管窺武鑑/上之上第一巻
一、謙信公成立の事 二、村上義清頼み来るに因り、武田信玄と敵対の事 三、上杉憲政頼み来るに因り、北条氏康と敵対の事 四、関東の諸士、謙信公に属す事 五、氏康より和睦、謙信公北条三郎を以て養子に為し給ふ事 六、今川氏真より頼るゝと雖も、謙信公同心なきの事 七、謙信上洛参内并公方義輝公に謁せらるゝ事 八、謙信公近国を伐随へ天下を志し、織田信長公と敵対の事 九、謙信公逝去の事
一、長尾政景信州野尻湖水に於て溺死の事 二、景勝公十四歳の時深沢・九鬼両人成敗の事 三、謙信公逝去、北条三郎逐はるゝの事 四、北条氏政より三郎景虎へ加勢の事 五、越後植田三庄の内樺沢・志水坂・戸山三城主敵を防ぐ事 六、景虎加勢の為め北条丹後守来る、景勝公高見へ押寄せらる、丹後守御館へ退く時、荻田主馬を撃つ事附御館三郎景虎を攻破る、上杉憲政自害の事 七、戸中城本城清七開退く事附武田勝頼の妹、景勝公婚礼の事
【 NDLJP:12】管窺武鑑上之上第一巻 舎諺集 謙信公の事
第一、人王五十代桓武天皇より、高見王に至り、一男高望親王、宇多院寛平二年五月十二日、始めて平姓を賜はる。其御子鎮守府将軍良文公より、村岡太郎景通まで五代なり。景通三子あり。一鎌倉権五郎景政、二大庭権守景宗、三梶原太郎景久なり。嫡男景政より、長尾次郎景弘まで五代、景弘より、謙信公の御父為景まで十三代なり。御家紋、立竹に宿雀。天文十一壬寅年、為景公、越中へ発向討死なり。
謙信公は、亨禄三庚寅年誕生なり。為景討死の時は、十三歳なり。幼しと雖も、武道修行の為めに廻国せんと宣ふ。家老衆諫むると雖も、夜に紛れ忍出で、六十六部の山伏とつれ、其年中、北国筋はいふに及ばず、関東・出羽・奥州まで廻国なり。
翌年十四歳、自身長尾景虎と改め給ふ。姉壻長尾政景、越国為景死去、景虎幼少なるを以て、我意を揮ひ、景虎に敵対せらるゝ所、景虎公、二千に足らざるの兵を以て、政景八千の人数を切随へ給ふ。故に其後巳年、景虎十六歳の時、廿九歳の政景を幕下になされ、天文十五年、越後一国平均なり。
第二、父為景公の弔合戦に、越中へ御働、其外、能登・加賀、或は佐渡へ御手遣の処、天文十六丁未年八月廿四日、信州更続葛尾村上義清、甲州武田晴信公と、信州上田原の戦に負けて、越後へ出奔し、景虎公を頼まれし故、同十月、信州へ出張し、海野平に於て一戦、雌雄なくして相退き給ふなり。〈村上義清は、景勝家にあり。村上源五国清の父なり。〉
信玄公・謙信公両家、終に無事なり。勝頼公の代になつて、謙信公より種々無事を入れ給へども、勝頼公承引なき所、天正五年、輝虎公、越前北庄まで焼詰め、来年貴下〔天イ〕発向御内試の時、又輝虎公より、勝頼公へ無事の繕あつて、翌年正月相調ひ、勝頼の御妹を、景勝の室にと約束、其三月、謙信公逝去の後、三郎殿と景勝取合起り候故延引し、其翌年天正七卯七月、油川殿腹の御菊御料人、〈仁科五郎殿と一腹、〉越後へ御輿入なり。【 NDLJP:13】第三、北条氏康公の祖父新九郎氏盛公、伊勢より七人連にて、武者修行に出で、駿州今川義元公の祖、上総介義忠の下に附き、駿河片野郷に居住なり。氏親〈義元の父〉の御代に、今川殿の威を借り、伊豆へ移り、近辺の者共に金銀を貸し、親を深くし、勢州より同道の荒木・山中・多目・荒川・有竹・大道寺をも被官にし、旗本とも七手にして豆州を切治むる。其節、関東の両管領の山内殿は、御前代より上野平井居城なり。家老は、大石・小幡・長尾・白倉四人なり。扇谷殿は、相州大場居城なり。家老は、上田・太田・見田・萩ヶ谷四人なり。此両上杉殿を、北条早雲挫かんとの工夫なり。然るに、扇谷殿、中沼彦四郎・曽我伝吉と申す世忰を取立て、彦四郎をば主馬允、伝吉をば右衛門佐と改め、出頭させ、諸事逆なる謀を用ひ、隠もなき名人太田入道道灌斎持資と申して、江戸の城主なるを、明応四年乙卯春、大場へ呼寄せて成敗なり。〈道灌誰も知る事なれば之を略す。〉 去る間、太田の一類、其外大身衆、居館へ引籠る。山内殿と此以前より不和なりしに、此時より、弥〻取合起つて、羽入の峯・福田口〔郷イ〕・岩戸峰所々に於て一戦之あり。此時節を見、明応四年の臘月、伊豆氏盛、〈或は長氏に作る。〉相州へ討つて出で、小田原を乗取り、城主大森長門守実頼逃去る。 〈氏盛、伊勢氏を北条と改め、薙髪して早雲と号す。〉子息氏綱の代になつて、相模を一遍に手に入れ、二箇国平均なり。然るに、両上杉殿も、家老の諫に依つて和睦なり。右両上杉の由来は、足利尊氏一男竹若丸は、駿州浮島原にて、北条高時に殺され給ふ。二男直冬は、外戚腹にて、舎弟直義の養子となり、備後の鞆に差置かれ、中国の探題なり。直義と一味して、尊氏公へ逆意あつて追放せられ、義満公の治世の時、之を許され、石見国に居られ、応永七年三月卒す。其子孫、中国の武衛之なり。三男義詮公、京の公方なり。四男左馬頭基氏公、関東の公方なり。
京の公方義詮公より五代、普光院義教公、鎌倉の公方基氏公より四代、従三位兵衛尉持氏公なり。義教公の御舎兄勝定院義持公の御嫡子、義量公御近去の後、義持公断嗣なし。故に鎌倉の持氏公を、養子にせられんとあつて、議定未だ定まらず、正長元戌申正月十八日、薨御に臨みて、御舎弟義教公を家督にし給ふ故、持氏公立腹し給ひ、若君賢王丸を鶴岡八幡宮にて冠礼を行ひ、義久と号す。是は京都へ上り元服し給ふ先規なるを、引違へて斯くの如し。然る故、上野平井の上杉安房守憲実、此旨を義教へ訴ふ。義教公、奏して綸旨を受け、御教書を諸国に遣し、永享十一年己未正月、小笠原信濃守政康・今川上総介範忠・武田太郎信重・朝倉小太郎教景、関東に発向鎌倉を攻む。同二年十月、持氏戦敗れて、永安寺にて自害、義久も報国【 NDLJP:14】寺にて自害、持氏公の稚子春王・安王は、下野国日光寺に隠れ給ふを、結城七郎氏朝、之を迎へ結城の城に籠る。討戦三年、嘉吉元年辛西四月落城し、氏朝并に長子持朝戦死す。此時、東の下野守益之、〈法名素明、〉周防国へ流さる。是れ持氏へ一味に依つてなり。此人、家世々和歌を嗜み、飛鳥井雅世卿、或は西国前探題今川伊豆守貞世・〈法名了俊、〉常光院尭仁等と昵交り、歌道の絶えたるを継ぎ、廃れたるを興して、世々美名を施す。其子常緑、又下野守と号す。能く歌道を伝へたり。春王・安王は
上杉殿は、大織冠鎌足公六代、従一位左大臣冬嗣公の末なり。両上杉元来御兄弟、山内殿は宗領家故、扇谷殿は山内の旗下の如し。数代の後、山内の上杉は、義縄公卒し、其御子則政公廿七歳、扇谷の上杉は、朝政公の御子朝良公なり。然るに、北条氏綱の子氏康、享禄三年十六歳、〈永正十二亥歳、〉武州へ討つて出で、同国府中に於て、両上杉と取合を初め、夫より後、天文七年七月十五日、武州河越の夜軍は、城より上道二里余、南の方伊留摩川の端、柏原に於て、両上杉総軍八万五千、氏康は八千余の兵を以て斬勝つ。扇谷上杉朝良は戦死す。山内憲政は、上野へ逃退き候。此時、河越城主は、北条上総なり。其後、天文二十年の夏、憲政終に切倒されて、越後へ出奔、景虎を頼み、管領職と、上杉氏と諱の政の字を、景虎に譲り給ひ、其身は隠居して御座あるべしと宣へども、景虎公痛はり給ひ、越後喜駄川の端に、御館を築きて安座せしめ給ふ。長尾景虎を改めて、上杉管領政虎と申すは、此時より斯くの如し。後に頓て法体あつ【 NDLJP:15】て、謙信入道と号す。勅使あつて、権大僧都に任じ給ふなり。
第四、武州岩付城主太田三楽斎・〈初源五郎、後美濃守と号す。〉上野簑輸城主永野信濃守を初め、謙信公へ降参して、永野は甲州信玄公へ敵対し、太田は北条へ敵対す。謙信公、都より近衛龍山公を請じ下し、永禄二年の秋より、上野平井へ出張して、関東勢を催され、随はざる族をば攻められ、佐倉千葉国胤公の内、白井の城主原氏を攻められ、城落ちずと雖も、二三の郭まで攻破らる。又佐竹千騎・小田千騎といひ伝ふる小田殿をば、其年霜月に攻め殺し給ふ。関八州といふは、相摸・武蔵・上総・上野、下野、下総・安房・常陸なり。奥羽両州を添へて十州といふ。それに伊豆・越後を加へて、関東十二州といふ。此内豆〔常イ〕相は北条の国なり。残る国々、皆謙信公に属す。御持国共に合せて十万余の師を率ゐて、翌永禄三庚申の春、氏康の居城小田原四つ門蓮池まで押込み給ふ。此時、北条より、武田信玄公へ加勢を乞ひ、信玄公、碓氷峠迄御馬を出さると雖も、事ともせず、右の処なり。然る所、忍の成田長康、不礼の儀を謙信公怒り給ふを以て、逆意を企つる故、関東衆、日和を見て居城々々へ引退くに依つて、謙信公、越後へ帰陣なり。同年の夏、謙信公御上洛、其跡にて家老衆評議し、当春謙信公、
太田三楽宗領源五郎は、北条家の行に乗り、氏政の二男北条十郎を、壻名跡にとの契約を以て、父に逆心し、岩付の城を北条へ渡し候。故に三楽、武道に恥ぢて、越後へは参るを得ず、佐竹家へ参り、片野城を預り、先手を仕り、佐竹殿と下野の小田天庵と、手早坂にて合戦の時、【 NDLJP:16】小田殿の先手鈴木舎人助、其時は郡司左馬之助と申し候。三楽と一戦して討死を仕り候故、佐竹家勝利なり。夫より三楽、工夫を以て、天庵の木溜城を乗取るなり。其後、三楽、佐竹家をも浪人の由なり。〈今越前第二居る太田安房守は、三楽、佐竹にてまうけたる子の由なり。其兄は梶原美濃守といふ大坂御陣の時、越前の武者奉行を仕り候由なり。〉
第五、元亀元庚午年十月三日、氏康公五十六歳にて病死なり。其春、謙信公、下野へ御発向、佐野へ御著陣の時、氏康公、同国富田の大中寺を本陣に定めて、謙信公の御本陣へ出向はるるに、大中寺山を越えては、二里之ありとも、険しき山路なる故に、皆川海道より関川を越えて、家老衆を召連れられ、謙信公へ対面、氏康公七番目の子息北条三郎を、〈天文廿三年の生十七歳なり、〉人質に出して幕下になり給ふなり。此儀、前巳年、上野上沼津金剛院に、旗本の足軽大将荒川道龍を差添へ、申越さるゝは、立身の心懸、謙信公に妨げられ、心に任せず候。愚息三郎を人質に渡し、謙信公の幕下に属し申したしとの儀なり。謙信公も、氏康関八州の名将、殊に我より手老の所に、斯様に申越さるゝを違背せば、我慢の意地なり。我れ人に頼まれ、氏康と挑戦はゞ手前の働、手広うならざる事、詮なしとて、御和睦の御返答仰遣され候故に、右の通なり。謙信公、常々精僧の如くに、四度灌頂を遂げられ、護摩を修し参禅勤行、故に妻女なきを以て、喜平次景勝を、養子分になし置かれ、其後、元亀元年冬、氏康公御死去、三年過ぎて、天正元癸酉年正月十五日に、三郎殿へ上杉の氏、并に景虎と名乗を譲り、景勝の御妹と一所に仰合せられて、三郎殿を御養子と仰出さるゝなり。斯様に瞭然紛れなき儀を、北条家の衆、彼の三郎を謙信公より養子に御貰ひ候と申し候は、大なる詐なり。総じて謙信公は、義理を専にして、弓矢を御取りなされ、人に許諾の上は、少しも連変御座なく候。先年、能登へ御発向、畠山殿を攻め倒し給ふ時、畠山修理大夫義則、自殺の期に臨んで、仰越され候は、御発向なき以前か。御著陣の節降参仕らず、唯今に至つて降〔〈参脱カ〉〕し候ては、武士の恥辱に候へば切腹仕り候。然れども、数代の苗氏断絶候間、願くは愚息を御取立て、畠山の苗氏を続がせ給ひ候様にと、仰越され候て切腹なり。謙信公、感じ給ひ子息を助けられ、御姪壻にし給ひ、 〈政景の息女、景勝の長姉、〉畠山民部少輔と号し、上城に置き給ふ故、上城殿とも申し候。今御旗本畠山長門守の父、上城入広は是なり。畠山の八臣、神保安芸守・長九郎左衛門・温井備前守・三宅備後・平式部・遊佐・混田・伊丹を初め、何れも助置かれ候。
第六、駿河今川家と、謙信公御取合の沙汰之なし。信濃・上野・甲斐を隔てゝ程遠く、殊に其【 NDLJP:17】時節、武田・北条両家と、弓矢を取り給ふ故に、遠国へ御手遣之なき所、永禄三年庚申五月十九日、今川義元公、尾州桶狭間にて、信長公に打負けて討死せり。御息氏真、朝暮月見・花見・茶湯・料理好、又薬数寄をして、氏真の赤膏薬とて、今に於ていひ習はし候。武道は一円に取失ひ給ひ候。天文七年戊戌の生にて、謙信公に九の年劣に付きて、弥〻以て氏真と御取合之なし。謙信公は、我よりも小敵・弱敵には、長気なく、小目見せだて御座なく候。武田信玄公、駿州発向の催の時、氏真より清見寺の御坊を使にて、謙信公へ御頼み、御幕下に罷成るべしとの誓詞を以て、仰越され候へども、第一遠国なれば、後道まで続かざるの儀、殊に氏真不覚悟の弱将〔敵イ〕なりと、家老衆諫め申候に付きて、御同心なし。是の故に、永禄十一年戊辰十二月十三日、信玄公に駿府城を押落され、土岐山家へ窄み、夫より朝比奈備中守居城遠州掛川城へ入り、翌年五月廿六日に、家康公に追払はれ、同国掛塚より船に乗り、小田原へ逃入り給ふ時、氏真の御歌に、
中々に世をも人をもうらむまじ時にあはぬを身のとがにして
歌は聞く事なれども、武道不案内にて、三浦右衛門といふ悪人を用ひ、一人の計らひにて、諸人に疎まれ給ひし故なり。此者、主君の窂浪を見捨てゝ、遠州高天神の小笠原与八郎が許へ逃行き、搦められて誅せらるゝなり。
第七、其時織田信長公より、越後謙信公へ、御機嫌番とて、美濃浪人稲葉弥助と申す者一人、 〈後に謙信公より帯刀になさる、〉御用番とて柴田右馬助〈柴田修理従弟の由、後に謙信公より刑部少輔に成さる、〉一人、以上二人充付け置かれ、其以後、右の替に佐々伊豆・赤沢宮内右衛門春日山へ来居るなり。五節供、又初物の御音信、一月に一両度づゝの使者あり。信長公御奥意、亦凡人にあらざる名将なりと、越後にても批判なり。家康公よりも、元亀三年壬申の秋、遠州秋葉山の先連加納坊と申す山伏に、熊谷小次郎といふ士を差添へられ、御誓詞を以て御頼越し、御樽者に唐の頭十、扨又、遠州浜松の御居城を、木図に仰付けられ進ぜらる。是れ御隔心なき様にとの儀なり。此木図、景勝公御代迄之ありて、愚父舎人助定吉、見申したると申し候。御内石川伯耆守・植村出羽守などよりも、河田・直江方へ、右の趣を以て出羽到来なり。
永禄三年の五月、雑兵二千八百の小勢を召連れられ、遥々の路次敵地を何の御気遣もなく、御上洛あつて、参内を遂げ龍顔を拝し天盃を戴き、御勅諚に依り御太刀長光、并に卵子の御【 NDLJP:18】香合に、御薫物五種入下さる。次に又公方義輝公へ御礼、関東管領職御免の御朱印、并に朱の御采拝を給はり、御諱の一字を下され、政虎を輝虎と改め給ふ。然れども、御底意ありて御断り仰上げられ、永禄五年迄は、政虎と名乗らるゝなり。右の時節、公方の執権三好左京太夫義継なり。謙信公、将軍家へ伺候の時、此三好殿の座上に著き給ひ、或は途中にて義継の使者に逢ふも、馬上にて返事、或は途中にて、松永弾正に逢ひ給ふ時、松永下馬するに、謙信公馬上にての挨拶、是れ皆微妙の御奥意は、御武勇の余風なり。
松永弾正少弼久秀は、元来城州山崎の賤息なり。幼時護国寺八幡宮の社僧門口坊に、小扈従して居たりしが、一箇の才覚を以て、修理太夫長慶へ祐筆に出で、勤仕して出頭し、長慶の御局三位方の壻になり。内外の権を持ち、後には公方へ召出され、吾出が身は和州志貴野に居城、其子右衛門佐久道は、同国多門城に居す。長慶の嫡子筑前守義長を、松永弾正密に毒殺す。長慶、既に老いて嗣なく、弟十河民部大輔一存が子義継を養うて子とし、三好左京大夫と号す。長慶卒し、義継代るに及びて、松永が威、三好と相伴し。公方万松院義晴公、天文十九庚戌五月四日、江州穴太山中に於て薨じ給ひ、御子光源院義輝公の御代になり、松永、三好義継を勧め、永禄八年五日十九日、御所へ押寄せ之を討ち奉り、御舎弟北山鹿苑寺の周暠をば、平田和泉守を遣し弑し奉る。鹿苑寺殿の御内美濃屋小四郎、其場にて平田を斬留むる。其次の御舎弟覚慶、南都一乗院に御座ありしが、長岡兵部大輔藤孝が計らひを以て、忍出でさせ給ひ、方々御流浪、美濃の長井殿を御頼み、暫く御安座なれども、長井変心の色ある故、是をも御出で、微服し潜行し給ふ。其時、人の落書に、
ごしよ〳〵とすり上物のなら刀身の長いとてたのまれもせず
其後、緑あつて信長公を頼み、御本意を遂げ公方に具り、義昭公と号し奉り、永禄十一戊辰年、征夷将軍に任ぜらる。三好義継御侘言仕り御免を蒙る。然る処、松永、又才覚を廻し、三好山城守を大将に取立て、同下野守・同日向守・前の美濃守龍興・叔父長井隼人、或は岩城主税介、彼此二万計り、永禄十二年正月下旬、義昭公仮の御所六条本国寺を取囲み、三好義継後を攻むと雖も、打負けて嵯峨へ落行く。信長、早速岐阜より上洛して、凶徒を追払ひ、御所を二条に築き、義昭公を移し奉る事、同年四月六日なり。右の三好京兆義継は、義輝公を殺し奉り、天罰に依つて、松永にも見放され、窂浪して終には松永に殺され給ふ。松永が不義人倫にあら【 NDLJP:19】ず。後には信長にも逆心せん事必定ならん。信長、殺したく思召し候へども、目に見えたる義もなければ、猶予し給ひしに、松永命にもかへじと、秘蔵する平蜘といふ名物の釜あり。之を信長御所望あり。松永申すは、前廉も名物の道具二三種差上げ候。此釜は、某年老の慰に翫ひ候。御免なされよとて之を進ぜず。信長公の近習衆より、差上げられ然るべく候。さなくば、其方為めにあしかるべしと、度々申しける故、松永
草からす霜は朝の日に消えて因果はさらにのがれざりけり
誡むべし〳〵慎むべし〳〵。
第八、謙信公の斬随へらるゝ国数、本国越後は、天文十五年十七歳の時治まる。夫より越中・能登・加賀・飛騨・佐渡・上野半国より多く、下野半国余、是は足利の長尾殿仕置なり。常陸の内三郡・出羽の内庄内三郡は残らず、由利三郡の内二郡・奥会津領二郡余取合せて、十箇国許り御支配なり。扨天正五年の御内談に、明年、信長と有無の御合戦なさるべきと相定められ、今年は、先づ越中へ御働き、神保を追払はれ、其より能登へ移り、七尾の敵城を攻め破り、両国衆を先魁に組み合せ、都合三万許りの兵を率し、加州末任城に、能登の長といふ士の居城を、不日にして攻め落し、長が頸を獄門に梟けらる。右末任を攻めらるゝ時、信長より後攻の兵、【 NDLJP:20】柴田・佐々・前田又左衛門尉利家・羽柴筑前守秀吉・堀久太郎・柴田伊賀・徳山五兵衛・佐久間玄蕃・池田伊予・明智十兵衛・長谷川・村竹・丹羽五郎左衛門・大垣卜全・滝川左近将監、以上十四五万の人数を以て、加賀の手取川に著陣す。信長は引下つて三万の兵にて、越前丸岡に陣し給ふ。謙信公、之を聞きて悦び給ひ、願ふ所の幸なり。急ぎ打出づべき用意仕り候へと仰付けらる。其内囃舞あり。二番過ぎ三番目実盛あり。今の実盛は、名を北国の巷に掲ぐと謡ひ候時、謙信公仰せられ、此一曲の出合ひたるこそ吉事なれ。善は急げ。各〻此度名を、一天に揚げ給へと宣ひて、打立たるゝ所に、信長衆は末任の城没落、謙信公向はるゝと聞くと、其儘越前丸岡迄引退く。信長旗本、之を見て騒動し、同国北庄迄引取り給ふ。謙信公、手取川筋へ押詰められ候へども敵なし。其より越前北庄迄焼き働し給ふ。謙信公より新屋源助・七尾角助両使を以て、信長への御書を遣さる。今度自国の内に、少々属せざる者之あるに就き、出張せしめ仕置申付くる所、加州長と申す世忰、其方に随身の故、成敗を遂ぐるの砌、恰も信長、後攻の様子感じ覚え候。就中先手に差越さるゝ者共、流石の老功にて、手早に逃げ候を以て、助命尤に候。然れば、甲州勝頼、若輩なる故、信長に目見え、最早気遣なく家康に任置き、惟任五郎左衛門長秀とやらん申す者にいひ付けて、去年子の正月より、江州安土に普請致さす、同三月より信長居城の事は、謙信上洛を妨げらるべき儀と考へ候間、来年罷上られ、越前の内にて実否の合戦を励すべく候。天下の異見は、互の弓箭其手柄次第に仕るべく候。越後は雪国故、九月以後三月已前は出張ならず候。三月中頃、越後を打立つべく候条、信長も其時分を積りて出向られ尤に候。唯今直ぐに天下へ発向致すべく候へども、前方より信長へ申越さず候ては、何とやらん表裏に相似て、弓箭を取るの本意にあらず候間、帰陣せしめ候との御文言なり。両使口上も斯くの如し。信長公へより取敢ず御返事にて、謙信公御上洛、天下の仕置なさるべき故、御弓箭に楯を衝き妨げんと存ずる者、日本は申すに及ばず、唐国にもあるまじく候。矧んや信長柔弱の身に候へば、努々思寄らず候。来歳御上洛に於ては、扇子一本腰にさし、道迄御迎に罷出で、都への案内仕り候はゞ、道に大慈大悲の謙信公にて候間、信長一分の働きにて、治めたる国々をば、定めて下し置かるべく候へば、之を以て、旧功の者を扶助し申すべく候。それも如何と思召し候はゞ、国郡残らず差上げ、本国尾張・美濃両国を給はりて、一所懸命の地と仕るべく候。某数年、謙信公に対し、聊か別心を挿まず候。此【 NDLJP:21】度末任の長、御下知を違背に付きて、御成敗を加へられ候儀、御尤と存候。此度信長、全く後攻の志にあらず、末任の長は、某家来明智光秀と申す者と所縁に依つて、光秀、其難を救はん事を存じ、傍輩共を頼み、某に伺はず、不日に出張仕り候由、跡にて之を承り、驚き存じ、之を制止せん為めに、信長も程なく備を出し、漸く手取川より呼入れ候。然る所、謙信公御発向と承り、誤なき趣を申披かん為めに、早々諸備を打入れ候。畢竟明智、兆義の存念重科の至なれば、没収せしめ候。度々忠勤の者故、死を宥して其身を追放し候と誓詞を差越さるゝなり。謙信公仰せらるゝは、信長の弓矢此格なり。上方表にては無類といふも亦理なり。去りながら、信長の奥意、鏡に移るなりとありて、重ねて飛札を遣さるれば、返報の義不実に覚え候。弁論に及ばず、来年進旗の節を期し畢んぬと竪文に認め遣されて、御馬を納れられ、来年上方御発向の陣触仰せ出さる。
右信長公へ御使者の時、河田豊前・直江大和・吉江喜四郎・北城安芸四人よりも、信長公の家老中迄に、別に使者を以て、連署を遣し候。河田殿の内曽根主水、吉江殿の内水越将監両使なり。此水越は、藤田能登守に属して、後迄居候故、舎人助定吉、此咄を能く承り候。
右の様子にて、信長公、明智光秀を改易し給ふ。都本国寺へ引籠り罷在り候は、此時なり。内証仰聞けられて斯くの如く相見ゆ。翌年、謙信公御他界の後、元の如く召直さるゝなり。其後、ある夜御酒宴の時、信長公武勇御自慢甚し。明智申すは、某、度々の忠功を勤み、敵軍をなびけ候事、公に劣るべからず。然るに一年、越前にて大に敗軍なされ、安土まで御退き候て、謙信への御追従に、無罪の某を御追放は、勇とはいふべからずと、憚なく申しければ、信長公聞召し、汝が勇は匹夫の小勇なり。大勇にあらず。淵に躍るの小魚、豈天に飛ぶ鳶鳥の心を知らんやとて、司馬仲達が、諸葛孔明に恐れたる事を仰せられ、楠正成が、宇都宮公綱に逃けし事を仰せられ、大将の胸臆は、衆人の知る所にあらずと宣ふ。一座の面々、咸く感じけるに、重ねて宣ふは、下として上を軽んじ、強弱の批判して、将の威を失はしむる事、奇怪なりとて褥の上を起ち、明智が髻を抓み、傍なる柱へ頬を押当て、腰の扇子を抜いて、二つ三つ叩き給ひ、小姓同朋を呼んで、又打擲させて、其座を追立て閉門仰付けらる。明智、之を無念に思ひ、深く憤り、逆心を内に含むは、此時よりとは、後に知らるゝなり。
第九、右の通、来年三月十五日には、春日山を御出馬あるべしとの御備定、悉く首尾仕る所【 NDLJP:22】に、翌天正六戊寅年二月中旬より、御病気にて次第に重く、三月十三日晡時に、四十九歳にて逝去し給ふ。御遺言の如く鎧を著せしめ、右の御手に御劒、左の御手に法華経の八巻を握らせ奉り、棺槨の内に坐せしめ、其間には朱と塩とを詰めて、能くしつらひ、春日山西の尾崎毘沙門堂の下、良の隅に円丘を高く築き、東向に葬り奉り、不識庵と号す。御喪礼了りて、御茵を払ひける時、御枕の下に、一紙御自筆に辞世の御詞を残置かる。
我一期栄一盃酒 四十九年一炊間 生不知死亦不知 歳月只是如夢中
天正六年三月十三日 不識院権大僧都法印
謙信公御上洛の儀、上方西国迄も内通合属、此状を以て之を知るべし。
内々従㆑是令㆑啓度時節、珍墨拝披状然候。謙公御他界之刻、態以㆓使者㆒申入候処、貴国中御取合事候へる条、依時相其使者、於㆓途中㆒令㆓死去㆒候。其以後、路次不通之由承、遠境旁自然之無沙汰、更非㆓心中之怠慢㆒候。加州之儀、河豊・鰺備・吉織申合、謙公被㆓仰置㆒筋目、於㆑于㆑今相守申御事に候。諸篇謙公御在世之如㆓御時㆒、対㆓申少弼殿㆒可㆑得㆓御意㆒覚悟候。仍貴辺之儀、爾来慥不㆑承候間、千万無㆓御心許㆒存候処、於㆓処々㆒被㆑得㆓大利㆒、大形一国、属㆓御勝手㆒之由、尤珍重存候。爰元迄大慶之儀に候。次此方南表之儀、至㆓敵方城際㆒、毎日及㆓手遣㆒候。切々得㆓勝利㆒候之間、可㆓御心安㆒候。就中播州表之様体、三木之出城、自㆓信長方㆒雖㆘被㆓相攻㆒候㆖、無㆓其詮㆒、結句失㆑利、諸卒手負討死、其数大略二万許有㆑之由、京都近江路迄罷通、敵方内輪之取沙汰承候而、下着仕候者申候。自㆓大坂㆒定而具可㆑被㆓申下㆒候条、重可㆑令㆑啓候。少弼殿へ以㆓愚札㆒雖㆘可㆓申入㆒候㆖、自㆑是態可㆑致㆓言上㆒候間、先可㆑然様御取成所㆑希候。
七月廿二日 頼純判
拝呈
甘近
直大
双机下
右横文なり。
右謙信公の様子九箇条終。
第一、上杉弾正少弼従二位中納言景勝公は、弘治元年乙卯誕生、本卦の節、父は長尾政景、母は為景公の息女、謙信公の長姉なり。御紋は輝虎公と同じ。但し苽紋、或は沢潟は、公方義輝公より、謙信公へ下されたる御紋なり。桐菊は、太閤秀吉公より景勝公へ給はる御紋なり。為景御討死の後、景虎公御若輩故、政景思案に、越後国、行々他国へ切取らるゝよりは、我れ支配せんと思召し、景虎公へ敵対の色を立て、政景廿七歳、景虎十四歳、然れども、政景大軍にて、小勢の景虎に切負け給ふ。斯くの如くの景虎なれば、他国より越後へ指さすものは、あるまじと感して、為景公の時の如く、景虎公の幕下になりて、御出陣毎に御供なり。然れども、政景は景虎公の姉婿なる故、景虎公の御下知を軽んじ給ひ、謙信公も先年の御遺恨残れる故、常々底意不和なり。然るに、謙信公の御舎弟一人、長尾六郎殿と申す者御座候。是は武道弱く、心入も宜しからざる故、春日山城外に差置かれ、御陣にも召連れられず。政景、此六郎殿を取立て、謙信公を何とぞ、方便を以て殺害するか、左なくば転達を以て追出して、六郎殿を国主とし、我れ権を執つて事を計ふべしと思案し、密に六郎殿を勧め、我が臣尾長小刑部・鴻目・寺沢・一戸・秋田求馬助五人に内談して、我が館へ謙信公を請待し、夜遊の時、鴆殺し奉るべし。此儀調はずば、闇討にして六郎殿を伴ひ、脇道を忍行きて、我が居城野尻へ落著きなば、春日山を請取らんに、誰か異議あるべきやと密談す。然る所に、随一に頼もしく思はれたる小姓上り秋田求馬、忽ち反心して、宇佐美駿河守に頼り、潜に此事を語り、六郎殿より政景へ参りたる状を、証文に上げて白状す。謙信公聞召し、求馬に引出物給はり、事済みなば弥〻御取立て召仕はるべく候。此上にも別事あらば、早々言上仕れと、懇に仰含められしとなり。扨政景・六郎殿を、即時に誅し、野尻を蹈崩し給はん事容易なれども、自国の騒動も如何なり。政景譜代衆に歴々の者多し。此等が命を助け、御被官に差置かれたしと御思案あつて、五七日御延引なされて後、政景へ仰せらるゝは、其方野尻城郭、信州堺敵の抑の為めなれば、今少し曲輪を取出し、普請堅固に然るべきなりとて、政景に御暇遣され、縄張相談の為めに、宇佐美・宇野両人を差添へられ、此目付として、御旗本の手明衆廿五人の頭取戸次団右衛門に仰付けらる、右三人、政景に伴行き、既に野尻の湖水に近づく時、天晴れ風景好しとて、船遊を催し、酒宴の興を尽しぬ。政景、他念もなく船端に靠り居給ふ時、戸次、其傍を通る振をして、政景を湖中に突落し、はつと驚いて、続いて飛入り、政景を捕へて少しも働【 NDLJP:24】かせず、遥なる深き所へ濳行く内に、政景は溺死し給ふを、戸次抱上げて、御死骸爰にありとて、我が身も共に船に乗る。宇野も宇佐美も、戸次に続いて、湖中へ飛入り、政景衆我も我もと飛入りけるに、戸次、御死骸を取上げ、船に乗りたるを見て、何れも船に乗り移りて、即時に戸次を討たんとするを、宇野・宇佐美、之を抑へていひけるは、戸次過ながらも、是は重罪なり。謙信公、如何様に仰付けらるべくも測り難し。我々も必定切腹たるべく候へども、逃亡すべき道〔義イ〕なければ、兎に角、戸次を召具し、春日山へ帰り、如何様にも仰付けられ次第に仕るべし。面々も参られ候へ。但し又、大勢参るも益なし。野尻は抑の所なれば、何れも城代上田内蔵助に相添ひ、残留り候へとて、内蔵助に引渡し、頭立ちたる者許り十四五人、同道して春日山へ帰り、右の趣、委しく言上仕る。謙信公、以の外御機嫌悪しく、暫し黙然として御座ありけるが、白木の大広間へ御出で、何れもを召出さる。各〻南の広縁に跪く。其時の様子、重ねて一々申せと仰せらるゝ故、宇野・宇佐美委しく申上ぐる。扨湖へ飛入りたる一二三、或は同船・別船の遠近迄、御尋なされて後、弥〻右の通かと、政景衆に仰せられければ、相違御座なく候と申上ぐる。其にて仰出さるゝは、戸次儀、重科の至なれども、心に巧まざる事なれば、過といふものなり。然れども、其儘にて差置きなば、亡霊政景の著念残るべき間、戸次をば成敗せしむべし。邪心を以て仕へざる事なれば、其科、妻子には及び難しと、鉄上野介に之を仰渡され、扨政景衆への御諚には、主人水に溺れたるに、程遠きものは是非もなし。或は同船或は近き船に乗居たる面々は、政景、水へ倒れ給はゞ、其儘、船より飛入りて、主を助けんとの志なくて叶はざる儀なり。戸次、過を以て斯くの如くなる故、政景と等しく続いて飛入るなれば、二番に下るは尤もなり。三番とは後れまじき所なるに、宇野・宇佐美より、政景衆の後れたるは、我が身に貪著して、主君へ真実の志なきか。時に取つて恍惚たるかなり。此二の内に漏るべからず。武士たらん者は、日来主恩報謝の志、暫時も忘れずして、身命を奉る儀に止り居れば、事ある時に少しも心を動かさず、難を見て変ぜざるを本とすべきに、後れたる事、沙汰の限なり。次に宇野・宇佐美事は、年老故、政景相談の為めに差添へたるに、用事を閣いて遊興狼藉なり。何れも急度仰付けらるべしとて、政景衆をば、甘数近江・吉江喜四郎両士大将に預けられ、宇野・宇佐美は、直江大和守に仰付けられて閉門なり。扨垣崎和泉守、調甲三百五十騎・雑兵四千許りの人数を以て、野尻へ遣されて城を請取り、城代上田【 NDLJP:25】内蔵助を初め、政景衆何れも春日山へ呼取り給ひ、思召の通、段々委しく仰渡す所、何れも尤も至極に存じ奉るなり。船遊の時、政景の御供仕りたる面々は、猶以て己々が身払の申分計りして、謙信公の御意を如何といふ者一人もなし。其後、戸次団右衛門は、切復仰付けられ、政景衆長尾小刑部・寺沢・鴻目・一戸、彼此以上七人は、政景黄泉独歩の道ありとも、供をして罪の申開きを仕れとて、斬罪仰付けらるゝなり。是等政景と一味にて、反逆の企みをせし者なるを、宇野・宇佐美に仰含めらるゝに付いて、両人同船の塩合を取繕しとなり。宇佐美駿河・宇野好松軒両人は、御内証を以て闕落して、他国へ仕へられ、政景の跡、事済みて後帰参なり。長尾六郎殿は、程経て別の科を仰懸けられ、座敷牢へ入置き給ふ所、其翌年病死なり。政景衆罪なき面々をば、某々の組に仰付けられ、或は御旗本に召置かるゝもあり。其内、彼の訴人秋田求馬は、吉江善四郎組に仰付けられけるに、不思議なり、其明年、政景一周忌に傍輩鵜殿佐太夫といふ者に、乗打の慮外を仕る。佐太夫剛の者にて、秋田が宅へ打入り、討果すべしといひければ、種々詫言仕れども、堪忍すまじき様子を見て、座を起ちて逃げけるを、納戸帳台へ追懸け摑殺して出づる所を、十六になる秋田が子と、秋田が女房、刀を抜いて切懸る。佐太夫取つて返し、慈悲を以て助置く所に、秋田と一所に死にたきかとて、両人共に切殺して帰り、此由、喜四郎を以て披露す。謙信公、手を拍つて御笑なされ、天道は正直なり。元来秋田は、妻子迄成敗すべき事あれども、奥意ありて助置く所、鵜殿に妻子迄、成敗せられし事の可笑さよ。秋田が臆病さこそありつらめ。臆病者の癖として、人に慮外緩怠珍しからず。それを佐太夫、堪忍せぬは尤もなり。左様の者に褒美すれば、以来弱者、能き士に無礼せざる掟にもなる儀なりとて、却つて佐太夫に御加恩あり。
右の戸次団右衛門は、元来は新潟の船頭なり。然るを、謙信公御眼力にて、奉公人になされ、最前は手明衆なりしを、数度剛強の走廻仕る故、二騎役の領知を下され、手明衆廿五人の組頭になされ候。十端帆の檣に米一石懸けて、片手にて差上ぐる程の大力にて、扨又無類の水練なり。然れども律儀にて、少しも弱気なき男なるを、謙信公能く御存知なされ、戸次を召して、御直に、政景の様子を仰聞けられ、汝が命をくれよ。其報謝には、子供を取立つべしと宣ふ。戸次承り、命の儀は主君に奉ると、二六時中の存念に候へば、今以て珍しからず候。斯様の御用仕損ずまじき某と御覧じ仰付らるゝ事、神慮の加護たるべし。悦之に過ぎずと、堅【 NDLJP:26】く御請を致して申上ぐるは、とてもの御慈悲に、私老母御座候。餓死仕らざる様に願ひ奉り候。子供の事は、何とも存ぜず候と、泪を流し申上ぐる。謙信公、一入御感なされ、其儀聊気遣仕るべからず。成る程、心安き様にして差置くべしと仰せらる。戸次弥〻忝く存じ、委しく御諚の旨を承り、宇野・宇佐美と内談して、右の通、仕たりしとなり。是に依つて、戸次が母に、春日山城下と、府中と、新潟と、三箇所に屋敷を下され、奇麗に作事仰付けられ、何方になりとも、心次第に罷在り楽を致し候へ。雑用料は如何程にても、下さるべしと仰付けられ、後迄も妙真屋敷とて之あり候。戸次が子二人、総領は戸次主殿といふ。父が名跡に御加恩下され、剰へ五六度抽んでたる働仕り、立身して手明衆三百人の内、百人の大頭を仰付けられ、天正五年、末任城攻の時、先手へ御使に参り、矢に中つて討死なり。其弟、戸次八郎右衛門は、景勝公御代迄罷在り、御館乱の時、御旗本に居て、形の如く働き思勤を抽んづ。景勝公仰せらるゝは、汝が父団右衛門は、政景公の怨敵なれども、謙信公の仰を以て、命を奉つて仕りたるなり。政景、逆心あつて其罪に逢ひ給へば、我が心に更に別事なし。汝も昔の事を心に懸くべからずと仰聞けらるゝ故、八郎右衛門、弥〻以て無二に忠節を存じ奉るなり。政景居城野尻をば、垣崎和泉守に御預け、寄騎同心を増して、御加恩あつて、信濃表の抑に差置かる。泉州死後、子息垣崎弥次郎年若き故、越後頸城郡の内、本領の垣崎を下され、御旗本組に仰付けらるゝを以て、景勝公御代迄、垣崎弥次郎は垣崎居城にて、越後組の時は、大方藤田能登守相備にて候なり。
第二、右政景御溺水は、永禄八年、御嫡男喜平次景勝公十一歳の御時とも、又は同九年丙寅景勝公十二歳の御時とも申し、実正知らず候。其節、喜平次殿をば、直江大和守・甘数〔糟イ〕近江守両人に御預けなされ、十五歳迄は、政景の本領植田三庄、其外の所知、両人支配すべし。喜平次、人と為るべき器量あらば、十六歳より相違なく返し与へらるべしと、仰渡され候故、政景衆一入、脇へ散ずべき心なし。直江・甘糟、喜平次殿の様子を見るに、物和かに手ぬるきかと見れども、大方の事は御堪忍、御可なさる程にては恐しき体、又乱火の如く疾くして不仁なるかと見れば、慈悲あつて心を配り、気を付けて忝く存ずる様に人を召仕はれ、武芸・文学に心を入れ、老功の者の物語を聞き、理非の吟味をし給ひ、父政景の罪あつて、身を失ひ給ふは天道の罰なり。謙信公に少しも恨なしとて、刀は毘沙門・八幡大菩薩・勝軍地蔵の精進をし給【 NDLJP:27】ふに、前日より別火にて、垢離を搔き、潔斎し、其当日は穀を避け、塩物まで断じ給ふ。三日は毘沙門の咒、十五日は八幡本地の真言、廿四日は愛宕地蔵本地の咒を終日唱へ、此咒真言光明の外は、無言にて然も、一坐禁足の行をなされ、甘数〔糟イ〕・直江、何の為めに、斯くの如くなさると問ひ奉れば、喜平次殿仰せらるゝは、父政景、逆心にて天罰を蒙る。其賤息なれば、御成敗あるべき所、一命を助け置かるゝのみならず、行々某が心立てに依つて、植田の本領をも下置かるべき様に承る。殊に当分も、籠獄の身となさゞるは心安し。此御厚恩、何を以てか報ぜんや。然れば、とてもの儀に、一生の内謙信公へ召出され、身命を抛つて忠功を励し、父不忠の辜を救ひ、予が忠誠を以て、亡霊の迷を晴らしたしとの立願なり。又亡父の回向には、毎日千遍の心経懈らず候と、金打にて仰聞けらる。其後両人、弥〻慥に見届け、具に謙信公へ披露し、兎角平人に異りたる所多く候間、召出され候て、其行跡を御覧候へ。別条之あるべからず候と、達て申上げゝれば、謙信公、其方達左様に存ずる上は、何事かあるべきとて召出され、御側に御奉公仰付けらる。十三歳とかや。永禄十二戊辰年、十四歳の御時、御使番深沢と申す者と、御持足軽廿五人の足軽大将九鬼隼人と申す者と、此両人、御法度を背きたる儀あつて、謙信公、以ての外御立腹、御成敗に究まりたる科あれども、御思案にて、其期延べ給ひけるを、喜平次殿聞召し、密に謙信公へ仰上げられ、此者共を、某に仰付けられ候へと御望あり。謙信公仰せらるゝは、彼等数度剛強の働をして、健なる者共なれば、一人づゝ引分けて、五三人づゝにいひ付けても、如何と思ふ所、汝忰にて申す儀、存寄らざる事なり。去り乍ら、望む心緒は勇気なりとて、御褒美あつて御免はなき所、喜平次殿思召すは、御諚意を考ふるに、御成敗には究まりたりと聞ゆるなれば、之を斬りたりとも、疎忽にはなるべし。斬留むれば手柄なり。仕損じて某討たるゝとも、御恩報謝と存ずれば、命惜しからずと、思定め居給ひけるに、九月九日、重陽の賀慶に、御家中登城なり。御家風にて、同役の者も功の多少吟味にて、席の上中下の次第あり。別役の者は、一間限に定まりて、混雑なき御作法なり。然る所に、右の両人、天運のなす所か。我が定まりたる席を起つて、宛の間へ行き、茶を飲みて居る所へ、喜平次殿御出で、深沢に仰せらるゝは、其方眼病不快の由、上の御耳に立ち、御薬を下され候。我等、其方が目へさして、心持を聞いて参れとの御意なりとて、深沢を仰けに寝させて、手に持ち給ひし胡椒粉を、両眼に颯と打懸け、其儘、脇差を抜き上意なりとて、突【 NDLJP:28】き給ひながら、九鬼助けよと宣ふ故、道の九鬼隼人なれば、深沢が起き直らぬ間に、二の太刀を打ちて斬留むる。其内に、喜平次殿、脇差を引取つて、開いて踏込み、九鬼が右の
第三、天正六年寅三月十三日、謙信公御他界、景勝公は廿四歳なり。謙信公御病中、貴賤上下共に残らず、春日山に相詰むる。就中、喜平次殿・三郎殿、家老の面々は、御本丸に相詰むる。御逝去ありても、三郎殿も喜平次殿も屋形々々へ帰らず、其儘、本城に居給ふ。是相互に権を争ふ故なり。三郎殿は御養子なれば、疑なき家督にて、直に御本丸に居て、御跡を踏み給ふべしとの義なり。景勝公は、某は御隠居の御跡目とありて、御持国の内、半分支配し、三郎景虎と両旗にて、御跡を黒め候へとの儀なり。然るに、常々三郎が候法を見るに、某を押掠め、一人の様に威高く仕り、某方へ潤色なき事奇怪なり。某は本家の嫡流なり。他家の北条に、御跡を踏すべきにあらざれども、御養子分になさるゝ上は、御諚を守り、両旗にと和談あらば、其通なり。某を
第四、此後、景勝公、数度御館へ取寄られ候へども、三郎殿方にも、本所〔江イ〕・遠山・伊藤・愛甲を初め、歴々の関東衆、或は憲政衆を合せて、五千余も楯籠り候故、早速攻め破りがたく、内々北条氏政より加勢として、江戸城主遠山甲斐守、或は太田大膳兼高・北条治部・中条・常岡・富永等を、宗徒の士大将として、二万計り差越さるゝなり。
附上野にては厩橋城主北城安芸守父子、或は応期・尾奈淵・膳の九郎三郎利忠・山神・道井〔牛イ〕・館林の長尾新五郎・白井の長尾景義・新田金山城主縄城主、或は沼田の上野中務大輔・上河田・下河田・久屋・柵〔棚イ〕下・佃・中山・尻高・名胡桃・深沢・猿ヶ京・新城・岩櫃・森下・新巻・小川の下乗斎、西上野にては、板鼻殿・宗舎の長尾殿、彼是大方三郎殿方の衆多し。又景勝方を仕る衆も之あり、中間取合なり。上野先方の士大将深沢刑部は、無二に景勝方を存じ詰むるなり。其様子、景勝公の御状を以て、之を考ふるに、
如㆓註進㆒者、猿京へ自㆓倉内㆒相働之由申【 NDLJP:30】候哉、因㆑玆雖㆘無㆓申迄㆒候
天正六年
五月十八日 景勝御判
深沢刑部少輔殿
此上に書く御状に付けていふ。
一、此深沢刑部少輔定政は、深沢城主故、上野表の様子、越後へ註進仕る。其御延書斯くの如し。
二、猿ヶ京には、尻高左馬助楯籠る。是も景勝方を存ずるなり。其外、小川の可乗斎・尾奈淵の沼田平八郎殿を初め、斯くの如き衆あり。
三、倉内は治田の義なり。沼田は、此頃早北条に属する故、沼田より猿ヶ京へ相働くべきの由、其聞えありて斯くの如し。
四、両口の備肝要とは、深沢城、沼田と厩橋との間にて候。厩橋の北城も、三郎殿方を仕る故なり。
五、此深沢は、舎人助定吉父夏目左衛門尉定虎が為めには姉壻なり。
右之御状、竪紙なり。本書御自筆某所持仕候。
右に付、倉内より猿ヶ京へ押す前、一日の路程之あり。敵人数出し候由を、深沢刑部開きて、厩橋口を能く抑へ、跡より押寄せ、倉内を乗取るべしとの模様を、沼田衆、聞いて引返して城へ入るなり。深沢衆、沼田の二里程近く迄、押詰むると雖も、刑部も、堅き備にあらざれば、沼田を早速攻め取るべき様なくして、其辺少々ながら放火、馬を納るゝなり。されども、後には猿ヶ京を始、小川も尾奈淵も残らず落城、或は降参して、景勝方の城は、上野中に深沢一城なり。此時節なれば、他国より加勢はなし。尤も景勝公御出馬なき故、刑部、深沢を持堅め候へども、南には厩橋の大敵、北には沼田の大敵あつて、中にはさまり、剰へ味方の城々、或は逐電或は降参、或は討死仕る。三郎殿方仕る衆へは、小田原より加勢もあり。後攻も其便よし。深沢一城にて、運を開く事なり難しと見切り、刑部少輔、城を払つて人数を率ゐ、厩橋へ取懸つて、北城に一塩付けて、越後へ参るなり。然る故、北条家へ敵対する者なくて、上野衆を相催合せ、三万五千許り、越後へ討入り、三郎殿へ加勢なり。
第五、越後植田三庄の内、樺沢の城主栗林肥前守・志水の長尾伊賀守、坂戸山には上坂宮内少【 NDLJP:31】輔居城なり。御旗本より先手の足軽大将佐藤甚助とて、歩足軽七十五人・与力三十五騎、謙信公御代より預けられて、数度誉ある士を差添へられ、坂戸山に在城して、上野表の抑なり。志水・樺沢の城も、其通、各〻堅固に用意し、襲来の敵を相待つなり。
右に記す如く、上野衆、北条と一味故、越後への通路自由にて、三郎殿へ加勢の兵、北上野へは志水谷へ上ては、長尾伊賀守城を取巻き、三国峠を越えては、坂戸山・樺沢城を打囲みて攻むる。此時節、上野は右の通、其外謙信公の切随へ給ひたる国々、景勝と三郎殿とへ志ある者、互に挑合ひ、自分働きを仕り、越後の内にても、三郎殿方を仕るは、鮫ヶ尾の堀江玄蕃・戸中の本城清七郎を初めて、斯くの如くなる故に、植田表へ後詰なさるべき様なし。されども遉の謙信公、御眼力を以て差置かれたる各〻なる故、敵の大軍に聊も臆したる気遣なく、討立ち討立ち仕り、敵の備色あしくば、突いて出づべき様子なれば、北条家の人数大勢なれども、抑を置いて、御館へ直ぐ通る事、思も寄らず候。敵兵は次第に加はり多くなり、味方は小勢にて、殊に後詰の頼もなければ、終には攻め落さるべき様子なれども、坂戸山の城は、堅固の名城なれば、中々近く取寄る事ならずして、遠巻したる計りなり。志水・樺沢の寄手も、城中の働に恐れて、斯くの如くなるは、城主城主の手柄といふ内に、謙信公の御威風残りて、斯くの如きなり。
附右三城主、敵の来らざる以前打寄り、内談相究むるは、北条衆は大勢にて、味方は小勢、殊に後詰の便もなければ、何れも落城せぬ事はあるまじ。謙信公御代に、数度手並を見せ、既に御幕下に属し、人質迄差上げたる北条家、今謙信公、御他界なさると其儘、当方へ押込まるるのみならず、落城に及ぶべき事、無念至極なれば、敵の押寄する時節を考へ、城より討つて出で、潔く一戦して討死せん事本望なり。自然百に一も勝利を得ば、大なる誉なり。去りながら、此儀は自己の名聞にて、景勝公へ対し、深志の忠にあらず。少時も我々城を持堅め、御館へ加勢の敵を是に漂はせ、其内に、景勝公御勝利ならば、戦はずして勝ち追はずして、敵逃ぐべし。扨又、此志を以て、城を守り候ても、落城すべきに極まり候様子ならば、突いて出で、寄手の人数を追散らし、山へからまり谷に隠れ、今一城の味方を待請けて、堅固に残る一城へ、後攻の為めに、敵を前後より押包み、戦ひて利を得るか。負けて討死せんは、素より望む所なりと申し定むるなり。之を越後家にて、贈の相図と名付け、他国にては難儀といふ。共に【 NDLJP:32】時により武略を以て、自国同然にもなるべきなり。右の通、内談を極めて、堅固に籠城し、敵方、弓断あるを見ては、夜討を仕懸け、或は打散らして手早に引入れ、或は陣屋を焼き糧を奪ひ、或は昼夜弓鉄炮を放ち、鯨波を作つて敵を恟して、守法実なる故に、寄手、利を失ひ、草臥れたり。去れども、大軍故入替り〳〵攻寄する事、七月中旬迄なり。坂戸山城は、三国峠の抑なり。三国峠といふは、上野・信濃・越後三箇国の境の山なり。是に依つて、日頃の用意の兵具兵糧丈夫にて、殊に勝利の地名城なれば、此城へ、両城より後攻すべしと密談なり。志水城は、上野より直越の抑とは雖も、上野大半御持国となるを以て、支度全からず。殊に坂戸山程の名地にて之なし。是れ故、志水・樺沢両城、守る事ならざれば打拾て、坂戸山への後攻すべしと申し定むる。然るに、漸く八十日余の籠城なれば、糧も乏くなる故、志水・樺沢の両城より討つて出で、切抜け候。其謀略左の如し。
一、志水の長尾伊賀守、切つて出づべしと存じ、敵方へ申入るゝ様は、城内兵糧尽き、尤も後攻もなければ、程なく落城仕るべく候。然れば、甲を脱ぎ城を渡し、御館への案内仕るべく候へども、道に謙信公御眼力を以て、此城に差置かれ候へば、如何に命が惜くとも、左様の不義は、武士の恥辱なれば、罷成らず候間、今夜切つて出で、春日山へ引取り申すべきなり。随分防ぎ妨げて、討留め給へと申し送る。北条家の面々、何とぞして、伊賀守を生捕らんとて、待構へて居たれども、伊賀守出でざる故、昨日は
伊賀守、又寄手衆へ申送るは、最前申入るゝ段、相違仕る儀、御さげすみ恥しく候。随分と存じたるは、一徃の儀なり。寄衆の作法を見るに、斬抜けらるべき様にあらず候。弓矢の礼儀、是迄に候間、降参仕り御館への先蹈仕るべく候間、命を助け給へと申遣し、北条治部・太田・遠山等の寄手いひけるは、流石、謙信の同じ名前の詞に
二、樺沢の栗林肥前守は、我が内の同名刑部左衛門を、反忠にして敵へ一味させ、擁の印まで申遣して、いひ送りける様は、其事、肥前守へ恨多き仔細あつて、反忠を申し候。寄手の衆を城内へ引入れ申すべく候。某儀、人質を預り本丸に罷在り候。本丸に火を懸け申すべき間、其時、一同に攻め入り給へ。某は組の士卒を相随へ出づべし。さあらば、挟撃ちて肥前守を初め、一人も残さず討取るべし。火を懸くる日限は、此方の虚実を見合すべく候へば、見合せ申すべし。一左右なるべき首尾も候はゞ、必ず申入るべく候。此儀、全く詐にあらずと、誓詞血判を以て敵へ申送る。北条衆、此行に乗るこそ愚なれ。誠と心得、火の手を今や今やと相待てども、四五日・七八日の内こそあれ。火の手も見えねば、待草臥れて、刑部が申越したる事を疑ふ心出来、気も撓む時節、志水の相符の時より、栗林、夜半に本丸に火を懸けたり。敵、之を見て、扨は刑部が裏切なりと、寄手の士大将は知ると雖も、前方日限をも定めず置く事なれば、謀を漏さじとて、物頭・物奉行計りへいひ聞かせたる故、若き者共は、味方の内より忍入りて、火を付けたりと心得、人に先を越されじと、跡を見ず馳行きて、堀へ飛入り土手へ上り、我も〳〵と攻め懸る故、制止もならねば、備を立つべき様なし。是れ北条の士大将、弓矢の備正しからざる故なり。其内、上野先方衆は、越後の御家風知りたる衆ありと雖も、総軍に引立てられて斯くの如し。さあれば、栗林、敵、外廓の土居屏へ思ふ儘に偽引寄せて、櫓・栖桜より射立て打立て漂ふ処へ、木戸を開いて両方より突いて出で、散々に切靡【 NDLJP:34】く。敵、計方を失ひ敗北す。伎倆あつて踏止まる者ありと雖も、敵・味方の差別を知らず、同志討するもあり。其間に栗林、敵の陣屋に火を懸けさする。敵の面々、内輪に逆心の者ありて、斯くの如しと同じ味方を気遣して、衆心離れ〳〵になる故、弥〻城の衆に、切立てられて、諸方へ逃散す。
附刑部返忠の時、擁の印に、差物棹に火縄を結付くべし。雨降は白四半の小きを袖印に付くべしと、申し定め候により、城内の各〻比擁の相符を用ひる故、味方は
三、志水・樺沢両城の衆、切脱けて相図を以て人数を纒め、煙を以て坂戸山へ申送る。之を請取りて相符。〈口伝〉其翌日、夜に入り各〻、松の山を伝ひ、坂戸山の後攻に向ふ。敵は両城を取りたるを自慢して、切抜けたるをば押隠して、味方同士権を争ふ。其中にも、切抜かれたると心付く者あれども、定めて春日山へ逃げ行きぬらんと思うて、坂戸山の後攻をせんとは、思も寄らず、坂戸山城を攻め落して、手柄の上に手柄を重ねて、御館へ参るべきか。又は坂戸山の城一つ残り、根の断ちたる木の如くなれば、引かずとも頓て倒るべし。抑を少々置きて、皆々御館へ行くべきかと、評議区々にて、後攻・押の手当はなし。然る間、後攻の各〻敵近く押寄せて、俄に鯨波を作り、弓鉄炮を放つて、千変万化に斬廻る時節、城内よりも、佐藤甚助、采配を取つて突いて出づる。上坂は城に残りて堅固に守る。跡先より北条衆を直中に取包み、悉く切靡く。油断をしたる寄手なれば、散々に敗北せり。敵の陣屋を焼捨て、地下の兵糧を集め、寄衆の陣具を奪つて、志水の衆も、坂戸山城へ入るなり。敵又、逃散の人数を集めて、重ねて城戸山城を取巻き候へども、攻むべき体にも見えずして、遠巻食攻の様子に仕るなり。
第六、樺沢の栗林肥前・志水長尾伊賀、坂戸山城へ入り候故、越後へ直越の道、自由なる故、八月、上州殿橋城主北城安芸守の子丹後守に、〈初は弥五郎といふ謙信公御代、十六歳初陣してより、数度剛強の働仕り、鬼弥五郎といはれたる士なり。〉北【 NDLJP:35】条殿より五百騎差越し、三郎殿へ加勢なり。丹後守、南方衆を引率し、北上野より、直越に松の山の峠を越え、御館へ来り、外曲輪迄取出して、春日山衆を寄付くまじき威勢なり。景勝公、之を
一、相詞・片相言にて、敵かと問へば刀〔力カ〕と答ふる。
二、刀脇差に五つ巻く。白紙を以て俄に用ふる。
三、右の袖許り、白く仕る。
四、白き手拭を以て
此四箇条にて敵・味方を見分くる。
附右北条事を、聞召さるべき為め、所々に人を付置かれ、或は透波を以て伺ひ給ふ所に、二月二日の暮方、御館よりの落人あり。之を捕へて聞き候へば、北城、高見敗北の砌、深手を負ひ申され候が、今朝五時死なれ候。頓て御館も打毀さるべしとて、皆片息になりて居候と申す。透波共承り届くる所も斯くの如し。荻田主馬允言上仕るに、相違なく候。景勝公より憲政を計り給ふ様子は、三郎は北条氏康の子なり。其氏康に、此憲政、関東を追払はれ給ふを擁し奉り、当地に御安座は、謙信公の功なり。其跡を継ぐ某を敵にして、敵氏康の子を贔負にし、御館に差置かるゝ儀、御分別違なり。仔細は三郎勝ち候ても、深冠の敵なり。某勝ち候はゞ、何事につけても、謙信公の掟を違ふまじき覚悟なれば、憲政公へ対し、蔑如あるべき義なきに、其理非の勘弁之なき故、大国数多持ちながら、北条に奪はれ給ひたるなり。今とても、三郎を追出す御分別出来て、景勝に斯くと仰越され候はゞ、少しも御為め悪しき様には、致すまじき、扨々無骨なりと、時々御話の
附不思議なり。右の相沢、七日の内に癩病を受け、其子迄も斯くの如く、後に越国枇杷が島に居るなり。後の為め之を鑑記す。
第七、戸中城主本城清七郎といふ士大将、三郎殿方を仕り、敗軍の人数を集めて籠城仕る。春日山より飛脚道、二里程之あるなり。景勝公、同四月御出馬なり。本城清七、城を開いて退散仕る。然るに、城に籠りたる三郎殿衆、清七が兵共、御助けなされ、仰せらるゝは、三郎又は清七滅亡を顧ず、心を変ぜざる事、頼もしき者共なりとて、本領を下置かれ、それ〴〵に【 NDLJP:39】御預けなさる。其者共は勿論、御下の諸人、一入感じ奉るなり。戸中城をも払拾なされ、越後一国平均に治め、御仕置仰付けらる。
同年七月、武田勝頼公の御妹、甲州より越後へ御輿入、御輿添は佐目田勘五郎・永井丹波守両人来り、春日山に相詰むる。御祝言首尾相調ひて、目出たき様子なり。
右景勝公三郎殿御館乱といふ。此時、諸方上杉家を背き、或は他家と申通じ、或は日和を見合する所に、越中松倉の河田豊前守・大津の吉江織部・境宮崎の不動山城主等、少しも義心を翻さず、城を持堅め居る内に、景勝公御勝利故、越中衆、愈〻競勇んで御出勢を相待つに付いて、同年の秋、越中へ御発向あつて仕置なされ、又能登・加賀へも御手遣なされ、首尾能く御帰陣なり。
翌八年の春、又越中へ御出馬、戸山・末盛の両城を攻め取り給ひ、其外、所々御手に入るなり。同九年四月、又越中へ御出馬あつて、方々御働の内、佐々内蔵助が人数を入れ置きたる小井手の城、柴田修理亮が随一の士大将、毛利九郎兵衛が籠りて居る不動花の城を攻め崩し給ふ時、佐久間玄蕃、加州小山より後攻に出で候へども、其以前城を焼捨て候故、玄蕃、半途より引退く。是に依つて、越中半国余、御手に入るを以て、戸山・末盛・大沢・松倉四城を、御抱へなさるゝなり。
天正九年辛巳の暮、柴田因幡守逆心より、慶長五年庚子迄二十年の間、景勝公御一戦、或は城攻、或は小攻合の様子、夏目舎人助定吉、手に合ひたる事には申すに及ばず、其外、聞き伝へたる事共、残らず此末の巻々に之を記す。扨又、慶長十九年・元和元年大坂両度の御陣、景勝公の御武功、人の普く知る事は、両御所様より御感状、上杉家へ頂戴仕る衆多し。冬の御陣霜月廿六日払暁、木村長門守・後藤又兵衛、蒲生堤にて佐竹衆を追崩し、佐竹随一の渋井内膳等を先として討死多し。弥〻大坂衆競懸り、勝利と相見ゆる時、二之実に景勝公、大坂衆を追散らし、大利を得らる。是に依り、直江山城并に須田大炊・杉原常陸・鉄孫左衛門武功の働、両御所様、御感状に添へ種々下され、拝領仕る事、景勝公御一身の采拝、謙信公武備正道の故なり。
一、従二位黄門景勝武君、元和九年癸亥三月二十日御逝去、六十九歳。権大僧都意心法印と号し奉る。【 NDLJP:40】 一、御嫡男上杉弾正忠従四位上少将定勝公、御母は藪大納言殿御息女、天正二十年高麗陣の砌、秀吉公御媒酌、後陽成院様より之を下さるゝなり。嫡母武田信玄公の御息女の御腹には、御子なく候。少将定勝公は、鍋島信濃守勝茂の御壻なり。
一、定勝公、正保元年甲申九月十日捐館、四十一歳。慶長九甲辰の生、権大僧都隆心法印と号し奉る。
一、定勝公御一男上杉喜平次実勝公、寛永十六乙卯年の生、当慶安二乙丑十一歳。
一、景勝公御持旗十一本は、
一、御小馬験 開扇子、銀の方に金の丸。金の方に銀の丸。 一本
一、御大馬験 地白に、早の字を黒く書く。地黒に、勝の字を白く書く。 二本
右之外、八本は、
一、地黒に、日之丸之御旗 二本
一、地白に、五行の⛤御旗紋黒 一本
一、地黒に、五行白く付けたる御旗 一本
一、地白に、黒く毗の文字の御旗 一本
一、青地に、金にて龍の字の御旗 一本
一、地白に、登の字黒く書く 一本
一、地黒に、無の字白く書く 一本
右、合せて十一本、此立置く所〈口伝〉様子品々あり。是は夏目舎人助定吉、越後に罷在りたる時の事を存じ出で、書付けさせ候。仍つて件の如し。
管窺武鑑上之上第一巻 舎諺集 終この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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