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太閤記 巻二
 
 
○因幡国取鳥落城之事
 

天正九年六月廿五日羽柴筑前守秀吉卿数万之軍兵を卒し、播州姫路を打立、至因幡国在々所々一宇も不残令放火給ふ、取鳥の城には従毛利輝元吉川式部少輔隆久森下出羽入道道与中村対馬守春次等を籠置けり、抑此城と申は、高山峨々と独立し、西北は滄海漫々として不深、山下に湊川を帯にし、其便尤よし、因之容易攻干へきやうも無りけり、秀吉卿廿六日の夜軍評諚し仰けるは、先遠巻に陣を取可相攻となり、其故は二十町余を隔て新城を拵へ、塀櫓番所等まて厳く囲ひなし、夜番当番透間も更になかりけり、又芸州より加勢の船を可入ための要害有、秀吉卿東の方なる高山に攀上り、四方を看得し、則其山を本陣に相定られ、総軍の陣取をも定めつゝ仰けるは、敵は小勢なるそ、一人も不洩可討果とて、四方の攻口、人数の手賦、并法制等能に沙汰し、廿八日の朝より、ひたと取寄る、其勢三重四重に及へり、持楯搔楯亀甲を突よせ、夜に入は弓鉄炮火矢等隙もなく、鯨波山海を動し、矢叫声響天地計に夥しけれは、女童は絶入にけり、四方の攻日より鉄炮をつるへ立、曳曳声を挙しかは、城中にもまけしとや思ひけんつるへ返しけれ共、城外の鉄炮に比すれは、百分一にも及はされは最侘し、附城の御普請は七月朔日より鋤初有しか、十日比には早塀槽二階門堀等まて出来にけり、寔に文王之霊台の不日にして成せしにも近かるへし也、角て杉原七郎左衛門尉を入置、敵城二ケ所の新城と、取鳥との間を取切、通路なかりしかは、本城も新城も事外にぞよはりける、斯て湊川には舟橋を掛、乱杭をふり、四方に堀をほり、鹿垣を結廻し十町に三階の矢くらを立、騎馬の武士二十人、究竟の射手百人、鉄炮百挺つゝ籠置、五町に番所を作り、番士五六十人つゝ、入替、夜番廻番蟻の熊野参りする如く、隙透問もなく見えにけり、本陣の鐘時を告れは、大将陣の太皷、櫓々の小太皷、一度に打出いとかまひそし、夜々の廻番数々の挑灯松明、行かふ光のかけ、明かなれは、城中もしやの便も頼みなく、芸州の伝も中々思ひ切てそ有にける、陣取の後にも高く築地をつき廻し、後攻の用心兼てきひしけれは、彼と云是と云、城中の上下弥心ほそけに成て、身の行末の日数せまりけるこそ哀なれ、さて築地の内には十町計町屋を立並へ、因幡伯耆の商人軍市を立、おのかさまの営み、ウタヽ多して軍資乏き事なし、彼湯王の軍場にヲモムク市者不止、耕者不動と申せしも、角こそあらめと思知れけれ、いと有難かりし事共なり、海上を見れは、松井猪介荒木勘十郎船大将として、番船其数を知す、搔楯の外には家々の慕を張、櫓を上、昼夜の番固く勤めしかは、鳥の外通ふ物はなし、秀吉或夜話の御次てに、あはれ芸州より後攻せよかし、悉打果し直に広島(安芸国)へ押寄、城を攻落し厳島詣せんとそ勇み給ひける、又長陣の僻として、つれなるまゝ、思ふ事オープンアクセス NDLJP:243いはずしもあらぬ物なれは、秀吉は能大将かな、気味のよき事古今に秀たりと云慰み、酒呑て遊はんと云も有、又かやうに打つゝき労せは、身の行末いかゝあらんやと痛むも多かりけり、爰に哀を留しは、今度籠ぬる男女共、ニワカの事なるにより、十日廿日の糧のみ用意しけれは、程もなく餓に望み、餓莩の者若干其数を知す、雑人原無甲斐命を続んため、柵際まてよろほひ出、立端る形勢アリサマ、よろよはとし、たをれては立、たつては帰りかたふけ見えにける、寔に絵にかける餓鬼の、真黒にやせ衰へたる男女数多よろほひ来つゝ、もたへこかれ、ひらに引出し助てたへよと呼り叫ふ声、強に高くは聞えされ共、何となふ物悲しうそ覚えたる、中にも苅田せし稲かふをは、上食とや思ひけん、取々に争ひあふて気を取失ひし者もあり、後にはかやうの物も事尽て、牛馬をさし殺し食せしか、馬肉に酔て死るも有、馬肝を食ひ度思ひ、年来ひさうせし道具を持来て、是にかへてたひ候へよと侘悲む体も亦哀なり、是全民の為にして興す義兵にあらされは、かやうの報ひも、積りて、其行末いかゝあらんと心有は悔にけり、分ていと不便なるは、柵を乗越出んとせし餓鬼をは、鉄炮にてうち倒し侍るに、未死もやらて片息なる者を、男女こそつて或小刀菜刀、或かまを手々に持来て、続節をはなち、みとる事恰屠者か牛馬の皮を剥に得たるか如し、佳味は首に有やらん、奪あひ争ふ事甚し、云カレトコレト哀なる事共、たとへんとするに物なし、吉川式部少輔森下出羽入道道与中村対馬守相議しけるは、此急難を免るへきやうもなし、毛利家より救ひ給んと有し事共も度々偽に成来て、今は涸魚の身とせまれり、我々三人上下の糧且々有と云共罪もなき諸人を餓学に及はせ侍る事、極て不仁也、所詮秀吉卿降参し、我々諸人の命に代て、多くの人々を助んと思ふなりと、堅く評定して、福光小三郎を以申けるは、溽暑の比より当地御対陣有つるに、珍しき行にも及す箕裏の業空に似たり、然は今某共籠鳥ロウテウの身と成て空を恋るに便なし、諸人の餓挙不便なる事、とかう申に及れす、然間某等可切腹之条、籠城之者共悉く助け被下候やうに、浅野弥兵衛殿を以申上候へと也、即福光参て右之趣申けれは、浅野も哀とや思けん、涙を推へ御前に参し、かくと申上けるに、秀吉も感し給ひて、諸人の命に代んとコウ所、是誠に死すへき節を知、死を軽する義士也と、即応其望、老たる彼三人か父母并妻子、勿論雑人原の事は云にも及す、悉く可相助の由被仰渡しかば、福光立帰り御望の義相叶ひ、悉く可相助との事にて候と申けれは、寔に某等及仁死、諸人の命を助るのみならす、父母妻子まて相助る事、歎きの中の悦也、さらば明後日に可相究そ、其用意せよと云しかば、福光奉浅野弥兵衛殿へ参、明後日廿五日可切腹に極め申候、即三人以書簡申上候、願は美酒佳肴聊御芳情に預るにおひては、父母并に久々籠城の者の内、年寄たる者共に、盃を取かりし、暇乞致し度趣口上共に委く有しかは、尤安ほとの事なりとて、其返即及披露返簡に云、

御使札之旨令披露了、(畢イ)其城御両三主以一命代衆命の結構、秀吉甚以感被申、即柳十荷ホカイ十荷五種贈入候、御望之儀弥不相違之通、御両三人へ御意得可申候、恐々謹言、

オープンアクセス NDLJP:244      十一月廿三日    浅野弥兵衛尉

       福光小三郎殿参 回章

福光樽行器肴を広間にすへ並へしかは、則三人の衆、秀吉へ降るからは、若よりの賜を拝する礼あるへきとて、装束を着し、彼書簡を拝閱し、喜悦の眉を開き、諸卒不残呼並へ、今度籠城の中、度々の忠節昼夜の所労不処也、若越の囲みを出は、恩賞の地をも行ひ、互に可相喜に、かゝる暇乞に及事、楚歌を謡に等し、よし其も天命也、輝元に対しては忠死、諸人の命に代るは仁死なれは、何をか恨み何をか歎かんやとて、到来の酒を以、盃をさし廻し、諸卒を慰ぬる形勢、大将たる上の至極なるべきと、感情銘心腑、又見るへき人に非すとて、上下涙せきあへす、其日も漸クレぬれは、過こし方行末の有増など、夫婦相かたらひ、老父孩児の事など懇に頼みをき、形見の物残る方もなく云渡しつゝ、時を待こそ哀なれ、廿五日の早朝に、浅野殿へ可切腹と、検使を乞けれは、則堀尾茂助〈後号帯刀〉吉晴可参旨なり、堀尾も還使と打つれ参りけり、三人の者共より、検使へ使者を以申上けるは、頓て渡し可申城をは、けかし申ましく候、寺にて可切腹候条、直に寺へ御座候へと有しかは、堀尾も即寺へ参りける処に、三人の衆はや寺に在て、今度の望相叶、多くの者共を助け申事、身の喜不之、弥可然様に堀尾殿を頼入旨、思度計シドケなけに云捨、三人一度に声を上、腹十文字に搔切て、朝の露と成にけり、斯て家老の者共兼て用意やしたりけん、三人の頭を為実検御持参候へとて、箱を持出しかは、即箱に入、持参せんと思ふ処に、吉川か小性年の程十七八歳計に見えし坂田孫次郎と云し者、并福光小三郎進み申出けるは、恐かましき申事に候へ共、某は式部少輔か厚恩を蒙し者にて御坐候、於此世報謝すへき道もなし、某は此湊川に常々なれて河に得て候程に、三途の川の瀬ふみの為、御前をけかし候と、云もあへす、二人さしちかへ失にけり、主も臣も道尽し死を能せりとて、感せぬ者はなかりけり、志不浅者共なれは、此首をも五の数にして、堀尾持参し言上してけれは、秀吉も涙を流し感し給ふ、城中の上下、久敷米穀に飢て、俄に米粒を食すれは、還て死する物なれは、粥を煮て小器一つゝ食せよと、あまた奉行を出し、よき程に制し給へは、死する者もなし、寔秀吉卿は、不人之仁心を発し、雑人原迄斯御心賦り給ふ事、陰徳の陽報有へき人なりと、其臣皆頼母敷そ覚えたる、町人百姓等の朝煙をも難挙には、施行として、米三百石被下けれは、其儘鳥取に在も有、又他郷へも行、方々散々分々に成にけり、斯て城中町等に至て、掃除きらよく沙汰し、宮部善祥坊に、五万石の折紙を相添、思賜せられけり、〈至天正十二年因幡国一織領之〉町人百人等姓等今度籠城の急難をは、のかれしか共、力乏く餓死する者多よし、於姫地聞給ひ、施行として莫太の米を、出しあたへられしかは、悉く再蘇の悦をなしにけり、

 
○伯耆国羽衣ウヱ石岩倉両城後攻之事
 

去六月十月下旬取鳥の城を取巻昨日廿五日攻落し、諸卒の疲労不勝計_之、然間諸勢をも慰めんと思ふ処に、伯州南条勘兵衛尉か居城羽衣石、小鴨左衛門尉か居城岩倉を攻んとて、吉川駿河守元春多勢を卒し、伯耆国へ打越、彼両城を可攻干之用意甚急也と告来オープンアクセス NDLJP:245る、秀吉おほし給ふは、於取鳥の城諸卒久々疲労せしかは、困窮さこそと痛みにけり、雖然彼両城を不相救、則敵に気を被呑事、案の内なるへしと、被仰けれは、善祥坊其儀尤に存候、唯急き有御出勢勝負、南条小鴨か急難を救ひ給ひなは、信長公も感悦し給ふへしと諫にけり、秀吉もかく可有と兼て被存候つれ共、先諸人の気を休ん為に、評議し給ひしなり、秀吉能も諫ける物かな、さらは明朝打立、可急とて、先備の面々に其由触可申旨、増田仁右衛門尉に被仰付、其次へ誰々と次第を定められにけり、各ウケタマハり、其次第に任せ夜半よりおき出打しかは、秀吉の出馬は、午の刻なりしや、寔に打つゝきたる長陣、諸勢も疲れて見えけれ共、聊其労色もなく、勇にいさんて急しは、只秀吉つね諸卒を能愛し給ふ故なりしとかや、其夜は亀井新十郎〈後号武蔵守〉か居城因幡国鹿野に着陣し、翌日鎧畠と云所に陣取給ふ、吉川も敵之羸気を察し打囲んとや思ひけん、又遠攻にせんとや思ひけん、先馬山に宿陣せしなり、然処に蜂須賀小六郎木下平大夫其勢三千余騎をおさへとして、其近辺之在々所々、悉く令放火、兵粮米等監妨せさせ、則南条小鴨か城へそこめにける、然る上に、鉄炮之玉薬弓矢等、丈夫に籠置、弓銕炮之歩立三百人御合力有て、年内籠城之分別専一候、敵取還、合戦を挑み、決勝負と望侍共、必遠慮可然と諫給ひけり、両人申上けるは、何やうにも御下知を相守可申候、於因州永々御在陣おはしましつる上に、是まて御進発、殊更種々御合力、云旁以御厚恩高如由、深似海、常国ハ、自今月仲春日雪積り、馬之通ひも不安也、急御帰陣被成候やうにと、達て言上有しかは、応其義先々令帰陣、来春は早々遂進発、此表存分に可申付之条、可心緒之旨令堅約、霜月十一日至播州姫地帰陣給ふ、

 
○秀吉歳暮御礼之事
 
呼実乎日月如箭、今年も兵馬之ラウに、月日の過行事も不知しか、はや臘月も半せりとのゝしり出にけり、然は歳暮之御礼に、致参上とて、天正九年十二月廿日、姫地を立て、廿二日安土に至り、菅屋九右衛門尉堀久太郎両人を以、歳暮之御礼に罷越たる由、申上られしかば、信長公他に異にや思召けん、当年は辺域之逆徒を退治として、打つゝき苦労せしか共、其をも事とせす、奇特に来山せしよな、即両人筑前守所へ参て申候へ、於因幡伯耆久々令在陣、鳥取之城攻捕大将分之首三到来、其後南条小鴨か急難を相救の結構、誰か若焉乎とて、御感不斜也、昔之藤吉郎には非す、数国を領せし諸侯也、明朝饗膳可給の条、其意得を致し候へと仰られしかば、両人秀吉之宿所へ参て、其旨態懃に宣けれは、是は寔に恐多き御諚かな、還て冥加之程怖しく奉存候也、御返辞の義忝御諚共、とかう可申上やうもおはしまさゝる旨、其品よきに尽し、被仰上給候へ、即御広間まて御礼に登城申候はん、いさゝせ給へとて立出られにけり、両人は秀吉に先立て、御前にして、御諚之趣、筑前守に申聞せ候へは、辱奉存体事尽て見え申候、為御茶之御礼登山にて御坐候、雖然御前へは罷出申ましき旨におはしまし候と、言上致しけれは、かるしくも来たる物かなとて、御手をうたさせられ、久々見参しなく、床しう侍る程に、先今夜忍ひの対面すへし、其にまたせよとて、御袴めし給ひつゝ、筑前か、扨も久しやと、再三宣極暑の比極寒に至るまて、因幡伯耆におゐて、永々の苦労、オープンアクセス NDLJP:246衰老にも及はんやと、御心も安からさりしか、還てわかやきたるとて悦ひ給へは、辱なさに袖のぬるゝをも不覚けり、両国御物語之内に、御盃下され、此彼御懇にて、明朝登城あるへしと宣ひ、御暇被下けり、斯て明日之捧物、数多き事なれは、無相違やうに台にのせて、見せよと終夜用意有しかは、告渡八声の鳥催旦、進物之奉行共、はや持出、山下よりならへ置候へ、頓て出給はんとて、奉行共出し給へり、山下にて、信長公への進物は、道之左に、御若君たちへのは、右にならへ、其次々之進物は、如此せよと、被仰付、登山有けり、台の数二百余の事なれは、左右にならへつる台は、御門に入共、跡の台は、いまた山下に在、信長公殿守より御覧有て、坂に布引におしはへ見ゆるは、彼大気ものゝ筑前守か、進物の台なるへし、見よや者とて、打笑せ給ひける、見る者胆を消し、かやうなるおひたゝしき事は、始て見申候と申けれは、実にも山下より山上まて、台のつゝきたるを見し事は、我さへ無そとて、御気色事外に見え、大気者にをひては、天下無双之男なるへしと、笑を含ませ給ひつゝ、あの大気者には支竺を対治せよと、被仰付たり共、いなみはすましき気シヤウなりとて、御頂を摩させ給ふを見るさへ快気之心ほころひぬ、况微小の藤吉郎を被撰挙、敵国数多御心にカナひ、目出かりけれは、漢高祖韓信張良を以、数万の敵を挫しも、斯こそあらめと思ひ知れたれ、

評曰、知天下国家人の大に目出物は、才智勝たる人を、見立用ゐなすより、サカシなるはなし、其才智を見立る事、其人に一位も二位ヒも増されは見えぬ物なり、我才智は不及にして、可見知の能可用のなとゝ云る人あり、是壮人也、刀脇指の目利を、あやうしこしにも、見あてんと云か如し、中人以下い見る事も知事も有へきか、中人以上の人すら、難見、况上智之人をや、此地位にして、彼には事外明らかに、これには聊恨る所の有も亦あり、夫大なる功を立る人は、讃誹相交へたる人に在と、織田備州は此地位を好み給ひしとなり、去は和漢合符節する事あり、或時武帝下州郡求賢詔、其使命曰、蓋有非常之功必待非常之人、胡馬有奔蹤而致千里、士有負俗之累而立功名、と宜ひて賢を求ん為、異国へつかはし給ひし、使者に斯念を入仰られしは、和漢同し意味なるへきか、信長いまた三郎殿とて、十三歳之比、林佐渡守、青山与三右衛門尉、平手中務少輔、内藤勝介とて、父備後守殿より附まひらせし、四人の家老あり、三郎殿御行跡、物あらましう、古風に違へる所多しとて、彼家老の者共眉を顰め悔にけり、信長をつよく知給ひしは、父備州なりとかや、

信長十六歳之冬、林佐渡守か舘へ入まいらせ、各相議して、諫となしに、あまた所の国守の行ひ、其中にて能を語り聞せまひらせける、常々武勇にたくましき人の上左を聞給ふ時は、御気色よかりしかは、先上杉兼(謙歟)信の事より、語り初宜しからんとて、越後守兼信は、小勢を以多をクタく事度々也、此元軍法の正しきに在となん、又武田信玄も治国家、唯法度の正しく、理に合ふ事、肝要なりとて、此事に労せり、夫治国家の法あしけれは、士貧く民疲れぬる物とて、制法あり左の如し、

   定

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万事守倹約、驕を去、士の気味を耆(嗜歟)申事

仰於仏神事は、心を誠にし神慮に合はんやう専にすへし、費金銀立堂塔事は、無益の事

妻子の衣類壱万石所持の士は、京染等の小袖、五千石より下は薄板、五百石より下は紬、百石之内外は、ぬのこたるへき事

傍輩中三人寄合雑談等の事苦からす、其外を過さは、為科代木綿廿端出すへき事

親族の間一とせの内、振廻之義二度、二汁三菜之外可停止之事

武具馬具は其分限に順ひ嗜可申事

拙僧分国之内、不卑俗凡下之輩正士之器量、万之司に成へき者あらは、密に可告知之事

百姓訴等にも限す、万事に付て贔負偏頗有之ましき事

喧嘩は双方可曲言事、能間柄を云妨なと致す者あらは、密々に可告知之事

戦場法度候者、可生害候、雖然十之物十可勝利相極候はゝ、可其宜歟の事

賞罰取行候中、拙僧加私意事於之者、以書付知之、縦未究の儀たり共苦しからさる事

  右信玄制法ケ条の内也、三郎殿是を見給ふて、御同心の体不浅見えしとなり、

又斎藤山城守道三行ひは、斯有し、松永弾正少弼久秀は此行ひ也、毛利右馬頭元就は三百貫の分限たりしか、武勇智謀を以并敵国後は十二ケ国余領せしなりと語りしかは、常のさまには事替て、しめやかに聞給ひ、暫黙止つゝ被仰ける、兼(謙歟)信は古今稀なる武将たるへしや、信玄は其上に立んや、其下に並はんや、何れも我先手の大将にせまほしきそかし、松永は能代官男なり、理に暁く正理にうとく(正理無得)有へしや、然るにより義輝を弑せしなり、斎藤か行をよしとせは、上下義理を失して、禽獣に近く成へし、毛利を讃美せは、下術に慣ひ、偽かちに成て、実すくなく、親族朋友にもうとまれなんす、信玄に法行はゝ、国家厳法に苦て、人心刻薄し、好乱の患あらんか、予か望み思ふ所は少し異なり、唯武勇の道に達し、権謀に精しく、国柱にも立ん輩を得まく欲す、国守の手廻よきと云は、知人より大なるはなし、此外宜しき事あらは聞まほしと被仰けれは、家老衆ウケタマハり、さゝやきけるは、三つ子に髯のはへたる如き事を宣ふ物かな、仰られし品々は、金言なれ共、徳行は其十分一もあるましき物をとて、悔つゝ立出にけり、寔に信長弱年より、大なる御望ふかゝりしにより、秀吉を得給ひしなり、かくても御用ゐやう虚ならは実なかるへきか、湯王伊尹を舟楫の如く能用られしやうに有し故、備前播磨美作因幡伯耆五ケ国を、三とせか程に退治せられしを、信長御気色にて、秦の将王翦か亡敵帰しに始皇悦ひ、李牧平凱凱旋せしかは、漢皇甚叡感有しやうに感し給ふ、

或曰、此段ハ知人、実に任しぬれは、数国を并せ領するに、はかの行事順風之船、下坂之オープンアクセス NDLJP:248車の如く、有事を能知て、云るなるへし、去は信長美濃国を始て平治し給ひて、先藤吉殿に三千貫の地を恩賜有しは、明君也、如此有てより如飛龍在_天、ときめき給へ共、旧臣恨みかほなる事もなかりしなり、是偏に秀吉卿の才智高き故にもあらんか、又信長公聊も無私心其器に随ひ、取立給ふに因て、旧臣の無恨、秀吉卿忠功の志厚シアツかりしゆへ、逐年御懇に寵し給ひしかは、莫太の功は速成し侍りき、惜乎信長、儒学に精くありなは、久栄に有へき物を、

筑前守山上し給ひて御太刀〈一腰国久〉銀子千枚御小袖〈百〉鞍置馬〈十疋〉播州之土産杉原〈三百東〉なめし〈二百枚〉明石千鯛〈千ケ〉野里鋳物色々蜘蛸〈三千連〉何も台にすへしかは、御広間に余りつゝ、庭上亦満々たり、人皆有ましき事を見るやうにそ訇けり、信長御出有て、一々御覧なされ甚御感あり御連子簾中方へ、銀子三百枚、御小袖それに台につみならへ、上られけれは、おひたゝしき事なりとて、弥御気色なり、かくて、御茶可下旨にて、六畳布の御座敷に、波岸の絵万歳、大海之茶入をかさらせ給ふて、御相伴は丹羽五郎左衛門尉長秀長谷川丹波守医師道三也、秀吉を請し入させられ、残三人もめし入させられ、饗膳給り、手つから御茶を点し被下しかは、寔忝奉存体徹骨髄見えにけり御茶過了て、書院へ出させられ、種々の御物語有て、御暇たうてけり、其晩何も御礼に登城有けれは、即御対面なされ、秀吉へは急帰国可然旨にて、御暇被下しか、翌朝国次の御脇指、先考備後守殿形見なれはとて、堀久太郎に持せ、恩賜有ぬ、即令頂戴頓て登山し、辱奉存旨、御礼いと濃かなり、寔に君君たり臣臣たりし事、とかう申に及れす、

 
○淡路島平均之事
 
信長公より淡路可退治之旨、筑前守池田勝九郎両人へ被仰付しかは、天正九年辛巳十一月十五日令渡海、安宅河内守か居城、由良之城を八重十重打かこみ、弓鉄炮を射入打入、凱歌おひたゝし、山海ひゝき渡て、かまひすしけれは、城中之女童なとは、もたへかなしみけり、安宅思ふやう、行々とても運を開くへき便もなし、唯降人と成て、属信長公之幕下、武功をも励み見んと令思惟、蜂須賀彦右衛門尉伊木清兵衛尉以羽柴殿池田殿へ申けるは、向後対信長公忠功之条、以御取成御宥助候やうに、偏に奉頼旨也、両人承り、其望におゐては、城を被相渡候へ、於其義て、信長公へ奉伺候はんと有しかは、即渡申へきとなり、其旨以飛脚窺けるに、能に可相計之旨被仰出けり、然間城を請取、池田は安宅河内守を安土山へ同道し、御礼申上させ候はんと、船に乗しなり、秀吉は播州姫地へ帰城したまふ、安宅安土に参着し、御礼申上しかは、安堵の御教書を頂戴し、十二月二日帰国せしなり、
 
 
 

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