管窺武鑑/下之上第七巻
一、柴田城并池端城陥る事 二、北佐渡主降参、南佐渡主逆心、景勝公渡海し屢平均の事 三、景勝公へ佐竹より頼み来り候に付きて、会津へ有手を遣し所々御手に入れらるゝ事 四、本城越前守重長羽州庄内を伐治る事 五、景勝公上洛の事 六、秀吉公北条氏と矛盾の事 七、秀吉公小田原御征伐の事 八、景勝卿・利家卿関東へ出軍の事附佐藤一甫斎成敗の事 九、甘数備後守真田安房守と出入の事 十、上州松枝城を囲む事附宮崎塞攻めの事 十一、永井右衛門三山本意の事 十二、松枝城主大道寺駿河守降を乞ひ開城の事
【 NDLJP:209】管窺武鑑下之上第七巻 舎諺集 柴田城并池端城陥る事
第一、十月廿三日、伊地峯城攻落され、翌廿四日、景勝公、柴田へ取詰められ、直江を前備に用ひ、柴田南方に御旗を立てられ、泉沢河内守は、池端より後攻を抑へ、残の士大将、各〻城を囲む。
附竹束仕寄を繰り、城際一二町近く取詰むる。藤田能登守は、南方大手猿橋口より取寄する。然るに、此口を堅めたる柴田家老猿橋和泉守変心、直江方へ矢文を藤田備へ射入る。其様子は、我々の命を助けられ、唯今迄の領地、異議なく下さるゝに於ては、此口より御人数を引入れ申すべく候との状にて、奥に牛王を接ぎ、誓詞を書す。直江・藤田、景勝公へ之を伺ひ、尤もなりとの返翰を遣す。是に依つて、城総攻明廿五日、刻限は御下知次第に仕るべしと、之を相触れらる。時に宇野民部少輔申上ぐる。廿五日は亡身日なり。攻㆑城不㆑抜、挑㆑戦不㆑勝、還亡㆓其身㆒と申して、大悪日なり。廿六日然るべしと申上ぐる。諸人之を聞いて、詞には出さずと雖も、廿五日の城攻如何なりと、心に怪しく思ふは尤もなり。さなくてさへ、陣中色色の雑説多く、敵の善事をいひ、味方の悪しき沙汰を申すものなり。さる故、謙信公の仰出に、陣中にて雑説あらば、其元を穿鑿すべし。いひ出す者一人あるべし。縦ひ士にても、事を巧にして申出すは、武道を知らざる売僧の偽者なれば、青葉者と同じ□□べき所、縛首の罪科、又聞いて申さゞる者は、御褒美なさるべしとの令法なれば、今とても陣中雑説は、曽て之なく候へども、名誉の軍配者宇野民部、斯くの如く申すに依つて、之を伝聞き、下々心に危ぶむべきなりと、景勝公、察し思召して仰せらるゝは、亡身日は、徹其身を亡し、我が為めに大吉日なれども、諸人、此理に徹せざる時は疑あるべし。我が家に、大秘伝の神呪あり。之を唱ふれば、疑惑を除き、悪、変じて吉となり、禍、却つて福となる。之を教ふべし。陰道陽道と云々、之を七遍宛唱へよと仰触れらる。之を聞いて、正道を思ふ者は尤もと得道し、理を知らざる者は、あり難き事とのみ思うて勇み競ふなり。【 NDLJP:210】〈附、宇野民部は、謙信公御代よりの軍配者鴻松軒の事なり。若年より酒肉女犯を絶ち、軍配を家老の益田新右衛門を取立て、法を残らず伝授す。此新右衛門は、越後にて又隠なき金瘡の上手にて、景勝公へも御目見仕る。新右衛門男子なき故、頃年まで上杉家に罷在り、益田民部を壻名跡に仕り、又法を伝ふ。後に景勝公召出さろゝなり。右の鴻松軒、景勝公達て仰せらるゝ故、精進を略し、半俗の体になりてより、若名を呼びて、民部少輔ともいふ。尤も鴻松軒とも申すなり。謙信公御代より、鴻松軒と宇佐美と、両武者奉行仰付けられたる武逹の名人なり。〉
第二、廿五日、昼は攻めずして、其夜半に至りて、安田上総守、攻口搦手の方より押寄せ、一の城戸の町屋へ、火を懸けて攻懸る。柴田因幡守、自身搦手へ出でて之を防ぐ。其帰を討つべしとて、内通の猿橋和泉意得にて、相図の火を立つるを以て、藤田、南大手より攻懸る。然れども、念を入るゝは、敵、詐偽る事もやとて、相備衆の内より、長柄の者を選出すこと、六百本、此奉行士十二騎並に手明衆をば、小奉行に差副へて、猿橋口へ押向け、藤田旗本相備衆ともに猿橋西の曲輪へ向ふ。是依㆑利制㆑変妙用也。然るに、右長柄の隊を、敵見て門を開きて、味方を入る。過半打入ると、其儘、兼ねて藤田申付けし如く、長柄先に炬、或は小挑灯を結付け、之を差上げて、同時に
附真田家の矢沢但馬守、藤田相備故、舎人助様子始終見定め、詞を交はされ候。
第三、藤田衆相備迄の働一番なり。藤田備より先に、本城へ乗りたる者一人もなし。殊に剛敵防戦、屏越の攻合、一度其を押破られ、土手下に忍へて一度、其後広庭にて一度、縁の上下にて一度、其剛敵に向つて、殊に勝利なり。此時、人を討ちたるは約敷場所なれば、縦ひ、青葉者、前髪ある小童の首を取りたりとも、皆誉なりと、景勝公、御詮議あつて御褒美なり。敵奴僕下臈にても、末期迄変心せず、主の因幡を見届け、剛強の働仕るを討取りたり。其外の備は、藤田、広庭の攻合の時乗入る。敵も戦に疲れて、主の旗本を気遣ひ、持口を捨てゝ逃入るなれば、其を討ちたるは、追首なりとの御吟味なり。【 NDLJP:214】附柴田因幡守妹壻色部修理は、藤田相備なり。因幡守、城に火を懸け候時、焰消を積み置き、其に火を付け、我が身も兼々焼死すべしとの分別なりしが、鎧著ながら斯くの如き故か、半身焼けて死なず、匐ひ出でて、色部が備を志し、色部、首を取れと呼ばはる故、走り寄りて、我が家老の色部右衛門佐に首を打たせ、修理持参して、景勝公の実検に入る。剛強武功の因幡守、死際斯くの如くに見苦しき事なるが、譜第の主君に逆心天殛なりと、見る人聞く人、之を惧れざるはなし。総手へ討取る首数二百八十余、首帳を認め、同日未刻、外廓に於て凱歌の儀式を執行せらるゝなり。
附柴田本城に居たる者は、大方残らず討死なり。外廓に居たる者共は、猿橋和泉、此方御勢を引入れ候時、過半降参なり。赤箕輪の差物にて、武勇を顕したる劒持市兵衛も、小倉伊勢守を頼み助かり、伊勢守子小倉喜八郎代迄罷在候。
第四、同日申刻、柴田より直に池端へ押寄せて、鴨之助を成敗仕り候へとて、藤田・安田・小倉三頭に、下条采女を差添へ遣はされ候。右の各〻押向ふ時、池ノ端の城に、心変の衆出来て、城内二口に分れて相戦ふの由、途中へ註進故、味方弥〻急いで城近く取詰むる。鴨之助は、本丸の矢蔵の上に上り、敵の寄来るを見積り、本丸の虎口を開き、三十騎計りにて突いて出で、二の丸に居たる中間取合の者共を追散らして、城外へ討つて出で、越後家の備へ、真一文字に馬を乗入れ、悉く蹴立つる。暮合の事なれば、鴨之助一人、其行方知れず。天晴剛強の勇士、能く切脱けたりと、人々之を称美す。三十騎計りの敵十八騎、下条采女手にて討留むる。此手にて強く攻合ひ候は、藤田・安田・小倉三備は、柴田にて骨を折り候とて、下条近辺なれば、三条・甘数〔糟〕人数をも合せて、采女召連れ、新手といひ先手に向ひ候故、斯くの如し。其次、藤田手先にて、五人切留むる。敵労れ手負も之ある故、差して乱火の如く疾く働かず、残る七騎計りは切抜く。大に手柄の敵共なり。
第五、池ノ端の城を取つて、早速柴田御陣所へ註進仕る。則ち安田上総を、池ノ端城に差置かれ、追付に掃捨て、伊地峯城をば、下条采女に下され、此時、駿河守になされ、下条の地をば、采女舎弟安田筑前守に御加恩に下され、柴田城をば、小倉伊勢守に之を下さる。
同晦日、景勝公、柴田を御立あつて、春日山へ御帰陣なされて後、今度の働、上中下の御吟味、大小・上下・親疎の隔なく、賞罰明正なり。藤田能登守には、御褒美として椿沢領九百貫拝領【 NDLJP:215】なり。
附怪異あり。小倉伊勢守夢に、柴田因幡守、例の装束にて、常に好みし染月毛といふ名馬に乗来りて、小倉伊勢守に詞を替し、太刀打すると見てより、頓て煩付き、明春死去なり。伊勢守子喜八郎には、河田軍兵衛諸志多田に於て、父伊勢守跡目相違なく之を下され、柴田城をば、宮崎三河守に下され候所に、是も伊勢守が如くに、夢を見て死す。其跡を佐藤平左衛門に下され候処、又同前に夢を見て死する事、三年の内に、三人斯くの如し。其後、山岸右衛門が父宮少輔に下さる。宮内、老巧の人にて、本丸に禿倉を建て、柴田堂と号し之を勧請す。
宮内は二の廓に居住なり。其故か、其後怪しき事なし。実理の理幽妙の妙不識〔思議カ〕。 附柴田にて返忠仕りたる猿橋和泉をば、直江山城に之を預けられ、其後、景勝公御側にて召仕はれたる小扈従猿橋源三郎は、和泉が子なり。次に伊地峯にて、道寿斎を討ちたる羽黒権太夫・河瀬次太夫・渋谷八郎右衛門・同彦助をば、下条駿河守に之を預けらる。何れも御褒美多く下し置かれ、仰渡さるゝ品々なり。
北佐渡主降参、南佐渡主逆心、景勝公、佐州御渡海平均に属する事第一、去申年、北佐渡主柴田一味、南佐渡主景勝公へ一味、御軍代として、藤田能登守、南佐渡へ渡海して、数度北佐渡へ取懸り、殊に北佐渡持の吉井城をも攻取り、塩を付置く事、前に之を記す。然れば、去年、柴田滅亡なり。景勝公、御渡海ならば、北佐渡滅却たるべし。其期に及んで、降参せんよりは、御旗の向はざる前に、詫言を仕るべしと、内々思案の折節、南佐渡主、会津の盛馬に
第二、藤田能登守・安田上総介・須田右衛門尉三組の士大将、合せて六千余、翌七日に、出雲崎を出帆し、南佐渡を右に当て西方へ押廻し、沢根湊へ著く。是は北佐渡自然詐偽にて、大石・長尾等へ一戦を仕懸くる事あらば、手脆く負くる事はあるまじと雖も、猶用心の為めに、三将を遣はるされば、佐渡の者共思寄らず、西方より大勢押上り、切懸り候はゞ、全く勝利を得べしとの儀にて、斯くの如くなり。就中藤田能登守相備は、垣崎弥次郎・新津丹波・斎藤三郎右衛門・松本左馬助・色部修理・黒川左馬助・甘数〔糟〕備後、検使には村松応閑斎を差添へられ、先手を仕り、万事指引能登守次第と仰付けらるゝ事は、先年渡海仕り案内なり。又先年、一敵に塩を付けたる能登なれば、旗先を見ば、敵の心怯るべし。又先年、敵の武備の格・敵の軍令等能く知るなれば、味方の擬作
附翌七日、藤田所へ、安田上総来りて、夏目舎人・斎藤源太左衛門に感状を出す。是は景勝公言上仕り、其内の験なりとて斯くの如し。
第三、景勝公、六月十日、沢根の湊へ御著岸、先衆の取敷きたる陣城に、御旗を立てらるゝなり。直江・泉沢・島津・小倉喜八郎、〈父伊勢守時の組衆過牛之々なる持つ、〉景勝公御渡海と聞いて、吉井主、初の働にさへ手懲りければ、之を惧れ、早々城を開き、羽持へ逃行くなり。十一日・十二日は御休息、十三・【 NDLJP:218】十四両日、河原田佐渡守を初め、北佐渡衆御礼申上ぐる。十六日、南佐渡御退治あるべしと相究めらる。然る所に、越国御留守大将代甘数近江守より、奇異の註進あり。去十三日暮方、毘沙門夥しく鳴動して後、五尺廻程なる光物一つ飛出づる。其迹より大小五六千の光物列続して、佐渡の方へ飛行く。越国の諸人、慥に見申し候。是は定めて、謙信公御遺言の如く、弓箭神と成り給ひ、光を輝し加護あるべき事明著なり。今般全く御勝利疑なしと、下民に至る迄喜悦謳歌するとの義の事、広く申上ぐる故、敵味方ともに知らざるなし。此事〈口伝。〉御備定首尾して、十六日辰刻、一の先藤田能登守、二の見安田上総介、相備の外藤田には須田、安田には島津を組合はされ、唯二備と用ふる。其一備といふ手数は、九正九奇、二九十八変にして、終つて又始まる。環の如く端なし。其外は、総じて御旗本組と、手分手配合して一備、越後家以上三備、三段作法は定つて、様子は変らず、旗本と号する其備に、三々の九法、三々の六令とする武備、秘訣深理なり。北佐渡勢をば、味方の右際に間を隔てゝ、是も唯一備にす。越後流見せ備なり。見せ備といふにも口伝あり。然るに、敵、羽持の本間三河守は、沢田の太郎左衛門・吉岡の右近に、先手をさせて一戦を持ち、鴻ノ川を前に当て、河端の宛を残らず備を立設くる。藤田能登守、工夫下知するは、小国の敵、今度の様なる大軍に対する事、十五箇年以来あるまじ。さあれば、先づ敵の一気を奪ふべしとて、藤田相備ともに五百余挺の鉄炮を、一度に放さする。前方より相談の定ありてや、安田備も御旗本組よりも、悉く鉄炮を打立つる。其鉄炮の音。〈口伝。〉扨又、藤田内の江波治部左衛門、川端五六間近くへ乗寄せ、横切り一返乗つて、蹄跡に足軽を立つる。残の足軽大将も、麾幣を取り馬蹄に足軽を立て、又一度に鉄炮を放つ。其作法。〈猶口伝。〉玆に依つて、敵、弥〻折癱され、周章騒ぎ、馬上の者は、飛んで下りて馬の側に隠れ、歩立の士卒は、下に跪き頭を使し、槍を拳ることを忘れ、弓鉄炮を放ち得ずして楯裏へ集る様子なれば、備実なく旗正を乱る。是は先年、謙信公御渡海あつて、伐随ひ給ひてより、余国より手を指す事ならず、数代弓矢を取り、剛猛なる国風なれども、離島の小国にて、大軍との一戦、近年之なき故を以てなり。敵の旗色・備の様子を見て、夏目舎人助、其日、藤田備の先手番なる故、我が組廿五騎を将ゐ、一番に河へ乗入る。敵、最前勇気を取奪はると雖も、剛強の佐渡士なれば、励み防ぎ戦ふ。舎人、武備変用前後左右段々の定、上中下三一、又三に九つ、九一の法一得一棄、雲龍の備、雲は形なく龍は質あり。是敵味方の剛柔多少、自【 NDLJP:219】国他国の異るに依つて、其変ありと雖も、其常は全く定まる。川越の一戦、攻守の理、復々相合ふ。爰に至りて妙用妙含、武備の大極意あり。此実理の備を以て、景勝公御下知にて、多勢残らず川を渡し、突いて懸る。其鋭気に拉がれ、敵一町程引退くとは雖も、押付をば見せずして、攻合ながら退く。舎人助、岸向へ真先に乗上りたる時、敵と槍組み、馬上にて突伏せたるを、甘数〔糟〕備後守小扈従猪熊求馬続いて来り、此首は我に下され候へ。貴殿は数度の事なりといふ。舎人、尤もといふ故、求馬此首を取らんとする所、其場約しくして、敵之を捕らせじと、大勢斬懸るを、三人迄手を負はせて之を追払ひ、難なく其首を取つて、舎人と伊古田主計とに断り、先を心懸け候間、鼻を欠くとて之を欠き候。求馬、左の眉先一箇所薄手を負ひ候。後に見れば、甲に二所、其外所々具足に三所、剪疵・槍疵の痕あり。裏へは徹らざるなり。敵、三人の手負をば、藤田衆続いて、其場にて之を討取り候。
附猪熊、働の儀に付て、後先知らずの若者共、猪熊が、景勝公より御褒美頂戴仕りたるを嫉み、猪熊手柄箇間しく、屋形より御目見の儀は、夏目舎人に乞受けたる首の故なり。自身の働はなりかね、追散らしたる敵を、討つ事さへならざる臆病者なりと、悪しく沙汰するを、横目目付中、其沙汰する者を能く聞届けて、御聞に達す。景勝公以の外御立腹なされ、横目目付中を以て仰出さるゝは、夏目舎人に、猪熊求馬首を貫ひたる儀は、其隠なし。求馬忰にて、未だ事にも逢はざる者なれば、首珍しく存じ、貰ひたるは尤もなり。舎人助、一番に人を討ち、未だ馬より下りて、其首を取らざる内に、早く求馬駆付けたる故にこそ、首をば所望したれ。二番に進み、三番とは後れず、随分稼ぎたり。舎人追首を取らせたる故、求馬其場にて、自身敵をば討たざるなり。彼の首を与ふまじと申すとも、三番と後れざる若武者人突伏せたる首を、所望する心にては、必ず高名すべし。縦ひ、高名をせずとも、彼の貰首を取るに、其場迫しく、其身も数箇所手疵を蒙り、剰へ、敵三人迄手を負はせ、漸く首を取り候へば、其働莫大の強なり。又猪熊、追首を討取らざる儀、是は時の拍子合といひて、剛憶の批判には入らざる事なり。総じて武士の働は、首数には依らず、其場約しき所を穿鑿して、其志の強弱を吟味する儀なり。追首取らずとて、猪熊独り高名ならずと申すは、
一戦の様子は、右の如く藤田先衆取鎖つて、敵を一町程追立つる時、藤田相備垣崎弥次郎・甘数備後・松本左馬助・黒川左馬助・色部修理、何れも戦功を励む。就中松本・甘数自身手を砕き、疵を被つて高名をす。斯くの如きを以て、敵愈〻混乱す。安田上総介は、敵味方の一戦を、右に見て河上を渡し、羽持三河守が旗本に向ふ。藤田先衆に向ひたる魁敵、之を見て、我が旗本へ、敵の懸ると思ふと、備愈〻騒ぐなる故、藤田先衆益〻競ひ、勝に乗じ入替り〳〵之を打つ所、藤田に組合はれたる須田右衛門尉相備七手自身の隊ともに、九手を段々に手組み手分けして、横筋違に入立つるを以て、敵散り靡くなり。羽持三河守は、先の負色に、少しも憶せず、安田が懸り来るを屑しともせず、旗本を五手に作り、下敷きて之を待ち、
総解蘊累の備なれば、彼は薄く我は厚し。此故に敵大に敗北し、味方勝利を全うす。是に於て、藤田は逃る敵を、安田・島津に相渡して、我が備を押纏め、先手の人数の跡に続く。然れば藤田が先衆の斬崩したる敵は、吉岡城へ逃入る。之を追行く時、夏目舎人〔〈我が脱カ〉〕組を下知し、真先に進んで、吉岡城丸戸張衡門の内迄附入り、自身敵一騎突伏せて、被官に首を取ら【 NDLJP:221】せ、組の者迄高名さする。味方何れも差続き、丸外〔戸イ〕張の一構は、手もなく之を乗取る。藤田備へ、時の検使として、萩田主馬来つて、右の様子段々能く見届け、之を言上す。丸戸張の内、舎人が左方に、主馬居て敵を討ち、舎人と詞を替はし候。然れば藤田能登守続いて来り、備を設け、各〻甚だ骨折り候へども、此競に乗じ乗破るべし。一息休めて下知を相待たれ候へと、使武者を以て、手毎に申渡す故、三方より堅く取巻き、搦手一方をば之を闕きて、其先へ人数を廻し之を
附此一戦の時、佐渡先方の備、同じく人数の用様口伝あり。喩へて曰はば、両頭耆婆鳥如㆓羽翼㆒。又いふ、棄不放㆑拳不㆑採、左右離相佐、前後救胥阻。此詞継を以て私の知覚とす。秘伝あり。
第四、景勝公、佐渡降参の族へ仰渡さるゝは、此国、謙信公伐取り給ひ、御手に属する所、御逝去以後、時を見合せ越国に叛く。景勝、敵に対し障なく渡海延引。然るに、去る天正十二【 NDLJP:222】年、南佐渡の者共、数通の起請文を以て、降を乞ふ故之を許し、藤田能登守を差越し、仕置き仕らせ候時、北佐渡の者共は、柴田因幡守と一味して敵なり。当年南佐渡、敵になり候へば、北佐渡は又、景勝脚下に馬を撃ぐ。当年北佐渡の者降参は、去年、柴田因幡を成敗し、拠る所なき故なり。南佐渡の者逆心は、会津よりの手段に乗つてなり。南北ともに、景勝代に、敵になり味方になる、前後ありと雖も、其本は同じ。南は最前一味、此度逆心、北は最前敵対、唯今一味なり。当忠を以て少免あれども、柴田を成敗以後なれば、実の者にあらず。免角、国風表裏の作法と見えたり。其儘、此国に置き候はゞ、後来覚束なき間、本国を離れ、越後へ引越し候へと仰渡さる。河原田を初め、何れも越国へ引越し候へば、本領の高に応じ領知下され、智仁微妙の御心なり。
第五、佐渡郡代に越後家須賀修理亮を仰付けられ、河原田に居ゑ置かれ、河村彦左衛門を算勘奉行と仰渡され、沢根に差置かれ、残の城をば破却なされ、此外、諸事御仕置、御隙を明けられ、御帰帆なさるべしと之ある所、羽持三河守父子、弟の新〔神イ〕保親子、彼此以上廿五人一戦敗北の砌、油利・仙木を志し、舟に取乗せ逃げけれども、風悪しく、越国の新潟へ吹付けられ、海陸行方を失ふ。新潟両司之を搦捕り、則ち佐渡に送り越す。是に於て鴻ノ川の河端に、三河守兄弟人質の婦妻子共、
第一、同年七月廿九日、常陸国佐竹義重より、越後御清水別当を頼み、佐渡へ頼み越し申さるゝ趣は、某次男。会津葦名盛氏養子に遣し、盛高と名乗り候。然るに前代より、伊達と葦名と矛盾にて弓箭を取り、会津家、
右加勢の兵、佐渡より越後の出雲崎へ漕戻り、志多田といふ所へ懸り、藤田・安田・須田三備は八十里越、小沢大蔵は津川越、佐藤甚助は、上田衆と共に六十里越を仕る。陣堅の場は、会津多田美台と相定むる。然るに、早会津盛高は、伊達政宗に押倒されて、佐竹へ逃帰り、政宗、会津を残らず切治めらる。其跡へ越後加勢衆著し候。士大将衆申談じ候は、斯くの如く押向ひ、盛高没落なればとて、引返すも如何なり。所詮政宗と一戦を遂げ、横田・小沢を本意さすべしとて、陣堅の場多田美台は、山谷二つ隔てたる故、相図を定め、八月十九日の昼、遠き方より先へ押出すべしとて、多田美台を前に当てゝ、此方の山に取備して勢揃をし、其日は何れも陣取り、明くる廿日相働く。其手分は、
一に、小沢大蔵は旧領小沢へ相働く。
二に、藤田・安田・須田三備は、横田大学を案内にして先手とし、多田美より向ひ横田・伊奈へ懸つて働き入る。
三に、佐藤甚助は、伊方へ取詰め働き入る。
藤田・安田・須田、十月十六日、春日山に至り帰陣仕り、夏目舎人も藤田備に列参仕り、委しく覚えて之を語り候。
第二、景勝公、九月初め、佐渡より御帰陣なされ候。会津に於て相働き候様子、三人の士大将衆言上仕り聞召さる。尤も佐渡に於ての軍忠、大小親疎遠近の隔なく、明正に賞罰仰付けられ候。
附此後、天正十八年庚寅、小田原落居の後、太閤秀吉公より、蒲生忠三郎氏郷、会津拝領の時、秀吉公より景勝公へ仰越さるゝは、先年伐取り給ひたる会津領の内、蒲生氏郷へ相渡され給ひ候へ、替地は追つて遣さるべく候とあり。景勝公より御返事に、相心得候、替地の事は、明跡次第、何時にても苦しからず候。横田大学・小沢大蔵此両人は、数年某を頼み、本意を心に懸け、某が蔭を以て安堵仕り候間、今迄の如く其旧領に差置き候。氏郷へ相渡し難く候との儀なり。太閤、尤もと思召し、其趣、氏郷へ仰付けらる。故に横田・小沢、別条なく其地を踏んで居住、後迄斯くの如し。 【 NDLJP:225】本城越前守重長、庄内を治むる事第一、景勝公、佐渡御渡海前御内試の時、本城越前守申上ぐるは、近々佐州へ御出帆、早速御一統疑なく候。某等、御留守に残し置かるゝ上は、堅固に居城を守り敵を抑へ、御持国安泰に存じ奉る儀は、勿論に候。御持国の端へも、他国より手を指す事は、常々御威光強く候へば、思寄る者これなく候間、某も佐州へ御供、望み奉るべき事に候へども、御人数御武案考へ見申し候に、御成功踵を廻さず候。且つ又、御意を背くに似申し候へば、御訴訟申上げず候。扨又、御留守にて御気遣御座なく候へば、境目に御人数差置かれずとも、苦しからぬ事なれども、御慎の御仕置なり。然れば敵を抑ふる味方、他国へ攻入り、勝利を得候はゞ、御留守にてさへ斯くの如くと存じ、差当り敵は申すに及ばず、残る敵も威に感じ、当方の御威光は益壮になり、後代迄の御佳名なるべし。縦ひ、万一負け候ても、御留守なれば苦しからず、押入りたる所、一つの勝利なれば、強盛は同前ならんと存じ候。然る間、御赦免を蒙り、私抑へて罷在る庄内の敵地へ働き入り申度候。今度御留守に候へば、敵方油断仕り、御手遣はあるまじと、不意の所へ赴き候はゞ、必定、勝利を得べき工夫御座候。御迹に残し置かるゝ御人数、少々差加へられ、庄内への働、仰付けられ下され候はゞ、村上へ帰城仕り、弥〻敵の虚実を計り、其時宜を考へ働き入り申すべしと、御直に言上仕る。景勝公聞召され、其必定勝利の踏所は、如何と御尋ねなさる。重長、懐中より委細の書付を出し、御目に懸く。景勝公尤もと思召され、阿雅北衆には、相川治部・竹ノ股・大川・黒川・酒井衆、又御留守組椎津鳥・山下・阿部、其外彼此本城相備に仰付けらる。重長有難く存じ奉り、相備衆と其首尾を示合せ、居城村上へ罷帰り、内々密々用意し、敵方陰謀工夫の外、又余念なし。
第二、本城越前守、庄内を伐つべしと心懸くる濫觴は、庄内の屋形大宝寺義氏とて、弓箭の誉ある大力量の人なり。悪義氏と申し慣はし候。此義氏、嗣子なき故、本城越前守二男千勝豊後守、弟を養子に乞受け庄内へ之を迎へ取る。然るに、同国羽州酒田に、東禅寺といふ人あり。庄内・大浦を初め、一門衆を招き集めて申さるゝは、大宝寺殿養子の儀、第一遅からざる事なり。然れども養子致さるべきならば、幸に某子供多し。それを望に存ぜられず候はば、類家の内に幾人もあり。左之右之もなるべきを、一往の内談もなく、他国より養子を迎へらる【 NDLJP:226】ること、近頃遺恨なり。昔謙信、威風盛なる故、当家も上杉の幕下になれども、御館乱の後目にて絶えぬ。聊か私の宿意なければ、景勝へ詫言し、表向より繕もなく、申入れての上ならば、尤もなれども、内縁を以て、上杉家へ取繕ふ事、柔弱の策略なり。武道の正しき越後家に笑はれん事、口惜しく候と、大浦殿を初め、類属庄内衆へ申されければ、各〻尤もと啐啄す。是に依つて、軍議示合ひ、此事の洩れざる内に、押寄せよとて、天正十四年戌の暮、大宝寺城へ俄に取懸け、即時に城を攻落し、屋形の義氏を先として、成く腹を切らせ候。夫より酒田の東禅寺屋形に取直り候。此時、千勝は、越後より付けたる瀬野尾・杉井といふ両士抱込み、善く斬脱け、恙なく村上へ供して帰るなり。扨又、庄内衆
【 NDLJP:227】第三、本城越前守、人数五千六百余を引率し、八月十六日、居城村上より備を出す。蒲萄ヶ谷を押して、尾国城へ著く。是は村上より最上を抑ふる番手の取出城なり。此に於て、人馬休息の為めといひて逗留す。此趣を、尾鐺の城主上山田より、千安城東禅寺へ註進するは、越後勢尾国まで取詰め候。其勢一万八千計りと、慥に承り届け候。存じの外なる大軍に候間、一廉御加勢あるべく候。武功の上杉、殊に大軍に候へは、中々、当城などをば
【 NDLJP:229】附天正十年午の夏、河田豊前守、越中国松倉城に籠り、信長衆五万余兵にて来ると雖も、河田が武威に恐れ、二方を遠巻す。此時、城中神保肥後守といふ者、越中先方士大将にて、河田相備なり。此神保、敵と内通なりとの疑ありと雖も、其色見えず。玆に依つて、河田、我が内の頼もしき勇士を、一人下臈の如く出立たせ、夜忍びて敵陣へ遣しければ、即ち敵、之を捕へて怪み問ふ。答へていふ、某は城内神保が透波なり。何事とは知らず、佐々殿へ一通の状を持ち来る。城中の者取らざる様に仕り、佐々殿へ奉れと申付けられ候所、那辺の森下の道にて、若者五七人出会ひて、刀・脇差・羽織、彼の状を入れたる打飼袋迄剥取られ、漸く是迄逃参り候。右の状、当御陣へだに来り候へば、苦しからず候へども、城中者の所為ならば大事なり、御僉議あつて給はれといふ。敵方にも心あるにや、後途の様子を見る迄とて、其上心を逃すなとて、之を搦置き、陣中を穿鑿するに、左様の者之なき故、如何と思案する内に、城中より矢文を射る。披いて見れば、河内方より、佐々所への充状なり。
対㆓子当城之神保㆒、密議之計略既露、令㆔籠㆓獄其身㆒乍欲㆑刎㆑首。惟併依㆓武道不功軍理未熟㆒也。弓箭站辱末代汚名、豈可㆑有㆑擬㆑之乎。蓋再㆑之。神保者十稔已来新仕之族也。然是強㆓其辜㆒不㆑定㆑懱、頻於㆑丐㆑之赦㆓其身㆒、可㆔引㆓渡其陣㆒。亟俟㆓回翰㆒畢。
敵寄合ひ、此返事をすべき歟、唯措いて返事をなさゞるかと決断せず。城内には、矢留の幕を打ち、〈此矢留に、幕に限らず、〉二時計り返札を待てども来らず。河田内存は、返書来らば、其文礼に依つて、真偽知り易からん。然るに報檄来らざれば、神保逆意明なり。仔細は神保内通候ならば、早速返書、其伺にあやをなし、内の和を破る手段には、吉兆なりとて急ぎ返事すべし。さはなくて遅きは、何卒して此隠謀の顕はれざる様に、事を紛かすべしと談合すると見えたる事、疑なしとて、河田方へ神保を召し、〈召すに口伝、〉之を虜にす。同家老身近の者合せて七人、主従妻子ともに十三人、城外の堀際に之を磔け、神保が首に懸けたる膚の守袋の内に、佐々・柴田両判にて、此儀一統の後、松倉城に五万石添へて充行ふべしとの状一通あり。河田豊前守が勇智深き故、隠微を察し疑慮を定むる斯くの如し。酒田智勇なく、上山田に闇々と計られて、討たれたる事、残多し。 附年経て後、本城重長、舎人に物語り仕らる。右尾鐺にて攻合の時、上山田と裏切、堅く申合ひたりと雖も、必ず之を頼にはせず、戦国最中、斯様の軍略、敵味方ともにある儀なり。我を欺くべしと、深く巧む心根、不明の智にては知り難し。世間の約束は、手を翻す如くにて、思【 NDLJP:230】ひ定めし志も替りあれば、上山田も悔返さん事弁へ難し。其所を疑ひては、出勢せんも合戦せんも、ならずといふ者なり。此所を能く思案し、上山田裏切すれば、勝利尤も手裏にあり。万一、上山田、越後勢を打つ為めの詭計ならば、是々の武略を以て変を打ち、勝備定め五段三段工夫して、不敗の地をふまへ、必勝の旗を揚ぐ、誠に危からざる戦法なり。之を図して、舎人に誨へられたりとて、某定房に之を伝ふ。
第四、本城重長、蒲萄ヶ谷の下り口中腹より敵地を見下し陣取り、後陣も大勢差続く。旗手、木の間の風に
【 NDLJP:235】附是より先、樋野左衛門、越後備の押来つて課ぐを見て、打出でんとせし時、根津郷左衛門申しけるは、我々、弓矢を挙つて名高き上杉家、殊に武功の越前守の事なれば、此城際にて騒ぐ事不審なり。偽りて引出して之を撃ち、附入にせんとの武略か、又は別手を以て、後より城を乗らんとの行か。此二つの内に洩るべがらず。餌兵は勿㆑食との訓も候間、一定敵の様子を御覧候へ。構はず押通らば、諸備を喰留めて切崩すか、此城に抑を置かば、それに向つて撃勝つ武案もあるべし。又城を攻めば堅固に守禦し、千安より後攻を待つて、取包んで撃つ軍術もあるべしと、達つて之を諫む。左衛門尉肯かずして曰く、敵、某を見て慢る間、近く押すを、手もなく通しては、此城に居たる甲斐なく、武道の瑕瑾なり。矧んや、敵備の課ぐを見て、其虚を撃たざるも度を失ふなり。敵、餌兵を以てせば、味方も餌兵を以て報い、本城が旗本へ、我が旗本を以て懸り、重長を見定めて、唯一打の勝負にすべし。万一、思ふ図外るれば、押纏め引取るべし。附入にならざる事は、左衛門尉が采拝にあり。是ともに汐合悪しくば、斬破つて千安へ退くべし。為す事もなく、優寛として蹲踞り、城を巻かれ後攻を請ひ、其上にて如何程の大利ありとても、他の助を頼み独の功にあらず。所詮左衛門は、打出すより外の分別更になし。郷左衛門は城に残り、敵、若し城を攻めば一防防ぎて見よといひ捨てゝ、馬を引寄せ乗出づる。此上は力なしとて、郷左衛門其外残兵、漸く三十騎に過ぎず。是にて城を持忍ふべき様もなけれども、左衛門尉、年久しく此城に居けるに、今日に至つて明城となし、人馬の足に、
扨彼の森の茂みを便つて、跡に残せし越後勢、軍粧を督し、敗軍の敵を此備に渡し、戦ひたる【 NDLJP:236】備々は、人数を集めて備を堅め、敵地なれば、別けて慎んで斯くの如く追留の制限あり。扨敵の襲ひ来らん所を抑へ、諸方の斥候、其地に便つて之を遣し、本城重長は、関根城に旗を立て、牀机に居て、本丸の火を鎮めさせ、群兵、城城屯し、余る人数を以て繰換へ、城の左右の陣を固め、代る〴〵衆兵を憇はするなり。
第七、本城重長、関根城を攻落し、明くる廿四日、大浦城後大山本へ取詰むる。此城には、最上より来る郡代中山玄蕃頭大将にて、此節、最上より請けたる加勢、又庄内の衆には、村田右衛門佐・菅沼虎之助等籠城、関根より退きたる酒田民部もあり。昨日、関根より敗北の兵、むだむだと城を落され、是迄引退くさへ無念なるに、此城をも又攻落されなば、弥骸上の恥辱なりと思ひ入れ、庄内衆も、最上勢の見る所も恥しと思ふ故、城の様子、少しも弱気見せず。越後家にても之に感ず。然れども、本城越前下知ならば、一日の内にも攻崩すべく候へども、大浦近くに根城の千安あり。千安城には、庄内三郡屋形東禅寺を初め、前盛蔵人・丸岡図書助・押相右馬助・蜅沢右馬頭・貝輪新之允・中野豊後守等随一の衆楯籠つて、三郡の要なり。然れば大浦城を攻むるは易けれども、敵も一精出しなば、味方に手負死人多かるべし。頃日打続く攻合城攻に諸卒疲労すべし。後道の勝を含んで、本城、采配を取つて、既に屏に付きたる越後勢を引揚げて、堅固に陣を取しく。右何れも押への備を繰廻して斯くの如し。其備立の所は、城により敵により、其場により時に応ずるなり。〈口伝。〉
第八、本城重長、相備衆へ申し談じけるは、大浦其外の城は枝葉の如く、千安は東禅寺を初め、庄内随一の衆楯籠れば、本根の如し。然れば大浦をば、先づ之を措き、千安を攻むべしと評議して、大浦を巻解し千安へ向ふ。大浦と千安と両城の間に、三段十五と手分して営陣す。陰中の陽、陽中の陰、陰一、陰陽二陽、是に付いて大口伝。両城の間に営陣する工夫は、本城重長三年已来、庄内へ切入るべしと存じ立て、我が内の頼もしき士五七人と密計し、法を背かせ、夫にかこつけて、坂を越させ、或は其者の方より不足を申立て、暇を貰はせ、其者共、庄内へ行き、大身衆へ頼り本公仕る。就中本城が乳弟目賀多といふ勇士、俄に乱心す。本城、刀脇差を奪はせ、家老の本城式部に預け置く所に、二三ヶ月過ぎて、行方知れず逐電し、庄内へ行き、西条兵庫と名乗り、信濃窂人なりというて、東禅寺へ奉公に出でたりしが、庄内落著の後帰参し、目賀多帯刀と申して居り候。是又、先年の乱心は謀略なりと、何れも知りたり。斯【 NDLJP:237】くの如くなるを以て、敵の様子、本城能く知り、殊に庄内衆の内、本城へ心を通ずる者多き内に、小国因幡守・高坂玄蕃頭といふ者、千安城に籠り、本城方へ潜に申越すは、当城より大浦へ後攻をし、夜懸の一戦し、越後勢動乱の所へ、大浦城兵突いて出で、本城を中に取込め、小備の新手を幾重にも作り、戦を挑みては、引いて備を堅め又懸り、一合再離離れて相合ひ、勝利を得べしと、大浦城へ相図を定むるなりと告知らする故に、重長、大浦を巻解して、両城の間に営陣し、敵の武略を能く知つて、それに重手を打ち、武略勝利の本を踏まへて斯くの如し。敵庄内衆は、是をば知らず、両城の間に、本城陣取る事、天の与ふる所なりと悦んで、大浦と相図を定め、八月廿六日の晩〔暁イ〕、東禅寺大勢を率ゐて城を出づる。味方は待請けて、少しも騒がず、本城豊後守を五備とし、二手は合し、二手は寄とす、一手は口伝。大浦の兵に向ふには、千勝を取立て、是も五手に備ふ。重長は前方よりも板橋を廻り、千安城の裏に人数を伏置き、東禅寺城を出づる其跡へ、乗城とて時刻を考ふる所に、東禅寺は之を夢にも知らず、夜軍して敵を打つべしとばかりの心にて、人数を勝つて連れ出づる故、城に残る兵は僅なり。重長、時節好しと、一同に城に乗る故、即時に乗破り、早く火を懸けたり。東禅寺之を見て、力を失ふと雖も、武勇の人なれば、差向ふ敵へ懸り、玆を最後と相戦ふ。豊後守勇み進んで戦ひければ、是にても勝利と見えたる折節、兼ねて重長へ内通したる小国因幡・高坂玄蕃、手勢を散らさず引繚め、主君東禅寺へ向つて、弓を引くは如何なりとて、大浦城兵に向ふ。千勝備に相加つて一戦を初む。然る内に、重長は城の門に櫓火を懸けさせ、静に東禅寺旗本へ、後より切り懸る故、東禅寺備悉く敗走する故、味方之を追撃つ。敵、千安川に溺死する者其数を知らず。大将東禅寺は、川端にて唯一騎取つて返し、大音を揚げて、逃ぐる味方、
附東禅寺、小舅東禅寺右馬頭一戦の砌、敵中を斬脱けゝるが、先にて姉婿の屋形討死を聞き、涙を流し申しけるは、我れ多くの敵に後を見せ、是迄逃げ延びたる事は、夜中なれば、屋形の【 NDLJP:238】討死を知らず。屋形存生ならば、重ねて人数を催し、本城を打ち、二度庄内を踏まへ、本意を達せんと思ひたればなり。屋形討死なれば、我れ一人、生きて更に益なしといひて、取つて返す。本城、首実検して居たる折節なれば、右馬頭、旗も前立も相印もかなぐり棄てゝ、黒糸威の鎧を著、右の手には抜刀を持ち、左の手には六十二間の星鍪、全小札三枚下りの
附右馬頭が刀は、相州正宗なり。本城則ち景勝公へ上る。其後、景勝、太閤へ進じ遣され、太閤より又権現様へ進ぜられ、今に紀伊頼宣卿に、本城正宗とて之ある由之を承る。寸長しとて、今かね二尺五寸に御磨上げなされたりと聞伝へ候。
第九、本城越前守重長、武功名誉の至なり。之を千安崩とも、又は千安夜合戦とも、今に申し沙汰す。右の通りにて、大浦城は申すに及ばず、酒田大宝寺城に籠りたる庄内の者共、城を開けて逐電し、或は越前守に降参して、敵対する者一人もなき故、三日の内に、庄内三郡、越前守手に入り、野合の一戦には、弱敵見崩聞崩といふ。斯様なるは、城故に見落し聞落しといふ、越後家の武者詞なり。重長二十日余逗留し、仕置能く申付け、九月中旬、春日山へ帰陣して、委細に之を言上す。景勝公、御喜悦斜ならず、本城父子三人を初め、相備の面々を召出され、それ〴〵の御褒美、其被官の者迄の様子、御吟味正しく賞罰明正なり。本城越前守には、庄内三郡残らず下され、瀬奈美郡村上をば、越前守嫡子豊後守に下さる。越前守心肝に銘じ、有難く存じ奉り、其身は酒田に居城し、二男千勝を、大宝寺の屋形に仕居ゑ、積年の鬱憤を散ず。重長無類の武功、是といふも、景勝公御威光の余耀なり。 【 NDLJP:239】景勝公御上洛の事第一、天正十七年己丑元旦の賀儀あつて、目出度き様子なり。其二月、春日山に相詰め罷在る衆、近年軍労休息の暇を給はり、何れも持の城々へ帰る。珍しく各〻喜悦仕るなり。太閤秀吉公より、端午の御祝儀として、石田治部少輔を越後に差越さる、御内意は、来年北条征伐の為め、関東御進発御相談の由、後に相知るゝなり。
第二、景勝公の御簾中、〈武田信玄公の息女、勝頼公の妹、〉平坂対馬守を御輿添に仰付けられ、上方へ御上せなされ候。是は景勝公、宿老中と密談にて斯くの如し。景勝公仰せらるゝは、来年太閤、小田原発向に就いて、我等と前田筑前守と来合せ、関東筋へ相働くべしと、秀吉之を定めらる。秀吉事、古今類なき果報明発の人なり。匹夫より登揚して、天下を一統す。然るに、某に対し和睦は、工夫才智を以て、某へ疎意なき様子なるは、名将の謙信公の迹を嗣ぎ、北条三郎を討亡して、越後を治め、信州へ発向しては、小勢を以て氏直を追払ひ、川中島四郡、其外佐久・小県へも手を懸け切治め、或は会津領の所々を切しき、佐州一国恙なく平均。去冬は羽州庄内三郡を治む。殊更天正十年、信長家の者共に対して、上杉家の弓矢の手柄、其後、越中宮崎にての様子は、木村見て帰り、斯様の事にて、某が事を、秀吉も手浅く見らるまじ。然れば某が心のふらざる様にと存ぜられ、人質を乞ひ給はざるは名将なり。内心には、某を気遣に存ぜらるべし。殊に関東陣触ば、猶以て心許なく、人質を乞ひたく思はるべけれども、左様にては誠の道透きたりと、某にさげすまれては、却つて悪しかるべしとて、其事を申越されず、道を嗜む処を知らせ、弥〻某に心安く思はすべしとの底意なりと察するなり。一度、無事を仕りては、某方よりは尽未来、心を変ずべきにあらず。士は大小上下、共に心を変ぜさるを本意とす。其所を考へ知りながら、秀吉に疑はるゝは詮なしと、家老中と御密談を以て、御簾中を御上せなさる。太閤堅く御辞退なれども、景勝公より右の思召入にて、斯くの如きなり。
第三、十一月中旬、景勝公御発駕、同廿八日、京都本国寺へ御著なり。路次に、太閤より御使あつて御馳走なり。翌廿九日聚楽へ参り候。太閤御大悦、毎日の御使御音信あり。来春小田原御発向の首尾御相談調ひ、御帰国の砌、太閤の御執奏を以て、景勝公従二位に叙し、中納言に任ぜらる。後陽成院よりの御綸旨なり。御家来直江山城守四位侍従に叙任、藤田能登守・【 NDLJP:240】泉沢河内守・安田上総守四品に叙せられ、其外十一人、官位仰付けらる。是御武勇の余光なり。極月御帰国なり。〈附、愚父全人も、京都御供仕るなり。〉
附御在京中、秀吉公、景勝公へ御尋ね、本城越前守に、庄内三郡残らず充行はれ、嫡子豊後守、村上に於て別に領地を給はる事、過分の様子如何と御尋ね下さる。景勝答に、庄内は本城一箇の手柄にて、伐取り候と、本よりの事を委しく語り、斯くの如くに候へば、某取上ぐべき儀にあらず。村上は、越前が前領地故に、豊後を差置き候と仰せらる。太閤仰せらるゝは、庄内を伐取る事、景勝より加勢を乞ひ、兼々より景勝の弓矢に恐れたる庄内なれば、越前勝利を得たり〔〈しも脱カ〉〕景勝の威光を以て、庄内へ越前軍代に働き、伐治めたるを、越前一身の手柄に落し付けて、庄内を給ひたりと存ずる。然れば越前守は、上方に残し置かれ、簾中に付けられ、然るべくは、千坂計りはすげなく候。其上越前は、武功の名高き者に候へば、秀吉咄相手に致したく候。知行上方にて遣すべき間、庄内は景勝支配尤もに候と、達て仰せられ、則ち越前を聚楽へ召し、御直に其趣を仰聞けられ、江州に於て三千貫之を下さる。景勝公よりも、苦身銀とあつて千枚づゝ下され、御簾中に付けて、上方に相詰め候。本城越前も、尤も之を悦び候は、縦ひ小身なりとても、天下を知り給ふ太閤より、御直に所領を下され、御馳走を請け、譜第の上杉家を出でずして、其儘罷在るを以ての故なり。右の通故、越前二男千勝には、信州に於て小田切安芸守跡を、景勝公より下さる。庄内三郡の様子は、一に、其頃は大宝寺、後には鶴ヶ岡といひ、此城をば直江山城守に預け下され、城代本村監物罷在る。
二、昔は東禅寺、其頃は酒田、後には亀ヶ峯といふ。此城をば甘数〔糟〕備後守に預け下さる。
三、其頃は大浦、後には大山といふ。此城をば下次右衛門に預け下され、庄内三郡総代官算勘奉行仰付けられて、右の通りなり。太閤微妙の様子、斯くの如きなり。
附信州上田真田安房守、今度景勝公御留守中、太閤家大谷刑部少輔と、内縁の筋目あるを以て、大谷へたより才覚仕り、二男源次郎を太閤へ差上げ、景勝公を引切り候。総領の伊豆守をば、我が手前に差置き候儀、安房守老功、末を考へ、以来権現様へ進上仕るべしとの思案なりとて、斯くの如しといへり。右の通り故、太閤へ、景勝公より御断り仰入れられ、是非御返し下され候へとの事なるを、太閤へ、大谷能く取繕ひ候故、様々、太閤より景勝公へ御詫言に【 NDLJP:241】て事相済み候。此故に安房守事、表裏の士なりと、之を咲はさる者なきなり。
太閤秀吉公、北条と矛盾の事相州小田原北条氏政は、嫡子氏直に代を譲り、当時は氏直政務なり。秀吉公、天下を掌握する故、氏直降を乞ひ、上洛を致すべしと、堅く申入れられながら遅延なり。其上にて、氏直より秀吉公へ申入れらるゝは、真田が掠取る所の上野沼田を仰付けられ、相渡し候様に、さあらば、早速上洛致すべしと、重ねて之を訴へらる。太閤家の衆、各〻申上ぐるは、北条元来表裏の風なり、先づ上洛せられ、其上にては訴訟もあるべきを、さはなくして沼田を望むは、一旦の難を申し遁るれば、早速は御発向もあるまじと存じ、斯くの如く申す所不義なり。早々御発向御退治然るべしと申上げけれども、太閤御底意深くして、北条望に随ひ給ひ、富田左近将監・津田隼人正両使を御差下し、真田持の沼田を、北条へ引渡さる。是に依つて、北条家之を請取り、沼田猪俣能登守を差置き、剰へ、真田持のなぐるみの城も、沼田城付なりとて、之を攻め取つて支配す。其上にも、猶上洛延引なり。秀吉公、以の外御腹立あつて、同年丑の霜月、北条と御手切あつて、御陣触之あり。
附右の時、六通の書写、
条々
一、北条事、近年蔑㆓公義㆒不㆓上洛㆒。殊於㆓関東㆒仕㆓我意㆒狼藉之条不㆑及㆓是非㆒。然間可㆑被㆑加㆓御誅罰㆒之処、駿河犬納言依㆑為㆓緑者㆒、種々懇望之間、以㆓条数㆒被㆓仰出候㆒へば、就㆓御請申㆒被㆑成㆓御赦免㆒、則美濃守罷上、御礼申上候事。
一、先年、家康被㆓相定㆒条数、家康表裏の様に申上候。美濃守に被㆑成㆓御対面㆒上者、堺目等之儀、被㆓聞召届㆒候様に、可㆑被㆓仰付㆒候間、家之老従指越し候へと被㆓仰出㆒候処に、岡江雪指上畢。家康与㆓北条㆒国切之約諾之儀、如何と御尋之処に、御意趣は、甲表・信濃の内、城々家康手柄次第可㆑被㆔申㆓付之㆒。上野之内は、北条可㆑被㆓申付㆒之由相定、甲信両国者、則家康任㆓存分㆒、上野沼田之儀者、北条不㆑及㆓自力㆒、却て家康相違之様に申成候。寄㆓事於左右㆒、北条出仕迷惑之由申上候と思召し、於㆓其儀㆒者、沼田可㆑被㆑下候。乍㆑去上野之内、真田持来り候知行三分二、沼田城に相附、北条に可㆑被㆑下候。三分一者、真田に被㆓仰付㆒候【 NDLJP:242】条、其内に有㆑之、城者真田可㆓相抱㆒之由被㆓仰定㆒。右北条に被㆑下候三分二之替地者、従㆓家康㆒真田に可㆓相渡㆒旨相究被㆑成、北条可㆓上洛㆒之由、一札出候間、即被㆔指㆓遣上使沼田城㆒可㆓相渡㆒之旨被㆔仰㆓出江雪㆒被㆓返下㆒候事。
一、当年極月上旬、氏政可㆑致㆓出仕㆒旨、御請之一札進㆓上之㆒候。依㆑之被㆔指㆓遣津田隼人正・富田左近将監㆒沼田被㆓渡下㆒候事。
一、沼田要害請取候上者、右之一札之旨に相任可㆓取上㆒と被㆓思召㆒候処に、使者指上、結句真田相抱へ候なぐるみの城を取り、表裏仕る上者、使者に非㆘可㆑被㆑成㆓御対面㆒義㆖候。使者事雖㆑可㆑及㆓生害㆒助命返遣す事。
一、秀吉若輩之時、孤と成、属㆓信長公幕下㆒、拾㆓身山野㆒砕㆓骨於海岸㆒枕㆓干戈㆒夜寝夙起、竭㆓軍忠㆒励㆓戦功㆒。然而自㆓中頃㆒蒙㆓君恩㆒、被㆓人知_㆑名、西国征伐之義被㆓仰付㆒、対㆓大敵㆒争㆓雌雄㆒之刻、明智日向守光秀、以㆓無道㆒故、奉㆑弑㆓信長公㆒。此註進聞届け、弥〻彼の表へ押詰め、任㆓存分㆒不㆑移㆓時日を㆒馳上り、伐㆓逆徒光秀㆒、頭梟㆓獄門㆒。報㆓君恩㆒雪㆓会稽㆒。其後、柴田修理亮勝家、忘㆓信長公厚恩㆒、乱㆓国家㆒叛逆の条、是又令㆓退治㆒訖。此外諸国叛者討㆑之、降者近㆑之、無㆘不㆑属㆓麾下㆒者㆖。秀吉無事之表裏故、叶㆓天道㆒者乎。既挙然登㆓鷹揚之誉㆒、為㆓塩梅即闕之臣㆒、関㆓万機政㆒処、氏直逆㆑天違㆑理、対㆓帝都㆒企㆓奸謀㆒蓋不㆑蒙㆓天罰㆒哉。古語に云巧訴不㆑如㆓拙誠㆒、所詮普天下背㆓勅命㆒輩、不㆑可㆑不㆑加㆓誅罰㆒。来歳必携㆓節旄㆒令㆓進発㆒、氏直首可㆑刎事、不㆑可㆑廻㆑踵者也。
天正十七年十一月廿四日 太閤
北条左京大夫どのへ
態〻差㆓遣使者㆒候。北条儀、可㆑致㆓出仕㆒由御請申し、沼田城請取之一札之面をば不㆓相立㆒、信州真田持之内、なぐるみの城請取る由、津田隼人正・富田左近将監方より書状相見え候。然れば北条表裏者之儀之間、来春早々出馬、成敗之儀可㆓申付㆒候。早四国・中国・西国、其外国々陣触れ申付け候。其表境目の儀、又は人数可㆑出行等之儀、可㆑令㆓直談㆒候条、二三日之逗留、馬十騎計りにて、急々可㆑被㆓相越㆒候。彼表裏者為㆑使石巻下野と□覧罷上候。押抜候而、なぐるみの城を取候間、彼使者石巻成敗雖㆑可㆓申付㆒、助㆑命御返候。然者、右関東御使津田隼人・富田左近将監申上候に付而、見計らひ候而、沼田城可㆓相渡㆒由、被㆓仰付㆒被㆑遣【 NDLJP:243】候処、城請取り候刻、彼表裏者、二万計り差越、沼田近所に陣取り候由、彼人数候を見候者、隼人・左近方より、其様体御註進申上、可㆑為㆓其上之儀㆒候処、一往不㆑及㆓言上㆒沼田城相渡し罷帰り候事、如何思召候処、剰、なぐるみの城取り候。最も両人不相届仕形に候。然る間、彼石巻差添被㆑遣候。両人事、三枚橋境目城に、来春被㆑出㆓御馬㆒候迄、番勢可㆑被㆓申付㆒候へ。被㆑出㆓御馬㆒上に而御成敗か、可㆑有㆓御赦免㆒歟否の儀、可㆑被㆓仰出㆒候。堺目城に被㆑置候而も、謀叛可㆑仕者に非ず候間、不㆑可㆑有㆓御機遣㆒候。北条方へ、以㆓如㆑此一書㆒被㆓仰遣㆒候間、其方へも、写㆓加朱印㆒被㆑遣候。何方へも可㆑被㆑為㆑見候。北条、此返事申上候に、其墨付可㆑有㆓進上㆒候。猶其上、石巻・玉龍両人事、被㆓返遣㆒候歟、可㆑有㆓御成敗㆒歟、可㆑被㆓仰出㆒候。若墨付之返事無㆑之に付而は、則ち境目にはた物に可㆑被㆑懸候。妙音院事、仮事を申廻し不㆓相届㆒所行、今般被㆓聞召㆒曲事に候。於㆓様子㆒者、浅野弾正少弼方より可㆑申候。委細新庄駿河守相含候也。謹言。
十一月廿四日 太閤御朱印
駿河大納言殿
猶以て、越後宰相も、四五日中に上洛之由に候。幸に候間、関東への行の儀、可㆓相談㆒之条、早く上洛待入り候。雖㆑不㆑及㆑申、駿甲信堺目相抱へ候留守居被㆓申付㆒可㆑然候。
条目
一、老父上洛遅々の由有㆑之て、至㆓沼津㆒御下向、一昨五日之御紙面、案之外に候。抑去夏妙音院一鴎軒下国の刻、於㆓截流斎罷上儀㆒者勿論に候。併当年者難㆑成候。来春夏之間可㆓発足㆒之由、条々雖㆓御理に候㆒不㆑可㆓相叶㆒旨、頻に承り候。公義之言及㆓了簡㆒、極月傍□半途迄も罷出、正月中可㆓京着㆒由に候き。就中先年家康上洛之砌は、被㆑結㆓御骨肉㆒、猶大政所を、三州迄御移之由承届候。就而名胡桃仕合に付御腹立、或は永く可㆑被㆓留置㆒、或は国替、斯様の惑説に付、方々申来り候条、二度下国存じ切の由、截流斎申候。父子之困可㆑有㆓御察㆒候。依㆑之、妙音院一鴎招き申、縦此儘在京候共、晴㆓胸中㆒心安く上洛為㆑可㆑申に候。更非㆓別条㆒候事。
一、此度為㆓祝儀㆒為㆓差上㆒候石巻、御取成模様、於㆓都鄙㆒失㆓面目㆒候。更以、氏直相違之扱、毛頭有間敷候。御両所へ恨入候。去る四日、妙音院此方へ招申儀、石巻御取成不審に候【 NDLJP:244】間、内々可㆓尋申㆒存分故に候。然に半途にて、被㆓相押㆒之由、無㆓是非㆒存候条、以㆓書状㆒申述候事。
一、此上も、無㆓疑心㆒至㆓御取成㆒は、無㆓猶予㆒截流斎可㆓上洛㆒旨申候間、御両所有㆓御分別㆒、可㆑然様に所㆑希候。
一、名胡桃の事、一切不㆑存候。彼城主に候か。中山書付進㆑之候。既に真田手前へ相、渡内内、候間、雖㆘不㆑及㆓取合㆒候㆖、越後衆半途へ打出で、信州川中島と知行替之由申候間、御糺明之上、従㆓沼田㆒其以来加勢之由申候。越後之事は、不㆑成㆓一代㆒古敵、彼表へ相移候者、一日も沼田安泰に可㆑有㆑之候哉。乍㆑去彼申す所、実否不㆑知㆑之。自㆓家康㆒も、先段尋極為㆑可㆑申被㆑遣候き。定而三日中に可㆑来候。努々非㆓表裏㆒、名胡桃至時百姓屋敷淵底以前、御下国之砌、可㆑有㆓見分㆒歟の事。
一、以前渡給候吾妻領、真田以㆓取成㆒百姓押払、一人も不㆑置候。剰、号㆓中条院㆒前旨台詰〔本ノマヽ〕不㆓相渡㆒候。斯様之儀、少年可㆓申達㆒様無㆑之候間、打捨置き候。猶名胡桃之事は、対決之上、何分も可㆑任㆓承意㆒事。以上。
十二月七日 氏直
富田左近将監殿
津田隼人正殿
一、従㆓京都㆒御書付給り候。並に御添状、具に披見。内々之返一つ〳〵雖㆑可㆑及㆓貴答㆒、還相㆓似慮外㆒候歟の間、先令㆓閉口㆒。畢竟自㆓最前㆒之旨趣者、貴老淵底御存の前、委細被㆓仰披㆒候者、可㆑為㆓本懐㆒候。猶罪之品、糺㆓実否㆒候様に希所候事。
一、両日以前、以㆑使申き、津田・富田方へ申遣五ヶ条、入㆓御披見㆒上は、重説雖㆓如何候㆒、猶申し候。名胡桃努々従㆓当方㆒不㆓乗取㆒候。中山書付進㆑之き。御糺明之者〔旨カ〕、可㆑被㆓聞届㆒事。
一、上洛遅延之由、〔〈披脱カ〉〕露㆓御状㆒無〔委カ〕曲存候。当月之義、正二月にも相移候はゞ尤に候か。依㆓或説㆒妙音一鴎相招き、可㆑晴㆓胸中㆒之由存じ候処に、去月廿四日御腹立之由、御書付誠に驚入り候。可㆑有㆓御勘弁㆒事。
右之趣、御取成所㆑仰に候。恐々謹言。
十二月九日 氏直【 NDLJP:245】 徳川殿
御札披見、本望に候。抑今度之様子案外至極。已前以㆓鈴木氏直㆒申達し候き。能々初中後御工夫可㆑然様に御取成専要に候。何廉にも、氏直無㆓表裏㆒処、分明に可㆑被㆓仰遣㆒候事、年来之筋目、此節に候。悉皆貴老へ可㆑有㆓御指㆒引候。恐々謹言。
十二月九日氏政
徳川殿
貴札之趣、氏直父子に具に為㆓申聞㆒候。委細被㆓申達㆒候。有㆓御心得㆒、可㆑然様に御取成所㆑仰に候。猶可㆑得㆓御意㆒候。恐々謹言。
極月九日 北条美濃守 氏規
駿府之貴報人々御中
第一、天正十八年庚寅三月十九日、秀吉公、花洛を御立あつて、同月廿八日、豆州三枚橋御著陣、小田原にも内々評議、武功の衆申すは、氏政公は小田原御籠城、氏直公は御出馬あつて、沼津在城の松平周防守を攻め亡し、彼の地に御旗本を定められ、先手の大将に、北条美濃守・北条陸奥守鬮取にて、御一人差遣され、富士川を隔てゝ之を防ぐか、さなくば、三島に御旗本を定められ、先衆を以て、黄瀬川を隔て、或はそうか原まで取続いて、一戦を持ち備へられば、敵は遠国の諸兵、気を屈し長陣なし難く、味方は関東支配、方々にて城を守り、国を強く堅め候はゞ、御勝利あるべし。家康、当時は秀吉方なれども、味方の競に依つて、氏直公の御舅なれば、其節は味方になり給ふべし。さあらば、秀吉より扱を入るべし。其上にては、又如何様にも、其時に当つて御分別なさるべしと、各〻申すと雖も、近代北条家風悪しく、氏政・氏直、柔弱の大将にて、出陣を嫌ひ給ふを、佞奸の者之を知り、仮令敵、幾千万寄せ来るといふとも、箱根の関所を越ゆる事なるまじ。況んや、東に大河あり、北に険岨あり、南は大海の荒磯にて、昔より船を寄する事なし。味方続きの国々、或は敵の境目に、人数を多く遣し、参らざる事なれば、是も敵の長陣ならざるは、同じ事なりとの談合に落著す。是に依つて、筥根山中城主松田兵衛尉に、加勢として北条左衛門大夫を大将と為し、間宮豊前守・朝倉能登守を【 NDLJP:246】相添へ之を遣し、薤山城主北条美濃守方へも、加勢に検使として、富永山城守を添へ之を遣され、宮城野口は、松田尾張守を大将と為し、上田上野介・原式部少輔等を差遣され、湯本口は、千葉新助等、竹浦口は北条陸奥守を大将と為し、成田下総守・壬生上総介・皆川山城守を、相備にして之を堅むるなり。
第二、太閤沼津御著城の時、作り鬚をなされ、長刀を差し給ひ、異風の御出立にて、諸勢へ仰せらるゝは、北条、筥根を越えて備を出し候はゞ、味方一戦しにくからんと思ひ、其工夫を仕りたる所に、北条、早や頭を揚ぐる事もならぬ体なれば、味方、早速勝利を得べしと、其理究を仰せられ、御大悦御祝儀として、各〻に御酒を下さる。〈口伝。〉御備定なされ、薤山の抑へには、織田信雄公に、蒲生氏郷・細川越中守・中川藤兵衛・森右近を相添へ之を遣され、山中城へは三好秀次公を大将として、其先手には、中村式部少輔・木下美作守・織田有楽を相添へ之を遣さる。此諸勢、三月廿九日、山中城を乗取り、松田・間宮討死す。同日、薤山も落つる。家康公は、足柄越をなされ、小田原へ押向ひ、天狗岳の下諏訪の原の上、竹の下山に御陣取なり。其故に、小田原よりの人数、早々御持口の所々を捨てゝ、四月朔日、小田原城へ逃籠るを以て、翌二日より、小田原城を取巻き、太閤は湯本に御本陣を移され、小田原の海へも、九鬼大隅守・加藤左馬助等を初めて船を入れ、北条肝要と頼みたる筥根を越えらる。昔より船の入りたる例なしと思ひたる磯際へは、船を漕寄せられ、大将其勇を失ひ、万卒力を落す。扨又、譜第随一の家老松田尾張守は、秀吉公へ堀久太郎まで、降を乞ひて内通す。此事、松田三男左馬助、氏直公に訴ふるに依つて、城中に於て松田切腹す。此陣、初中後まで、秀吉公微妙の智略・武略・計策。〈口伝。〉是に依つて、氏政公・氏直公、終に降を乞ひ城を渡さる。七月十日、家康公の衆本多中務少輔・井伊兵部少輔・榊原式部少輔、城を請取り、北条左京大夫氏政・同舎弟陸奥守氏照、医師安清軒が宅へ出でられ、同日の晩〔暁イ〕切腹なり。氏直は御宥免、高野山へ之を遣さる。北条美濃守・同左衛門大夫・松田左馬助・大道寺孫九郎等、供仕るなり。行々は西国にて、一州遣さるべしと、太閤御底意なりと、相聞ゆると雖も、天正二十年の冬極月、氏直疱瘡を病み、三十三歳にて御死去なり。
景勝卿・利家卿、関東へ出勢の事、佐藤一甫斎御成敗の事【 NDLJP:247】上杉黄門景勝・羽柴黄門利家両大将は、関東北条持の城を、伐随へらるべしと、秀吉公より御掟、北陸道より出勢なり。是に依つて、景勝公御人数二万三千、御備定は、一の先手は、関東案内なれば藤田能登守、此相備佐藤一甫斎・甘数備後守・阿雅北衆・黒川相州・黒部・加志・松本竹の俣、藤田備三千八百なり。藤田自身の備、寄騎五十騎の頭、夏目舎人助に仰付けられ、五十貫の御加恩、其時までは軍八と申候へども、其名、若く聞え候とて、舎人助に之を為され、景勝公御座間まで、藤田能登守同道にて、長尾加賀守奏者にて召出され、御直に、右の通り仰付けらる、舎人助廿二歳の時なり。然る故、藤田備の内にての先を舎人仕り、増毛但馬守を添へ付けらるなり、舎人跡の小頭は、斉藤源太左衛門なり。村上源五国清儀、海津城代召上げられて以来、御勘気同前なるを、種々御詫言申上げられ、御免あり。此度、相備を付け給ひ、七手組の頭を仰付けられ、旗本共に八備となされ、備を定め調へ、秀吉公御指図を相待つ。二月十日、春日山を御立ち、十五日、信州海津城に著、爰にて羽柴筑前守利家よりの一左右を待ち給ふ所、同廿七日、利家同国望月まで出陣の由、是に依つて、景勝公も、同日海津を立ち、尼が淵へ懸り、小諸へ出で、追分まで上道十一二里の所を、二日に押し、廿八日に著陣なり。両手人馬を休め、三月朔日、景勝公、碓氷峠に陣城を構へ、三里押して斯くの如し。利家は景勝に一日下つて押し給ふなり。此両手の先をば、信州三組衆とて、真田・蘆田・小笠原、秀吉公より仰付けらるゝは、関東案内者故なり。
附越後勢、信州植田を押通り候時、真田申付けたると見えて、本海道を、植〔上〕田の町へ懸り通り候はゞ、景勝の憎を得る真田なれば、定めて下々狼藉致すべしと積つて、新道を本道の北の方に拵へ、本道には虎落を結び置き候。藤田、先手にて押し候故、某之を見て怒り申すは、真田が分として、景勝公を此虎落一重二重にて、妨ぐべきや。縦ひ、鉄を延べて籠めたりとも、我々向ひ候はゞ、などか踏殺さではあるべきなれども、秀吉公、種々御詫言故、景勝公、命を助け置かれ候。斯様の節、幸と存じ、其身は出陣仕るとも、留守居に申付け、御馳走を致すべき覚悟はなくて、一箇の細心に引合せ、此折節、仇を仕らるべきかと、景勝公を積るは、己が方より、弓矢の習ひにて行を仕るは格別、然れば本道を避けて、脇道へ懸るは弱味なりとて、真田方より拵へ置きたる柵木を引倒し、虎落を踏散らして、植田城下の本町を押通り、一人も新道へ懸る者なし。然るに、藤田相備佐藤一甫は、元来甲州家の者にて、真田と懇意、【 NDLJP:248】其上、真田が内に、一甫が壻あり。其故、真田を贔屓し、藤田を悪しく思ふ、是れ武士の正道を知らざる不吟味なり。藤田にも断らずして、城中、壻の所へ立寄り、罷帰る時、藤田が長柄持松井勘之允といふ者、長柄をば我が手替の中間に持たせ、陣具の為めとて、縄莚等を買ひ候て、通り候を、一甫見付け、松井狼藉を仕ると、詞を懸くる。松井答へて、何とて狼藉と仰せらるゝや。御掟を守り候へば、全く押買にては之なく候。殊に当地は、真田殿町にて候故、一入作法を乱すべからずと、藤田申付けられ候故、非義仕らず候。其証拠は、長柄目附の横貫作太夫断り候間、先にても御聞き候へ、売主も是に居候間、御尋ねあれと、理究を申し候へども、一甫聞入れずして、我が馬の口取の持ちたる鼻ねぢを以て、松井が頭を撃ち候。此者目を廻し候。相役の者共打寄り、其場にては取合はず、松井を青田に乗せ、追分の泊にて、藤田へ右の段々を訴ふ。藤田則ち直江と諸共に、景勝公の御前へ出で、涙を流し申上ぐるは、某体に御役儀を仰付けらるゝ故、軽く御座候て、相備の佐藤一甫、不義を仕り候。去りながら、上より備大将仰付けらるゝ上は、何事も某に相断り申べき所、脇寄仕り候は、某計りを軽しめ申すにあらず、屋形様を重んぜず候。是のみならず、某長柄の者、狼藉は仕らず、証人を立て買物仕り候儀を、一甫酒に酔ひたるか、己が威を、真田方の者に見せんとの分別にて仕り候や、散々打擲仕り候。其様子は、直江言上仕るべく候。佐藤事、武道不吟味、御後闇き者にて御座候。御成敗仰付けられず候はゞ、某自分に成敗申すべく候。斯様の者を、其儘にて差置かれ候はゞ、某組の面々は、申すに及ばず、他組の頭をも、其組々軽く存ずべく候。軽く存じては、下知を承はらず候て、御合戦御勝利御座なき儀なり。某申上げ、無理と思召され候はゞ、御扶持を放たるゝか、切腹仰付けられ候へと、申し捨てゝ、御前を罷立ち候。然る間、直江に仰付けられ、弥〻御吟味なされ候へば、一甫誤に相究り候故、一甫を御成敗に落著す。直江、即ち藤田と相談し、一甫が寄騎の小頭両人、抜井金助・小保方佐太夫を呼寄せ、佐藤が咎の様子を、能く申聞かせ、景勝公御立腹は、一甫御法度を背くのみならず、備頭の下知を請けずして、脇寄仕る事、此度、天下の御一戦に、他国へ御働なされ候に、斯様の不義仕り候。其上、罪なき藤田が槍持を、打擲仕り候は、武士道を知らず。縦ひ罪ありとも、傍輩我者をたゝかれ候はゞ、其主如何と存ずべきなり。まして罪なき者、藤田相備の者にたゝかれ、立腹すまじきや。藤田、大抵の者ならば、其事を聞くと其儘、佐藤に存分を申すべし。佐藤が組は、様子【 NDLJP:249】の合点もなく、我が組親に一味して、藤田に敵対仕り候はゞ、敵前にて中間取合を仕出し、天下の人口に乗るべきを、藤田堪忍仕り、御耳に達し候。扨又、佐藤に擲たれたる松井、目を廻さゞれば、堪忍仕るまじ。相役の傍輩も一味し、其場にて一甫に存分あるべき所に、本人目を廻し候故、傍輩も其通りに仕り、今晩の御泊まで参り候は、是も屋形様を重んじ候て、斯くの如し。藤田兼ねて能く申付けたる故なり。佐藤が所為、言語道断の悪事なれば、御成敗仰付けるゝ間、皆共申合せ、討つて出すべく候。佐藤は時の頭なり。厚恩の御主は、景勝公なり。御意を背き佐藤に与し仕り候はゞ、逆心同然なり。此所を合点致す事、尤もなり。合点仕るまじと存じ候はゞ、有体に只今申候へ、仰付けらるゝ様之ありと、抜井・小保方両人に、直江と御旗本奉行衆、申渡すに依つて、両人の小頭、異議に及ばず候に付きて、其組下にて覚ある者六人と、小頭両人と、八人に能く申含め、御陣所の広庭の脇に隠し置き、討手の検使は、御近習三浦次太夫之を承り、一甫斎を召に遣す。一甫急ぎ参り候所を、広庭にて成敗仕るなり。扨一甫跡の組をば、御旗本の関勘四郎といふ武功の人に御預け。但し藤田備へは、跡部勘内相加はる。右一甫斎組の者共、武士の吟味能く合点仕りたりとて、御褒美下さるゝを以て、諸人恐れ慎みて、其頭を貴み親み候。藤田、存分の如く仰付けらるゝ故、忝く存じ奉り候。松井勘之允には、路銀多く取らせ、暇を呉れ候なり。
真田安房守と、甘数〔糟〕備後守出入の事 三月二日、景勝公、碓氷峠より二里押して、坂本に陣取り給ふ。利家は確氷峠へ押詰め給ふ。信州三組衆は、二日の夜明方、景勝公より一里先に押出す。此時、敵松枝城主大道寺駿河守、二千計りの人数を率ゐて、坂本まで出張し、北国勢を妨ぐべしとて相備ふる。然るを、信州三組衆の内、真田・蘆田は、一二の軍を持つて向ふに、小笠原は山手を廻つて、松枝敵の右手へ斬懸らんとす。敵之を見て、敗軍の旗色になる。景勝公、左様の程合を御考へ、藤田・安田両備を先へ遣さる。敵、此両手の旗先を見ると、其儘敗北す。信州三組衆、競ひ懸りて追ひ懸り、歩者少々踏殺させて引返す。藤田・安田は、其跡をくろめて、相備信州三組衆は、人数を繚め、坂本へ備を入れて、小高き山手を見立て、藤田・安田を窺ひ、越後衆の陣場に渡して、三組衆は坂本町に宿陣す。景勝公は、坂本の陣城に入り給ふなり。【 NDLJP:250】附藤田相備の甘数〔糟〕備後守、小荷駄の牛放れ、真田陣所の馬草を食ひ候故、其牛を真田方へ奪ひ取る。備後守之を聞きて、藤田に断り、此牛を取返すべしと、之ある故、藤田方より、先づ其牛を取りたる者の方へ、使を遣し、此方小荷駄に付け候人歩、牛を取放し、其元の陣内へ参り候を、捕へ置き申さるゝ由に候。左様の事は、互に之ある者に候、返し申され候へと、藤田能登守申す由を、夏目舎人方より申遣す。其者の返事に、牛は此方へ参らず候。縦ひ参り候とても、其元の作法悪しくて、他陣へ参りたる牛なれば、取つて苦しからざる事に候間、返し申すまじきに、況んや此方へ参らず候と申越す故、甘数〔糟、下同ジ〕いれて押入り、取返すべしと申すを、藤田、之を抑へて、真田方へ、右の段々を申遣され候へば、執成の者より返事に、安房守は散々虫気にて臥居り候。後程申聞すべしと申越す故、藤田も腹立し、牛一疋の事なれども、天下の大事なり。甘数、牛を奪はれては堪忍ならず。堪忍ならねば、押込みて取返すべし。其時は、真田返し兼ね申すべき間、真田を踏潰すより外之なく候。其所を分別せざる程の真田にては、之なく候へども、我々を浅く見ての事なるべし。此上は、某切腹に及ぶとも、是非なし、押入り取返すべしとて、組中へ相触れ候は、物頭・物奉行の外は、刀・脇差を初め、刄物は無用に仕り、棒を持ち候へとの事なり。此儀、景勝公の御耳に達し、藤田申分尤もなり、真田共に一人も残さず、敲殺し候へ、加勢を仰付けらるべく候へども、彼の体の者を殺すに、藤田、加勢を請けて、斯くの如しとあるも如何なり、藤田組中計りと仰出され候へども、士大将衆より、若者共を忍に差添ふる故、藤田備九千余、何れも素肌になり、刄者を止めて、棒二三本宛腰に差し、手にも持ちて、真田陣へ押寄する。然る所に、
附右の神保五左衛門は、頃年迄、保科肥後守殿に罷在る神保隠岐守の事なり。父は、本城清七郎家老にて、とちうの城に籠り、御館の時、三郎殿方を仕り、御成敗に逢ひ候。逆心者の子なる故、五左衛門、本名を捨て、三条の甘数近江守内、伯父の名跡に為り、神保と名乗り候。其後、伯父男子を設け候故、五左衛門存念に、実子出来る上は、甥の某、跡を続ぐ事、本意にあらずとて、伯父惜み候へども、窂人仕り、天正十七年、藤田所へ罷出で候。三条に罷在る内、【 NDLJP:252】池の端滅却の時、能き敵を討ち候。其前天正十六年、佐渡へ御渡海の砌、甘数近江守人数安田上総組にて立ち候時、神保五左衛門も罷立ち、高名仕り、誉を顕はし候なり。
上州松枝城を囲む事附宮崎の塞を攻取る事 第一、景勝公、利家公と仰談ぜらるゝは、秀吉公、未だ小田原御発向もなし。其相図を請けて、松枝城を攻むべし。今猶敵気盛なるに、深く働入りても、味方糧の運送不自由なるべし。何卒して、大道寺を降参させて、城を請取り、松枝を根城にし、糧の通路を自由にして、行末の利を得べし。然れば、此城を近く巻きては、城兵気を専にして降〔〈参脱カ〉〕すべし。先づ遠巻して、味方の大軍を示し、敵気を奪ひ、其にて行を為し然るべしと、御相談あつて、景勝公は、坂本より一里押して、城より一里余阻て、碓氷川を前に当て、二万五千を右の手に備ふ。加州の兵は、是も二万計り、左に備ふ。信州三組衆、合せて六千余は、浮勢となつて遥の左に相備ふ。総勢合せて五万余。此大軍を敵に見せ、大道寺方へ、両大将より使を立てゝ仰遣さるゝは、昨日坂本まで出張せらるゝ様子、尤も武道の本意、正に相見え候。早速其城取囲み、攻むべき儀に候へども、其方を卑むに似て、無礼にもあるべしと思ひ候。此迄の儀は、至極に存じ候。此上は降参致され、然るべく存じ候と仰遣さる。大道寺返事に、武士道降参は、是まで押詰められざる以前には、仕る事もあるべし。是迄引請け候上は、切腹と存じ究め候へば、近々と攻寄せられ、勝負の上にて、城を請取り候へとの返事なり。然る故、五日は斯くの如く遠巻なれども、又相談ありて、六日目、三月八日巳の刻より、松枝城を取囲まれ候。景勝公は、山手へ付きて大手安中曲輪へ向つて、西方を押され、加賀衆は搦手へ懸り、本丸の山先東の方を取囲み、信州三組衆は、北は合を取囲み、南一方をば態と明けて、其末に関を居ゑ置き、落人あらば之を捕へて、城中の様子を聞き、城へ加勢あらば、入るまじとの武略を以て、斯くの如きなり。然れば、秀吉公、小田原を御取巻以後、御使あつて、松枝より攻破るべしと、追々仰越さるゝと雖も、堅固の城地なり。雅攻に致さば、味方の人数も多く損ずべし。敵地なれば、攻取りても、後途の分別ある所なれば、城攻延引して、其内に或は放火、或は畠作こなしの働をも仕らず。〈口伝。〉然るに、同国簑輪内藤大和守・廏橋北城安芸守、〈丹後守の弟、〉此両城、北国勢の勇気に惧れて降参し、城を渡すなり。【 NDLJP:253】附猪俣能登守は、北条氏邦重恩の者にて、上州沼田城に罷在り候所、北国勢、碓氷峠を越えたると聞き、無勢にては城を守る事、なるまじく思ひ、沼田を明けて簑輪城へ参り候へども、城主内藤降参する故、猪俣は降らずして、武州の鉢形へ行くなり。是に依つて、沼田を、真田安房守嫡男伊豆守之を持つなり。
附松山城主上田上野介は、小田原に籠り、家老山田伊賀・金子紀伊守・木呂子丹波・難波田因幡四人を、留守に残し置き候所、右は簑輪・廏橋両城の降を聞きて、是も城を渡す故、小笠原人数を以て請取るなり。
第二、小幡上総介・同播磨守昌高兄弟は、甲州家上野先方小幡尾張守の子なり。両人は小田原籠城なり。然れば、戸沢の入南もく西もくの谷を、根城に構へ、末の弟小幡彦三郎に、小幡帯刀・丹羽屋左衛門といふ両家老を、介副にして二百騎相添へ、小幡の内宮崎といふ所に、砦を築き楯籠らせ置き候。景勝公へ、藤田能登守之を伺ひ候は、此処より上道三里近くに、小幡庄三郎持の城あり。御勢大軍、眼前に此砦を見て、其儘差置き候事、如何なれば、先づ之を踏散らすべしと申す。景勝公、尤もと仰せらるゝ故、藤田相備ともに三千七百余、検使は木戸源斎之を遣され、二の見は、村上源五を申請け、三月十七日卯刻、宮崎の城へ押寄せ攻破り、放火致し候なり。此本は、小幡家老小幡帯刀は、元来沼田者にて、夏目舎人助旧緑なり。其故に、帯刀方へ、舎人内天野次左衛門を以て申遣す趣は、簑輪・廏橋、其外、城を渡し降参に付き、松枝・大道寺も、頃日無事の繕に候。景勝も利家も、其辺の小城などには、目を懸けられず候故、其城へ押寄せらるべき模様、今までは之なく候へども、当辺近日埓明き候はゞ、是より諸方へ押入り、相働かるべき筈に候。左候へば、其城を攻破り、根切り致さず候はゞ、兵糧運送の妨げになるべき間、先づ其へ押寄すべし。宮崎を肝要とし、根城南もく西もくの谷には、人数も少く、妻子人質計りの由、相聞き候へば、宮崎には二三頭抑を置き、彼の谷へ攻入り、悉く成敗致し候はゞ、宮崎の者も、人質のある内こそあれ。皆彦三郎殿に心を放すべし。其時宮崎を攻め破るべしと、此方内談に候間、其城の滅亡と存じ候。哀れ某を頼まれ候藤田能登方へ、降参然るべく候。左なくば、宮崎を捨てゝ、戸沢の入へ引籠り、節所を構へて、防がれ候はゞ、一往は持忍へらるべく候。某旧緑の筋目故、元の能き様にと存じ、濳に申入れ候。日限聞定め候はゞ、追て又申入るべく候、両条の返事相待ち候と、如何にも懇に使に申含め、【 NDLJP:254】書状を添へて之を遣し候。帯刀、則ち彦三郎へ申し候へば、彦三郎申すは、降参の儀は、思も寄らざる事なり。北条家へは近き幕下なれば、道理に依つて、叛きても苦しからざれども、両兄、此城を某に預け、小田原へ籠城す。其を捨てゝ、命を助かるは、主と兄へ二つの逆意なり。舎人より申越さるゝ如く、宮崎を捨て、戸沢の入へ引籠り、有無の一戦を遂ぐべし。其儀を頼み、返事申遣し候へとて、使天野次左衛門には、金子を与へ、舎人方へは刀一腰贈られ候。右の通り策調ひ、其夜子の刻計り、藤田打つて出で、宮崎辺に忍び居る。舎人助は夜明方に、戸沢川南西の方へ廻り、西の虎口へ帯刀を呼出し、俄に両大将相談にて、今卯刻、松枝より此城へ相働く事定なり。此事を知らせ申さん為めに、某忍びて参り候。早々御引取り候へと申す故、帯刀下知して、西の虎口より人数を出す。其様子を見て、藤田へ舎人告げ知する故、兼ねて相定むる如く、村上は、東方より宮崎へ攻寄する。藤田は南方へ廻り、退敵を追撃に仕るか、或は敵返して城を持ち候はゞ、村上は二の見を堅むる定なる故、村上相備衆を二手に分け、其内に、又別手の法を定めて、鬨を作り攻寄する。小幡衆弥〻周章騒ぎて、取る物も取敢ず、引払ひ逃散る故、村上源五、采拝を取つて之を攻め、終に宮崎を乗崩し火を懸くる。藤田は、下知して、逃ぐる敵を追懸くる。舎人助は、此計らひをなしたる儀なれば、増毛但馬に預け置きたる我が組子を招き寄せ、真先に進みて、宮崎坂口にて敵を追詰むる。其敵の内に、茜の
附此時、神保に切込まれたる脇差は、刄なども打かけ、悉く損じ、役に立たず候へども、能き物なりと申伝へ候故、舎人助窂人仕り、関根に居候時まで、所持致し候。然るを、本田豊後守殿の親父越前殿、其時、白井在城なり。之を聞及び見られ候へば、相州正宗に疑なく候。身は役に立たず候へども、中ご計りも重宝なりとて、達つて所望之あり候に付き、神保、武道を稼ぐ心懸、強士なれば、右の様なる聊爾の詞あるべきにあらざれども、其時、藤田旗本に居候故、後れて来り候内、舎人は早や組頭なれども、能き敵二騎まで討ち候へば、神保、其を羨み上気になり、斯くの如しと相見え候。舎人に断られ、真勇の本性に返り、早く合点し御免候へと申し、先へ行きて手を塞ぎ候故、弥〻いれたる気落著き、
附右宮崎表、藤田下知して、戸沢川までを追留と定めて、敵を追撃つ。村上は宮崎南西を初【 NDLJP:256】め、其辺を悉く放火す。是組中を二手に分け、其一手を以て斯くの如し。残る一手をば纏めて、藤田が二の見を守る跡より、静に押す。此様子見事なり。謙信公の威風香し。其より後、何れも人数を繚め、宮崎焼跡にて凱歌を行ひ、備を納む。景勝公御悦喜なり。羽柴利家卿も、景勝公へ御出の時、夏目舎人を召出され、御褒美御懇の様子、以後までも斯くの如し。
附其時、小野寺刑部・石坂与五郎なども心緒仕り、舎人詞を交すなり。
附湯浅七右衛門奪首仕り候に付きて、舎人助、我が組の沢田作左衛門を召され、甘数備後守所へ行き、御内の衆、奪首致し候間、其首を返され、急度仰付けられ然るべしと申す。備後守返答に、我等内、左様の比興者之あるまじき儀なり。然れども、穿鑿仕るべし。其方に其証拠ありやと申さる。舎人即ち沢田を呼出し、此者取り候首を、御内の者、白地に黒二引の差物差したる人、後より来り、沢田を押倒し、首を奪ひ申し候。其に証拠之あり候間、其差物共面々の名札を付けて、御出させ候へと申して取寄せ、彼の切りさきたる差物に、其切れを押当て見せ候故、紛るべき様之なく候を、此処にて備後、殊の外立腹し、斯様の臆病者を召仕ふは、某が不吟味なり。其を其儘置かば、諸人に悪事を教ふるなりとて、彼の者を召出し、手討にせんと申さるゝを、舎人之を制し止め、先づ藤田と御相談候へ、余の備までの為めなりとて、奪ひたる首を持たせて帰り、高名帳に付けさせ、藤田に申し候へば、頓て甘数を招き、相伴ひ、御本陣へ参り言上仕る。景勝公仰せらるゝは、士にても武道を知らざる者は、下人なり。士は本心の臓より思案工夫して、分別するものなる故、科あれば切腹申付くる。下人は首本にて思案する故、締なく、落付きたる分別なし。此故に科あれば首を切る。女人は鼻先き計りの智故、科あれば
此湯浅七左衛門と申すもの、甘数備後守被官なり。今度、於㆓宮崎表㆒、夏目舎人助、敵をつきおとし、組子の沢田作左衛門に、首をとらする処を、湯浅うばひ取り候事、大臆病之働、筆につくしがたし。其とがにより、如㆓御掟㆒申付候。湯浅子々孫々は不㆑及㆑申、至㆓于先祖之悪名㆒不㆑可㆑遁者也。仍如㆑件。
天正十八年三月十八日 奉行 甘数備後守【 NDLJP:257】斯くの如き札を添へ、七日まで路に曝すなり。加賀衆も一入、上杉家弓矢の法を恥ぢ候なり。
永井右衛門太夫は、甲州家上州先方永井豊前守舎弟なり。豊後守死して後、甲州滅亡し、其後、謙信公も御逝去あつて、上州へ属し、北条家の時、此右衛門、意地を立て、北条家へ敵対す。されども後楯なく、終に押倒されて窂人す。兄豊前守は、藤田能登守伯母壻なるを以て、前田を頼み、去る天正十三年六月、越後へ来る。依つて景勝公へ申上げ、我が備をかして預り居候。幸此度、本意の好時節なりと、藤田思ひて、三ッ山の地下人共方へ計策す。信濃・上野国風、賤民まで其筋目を存じ、譜第の主なりとて一味仕り、申越し候は、今程近辺に平豊後守とて、北条家の士卒に揆場を築き、五百余の小勢にて罷在り。其外は、さのみ手に立つ者之なし。片時も早く御働き、右衛門太夫殿、御本意をさせ参らせられ候へと申越す。是に依つて、三月廿五日申刻、藤田能登守一備、松枝を立つて、夜中に三ッ山まで、八里計りの道なれば、其夜寅刻、平の近くまで著き、人馬を休む。地下人共、前方より待請けて案内し、明くる廿六日辰刻前に、平を取巻く。俄の事なれば、豊後守より、北条氏邦へ加勢を乞ふ事もならず、小勢を以て、藤田に楯つく事なるまじと存じ、子の一郎を、早々人質に出して降参す。藤田、之を許し、平を巻解し、三ッ山へ引取る。三ッ山城は、氏邦破却の跡の地なるを、藤田縄張をし、普請を申付くる。昔より永井領地の所の者は、いふに及ばず、近辺の者共までも悦びて、右衛門太夫を渇仰する故、地下士共打寄つて、早や百騎士大将になる事、藤田蔭にて斯くの如し。然るに、右の平豊後守、敵の威に恐れ、力及ばず降参仕ると雖も、譜第の主氏邦を捨て、故もなく藤田に降参する事、本意にあらずと思ひて、氏邦へ申通じけるは、藤田能登守、当地へ押入り、永井右衛門を本意致させ候。某思設けず、其上無勢に候へば、一旦の命を助かり、後忠を抽んづべき為めに、敵に降じ候。敵の様子を見候に、藤田人数漸く三千余、四千足らずと相見え候。殊更永陣に疲れたる者共なり。永井右衛門にも、七八十騎附添ひ候へども、是は地下士共にて、強みの方へと便る族に候へば、手に立つ事にてなし。然れば御人数を率ゐて、御働きなされ候はゞ、三ッ山城も未だ出来ず候へば、出張して一戦を結ぶべき【 NDLJP:258】は必定なり。某、藤田備の内にて、裏切仕り、跡先より之を撃ち候はゞ、勝利を得べき事疑なし。先年、藤田、沼田城へ勝頼を引入れ、城を渡し、御内の能き者共を、多く討死致させ候事、其遺恨を散ぜらるべきも、此時に候と申入る。氏邦、願ふ所の幸なりと悦び、来る四日は吉日なり、相働くべしとて、七千人数の備の首尾内談なり。然るに、氏邦の近習志津帯刀と申す者は、元来藤田被官筋の者なる故、右の密計を申知らするに依つて、四月朔日、藤田より甘数備後守へ申渡され、三ツ山城取の様子、平の豊後に談合致すべしとて呼寄せらる。豊後異議なく、甘数同道にて、二一ツ山の藤田小屋へ来る。此討手、初太刀は神保五左衛門、二の太刀は夏目舎人、藤田前にて仕るべきなり。若し仕損じ候はゞ、藤田と甘数と仕るべしとの内意、次の間中老の頼もしき士四人助太刀に定められ、近習児小姓共には、其儀を申聞けられず、唯相詰め罷在るべしと計り申さる。此用意は、豊後武功、殊に太刀剛強の士なる故なり。其討様は、盃を出し、平に藤田詞を懸け候時、初太刀を打てとの相図なり。豊後程の者をきたなびれて、庭中或は座席の隅などにて、だまして切るは如何。其上、内の者共をも宿へ帰すべき為めなりとて、斯くの如きなり。扨豊後守来りて、座敷へ通り候と、今晩是にて料理給はり候間、帰り候て認致し、迎に参り候へとて、内の者を帰す。座敷にて、藤田・甘数・豊後対談の上、盃を出す。酌取は舎人、肴は神保持ちて出で、其座敷の内を見繕ひ、跪いて居る。藤田呑みて平に差す。平頂き候時、藤田申すは、其方事、氏邦へ内通の由、慥に申来る。虚か実か、有体に申され候へと申す。平、盃を下に置き、其申分仕るべき体なる所を、舎人、銚子を平に投げ付けて、初太刀を打ち、神保は二の太刀を打つ。是れ神保油断にては之なく候へども、肴を持ち居る故、舎人より少し遠く罷在るを以て、斯くの如し。然れば次の間に居り候助太刀に及ばず、両人、二太刀にて切留むる。豊後も剛士なる故、舎人に頭を割られながら、脇差を抜き、舎人には構はず、藤田を目懸けて、手裏剣に打ち、我が右の方に居たる甘数へ飛付かんとする所を、神保、二の太刀にて切留むる。危きかな。藤田跪いて居たる膝際へ、豊後が投げたる脇差五寸計り、裏を返して立ちたり。此儀に付きて、藤田、舎人へ申聞けらるゝは、今度の働、能登守を軽んじたる仕形なり。我等、存念ありて、神保に初太刀を申付くる所、其方、一度も事に逢はざる忰の如く勇み過ぎ、静まらずして、申付けぬ初太刀を打つ事、武道の本意にあらず。神保、少し座敷遠けれども、我等申付けたる事なれば、誰あつて【 NDLJP:259】か神保を越えて、初太刀を打たん。豊後言分を仕るべしと存じ、唯今、成敗に逢ふべしとは、存じ寄るまじき所を、初太刀を打ちたる儀、手柄にてもあるまじ。結句、其方に討たれて、豊後、気の付きたる所を打ちたる神保は、二の太刀なれども、初太刀よりは手上なるべし。所詮申渡を背きたる科を以て、神保初太刀なりと、御耳に達すべしと申されて、斯くの如く披露あり。〈口伝。〉去れども、褒美物は神保には豊後が刀一腰、舎人には豊後が脇差に、豊後鹿毛といふ関東に聞ゆる程の名馬を添へて給ひ候。此様子、越後家の古き侍にて、存生の落合清右衛門・石坂与五郎など能く存知候。右豊後を成敗して、藤田相備の竹の俣・松本両手に、跡部甚内を差添へ、平へ遣し、豊後守、不義に依つて成敗申付け候間、奉公の望あらば、何方へも罷出で候へ。又他国へ参り候はゞ、早々立退き候へと申渡す。平の者共、過半は永井右衛門被官筋目の者共なれば、大方は右衛門太夫に属す。其外、昨今の新参者は、思々に立退き候。二三十人、豊後譜第の者共なれども、何れも思々の様子を見、心弱く、是等も一つに立退き候内、平主殿といふ者一人と、外三人申合せ、我々を初め、譜第重恩の者も、之あり候へども頼み難きは人の心にて、散々になり候。此者共、人たる心を持ちたる奴原ならば、踏止つて、豊後跡をもくろめ、ならざるまでも、一矢射出し申すべく候へども、此体になり果て候へば、我々四人、働きでも無益とて、切腹仕るなり。誠の武士なり。右の通、平豊後守が内通露れ、成敗に逢ひ候由、氏邦聞きて
附豊後守人質一郎は、藤田に御預け置き、関東陣以後、景勝公召出され、仰渡さるゝは、父豊後守、藤田成敗致したる者なれども、古主氏邦へ、変心せざる所は、武士の本道なり。北条家は絶え果てたり。父孝養の為めに、助け置かれ候間、古を忘れ某に対し、忠勤仕候へと仰出さる。一郎有難く存じ奉り候。越国他国ともに伝聞きて感じ奉るなり。去りながら三年目、病死して絶ゆるなり。
附権現様、関東御入国の時、永井右衛門儀、藤田能登守より、直江山城守を頼み、直江より榊原式部大輔へ申遣し、榊原執持を以て、権現様へ召出され、永井右衛門、上州三ッ山相違なく下され候なり。 【 NDLJP:260】松枝城主大道寺駿河寺降を乞ひ開城の事秀吉公、筥根山中城を攻破り、四月二日より小田原を取巻き給ふ由、北国両大将聞き給ひ、相談し、松枝城主大道寺駿河守方へ、申入れらるゝは、持堅めらるべき城と存ぜられ候はゞ、早速攻破るべく候。降参仕らるべきならば、相談せしむべく候。急度分別、返事申越さるべく候と申入る。大道寺駿河守・同子息新八郎、免角叶ふまじと思ひ、恐る〳〵詫言仕り、一身の事は是非なし。諸人を助けたく存じ候間、城を渡し申すべく候。下々相違なき様と返答ある故、四月五日、城を請取るなり。簑輪・沼田・厩橋並にをな淵は勿論、其外の城々、悉く相渡して降参するもあり、明けて退散するもあり。去るに依つて、簑輪には蘆田、沼田には真田、厩橋には加賀衆の中川武蔵を差置き、残る城にも、人数を籠むるもあり、破却するもあり。同月九日、大道寺を先手とし、武州鉢形へ取寄する。上州三ッ山の城普請も成就故、永井刑部・落地左近に五十騎差添へ残し、右衛門太夫をば同道、藤田能登守三ッ山を立ち、きべ河原まで押出し、景勝公の御備を待請け、其より先へ押行くなり。上杉家の備は、松枝より上道八里程
附右奈摩山近所八幡山、昔は雉が岡といふ。是は舎人助四代先、夏目豊後守定基在城、其子定盛が代になりて、相州長尾居城の後、鉢形領となる。〈前に之を書記す。〉故に鉢形城主氏邦より、横路左近将監に預け給ふ。但し小田原陣の砌は、八幡山城をば掃捨て、氏邦と一所に鉢形に籠る。此左近は、氏邦の御座をなしたる者なり。
管窺武鑑下之上第七巻 舎諺集 終この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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