太閤記/巻十三
五人之奉行、〈浅野弾正少弼、徳善院玄以、増田右衛門尉、石田治部少輔長束大蔵大輔、〉等に相議し、其上を以可㆓相定㆒となり、去年夏東征のゝち、中々権威之懃りもて行
一万五千人 武蔵大納言殿 一万人 大和中納言 八千人 加賀宰相 三千人 穴津中将 千五百人 結城少将 千五百人 前尾張守法名常真 五千人 越後宰相 三千人 会津少将 二千人 常陸侍従 千五百人 伊達侍従 五百人 出羽侍従 二千人 金山侍従 八百人 松任侍従 八百人 八幡山京極侍従 百五十人 安房侍従 千人 羽柴河内侍従 千五百人 龍野侍従 六千人 北庄侍従舎弟美作守 二千人 村上周防守 千三百人 溝口伯耆守 五百人 木下宮内少輔 千人 水野下野守 千人 青木紀伊守 五百人 宇都宮弥三郎 二百二十人 秋田太郎 百五十人 津軽右京助 二百人 南部大膳大夫 百人 本多伊勢守 二百五十人 那須太郎 七百人 真田源吾父子 【 NDLJP:372】三百人 朽木河内守 五百人 石川玄番允 三百人 日禰野織部正 二百人 北条美濃守 千人 千石越前守 二百五十人 木下右衛門督 千人 伊藤長門守
合七万三千六百二十人
御六百五十人 富田左近将監 八百人 金森飛騨守 百七十人 峰屋大膳大夫 三百人 戸田武蔵守 三百五十人 奥山佐渡守 四百人 池田備中守 四百人 小出信濃守 五百人 津田長門守 二百人 上田左太郎 八百人 山崎左馬允 四百七十人 稲葉兵庫頭 二百人 市橋下総守 二百人 赤松上総守 三百人 羽柴下総守
合五千七百三(四イ)十人
御弓鉄炮衆二百人 大島雲八 二百五十人 野村肥後守 二百五十人 木下与右衛門尉 百七十五人 舟越五郎右衛門尉 二百五十人 伊藤弥吉 百三十人 宮木藤左衛門尉 百五十人 橋本伊賀守 百人 鈴木孫三郎 二百五十人 生熊源介
合千七百五十五人
御馬廻衆四千三百人 御傍衆六組 三千五百人 小姓衆六組 五百人 室町殿 八百人 御伽衆 千五百人 木下半介組 七百五十人 御使番衆 千二百人 御詰衆 八百五十人 鷹師衆 千五百人 中間以下
合一万四千九百人
御後備衆三百人 羽柴三吉侍従 五百人 長束大蔵大輔 百三十人 古田織部正 二百五十人 山崎右京進 二百人 蒔田権佐 百七十人 中江式部大輔 百三十人 生駒修理亮 百人 同主殿頭 百人 溝口大炊助 二百人 河尻肥前守 五十人 池田弥右衛門尉 百二十人 大塩与一郎 百五十人 木下右京助 百人 矢部豊後守 二百人 有馬万介後号玄蕃頭 百六十人 寺沢志摩守 四百人 寺西筑後守同次郎介 五百人 福原右馬助 二百人 竹中丹後守 二百七十人 長谷川右兵衛尉 百人 松岡右京進 七十人 川勝右兵衛尉 二百五十人 氏家志摩守 百五十人 同 内膳正 二百人 寺西勝兵衛尉 百人
合五千三百人
朝鮮国先掛御勢七千人 小西摂津守 五千人 対馬侍従 三千人 松浦刑部卿法印 二千人 有馬修理大夫 千人 大村新八郎 七百人 五島若狭守
【 NDLJP:373】 合一万八千七百人八千人 加藤主計頭 一万二千人 鍋島加賀守 八百人 相良宮内少輔
合一万九千八百(二万八百イ)人六千人 黒田甲斐守 六千人 羽柴豊後侍従
合一万二千人一万人 羽柴薩摩侍従 二千人 毛利壱岐守 千人 〈高橋九郎秋月三郎〉 千人 〈伊藤民部大輔島律又七郎〉
合一万四千人五千人 福島左衛門大夫 四千人 戸田民部少輔 七千二百人 蜂須賀河波守 三千人 羽柴土佐侍従 五千五百人 生駒雅楽頭
合二万四千七百人三万人 羽柴安芸宰相 一万人 同小早川侍従 千五百人 同久留米侍従 二千五百人 同柳川侍従 八百人 高橋主膳正 九百人 筑紫上野介
合四万五千七百人
朝鮮国都表出勢之衆一万人 備前宰相 三千人 増田右衛門尉 二千人 石田治部少輔 千二百人 大谷刑部少輔 二千人 前野但馬守 千人 加藤遠江守
合一万七(九イ)千二百人三千人 浅野左京大夫 千人 宮部兵部少輔 千五百人 南条左衛門督 八百五十人 木下備中守 四百人 垣屋新五郎 八百人 斎村左兵衛督 八百人 明石左近 五百人 別所豊後守 三千人 中村右衛門大夫 千四百人 郡上侍徒 八百人 服部采女正 四百人 一柳右近将監 三百人 竹中絶介 四百五十人 谷出羽守 三百五十人 石川肥後守
合一万五千五百(五百五十イ)人八千人 岐阜少将 三千五百人 羽柴丹後少将後号細川越中守
〈[#「越」は底本では「趣」]〉 五千人 羽柴東郷侍従元長谷川藤五郎也
三千五百人 木村常陸介 千人 小野木縫殿助 七百人 牧村(野)兵部大輔 五百人 岡本下野守 二百人 加須屋内膳正 二百人 片桐東市正 二百人 片桐主膳正 三百人 高田豊後守 二百人 藤懸三河守 百二十人 大田小源五 二百人 古田兵部少輔 三百人 新庄新三郎 二百五十人 早川主馬正 三百人 毛利兵部 千人 亀井武蔵守
合二万五千四百七十人
朝鮮国船手之勢千五百人 九鬼大隅守 二千人 藤堂左渡守 千五百人 脇坂中務少輔 千人 加藤左馬助 七百人 来島兄弟 二百五十人 菅平右衛門尉 千人 桑山小藤太同 小伝次 八百五十人 堀内安房守 六百五十人 杉若伝三郎
【 NDLJP:374】 合九千四百五十人
名護屋在陣勢合拾万二千四百十五人
朝鮮国渡海勢合二拾万五千五百七十人
都合三拾万七千九百八十五人
○朝鮮陣為㆓御用意㆒大船被㆓仰付㆒覚一東は常陸より南海を経て、四国九州に至て、海に添たる国々、北は秋田坂田より中国に至て、其国々之高拾万石に付て、大船二艘宛、用意可㆑有㆑之事、
一
一蔵納は高十万石に付て、大船三艘、中船五艘宛、作り可㆑申之事、
一舟之入用大形勘合候て、半分之通算用奉行方より請取可㆑申候、相残分は舟出来次第請取可㆑申之事、
一船頭は見計ひ次第、給米等相定め可㆑申事、
一水手一人に扶持方二人、此外妻子之扶持つかはし可㆑申之事、
一陣中小者中間以下、女扶持其者之宿々へつかはし可㆑申候、是は今度高麗名護屋へ立申候者、不㆑残如㆑此可㆑遣之事、
右条々無㆓相違㆒令㆓用意㆒、天正廿年之春、摂州播州泉州之浦々に令㆓着岸㆒、一左右可㆑有㆑之者也、
天正十九年正月廿日 秀吉
朝鮮陣軍役之定一四国九州は高一万石に付て六百人之事 一中国紀州辺は五百人 一五畿内四百人 一江州尾濃勢四ケ国は三百五十人 一遠三駿豆辺三百人、是より東は何も二百人たるへし 一若州より能州に至て其間三百人 一越後出羽辺二百人
右之分、来年極月に至て、大坂へ可㆑被㆓参着㆒候、出勢之日限重て可㆑被㆓仰出㆒候、守㆓其旨㆒宿陣不㆓指合㆒様に、成㆓其意㆒可㆑申者也、
天正十九年三月十五日 秀吉
○就一人数おし之事、六里を一日之行程とす、乍去在所之遠近、六里之内外、奉行計ひ次第たるへきなり、即宿奉行定之条、前後静論なく、万つ順路に可㆑有㆑之事、
一旅宿屋賃は出し申ましく候、薪秣等之代は、宿主と相対し出し可㆑申候事、
一津々浦々番等に有㆑之者、屋賃之義出し可㆑申候、鉄炮之者なとの義、其主人出し可㆑申候事
一とまり〳〵にて、扶持方馬之飼令㆓下行㆒之事、
【 NDLJP:375】一おしかひ狼藉追立夫、其外万
一泊々宿々にをひて、理不尽之義仕出すものあらは、当座にとかめかゝり、口論に及ましく候、其主人之仮名実名、能々記し付、其上を以可㆓相理
一何方におひても、いたつら者、一揆之徒党かましき様子あらは、ひそかに、告知すへし、一廉御褒美可㆑被㆑行之事、
一一里〳〵に、はやみち二人つゝをき候て、名護屋と、大坂との用所、早速相叶
右条々堅可㆑相㆓守此旨㆒、若違背之義あらは、奉行人迄告知せ可㆑申者也
文禄元年壬辰三月朔日より、先陣小西摂津守、賀藤主計頭、是を先として、毎日怠る日もなく打つゝく、其勢夥しさきもを消計也、漸々先勢も皆うち行けれは、同十六日将軍都を立て打せ給ふ、行列之法度正しき体、古今有ましき事になん侍るとて、見物の老若のゝしる声ちまたに洋溢せり、廿七日より跡備之勢、日々打つゝき、卯月五日六日比に行みちぬ、肥前国名護屋は、そのかみ松浦さよ姫か、
名護屋旅館御作事衆
一御本丸すきや 長谷河宗仁法眼
一山里すきや 石田木工頭
老松聳たりしを便として一興有、
一本丸より山里へうらの露地 寺西筑後守
一山里書院五間六間 太田和泉守
座敷何も狩野右京亮画㆑之尽㆑善也、
同所 御台所 河原長右衛門尉石河兵蔵
一山里おうへ十間
御座の間 西王母 右京亮画㆑之
筑山遺水等之体、ちとせをもへたるやうに苔むし、興を尽したる事、言舌のをよふへきなし、其次之前耕作之
一山里台所六間四間 観音寺
一山里御座之間 同人
児童之色絵有 長谷川平蔵図㆑之
庭前をのつからなる岩堀を用、自然之美景更にいはん言の葉もなし、尾州内津虎渓之山水も、是にはいかて増らしと思ふ、
一山里大台所九間十一間 石河兵蔵
取付に料理之間有
【 NDLJP:376】一山里局六間十三間 石田木工頭
間毎に花鳥之絵有
一山里局五間十五間 建部寿得
一同風呂屋 千石権兵衛尉
一同御蔵六間十間 戸田清左衛門尉
一同御蔵五間廿間 小西和泉守
一同北矢蔵 御牧勘兵衛尉
一同二之丸番所 同人
一同くの木作番所 同人
一山里くの木作御門 同人
一同二階門 石田木工頭
一同菜園 同人観音寺
一御本丸と二丸ノ間北之門 河原長右衛門尉
一同大手之門 御牧勘兵衛尉
右之わきに矢蔵有 観音寺
一同取付にも二階之矢蔵有 同人
一同四間五間之矢蔵 羽柴美作守
一同矢蔵〈四問十間西角〉 大和中納言
取付 二間三間 同人
一二之丸良角二階矢蔵四間五間 溝口伯耆守
一同殿守之下冠木門 大田和泉守
一同三階之矢蔵九間十二間 伊藤長門守
一同南ノ門三間七間 龍野侍従後領若狭国
一同升形七間四方石垣 同人
一同大手三階之鐘撞堂五間四間 羽柴五郎左衛門尉
一同大手東之矢蔵四間十間 長束大蔵大輔
一同北矢蔵四間八間 大和中納言
一同西方二階矢蔵四間十八間 浅野弾正少弼
一同南へ取付三間八間 同人
一二之丸大手矢蔵三聞十三間 鍋島伊平太
一三之丸西方矢蔵二間三間 羽柴河内守
一同冠木門 羽柴右近
一同西門三間八間 羽柴加賀宰相利家
一同西北 角矢蔵四間五間 同人
【 NDLJP:377】一同取付二間四間 同人
一同大手東
右作事等、其外之雑事に至るまて、結構を尽し、おひたゝしき事、中々言舌に絶る計なり、秀吉卿古今に独歩したる主君かなと、誉る声のみ多し、是心盲之人なり、又似たるを友とせし老人二三輩、思ふ事無㆑隔云かはしつゝ誹けるは、誠に此君は武勇智謀度量なとの広き事は、離倫絶類之功あり、国病にしては、日本之賊鬼也、検地をし侍りて、万人を悩し、兆民をせたけ、しほり取て、其身の栄耀を尽せり、勿論盛なる時は、己㆑に過分したる楽しみを極め、作したき事なと、一旦ほゐを遂る事は有けめと、天神地祇と云、直なる神のいまして、左様なる行ひを、にくみ給ひつゝ、こと〳〵しくたゝりをなし給ふ也、此とかめは、大臣小臣にも限らす、何れの上にも有と見えたり、易曰、天道虧㆑満、而益㆑謙、地道変㆑盈、而流㆑謙、鬼神害㆑盈、而福㆑謙、人道悪㆑盈、而好㆑謙とかや、伏見大坂之作事なとは、善尽し侍りても、聊はゆるす所も有ぬへし、これは仮の事なるを、万至極に及事、いかゝあらんや、かやうの事を讃人は、千人に九百九十人也、反之誹る智は、甚すくなく見ゆ、
○朝鮮陣人数賦之事敬白起請文前書之事
一船中軍評諚之義、各多分に付て其宜を、そだて可㆑申之事、
一誰々之船によらす、難義に及ひなは、可㆓助成㆒之事、
一珍しき敵之行あらは、互可㆓申談㆒之事、
一忠節之浅深、依怙贔負なく、有姿可㆓申上㆒之事、
一他人之労を盗み、我手柄なとに仕間敷事、
一物見之疾舟、一大将より二艘宛出し可㆑申事、
一名護屋御本陣ヘ注進仕候共、奉行衆之加判にて、可㆓申上㆒之事、
右条々相違有ましく候、若違背之義於㆑有㆑之者、八幡大菩薩、愛宕山大権現之御罰を能蒙へき者也、仍起請文如㆑件、
卯月十日 各連判にて、宛所は奉行衆也、
【 NDLJP:378】右馬助申けるは、評議相調互に目出事也、さらは酒を物し、船祝ひせんとて、折二合、樽三荷出しけり、九鬼尤可㆑然事にこそとて、湯漬なといとなみ、種々の肴彼是尽て、後は酒乱に成て、何方もうるはしき体、遊宴たり、佐渡守千秋楽は民を撫、万歳楽には命を延と、舞出、即座敷を立にけり、
○名護屋より各出船之事 先陣之大将、小西摂津守其勢二万、つゝく勢には、賀藤主計頭二万余騎、黒田中斐守二万余騎、其外二十万騎、卯月十二日名護屋を辰之刻に船を出し、石火矢をはなし立、鯨波を上、もやひの綱をとき、数千艘の帆柱ををし立、やざ声を挙、帆を上、何々とのゝしる声々、天地を動かす計なり、当浦を遥に出て、跡さきを見れは、多くの大船小船のかす〳〵に、家々の紋付たる幕を打まはし、思ひ〳〵の旗小指物にてかさりたてしかは、よし野山の春を当浦に移し、立田川の錦を海に流し入たるか如し、実心も空になり、古郷の事も忘れつゝ、扨もと思ふ計也、欵乃歌〈[#底本ルビ読取困難]〉、棹歌の声、多の船中を慰めしに、順風いと心よけに吹出、翌朝壱岐のかざ本の湊にそ着にける、とかふせしまに風かはり、滞留せしほとに、旬余いかりをもおこさゞりしか、卯月廿五日の暁かた、風少ふきよはりぬ、しかはあれど名残の波あらふして、海上いまた穏ならす、小西思ふやう海上をたやかになりなは、何れの船も出なん、向ふ風であらはこそ、いさ渡り見んとて、夜半のころ船を出し、対馬をさして急ぎけり、明る午の刻まて順風なりしに依て、対州豊崎に着しなり、残りの船共小西か舟見えさるに驚き、急き船を出せよ、なと、のゝしる内に、其日も漸午前に成ぬ、とやかくやとして船を出し、五六里も越つらんとおほしきに、又逆風に成て、かざ本へ戻にけり、小西も豊崎に着岸せしかひもなく、逆風をうらみ有し処に、空のけしき聊かはりしかは、船を出すへき用意して待居つゝ、卯月廿八日の酉之刻、海上も静かならねと、船を出し、釜山海へ着とひとしく打上り、町をおし破らんとせしに、敵二万余騎、矢ふすまを作てまちかけ射ける所を、鉄炮を以うちすくめ、おし立〳〵込入、終に二三之丸へ追入、本城を辰巳之刻に乗捕、上下八千五百除人、撫伐にしてけり、其外生捕之者二百余人、即此者に通辞を以、近辺の様子を問に、是より三十里戌亥に当てとくねぎと云城有と答ふ、小西打きゝ、諸士に向て云けるは、今朝尽㆓粉骨㆒無㆓比類㆒はたらき尤大切まり、然間今夜は是に休すへかむなれ共、此落城を先車のいましめとして、行をかへ用心きびしくしてんや、とても他之勢に渡すへき事に非す、いさとくねきを攻捕、他の国の名城を、一日のうちに、二ケ所攻ほし、多くの敵を討捕、日本に渡し、御所の御感に預らむやと、聊たゆむ気色も見えず、のゝしりけれは、何もうきやかに同しけり、さらは下々急其用意せよ馬の飼なとよきにこしらへよとて、其沙汰に及ひ、午之下刻に打出、とくねきに至て噇と時を作り立、町を打破しかは、釜山海之落城、諸勢を撫きりにしつるにやおそれけん、防き戦はんともせす、悉く落行にけり、小西主殿助、木戸作右衛門尉なと、手勢引つれ追懸、首九百余分取をもし、其夜は当城に陣をすへ、人馬の息をやすめにけり、其後ちくしうに敵多勢にて有よし、小西承届通辞にたより、敵の様子を尋ね侍るに、答ふ、左之如し、 【 NDLJP:379】○忠州城之事 都を守護せんために、忠州卒飛㆓羽檄㆒伸㆓微志㆒了、今度其表無㆓比類㆒、御手柄寔可㆑為㆓御当家無二之忠功㆒候、某令㆓越序㆒、渡海之義、其方先陣無㆓心許㆒存、今暁至㆓于釜山海㆒、明日其表令㆓参陣㆒、万事可㆓申談㆒候条不㆑詳候、恐々謹言
五月二日 秀家
小西摂津守殿
摂津守秀家之書簡令㆓拝見㆒、不斜悦つゝ、忝事此上有へし共覚えす、寔千騎万騎之ちからとは、かやうの事なんめりと、笑を含みにけり、賀藤主計頭は、小西に先陣をこされし事を、無念に思ひ、摂津守か進みし跡を打むも、心うき事に侍るらし、こもかいへ船を着、陸に上り、小西か事をとへは、かくなん答ふ、主計頭承りふかく怒りつゝ、今日よりは先陣人には、さすましき物をとなり、日本勢大略渡海せし由、とくねきへ注進ありしかは、小西思ふやう、忠州之城をも乗捕、弥抽忠懃はやと、弟にて侍り主殿助木戸作右衛門尉なと呼あつめ、御勢悉く渡海し、諸勢今明日之中参陣有へきとなり、いさ明朝忠州之城を忍ひ
評曰、大門あきつるを幸に、多は乱れ入なんに、宜しき法を云出、軍法正しくして都入せしは、一廉なり、寔泉州堺の地下人、如清か子としてかく有しは、尤長ある勇士ならんか、永禄の比はな譴をつきし人達は、おほかめれど、かやうの時しつまりかへり、法して入、異国に佳名有しはまれにこそ、
かくて洛中之体を見るに、人更になし、内裏に入て見れ共、監士宮門を守されは物さひてけり、小西先、外朝に在て、我勢を宜しく賦りをき、四門をも固め、番等きびしく沙汰し置、翌朝主計頭先手之勢進み来て、門を明よといひし時、是は小西都入之先陣して、大門をかため有しなり、用の事あらは、五三人は入べしと云しかは、立帰てかく告ぬ、賀藤打聞て、いきまきて腹を立、いや〳〵都に入なはあしかりなん、大王は退給ふ由なれは、せめて此行衛を追みんと、洛外に在て、其さまをだやかなり、
○王子を追掛奉る主計頭働之事 主計頭は、洛中評議の員(数イ)にも洩、王子を追懸とらへ奉らん工夫を費し、謀臣を呼集め計けるは、都入之先陣は某せんと、御法をも破り進にしか共、大河にさる程に、殿下の御母堂大政所は、御とし八そぢにたけさせ給ひしか、秀吉公こまの国へなむ渡らせ給ふにやと、おぼしわつらいせ給ふ、かしつき奉る人々、いやとよ肥前国なごやと云所におはしまし、諸侯大夫をのみさしこし給ふよし、御けしき取々になくさめたてまつると云共、それをけにとおほさず、六月半より例ならず見え給ひしか、日にそへおとろへさせ給ふ、秀次公より、とみの事、毎日つけさせ給ひし御せうそこも、いよ〳〵頼みなく聞えさせ給へは、秀吉公此わかれは、二たびなき事なり、いきのかよふ内に、いま一たび見たてまつり、かて立帰らせ給いんとて、これかれ御留主之事、家康卿利家などへ仰をかれ、七月廿二日をしあけかたの出しほに、御船にて上らせ給ひし、御跡の在陣衆、つとめ侍りし番所、左のことし、
○名護屋御留主在陣衆大和中納言 森右近大夫 勢州穴津少将 藤堂佐渡守 伊賀侍従 浅野弾正少弼 江州八幡侍従 同息左京大夫 播州龍野侍従 同舎弟木下宮内少輔 朽木河内守 小川土佐守 水野和泉守 伊藤長門守 伊藤弥吉 生熊源介 橋本伊賀守 千石権兵衛尉 河原長右衛門尉 石川出雲守 羽柴河内守 吉田又左衛門尉 日根野織部正 伏屋小兵衛尉 伏屋飛騨守 西川八左衛門尉 佐久間河内守 水野久右衛門尉 滝川豊前守 佐藤駿河守 鈴木孫三郎 大塚与一郎 鍋島伊平太 落合藤右衛門尉 鈴木孫一郎 蜂屋市左衛門尉 美濃部四郎三郎 安井次右衛門尉 吉田主水正 石河兵蔵 南部弥五八
関東衆
江戸大納言家康卿 会津侍従氏郷 結城少将 佐竹侍従 伊達侍従政宗 北条美濃守 北条助五郎 真田安房守 出羽侍従 真田源三郎 宇都宮弥三郎 成田下総守 那次衆 安房里見侍従 南部大膳 秋田太郎 北半介 佐野大夫 六卿衆 小介川治部少輔 小野寺孫十郎 滝沢又五郎 内越宮内少輔 三ノ屋伊勢守 高屋大次郎 由里衆四人
北国衆
羽柴加賀宰相利家 羽柴松任侍従長重 上杉越後宰相景勝 羽柴久太郎 羽柴美作守 青木紀伊守 溝口伯耆守 村上周防守
裏之御門番衆
【 NDLJP:383】一番 有馬中務卿法印大野木甚之丞 二番 石田木工頭大田和泉守 三番 長束大蔵大輔江州 観音寺 四番 寺沢志摩守御収勘兵衛尉
西之丸御前備衆
七百人 富田左近将監 八百人 金森飛騨守 二百人 蜂屋大膳大夫 三百五拾人 戸田武蔵守 三百五十人 奥山佐渡守 四百人 池田備中守 四百人 小出信濃守 五百人 津田長門守 二百人 上田主水正 八百人 山崎左馬允 五百人 稲葉兵庫頭 二百人 間島彦太郎 二百人 市橋下総守 二百人 赤松上総介 三百人 羽柴下総守
東二之丸御後備衆
三百人 羽柴三吉侍従 五百人 長束大蔵大輔 百五十人 古田織部正 二百五十人 山崎右京進 二百人 蒔田権佐 百七十人 生駒修理亮 百七十人 中江式部大輔 百人 生駒主殿亮 百人 溝江大炊助 二百人 河尻肥前守 五十人 池田弥右衛門尉 百二十人 大塩与一郎 百五十人 木下左京亮 百人 矢部豊後守 二百人 有馬玄番允 百七十人 寺沢志摩守 四百人 寺四筑後守同 次郎分 五百人 福原右馬助 二百人 竹中丹後守 二百七十人 長谷川右兵衛(尉イ) 百人 松岡右京進 七十人 河勝右兵衛尉 二百五十人 氏家志摩守 百五十人 氏家内膳正 百人 服部上佐守 二百人 寺西勝兵衛尉
右一日一夜宛無㆓懈怠㆒可㆑令㆓勤仕㆒者也
御本丸大手御門番衆
一番 服部土佐守 二番 塩屋駿河守建部寿徳
本丸裏表御門番衆
一番 中江式部大輔 二番 山崎右京進 三番 石田木工頭 四番 長谷川右兵衛尉 五番 石河備前守 六番 寺沢志摩守 七番 長束大蔵大輔 八番 服部土佐守 九番 蒔田権佐 十番 福原右馬助
右一日一夜宛堅可㆓相勤㆒者也
三之丸御番衆 御馬廻組
石川紀伊守 土橋右近将監 佐藤半介 金森掃部助 田丸勝八郎 今枝勝七郎 片岡喜藤次 中村七助 雲林院忠介 滝川助大郎 森村三平 坂井理右衛門尉 水野源左衛門尉 水谷次右衛門尉 坂井彦九郎 丹羽源大夫 落合新三 真田源次 山中五郎作 土肥久作 上田勝三郎 宮村清三郎 平井金十郎 立野孫十郎
【 NDLJP:384】 二番 中島組中島左兵衛尉 青山勝八郎 斎藤新五 村上太郎兵衛尉 坂井平八 長谷川宗次郎 小沢喜八郎 桑原勝介 吉田彦四郎 萱野弥三左衛門尉 池山新八郎 宇野伝十郎 水原彦三郎 矢野十左衛門尉 塩野屋宗四郎 長坂三十郎 郡十右衛門尉 高田源十郎 薄田伝右衛門尉 河原勝兵衛尉
甚内
三番 長束次郎兵衛組長束次郎兵衛尉木下小次郎 津田新八 赤座三右衛門尉 坂井平三郎 河副式部丞 一柳大六 安見甚七 岡村数馬助 山名市十郎 日比野小十郎 矢野源六郎 岸久七 広瀬加兵衛尉 大谷次郎右衛門尉 山羽虎蔵 長江藤十郎 山口三十郎 薄田源大郎 田中藤七郎 柘植次郎吉 五十表小平次 安西左伝次 山田半三郎 堺猪左衛門尉 田中三十郎
四番 桑原組桑原次右衛門尉 杉若藤次郎 木曽八郎大郎 多羅尾久八郎 村井吉兵衛尉 津田掃部助 平野九郎右衛門尉 河田九郎左衛門尉 平野新八郎 越智又十郎 前田大郎助 生熊丹左衛門尉 梶原兵七郎 中川長助 岡本清蔵 伊知地与四郎 大蔵五郎左衛門尉 岡本平吉 森権六郎
五番 中井組中井平右衛門尉 多賀長兵衛尉 松原五郎兵衛尉 溝口伝三郎 小出孫十郎 荒川助八郎 吉田三左衛門尉 吉田九一郎 石川長助 小原喜七郎 小崎兵右衛門尉 石尾与兵衛尉 山名勝七 安宅源八郎 矢野九郎次郎 薄田清左衛門尉 赤座藤八郎 松浦金平 茨木兵蔵 佐久間葵助 賀藤小助 吉田又七郎
六番 堀田組堀田図書助 上条民部大輔 野々村次兵衛尉 村瀬宗七郎 余語久三郎 伊木半七 賀藤清左衛門尉 大山勝兵衛尉 大津久兵衛尉 山本加兵衛尉 桑山市蔵 山田平兵衛尉 井上彦三 林猪兵衛尉 生熊与三郎 寺島久右衛門尉 矢野久三郎 団甚左衛門尉 村瀬喜八郎 吉田市蔵 粟屋弥四郎
本丸広間之番衆 馬廻組
伊藤丹後守 津田少兵衛尉 桑原将八郎 福原太郎左(右イ)衛門尉 木全又左衛門尉 長塩弥左衛門尉 吹田毛右衛門尉 村田将監 岡村弥右衛門尉 那須助左衛門尉 【 NDLJP:385】藤堂勝右衛門尉 上原次郎右衛門尉 三上大蔵丞 酒井助允 小栗助兵衛尉 三牧太郎右衛門尉 岡田勝五郎 尾関喜介 津田新右衛門尉 清水弥左衛門尉 竹内虎介 高橋弥三郎 吉田次兵衛尉 吉田彦六郎 松井新介 柴田弥五左衛門尉 三村九郎左衛門尉 山口藤左衛門尉 村上兵部丞
二番 河井組河井九兵衛尉 三好孫九郎 森宗兵衛尉 三好新右衛門尉 生駒若狭守 三好為三 石河忠左衛門尉 佐々喜藤次 生駒孫介 植柘平右衛門尉 飯沼五右衛門尉 跡部佐左衛門尉 宮島甚五右衛門尉 河井次右衛門尉 寺西半左衛門尉 加須屋与十郎 伊藤長蔵 能勢宇右衛門尉 林喜兵太 林助十郎 林長次郎 生島佐十郎 三宅善兵衛尉 溝口新介
三番 真野組真野蔵人 赤松次郎太郎 津田小平次 赤松伊豆守 小崎新四郎 堀田三左衛門尉 大田平蔵 堀田部介 平彦作 桜木新六 塚井新右衛門尉 堀田権八郎 佐々権左衛門尉 木村藤介 河北算三郎 清水喜右衛門尉 平塚因幡守 乾彦九郎 今井兵部丞 貝塚五兵衛尉 朽木六兵衛尉 真野左大郎 平野甚介
四番 佐藤組佐藤隠岐守 伊丹兵庫頭 長谷川甚兵衛尉 小笠原左京大夫 竹腰三郎左衛門尉 大屋三右衛門尉 福富平兵衛尉 赤座弥六郎 上野中務少輔 飯沼金蔵 安部仙三郎 河村図書助 飯沼二(仁イ)右衛門尉 寺町宗左衛門尉 大屋助三郎 青木善右衛門尉 河村彦三 佐藤助三郎 余田源三郎 橋本九右衛門尉 古田宗四郎 寺町新介 古田宗五郎 安見新五郎 飯尾兵左衛門尉 寺町孫四郎 佐藤孫六郎 舟津九郎右衛門尉 赤部長介
五番 尼子組尼子三郎左衛門尉 春日九兵衛尉 東条紀伊守 中村掃部助 高橋三右衛門尉 進藤新次郎 永原孫左衛門尉 山岡修理亮 上田勘左(右イ)衛門尉 三好助兵衛尉 井上新介 梅原伝左衛門尉 河毛九郎左衛門尉 田那部小伝次 野間久左衛門尉 青木左京進 渡辺九郎左衛門尉 河毛源三郎 岳村与八郎 松田源兵衛尉 水原又進 河副源次郎 伊藤半左衛門尉 田那部与左衛門尉 河毛勝次郎 野間長次郎 斎藤吉兵衛尉 荒木助右衛門尉 賀藤弥平太
六番 速水組速水甲斐守 佐々孫十郎 白樫主馬助 白樫三郎左衛門尉 山中又左衛門尉 渡辺半右衛門尉 本郷少左衛門尉 小坂助六 千秋又三郎 夫問甚次郎 北村宗左衛門尉 藪田伊賀守 森藤右衛門尉 森村左衛門尉 篠原又一郎 萱野左大夫 佐々十左衛門尉 佐々喜三郎 山内善助 山本太郎右衛門尉 宮崎半四郎 青山助六 竹内源介 南見孫介 安居伝右衛門尉 北村五助 鈴村与三右衛門尉
【 NDLJP:386】 右一日一夜宛無㆓懈怠㆒可㆑令㆓勤仕㆒者也
七月廿二日 御朱印
御母堂大政所、御異例日々におとろへさせ給ふに因て、医師衆評之上、其趣を秀次公へ申上あかは、毎日御注進有、将軍は御気色の様子被㆓聞召届㆒、扨はちかつかせ給ふにやとて、七月廿二日名護屋を立出させ給ひ、船頭明石与次兵衛を被㆓召出㆒、被㆓仰付㆒候は、今度御上洛継㆓夜於日㆒急思召間、精を出し水手巳下無㆓油断㆒可㆓申付㆒旨、直に被㆓仰付㆒し也、毛利右馬頭輝元は、其比朝鮮在陣也、長子左京大夫秀元は、幼少故在国せしか、名護屋為㆓御見舞㆒、参上し侍りぬ、秀吉公御機嫌にて、則上方可㆑被㆓召連㆒之御上意にて、船中供奉し侍る、然処に秀吉公御座船、豊前国内裏之沖、爼板瀬といふ難所へむかひしかは、自然御一大事も可㆑有㆑之哉と、右京大夫心を付乗し舟を急ける処に、如㆑案彼瀬へ乗かけ、御船難儀に及ひ、船中過半沈水す、秀吉公御一命危く見えさせ給ひ、数百艘の供舟周章騒く半、右京舟を御座船へ乗よせ、是ヘ御移候へと申上る、秀吉公御機嫌にて、則秀元舟へ御移被㆑成、其時右京大夫を被㆑任㆓宰相㆒、御聟に可㆑被㆑成と、直御約束御懇情之御感不㆑斜、さて明石を被㆓召出㆒、只今の仕合いかにと、御気色悪き処に、あはてつゝ申上候は、此難所兼て承及候へ共、中国悉御敵に罷成候由申間、むかひの地を伝ひ、御船を上せ可㆑申と存候内に、如㆑此御座候と申上しかは、秀吉公御腹立之余、中国殿の船に移り、一命を助る、扨々言語に及かたき申分かなとて、則内裏の浜にして、明石与次兵衛首を被㆑列にけり、斯て昼夜を分ず、急かせ給ふ程に、同月晦日に上着し給ひつゝ、大政所へ入せ、いかにやと間はせ給へは、はや廿五日薨し給ふと、申上ぬるとひとしく絶入給ひてけり、医師等人こゝち出来給ふ御薬を、すゝめ奉れは、おほつかなきさまして、いまた御涙もみえす、あきれさせ給ひぬ、しはし有て、御なみたしは〳〵止さりき、かくても果ぬ事なれは、まつ広間へいて給ふて仰けるは、此度御最期の御いとまこひ不㆑申事も、高麗もろこしを征してんと思ひしに依てなり、一入御残多侍るとて、くり返し〳〵悔給へともかひぞなき、御取おさめの事、大徳寺へ其旨被㆓仰出㆒、古今けつかうなる例にまかせ、とふらひ奉りたき由、徳善院玄以を以て、玉仲和尚に被㆓仰付㆒にけり、依㆑之善尽し美つくしたる作善、とかう申に及れす、其後又九州に赴かせ給ひけり
この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。