管窺武鑑/下之上第七巻

 
 
 

 
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管窺武鑑下之上第七巻 舎諺集
 
 
 
柴田城池端城陥る事
 

第一、十月廿三日、伊地峯城攻落され、翌廿四日、景勝公、柴田へ取詰められ、直江を前備に用ひ、柴田南方に御旗を立てられ、泉沢河内守は、池端より後攻を抑へ、残の士大将、各〻城を囲む。

竹束仕寄を繰り、城際一二町近く取詰むる。藤田能登守は、南方大手猿橋口より取寄する。然るに、此口を堅めたる柴田家老猿橋和泉守変心、直江方へ矢文を藤田備へ射入る。其様子は、我々の命を助けられ、唯今迄の領地、異議なく下さるゝに於ては、此口より御人数を引入れ申すべく候との状にて、奥に牛王を接ぎ、誓詞を書す。直江・藤田、景勝公へ之を伺ひ、尤もなりとの返翰を遣す。是に依つて、城総攻明廿五日、刻限は御下知次第に仕るべしと、之を相触れらる。時に宇野民部少輔申上ぐる。廿五日は亡身日なり。攻城不抜、挑戦不勝、還亡其身と申して、大悪日なり。廿六日然るべしと申上ぐる。諸人之を聞いて、詞には出さずと雖も、廿五日の城攻如何なりと、心に怪しく思ふは尤もなり。さなくてさへ、陣中色色の雑説多く、敵の善事をいひ、味方の悪しき沙汰を申すものなり。さる故、謙信公の仰出に、陣中にて雑説あらば、其元を穿鑿すべし。いひ出す者一人あるべし。縦ひ士にても、事を巧にして申出すは、武道を知らざる売僧の偽者なれば、青葉者と同じ□□べき所、縛首の罪科、又聞いて申さゞる者は、御褒美なさるべしとの令法なれば、今とても陣中雑説は、曽て之なく候へども、名誉の軍配者宇野民部、斯くの如く申すに依つて、之を伝聞き、下々心に危ぶむべきなりと、景勝公、察し思召して仰せらるゝは、亡身日は、徹其身を亡し、我が為めに大吉日なれども、諸人、此理に徹せざる時は疑あるべし。我が家に、大秘伝の神呪あり。之を唱ふれば、疑惑を除き、悪、変じて吉となり、禍、却つて福となる。之を教ふべし。陰道陽道と云々、之を七遍宛唱へよと仰触れらる。之を聞いて、正道を思ふ者は尤もと得道し、理を知らざる者は、あり難き事とのみ思うて勇み競ふなり。オープンアクセス NDLJP:210〈附、宇野民部は、謙信公御代よりの軍配者鴻松軒の事なり。若年より酒肉女犯を絶ち、軍配を家老の益田新右衛門を取立て、法を残らず伝授す。此新右衛門は、越後にて又隠なき金瘡の上手にて、景勝公へも御目見仕る。新右衛門男子なき故、頃年まで上杉家に罷在り、益田民部を壻名跡に仕り、又法を伝ふ。後に景勝公召出さろゝなり。右の鴻松軒、景勝公達て仰せらるゝ故、精進を略し、半俗の体になりてより、若名を呼びて、民部少輔ともいふ。尤も鴻松軒とも申すなり。謙信公御代より、鴻松軒と宇佐美と、両武者奉行仰付けられたる武逹の名人なり。〉

第二、廿五日、昼は攻めずして、其夜半に至りて、安田上総守、攻口搦手の方より押寄せ、一の城戸の町屋へ、火を懸けて攻懸る。柴田因幡守、自身搦手へ出でて之を防ぐ。其帰を討つべしとて、内通の猿橋和泉意得にて、相図の火を立つるを以て、藤田、南大手より攻懸る。然れども、念を入るゝは、敵、詐偽る事もやとて、相備衆の内より、長柄の者を選出すこと、六百本、此奉行士十二騎並に手明衆をば、小奉行に差副へて、猿橋口へ押向け、藤田旗本相備衆ともに猿橋西の曲輪へ向ふ。是依利制変妙用也。然るに、右長柄の隊を、敵見て門を開きて、味方を入る。過半打入ると、其儘、兼ねて藤田申付けし如く、長柄先に炬、或は小挑灯を結付け、之を差上げて、同時にどつと鬨を作る。そこにて藤田旗本、相備衆ともに、猿橋西の曲輪へ足軽を進め、鉄炮を連ね打懸けさせ、二放目に藤田、采拝を取つて下知して、一番に城へ乗入る。相備衆も備頭に越さるまじと、堀へ飛入り土手へ登り屏へ附く。其曲輪の大将柴田土佐、猿橋曲輪より敵攻入るを見て、我が持口を捨てゝ引入る所へ、夏目舎人助、我が組を率ゐ、一番に抽んで敵を追懸くる所、敵、鈴木と名乗りて、小返を仕るを、則ち槍組み突伏せ抑へて、被官に首を取らする。鈴木に続いて十四五人、守返したる敵兵を、松崎雅楽允・関口理作内・中村魚角三人、何れも舎人組なり。組親の後に控へては、以来男は立たるまじと、名乗懸け敵を討つ。其内、味方加集かさむ故、返したる敵、本陣へ逃入る。搦手口の寄手は、大手の火を見て、弥〻競ひ懸る。敵は之を見て、早や後より本城迄、攻め取られたるかと、流石の柴田因幡守も、金短冊の腰差を捨てゝ、本丸へ逃入る故、残の持口の敵共、其廓々を捨てゝ、皆本城へ引入る。是に依つて、搦手攻破られ、四方の寄手悉く乗入る故、敵本城一つ持堅むる。本丸、多勢籠り難くして、橋を引き人数を関出す。たて出されたる敵共、寄手へ走入り、斬死するものあり、降を乞ふもあり、或は斬抜けたるもあり。藤田備も首十三、生捕六人、其内一人、舎人も討取る。さのみ約敷場所ならねば、高名と申すにてはこれなし。扨又、此時一番に、本丸の丸外張際迄、押詰め踏忍へたるは、先頃池の端にて、比興仕りたる平野といふ藤田旗持なり。其に依つて、藤田旗本一番働との御褒美なり。扨竹束・羽楯等を以て詰寄せ、本丸を取巻く。同廿七日まで、斯くの如き事は、大剛の柴田因幡守にて、滅亡に及ぶと雖も、毫頭、オープンアクセス NDLJP:211怯気を見ず、軍令正しく、夜は猶以て怠らず、却つて向弓鉄炮を放懸け、寄手少しも油断あらば、城内より突いて出で追払ひ、本の如く持堅むべき様子なり。殊に城は、縄張堅固なり。其上、本城堀広く深きに、又堀中に小土手を築き候故、二重堀の如くなり。本丸に取籠る者共は、何れも一筋に存じ詰むる逞兵鉄騎の勇士なり。勿論、雅攻に仕らば、攻落すべけれども、味方の人数、多く損ずべきも如何なりと、猶予仕る所、廿八日の朝、因幡守、金白檀の鎧を著、金福禄寿の鍪をば脱いで側に持たせ、白手拭を以て鉢巻し、本城南の廊門に上り、戸を排きて、高声に申しけるは、当表の備は、藤田能登守殿と見届け候。某は柴田因幡守なり。未だ申談ぜず候へども、藤田殿に御目に懸り申度き事候間、備表へ御出で候へと呼ばはる。藤田出でんとするを、各〻制止す。猶仄闇く候へば、誠因幡守とも見定めず候。自身出でられ候はゞ、引寄せ射殺さんとの術も知れず。左あれば、敵の行に乗るは、大将の越度なりとて、馬の口を控へて出手丹波守、能州の小馬験を持たせ、竹束表へ進み出で、一礼之れあり。其時、柴田申すは、譜代の御主へ、弓を彎き奉る事、天譴遁れざる所なり。是偏に井地峯道寿斎へ義理を以て、斯くの如くに候と雖も、主君の御恩を抛ち、傍輩の義を立て、逆心致し候事、不義の至、人倫の法にあらず候。某愚意、後悔是非に及ばず候。伊地峯は早や御成敗なり。此上は、唯今誰へ義理を立つべき様之れなく候へば、死を共に仕る事、本意に候へども、某は最早数人の家来を殺し尽し、某粉骨候へば、其恨なく候。然れば降参仕り、城を渡し申すべき間、偏に貴方、御執成を以て、此籠城の者共を、御助け下さる様に、是又全く身を惜むにあらず候。諸人を助けたき存意に候。某儀は、御成敗をなされても、苦しからず候と申候。出手返答は、仰尤もに候。御前の儀は、仰置かるべく候。籠城の面々命の儀は、申すに及ばず、貴殿本領安堵の事迄も、相違なき様に言上致すべしと、未だ申し切らざる内に、景勝公、〈金方銀丸、銀方金丸、〉両面扇の小繚を押立て、御手廻の騎馬十騎許り召連れられ、藤田備の方へ御馬を向け候を、柴田見て又申すは、早御旗向ひ候。城攻と相見え候間、用意仕るべく候。唯今降参致したればとて、争か御助あるべく候はんや。又今迄の某、命助かり候とても、昨今迄乳を呑み、吻の黄なる奴原の跡尻に屈廻り、何の面目あつてか、生を保つ甲斐あらんや。此事を存じ立てゝより以来、首になつて、景勝公へ御目に懸るか。さなくば、景勝公の御首を、獄門に懸けて見るか、此二つなりと思究めたれば、今の期になりたりとても、少しも驚かず候。然しながら申す所オープンアクセス NDLJP:212は、志ありての儀なれども、藤田心得て、自身は出でず、其方が様なる忰を出し、臆病分別は、能登守軍絶ちし、此事にて出でても、死ぬまじきものをと哈つて、戸を確と闇ぢたるが、又戸を排き、彼れ賤息なりとも、助けて益なし。射殺せと下知して引入り、其より弓鉄炮を放立てしを、出手、騒がず城を見積る体にて、横切つて一町程二返し、静に馬を乗懸け、見事なる武者振なり。斯くて景勝公、諸手へ乗廻し給ひ、各〻頃日打続き苦を致しゝ身に候間、本丸をば旗本を以て踏潰すべし、各〻は巻解き除けて、見物仕り候へと仰渡され、士大将衆、何れも御旗本にて、御攻めなされ候へとは、申し難き事なり。いひ合せて我攻に仕る外はあるまじとの儀なり。藤田、此御意を承ると均しく、馬を乗放ちて、柳楯一枚持つて、御馬の前を走抜け、采拝を取つて備を下知し、真先に堀へ飛入れ、柳楯を腹に押当て、伏身になりて、槍の石突にて、此方の岸を撞き候故、則ち堀中の小土手迄、一番に取付き、楯を押立てゝ踏忍へ、槍の柄を差延べ、堀へ飛入り、味方に捕へさせて、引付けらるゝ事、夏目舎人ともに廿一人なり。然れば、城内より弓鉄炮を緊しく放懸け候へども、少しも厭はず、我れ劣らじと堀へ飛入り打渡る故、堀水増して深くなる迄に漂ふ所、況んや、堀中の小土手にて一競塞滞る故、手負死人多し。されども事ともぜず、死人をば幸に踏継に致し、手負をば我が後に取付かせ、互に助け合ひ、向の土手へ押上り、犇々と屏に付く、そこにて屏越の槍之あるは、柴田の本城中板の屏とて、柵木の様にして、中頃に板を打ち、上下を明け、下の透間より突合ひ、或は中板の屏裏・小屋蓋の二重防へも、城兵を上げて突合ふ。此中板の屏の懸様、其土居の面、武者走りの地形合せて旁口伝あり。然れば、堀中の小土手へ、一番に付きたるは藤田能登守、小土手より向の土手へ、一番に付きたるは伊古田彦左衛門なれども、鉄炮にて手負ひ、少し遅々故、彦左衛門が跡に差続ぐ夏目舎人、屏際へは一番に著き、采拝を以て諸〔〈人脱カ〉〕を招き、我が組を引付け、一番に屏に著きたりと名乗る。扨屏越にて攻合ひ、舎人助槍を斬折られ、刀にて忍へ候時、栗田衆の関右京、舎人方へ使に来り、城内の様子を見、舎人手に付きて、此場にて十文字の槍を以て、屏上の敵と、互に十文字を以て突合ひ掛合はせて、暫く外し兼ねたるを、舎人見て、右京十文字の懸外は知らざるかと、詞を懸け候へば、知らずして持物申すと、返答して引外す。其敵の十文字をば、舎人、飛付きて絶り、奪取りて之を持つ。斯くの如く敵味方、隙なく攻合ひ候。殊に中板の屏破り難き所、舎人助、兼ねて我が組衆に申付け、投鑰オープンアクセス NDLJP:213を旗竿に結付けて持たする。又急梯といふ兵具秘伝。城乗屏川渡に大利あり。是を以て各〻乗入る。一番に佐藤十兵衛、其に続いて足軽大将鈴木四郎兵衛なり。藤田被官同心衆も、各〻斯くの如く、相備衆も之を用ひ、或は屏を切倒しなどして、終には乗破り、屏裏の敵を突散らす。其敵、又武者走の土手下へ下りて、一支さゝふる。味方は、土手の上にて一攻合あり。爰をも亦追崩され、柴田因幡守は、金の福禄寿の甲の緒を締め、金白檀の具足を著、白母衣を懸け、太刀を抜きて横たへ、牀机に腰を掛け、左右に屈強の武者十騎計り相従へ、広庭に備罷在り。其所へ右の敵共逃集り踏忍ふる所に、藤田衆相備ともに、一同に突いて懸り、広庭をも押崩し、広縁の上へ引上る。其時分、味方の諸備、漸く屏を破つて乗入る故、何れも藤田備に続くはなし。然れば屏裏を堅めたる敵、此広縁に居たるを懸けて、六十九人、中にも柴田因幡守は、小扈従二人左右に立てゝ居たり。藤田能登字、十文守の槍を提げ、進み寄つて柴田殿、今朝御望の如く、藤田能登守参会といふと、柴田之を見て、持ちたる太刀を擲ち、側に持たせたる直槍を取つて馳向ふ。因幡守は縁の上、能登守は縁下の庭に立ち、相槍なり。因幡守が左眼へ、能登守槍を横手際迄突入れ、柴田は能登守草摺の外、左股を突通す。柴田が被官、助く事ならざるは、小勢にて一人充立塞り、此方二人三人を相手にして互に突合ふ。味方は大勢にて、早夏目舎人、能登守を助けて、彼の板屏にて奪取りたる十文字の槍を以て、因幡守が手の食指より季指迄、四つを掛落す故、柴田槍を持たず、殊に深手負ふ故、奥へ引入り、其儘家に火を懸けたり。是に依つて、家来の者共、腹を切るもあり、或は斬合ひ死ぬるもあり、焔中へ入るもあつて、一人も残らず討死す。落城の期、斯様の剛強無類の働なり。

真田家の矢沢但馬守、藤田相備故、舎人助様子始終見定め、詞を交はされ候。

第三、藤田衆相備迄の働一番なり。藤田備より先に、本城へ乗りたる者一人もなし。殊に剛敵防戦、屏越の攻合、一度其を押破られ、土手下に忍へて一度、其後広庭にて一度、縁の上下にて一度、其剛敵に向つて、殊に勝利なり。此時、人を討ちたるは約敷場所なれば、縦ひ、青葉者、前髪ある小童の首を取りたりとも、皆誉なりと、景勝公、御詮議あつて御褒美なり。敵奴僕下臈にても、末期迄変心せず、主の因幡を見届け、剛強の働仕るを討取りたり。其外の備は、藤田、広庭の攻合の時乗入る。敵も戦に疲れて、主の旗本を気遣ひ、持口を捨てゝ逃入るなれば、其を討ちたるは、追首なりとの御吟味なり。

オープンアクセス NDLJP:214柴田因幡守妹壻色部修理は、藤田相備なり。因幡守、城に火を懸け候時、焰消を積み置き、其に火を付け、我が身も兼々焼死すべしとの分別なりしが、鎧著ながら斯くの如き故か、半身焼けて死なず、匐ひ出でて、色部が備を志し、色部、首を取れと呼ばはる故、走り寄りて、我が家老の色部右衛門佐に首を打たせ、修理持参して、景勝公の実検に入る。剛強武功の因幡守、死際斯くの如くに見苦しき事なるが、譜第の主君に逆心天殛なりと、見る人聞く人、之を惧れざるはなし。総手へ討取る首数二百八十余、首帳を認め、同日未刻、外廓に於て凱歌の儀式を執行せらるゝなり。

柴田本城に居たる者は、大方残らず討死なり。外廓に居たる者共は、猿橋和泉、此方御勢を引入れ候時、過半降参なり。赤箕輪の差物にて、武勇を顕したる劒持市兵衛も、小倉伊勢守を頼み助かり、伊勢守子小倉喜八郎代迄罷在候。

第四、同日申刻、柴田より直に池端へ押寄せて、鴨之助を成敗仕り候へとて、藤田・安田・小倉三頭に、下条采女を差添へ遣はされ候。右の各〻押向ふ時、池ノ端の城に、心変の衆出来て、城内二口に分れて相戦ふの由、途中へ註進故、味方弥〻急いで城近く取詰むる。鴨之助は、本丸の矢蔵の上に上り、敵の寄来るを見積り、本丸の虎口を開き、三十騎計りにて突いて出で、二の丸に居たる中間取合の者共を追散らして、城外へ討つて出で、越後家の備へ、真一文字に馬を乗入れ、悉く蹴立つる。暮合の事なれば、鴨之助一人、其行方知れず。天晴剛強の勇士、能く切脱けたりと、人々之を称美す。三十騎計りの敵十八騎、下条采女手にて討留むる。此手にて強く攻合ひ候は、藤田・安田・小倉三備は、柴田にて骨を折り候とて、下条近辺なれば、三条・甘〔糟〕人数をも合せて、采女召連れ、新手といひ先手に向ひ候故、斯くの如し。其次、藤田手先にて、五人切留むる。敵労れ手負も之ある故、差して乱火の如く疾く働かず、残る七騎計りは切抜く。大に手柄の敵共なり。

第五、池ノ端の城を取つて、早速柴田御陣所へ註進仕る。則ち安田上総を、池ノ端城に差置かれ、追付に掃捨て、伊地峯城をば、下条采女に下され、此時、駿河守になされ、下条の地をば、采女舎弟安田筑前守に御加恩に下され、柴田城をば、小倉伊勢守に之を下さる。

同晦日、景勝公、柴田を御立あつて、春日山へ御帰陣なされて後、今度の働、上中下の御吟味、大小・上下・親疎の隔なく、賞罰明正なり。藤田能登守には、御褒美として椿沢領九百貫拝領オープンアクセス NDLJP:215なり。

怪異あり。小倉伊勢守夢に、柴田因幡守、例の装束にて、常に好みし染月毛といふ名馬に乗来りて、小倉伊勢守に詞を替し、太刀打すると見てより、頓て煩付き、明春死去なり。伊勢守子喜八郎には、河田軍兵衛諸志多田に於て、父伊勢守跡目相違なく之を下され、柴田城をば、宮崎三河守に下され候所に、是も伊勢守が如くに、夢を見て死す。其跡を佐藤平左衛門に下され候処、又同前に夢を見て死する事、三年の内に、三人斯くの如し。其後、山岸右衛門が父宮少輔に下さる。宮内、老巧の人にて、本丸に禿倉を建て、柴田堂と号し之を勧請す。

宮内は二の廓に居住なり。其故か、其後怪しき事なし。実理の理幽妙の妙不〔思議カ〕柴田にて返忠仕りたる猿橋和泉をば、直江山城に之を預けられ、其後、景勝公御側にて召仕はれたる小扈従猿橋源三郎は、和泉が子なり。次に伊地峯にて、道寿斎を討ちたる羽黒権太夫・河瀬次太夫・渋谷八郎右衛門・同彦助をば、下条駿河守に之を預けらる。何れも御褒美多く下し置かれ、仰渡さるゝ品々なり。

 
北佐渡主降参、南佐渡主逆心、景勝公、佐州御渡海平均に属する事
 

第一、去申年、北佐渡主柴田一味、南佐渡主景勝公へ一味、御軍代として、藤田能登守、南佐渡へ渡海して、数度北佐渡へ取懸り、殊に北佐渡持の吉井城をも攻取り、塩を付置く事、前に之を記す。然れば、去年、柴田滅亡なり。景勝公、御渡海ならば、北佐渡滅却たるべし。其期に及んで、降参せんよりは、御旗の向はざる前に、詫言を仕るべしと、内々思案の折節、南佐渡主、会津の盛馬に方便たばかられ、景勝公に背き、人質を捨て逆心の色を立つる。之を北佐渡主、慥に聞届けて、幸なりと悦んで越国へ註進し、種々御詫言仕り、一家連判の誓詞を認め、人質を差上ぐるなり。執権衆、御聞に達す。景勝公仰に、千思万慮も入らず、兔角佐渡へ渡海し、一国平均せしむべき折節なれば、北佐渡の者一味にてもあれ、転達てだてにてもあれ。渡海して其時に応ずべし。近々出帆すべき旨、返事申遣し候へと、之を仰渡さる。南佐渡逆心の義、弥〻実正の趣、慥に聞ゆる故、御渡海の御陣触あり。先づ見察として大石播磨守・長尾加賀守オープンアクセス NDLJP:216両奉行にて、足軽五百人其将十二人、総士百騎、天正十六年戊子五月六日、出雲崎より艤し、南佐渡を左に当て東方へ押廻し、北佐渡の内、片山の港へ著き、やがて陸へ押上り、足軽を前に立て、備を持つて陣屋を懸くる。其場所、先年藤田見定め、且つ佐州の者に問うて聞届け、或は図を以て之を知る故、手早に陣場を取堅むるなり。

第二、藤田能登守・安田上総介・須田右衛門尉三組の士大将、合せて六千余、翌七日に、出雲崎を出帆し、南佐渡を右に当て西方へ押廻し、沢根湊へ著く。是は北佐渡自然詐偽にて、大石・長尾等へ一戦を仕懸くる事あらば、手脆く負くる事はあるまじと雖も、猶用心の為めに、三将を遣はるされば、佐渡の者共思寄らず、西方より大勢押上り、切懸り候はゞ、全く勝利を得べしとの儀にて、斯くの如くなり。就中藤田能登守相備は、垣崎弥次郎・新津丹波・斎藤三郎右衛門・松本左馬助・色部修理・黒川左馬助・甘〔糟〕備後、検使には村松応閑斎を差添へられ、先手を仕り、万事指引能登守次第と仰付けらるゝ事は、先年渡海仕り案内なり。又先年、一敵に塩を付けたる能登なれば、旗先を見ば、敵の心怯るべし。又先年、敵の武備の格・敵の軍令等能く知るなれば、味方の擬作仕善しよかるべしとて、斯くの如くなれども、東よりの渡海の先衆無事なる故に、佐渡の地五十里・沢根両所の上の山台に、陣取を堅め取敷く。右の趣を、越国へ早早註進仕る所、越国に於て仰付けられ候。何方へも相働かずして、御渡海迄陣々を堅め、罷在るべきの旨、直江より申遣すに付いて、六月五日迄、廿七八日の間、為す事なくて罷在ると雖も、御渡海の沙汰もこれなし。藤田申さるゝは、御先へ参り居り、少々の内は左之右之ともかく、早三十日に及び、安閑として敵地をも見ず、陣屋に計り蹲踞うづくまる事、御先へ来りし甲斐なし。苟も御先を承る上は、委細の御下知を伺ふに及ばず。可を見て進むは、其図に中らんが為め、否を識りて退くは、其後を全うせんが為めなり。何れも御為めを存じ奉る儀といひ、殊に能登守次第との御意なれば、御下知を違背仕る道にては之なき間、せめて程近き吉井城へなりとも、手遣して然るべしと、各〻と申談じ、六月六日、北佐渡衆五十里・沢根両士大将の内にて、武道の誉ある者に、三人充と、親子・兄弟・伯父・甥の類を分けて一両人充、此方より人指にて召寄せ、案内者とし、能登守は備大将と雖も一番合戦、二三は安田・須田三備と備定む。尤も其内、手分・手組・手配は、時に依り地に依つて、様子は変れども作法は違なし。陣城の留守は、新津丹波に人数を差添へ残して、吉井の敵城へ取寄する。須田備は、其辺所々の植田を混散オープンアクセス NDLJP:217らし、畠物を薙ぎ放火の働を仕る事、是又一の武術なり。藤田備は、大手に向ひ、安田備は搦手へ寄する。長尾加賀守は、大石播磨守を跡に残して、片上より出向つて、口に備を立設くる。然る所に、敵、搦手口より突いて出で、安田衆に攻合を初むる。安田、幸と悦んで取鎖る。然る時、夏目舎人は藤田旗本備の番に当り候所、能登守より、舎人と斎藤源太左衛門とを、安田方へ両使として、兼々申合の如く、敵出でば、会釈ひ引出され候へ。其様子を見て、当手より城を乗取るべく候。乗ると見て、敵、引入り候はゞ、附入の分別尤もに候との事なり。此義、前方より評定なれば、其期に及び、使を遣し申す程の事にては之なく候へども、舎人助、年若く候へば、幾度も事に合せたくと思はれて斯くの如し。然れば夏目・斎藤、其口上を安田に申達して、先手へ乗出で、敵合の様子を見るに、味方は敵の偽り曳き出さんと、備を弱気に立配りて、其虚を見する。敵は競ひて、唯一揉に揉潰さんと進み懸る。然る時、敵城より金の風袋の差物を差し、糸火威の鎧を著、連銭聴の太く逞しき馬に乗りたる武者一騎乗出し、何たる仔細やありけん。采拝を取つて、味方を打纒め引入れんとす。舎人之を見て、逸足に追懸けて、彼の武者と互に馬上にて槍組む。斎藤も続いて乗懸り、舎人が左方にて、是も敵と互に馬上にて突合ひ候。敵、此者共を助けて取つて返す。安田衆も突いて懸り、爰にて一攻合之ある内、舎人、彼の敵と押並んで無手と組み、両馬が間に倒土落ち、取つて抑へ、采拝を添へて高名仕る。〈斯の如く組討仕る時は、其働く心持、口伝。〉斎藤も槍組みたる敵の右方へ、安田衆井筒兵太夫助け来て、其敵を槍付けて、馬より真倒に突落し、斎藤に向つて、首を御取り候へと申断る。斎藤いはく、其方突落したる敵を、家来が高名にすべき様之なしといひて、先へ乗抜け、敵を追懸け候へども、敵は早城へ逃入りて、城戸を閉づる故、味方引取り、斎藤殿をす。右討取る首数廿三人、安田相備へ懸けて斯くの如し。さあれば、味方備を堅めて、田畑を費し働思ふ儘仕り、吉井城廻り放火し、日も漸く暮れ候故、藤田、采拝を以て備を納むるなり。

翌七日、藤田所へ、安田上総来りて、夏目舎人・斎藤源太左衛門に感状を出す。是は景勝公言上仕り、其内の験なりとて斯くの如し。

第三、景勝公、六月十日、沢根の湊へ御著岸、先衆の取敷きたる陣城に、御旗を立てらるゝなり。直江・泉沢・島津・小倉喜八郎、〈父伊勢守時の組衆過牛之々なる持つ、〉景勝公御渡海と聞いて、吉井主、初の働にさへ手懲りければ、之を惧れ、早々城を開き、羽持へ逃行くなり。十一日・十二日は御休息、十三・オープンアクセス NDLJP:218十四両日、河原田佐渡守を初め、北佐渡衆御礼申上ぐる。十六日、南佐渡御退治あるべしと相究めらる。然る所に、越国御留守大将代甘数近江守より、奇異の註進あり。去十三日暮方、毘沙門夥しく鳴動して後、五尺廻程なる光物一つ飛出づる。其迹より大小五六千の光物列続して、佐渡の方へ飛行く。越国の諸人、慥に見申し候。是は定めて、謙信公御遺言の如く、弓箭神と成り給ひ、光を輝し加護あるべき事明著なり。今般全く御勝利疑なしと、下民に至る迄喜悦謳歌するとの義の事、広く申上ぐる故、敵味方ともに知らざるなし。此事〈口伝。〉御備定首尾して、十六日辰刻、一の先藤田能登守、二の見安田上総介、相備の外藤田には須田、安田には島津を組合はされ、唯二備と用ふる。其一備といふ手数は、九正九奇、二九十八変にして、終つて又始まる。環の如く端なし。其外は、総じて御旗本組と、手分手配合して一備、越後家以上三備、三段作法は定つて、様子は変らず、旗本と号する其備に、三々の九法、三々の六令とする武備、秘訣深理なり。北佐渡勢をば、味方の右際に間を隔てゝ、是も唯一備にす。越後流見せ備なり。見せ備といふにも口伝あり。然るに、敵、羽持の本間三河守は、沢田の太郎左衛門・吉岡の右近に、先手をさせて一戦を持ち、鴻ノ川を前に当て、河端の宛を残らず備を立設くる。藤田能登守、工夫下知するは、小国の敵、今度の様なる大軍に対する事、十五箇年以来あるまじ。さあれば、先づ敵の一気を奪ふべしとて、藤田相備ともに五百余挺の鉄炮を、一度に放さする。前方より相談の定ありてや、安田備も御旗本組よりも、悉く鉄炮を打立つる。其鉄炮の音。〈口伝。〉扨又、藤田内の江波治部左衛門、川端五六間近くへ乗寄せ、横切り一返乗つて、蹄跡に足軽を立つる。残の足軽大将も、麾幣を取り馬蹄に足軽を立て、又一度に鉄炮を放つ。其作法。〈猶口伝。〉玆に依つて、敵、弥〻折癱され、周章騒ぎ、馬上の者は、飛んで下りて馬の側に隠れ、歩立の士卒は、下に跪き頭を使し、槍を拳ることを忘れ、弓鉄炮を放ち得ずして楯裏へ集る様子なれば、備実なく旗正を乱る。是は先年、謙信公御渡海あつて、伐随ひ給ひてより、余国より手を指す事ならず、数代弓矢を取り、剛猛なる国風なれども、離島の小国にて、大軍との一戦、近年之なき故を以てなり。敵の旗色・備の様子を見て、夏目舎人助、其日、藤田備の先手番なる故、我が組廿五騎を将ゐ、一番に河へ乗入る。敵、最前勇気を取奪はると雖も、剛強の佐渡士なれば、励み防ぎ戦ふ。舎人、武備変用前後左右段々の定、上中下三一、又三に九つ、九一の法一得一棄、雲龍の備、雲は形なく龍は質あり。是敵味方の剛柔多少、自オープンアクセス NDLJP:219国他国の異るに依つて、其変ありと雖も、其常は全く定まる。川越の一戦、攻守の理、復々相合ふ。爰に至りて妙用妙含、武備の大極意あり。此実理の備を以て、景勝公御下知にて、多勢残らず川を渡し、突いて懸る。其鋭気に拉がれ、敵一町程引退くとは雖も、押付をば見せずして、攻合ながら退く。舎人助、岸向へ真先に乗上りたる時、敵と槍組み、馬上にて突伏せたるを、甘〔糟〕備後守小扈従猪熊求馬続いて来り、此首は我に下され候へ。貴殿は数度の事なりといふ。舎人、尤もといふ故、求馬此首を取らんとする所、其場約しくして、敵之を捕らせじと、大勢斬懸るを、三人迄手を負はせて之を追払ひ、難なく其首を取つて、舎人と伊古田主計とに断り、先を心懸け候間、鼻を欠くとて之を欠き候。求馬、左の眉先一箇所薄手を負ひ候。後に見れば、甲に二所、其外所々具足に三所、剪疵・槍疵の痕あり。裏へは徹らざるなり。敵、三人の手負をば、藤田衆続いて、其場にて之を討取り候。

猪熊、働の儀に付て、後先知らずの若者共、猪熊が、景勝公より御褒美頂戴仕りたるを嫉み、猪熊手柄箇間しく、屋形より御目見の儀は、夏目舎人に乞受けたる首の故なり。自身の働はなりかね、追散らしたる敵を、討つ事さへならざる臆病者なりと、悪しく沙汰するを、横目目付中、其沙汰する者を能く聞届けて、御聞に達す。景勝公以の外御立腹なされ、横目目付中を以て仰出さるゝは、夏目舎人に、猪熊求馬首を貫ひたる儀は、其隠なし。求馬忰にて、未だ事にも逢はざる者なれば、首珍しく存じ、貰ひたるは尤もなり。舎人助、一番に人を討ち、未だ馬より下りて、其首を取らざる内に、早く求馬駆付けたる故にこそ、首をば所望したれ。二番に進み、三番とは後れず、随分稼ぎたり。舎人追首を取らせたる故、求馬其場にて、自身敵をば討たざるなり。彼の首を与ふまじと申すとも、三番と後れざる若武者人突伏せたる首を、所望する心にては、必ず高名すべし。縦ひ、高名をせずとも、彼の貰首を取るに、其場迫しく、其身も数箇所手疵を蒙り、剰へ、敵三人迄手を負はせ、漸く首を取り候へば、其働莫大の強なり。又猪熊、追首を討取らざる儀、是は時の拍子合といひて、剛憶の批判には入らざる事なり。総じて武士の働は、首数には依らず、其場約しき所を穿鑿して、其志の強弱を吟味する儀なり。追首取らずとて、猪熊独り高名ならずと申すは、はなはだ武道不案内なり。殊に貰ひたる首を、両人に断り鼻を欠きて、先を稼ぐといひたるは、首一つ貰ひたるを不足に思ふ心入、然も脇道へ逃溢れたるを棄て、本道の能き敵をと追ひたり。其汐合故、敵を討たずオープンアクセス NDLJP:220と雖も、彼の貰首を満足し、跡へ帰り人の後に屈せず候は、悪しくいふべき事なし。其上、猪熊、家主の甘〔糟〕​下同じ​​に​、舎人に首を貰ひ候と、有体に申すは、一入正しき武士道なり。斯様の者を悪しく批判仕る者は、己が悪事を隠し、他の善事を誹り、身の程を知らぬ武道不吟味者なり。左様の者、我が下にあれば、其者附合ふ程の者、皆風儀悪しくなりて、我鎧弱し。左様の破家者に悪しく言はれ候はゞ、年若き猪熊、堪忍せず、不慮の事も出来候はゞ、能き者を失うて損なりとて、批判したる本人七人は、御旗本組に三人、甘数下に四人之あるを、一々之を捕へて、御成敗仰付けらる。其外、山を越えたるも七八人之あり。猪熊は若者なれば、之を気に懸け申すべきかとて、甘数に仰付けられ、弥〻正道に心を定め、後の働を励み候へと仰せられ、五貫の御加恩下さる。古語所謂賞小善則衆善勧、罰小悪則衆悪懲といふ、斯様の事なるべし。

一戦の様子は、右の如く藤田先衆取鎖つて、敵を一町程追立つる時、藤田相備垣崎弥次郎・甘数備後・松本左馬助・黒川左馬助・色部修理、何れも戦功を励む。就中松本・甘数自身手を砕き、疵を被つて高名をす。斯くの如きを以て、敵愈〻混乱す。安田上総介は、敵味方の一戦を、右に見て河上を渡し、羽持三河守が旗本に向ふ。藤田先衆に向ひたる魁敵、之を見て、我が旗本へ、敵の懸ると思ふと、備愈〻騒ぐなる故、藤田先衆益〻競ひ、勝に乗じ入替り之を打つ所、藤田に組合はれたる須田右衛門尉相備七手自身の隊ともに、九手を段々に手組み手分けして、横筋違に入立つるを以て、敵散り靡くなり。羽持三河守は、先の負色に、少しも憶せず、安田が懸り来るを屑しともせず、旗本を五手に作り、下敷きて之を待ち、ひらき懸つて挑み撃ち、聚散離合打ちつ打たれつ。義を軍んじ死を忘れて、爰を先途と闘ふ。かゝる所に、藤田能登守、我が旗本と、相備の内斎藤三郎右衛門・新津丹波が手と、此三手は動かずして、荒手の如し。之を牛頭鼠尾の備と号す。〈口伝。〉藤田下知して、此備を以て、本間三河守が、旗本の後要と残す頼の備へ、突いて懸り散々に斬崩す。島津・安田は、不浄切して節に合ひ度に中つて、能く其横を打つ。

総解蘊累の備なれば、彼は薄く我は厚し。此故に敵大に敗北し、味方勝利を全うす。是に於て、藤田は逃る敵を、安田・島津に相渡して、我が備を押纏め、先手の人数の跡に続く。然れば藤田が先衆の斬崩したる敵は、吉岡城へ逃入る。之を追行く時、夏目舎人〔〈我が脱カ〉〕組を下知し、真先に進んで、吉岡城丸戸張衡門の内迄附入り、自身敵一騎突伏せて、被官に首を取らオープンアクセス NDLJP:221せ、組の者迄高名さする。味方何れも差続き、丸〔戸イ〕張の一構は、手もなく之を乗取る。藤田備へ、時の検使として、萩田主馬来つて、右の様子段々能く見届け、之を言上す。丸戸張の内、舎人が左方に、主馬居て敵を討ち、舎人と詞を替はし候。然れば藤田能登守続いて来り、備を設け、各〻甚だ骨折り候へども、此競に乗じ乗破るべし。一息休めて下知を相待たれ候へと、使武者を以て、手毎に申渡す故、三方より堅く取巻き、搦手一方をば之を闕きて、其先へ人数を廻し之をかくす。然れども、城内より女童部を搦手口より落す。其者、五七町何事なく落延びたるを、城内より見及び、又歴々の妻子等と見えたるを、大勢落し出し候時、両度に落出でたる女童部を、独も残らず、之を捕へて敵方へ見せ、闕きたる搦手へも人数を廻す。是に依つて、城内の沢田・大野・吉岡・澀手四人の士大将、刀脇差も帯せず、一僕も連れず、尤も具足も著せずして、自ら城を出で降参す。這回一戦籠城仕る事、景勝公に対し奉り、全く存ずるにあらず、憤りての儀を、唯羽持三河守と遁れ難く、一義を守つて斯くの如く候弓箭なり。礼儀是迄に候。我々四人切腹か、或は搦捕らるゝか。如何様の重罪にも、仰付けらるべく候。唯冀くば籠城の者共、又御召取り候女子等、助け下され候様に、ひたすら頼み奉り候と、藤田能登守陣へ来りて申入れ候。藤田見積り、迂直の軍術工夫悪しき故、四将早速降参なり。藤田尤もと許諾して、則ち城を請取り、人数を入替ふる事、同日申刻なり。其内、景勝公、御旗本を押詰め給ふ故、右の段々、藤田言上仕り候へば、四人の申す所尤もなり。義を棄つるは、武夫の素志にあらず、籠城の者は申すに及ばず、四人の者も命を助くべく候間、越後へ引越し候へ。本領程仰付けらるべしと之を仰渡さる。四人忝く存じ奉る儀、限なく候。其大将本間三河守は、安田・島津に伐崩され、這々羽持の城へ北入りけるが、急ぎ妻子眷属を引連れ、船に取乗り漕出して、行方知れず逐電す。安田・島津相備の面々迄、他国の様子、不知案内なるを以て、三河守を討留めず、無念と申すは尤もなり。其外、城々皆開渡し降参故、其日の内、佐州平均、治国利民の功なるなり。

此一戦の時、佐渡先方の備、同じく人数の用様口伝あり。喩へて曰はば、両頭耆婆鳥如羽翼。又いふ、棄不放拳不採、左右離相佐、前後救胥阻。此詞継を以て私の知覚とす。秘伝あり。

第四、景勝公、佐渡降参の族へ仰渡さるゝは、此国、謙信公伐取り給ひ、御手に属する所、御逝去以後、時を見合せ越国に叛く。景勝、敵に対し障なく渡海延引。然るに、去る天正十二オープンアクセス NDLJP:222年、南佐渡の者共、数通の起請文を以て、降を乞ふ故之を許し、藤田能登守を差越し、仕置き仕らせ候時、北佐渡の者共は、柴田因幡守と一味して敵なり。当年南佐渡、敵になり候へば、北佐渡は又、景勝脚下に馬を撃ぐ。当年北佐渡の者降参は、去年、柴田因幡を成敗し、拠る所なき故なり。南佐渡の者逆心は、会津よりの手段に乗つてなり。南北ともに、景勝代に、敵になり味方になる、前後ありと雖も、其本は同じ。南は最前一味、此度逆心、北は最前敵対、唯今一味なり。当忠を以て少免あれども、柴田を成敗以後なれば、実の者にあらず。免角、国風表裏の作法と見えたり。其儘、此国に置き候はゞ、後来覚束なき間、本国を離れ、越後へ引越し候へと仰渡さる。河原田を初め、何れも越国へ引越し候へば、本領の高に応じ領知下され、智仁微妙の御心なり。

第五、佐渡郡代に越後家須賀修理亮を仰付けられ、河原田に居ゑ置かれ、河村彦左衛門を算勘奉行と仰渡され、沢根に差置かれ、残の城をば破却なされ、此外、諸事御仕置、御隙を明けられ、御帰帆なさるべしと之ある所、羽持三河守父子、弟の〔神イ〕保親子、彼此以上廿五人一戦敗北の砌、油利・仙木を志し、舟に取乗せ逃げけれども、風悪しく、越国の新潟へ吹付けられ、海陸行方を失ふ。新潟両司之を搦捕り、則ち佐渡に送り越す。是に於て鴻ノ川の河端に、三河守兄弟人質の婦妻子共、渠儂かれこれ十一人磔に懸けられ、残る者共は首を刎ね、獄門に梟け之を曝す。邪道天命に背き身を終るの程無慙なり。其儘罷在り降参致し候はゞ、御助もなさるべき所、免角景勝公を頼むまじくと分別仕り、一己之逆心、別して悪しく思召し、見懲として件の如し。

 
景勝公、佐竹より頼み来り、奥州会津へ御手遣、所々御手に入れらるゝ事
 

第一、同年七月廿九日、常陸国佐竹義重より、越後御清水別当を頼み、佐渡へ頼み越し申さるゝ趣は、某次男。会津葦名盛氏養子に遣し、盛高と名乗り候。然るに前代より、伊達と葦名と矛盾にて弓箭を取り、会津家、おくれを取らざる所、代替になり、伊達政宗より押掠め、防戦を遂ぐると雖も、盛高小勢、某方へ加兵を乞ひ候へども、当地よりは程遠く、其上、近隣の敵と弓箭を取り候故、人数不足に候。貴方は御大身と申し、会津の隣国といひ、殊には佐竹家も会津家も、謙信公の時は、御幕下にて候へども、近年障隙せられ、音絶に相成り候。此儀御免あオープンアクセス NDLJP:223つて、盛高方へ御加勢を出し、先規の如く御幕下になさるべく候。盛高は猶以て、御被官同意に思召さるべく候。此趣、少しも偽之なく候と、罰文を以て申越され候。景勝公御返答に、某頃日、佐渡へ出陣、一国恙なく斬随へ候へども、其仕置等の為めに、今に滞留候。当地隙を明け候はゞ、又余国発向の望之あり候。殊に盛氏より以来今に至つて、会津より某へ敵対に候。然りと雖も、今般御手前より頼み越され候を、承諾せしめず候はゞ、弱を見捨つる事、武道の本意にあらず候間、近日加勢を遣すべしと仰遣され候。然れども火急の儀にもあらず、八月十五日前は、放生会の祭礼、出陣を厭ふ越後家の定法なり。是に依つて、八月十六日会津加勢衆発馬、其面々は藤田能登守・安田上総介・須田右衛門並に佐藤甚助に、植田三庄の小身衆を、相備に仰付けられ、扨又、小沢大蔵・横田大学両人は、会津窂人なり。両人ともに、会津の内にて一城の主なるが、葦名盛氏へ楯を衝き、打負けて立去り、本意を頼み、景勝公へ来る故、召置かれたり。此度、小沢大蔵には、刈輪衆少々差添へられ、〈大蔵、地白に黒下猪小繚を持たれ候、〉横田大学には、御旗本組少々差添へらる。右両人、藤田・安田・須田三備の前駆となり、案内御導の為めなり。〈附、横田大学は、会津浪人仕り、権現様へ頼み来り居り候へども、会津へ本意近々は罷成るべき様子これなき故、御暇申上げ候へば、権現様種々御引出物下され、上意に越後は、会津へ山一つ隔て程近く、本意なり易かるべし。景勝を頼み候へとて、則ち本多佐渡守より、直江山城守へ書状相添へ、大学持参仕り候なり。〉

右加勢の兵、佐渡より越後の出雲崎へ漕戻り、志多田といふ所へ懸り、藤田・安田・須田三備は八十里越、小沢大蔵は津川越、佐藤甚助は、上田衆と共に六十里越を仕る。陣堅の場は、会津多田美台と相定むる。然るに、早会津盛高は、伊達政宗に押倒されて、佐竹へ逃帰り、政宗、会津を残らず切治めらる。其跡へ越後加勢衆著し候。士大将衆申談じ候は、斯くの如く押向ひ、盛高没落なればとて、引返すも如何なり。所詮政宗と一戦を遂げ、横田・小沢を本意さすべしとて、陣堅の場多田美台は、山谷二つ隔てたる故、相図を定め、八月十九日の昼、遠き方より先へ押出すべしとて、多田美台を前に当てゝ、此方の山に取備して勢揃をし、其日は何れも陣取り、明くる廿日相働く。其手分は、

一に、小沢大蔵は旧領小沢へ相働く。

二に、藤田・安田・須田三備は、横田大学を案内にして先手とし、多田美より向ひ横田・伊奈へ懸つて働き入る。

三に、佐藤甚助は、伊方へ取詰め働き入る。

オープンアクセス NDLJP:224政宗衆、其所々未だ堅固に踏定めぬ境節をりふしなれば、何れも相談するは、隣国案内の景勝衆多勢にて、山手を取敷き、諸方より此方を見下して働き入る。景勝公も佐渡より帰国せば、先手の一左右次第に、出勢せんとの風聞なれば、防戦六箇しく候べし。其時引取らば、世上にて敗軍と沙汰すべし。這回、盛高を押倒したる一手柄を、世の面目として、先づ人数を引揚げ、景勝勢に入代らせ、其虚を伺ひ、後途の勝利を完うすべしと、評議一決して、前の夜、政宗衆退散す。此故に、越後衆乱れ入りて、伊奈・伊方・横田・多田美・小沢を初めて、其辺九十貫余の所を、何の造作もなく斬取つて、景勝公へ註進仕るなり。玆に因つて景勝公より、佐竹義重へ使札を以て、其方より頼み越さるゝに依つて、会津へ加勢を遣し候所、盛高、援兵を待たず没落の仕合、是非に及ばず候。去り乍ら、家来の者共覚悟を以て、数箇所切取り候間、盛高の相働き追散らし、伊達帰参本意然るべく候と、仰遣され候へども、十月初め迄は、会津に、佐竹より働の沙汰之なし。此故に、小沢城には、小沢大蔵本領安堵仰付けられ、横田城には、横田大学安堵、伊奈・伊方に御掻揚城を取つて、伊奈に色部修理、伊方には佐藤甚助を差置いて、伊達の抑仰付けらるゝは、ゆく奥州へ御発向の時、兵糧運送の為めとて斯くの如し。

藤田・安田・須田、十月十六日、春日山に至り帰陣仕り、夏目舎人も藤田備に列参仕り、委しく覚えて之を語り候。

第二、景勝公、九月初め、佐渡より御帰陣なされ候。会津に於て相働き候様子、三人の士大将衆言上仕り聞召さる。尤も佐渡に於ての軍忠、大小親疎遠近の隔なく、明正に賞罰仰付けられ候。

此後、天正十八年庚寅、小田原落居の後、太閤秀吉公より、蒲生忠三郎氏郷、会津拝領の時、秀吉公より景勝公へ仰越さるゝは、先年伐取り給ひたる会津領の内、蒲生氏郷へ相渡され給ひ候へ、替地は追つて遣さるべく候とあり。景勝公より御返事に、相心得候、替地の事は、明跡次第、何時にても苦しからず候。横田大学・小沢大蔵此両人は、数年某を頼み、本意を心に懸け、某が蔭を以て安堵仕り候間、今迄の如く其旧領に差置き候。氏郷へ相渡し難く候との儀なり。太閤、尤もと思召し、其趣、氏郷へ仰付けらる。故に横田・小沢、別条なく其地を踏んで居住、後迄斯くの如し。
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本城越前守重長、庄内を治むる事
 

第一、景勝公、佐渡御渡海前御内試の時、本城越前守申上ぐるは、近々佐州へ御出帆、早速御一統疑なく候。某等、御留守に残し置かるゝ上は、堅固に居城を守り敵を抑へ、御持国安泰に存じ奉る儀は、勿論に候。御持国の端へも、他国より手を指す事は、常々御威光強く候へば、思寄る者これなく候間、某も佐州へ御供、望み奉るべき事に候へども、御人数御武案考へ見申し候に、御成功踵を廻さず候。且つ又、御意を背くに似申し候へば、御訴訟申上げず候。扨又、御留守にて御気遣御座なく候へば、境目に御人数差置かれずとも、苦しからぬ事なれども、御慎の御仕置なり。然れば敵を抑ふる味方、他国へ攻入り、勝利を得候はゞ、御留守にてさへ斯くの如くと存じ、差当り敵は申すに及ばず、残る敵も威に感じ、当方の御威光は益壮になり、後代迄の御佳名なるべし。縦ひ、万一負け候ても、御留守なれば苦しからず、押入りたる所、一つの勝利なれば、強盛は同前ならんと存じ候。然る間、御赦免を蒙り、私抑へて罷在る庄内の敵地へ働き入り申度候。今度御留守に候へば、敵方油断仕り、御手遣はあるまじと、不意の所へ赴き候はゞ、必定、勝利を得べき工夫御座候。御迹に残し置かるゝ御人数、少々差加へられ、庄内への働、仰付けられ下され候はゞ、村上へ帰城仕り、弥〻敵の虚実を計り、其時宜を考へ働き入り申すべしと、御直に言上仕る。景勝公聞召され、其必定勝利の踏所は、如何と御尋ねなさる。重長、懐中より委細の書付を出し、御目に懸く。景勝公尤もと思召され、阿雅北衆には、相川治部・竹ノ股・大川・黒川・酒井衆、又御留守組椎津鳥・山下・阿部、其外彼此本城相備に仰付けらる。重長有難く存じ奉り、相備衆と其首尾を示合せ、居城村上へ罷帰り、内々密々用意し、敵方陰謀工夫の外、又余念なし。

第二、本城越前守、庄内を伐つべしと心懸くる濫觴は、庄内の屋形大宝寺義氏とて、弓箭の誉ある大力量の人なり。悪義氏と申し慣はし候。此義氏、嗣子なき故、本城越前守二男千勝豊後守、弟を養子に乞受け庄内へ之を迎へ取る。然るに、同国羽州酒田に、東禅寺といふ人あり。庄内・大浦を初め、一門衆を招き集めて申さるゝは、大宝寺殿養子の儀、第一遅からざる事なり。然れども養子致さるべきならば、幸に某子供多し。それを望に存ぜられず候はば、類家の内に幾人もあり。左之右之もなるべきを、一往の内談もなく、他国より養子を迎へらるオープンアクセス NDLJP:226ること、近頃遺恨なり。昔謙信、威風盛なる故、当家も上杉の幕下になれども、御館乱の後目にて絶えぬ。聊か私の宿意なければ、景勝へ詫言し、表向より繕もなく、申入れての上ならば、尤もなれども、内縁を以て、上杉家へ取繕ふ事、柔弱の策略なり。武道の正しき越後家に笑はれん事、口惜しく候と、大浦殿を初め、類属庄内衆へ申されければ、各〻尤もと啐啄す。是に依つて、軍議示合ひ、此事の洩れざる内に、押寄せよとて、天正十四年戌の暮、大宝寺城へ俄に取懸け、即時に城を攻落し、屋形の義氏を先として、成く腹を切らせ候。夫より酒田の東禅寺屋形に取直り候。此時、千勝は、越後より付けたる瀬野尾・杉井といふ両士抱込み、善く斬脱け、恙なく村上へ供して帰るなり。扨又、庄内衆頼寄たよる方なくして、同国最上出羽守へ無事を入れ、旗本に罷なるは、越後へは本城越前守と仇なる故、望絶えて斯くの如し。

茲に因つて、最上より中山玄蕃といふ者を差越し、大浦城に居置き、庄内の仕置を司らしむ。右の意趣を以て、本城越前守深く憤り、東禅寺を打つべしとて、庄内を切取り、二度千勝を大宝寺に仕居うべしと、昼夜寝食を忘れ工夫を凝す。越後家にて二心なき士、智愚柔剛四つともに、時に応じて用ふるを間諜といひ、歩卒の内にて、其事を為す忍の者をば、透波といふ。五つの習、十得十捨の伝あり。其変妙不至は難用間とは、異朝の書にもあり。其智の明暗に依つて、或は利となり、害となる。されば五粛分十間、三疑合五間、九虚及渠奔一実、迎我撈悟於一信、総万化而千言噓諳云々、本城重長此両様を相用ひ、東禅寺方に附置き、或は庄内中分散せしめ、追々註進にて様子を聞届け、敵の弓矢の格を校へ、或は其旗下の城主を初め、士大将武頭物奉行等の姓名、又は功不功を尋ね問ひ、或は所々の広狭険易は地図を以て之を知ると雖も、猶疑はしき所をば、再び問うて之を識り、或は敵の中、面々の和不和・領知の熟不熟貧富、人事の情意、能く聞届けて、出家・町人・百姓等の才覚らしき者に、金銀米銭を以て計策し、又一つの口伝権実を以て、親を破り和に変ず。故に本城越前守に、心を通ずる庄内衆多し。就中、越後甥尾鐺の城主上山田、上杉の家風を望み、本城に依つて降を乞ひ内通する故、旁以て、庄内追伐勝利疑なき儀を、委細に言上仕る。景勝公も、内々御手遣の思召入ありと雖も、那辺這辺あちらこちらの御出勢、御隙を障へられ給ひ、今度事を幸と、本城に之を仰付けらる。本城怡悦仕る。されども、景勝公、佐渡に於て御勝利御仕置等、首尾調ひたるを聞定め、跡の気遣なく、沢根帯を固めて後、庄内へ相働くなり。

オープンアクセス NDLJP:227第三、本城越前守、人数五千六百余を引率し、八月十六日、居城村上より備を出す。蒲萄ヶ谷を押して、尾国城へ著く。是は村上より最上を抑ふる番手の取出城なり。此に於て、人馬休息の為めといひて逗留す。此趣を、尾鐺の城主上山田より、千安城東禅寺へ註進するは、越後勢尾国まで取詰め候。其勢一万八千計りと、慥に承り届け候。存じの外なる大軍に候間、一廉御加勢あるべく候。武功の上杉、殊に大軍に候へは、中々、当城などをばものゝかずとせずして、朝足にも踏頽ふみくづすべし。さなくば、此地に抑を差置き、本城重長は、直に庄内へ打入るべく候。此城を専一と存ずる所に、破られ候ては、以ての外なる御大事たるべしと、追々申し遣し候。是に依つて、酒田越中守を大将として、庄内勢の内より百五十騎・足軽百人に、鉄炮を持たせて加勢なり。本城越前守、尾国を立つて尾鐺城へ押寄す。上山田之を聞いて、武頭・物奉行等を呼集めて申す様は、敵来つて此城を攻めば、大事たりと雖も、引請くる衆心一致して、能く之を防がば、術多かるべく候へども、熟、思ふに、敵の策略に、我々此まゝ籠城せば、一入当方を見𥣯みしこなし、此地には抑を差置き、構はずして庄内へ通らば、是非我々、城を払つて突いて出で、跡を慕ふべし。其時、勝利を得れば本望なれども、武功剛強の上杉衆、対待たいの人数にても危し。況んや味方廿倍の大軍なれば、抑の備に妨げられ、一戦を励む内に、越後勢後へ廻つて、城を乗るべき事必定なり。此両様を兼ね用ふる全勝の武案、予存じ寄らざる所なり。それを如何と、蹡々恟々と城に籠り門を閉ぢ、為す事もなく踏付けられ、敵を庄内へ打入らするより外はなし。さあれば、我々此路を差塞ぎ、抑に居たる甲斐なく、弓矢の眉目なし。之を分別して、加勢を乞ひければ、漸く百五十騎越し給ふ。是を以て、敵を庄内へ通さず、勝を握るべぎ愚案なし。所詮城より打つて出で、先づ戦ふ所の地備を正しくして、佚して待たば、敵は後れ来る労兵なり。味方は、所の案内を能く知る故に、逼々の勝地を取敷き磬控ひかへ、其節に随はゞ、勝利に近からん。勝利を得ば、其地を踏まへ、追々庄内より加勢を呼招き、強く働き、又は手早に城に籠つて、道々に逆茂木を引き、翳薈の地に伏〔勢カ〕を置き、堅固に之を守らば、敵此方を奥深く思ひ、当城を攻落さずば、庄内へ打入る事なるまじと思付き、城などを構ふべし。敵取巻かば、庄内より後攻を得て、内外より挟み撃つべし。此上にても、味方敗れば、其場にて討死か、斬抜けて庄内へ行くべし。遠念近計、城より出で、敵を迎撃つ外、愚案之なし、面々如何思ひ給ふといへば、上山田がいふ所、其詞理に当り、其籌義深く相聞えければ、酒田オープンアクセス NDLJP:228越中を初め、何れも尤もと同じける。さる間、加勢百五十騎を三備として、酒田越中守、之を率ゐて一の手に進み、二の見は上山田二百騎を五手に分く、是れは所の案内なれば、谿澗山手へ人数の廻左右相扱ひ、前後乱撃の奇術をなすべし。先手にて摧堅挫鋭の正兵は、酒田殿にありと相議して、城より備を出す。酒田、馬に策ち、嶺頭を攀ぢ、四方四隅を眺瞻し、兵は高に好く低に悪し、高陵を取りしくべしとて備を立つる。然れば本城越前守、下より上に向つて戦備。〈口伝。〉一手二段一にして亦二、二手一段は二にして亦一、一二合左に分れ、二三は組んで右に合ふ。上杉家の妙術なり。之を用ふるに、備押の変用を以て、其業早く相達す。此を以て彼を襲ひ、蕈鼓地を動かし旌旗天を掠め、庄内衆之を待つて請取り、入乱れ相戦ふ半に、本城令して相図の狼烟を挙ぐる。〈口伝。〉或は形、或は名、形は宇なり、名は宙なり。是にて味方は定り、敵は知らずして、前に進むもつぱらとして、後をば顧みず、爰を最後と闘ふ所に、尾鐺の上山田、相図に応じて、跡より先手の酒田を取包む。是に於て、前後より挟み撃ち、酒田越中を初め、一人も残らず討取るなり。本城越前、尾鐺城へ打入り、首実検して、軍神血祭を執行ひ、上山田を呼出して、今日の軍労、其功ありと称美し、引出物を与へて之を謝す。尾鐺城には、越後勢の内を少々残して、繋の城とし、上山田を案内者として、先手に組合はす、此用捨了簡あり。本城、其日に諸勢を引率して、蒲萄が谷を静に押し、山の那辺の半腹に、堅固に陣を取しくなり。

父舎人助、某定房に訓へけるは、右酒田申す如く、加勢に行つて、上山田が如く、野心の虚実を考へ知る事、軍議を以て其挨拶の詞を聞き、其将の家老近習を密に招き、五人を五度五色、三人は三度に一事を尋ねて、其変其常を知り、彼の将と我と新旧を知り、第一には私の智鏡を照らし、一刀の心鈍くして、両断未到、四分六分にて、疑惑半ならば、其疑を制する備は、火急の期、一戦を取締る時の妙術工夫あるべし。謙信公姉壻長尾政景、是疑の備なり。謙信公、常に御油断なく備配あり。或は其国先方、或は俄に降参の士大将、其心底を知らざる故、遠慮ありて尤もなり。或は譜第衆に、其不義邪慾の者あり。其手・組手分配の備定、三様三段の心得、東西南北は敵の受様も、其地形其時に順じて逆ならず。又之の勝地を堅く践へて、一の空地を与へて棄つべし。畢竟一理を究むべし。一箇の者も之を知れば、平生の行状にも、其徳用多し。又籠城には、疑の備・曲輪配に二の口伝、人数の分合に、此の心得あり。

オープンアクセス NDLJP:229天正十年午の夏、河田豊前守、越中国松倉城に籠り、信長衆五万余兵にて来ると雖も、河田が武威に恐れ、二方を遠巻す。此時、城中神保肥後守といふ者、越中先方士大将にて、河田相備なり。此神保、敵と内通なりとの疑ありと雖も、其色見えず。玆に依つて、河田、我が内の頼もしき勇士を、一人下臈の如く出立たせ、夜忍びて敵陣へ遣しければ、即ち敵、之を捕へて怪み問ふ。答へていふ、某は城内神保が透波なり。何事とは知らず、佐々殿へ一通の状を持ち来る。城中の者取らざる様に仕り、佐々殿へ奉れと申付けられ候所、那辺の森下の道にて、若者五七人出会ひて、刀・脇差・羽織、彼の状を入れたる打飼袋迄剥取られ、漸く是迄逃参り候。右の状、当御陣へだに来り候へば、苦しからず候へども、城中者の所為ならば大事なり、御僉議あつて給はれといふ。敵方にも心あるにや、後途の様子を見る迄とて、其上心を逃すなとて、之を搦置き、陣中を穿鑿するに、左様の者之なき故、如何と思案する内に、城中より矢文を射る。披いて見れば、河内方より、佐々所への充状なり。

子当城之神保、密議之計略既露、令獄其身乍欲首。惟併依武道不功軍理未熟也。弓箭站辱末代汚名、豈可之乎。蓋再之。神保者十稔已来新仕之族也。然是強其辜懱、頻於之赦其身、可渡其陣。亟俟回翰畢。

敵寄合ひ、此返事をすべき歟、唯措いて返事をなさゞるかと決断せず。城内には、矢留の幕を打ち、〈此矢留に、幕に限らず、〉二時計り返札を待てども来らず。河田内存は、返書来らば、其文礼に依つて、真偽知り易からん。然るに報檄来らざれば、神保逆意明なり。仔細は神保内通候ならば、早速返書、其伺にあやをなし、内の和を破る手段には、吉兆なりとて急ぎ返事すべし。さはなくて遅きは、何卒して此隠謀の顕はれざる様に、事を紛かすべしと談合すると見えたる事、疑なしとて、河田方へ神保を召し、〈召すに口伝、〉之を虜にす。同家老身近の者合せて七人、主従妻子ともに十三人、城外の堀際に之を磔け、神保が首に懸けたる膚の守袋の内に、佐々・柴田両判にて、此儀一統の後、松倉城に五万石添へて充行ふべしとの状一通あり。河田豊前守が勇智深き故、隠微を察し疑慮を定むる斯くの如し。酒田智勇なく、上山田に闇々と計られて、討たれたる事、残多し。 年経て後、本城重長、舎人に物語り仕らる。右尾鐺にて攻合の時、上山田と裏切、堅く申合ひたりと雖も、必ず之を頼にはせず、戦国最中、斯様の軍略、敵味方ともにある儀なり。我を欺くべしと、深く巧む心根、不明の智にては知り難し。世間の約束は、手を翻す如くにて、思オープンアクセス NDLJP:230ひ定めし志も替りあれば、上山田も悔返さん事弁へ難し。其所を疑ひては、出勢せんも合戦せんも、ならずといふ者なり。此所を能く思案し、上山田裏切すれば、勝利尤も手裏にあり。万一、上山田、越後勢を打つ為めの詭計ならば、是々の武略を以て変を打ち、勝備定め五段三段工夫して、不敗の地をふまへ、必勝の旗を揚ぐ、誠に危からざる戦法なり。之を図して、舎人に誨へられたりとて、某定房に之を伝ふ。

第四、本城重長、蒲萄ヶ谷の下り口中腹より敵地を見下し陣取り、後陣も大勢差続く。旗手、木の間の風にあたりて、龍蛇の動くに相似たり。物貝、夕陽に輝いて、電光の激するに異らず。山峰続途より、先の味方配、左右に啓きて又聚る。山𡼏谷瀡澗離山絍峙瀡なるを用ひ、離絍を捨て山手の備全し。営舎も此理を用ふる事同じ。夜に入りては、山伝に味方の加勢来る如くに睹するは、火を聯ね、其火にて、雑人歩卒に、武頭等を少々加へ、味方紙の岑陰、山の下路より攀登らせ、夜明くれば、兼ねて用意したる作旗を儘し、競追ひ人数を下すには、一手切に曳切れざる如く、多勢の続く如くに見せ、同じ旗と見えざる様に、紋の書様迄旁。〈口伝。〉庄内より見え渡る山々を取敷き、日毎に陣屋を懸け廻し、旗を翻し鑓を貴り、炊烟絶えず。時に狼烟を挙げ、夜は篝火績夥おひたゞし。敵之を見て、思の外なる大軍かなと、興を覚したり。されども軍国の時節なれば、敵方にも物馴れたる士多き故、越後方の様子を考へ、或は透波を用ひて知る。味方、又之を察して、敵の積る智を外す重ねての工夫、敵の透波を制するには、味方の透波を擬作反間利間をなす故、庄内の透波、帰つて告ぐるを以て、聆耳はやし。敵軍は心を屈し、味方は勢益〻熾なり。

第五、本城重長の陣、諸兵迅速の令を下し、八月廿二日夜中に打立ち、菅野の台の城下迄、未明に押詰め、一方を抑へ一方を闕き、二方より緊しく之を攻め、異口同音に鬨を作り、入替り之を攻む。堀深しと雖も、飛入り跳超え、屏高しと雖も、践毀り乗壊り、敵の防ぐを屑ともせず、鉄壁を築き鉄網を張ると雖も、之を障ふる能はず。城代秋田隼人正、城を開いて早く退散す。如古稲田・皆川内匠其下の衆兵、悉く落行くを、前よりは之を遮らず、後より追撃ち、雑兵ともに四百三十余之を撃捨つ。就中本城備竹股衆黒地左近、敵皆川内匠を馬上より縦落し、首を取るなり。越前守は、城に乗移り、纒声の口伝を以てし、此城を此方の附城に用ひ、丈夫に備を配り凱旋す。
オープンアクセス NDLJP:231第六、同廿二日、昼より頓に景気転じ、天掻曇り雲脚速く、微雨降り、夜に至り風雨甚だ強く大木を折り、中々物烈し。相備の中、相川治部少輔、窃に重長に申しけるは、相備の者と示合て候。昔源義経、平氏追討の為めに、元暦二年正月十六日巳の刻、摂州渡辺・福島より纜を解き給ふ時、暴波舟を盪し、三日の海路を、三時計りに走らし、翌十七日遅明に、阿波国勝浦に著き、敵を打ち、夫より讃岐の屋島へ、二日路の行程を、夜を日に継ぎて馳せ、大坂越の山路を経て、明くる十八日の午時に、高松の在家に火を懸け、屋島へ押寄せ、禁掖を焼き払ひ、平家を西海へ追ひ落し、押続き長門国壇浦へ追行きて、平氏を悉く亡し給ひしとなり。是味方の鋭気に乗じ、敵の惰機を襲うて、迅速の武術なり。頃日打続いての軍勢、今日手火疾てひどき城攻、且つ又、斯様の大風雨なれば、押寄すべしとは、敵方思寄るまじ。敵兵気僖ならず、守禦調はざるは必定ならん。善く戦ふ者は衝く所其不意、攻むる所其不守、御指図には循つて、関根城へ押向ひ、攻壊し候はんと申す。本城領いて答へて曰く、某も左様に仕りたし、思設けたる事に候へども、去る十六日、村上を打立つてより今日迄七日、軍事に務め、食飲を甘んぜず、寤寐を安んぜず、人馬ともに倦疲れ候。打続いては如何あるべきかと進む心を、斯く須〔〈曳脱カ〉〕抑へて、思惟せしなり。各〻左思ひ給はゞ、愜ひ望む事なり。但し斯様の時、敵油断あるべしとは、一概に思ふは浅く候。庄内方にも、武功の者多ければ、此時を一大事と用心すべし。第一城主樋野左衛門尉は、老功の勇者、数度物狎れて名ある者なり。されども、生得勇過ぎて進心甚しく、後途を稽ふる智浅き者なり。加勢の酒田民部は、実なる生付にて、深く兵道に志し、博学にて心さとく、一廉用に達つべき心なりと、人毎に誉むる。されども郷争の小攻合、漸く五三度も場を踏み、年は三十にも足らぬ若者なれば、十に八九、老武者の左衛門が進む心を、抑ふる事はなるまじく候。左衛門が内に根津郷右衛門、民部が下に赤宇津刑部、此二人勇才抜群、武功の者なれば心悪し。されども、上挙用なき内、下として一分の大切は、なし難かるべきか。去りながら、相共に、軍議同ぜんも計り難き事なれば、越度なき様にとて、其油断を討つに、備若し又実ならば、迂直の二備を為し、或は攻め、或は闘ひ、其備の外、又一隊を搴放つ、越後秘伝なり。段々能く相議し、物頭・物奉行等を召集め、勝利の軍謨を申含め、諸勢多く食し、酒を過さゞる程に飲ませ、馬に能く飼ひ、早く支度せよと下知しければ、衆心一同に勇み、馬物具・得道具を取り押出す時、余り烈しくして、旗竿を吹折る故、旗𬏈を截裂きオープンアクセス NDLJP:232袖印とす。士大将は、旗馬験の竿の弱きは、千段巻の打柄の鑓に取替ふれども、差上ぐれば吹僵すによつて、唯引傍めて漸く持たする。弓足軽は、矢と弦とに心を付け、鉄炮足軽は、玉薬火縄の心得して、前後左右の列を調へ、居並びて、本城が下知を相待ちける。重長は、嫡子豊後守・同次男千勝に、千三百余の人数を附けて、菅野台の城に残して、能く申付け、千五百の一備を三手に分けて、前箭に定め、其次に二千を、本城率ゐて四手とす。九手に分ちて変と為す。後箭千余一備一頭三尾、凡そ三段として馬を進めて行く。夜深に程なく、関根より一里計り此方なる在家にたよりて、暫く人馬の息を休むる所、兼ねて透波を先達に附置き、夜の斥候追々遣す故、帰り来つて、城の様子を告ぐる。敵聊も油断なき由申しければ、越前守さあるべし。味方勝を握る事なれば、総軍皆静に押すとも、夜は明くまじ。味方の備、近きは見え、遠きは見えず、疑はしき時分篠目の頃、関根へ取付く様に仕れとて、段々に備を繰出す。其刻、雨も止み風も稍〻収まり、晴行く雲の絶間より、西に傾く月影に、遥々敵城を見やれば、門々城戸をば堅く閉ぢ、櫓々栖楼は排き、狭間双べ、鉄炮矢先を揃へ、屏裏には旌旗を飾り、戈矛を列ねて相待つ様子なり。関根より十町計此方の森を片取りて、諸備を残して隠し置き、先衆は敵城を左に請け、三四町見渡して先づ押通る。斯様の備の制、利害大事あり。然るに、一二の備間に、仮の備あり。〈口伝。〉此隊、暴に譟ぎ大浦の道筋は、其地此地といふよりして匐静ふ。之を禁ぜんとて、役者乗廻し馳違ひ下知するにて、猶々騒動す。敵城より之を見て、関戸を開き、酒田民部、采拝を取つて進む。二の手樋野左衛門尉差続いて、彼の譟ぎたる越後備の正中へ、酒田民部突いて懸る。元より乱れたる備なれば、一羽も翕せず、逃げ崩るる。此備に続いたる跡の前備は、崩るゝと見て、実は崩れず。譬へば、枝葉風に靡くと雖も、本根は動かざるが如し。之を動中静の備といふ。又静中備あり。此権術、孫子所謂鵞鳥将撃必顩翼、猛獣将搏必密形。是を韜勢といふ。是を以て、次の隊より酒田が備へ、切懸り入立つる敵の二の手左衛門が備へは、先より衝いて押入る。左衛門尉、是は辟易して、酒田に勠力を得ずして、取締りて戦ふ。味方五三手宛、先より返せば、敵の左の迹に進む味方は、敵の右手へ入替り突いて懸る。味方の先手千五百の内に、千は其攻合を相励み、残り五百は、相川治部と大川主殿率ゐて、直に押して、彼方の方より城を攻む。二の手二千の備、是七千は此場の攻合の二の見なり。残る千を率ゐて、本城重長、此方より城へ懸り、堀オープンアクセス NDLJP:233を越え土手を登り、屏に附き、一同に鬨を揚ぐ。敵、楯太鼓を打ち、貝鐘を鳴らし、矢留の下知ありと雖も、しきりに鉄炮を発ちて止めず。〈口伝。〉其中を撃つに首尾相救ひ、常山蛇の如く双方より乗入る。城兵、少々ありと雖も、諸方を兼ね拒ぐ力なければ、忽ち押頽され、逃入るを追続いて、二の廓迄乗取り、又鬨を作る。此境節、城外にて樋野左衛門尉討死す。其様子は、堀際の攻合、越後方勝色、庄内方備色悪しくなる砌、後の方へ人数遠り、鬨を揚げ城を乗破りたるやうに聞ゆ。左衛門尉は、老功の将なれば、近習士廿四五騎、弓鉄炮四十挺、上下百二三十人にて、少しも騒がず、打纒めて居たり。斬脱けて落ちば落つべかりしを、何とか思ひけん、城乗の敵に向つて、今一防と思ひ、城内へ引取る所を、味方黒川兵庫、麾を取つて急に前み、透間もあらせず、附入らんとする故、又取つて返して戦ふ。左衛門自身手を砕き、敵をとりひしぎ、聞ゆる大力の勇者なれば、薙刀茎短に追取延べ、向ふ者の真額・錦齧・脇楯・籠手・草摺、之を薙ぎて、手下に三人切伏せ、五七人にも手を負はせ、あたりを払つて見えける時、黒川兵庫と名謁つて、互に馬上にて鑓組む。左衛門尉、能き敵とや思ひけん。駈寄りて組んで落ち、上になり下になりしけれども、敵も味方も入乱れて、両人共に助け来る郎従もなき内に、兵庫、鎧通の脇差を以て、左衛門尉が腋壺を突通して繅殺し、吭を搔落し、屍を踏んで起上る、黒川が働、他国遠邦とも口伝へ、聞く者之を称美す。左衛門尉が下の者、其場を去らず、白刄に繋り命を殞す。是より少し前に、酒田民部、我が備四手の内、二手は早や突崩され、二手も漸く截靡かされ、敵には猶新手の備、後に続く故、本城が旗本へ懸つて、一勝負せんと機を窺ひ、二百騎計りの手勢を散らさず、味方の敗るゝをも救はず、脱兔の気を含み、静に控へ居たる所へ、竹ノ股大隅守・酒井軍代柏崎城之助・御旗本の検使椎津権六加つて、酒井備を下知して、竹ノ股と二備、左右より酒田民部が備へ切懸る。民部が人数、両方の敵を防ぎ兼ねて混乱するを、民部、采拝を取つて下知す。味方、之を此備の将と見て、十四五騎にて取囲む中に、竹股が内に饗場の何某とかやいふ士、走り出で衝きたる鑓、誤つて民部が馬の𦘴胍ふとばらを突きければ、馬は騰挑し頻に狂ひて、屏風返しに、弓手の方へ顛れければ、其身も左の鐙を踰えて、右の方へ飛んで下り、太刀を抜き、大勢へ割いて入り、敵を追捲り、五六人に手を負はせ、其内一人は斬殺され、一人は深手にて翌旦死す。民部も、三箇所手疵を被ると雖も、薄手なれば物ともせず、猶喚いて闘ひけるが、敵多勢なれば、危く見ゆるに、民部を傅立てたる赤宇津刑部といふ家老、オープンアクセス NDLJP:234先手にて働きけるが我が、備も撃破られたり。兼ねて討死と思ひけれども、民部を如何と気遣して、此所へ馳来り、這の様子を見ると其儘、馬より飛んで下り、今度の儀、爰に限らず候。身命を全うして、後の戦を期し給へ、いひ甲斐なき雑人原を、打つ太刀も穢しとて、民部を抱ひて我が馬に乗せ、轆頭を取つて、大浦方へ押向け、鑓の柄を取直して、馬のさんづを強くたゝく。たゝかれて馬搔立つて、逸散に飛びければ、民部は遁れて大浦へ行く。赤宇津は踏止つて、大勢に渡り合ひ戦ひけるが、二度の攻合老武者なれば、息絶えければ、若し虜られなば、恥辱なりと思定めて、敵を呼懸けて衝きしりぞけて、其所をくつろげ、刀の欛を握り、左右の手に刀を添へ、背より前へ自ら頸を搔落し、刀を倒にして杖に衝く鑓柄を、足に踏まへ立ち死したり。然るに、上杉家武士道正しき故に、赤宇津が自害をせしと見るより、首を取らんとする者一人もなし。軍終つて、本城、之を聞いて、其場に体を壇めさせ、頸は取寄せて実検す。其後、庄内平均の時、赤宇津が碑文を書かせ、石に雕りて之を建つ。程経て後までありしが、今は知らずと、舎人助物語なり。扨又、本丸に楯籠りたる根津郷左衛門は、櫓に上り、城外の攻合、味方敗軍の体を見て、此上はいつをか期すべき、名残の軍して截死ねや人々。と下知し、屏櫓より矢・鉄炮を放たせ、寄手の漂ふ所へ、門を開き、根津真先に進んで突いて出づる。左右に列る者廿四五騎も、共に敵中へ駈入り、追出し追入れられ、五回迄戦ふ。根津、鑓を突き折りて刀にて働き、刀も少し損じて後は、脇差にて到つて廻る。是に依つて、根津が鑓先・太刀先へ向つて討死したる者、即時に二人、味方延沢武太夫といふ者は、深手にて四五日過ぎて死す。此外、根津に相当る者多しと雖も、詞を替はし手を負はせ、或は鑓組み、或は太刀打したる者を択んで八人、之を根津郷左衛門が鑓相手八人衆とて、人々に名を呼ばれ候。此内、五人は手を負ひ候。郷左衛門も十箇所計り疵を被る。然る所、相川・大川、兼ねて脇より取寄つて攻懸りければ、此攻合の内、此衆は後の虎口を攻破り、乗入るに依つて、郷左衛門、今は是迄と思ひ、門櫓へ走上り、梯を引き、狭間の板をおしひらき、腹を切り、鉄炮の薬の上に身を蓋ひ、火を放ちて灰燼となる。其櫓にて自ら刎ね腹切つて、同じく死する者七人、其外は皆討死す。足軽下々の者共、残りたるは皆生虜らる。越前聞いて、皆縄を赦し之を助く。喜んで逃行くもあり。一命の報恩、数ならねども、御供せんとて、居留る者も多し。味方手負討死六十余人あり。

オープンアクセス NDLJP:235是より先、樋野左衛門、越後備の押来つて課ぐを見て、打出でんとせし時、根津郷左衛門申しけるは、我々、弓矢を挙つて名高き上杉家、殊に武功の越前守の事なれば、此城際にて騒ぐ事不審なり。偽りて引出して之を撃ち、附入にせんとの武略か、又は別手を以て、後より城を乗らんとの行か。此二つの内に洩るべがらず。餌兵は勿食との訓も候間、一定敵の様子を御覧候へ。構はず押通らば、諸備を喰留めて切崩すか、此城に抑を置かば、それに向つて撃勝つ武案もあるべし。又城を攻めば堅固に守禦し、千安より後攻を待つて、取包んで撃つ軍術もあるべしと、達つて之を諫む。左衛門尉肯かずして曰く、敵、某を見て慢る間、近く押すを、手もなく通しては、此城に居たる甲斐なく、武道の瑕瑾なり。矧んや、敵備の課ぐを見て、其虚を撃たざるも度を失ふなり。敵、餌兵を以てせば、味方も餌兵を以て報い、本城が旗本へ、我が旗本を以て懸り、重長を見定めて、唯一打の勝負にすべし。万一、思ふ図外るれば、押纏め引取るべし。附入にならざる事は、左衛門尉が采拝にあり。是ともに汐合悪しくば、斬破つて千安へ退くべし。為す事もなく、優寛として蹲踞り、城を巻かれ後攻を請ひ、其上にて如何程の大利ありとても、他の助を頼み独の功にあらず。所詮左衛門は、打出すより外の分別更になし。郷左衛門は城に残り、敵、若し城を攻めば一防防ぎて見よといひ捨てゝ、馬を引寄せ乗出づる。此上は力なしとて、郷左衛門其外残兵、漸く三十騎に過ぎず。是にて城を持忍ふべき様もなけれども、左衛門尉、年久しく此城に居けるに、今日に至つて明城となし、人馬の足に、無碍々々むげと踏壊らせんも口惜しければ、本丸計りを一持にて、様子を見合せ火を発し、焼崩して自害すべし。之を今生の御暇乞と存ずると、左衛門尉と別るゝに、小事を採らずして大利を慮るに、智なかるべからず、左衛門尉智なくして、勇も其儀にあらず。酒田民部少輔も、根津が謀尤もとて、再三、左衛門尉を諫め、赤宇津刑部も老功なれば、其席に列し諫めけれども、左衛門尉承引せず、左衛門尉打出づる時、酒田民部、左衛門が鎧の袖を控へて申すは、城主の出で給ふ所に、加勢に来り、某跡に残るは如何なり。此期になりては、是非もなければ、同戦して之を励むべし。さあらば、我等、若役に先手をして、敵の先を摧くべし。其方は老功なれば、旗本の備を定め、二三の手配して、勝利を得給へと、強ひて先を望み出で、働きたりとなり。

扨彼の森の茂みを便つて、跡に残せし越後勢、軍粧を督し、敗軍の敵を此備に渡し、戦ひたるオープンアクセス NDLJP:236備々は、人数を集めて備を堅め、敵地なれば、別けて慎んで斯くの如く追留の制限あり。扨敵の襲ひ来らん所を抑へ、諸方の斥候、其地に便つて之を遣し、本城重長は、関根城に旗を立て、牀机に居て、本丸の火を鎮めさせ、群兵、城城屯し、余る人数を以て繰換へ、城の左右の陣を固め、代る衆兵を憇はするなり。

第七、本城重長、関根城を攻落し、明くる廿四日、大浦城後大山本へ取詰むる。此城には、最上より来る郡代中山玄蕃頭大将にて、此節、最上より請けたる加勢、又庄内の衆には、村田右衛門佐・菅沼虎之助等籠城、関根より退きたる酒田民部もあり。昨日、関根より敗北の兵、むだむだと城を落され、是迄引退くさへ無念なるに、此城をも又攻落されなば、弥骸上の恥辱なりと思ひ入れ、庄内衆も、最上勢の見る所も恥しと思ふ故、城の様子、少しも弱気見せず。越後家にても之に感ず。然れども、本城越前下知ならば、一日の内にも攻崩すべく候へども、大浦近くに根城の千安あり。千安城には、庄内三郡屋形東禅寺を初め、前盛蔵人・丸岡図書助・押相右馬助・蜅沢右馬頭・貝輪新之允・中野豊後守等随一の衆楯籠つて、三郡の要なり。然れば大浦城を攻むるは易けれども、敵も一精出しなば、味方に手負死人多かるべし。頃日打続く攻合城攻に諸卒疲労すべし。後道の勝を含んで、本城、采配を取つて、既に屏に付きたる越後勢を引揚げて、堅固に陣を取しく。右何れも押への備を繰廻して斯くの如し。其備立の所は、城により敵により、其場により時に応ずるなり。〈口伝。〉

第八、本城重長、相備衆へ申し談じけるは、大浦其外の城は枝葉の如く、千安は東禅寺を初め、庄内随一の衆楯籠れば、本根の如し。然れば大浦をば、先づ之を措き、千安を攻むべしと評議して、大浦を巻解し千安へ向ふ。大浦と千安と両城の間に、三段十五と手分して営陣す。陰中の陽、陽中の陰、陰一、陰陽二陽、是に付いて大口伝。両城の間に営陣する工夫は、本城重長三年已来、庄内へ切入るべしと存じ立て、我が内の頼もしき士五七人と密計し、法を背かせ、夫にかこつけて、坂を越させ、或は其者の方より不足を申立て、暇を貰はせ、其者共、庄内へ行き、大身衆へ頼り本公仕る。就中本城が乳弟目賀多といふ勇士、俄に乱心す。本城、刀脇差を奪はせ、家老の本城式部に預け置く所に、二三ヶ月過ぎて、行方知れず逐電し、庄内へ行き、西条兵庫と名乗り、信濃窂人なりというて、東禅寺へ奉公に出でたりしが、庄内落著の後帰参し、目賀多帯刀と申して居り候。是又、先年の乱心は謀略なりと、何れも知りたり。斯オープンアクセス NDLJP:237くの如くなるを以て、敵の様子、本城能く知り、殊に庄内衆の内、本城へ心を通ずる者多き内に、小国因幡守・高坂玄蕃頭といふ者、千安城に籠り、本城方へ潜に申越すは、当城より大浦へ後攻をし、夜懸の一戦し、越後勢動乱の所へ、大浦城兵突いて出で、本城を中に取込め、小備の新手を幾重にも作り、戦を挑みては、引いて備を堅め又懸り、一合再離離れて相合ひ、勝利を得べしと、大浦城へ相図を定むるなりと告知らする故に、重長、大浦を巻解して、両城の間に営陣し、敵の武略を能く知つて、それに重手を打ち、武略勝利の本を踏まへて斯くの如し。敵庄内衆は、是をば知らず、両城の間に、本城陣取る事、天の与ふる所なりと悦んで、大浦と相図を定め、八月廿六日の〔暁イ〕、東禅寺大勢を率ゐて城を出づる。味方は待請けて、少しも騒がず、本城豊後守を五備とし、二手は合し、二手は寄とす、一手は口伝。大浦の兵に向ふには、千勝を取立て、是も五手に備ふ。重長は前方よりも板橋を廻り、千安城の裏に人数を伏置き、東禅寺城を出づる其跡へ、乗城とて時刻を考ふる所に、東禅寺は之を夢にも知らず、夜軍して敵を打つべしとばかりの心にて、人数を勝つて連れ出づる故、城に残る兵は僅なり。重長、時節好しと、一同に城に乗る故、即時に乗破り、早く火を懸けたり。東禅寺之を見て、力を失ふと雖も、武勇の人なれば、差向ふ敵へ懸り、玆を最後と相戦ふ。豊後守勇み進んで戦ひければ、是にても勝利と見えたる折節、兼ねて重長へ内通したる小国因幡・高坂玄蕃、手勢を散らさず引繚め、主君東禅寺へ向つて、弓を引くは如何なりとて、大浦城兵に向ふ。千勝備に相加つて一戦を初む。然る内に、重長は城の門に櫓火を懸けさせ、静に東禅寺旗本へ、後より切り懸る故、東禅寺備悉く敗走する故、味方之を追撃つ。敵、千安川に溺死する者其数を知らず。大将東禅寺は、川端にて唯一騎取つて返し、大音を揚げて、逃ぐる味方、きたなし返せと下知するを見聞いて、彼此二百余人踏留り、爰にて又一攻合あり。味方願ふ所と、競ひ懸つて突いて懸る。敵後れの上なり、且つ又小勢なれば、屋形の東禅寺を初め、一家々老迄一人も残らず討死す。此様子故に、大浦城兵も、悉く敗北するを追撃つて、数多之を討取る。最上より加勢に来る中山玄蕃は、跡をも見ず、其場を逃亡して、唯一人最上まで遠く逃ぐ。見苦しき様子なり。首数雑兵ともに千八百余、場堅の鬨を作り首実検す。廿七日の辰の刻なり。

東禅寺、小舅東禅寺右馬頭一戦の砌、敵中を斬脱けゝるが、先にて姉婿の屋形討死を聞き、涙を流し申しけるは、我れ多くの敵に後を見せ、是迄逃げ延びたる事は、夜中なれば、屋形のオープンアクセス NDLJP:238討死を知らず。屋形存生ならば、重ねて人数を催し、本城を打ち、二度庄内を踏まへ、本意を達せんと思ひたればなり。屋形討死なれば、我れ一人、生きて更に益なしといひて、取つて返す。本城、首実検して居たる折節なれば、右馬頭、旗も前立も相印もかなぐり棄てゝ、黒糸威の鎧を著、右の手には抜刀を持ち、左の手には六十二間の星鍪、全小札三枚下りのしろこ鍛を附けたる匂、紛々たる首一つ提げて、敵備の中を押分けて通る。咎むる者あれば、越前守被官なり。大浦民部が首を取つて、実検に参り候といひて、難なく重長が旗本へ来り、越前を呼び懸け、高名致し候といひながら、近寄り、其首を本城に投付けて、東禅寺右馬頭と名謁り、が子の三尺八寸の太刀を以て、本城が直額を、われよ摧けよと二打うつ。本城、勝つて鍪の緒をしめて、首実検し居たる故、兜は斬割られず、左方の吹返を斬割り、眼尻より頤かけて切付くる。本城早く側に横たへたる薙刀を追取り、牀机を少しも去らずして、右馬頭をはね倒すを、脇より立合ひ、右馬頭が起上らざる内に斬殺す。本城は、其儘又首実検し、首帳を認めさせ、凱歌の儀式を執行ひ、武名世に高し。

右馬頭が刀は、相州正宗なり。本城則ち景勝公へ上る。其後、景勝、太閤へ進じ遣され、太閤より又権現様へ進ぜられ、今に紀伊頼宣卿に、本城正宗とて之ある由之を承る。寸長しとて、今かね二尺五寸に御磨上げなされたりと聞伝へ候。

第九、本城越前守重長、武功名誉の至なり。之を千安崩とも、又は千安夜合戦とも、今に申し沙汰す。右の通りにて、大浦城は申すに及ばず、酒田大宝寺城に籠りたる庄内の者共、城を開けて逐電し、或は越前守に降参して、敵対する者一人もなき故、三日の内に、庄内三郡、越前守手に入り、野合の一戦には、弱敵見崩聞崩といふ。斯様なるは、城故に見落し聞落しといふ、越後家の武者詞なり。重長二十日余逗留し、仕置能く申付け、九月中旬、春日山へ帰陣して、委細に之を言上す。景勝公、御喜悦斜ならず、本城父子三人を初め、相備の面々を召出され、それの御褒美、其被官の者迄の様子、御吟味正しく賞罰明正なり。本城越前守には、庄内三郡残らず下され、瀬奈美郡村上をば、越前守嫡子豊後守に下さる。越前守心肝に銘じ、有難く存じ奉り、其身は酒田に居城し、二男千勝を、大宝寺の屋形に仕居ゑ、積年の鬱憤を散ず。重長無類の武功、是といふも、景勝公御威光の余耀なり。
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景勝公御上洛の事
 

第一、天正十七年己丑元旦の賀儀あつて、目出度き様子なり。其二月、春日山に相詰め罷在る衆、近年軍労休息の暇を給はり、何れも持の城々へ帰る。珍しく各〻喜悦仕るなり。太閤秀吉公より、端午の御祝儀として、石田治部少輔を越後に差越さる、御内意は、来年北条征伐の為め、関東御進発御相談の由、後に相知るゝなり。

第二、景勝公の御簾中、〈武田信玄公の息女、勝頼公の妹、〉平坂対馬守を御輿添に仰付けられ、上方へ御上せなされ候。是は景勝公、宿老中と密談にて斯くの如し。景勝公仰せらるゝは、来年太閤、小田原発向に就いて、我等と前田筑前守と来合せ、関東筋へ相働くべしと、秀吉之を定めらる。秀吉事、古今類なき果報明発の人なり。匹夫より登揚して、天下を一統す。然るに、某に対し和睦は、工夫才智を以て、某へ疎意なき様子なるは、名将の謙信公の迹を嗣ぎ、北条三郎を討亡して、越後を治め、信州へ発向しては、小勢を以て氏直を追払ひ、川中島四郡、其外佐久・小県へも手を懸け切治め、或は会津領の所々を切しき、佐州一国恙なく平均。去冬は羽州庄内三郡を治む。殊更天正十年、信長家の者共に対して、上杉家の弓矢の手柄、其後、越中宮崎にての様子は、木村見て帰り、斯様の事にて、某が事を、秀吉も手浅く見らるまじ。然れば某が心のふらざる様にと存ぜられ、人質を乞ひ給はざるは名将なり。内心には、某を気遣に存ぜらるべし。殊に関東陣触ば、猶以て心許なく、人質を乞ひたく思はるべけれども、左様にては誠の道透きたりと、某にさげすまれては、却つて悪しかるべしとて、其事を申越されず、道を嗜む処を知らせ、弥〻某に心安く思はすべしとの底意なりと察するなり。一度、無事を仕りては、某方よりは尽未来、心を変ずべきにあらず。士は大小上下、共に心を変ぜさるを本意とす。其所を考へ知りながら、秀吉に疑はるゝは詮なしと、家老中と御密談を以て、御簾中を御上せなさる。太閤堅く御辞退なれども、景勝公より右の思召入にて、斯くの如きなり。

第三、十一月中旬、景勝公御発駕、同廿八日、京都本国寺へ御著なり。路次に、太閤より御使あつて御馳走なり。翌廿九日聚楽へ参り候。太閤御大悦、毎日の御使御音信あり。来春小田原御発向の首尾御相談調ひ、御帰国の砌、太閤の御執奏を以て、景勝公従二位に叙し、中納言に任ぜらる。後陽成院よりの御綸旨なり。御家来直江山城守四位侍従に叙任、藤田能登守・オープンアクセス NDLJP:240泉沢河内守・安田上総守四品に叙せられ、其外十一人、官位仰付けらる。是御武勇の余光なり。極月御帰国なり。〈附、愚父全人も、京都御供仕るなり。〉

附御在京中、秀吉公、景勝公へ御尋ね、本城越前守に、庄内三郡残らず充行はれ、嫡子豊後守、村上に於て別に領地を給はる事、過分の様子如何と御尋ね下さる。景勝答に、庄内は本城一箇の手柄にて、伐取り候と、本よりの事を委しく語り、斯くの如くに候へば、某取上ぐべき儀にあらず。村上は、越前が前領地故に、豊後を差置き候と仰せらる。太閤仰せらるゝは、庄内を伐取る事、景勝より加勢を乞ひ、兼々より景勝の弓矢に恐れたる庄内なれば、越前勝利を得たり〔〈しも脱カ〉〕景勝の威光を以て、庄内へ越前軍代に働き、伐治めたるを、越前一身の手柄に落し付けて、庄内を給ひたりと存ずる。然れば越前守は、上方に残し置かれ、簾中に付けられ、然るべくは、千坂計りはすげなく候。其上越前は、武功の名高き者に候へば、秀吉咄相手に致したく候。知行上方にて遣すべき間、庄内は景勝支配尤もに候と、達て仰せられ、則ち越前を聚楽へ召し、御直に其趣を仰聞けられ、江州に於て三千貫之を下さる。景勝公よりも、苦身銀とあつて千枚づゝ下され、御簾中に付けて、上方に相詰め候。本城越前も、尤も之を悦び候は、縦ひ小身なりとても、天下を知り給ふ太閤より、御直に所領を下され、御馳走を請け、譜第の上杉家を出でずして、其儘罷在るを以ての故なり。右の通故、越前二男千勝には、信州に於て小田切安芸守跡を、景勝公より下さる。庄内三郡の様子は、

一に、其頃は大宝寺、後には鶴ヶ岡といひ、此城をば直江山城守に預け下され、城代本村監物罷在る。

二、昔は東禅寺、其頃は酒田、後には亀ヶ峯といふ。此城をば甘〔糟〕備後守に預け下さる。

三、其頃は大浦、後には大山といふ。此城をば下次右衛門に預け下され、庄内三郡総代官算勘奉行仰付けられて、右の通りなり。太閤微妙の様子、斯くの如きなり。

信州上田真田安房守、今度景勝公御留守中、太閤家大谷刑部少輔と、内縁の筋目あるを以て、大谷へたより才覚仕り、二男源次郎を太閤へ差上げ、景勝公を引切り候。総領の伊豆守をば、我が手前に差置き候儀、安房守老功、末を考へ、以来権現様へ進上仕るべしとの思案なりとて、斯くの如しといへり。右の通り故、太閤へ、景勝公より御断り仰入れられ、是非御返し下され候へとの事なるを、太閤へ、大谷能く取繕ひ候故、様々、太閤より景勝公へ御詫言にオープンアクセス NDLJP:241て事相済み候。此故に安房守事、表裏の士なりと、之を咲はさる者なきなり。

 
太閤秀吉公、北条と矛盾の事
 

相州小田原北条氏政は、嫡子氏直に代を譲り、当時は氏直政務なり。秀吉公、天下を掌握する故、氏直降を乞ひ、上洛を致すべしと、堅く申入れられながら遅延なり。其上にて、氏直より秀吉公へ申入れらるゝは、真田が掠取る所の上野沼田を仰付けられ、相渡し候様に、さあらば、早速上洛致すべしと、重ねて之を訴へらる。太閤家の衆、各〻申上ぐるは、北条元来表裏の風なり、先づ上洛せられ、其上にては訴訟もあるべきを、さはなくして沼田を望むは、一旦の難を申し遁るれば、早速は御発向もあるまじと存じ、斯くの如く申す所不義なり。早々御発向御退治然るべしと申上げけれども、太閤御底意深くして、北条望に随ひ給ひ、富田左近将監・津田隼人正両使を御差下し、真田持の沼田を、北条へ引渡さる。是に依つて、北条家之を請取り、沼田猪俣能登守を差置き、剰へ、真田持のなぐるみの城も、沼田城付なりとて、之を攻め取つて支配す。其上にも、猶上洛延引なり。秀吉公、以の外御腹立あつて、同年丑の霜月、北条と御手切あつて、御陣触之あり。

右の時、六通の書写、

 

    条々

一、北条事、近年蔑公義上洛。殊於関東我意狼藉之条不是非。然間可御誅罰之処、駿河犬納言依緑者、種々懇望之間、以条数仰出候へば、就御請申御赦免、則美濃守罷上、御礼申上候事。

一、先年、家康被相定条数、家康表裏の様に申上候。美濃守に被御対面上者、堺目等之儀、被聞召届候様に、可仰付候間、家之老従指越し候へと被仰出候処に、岡江雪指上畢。家康与北条国切之約諾之儀、如何と御尋之処に、御意趣は、甲表・信濃の内、城々家康手柄次第可付之。上野之内は、北条可申付之由相定、甲信両国者、則家康任存分、上野沼田之儀者、北条不自力、却て家康相違之様に申成候。寄事於左右、北条出仕迷惑之由申上候と思召し、於其儀者、沼田可下候。乍去上野之内、真田持来り候知行三分二、沼田城に相附、北条に可下候。三分一者、真田に被仰付オープンアクセス NDLJP:242条、其内に有之、城者真田可相抱之由被仰定。右北条に被下候三分二之替地者、従家康真田に可相渡旨相究被成、北条可上洛之由、一札出候間、即被遣上使沼田城相渡之旨被出江雪返下候事。

一、当年極月上旬、氏政可出仕旨、御請之一札進上之候。依之被遣津田隼人正・富田左近将監沼田被渡下候事。

一、沼田要害請取候上者、右之一札之旨に相任可取上と被思召候処に、使者指上、結句真田相抱へ候なぐるみの城を取り、表裏仕る上者、使者に非御対面候。使者事雖生害助命返遣す事。

一、秀吉若輩之時、孤と成、属信長公幕下、拾身山野骨於海岸干戈夜寝夙起、竭軍忠戦功。然而自中頃君恩、被人知_名、西国征伐之義被仰付、対大敵雌雄之刻、明智日向守光秀、以無道故、奉信長公。此註進聞届け、弥〻彼の表へ押詰め、任存分時日を馳上り、伐逆徒光秀、頭梟獄門。報君恩会稽。其後、柴田修理亮勝家、忘信長公厚恩、乱国家叛逆の条、是又令退治訖。此外諸国叛者討之、降者近之、無麾下。秀吉無事之表裏故、叶天道者乎。既挙然登鷹揚之誉、為塩梅即闕之臣、関万機政処、氏直逆天違理、対帝都奸謀蓋不天罰哉。古語に云巧訴不拙誠、所詮普天下背勅命輩、不誅罰。来歳必携節旄進発、氏直首可刎事、不踵者也。

  天正十七年十一月廿四日 太閤

            北条左京大夫どのへ

 

態〻差遣使者候。北条儀、可出仕由御請申し、沼田城請取之一札之面をば不相立、信州真田持之内、なぐるみの城請取る由、津田隼人正・富田左近将監方より書状相見え候。然れば北条表裏者之儀之間、来春早々出馬、成敗之儀可申付候。早四国・中国・西国、其外国々陣触れ申付け候。其表境目の儀、又は人数可出行等之儀、可直談候条、二三日之逗留、馬十騎計りにて、急々可相越候。彼表裏者為使石巻下野と□覧罷上候。押抜候而、なぐるみの城を取候間、彼使者石巻成敗雖申付、助命御返候。然者、右関東御使津田隼人・富田左近将監申上候に付而、見計らひ候而、沼田城可相渡由、被仰付オープンアクセス NDLJP:243候処、城請取り候刻、彼表裏者、二万計り差越、沼田近所に陣取り候由、彼人数候を見候者、隼人・左近方より、其様体御註進申上、可其上之儀候処、一往不言上沼田城相渡し罷帰り候事、如何思召候処、剰、なぐるみの城取り候。最も両人不相届仕形に候。然る間、彼石巻差添被遣候。両人事、三枚橋境目城に、来春被御馬候迄、番勢可申付候へ。被御馬上に而御成敗か、可御赦免歟否の儀、可仰出候。堺目城に被置候而も、謀叛可仕者に非ず候間、不御機遣候。北条方へ、以此一書仰遣候間、其方へも、写加朱印遣候。何方へも可見候。北条、此返事申上候に、其墨付可進上候。猶其上、石巻・玉龍両人事、被返遣候歟、可御成敗歟、可仰出候。若墨付之返事無之に付而は、則ち境目にはた物に可懸候。妙音院事、仮事を申廻し不相届所行、今般被聞召曲事に候。於様子者、浅野弾正少弼方より可申候。委細新庄駿河守相含候也。謹言。

  十一月廿四日 太閤御朱印

        駿河大納言殿

猶以て、越後宰相も、四五日中に上洛之由に候。幸に候間、関東への行の儀、可相談之条、早く上洛待入り候。雖申、駿甲信堺目相抱へ候留守居被申付然候。

 

    条目

一、老父上洛遅々の由有之て、至沼津御下向、一昨五日之御紙面、案之外に候。抑去夏妙音院一鴎軒下国の刻、於截流斎罷上儀者勿論に候。併当年者難成候。来春夏之間可発足之由、条々雖御理に候相叶旨、頻に承り候。公義之言及了簡、極月傍□半途迄も罷出、正月中可京着由に候き。就中先年家康上洛之砌は、被御骨肉、猶大政所を、三州迄御移之由承届候。就而名胡桃仕合に付御腹立、或は永く可留置、或は国替、斯様の惑説に付、方々申来り候条、二度下国存じ切の由、截流斎申候。父子之困可御察候。依之、妙音院一鴎招き申、縦此儘在京候共、晴胸中心安く上洛為申に候。更非別条候事。

一、此度為祝儀差上候石巻、御取成模様、於都鄙面目候。更以、氏直相違之扱、毛頭有間敷候。御両所へ恨入候。去る四日、妙音院此方へ招申儀、石巻御取成不審に候オープンアクセス NDLJP:244間、内々可尋申存分故に候。然に半途にて、被相押之由、無是非存候条、以書状申述候事。

一、此上も、無疑心御取成は、無猶予截流斎可上洛旨申候間、御両所有御分別、可然様に所希候。

一、名胡桃の事、一切不存候。彼城主に候か。中山書付進之候。既に真田手前へ相、渡内内、候間、雖取合、越後衆半途へ打出で、信州川中島と知行替之由申候間、御糺明之上、従沼田其以来加勢之由申候。越後之事は、不一代古敵、彼表へ相移候者、一日も沼田安泰に可之候哉。乍去彼申す所、実否不之。自家康も、先段尋極為申被遣候き。定而三日中に可来候。努々非表裏、名胡桃至時百姓屋敷淵底以前、御下国之砌、可見分歟の事。

一、以前渡給候吾妻領、真田以取成百姓押払、一人も不置候。剰、号中条院前旨台詰〔本ノマヽ〕相渡候。斯様之儀、少年可申達様無之候間、打捨置き候。猶名胡桃之事は、対決之上、何分も可承意事。以上。

    十二月七日 氏直

        富田左近将監殿

        津田隼人正殿

 

一、従京都御書付給り候。並に御添状、具に披見。内々之返一つ貴答、還相似慮外候歟の間、先令閉口。畢竟自最前之旨趣者、貴老淵底御存の前、委細被仰披候者、可本懐候。猶罪之品、糺実否候様に希所候事。

一、両日以前、以使申き、津田・富田方へ申遣五ヶ条、入御披見上は、重説雖如何候、猶申し候。名胡桃努々従当方乗取候。中山書付進之き。御糺明之〔旨カ〕、可聞届事。

一、上洛遅延之由、〔〈披脱カ〉〕露御状〔委カ〕曲存候。当月之義、正二月にも相移候はゞ尤に候か。依或説妙音一鴎相招き、可胸中之由存じ候処に、去月廿四日御腹立之由、御書付誠に驚入り候。可御勘弁事。

 右之趣、御取成所仰に候。恐々謹言。

    十二月九日 氏直

オープンアクセス NDLJP:245     徳川殿

 

御札披見、本望に候。抑今度之様子案外至極。已前以鈴木氏直申達し候き。能々初中後御工夫可然様に御取成専要に候。何廉にも、氏直無表裏処、分明に可仰遣候事、年来之筋目、此節に候。悉皆貴老へ可御指引候。恐々謹言。

   十二月九日氏政

     徳川殿

 

貴札之趣、氏直父子に具に為申聞候。委細被申達候。有御心得、可然様に御取成所仰に候。猶可御意候。恐々謹言。

   極月九日 ​北条美濃守​​   氏規​

     駿府之貴報人々御中

 
太閤秀吉公、小田原御征伐の事
 

第一、天正十八年庚寅三月十九日、秀吉公、花洛を御立あつて、同月廿八日、豆州三枚橋御著陣、小田原にも内々評議、武功の衆申すは、氏政公は小田原御籠城、氏直公は御出馬あつて、沼津在城の松平周防守を攻め亡し、彼の地に御旗本を定められ、先手の大将に、北条美濃守・北条陸奥守鬮取にて、御一人差遣され、富士川を隔てゝ之を防ぐか、さなくば、三島に御旗本を定められ、先衆を以て、黄瀬川を隔て、或はそうか原まで取続いて、一戦を持ち備へられば、敵は遠国の諸兵、気を屈し長陣なし難く、味方は関東支配、方々にて城を守り、国を強く堅め候はゞ、御勝利あるべし。家康、当時は秀吉方なれども、味方の競に依つて、氏直公の御舅なれば、其節は味方になり給ふべし。さあらば、秀吉より扱を入るべし。其上にては、又如何様にも、其時に当つて御分別なさるべしと、各〻申すと雖も、近代北条家風悪しく、氏政・氏直、柔弱の大将にて、出陣を嫌ひ給ふを、佞奸の者之を知り、仮令敵、幾千万寄せ来るといふとも、箱根の関所を越ゆる事なるまじ。況んや、東に大河あり、北に険岨あり、南は大海の荒磯にて、昔より船を寄する事なし。味方続きの国々、或は敵の境目に、人数を多く遣し、参らざる事なれば、是も敵の長陣ならざるは、同じ事なりとの談合に落著す。是に依つて、筥根山中城主松田兵衛尉に、加勢として北条左衛門大夫を大将と為し、間宮豊前守・朝倉能登守をオープンアクセス NDLJP:246相添へ之を遣し、薤山城主北条美濃守方へも、加勢に検使として、富永山城守を添へ之を遣され、宮城野口は、松田尾張守を大将と為し、上田上野介・原式部少輔等を差遣され、湯本口は、千葉新助等、竹浦口は北条陸奥守を大将と為し、成田下総守・壬生上総介・皆川山城守を、相備にして之を堅むるなり。

第二、太閤沼津御著城の時、作り鬚をなされ、長刀を差し給ひ、異風の御出立にて、諸勢へ仰せらるゝは、北条、筥根を越えて備を出し候はゞ、味方一戦しにくからんと思ひ、其工夫を仕りたる所に、北条、早や頭を揚ぐる事もならぬ体なれば、味方、早速勝利を得べしと、其理究を仰せられ、御大悦御祝儀として、各〻に御酒を下さる。〈口伝。〉御備定なされ、薤山の抑へには、織田信雄公に、蒲生氏郷・細川越中守・中川藤兵衛・森右近を相添へ之を遣され、山中城へは三好秀次公を大将として、其先手には、中村式部少輔・木下美作守・織田有楽を相添へ之を遣さる。此諸勢、三月廿九日、山中城を乗取り、松田・間宮討死す。同日、薤山も落つる。家康公は、足柄越をなされ、小田原へ押向ひ、天狗岳の下諏訪の原の上、竹の下山に御陣取なり。其故に、小田原よりの人数、早々御持口の所々を捨てゝ、四月朔日、小田原城へ逃籠るを以て、翌二日より、小田原城を取巻き、太閤は湯本に御本陣を移され、小田原の海へも、九鬼大隅守・加藤左馬助等を初めて船を入れ、北条肝要と頼みたる筥根を越えらる。昔より船の入りたる例なしと思ひたる磯際へは、船を漕寄せられ、大将其勇を失ひ、万卒力を落す。扨又、譜第随一の家老松田尾張守は、秀吉公へ堀久太郎まで、降を乞ひて内通す。此事、松田三男左馬助、氏直公に訴ふるに依つて、城中に於て松田切腹す。此陣、初中後まで、秀吉公微妙の智略・武略・計策。〈口伝。〉是に依つて、氏政公・氏直公、終に降を乞ひ城を渡さる。七月十日、家康公の衆本多中務少輔・井伊兵部少輔・榊原式部少輔、城を請取り、北条左京大夫氏政・同舎弟陸奥守氏照、医師安清軒が宅へ出でられ、同日の〔暁イ〕切腹なり。氏直は御宥免、高野山へ之を遣さる。北条美濃守・同左衛門大夫・松田左馬助・大道寺孫九郎等、供仕るなり。行々は西国にて、一州遣さるべしと、太閤御底意なりと、相聞ゆると雖も、天正二十年の冬極月、氏直疱瘡を病み、三十三歳にて御死去なり。

 
景勝卿・利家卿、関東へ出勢の事、佐藤一甫斎御成敗の事
 

オープンアクセス NDLJP:247上杉黄門景勝・羽柴黄門利家両大将は、関東北条持の城を、伐随へらるべしと、秀吉公より御掟、北陸道より出勢なり。是に依つて、景勝公御人数二万三千、御備定は、一の先手は、関東案内なれば藤田能登守、此相備佐藤一甫斎・甘数備後守・阿雅北衆・黒川相州・黒部・加志・松本竹の俣、藤田備三千八百なり。藤田自身の備、寄騎五十騎の頭、夏目舎人助に仰付けられ、五十貫の御加恩、其時までは軍八と申候へども、其名、若く聞え候とて、舎人助に之を為され、景勝公御座間まで、藤田能登守同道にて、長尾加賀守奏者にて召出され、御直に、右の通り仰付けらる、舎人助廿二歳の時なり。然る故、藤田備の内にての先を舎人仕り、増毛但馬守を添へ付けらるなり、舎人跡の小頭は、斉藤源太左衛門なり。村上源五国清儀、海津城代召上げられて以来、御勘気同前なるを、種々御詫言申上げられ、御免あり。此度、相備を付け給ひ、七手組の頭を仰付けられ、旗本共に八備となされ、備を定め調へ、秀吉公御指図を相待つ。二月十日、春日山を御立ち、十五日、信州海津城に著、爰にて羽柴筑前守利家よりの一左右を待ち給ふ所、同廿七日、利家同国望月まで出陣の由、是に依つて、景勝公も、同日海津を立ち、尼が淵へ懸り、小諸へ出で、追分まで上道十一二里の所を、二日に押し、廿八日に著陣なり。両手人馬を休め、三月朔日、景勝公、碓氷峠に陣城を構へ、三里押して斯くの如し。利家は景勝に一日下つて押し給ふなり。此両手の先をば、信州三組衆とて、真田・蘆田・小笠原、秀吉公より仰付けらるゝは、関東案内者故なり。

越後勢、信州植田を押通り候時、真田申付けたると見えて、本海道を、〔上〕田の町へ懸り通り候はゞ、景勝の憎を得る真田なれば、定めて下々狼藉致すべしと積つて、新道を本道の北の方に拵へ、本道には虎落を結び置き候。藤田、先手にて押し候故、某之を見て怒り申すは、真田が分として、景勝公を此虎落一重二重にて、妨ぐべきや。縦ひ、鉄を延べて籠めたりとも、我々向ひ候はゞ、などか踏殺さではあるべきなれども、秀吉公、種々御詫言故、景勝公、命を助け置かれ候。斯様の節、幸と存じ、其身は出陣仕るとも、留守居に申付け、御馳走を致すべき覚悟はなくて、一箇の細心に引合せ、此折節、仇を仕らるべきかと、景勝公を積るは、己が方より、弓矢の習ひにて行を仕るは格別、然れば本道を避けて、脇道へ懸るは弱味なりとて、真田方より拵へ置きたる柵木を引倒し、虎落を踏散らして、植田城下の本町を押通り、一人も新道へ懸る者なし。然るに、藤田相備佐藤一甫は、元来甲州家の者にて、真田と懇意、オープンアクセス NDLJP:248其上、真田が内に、一甫が壻あり。其故、真田を贔屓し、藤田を悪しく思ふ、是れ武士の正道を知らざる不吟味なり。藤田にも断らずして、城中、壻の所へ立寄り、罷帰る時、藤田が長柄持松井勘之允といふ者、長柄をば我が手替の中間に持たせ、陣具の為めとて、縄莚等を買ひ候て、通り候を、一甫見付け、松井狼藉を仕ると、詞を懸くる。松井答へて、何とて狼藉と仰せらるゝや。御掟を守り候へば、全く押買にては之なく候。殊に当地は、真田殿町にて候故、一入作法を乱すべからずと、藤田申付けられ候故、非義仕らず候。其証拠は、長柄目附の横貫作太夫断り候間、先にても御聞き候へ、売主も是に居候間、御尋ねあれと、理究を申し候へども、一甫聞入れずして、我が馬の口取の持ちたる鼻ねぢを以て、松井が頭を撃ち候。此者目を廻し候。相役の者共打寄り、其場にては取合はず、松井を青田に乗せ、追分の泊にて、藤田へ右の段々を訴ふ。藤田則ち直江と諸共に、景勝公の御前へ出で、涙を流し申上ぐるは、某体に御役儀を仰付けらるゝ故、軽く御座候て、相備の佐藤一甫、不義を仕り候。去りながら、上より備大将仰付けらるゝ上は、何事も某に相断り申べき所、脇寄仕り候は、某計りを軽しめ申すにあらず、屋形様を重んぜず候。是のみならず、某長柄の者、狼藉は仕らず、証人を立て買物仕り候儀を、一甫酒に酔ひたるか、己が威を、真田方の者に見せんとの分別にて仕り候や、散々打擲仕り候。其様子は、直江言上仕るべく候。佐藤事、武道不吟味、御後闇き者にて御座候。御成敗仰付けられず候はゞ、某自分に成敗申すべく候。斯様の者を、其儘にて差置かれ候はゞ、某組の面々は、申すに及ばず、他組の頭をも、其組々軽く存ずべく候。軽く存じては、下知を承はらず候て、御合戦御勝利御座なき儀なり。某申上げ、無理と思召され候はゞ、御扶持を放たるゝか、切腹仰付けられ候へと、申し捨てゝ、御前を罷立ち候。然る間、直江に仰付けられ、弥〻御吟味なされ候へば、一甫誤に相究り候故、一甫を御成敗に落著す。直江、即ち藤田と相談し、一甫が寄騎の小頭両人、抜井金助・小保方佐太夫を呼寄せ、佐藤が咎の様子を、能く申聞かせ、景勝公御立腹は、一甫御法度を背くのみならず、備頭の下知を請けずして、脇寄仕る事、此度、天下の御一戦に、他国へ御働なされ候に、斯様の不義仕り候。其上、罪なき藤田が槍持を、打擲仕り候は、武士道を知らず。縦ひ罪ありとも、傍輩我者をたゝかれ候はゞ、其主如何と存ずべきなり。まして罪なき者、藤田相備の者にたゝかれ、立腹すまじきや。藤田、大抵の者ならば、其事を聞くと其儘、佐藤に存分を申すべし。佐藤が組は、様子オープンアクセス NDLJP:249の合点もなく、我が組親に一味して、藤田に敵対仕り候はゞ、敵前にて中間取合を仕出し、天下の人口に乗るべきを、藤田堪忍仕り、御耳に達し候。扨又、佐藤に擲たれたる松井、目を廻さゞれば、堪忍仕るまじ。相役の傍輩も一味し、其場にて一甫に存分あるべき所に、本人目を廻し候故、傍輩も其通りに仕り、今晩の御泊まで参り候は、是も屋形様を重んじ候て、斯くの如し。藤田兼ねて能く申付けたる故なり。佐藤が所為、言語道断の悪事なれば、御成敗仰付けるゝ間、皆共申合せ、討つて出すべく候。佐藤は時の頭なり。厚恩の御主は、景勝公なり。御意を背き佐藤に与し仕り候はゞ、逆心同然なり。此所を合点致す事、尤もなり。合点仕るまじと存じ候はゞ、有体に只今申候へ、仰付けらるゝ様之ありと、抜井・小保方両人に、直江と御旗本奉行衆、申渡すに依つて、両人の小頭、異議に及ばず候に付きて、其組下にて覚ある者六人と、小頭両人と、八人に能く申含め、御陣所の広庭の脇に隠し置き、討手の検使は、御近習三浦次太夫之を承り、一甫斎を召に遣す。一甫急ぎ参り候所を、広庭にて成敗仕るなり。扨一甫跡の組をば、御旗本の関勘四郎といふ武功の人に御預け。但し藤田備へは、跡部勘内相加はる。右一甫斎組の者共、武士の吟味能く合点仕りたりとて、御褒美下さるゝを以て、諸人恐れ慎みて、其頭を貴み親み候。藤田、存分の如く仰付けらるゝ故、忝く存じ奉り候。松井勘之允には、路銀多く取らせ、暇を呉れ候なり。

 
真田安房守と、甘〔糟〕備後守出入の事
 
三月二日、景勝公、碓氷峠より二里押して、坂本に陣取り給ふ。利家は確氷峠へ押詰め給ふ。信州三組衆は、二日の夜明方、景勝公より一里先に押出す。此時、敵松枝城主大道寺駿河守、二千計りの人数を率ゐて、坂本まで出張し、北国勢を妨ぐべしとて相備ふる。然るを、信州三組衆の内、真田・蘆田は、一二の軍を持つて向ふに、小笠原は山手を廻つて、松枝敵の右手へ斬懸らんとす。敵之を見て、敗軍の旗色になる。景勝公、左様の程合を御考へ、藤田・安田両備を先へ遣さる。敵、此両手の旗先を見ると、其儘敗北す。信州三組衆、競ひ懸りて追ひ懸り、歩者少々踏殺させて引返す。藤田・安田は、其跡をくろめて、相備信州三組衆は、人数を繚め、坂本へ備を入れて、小高き山手を見立て、藤田・安田を窺ひ、越後衆の陣場に渡して、三組衆は坂本町に宿陣す。景勝公は、坂本の陣城に入り給ふなり。

オープンアクセス NDLJP:250藤田相備の甘〔糟〕備後守、小荷駄の牛放れ、真田陣所の馬草を食ひ候故、其牛を真田方へ奪ひ取る。備後守之を聞きて、藤田に断り、此牛を取返すべしと、之ある故、藤田方より、先づ其牛を取りたる者の方へ、使を遣し、此方小荷駄に付け候人歩、牛を取放し、其元の陣内へ参り候を、捕へ置き申さるゝ由に候。左様の事は、互に之ある者に候、返し申され候へと、藤田能登守申す由を、夏目舎人方より申遣す。其者の返事に、牛は此方へ参らず候。縦ひ参り候とても、其元の作法悪しくて、他陣へ参りたる牛なれば、取つて苦しからざる事に候間、返し申すまじきに、況んや此方へ参らず候と申越す故、甘〔糟、下同ジ〕いれて押入り、取返すべしと申すを、藤田、之を抑へて、真田方へ、右の段々を申遣され候へば、執成の者より返事に、安房守は散々虫気にて臥居り候。後程申聞すべしと申越す故、藤田も腹立し、牛一疋の事なれども、天下の大事なり。甘数、牛を奪はれては堪忍ならず。堪忍ならねば、押込みて取返すべし。其時は、真田返し兼ね申すべき間、真田を踏潰すより外之なく候。其所を分別せざる程の真田にては、之なく候へども、我々を浅く見ての事なるべし。此上は、某切腹に及ぶとも、是非なし、押入り取返すべしとて、組中へ相触れ候は、物頭・物奉行の外は、刀・脇差を初め、刄物は無用に仕り、棒を持ち候へとの事なり。此儀、景勝公の御耳に達し、藤田申分尤もなり、真田共に一人も残さず、敲殺し候へ、加勢を仰付けらるべく候へども、彼の体の者を殺すに、藤田、加勢を請けて、斯くの如しとあるも如何なり、藤田組中計りと仰出され候へども、士大将衆より、若者共を忍に差添ふる故、藤田備九千余、何れも素肌になり、刄者を止めて、棒二三本宛腰に差し、手にも持ちて、真田陣へ押寄する。然る所に、折境をりふし、佐野天徳寺、景勝公見廻として、坂本の町へ参らるゝを、真田、詫言を頼み候故、藤田へ御逢ひ候て申さるゝは、牛を取りたる本人、一人を成敗仕るべしと申す間、堪忍致され候へと申さる。藤田、同心申さず候故、先づ差向ふ人数を、何れもへ断り之を留められて、景勝公へ対面あつて、直に詫言申さる。景勝公、某、少しも存じたる事にては之なく候、定めて藤田覚悟たるべし。藤田へ仰せられ候へ。存ぜざる事なれば、某下知なり難く候と、仰せらるゝ故、天徳寺、又藤田へ申され、景勝公さへ、御存知なき儀なれば、堪忍仕られ給ひ候へと申さる。藤田申すは、此元は、甘数備後にて候間、備後に仰聞けらるべく候。某は備後次第、免も角もと申す故、甘数に仰せられ候所、甘数返答に、某切腹と存じ究めての儀に候へば、本人一人計りにての御詫言にオープンアクセス NDLJP:251ては、中々承引仕り難し。牛を取りたる本人の傍輩は、申すに及ばず、其主人と、又藤田方より、真田方へ使の時、虫気の返事を申越したる執次の者、是をも此方へ相渡し、真田是まで出で、降参を仕り候はゞ、斯程に存詰めたる儀に候へども、和尚様の御詫言と申し、又は事前にて候間、堪忍致すべく候と、日天を懸けて申切り候故、天徳寺、真田方へ越され、種々申繕はれ候へば、右三箇条の内、虫気の返事は、真田自身仕りたれば、仕るべき様なしと、天徳寺、又是は御詫言あり。残り二箇条は、甘数好み次第に任せ申すべしとの事故、藤田、達て甘数に申して、堪忍仕らせ候に付きて、天徳寺、其趣を真田に申聞けられ、彼の牛を牽かせて、牛取りたる科人主従八人、其内、本人には縄を懸け、残る七人をば、放囚人にして、刀・脇差を差させ、真田内の丸子同道にて、召連れ参り候。甘数、之を請取り申すべしと望みて、我が内の豊野伝左衛門・五十嵐十助などといふ覚の者、十人申付くる。藤田方よりは検使として、増毛但馬・夏目舎人罷出づる。両人、丸子と挨拶仕る内に、縄懸けたる本人をば、甘数小者伝吉といふ者に請取らせ、残る七人の放囚人をば、甘数衆請取に出づる時、七人の者共、一度に刀を抜きて切懸る内、彼の科人の主人は、増毛・夏目・丸子と対談の場へ切懸る。増毛老功なれば、其方を見向きもせず候所、夏目組の伊藤太左衛門立合ひ、此者に刄向ひ候へば、脇より彼の者を組留め候。其外、六人の放囚人の内、三人は即刻成敗し、三人は、豊野・五十嵐・上坂藤兵衛並に舎人組の者共組留め、主人共に四人生捕り候。次に藤田旗本に罷在る神保五左衛門、甘数へ色々申して、是も請取手に罷出で候。放囚人一人斬留め候。神保ともに味方十一人、真田方放囚人七人を請取りて、斯くの如くなり。扨天徳寺同道、真田安房守、半途まで降参に出で、藤田・甘数出会ひ、彼の生捕り置きたる五人を、安房守眼前にて、引張り成敗仕り、一礼して帰りて以後、科人八人の首を、真田陣前に獄門に梟け、札を添へ、真田方へ口上に、其方被官、仕置させ候間、梟置き候と断り候故、流石の真田に候へども、取捨つる事仕り得ず候。

右の神保五左衛門は、頃年迄、保科肥後守殿に罷在る神保隠岐守の事なり。父は、本城清七郎家老にて、とちうの城に籠り、御館の時、三郎殿方を仕り、御成敗に逢ひ候。逆心者の子なる故、五左衛門、本名を捨て、三条の甘数近江守内、伯父の名跡に為り、神保と名乗り候。其後、伯父男子を設け候故、五左衛門存念に、実子出来る上は、甥の某、跡を続ぐ事、本意にあらずとて、伯父惜み候へども、窂人仕り、天正十七年、藤田所へ罷出で候。三条に罷在る内、オープンアクセス NDLJP:252池の端滅却の時、能き敵を討ち候。其前天正十六年、佐渡へ御渡海の砌、甘数近江守人数安田上総組にて立ち候時、神保五左衛門も罷立ち、高名仕り、誉を顕はし候なり。

 
上州松枝城を囲む事宮崎の塞を攻取る事
 
第一、景勝公、利家公と仰談ぜらるゝは、秀吉公、未だ小田原御発向もなし。其相図を請けて、松枝城を攻むべし。今猶敵気盛なるに、深く働入りても、味方糧の運送不自由なるべし。何卒して、大道寺を降参させて、城を請取り、松枝を根城にし、糧の通路を自由にして、行末の利を得べし。然れば、此城を近く巻きては、城兵気を専にして降〔〈参脱カ〉〕すべし。先づ遠巻して、味方の大軍を示し、敵気を奪ひ、其にて行を為し然るべしと、御相談あつて、景勝公は、坂本より一里押して、城より一里余阻て、碓氷川を前に当て、二万五千を右の手に備ふ。加州の兵は、是も二万計り、左に備ふ。信州三組衆、合せて六千余は、浮勢となつて遥の左に相備ふ。総勢合せて五万余。此大軍を敵に見せ、大道寺方へ、両大将より使を立てゝ仰遣さるゝは、昨日坂本まで出張せらるゝ様子、尤も武道の本意、正に相見え候。早速其城取囲み、攻むべき儀に候へども、其方を卑むに似て、無礼にもあるべしと思ひ候。此迄の儀は、至極に存じ候。此上は降参致され、然るべく存じ候と仰遣さる。大道寺返事に、武士道降参は、是まで押詰められざる以前には、仕る事もあるべし。是迄引請け候上は、切腹と存じ究め候へば、近々と攻寄せられ、勝負の上にて、城を請取り候へとの返事なり。然る故、五日は斯くの如く遠巻なれども、又相談ありて、六日目、三月八日巳の刻より、松枝城を取囲まれ候。景勝公は、山手へ付きて大手安中曲輪へ向つて、西方を押され、加賀衆は搦手へ懸り、本丸の山先東の方を取囲み、信州三組衆は、北は合を取囲み、南一方をば態と明けて、其末に関を居ゑ置き、落人あらば之を捕へて、城中の様子を聞き、城へ加勢あらば、入るまじとの武略を以て、斯くの如きなり。然れば、秀吉公、小田原を御取巻以後、御使あつて、松枝より攻破るべしと、追々仰越さるゝと雖も、堅固の城地なり。雅攻に致さば、味方の人数も多く損ずべし。敵地なれば、攻取りても、後途の分別ある所なれば、城攻延引して、其内に或は放火、或は畠作こなしの働をも仕らず。〈口伝。〉然るに、同国簑輪内藤大和守・廏橋北城安芸守、〈丹後守の弟、〉此両城、北国勢の勇気に惧れて降参し、城を渡すなり。

オープンアクセス NDLJP:253猪俣能登守は、北条氏邦重恩の者にて、上州沼田城に罷在り候所、北国勢、碓氷峠を越えたると聞き、無勢にては城を守る事、なるまじく思ひ、沼田を明けて簑輪城へ参り候へども、城主内藤降参する故、猪俣は降らずして、武州の鉢形へ行くなり。是に依つて、沼田を、真田安房守嫡男伊豆守之を持つなり。

松山城主上田上野介は、小田原に籠り、家老山田伊賀・金子紀伊守・木呂子丹波・難波田因幡四人を、留守に残し置き候所、右は簑輪・廏橋両城の降を聞きて、是も城を渡す故、小笠原人数を以て請取るなり。

第二、小幡上総介・同播磨守昌高兄弟は、甲州家上野先方小幡尾張守の子なり。両人は小田原籠城なり。然れば、戸沢の入南もく西もくの谷を、根城に構へ、末の弟小幡彦三郎に、小幡帯刀・丹羽屋左衛門といふ両家老を、介副にして二百騎相添へ、小幡の内宮崎といふ所に、砦を築き楯籠らせ置き候。景勝公へ、藤田能登守之を伺ひ候は、此処より上道三里近くに、小幡庄三郎持の城あり。御勢大軍、眼前に此砦を見て、其儘差置き候事、如何なれば、先づ之を踏散らすべしと申す。景勝公、尤もと仰せらるゝ故、藤田相備ともに三千七百余、検使は木戸源斎之を遣され、二の見は、村上源五を申請け、三月十七日卯刻、宮崎の城へ押寄せ攻破り、放火致し候なり。此本は、小幡家老小幡帯刀は、元来沼田者にて、夏目舎人助旧緑なり。其故に、帯刀方へ、舎人内天野次左衛門を以て申遣す趣は、簑輪・廏橋、其外、城を渡し降参に付き、松枝・大道寺も、頃日無事の繕に候。景勝も利家も、其辺の小城などには、目を懸けられず候故、其城へ押寄せらるべき模様、今までは之なく候へども、当辺近日埓明き候はゞ、是より諸方へ押入り、相働かるべき筈に候。左候へば、其城を攻破り、根切り致さず候はゞ、兵糧運送の妨げになるべき間、先づ其へ押寄すべし。宮崎を肝要とし、根城南もく西もくの谷には、人数も少く、妻子人質計りの由、相聞き候へば、宮崎には二三頭抑を置き、彼の谷へ攻入り、悉く成敗致し候はゞ、宮崎の者も、人質のある内こそあれ。皆彦三郎殿に心を放すべし。其時宮崎を攻め破るべしと、此方内談に候間、其城の滅亡と存じ候。哀れ某を頼まれ候藤田能登方へ、降参然るべく候。左なくば、宮崎を捨てゝ、戸沢の入へ引籠り、節所を構へて、防がれ候はゞ、一往は持忍へらるべく候。某旧緑の筋目故、元の能き様にと存じ、濳に申入れ候。日限聞定め候はゞ、追て又申入るべく候、両条の返事相待ち候と、如何にも懇に使に申含め、オープンアクセス NDLJP:254書状を添へて之を遣し候。帯刀、則ち彦三郎へ申し候へば、彦三郎申すは、降参の儀は、思も寄らざる事なり。北条家へは近き幕下なれば、道理に依つて、叛きても苦しからざれども、両兄、此城を某に預け、小田原へ籠城す。其を捨てゝ、命を助かるは、主と兄へ二つの逆意なり。舎人より申越さるゝ如く、宮崎を捨て、戸沢の入へ引籠り、有無の一戦を遂ぐべし。其儀を頼み、返事申遣し候へとて、使天野次左衛門には、金子を与へ、舎人方へは刀一腰贈られ候。右の通り策調ひ、其夜子の刻計り、藤田打つて出で、宮崎辺に忍び居る。舎人助は夜明方に、戸沢川南西の方へ廻り、西の虎口へ帯刀を呼出し、俄に両大将相談にて、今卯刻、松枝より此城へ相働く事定なり。此事を知らせ申さん為めに、某忍びて参り候。早々御引取り候へと申す故、帯刀下知して、西の虎口より人数を出す。其様子を見て、藤田へ舎人告げ知する故、兼ねて相定むる如く、村上は、東方より宮崎へ攻寄する。藤田は南方へ廻り、退敵を追撃に仕るか、或は敵返して城を持ち候はゞ、村上は二の見を堅むる定なる故、村上相備衆を二手に分け、其内に、又別手の法を定めて、鬨を作り攻寄する。小幡衆弥〻周章騒ぎて、取る物も取敢ず、引払ひ逃散る故、村上源五、采拝を取つて之を攻め、終に宮崎を乗崩し火を懸くる。藤田は、下知して、逃ぐる敵を追懸くる。舎人助は、此計らひをなしたる儀なれば、増毛但馬に預け置きたる我が組子を招き寄せ、真先に進みて、宮崎坂口にて敵を追詰むる。其敵の内に、茜の羽折はをりを著、味方を下知して、殿する武者あるを乗付け、互に馬上にて名乗り懸け、鑓を組みて突落し、組子の沢田作左衛門に、首を取れと申し候へば、則ち作左衛門、上に乗懸つて首をすり落し候所を、甘数備後守手明の者、湯浅七右衛門走来りて、作左衛門を押倒し、其首を奪取り逃げ候を、舎人助乗付けて、湯浅が差物の絹を、少し切落し取置き、又組衆を下知し、南西を差して追討す。相備衆何れも斯くの如し。舎人助、又戸沢の川端にて、能き敵を切落し候へども、組衆は何れも隙なく働き候故、自身馬より下りて、首を取り候所へ、神保五左衛門来りて、一刀切り、舎人殿助けたるぞといふ。舎人いふ、突伏せて首を取り、其刀のみねを切り、死人に向つて、助けたるとは如何なり。首欲しくば取らするとて、首を抛ち候へば、神保聞きて、御免候へと申して、先へ行き、高名仕り帰りて、様々、舎人に詫言をし、沙汰なされ下さるなといひて、藤田所へ行き、右の段を直に申達し候故、藤田、則ち舎人を呼びて申さるゝは、神保事誤り候。御免候へと、其方へ対し申し候は、尤もなり。助けてオープンアクセス NDLJP:255なりとも、心緒に仕りたしと存ずる所なり。せはしき場なれば、敵の生死を見究めずして、助けたりと詞を懸けしも、左もあるべし。其方に死人なりと断られ、其儘合点致し、御免候へと申して先へ行き、首尾を合せ候事神妙なり。其上に、神保再三詫言をするは、恥を知るといひ、殊に武道の作法、御掟を守る斯くの如きなり。此上は堪忍仕り呉れられ候事、某本望なり。此儀、相撃といふにては全くなし。士の上、相討は比興千万なり。思合せて一度に敵を討ちたりとも、其敵に向ひ様、前後左右にても、強弱の戦功歴然なる故、相討とはいひ難し。其を我が心にて、面々決断し、理非を分けて身を謙る事こそ、武道の本意なれ。其を相討といふは、一方は飾士臆病者なれば、能く穿鑿して、見懲の為めに成敗致すべき事、大将の定法なり。其とは格別なりと申さる。舎人申すは、此儀神保にも申す如く、某却つて大慶に存ずる事なり。彼の敵を突留めての事にて候へばこそ、其通なれ。生きて居たる時にて候はゞ、如何程か神保が働、某への合力にて候はん。死にたる敵を見損じたるは、迫しき場なればさぞあらん。神保働、重々神妙の様子なるを、斯くの如く取はやし候事、某迷惑なりと申して、事相済むなり。甘数近江守、神保事を、切に藤田へ取成し、役に立つべき者なりと、申され候により、其眼力相違なき様に、取立てたしと思はれ候は、近江守を貴びての儀なり。

此時、神保に切込まれたる脇差は、刄なども打かけ、悉く損じ、役に立たず候へども、能き物なりと申伝へ候故、舎人助窂人仕り、関根に居候時まで、所持致し候。然るを、本田豊後守殿の親父越前殿、其時、白井在城なり。之を聞及び見られ候へば、相州正宗に疑なく候。身は役に立たず候へども、中ご計りも重宝なりとて、達つて所望之あり候に付き、神保、武道を稼ぐ心懸、強士なれば、右の様なる聊爾の詞あるべきにあらざれども、其時、藤田旗本に居候故、後れて来り候内、舎人は早や組頭なれども、能き敵二騎まで討ち候へば、神保、其を羨み上気になり、斯くの如しと相見え候。舎人に断られ、真勇の本性に返り、早く合点し御免候へと申し、先へ行きて手を塞ぎ候故、弥〻いれたる気落著き、ひたすら舎人に詫言し、藤田にも有体に申断るは、少しも麁相之ありては、武道の本意にあらずと、恥を知るは真の勇士なり。先年、武州江戸にても、切々対談数度、其事の初め万事物語仕り、能州の蔭貴しと涙を流し、共に袂を濡し候由、舎人話なり。

右宮崎表、藤田下知して、戸沢川までを追留と定めて、敵を追撃つ。村上は宮崎南西を初オープンアクセス NDLJP:256め、其辺を悉く放火す。是組中を二手に分け、其一手を以て斯くの如し。残る一手をば纏めて、藤田が二の見を守る跡より、静に押す。此様子見事なり。謙信公の威風香し。其より後、何れも人数を繚め、宮崎焼跡にて凱歌を行ひ、備を納む。景勝公御悦喜なり。羽柴利家卿も、景勝公へ御出の時、夏目舎人を召出され、御褒美御懇の様子、以後までも斯くの如し。

其時、小野寺刑部・石坂与五郎なども心緒仕り、舎人詞を交すなり。

湯浅七右衛門奪首仕り候に付きて、舎人助、我が組の沢田作左衛門を召され、甘数備後守所へ行き、御内の衆、奪首致し候間、其首を返され、急度仰付けられ然るべしと申す。備後守返答に、我等内、左様の比興者之あるまじき儀なり。然れども、穿鑿仕るべし。其方に其証拠ありやと申さる。舎人即ち沢田を呼出し、此者取り候首を、御内の者、白地に黒二引の差物差したる人、後より来り、沢田を押倒し、首を奪ひ申し候。其に証拠之あり候間、其差物共面々の名札を付けて、御出させ候へと申して取寄せ、彼の切りさきたる差物に、其切れを押当て見せ候故、紛るべき様之なく候を、此処にて備後、殊の外立腹し、斯様の臆病者を召仕ふは、某が不吟味なり。其を其儘置かば、諸人に悪事を教ふるなりとて、彼の者を召出し、手討にせんと申さるゝを、舎人之を制し止め、先づ藤田と御相談候へ、余の備までの為めなりとて、奪ひたる首を持たせて帰り、高名帳に付けさせ、藤田に申し候へば、頓て甘数を招き、相伴ひ、御本陣へ参り言上仕る。景勝公仰せらるゝは、士にても武道を知らざる者は、下人なり。士は本心の臓より思案工夫して、分別するものなる故、科あれば切腹申付くる。下人は首本にて思案する故、締なく、落付きたる分別なし。此故に科あれば首を切る。女人は鼻先き計りの智故、科あればはなきる事、古来よりの掟なり。其者は、下人同前臆病を働く。諸人見懲の為めなれば、縄を付け陣中を引渡し、首を切り梟に懸け、札を添へ首を曝し置き候へと、仰出さゝを以て、斯くの如く仕るなり。

此湯浅七左衛門と申すもの、甘数備後守被官なり。今度、於宮崎表、夏目舎人助、敵をつきおとし、組子の沢田作左衛門に、首をとらする処を、湯浅うばひ取り候事、大臆病之働、筆につくしがたし。其とがにより、如御掟申付候。湯浅子々孫々は不申、至于先祖之悪名遁者也。仍如件。

    天正十八年三月十八日 ​奉行​​  甘数備後守​

オープンアクセス NDLJP:257斯くの如き札を添へ、七日まで路に曝すなり。加賀衆も一入、上杉家弓矢の法を恥ぢ候なり。

 
永井右衛門三つの山本意の事
 

永井右衛門太夫は、甲州家上州先方永井豊前守舎弟なり。豊後守死して後、甲州滅亡し、其後、謙信公も御逝去あつて、上州へ属し、北条家の時、此右衛門、意地を立て、北条家へ敵対す。されども後楯なく、終に押倒されて窂人す。兄豊前守は、藤田能登守伯母壻なるを以て、前田を頼み、去る天正十三年六月、越後へ来る。依つて景勝公へ申上げ、我が備をかして預り居候。幸此度、本意の好時節なりと、藤田思ひて、三ッ山の地下人共方へ計策す。信濃・上野国風、賤民まで其筋目を存じ、譜第の主なりとて一味仕り、申越し候は、今程近辺に平豊後守とて、北条家の士卒に揆場を築き、五百余の小勢にて罷在り。其外は、さのみ手に立つ者之なし。片時も早く御働き、右衛門太夫殿、御本意をさせ参らせられ候へと申越す。是に依つて、三月廿五日申刻、藤田能登守一備、松枝を立つて、夜中に三ッ山まで、八里計りの道なれば、其夜寅刻、平の近くまで著き、人馬を休む。地下人共、前方より待請けて案内し、明くる廿六日辰刻前に、平を取巻く。俄の事なれば、豊後守より、北条氏邦へ加勢を乞ふ事もならず、小勢を以て、藤田に楯つく事なるまじと存じ、子の一郎を、早々人質に出して降参す。藤田、之を許し、平を巻解し、三ッ山へ引取る。三ッ山城は、氏邦破却の跡の地なるを、藤田縄張をし、普請を申付くる。昔より永井領地の所の者は、いふに及ばず、近辺の者共までも悦びて、右衛門太夫を渇仰する故、地下士共打寄つて、早や百騎士大将になる事、藤田蔭にて斯くの如し。然るに、右の平豊後守、敵の威に恐れ、力及ばず降参仕ると雖も、譜第の主氏邦を捨て、故もなく藤田に降参する事、本意にあらずと思ひて、氏邦へ申通じけるは、藤田能登守、当地へ押入り、永井右衛門を本意致させ候。某思設けず、其上無勢に候へば、一旦の命を助かり、後忠を抽んづべき為めに、敵に降じ候。敵の様子を見候に、藤田人数漸く三千余、四千足らずと相見え候。殊更永陣に疲れたる者共なり。永井右衛門にも、七八十騎附添ひ候へども、是は地下士共にて、強みの方へと便る族に候へば、手に立つ事にてなし。然れば御人数を率ゐて、御働きなされ候はゞ、三ッ山城も未だ出来ず候へば、出張して一戦を結ぶべきオープンアクセス NDLJP:258は必定なり。某、藤田備の内にて、裏切仕り、跡先より之を撃ち候はゞ、勝利を得べき事疑なし。先年、藤田、沼田城へ勝頼を引入れ、城を渡し、御内の能き者共を、多く討死致させ候事、其遺恨を散ぜらるべきも、此時に候と申入る。氏邦、願ふ所の幸なりと悦び、来る四日は吉日なり、相働くべしとて、七千人数の備の首尾内談なり。然るに、氏邦の近習志津帯刀と申す者は、元来藤田被官筋の者なる故、右の密計を申知らするに依つて、四月朔日、藤田より甘数備後守へ申渡され、三ツ山城取の様子、平の豊後に談合致すべしとて呼寄せらる。豊後異議なく、甘数同道にて、二一ツ山の藤田小屋へ来る。此討手、初太刀は神保五左衛門、二の太刀は夏目舎人、藤田前にて仕るべきなり。若し仕損じ候はゞ、藤田と甘数と仕るべしとの内意、次の間中老の頼もしき士四人助太刀に定められ、近習児小姓共には、其儀を申聞けられず、唯相詰め罷在るべしと計り申さる。此用意は、豊後武功、殊に太刀剛強の士なる故なり。其討様は、盃を出し、平に藤田詞を懸け候時、初太刀を打てとの相図なり。豊後程の者をきたなびれて、庭中或は座席の隅などにて、だまして切るは如何。其上、内の者共をも宿へ帰すべき為めなりとて、斯くの如きなり。扨豊後守来りて、座敷へ通り候と、今晩是にて料理給はり候間、帰り候て認致し、迎に参り候へとて、内の者を帰す。座敷にて、藤田・甘数・豊後対談の上、盃を出す。酌取は舎人、肴は神保持ちて出で、其座敷の内を見繕ひ、跪いて居る。藤田呑みて平に差す。平頂き候時、藤田申すは、其方事、氏邦へ内通の由、慥に申来る。虚か実か、有体に申され候へと申す。平、盃を下に置き、其申分仕るべき体なる所を、舎人、銚子を平に投げ付けて、初太刀を打ち、神保は二の太刀を打つ。是れ神保油断にては之なく候へども、肴を持ち居る故、舎人より少し遠く罷在るを以て、斯くの如し。然れば次の間に居り候助太刀に及ばず、両人、二太刀にて切留むる。豊後も剛士なる故、舎人に頭を割られながら、脇差を抜き、舎人には構はず、藤田を目懸けて、手裏剣に打ち、我が右の方に居たる甘数へ飛付かんとする所を、神保、二の太刀にて切留むる。危きかな。藤田跪いて居たる膝際へ、豊後が投げたる脇差五寸計り、裏を返して立ちたり。此儀に付きて、藤田、舎人へ申聞けらるゝは、今度の働、能登守を軽んじたる仕形なり。我等、存念ありて、神保に初太刀を申付くる所、其方、一度も事に逢はざる忰の如く勇み過ぎ、静まらずして、申付けぬ初太刀を打つ事、武道の本意にあらず。神保、少し座敷遠けれども、我等申付けたる事なれば、誰あつてオープンアクセス NDLJP:259か神保を越えて、初太刀を打たん。豊後言分を仕るべしと存じ、唯今、成敗に逢ふべしとは、存じ寄るまじき所を、初太刀を打ちたる儀、手柄にてもあるまじ。結句、其方に討たれて、豊後、気の付きたる所を打ちたる神保は、二の太刀なれども、初太刀よりは手上なるべし。所詮申渡を背きたる科を以て、神保初太刀なりと、御耳に達すべしと申されて、斯くの如く披露あり。〈口伝。〉去れども、褒美物は神保には豊後が刀一腰、舎人には豊後が脇差に、豊後鹿毛といふ関東に聞ゆる程の名馬を添へて給ひ候。此様子、越後家の古き侍にて、存生の落合清右衛門・石坂与五郎など能く存知候。右豊後を成敗して、藤田相備の竹の俣・松本両手に、跡部甚内を差添へ、平へ遣し、豊後守、不義に依つて成敗申付け候間、奉公の望あらば、何方へも罷出で候へ。又他国へ参り候はゞ、早々立退き候へと申渡す。平の者共、過半は永井右衛門被官筋目の者共なれば、大方は右衛門太夫に属す。其外、昨今の新参者は、思々に立退き候。二三十人、豊後譜第の者共なれども、何れも思々の様子を見、心弱く、是等も一つに立退き候内、平主殿といふ者一人と、外三人申合せ、我々を初め、譜第重恩の者も、之あり候へども頼み難きは人の心にて、散々になり候。此者共、人たる心を持ちたる奴原ならば、踏止つて、豊後跡をもくろめ、ならざるまでも、一矢射出し申すべく候へども、此体になり果て候へば、我々四人、働きでも無益とて、切腹仕るなり。誠の武士なり。右の通、平豊後守が内通露れ、成敗に逢ひ候由、氏邦聞きててだて相違し、又如何なる事かあらんやと思ひて、三ッ山への働止むるなり。

豊後守人質一郎は、藤田に御預け置き、関東陣以後、景勝公召出され、仰渡さるゝは、父豊後守、藤田成敗致したる者なれども、古主氏邦へ、変心せざる所は、武士の本道なり。北条家は絶え果てたり。父孝養の為めに、助け置かれ候間、古を忘れ某に対し、忠勤仕候へと仰出さる。一郎有難く存じ奉り候。越国他国ともに伝聞きて感じ奉るなり。去りながら三年目、病死して絶ゆるなり。

権現様、関東御入国の時、永井右衛門儀、藤田能登守より、直江山城守を頼み、直江より榊原式部大輔へ申遣し、榊原執持を以て、権現様へ召出され、永井右衛門、上州三ッ山相違なく下され候なり。
オープンアクセス NDLJP:260
 
松枝城主大道寺駿河寺降を乞ひ開城の事
 

秀吉公、筥根山中城を攻破り、四月二日より小田原を取巻き給ふ由、北国両大将聞き給ひ、相談し、松枝城主大道寺駿河守方へ、申入れらるゝは、持堅めらるべき城と存ぜられ候はゞ、早速攻破るべく候。降参仕らるべきならば、相談せしむべく候。急度分別、返事申越さるべく候と申入る。大道寺駿河守・同子息新八郎、免角叶ふまじと思ひ、恐る詫言仕り、一身の事は是非なし。諸人を助けたく存じ候間、城を渡し申すべく候。下々相違なき様と返答ある故、四月五日、城を請取るなり。簑輪・沼田・厩橋並にをな淵は勿論、其外の城々、悉く相渡して降参するもあり、明けて退散するもあり。去るに依つて、簑輪には蘆田、沼田には真田、厩橋には加賀衆の中川武蔵を差置き、残る城にも、人数を籠むるもあり、破却するもあり。同月九日、大道寺を先手とし、武州鉢形へ取寄する。上州三ッ山の城普請も成就故、永井刑部・落地左近に五十騎差添へ残し、右衛門太夫をば同道、藤田能登守三ッ山を立ち、きべ河原まで押出し、景勝公の御備を待請け、其より先へ押行くなり。上杉家の備は、松枝より上道八里程彼方あなた、鉢形より四里計り此方、奈摩山に陣取り候。加賀衆は荒川を前に当て、鉢形の五里計り此方、八王子をば左に見て、其間の原に陣取るなり。両家の人数、鉢形・八王子を遠巻の如くにして、小田原後攻なと仕り候はゞ、其跡より城を攻取るべき様子を見せて、斯くの如し。〈口伝。〉

右奈摩山近所八幡山、昔は雉が岡といふ。是は舎人助四代先、夏目豊後守定基在城、其子定盛が代になりて、相州長尾居城の後、鉢形領となる。〈前に之を書記す。〉故に鉢形城主氏邦より、横路左近将監に預け給ふ。但し小田原陣の砌は、八幡山城をば掃捨て、氏邦と一所に鉢形に籠る。此左近は、氏邦の御座をなしたる者なり。

 
管窺武鑑下之上第七巻 舎諺集
 
 

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