管窺武鑑/下之下第九巻
一、直江山城守より豊光寺へ返状の事 二、伊達正宗白石城を取る事 三、瀬上合戦、正宗敗北の事 四、景勝と石田示合さる事 五、権現様会津へ御進発、関西凶徒蜂起と聞き江戸へ師を班し給ふ事 六、凶徒蜂起の事 七、凶徒退治の為諸将発向、其以後御出馬、関原御合戦御勝利、凶徒悉く滅亡の事 八、直江山城守最上表所々合戦、関原落居以後納兵の事 九、権現様召出され、藤田能登守と景勝御和睦の事 十、夏目舎人助浪人中の事
【 NDLJP:299】管窺武鑑下之下第九巻 舎諺集 直江山城守より豊光寺へ返状の事
家康公より、景勝上洛候へと、度々仰越され候へども、石田御一味故、御延引密々の用意ある事、上方に於て、種々取沙汰、石田事は、人之を知らず、専ら景勝逆心なりとの儀なり。さる故、権現様より、妙心寺の長老豊光寺などへ仰せられ、直江方へ御計策ありたる由。此僧、本多佐渡守一類の由。博学の智識なる故、権現様御懇意遊ばされたる由承及び候。直江山城守方より豊光寺への返状、
今朔の尊書、昨十三日下著、具拝見、多幸々々。
一、当国の義、於㆓其許㆒種々雑説申すに付て、内府様御不審之由、尤無㆓余儀㆒候。乍㆑然於㆓京伏見之間に㆒さへ、色々雑説無㆓止時㆒候。況遠国之景勝、若輩と云ひ、為㆓似合㆒雑説と存候。不㆑苦儀に候条、可㆑被㆑安㆓尊意㆒候。重而以連々可㆑被㆓聞召届㆒候事。
一、景勝上洛延引に付而、何角申廻候由、不審候。爰許新仕置と云ひ、就中当国は、雪国に而、十月より三月迄は、何事も不㆓罷成㆒候。当国案内者に可㆑有㆓御尋㆒候。然者三年在国、正月時分上洛被㆑申候而は、いつの間に諸事之仕置等、可㆑被㆓申付㆒候哉。企㆓雑説㆒事正、月中より上洛延引之故に有㆑之と、何者か景勝、逆心を具に存候而、申。成候哉と令㆑存候事。
一、景勝於㆑無㆓別心㆒者、誓紙を以て成共可㆓申上㆒候由、去々年以来数通の起請文、反古に成候者、重て不㆑可㆓申入㆒事。
一、太閤様以後、景勝律義之仁と思召候者、今以別儀不㆑可㆑有㆑之。世上之朝変暮化とは相違之事。
一、景勝心中、毛頭別心無㆑之候へ共、讒人之申成無㆓御糺明㆒、逆心と思召候者、不㆑及㆓是非㆒候。兼又、無㆓等閑㆒験には、議者被㆓引合㆒、是非可㆑有㆓御尋㆒候。左様無㆑之候者、内府様御表裏と可㆑存候事。
一、北国肥前殿儀、思召之儘に被㆓仰付㆒之由、御威光不㆑浅存候事。【 NDLJP:300】一、増右・大刑部少御出頭之由、珍重に候。自然用所之儀可㆓申越㆒候。榊式大は、景勝表向之執頭に而候。然者景勝逆心歴然に候共、一徃被㆑及㆓異見㆒候而社、士之筋目、又は内府様之御為にて可㆓能成㆒処に、左様之分別社不㆓相届㆒候共、讒人堀監物奏者被㆑仕、種々以㆓才覚㆒可㆑被㆓申妨㆒事には無㆑之候。忠臣か佞人か、御分別次第、重て可㆓頼入㆒事。
一、雑説第一上洛延引令㆓御改㆒、右如㆓申定候㆒御使者にも委く申演候事。
一、第一武具集候事、上方武士は、今焼之炭計瓢以下之人たらし道具御所持之由、田舎武士は、鉄炮・槍・弓箭之道具支度申候。其国々之風俗と思召、御不審有間敷候。縦世上に無之㆑支度不㆓似合㆒道具を、用意被㆑申共、景勝不肖の分際、何程之事可㆑有㆑之候哉。天下に不㆓相似合㆒御沙汰と令㆑存候事。
一、第三〔二カ〕、道作舟橋被㆓申付㆒、往還之煩無㆑之様にては、抱㆑国候役にて候条、如㆑此候。於㆓越国㆒も、舟橋道作候。然者、端々残候而も可㆓有之㆒候哉。淵底堀監物可㆑存候。当国へ被㆓罷移㆒、新仕置をも申付上は、本国と云ひ、久太郎蹈潰し候に、何之手間可㆑入候哉、道作迄も行不㆑足候。景勝領分越後之儀は不㆑及㆑申、上野・下野・岩城相馬正宗領、最上・由利・仙北へ相続き、何方も道作同前に候。自他之衆は、何共不㆑被㆑申候へ共、堀監物計、道作におぢ候と、色々之儀申成候。能々不㆑知㆓弓箭㆒無分別者と可㆑被㆓思召㆒候。景勝、対㆓天下㆒逆心之企有㆑之は、諸境目・堀切を塞ぎ、防戦之支度社、可㆑被㆑仕候へ。十方へ道を作付、逆心之上、自然人数被㆑向候者、一方之防さへ、罷成間敷候に、況や十方を防戦之儀罷成者に候哉。縦他国へ取出候共、一方へ社、景勝当之出勢、可㆓罷成㆒候に、十方共に如何にして可㆓罷成㆒候哉。中々不㆑及㆓是非㆒うつけ者と存候。景勝領分道橋申付候為体、従㆓江戸㆒切々御使者にて、白川口之体可㆑為㆓御見分㆒候。其外、奥筋へも御使者致㆓上下㆒候条、御尋尤に候。猶御不審に候者、御使者被㆑下、所々境目等之体、御見せ候はゞ、御合点可㆑参候事。
一、無㆓御等閑㆒間にても、以来虚言に成候様之儀は、自他之為被㆓仰聞敷㆒候へ共、高麗降参不㆑申候者、来々年御人数遣し候と、被㆑仰候者、誠可㆑為㆓虚説㆒候歟一笑。
一、景勝、当年三月は、謙信之追善に相当候条、左様之被㆑明㆑隙、夏中には為㆓御見廻㆒、上洛可㆑被㆑仕内存故、人数武具以下国々之仕置之為に候間、在国中急度相調候様にとの用意被㆑申処に、増右・大刑部少輔より、使者に被㆓申越㆒候分は、景勝逆心穏便ならず候間、於【 NDLJP:301】㆑無㆓別心㆒は上、洛尤之由、内府様御内証之由に候迚、無㆓御等閑㆒候者、讒人申成有様に被㆓仰聞㆒、急度御糺明候而社、御懇切之験たるべき処に、無㆓意趣㆒逆心と申唱候条、無㆓別心㆒者、上洛仕候へなどと、乳呑子のあひしらひ不㆑及㆓是非㆒候。昨日迄企逆心候者も、其儀はづれ候へば、しらぬ顔にて上洛仕り、或は縁辺、或は新知行を取、恥不足をも不㆑顧人之交と存じ候。当世風には、景勝身上不相応に候。心中無㆓別儀㆒候へ共、逆心天下に無㆓其隠㆒候者、むざと上洛、累代律儀弓箭之覚迄失ひ候条、讒人被㆓引合㆒、被㆓御糺明㆒候者、上洛罷成間敷候。右之趣、景勝理か非か。不㆑可㆑過㆓尊慮㆒候。就中、景勝家中藤田能登守と申す者、去月半に当国を引〔切イ〕取り、江戸へ罷移り、其より上洛仕候由に候条、万事しれ可㆑申候。景勝取違候か。内府様御表裏か。世上之取沙汰次第之事。
一、千言万句も不㆑入、景勝別心毛頭無㆑之候。上洛之儀者、不㆓罷成㆒候様に、御仕懸候之条、不㆑及㆓是非㆒候。此上も、内府様御分別次第、上洛可㆑被㆑仕候。縦此儘、在国被㆑申共、遠国に居候共、太閤様御置目を相背、数通之起請文反古に成、御幼少之秀頼様を見放し被申、内府様へ無㆓首尾㆒被㆑仕、此方より手出し被㆑致候而は、天下之主になられんも、悪之名不㆑遁候而、末代之可為㆓恥辱㆒候。此処無㆓遠慮㆒、何物を可㆑仕候哉。可㆑被㆓御心安㆒候。但讒人之申成、実儀に被㆓思召㆒、無㆓御改㆒、猶不義之御拘者不㆑及㆓是非㆒候条、誓紙堅約も入間敷候事。
一、猶其許、景勝逆心と申成候とて、於㆓隣国㆒も、会津働にて触廻り、或城々に人数を入、兵糧迄支度、或境目取㆓人質㆒、所々之口留を仕、様々令㆓雑説㆒候へ共、無分別者之仕事に候間、聞も不㆑入事。
一、内々、内府へ使者を以成共、御見廻可㆓申述㆒候へ共、隣国より讒人打詰、種々申成、家中より藤田引切候条、逆心歴然と思召候所へ、御音信など被㆓申上㆒候者、表裏者第一と御沙汰可㆑有㆑之条、先条々無㆓御糺明㆒内は、被㆓罷上㆒間敷由に候。全無㆓疎意㆒之通、折節御取成、於㆓我等㆒も可㆓畏入㆒候事。
一、何事も乍㆓遠国㆒推量仕儀候間、有様に可㆑被㆓仰越㆒候。当世様々余情箇間敷事に候へ共、自然実事も、うその様に可㆓罷成㆒候。申迄無㆑之候へ共、被㆑懸㆓御目㆒候儀と云ひ、天下黒白を御存知の儀に候間、被㆓仰越㆒候儀は、実儀と可㆑存候。御心安さのまゝ、むざと書進【 NDLJP:302】上候。慮外不㆑少候へ共、愚意を申演為㆑宜㆑得㆓尊意㆒、不㆑顧㆓其憚㆒者也。侍者奏達。恐惶敬白。
慶長五卯月十四日 直江山城守景綱
豊光寺侍者
御中
遠境近隣ともに、景勝逆心なりとの風説頻りなるに、藤田能登守立退き、栗田刑部は、殺されければ、弥〻逆意実事となる。然るに、会津領白石城は、景勝の士大将甘数〔糟〕備後守是に居る。是伊達筋の抑なり。備後守妻、若松に於て病死す。備後守、之を聞き、忍びて若松へ行き、城の留守本丸をば、家老豊野に預け、二廓をば備後守弟甘数〔糟〕弥三に預けて、会津へ行く。此弥三、元来癩病気なる故、武道は甲斐々々しけれども、景勝公へも出ずして、備後守手前に差置き、我が内の騎馬士同前に仕る故、弥三、常に不足に思ふ所に、此度、留守本丸を豊野に預け、弥三に二の廓を預け候故、一入恨を含み候。伊達正宗、其事を聞きて、弥三方へ計策せらるる故、弥三、早速同心し、白石城へ正宗衆を引入れ、豊野を初め、城兵残らず討つて、正宗へ城を渡すなり。景勝公、聞召され仰出さるゝは、大事の抑の城を預り、我が女房の死にたりとて、忍びて来る事、掟を背き不届の至なり。断を申越し候はゞ、加勢を遣し、備後守、当地へ参る様にもすべきを、我が悲歎にひかれて、掟を忘れ申す事、沙汰の限なり。士は本心を動かさず、難きに逢ひても憂ひず、喜来りても奢らず、古語にも随㆑流認㆓得性㆒、無㆑喜恐無㆑憂とこそあれ。臨済宗は、松を指して蒼管の観念と云ひ、心を磨き身を嗜むは是なり。備後守、本心を失ふ者なれば、頼少き間、切腹申付くべきなれども、忠功ある久しき者なり。其上、正宗に城を取らるゝ故、世間へ申分に、備後を成敗仕りたりとあれば、正宗を相手がましく、某に不似合なり。然れば命は助くると仰出され、閉門仕る。備後守、慮らず命を助かり、有難き事ながら、一入難儀仕り、閉門仕りて罷在る内にも、白石を取返すべきとの思案工夫、二六時中懈なく候。
附甘数弥三は、近年まで伊達家に存生、偽なき事なり。 【 NDLJP:303】瀬上合戦、伊達正宗敗軍の事正宗、白石城を取り、其競を以て、会津領福島城を攻め取るべしとて、一万五千の人数にて、三月下旬、白石を立ちて桑折へ懸り陣取り、廿六日備を出し、瀬の上へ川を越し、瀬の上の在家へ取付き、松川を隔てゝ備を立つる。一万五千の内、五千は手分して、梁川の城須田大炊助を抑へ、残る一万を三つに分くる。一の先片倉小十郎、二の先伊達安房守、三は正宗旗本なり。福島城主本城豊後守並に加勢会津先方永井善左衛門・斎野道二 〈後伊豆守と号す。是甲州家の小田切所左衛門と申したる士なり。〉・岡左内〈後越後と号す〉・青木新兵衛・〈後方済と号す〉栗生半左衛門・岩中〔井イ〕備中守等、福島城より備を出し、松川を前に当てゝ備ふ。豊後守は、城内に一戦を以て罄ふる。〈口伝。〉敵味方、松川を隔てゝ相対す。味方より斥候として、猪保主膳〈能登が遠類〉が出づる。是は小田原家の窂人、二三度も能き誉仕りたる士なり。帰り来りて申す。敵は川を越すまじく候。是まで働きたるを勝利にして引取る時、此方より跡を慕ひ、川を越し候はゞ、備を立直し、此方の人数、川を越し切らざる所を、討取るべきと存ずる様子に相見え候と申す。豊後守、念の入りたる将なる故、重ねて井筒小隼人〈女之助が伯父なり〉といふ老功の士に、本城団右衛門といふ中老の士を添へ両人、斥候に遣す所、両人帰りて申すは、敵は半時の中には川を越し、懸るべしと見え候と、主膳が見様と、各別に申す。最前、主膳が見様は、河を越すべく候はゞ、馬の沓を外し障泥を解き、歩者は足拵、馬乗は其支度あるべきに、其様子一円見えず。扨又、退く色を見せて、此方を引請くべき様子と考へ候事は、小荷駄雑人を、跡の瀬の方へ繰下げながら、本備は進む体なり。是は雑人小荷駄を繰下ぐる様子を、此方見て慕ひ候はゞ、取つて返し、一戦を遂ぐべしと存じ、只今の場にては備の間遠し。流石の上杉勢、悉く川を越切り、手早に備を立堅め候はゞ、六づかしきと存じ、中途を討つべき為めに、本備をば進め候と存じ候と、主膳申し候。井筒小隼人・本城団右衛門見様は、川越人馬の支度は、大底の積事、馴れざる敵の儀なり。伊達家代々、弓矢を取り、正宗其事に逢ふ大将なれば、川越の体を見せば、敵も積るべしと心得、前方に支度せず、川越の事に臨みて、少しの内にもなる事なり。又小荷駄雑人を繰り下げ候は、引取るべきにはあらず、自然敗軍の時、小荷駄へ崩れ懸れば、混乱して小荷駄を奪はれては、一日の陣もなり難し。役にもたゝぬ雑人は、川越の時、歩者多ければ、かせになる故に、小荷駄に付け【 NDLJP:304】て繰下ぐる。小荷駄僅に二百計り、程近く出陣故、陣具用意道具計り、此内百計り残して、其外は早く繰下げたり。是は四半時の内には、繰下ぐべし。其内に、そろ〳〵と備を近寄せ、皆繰下ぐると、無二に切り懸るべし。其時、川端にて人馬の拵、旁あるべきを以て、半時の内と積り候、殊に正宗、此方の備を見ると、其儘引取るべき正宗にはあらず候と両人申す。此見様道理尤もなりと決定して、味方の先衆、川端より七八町間を置きて、甘く遠け、備配能く定めて之を待つ。正宗大軍の故なり。案の如く伊達衆一備、先づ手分して、其日の巳の刻計りに、河を越えて押し来る。半の岸へ打上る時節、味方静に太鼓を打つて進みて、間一町程になりて、場固の凱を作りて、一同に突懸る。流石の正宗衆なれば、是を事ともせず、一手限に槍を初めて相戦ふ。味方、二の手を以て、敵の先片倉が備を入崩す。敵の二の手武功の士、侍大将の伊達安房守に向つて申すは、味方、先手の片倉崩るゝを見捨てゝ、何とて懸り給はぬぞと諫む。安房守曰く、此所の勝利は、各〻存ずまじとて、備を纒め、逃ぐる片倉勢には構はずして、福島勢の後へ押廻す。之を見て、味方衆いひけるは、敵、後を切るべき様子なりとて、諸卒を下知して追ひ留む。其法正しけれども、敵を追ひ乱したる味方を繰る故、少々むらむらなる様子なり。敵、之を見切りて、安房守と正宗の旗本を以て、両脇後より切懸る。されども闘ひ乱れたれども。其法は乱れずして、雌雄互に地を易ふる所に、片倉又乱れたる人数をまとめ、守返して切り懸る故、味方、桑の木原の方へ引色になるを以て、敵、弥〻競ひ進む。其時、本城豊後守旗本を以て、信夫山の方へ備を廻し、敵の右へ突いて懸る。乱れ散りて相戦ふ敵の中へ、味方の新手懸る故、正宗衆の備亦騒ぐ。是にても勝利を得べきなるに、又梁川の城主須田大炊頭並に横田大学・築地修理、或は車丹波守等、各〻梁川の加勢に罷在り。此車丹波は、元来佐竹譜第なるが、当分少の不足ありて、窂人して、此節景勝公の下へ来り居る故、斯くの如し。さる程に、須田、采拝を取りて、あぶくま川を越えし正宗衆の押勢へ切り懸る。梁川衆、河の案内はよく知りたり、須田旗本と車丹波守が備と二手になり、川の上下より打ち入る。敵は一所を肝要と相支へたる所に、斯くの如き様子を見て、俄に備を分けたがり、備少しく色めく所を、味方、猶予なく川を押上り懸るを以て、押勢敗軍するを、梁川衆追撃して、正宗の陣屋まで附入にして、悉く打破り、小荷駄雑具まで奪ひ取る。此時、正宗の紋、竹の丸に飛雀の付きたる外幕・内幕まで奪ひ取りて、上杉家に今に所持す。さて須田大【 NDLJP:305】炊、敵を切崩し候と其儘、早打を以て、福島表へ申越す。切崩されたる押勢も、正宗の旗本へ逃げ来る故、敵も味方も早此様子を知る事、瀬の上一戦の半なり。就中、梁川表にて、須田大炊勝利を得、此表へ助け来ると、味方の雑人に、声々に呼ばはらせ候故、旁以て、正宗衆、備を立直す事ならずして、大崩仕るを追討つて、斎野道二真先に進みて、逃る敵の正中へ乗入れ、正宗を後より切先はづれに、二刀まで正宗の猩々皮の羽織を切さく。されども、正宗、逸物の能き馬に乗り給ふ故、逃げ延びられ、討留めざる事無念なりと、道二申し候。道二詞を懸け、正宗と見えたり。蓬し返せよと呼ばはる。流石の正宗なれば、駈足の馬を留めて申さるるは、斯様の所にて返すものにてはなし。以来の功にいたせ若者と、散々悪口し、又駒を進めて逃げ候。右瀬上合戦、正宗衆を討取る数、総手合せて千二百余、雑兵共に斯くの如し。其外、河に溺れ死するもの数知れず。味方も尤も討死多し。此後、正宗、上杉の持へ、兵を出されず候。
附景勝公、小身になり給ひて後、右の道二、上杉家を浪人仕る時、正宗より召抱えらるべしとの事なれども、先年慮外を仕りたる某にて候へば、参るまじとて出でず候は、自然酒後などに此事を申出し、成敗せらるべきかとて、斯くの如し。然る内に、蒲生秀行、宇津宮より、又会津六十万石にて入部故、道二を初め各〻帰参仕る。其後、加州中納言殿へ、道二出で仕へて、大坂御陣迄、首尾能く勤め候。斎野伊豆守事なり。右の段々、斎野伊豆・岡左門〔内カ〕等、切々夏目舎人に物語仕られ候。舎人は浪人已後、此陣へ罷出候はず、在郷に引籠り居候所、藤田・上泉廻文を以て、浪人を抱へ集むる砌、舎人方へ、上泉状を差越し、参り候へと申す。元来知人なる故なり。されども、斯様の時は、藤田手へこそ参るべき事なれと申して参られず。二本松の小国但馬、舎人に入魂故、之を頼み居り候故なり。
附岡越後・斎野伊豆物語の外にも、古傍輩の会津衆の話を委しく聞き候に、相違なく候。
景勝公、石田と隠謀示合す事第一、石田、上方に於て逆謀の色を顕し候はゞ国々より内通の各〻打つて出で、家康と取合を初むべし。景勝、其を聞きて兵を発し、奥筋を打つて、上方と首尾を合すべきか。然らば、仙台の正宗・出羽の最上・越後の堀、是三人は、隣競にて大身なりと雖も、三人ともに、景勝、物の【 NDLJP:306】数とも思はれず候は、
一に、堀久太郎は、昨今の若将にて、弓矢の術を知らず、家法正しからずして、二三にわれ、殊に上方風にて、押懸け強く、後道弱く、新仕置にあきはて、古主上杉家を慕ひ、取立てられたる太閤の御厚恩を忘れて、家康へ一味仕る不義の兵なれば、之を蹈潰すに、手間入るまじきなり。
二に、伊達正宗は、久しき家と雖も、父輝宗より二代、境争・坪弓箭をも賢く取り、の覚悟無類にて、能き大将なりと雖も、前代の悪風儀になれ、我が儘を仕りたる士共、当時の新仕置を迷惑がり、手荒き正宗なりと、心に疎み身を声へ、家中思合はず候。大敵と雖も、上杉家にたくらべ候へば、小身なり。七手組の頭、一両備押向ひ候はゞ、正宗、手を出す事なるまじく候。殊に正宗、心の取遣〔置イ〕に、弓箭正道、誠の吟味も入れず、唯〻其時節に任せ、敵にもなり、味方にもなり、我が家を恙なく、相続の所至功なりとの奥意なれば、此方、少しも強みあらば、頓て手の裏を返し、当方へ頼み従ふべきなり。
三に、出羽の最上は、数代相続の家なれども、弓箭に然と誉之れなき故、身に付く火を払ふ計りにて、他国遠国へ取懸る武道の蟠なく、物毎に威高に計り仕なし、武功誉の者ありと雖も、新参譜第筋にても、小身なれば、家老出頭人の前にては、頭を挙げさせぬ故、十の事を、三四いふと雖も、自ら威に押され、一言のつまづきにも、善悪の批判、言少く手短に計りいはんと仕り、其理聞えかね、四つの内、三つは皆たは言となり、一つの理も、なま聞えなれば、其人不合点者にも取なす故、以来は控へてものいはず、或は又如何程能き者にても、口不調法なれば、
第二、会津に於て、先立て別心の色を顕さば、家康、早々馬を向けらるべく候。左候はゞ、其【 NDLJP:307】跡より石田兵を催し切つて出で、是亦前後より押包んで、勝利を得べきなり。
右の二様、石田より差図之れある筈に定められ、陰符の相図。然る所に上方に於て、石田、先立て兵を発し候はゞ、手もなく家康公蹈潰さるべき間、家康公、会津発向の跡より打つて出づべしと積りて、東国・北国へ、陰状を認め、頼もしき士を飛脚に仕り、其状を切裂き、笠の紐に仕らせ差下し、会津へ到来す。是に因りて景勝公、直江山城守に仰付けられ、最上へ働き出づる。上泉主水を先手とし、二万三千の著到にて、中山或は上の山、或は長谷堂を右に見て、味方地を押廻し、先づ一番に、最上領旗屋へ押寄せ、只一時に攻落す。城主江口五郎兵衛と、志賀五左衛門之を討取り、直江、旗屋へ入替り、軍神の血祭を仕り之を祝ふ。
附此五左衛門は、会戦氏郷士なり。後に秀行へ帰参す。
権現様会津御進発、関西凶徒蜂起を聞きて、師を江戸に班し給ふ事景勝、石田御一味の儀、穏便ならざれども、表向へ顕はれぬ内は、権現様御内談計りにて、伏見に御座なされ候所、直江山城守、最上へ働くの由を聞き給ひ、景勝御退治として御進発。大手白川表は、権現様台徳君、其外仙道口・信夫口・米沢口・津川口、夫々御手分仰付けられ、慶長五年六月十六日、権現様伏見御出馬なり。伏見御城御留守松平主殿頭・鳥居彦右衛門尉・内藤弥次右衛門・松平五左衛門・佐野十右衛門を残し置かる。然る所、石田治部少輔三成、権現様関東御下向の迹より、居城江州佐和山より打つて出で、濃州大垣城へ移り居る。越前敦賀城主大谷刑部少輔、権現様景勝公へ日頃親し。其仔細は、大谷母は朝日といひて、太閤御内証出頭の女なれば、御奥方の儀は、諸大名衆、此朝日を頼まる。就中、権現様景勝公、此女へ御懇意、表向外の奏者をば、大谷へ御頼あり。然れば権現様、景勝御退治として、会津御発向の由を聞いて、大谷其頃、癩病気にて、眼も明ならずと雖も、御両将の中を直し、天下静謐に仕るべしとて、敦賀を出で関東へ下向す。石田、大垣へ出張の由を聞き、右両将和睦相談の為め、大垣へ立寄る。〈大谷と石田、若輩の時、衆道の知音にて、親しかりしとなり。〉石田いふ。某景勝と内談申合せ、家康を退治の為めに此城へ出張せり。某方、関東へ下向無用なりといふ。大谷いふ。何とて夫程の大事を、我に談合せざるといふ。石田いふ。其方へは遅く告げ候ても、違義あるまじと思ひ、【 NDLJP:308】先づ脇々の取繕を肝要にしたりといふ。大谷いはく、前方某と内談せば、勝利を得る事あるべきに、最早其方、負くる儀必定なりといふ。石田いはく、味方負くべきにあらず。何もとなくと申合せ置きたり。上方家康方の敵城共を、残らず攻め落し、四国まで取り続けて、味方の地に致し、秀頼公を守立て、堅固に仕置申付け候はゞ、家康上洛、思も寄らざるべし。扨又、上方へ構はず、奥へ働かれ候はゞ、此方より関東へ切り入るべし。其時、跡を気遣ひ、江戸へ引入られ候はゞ、味方の強みを見て、一味も多かるべし。景勝切誇り、関東へ切上り申さるべく候間、両方より押包み、家康を討取らん事、案の内なりといふ。大谷聞いていはく、其分別、某心得ず候。武道の穿鑿は、如何様なる不案内の敵なりとも、功者にして味方の行に、敵の勝つべき重手を打たせ、夫に又、味方の打勝つべき、未然の工夫をすれば、勝利全し。是即ち彼を知り己を知るの謂れならん。然るに、敵は内府家康公、老功といひ大身といひ、日本に肩を並ぶる者なき名将なるを、浅く見て、味方の能き様に計り申さるゝは、味方の滅亡眼前なり。兼て某と対談ならば、各〻と申合せ、内府瀬田橋を越えらるゝと均しく喰付きて、進退の度を失はせ、取結びたる折節に、諸方一同に蜂起せば、内府、本国は遠し、味方は地戦同前にて、如何様にも軍の行仕能く、味方勝利の武略あるべし。最早、内府を遥々と恙なく、本国へ入れ立てゝの事なれば、此上の智略の思案工夫は、内府の分別次第にて、味方の滅却疑なし。内府の運強き故なり。我等事、病気にて目は見えず、下臈の喩に、行がけの駄賃とやらんいふ如くなれば、命をば其方へ与へ、関東へ下るまじといひて、大垣に留りたりとなり。上方凶徒蜂起の儀、関東へ未だ達せざる故、会津御発向として、御先陣江戸中納言秀忠君、七月十九日、江戸御出馬、下野国宇津宮へ御陣をなされ、権現様は、廿一日、江戸御出馬、野州小山に御著陣、同日月三日暮に至りて、上方凶徒の註進ありて、夫より追々、櫛の歯を引く如く註進し奉る故、権現様、執権の老臣を召し、其外、参陣の諸将へ、異見を御尋ね、諸将評議の趣、井伊兵部少輔直政申上ぐる。会津隣国に、最上越後、又は仙台、其外味方多し。景勝に敵対仕り、喰留め候はゞ、景勝切つて上る事、中々なるまじ。やう〳〵我が地を居しく計りならん。上方には、石田一味多く、西国迄も党与せば、其内御方の衆も敵となるべし。上方には、太閤厚恩の人多くして、味方に志ある人少し。然れば、会津御退治以後、御上洛なされ候はゞ、其内には上方凶徒はびこるべき間、早速上方の御追討然るべく候。上方さへ御【 NDLJP:309】退治なされ候はゞ、景勝働き出づる事、なり申すまじく候と申上ぐる。権現様、尤もとの上意、是に因つて、会津抑として、結城宰相秀康卿を大将と為し、其外歴々差置かる。水戸城主佐竹義宣は、日頃石田と入魂にて、無二の一味なりと雖も、父義重、其砌は隠居にて、竹隈といふ所に居られ候。老功の大将故、末を考へ、権現様方を引申され候故、義宣も、日和を見て居られ候。義宣の舅多賀谷大夫、上方に贔屓して、権現様、小山御著陣の時、夜討を仕るべしと、義宣へ申され候へども、返事延引故、多賀谷一己の働危く存じ、遅々仕り候内に、多賀谷内に、帰り、反忠のもの之れあり、其
石田、諸将と兼ねて示合せ置き、権現様関東御発向以後、島津兵庫頭、七月十五日、大坂を立つて伏見へ寄する。金吾中納言も、廿五日押寄する。伏見城中伊賀衆、松の丸廓より敵を引入るゝ故、同月晦日、総攻の時、金吾先手より火箭を射て、御殿を焼き崩し、其競を以て、八月朔日、終に城を乗取る。城兵残らず討死、或は焼死す。城将鳥井彦右衛門・松平五左衛門・佐野十右衛門首計り見出して、大坂へ之を差遣す。江州大津城へは、柳川立花飛騨守、其外西国衆の人数相集り、七月二十日より之を攻む。城主京極宰相高次、能く禦ぐ。されども、敵山より鉄炮を放ち、櫓殿守まで打落し、二の丸まで乗取り候故、終に九月十三日に城を渡し、剃髪して高野へ登らるゝなり。
附大津城落去、関原御勝利の二日前なり。残念といふべきなり。然れども、七月より九月まで、能く持忍へらる。殊に始終、義心を翻されざるは、武道の本意、此忠勤を感じ思食され、後に高野山より召出され、若狭国を御恩賜なり。若狭の前主は、近年小原閑居の長嘯なり。是は金吾黄門の舎弟なり。伏見城に居られけれども、城を逃れ出でられ、若州へ引入る故、御改易ありて、其跡を高次へ下され、其子若狭守は、台徳院殿の御壻になされ、高次死去以後、若狭守は出雲国へ所替、廿四万石下され、若狭守死去以後、嗣なくして迹絶ゆべきの所に、旧功を仰出され、甥を跡目に立てられ、往昔大津の高を以て、播州龍野に於て、六万石仰付けらる。今の刑部少輔是なり。刑部少輔、若州落胤腹の子なれども、上を憚り、甥と申し【 NDLJP:310】上げて斯くの如し。
勢州阿濃津城は、富田信濃守、関東方にて之を守るを、敵長束大蔵大輔、水口の居城には、同名伊賀守を置き、阿濃津へ押寄する。毛利家の吉川侍従・安国寺及び土佐の長曽我部土佐守、四国・中国の人数二万計り、七月二十日の払暁より之を攻む。富田、終に之を守る事能はずして、城を開きて去る。
同国松坂城には、古田兵部、手勢許りにて之を守り、七月廿一日、鍋島信濃守寄せて之を攻め勝利を得。
同国岩手山城は、稲葉蔵人家来計り籠る。是も其七月廿一日、九鬼大隅守押寄せて、町口まで攻め破ると雖も、籠る所の家来共、堅固に守りて突退くる。
右の外、石田に与し、敵をなす輩は、勢州亀山城に岡本下野守、神戸城に羽柴下総守、桑名城に氏家内膳、海上は九鬼大隅守、尾三両国の潟浦を焼き払ふ。長島城には福島正則家来福島掃部頭籠る処を、之を抑へて原隠岐守、太田城に籠る。伊毛井城には、市橋下総守籠るを、之を抑へて高木八郎兵衛、安芸といふに居陣。濃州岐阜城には、織田中納言秀信卿居城なり。其城の瑞龍寺山に砦を構へ、石田が家臣柏原父子籠る。尾州犬山城には、石河備前守、〈後宗林号す、〉此加勢、稲葉右京亮・同彦六・生熊玄蕃・加藤左衛門佐籠る。皆是れ石田が威に与して、斯くの如し。其外、西国迄も一味の衆、石田に誘はれて、敵の色を立つる。扨又、北国表加越両国の境目、大聖寺山に山口玄蕃頭父子在城して、石田に与党せしを、加州羽柴肥前守利長、東国の手合として、尾山城より出陣し、湊川・手取川を越え、三田山に陣して、八月三日、大聖寺へ攻寄する。山口、大剛の将にて、突いて出で、能く防ぐと維も、無勢なれば、山口父子其外士卒、皆戦死して落城す。利長夫より人数を打入れらるゝ時、加州小松城主丹羽五郎左衛門尉長重、石田方なる故、出向ひ一戦に及び勝利を得、利長の臣長九郎左衛門・山崎長門殿して、漸く備を引退く。
附後に丹羽長重事、利長取持にて、権現様御赦免を蒙る。利長誠の武士道なり。
凶徒退治として、御先へ諸将発向、其以後、権現様御出馬、関ヶ原御合戦御勝利、凶徒悉く滅亡の事【 NDLJP:311】凶徒御退治の為め、御検使として、井伊兵部少輔直政・本多中務大輔忠勝、八月朔日、野州小山より罷登られ、諸将何れも、彼の表へ相向ふ。東海道の城主、
一、駿府中村式部少輔 二、遠州懸川山内対馬守 三、同浜松堀尾帯刀 四、三州岡崎田中筑後守 五、同吉田池田三左衛門 六、尾の清洲福島左衛門
此外、太閤家の衆、御方にて罷上らる。〈城主衆の様子に付いて口伝。〉右何れも、権現様御出馬を相待ち候所、御延引、御使として村越茂助御上せに付いて、其様子の話之あり、微妙なり。
東国よりの諸将、岐阜城を攻めんとて、萩原の渡を越し、西美濃へ押廻る。其先陣は福島左衛門大夫なり。差続に、羽柴越中守・京極侍従・黒田甲斐守・加藤左馬助・藤堂佐渡守・田中筑後守、扨は両御検使なり。此手より相図の烟を見て、河上河田の渡を越す衆は、池田三左衛門・浅野左京大夫・有馬玄蕃頭・松下右兵衛・山内対馬守・堀尾信濃守・一柳監物等なり。敵、木曽川を隔て、岐阜より人数を出したる所に、池田三左衛門、一番に乗越え、之を斬崩し、瑞龍寺の町口まで追討に引返し、円城〔成イ〕寺に陣を取る。福島左衛門は、同月廿二日、茜部を越え、岐阜近所に陣を取り、犬山口をば、駿遠二州の衆を以て之を抑へ、廿三日、両口の衆示合せ、岐阜城を攻むる。城主秀信、人数を出して之を支へらるゝと雖も、味方は倍々の多勢、且つ武功の将衆なる故、終に同日未刻、城を攻め落し、剰へ、秀信を生捕る。瑞龍寺山の砦をも攻め落し、逆徒残らず之を討取る。石田・小西・金吾黄門、岐阜落城を知らずして、後攻として河田の渡口まで来る所、藤堂佐渡守、何れも先立ちて、一戦を初むる内に、後勢追々に続くを見、爰にて岐阜落城を聞いて、敵、大垣へ引入る。味方勝に乗じて、垂井・関ケ原・山中辺まで所所放火し、赤坂に至りて陣取り、翌日虚空蔵山に附城を構へて、人数を籠むる。爰にて小攻合多し。
岐阜落城の儀、早打を以て江戸へ註進仕る。是に因りて、権現様、九月朔日、御出馬なさるべしと仰出さるゝを、石川日向守、西塞の日なりと申上げけれども、御猶予なく御進発遊ばさるゝ事、微妙の名将なり。十一日、清洲御著、十二日には御逗留、十三日岐阜城に御陣、十四日赤坂に至り御著陣、城へ御座なさる。其日、敵、大垣城より浅賀左馬・稲葉兵部・林半助・伊藤
頼母足軽を率ゐ来る。福田縄手〈是は西尾豊後守・松下石見守、後に水野日向守を相加へられ、曽根城と敵大垣城との間なり〉にて、味方中村彦右衛門手の者と、足軽攻合を初む。中村の家老野一色頼母、足軽を連れ出づる所に、足並悪しき【 NDLJP:312】を、頼母と知らずして、立堅めんとする所へ、敵突いて懸り、頼母討死する。其時、有馬玄蕃頭内稲次右近、鳥毛の差物を簪して出で、高名して誉を得。権現様、御陣所の栖楼より御見物なされ、御前に西尾豊後守、其外罷在る中村彦右衛門、我が備色悪く、然も家老の頼母討死する様子を見及び、某罷向はんと申上げて、座を立ち候所を、達て御留なされ候は、御底意ありてなり。御意を以て、井伊兵部少輔・本多中務大輔行き向ふ。其備武略。〈口伝。〉敵を追散らし、勝利を得、手早に味方の備を引揚げて帰る事、弓箭の誉なり。
関原御戦の様子、敵は、
一 、石田三成、十四日夜半大垣を出で、雪降〔吹カ〕山を後に当て、小関野に備を立て、我が備先に柵を振る。
二に、長束大蔵・長曽我部・安国寺・吉川侍従、其外太閤家旗本衆、合せて一万六千計り、垂井の南岡ケ鼻といふ山に陣す。
此抑として、味方池田三左衛門・浅野左京大夫及び駿遠衆。
三に、筑前中納言、本陣松尾山より出づる。此相備小川左馬・脇坂中務・木下山城守・同大学・朽木河内守・赤座久兵衛、或は四国衆、彼此玉藤川を越え、石王峠に備を立つる。
御方御備は、
一、左の御先南方は、福島左衛門大夫。
二、右の御先北方は、黒田筑前守。
三、中の御先、右は井伊兵部少輔。左は本多中務大輔。
四、下野守忠吉公は、御先手旗本の如し。〈口伝。〉
九月十五日未明、権現様赤坂御出馬、野上と関原の間、南山に御旗を立てらる。御跡備は、大須賀出羽守・本多縫殿助・本多丹下等なり。其日の巳の刻計り、南の御先福島左衛門大夫、道筋を西に向つて押懸る。敵相懸つて一戦を初むる。福島備の内、先手は家老福島丹波守、其被官団九郎兵衛、一番首徒膚者を討ちての誉なり。味方何れも一戦、就中、井伊兵部少輔、先衆を抽んで浮田と相戦ひ、敵の様子を見定め、馬を入れ立て、切崩さる。兵部少輔備の内、一の先木俣土佐、二の手鈴木平兵衛なり。木俣手にて、一番に進み出で、母衣武者の能き敵を討つは、尾畑勘兵衛なり。此節は、窂人にて、兵部備を借りて斯くの如し。忠吉公は、島津【 NDLJP:313】備を切崩し、御自身乗り入れ、島津家臣威〔伊〕集院と太刀打し、御高名手疵を被り給ひ、比類なき様子なり。御舅井伊兵部、武功を以て取かひ、兵部も自身の稼に、手疵を被る。本多中書も、自ら手を砕き働き、我が馬を射られ、其外、敵味方相互に入乱れ、粉骨を竭し相戦ふ半に、金吾黄門、敵の裏切を仕らる。相備の脇坂・小川・赤座・朽木も斯くの如し。石田備へ、後より切懸る。就中、島津手へ金吾旗本を以て突いて懸り、島津兵庫頭従弟日向国佐渡原城主島津中務を、金吾内笠原藤左衛門といふ北条家の窂人討取る。右の通故、石田敗軍して、雪吹山をさして逃去るを、味方勝に乗りて、之を追討つ。或は玉藤川へ逃入り、溺死する者際限なし。
附金吾裏切を仕らる其本は、伏見城を攻落す功、第一なれば、其仕置は我なりと存ぜらるゝ所、三成弟石田木工来りて、権を取り候に付いて、黄門思はるゝは、只今さへ斯くの如し。今度勝利を得たりとも、此以後、石田弥〻権重く、我々へも下知をすべし。石田下知を請くる我にてはなしと憤り居らるゝ所に、権現様より御計策なされし故、幸なりと変心せられたりといへり。
島津兵庫残兵二百計り円くなりて、味方の備を衝き割り、引退く。味方、之を遮り討たんと欲す。権現様、之を制止し給ふ。〈口伝。〉夫より伊勢地へかゝり、伊賀越をし、大坂へ行きて乗船、無事に帰国す。剛強の大将なり。〈以後福島取扱ひ、御免を蒙る。〉南宮表岡が鼻の敵も、悉く敗走す。凱歌の御儀式取行はる。
翌十六日、大垣の城を攻むべきの旨、仰付けらる。水野日向守・西尾豊後守、松尾城より相向ふ。味方何れも差続いて、詰寄せ之を攻め、二の丸まで乗り崩す。城将木村総左衛門・同男伝蔵・筧和泉・熊谷内蔵允切腹す。相良宮内・高橋左近・秋月長門守は、降を乞うて命を助かる。本丸を預りたる福島右馬助は、城を開渡して、伊賀地へ落行くなり。
佐和山城へは、金吾中納言向はる。御検使として、田中筑後守加へらる。金吾備の内、先手の家老平岡石見守向ふ。其外にも取寄する城将石田木工頭・同男右近・宇多下野・石田隠岐、何れも申しけるは、関ヶ原味方敗軍の上は、当城、五日十日持堪へても詮なし。多の士卒を殺さんよりは、我々自害せんとて、被官共に暇を取らせ、我が妻子を刺殺し、自殺して名を後代に残す。被官同心共、志ある者は同じく死せり。其中に、土田東雲といふ者、右の各〻を介錯し、家に火を懸け、其身も腹を切りたり。【 NDLJP:314】尾州犬山城をも、石河備前守聞きて之を渡す。
右の外、敵城共皆落去。
小西摂津守は、同十七日、雪吹山の東かすがつといふ所に、匿れ居たるを、関ヶ原の林蔵主搦取りて、之を差上ぐ。石田治部少輔も、彼の辺山の奥に、樵夫の姿に様を替へ居たるを、田中兵部尋ね出す。安国寺も太羅尾口より鞍馬寺へ逃行きて後、六条の寺に匿れ居たるを、搦取りて差上ぐる。右生捕の凶徒共、大路を渡して御成敗なり。
毛利輝元、大坂城西丸に居られたる所、九月廿三日、池田三左衛門・福島左衛門大夫・浅野左京大夫・黒田甲斐守・有馬玄蕃頭・藤堂佐渡守等を以て、御請取らせ、輝元、城外へ出でられければ、権現様、廿九日西丸へ御移なされ候。天下御一統、速切目出たき御事なり。
台徳院君は、関ヶ原御合戦に御逢ひなされざる御事は、信州真田安房守、会津御発向の時、下野国犬伏まで参り、野心を挟み引返し、小県上田の居城へ楯籠るに依つて、御追討として御馬を寄せられ、御供には本多佐渡守・榊原式部大輔・大久保相模守・酒井右兵衛・日根野筑後守・石川玄蕃頭・仙石越前守及び安房守と、嫡子真田伊豆守等、三万八千余にて御発向、御手間入り上方へ御遅延故、関ヶ原御一戦後御上洛なり。関ヶ原以後真田安房守、上田城を開き、二男左衛門佐と父子ともに剃髪、黒衣になりて高野山へ登る。嫡男伊豆守を、権現様へ御奉公に出し置き候を以て、御一命を免されて、斯くの如し。
直江山城守、最上表に於て所々合戦、関ヶ原落去以後兵を納るゝ事直江山城守一番に、最上領はたやを破り、夫よりひとやが森、或は白岩まで乗取る。左内より下次右衛門を初め、各〻直江と、相図の如く打つて出で、やち・さがえ両城を乗崩す。是に依りて、最上出羽守義光、居城山形より、家来志村伊豆守が羽瀬堂の城へ出張す。直江、之を聞きて、羽瀬堂表十町余北方陣山といふ所へ取詰め陣取る。八月十五日、羽瀬堂辺、放火・芟田の働をして、敵を引き見ん為めに、先衆の内より二三手差遣す。案の如く城内より、少々人数を出し、一戦を待つ故、味方好む所の幸と、懸りて攻合を初め、敵を追崩す。城内より之を見て、新関備前守といふ老功の士、唯〻一騎乗出し、下知して盛返す。味方二の手を以て立入り、新【 NDLJP:315】関を初め敵を討取りて、城際まで之を追討つ。然れども、敵は地戦にて、殊に大軍なれば、長追は危き故、手早に引揚ぐる。夫より敵地所々へ、毎日放火・刈田仕ると雖も、敵、之を妨ぐること能はず。
最上の抑として、中山城に、上杉家より中山式部少輔を入置く。又直江家老木村監物 〈父を監物といひ、子を造酒尤といふ。此一乱前、父の名監物とあらたむ。二百騎の士大将なり。〉が、最上領上の山筋より、攻め入り候へと、直江申付くる。上の山城主里見越後をば、様子ありて、最上の旗本へ呼び、其子里見民部に、中山駿河といふ老功の士を、検使に添へて、上の山の城を持つ。然るに、九月十七日、中山式部・木村監物、中山城には留主居を残して、両士大将、東道十五里の上の山へ働き、城をば木村監物之を抑へて手を分け、諸方へ刈田・放火、心の儘に致させ、又中山式部備を押返して、二の見の軍を持つて、木村備を引揚げさせんとする事は、明日又働きて、城を攻め落す歟。さなくば抑を残し、先へ働くべし。今日は味方草臥れ候とて、斯くの如くなる所に、敵の内坂弥兵衛、此方の人数、足元あがるに目を付、引取る様子かと、何れもに心をつけて、人数の手配して見定むれば、案の如く城を巻解すを見て、城には中山駿河を残し、里見式部采拝を取りて、四口より突いて出で、切懸る故に、木村の備三町余引退く。木村監物、側に持たせたる金の制札の差物を取りて、指し、乗廻し、味方を下知し、備を立堅めんとする時、不慮に深田に馬を乗入れ、馬のたけもはづるゝ程なる所なり。轡を引上げんとすれば、面いきれて進退ならざる時に、敵坂与兵衛来りて、木村を槍付け、終に首を取る。木村勢弥〻敗軍の所に、中山式部、備を三手に作り、一手は城へ懸け、一手は追ひ来る敵へ突懸り、一手は其二の見を持ち、貝太鼓を合せて静に懸る。敵、之を見て、早々城内へ引入るを、之を追ふ内に、木村衆も備を立直し、式部後へ詰めて懸り、附入にすべき所に、中山駿河、下知して逃入り、味方を立直し、門を堅めて相守り防ぎ候故、附入ること能はず。されども、差出されたる人数、残らず討取る。雑兵合せて二百余級なり。味方も百六七十計り討死。就中木村監物も討死す。
直江山城守、陣山に居て、ひかんねを初め、諸方へ手遣ひ、夜討小攻合して、後を取らず。然る所に、九月廿四日、羽瀬堂辺へ、放火・刈田の為め、人数遣す時、味方の若者、或は手明の者共、羽瀬堂へ取寄せて、外曲輪を攻破り、利を得て帰る時、城より志村伊豆守、人数を出して喰ひ留むる。味方の若者共、取つて返して戦はんとすれば、敵引取る。味方引揚ぐれば、又【 NDLJP:316】喰付きて引取らせず。此様子を、直江、陣山より見ていはく、放火計りの働をばせずして、下知なきに城へ取懸り、剰へ斯くの如きは、悪き若者共かなとて腹立し、誰をか遣し、引揚げさせんといふを、上泉主水望みて出向ふを、大高七右衛門、上泉を抑へて、某罷向ひ、引兼ね候はゞ、重ねて御越し候へとて乗り出す。上泉、左様に候て、時節相延び候はゞ、敵又人数を加へ、味方勝利を失ひては如何とて、同じく続いて乗出し、唯二騎行向ひて乗廻し、味方を下知し、備を立堅め、味方の間を二返乗りて、繰引にする。上泉、例の阿弥陀の御光金の前立物、朝日に輝く。上泉なりと、敵見て之を知り、恐れて喰付かずして、弓鉄炮を放つ。漸く城際四町計り引揚ぐる時、上泉、鉄炮に当り、馬より顛に打落さるゝ。敵見て、又競ひ懸つて主水が首をば、里見越後が被官金原加兵衛之を取る。〈此金原加兵衛、最上殿御改易以後、永井右近殿へ仕ふ。〉味方若手の者なれども、越後家の作法に馴れ候故、人々相嗜み、備を崩さず、入り替つて一手切に切懸り、二の手の備を待請けて、引揚げては亦備へ、行列の作法相定るを以て、敵を追退け、難なく人数を引揚げて帰るなり。
直江山城守、羽瀬堂をば抑へ置き、山形へ取寄すべく、最上義光出張の羽瀬堂をさへ、味方の若者小勢にて、外曲輪迄攻破る程なれば、山形にも手間取るまじと、味方と評議の所に、景勝公より、山城守方へ陰状を下さるゝは、去る十五日、濃州関ヶ原に於て、石田敗軍し、生捕らるゝの由、透波共、追々会津へ註進す。然れば、家康、近日又会津表へ発向あるべきの条、最上表を引払ひ、帰陣致し候へとの儀なり。最上へは、猶以て事広く註進故、是に力を得、味方には隠すと雖も、敵方より呼びて知らするなり。直江いはく、石田滅亡に付いて敵は競ひ、味方は弱る事眼前なり。唯今まで、木村・上泉討死すと雖も、敵と戦ふに利を失はず、敵城五つまで乗取り、近々羽瀬堂を初め、山形までも攻破るべしと存念の所、此註進を聞くや否や、何事なく引取りては、今迄の働、無になり、味方力を落し、敵、気に乗ずべし。今一度、羽瀬堂へ押寄せ、手強く弓箭を取りてこそ、武道の本意なれといひて、同廿九日早旦、陣山より備を出し、羽瀬堂へ相働き、弓鉄炮を以て、城を抑へ置きて、城下の在家を初め、近辺悉く焼立て、然もねごやの曲輪二構迄踏破りて焼捨て、討取りたる敵の首百余、右の場に懸け並べ、日暮に及ぶ故、人数を引揚ぐる。山形より後攻の人数出づると雖も、洲川を越えて、這方へ働く事ならず候。【 NDLJP:317】附ねごや一番乗は、相模浪人山口軍兵衛といふ武功の士なり。〈以後、会津を浪人して、最上へ来り居る。〉
直江、陣山迄引入りて後、山形衆、羽瀬堂或は門でん村迄、追々に人数を出し、羽瀬堂衆も打交りて詰懸る事は、直江引取るべき間、跡より討慕ふべしとて斯くの如し。直江、十月朔日巳の刻、如何にも静に、陣山を引払ひ、洲川を右に当て、北の方へ押出し、半道程引揚げ候時、今度直江、最上へ働くに付いて、義光より嫡男修理亮を以て、伊達正宗へ加勢を乞はるゝにより、仙台より正宗伯父伊達上野介・尾出薩摩守両将、合せて二百騎来る。此手を合せて、八百余騎跡を慕ふ。味方、兼ねて覚悟の事なれば、返合せて之を禦ぐ。上杉家、種ヶ島の鉄炮無類の上手高浜弾正右衛門に、稽古仕りたる足軽吉田印斎が的伝弓の射手山口軍兵衛に指南を請けたる足軽、或は若者の内より、器量を選出で、殿り備に組合せ、敵を射立て打立てする内に、敵方にて、会津衆は、大筒を膝台にて打つと沙汰して恐れたるに、斯くの如くなる故、之を見て進まざる所を見合せ、敵の右の手より突いて懸る。敵も精を入れ挑み戦ふ。仔細は、仙台衆は加勢に来る程にて、地衆に越えらるゝは、無念なりと励む。地衆は他処衆に越されては恥なりと思立ち、強みの争ひ計りにて、勝利の至極の所之れなく一致せず、備むらむらなるを、味方之を積りて、直江旗本より貝太鼓を以て盛返し、敵の左へ押廻して切懸る故、最上勢、直江方へ向ひ候へば、旗色悉く悪くなると等しく、味方殿の衆は、勝色になり競ひ懸り、突いて押込み候に付いて、敵敗軍仕るを、門でん村迄追討ち、競の声を揚げて、本の場所へ引返し、首帳を認め、実検して凱歌を執行ふなり。味方各〻武頭・物奉行、直江へ申すは、此競には、敵突いて懸る事、思ひも寄るまじく候へば、直に引取り給へといふ。直江返答に、今日中に引取りては、只今までの勝利、無になるなり。敵地にても味方地にても、人数生死の多少には限らず、芝居を踏まへたるを以て、勝と定むる事、昔よりの吟味なり。況んや石田滅亡に付いて、当表を引取り、某落著かざる作法ありては、憶病神が付いて斯くの如しなどと、世間の唱あらば、悪名は、屋形様の御弓箭をも穢す事なりといひて、其日は逗留し、翌二日巳の刻迄、備を設け、夫より、はたや迄引退きて陣取なり。此時、前田賢次手に乗りて、小殿を仕り候へども、敵、重ねて突いて出づる事ならず。然れば、はたやより下長井へ懸り、恙なく会津若松に至りて、備を打入れ、直江山城守武道の誉、世に高き事、件の如し。
附其時の最上の太守出羽守義光嫡子修理亮は、後逆意ありて、庄内に於て殺され、二男駿河【 NDLJP:318】守家親家督を続ぎ、家親不禄の後、源五郎家信の代になり、家老我が意地の公事に依りて、最上を召上げられ、一万石下され、家信の嫡子は、今の刑部義智、五千石之を領せらる。
直江帰陣の砌、最上領やちの城に、下次右衛門を残し置きて、其辺の仕置申付候所、石田滅亡なれば、行末、上杉家頼なしと思ひ、最上へ従ひ、最上衆を庄内へ引入れ、切取らするなり。然れば、直江さへ、会津へ呼返さるゝ程なれば、庄内に差置かるゝ城持衆も、留守居少々残して、皆会津へ召寄せられたれば、やす〳〵と何の手間取る事なく、庄内三郡、最上義光の手に入るなり。此次右衛門は、謙信公の下男なりしを、御眼力を以て御取立て、騎馬の列になされ、御さげすみの如く、数度武功を顕すに依り、次第に立身仕る。此者、隠なき算勘の上手なり。景勝公御代、四人御領分、勘定奉行下次右衛門は庄内、川村彦左衛門は佐渡国、窪田源右衛門は信州川中島、山田喜右衛門は越後〔国イ〕御旗本に罷在り。其様子御仕置の作法、〈口伝。〉御一武道の助なり。今度、最上へ直江相働く節、やち・寒川江両城を、左内より各〻出でて乗取る事、此下次右衛門分別宜しき故なり。武道はよしと雖も、元来下臈なる故、義理を知らざるを以て逆心仕る。然れば、其本は直江、やちの城に、次右衛門を残し置きたる故なれば、直江誤と見る事正道なり。斯様の事にて、気を付けて思案工夫すべし。武道は、義理を専とし、纔の武功ありとも、義理の少き者は、至つて憶病疑なし。次右衛門、若年より武誉ありて、此度も功ありと雖も、御両代の御厚恩を忘れて、逆心仕るは、士にかけたる大憶病者と批判して、其名を唱べば、口をすすぐべし。されども、少しの事を以て、人を捨て候はゞ、万々疎漏たる者はあるまじ。人に事を闕くべしと、不審もあるべけれども、そここそ大将一心の采拝なれ。其使ひ様にて、大悪の盗人も、却つて重宝なさるゝ事もあり。之を良将は士を弃てずといふ。下次右衛門も、使ひ様宜しければ、誉もありたるに、やちの城に残したるは、使様悪しき故逆心仕るなり。又恩を得奉る主君へ、逆心仕る者は、其身一代は、安穏なりとも、子孫に及んで天罰遁れ難しと思ふべきなり。下次右衛門、逆心の忠に依つて、大山城〈むかしのおうら〉に差置かれ、一万三千石の領知を給はりて、其子の次右衛門代迄、斯くの如き所に、最上の家中に、一栗兵部といふ小身者、遺恨あり。或時、庄内亀ヶ崎の城主志村九郎兵衛と、下次右衛門同道して、新関因幡と申す者の所へ振舞に行く。彼の一栗、我が屋敷の前へ出向ひて、次右衛門を、手もなく切殺す。次右衛門子もなき故に、跡絶え候事、是非天罰なるかな。右の時、一栗兵部、我が家来に申聞【 NDLJP:319】け候は、彼の両人を、某一人にて放討に討済し候はゞ、両人の跡を、某に下さるべしと、上より仰付けられ候。何れも精を出し候へと申す故、下々迄もいさみを含み、主と共に切懸り働くなり。一栗は、僅千石計りの身上なり。両人は大身なれば、手をよごさずに、斬殺さるべきにあらず候へども、唯是れ天罰なりと、存ずべき定義なり。一栗は両人を斬殺し、我が家へ引籠り、家に火を懸けて切腹仕り、内の者共は切死仕るなり。
権現様、藤田能登守を召出され、景勝公と御和睦の事直江山城守は、最上より帰陣、其外御他国の人数を、会津へ召集められ、権現様御発向を相待たる。権現様伏見御在城の内、藤田源心方へ、上使として阿部善九郎・秋元越中守を、大徳寺へ下され、下野国那須に於て、十万石下さるべき間、罷出づべしとの御事なり。藤田申すは、前方に候はゞ、此儀申すまじく候へども、景勝逆心露顕仕り候間、物語仕り候。私事、景勝に対し、聊か別心を存ぜず候へども、直江山城守、某を別心と申立て候。其様子は、斯くの如くに候と、会津を立退き候趣、委しく御使へ語り、斯様の儀にて候へば、行々は是非上杉家へ、帰参の覚悟にて御座候。然る間、御下へは罷出で候事、なるまじく候と御請申上ぐる。猶数度、御使の上、又右の御両使に本多佐渡守を差添へ、仰下され候は、景勝とは兎角此方より無事を入れ、仰談ぜられずして叶はぬ事なり。其様子、藤田罷出で申上げ候はゞ、兎も角も、景勝分別相応の取組なさるべく候。左候て、景勝と御無事相調ひ候はゞ、藤田心底誤なき段、権現様より、景勝へ仰開かれ下さるべく候。左あれば、藤田一身の忠義は相立ち候。藤田罷出でず候へば、御無事の取組其首尾、此方より仰遣され、景勝気に入らず、承引之れなくば、再び騒乱となり、景勝滅亡に候はゞ、藤田今までの義理合も水になり、景勝へ不忠といひ、殊に天下の災、藤田分別仕る返答尤なりと仰下され候故、遁れ難く罷出で候。然れば御無事の御内談ありて、会津への御使、秋元越中守仰付けらる。其仔細は、武州深谷上杉家三宿老は、井草・秋元・岡庭とて其一人なり。小田原御陣の時、主人上杉と同じく、父の秋元も、小田原に籠り候へども、其子の越中守〈但馬守父〉は、権現様召出され候。元来上杉被官筋なり。同深谷士大沼越後といふ武功弁舌達したる人を差添へられ、妙心寺・覚光寺も下向あつて、御無事取繕あり。御互に種々の仰せられ様ありて、切々御使衆、御双方より往返、終に御無事調ひ、翌年霜月、景勝【 NDLJP:320】公、江戸へ御越し、権現様、御礼儀正しく御対面相済み、其後景勝公御登城、権現様御直に仰せらるゝは、其方別心の験に、公儀への仕付の為めに候間、米沢へ移られ、只今まで直江山城守が領知三十万石を、御手前領知あるべし。山城には五万石、其外に遣し置き申すべく候。連連は、本領相違なく返し進じ申すべしと仰せらる。景勝公御返答に、江戸へ参り候上は、如何様にも、御意次第に候とある故、景勝公、米沢へ御移なり。其跡会津若松へは、蒲生秀行、宇津宮より所替六十万石になされ遣さる。秀行は権現様御壻なり。
附秀行御子息下野守忠郷相続、会津相違なく領知、早世して嗣なき故、舎弟中務大輔忠知、予州松山に於て、廿四万石下され所替、是亦早世。男子なくして、蒲生家断絶。女子一人あり。是も死去なり。
権現様、景勝御無事相済み候故、藤田能登守、本多佐渡守を頼み、御訴訟申上ぐるは、某を召出され候時の上意の如く、上杉家へ、帰参仰付けられ下され候へと申す。即ち佐渡守、披露して申上げ候へば、御城へ藤田を召され、上意に、当時天下の掟の為めに、景勝を小身に申付け候へども、やがて以前の如く安堵をなすべき間、其時帰参尤もなり。其内、堪忍分として、下野国西方にて一万三千石、并に内方化粧料として二千石、合せて一万五千石下置かる。又上意に、上杉家へ帰参の儀、存じ留り候はゞ、前廉仰出されたる如く、那須に於て、十万石下さるべしとの御事なり。藤田申上ぐるは、景勝、小身にても苦しからず候。私も其相応に罷在るべく候。帰参仕り候へば、本望にて御座候と申上ぐる。江戸にて景勝登城の節、藤田を召出され、御引合せなされ、藤田内心の通、如何にも詳に景勝へ、権現様御物語遊ばされ候。夫より景勝公、御心底解け、藤田へ御懇なり。権現様、重ねて又仰聞けられ候は、景勝へ段々申達し、藤田心中の義理は、相済み候なり。さあれば、上杉家へ帰参達せざる事なり。景勝小身なれば、相応程知行与へらるゝ事なるまじ。以来景勝を、大身に申付けての上に帰参然るべしと、御直に上意にて、御留めなされ候。
附景勝へ、本領御返しなされず、其内、藤田堪忍分にて差置かせられ候故、十万石下されず、上杉家へ帰参も仕り得ず、剰へ、大坂御陣以後、御料を蒙り候。
夏目舎人の事【 NDLJP:321】舎人事、右に記す如く、上泉主水方より呼び候へども参らず、小国但馬方に忍び居り候内、藤田能登守、会津を浪人せらる。此上は是非なく、先手衆何の備へなりとも附くべしと、但州を頼み候へば、兄の直江山城を以て、景勝公へ相達し候へば、早速御前へ召出され、御引出物など下され候。頓て役儀仰付けられ候は、御前備二備の士大将は、右の方長尾伊賀守百五十騎、左の方は水原常陸介百五十騎、合せて三百騎なり。右伊賀守百五十騎を三手に分たる。其作法は、
一に、五十騎、此頭は志水隼人、外二騎は小頭なり。
二に、五十騎、此頭は夏目舎人助仰付けられ候に付いて、廿五騎宛二手に分けて陰陽とする故、舎人下にて二騎の小頭は、吉田久右衛門〈此久右衛門、城平隠岐守殿に奉公予州松山に近年まで罷在り候〉・尻高民部〈後上州沼田へ引込み五ケ年、前酉二月死す〉 両人なり、役者を引いて五十騎なり。
三に、五十騎、伊賀守手前の騎馬を合せて、七十五騎なれども、役者を引く五十騎の備と定む。
水原常陸介備も、大方斯くの如し。然れば前備二備なれども、六手々々又十二手となる。是に付きて口伝あり。然る故、夏目舎人帰参仕り候へども、御前備に罷在り候故、最上へも参らず。尤も関ヶ原の儀は存ぜず、会津に居り候。権現様・景勝公御無事故、舎人助、又会津を引払ひ、上州のにう原或は関根辺に、年月を送り罷在り候。然るを、厩橋城主平岩主計殿聞出され、召抱へたしとて、前畠領一跡を残らず給ふべき間、罷出で候へとて、家老平岩九左衛門並に甲州窂人水沢左門・相模窂人石関兵庫を差添へ、舎人方へ差越さる。舎人申すは、越後に於て、前畠領より多く所知仕り、殊に五十騎の組頭仕り候間、少しも立身にて之れなくば、罷出づまじと返答す。又重ねて、右の三人を差越され、連々は兎も角も候へ。先づ当分は、窂人と思ひ、我等下に堪忍して呉れられ候へと申越さる。舎人申すは、初より其御断にて候はば、今程某身上、逼迫の体にて候間、罷出づべく候へども、一度知行の員数を承り、夫を此方よりねぎり、様子よき様に取繕ひ候事は、越後家風にての嫌者にて、其味悪しく候間、ふつと罷出づる事、なるまじと申切り候へば、石関兵庫申すは、其方は、口広き事を申され候。今まで何程の事を致し、左様に身を亢られ候や。我等などは、小城といひながら、上野米津に寄居を持ち、北条家にて名を呼ばれたる者にて候へども、只今の時節なれば、其方よりは小身にて【 NDLJP:322】も罷在り、明日に何事ありても、其方などに仕負くべしとは、思も寄らず候と申し、舎人いひ分を、事の破として石関に向ひていふ。流石石関殿とも覚えぬ物の申され様かな。其方不甲妻なき故、其つらにて居ながら、米野の城主と名乗り、却りて米野の寄居に、疵を付くる事なれば、隠密あるべき儀を自慢して、詞に出ず心立にては、明日というて、先を考へての事もなければ、善悪知らず、只今我等と切り合ひてなりとも見候へ。其方などを切殺すといふは、物に似て扣き殺すべしと申す。右の両人、其外其座へ参り合せたる各〻抑へ沈め、中を直し候。石関中を直るまじと申す。舎人方より和を入れ、中を直し候故、各〻石関を連れて帰り、右の舎人返事を、平岩殿へ申したる由に候。さて其日、石関所へ、舎人方より状を付け候は、はつ崎の北の寄居の跡へ出合され候へ。あれにて昼の申分の埒を明くべしと申遣し、舎人先達て、右の所へ出で相待ち候へば、其日暮前に、石関さすがにて、只一人出づる。舎人出で向ひ、石関奇特に参りたり。今昼、互の遺恨をば爰にて散ずべし。先づ其方刀を抜けと詞を懸け候へば、石関即ち刀を抜きて、世忰め推参なりといひて、蹈込みて切る所を、舎人、刀を抜き出して、柄にて請くるを、鍔を斬割り、舎人が右の方の頭を切りそぐ所を、舎人飛入りて蹈倒し、刀を抜き、峯打に続け打つて、石関が頭をたゝき割り候。〈慶長七年壬寅六月二十日の暁なり。其場所は、上野白井と厩橋との間、八ツ崎の寄居、其頃今八ツ崎と云ふ。〉 口論の時、石関を扣き殺すべしと申候故、扣き殺し候様子、御目に懸けん為めに、とゞめをも刺さず候と、前方書付懐中し、竹に夾立て置き、帰りて妻子を召連れ、刀禰川の向漆原へ懸り、北上野の中里見へ参り、其所の地頭里見右衛門佐殿、其時は喜兵衛殿と申すへ、頼入れ候へば、室田の長念寺の向、上里見に名を替へさせて、隠し置かれ候。
附此里見右衛門佐、一年関東を窂人し、舎人助を頼み、越後へ参られ候故、舎人介抱致し、藤田に引合はす。其後、藤田申上げ、景勝公へ召出され候。権現様、関東御入国の御時、景勝公へ右衛門佐被為義、浅野弾正殿迄、右衛門佐本意の願を頼み遣し申されし故、権現様、弾正殿より申上げらるゝを以て、右衛門佐に、上野の内、上里見・中里見・下里見を下され候。井伊兵部少輔殿、高崎拝領ありて、権現様より右衛門佐を、兵部殿へ御預けなされ候。関ヶ原落去、兵部殿、江州佐和山へ所替の時、右衛門佐も、佐和山へ御同道なり。関ヶ原一戦の砌、兵部殿備先にて天晴なる働の仕事其隠なし。右の通、舎人助好身あるを以て参り候なり。右の石関兵庫、幼少の子、之ある由に候へども、某は存ぜず候。石関弟一人之あり候へども、自身、舎【 NDLJP:323】人を討つ事なるまじと思ひ、高橋次郎左衛門抔といふあばれ者を、金子三十両にて頼み候。此次郎左衛門、元来舎人被官筋の者なる故、舎人に告げ知らせ候。左様に身をかばひ申す憶病者ならば、舎人助余り気遣も仕らず候。案の如く討つ事ならず候。此儀を面目ながり、名字を替へ、尾州大納言殿へ出で、頃年迄生存疑なし。
上野白井城主本多豊後守殿〈先年三州岡崎在城本多伊勢守忠利の父なり〉より、後藤庄兵衛・竹内三右衛門を以て、吾妻と白井の境五町田領の一跡給ふべしと仰せられ候へども、是へも様子之ありて罷出でず候。其後、平岩主計殿を甲州へ遣され、其跡厩橋を、酒井雅楽頭殿拝領ありて、柴田左衛門・石川太郎兵衛両使を以て、舎人方へ仰越され候は、永々の窂人と聞及び候。我等所へ、窂人分にて参られ候へ。其方武功の誉の様子、連々上聞に達し、何卒御旗本へ出し申すべく候と、種々御懇浅からず候故、忝く存じ、雅楽頭殿へ罷出で候事、慶長九年辰二月の末なり。然る所、江戸御城石垣御普請、雅楽頭殿請取の場所小奉行二人は、植野作右衛門・太田三右衛門、其大奉行に、夏目舎人罷出で候へと申付けられ候。事の様子次第、権現様へ先づ御目見仕らせ候はんとの内証を以て、斯くの如し。其時、藤田能登守、雅楽頭殿御普請組にて、或時、御普請場にて、舎人を見付け、其明日、雅楽頭殿へ藤田申さるゝは、舎人助事、某深く構之ある者にて候。御扶持を放され下さるべく候。左なくば、御所様へ、直訴申上げ候てなりとも、某存分に仕り申すべしと申され候故、雅楽頭殿をも立退き候事、同年九月二十日なり。又厩橋領関根へ引籠り居候へば、其儀を藤田聞かれ、最前は増毛但馬に申付けられ、後には大淵喜右衛門といふ鉢形より藤田所へ帰参武功の士あり。此喜右衛門承りて、黄金五十両宛、舎人方へは沙汰なく、内方へ合力と事寄せて、送越し候。
附此大淵喜右衛門事、西方滅亡の後、本多上野介殿へ出で、五十人の足軽大将仕る。上野殿御改易ありて後、永井右近殿へ呼出さる。只今の大淵角之允重賀父なり。
予定房、正保三年丙戌、尚政公に従ひ奉り江戸へ下り、慶安元年戊子の春まで、在府の内、久しく相煩ひ候。父母心許なく思ふべしとて、之を隠すと雖も、漏聞き、山州淀より度々使を下しぬ。其後、老母蓮珠院英室妙香より、文はなくて、一つの巻物を給ふ。開きて見れば、誠の歌なり。誠に孟母の断機の訓ぞと思ひて、即ち閨壁に張り、南容が白圭の如く、日に三度詠吟す。然れども、尭も其子を化すること能はず、舜も其父を諫むること能はず、周公も其兄【 NDLJP:324】を教ふるを得ずとやらん。予本より愚なれば、口に唱へても、其行迹其理に当らざれば、慈母の教誡も、皆無になり、浅ましき事に覚え候。殊更、和歌の道は、曽つて弁へざれば、教の志も明ならずと雖も、一方の理に似たる古語を、歌の下に書加へて、心の楽とし侍るなり。
花は、春のさかりをながめ、月は、秋のくまなきを見て、心をちゞにくだきても、なぐさむ世の人こそうらやましけれ。わが身ひとつのやうに、老の名たてがほなれど、目さへかすみて、さだかに見えねば、なぐさむかたもなし。しかのみならず、かなしきものにしける君さへ、みやづかへさりがたくて、あづまにくだりし事をなげきしに、こゝちそこねけるよし、いひおこせければ、やみにあらぬおやの心も、くれまどひて、いよ〳〵見まくほしきなげきのやるかたなきも、なぐさむやと、すゞりにむかひ、いろはのもじを、句の上に一字づゝおきて、なにはのよしあしのこと葉をも、わかぬもしほ草のたねと、子をおもふこころをしるしつるなり。
いくちとせふらぬものからおやごころ | 慈母手中縷、 |
あかずもいのる子のよはひかな | 遊子身上衣。 |
ろなりしもさだめなき世といひながら | 恩則親養父母、 |
おやしまもらば又もあひみん | 義則上下相憐。 |
はかなさはいのちなりとてわが君に | 死生有㆑命、 |
つかふるみちにをしみばしすな | 富貴在㆑天。 |
にたるこそ友とはなるぞ人ぞみな | 里仁為㆑美、択不 |
なれゆく中にこゝろあらなん | ㆑処㆑焉仁得知。 |
ほとけかみいのらずとてもわが君に | 繋念乖㆑真昏沈不㆑好 |
つかふる身しもみちにかなはゞ | ㆑学、神何用㆓踈親㆒。 |
へだてなき友にもなをも心せよ | 君子接如㆑水、 |
こやものゝふの道とこそきけ | 小人接如㆑体。 |
ときの間に人のこゝろはかはるぞと | 人世堅約手翻覆、 |
おもひゆるすなものゝふの道 | 君看庭前松栢姿。 |
ちりの世にまじはりぬればちはやふる | 和㆓其光㆒、 |
【 NDLJP:325】 神も光ののどかなりける | 同㆓其塵㆒。 |
理非をよくわけてし見ればてる月を | 自性照㆑内、 |
かくせる雲もあらぬ世のなか | 三毒自除。 |
ぬす人は心つよくは入りもせじ | 荀子之不㆑欲、 |
かどのまもりはよしよわくとも | 雖㆑賞㆑之不㆑窃。 |
流通する事をかたるとなをも聞け | 改㆑過必生㆓智恵㆒、 |
よくしるみちもかはる世の中 | 護㆑短必内非㆑賢。 |
起臥にのちの名こそはおもほゆれ | 夢幻空花何学㆓把捉㆒、 |
かりのうき世のたのしきは | 何得失是非一時放却。 |
わが身さへなほまゝならぬ浮世ぞと | 但向㆓心中㆒除㆓罪縁㆒、 |
おもひかへして人をうらむな | 各自性中真懺悔。 |
かずならぬ人にはなをぞ心あれ | 譲㆓尊卑㆒和睦、 |
めぐむならひぞ神も仏も | 忍㆓衆悪無㆒喧。 |
よの中にはちをすゝげど濁江の | 有㆓我罪㆒即生 |
すみがたきよとかねてしらなん | 亡㆑功福無㆑比。 |
たれもしるみつればかくと夕月の | 真如自性是真仏、 |
あまつをしへの道をそむくな | 邪見三毒是魔王。 |
連々につもればちりも山となる | 君子以㆑文会㆑友、 |
ことをおもひてものまなびせよ | 以㆑友輔㆑仁。 |
それとなくこゝろをつくせ武士の | 主㆓忠信㆒、 |
おもひありとてみちをみだるな | 無㆑友㆓不㆑如㆑己者㆒。 |
つみとがのむくいはのちの世々ならず | 邪迷之時魔在㆑舎、 |
はやくこの世にありとしらなん | 正見之時仏在㆑堂。 |
ねにふして寅にはおくる露の身も | 風興夜寐、 |
きえてのゝちの名をおもふゆゑ | 礼之制也。 |
なにごともさだめなき世とさだむれば | 正見自除㆓三毒心㆒、 |
【 NDLJP:326】 おろかなる身もまよはざりけり | 魔変成㆑仏真無㆑瑕。 |
らくはらくうきはたのしきはじめぞと | 若真修㆑道人、 |
時にあふ身をうらやみなせそ | 不㆑見㆓世間過㆒。 |
むつまじき君が名たてそ一すぢに | 事㆑君軍旅不㆑避㆑難、 |
つかふる道にこゝろつくして | 朝廷不㆑辞㆑賤。 |
うづもるゝ名をなげくなよ山桜 | 人不㆑知而不㆑慍、 |
花さく春のおりもまたずて | 不㆓亦君子㆒乎。 |
いつはりをこゝろのうちに思ふなよ | 小人閒居為㆓不善㆒無㆑所㆑不㆑至。 |
まだきたつ名のならひある世に | 見㆓君子㆒而後厭然、揜㆓其不善㆒而著㆓其善㆒。 |
のがるべきみちしなければ兼ねてより | 五陰浮雲空去来、 |
なき身としりておどろくなきみ | 三毒水泡虚出没。 |
おもしろきほどもあらしに散る花の | 纔有㆓是非㆒、 |
いろに心をうつさずもがな | 紛然失㆑心 |
くもの上のすみかなりともうらやむな | 李郭先生妻曰、今結㆑駟 |
はにふの小やもたゞ心から | 列㆑騎、所㆑安不㆑過㆑容㆑膝。 |
やまずのみ心をつくしあしがきの | 水鳥緩々似㆓間暇㆒、 |
ひまなく君につかふるぞよき | 其足閙々無㆓止時㆒。 |
まだきより君がこゝろにそむくなよ | 子曰、民以㆑君為㆑心、 |
つかへの道は身をおもふため | 君以㆑民為㆑体。 |
けふごとにまづものゝふの道をせよ | 行有㆓余力㆒、 |
ほかのまなびはひまの余りに | 則以学㆑文。 |
ふかゝれやくみ見て人のしらぬまで | 莫㆑見㆓乎隠㆒莫㆑顕㆓乎 |
心の水のそこもにごらず | 微㆒、故君子慎㆓其独㆒也。 |
言の葉に人のこゝろはしら糸の | 九思 |
くりかへしてもおもふべきかな | 一言。 |
えやはいふいへばつみうる世の中に | 詩曰、無言不㆑讐、 |
【 NDLJP:327】 人はわが身によしあしくとも | 無㆑徳不㆑報。 |
手にむすぶ水にあとなく忘るなよ | 左㆑文右㆑武、 |
文と弓とをつねにならひて | 如㆓鳥羽翼㆒。 |
あきらけきかゞみにかけて見し事も | 鏡裏看㆑形見㆑不㆑離、 |
しらぬがほにしする人ぞよき | 水月捉㆑月争拈得。 |
さかづきをくみなかさねそ武士の | 惟酒無㆑量、 |
八十氏人もこゝろみだるな | 不㆑及㆑乱。 |
きよみがた関守る人のなきやどは | 礼曰、朋友之交、主人不 |
おもひよりてもとはですぎなん | ㆑在、不㆓大故㆒則不㆑入㆓其門㆒。 |
ゆくさきもわがすむやどは明くれに | 詩曰、戦々兢々如㆑臨㆓ |
人にはあだのありとしらなん | 深淵㆒如㆑履㆓薄氷㆒。 |
めにちかく心よわきをみるとても | 詩曰、温々恭人 |
人をなすてそものゝふのみち | 維徳之基。 |
身を三たびあさな〳〵にかへりみて | 曽子曰、吾日 |
こゝろひとつによしあしをしれ | 三省㆓吾身㆒。 |
しばらくもわすれず思へをとこ山 | 質㆓諸鬼神㆒而無 |
あふぐにまもるものゝふの道 | ㆑疑知㆑天也。 |
ゑふの身はさだめがたきぞよき人の | 舜好㆑問而 |
よきとよくみし友に問はなん | 好察㆓邇言㆒。 |
ひとのうへあしきもよきも人問はゞ | 隠㆑悪而揚善、執㆓ |
あしきはいはでよきはこたへよ | 其両端㆒用㆓其中㆒。 |
ものごとになれぬる人にちかづきて | 曽子曰、以㆑能問㆓於 |
とひつゝ後におもひさだめよ | 不能㆒、以㆑多問㆓於寡㆒。 |
せはふちになれるためしを静なる | 君子者常畏懼 |
みよをわするなものゝふのみち | 而不㆓敢失㆒。 |
過ぎぬるはおよばぬことぞ武士の | 過猶不㆑及。 |
【 NDLJP:328】 みちにばかりも心尽しそ |
正保四年九月十三日 蓮珠院妙香
なつめぐんはちどのへ
定房の許よりいひおこせけるは、さなきだに、おろかなる母の子をおもふ心のやみに、まよひぬることの、はゝ君ならで誰にかとなん、へだてなきとしごろの心も、あらはれぬることさへ、うれしくて見侍るに、聖教にひとしきことどもなれば、賢女といふとも、およぶべきものにあらぬをかしきふし〴〵おほければ、世の人にもしらせまほしくぞ。かゝるうたは、男のにはきこゆれど、女のには是やはじめならんかし。
はゝそ原木のもと照すいろはたゞ人のことばのもみぢなりけり
慶安二年九月廿五日 小野山人蹈雪
此小野山人蹈雪は、姓は藤原より出で、賤しからぬ人なり。世の塵をいとひ、小野辺清き流に心を澄し、昼は終日、三教の文に眼をさらし、夜は終夜、和歌の道に心を寄せられしに、一入其道に長じ、世の人あまねく唱ふ。幸に予年来の友なれば、愚母が巻物を見せ侍りしに、よあししの詞はなくて、紙の奥に筆を加へて返さるゝなり。
新安手簡附録、白石与㆓土肥源四郎㆒の書にいふ、上杉記の事、昨日も申上げ候通、珍書にて、殊に御副本の為めに、拝領の物に候間、我等方宝書の中にて候云々。
時享和改元の春、白石の孫新井某に私請し、謄㆓写之㆒収㆓于帳中㆒。
知約堂主人誌
管窺武鑑下之下第九巻 舎諺集 大尾この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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