目次
 
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太閤記 巻三
 
 
○備中国冠城落去高松之城水攻之事
 

天正十年三月十五日秀吉卿率数万軍兵、令向于備中表、冠城に推寄足軽をかけ引、敵の行オープンアクセス NDLJP:249を見侍りて、即其国之者に便り、勢之多少、士の剛弱をも密かに問聞に、輙くは責落しかたう覚え給ひしなり、しかはあれと、此城を強く責落しなは、他之兵屈すへし、信長公江州箕作の城を一旦に責落し給ふて、江南数ケ所之城々退散し、不日にして江州一国治りし事思ふへし、各承り、尤の御行に候、諸卒あまた亡ひ候共、此一城を責落しなは、西国の覚えいかめしく、威雄のほと夥しく出来侍らんと、上下一同して其儀に極りしかは、いとゝ勇みあへる剛兵共、持楯亀甲を突並へつきよせ攻詰けり、杉原七郎左衛門尉荒木平太夫千石権兵衛尉か攻口の手にて有し水の手を、伊賀之忍ひの者をして、同廿二日之夜取陣を固めしかは、城中事之外弱て、種々御侘言を申、城を渡し可進之条、被一命給り候へと也、雖然此一城をあらく破却してんは宜しからんとて、成万牛五丁之攻終に責破り、究竟之者共悉く切捨にけり、即以其競巻河屋之城せ給ふ、城主、冠の城早速攻落されし事を先車の戒として、不毛利之援兵、下搔楯脱冑請為属幕下之間、城を請取、即先駆之勢に加へにけり、然により猛威募うもて行ぬ、粤に高松の城とて名城あり、三方いふかき沼、渺茫として平安の時たも、人馬のかよひなかりしなり、况六具さしかため攻らるへきをや、一方は広き水堀、幾重ともなくたゝへて波蕩々たり、毛利家数年苦志労力して拵へたる城なれは、数月を送り打囲み攻候共、力責なとは思ひ絶たる要害也、殊に城主は勇士之誉、智謀之器量兼備りし、清水長左衛門尉と云し者なり、輝元より加勢として、弓鉄炮の司なる難波傅兵衛尉近松左衛門尉、其勢二千有余の着到にて籠城せり、秀吉高松之城のやうす精しく損益を尽し見給ふに、たゝ水せめにしくは有ましきと覚ふなり、然れはまつ近辺之在々所々令放火、其後つゝみをつかせ攻らるへきとて、焼働に発向し、勢をさつと打入給ひけり、かくて城の廻り三里か間、堤をつかせられけるに、堤の根をき十二間上にて六間のはばと定られ、昼夜の堺も分す、急かせ給ひしかば、四月十三日につきかゝりしか、廿四日五日には悉く出来たり、五月朔日より大小之河水を関入給へり、又おく山に分入ては、谷川をも水道を付かけ入給ひけれは、五日六日の間は水いつち行らむやうに、タマル共みえさりしか、十日比には、つね卑く侍りし所は、はや人の住するなし、堤の上には柵を付廻し、下には町屋作りに、小屋を小路もやつて作りならへ、夜番廻番絶間もなくして、毛利家よりの密通だも思ひたえたり、况助成之便をや、堤に添て十町に一ケ所つゝ要害を拵へ、大将小将を入をき、二六時中当番もしやの油断を催促せられにけり、夜に入は挑灯を燃しつれ廻り侍れは、まんどうゑもかくやと夜を昼にかへたるか如し、又一万勢を分て後巻を可相防の行有、是亦三ケ所城を拵へ守り居たる処に、如案五月十二日毛利右馬馬輝元か先勢小早川左衛門大夫隆景吉川駿河守元春を大将として卒五万騎、釈迦峰不動嵩に至て山取をしゆらへたり、輝元もヤカて発向有へきとそ聞えける、高松之城中毛利家の陣取を打詠め、一かたならす悦あへりけり、かゝる処に輝元も廿日比に卒三万余着陣し、同山取をし、難波近松を可相救の結構なりとかや、両陣の間十町はかり有しか共、大河滝なつて隔たりしかは、可勝負やうもなく又高松の急難を可救取行も無して対陣の体永々布みえにけり、秀吉は遂合戦追崩事掌中に在と覚て、信長公へ其旨趣以飛脚オープンアクセス NDLJP:250申上其状曰、

態捧書檄愚意

備中高松之城地之利、全武勇智謀の士数多籠居之議、旁以致水攻、既落城可旬日之内外体見及申候、雖然為毛利右馬頭輝元後巻、卒数万騎対陣、可救於高松之城行候、両陣之間不于十町候、御勢聊於御合力其勢高松之城囲、指向某勢急遂合戦、即時追崩、西国悉当年中可幕下事在手裏、此旨宜御披露候、恐々謹言、

 天正十年五月十五日  羽柴筑前守秀吉

     菅屋九右衛門殿

とそ書たりける、是によつて惟任日向守筒井順慶長岡与一郎池田紀伊守父子中川瀬兵衛尉高山右近都合其勢三万五千、今月下旬至備中発向、羽柴筑前守可合力之旨、以菅屋スケノヤ九右衛門尉長谷川竹〈後号藤五郎〉仰出けり、惟任は家康御上洛に付て馳走可申旨被仰付候て、如此の事奉るよな、出陣之事なれは御理申に及はれさる事にこそあれといひ、いなみ奉るかほさかふかゝりし

評曰、惟任はらくろに思ひコメし宿意は、家康御滞留中饗膳等善尽し、いとなみ可申旨に依て、十日計之用意おひたゝしき事にて侍りし処に、備中表出勢の儀御ふれにより恨奉りけり、いはゝ心にかくへき事にてもなし、又信長公も惟任か勢計を至于西国つかはし、其身は在安土、家康馳走いたすへき旨にてあらは宜しからん物を、御心任せのみにて大臣を憚り給ふ事なかりしに依てあやうかりし也、

輝元は高松之城に籠置し者共を助たくは思ひけめと、秀吉支度きひしく有しかは、兼て思慮せし謀もむなしく成て日を送りぬ、五月廿五六日比には、町屋なとははや床をたかくかき上、浮沈あはれに見えにけり、物にこへて痛入しは、蛇ねすみいたちやうのもの、床の上に親しみ来て、はらへ共首をかたふけ寄来たるに、女わらんへたへかねつゝ、いくたひか人こゝちなく成ぬ、始は呼生なとせしか、後にはなれもやしぬらん、且しつまりぬ、只うき事の根ふかゝりしは、水はなかれされ共、セキ入し湖水昼夜をすてす、水かさまさりけれは、網代の魚籠中ウヲコノウチ之鳥にもこへて、極運にせまり行に浮沈せり、長左衛門尉湖水日々夜々にまさり行を見て、身の行末の日数をかへり見、兄の月清入道に云けるは、如此水まさりなは溺死旬日之内外なるへし、兄弟腹を切て諸人を助んと奉存は如何有へきと相談しけれは、月清も内々左も有度と啐啄す、さらは難波近松へ請其可否相極んとて、以両使問しかは、尤之事に候、とても遁るましき極運と云、仁死と云、よろしく覚え侍る条、とく其義に被相究、秀吉の陣へ御懇望あれ、某二人も同し道に参り候はんと諾しけれは、清水兄弟、老母と妻子に暇を請、かれこれ相極てのち、使者を筏にのせ出し、秀吉へ右之旨以書簡素意

謹而奉愚意、当地永々御在滞楚辛労力乍恐奉察候、然者当城極運之儀弥近奉覚候、清水兄弟難波伝兵衛尉近松左衛門尉代衆命切腹之条、被御憐愍籠城之輩被於寛仁之君徳、悉於御助成者忝可存候、依回章明日四日日中可切腹候、然者小船一艘オープンアクセス NDLJP:251并美酒佳肴聊預恩賜候者、且忘籠城之辛苦、旦可老兵之疲労候、恐々謹言、

 午六月三日      清水長左衛門尉

      蜂須賀彦右衛門尉殿

      杉原七郎左衛門尉殿

両人此状を秀吉御前へ持出、此旨かくと申上しかは、其心さしを感し給ふて、可其求之条可然様に相計可返簡となり、蜂須賀杉原返簡之状曰、

御状之趣筑前守令相達之処、各四人代衆命籠城之諸人可御助(御助成)之結構、一入被相感、即可御望之旨候、然者小船一艘酒肴十荷並上林極上(三袋)令進入候、明日検使出候様にと御使者被申候、得其意存候、四人之外縦雖長男連枝、切腹有之間敷旨被申候、恐惶謹言

 五月三日           蜂須賀彦右衛門尉杉原七郎左衛門尉

      清水長左衛門尉殿 回鯉

猶御望之事あらは重て被仰候へと還使に云渡しけり、使者立帰明日御切腹之御望叶ひ申候、新造之小船并美酒佳肴も御懇にておはしまし候由申けれは、清水兄弟難波近松も歎の中の喜とはかやうの事をや申へき、主君に忠し諸人之命に代り、世を去事生涯の面目なりと悦つゝ、其夜は暇乞の酒それに精しかりけり、かくて夜も明ぬれは、城中の諸道具注文を調へ、其間々其所々にはり付、無相違切腹之後、秀吉へ相渡し可申旨沙汰しをきぬ、其後日来奉頼し仏前に参り、念仏いとしつかに申出にけり、大手の門まて水蕩々たれは、秀吉よりの船を即弘誓の舟になし、打乗跡をも顧す出し処に、与十郎と云し者御供申さんとて、経帷を着し、落髪染衣の姿となり、船に乗んとせしを諫て云、もし他界にをゐて汝つかひ用之事あらは可申越之条、其節必々可来と止しか共、達て同船にと望て不止、然共月清船をおし出せよと云し時、さらは水に溺れてなり共、供いたすへき旨申せしに依て乗せにけり、難波近松も二之丸に船を待侘て有し処に、月清長左衛門尉見えしかば即同船してさし出ぬ、高松の摠構を出はなれ、沖をみれは、湖水いとしつかにカモメをのかさまに、ふるまひぬるを打なかめ、大悟しけり、前夕秀吉は堀尾茂助をめして、明日四日午前高松之城主、清永兄弟并輝元加勢之鉄炮大将二人湖水の上にして、致切腹籠城之上下悉く助んとの事なり、汝明朝船にて出向ひ、検見候へと仰しかは、堀尾心ある士にて、柳一荷折一合船につみ出にけり、払暁にこき出いまやと待侘し処に、小船一艘漕出しかは、即こき向ひ行に違ふ所もなし、舟のあはひちかふなるとひとしく、清水か方より言かはしけるは、是は毛利家にをゐひて厚恩に浴せられし、清水兄弟、彼は輝元が魁殿の士、弓鉄炮の小将、難波伝兵衛尉近松左衛門尉にておはしまし候、唯今切腹之旨趣当地令籠城候諸人之命に代り、悉く相助んとの事にて侍るなり、筑前守殿御前無相違やうに、奉憑通申けれは、堀尾も近くこきよせ、是は羽柴近習堀尾茂助と申者にて侍る、何事にをゐても御望の事あらは被仰聞候へ、筑前守も各御存分之結構深く感し申オープンアクセス NDLJP:252之条、聊相違之儀有間敷候、さすか城主に任せられしシルシ故、諸人を御哀憐返々も神妙に侍るよし、堀尾も云しかは、四人之面々忻々然と快悦し、此上は思ひ残す事もおはしまさす候、筑前守殿と右馬頭と向後御入魂ましますやうに、御取持ひとへに船入存知候、輝元信の堅き事一かたならぬ人に候、其趣被仰上給候はゝ、現来二世之御厚恩にて有へきとなり、かくて堀尾より樽肴を送りしかは、扨も心有かなとおし返し感悦し、月清二三酌て長左衛門にさしけれは、是も数盃を傾け雑波殿へ、恐侍るとてさしぬれは、近松に一礼し其後金吾へさしてけり、長左衛門中のみせんとて心よけに請し処に、月清誓願寺の曲舞クセマイを謡ひ出けり、聊おくしたる顔色もなくつねの如し、かくて酒も過しかは、月清入道我より始んと、おしはたぬきて、矢声して腹十文字にかき切てけり、残る三人もきらよく腹を切、今此楮上に其名香しく残にけり、かゝる処に与十郎某は月清老人か馬取にて有しか、緑を赦し、一所懸命の地をあたへられしなり、しで三途の道しるへせんとて心よけに切腹してけり、茂助其心さしを感し、四人の首に相添、秀吉へ掛御目候へは、何も仁義の死を遂し者の首也、四人之首を三方にすへ、与十郎か首をへきにすへよと仰けり、五日の朝、堤を切候へは、水滝なつて落行声千雷のことし、かくて城を請取杉原七郎左衛門尉を入をかる、

 
信長公御父子之義注進之事、
 
壬午六月三日之子之刻、京都より飛脚到来し、信長公信忠卿二条本能寺にして昨日二日之朝、惟任がために御切腹にて候、急御上着有て日向守を被討平然之旨、長谷川宗仁より密に申来しかは、秀吉慟せる事不浅、然共さらぬ体にもてなし、四日の朝御馬しるし計持せ陣廻りし給ふ、つねは百騎計めしつれられ見廻給ふか、此事を聞れしより、一しつめしつめ堤を打廻り給ひけれは、輝元弥降参をそ請にける、先月下旬より備中備後伯耆三ケ国を上可申之条、御和睦之義ひとへに奉頼之旨再三及へり、其上諸事御入魂に預り候はゝ向後疎意を存ましき旨、牛王宝印之衷を翻し、上巻の起請文人質を進上可申と、小早川吉川より申来りし也、〈輝元弥降参以下コヽニ至リ一本ニ輝元も対陣堅固に見へたり則毛利内安国寺を呼よせ分国如在有間敷之条降参を請給へ長久可御和睦との事也安国寺承り尤忝御事哉輝元少も疎意存間敷候御諚之趣可申聞とて罷帰ぬ輝元承り分国於相違其儀起請文を取かはし人質を可進となりニ作ル〉秀吉信長公之御事を聞召、かた相済と思はれけれとも、明五日之朝可返事とて其日は使者を帰されにけり、五日の朝、小早川吉河よりの使者来りぬ、爰に至て秀吉、隠より見はなるはなし、亡君之御事隠す共、やはかくるへきかと思惟し、今度信長公去二日惟任日向守逆心により、御父子於京都弑せられ給ひぬ、此上にても如最前承及筋目相違仰談候はんや否の事、両使還て輝元へ申届候へ、其上を以可相極とて又使者を帰し給ひけり、即両使立帰て、輝元へ小早川吉川を以、信長公御父子之事申けれは、家老之面々よひ集め、いかゝ有へしと評議有けり、年わかうして勇かちなる人々は是天之与ふる幸也、打破て帰陣し、世中之体を御見合せ宜しからんと、高言を吐も多し、又心有はとかうを云ぬも半はせり、何れを是とし何れを非と、一着まちなりし処に、小早川存知寄し通申上みんと、指を折て云けるは、今度信長亡給ふ事、秀吉のためには一往不吉の兆なり、爰を鍛直し惟任をも討平逐年威勢加り行事あらは、今度変約之義徹骨髄忘もやらす恨オープンアクセス NDLJP:253ふかるへし、然則当家をは葉を枯し根を絶す計に可打果候か、是一、信長御父子切腹之注進は、とく秀吉聞可申、然るを取しつめたる事共多かりし、尤なる裁判とこそ存候へ、其上百人は百人千人は千人昨日之無事之扱、かやうの節を幸に済し可申処也、其扱をも甚以よしとせす、昨今両使を徒に帰し待りし事至剛なる所存、是を以能可存か、是二、秀吉年来文武之達者なりし事共、問ても知之伝ても識之に、離倫絶類の武勇才知兼備りし人なれは、是天下之大器なり、天下之大噐は天のせる所そかし、豈人力之所及にあらんや、是三、かやうの危き節を見続給ひなは、秀吉も一入之合力に被存、当家入魂根深帯固るへし、願は昨日之筋目聊無相違仰談、宜しくおはしまさんや、然者信長公之御弔として、まつ年寄中之内、一人つかはされ宜しからんや、又弔合戦に秀吉上洛ましまさは、加勢之義をも御沙汰可然候はんやと、隆景おいらかに諫けれは、満座黙止してけり、輝元尤にや思はれけん、其議に同し、右之両使に福原越前守広俊を相添、信長公御弔として秀吉之陣へまいらせらる、両使蜂須賀彦左衛門尉を以、信長公かくならせ給ふ共、最前約諾之筋目相違有ましきとの事におはしまし候条、御入魂之義奉頼由、輝元小早川吉河、向後疎意存ましき旨誓紙を以被申しかは、秀吉も不斜悦給ふて、有のまゝ心底を残さす被申けるは、惟任を早速討平亡君尊霊の憤を散せむ事在掌握、其元只今輝元入魂之義によれり、何より以大慶候也、此節を窺ひ、連々承候筋目於相違は、浮田を是に残しをき、某は令上洛、弔合戦をイトみなんと銘心腑候し、然処に向後無他事入魂誓紙固く信を守らるゝと云、危節を可相救之結構と云旁以大慶甚深候、信長へ忠孝を可報謝前表、此上有ましきと感悦再三に及べり、さらは明日可打立之条、鉄炮五百挺弓百張旗三十本御合力有て給り候へ、予も又向後疎略有ましき旨誓紙あらんとて、福原越前守両使(安国寺)を呼寄、血判に及ひ、口上を委く宣られしかは、何も承其旨輝元両河にも、申聞せ候はんと御暇申けり、〈何も承以下一本ニ輝元承則人質に元就八男藤四郎桂民部大輔を相添進上被申供奉了ニ作ル〉
 
○為信長公弔合戦秀吉上洛之事
 

同六月六日未之刻に高松を引払ひ沼の城まて帰陣有、折節甚雨疾風に因て所々之大河洪水出しかは、七日は滞留有て、八日至于姫地令帰城にけり、其日は諸卒休息のため、出勢延引有て、九日未明に姫地を立、急き給ひしかは、十一日午前に至尼崎参陣し、頓て落髪有ぬ、かくて三七殿丹羽五郎左衛門尉池田紀伊守長子勝九郎なとへ、以使者中国之義隙を明、今日是まて致参陣候、軍評定有て明日惟任を可相果旨被申入しかは、何れも尼崎へ寄合評議有、一番合戦は池田可致之旨高声に被申し処、高山右近すゝみ出申けるは、山崎表之合戦逐次第致さんには、一番は某、二番は中川瀬兵衛尉、三番池田殿にて有へきか、次第を越給はん事迷惑なる由つよく申ける処に、秀吉仰けるは、信長公よりかやうの時は、多くその次第をおつて被仰付候しなり、今以其通可然候はんと被申けれは、即一番高山二番中川三番池田如此合戦之次第定にけり、

評曰、信長公の御時は池田は公と乳兄弟と云、武勇の佳名と云、威勢有し人なり、三七殿はオープンアクセス NDLJP:254御連子と云、何も尼崎へ寄合給はん義に非す、然るに筑前守に寄合、軍評義有しは、秀吉人数かさなる故か、又自然に大器に随ふ其理有か、はや何となふ秀吉物かしらに見えしなり、

かくて十二日、先勢山崎天神之馬場芥川辺に充満せしかは、後陣はやう西宮小清水辺をそ急きける、其夜は遠近宿陣し侍りて、十三日には於山崎表前後一同に相揃ひ候やうにとの相図なり、惟任かたへも明日十三日合戦之上可勝負之旨云やりしかは、望所之幸尤にこそとの返事有ぬ、十三日刁の刻池田父子山崎に至てみれは、南の門をうつて池田か勢を一人も入す、池田思ふやう、扨は高山も惟任に与せしよな、不力所なりと云つゝ川に付て細道有、これより山崎の東摠構の外を廻て惟任か勢に向はんとすれは、高山右近真先に進て有けり、山崎南門をうちたるは他の勢を一人も不入先陣をせんとの事なりとかや、武勇の嗜左もこそあるへけれ、

 
○惟任江州安土山之城に移る事
 
去程に、日向守は京都之仕置有増沙汰し置、同四日安土へ参し、城を請取なんすとて発向しける処に、山岡美作守計にて、勢田之橋を焼落し上下の往還なし、故に其日は善逝セヤ〈[#ルビ「セヤ」は底本ママ]〉に逗留し、即山岡かたへ使者を立、早く某に属せよ、本地之事は不申依忠義於加増之地と云やりし処に、山岡返答に吾は義を以主とす、逆臣之者に豈仕へんやとて、不返章使者を追返しけり、惟任は松本辺之者に課て橋を補続し、五日未明に立て安土山に下着し、城を請取御道具なとを愛し、金銀等をあらため、家臣にも聊分与へたりけり、かゝる処に織田七兵衛殿於大坂三七殿丹波五郎左衛門尉調略を以切腹之由告来りぬ、又筒井順愛かたへ以使札前々親まむとすれ共、其需に応せさる品々それとなしにみえしかは、旁以先畿内を平治せんとて安土山には明知左馬助を残し置、佐和山に荒木山城子共二人入置、其身は小性馬廻弓鉄炮計にて、順愛に直談すへき事有と以飛札日限を究め、八幡にちかき洞峠に参陣し筒井を待居たり、光秀か二男にあこと云て十二歳になりしを同道し、是をシチ心に順慶に出し置、入魂之義弥ふかうせんと謀りけれ共、洞か峠へも不出合けれは、日向守諸方の心あて多く相違してけり、されは其夜のひとりことに、扨もかく思ひし事共の違ふ物かな、柴田は長尾喜平治と於越中対陣、羽柴筑前守は毛利右馬頭と於備中対陣、何も不年月は、とかうの隙は明ましきと思ひつるに、各得勝利たると也、又長岡越中守筒井順慶なとは、与すると云にも不及、同胞の因に思ひつるに、是又左も侍らす、家康は泉州境の津より下向せられは、伊賀地にをひて、一揆として討留よ、其国の儀、前々のことく一揆に恩賜すへき旨云つかはし侍る処に、是も無恙三州下着となん聞し也、織田七兵衛尉は相果と云、一つとしてはかしき事はなしと、あきれはてつふやきにけり、

評曰、五畿内を平均にしも侍らて、安土山に下向し財宝等を愛し、左馬助を残し置事は何事そや、勿論天命に背きし謀叛なれは、頼つる事共相違せり、あゝ理義に闇きは惟任に限らす、頼み思ふ事共違ふ物とみえたり、

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山崎合戦之事
 
惟任は洞かたうけにて、筒井をまてともきたらされは、手もちわるふして、淀之城へ引て入り、普請のなははりなとし侍りけり、かゝる処に羽柴筑前守も中国平均に打治め、隙を明、今明之際、吊合戦のため上洛之山、施薬院其時は中将と申せしか、姫地を一昨日八日に立て今日十日直に淀に至て申けり、然間淀の普請も相止つゝ、軍評議にそ及ひける、山崎表之先手は斎藤内蔵助柴田源左衛門尉其勢二千余、加勢は阿閉淡路守其子孫五郎池田伊予守後藤喜三郎多賀新左衛門尉久徳六左衛門尉小川土佐守、是は江州之国士たりしか、不是非参陣してけり、其勢三千、都合五千也、山手の先備は松田太郎左衛門尉銕炮三百挺引具す、是におしつゝき並河ナミカワ〈[#ルビ「ナミカワ」は底本では「ナカ」]〉掃部其外丹波之国士七カシラ其勢二千、右備伊勢与三郎諏訪飛騨守御牧三左衛門尉其勢二千、左備津田与三郎其勢二千、光秀か旗本五千、そなへを定めにけり、南方より打向ふ勢には、一番高山右近〈摂州高槻之城主〉其勢二千、二番中川瀬兵衛尉〈同茨木之城主〉其勢二千五百、三番池田勝三郎父子〈同有岡尾崎華熊三城兼知〉其勢五千、四番丹羽五郎左衛門尉〈江州佐和山之城主〉其勢三千余、五番三七殿〈勢州神戸之城主〉其勢四千、六番羽柴筑前守秀吉〈播作但因伯兼知此五州其勢二万、都合四万、前後之次第如此にそ定らる、其折節斎藤内蔵助は雍州洞か峠に有けるか、十二日之暁使者を以云けるは、筑前守三万之着到にて走向之由告来りぬ、明日之合戦は先御延候て、坂本之城へ御取入なされ可然おはさんと諫にけり、惟任腹立して、予か如く得大利たる大将には、いかなる天魔破旬も向ひ得さる物そ、心を安んし明日は払暁に立て是へ可来と堅く云含め、使者をはもとしけり、あくれば十三日卯之刻に山崎表に至て令出張、備を段々にして待居たり、惟任、松田太郎左衛門尉を呼て云けるは、汝は山崎之案内を能知たり、急き天王山へ打上り、山崎を見おろし、弓銕炮を射入うち入させよ、さる程ならば山崎に在勢共、度に迷ひなんすとてつかはしけれは、其勢弓銕炮三百余人手勢七百余を左右に随へ、勇みに勇て上りけり、又秀吉は堀尾茂助をめして急天王山に上り、備を固し有へきと制しつかはしゝかは、堀尾、二百人預りし弓銕炮に下知して曰、なるへきほと馬上につゝき、山崎の上なる天王山へ急へしと、汗馬をはやめ、山半腹にして馬より下、我勢をみれは、やう手勢十五六騎弓鉄炮之者二十人計そつゝひたる、小勢なるをも顧す天王山へ上りしかは、松田太郎左衛門尉も弓鉄炮を先に立上りけるに堀尾時の声を挙、曳々声して鉄炮をうたせ矢をはなちけれ共、真黒に成て上り来りぬ、進上をうて共ひるまされは、たゝ筒勢をうつへしと、大の眼に角をたて下知したりけれは、意得申と云もあへす、真先かけて進み来る勢をはうたすして、松田か旗本を目あてにし、つるへしかは、聊扣てそ見えける、かゝる処に、堀尾手勢も弓鉄炮も揃ひけれは、茂助弥力を得、すきまをあらせすつるへかけ時の声を上、一揉捫しかは噇と崩にけり、堀尾小勢にて松田太郎左衛門尉此山を取得さりし事は何故そとたつねしに、堀久太郎真先をかけて、宝寺近辺に在て松田と火花を散し相戦、後は堀尾両人して松田か勢をは悉く討捕にけり、然る処に高山右近山崎の南門をとち先を掛しかは、心安も一番合戦をそ初めける、惟任か先手伊勢与三郎諏訪飛騨守御牧三左衛門尉其弟勘兵衛尉も、東西に開合せ南北に推つ返す散々に高オープンアクセス NDLJP:256山と火花を散し戦ひける処に、中川瀬兵衛尉は左を遮り、池田父子は右を進て箕手におし廻し、引つゝまむとしけるをみて、弱き下々は裏崩し見えけれ共、伊勢訪諏云けるは、勇は先祖の面ををこし、義は戦死の戸を清むるそとで、終に義死をそ遂たりける、御牧三左衛門尉前後左右をかへりみ、とかく摠敗軍なりと、突かゝり討死せすんは日向守も危からんと思ひ、光秀へ使者を遣し、御牧只今討死仕候、其隙に一まつ退給へと云すて、手勢二百余騎左右に随へ、直黒に成て突かゝり、万卒に面を進め一挙に死を争ひ苦戦せし有さま、たとへていはんかたもなし、痛しや其心さしは勇みしか共、敵に御方を合すれは、大海の一滴九牛か一毛なれは、引つゝんて一人も不漏うち留にけり、寔二百騎計にて池田高山中川か大勢にさし向ひ令苦戦、忠死をとけたりし御牧か心中、類ひすくなき事共也、惟任はおんばうか塚に五千有余勢を備へて有しか、御牧かフルマひをみて、かゝつて救はんと馬をすゝめ曳々声を上し処を、比田帯刀轡を取て引返し、強敵と云、多勢と云、かた以かゝり給ふへき所に非す、御勢も過半退散して候也、唯勝龍寺へ御馬を入られ、一まつ御籠城有か、左もなくは敵も味方も戦つかれ、今夜は人こゝちも有ましくや、夜の紛れに坂本へ落させ給へと諫しかは、惟任度に迷ひ勝龍寺は何方そと問しを比田此方へとをのれか馬を先に乗て光秀を跡になし退ノキ行に、開田カイテン大郎八進士作左衛門尉なと追着随ひたる、敵先へ廻し跡をつゝみ左より攻右よりかこみ、中々のかるやうもみえさりし也、爰にては引組て首をとらるゝも有、突倒さるゝも多く、降参を請し下々を無下に捕もあれ共、味方の働はさのみなし、あさましかりし形勢アリサマ果因たちまちの道理、百姓まてもにくみけれは、助くる者もなく、思ひの外うたれにけり、惟任も道を道に退なんとせしか共、ならすして田の中をつたひにやう勝龍寺の摠構にたとり着、堀へ馬を乗入土囲へ乗上んとすれ共、馬つかれてや有けん上得されは、進士おりさせ給へとて馬を引上、光秀を馬にいたきのせ大手の橋に着て、大息をつき扨も無念至極せり、はらをきらんと云しを本城へおし入にけり、あはれなりし有さまみるめもさへに痛はし、

評曰、斎藤内蔵助か諫に任せ今日之合戦を止、坂本に入て籠城し侍らは、事之外むつかしく有へし、又明知左馬助二千余騎を進退せし大将なるを、安土山に残し置し事至愚の長せるなり、日比蓄へをきし勢を一手になし心を一致に定め苦戦せは、かほとにもろくはまくましきを、勢を方々へ分つかはせし事、以外の浅知也、光秀此比思ふ所の図、万違ひし事共多かりしは、背天理し故なるへし、

 
○惟任坂本を心さし勝龍寺より落行事
 
日向守合戦に打負、田の中を這々逃て勝龍寺へ楯籠り、殿主に上り打囲みし勢をみるに、四方十重廿重に取囲み凱歌夥し、今夜不落は悔先非共益なかるへし、夜も明なは四方の攻口を定め取巻、擒となすへし、一ます落て坂本に令籠城、可待時節、と思ひつゝ、申之刻に落武者の着到を付てみれは、騎兵五百有余弓銕炮之者四五百人有しか、及日暮、たれはかれは、みえ見、みえすみせし間に、大かたおちて百人にも不足ほとに成にけり、夜半の鐘声聞えし比、惟任は明知勝兵衛尉進士作左衛門尉村越三十郎堀毛与次郎山本仙人三宅孫十郎なとめオープンアクセス NDLJP:257しつれ、忍ひ出伏見へ落行、其より小栗栖へ出て行処を、藪の中より、さきにのりつる村越を鎗にてツキにけり、去共筒丸のさねつよかりしかは突止す、次に乗行騎兵を突たるに惟任が右の脇をしたゝかに突入てけり、然るにより前後之者一揆原キハラを事外高言して、みかたうちをするつまゝれめ、以来曲言にをこなふへきそとのゝしりけれは、藪の中より味方にてはなきそ、五六人の馬上につき随ひし者一両人見えしなり、世に在ものゝ往還にあらす、落人の正真なるそ、りくつないはせそ、たゝ員を吹ておこれや者共と、さもあらけなくのゝしつて、犬なともことしくとかめけれは、五六人之馬上共手も力もなき計になりにけり、いたはしや光秀は勝兵衛か手を取て引よせ、膓の出しをさくらせ、中たまるへうもあらさる也、首を打て知恩院へ持参し灰になし候へ、筒は田の中へふみ入かくし候へとて、首を請しなり、勝兵衛奉り、かひなき事を仰候物かな、大津へは今少し斗そ忍はせ給へと云つゝみれは、早舌なへわけもさたかに聞えされは、不〈[#返り点「二」は底本では返り点「中」]〉是非首をうちおとしつゝ、知恩院にをひて光秀無他事云かはしつる寺へ首を持参し、灰になしよきに吊ひ申さんと忍ひ行処に、短夜の月山の端にかゝり、既に明なんとせしに、そこいかとなく、一揆共起り来て、落人をあやしめつゝ、或伐し或万わきさしを奪取事こゝかしこにしてあはれなり、然るにより光秀首を知恩院へ持行事不成して草の中に投入、やう命計つゝかなふして落にけり、日向守首を村井春長軒か郎等見知て秀吉へ持参し、夥しき引出物賜てけり、其死骸をも尋出し首をつき、日の岡に、六月十四日明知左馬助か父、二人を磔に掛給ひにけり、見る者士畜生かはてを見よやと云つゝ、悪まさるはなかりき、かくてより秀吉の威光かゝやき出、天下の執権は此人たるへきやうに上下媚をなしけり、

或曰、昔楚之懐王の孫幼君義帝を項羽与高祖取立、無程秦之天下を亡し達本意けり、幼君と云共、項羽臣之礼むつかしくや思ひけん、奉義帝天下を自由し、権威を振ひしかは、高祖是をふかくいきとをりつゝ、群卒をすゝめ、縞素カソを着しなから、幼君の敵をうたんと義兵を挙しかは、天下之士多く感しつゝ、義ありとて高祖に与せしに依て、忽家運開けし嘉例と啐啄ソツタクなりし幸、此人なりと思ひ合されにけり、臣として主君を弑し侍りし事、古今多く侍りしか共、惟任がやうにはやく報ひしも稀なり、是天のとかめ厳なる事知ぬへし、日向守淀より戦場へ赴行に京都にをひて、つね恩賞有し者共、粽やうの物なと棒け、門出祝せんとて参しけるに、鳥羽に至て行向ひしか、光秀軍勢の揃ひかねぬるを待て秋山に在しなり、かゝる所へ京童粽をさゝけ、今日之御合戦大利を得給ふやうにと祝しけれは、皆聞候へ、其君悪行あれは弑し侍る事吾朝に限す、異国にもさるためしあり、周武は其君紂悪徳有しかは弑しつゝ、諸人之困窮を救ひ人道を正し、周祚八百六十余年平安なりしそかし、洛中安泰にあらしめんそと云つゝ、粽を取てむきもし侍らて食したり、京童是を見て此軍はかしき事よもあらし、軍の前に大将度にまよふは亡兆なるよし聞伝へり、唯急き帰るにしくはなしとて、あしはやに帰京したりけり、

 
○明知左馬助安土山殿守を令焼亡
 
オープンアクセス NDLJP:258左馬助は安土山に有て江州を平治せん謀計を尽しけるか、六月十三日光秀合戦に打負たるよし、同日亥之刻に至て聞えけれは、十四日未明に殿守に火をかけ坂本さして落行けるか、亦候や山岡美作守瀬田の橋を焼おとしけれは、しはし逗留し、橋を補続し渡りけり、堀久太郎、〈後号羽柴左衛門督〉は諸勢に先たつて安土山へ参陣し、左馬助を生捕、信長公之教(孝)養にせまく欲し下り行に、大津にて寄合かしらに渡し合せ、散々に合戦し、数多討捕ける処に、左馬助は湖水と町との間を乗ぬけ、からき命をのみ助て、坂本之城に入にけり、かく退し事も荒木山城守か長子其弟二人引返し討死故とかや、左馬助は光秀か子三人息女三人さし殺し、其後殿守に火をかけ、無常の煙と共に名をも雲井に挙たりけり
 
○信忠卿御簾中御若君之事
 
城介殿御切腹之時、前田玄以斎をめして宣ひける、汝は急岐阜へ参し妻子共を清洲へめしつれ、長谷川丹波守と令相儀守立旨堅く被仰付しかは、岐阜に下着し御若君なとを御供申、清洲之城へうつしまいらせし也、
 
○信長公御跡知行割之事
 
秀吉は京都にて惟任家来之共者悉く尋捜て伐捨、其後本能寺におひて御切腹なされつる骸骨をよきに納め奉りてより、尾州へ令下向若君へ御礼申上んと急きにけり、柴田修理亮勝家も越中表之隙を明、弔ひ合戦のため、京都さして打て上らんとせしか共、はや惟任を打亡したる由三七殿羽紫筑前守より注進有しかは、同十六日柳瀬より直に信忠卿御若君へ御吊ひ申上んとて是も清洲へ赴きにけり、池田父子丹羽五郎左衛門尉長秀蜂屋出羽守筒井順慶其外旧臣之面々不残御若君へ、続目之御礼申上んため尾州へ下着有しなり、各さしツトひ三歳の主君へ御礼申上落涙之体あさからさりし形勢甚以しゆせうなり、かくてもはてぬ事なれは、若君十五歳にならせられ候まて、明地闕国之地預り侍る目録

一信雄卿     尾州 一信孝      濃州 一秀吉      丹波 一勝家      江州之内長浜 六万石 一池田父子    大坂尼崎兵庫十二万石 一長秀    若州江州内高島志賀二郡 一滝河      五万石加増此外北伊勢を領す 一蜂屋      三万石加増

或曰、此外明地多かりしは、悉く秀吉へ何となく自由せられしやうに成行しなり、是は天正十年中之事なり、

御若君をは安土山に居奉り、長谷川丹波守前田玄以斎〈後号徳善院〉を御守として付置奉りぬ、御城付領は於江州三十万石也、信長公信忠卿おはしませし時のやうに、互に可入魂との堅約厳密にし侍りて、をのか国々へ帰陣に赴きしなり、

 
信長公御葬礼之事
 
壬午七月中旬、秀吉卿御次丸を相伴ひ上洛ましまして、於本能寺、前将軍御腹めされし寺にして、御愁歎甚しく、涙数行正体もましまさぬ形勢、哀にも殊勝にも見えてけり、元来種姓たつとき人にはあらされとも、才器何れも無肩に依て、将軍取立給ふて、諸侯の数に加えさオープンアクセス NDLJP:259せ給ひしか、後は数国を并せ領しけり、依之織田家の旧臣嫉み思ふ事ふかけれ共、信長公曽て事共せす、剰傘を御ゆるしなされしかは、旁御厚恩山より高く、海より深しと、骨髄に徹し、忘れしと思へり、一念の剛なるは、世を累て通りぬるとなむ云伝えしか、実に宜なり、人もこと多きに、君のかたきを目前に誅平け、殊に御葬礼を営み奉りたきと、当寺におゐて初て心さし有けり、抑此御次丸と申は、将軍の五男にておはせしを養子に申請奉りしかは、同胞合体の腹臣也、亦不貴乎、北畠信雄卿三七殿、又は歴々の宿老衆有けれは、御葬礼の儀催しなんもいかゝあるへきと憚不軽は、とかう延来て九月に至るまて其沙汰もなし、秀吉永き夜のねさめに、昨友は今日の怨讎と成、前栄は後衰と移り易りぬ、誰有て期来日乎、厚恩を報せすして衰ふる身となりなは、噬臍とも益なかるへしとて、於龍宝山大徳寺十月初旬より一七日の法事執行ひ奉らんと、あし一万貫米は播州より精白にして千石大徳寺納所へ相渡し、奉行として杉原七郎左衛門尉、桑原次右衛門尉副田ソヨタ甚兵衛尉を加えにけり、其用意漸成て、十月十一日転経十二日頓写施餓鬼十三日懺法センホウ十四日入室十五日闍維シヤユイ十六日宿忌十七日陞座シンソ拈香、中にも十五日御葬礼の為体驚目計也、棺槨以金紗金襴之、軒の瓔珞欄干擬宝珠、悉鏤金銀、八角の柱尽丹青、八面の間彩色御紋の桐引両筋なり、以沈香刻仏像置棺槨之中、蓮台野堅横広大而続洛中、四門之幕白綾方百二十間、中有火屋、其躰魏然たり、惣廻りには結埓羽柴小一郎長秀警固大将として、大徳寺より十町許の間警固の武士一万有余守護路之左右、弓鉄炮其外鑓長刀を立つゝけ、すさましき事も又夥し、近国に侍る信長公につかへ奉りし諸十参り会つゝ、御葬礼にあひしかは、一入哀なり、御輿前轅池田小新〈後号三右衛門尉後轅御次丸昇給ふ御位牌は、公の八男御長丸、御太刀は秀吉卿奉持之、即不動国行也、二行に相列者三千余人皆烏帽子着藤衣なり、始五岳洛中洛外諸宗不幾千万云数、各宗刷威儀、集会行道有、五色天蓋輝日、一様之旗翻風、香之煙如雲似霞、供具盛物、亀足造花、作七宝荘厳せり、寔九品浄土となん云共恥へからさる事なり、
 
役者之次第
 
一 鎖龕 怡雲大和尚 一 掛真 玉仲大和尚 一 起龕 古渓大和尚

一 念誦 春屋大和尚 一 奠湯 明叔大和尚 一 奠茶 仙岳大和尚 一 拾骨 竹瀾大和尚 一 秉炬アコ 咲嶺和尚大禅師

其掲云 四十九年夢一場 威名説什麼存亡 請看火裡烏曇鉢 吹作梅花遍界香

即咲嶺より秀吉卿へ焼香なされ候へと有しかは、御次丸相共に焼香の体いとたうとかりけり、天正十年初冬望日巳刻奉無常之送畢、寔是一生別離之悲誰か不痛乎、秀吉卿涙落とも覚えぬに袖は雫にそなれりける、将軍の威気衣被天下歩古今、上奉 宸襟下憐愍兆民、仍忝立 勅使論官、奉惣見院殿贈大相国一品泰巌大居士、法事初りし日より毎日施行し給ふ事、一日の下行百弐十石宛十七日に至て満り、かくて御位牌所として建立一宇惣見院、同卵塔為作事料銀子千百枚渡之、其上永代無相違やうにと、寺領五十石大徳寺近辺におゐて現米五百斛を以買得し令寄附畢、無残所忠臣かなと心のそこより其比の俗オープンアクセス NDLJP:260感しあへりにけり、

評曰、秀吉の忠孝上に立へき御連枝もなく、下に双へき大臣もなし、依之天下を掌握し、富四海に溢、威古今に秀たり、豈天の助にあらさらんや、然四数代相つゝき家運尽る期有ましき事也、還て秀頼卿の亡ひさま後絶にし事なとつら思ふに、信長公の厚恩を深くおほさるゝにジツあらは、信孝を弑し被申ましき事一、信雄卿を秋田へ流し奉り、尾州勢州の御知行を奪取被申ましき事二、信忠卿の御子黄門を天下のシユとし、其身は周公旦を学ひ給ひなん事、理の正当たらんか、背理則背天也、背天則秀頼卿のやうに、何も子孫に付て天のとかめ有と見えたり、又秀次公のやうに背理事の甚しきは、其身に対し天のとかめ有もあり、畢竟忠孝の似せ物故、秀頼卿跡かたもなく後絶たるか、又秀吉日本国中検地し侍りて、諸人の安き事を奪取て、其身ひとり栄華に誇り、加階に付てもはゝかる所なかりしゆへにもあらんか是三、後の明君子細評して正し給はゝ万幸、

 或曰、唯理に背き給ひし一病故治世窮しき、

 
○長岡父子堅守信事
 
長岡兵部大輔藤孝は、信長公へ度々の忠義を勤られしかは、丹後の国守となし給へり、丹波と隣国なるに依て、藤孝の嫡子与一郎〈後号越中守〉を惟任聟にし侍れよと、信長公仰に依て、親しく有しなり、六月三日午前に於二条信長公御父子為光秀御腹めされしよし聞とひとしく、藤孝も与一郎もかみおろしなとし、落涙の体いとたうとく見えにけり、与一郎妻に向て云やうは、汝か父光秀は眼前主君のかたきなり、同室にかなふへからすとて、丹後の山中三戸野と云所へ、一色宗右衛門尉を付て送りけり、与一郎無二の忠義厳然たれは、情なこりもなく見えしに依て、愛別離苦のなけきこよなふ哀に見えし故、聞人さへに袖をしほらぬはなし、惟任は信長公御父子を弑し奉り、長岡父子へ急着陣有て、何事をもよきに相計給へよと飛脚しき波を立摂州幸に闕国なれは、知行せらるへき旨を堅く其沙汰に及へり、雖然一向其儀に与せす、還て弔合戦の勢に加りなんと、秀吉等へ羽檄を飛し云をくりしなり、惟任は其心さしの堅きをは露知らて、一方の大将に心あてなる処に、息女のかたより今度逆なる御裁判により、みつからも与一郎にわかれまいらせ、三戸野といふをそろしき山の中に、かすかなりしすまゐして侍るよし文来りけれは、光秀驚きあへりぬ、
 
○藤孝為信長公追善連歌之事
 
光秀を秀吉誅平け、御跡の仕置は秀吉勝家長秀信輝此四人として裁判有へきに定て、所司代をも初は四人より一人宛天下に置給へり、時うつり事去て世間且静かに見えしかは、藤孝博陸公の御ため百韻興行侍らんとて、七月廿日比上京し、即本能寺におゐて執行れけり、

  黒染の夕や名残袖の露                 藤孝

  玉まつる野の月の秋風                 白聖護院

  分かへるかけの松むし音に鳴て             紹巴

其比連歌の達者を集め興行有しなり、

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評曰、至忠をは天感し給ふかと見えたり、藤孝の子孫栄る事信長公の大臣多有し其中に、寛永の比まて八九人に過す、藤孝其内のひとりなり、長子忠興はキウ臣を或は旧功の労を報し、或其器を見立大臣になして、聊改易しつる事有しか共、つゝき侍る事は此人も家康公長尾景勝と鉾楯の折節堅き忠義有し故なるへし、

 
 
 

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