管窺武鑑/中之中第五巻
一、小笠原河中島へ動入る処清野追払ひの事附村上海津城代を除かれ畠山を置かるゝ事 二、尾味御成敗の事附須田誉に付きて様子を仰渡さるゝ事 三、須田野心に付きて御成敗の事附畠山海津城代を除かれ、隅田相模守を置かるゝ事并畠山出奔の事 四、藤田能登守佐渡渡海の事 五、藤田能登守二度河原田へ勤めの事 六、秀吉公より景勝公へ御便の事附景勝公越中へ動かれ、宮崎城攻落さるゝ事
【 NDLJP:146】管窺武鑑中之中第五巻 舎諺集 小笠原、川中島へ働入り、清野追払の事附村上、海津城代を除かれ、畠山を置かるゝ事
第一、天正十一年癸未、景勝公、柴田へ御発向、川中島衆御供に付いて、信州松本深志の小笠原、三千余の兵を率し、九月初、川中島へ働入り、尾味城に抑勢を置き、猿ヶ馬場あなたの麓迄来りて、清野左衛門佐が龍王城を襲ふべきの由、之を聞く左衛門佐は、柴田出陣なり。父清就軒、隠居ながら留守にて在城、敵に峠を越えさせては、城中小勢にて防戦危しとて、城より出で山手を取りしき、人数を隠し、城兵四十騎許りなるを、城内共に三つに分つ。然れども五六千にも見ゆる如く、備立仕るは、信玄公の代より武功の士大将故なり。されども、小勢なれば懸つて一戦すべき様なく、敵を川中島へ入れざる手立許りなるを以て、程近ければ、海津の村上源五方へ、早打を以て、其辺の人数早々相催され、左なくば、手勢許りにてなりとも、急に加勢あるべし。小笠原をば、我等一手にて他へ働かせざる様抑へ居り候。加勢に於ては、同勢に用ひ、我等人数を以て、懸つて敵を切崩すべく候。又対陣に及び候とも、とかく敵引取るべし。其時、御下知を用ひ、山手より人数を廻し、尾味・青柳の方より斫懸らせ、後よりは喰留め候はゞ、小笠原共に討取るべしと申遣す。村上、頃日病気なる間、出勢なるまじと許りの返事なり。清就軒、重ねて申遣すは、人数計りにても差越さるべし。それも如何と存ぜらるゝに於ては、信州留守の衆へ触れ遣され、寄合武者なりとも、二三十騎差越さるべし。長沼組・海津組とて、分れたりと雖も、分らざる御定なれば、貴殿の御下知を違背の者、川中島四郡の内、一人もあるまじ。我等も長沼組にて候へども、貴殿へ義を得候事は、内内の御諚を相守つて斯くの如きなりと申すと雖も、村上二日迄遅々故、島津へ申遣す。島津早々出勢と雖も、馳著かざる内四日目、九月十一日の暁、小笠原退散す。三千の人数を九備に作り、三備に尻払を申付け、段々に合戦を持つて退く。清就軒、采配を取り、是迄働きたる敵を、難なく返す事無念なりと、懸つて歩者二三十・士五六騎之を討取りたるは、三十騎を一【 NDLJP:147】備に作り、残る十騎雑兵合せて四五十余の備を、山手へ付けて、半に備を下し懸る。其人数、見えつ見えざる様に、旗を多く飾り立て、二の合戦を持つて、河の此方に備ふ。又地下人を駈集め、六七百許り紙の小旗を作り持たせ儘き亙つて、犀川の上の山間を越え、猿ヶ馬場の山下へ、押廻さする武略をなす故、敵之を見て、中々返さずして引取る。清就軒自身、三十騎の人数を以て、敵少々討取り、敵の北ぐるを幸にして、手早に引返すなり。
第二、右の様子、景勝公御聞に相達し候所、信州衆の面々、地下人町人にも御尋ね、相違之なきに付いて、村上源五国清へ仰渡さるゝ趣は、其方儀、義清の子息なれば、臆して斯くの如くなるべしとは申難し。景勝を疎略に思ひ斯くの如きか。小笠原に心を通じて斯くの如きか。此二に洩るべからず。仔細は、海津組の支配を仕る上は、病気ならば手勢を分つて、早々、清就軒方へ加勢に差遣し、組中留守居の面々は、申すに及ばず、近辺の長沼組へも申遣し、兼々申定むる如く、加勢を遣し候はゞ、小笠原を討取るべき様子なるに、三日迄其沙汰なく、清就軒一人の采配に任せ置く事、沙汰の限なり。海津表は、敵地の境にて大事の所なれども、其方に申付け候儀は、義清、窂人して越後へ来り、謙信公を頼み、更級へ本意有りたしとの願故、謙信公、信玄と弓矢をとり、信州を争ひ給ふと雖も、諸方敵対一方ならざる内に、義清も死去、謙信公も御逝去、本意ならざる所、此度我が代に、其方を海津へ遣し、更級郡を附与せしむる事、前代の筋目、又は謙信公へ孝心を存して斯くの如きなり。然るに、其事を等閑に存じ、今度の様子は頼もしからず。ゆく〳〵、川中島を敵に取らるべき事眼前なり。申訳は直に承るべしとあつて、春日山へ召寄せられ、海津城代を止められ、其代として、畠山民部少輔を仰付けられ遣さるゝなり。
第三、清野清就軒へ御感状下さる。
今度小笠原、川中島へ相働之刻、海津の村上、疎意を不㆑顧。其方以㆓一身之覚悟㆒至㆓于猿ケ馬場㆒而令㆓出張㆒、兇徒悉追払少々討㆓取之㆒。其佳名莫大最至功無双之誉也。為㆓此賞㆒於㆓更級郡㆒一所出置候。弥〻後動〔働〕専一に候。委細息左衛門佐に申含也。仍状如㆑件。
天正十一年十月五日 景勝
清野清就軒へ
是は、景勝公、柴田より御帰陣、清就軒の子左衛門佐御暇下され遣さるゝ時、清就軒へ御感【 NDLJP:148】状下され候なり。
第一、天正十二年甲申、信州長沼組の尾味逆心の事は、去年景勝公、柴田御在陣の御留守に、小笠原働入ると雖も、清野に追払はれ、退散は川中島に与力の便なく、糧の運送も、不自由故と、小笠原分別し、尾味左兵衛督を語らひ、一味致すならば、尾味を根城にして働き、川中島を手に入るべしと計策す。尾味同心して逆心仕る由、景勝公聞召し、時日を移さず、三月十三日、御馬廻二千許りにて、春日山御出馬、其日は関の山に御陣、十四日は長沼御著城、彼の地へ信州衆を召集められ、仰渡さるゝは、尾味逆心征伐遅々せば、小笠原相加はるべし。早速、尾味が城を屠破るべし。先手へ藤田能登守に、旗本組を差加へて付くる間、信州の面々、其趣を存ぜらるべしと、直江山城守を以て、之を仰渡さる。信州衆、何れも申さる。御人数は、柴田御陣に疲る。我々は御留守に罷在り、其上、所の案内なれば、御先は川中島の者共に、仰付けらるべき義に候と申上ぐる。景勝公、重ねて仰せらるゝは、川中島衆、尾味と同国にて、尾味も各〻の弓箭の格を知つて、仕能き事もやあらんと思ふなり。藤田が風義は、尾味は知るまじ。尾味が格は、各〻に藤田聞きても知りやすし。武功のある藤田なれば、先を藤田に申付くるなりと、仰聞けらるゝ故、信州衆、何も〔〈脱アルカ〉〕いれて、此度、武功を励むべしと思ひ入る。就中福島城主須田左衛門尉抽んでて言上仕るは、我々を
右落城は、尾味左兵衛油断故なり。山中嶮難なれば、夜中に敵、働来るべしとは思寄らず、夜明けて後にと押詰めらるべし。城地堅固なれば、景勝向はるゝとも、容易く落城はなるまじ。其内に、小笠原後攻をも致すべしと存ずる事を、須田、考へ積り、前方透波の者に小者共を差添へ、山々へ人数を廻し、木の枝々に炬を結付け置き、鬨を揚ぐるを聞きなば、彼の炬、一度に火を付けよと申付け遣す。須田、案内は能く知りたり。潜に押詰めて、城を巻き鬨を揚ぐる。城中油断の事なれば騒動す。ましてや、山々の
附尾味左兵衛督をば、見懲の為め、尾味山下に磔に懸けられ候。
附同十六日の暁、小笠原、四千余の人数にて、鳥井峠まで働来り候へども、尾味落城を聞きて、早々逃入り候由、透波共来つて註進仕るなり。
第二、尾味落城以後、須田左衛門尉へ、直江・藤田に、甘数〔糟〕備後・大石播磨を差添へられ、仰渡さるゝ趣は、今度の働、最も誉なりと雖も、御掟を背き候へば、真実の忠義にあらず。若し仕損じなば、景勝公御旗を向けられ、尾味程の者を討洩したりと、其方の事をばいはずして、景勝公の
第三、右の四人を以て、信州衆を召出だされ、御直に仰渡さるゝは、定め置く所の法令を、背くの族は、如何様の大功ありとも、諸人、景勝を軽く存じ候ては、味方勝利を失ひ、国の仕置も逆になり、滅亡の本なる間、逆心同前の罪科に申付け、妻子ともに成敗すべしと、御誓言を以て仰渡さるゝなり。
附尾味城をば掃棄てられ、青柳の春日源太左衛門・同兵庫兄弟に、尾味半領を御加増に下され、与力同心を附けられ、青柳の居館を、堅固に城普請仰付けられ、小笠原筋の抑になされ、御馬人なり。
須田、野心に付いて御成敗の事并畠山、海津城代を止められ、隅田相模守を置かる附畠山出合の事第一、同年五月中、福島の須田左衛門尉、城普請を仕る。海津組なる間、畠山より其断あるべき事なれども、其義なき故に、長沼の島津淡路守より、畠山へ相尋ぬる所、一向取合はずして、日数を経るに依つて、島津より須田方へ、両使を以て申遣すは、御持国諸境目ともに、上へ義を得ずして、城普請は堅き御法度なり。此四郡は、畠山と某と両職の御定の上は、我々見【 NDLJP:151】分致し、善悪の吟味を遂げ指図仕る事に候所、其様子申されざる儀、存外に候。但し上より御直に仰付けられ候や。左候はゞ、御証文一覧仕るべく候。さなくば、城普請急度相止めらるべしと申遣す。須田、野心故返答に及ばず、両使を捕へて成敗し、謀叛の色を立つる。島津、両使を遣す時、別に又使を差副へ、追々の透波を用ふる故、右の様子を聞くと其儘備を出す。予麻瀬・寺尾・保科左近・大宝春日左衛門を初め、福島近辺の大身・小身共に、福島城へ遠寄して、須田を逃げざる様に仕り、海津在番衆、其外、西条・東条を先として、其近隣衆は、畠山に心を付けらるべく、油断あるべからずと申遣して、島津淡路守は、手前の人数並に長沼在番衆を率ゐて、福島へ押出し、備を定め采配を取つて、無二無三に懸つて、城を乗破り、左衛門尉を初め、悉く討取り候。城半造作なる所へ、不意に迅速に寄せける故、斯くの如く、手間取らず落城なり。左衛門尉も、武勇の士なる故、本城に籠りたる時、櫓に上つて寄手に向つて申しけるは、某、野心を存じ斯くの如くなれども、不運故自滅仕り、奇麗に討死すべし。何れも歴々なる間、手合し給ふべしと申して、櫓より下り、木戸を開いて斫つて出で、四度の攻合に、左衛門尉、手に懸け四人突伏せ、五人目に島津足軽大将武藤団兵衛といふ勇士と、互に刀にて切結び、相討に討つて、両人ともに、其場にて即時に死にたり。須田附属の士、思ひ思ひに働いて、過半切死仕る。生残りたる者共は、捕はるゝの所、以後景勝公其時の首尾を御僉議あつて、命を助けられ、夫々に預けらるゝもあり。或は御成敗、又は坂を越えらるゝもあり。味方も百五十人余、雑兵ともに討死す。
第二、右の段々、島津方より春日山へ言上仕る。景勝公、御褒美斜ならず。扨又、畠山振合、島津不審に存じ候通り、少しも違はず逆意の事、春日山へ、結句早く相聞え候に付いて、島津方へ、畠山を迎へ取り、春日山へ差越し候へと仰遣はさるゝ故、島津、人数を召連れ、海津へ参る、兼ねて島津海津近辺の衆加番衆と、畠山家来衆と入交ぜ、本丸二三廓迄、取詰め居り候様にと申候て差置き候故、畠山、異議に及ばず、同道にて長沼へ帰る。夫より相備の内、小備衆二三手に、弓鉄砲の足軽を差添へて、春日山へ送届くる。鉄上野介請取つて之を預る。宇野民部少輔と、大石源之允と両使に、鉄上野介を差添へられて、御尋なさるゝ所に、畠山申さるゝは、須田左衛門尉、当春尾味へ相働き、忠勤を抽んづるの所、存じの外なる御擬作の憤に存じ、種々某に語り申さるゝは、蘆田・真田方へ縁の之ある間、川中島へ引入れ、須田、裏切を【 NDLJP:152】致し候はゞ、四郡斬随へ申すべし。左候はゞ、四郡を我等に与へ、主君に仰ぐべしと、誓紙を以て申候に付いて、御代々の厚恩を擲ち、邪欲に引かれ候て、密々に逆意を企て候事、天罰遁るべき様之なく候。某、己れ命は、
第三、海津城代隅田相模守を差置かるゝ作法、前に同じ。掃〔払〕捨てられ、須田領知の内、今度の賞として、島津淡路守に下され、相残る分は、五七人に御加恩として之を下さる。
附右隅田相模守は、謙信公御代より、武名老功の士大将なり。
附太閤秀吉公、山州伏見木幡山城普請の時、隅田右衛門近習石黒小太夫を成敗の事は、妻の儀に付いて、様子あつてなり。其時、右衛門、上杉家を立退き、京へ引籠り候。右衛門舎弟隅田大炊頭は、後迄景勝公召使はれ、奥州柳川城御預り、爰にても誉あり。大坂御陣の時も、成功あつて、両御所様より、御感状頂戴仕る冥加の士なり。
附翌天正十三年乙酉の春、畠山家老二階堂主計、主人畠山を盗み出す事は、景勝公御内意にて鉄上野介心得なりといへり。畠山、斯様になされたる故、二階堂主計等、本国なれば、能登へ行き忍び居り、伊勢の御師に頼母しき士を、一人仕立て、互に志を通じて相図をし、能登よ【 NDLJP:153】り船を用意し、越後直江ノ津の上小田明神迄乗著け、春日山城下蟹津へ、夜中に忍来る。相図の如く、畠山は女乗物にて、女房二三人召連れて、出でらるゝを、内室なりと見て、敢て咎めざる者なれば、畠山殿の奥御屋形様へ入らせられ、声高に申すななどとて、難なく出でられたりとなり。畠山の内室、畠山へ申され、男子をば残置きて、娘を一人同道あつて、秀吉へ奉公に出され候はゞ、其内縁を以て、御運を開かるゝ事もあるべし。其上にては男子も出づる事安かるべしと差図に就いて、息女一人同道し、能登へ無事に著きて蟄居なり。程経て後、石田治部少輔を頼み、彼の息女を秀吉公へ進めらるゝ故、程なく太閤へ、畠山出仕なり。其後、太閤、景勝と御和睦あり。息女の内縁を以て、太閤聞召され、景勝へ御乞請け故、子息達を畠山へ返さるゝなり。内室も一所に引越され候へど、景勝公、
附太閤薨じ給ひし後、権現様、畠山を召出さる。上条入庵是なり。入庵の子畠山長門守は、景勝公の甥疑なし。
藤田能登守、佐渡へ渡海の事第一、柴田因幡守一个を以て、始終危しと思ひ、佐渡へ頼み計策す。北佐渡の河原田城主本間佐渡守同心する故、新保・片山・五十里・沢根・吉井などを初め、北佐渡加毛郡衆、皆柴田と一味し、其差図次第に、越国へ渡海して、柴田に戮力すべしとの儀なり。南佐渡羽持城主本間三河守は、同心せずして申すは、佐渡は三郡の小国なれども、古より弓箭を能く取り、越国の謙信、二度渡海あれども、随はずして二年迄は、持
附今年は、謙信公七回忌故、五智の如来堂にて、七万部の読経、正日より七日迄、一箇月に一万部御執行、其内、種々の作善を尽さるゝ故、何地へも御手遣なく、諸方へ抑計り、之れを差遣さるゝなり。佐渡へ御人数遣さるゝに付きて。
一、藤田能登守を御前へ召出され、仰渡さるゝ趣は、今度、某軍代として、其方を佐州へ遣さるゝ上は、万端、存分に任せ執行ふ所専一なり。自然当方の面々、北国の行に乗せらるべき事、口惜しき間、自身も渡海ありたしと雖も、謙信公の御追善もあり。是に因つて、其方へ申付け、某が手に採麾を預け遣すなり。某に代り分別尤もなりと、品々有難き御詞、御直に仰聞けらる。
二、藤田相備の面々も、即座に召出され、仰付けらるは、此度、佐渡への手遣、遠慮多しと雖も、人を選み之を遣す上は、必定其本意を遂ぐべしと覚え候間、能く〳〵示し合せ、勝利を得候所大忠の至なり。然れば、某が手に取る所の采配を、藤田に貸し預け、軍代を申付け遺す間、某同前に藤田を崇め、彼の下知を相守るべきなり。謀は広く洩らさずとあれば、其内意は、藤田一人に之を申渡す間、何れも彼の下知に背き、我が意地々々にて、衆議なき一味は、敵の為めに擒るゝ事疑なし。一統の令を背く者は、其本を正し、逆心同前の大科と、謙信公の掟なれば、各〻其旨を存じ、相稼ぐべき事肝要なりと仰聞けられ、御盃を下さるゝなり。【 NDLJP:156】 右天正十二年四月廿八日の儀なり。
第二、同日藤田能登守、春日山三の丸我が屋敷へ、相備の面々を呼集めて、申渡さるゝ趣は、今日上意の通、此度、佐州への御軍代を仰付けられ、仮に御采拝迄預け下さるゝ事、有難き仕合に候。去り乍ら、心得難く存ずる仔細は、御当家の御先手七手組の備大将仰付けらるゝ儀、唯今の儀に候。御供の御先にては、御威光を借り候故、相備衆、某の下知に違背なり難く、夫さへ某、新参といふ物おかしく存じ候へども、仰付けられ候故、是非なく候。剰へ今度、佐州にて某一人采拝、誰とても事可笑しく存ぜらるべき儀尤もなり。各〻左様に存ぜられ候はゞ、其下の者は、上を真似て、某を軽く思ふべし。軽く存じなば、某が申す儀、一つも役に立つまじ。其時は、憖に斯様に仰付けられたる事なれば、少しは腹立の気出づべし。然らば弥〻首尾調はずして、味方の勝利を失ふ事眼前なり。御軍代の御請を申して、却つて悪事を仕出さんよりは、誰ぞ重々しき方を遣され、首尾調ひ候様に、御断を申上ぐる事、誠の忠義にて候へば、左様に仕るべく候。今度某を、佐渡へ遣さるべきも、遣さるまじきも、各〻分別次第に候間、唯今直々に、面々の存分を承り、御屋形へ訴訟申上ぐべく候。右の存念之あるに付いて、御采拝をば、先づ直江殿に預け置き、御前を罷立ち候。各〻の覚悟を承り、勝利の所を胃に落し候はゞ、重ねて御采拝を頂戴預り申すべしと申さる。相備衆申さるゝは、其趣仰せ迄も之なく、御差図毫頭違背申すまじく、藤田殿の下知は、御屋形の御下知なれば、それを相守らず候へば、逆心同前の御掟、面々得心尤も至極と存定め罷在り候へば、能く〳〵示合せ、一統仕るべしとの返答なり。藤田聞きて、満悦至極仕り候。左候はゞ、各〻一手切に連判になりとも、別紙になりとも、血判の誓紙を申付けられ給ひ候へとて、前方認め置かれたる案文を渡さる。相備衆、尤もと同じて、熊野の牛王に、誓紙一手々々より、藤田方へ相渡し、此旨、藤田言上して、御采拝を直江より請取り、同五月二日丑刻、春日山より出陣し、其日上道七里、柿崎に陣取るなり。此初日の押前に、春日山より一里押し、府中の東を北へ流るゝ川を、喜多川といひ、信濃より出づる川なり。それに懸りたる応解の橋を越えて、黒井川の船渡迄、一里程あり。其間を臥間屋の原といひて、大なる原あり。爰にて前方より定めたる一二三段、前後の手分手組手配の備を立設け藤田旗本にて、貝・鐘・太鼓の儀式を以て、備を転変し、衆議一致の作法を見届くる。然れば、赤田衆六十騎を、三十騎宛二手にし、外合内離の備、合へば【 NDLJP:157】離れ、離るれば合ふなり。手組手分して、三十騎は、陣代の斎藤兵部下知、三十騎は饗庭主殿に預くる。之れ一備一騎宛の目附武者十二騎の内なり。藤田下知を以て、各〻斯くの如し。之れ衆心一括相和して、百戦百勝の利なり。然るに、饗庭が三十騎の一手、隊伍完からず、進退動静起坐結解、敢て金鼓の法を守らず、嘗て旌旗の令を用ひず、其度を失ひ其節を乱る。是に因り、藤田大に怒り、急に使を遣し、饗庭主殿並に斎藤兵部・小頭武者塩井玄蕃をも呼寄せ、相備の士大将衆後藤・村松を初め、各〻を招集めて、饗庭が様子、僉議を致し吟味を遂げて、即座に放討に成敗申付くる。此故に、志田備の目附、響庭が
第三、藤田、南佐渡衆各〻へ評議し、北佐渡へ相働く其所の様子を見積り、以来景勝公、御旗を向けらるゝ時、全く御勝利の為めといひ、又は敵地放火、或は植田を混ね、敵を費し味方を競はせ然るべしとあつて、先づ敵の弓矢の行を引見るべしと、毎日敵地へ乱入す。松本左馬助・跡部甚内・後藤新六入道、藤田旗本より増毛但馬を差添へ、七月五日の暁鴻の川を渡り、河原田城近迄相働き、其辺植田を混散らし、或は在々放火すと雖も、敵出でざる故、引返して鴻の川へ臨む折節、敵、少々出で喰留めんと仕るを、越後衆備を立直し、一戦を待つ様子之を見て、敵、早々退く所を、味方追懸けて、歩者等を踏倒し、勝色を見せて引き入るなり。
右の様子を聞きて、藤田能登守曰く、敵本間佐渡守儀、老功なる間、越後勢何程あらんと、積らざる事あるべからず。然も柴田より加勢もあり、戦を挑み待つ所へ、味方僅二三百の小勢にて、植田混ね働き、在々放火仕るに、出合はざるは不思議なり。小勢を恐れて出でざれば、某自身働き候はゞ、降参致すべし。又切腹と一筋に思定めば、此小勢に押掠められたりとの批判は、一入無念に存じ、討つて出で、心操をも仕らずして、叶はざる儀なり。然るに、一向に取合はず、味方退き、川を越ゆる時、漸く人数を出すと雖も、味方立直り候へば逃げ散り候。
河原田佐渡守、前代より中間取合にも、
【 NDLJP:160】二、中の先は、藤田百騎の内を分けて五十騎、此頭藤田乳弟の田中日向守。
三、左の先は、赤田六十騎陣代斎藤兵部、検使五十嵐兵庫両人支配。
一、二の先三手の内、右は佐藤一甫斎三十騎。
二、中は藤田能登守五十騎、此小頭両人小林安芸守・水越将監なり。 附田中日向守備、小頭両人小島清兵衛・三神三右衛門なり。此時、三神組廿五騎を、藤田旗本に備へ、旗本廿五騎水越組を先へ遣し入替ふる。一戦一度に入替へ、先と跡と共頭共に、鬮取にて兼々相定むる。作法。〈口伝。〉
三、左は上野平二兵衛三十騎。
一、栗田永寿手前三十騎に、赤田衆六十騎の内十騎加へ、合せて四十騎、必勝の備として立置く。〈口伝。〉
二、村松応閑斎手前十騎に、跡部甚内組三十騎の内十五騎加へ、合せて廿五騎、藤田旗本に附く。一手にして別手なり。
三、藤田自身の備百騎の内より、十五騎分つて、一手の小隊とす。〈口伝。〉 越後家七手七備を定むる内にて、九手の数をば棄てず。九は老陽終つて又始まる理、越後流備の奥義なり。
四、後藤新六入道、手前十騎連れて、佐渡備の検使に行く。村松・後藤両人の小隊衆は、総軍の武者横目なり。
附小隊衆といふは、越国の武者詞なり。手前の騎馬五騎・十騎乃至廿騎迄持ちたる衆をば、士大将とはいはず、小隊衆といふ。手前の騎馬廿五騎より上、持ちたる衆をば士大将といふ。但し上より、馬乗同心五十騎より上、預けらるゝをば士大将といひ、それより、下四十騎許り預けらるゝをも、足軽大将といふなり。
五、跡部甚内をば、沢田城留守に残し、佐渡衆物立ちたる面々より、重ねて人質を取り之を預る。佐渡衆少しも〔〈脱アルカ〉〕振ノ致を致し候はゞ、藤田差図次第に、其人質を焼殺し候へとの儀なり。又は越後衆小荷駄を残置くなり。
右に付きて、跡部甚内へ、藤田申渡す趣は、敵合に味方勝利の本あり。敵国へ押入るには、後にて騒がざる仕置尤もなり。城を攻むるには、敵守の堅からざるを見んよりは、攻むる味【 NDLJP:161】方の備定を幾重にも能く定めて後に、敵城の虚を察知すべし。大合戦・小攻合の時も、敵に勝つべしと計り思はずして、味方の備に虚出来て、負くべきかと分別し、負けざる様に、能く試み定めて後、敵の様子を考ふれば、勝つ事は負けざる内に籠るなり。右に付きて、三つの分別あり。三つの分別なくては勝利なし。其三は、初中後なり。
初といふは、出陣前、敵と味方の和不和、彼我の善悪を能く測つて、備押・陣取・備配をし、戦場の地、味方に善きか悪しきか。扨又時なり。時とは、天利の盛衰を測り知る。其天利は人の和に基づく。人の和は、天理の誠に帰す。是大極意にて明智の正見あり。此三つの調へるか調はざるかを初として、万事の試をして、出陣するを初とす。そこにて後の騒がざる仕置仕らず候へば、先にて如何程勝利を得ても益なく候。
中といふは、敵対なり。そこにて、時と地と敵と応ずる転変なければ、勝利を得難し。備の立所・手組・手分・手配宜しからざれば、勝つて芝居を蹈ゆる事ならず候。
後といふは、味方勝利を得てもとの分別なければ、必ず驕つて、備違、逆になり妄になり、国法ともに乱れて滅亡す。誠なるかな事起㆓乎所忽㆒、禍生㆓乎無妄㆒。右三つ肝要は、唯後道の分別なり。縦ひ、勝つても益なしといふは之なり。さるに依つて、今度其方を後に残し、人質を預け置き候は、初中後を兼ねての工夫なり。佐渡衆、自然下知を背き、或は逆意もあるべきかと念を入れ、重ねて人質を取り、若し左様の変出来ば、一々焼殺し、其方切腹仕られて、忠節を顕はさるべし。其により、志を知らざる者には、申付け難し。志を知り留守を頼み、気遣なくしてこそ、先にて強く弓矢は取らるゝ儀なれ。某、残りたき程なれども、軍代なれば、さもならず。それ故、貴所を頼み入るゝ間、跡に留まり給へ。夫を如何と存ぜられ候はゞ、北佐渡への働を相止むべし。手強く懸らせ、敵に怖気を付け置き候間、某帰陣以後も、南佐渡へ取懸る事は、あるまじく候へども、此度此方より廻して斯くの如しと、越後備を軽く見て、南佐渡衆も頼なく存ずべく候。然れば、某、勲を止め候事、貴所一人の覚悟に因るなれば、至つては屋形へ対せられ、大不忠なりとの儀、能く分別して、返答仕られ候へと申さる。跡部異議なく領掌仕る。是に依つて、与力三十騎の内十五騎、手前五騎合せて二十騎、信濃足軽と号して、二百人は役者割。〈口伝。〉跡部留守役を請取る故、右の通備定め、藤田軍代の威勢強し。【 NDLJP:162】六、越後備の右五六町隔てゝ、先手より二町程引下つて、羽持三河守大将にて、百四十騎千二百の備を、五備に立つる。此検使後藤新六入道十騎連れて差加はる。是は越後備一戦に及ぶとも、必ず此方より懸らず、敵若し懸らば、静に敵を引受けて、勝利を握る見せ備なりと定むる。〈口伝。〉
第四、右備定して、七月七日未明に、藤田信吉、沢田城より北佐渡へ働く。鴻の川迄は一里に近き道なる故に、夜明け方に備を押付く。此川、さのみ険難ならねども、其法を乱さず。佐渡衆は、所の案内なればとて、先へ越させ、川向に備を立て固めさせ、越後勢は川の
扨敵地、植田を混ね散らし、畠物を薙ぎ捨つる事、佐渡の地下人足軽、又は越後の人歩等を以て仕り。諸備は、此奉行の如き備を設けて斯くの如し。夫れより又、河原田道筋を働き、其辺の在家を放火し、城際廿町許りに押詰むる時、河原田の本間佐渡守、五千余の人数を率ゐ、十一手に備を配り、城より七八町出張して待備ふる。味方の備との間十二三町許りあり。能登守より物見に、伊沢若狭守・鈴木四郎兵衛両人に、藤田旗本より夏目舎人助、其時は新七郎と申候を差添へ、斥候に遣し候。以来功の為めに、見習ひ候へとて斯くの如し。其外、手毎より物見を遣す場所、敵の様子を積り、各〻帰つて藤田へ告ぐる。其時、藤田へ舎人助望み申すは、頓て一戦と相見え候。某をば先手田中日向守備へ、遣され下され候へ。御側に居候ては、敵先手許りにて敗北仕り候はゞ、手に合ひたる分にて追首なり。去年、杉原に於て初陣に心緒仕り候へども、小攻合殊に柴田が被官なれば、数にもあらず候。此度は他国といひ、敵は武功の佐渡守、晴なる野合の戦場、之を某初陣と存じ候間、是非先へ遣され下され候へと望む。能州申さるゝは、其方一人を先へ遣し候はゞ、自余の者恨み、下知に背き申すべく候とて、田中備へ使に申付け、漸く一戦と見定め、矢初致さるべく候。伺はるゝ事之あり候はゞ、夏目新七郎に申越さるべしと申遣す。是に依つて、巳の下刻許りに、田中日向守備より、敵方へ鏑矢三筋射入れ、軍初の儀式とす。其敵は、五十里・吉井両手合せて百三十騎、雑兵共に七百余を二段に立てたり。敵味方、互に詰寄せ、足軽攻合も終る時節、味方の内、死人あるを敵走出で、首を取らんとする。其死人を、此方足軽
附舎人は十六歳の若輩故、田中日向守組の中老の荒木主税助と若輩なれども、悪沢助十郎とて、一両度も誉あり。其外、放打の成敗者、二三度も仕りたる者と、此両人に、今日は互に槍先の手前を見物仕るべしと相断り、両人に目を付け、先へ進み居り候所、此者共、汐合を考へて懸らんとする様子を、舎人見ると、其儘走抜いて、一番槍を合はするなり。
敵本間孫太郎に続いて、釣批杷の指物差したる武者一人、是は福原武辺之助とて、西国士なり。武者修行に来り居たるが、孫太郎に越さるとて、荒木主税助、舎人に劣らず進出でたるが、敵の射る矢に膝節を射抜かれ倒る。舎人が
南佐渡衆は、越後備の勝色を見て、勇進んで懸らんとするを、後藤新六、采拝を取つて之を制すと雖も、用ひずして備、むら〳〵と白くなる事は、越後衆計り勝利を得、我々勢を出して、手に合はざるは、面目なしと思ひて、半は進み半は前方の定と相違し、後藤も強ひて制する故、猶予する故、半表半裏の備色正しからず。敵本間佐渡守之を見て、我が旗本と沢根との【 NDLJP:164】二備を以て、敵味方をば右に見捨て、脇へ廻り、羽持三河守が備へ、懸り来つて切崩す。羽持備乱れて、藤田旗本へ、右の方より
附味方の先手衆、各〻当る敵を押落すと雖も、藤田旗本の様子を気遣ひ、長追せずして、引纒めて返す。藤田旗本へ懸りし敵も、後先を気遣ひ敗軍の所に、先衆に最前押崩されたる敵、又取つて返し、五手の味方を喰留めて慕ひ来るを、田中日州は討死なれども、小頭水越将監・小島清兵衛、備を少しも乱さずして、殿を仕り、小殿は夏目舎人仕る。大塚主膳は、旗本を気遣ひ、其場を捨てゝ駈付くる時、
第五、著岸已来の働、今度一戦の儀、上中下厚薄の品、委しく穿鑿、其上に応じ、藤田褒美をなす。藤田書付を以て、具に景勝公へ之を註進す。御直の武頭衆中よりも、各別に一通宛註進状之を差上ぐ。是に因つて、御返書到来、其外の面々には、帰陣の時、急度御褒美なさるべき間、其地在陣中は、藤田吟味致し、頭々より賞罰私曲なく申付くべきの旨、之を仰遣さるゝに付きて、諸卒一入勇み候なり。
急度註進之旨聞届候。最前も申入通、其方一人之覚悟に而、其地、堅固に取敷、日々敵地へ令㆓手遣㆒、任㆓存分㆒之段、寔欣然不㆑少候。剰去七日、自身出㆑備悉踏込、於㆓河原田表㆒遂㆓一戦㆒、敵数多討㆓取之㆒、被㆑得㆓大利㆒之由、忠信之至難㆓勝計㆒。併武達之誉、可㆑為㆓無双之手柄㆒者也。弥〻対㆓于合備之面々㆒加㆓指図㆒、至㆓下々㆒相㆓改戦功之是非㆒、賞罰尤無㆓私曲㆒無㆓越度㆒之様に、後勤専一に候。猶自㆑跡以㆓使者㆒可㆓申送㆒之条、令㆓省略㆒候。謹言。
天正十二年七月十五日 景勝
其地之様子、切々註進待入候。尤用之事、追々可㆑被㆓申越㆒候。万々奉行所ゟ可㆓申越㆒候。
藤田能登守殿
右の御状は、藤田方より註進の飛脚に、下されたる御状なり。其後、津田弥左衛門といふ近習士を、御使として渡海、藤田に御褒美下され、御書到来候へども、之を写し求めず。御奉行衆より参り候状も、写し留めず候。以上。
【 NDLJP:166】 七月十五日 景勝
松本左馬之助殿
如㆓註進旨㆒、其地著岸以降、毎日至㆓敵地㆒相働之由、労身無㆓是非㆒候。殊以、去七日於㆓河原田表㆒遂㆓一戦㆒、敵徒多討㆓取之㆒、得㆓勝利㆒之趣欣悦候。弥〻一功有㆑之様、可㆓相稼㆒事肝要候。謹言。
七月十五日 景勝
栗田永寿老
此外の衆へも、御書到来候へども、不㆑得㆑写候。以上。
附前段に付きて、愚父舎人助定吉物語に曰く、合戦取
第六、藤田能州、今度夏目舎人働を感じ、免され候三は、
一に紺地白鳥居の旗。
二に軍八といふ名。
三に吉といふ諱の字。
一、旗の事、能登等馬験二本は、白き
又二𬏈の四つ半紺地に、白く鳥居を付けたる旗は、自身の腰差なり。之を此度舎人助に賜はり、白嫩の腰差に仕られ候。
能州申渡さるゝは、其方今迄の差物、黒地に白き堅割をば無用に仕り、此旗をさし、以来御屋形に対し、武功の忠義尤もなり。此旗は、某、先の舅紅林紀伊守小馬印なり。紀伊守は、北条家にて弓矢功者の士大将故、安房守氏邦へ弓矢の介添に付けられ、紀伊守、終に敵に退色を見せずとある申立にて、某に壻引出物に与へられ候へども、今度、其方働に依つて、之を遣し置く間、一入志を相嗜まるゝ事肝要なり。万一未熟の様子あらば、某が越度といひ、紀伊守名迄汚すなり。此所を能く得心あるべく候。心得なくて、武具を人に望むは、不案内の士なり。縦令、人より与ふるとも、其道具に瑾を付くべきかと分別して、少しも臆する所存あらば、受けざる事、正道勇士の本意なり。人見せの
二、軍八といふ名の事、藤田申聞けらるゝは、某縁の神保主殿幼稚の時、謙信公越中御発向の御備に召連れられ、十七歳の春、御使番役武功長尾甚左衛門討死の跡を、仰付けらるゝに因つて、相役衆一列にて申上ぐるは、御使番役、御吟味の上仰付けらるゝと存じ、忝く存じ、働罷在り候所、東西を知らざる童を、同役に仕る事、存じも寄らず候。恐らくば我々共、一人宛召出され、御穿鑿遊ばされ候へ。為景公より当御代に至り、場数十五度より内の者は御座なく、御感状八つ九つ十通に余り、頂戴仕るなり。然れば我々御成敗か、御追放あつての後には免も角も、彼の忰と同役は罷成らずと、御城へ詰めて、奉行衆を以て言上仕る。謙信公【 NDLJP:168】聞召され、何れもを召出され、御直に仰聞けらるゝは、内々此事を仰渡さるべしと思召す所に、先立て其方共より申上ぐる事、御家の弓矢盛なる故、吟味深しと御悦なさるとて、武頭物奉行何れもを召集められ、聞手になされ、重ねて仰出さるゝは、其方達申す如く、使番物見番の使者は、某が眼目片腕とも思ふ程の者ならでは、申付け難きを以て、随分吟味穿鑿する故、前廉より各〻を申付くる。此度甚左衛門跡役吟味をするに、武役を勤むる者の内に、ありもこそすらめ、各〻と同役にすべきと存ずる者覚えず。結句五度七度、首尾を合せたる若者を云付け候はゞ、各〻相役に不似合とて、腹立あるべしと思ひ、一向批判のなき世忰主殿を、某眼力にて申付くるなり。各〻取飼ひ候はゞ、後々は必ず仕損ずまじき者なりと思ひ、申付けたりと宣ふ。御使番何れも斯様の思召とは、中々存ぜず、忝く存じ候。随分取飼申すべしと、御請申したり。謙信公御眼力相違なく、其翌年永禄十一年四月廿日、加州御発向、尾山城攻め給はんとて、垣崎和泉・吉江喜四郎・本城越前・甘数〔糟〕近江四頭を以て取寄せらる。城主少しも撓まず、日の内進入追出十一度、攻合十二度目に突いて出づる。謙信公旗本共に五備、此内、上田衆の頭にて、小城安芸守、長尾伊賀守二備は、後の虎口へ押廻す御旗本と、直江大和守・柴田因幡守三備は、先衆の後へ詰掛け、入替らんと静に懸る様子を、敵見て、群々になつて、城へ引く処を附入にして、外廓を乗破る。翌廿一日の昼、謙信公、備を引揚げ給ひて、城内へ和談の御口上は、謙信自身出馬を引請け、城を持
附三好牛也といふ人は、三好京北義継の甥なり。義継の後、淪落して居られたるを、藤田能州呼んで客人分に仕置かれ候。此牛也、右の様子を聞かれ、即席に一詩を作り、舎人に賜はる。
題㆓徳象㆒ 三好牛也
夏天不㆑熱不㆑寒㆑冬 目美紅顔猶足㆑宗 軍取㆓名誉㆒聞㆓四海㆒ 八陣威奮唯如㆑龍
三、吉の諱の事、藤田能登守信吉の一字を賜ひ、夏目新七郎定包を改めて、夏目軍八定吉と号す。天正十二年七月七日。十六歳の時なり。
第七、今度南佐渡衆、武道越度故、敗北に付きて、羽持三河守へ、藤田能登守申さるゝは、敵味方勝負は、互の運によると計りいふは、一編の批判なり。何れぞ一方、誤あつて負くるなり。其誤は我が心身の未熟より出づ。今度佐渡衆、藤田備の競を見て、手前の善悪をも顧みず、心驕つて変動して負くるは、未練故なり。兼ねて、藤田申渡す儀を違背故、検使後藤下知をも挙用せざるは、藤田を軽んじ思ふ故なり。藤田儀、如何様に存ぜられても苦しからず候へども、畢竟は、景勝公へ大不忠より、各〻敗軍して、藤田旗本へ崩れ懸り、越後勢共、後を取るぺき所に、藤田天運にて敵を押散らし、勝利を得たるは、全く能登守手柄にあらず、景勝公の威光故なり。後を取つて、藤田が名を汚しなば、景勝公威勢迄も失ふべし。其本は、南佐渡衆、屋形の為めを大事と存ぜざる故に候間、急度言上仕り、切腹申付くべしと申さる。羽【 NDLJP:170】持三河守の返答、今度の儀、我々の所為にあらず候。右の先手、某甥の本間三郎九郎内の小菅弥八郎・香西鹿之助といふ若者二騎、越後備勝利の競を見及び、進み出で候故、大野大和守下の足軽大将荻津甚蔵、之を見て此様子は、懸る作法と見えたるに
第一、今度南佐渡衆、敗軍の様子を以て、北佐渡より羽持を手軽く存ずべく候。藤田帰陣に及び候はゞ、競の抜けたるを見て、取懸るべし。さあらば、受太刀になりて怯み付くべし。弱みを付けては、藤田渡海の甲斐なし。景勝公へ味方仕る南佐渡なれば、後迄も敵、手出を仕らざる様に、南佐渡衆に働かせて、敵を押詰め、怖気を付置くべしと評議して、南佐渡衆は、吉井城へ取懸り攻めらるべきなり。左候はゞ、河原田より後攻仕るべき間、其抑には藤田向ふべしと申され候。是に因つて、羽持三河守備手配は、新保城をば、大野衆を以て之を抑へ、片上をば、羽黒衆に本間三郎九郎を差副へ、之を抑ふべしと定むる。是故、本間三郎九【 NDLJP:171】郎・大野大和守両人儀を、越後物頭衆へ、佐渡衆頼みて、藤田へ詫言仕らる。此時藤田、様々申渡され之ありしを、佐渡衆固く許諾、御仕置の障に全く罷成るまじとの儀なり。それ故、当座の勘忍分にて、三河守備定の如くに申付けらる。本人は勿論、佐渡衆悦んで又恐るゝなり。扠藤田手前の備定は、先手田中日向守、諸備は武者奉行増毛但馬守を、仮の士大将に申付けられ、或は佐渡先方衆、物立ちたる各〻の兄弟・子息・伯父・甥の類を集めて三十騎、後藤新六入道に預けて、左の手先に之を備へ、五十里・沢根の敵城より、河原田へ後攻道筋の抑には、栗田永寿に、藤田持旗奉行の伊沢若狭守を、検使に添へて之を差遣し、佐渡備の検使に、此度は村松応閑〔〈斎脱カ〉〕藤田旗本飯田二右衛門尉を加へ之を遣す。其外手組分手配を定め、同七月十二日備を出す。南佐渡衆羽持三河守大将にて、鴻ノ川上の瀬を越え、吉井城へ取懸る。藤田は下の瀬を越え、河原田表へ向ふ。然るに、河原田人数を出さゞる故、其外の敵城、何れも勢を出さず、藤田采拝を取つて下知し、河原田城際近く迄相働き、少々弓鉄炮を放ち、静めて相待つ所に、河原田宿城より二百余突いて出で、虎口前を抑へたる藤田先手へ切懸る。此度も、夏目軍八、一番に槍を合せ、二番に斎藤源太左衛門槍を合せて、其敵を討取る。是に続いて、遠藤八左衛門・豊野伝介・北山・飯田を初めて高名をする。伊古田主計頭も、馬上にて敵を突臥せ高名す。藤田、備を脇へ廻し、敵の後を取切らんとする様子を、敵見て引入る所を、増毛采拝を取つて附入に仕る。敵、城内にて又備を立直す時、夏目軍八一番に押入り、敵の小反黒母衣金の半月を出しにしたる武名を討取るは、唯一人なり。藤田旗本を以て、先手を越えて攻合を初むる。佐藤一甫・赤田衆此二備を跡に残し、其外越後備、藤田旗本の鐘の相図を聞くや否や、寄口々々より乗込む。此衆の内にて、宿城一番乗は、後藤組佐渡衆の沢田弟本間蔵人なり。佐渡衆に越され□□□まじと煎つて二番に乗るは、組頭後藤新六なり。是に因つて、外廓の敵は、引入る。藤田旗本を以て、同じく附入りて、二の構難なく乗取る。二の構を一番に押込みたるは、藤田手明衆の内、柳田是非之助といふ若者なり。夫に続き候は、旗本足軽大将伊古田彦右衛門、我が組を率ゐて斯くの如し。爰にて河原田内の武者奉行本間健男といふ名高き士、一騎乗つて出で、我が味方の人数を踏繚め手早に引入れて、刎橋を曳かせ候武者振見事なり。夫より門を閉ぢ、屏櫓より弓鉄炮を射懸け打懸け仕り、重屏よりも段々に弓鉄炮を放ち、寄手ひるまば、突いて出でんとの事なり。然れども、越後勢其心得あつて、【 NDLJP:172】小楯・大楯・綿車柳・鉄皮合せの持楯等衝立て、二構の屏家等を打破つて、杙竹柱を取集めて、竹束にし、束の縄の口伝を以て、跡より之を持寄せ楯にする。之を越後弓矢言葉にて、集楯といふ。此集楯を備表へ持出し、三段或は車屏風三角などゝいふ物を、楯陰より押出し、それに竹束を持遣し、段々に付出す故、少の間に集まる竹束を付け固むるなり。是に付いて口伝。
第二、吉井城の敵、南佐渡衆を防がん為に、城より出で、鴻ノ川を隔てゝ、三手に分れて待備ふる。味方も三手に三分して、一二三段を定めて、川へ打入る。其三手は、
一、中の手は、羽持三河守備なり。敵之を越させじと、向の河端を固め居たるが、態と二三町退いて窕まる。三河守、之を幸として采拝を取り、味方を勇めて進み、那辺岸へ打上る。其先陣は宍戸源兵衛なり。其時、敵思ふ図は爰なりと、穂先を揃へて突いて蒐る。三河守、武功の将なる故に、乱るゝと見えても勢散らず、動静変化する故、敵小勢、進退度を失する様子なれば、味方各〻馬を入れ、乗破つて味方二の見に与へて、敵を多く射取らせて、悉く追崩す。
二、右の備先は沢田備なり。中の羽持備、川へ打入るを見ると、其儘川へ乗入る。敵之を見て河上へ引上る。味方之を見て、中の羽持勝色なる故、敵見崩するぞとて、一入勇んで渡す。少々は向の陸へ上り、過半は河中につかへたる節、敵横合に控へ懸つて半途を撃つ故、沢田衆、暫く利を失ひ河中へ追返さる。然る所、中の手羽持衆、当る敵を追払ひ、沢田衆に向ひたる敵の後へ切懸る。此様子を見て、敵の足本定まらずして、其勢悪しくなる故、河中の沢田衆、又突いて上り競ひ懸りて、忽ち勝利を得、少々追打つなり。
三、下の瀬味方左の備、敵は河端、味方は河中にて相争つて、雌雄決せざる内、右と中との二備、押崩され候を見て、敵、其場を捨て吉井城へ引退く故、味方競ひ之を追撃つ。以上敵の首数九十余、味方も雑兵共に、討死五十人許りなり。羽持下知して、吉井の在家に火を懸けて、城際迄取詰む。城より人数を出し防ぐと雖も、出丸一つ之を乗取つて、藤田へ註進は、最早是迄仕詰め候へば、容易く乗取るべく候へども、夜に入り候。夜攻に仕るべきやと、渋江造酒允並に村松応閑より、発地といふ士、右両使なり。藤田、河原田に構を乗取りたる時節なり。藤田より返答に、其表引払はるべしとて、相図は白紙を二つに断ちたるを使に渡し
右の働に就いて、藤田より夏目軍八に感状左の如し。今に愚之を所持す。
去る七日、於㆓河原田表㆒対㆓本間佐渡守㆒、励㆓一戦㆒稼刻、其方事一番槍、勝㆓諸軍働㆒之故、終得㆑勝令㆑達㆓本懐㆒之条、
一、紺地白鳥井之差物。
一、吉之字。
一、名。
為㆓時之褒美許㆒改㆑之処、又今十一日、河原田宿城攻破砌、於㆓虎口前㆒抽而合㆑槍、則押込至㆓立直際㆒高名、右三ケ之威光不㆑穢。一入之心懸、不双之走廻也。誰准㆑之。併依㆑感覚㆑之候。入膳弥六左衛門尉一路并阿弥陀瀬郷令㆓附与㆒畢。弥〻後高名肝要也。猶可㆑被㆑相㆓待上聞之期㆒。仍感状如㆑件。
天正十二年甲申七月十一日 藤田信吉
夏目軍八殿
此外感状与へ候衆有之候へども、之を写さず候。
前の感状、鳥居の居の字、井に書き候へと申され候。軍八は八陣の変名なり。之を常にして、其名に応ずべしと、其理を深く物語に候。
第三、右の已後も、敵地方々へ働き、城際近く焼払ひ、刈田片上城へ両度、新保へ両度なれども、敵出合はず候。同九月十五日、吉井城へ押寄せ、火矢を以て、外廓を焼き取り詰る所、吉井降を乞ひ、藤田羽持へ申越し候は、某元来、羽持殿の厚恩を得候間一味仕るべき儀に候へども、母を人質に河原田へ取られ候故、其儀に能はず候所、一昨日母病死仕り候。是に因りて、河原田方より、某弟と伯父の本間頼母を、人質替に越し候へと、催促を請け候。内々羽持殿と申合せ、越後への志之あり候を以て、明後日差遣すべしと、色々申し成し置き候。今日、【 NDLJP:174】尚地〔当山カ〕へ向ひ御働の儀、幸に候間、右の両人を、其方へ之を進め、以来御味方仕るべしとの事なり。藤田尤もとあつて、其人質を取り、其上、吉井并に一門家老迄、誓紙を取り、人質を一人宛之を取る。扠藤田申さるゝは、吉井へ河原田寄来り候はゞ、落城仕るべしと思ふは、吉井北佐渡の内にて、唯一人此方へ一味なり。河原田へ間二里許りにて程近し。此方は、鴻ノ川を阻てゝ、遠く後攻早速なり難し。後攻を請る内、城を持恐ぶる様にとて、宿城二構拵へ、南佐渡の人数五十騎に、羽黒・渋手両人を加勢に残し置きて、同廿日、藤田は沢田へ帰城仕られ、城普請の節、敵を抑ふる為めに、栗田治部両将に、南佐渡衆を差加へて、浮長柄の者、或は合戦を持たざる志の人歩等を残置きて、普請申付くるなり。
一、越後より御飛脚到著、景勝公御直書並に直江山城守・鉄上野介奉書、来月中越中へ、御進発の御催之ある間、藤田其地の仕置等、堅固に申付け、罷帰るべきの旨申来る故、九月晦日、沢田を立つて帰帆す。是に因つて、南佐渡衆へ、藤田感状を出し置く。其文言に、吉井城入手候事、各〻武功の誉勝げて計り難く候とあり。〈奥意あり。〉
附河原田へ柴田加勢の梅津宗三も、翌日立ちて、柴田へ罷越すなり。
第一、羽柴秀吉公、越後柏崎妙楽寺の御坊を御頼み、木村弥一右衛門を差副へ、景勝公へ無事の御取扱仰越さる。此妙楽寺は、日蓮宗の智識故、景勝公御懇になされ、御出陣の時、具足を著し、日蓮上人自筆の曼荼羅を差物にして供仕り、武道も、形の如く功者にて、斥候の見積仕られたる事、二三度なり。殊更弁舌明なる僧故、他国への御使任らるゝを以て、秀吉公よりも斯くの如し。景勝公思召さるゝは、謙信公切随へらるゝ国々、未だ五分一も、景勝公御手に属せざる所に、当時天下に猛威を振ふ秀吉へ、無事になり、其以後、右の国々を切取るとも、世間の唱に、景勝鋒先といはず、秀吉の太刀影を以て、斯くの如しと批判之あるべしとて、前方再三仰越されたりと雖も、其儀に応じ給はざる所、今年九月上旬、又木村を以て仰越さるゝ趣は、
一、内々申入るゝ通り、是非御同意給はるべく候。疑はしく思召し候はゞ、秀吉自身、其【 NDLJP:175】元へ罷越し候てなりとも申すべく候。無二に申合せたき心中に候とて、熊野牛王に、誓詞を認めて、差越され候。
二、御無事之なく候へば、北国筋の働如何に候。越中佐々内蔵助儀、信長の厚恩を受けながら、弔合戦にも罷上らず候。某、君敵の明智を誅罰せしめ候間、某に対しても、一応の礼儀之あるべきの所、其儀も之なく候。信長滅亡を却つて悦び、柴田・滝川と言合せ、己々が居館に引籠り、某を
右の二ヶ条申来り候に付きて、景勝公仰せらるゝは、越中へ加勢の儀は、秀吉公より申送られも之なく候。去々年午の夏、魚津に於て、某家来自害仕る様子は、秀吉も聞及ばるべく候。其弔合戦に、早々越中へ相働くべきの所、信州へ出馬、自国柴田への働、今年佐渡への手道旁に附きて、遅々に及び、心外の至に候。越中は、謙信切取りたる国に候へば、景勝手柄に切随へたき願に候へども、佐々不義の様子、委しく仰越され候へば、秀吉の働を抑へ申すも如何なり。然れども、景勝が働を止め給ひ候へば、終に越中へ手遣なく、秀吉へ渡したりとの儀も、無念に候間、所詮此度、越中へ出馬せしめ、越後家の弓矢を、木村に見物させ、上方へ土産の物語にすべしと、仰せ聞けらるゝなり。
第二、藤田能登守、佐渡より帰陣、越中御出馬の御供仰付けられ候。其陣、藤田相備は、越後組松本・中城・斎藤・垣崎・新津なり。検使にて大石播磨守なり。諸備ともに、越後組を以て御備定。〈口伝。〉総軍八千、天正十二年十月廿三日、越中へ御出馬、名達へ移り浦和へ取付き、堕水より左の山手へ沿ひ、往還の切所をば、右に見て押し、廿六日巳刻、越中宮崎城へ取詰め、旗本は十町許り北の方、境川を前に当て牀几を居ゑられ、藤田備は東の山手を抑へ、河田軍兵衛備は、藤田備の後を通りて、南部尾井ノ庄迄焼働すべし。敵、他国勢の深働、然も小勢なりとて、定めて見慢り、驕つて人数を出すべし。然らば、たふ〳〵と偽り引き、手強く一戦すべ【 NDLJP:176】し。さあらば、敵城より加勢をするか、引取るか。二つの内なるべし。引取らば付入るべし。加勢せば、藤田備を以て、城を乗取るべしと相定めらる。然るに、河田軍兵衛備の検使には、大石源之允を差副へられ、千二百余の人数にて、宮崎の東の山を越えて、南部尾井ノ庄へ相働く所、敵、益木中務を本丸に残し、三輪権平采拝を取つて、八百許りの人数にて、突いて出で、河田備へ懸る。河田、七百の人数を以て、三段に備を立て、五百余を山手へ附けて隠し置き、河田は越中勢と取結んで偽り引く故、越中勢勝に乗じ、入替り〳〵進み戦ふ所、山手に隠し置きたる越後勢、越中勢の後に廻つて、三輪権平が旗本へ切懸る。越中勢も物馴れたる者共なれば、両方へ人数を分けて、戦はんとすれども、聚散離合の処、思ふ様になり兼ねけるにや、備色群々に見ゆる。其節を外さじと、河田軍兵衛、采拝を取つて下知し、権平が備へ突いて懸り戦ふ内、河田軍兵衛と、三輪権平と互に馬上にて渡合ひ、一終に権平を突落して首を取らする。此故に、其備の下々敗北す。脇へ逃散るをば捨て、城へ引取る敵を追詰め、附入にして、二の曲輪迄乗移る。藤田抑へ居たる場と、一戦の場、或は搦手の虎口とは、間に山多くあつて、其様子見えざるを以て、城より人数を出すか。一戦の様子も如何と知るべき為めに、藤田相備の新津丹波を、南山へ上せて、太鼓を以て知らする。〈口伝。〉如然れば軍兵衛、敵城二の廓迄、乗入りたる様子を聞きて、藤田衆煎つて、本丸を乗〔〈取脱カ〉〕らんと相催す所に、河田備の検使大石源之允、本道を帰り候へば、二里余之ある故に、敵の囲の内、海涯を伝ひ、或は海へ乗入り、或は陸へ乗上げて、廿町許りの道を、
此城代益木中務は、元来よりの越中士にて、一年謙信公へも、楯を衝きたる武功の士大将なり。越中衆、悉く謙信公の幕下に属すと雖も、此益木計り意地を立てゝ、高岡の城を持ち渡さず候。謙信公、却つて奇特に思召し候。益木娘を、同国立山の側に隠置きたるを尋ね出し給ひ、種々中務方へ御断を仰入れられ、吉江喜四郎が妻に、之を遣さる。之を以て、益木降参【 NDLJP:177】仕り、御幕下に属し候所、去る天正十年、越中騒乱に、老母を佐々内蔵助に奪はれて、是非なく佐々に随心仕りて斯くの如し。吉江喜四郎討死の後、其後室を、藤田能登守に下さる故、件の様子を、藤田申上げ一命を詫び申すに付きて、景勝公聞召し届けられ、益木命を御助けあつて、之を送り遣さる。其夜、城を請取り、景勝公、御陣を移され候。翌日藤田・安田・泉沢三備を以て、黒部四十八ヶ瀬を越えて、佐々内蔵助居城の戸山の此方、滑川迄焼働して、其燃跡に陣取り、翌廿九日、宮崎へ引返すと雖も、佐々身構許りにて、中々出づる事ならず候。其より景勝公、御馬を納れられ、秀吉公への御返事に、木村弥市右衛門見物の如く、越中表へ働き仕詰め候。何時佐々を踏潰し申すべきも、案の内にて候へども、御断御望に候間、秀吉御働あるべく候。無事の儀は、分別せしめ、追て返答申入るべく候と仰遣はされ、木村弥市右衛門帰られ候なり。
右越中御働の時、夏目舎人も、藤田備の内に罷在り候故、委しく存知候。疑なき事共なり。
管窺武鑑中之中第五巻 舎諺集 終この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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