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太記閤 巻六
 
 小瀬甫庵道喜輯録
 
○丹羽五郎左衛門尉長秀志津岳之城へ籠入事
 
長秀其比は若州并江州之内志賀高島両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に三千、又塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に、卯月十七日秀吉濃州表出張之由に付て、柴田に対し在、取出之城々無心元存、小姓馬廻千余人、組頭二三輩召連、船五六艘に取乗、同廿日出船有、漸汀近く成に随て、鉄炮の音夥く鳴出たり、渚を見れは旗さし物多く立さはきぬ、長秀察しけるは、敵志津嵩を攻落し、其勢溢出かくや有、船を急オープンアクセス NDLJP:286汀へ着よとそ怒りける、坂井与右衛門尉江口三郎右衛門尉等も、けに左もあるへしと覚え奉る、然則引返し、坂本之城を堅固に守給ひ宜しく候はんと諫けれは、いやとよ弓矢取身の図をはつし義を汚は、必終りか無物そと云つゝ、はし船をおろし海津へ遣し勢を分三分二、急志津カ嵩へ可相越旨、書状を調へもとしけり、望月曰五里漕もとつて勢を催し、五里来たらん、其勢何として、此急難の用に立申候はんや、長秀曰、それは狭き存分なり、物は期の延る事おほく有物ぞかし、志津嵩之城、加勢とし五郎左衛門尉籠りぬる由、敵かたに聞候はゝ、多勢ならんと思ふべし、急きコギもとれとて、其身は渚をさしてはやめけり、かくて船を漕よせ問は、今暁越前勢、中川瀬兵衛尉高山右近大夫要害をせめ候しか、唯今落城したるやらむ、火の手挙り申候、此城に在し桑山修理亮も見驚き落てのかれ候、いまた十町には過しとこそ存候へ然間此城へ北国勢人かはり、此辺の百姓共をは、ナデ切にせんとて、難儀千万に存候、急き御入城なされ給り候やうにと申けれは、即入ぬ、長秀桑山を散々に悪口せられけるが、いかゝは思ひけん修理亮かたへ足はやなる者をつかはし、五郎左衛門尉当城為加勢たゝ今着陣候、急き帰られ候へと云やりけれは、桑山立帰て是へ御加勢有んとは、夢にも知すして退侍るなり、是よりは申合せ随分可粉骨と云し時、長秀申合せんとは笑しく思ひしか共、其方立帰り被申しに因て下々得力候と有しかば、桑山重て言の葉はなかりけり、長秀其近辺之在々所々へ、五郎左衛門尉こそ、只今志津が嵩之城へ加勢とし入たるそ、安堵せよと触、取出の城々へも力を付しかば、味方千騎万騎之きほひとは、かやうの事なりと、とつときほひ出にけり、

或曰、信長公御在世の時は、簗田柴田滝川丹羽等、かはる軍の前後を勤しか、今度も丹羽心かけ信篤かりし動きなり、

不破彦三佐久間久右衛門尉か陣へ、夜半より松明美濃路よりの海道峯々に夥しく見え、其とはなしに物さはかしく成出しかば、下々おきよ、其用意せよと声々しきりけれ共、昨日終日たゝかひ疲れ、爾々いらへ事をもせさりしなり、去共物になれたるは、此けしきはたゝ事にはあらざるべしと、其さま急なるも有、玄番允陣中も弥さはぎ立、退なんとひしめき立出しか共、甘日之夜、節所を窘歩し来たり、昼は終日戦ひ暮したり、目さす共知ぬよるのみち、小篠か上の露もろともに、おちまろひ、起てはたをれ倒れてはおき上り、急きしか、せめて月をよすかにせんとのゝしる内に、廿日の夜の月、山のはにほのかなりけれは、聊道しるへ有、南方の勢は兼て支度を調へ、敵のきなは、つかんと待得し事なれはいまた陣払ひもせさりし内に、はやひしと付て見えたりけり、原彦次郎安井近左も、取出之城をおさへ有けるか、やう仕払て一手になりし時、玄番今日の殿シツハラヒも此両人をタノミ入と云しかは、委細意得候と領掌し、跡に打けるか、鉄炮十挺弓五六張宛一町に伏置、これまて引取下知次第うてよと有しか共、敵すき間もなく引付、かゝり来て、鉄炮をたにうちかぬる計に急なりけり、原と安井と立代殿せんと堅約して、一二度は左も侍れ共、こはき殿にや有けん、安井は引取て退しにより、原一人して前後に目をくはり、左右に下知しのきしか、青木勘七郎、原勘兵オープンアクセス NDLJP:287衛、長井五郎右衛門、豊島猪兵衛、鷲見源次郎、鷲津九蔵毛屋新内なと引返しては、突倒し突退けれは、敵もさつと引にけり、青木は其中にて行年おとりしほとに、跡をは吾にまかせよとて、二三度廿帰し鑓を合せ突退けしか、何も鑓を以たゝきあひけるに、青木計引ぬき突しか、敵思ふ程には有さりけり、如此六七人之兵共帰し合せ、あまたゝひ戦ひし故、後は原か勢にはしたはさりしなり、柴田三左衛門尉は、三千余騎の勢を卒し、志津嵩の嶺筋なる堀きりを、前之日越つゝ、南に向て勢を備へ敵勢をおさへ有けるか、兄の玄番允一万五六千之勢を、やうにして、志津嵩の北なる山へ引上、余語之海辺よりおし上る勢を、おさへ有しか、三左衛門尉方へ我勢ははやなんなく引退きし也、急き是まて引取候へと、使者両度に及しかは、さらは玄番允と一手にならんとせし処に、秀吉卿は夜の明るを待兼、木の本をまたほのくらきにおし出し、志津嵩城の南に御旗を立させられ、弓鉄炮之かしら分共に、堀きりのこなたなる勢は、只今〈巳ノ時〉引取と見えしそ、急き走着うたせよと使番母衣之者を以被仰付しかは、心得候と云もはてす、ひしと引附、堀切より引上候を、かけ渡しにねらひすましうたせしかは、時のまに手負二百人余りうち出しけり、敵は此手負をのけんとせしに、勢の次第も乱れ右往左往なるを、御旗本より御覧して、小姓共に法度をゆるすそ、引付て、手柄をせよや、と御身を捫下知し給ひしかは、相悦ひ真先に石川兵助なとすゝみ行けるに、福島市松加藤虎助同孫六平野権平脇坂甚内糟屋助右衛門尉片桐助作等我おとらしと引付し処に、玄番拝郷五左衛門尉を呼、先手危く見ゆるそ、能に計ひ候へと云しかは、可引所をはひかずして、如此成来り、今更計ひに成物かと思ひしか共、面もふらす引帰しけれは、浅井吉兵衛尉山路将監宿屋七左衛門尉も倶に帰し合せしが、拝郷真先に鑓を打こむと等しく、石河兵助と名乗出、鑓を合せ戦ひしが、共に討死してけり、渡辺勘兵衛尉浅井喜八郎浅野日向守は堀切を跡に見なし、嶺わきを追立行に、賀藤虎助同孫六彼十人計之小姓衆曳々声を上、すきまをあらせす、追立行にこそ、吉兵衛将監も余語の方なる谷へ心ざすやうに見えしと否、渡辺勘兵衛浅井喜八郎見知たるぞと、詞をかけし処に、意得たるといひ、鑓を以向はんとせしが、如何はしたりけん、二人共に谷へ落まろびしを、麓に在し大塩金右衛門か手へ討捕し也、柴田三左衛門は足をも乱さす、手負共をも打かこひ、二十町計引取けるに、秀吉卿の小姓衆ひたと付て追行所に、前田又左衛門シケ山の麓高き所に、二千余之勢を二段に備へ有しを便りとし、佐久間久右衛門尉にくる味方を左右におし分ふみ留り、しはしが程有しなり、玄番允今日之軍はこらへかちなるへきそと、大の眼に角を立下知しける処に、原彦次郎すゝみ出、我々は左様に不存なり、けふの軍はひかへ行程、敵之勢は弥重て厚く成、味方之勢は見るか内にうらくつれすへく候、願くは唯今一合戦候へかし、先は十万騎なりと云共、某さばき申可候、今朝我勢敵を度々突くつろけ、手なみの程を能見せ候し、然るにや子か殿ひには、得も付さりし故、後は心安く退候つる、因之かくは申候そ、一番合戦をは吾々致し候はんとおし返し云しか共、玄番允諫を防き用ひさりしなり、如案いまた舌もかはかさるに、南方の勢谷よりは水のわくか如く溢れ上り、峯よりは吹出る木嵐のやうに、寄あひ勢八重十重にあオープンアクセス NDLJP:288つく成行しを、北国勢のうらにひかへたる弱兵見おとろき、いろめき出しを、丹羽五郎左衛門尉長秀、すは時は今なり、摠かゝりにかゝれや者共と、金の馬しるしをふらせ噇とかゝりしにこそ、玄番允佐久間久右衛門か勢、惣敗軍には成にけれ、

有人曰、北国勢之内七本錯之衆と鑓を合せしと云しも多かりしとかや、此相手は拝郷浅井山路宿屋なりしか、三人は討死し、宿屋は退し也、玄番兄弟か勢廿町計鑓を以払ひ退にせし内に、小原新七宿屋七左衛門安彦弥五右衛門尉水野助三なと鑓を以はらひ退にしたりし間、廿町計の内に鑓もあふべきか、丹羽甚太郎は前日手を負し故、其鑓にははつれたる由甚太郎語し也

 
○勝家敗北毛受勝助忠死之事
 
柴田小姓馬廻其勢七千余騎、堀久太郎か要害東野を押へ対陣せしなり、玄番允勝に乗不引取を悔み怒り、急引取候へと使者敷波を立云遺しか共不用、ひかさりしかば、其道に闇き者なりと散々にのゝしり、腹立して有し処に、如案夜半の比より四方物さはかしく成出、何共なふひそめきあへりぬ、是は如何様不然事なるヘしと、家老共勝家陣に集つゝ、玄番不引取事に付て千非を悔ける処に、いまだ其舌もかはかさるに、秀吉前夕夜通しに多勢を卒し、濃州より至此表今暁着陣之由、何方共なく沙汰しけれは、軍中雑説を云、こゝもかしこも以外さはき出、怯弱なる者共は、多く頸疾虚病に事よせ、夜の間に落しも有、悉く色を失ひ度に達ふ体、はかしき事はあらしと思ふ処に、余語之海辺に当て銕炮の音ことしく鳴出、どよみあへる声おひたゝし、弥陣中危からん事急に成、かたつを呑て有し折節、水野小右衛門尉か飛脚来て、玄番今暁志津嵩より退候へは、敵ひたと付て危く見え候と云しかば、勝家聞もあへす左もこそあらんと思ひつれ、任他サモアラハアレ我是にて一合戦すへきと勢を備へ待にけり、痛しや匠作心は剛に勇め共、西の方玄番兄弟か勢敗軍に及臈次ラツシもなきを見、弥勇て衆を励せ共、旗本之勢も亦いつ滅するともなく僅三千計に成しかは、此勢にて利に乗たる多勢に向はん事如何あらんと、ヲトナ共申せしを、修理亮合戦の慣は左はなき物そ、千計にても心を一致にし十死一生に極め及合戦時は勝物也、我に任せよと勇けれ共、各尤なりと請ぬかほさか也、毛受勝介其趣を見柴田に申けるは、御意之上とかう申に相似候へ共、其は昔尾州におひて、度々軍になれたる下々あまた持給ひしに因て、其御動きも有しそかし、今度は見にけ聞逃に数度あひたる下々にておはしまし候故、過半落失ぬ、昨日より思召寄し事を、先手の者共いたさゝるも、又下々かくのことく落ちしも、皆極運のあるし眼前に候、是にてゆいかひなき討死をなされ、名も知ぬものゝ手にかゝり給はゝ、後代まて口おしかるへし、願くは北庄へ御帰陣なされ、御心しつかに御自害候へ、某御馬あるしを請取奉り、御名代に是にて討死をいたし候へし、其隙に急き御帰陣被成候へ、斯申上候事も、とかう思召候はゝ、見ぬる内に徒に成へう覚え奉ると、急々に諫しかは、さすか其道に得たる勝家なれは、尤なりとて五幣を勝介に渡し、心も有者は毛受に与せよと云すて、諸鐙を合せ退しなり、勝介五へいを請取、我手之者三百余人、其外勝家之小姓馬廻少々左右に随へ、原彦次郎居たりし要害幸に明しかは、是オープンアクセス NDLJP:289に取入、老母妻子共かたへ形見の物を、旧功之者に渡しつかはしけり、かくて盃を出し樽あまた取ちらし、それと云し時、皆かはらけおつ取酌たりけり、追行兵共柴田か馬験をみ、是に修理亮こそ扣へたれ、まはらかけすなと追行勢を制し止るも過半せり、又勝家討捕名を天下に挙と勇むも有て、ひたと取巻し処に、勝介名乗けるは、天下に隠もなき鬼柴田と云れしは吾なりとて、あたりを払て突て出けれは、二町あまりはつとひらきにけり、かゝる処に兄の毛受茂左衛門尉殿をして有しか、此由を聞て、さらは弟と一所に討死せんと思、向ひたる敵を追払ひ来たりしを、勝分うれしけにあひつゝ、うやまひ云けるは、御心さし返々も忝存候、乍去あまた討死をとけ候共、此極運をいかてか救ひ給はんや、貴方は老母への孝行に御のき有て撫育し給へよ、左もあらは弥御恩賞ふかゝるへき旨、手をすつて侘けれは、孝行と云し事尤其理なきにあらす、去共其方を見すてのきなは、汚名世と共に有なん、其上老母は其方如存知、義理を好み給へり、義理をすてのきなは、母のこゝろにも違はんか、争か義を汚さんやとて、兄弟共に忠死を極たりしは、異朝には高祖之臣紀信キシン吾朝にては義経之臣佐藤兄弟等なるへし、類ひすくなき事共也、新手を入かへ攻入んと、再三しけるに、兄弟其外歴々之者共多く有て、突退け息をもさせすたゝかひしか共、或手負或討れ残りすくなに成にけり、勝介兄に向て、勝家退給ふて、一時に余ぬへし、心やすくのき給ひなん、いさ心よく最後之合戦して、腹きらんと云まゝに、残りたる兵十余人引つれ突て出、散々に相戦ひ追ちらし、其後兄弟腹をそ切たりける、其身は柳瀬の流れに沈と云共、名は高ねの雲と立上り在今、あつはれ剛の者なりと、其比は市豎孩童まても口号み候し、勝家府中之城に至り、前田父子に対面し、此中苦労之一礼ねん比に宜つゝ、極運の攻に遇て、如此之次第、更に言葉もおはしまさす候、急湯漬を出され候へとて、心しつかに食し、つかれさる馬を所望し急き給へり、利家もをくり候はんと立出られしを、辞し帰し候ひけるか、又よひ返し、其方は筑前守と前々入魂他に異なり、必今度之誓約をひるかへし、安堵せられ候へと、云すてゝわかれにけり、

評曰、勝家至剛なるに依て、かく成はてゝ、府中之城を疑ふ心もなく立寄、誓約をゆるし侍る事神妙なり、又左衛門尉もをくらんと立出しも亦道なり、時により人によつて、勝家を討安堵を求めんか

勝家柳瀬表より卯月廿一日のくれ程に帰城し、柴田弥右衛門尉、小島若狭守、中村文荷斎、徳庵、中村与左衛門尉、松平甚五兵衛尉なとをめしよせ、今日之敗軍玄番允大利にほこり、早速不引取故、越度を取、某一代の功名を一時に亡し、無念なる次第とかう云に及れさる事共なり、よしそれも前世之因果なるへし、此上は急き丸々之人数其くはりをせよと云れしかは、其番之者共、其外心もあらん者は籠候へと、弥右衛門尉等廻文してけり、右之旨承覚悟を極め来たりしを、記し付侍るに、

一番佐久間十蔵十五歳、是は去春前田又左衛門尉聟になりし者なり、十蔵家来之者諫めけるは、いまた幼少の御身なれは、籠城し給はても苦しからさる事にて候、殊に利家は府中之城、オープンアクセス NDLJP:290居なりに安堵之由、奥村かたより申越候、急き府中へ忍はせ給ひ宣しからんと、達てとめし時、いやとよ父帯刀勝家へ背き、信長公直参となり、安土に在しか、喧嘩之座に連り果し事、汝等知所也、其比幼稚にありしを勝家よひ帰し、莫太之領地を給りし、其恩不浅是一、利家緑者になり侍らすは、母へのかうに、とかう世をいとひてもみんか、又左衛門尉親子の因みを便り、一命をつかん事、取分汚らはしく覚ふなり是二、名字をけかしぬれは先祖に対し不孝あり是三、かた籠城すへきの理、こゝに在とて、終にこもりぬ、

二番松浦九兵衛尉是はつねに定番之内にして、城を預りし者なり、法華経信者にて、小菴を結ひ上人をすへをきしか、此上人現世之恩懇ふかゝりし事おひたゝし、来世にて報恩謝得し侍らんと籠城に赴しを、松浦達ていさめ止しかとも、是非同道せんとて籠りぬ、九兵衛郎等も二人供してけり、

或曰、松浦つねはあらましき者にて有しか、情を掛んと思ふ者には清く其さたありし者にて、家来も忝存せしか、果して両人追腹せしなり、

三番松平市左衛門尉玄番允につかへ、志津嵩城にてよき高名をし、手をおひ侍りし故、昨夜退来たりしが、父甚五兵衛籠城たりしによりこもりけり、勝家も急き賀州に至て、城を守れよと云れし時、君を見すて父を見捨命を全せし者よと、諸人の舌頭にかゝりなは、松平之二字を汚し侍らんまゝ、何れ之御門なり共御預け候へ、随分防き戦んとて出ざりけり、

四番溝口半左衛門尉、是は養子伊賀守北庄之田屋守にし侍し故常に当庄に在し也、今世武名且香しき、亀田大隅守父これなり、勝家も爾は予か臣にも非す、急き出て命を全ふせよと有し時、いや左にはおはしまさす候、伊賀守不孝之罪を聊謝せんため、何れの櫓なり共請取奉らんと堅固に申つゝ果

五番玄久是は古しへ匠作になれむつひたる者にて有しか、痛手をおひ、奉公ならさる身と成ぬ、是に因て地下人になし、豆腐トウフ屋になれよとて、大豆百俵年給し侍き、来世にてもとうふを上奉らんと、しとけなけに云つゝ切腹す、

六番山口一露斎 若大夫〈舞まひ〉 上坂大炊助〈右筆〉 児玉

七番小島新五郎病の床下に在し故、肩興に助られこもりし時、大手の門之トヒラに、小島若狭守か男新五郎十八歳因病気柳瀬表出張せさる也、只今籠城いたし、全忠孝と書付たり、

八番吉田藤兵衛尉息藤十郎、いまた廿にもみたさりし者なれは、父のけたく思ひ、再三出よと諫けれ共、是のみ父之命にそむきても、苦しからさる事なりとて、父之櫓に籠りにけり、籠城を心さし出ぬる折ふし、祖母母共に泣悲しみとめ侍りしを、父をともなひ帰らんと、ありありしく云しかは、必左もあれよとてつかはしぬ、忠孝を清め侍る者よとて、心ある人はうらやみ又は感しけり、

九番大屋長右衛門尉、是は柴田弥右衛門尉か子なりけり、父は宵に籠り帰らされは、母并兄弟共を山中へよきに送り、其後こもり、父に其旨云しかは、満足してけり、此外数十人つねつねやくらなとに在し者共、其所を守り果ぬ、しかあるに、定番之内おちて浮名をなかすも有、オープンアクセス NDLJP:291又世俗の口号侍し、文荷、徳庵、志摩守三人之法師武者と戯しか共、徳菴は利家之人質をぬすみ出、其便をまうけ侍りしか共、又左衛門尉義理を違へし者なりと思はれぬ、かゝるにや色外にあらはれ、其便もいたつらになり、のちは洛下に心ならす有しかとも、地下人さへあれは如此之者よとて、諸人の舌頭にかゝり果しなり、中村与左衛門尉は、匠作同郷に生長し、弓馬之二道を嗜し者なれは、馬上之弓五十騎付侍りしなり、然るにより、よき射手をあまためしつれ射させつゝ、其功をあらはし切腹してけり、

評曰、その比まては、人心義あつて、歴々之切腹其名いとカウハしく有し也、此以来何之最期に如此清き事共やある、

秀吉すきまをあらせす追討にせよと下知し給へは、素より望所也、其日に府中辺まて討付たれは、漸日くれぬ、其夜は府中脇本辺立錐之地もなく、陣取にけり、

北庄表被陣事

翌日廿二日北庄へおしよせらるゝ勢之次第、堀久太郎を先として、其次取出番手の次第に任せ打候へと、定め給ふ掟之事、

進退カケヒキ其外何事も母衣之者、使番次第可其法

濫妨すへからさる事、酒家に入ましき事、

まはらかけすましき事、

勝利にほこるへからさる事、

合戦を心に備へ夜討之用心有へき事、

右条々無相違守此旨者也、

と五六十通調させ給ふて、夜半以前にふれ給ふ、鶏の声あきりけれは、堀久太郎はや立出北庄へおし行ぬ、其次たれと如御定うち行、路辺之在々放火せしかは、烟明かたの雲と乱れあひて、空は霧の海となり、朝日を障にけり、北庄の城、頸の事なれは、二三之丸のみ人数賦を沙汰し、惣構の事は中々かゝへ見ん共せす、諸卒の妻子共、貴となく賤となく便に随ひ、南より北北より南にサマヨ形勢アリサマ、見る目さへにまどひぬ、夫に分れ子にをくれなとし、かゝる上に流牢の身と成、住なれし所をかちはだしにて、はなれ行心のうち、おし計にさへなみたおちぬ、先手之勢備を設け、北庄之城をくると引巻、四方を一どに焼立しかば、煙宇宙に満々とし、空にしられぬ雲幾重共なくおほひつゝ、とこやみと成にけり、とかうせしまに秀吉卿着陣し給ひ、愛宕アタコ山へ打上り、此くらやみは自然之幸也、是を便に、本城の堀きはに着、竹たはを付よ、必声はし立な、声あらは弓鉄炮をまねくなるへしと制し給へは、何も相意得しつまり反て、竹たば或たゝみ、或戸などを以かこみしなり、良有て煙風にまかせ東すれは、四方の寄手本城の堀きはまて附たるを、本城より見て驚あへりぬ、城中よりねらひすまし鉄炮を以うちけるに、浮矢ユダヤは更になかりし也、取静めたる体、さすか名将の籠城とは見えにけり、かゝる処に、柴田権六、佐久間玄番允を生捕て、秀吉へかくと披露有けれは、可然事なりとて、褒美尤厚し、去二月まて権六は、当城之主、玄番允は賀州金沢之城主たりしか、扨もと云涙催オープンアクセス NDLJP:292す袖のみ多し、見るもの栄衰日々にかはりぬるとは、かやうの事にこそとて痛も有て、因果の程を思ひ煩ひぬ、秀吉卿よきに計うへしと、山口甚兵衛尉、副田甚左衛門尉にそ預らる、両人請取宿所へ引入、小手をゆるし、行水をまいらせ帷子を前におけば、心あるかなとて着し侍りぬ、

評曰、秀吉勝家興亡之故を勘かへみるに、勝家は文道をさみし下し、武道をのみ専事し、或政道之損益をも不問、或依怙贔負かちなる事多く、酒宴遊興に長し、世をみじかう思ひ取し故なり、因之養子伊賀守が恨あり、伊州家督までこそなく共、玄番允兄弟ほどにも親愛あらば、何を父子の因みを変ぜんや、伊賀守理は有と云共無道には極るべし、秀吉卿の才智は世に勝れ、殊に気体実せしに依て、去年の春備中に至り出勢有しより以来、一日片時も休息のまもなく、遊興と云事をもよそに見、自他之労を尽されしにより、不大利而大利不意に至る事多かりしなり、此一労を能思へは、高麗まて達せしなり、殊に秀吉は明智を討亡し、亡君御葬礼をも執行ひしかば、信長公へ真忠あり、公御連子井世臣、親臣多しと云共、何れか秀吉卿の忠に似たるも有や、天是をいかでか救ひ給はざらんや、能思ふへし、大事に及ては、天心にかなはざれはならぬ物なり、人力のみを頼むは、おろかなるか、

 
○勝家切腹之事
 
廿三日之午前に、攻皷なとを止、呼つて曰、昨日二十二日之夜、山中にて御子息権六殿、玄番允生捕、具して参候、あな痛しき御事にて有由呼りぬ、是より城中ひそまつて音もせす、其後は請取し門々を防き守る計にて、しか鉄砲もうたず、夜に入とひとしく、殿守之上にも下にも、ひろま其外櫓々なとにも酒宴初りけり、勝家盃にむかひつゝ、一族他家之人々を呼並へ申されけるは、あの藤吉猿くはしやがために、かく成果る事無念之次第、とかう云にも及れす、所詮酒呑て明日はうき世の隙をあけほのゝ雲と消なんとて、文荷斎それと有しかは、名酒の樽共あまたおきならべ、種々之肴を出しつゝ、酒宴をこそはしめけれ、弥右衛門尉に申付、何之櫓々にも酒を呑候へと、樽肴給りしかば、何方も酒宴の声々聞えけり、小谷の御かたへ勝家さし給へは、一二酌て又返し侍りけるに、匠作も数盃をかたむけ文荷斎にさし給ふ、小島若狭守は、酒宴之半にも四方を見廻つゝ、其あな露心に忘れさりしかば、心を安んしゆるやかに酒をそ愛しける、盃もたびめぐりければ、漸終りなんとす、勝家小谷の御かたに被申ける、御身は信長公之御妹なれは出させ給へ、つゝかもおはしますまじきと有しかは、小谷御方なみたくませ給ふて、去秋の終り岐阜よりまいり斯みゝえぬる事も前世之宿業、今更驚へきに非す、こゝを出去ん事、思ひもよらす候、しかはあれと三人之息女をは出し侍れよ、父之菩提をも問せ、又みつからが跡をも弔れんためそかしと、のたまへは、いと安き御事なりとて、其よし姫君に申させ給ふ、姉君いやとよ母上共に、同し道に行ん物をと、晴悲み給ふを、文荷斎そのわけをも不聞入、御手を引立三人を出し奉りぬ、夜半の鐘声殿守に至りしかは、御二所深閨に入ぬ、彼四面楚歌の夜の夢、楚王氏かふかき恨も、かくやと思オープンアクセス NDLJP:293ひ出にけり、何も櫓々へ引入、まとろまんとすれば、はや郭公雲井におとつれ、別れをもよほし侍るに、

さらぬだに打ぬる程もなつの夜のわかれをさそふほとゝきすかな     小谷御方

夏の夜の夢ぢはかなき跡の名を雲井に上よ山郭公            勝家

   文荷斎節義に当て、不変考なれは、同し道に侍らんとて、

ちきりあれやすゝしき道に友なひてのちのよまても事へつかえむ

となん詠めけれは、匠作たけき心も、それならす見えて、さらに袖をぞ湿されける、小谷御方其外かすの女房たち念誦称名之声、あはれをとゝめけり、若狭守、文荷斎、殿主の下に、こみ草を積をき、かねての用意残る所もなく、さたしをきしかば、心しづかに火を掛、半燃出るに及て、雑人原をは出し、さて勝家のおはしまし侍る、五重に上り、下はかく仕廻申候、御心しづかに、沙汰し給へと申土しかは、さすか最期はよかりけり、男女三十余人おなし煙と立上りぬ、勝家之気象つねにしも違ふ事なく、それに感をなし、卯月廿四日申の刻にそ終りにける

 
○村上六左衛門尉裁判之事
 
上村経かたひらの出立にて、籠城せしかば、勝家曰扨も頼しく見えたり、去共汝は末森殿〈匠作之姉〉

同息女、此行衛可然やうに計ひ候へと有しかば、いやそれはともかくも成給ん間、いつれの御門なり共かため申さんと達て望しかとも、是非出てかの人々をよきに計ひ候へ、忠義たるへしと有しに依て、なみたと共に出て、末森殿へ参、いさゝせ給へ、一まづおち候て浮世のありさまをも御覧候へと諫つゝ、あやしけなるのり物に、二人の人々をのせまいらせ、椎谷のおくへと心ざしけるが、竹田と云里に至て思ふに、いやふかく山に入なは、北庄之便もまれなるへし、是に一両日滞留し、よしあしの事を聞てんやとせし処に、廿四日申の刻に、北庄之殿主炎上とおほしくて、烟事外にそ見えにける、扨は匠作御切腹にこそと、上村思ひつゝ両人に向て、北庄もかく見え給ふ間、御覚悟なされ候へと云しかば、つね憑み給ひし、弥陀之名号に向て、心しつかに称名し給ひて、硯を引よせ、かくなん、

 今こゝに、六そちあまりの日のかずをたゝ一ときにかへしぬるかな

                              息女も同し硯にて

 思ひきや竹田の里の草のつゆはゝうへともに消ん物とは

末森殿南無阿弥陀仏と唱へつゝ、首をうけさせ給ふとひとしく、御くひは前へ落にけり、息女も名号にむかつて母上上品上生に導き給へ、勝家御父子玄番殿文荷斎、何れも同し蓮のうてなにむかへとらせ給へと、いとたうとく見えし処を、あへなくも六左衛門御首を打落しけり、かくてあたりなる僧を五六人請し、衣装なとあたへ、御菩提を憑み奉ると云置、草庵に火をかけ半焼たつを見、其身も立なから腹十文字にかき切て、同し煙と立上りけり、あはれなりし事ともなり、此六左衛門は勝家同郷に生し、かすかなりし身なれとも、戦場にして度々用に叶ひ、其功かさなりしかば、上村之二字を免し給ふて、二千石之所を知ぬ、いとオープンアクセス NDLJP:294かうばしかりし者なる故、其名今に香し、

翌日廿五日には、焦土と成し城之掃地なと被仰付けり、毛受勝介無比類遂忠死たりと、再三御感有て、母妹などに堪忍領聊恩賜あり、

一賀州表御出勢之事

廿六日には加賀国御仕置のため下向有しか、五三日滞留し、利家に金沢之城に石川河北両郡を相添賜り、頓て引帰し、五月朔日至北庄、丹羽五郎左衛門尉長秀今度一かたならぬ忠節に因て、越前若狭賀州之内能美恵那二郡可進退之旨被申渡、即越前守に任せられ可然おはさんやと戯れさせ給ひ、五月三日には江州坂本城に御帰陣有、

〈評曰、美濃国大柿之城を去卯月廿日に打立給ひ(至今月朔日十一日之日数にして、如此大なるはか行し事、和漢に稀ならんか、又長秀利家とは去春まて牛角なるはうはいにて有し故、知行割等聊斟酌之儀有、〉

 
○柴田権六佐久間玄番允事
 
秀吉卿より諸候大夫、其外馬廻小姓中へ端午之祝儀として、美酒佳肴夥しく下し給ふ、坂本に十余日御滞留有しが、権六郎、玄番事、洛中を渡し、六条河原にて生害有へき旨、浅野弥兵衛尉に、被仰出に依、其沙法に及ひぬ、権六は、不是非体、骨髄に徹し見えてけり、玄番允か曰、中河を討捕し後、勝家任下知早速本陣へ引取なば、何ぞ及此期乎、戦功を全して、上方勢をアナトラすんば、秀吉を我ごとくせん物を、果報いみしき筑前なるかなと云しかば、浅野打聞て、散々に悪口しければ、玄番ふり仰て、大忍之志はおのれらに云て聞せんもいかがなれ共、夫頼朝卿は、生捕の身と成、池の尼に便り赦を請討平平家、父之儲を報しけり、生て不封侯死五鼎にニラるゝ共クイなけん、是大丈夫之志なり、吁不知よなと云、浅野を白眼にし大にしかりしば、あつはれ大剛之者なりと、人皆感しあへりし也、所詮夢なりとて、硯をこひ、一首かくなん、

 世中をめくりもはてぬ小車は火宅のかとを出るなりけり

中々色もかはらず、首をうけて終にけり、鬼玄番と云れし事も有し物を、

 
○今度於柳瀬表戦功者被賞之事
 

賀藤虎助 後号肥後守、於朝鮮比類武勇之誉、其名香于日域高麗震旦也、領肥後

賀藤孫六郎 後号左馬助、於朝鮮取番船武勇之佳名尤高して、香しき感状あり、後家康公に事へ奉り、寛永四年の春秀忠公為恩賜、自伊予会津、領五十万石爪牙之臣となる、父三然は三州生国也、左馬助於尾州ナル

福島市松 後号左衛門大夫、領於備後安芸了、諸士を事外、さみし下し、諸臣の恨み多き人なり、小過を大になして行ひ、或牛割、或煎ころし、或刀脇指を取引張伐にし、或杖にてたゝきころし、或ゆびをきりなどせし事其数を知す、元和之末背制法事有て、在信州四万石、終に其所にして失ぬ、息備後守は酒におほれて、父より前に病死せしなり、

脇坂甚内 後号中務大輔、領淡路、生国江州也、

糟屋助右衛門尉 後号内膳正、領三万石

平野権平 後号遠江守、於和州芳野、領五千石其心猛くして、秀吉卿に背く事度々有しなオープンアクセス NDLJP:295り、因之領知少しとかや、生国尾州也、

片桐助作 後号東市正、慶長之末於大坂秀類公へ逆心有て、摂州茨木へ立のきしか、大坂を攻給ひし時、御母堂のおはします所をよく知て、大銕炮を打入、城をいたましむる事異他なり、秀頼公を亡し、百日を過し侍らて令病死、億兆之指頭にかゝり、名を汚しけり、生国江州也、虎助市松生国尾州也、

右之七人を七本鑓と号して、感状有、其辞曰

今度信孝対某及鉾楯、有子秀吉、雖前将軍信長公御連枝、今也不両葉斧柯事在手裏、殊柴田修理亮、滝川左近将監与被仰合之義決然也、依之至濃州大柿之城令在滞、可伏岐阜之城之処、柴田之先勢柳瀬表致出張之旨告来之条、不時刻帰于柳瀬、決勝負之刻、尽粉骨於一番鑓退群雄、北国勢及敗亡事、偏在爾之武功矣、即加増領五千石令宛行者也依感状如件〈何も一通つゝ被遺しとなり〉

 天正十一年七日朔日      秀吉判

各五千石之一行を令頂戴、入部之規式尤勇勇布見えてけり、

評曰七人之面々、何も二百石之上下を領し有しか、頓かに五千石之地をしり侍りけれは、万之自由いといみし、肩をならへし傍輩之面々、なみをこえられぬる事を、腹黒に思ひ籠るもあり、又うらやみぬる心あさからぬも多かりけれは、諸卒励武勇之力日々に新しく、剛強に成て、度々之勝利を得給ひつゝ、異国まて退治し給ひき、

彼七人よりもはやきも有、又及へきもありしなり、桜井左吉伊木半七郎なともナミを離れたる働有、殊石川兵助い七人よりはやく鑓を合せたりしか、あまた所痛手を蒙り、鑓下にて果にけり、なからへ有ほとならは、此人一番鑓の名のみ高して、七人い其下に立んとなん、

評曰、今世武名をはけみうらやみつゝ、其あたりまての鑓をと望みおもふは、小豆アツキ坂之七本鑓前田又左衛門尉堤の上の鑓等なり、此外之鑓之名は、其国、或其党々、或東西のはてはてにて云しはあれと、天下おしなへてのゝしるは稀なり、七人揃て一番とはいかゝあらんと、此道に精しき人申侍し、寔聊其先後はあるへき事なるか、小豆坂の七本鑓と其名かうはしきも、のき口の鑓、前田か鑓も、味方軍の色あしく見えて引しを、突返しぬるとあれは、のき口の鑓なり、重て智将老師之評にして可否定りぬへし、寔今度之合戦にて、天下秀吉に極し事、漢割天下即成之功、速かなりしも、不財、施恩禄、封大国、賞を重くせられしに因て、天下入掌握ぬると、智臣感しけるに暗に合へり、寔に此二まきの智謀武功果敢決断得其所しに因て、朝鮮まて脅かし、至于支竺其威名有しとかや、

 
 
 

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