目次
 
オープンアクセス NDLJP:386
 
太閤記 巻十四
 
 
○将軍於名護屋癸巳御越年ヲツネン之事
 

思はさらめや光陰箭のことし、文禄元年もやうやく事しけき中にまきれくれ、都にての歳暮にはことかはり、目なれぬさま多かりけり、とかうのゝしる内に、鶏正旦の祝音をとなふ、うオープンアクセス NDLJP:387くひすも谷の戸出て、うゐ声めつらかなり、御前はいよ目出さの春にて、ことふきのかすに将しつかならす、折ふし城州八幡山の暮松新九郎、年頭之御祝儀申上候はんとて、なこやに至て下向せしかは、御気色にて、殿下みすから御能をも御けいこ有て、御心をものとめさせ給ひ、又は在陣之衆士をも慰めんと也、思ふとちへたてなく云かはしけるは、御年も漸耳順にちかからむ、ねかはくは止給ひなは、目出事になん侍らんと云も有、又笑をふくみてさみし侍るも過半せり、初の程は山里にして、御伽衆被召連御けいこ有しか、御仕舞シマヒのよしあしを、つゝます有やうに申せと御諚也、新九郎をしへ申やうのつきしさ、いみしさ、不一方、もはや表向にて物し給ふとも、くるしく待るましき由、暮松申上しかは、其さま宜しからんことを、強て思ゐけるにこそと宣ひつゝ、弓八幡は天下をおさめ、民を安んする能なれは、御けいこ有しか、事外宜しく侍る由のみにて有し也、五十日計の内に、十五六番覚え給ひしか、やかて舞台にて被遊候やうにと新九郎申けり、日数やうつもり、御稽古の程もかさなり、仕廻すくなに扇なとものひやかなれは、見る人とかう申に及はれぬ事にて有けるよとてかんしあへりぬ、暮松金銀御服なとおひたゝしく拝領有、諸侯大夫衆も、一かたならぬもてはやしなれは、門前にきはひにけり、今春大夫八郎、観世大夫左近被召寄、御能御覧有へきとて、飛力指上されけれは、二月下旬両人至名護屋下着せり、其旨披露有しかは、頓て登城いたすへきにて、翌朝御目見え申せしに、下向の程油断なかりしよとて、御機嫌いみしく、万御ねんころに物し給ふ、今春家之名物こおもて、はんにや、小尉、三光之尉、観世家之名物、ふかひおもて、しは尉、あふみの女、こへしみなとうつさせられ度旨、内々にて御所望有しかは、辞し申に及はれぬ事にや有けん、即面を上奉る、其比山城宇治郡醍醐に角坊とて、面なとをうつし侍りて、たくひなき名人有、即めし下し、うつし奉るへき旨、木下半介を以被仰出しかは、十日計のうちに五出来し上奉る、御一覧あるに何れか本、何れかうつし共見えわかさるにより、御感不斜種々の引出物拝領してけり、残りの面共も出来し奉れは、おもての天下一になさるへき旨おほされて、家康利家なとに、いかゝ有へきととひまいらせられしかは、尤宜しくおはしますへしと申上られけり、其夜めし出され、銀子五十枚天下一号之御朱印給りぬ、角坊か仕合、とかう申に及はれす、かく能にすき給ひしに因て、名物のおもて共多く聚り来る事、大かたならぬ事共なり、

 
近衛殿高麗御渡海止給ふ事
 
近衛殿いかゝ思召けん、高麗一覧のため可御渡海之旨しきり給へり、ウヘ様にも其道ならぬ事共、無益の事におほし給ふ、折節秀吉公もなこやにて被聞召、せんもなき義と被仰、其旨徳善院玄以かたまて御内状有て、誠上下降啄之御事になん侍る、是によつて以御宸筆秀吉公へ、勅定有之其勅書に云、

          摂家の           事実に

             一跡も        をきては

          近衛前           左府高麗

オープンアクセス NDLJP:388                         下向のよし

            断絶の

             きこしめし

           十一やうにては       及はれ候

          十二如何と

               おほしめし候

                  申なへ留

                     られ候はゝ

            可然候はんや

              おとろき入せられ

               筆をそめ

                 まいらせ候

                あなかしこ

              二月十日

                大閤とのへ

勅書を将軍頂戴之事、冥加之至なり、宸襟を安んしおほされ候やうに、近衛殿をいさめまいらせ、高麗渡之義無之やうに、いたし侍るへき旨、勅答ありけり、

 
○秀吉公憐於夫婦之間
 

薩州島津内、小野摂津守、ゆうにやさしかりし息女を持侍りしか、肥前龍造寺か家臣、瀬川釆女正に嫁す、釆女正高麗在陣之折ふし、彼妻あこかれし思ひのほとを、聊物にしるし付侍りしを、便の船にことつてをくりけり、折ふし難風、おびたゝしう吹来て、船はそんし、荷物博多の浦へ寄来るを、漁夫拾ひ上侍りしか、其内に渋そめやうの紙にて、能つゝみたる物あり、ひらいて見れは、文箱とおほしき物侍りしを、ほどきみれは、まきゑなともけたかくよのつねならぬ文匣フバコなり、いやしき者なとの致披露物にあらさむめりとて、所の吏務へさしあけぬ、吏務請取つゝ、将軍之御前衆へかくと申上侍りけれは、則秀吉公へ文箱の符をも切ず上しかは、右筆にて侍る山中山城守をして、御一らん有に、女の文にて筆勢いとうつくしく書つゝけたり、

たよりの舟をよろこひそゝろに取向ひまいらせ候、たゆるまもなく、なつかしみ思ひ侍る事も、おほかめれど、心をあはせかたらふへき人もなけれはねやさひひとり、かたしく袖の露、床は海、枕は山と立のほる、むねの煙はるゝまもなき、なみたの雨そゝぎ、いつをかきりの露の身の、きえやらぬほどもうらめしきそかし、そのあらましを、聊しらせまいらせさふらふ、そこほとは、世わたるわざのことあげにとりまきれ、もはやこゝほとの事は、おほし出さるゝ事もなみのをと、すさまじき御心とやなりぬらんと、思ひのたねむねの中に、しけりあひぬるまゝ、すゞりにむかひとりわづろふ筆のすみも、なみだのうみとやなる、

オープンアクセス NDLJP:389 行水にかずし(かイ)くよりもはかなきはおもはぬ人をおもふものかは

と、よみをく和歌のふることまても、わか身のうへに覚えて、其人の心の中をしはかり、すこしはなくさみぬ、思へはそひまいらせぬ、むかしも有つるに、こはなにのむくひにておはしますそや、あさましかりつる我心かな、とは思へとも、よきにとまらぬ心のくせとして、又こひしう思ひまいらせ、物のけも有やうに人もいひなし、我も又心のたゝしからぬ事をしれり、抑心は身にそふ物なれは、身のまゝになるへき物なるが、されは心のまゝに身はなる物とこそみえ侍れ、まことに心は身の主なりと、ふるき文に多く見えしか、けにも左も覚えぬ、いかなる神のむすひあはせにや、あさはかなるちきりとは成ぬらん、ある人ふかうかなしひあへりし事の有しを、いやそれははかなき事にて侍るなり、たゝ思ひすてさせたまへと、諫つることも有しか、かく我身のうへになりぬれは、そのしなくらうして、あやなきことをなん思ひこかるゝも、女の身なれはとて、又口おしからさらめや、心を心のまゝにせさらんも、なをあきらかならす、おほえ侍りぬ、たゝすの神の御コヽロには違ふ事にて侍れとも、これよりのちは恋せしとこそ、いのり申へけれ、いにしへより今にためしすくなき、こまもろごしとやらんへ渡り給ふ、かきりなき海山を隔て、互に風のたよりをさへ、きゝかね、まいらせ候へは、かく思ひたえんとせしも、亦むへならさらんや、天正十八年の秋より某の春、こまの国へ御陣有へきむね仰有しかども、更に実ともおほえ侍らで、多の月日を過し侍りしか、いつの間にやらん、文禄初の年の三月にも移り来て、あすは、こまの国へ舟出し給ふなると、何方もことしうのゝしりあへりぬ、大かた夜も半ちかう更しかは、行末の事なと、かはらじとのみかたりつゝ、頼みをきつるに、はや明かたの空に成て、別れを急く鳥の声、打ちきしかは、

 身はかくてさすらへぬとも君かあたりさらぬかゝみのかけははなれし

と、よみをく和歌のことく、是をかたみにとたゝうかみなから、残しをき給ひしを、まことに袖より外にもらすかたもなく、恨てはよみ、よみてはかこち、あさなゆふな詠めくらし侍りぬ、

 思ひつゝぬれはや人の見えつらん夢としりせはさめさらましを

と、小町かよみしことのはも、けにさることそかし、

 かきりとてわかるゝみちのかなしきにいかまほしきいいのちなりけり

まことにはかなき命なからへ、かゝる思ひもあさましくおほえ侍れとも、今一度見もし、見へもし、つもりぬることも、はらしまいらせたく候て、あだなる露の玉のをも、なかゝれとのみ祈る計にてこそ候へ、何事もあはれとおほしめし出され候はゝ、かす御うれしく思ひまいらせ候まゝ、申たきことゝもこよなうおはしまし候へとも、あはたゝしき出船の、いそぎにとりまきれ、いかゝ申候や、みゆるし候はゝ、めてれくかしこ

くり返しそのゝち、せうそこのをとつれもおはしまさす、御床しさのほと、たえかたく、あまりに人めもはづかしくこそ候へ、まことに出やらぬねやのうち、ふかき思ひのふオープンアクセス NDLJP:390ちとなりまいらせ候

かくあらんゆくゑをしらてたのみつる我心をはたれにかこたん

是はみつからおもひよりにて、おはしまし候、御はつかしくこそ候へめてたく

  五月九日

        せ川うねめ殿にて              菊

              人々申給へ

秀吉公山城守をして御らんなされ、憐なる事共也、然は龍造寺かたへ、此瀬川采女正を帰朝せさせよと、御内書有しかは、頓て肥州へ参たり、此妻かたしけなき趣を申上まく思ひ、采女にかくと問あかは、いそき名護屋へまいり御礼を申、よろしからんと釆女言し時、さらは御身もいさゝせ給へとて、同船に物し、なこやへ参、尼かう蔵主を以、其趣を申上んと思ひ、便を求めうかゝひ候へは、安き事なりとて見参に入給ふ、彼妻かう蔵主に忝趣しめやかに申尽し、はゞかり多くおはしませともとて、袖よりたんさくを取出し奉る、

 物ことのあはれをめくむ天津神のこゝろにかはる君の正しさ

かう蔵主短冊を請取、心安くおはしませよ、ねむ比に執申さんとて立給ふを、ゝしとゝめ、寔に万人のかなしひを助んために、天より天下の君を立、民の父母となし給ふは、如此君子の事にて侍らん、返々も忝思ひまいらせ候趣を、御ひろう頼まいせ候とそ申ける、かう蔵主其よしよきに執申候へは、即夫婦ともにめし出され、引出物し給ふて、帰しつかはされけり、

評曰、此妻心正しく、物まめやかに、夫を思ふに偽なかりしかば、鬼神感をなし給ふに因て、彼玉章波にたゝよひくちはてなんを、秀吉公御一覧おはしまし候やうに、なり行し事、たゝ鬼神のわさより外いなし、天命の正しくあきらかなる事、黙して知べし、

 
○就于可木曽モクソガ御書評議之事
 

    態申遣候

赤国木曽判官卒数万騎度々差出相妨都表在陣之勢釜山浦之通路之由付而、長岡越中守、木村常陸守、(常陸介歟)長谷川藤五郎、其外大夫十余人、都合其勢三万余騎、到赤国攻平之旨申付之処、即令発向取囲、彼城木曽勢還て倍せしにより、不本意退散之義、不是非候、左も有へきならは、兼て発向すましき事なるを、浅慮之義不相届者歟、不於勝敗良将、是古人之明言なれは、令赦免之事

今度は都表在陣之勢、不残引払ひ、至彼国令進発、赤国を攻平げ、木曽か首を見せ可申之事

都表引払事、赤国攻平くへき事、何も黒田如水軒、浅野弾正少弼次第進退可之候、為其両人差遣之事

右条々相守此旨、万事宜様に可沙汰者也

                御朱印

オープンアクセス NDLJP:391            朝鮮国各在陣之衆中

黒田浅野御朱印を以都へ参陣に赴く朝、都に在之備前宰相殿三奉行衆などへ以書状

態飛羽檄 上意

抑某南人参陣之事、其表御在陣衆悉く引払ひ、可平木曽城之旨、御諚候、然者万端備前中納言殿御指図次第引払ひ、東萊表〈[#底本ルビ読取困難。「トクオキ」か]〉に至て、御帰陣尤候、頓て遂而謁申談候へ共、諸事為御意得先以飛札申達候、恐々謹言

  六月朔日                  浅野弾正少弼 黒田如水軒

        増田右衛門尉殿 石田治部少輔殿 大谷刑部少輔殿 各御中

此飛脚事外達者に有し故、十日路之所を三日に参着せしかは、各及披見、即其晩中納言殿へ参り、此旨かくと申達し、在陣之面々呼聚め、及評議明朝可引払に相極けり、帰陣之次第は、初備前宰相殿、其次三奉行、其次大夫衆、殿ひは輝元之先勢二万余騎、賀藤主計頭、黒田甲斐守、小西摂津守、かはり勤め候はんとの事なり、漸夜も白みあへりしかば、秀家を先退奉り、其次三奉行如此段々に引払ひしか共、敵慕ふへき行もなけれは、ゆると及帰陣けり、如水軒弾正少弼も、都三日路こなたまで参陣しけれは、都に在之衆頓て是へ帰陣之由、聞及しに因て、某の県に待居たりけるに、如案宰相殿見之給ふ間、即出向掛御目、御諚之趣申達し、其日は某の在所に宿陣し、各をそ待居ける、如水軒弾正少弼、某地参陣之由三奉行之衆承及、以飛力今度御渡海之義、苦辛労力之由申入侍るなり、然間黒田浅野よりも、永々之在陣大義之由、使者有へきかと思ひ侍りしに、両人は碁をウチ何事も只をたやかに見えしに、三人之奉行衆、霜台如水軒待居たりし陣所へ立寄て、遠路為御使者御参陣苦労之由申伸侍れ共、囲碁にあんし入て、あいさつもをこかましく、将軍より、仰有とも無とも見えす、忙然たれは、治部少輔は、増田大谷に目くはせして、ひそかに立出しなり、それをもえしらて、ためをもさしすまし勝負して、いさゝらは三人是へ御通りあれ、御諚之趣申伸侍らんとしけれは、奉行衆いはや五六町も行のひぬと答しを聞、両人おとろきつゝ、先々帰られ候へと使者及再三しか共、まづ急の碁をウチ候へと云つゝ、あさ笑て、とくねきさして急きけり、然共両人は三奉行之衆へ能々可申達旨にて有しかは、猶使者を以是非帰られ候へよと云共、使者に向ひ散々に悪口して、後はしか返事をもせさりしかは、両人は手もちあしうして、都勢を待居たるかひもなく、諸人之舌頭にかゝり、陣中之笑種のたねまきしなり、とやかくやとせしまに、何もとくねきに至て帰陣し侍れば、如水軒弾正少弼は、御諚之趣申渡してんよと三人之奉行衆是へ立出候へと云しか共、曽て参らさりけれは、やう都より引払ひし衆にのみ申渡し、三奉行と両人しとやかなる参会もなく、はかしくも見えさりけり、此事よこ目の衆、如水軒霜台なとい囲碁をのみうち侍りて、万の評議も宜しからさりし由申上しかは、将軍慍り、おほされつゝ、翌日之夜詰に、近習せし者なとは、盤上之遊連歌等には、携るましき事なりと、いとふかういとひ給ひき、是両人碁に案し入、かんようの御用共を忘れしによつてなり、

オープンアクセス NDLJP:392

或曰、三奉行衆、黒田浅野事をひそかに讒し、其上囲棋故をこかましき事を、天下に披露し侍る事を、子息浅野左京大夫、黒田甲斐守腹くろに思ひこめ、一たひ此鬱憤を散せん事を、根ふかく帯かたう忘すして有し、其程は朝鮮にをゐて、囲ハラソメて、終に日本之乱根とは成にけり、此旨増田か内、高田遠江守予に語り侍るなり、将軍薨し給ひしかは、石田を追失はん事共を計けるに、いかほとも積りぬる讒依多かりけれは、十余条之過失を書立、長岡越中守、賀藤主計頭、浅野左京大夫、黒田甲斐守なと十余人連状にて、家康卿羽柴肥前守利長へ訴へしかは、憤りを止んかため、幸の物はしめよしとや思はれけん、治部少輔を江州佐和山へ隠遁に行ひ、奉行職を止られにけり、三成籠居せし事を悦ひ、閑暇のよなよな計略を尽しみる事は、更に天下を平呑せんと思ふより外は、他事なかりしとかや、

 
木曽モクソ判官城責之事
 

釜山浦より左に付て、あかい国と云し守護は、木曽判官ちんしゆの城主たり、賀藤主計頭は、かあんたう、小西摂津守はべあん道表に在しか、あとは木曽か国より一揆蜂起し、釜山浦と都の間通路を妨けしかは、細川越中守三千余、長谷川藤五郎三千余、木村常陸介二千、小野木縫殿助牧村兵部大輔、糟屋内膳正、太田飛騨守、青山修理亮、岡本下野守、寄合組五千、都合其勢一万三千余、木曽判官ちんしゆの城を可攻平之旨、被仰付しかは、一日かはりに先手を定め、其日の下知は、其大将次第に、大かたは定りぬ、一番長岡越中守、かはり先を駆にけり、とくねきの城につゞきたる高山に、敵多く山取をして見えし処に、いざあれを先追払ひ、其後赤国へ発向可然らんとて、右之人々六月六日高山さして上りけるに、防き戦はんともせす、退散せしを、追掛しかは返し合せ、防矢且射つゝ、頓て員吹て退し処を、首少々捕てけり、其よりちやはんの城へ掛侍るに城を明、ちんじゆをさして退しなり、ちやはんよりちんしゆへは、行程四日路余も有んを、急行ほとに、六月八日着陣に及へり、ちんしゆの城南の高山に何も打寄て評諚侍りつるに、各老臣功者を呼集め、評し宜しからんと有けれは、長岡越中守老臣松井佐渡守、有吉四郎右衛門尉、米田助右衛門尉、長谷川藤五郎内、島弥左衛門尉其弟又左衛門尉、宮木新大郎、玉井彦介、木村常陸内、木村惣左衛門尉、大崎玄番允、奥村六平、牧村兵部大輔内、下野長左衛門尉、岡本下野内、河木九之丞なとそ参りたる、各彼者共に向て、此城には、近国之勇士共多集り、又あふれ者共を数年愛し置しとなん、其外とくねきちやはんの両城より、落し者共も籠り、都合其勢二万五千之着到とかや、然れは一旦に攻ん事叶へからす、何もおもはくを評し候へと有しかは、長岡か三臣長谷川か四臣木村か二臣大崎なと申けるは、先竹たはを付、西楼を上、弓鉄炮にて射すくめ、堀際へ忍寄、其後結橋を拵へ、責入なは宜しからんや、然は城中多勢なるを、小勢にて責かゝらん事、吾朝にては思ひもよらぬ事に候、異国人なれはこそ、兎角の沙汰にも及候へと申けれは、各被聞屈、其義可然覚え侍るなり、翌日之先手は寄合組にて有けるか、ちんしゆの城より十町計南に当て、一村あり、敵三千計罷出、弓鉄炮を出し、且々防きにけり、いさあれを追払候へと下知しけれは、牧村か小性沢田勝三郎〈後号沢田次左衛門〉かけ出、面もふらす村之中へ真先に駆入しかは、沢田討すなとて、オープンアクセス NDLJP:393大崎玄番允、玉井彦介、団覚兵衛尉、辻久次郎、下野長左衛門尉、同半左衛門尉をしつゝいて駆入ぬ、あはやと見る処に、勝三郎一番首を捕てさし上たり、残る六人も、城を心かけ退なんと立出る処へ掛向ひ、よき首捕てけり、其外追討に首百計討捕凱歌を唱ふ、かねて云定しことく、竹たはを付、西楼を堀際に上、城中を見下し、鉄炮にて射すくめ、六月十一日之早朝に結橋を、ひたと堀へ投入、時の声を挙、堀へ飛入結橋を打かけ、我をとらしとこみ合上りけれは、結橋多くは折て、半より辷落マロヒ、其功空しく成ぬ、長岡越中守舎弟立番允、只一人結橋の左右に多く歩の者を付置、ワレ城中に乗入まて、一人も此ノボりはしに上へからす、若上たるにをゐては、汝等か首を給らんと堅く制しをき上りしかは、結橋折もやらす上りしを、見る人とつとカンしつゝ、扨もと計なり、頓て塀に手をかけ、乗入んとせし処を、城中より鑓長刀にてつき落しけれは、痛しや堀そこへ落にけり、

 或曰、其表にをゐて一の働きなるへきと、感声しはしは、止さりけり、

結橋の制兼てなかりし故、悉損じ其日は乗得す、剰石垣より落て死し、弓鉄炮にあたり疵を蒙り死するも有しかは、弥小勢になりしなり、如此にては久しく攻んも危事になん侍るへしや、先々陣を開き、重て行をかへ、可相攻とて、手負の人々をは先へのけ、打死せし者をは焼て取をき、六月十二日之未明に陣払をし、十町計退し比、疾風暴雨頓かに降来り、篠をつくか如くに有しかは、敵も送らんともせさりしに依て、安とちやはんに至て帰陣せしなり、

評曰、此度も八幡大菩薩、渡海し給ふて、守護神とならせ給ふかや、若大雨なかつせは、敵送りなん、左も侍らは危き事もや出来んかし、

右之趣秀吉公被聞召及、以外腹立し給ひつゝ、度々に蠅を払ふより安く、敵城を退治せしに、ちんしゆのことく堅固に籠城を遂ぬれは、命こそ全く侍れと思ひなんす、後日之患へなを有とて、都表之諸勢悉く引取、木曽か城を一旦に攻候へしと被仰しがは、都より各とくねき表へ引取、しはし人馬の息を休めにけり、備前中納言殿へ六月廿一日之夜、何も寄集り、軍評諚有て、攻口を定めらる、木曽判官も其有増を承り、今度は於日本剛兵を撰聚め、寄来ると聞え是大事にて有へきと思惟し、唯籠城を堅くし、年月を送り見んとの支度なりしとかや、攻口はクジトリに及て定めけるに、乾の角は毛利右馬頭同壱岐守(先勢)子丑之方は小西摂津守、刁卯は黒田筑前守、巳午は賀藤主計頭請取て、何も竹たは持楯亀甲、それの攻具、丈夫に物し、仕寄けるに因て、主計頭町場堀際へ五六間ほと隔りにけり、然処に備前中納言秀家卿も可攻とて、六月廿四日当表に着陣し給ふ、主計頭陣取は高き所にて、大将陣(軍と)に可然所なるにより、秀家へ渡し可申旨、清正申しかり、諸勢も尤の事にそ侍る、さらは仕寄を惣軍中として助可申と云しか共、清正いやとよ合力は不入候、吾等如前々仕寄候程は、各仕寄を被相止候へと云つゝ、右手に付て次第くりに、くつて、黒田町場を三分二請取、昼夜労力しつゝ、大かた前の仕寄ほとに城際へ付て、埋草を以堀を埋、平地に成し処に、城中より松明を投焼にけり、亀甲に在し者共も堪かねて引上り、翌日又亀甲の焼ぬやうに拵へ、六オープンアクセス NDLJP:394月廿七日堀へ着て、刁卯の方の石垣の角石を引落しけれは、櫓傾ぬ、城中より火を投、鉄をわかしかけなとし、打払せしかは、其日も空しく暮にけり、翌日又亀甲を弥増、同所の角石を抜と等く、櫓崩れしかは、其より主計頭か勢は込入けるに、一番に庄林隼人佑か旗、二番に森本儀大夫か馬験、飯田角兵衛、三番に黒田筑前守母衣の者後藤又兵衛、三人、倫をはなれて乗入ぬ、軍中の人々是を見、扨も見事なる物見かなと感しあへりにけり、小西か勢は石垣を乗て城に入、加藤か勢と入相つゝ、先を争ひし勝負しはしは不決しか、後は主計先陣にそ極りける、木曽は能兵共多く引つれ、切て出戦ひしかとも、新手を入かへ攻しかは終に落去し、木曽は秀家卿之臣、岡本権之丞に討れぬ、其外小将勇士共こゝにては戦死し、かしこにては痛手をおひ、又は生とられ悉く討れにけり、凡て首数一万五千三百、或岩の上より落て死し、或大河にて溺死し、都合二万五千余人むなしく成しとかや、

 
○文禄二年卯月九日於名護屋本丸御能之次第
 

翁    今春八郎 千歳振  大蔵六 さんはさ 大蔵亀蔵 もみ出し 大蔵平蔵 とうとり 幸五郎次郎

一番 高砂

大夫   今春八郎 わき   今春源左衛門尉 つれ   長命甚次郎 大皷   大蔵平蔵 小皷   幸五郎次郎 笛    長命吉右衛門尉 太皷   今春又次郎 あひ   大蔵弥右衛門尉 狂言   長命甚六大蔵亀蔵

二番 田村

大夫   今春八郎 わき   今春源左衛門尉 大つゝみ 樋口石見守 小皷   観世又次郎 笛    長命新右衛門 あひ   大蔵亀蔵 狂言はなとり大名 弥右衛門 相撲今参り 甚六

三番 松風

大夫   今春八郎 わき   今春源左衛門 つれ   竹俣和泉 大皷   樋口石見守 小皷   幸五郎次郎 笛    八幡助左衛門 あひ   長命甚六 狂言鉤きつね 祝弥三郎 あと   甚六

四番 部鄲

大夫   暮松新九郎 大臣   春藤六右衛門 大皷   かなや甚兵衛尉 小つゝみ いや石与二郎 笛    長命吉右衛門 狂言宗論 大蔵弥右衛門

五番 道成寺

大夫   今春八郎 わき   武俟和泉 大皷   大蔵平蔵 小皷   幸五郎次郎 笛    長命吉右衛門 狂言   弥右衛門

見物の諸侯大夫等へ折なと被下、御土器めくり給ふ、大夫座の者共御服被下畢、八郎には唐織菊之御紋付たる御小袖二重なり、

六番 弓八幡

オープンアクセス NDLJP:395  大夫拝領之御小袖を着し罷出、御祝言を仕候也、

七番 三輪

大夫   今春八郎 わき   春藤六右衛門 大つゝみ 大蔵平蔵 小つゝみ 観世又次郎 笛    長命新右衛門 太鼓   今春又二郎

八番 金札

大夫   今春八郎 わき   今春源左衛門 大つゝみ 大蔵平蔵 小つゝみ 幸五郎次郎 笛    長命吉右衛門 太鼓   深谷金蔵

 
○漢南勢為朝鮮急難参陣之事
 

癸巳二月十一日、漢南之勢五十騎参陣し、都より西大河を便とし、要害を構へ、夜の中に塀の手を合せたり、多勢にも驕す静り反てそ見えにける、執固めなは手間も可入之条、いさをしよせ打破り宜しからんと相談し、同十二日払暁に四方より押つめ、二之丸まて込入、火花を散し相戦、推つおされつ、爰にては組打し、かしこにては追詰、首を取もあり、捕るゝもあり、多勢にて心を一致にし、防き戦ひし故、落去之色もなく、日も西山にかたふきしかは、先虎口を甘けんとて引退き、都辺に陣を固めにけり、夜明ぬれは、又令進発山取をし、里より里を固め、塞々の陣の備へ宜きに合ひしを、大明勢看得し、小勢なりと云共、軍之法理にかなへり、始終難拘とて、十三日之夜のきしか、寔に五十万騎の勢を、音もせす、いつ比退しやらんも知さりしかは、暁天に伊賀の忍ひの上手をつかし見せし処に、中々多勢の事は云にも及す一人もなし、掃除まてし侍りて退しと也、同三月六日、濃州岐阜中納言信秀卿、名護屋為御見舞御参陣有、供奉之人々には、寺西筑後守山田又右衛門尉百々越前守等なり、浅野左京大夫高麗渡海之事なれは、此新宅へ入申され、殊外なる御馳走共なり、此信秀卿は三位中将信忠卿之長子、信長公之嫡孫なれは、天下をも可知召人なり、

評曰、秀吉公此卿へ天下之家督を譲り給はゝ、徳子孫に伝はり、秀頼公も栄久に其名もかうはしからん物を、人欲と云くせ物にひかれて、秀次公へ譲り給ふ事、道にもあらす、あゝ損益のみにさとくし、道を知さるは、後世も皆如此、子孫も絶名も清く侍らし、

同三月十一日丹波中納言秀勝、其勢五千之着到にて、名護屋御見廻とし有参陣、山口玄番允供なり、即本丸之内に置申され、親しき御振舞一かたならす見えし、此黄門は秀次公之御舎弟なれは、かく侍るもけに宜にこそ、

 
○豊後守護大友御折檻之事
 

     覚、御使者福原右馬助熊谷内蔵允

一先手之城々に有之者、及難儀之折節可相救ため、つなきの城々拵置人数を入置候義、其段何も存知之前也、然るを小西か急難百死一生なりと云共、不助成、剰平壌之様子をも不聞合逃崩候事、前代未聞之仕立不是非候事、

一秀吉若年之昔より此道に携と云共、終に吾勢越度を取事なかりし、是は殊に大明勢との合戦なれは、日本のためかた以一きは可粉骨之処、武名にも不耻、忠義之心もなかりオープンアクセス NDLJP:396し事、武士たる上絶言語事也、向後のため一命をも可果之義なりと云共、頼朝卿より久しく伝りし家を、可断絶も聊道に違ふやうにも覚え侍るに因て、死罪を宥め畢、能武士之上を味吟し悔前非申事、

一天正半之比かとよ、島津と挑合戦勝負区々に付て、対某請加勢更に可相救之因もなく、年来書音も無と云共、弓箭取身の習いなみ(ひイ)なんも士之格如何なれは、早速令出勢、彼凶徒等可追散之為、即令出船之処、此方一左右をも不相待合戦、剰取越度之仕合、且浅智故、島津か謀計におとし入られ及敗北、且怯兵故戦ふましきを不見得して及一戦、大友先祖之耻を後代に残す事、其罪不計、誠に数年頼み置つる居城へも不取入、同国妙見龍王へ逃入候事、古今稀なる臆病、家之瑕瑾世尽ましき事、

一連々城を拵へ置候事は、大敵襲来之節、当座之患難を遁れんかため、又は大臣旧臣等謀反あらん時、暫楯籠り、其急難をのはさんかためなり、かやうの事をもかへりみす、居城之功を空布せし事、尤耻ケ敷事候、雖然国之義無相違立置し条、其寛徳にも耻、先祖之家業を顧み、一カト働き有へきは理之当然也、云彼云此其罪不軽之事、

一諸侯大夫升殿有し刻、大友家は古たる説々も有之由たれ共、某名字を所望之間、即応其望候き、勿論加階之義は五三人も除候ては高く侍りつる事、

一其身之事は安芸宰相所に預置候事、

彼息事父同前に被仰付候はんすれ共、久々近習に在つると云、其身父には替り、暁き者と云、旁以令赦免候、武家を事とせは、父之耻イタツカハしく可思之間、朝臣に被召加候様に、伺天気見可申条、公家に成候て尤候、加藤肥後守預り置、扶持方五百人分可相渡事、

一大友堪忍分之義、重て可仰付候事、

一今度平壌表にて小西摂津守数度之苦戦、其手柄莫太にして忠義不浅事、

右条々其国在陣衆として、彼父子に可申渡候、若某癖事於之者可承候、早速改予之過随于其宜者也、

  文禄二年五月朔日      秀吉在判

            高麗陣衆各御中

島津又太郎事、島津兵庫頭被与力上は、軍役已下兵庫頭次第たるへき事なるに、内心は一向不許容之由候、何之嫌ふ専サキカケを嗜無油断者なれは、斟酌に思ひ、与力をはなれ、軍之先駆を、遁れたき遠慮なるへきかの事、

船着を好み此中在陣之由、是は朝鮮表、味方失利事あらは、先退散し己之居城を自由せんとの内存候か、何篇勇者之嫌ふ所にして、臆病者之所好候事、

先年九州令出馬之刻、何之忠節も無之と云共、兵庫頭達て歎き申に付て、本知分令安堵畢、其上上方普請等、関東陣被御免候之処、左様之高恩をも令忘却、剰野心を相含之仕立、不是非之事、

其身之義は十人計之体にて、小西摂津守所に可之候、堪忍分之義、追て可仰付之事、

オープンアクセス NDLJP:397波多三河守事、鍋島加賀守与力被仰付上は、同前に可出勢之処、構臆病こもかい口、舟着に隠居候事、怯者と云、無所存と云、旁以其罪甚深候事、

名護屋は波多領知之処、今度旅舘に取立、令居城候間、別て左様之気遣をも仕、先手へ可罷越之処、還て船着を便り、若やの時節を相待候由、其聞え無隠之事、

此比都に在之諸勢引取候砌、中途へ罷出補其品其輩に順せんと欲する由、弥以猛悪之義、諸人の見こらし、はた物にも掛させられ候はんすれとも、死罪をは令免許候、勿論知行分は被召上、家財等被下置候事、

先年九州令出馬之刻、波多事可改易之処、立置被下候様にと、鍋島束手柔面侘言申し付て、本知分令安堵畢、其上遠国之義不使に恩召、京都之普請関東陣をも被御免、左様之事をも不存出之義、傍若無人不是非之事、

黒田甲斐守所に預置候条、可其意也、堪忍領之義、追て可仰出候事、

右両人之事も為各可申聞之者也

  文禄三年五月三日

        朝鮮在陣衆参

評曰、大友侍従義統、島津又太郎、波多三河守事、理義に逆ひ、人欲に順ひ、己れを利せん事を、幽微の内にたくましう思ひこめ、外には士の格を街と云共、天命無私に因て、かく秀吉公亡ほし給ふ、全く公の亡ほし給ふに非す、おのれ理に逆ふに因て、みつかつ亡ふるなり、天は理也とて、天理二にあらす、あきらかなるかな、天之命、

 
○於朝鮮国船軍之事
 

文禄二年六月廿三日之夜釜山浦へ打上り、体息せし処に、翌朝番船、こもかい浦に多く有由注進有けれは、毛利壱岐守所にて、彼表可相働との評議有、当城の番衆より美洒嘉肴なと送来しかは、是を便として、いみしき饗膳過了にけり、さらは互のおもはくを被仰候へと、九鬼申出しけれ共、何も辞し合て評議をそかりし処に、藤堂九鬼両人云けるは、明日も先物見の疾船共を出し、番船のやうす聞届、大船をおしよせ大筒石火矢を以うちすくめ、其後乗捕なは宜しく有へきかとなり、何も承り此義可然候はんや、去共奉行衆はいかゝ思召候そと有しかは、是亦同事に宜しく侍らんとなり、然処に加藤左馬助進出、各一決して右之趣宜しからんと、同し給ふを、斯申せは、多分之評議に可相随との申定めを、違背のやうにおはしませ共、又存寄し事を申さねは、将軍の御ため疎かなり、如何あらんやと有し時、奉行衆被聞届、いや兼ての定めも宜を可取ためにこそあれ、両人の存分にこへて宜しき事の無にしも有へからす、とくと被申しなり、加藤さらは申みんとて、唐島に番船数百艘並居たる共、大船を揃へ大筒石火矢を以、なりこめんとせは、又其浦をも逃て往ぬへし、唯船軍を挑まんとの事にてあらは、中船を以会釈ひ、此方をよはけに見せ、宜しき図を計ひ噇と乗捕なは宜しく侍らんと也、満座是は猶一理有、何も左も有へからんと思はるゝ体も有、又我云出したるよりは増たれ共、あのこまたくゝりめに、中船にてあひしらはせなは、即時に乗捕へう覚え、いオープンアクセス NDLJP:398なむけしきも且見えつゝ、各いきはつんて言のはもなき処に、脇坂申けるはさやうにかたおもむきにしては、兼てのしめも益なし、いかゝあらんと也、此言に付て何も左馬助指図をいなむ気色多けれは、重てされは候、陸の勢ははや二ケ所にての手柄も有けるに、敵船を見る度毎に、大筒石火矢にておどしいなせば、将軍被聞召、船手之者共は、敵と戦ふ事はきらひにて有哉らん、敵船にあふてはおどしいなするを本意とするよと、御上左ウハサし給ふ共、答申へき言のはも有まし、乍去評議を尽しいつれも宜に随て、番船を追往せ候旨、各は被仰上候はんや、某は得こそ申ましけれと、肘をいらゝけて謂れし時、藤堂脇坂奉行衆に対し被申けるは、此評議は安大事にて候、此舟軍仕損し候はゝ、陸之陣もはかしからし、然間大事之評議にて侍ると也、奉行衆も此義に同したる気色に見えしかは、又左馬助云けるは、番船を見ては追いなせいたす時は、唐堺まても追行事にて有へく候也、謀て奥郡へおひき入る事あらんか、敵も勇こそなからめ、左様之謀計は深かるへう覚え候、もし順風にまかせ行方知らす落行事もあらは、千悔すともゑきなかるへし、一度も二度も敵にこりたる人は、とまれかくまれ、武の道は其期に臨て師傅も不入、又君命を不用事も所に因て有事なり、猪鹿武者とやらん云事も我等は不存候、番船をおどしいなせんとの評議には、一かう同すましきと、まなこに角を立理つよに見えしかは、爰に至て脇坂とすてに同士軍せんとひしめきけるを、両人の間へ各わり入、是はいかにそやといさめけれは、加藤はあらぬ体に持成、人そはへなる事はすましく候、御心安かれとて其体をたやかなり、豊前守亭主の事なれは、あいさつを申けるやうは、かやうなる評議は何時も損益をあらそふ義、かならすの事也、今日のみに限らさることに候、何共あれ将軍はよき人を持給ひしそかし、遠国にしてかく君の御為を、命にかけて云侍るは、大切なる事と覚え侍り、いさ一酒一ヘイし、船軍の祝せんとて、盃を出し興あり、盃度々めくり、左馬助と中務と和与してけり、かくて、船軍之義大隅被申出やうにと、満座所望有しかは、御理に侍るまゝ申みんとて、如相定先明朝はや舟二艘宛出し、唐島の体を見及ひ、大船中船の用は時の宜に随ひ能候はんや、船は何れも夜半にをし出し可然候はんか、乍去各宜きさしすも候はゝ被仰候へと申けれ共、誰もいなむ体もなく、此義に相究りけれは、各立帰船拵へし、明日の用意何々とのゝしる内に夜もふけ、夜半の鐘も兵船にいたりしかは、何もいさゝせ給へとて、舟に取乗さし出にけり、程なく唐島に至り見るに、はや物見の舟漕戻り、番船こそ三百余艘程瀬戸口に並居つゝ、二手に分山の麓にそひて半分、沖なる島に付て半分見え申候、脇坂物見の舟心有て残りたるやらん、番船より廿町もこなたに浮たり、左馬助二艘之はや船是を見て、あのはや舟は脇坂殿母衣の者と見えたり、いさあの舟と一所にあらはやと櫓を速め頓てをしならんたり、加藤か二艘の船一般には、ハンノ団右衛門、藪与左衛門尉、東勘右衛門、一艘は宮河三郎左衛門、戸田三郎四郎、平野忠右衛門、其外一艘河村権七郎、土方長兵衛尉等そ向ひたる、奉行衆其外九鬼なと下知して曰、聊爾にかゝつて事ばし仕損ずな、先大船をよせ、大鉄炮石火矢を以射すくめよとそいかりける、左馬助進み寄て、いや左様に物し給はゝ、敵船中にこたへ申まじき程に、小船を以よはとあひしらひ、其内に大船共ををオープンアクセス NDLJP:399し寄たらば、悉く可乗捕覚え候なりと、身を捫て謂けれ共、一人も同心の方なけれは不了簡、にがしき事かなと浮沈せし顔さか以外なり、あれに浮ひて敵あひ近う見ゆるは、正しく左馬助か小姓共と思ふは僻目か、其儀ならはつれて戻候へしと、各へやはら理りつゝ、類船をはなれにけり、賀藤心に思ふやう、目出度も方便類船をはなれたるよと悦あへりつゝ、櫓をはやめしかば、漸々団右衛門宮川か乗たる二艘の舟、二三町も有らんと思しき時、舟はりにつ立上り、馬しるしを以ひた振に振侍るを、二艘之船之者共見て、こきもどり候へとの事か、又かゝり候へとの事かと、区なりし処に、判団右衛門云やうは、もどれとならは五幣を招くやうに振給ふへし、敵の方へ振給ふは、かゝれとにてこそ侍るらめ、先櫓を立直せといらてけり、左馬助弥近う成に随て、大音声を上、北より三番目の船を可乗捕そ、其分意得候へとて、身を捫て急ける体、すさまじき有さまなり、敵船近うなるに及て、北より三番目の番船三百艘の中より、只一艘左馬助に漕向ふ、かくみゆるとひとしく、島山に添居たる番船共と、麓の岸を伝ひに、並居たる船共、箕の手なりに加藤か舟三艘を、おしつゝんで、さしつめ引詰射る事、車軸を流す雨の如し、一艘の番船力を得、三艘を射る事甚以夥し、左馬助敵船との間五間六間には過さるぞ、鉄炮を揃へあた矢なきやうに、心をしつめて、うてよと下知しければ、おししつめ鉄炮をつるへ立、時を唾と挙たりけり、見るか内に番船の水手共、弓の者共、将碁たをしをするか如く、廿人計はらと射たをされ、是に辟易し櫓を引入、弓をもひかすなん見えし時、左馬助大の眼をいからし、やれ船を着よと、隙すきまもなく下知したりけれは、水手共一きは精を出し、船を番船におしならへたり、荻作右衛門尉打かきをかけたりしかは、敵切払ひ二三度したりしを、左馬助もかけて乗入んと、心はかうに勇め共、矢二つ三つあたつて、其身も合期せす、海中へおちいらんとしたりしを、水手共中につかんて引上たり、作右衛門尉一番のりは吾(余イ)なりと云つゝ乗入、左馬助も起上りつゝひて乗入たり、宮川三郎左衛門尉戸田三郎四郎も、こは口おしとて三番に乗入たり、痛はしや加藤忠次郎と云し者は、行年十六歳、其心ゆうにやさしかりけれは、左馬助身ちかう寵愛せしか、作右衛門におしつゝひて乗入んとせし処に、射落され海中に其身は沈むと云共、名は雲上に浮たり、河村権七郎、土方長兵衛尉おしつゝいて乗捕けり、佃次郎兵衛尉、藪三左衛門尉、東勘右衛門尉、中島勝右衛門、其外歩立の兵、十五六人として、三艘乗捕ぬ、左馬助乗入し船に敵一人も見えす、何方へ散たるやらんと思ふ処に、ふみ板を上みれは、船底に打入て弓をたぶと引しほり待かけたり、何共すへきやうもなくためらひける処に、左馬助何とをくれたるそや、退ノケ我入んと怒りしかば、土方面もふらす、太刀をぬきつれ噇と入しかば、中々矢をも放し得ず、手を合せ拝みぬるを、撫切に伐て首を捕にけり、或肘を打をとされ、海へ飛入もあり、きつてすつるも不便なると思ふをは、助て櫓をおさするも有、或水を得てにくるも有て、十分一は助りにけり、脇坂母衣の者も一艘乗捕ぬ、土方乗し船に三十一人有しが、廿三人手を負、一人討死してけり、かやうに諸人を用に立しも稀なり

評曰、日域之剛兵は、窮鼠反て噬猫之働きあり、朝鮮人引たる弓を、はなさゝるは、素性怯オープンアクセス NDLJP:400か、

筒勢にひかへたる大将共、左馬助働を見て、梶を直し櫓をはやめ、身を揉て、急けやと、のゝしる声夥し、奉行衆あの命不知の加藤か動きを見よやと、噇と高声に感しけれは、残る衆は心地あしけに見えてけり、左馬助は隙を明帰るとて、筒勢の面々に向て云けるは、あきたる番船たくさんにおはしますそ、急き乗捕給ふて大の忠節に、将軍へ御注進候へ、油断し給ふなと云けれ共、聞えさるやらん、とかむる声もなし、呼すさましかりしことゝもなり、

 
○加藤左馬助感状之事
 
唐島にをゐて、番船三百余艘之中へ、加藤か船只一艘乗入事、寔に古今に絶たる手柄を尽しゝかは、御感尤甚し、此外にも致忠節たるとの注進有しか共、将軍其淵底を尽され、左馬助のみに御感状有、其辞曰、

其方事天正十一年夏於江北柴田合戦之刻、突一番鑓其働掲焉、為御褒美一廉令加増畢、今般亦於朝鮮唐島、番船数百艘之中、離味方類船乗入、乗捕敵船数多〈[#底本では直前に返り点「一」あり]〉之手柄、其勇功誰立于上乎、孰比于下乎、殊今度於順天対山両城引入之旨、各雖連判、就見捨於加藤主計頭等、不加判之旨、神妙之至御感不斜也、依玆手前代官所有次第、三万七千石令加増畢、本知合十万石之内、壱万石者可無役、諸侯之内臆病者於之者、可御闕所、猶以可国守之条、全命可真忠之状如件

  文禄三年九月日      秀吉御朱印

             加藤左馬助とのへ

評曰、左馬助番船三百余艘之中へ、只一艘乗入んとて、莫太之類船をはなれ行し心の剛、能々其身に代て思ひ知へし、将軍感状之辞は有余し、加増領之地は不足なるか、信長公之感は反之、

 
○うる山之事
 
摠軍勢都より引取しかは、今いうる山の城、敵付の方と成にけり、然間此城を拵へ、加藤主計頭をこめ置可然らんとて、乙未十月十日より、諸勢をよせ普請をそ初めける、櫓なども大かた相調しか共、外構三之丸などは、やう堀の手之合所も有、未合所も多かりける折節、敵此由を承評しけるやうは、城之普請も成就し、主計頭籠りなは手間可入なり、いさ此城を一旦に破却し宜しからんとて、文禄三年十二月十一日漢南カクナミ勢五十万騎、朝鮮人に加て責(攻イ)ほさんとの催也、又其由日本人にも告知する者有て聞届、左も有事もやと云つゝ、かるき物見の馬上二三十騎出しけれは、猛勢の中より駿馬に鞭を挙、百五六十騎駆出、引包て討んとしけるを、やうにのがれ退しかば、中々出て合戦しつべうも見えざりけり、とやせんかくや有まじと云もはてぬに、はや北の方摠構を揉破り、三之丸まて込入し処に、浅野左京大夫自身鑓を合せ、突出しけり、雖然新手を入かへ、攻込すきまをあらせざる事、誠信長公の御テタテにも相似たり、三之丸を守りし、毛利右馬頭臣、冷泉民部大夫元光は、於毛利家事の急なる時は、必魁殿之役たり、今度も亦普請等未究なる外構を可守旨、小早河筑前守隆オープンアクセス NDLJP:401景より触来りぬ、民部大輔固く可守之条、被心緒候へと返答せり、かく云も果ぬに、漢南勢手を分、襲来りぬ、冷泉手之者共左右に随へ、呼喚て火花をちらし、相戦ふ事数刻に及へり、雖然或戦ひつかれ、或討死し残すくなにみえし処に、敵はいよかつにのつてせめ入しかば、民部大輔手もとにすゝむ者共十五六人、長刀を水車に廻しなきすて、阿曽沼豊前守と一所に討死をとげたりけり、左手妻手にして、廿余人枕を並討れぬ、白松善右衛門尉伊賀崎又兵衛尉吉安太郎兵衛は、其折節在他所討死せさりし事をほいなく思ひ、終に元光を取おさめ、其野にして腹十文字にかき切て失にけり、士たる者かやうに義を守りしは、大切なるにより、討死せし士廿余人、追腹せし士三人、姓名を記し付、冷泉領分雲州亀か嵩清滝寺に附寺領、其身臣共の位牌を立置けり、其後堀尾帯刀先生吉晴、従家康公出雲国恩賜之入部に、此寺の由来を聞、武之道深く感じ、やさしくも先規のごとく沙汰せられぬ、いにしへ出雲国も毛利依分国此云り、さて浅野左京大夫弓鉄炮を多くよせ、火花をちらし戦しを、加藤遠江守云けるは、浅野殿は将軍御したしき中也、急き本丸へ入給ひ、可然候はんといさめけれ共、他にゆづり二之丸に在て相働き、下知なども、おゐらかに左も有つへう見えて神妙なり、主計頭はせつかいと云所に在しが、うる山の城櫓などに付て好みの事も有、又普請等丈夫に有やうに心つかひをせよやとて、加藤清兵衛尉をつかはし置しかは、さぞ難義に及ぶらん、是も我ためなり、其上彼城落去せば、日本のよはみにこそあれ、縦半途にしてとかう成ぬ共、いさ救ひ見んとて、急き船を用意せよと、船奉行梶原に申付しかば、頓てせんさくを遂、せめては十艘計もかなと思ひ侍れ共、やう五艘有、其よしかくと申しかば、其義ならば人を撰みのせ候へと有しに、床林集人佑、其沙汰に及て、二千余人撰み出し、汀に出沖をみれば、番船、数百艘蛛の子を散したる如くなり、水手梶取見おとろいて、震ひわなゝきつゝ、何としてあの中を御とをりあらんや、及ひなき事なんめり、命知すの人哉とつぶやき、ふてづらして、浮やらぬ水手共多かりけり、主計頭其中にても言葉あらに、いなみかほなるを、小性にてある、飯田角兵衛に向で、あの大すぢの大男をこれへ具して参れと云しかば、左右の手を引張、主計頭前に引居たり、たゝ今の過言時も時にこそよれ、我を初め命有べき共不思也、爾一人のみか、先をのれをさきに立んと云、ぬけは玉ちる計なる刀をぬいて、はを挽こゝろみければ、彼大筋付たる水手以外たどろきつゝ、平に御助候へ、御船出し、一きははやめ可申候と侘しかば、哀にも有かた助にけり、此男かると船に飛入、急き、のらさせ給へと、いらてしかば、呼大将かなとそ覚えぬ、残りの水手共是をみて、我もと舟に争ひ乗、各も急きめし候へと、声々しきる、清正不斜悦て、門出はよきぞ、急けや者共と、大に笑ひつゝ、五艘の船に取乗、時の声を挙、おし出しつゝ、一里計も出し処に、番船五百艘こきよせ、引つゝみ、一モミ二もみ物あらに攻し処を、真一文字に其中をこき通り、剰敵船二艘乗捕、撫切に海へ伐ひたしけり、其より主計頭か旗の船をみては、敵の舟共中を明て通しゝかは、難なくうる山の城の後攻を遂にけり、六七十万騎之猛勢、清正か籠りたるに恐れてやある、正月三日の夜退ぬ、殊に大軍の事なれは、其鳴も可タカヽル事にて有しが、夜中に音もなく、道具オープンアクセス NDLJP:402など取落したる事もなうてのきしこそ、さすか大国の軍法よろしきに合ひ、正士のみ権柄をとれるによる所なるへしと思はれて、上杉謙信の事おもひ出られにけり、

評曰、加藤主計頭勇道之至剛、深く思ひ入て給ふべし、六七十万人之猛勢、清正一人か勇味に因て退し事噫、或曰、一人之至剛に衆士ひかれて、得大利し事有と云に又通ず、

此時ウル(蔚誤歟下同)山之後巻は、毛利右馬頭輝元長子、右京大夫秀元後攻之大将軍也、輝元臣宍戸備前守、浅口彦左衛門尉、此両与頭、其外三屋四兵衛、冷泉民部大輔、阿曽沼豊前守等、軍兵都合二万余騎、うるさんに前廉よりこめ置し也、今度之毛利先勢には、小早川筑前守隆景、吉川蔵人佐、立花左近将監、久留米待従等其勢四万余騎、右京大夫旗本二万余騎、都合六万余騎之軍勢にて、文禄四年正月元日漢南カクナミ勢に対陣せり、ヨク日二日には先手挑合戦、小早川吉川立花先登をあらそひ相戦、首数千討捕ぬ、然処に漢南勢難勝利や思ひけん、同三日の夜不残敗北す、此趣至于名護屋注進有しかば、秀吉公殊外御機嫌宜く、先手各へ御感にて、二月下旬右京大夫方へ御感状有、

 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。