讒言に依つて、跡目相続の議論起り、家中思ひ
〳〵にして政事乱れ、終に断絶に及びける。此節、揖斐の町外れに曲輪を構へ、堀など掘かけゝるが、此事成就せずして、断絶に及びけるとなり。是堀など掘りし事、内室の讒言になりしともいふなり。是に依つて、揖斐の町外れ堀の跡、今に残りあるなり。扨夫よりは公領となりて、寛永九年迄、岡田伊勢守善同、之を支配す。尤元和九年に入部といふ。抑此岡田氏といふは、清和天皇の後胤治部輔陸奥守満政
〈満仲弟〉より四代の孫、佐渡前司重宗三代の孫、尾州浦野の住人信濃守重遠が嫡子、同国河辺の住山田先生重直より四代の嫡流として、元暦の頃、木曽義仲に仕へ、宇治・勢多の一の口を堅め、承久の乱には、院方に組し奉り、其名を知られたる山田次郎重忠が十二代の後裔、尾州知多郡岡田村の産岡田助右衛門直教といへり。織田備後守秀信に仕へ、天文の頃、今川義元と、三州小豆坂の合戦に、七本鎗の武名ありし者なり。其嫡子を平馬允、後に長門守重善といふ。織田信長の命に依つて、信雄の老臣となりて、尾州鳴海の庄、星崎の城主となり、十八万石を領すといふ。然る所天正十一未年、信雄の臣下滝川三郎兵衛といふ者、羽柴が反間に
【 NDLJP:105】謀られ、狐疑を含み、忠臣岡田長門守を反心せりと察して、其由主人に訴ふ。信雄元来愚将なる故に、滝川が詞を信じ、長門守を誅せんと志し、勢州長島の城へ召寄する。同三月廿五日、長門守、何心なく登城す。其時、信雄の臣飯田半兵衛・森勘解由・滝川三郎兵衛三人切り懸り、良久しく相戦ひ、長門守討死す。惜むべし、重善、無罪にして横・死せる事、秀吉の奸計なりといふ。長門守の舎弟庄五郎善同并一族岡田宇右衛門・酒井下総守・赤川総右衛門・角倉与左衛門・天野五左衛門・北野彦四郎・山口半右衛門・下方嘉兵衛等、星崎の城に楯籠れり。翌申の三月十七日、参州苅屋の城主に、水野和泉守忠重の嫡子藤十郎勝成
〈後日向守〉攻め懸り懸城せり。其後、庄五郎善同命を遁れ、加藤清正に属し、朝鮮陣に発向す。而して後、江戸将軍家に仕へ、関ヶ原陣に御供す。子
㆑時慶長六辛巳年六月九日家康公より、改めて庄五郎に五千石を賜はり、濃州可児郡姫の郷に移り、美濃郡代として、始めて役を命ぜらる。寛永六年丑九月十三日、伊勢守に任ぜらる。此時、又伊勢・筑後両国の郡代、兼帯にて仰付けらる。同八年正月廿四日、姫の郷を替へて、大野郡揖斐へ所替。此時増高八十石を加へて五千八十石。是より揖斐は、代々岡田家の知行とは相なりける。同年五月廿九日、京都柳の田子にて逝去。法名善同院と号す。然るに、伊勢守善同、始め当国郡代の頃、支配地の内、川並用水などの取扱宜しきに付、万民共悦の為め、後年井水明神と崇む。又武儀郡立花村の辺に大河ありて、田畑道路共に、悉く湿地となり、耕作なり難く、土民等殊に困窮す。川下の村々は、夏日、又水乏しくして干魃しける。是に依つて岡田将監、其患を断たん為に、両方に大堤を築き、要害の為にとて、又小さき並木の木を植ゑたり。此並木、其砌は無益の如くなれども、後年大木となり、悉く用木となりぬ。又湿地を開き、川水を二つに分け、昼夜の番水として、下の郷々、之を取分け用水としけり。其取誘殊に能かりけるにや。土民大に悦び難有く思ひ、其賀として、或老人一首の狂歌をして、之を郡代屋敷の門に立てたりぬ。
用水を昼夜に分けし御さばきは岡田じけなき下の喜び
土民忝き儀を祝せしと見えたり。又番水争ひにも、今以て将監さばきといふ古例、相残りてありける。扨並木の松、無益ならんと流布する輩ありける故に、岡田一首【 NDLJP:106】の歌を残せり。
植ゑおくも我が為なりし並木松末の世思ふ里人のため
果して今に至り、悉く用木となれり。其堤丈夫なる故に、俗之を呼びて、岡田堤ともいふ。又将監堤ともいふなり。善同の子豊前守善政代に、二千石を加増し、七千石となり、代々関東の旗本に候し、揖斐の地頭なりける。
美濃国諸旧記巻之六終