<< 「ハリステアニン」と此世の人々との間の差異は大なり。一は世の神を己れに有し、心に於ても、地上の械繋に縛らるれど、一は天父の愛を希ひ、独り彼を以て其悉くの願望の所帰と為す。 >>
一、 「ハリステアニン」には自己の世界と自己の生活の状態とあり、才智も言語も己に属するものあり、されど此世の人々は生活の状態も才智も言語も活動も異なれり。一は「ハリステアニン」にして、一は世に偏する者なり、彼と此との間の懸隔は大なり。けだし地の住者、此世の諸子は此の地の篩中に撒入れられたる麦に似たるあり、されば浮世の事と欲望と大に紛耘錯雑なる物質的概念の絶えず激動するに方り、此世の転変不定なる思の中にありて、簸はるるなり。サタナは霊魂を震撼し、篩を以て、即浮世の事を以てすべて罪ある人間を簸はんとす。アダムが堕落して誡命を破り、彼に対して権を取りたる悪王に属せし以来、サタナは絶えず誘惑擾乱せる思を以て此世の諸子を簸ふて、地の篩中に衝突せしめんとす。
二、 麦は篩中にありて、簸ふ者のために打たれ、絶えず打上げられて、掀飜せん、かくの如く奸悪の王は浮世の事を以てあらゆる人類を占領して、これを動揺、擾乱、狼狽せしめ、すべて有罪なるアダムの族を絶えず虜にし、これを擾し、これを捉へて、無益の思と、嫌はしき慾望と、地上世間の関係との為に戦はしめん。ゆえに主は将来使徒等に対し悪者の蜂起すべきを預言していへり、曰く『サタナは汝等を麦の如く簸はんことを求めたり、然れども我わが父に爾等の信の盡きざらんことを禱れり』〔ルカ二十二の三十一、三十二〕。けだし造成者は明にカインにつげて、『地にさまよふ流離子となるべし』〔創世記四の十二〕といはれしが、此の言と決定とは、隠然としてあらゆる罪人の状態又は像似となれり、何となればアダムの族は誡命を破り罪人となりて、此像似を隠然己れに受けたればなり。人類は畏懼と戦慄とすべての擾乱の転変不定なる思の為、又欲望と種々多様なる快楽の為に動揺せられん。此世の君は神より生れざるもろもろの霊魂に波を起して、絶えず篩中に旋転せらるる麦の如くし、人間の思を種々様々に騒がし、すべてを動揺せしめ、世の誘惑と肉身の快楽と畏懼と擾乱とを以て捉へんとするなり。
三、 されば主は悪者の誘惑とその欲する所とに従ふ者がカインの姦悪に肖たるものを己れに有するを證し、彼等を責めていへり、『汝等はなんぢらの父の慾を行はんと欲す、彼は始より殺人者にして真実に立たざりき』〔イオアン八の四十四〕。ゆえにすべて有罪なるアダムの族はアダムの定罪を隠然己れに有し、呻吟戦慄して、汝等を簸ふサタナの為に、地の篩中に動乱せん。一のアダムよりして全人間は地上に蔓延せり、かくの如く一の或情慾の腐敗はすべて有罪なる人間に透徹して、凶悪の王は独り転変不定なる、物質的なる、虚妄なる、擾乱なる思を以て、あらゆる人類を簸ふを得たり。たとへば一の風があらゆる草木と種子とを揺撼する如く、また一の夜の闇黒が全地にひろがる如し、かくの如く誑の王は罪と死との或る心中の闇黒となりて、或る晦蒙惨烈なる風を以て、地上すべての人間を動揺旋転せしめん、転変不定なる思と世の欲望とを以て人心を捉へ、すべて上より生れずして、『我等が居処は天にあり、』〔フィリッピ三の二十〕といへるごとく思を以ても智を以ても他の世に移らざる霊魂に無智、盲昧、遺忘の闇をみちみたしめんとす。
四、 真実なる「ハリステアニン」の一切人間に卓越するは、此点にこそあるなれ、されば我等已に前文にいひし如く「ハリステアニン」と他の人々との懸隔は大なり。けだし「ハリステアニン」の才智と理解とは天上の事を深く考ふるを以て常に占められ、聖神の親與とこれを享くるとにしたがひ、永遠の福を直視するにより、彼等は上より神によりて生るるにより、又其実際と能力に於ては神の子となるを賜はり、多くの長久なる苦行と勤労とを以て、恒久、堅固、平穏、安息に達するを得て、不定無益なる思の為に散乱ぜす、又波を起さざるにより、これを以て彼等は世より上にありて、世に勝越するなり、何となれば彼等が才智と心中の深き考とはハリストスの平安と神の愛とに在ればなり、主もかくの如き者等に論及していひ給ひし如し、曰く彼等は『死より生命に移れり』〔イオアン五の二十四〕。故に「ハリステアニン」の卓越するは外貌にあるにあらず、表面の状態にあるにあらず、多くの人はすべての差異を此点にありとなし、「ハリステアニン」は外部の容貌と状態とを以て其間に卓越すと思ふものの如し。然れども視よ、彼等は才智を以ても理解を以ても世に似同し、彼等にあるものは他の悉くの人類にも同じくこれあり、思の疑惑も紛乱も同じくこれあり、不信、擾動、撹乱、畏懼も同じくこれあるなり。外貌と、意見と、亦或る外部の功労を以ても彼等世に卓越すといへども、心と智とは浮世の械繋に縛られ、神よりの慰安と天上霊界の平和とを其心に有せず、何となればこれを尋ねずして、これを神より賜はるを信ぜざればなり。
五、 新しき造物たる「ハリステアニン」の世に於て悉くの人類に卓越するは、智を革新すると、思を平安にすると、愛と、主に対する天上の服従とにあるべし。主の来り給ひしも実に主を信じたる者に此等の霊界の幸福を賜はらんがためなり。「ハリステアニン」に光栄と美麗と得もいはれざる天の富は属せん、これ労と汗と試誘と多くの苦行とを以て求め得らるるなり、然れども他にあらず神の恩寵に由りてなり。それ地上の王の顔を視るはすべての人の懇願する所ならん。誰か帝都に来るあらば、或は衣服の粧飾、或は白斑紅石の美麗、異様なる真珠の善美と、冕旒の殊飾と、王の記号の貴重なるに於て、ただ其美麗を一見するのみなりともすべての人の願ふ所なるべし。ただ神的に生活する者は此等を高く估価せざるなり、何となれば他の天に属して肉身に関せざる光栄を実地に試み、他の得もいはれざる美の感に刺され、他の富に分前を有し、内部の人により生活し、他の神を受くればなり。しかれども世の神を己れに有する此世の人々の為には、地上の王を見、特に其の全き光栄とを見るは最願ふ所ならん。けだし王の䰗の赫々たる高貴が他のもろもろの人の䰗より大に超越する程は唯彼を見るのみなりとも、すべての人の栄として懇願する所なり。さればすべての人は自から心にいはん『アゝ誰か此栄と此美麗と此壮飾とを我にも與ふるあらば如何ぞや』と。かくの如く人は彼の己れと同じく地に属する同情の者にして、死すべき者なるも、一時の壮麗と一時の光栄とを以て人の願望を起さしむる所の者を讃美せんとす。
六、 しかれども地上の王の光栄は肉に属する人々の為にかくの如く大に願はしからんには彼の神聖なる生命の神の露が滴りて、天の王ハリストスに於ける神聖なる愛を以て心を感刺せられたる人々は彼の真実信誠なる永遠の王ハリストスの美と、得もいはれざる光栄と、不朽なる壮麗と、人智の測るあたはざる富とを更に愈愛慕せん。彼等はハリストスに全く向ひつつ、大なる願望と愛の為に虜となり、心神にて直視する得もいはれざる幸福を捉へんを希ふ、ゆえにこれを以て地上の如何なる美にも、光栄にも、壮麗にも、尊敬にも、王公の富にも易へざるなり。何となれば彼等は神妙なる美の感に刺されて、天上不死の生命は其霊に滴ればなり。ゆえに彼等は天の王の独一の愛を願ひ、大なる希望を以て彼独りを目前に有して、彼の為には世のもろもろの愛より脱し、もろもろ地上の械繋より遠ざかるなり、ただ此の一の願望を心に有するを得て、他の何物をもこれに混ぜしめざらんが為なり。
七、 しかれども善き終を善き始と合せしめ、蹉跌せずして目的に到り達し、独一の神に於ける独一の愛を有して、すべてを解脱したる者は甚僅少なり。多くの者は中心の悔悟を生じ、多くの者は天の恩寵に與かるものとなり、天の愛に感刺せらるれども、途上遇ふ所の種々なる戦と苦行と労と悪者の試とに得堪へざるなり、けだし人にはおのおの此世に於て何物をか愛して、其愛より全く離れざらんとの望あり、されば殊異多様なる浮世の欲望に立返りて、劣弱と不活動により、或は自己の意志の懦弱なるにより、或は地に属する何物をか愛するにより、世に止まりて其深淵に沈めり。然れども終に至るまで善生活を送らんと実に志す所の者は、他の如何なる愛をも執着をも甘んじて己れに受けざるべく、又その累す所とならざるべし、これを以て霊界の事に妨げを置かざらんが為、又後に逡巡して終に生命をうばはれざらんが為なり。神の約束の大にして得も言はれず、且説明する能はざる程は、われらの為に信と望と労と大なる苦行と長久の試みとを要するなり。天国を希ふ人が受けんと望む所の幸福は軽少なるにあらず。彼はハリストスと共に無窮の世に王たらんを願ふ、然るに此の生命の短き時日の間に於て死に至る迄戦と労と試とを忍耐せんことを熱心と共に自から決せざるか。主は呼んでいへり、『人もし我に従はんと欲せば己を捨て、其十字架を負ひて我に従へ』〔マトフェイ十六の二十四〕。またいへり、『人もし其父母、妻子、兄弟、姉妹、又己の生命をも憎まずば、我が門徒となるを得ず』〔ルカ十四の二十六〕。さりながら人々の中に天国をうけんを志し、永生を嗣がんを願ふといへども、自己の欲するままに生活して、此の欲する所に従ふ者甚多し、確言すれば虚栄を撒く所の者に従ふを辞せざる者甚多し、然らば彼等己を捨てずして永生を嗣がんと欲するはこれ能はざるなり。
八、 主の言は真実なり。主の誡命にしたがひて、己を全く捨て、およそ世の欲望と、束縛と、娯楽と、満足及び欝散を藐んじ、独一の主を眼前に有して、その命を行はんことを大に希ふ所の者は蹉跌せずして進行せん。ゆえにもし人は実に天国をうけ、己を捨てんとの望を起さずして彼を愛するとともに更に何物をか愛し、此世の或る満足又は或る欲望を楽み、自由なる意旨と思欲の為に能くし得るだけ、主に全幅の愛を有せずんば、おのおの自己の自由によりて路を失はん。汝は左の一例によりて此のすべてを理会すべし。すべて人はそのなさんと欲する所の事の何とも不適合なるを時として理会力により察し知ることあらん、しかれどもこれに愛着して其愛を捨てざるが為に、自から勝を譲るなり。先づ其人の心の内部に争と戦とありて、或は神を愛し、或は世を愛するの平均と偏重と過量とを生ぜん。されば其時人は兄弟と争論すべきや否やを思ひ始めて自から心に言はん、『我彼に言はん、否言はざらん。彼と口を開かん、否開かざらん』と。彼は神を記憶すれども、己の名誉をも固く守りて、己を捨てざるなり。しかれどももし世に対する愛と嗜好が心の秤量に於て少しく秤り勝つならば、直に悪なる思は口をも動かしめん。次で智は内部より舌を以て近者を射ること、たとへば引満つる矢を以てする如くし、己の名誉を守らんが為に最早意旨には何等の強制も加へずして、不適当なる言の矢を放たん。其後罪が肢体に漲らざらん間は、不適当なる言を以て近者を刺すをつづけん、されば時として悪なる強求は互に口を以て争論する此の肢体をして打撃負傷に至らしむべく、時としては引て兇行にも至らしめ、死を速にせん。視よ、事は何を以て始まりて、世の名誉を愛するは、人の自己の望みにしたがひ、心の秤量に於て秤り勝ちて、如何なる終を遂ぐるかを。けだし人は己を捨てずして、世に或物を愛するにより、それよりして此の悉くの不適当は生じ来らん。
九、 同じく又各般の罪事と悪なる始計とを想ふべし、悪習は世の欲望と誘惑と肉体の楽みとを以て智の望に諂ひ、これに傾かしめん。かくて諸の邪悪なる行為、姦淫、偸盗、貪獲、酩酊、好貨、虚栄、嫉妬、貪権、及び如何なる悪しき計画なりとも預備せらるるなり。或は一見したる所は美なる始計の如くなれど、名誉と人々の賞讃との為に実行せらるることあり、しかれどもこは神の前には不義、偸盗、及び其他の諸罪とひとしかるべし。けだしいへり、『神は侫人の骨を散さん』〔聖詠五十二の七〕。又一見したる所は善なる行為の如くなれど、これに於て悪者は己の勤労をあらはさんとす、彼は殊異多様にして、世の諸の欲望を以て人を瞞着するなり人が自己の望にしたがひ、己を繋ぐ所の地上肉体の或愛によりて罪は人を捕ふ、されば彼は人の為に械繋となり、鏈鎖となり、重軛となりて、人を悪世におぼらし、且圧して、人に其力を養ふて神に帰するを得しめざるなり。人が世に於て最愛する所のものは、人の智を苦しめ、これを占領して、これに其力をやしなふをゆるさざるなり。悪習の平均も偏重も過量もこれにかかり、これによりてすべての人間は試みられ、凡そ城中に居り、或は山に、或は修道院に、或は田間に、或は曠野の地に居る所の「ハリステアニン」は試みらるるなり、何となれば自己の望みの為に捕へらるる人は、何なりとも愛し始むるや、其愛は其物に結び付られて、最早神に全く向はざればなり。例へば或者は財産を愛し、又或者は権勢を愛し、又或者は金と銀とを愛し、或者は人間の名誉の為に洽博なる世の智慧を愛し、或者は権勢を愛し、或者は名誉と人爵とを愛し、或者は怒と憤激とを愛せり、然れどもこれ速に情に殉ふによりて愛するなり、或者は時ならざる集会を愛すれど、或者は妬忌を愛し、或者は排欝と娯楽とに全日を送り、或者は無益なる思慮の為に誘はれ、或者は人間の名誉の為に教法師の如きものとならんを愛し、或者は無為と懶惰とを楽み、他者は衣服の為、又は襤褸の為に心を繋がれ、或者は此世の慮に耽り、或者は睡眠、戯言、或は猥褻の談を愛す。人は世に繋がるる程は大小に拘はらず、そは人を遮りて其力を養はしめざるなり。人は如何なる嗜好とも勇気を以て戦はずんば、それを愛して、其は人を占領し、人を苦しめ、人のために械繋となり、其心を神に向けて神の意を悦ばすを妨げ、独り神につかへて、天国の為に大に要用のものとなり、永生を捉ふるにに妨げん。
十、 然れども実に主に向ふ所の霊魂はその凡ての愛を全く彼に及ぼし、力ある丈自己の自由なる任意を以て彼独りに結び着けらるるなり、さればこれにより恩寵の助を求め得て、自から己を捨て、其の智の欲する所にしたがはざるべし、何となれば我等と離れずしてわれらをいざなふ悪の為に智は詭りて周旋すればなり。これに反して霊魂は己を主の言に全く従はしめ、意旨のために能くするだけ、もろもろ有形なる械繋より脱して、主に全く従はんとす。さればかかる場合に於ては彼は戦と労と患難とを耐忍するを得ん。けだし霊魂は愛する所の其物に於て己の為に助けをも又苦めをも見ん。もし世に於て愛する所あれば、其物は人の為に下に曳去る所の重軛又は械繋となりて、上に神に登るをゆるさざらん。しかれどももし主と、主の誡命とを愛するならば、これに於て己の為に扶助をも軽減をも見ん、されば主に対する己の愛を全く守るによりて、主のすべての誡命は彼の為に容易なるものとならん。これ人を善に埋むるなり、確言すればこは人を軽うして、悉くの戦と悉くの患難とを人の為に堪へ難からざるものと為すなり、人は神の力を以て世と悪習の力とを貶せん、これ種々様々なる欲望の長き網を以て霊魂を世に網してこれを世の深潭に囲まんとするものなり、かくの如くなればもし霊魂は主を愛するならば、直ちに自己の信仰と大なる勉励とを以て彼の網より奪ひ取らるべく、并て上よりの助を以て永遠の国を賜はらん、されば自己の自由にしたがひ、主の助によりて実にこれを愛して、永遠の生命は最早うばはれざるべし。
十一、 さりながら多くの者が自己の自由によりて亡び、或は海に溺れ、或は捕虜として奪ひ去らるる所以を我等の為に実事を以て明白に證せんとせば、まづ家の焼けんとするを想ふべし、一者は己を救はんと欲して、火事と知るや、直ちに奔りて外に出で、一切を捨て、ただ己の生命を慮るを決心したるにより救はれたり、然るに他者は自身と共に或る家具又は他の何物をか取らんと欲してこれを取集めんが為に家に入りしが、その取集むる間に加勢愈熾になり、彼を家中に押籠めて焼けり。此人の火に亡びたるは自己の自由に循ひ愛による、即自身の外に或物を暫時愛したるによる所以を見るか。次にこれと同様人あり海に浮んで激浪の起るに際会するあらんに、一者は衣を脱ぎて裸体になり、ただ自身を救はんとの意を以て水に投ぜん、視よ波に追はるる彼は、己が生命を慮るの外何を以ても繋がれざれば、波上に浮んで惨憺たる海より免るるを得たり、しかれども他者はその或衣服を助けんと欲して心に思ふやう、もし自身と共にこれを取らば、これと共に浮んで海より免るるを得ん、とされどその取りし衣服は彼を苦しめて、海の深処に溺らせり、視よ、彼は小なる欲心の為に己の生命を慮らずして、亡びたり。自己の自由により死の犠牲となりしを認むるか。また異種人来襲の風説伝播せりと想ふべし、一者はこれを聞くや、直ちに逃奔して、少しも躊躇せず、取る物も取り敢へずして、途に出発せり、然るに他者は敵の来るを信ぜず、或は自身と共に或る物品を取らんと欲し、此事に決意して逃るるを延引せり、されば視よ、敵来りて彼を捉へ、捕虜として異族人の地に曳き行き、かしこに於て勇気に乏しきにより、又或物品を愛したるにより捕虜にせられたるを見るか。
十二、 主の誡命にしたがはず、自から己を捨てず、独一の主を至愛せずして、永遠の火の来らんとき、甘んじて浮世の械繋を以て己を縛る者もこれと同じかるべし、彼等は捕虜となりし者の如く、確言すれば善行の為の罪人となりし者の如く、世に於るの愛に沈溺し、惨憺たる姦悪の海におぼれ、異種人の捕虜となり、即凶悪なる諸神の為に捕へられて亡びん。しかれども主に対する完全の愛の正しきを神の啓示に成れる聖書によりて知らんと欲せば、イオフを見よ、彼はたとへば凡て己れに有したる子女、財産、家畜、諸僕、及び其他の所有物を脱したること如何なるか、また彼はすべてを脱し、奔りて己れを救ひ、且その長下衣をさへ棄ててサタナに投げ與へ、主の前に言を以ても誹謗を発せず、心を以ても、口を以ても、不平を鳴らさず、却て主を讃揚していへり、曰く『主はあたへ、主は取りたまふこと、主の欲する如くなるべし、主の名は讃揚らるべし』〔イオフ一の二十一〕。人は彼を以て利を貪りし者と思ひき、しかれども主の彼を試みるに及び、イオフは独一の主の外何も貪りしもののあらざりしことあらはれたり。アウラアムもこれに同じ、主が彼に『国を出で、親族に別れ、汝の父の家を離れよ』〔創世記十二の一〕と命ずるや、彼はたとへば生国、土地、親族、父母をすべて直に脱して、主の言にしたがへり。其後彼は遭遇したる多くの試練と誘惑の中にありて、或は妻をうばはれし時もあり、或は他邦に侮辱を被むりしときもありたれど、此のすべての場合に於て独一の神を殊に勝れて愛するを證せり。終に多くの年所を経たる後、曾て大に望みたる独生の子を、許約の如く、最早己れに有したるに、神は彼に要求するに此子を献祭するの備をなさんことを以てするや、アウラアムは脱然としてこれを棄て、実に自から己れをも棄てたり。けだし独生の子の此献祭を以て神の外他の何物をも愛さざりしを證せり。されば彼はかくの如く準備して、子を棄てしならば、まして其他の財産を棄て、或はこれを一度に貧者に分たんことを命ぜらるるも全くの準備と悉くの熱心とを以てこれを為さん。今は主に対して完全なる且は任意なる愛の正しきを見るか。
十三、 かくの如くこれらの義人と同嗣者たらんことを願ふ者は、神の外何物をも愛すべからず、試誘にかかる時、主に対する愛を完全に守る所の有用なる者且は熟錬なる者としてあらはれんがためなり。ただ自己の自由にしたがひ、独一の神を常に愛して、世のすべての愛より脱したる者は終に至るまで苦行を全うするを得ん。さりながら如此の愛を感得して、世の悉くの快楽と欲望とより遠ざかり、悪者の蜂起と試惑とを大量に忍耐する人のあらはるること甚少なし。これ多くの者が河を徒渉するとき、水の為に引去らるるによるにあらずや、即世のもろもろの欲望と凶悪なる諸神の種々なる試誘とをみちみてる此の渾濁なる河を幸に越す者のあらざるによるに非ずや。多くの大船の海に隠れて波に没するによるにあらずや、即此の深潭を渡り、波のまにまにゆきゆきて、平安の港に達する者のあるなきが為にあらずや。これによる大なる信仰と、大量と、奮闘と、忍耐と、労苦と、すべての善に飢え且渇すると、敏速と、不退と、細心と、善智とは常に要用なり。労もなく、苦行もなく、汗を流すこともなくして、天国をうけんと欲する者甚多し。しかれどもこれあたはざるなり。
十四、 世に人あり、富人の許に至り、収穫の時、又は他の有事の際に彼の為に働きて、己が糊口の為に須要なるものをうけんを欲す、然るに其中怠惰なる遊を好む者あり、他の人々の如くに労せず、又当然に働かざるなり、しかれども彼は富者の家にありて己を労せず、又疲らさざるも、すべての事を已に仕終へたる者の如くして、他の忍耐と敏速とを以て力を盡して労したる者等と等しく報酬をうけんを欲す、我等も之と同様なり、聖書を読で或は義人の事に至れば、その如何に神を喜ばしめ、如何に神の友又は会談者となりしかを見るべく、或はすべて列祖の事に至れば、その如何に神の友となり又は同嗣者となりしを見るべく、又艱難を幾許忍耐し、神のために幾許の苦をうけ、剛勇なる行と苦行とを幾許成遂げたるを見るあらんに、其時彼等を尊崇讃美して、彼等と同等の賜と価値とをうけんと欲し、彼等の労と苦行と憂愁艱難とはこれを束閣し、彼等の光栄なる賜を得んことを好んで願ひ、又彼等が神より受けたる名誉と尊貴とを獲んことを熱心に願へども、彼等の疲憊と労苦と苦行とはこれを己れに任はざるなり。さりながら爾に告げん、凡の人は此のすべてを願ひ且懇願す、姦淫者も税吏も不義なる人々も労と苦行となしにかく容易に天国を得んを欲するなり。されば誘惑と多くの試みと艱難と戦闘と汗を流すことの前途に横たはるあるは、これが為にして、すべて自由なる意旨により、全力を以て、死に至るまで独一の主を実に愛して、主に対するかくの如きの愛により己の為に他に何等の希ふ所のものも最早あらざることの顕然としてあらはれん為なり。此により彼等は主の言ふ如く、己を捨て、己の呼吸よりも独一の主を至愛して、実に天国に入らん、ゆえにその高尚なる愛のために天の高尚なる賜を以て賞せらるべし。
十五、 許約と光栄と天の幸福の設備は、憂愁と艱難と忍耐と信仰の中に隠るること、たとへば結果が地に投ぜられたる麦粒の中にかくるる如くなるべく、或は傷つけられ、又は屈められて、或る方法に依り接がれたる樹の中にかくるる如くなるべし。時に衣服の美麗と光栄と百倍の果とを有する者のあらはるること、使徒の言ふ如くなるべし、曰く『我等は多くの艱難を歴て天国に入るべし』〔行実十四の二十二〕、また主もいひ給ふ、『忍耐を以て汝等の霊を救へ』〔ルカ二十一の十九〕、またいふ、『世にありて汝等患難をうけん』〔イオアン十六の三十三〕。けだし労苦と勉励と儆醒と大なる注意と敏速と主に求むるに倦まざるとを要するは、我等地上の或る欲望より救はれ、世の快楽と暴風雨の網と長網と凶悪なる諸神の蜂起を避くるを得んが為、又諸聖人が猶此世に於て、信と愛の如何なる儆醒と如何なる猛烈とを以て天の宝を獲たるを実に知るを得んが為なり、即彼等の霊魂に於て天国の聘質となりたる霊神上の力を獲たるを知るを得んが為なり。けだし福なる使徒パウェルは此の天の宝なる神の恩寵を論じ、又艱難の非常なるをあらはし、併て人各々此世に於て尋ぬべきものと求めざるものとを示して、左の如くいへり、曰く『蓋我等知る我等の地上の幕屋やぶるる時は、我等に神より賜ふ所の居所あり、手にて造られざる屋、永遠にして天に在る者なり』〔コリンフ後五の一〕。
十六、 故に人おのおの奮闘し、悉くの徳行に大に上達して、彼の幕屋を得んことを盡力すべく、且彼の幕屋は此世に於ても得らるべきを確信すべし。けだしもし我等の形体の幕屋が破るるならば、我等が霊魂の居るべき他の幕屋は我等にあらざればなり、いふあり、『第願くは衣たる後にも仍裸ならざらんことを』〔同上三〕と。これ言意は信誠なる霊魂が独り安んじ居るべき聖神との体合一致をを奪はれざらんことを願ふとなり。ゆえにすべて実際に於ても、能力に於ても、「ハリステアニン」たる者は、此の肉体より出でて、彼の『手にて造られしに非ざる幕屋』を有するを堅く希望して喜ばん、此の幕屋は是即彼等に居る神の能力をいふなり。さればもし形体的幕屋の破るるあらんも、彼等は恐れざるべし、何となれば彼等は天上霊界の幕屋と彼の不朽なる光栄、即復活の日に於て形体の幕屋をも造りてこれを表揚せんとするものを有すること、使徒のいふ如くなればなり、曰く『ハリストスを死より復活せしめし者は我等の中に居る所の其神を以て我等の死すべき身をも生かさん』〔ロマ八の十一〕また言ふ、『イイススの生命もわれらの死すべき、肉体に顕れんためなり』〔コリンフ後四の十一〕、『死の者は生命に呑まれんためなり』〔五の四〕。
十七、 ゆえに猶此世に於ても、信仰と道徳の生活を以て、彼の衣服を己れに求め得ることを努めん、形体に衣被したる我等が裸体にしてあらはれざらん為なり、もし裸体なる時は、彼の日に於て我等が肉体を表揚すべきものは一もあらざらん。けだしおのおの信仰と勉励とにより、聖神に與かる者となるを賜はるの量にしたがひ、彼の日に於て其体も表揚せらるればなり。今日霊魂が内部の宝庫に集めたるものは彼の時身体の外にあらはれ出づること、たとへば樹の冬を過ぎて太陽と風の見えざる力が彼をあたたむるや、枝葉花実を内より外に発生開披して、衣服を衣る如くならん、又此の時に於てもろもろの野花も地の内部の懐より発生して、地と草とこれを以て衣被せらるる如くならん、主のいひ給へる百合花の如くならん、曰く『ソロモンも其栄華の極に於て其衣猶此花の一に及ばざりき』〔マトフェイ六の二十九〕。けだしこれ皆「ハリステアニン」が復活の日に於るの比喩となるべく、象様肖似となるべし。
十八、 かくの如く凡そ神を愛する霊魂の為、即真実なる「ハリステアニン」の為には第一の月たる「クサンフィク」あり、これ今の所謂四月にして、即復活の日なり。是の日に於て義の太陽の力により、諸聖者の体に衣被せしむべき聖神の光栄は内部より引出されん、これ彼等が霊中に秘蔵したる光栄なり。けだし今日霊魂が己れに有するものは其時身体にあらはれん。我言ふ、此月は即年の月の首にして〔出埃及記十二の二〕、彼は萬物に歓喜を齎すべく、彼は地を啓きて裸体なる樹に衣被せしむべく、彼はもろもろの動物に歓喜をもたらすべく、彼は衆人の間に和楽を播くべくして、彼は「ハリステアニン」の為に第一の月たる「クサンフィク」なり、是即復活の時にして、彼等の体は今日猶彼等の為に秘密なる得もいはれざる光を以て、即神の能力を以て表揚せらるべくして、神は其時彼等の衣服、飲食となり、喜楽、平安となり、聖服となり、永遠の生命とならん。けだし今日彼等が己れに受くるを賜はりし神性の神は其時彼等の為に天の光明と、美麗の全飾とならんとす。
十九、 ゆえに我等各人は信じ且戦ひ、すべての関係に於て善良なる生活を為すを盡力し、今も猶その霊魂の内部に天より能力を受けて、聖神の光栄を賜はらんことを希望と大なる忍耐とを以て待つは幾ばく肝要なるか、彼の時、形体の破れし後、我等に衣せて我等を蘇生せしむるものを有せんが為なり。録して言ふ如し、『第願はくは衣たる後にも仍裸ならざらんことを』、また言ふ、『我等の中に居る所の其神を以てわれらの死すべき体を生かさん』。福なるモイセイは彼の面を蔽ふて一人も彼を見る能はざる神の光栄を以てわれらに象を示せり、これ即義人の復活に於て聖者の体の表揚せらるるは、聖にして信なる者の霊魂が猶此世に於ても其内部に、即内部の人に有するを賜はる所の光栄を以て表揚せらるべき所以を示せるなり。けだし言へり、『我等みな露はれたる面を以て(即内部の人を以て)主の光栄を観て、其像に変ぜられ、光栄より光栄に進む』〔コリンフ後三の十八〕また録していへる如く、モイセイは『四十日四十夜餅をも食はず、水をも飲まざりき』〔出埃及記三十四の二十八〕。しかれどももし他の霊食をうけざりしならば、餅なくして此丈の時間存命することは身体の性の為にあたはざるべくして、聖者の霊魂は此の霊食を今猶見えずして神よりうくるなり。
二十、 ゆえに福なるモイセイは真実なる「ハリステアニン」が復活に於て神の如何なる光栄と如何なる心神の楽とを有せんとするを二の象を以て我等に示せり、此等の光栄と楽とは今も猶秘密に賜はれども、彼の時には其体にもあらはれん。けだし先に既にいひし如く、諸聖人が今も猶霊魂に有する所の光栄を以てその裸体は衣被せられて天に取られん、さらば其時は最早体を以ても霊を以ても主と共に永く天国に安息せん。神はアダムを造りて、彼の為に身体の羽翼を造ること鳥の如くし給はざりき、しかれども彼の為に聖神の羽翼を備へ給へり、是即復活に於て神の欲する所に彼を挙げ、彼を取らんが為に彼を與へんとする羽翼なり。此の羽翼は今猶諸聖人の霊魂にこれを有するを賜はりて、彼等は天の智慧に智を以て飛揚せんとす。けだし「ハリステアニン」には他の世界と他の食と他の衣と他の楽と他の親與と他の思想の有様とあり、ゆえに彼等は悉くの人類より勝れり。此のすべての能力を彼等は今も聖神によりてその霊魂の内部に受くるを賜はる、故に復活に於ては彼等の身体も彼の永遠なる霊界の幸福を賜はりて、その霊魂が今猶実験を以て試みたる所の光栄にみちみたされん。
二十一、 是故に我等各人は奮闘し、勉励して、あらゆる徳行を懇に練習し、信じてこれを主に求めざるべからず、内部の人が今も猶彼の光栄に與かる者となりて、霊魂は彼の神の聖徳に親與するを得ん為なり、又悪習の汚穢より潔まるを得て、復活したる我等の裸体が着て其醜きを蔽ひ、これを蘇生せしめて、永遠天国に安んぜしむるものを我等復活に於て有せん為なり、何となれば聖書に據るにハリストスは天より来りて、凡そ此世を去りたるアダムの諸族を復活せしめ、これを二部に分ちて、その自己の記号、即神の印記を有する者を自己に属する者となし、呼でこれを己の右に立たしめんとすればなり。けだしいふ『我が羊はわが声をきかん』〔イオアン十の二十七〕、『我に属する者を識り、我に属する者も亦我を知る』〔同上十四〕、其時に彼等が体は善行の為に神聖なる光栄を衣被せられて、彼等自からも今猶心中に有する霊界の光栄にみちみたされん。かくの如く神聖なる光を以て頌揚せられて、天に取去られたる者は、録していへる如く『主を空中に迎へ、常に主と偕に居り』〔フェサロニカ前四の十七〕彼と共に無限無疆の世に王たらん。アミン。