祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)

克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教

克肖なる我等が神父フィロフェイシナイにありて有言的修士群のかしらたりき 因りてれはシナイフィロフェイてふ称号をうけたり。彼はいづれなる時代に生活していづれの時に死したるかつまびらかならず。今此の四十章にわかち美しく作成せられし彼の説教は大なる霊神上の智慧と霊益の事とを幾ばくつるあるべきか言ふあたはざるなり。故にこれをもて他の神父等の清醒に関する著作よりわかたんことは失當なりとす。この説教は大なる注意を要するなりけだしもし誰かこれをもて清醒と智識の守りと心の清きとに関すの精確なる解釈及眞正なる規則と名づくるならんにはそは眞理を誤らざるならん。〈愛善てふ雑誌より抄〉


惺々四十章

一、 我等には五官に属するのたたかひよりも更に苦しき心中の戦あり。敬虔の行為者にはしきて智識をもてその旨趣を討究すべし、神をおもふの記憶を恰も或る眞珠の如く又は宝石の如く完全に心におさめんが為なり。すべてをたいだも棄て現生をも軽んずべし、独一の神をんが為なり。けだし聖金口のいへるあり一の聡明なる見神は悪者をほろぼすに充分なりと。

二、 心中のたたかひを開く者は全くの熱心をもて神の書に指示すが如く霊神上の業を自らえらんでこれを心につくること貴重なる膏薬の如くせざるべからず。されば或人のいへらく朝より神をおもふの堅固なる記憶と心に間断なく行はるるイイスス ハリストスの祈祷とを以て勇気に且退かずして心の門に立つべし、且此の心中の番兵をもて地の悉くの罪人を殺すべし、即ち信實強盛にして高く上騰する神をおもふの記憶をもて強者のかしらたたかひを起す所の思念のかうべとを主の為めに断絶すべし、けだし心の苦行にも其のはたらきに或る神出の順序と方法とあるは人の知る如くなればなり。かくの如く食をむるに定められたる時の至る迄は己をふる〈天国の為めに〉ものとならしむべし。かかりし後其の唯一の仁慈によりようの食、即霊と形との食にて我等を養ふ所の主に感謝し死をおもふの記憶と回想とをもて己をつからすべし。さて次日には再び独裁をもて朝の業事をとるべし。けだしかかる日々の行為の方法に由り我等は心中の敵の網をわづかに主に於て避くることを得ん。されどもかかる行為は我等に練熟して左の三徳を生ずべし、即ち信と望と愛とを生ずべし、而して此の三徳のうちしんは我等を神を畏るる眞實の畏れに傾かしむべく、ぼうたるの畏れに勝たしめて神を愛するの愛に導かんとす。れ望は律法と預言者の繋る所なるようの愛を生ずるを得てはぢひらかしめずんば愛も亦みづから此世に於てもしょうちるなからん、何となれば愛は其の之を領有する者に於て此世に於ては神立の法規を行ふの原因となり来世に於ても決して堕ちるなければなり。

三、 智識の静黙する者を見るを得ること甚だ稀れなり。けだしこはただ己れに神の恩寵を引かんが為め及び恩寵より流るる心神の慰藉に充たされんが為めにあらゆる方法を用ふる所の者にのみ属するものなればなり。故にもし彼等の如く智識の守りとせいせいとに於て此のハリストスの道学たる智識上の行為を学ばんと欲せば食と飲とを出来る丈少量に用ふることを定め多食を禁ずるをもてみちを始めん。清醒はみちと名づけらるること當然なり、何となれば彼は天国に導けばなり、而して天国は我等が内部にありて来世に達するものなり、又彼は心中の工場とも名づけらる、何となれば彼は智識の性質を造り且これを白うし〈磨き〉て多欲なる者を無欲なるものに改造すればなり。彼は亦光れるまどに相似たり、これによりて神は智識に現はるるなり。

四、 謙遜と清醒及び注意をもて神を記憶することと敵に対してしばしば突進する祈祷の在る所は神の居る所なり、た是れ心中の天なり、まきの軍勢はここに神の居るあるが為めに立つことを畏れん。

五、 心をみだすは多言に過ぎたるはなく毒なるは節制なき言語よりさるあらず、ほどに心霊の富を乱し且めつすものはあること能はず。けだし日々建造する所のものを多言はあらたに破壊し労苦して集むる所のものを霊魂は毒舌により更に浪費すればなり。此れ〈節制なき言語〉より悪なるものやある。彼れはとどむべからざるの悪なり。すべからくかれの為に界限を置きかれを圧すべし。且我れ言ふ彼をしてただ必要にのみ勤めしむべし。そも言語〈節制なきの言語〉より生ずる心霊上の害は誰かことごとくにひあらはすを得るか。

六、 心中のイェルサリム、即ち智識の注意に入るの第一の門は左の如し、即ち智識は未だ静黙するを得ざるも口の聡明なるかんもくを守ること是なり、第二は食と飲とに於る適度なる〈少量に定めたる〉節制なり、第三は即ち智識と身体とを清浄ならしむるなり即ち死をえず記憶し且回想する是なり。一たび此の後者の美をかつを以て見ず精神を以てこれを見てこれに傷つけられ且これを楽みこれを獲てひっせい己れに同居者たらしめて其の美容と壮麗とを愛さんことを余は願欲せり。彼はいかに謙遜なるか、いかに悲哀にして且うつゆうなるか、又いかに未来のただしきさばきおそるるか、いかに生命の続く〈偶然に〉を恐るるか。彼れ其の物体の目よりは常々治療すべきの活水を流さしむべく心中の目よりはえいなる思念の混々たる泉をださしめて其のしんろうと洗滌とはれいたのしましめんとす。我がすでにいひし如く此のアダムむすめ、即ち死の記憶をもて始終己れに同居者たらしめ彼れと共にね彼れと共に談じ我がこのたいを脱するに及ぶ迄は我れと共にするを得るを彼れと研究せんことを余は渇望せり、されども毒害なる遺忘即ち此のくらまされたるまきむすめはしばしばこれを我れにゆるさざるなり。

七、 あく思念によりて霊魂とひそかに闘ふのたたかひあり。けだし霊魂は見えざるものなるにぞ此の悪意なる力も霊魂の性質に応じ見えざるたたかひにて攻撃せんとすればなり。ゆえに彼等に於ても霊魂に於ても器械もあり謀略〈軍隊の排列又は作戦の経画〉もあり狡猾なる詭計もきょうかくする攻撃〈突進急撃しておどすこと〉もあり両々拳撃するのつかみあひもあり彼と此との一勝一敗もあるを得べし。ただ我が書する所の此の心中のたたかひには物体上の戦に比すれば戦を宣告するの一定の時を欠くなり。物体上の戦の為めには時を定められこれに関して其の順序を守ることをも定めらるること常なり、されどもこのたたかひ〈心中の戦〉は預告なくして心の深き周囲をにはかに突撃せんとす而して勝算を得てしからずんば勧誘する所の者に心の同意するに由り重権を握りて〉罪にり霊魂を殺すなり。此の交戦及び格闘は何の為め又何に因りて我等に対し進めらるるか。これ我等が祈祷して『汝の旨〈即ち神の誡の〉は我れに成らん』〔ルカ十一の二〕といひつつ神の旨の我等に成らんことを恐るる為めなり。さればもし誰か己の智識を整備し主に於ける完全の清醒によりまよひを脱して彼等〈見えざる敵〉の侵入〈心に〉と又妄想によりて生ずる所の虚勢〈清醒なる智識との小闘〉の為めに勉めて観察するあらば実験によりて此を暁知せん。故に主も其の目的をあくに向はしめ且神として彼等の隠謀を看破しつつ彼等の目的に反対して其の誡命を立定ししかしてそが破壊者をおどし給ふなり。

八、 五官にて引出す所の有形の悪を制し且これを遠ざけんに多少の習慣をる時は此の後自己の心もイイススと共にこれを守りイイススによりて照明せらるるを得べく或る熱心なる情性をもてイイススの仁慈を智識にてあじはふることを得べし。けだし我等に於て心を清むるの法をうくるは他の故にあらず即ち悪念の雲が心の大気よりおひはらはれたえなき注意をもてふきらさるるや我等清明の日に於けるが如く義の太陽即ちイイススを純潔に見るを得て其の尊厳の言にて多少心を照明せらるるを得るが故なり、けだしイイススの言は通常いづれの人にも啓示せらるるにあらずしてただ其の己の心を清潔にする所の者にのみ啓示せらるればなり。

九、 我等は神の面前に現はるべしとの心地を以て日々己をそうすべし、けだし預言者オシヤのいへるあり『あはれみただしきとを守りて常に汝の神に近づくべし』〔オシヤ十二の六〕。又預言者マラヒヤも神に代りていふやう『子は父をさんし僕は主を畏る、されば父は即我れならば我を讃することいづくにあるや、主は即ち我ならば我を畏るることいづくに在るやと萬軍の神いひ給ふ』〔一の六〕。同く亦使徒も書していへらく『己をすべての汚れより肉と霊とより潔くせよ』〔コリンフ後者七の十一ママ〕。又智者も教へていへり『もろもろの守りをもて汝の心を守れ、けだし生命はこれより出づればなり』〔箴言四の二十三〕。而して主イイスス ハリストスは誡めていはく『さかづきとさらの内を潔くせよ、さらば其の外も潔くならん』〔馬太二十三の二十六〕。

十、 不適當なる空談の結果として或時に其の聴者より我等に対するの怨恨あるべし、又或時には彼れ我等が言の愚なるを非難するや詰責と嘲笑とあるべく或時には良心を汚すことあるべく然して或時には神よりの定罪と聖神を哀ましむることあるべし。これ他のすべてに比して最恐るべきものなり。

十一、 其の心を潔くし主の為めに罪を其のこんていと共に心よりもぎりつつ労苦を神出なる自覚を得るに適用し衆人の為めに見る能はざるものを智識にて見るを得るに上達する者はそれが為め誰に対しても自慢を為すべからず。萬物の間に無形なる者より清きものやある、神使より多知多識なるものやある。さりながら彼も自慢していなづまの如く天よりちたりき。彼の自慢は神より彼れをもて不潔とせられたりき。地中より金を採掘する者のいかなる働を為すは人の知る所なり。〈言意は自覚の金を得んが為めには鉱夫等の地底に下るが如く悉くの人の下に降るべし〉

十二、 使徒いへらく『勝を競ふ者は何事をも節す』〔コリンフ前九の二十五〕。けだし此の肉体に縛られ重くして常に精神に於て慾に溺るる所の者は其の飽食する所の腹をもて首魁と悪を欲する見えざるの力とに対し武装せんことは能はざればなり。『けだし神の國は食と飲とにあらず』〔ローマ十四の十七〕。『肉の思は神に敵す、けだし神の法に従はず又従ふこと能はざればなり』〔ローマ八の七〕。これ地に属ししんえきと血肉と滋潤とより成りて常に地上の物を偏愛し現世の有害なる快楽をもて楽む所の者の為には能はざらんこと明白なり。『肉の事をおもふは死なり肉に居る者は神意にかなふこと能はず』〔ローマ八の八〕。

十三、 もし我等はまづ第一に神に対し第二に人々に対し主によりて智識を守るの誠実なる配慮を有するあらば我等に大なる謙遜を要するなり、我等は凡て己を謙遜ならしむべき所の者を尋ね且これを実地に導きて百方常に己の心を裂くべし。されど心を裂き且へりくだらしめんには我等世に在ての従前の生活を記憶するにあることは人の知る所にして我等當然にこれを想起する時は心を謙らしむべし。且すべて少年よりの罪事をおもふの記憶も誰かこれを智識に於て一々てんけんする時は常に心をへりくだらしめ涙を生ぜしむべくして我等をして全心より神を感謝するに進ましめんことなほ常に有効なる〈感覚に入り来れる〉死の記憶の如くなるべし、且此記憶は甘美と共に嬉しき流涕と智識の清醒とを生ぜしむるなり。特に我等が主イイスス ハリストスの苦難を想起するは誰かこれを記憶に於ててんして一々詳細に想起する時は我等が心志を謙らしめ目を地に垂れしむるなり。これ亦涙をも與ふべし。しかのみならず我等に於る神の大なる恩惠は誰か詳細にこれをかぞへて點撿する時は眞に心霊をへりくだらしむべし、けだし我等は驕傲なる〈神に謝せざる〉まきたたかひを為せばなり。

十四、 霊魂を救ふべき此等の療法は汝もしこれに必要を有するならば自愛によりてこれに遠ざかるなかれ、けだし然らずんば汝は既にハリストスの門徒にあらず又パウェルのっとる者にもあらざればなり、パウェルは自ら己の事を『使徒と称するに堪へず』〔コリンフ前十五の九〕といへり、又彼は他の處に於ても先きに誹謗者たりきんちくしゃたり又悔恨者たりしことを自認す〔ティモフェイ前一の十五〕。高慢者よ汝は此の如き聖者にして己が以前の生活を忘れざりしを見るか。然して悉くの聖人も亦其の創造の始より今日に至るまで此のもっとも緊要なる神の衣服〈即ち謙遜〉に包まれたりき。我等が主イイスス ハリストスは及ぶ能はざる悟る能はざる且は言ふ能はざるの神たるも其肉身に於ける生活の間はすべて謙遜をたりき、けだし聖なる謙遜は至當に神の徳行とも名づけられ又主宰の誡命及聖服とも名づけらるるなり。且諸のしんとすべて清明なる神の天軍はもっとも驕傲なる「サタナ」の如何なるついに陥りしことと又しんと人の為に堕落する〈此罪に〉の恐るべき鑑として自己の驕傲の為にすべて他の造物よりもなほなほ神前にもっとも不正なる者となりたる悪者の無底の淵にあることとを知りて此徳行を習ひ且守るなり。我等は亦アダムが驕傲によりていかなる墜堕に陥りしを知る。此の益々大なる徳行を生ずべき所のかかる前例を目前に有し上文に示したる療法を益用して常に力に及ぶだけ百方己をけんせん。霊と体とに於て即ち思慮に於ても希望に於ても言語に於ても思念に於ても外貌に於ても内も外もこもごも己をけんせん。特に心すべき所の事は我等が為めにまします所のイイスス ハリストス神の子及び神が我等に逆らはざることなり。『けだし主は驕傲の者を嘲けり謙遜なる者にめぐみを與ふ』〔箴言三の三十四〕。『すべて心の高ぶる者は主の前に潔からず』〔同十六の五〕、『己をへりくだる者はあげらるべし』〔ルカ十八の十四〕。救世主いへらく『我が心は温柔謙遜なり我れに学べ』〔馬太十一の二十九〕故に注意すべきは當然なり。

十五、 主は曰へらく『己を慎めよと恐らくは飲食に耽り云々するにより汝等の心くらくなるべし』〔ルカ二十一の三十四〕。使徒はいへり『勝を競ふものはすべてを節す』〔コリンフ前九の二十五〕。すべて神の書に於て我等に向けらるるかくの如き訓言を知りて我等は己れの生活を節制に導かん。まづ第一に食物の異殊多様なるを廃し食にあたへて己の身体を道徳上の風習と秩序とに慣らさん。けだしかくの如くなれば慾のいっきょうやすく鎮定して道理に従はしめらるべく且や全く確信して充分の義を言ふならば怒の発作も鎮められん。さりながら他の犯罪を制止することも此時更に便利なるべし、けだし此徳行たるやの実事と経験とをもて徳行を練習し百方節制して悪のもろもろの種類より遠ざかるを致す所の者にも尊ばるればなり。かかれば諸善の源たり又其の施與者たる神に次で清潔の原因たる者は多食の節制にしていづれの日にも平均にをもて定むる是なり。

十六、 「サタナ」は神に敵対し神の旨、即誡命の成るなからんを欲するの望により其旨の行はるるに敢て妨ぐる所のものをもて我等に由り神に敵するが如く神は又其の至聖なる旨、即ち我が既にいひし如く神出にして生活を施す所の誡命が我等に由り其の手号の如くに行はれんことを欲して悪者の有害なるいしやぶるなり。神の誡命を破るに引誘する所のものをもて神に抗する敵の無智なる望みを神は自から人間の弱きに由りてやぶるなり。試みに見よこれ實にかくの如きにあらざるか、そもそもすべて神の誡命は霊魂のみつの部分の為めに法を置き其命ずる所の者に由りて霊魂を健全なるものと為す。これに厳に従ふ者に於ては此の三の部分はただちに健全を得るなり。されども霊魂の此三の部分に向つてまきは日夜たたかひを挑むなり。されば「サタナ」が三の部分に向つて開戦するときは明に知るべし彼はこれに由りてハリストスの誡命に向つて戦ふなるを、けだしハリストスは誡命にりて霊魂のみつの部分、即ち怒ることと願ふことと思ふことの霊魂の力を法にてにょうすればなり。されば試に見よ其の兄弟を徒らに怒る者は審判に付せられんといふを、又見よこれに次で彼が誡命したる所は即ち怒ることの部分を療することなるを。此の誡命及び其他これと共に置かれたる諸の誡命を敵は好争と怨恨と猜忌との思念により敢て内部よりくつがへさんとするなり。此の抗敵者〈我等と神との〉は此の怒ることの部分を統御する者は即ち思想の力なるを知る。故に先づ彼れに於て我がすでにいひし如く猜疑とけんと好争、狡猾及び自慢のを思念に由り放ちて其の思想の力に其の固有の権を己れより脱せしむるなり、而して怒りの為めにごう〈ほり〉を撤してこれを全く統御するなうして置かんとす。其時怒は己が統御者をほうてきして凡そ先きに智識の不注意に乗じ敵の思念に由りて心に入られ其時に至るまで心に秘したる所のものを口をことばらんしゅつして禁ずるなからんとす。其時心に充たさるるものは神の霊にあらず又神出の念にもあらずして〈鎮むる能はざるの〉怨恨なり、けだし主の言ふ如く口は心の餘りより言へばなり〔ルカ六の四十五〕。かくの如く悪者が人をして先きに心内に於てひそかに企図する所のものを言にはきらし始むるに至らしむる時は此の囚虜〈敵の囚虜〉は其の兄弟にただ「ラカ」即愚拙をいふのみならず最悔恨の言をちょうちょうせん、はなはだしうしては殺人にも至らんとす。是れぞ悪者が神より我等に與へられたる誡命の徒に怒る勿れといふに対して姦計をていする所のものなる。されども怒の発作したる後直ちに祈祷をもて、及び内心に生ずる所のものに注意するをもて心より逐出す〈心をく所の意思を〉時は悔恨の言を発し次でこれに従ふ所の事の生ずるに至らざるべきにあらずや。されば殺霊者はただ其の人の心に入れたる思念の働きに依り人が神の誡命を破らんと欲するを見る時に己が悪なる目的を達するなり。

十七、 さて願欲〈ねがふ〉の部分には神なる主宰の誡命にて何を命ぜられしか。曰く『おんなを見て欲を懐く者は其心すでにこれといんするなり』〔馬太五の二十四〕。さて悪者はかかる誡命を與へられしを見て此の誡命に対し智識にいかなるもうを張るか。けだし願欲をげきさしむ可き外物の遠ざかりしにより彼は内部に近づき来り彼処に於て前文言ふ所の誡命に対し色欲のたたかひおこさん。即ち彼は淫奔なる形像を心中に書き且きざむをもてこれを施行せん、されば情慾を起さしむるの言さへも聞ゆるあるべく其他思想上のたたかひに経験あるものが知る所の多くの事あるべし。

十八、 終りに思想〈おもふ〉の力に誘導の規則を與へらるるは如何なる誡命なるか。曰く『我れ汝等につげん概して誓を発するなかれ、汝の言はしかりもしくはいなといふべし』〔馬太五の三十四〕。又いふ『己がすべての所有を捨てざれば我が門徒となる能はず』〔ルカ十四の三十三〕。又いふ『せまきもんに入るべし』〔馬太七の十三〕。思想の部分の為めに誡命はかくの如し。それ我等が敵は剛勇なる将軍の如く此の思想の力をも亦其の己が属下たらしめんと欲して先づ美食と怠慢との念に由り彼より健全の思想を奪ひ且かくの如くして彼が他の諸力に対する固有の権をも彼れより奪ふて彼を嘲笑すること酩酊せる将軍を嘲笑するが如くし、且其の此事に於る己が助力者として激怒と希望とを使用して其の勧誘と其欲する所とをしひて行はしむるなり。されば此等の力、即ち希望の力と激するの力とは思想の力の棄つる所となりすべて我等が五官をして転じて顕然たる罪を行ふの器械とならしむることなほ従順なる僕の如くならんとす。さればこれにりていかなる犯罪と墜落の生ずるあるべきか。智識が内部より五官をろくするなく又これをばくせざらん時は目は好事を追ふて何処にも移らざるなく耳は無益なるものを聞くを愛すべくきゅうかんは弱くして口はとどむ可らざる者となり手はさはるべからざるものにるるに伸びん。これにしたがひて生ずるは義に代へて不義なるべく、智にかへて不智、貞潔に代へて姦淫、勇気にかへてきょうおくなるべし。されども左の四つのおもなる徳行、即ち義と智と貞潔と勇気とはもし霊魂に於て健全にして且強壮なる時は霊魂の三の力を善く治むべくして其の善く治めらるる三の力は五官をすべての不順より止めんとするなり。然る時は智識は定静に止まり神の力によりて其他の諸の力を治めこれをして聴従せしむるにより思想上のたたかひかちそうすること容易ならん。されども彼れもし不注意により他の諸の力の擾乱するままに放任する時は悪者の諸の附着に勝を制せられて神の誡命を犯すなり。されば誡命を犯すに従ひどうでも生じ来るべき所の者は或はこれと相応するの痛悔なるか或は来世に於るの痛苦ならん。ゆえにもっとも善良なるおこなひは智識をして常に清醒ならしむるあるなり、けだし此れに頼りて智識は其の天性にしたがとどまるべきが如くに止まりて神の誡命の眞實なる保守者となるべければなり。