<< 預言者イエゼキリが録せる現象の譬解。 >>
一、 預言者イエゼキリは神聖なる顕現と光栄なる現象を見て之を傳へ、これを記して言ひ難き奥秘を満たせる現象となせり。彼は田間に於てヘルビムの車と四の霊物を見たり。その霊物は各四面あり、一は獅面にして次は鷹面又犢面と人面となりき、而して面には各々翼あり、故に前面は何れにして、後面は何れなるを其一に於ても区別するを得ざりき。彼等の肩は徧く目なり、指も目をみち満てて、目に満たされざる所あらざりき、面に各三輪あり、輪中に輪ある如くして、輪に霊ありき。また預言者は人の状に似て其脚底は青玉の如くなるを見たり。此等の車〔即ちヘルビムと霊物〕はこれに坐する主宰を自ら戴けり。主宰の進行せんと欲する所は何処にも霊物は其面を向けたり。また預言者はヘルビムの下に人の手の如きものありて、彼等を支へ且捧ぐるを見たりき〔イエゼキリ一の五至二十八〕。
二、 預言者が大に驚きて見たる所のものは真実にして疑ひなし、然れども此現象はこれと異なるものを示し、奥妙神聖にして諸族の為に実に神秘なりしも、後来ハリストスの来るによりて現出したる奥秘を前表せるなり。預言者は霊魂が主をうけて主の光栄の宝座とせらるる奥秘を直観せり。けだし聖神が預備して己の座位となし、及び居住となし、これにその光を受くるを賜ふて言ひ尽されざる光栄の美を以て照されたる霊魂は全く光となり、全く面となり、全く目とならん、されば彼には霊界の光の目を以て満たされざる一の部分もあらず、即ち彼には何の暗所もあらずして、全く残る所なく光とせられ、神とせられ、悉く目に満たされて何等の後方或は背面もあらずして、何処にも面を以てあらはるるなり、何となれば光、即ちハリストスの光栄の得も言はれざる美は、彼に降りて、かれに座し給ふによる。たとへば彼は太陽の如くなるべし、太陽は何処にも自己同一にして、一の後部も、或は欠たる部分もなく、一様の部分より成りて、残らずみな光を以て輝きて、全く光ならん、或はまた火の如く即火の光の如くなるべし、彼は全く自己同一にして、前後大小をおのれに有せざらん。かくの如くハリストスの面より発する光栄の得も言はれざる美を以て全く照され、聖神と全く親與するを為して、神の住所となり、宝座となるを賜はりし霊魂も全く目となり、全く光となり、全く面となり、全く栄となり、全く神となること、ハリストスの準備し斉整して霊界の美を以て飾りし如くなるべくして、ハリストスは提携し、誘導し、且扶持して、これを高く挙げん。ゆえに言へり人の手はヘルビムの下にありと〔イエゼキリ一の七〕。ハリストスは自から霊魂に戴かれて、霊魂を誘導せん。
三、 車を疾く奔らす四の生物は霊魂の全権たる想像力の状態をあらはせり。鷹は禽鳥の王にして、獅子は野獣の王たり、牛は温柔なる動物の王にして、人は萬物の王たり、かくの如く霊魂にもこれに王たる想像力のあるあり、即自由と、良心と、才智と、愛の力是なり。これらを以て霊車は駕御せられて神はこれらに安座し給ふ。しかれども又他の説明方によればこれ即諸聖者の天にある教会を指すといふ。それ彼処に預言者は生物に論及して、その高さは非常なりといひ、彼等は徧く目なりといひ、誰も目の数或は高さを会得するあたはずといふ、何となればこれが為の智識をあたへられざればなり、たとへば天にある星は何人も見て驚嘆する所なれどもその数を確知するは一人も能するなけん、かくの如く諸聖者の天にある教会に入り、彼に於て楽むことは凡の苦行せんと欲する者等にあたへらる。しかれども諸聖者の数を知りてこれを会得することは、これ独り神に属すなり、徧目なる生物の車に、その宝座に座する者、或は宝座となり、目及び光となりたる各自の霊魂に座する者はこれに座して、霊轡を御し、自ら知る如くこれを指導して、進行疾馳せん。それ霊物の進行したるは自ら行かんと欲する処に進行したるに非ずして、これに座してこれを指導する者の知り且欲する処に進行せり、かくの如く此処に於ても主は自ら己の神を以て途を示して、御し且導かん。かくの如くなれば霊魂は欲するあるや、己が意のままに自ら天に昇るに非ずして、神は霊魂を指導し、身体をすてて思を天に向はしむべく、又神が欲するときは霊魂は再び肉体に思念の中を来往せん、然れども神の旨によれば地の極に移るべくして、神はこれに天啓の奥義を示し給はん。アア実に極妙至善、独一真実の執轡者なる哉。かくの如くもし霊魂は今日預め頌揚せられて、神と親與するを得ば、身体も復活に於てその享くべき分を賜はらん。
四、 しかれども義人らの霊魂が天の光とせらるる此事に関しては、主は自ら使徒等につげて左の如くの給へり、曰く『爾等は世の光なり』と〔マトフェイ五の十四〕。主は自ら彼等を光となして、彼等により世の照されんことを命じていへり、曰く『人燈を燃してこれを斗の下に置かず乃燈台の上に置く、然らば凡そ家にある者に照る。是の如く爾等の光は人々の前に照るべし』〔同上十五、十六〕。これ即我よりうけたる賜を隠さずして凡の願ふ者に傳へよとなり。またいへり、『身の燈は目なり、故にもし爾の目浄からば、爾の全身明ならん。もし爾の目悪しからば、爾の全身暗からん、故にもし爾の中の光は暗たらば、則暗は如何にぞや』〔マトフェイ六の二十二、二十三〕。それ目は身の為に光なり、故に目若し健なるときは、全身照されん、されど物あり目に落ちて、目がくらまさるるときは、全身暗黒にあらん、かくの如く使徒等は全世界の為に立てて目とせられ、又光とせられたり。これにより主は彼等に誡命していへり、『もし汝等世の為に光となり、堅く立ちて迷はされずば、世の全体照されん。しかれどももし汝等、即世の光なる者暗くなる時は、暗即世はいかにぞや』と。ゆえに使徒等は光となりて、信ぜし者の為に光を以て勤め、自ら照されたる神の天上の光を以て彼等の心を照したりき。
五、 しかれども彼等が塩となりしや、凡そ信ずる者の霊魂を鎔解して、聖神の塩を以てこれに塩せり。けだし主は人々の霊魂を地と名づけ、使徒等に告げて『汝等は地の塩なり』といへり〔マトフェイ五の十三〕、何となれば使徒等は神の天上の塩を以て人々の霊魂を鎔解して、腐敗せざるものとなし、大なる悪臭に感染せざるものとなして、彼等に勤めたればなり。肉は塩なくんば腐敗し、大なる悪臭にみちみたされて、堪ふべからざる臭気の故に人皆これを避けん、されば蛆は腐敗したる肉に蚑行きて、かしこに自ら食を求め、彼を食ふて、彼に巣を作らん。しかれどももし塩を撒るならば、肉に培養せられたる蛆は滅されて尽き、厭ふべき悪臭は消えん、けだし塩は蛆を滅し悪臭を絶つに適当なればなり、かくの如く聖神にて塩せられず、天塩、即神の能力をうけざるすべての霊魂も腐敗して、悪念の大なる悪臭にみちみてらる、故に神の顔は如此の霊魂に居る暗と慾との無益なる思の恐るべき臭穢を避けん、悪なる恐るべき蛆、即悪神と暗黒の力とは彼に蠢き、養はれて、巣をつくり、彼処に匍匐し、彼を食ふて敗壊せしむるなり。けだしいふあり、『我が傷腐れて且臭し』〔聖詠三十七の六〕。しかれどももし霊魂は神に趨り就き、篤く信じて生命の塩たる、善にして人を愛する神をおのれに願ひ得るや、降る所の天塩は霊魂に於て恐るべき蛆を尽し、有害なる悪臭を滅ぼし、その能力の作用を以て霊魂を清めん。さてかくの如く真実なる塩が霊魂を健全無疵なるものとなすときは、彼は再び挙用せられて、天の主宰につかふるを得ん。ゆえに律法にも此義を示して、神はすべての犠牲に塩するを命じたまへり〔利未記二の十三〕。
六、 ゆえに先づ第一に司祭が牲を屠りて牲の死することと、その後牲を細に割きて塩漬にせらるることと、終に火上に置かるることとは共に肝要なり。けだし司祭が先づ羊を屠りて死に付せずんば、彼は塩を施されずして、豊祭に於て主宰に供へられざるべし。かくの如く我等が霊魂も真実の司祭長たるハリストスに就き、彼により屠られて、その偽智の為、又はその生活する悪生命の為、即罪の為に死せざるべからざるなり、而して犠牲の生命を棄つる如く、情慾の悪も生命を棄てんことを要す。霊魂が身体より出づるときは、身体は死して、その生活する生命を以て生存せず、聴かず、又行かざらん、かくの如く天の司祭長たるハリストスがその能力の恩寵を以て世の為の生命を霊魂に於て屠殺するときは、霊魂はその生活する悪生命の為に死して、最早聴かざるべく、言はざるべく、罪の暗黒に生活せざるべし、何となれば生命ともいふべき情慾の悪は恩寵によりて霊魂より出で去ればなり。ゆえに使徒は呼んでいへり、『世は我の為に釘せられたり、我世に於ても亦然り』〔ガラティヤ六の十四〕。けだし霊魂は世と罪の暗黒に生活して、ハリストスを以て殺されず、悪習の霊魂を猶己に有し、即ち罪なる情慾の暗黒の働を己に有して、これを以て養はるる間はハリストスの体に属せず光の体に属せずして、暗の体なり、されば今も猶暗の一方に居らん、これに反して光の霊魂、即聖神の能力を己に有する者は光の一方に居るなり。
七、 さりながら人あり言はん、霊魂は暗の産するものに非ざるに何故これを暗の体と名づくるかと。此事につきては慎重の注意をなして、正しく理会すべし。たとへば汝が用いて身に被る衣服の如し、彼は他人これを備へて、汝これを衣ん、家もこれに同じ、別人が造営建築して、汝これに住まん、かくの如くアダムも神の誡命を犯して、悪なる蛇にしたがひ、己を売りて魔鬼の所有物となせり、ゆえに霊魂、即神が己の像に依りて備へたる此の美なる造物を悪者は衣たり、ゆえに使徒もいへり『首領権柄に脱衣せしめて』、十字架を以て彼等に勝てりと〔コロサイ二の十五〕。けだし主の来りしは彼等を逐ふて、己の家たり又殿たる人を己に取戻さんがためなり。これによりて霊魂は罪なる暗黒の彼に居る間は、悪なる暗黒の体と名づけらる、何となれば霊魂は悪なる暗黒の世のつづく間は、彼処に居りて養はるればなり、ゆえに使徒も罪なる身と死の体との事を書して、『罪なる身の滅されん為なり』といひ〔ロマ六の六〕、又『誰か我を此の死の体より救はん』といへり〔ロマ七の二十四〕。これと相反して神を篤く信じて罪より救はれ、暗黒なる生命の為に死して、聖神の光を己にうけて、生命となし、これを以て更正したる霊魂は、同じく亦最早かしこに於てその生命を送らん、何となれば神性の光を以て彼処に止めらるればなり。けだし霊魂は神の本性より生ぜしにあらず、又悪なる暗の本性により生ぜしにも非ず、かへつて美麗をみちみてる、大にして且奇異なる智慧ある造物にして、神の至美なる肖たり、又像たるも、犯罪の結果によりて暗黒なる情慾の悪は彼に入りぬ。
八、 終りに霊魂は亦その願により体合一致する所の者に属すべし。故に彼は或は神の光を己に有して、その中に生活し、諸の徳行を以て飾られて、安息の光をうくべく、或は罪の暗黒を己に有して、定罪に服せん。けだし神と共に永遠の安息と光とに生活せんを願ふ霊魂は、前文に述べたる如く、真実なる司祭長ハリストスに就きて、世の為、及び悪なる暗黒の以前の生活の為に屠をうけ死して、神聖なる養育の為に他の生活に移らんこと肝要なり。たとへばもし誰か市に死せば、彼処に居る者等の声も談話も閙噪もきかざるべくして、死するや否や其市の声音も叫喚もあらざる処に移されん、かくの如く霊魂ももしす住んで年月を送れる有害なる情慾の市に屠をうけて死するや、最早暗黒の談話の声は聞くあらざるべく、暗黒の鬼の空しき談論及び擾乱の語声と叫喚とは最早鳴渡らざるべく、仁慈と平安とをみちみてる市と、神聖なる光の市に移され、かしこに生活して、聞くべく、かしこの市民となりて談論説話すべく、かしこに於て神に適当なる神的の行を成さん。
九、 ゆえに我等も神の力を以て暗黒の悪世の為に屠をうけて死せんが為、また罪の神の我等に根絶せられんが為、霊魂は天の神を己にうけて、彼を衣、罪の暗よりハリストスの光に移りて、世々生命に安息せんが為に祈祷せん。たとへば競争場裡に車の疾馳するが如し、乗越したる者は他を牽制して、其前進を擾し且妨げて、勝を占めん、かくの如く人にも真実の思と罪の思の疾馳するあらんに、もし罪の思に先んぜらるるあらば、彼は霊魂を牽制し、神に近づきて罪に勝を奏するを擾し且妨げん。しかれども主の自ら乗りて霊魂を御する処に於ては主は巧みに且堅固に轡を御し、霊輪をみちびきて、天に属する神聖なる思の状態に向はしめつつ、常に勝を奏するなり。彼は罪と戦ふをなさず、全能全権なる者として常に勝を決するなり、ゆえにヘルビムの馳するは、自ら行かんと欲する処に馳するに非ずして、彼等に乗りて彼等を御する者がみちびく所の方面に向つて馳す、彼が欲する処には彼等も進行して、彼は自ら彼等を奔馳せしむるなり、けだし言ふあり、人の手は彼等の下にありと。聖なる諸霊はこれを御するハリストスの神にみちびかれて、彼が欲する方に馳せん。ゆえに彼が欲するときは、天上の思に馳するも、又欲するときは、体にも馳せん。彼の欲する処に於て彼につかへんとす。それ鳥は羽翼を以て足と為す、かくの如く天に属する神の光も霊魂の適当なる思の羽翼をうけて、これを其知る処にみちびき且御せんとす。
十、 故に此事をきかば、汝の霊魂が実際実にこれを得有したるや否や、自ら己に注意すべし。けだしこれ単に口にいふ言にはあらずして、眞に霊中におこなはるる事実なればなり。ゆえにもし汝はかくの如き霊界の幸福を受けずして、猶貧しくば、不断に憂ひ悲み且傷むべし。天国の為に猶死せるもの、又傷はれたるものとして、常に主を呼び、信仰を以て願ふべし、汝にも此の眞生活を賜はらんためなり。神は此身体を造りて、これが為に生活と飲と食と衣と履とを其本性より借らしめず、却て身体は固より裸体につくりて、生命の為に欠くべからざるすべてのものを外より借らんことを定めたまへり、されば身体の外に存するものなくんば、即食なく、飲なく、衣服なくんば身体は生活するあたはざるべし。もし身体は外より何も借るあらず、其性中にあるものを以て限らるるならば、敗壊して亡びん。されば神の像により造られて、神の光をおのれに有たざる霊魂もかくの如く、〔けだし霊魂をして永生を有せしめんが為に、神はかくの如く摂理して、惠を垂れ給へり〕霊魂の眞生活を成すところの霊界の食と、霊界の飲と、天の衣服とを自己の本性より取らずして、神の性より、神自己の神より、神自己の光よりうけん。
十一、 それ身体は生活を身体其物よりうけずして、身体の外にあるものよりうく、即地よりうくべくして、身体の外に存するものなくんば、生存するあたはざらんことは、前文にいひし如し、かくの如くもし霊魂も今日猶彼の生命ある者の地に更生せず、彼処に神的にやしなはれず、主の前に大に進歩し神的に成長せずして、神性は亦これに天の美麗の言尽されざる衣服を衣することあらずんば、霊魂は此の食物なしに自ら生存して楽み且安んずるあたはざるなり。けだし神の性は生命の餅をも有す、いはゆる『我は生命の餅なり』〔イオアン六の三十五〕といふもの是なり、又『活ける水』〔イオアン四の十〕と、『人の心を楽ましむる酒』〔聖詠百三の十七〕と『歓の膏』〔聖詠四十四の八〕と、天の神の種々様々なる食物と、光を発する天の衣服の神を以て賜はるものとを有するなり。霊魂の天の生活はこれに存す。身体は己の天性に阻止せらるるならば、禍なり、何となれば敗壊して死すればなり。霊魂も神聖なる神と親與するあらずして、ただ己の天性に阻止せられ、ただ己の行に依頼するならば、禍なり、何となれば神聖なる永遠の生命をうけずして、死すればなり。それ病者の身体は最早食をうくるあたはざるときは、凡て彼と親しき朋友、親戚及び病者の為に愛せらるる者は、彼に望を絶ちて、彼の為に涕泣せん、かくの如く神と聖なる天使等も神の天食を嘗めずして不朽に生活せざるべき霊魂を認めて、涕泣に値するものと為すなり。我再び言はん、これ単に口にいふ言にあらずして、神的生活の事実なり、適当信誠なる霊魂の中におこなはるる眞事実なり。
十二、 さればもし汝は神の宝座となりて、天の御者が汝に乗り、汝の霊魂は全く神的の目となり、全く光とならば、もし汝は彼の神的の食を以て飽かしめられ、活水を飲ませらるるならば、もし得もいはれざる光の衣服を衣るならば、もし汝の内部の人は此のすべてを実験上疑なく試みるならば、視よ汝は実に永遠の生命を以て活きて、汝の霊魂は今も主と共に安息せん、視よ汝は真実の生命を以て活きんが為に、実にこれを求めて、主より受けたるなり。しかれどももしかくの如きを一も己に認識せずんば、泣くべく、憂ふべく、嘆息すべし、何となれば今に至るまで汝は永遠なる霊界の富を未だ求め得ず、今に至る迄真実の生命を未だ受けざればなり。是故に日夜主に祈りて、己の極貧の為に傷み悲しむべし、何となれば恐るべき罪の極貧に居ればなり。さればもし誰か己の極貧の為に憂ふる此憂愁と雖も得るあらば、幸なりもし我等は飽食せる者の如く、怠慢に時を送らずんば、幸なり。憂ひて尋ね、退かずして主に願ふ者は、救と天の富とを速に受けんこと、不義なる裁判官と寡婦との喩を結びて主のいひ給ひし如くなるべし、曰く神は『日夜彼に籲ぶ者に援け給はん、我汝等に語ぐ、速に彼等を援けん』〔ルカ十八の七、八〕彼に光栄と権柄は世々に。アミン。