目次
 
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太閤記 巻十六
 
 小瀬甫菴道喜輯録
 
○吉野花御見物之事
 
文禄三年〈甲午〉二月廿五日吉野の花、御覧あるへきとて大坂を立出させ給ふ、秀吉公例之作り鬚に眉作らせ鉄黒なり、供奉之人々我もと、美麗を尽し、わかやかなる出立なれは、見物群集せり、廿七日紀州六田の橋を打渡り、市之坂に至て上らせ給へは、新宅有、大和中納言秀俊卿より立させ給へる御茶屋にて侍るよし申ければ、則立寄せ給ふ、饗膳なと上られけれは、御心よけに、すゝみまいらせられ、其より千本の桜、花園、桜田、ぬたの山、かくれがの松なとオープンアクセス NDLJP:416御覧有て、秀吉公かくそ詠し給ふ、

吉野山梢のはなのいろにおとろかれぬる雪のあけほの

    又関屋のはなの本にて

芳野山誰とむるとはなけれともこよひもはなのかけにやとらん

木々ははな莓路は雪とみよしのゝ分あかぬ山の春のそてかな         関白秀次公

桜ちる木々の梢のにしき着てよしのゝ山を分かへるなり           右大臣晴季

ちりそふもよしやおしまし芳野山花を木かけの雪となかめて         中納言秀俊

   関屋の花を

芳野山木の本毎に関すゑてもるとはなきも花にやすらふ           准三宮道澄

御芳野やはなは深雪とふり茂みおひもなつまぬ木々の下草          三位法印玄旨

あけほのゝ雪とや見えんよしの山ときは木まても花のあらしに        紹巴

こたへせぬはなにそといむよしの山むかしもかゝる春にあふやと       昌叱

白雪をまつわけそめて芳野山おく猶おもふ花さかりかな           大納言輝資

よゝのはる君にひかれてもろこしの吉野の奥のはなをこそ見れ        中山大納言親綱

雪のいろも春の詠めの芳野山梢のはなやけふを待らん            右衛門督永孝

乙女子か袖をもかへせ芳野山稀にはなみる人をまちえて           中納言雅枝

かく短冊あそはし其後かねの鳥居、仁王門をとをらせ給ふて、蔵王堂サワウダウへ御参詣ましけり、秀俊卿より旅舘舞台を立をかれけるに依て、立よらせ給へり、去共御能はなし、是より、桜岳、後醍醐天皇の皇居ありけるを御覧有て、今熊野、たつてん山、聖天山、弁才天山など通らせ給ひて、昔義経のしばらく、おはしましける吉水城を旅舘となし、両日御滞座あり、供の人々前後左右御番きひしく勤め侍れは、なにの子細や在て、堅く番をいたし候哉、小姓計詰候へと宣ひて、諸侯大夫馬廻など、自分の花見をゆるやかに物し候へとて、樽肴たふてけり、

   二月廿九日 御歌会

  詠五首和歌

花の願   いつしかと思ひをくりし芳野山の花をけふしも見そめぬる哉 秀吉公

不散花風  春風の吹とも花は且さきてあつ心にしなかめけるかな

滝の上の花 滝津波下すいかたのよしのやま梢の花のさかりなるかな

神前の花  春はなを神のめぐみの桜はなまふでゝみるや御芳野の山

花の祝   乙女子か袖ふる山に千年へてなかめにあかし花の色香を

花の願   年月を心に懸し御芳野の花の木かけにしはしやすらふ    関白秀次公

不散花風  かた分てなひく柳も咲いつる花にいとはぬ春の朝風

滝の上の花 みるか内に槙のしつえもしつみけり芳野の滝の花のあらしに

神の前の花 ちはやふる神やみるらん芳野山から紅のはなのたもとを

オープンアクセス NDLJP:417花の祝   おさまれる代のかたちこそみよしのゝ花にしつやも情くむ声

花のねかひ いそかれてさけと待ぬる花と又をしむ心はいつくならまし  右大臣晴季

不散花風  うつろはぬ木々の梢をさそふらし花の香はかり送るやまかせ

滝の上の花 咲つゝく上より落て芳野山はなにせかれて滝のしら波

神の前の花 人こゝろへたてもなしや神垣の花のしらゆふあかぬ色かな

花の祝   うへ添て千年のはるを契りをかん花も老せぬかけをならへて

華の願   四時おなしいろにもさきつれておもふはかりの花のうへかな

花をちらさぬ風 さそはすはなを吹とてもいとはめや花にみえたる春の夕かせ 権大納言親綱

滝の上の花 御芳野やさなから花を水の上になして落そふ滝のしらなみ

神の前の花 けふといへは大宮人の袖ふれて神のいかきの花を見るかな

花のいはひ 移しうゑてあかぬ心に立なれんはなの千年も君かまに

花のねかひ かけたかき雲井の花にみよしのゝ山をさなから移てしかな  権大納言輝資

不散花風  霞をは吹はらひては心あるやはなにさはらぬ春の山かせ

滝の上の花 岩ふれてみなきり落る滝の上のはなの梢はいかてたをらむ

神の前の花 春はなを袖ふりはへて行かふも花にみち有神のひろまへ

花の祝   色も香も替らぬ花の木の本に幾代の春を立なれて見む

花のねかひ まちかぬる花も色香を顕して咲や芳野の春雨のをと     大納言家康卿

不散花風  咲花を散さしと思ふ御芳野は心あるへき春の山風

滝の上の花 花のいろ春より後も忘めや水上遠き滝のしら波

神の前の花 年の華の砌のよしの山うら山敷もすめる神垣

花の祝   君か代は千とせの春も芳野山はなにちきりは限りあらしな

花の願   年に来てもみねとも御芳野のはなに心を懸ぬ間もなき 権中納言秀保

不散花風  はるはたゝ風に心をつくすかな芳野の山の花をふくやと

滝の上の花 水上はいつく成らん御芳野の滝に落そふ花のしらなみ

神の前の花 みわたせは芳野の山は白妙に花の色こき神かきのうち

花の祝   天地のめくみもふかき君か代は花も幾春みよし野の山

花のねかひ み芳のゝ花の盛りをみぬ人にみせはやとのみ思ふばかりそ  権中納言秀俊

不散花風  よし野山梢をわたる春かせもちらさぬ花をいかてたをらん

滝の上の花 水上に花やちるらんみよし野のたきの白たま色におちそふ

神前の花  芳野山奥の宮井に立つゝくかすみを花のいかきなりけり

花の祝   君か代はたゝしかもけりみよしのゝ花にをとせぬ峰の松かせ

花のねかひ 春ことに心をかけてみよし野の花の色かをまちそかねぬる  参議中納言秀家

不散花風  風吹と花にはよけよ芳野やまわか身ひとつの春にはあらねと

滝の上の花 見よしのや花の匂ひも高峰より霞にもるゝたきのしら糸

オープンアクセス NDLJP:418神前花   植をきし神のいかきの花さかり代々ふるためし春を契らん

花の祝   白妙によしのゝ山はさくら花ちとせふるとも忘られんやは

花の願   花咲と心をかけすよしのやままたこん春を思ひやるにも   参議左近衛中将利家

不散花風  ちらさしとおもふ桜の花の枝よしのゝ里は風もふかしな

滝の上の花 ちる花に滝の白波ましはりて雪かとみねの雲そかゝれる

神の前の花 ちはやふる神のめくみにかなひてそけふみ芳のゝ花をみる哉

花の祝   よしの山花のさかりの久しきに君かよはひはかきりあらしな

花の願   花の木の限しられぬみよしのをこゝのかさねにうつしてし哉 近衛中将雅枝

不散花風  春風も心あれはやさかりなる花はさそはぬみよしのゝおく

滝上花   滝つせのうへよりみえて吉野山なかれも出ぬ花のしらなみ

神の前の花 神の世にうつし植てやよしの山いかきにたてる花の木たかき

花の祝   おさまれる代の春なれは花もなを君をそまたん御芳野の山

花のねかひ 春ならぬ時もかはらて桜はなさかは来てみんみよしのゝ山  右衛門督永孝

不散花風  山かせも心ありてやたゆむらん枝もうこかぬ花のさかりは

滝の上の花 水上の花のにしきををのつからをるやよしのゝたきの白糸

神の前の花 咲花にぬさとりそへて神かきや長閑にかよふ春のみや人

花の祝   花にめてゝ心のはへはとしもつきせぬ春になをやなれみん

花のねかひ おなしくはあかぬ心にまかせつゝちらさて花をみるよしも哉 侍従政宗

不散花風  とをくみし花の梢もにほふなり枝にしられぬ風やふくらん

上の花 よしの山たきつなかれに花ちれは井せきにかゝる浪そ立そふ

神の前の花 むかし誰ふかき心の根さしにてこの神かきのはなをうへけん

花の祝   君かためよしのゝ山の槙の葉のときはに花のいろやそはまし

花のねかひ 花の春くるゝかきりのなくもかなよし野の桜あくまてはみん 准三宮道澄

不散花風  御芳野のよしやうらみし花盛ちらさぬ華の風のやとりは

滝の上の花 石はしる滝の水上まさるやとみしは嵐の花のしら波

神の前の花 神垣にうへをく花はをのつからとしたえぬたむけ也けり

花の祝   かたの花みる人の往来にもおさまれる代の程はしるしも

花のねかひ 年月のねかひもみちぬ芳野山奥かおくなる花をとめ来て   入道前内大臣常真

不散花風  おさめしは君か心やあふかましかせ吹ぬ世の花につけても

滝の上の華 行水のはやくの事もおもひ出て袖をそひたす花の滝なみ

神の前の花 ちはやふる神のみまへの杉むらにかけてそ祈る花のしらゆふ

花の祝   あくまても詠やせまし年の春のたへすは花もたえせし

花のねかひ 玉きわる我老らくの花もかな君か千とせの春毎にみむ    法印全宗

不散花風  立かくす霞のうちの花のいろちらぬはかせのたよりにそみる

オープンアクセス NDLJP:419滝の上の花 石はしる滝つ流に落つもる花はみなからあはとこそなれ

神前の華  なへて世のちりに交はる誓をも花にみせたる神かきのうち

花の祝   むすこけのあを根か嶺の花盛こすえはさらに十かへりの松

花のねかひ 花にけふ心はなきぬ春毎におもひやりにしみよしのゝ山   法眼紹巴

不散花風  御船山華のにしきのよそひしてのとけき春の風やまつらん

滝の上の花 滝の上もあさからぬかな芳野山雨のなこりの花のしつけさ

神の前の華 杉むらのみとりの色もをしなへてあけのいかきに花や咲らむ

花の祝   うへそふか芳野の奥の山桜花のさかりは万代まてに

花の願   芳野山花の木たちををのつから都のうちに移しをかはや   法眼由已

不散花風  咲花のちるともみえぬ御芳野の山の外をやかせはふくらむ

滝の上の花 よしの川ちりそふ華の滝波に嶺の雲さへなかれてそ行

神前の花  心なき人やたをらん花の色をみや木もりなるみよしのゝ山

花の祝   芳野山千とせの後も春をへて君かよはひに花もあはなん

花のねかひ あらましに送来つゝも春をへし花をけふこそみよしのゝ山  法橋昌叱

不散花風  芳野山すゝ吹風も霞てや花のにほひにあけ渡るらん

滝の上の花 水上の花咲色に滝の糸もからくれなゐをふり出す哉

神の前の花 移ろはん色ともさらにみつかきのひさしき春に花もならひて

花の祝   その上のはるを思へは行すゑもなをいつまての花のみよし野

御歌の会の翌日山上の花色異なりけれは

      紅葉せぬ松の葉こしの花の色に家路忘れて千代もへぬへし

こもりの宮のもとにてよみ侍る 折にふれ今をさかりの花のいろ雲井につゝく桜木のみや

      山松のかせやへたてゝ霞らむかけに桜のちるよしもかな

      ひたすらにかこちもやらす散は咲雨より後の花のみよし野  関白秀次公

      色も香も名にめてゝみむをのつからちる桜あれは桜木の宮  右大臣晴季

      ちれは又桜木の宮の花に来てなを奥ふかき春をたつねん   法印全宗

上の蔵王宮にて 帰らしとおもふ家路を入あひの鐘こそ花のうらみなりけれ  秀吉公

同     いそかれぬ道成けりな芳野山木のもと毎の花のにほひに   中納言秀俊

 
○高野詣之事
 
三月三日秀吉公高野へ御登山なされ、青巌寺に御寄宿まして、二親尊霊のため、御焼香いかにも懇に沙汰し給ひけり、かくて一山八千人の僧徒被召寄、御母堂の御志として、八木セイ々給りにけり、御孝行之至甚以不浅、奥院へ参詣し給ふに、莓苔埋人跡、左右之塔婆朽るもあれは、又新しく立添、実に無は数そふ世の慣ひ、瞭然たり、こゝかしこ無常体の外はなき故にや、何となふ物さひて、さなから罪障之塵垢も消、真如平等の松風に、心を清むへく覚え給ふとなり、寔に聞しにもこへ、殊勝なる霊地なりと、感し給ひつゝ、金堂大塔を伏おかみ、おオープンアクセス NDLJP:420はしますか、金堂既に大破に及ひけれは、吾登山こそ幸なれ、再興有へきとて、八木一万石被宛行畢、則木食興山上人請取奉り、其沙汰に及ひけり、四日の夜宣ふは、今度出来侍る新謡五番御能遊し、一山の衆徒に見せ、学問之労を慰めむと也、其旨役者之者共に触候へと仰出されしに、木下半介奉り、金春大夫其外役人共に申渡ししかは、五日之未明より、青巌寺門前に参りにけり、今日は一天に雲もなく、四方に風もなふして、いとをたやかなれは、何も役人共舞台に着座、色はへて見えにけり、一山の上下能めつしらさに、老若押合、門の外より内に入むと、せきあふ事見るめさへ痛みぬ、笛のねとりなと、ほのめきけれは、大かたしつまりかへり、御能初りけるに、事外に出来つゝ、袖ふり大やうに、おさしけれは、見る人皆興さめてけり、抑高野山は昔より笛太鼓つゝみ、大師の制禁にして、一向左様之沙汰なかりしなり、高野詣と云新謡の舞のうちより、空のけしき聊かはり侍るよと、云もし見えもし侍るうちに、乾の方より黒雲一村おほひ出たり、見るがうちに天地頓に震動し、雷電夥しく鳴出、疾風甚雨、しぶき横きり、肝魂も消はて、是はと互に目を見合、息はつみ身の毛もよたつて、恐れさるはすくなし、秀吉公も壮年の昔より高野山之事、かく聞及はせ給ひしか共、かやうの事は何之地にても、其あらましをことしく伝へのゝしれ共、実はなき事とおほされしに依て、御仕舞なされ候へ共、如此之霊験に驚、いそき下山し給ふて、兵庫之寺に御泊候ひしか、さても弘法は人間に在し時、心剛に徳厚かりし人なむめり、今度は高野山に対し、如形善尽し侍りしかは、うれしくおはしまさん事にて侍るに、けふの雷電なとは、以外之たゝりさすかなりけるなり、権者にて有つるよと感し給へり、

評曰、此感尤よし、おしゐかな、其暁しさにて民を悪むは、国主の勤めなり、此勤相違すれは、天のとかめはけちくして、後目出からぬ物としり給はぬは、いと不審なる事共なり、

又或曰、いや左ではなし、能心を付て見給へ、此一トホリに其智足て、彼にはうとき智有物なり、器の如し、賢聖の智は、大形全して、欠る事なからんか、

 
○於大坂新謡御能之事
 

同三月十五日大坂本丸におゐて、由己法橋〈播州人也〉新作の謡、芳野花見高野参詣、明智、柴田、北条、此五番、金春八郎に仕舞を沙汰し候へと、兼て被仰付、其伝を受させ給ひ、御能を遊し、簾中がたへ見せ参らせられ候はんためとかや、五番のゝち、金春二番舞候へ共、さすか物なれたる上手なるに依て、出来し侍らさりし、弥​本マヽ​​吉​​ ​公御気色にて有つる

評曰、女房達なとに威を封し、事外に仕舞をも自嫚し侍りし事、暁しき君にはいかゞ敷有つれ共、吉公の才芸すくれたる故にや、其誹もなかりしなり、凡て才厚き人は、何事もめてたき物なり、第一天之与し給ふ意味ありけると見えたり、心盲なる人は爰に至らすして、却て此意味をさみし下さんか、

 
○利家亭御成之事
 
羽柴筑前守利家、去々年より御成之望有て、千宗易に書院之指図なと相談せられ、作事等おひたゝしく勤めしか、日数漸累り大形調りしかは、浅野弾正少弼を以、来卯月八日御成を申オープンアクセス NDLJP:421上度旨、天正十七年三月九日被言上けれは、則応其旨成せらるへきとの御事也、浅野翌日十日之朝利家之宿所へ参扣し、急度其旨演説有しかは、利家忝奉存旨、浅野と同道有て申上られけり、漸卯月にも成し故、六日大坂より御上洛有て、施薬院に一両日おはしまし、式掌の御用意にて、慈照院殿御成之記録など被尋出、供奉には公家衆諸大夫等也、如此は皆馬上鳥帽子着、前後左右に列侍りしなり、   初日之進上

一御太刀長光 一御馬金覆輪鞍置て 一しらか糸二百斤 一御小袖五拾内十唐織 一鈍子二十巻

御酌は永岡越中守、羽柴肥前守、蒲生飛騨守、加は、羽柴孫四郎、丹羽五郎左衛門尉、森右近大輔也、是又東山殿御成之記録に応して如此、御かはらけたひめくり、御酒宴さまの興あり、幸若八郎九郎二番舞し後、御はやし五番有しか、何も出来侍りて、御気色事之外なり、

  翌日九日之進上

一御腰物吉光 一銀子 千枚 一絹 二百疋

利家長臣之面々、二十一人、太刀折紙にて御礼申上しかは、則御かはらけたふて、晩日御機嫌よく還御なされにけり、

 
○秀吉公有馬御湯治之事
 
卯月廿九日御湯治に付て、れきの御伽衆十九人被召列、御慰のかす云はんかもなし、御逗留中方々より捧物其数をしらす、有馬中へ鳥目二百貫、湯女ユナ共に五十貫被下、谷中のにきはひいと目出見えし、五月十二日御上り被成けり、
 
呂尊ルスンより渡る壺之事
 

泉州堺津屋助右衛門と云し町人、小琉球呂尊へ去年の夏相渡〈文禄甲午〉七月廿日帰朝せしか、其比堺之代官は石田空助にて有し故、奏者として唐の傘蠟燭千挺生たる麝香二疋上奉り、御礼申上、則真壺五十懸御目しかは、事外御機嫌にて、西之丸の広間に並へつゝ、千宗易なとにも御相談有て、上中下段々に代を付させられ、札を押、所望之面々たれによらす執候へと被仰出なり、依之望の人々、西丸に祇候いたし、代付にまかせ、五六日之内に悉く取候て、三つ残りしを取て帰り侍らんと、代官の杢助に菜屋申けれは、吉公其旨聞召、其代をつかはし取て置候へと、被仰しかは、金子請取奉りぬ、助右衛門五六日之内に徳人と成にけり、

 
○雍州之伏見殿下居城に御定之事
 
文禄三年正月三日伏見を御城に可成に付て、普請奉行何れか宜しかるへきそ、しるし上候へと、増田石田などにのたまひしかは、十三人しるし付上けれは、其中を六人撰出されし人々は、佐久間河内守、滝川豊前守、佐藤駿河守、水野亀助、石尾与兵衛尉、竹中貞右衛門尉也、五人之奉行之者に役人共、二月朔日に於伏見着到にあひ候やうに上せ可申旨、国守等にふれ候へと有しかは、各奉り廻文に及ひ、六人之普請奉行を召て被仰渡けるは、伏見普請之儀オープンアクセス NDLJP:422由断申付候へ、かねて可入物共、目録を以増田石田長東などに令相談用意候へ、万はかの行やうに有へぎむねなりしかは、六人之者共、是は忝仰には御座候へ其、小知小見之身を以、莫太なる御普請之儀いかゝおはしまし候へきと、御理申上しかとも不相叶御請を致し、役人之帳を五奉行之面々へ請取候はんと云けれは、廿五万人之帳をそ渡しける、かくて六人よりも、二月朔日以前至于伏見参着有之様にと、各諸大名衆へ廻文に及ひき、抑伏見之境地は、南は宇治川心のゆく所に流れつゝ、着船の便よし、北は洛外に打続、在家幾重ともなく引廻し、売買の便いとにきはひ、東は町に添、ひつ川なかれにけり、古人之歌に

 ひつ河の端に生たるかばさくらちるこそ花のとちめなりけれ

となん、長巳より引廻し青山峨々と聳岐、径路松柏生茂りたり、其洞に醐醍寺有之、遠寺晩鐘を貢す、其みねに引つゝき、僧喜撰か住し由もちかゝりし、則喜撰か岳と云伝ふるなり、をしならひて三室戸と云高山聳つゝ、老松琴を吟し、夜わたる猿のこゑいとわびし、麓なる寺院、三十三所の順礼札をうつ観音堂あり、順礼歌とて昔より、

 夜もすがら月を見むろも明行ば宇治の川瀬に立はしら波

見渡せは朝日山共いはす月さし出て、川辺も一きはいさぎよく、千鳥こゝかしこをとつれにけり、平等院扇の芝、塔之島、山吹瀬、宇治おち、かたうらの蔵松、真木の釣月、ふしみの指月、其景いつれか、ましおとりせる、西は八幡、山崎、狐河、淀、一口イモアラヒ、長江ゆうとして、船の上下、遠浦帰帆、漁村夕照、さまの興、府君の詠を催し貢す、伏見におゐて、代々歌人よみをける中に、御製にかはりて月宮の心を、西行か、

 ふして見は玉の覚もあたならむ月のみやこの影たかき代に

如此種々さまの風景と云、屯難チユンナンの方角、多と云城所におほし定められけるも、又不宣乎、

評曰、如此多景備りし所とは、昔よりおほされけめど、時により其慮出来侍るにや、天下半治りし時は大坂、全備にちかゝりし時は聚楽、日本はをきぬ、高麗までしたがへ給ひてよりは、伏見を城墎に定められし事いとかしこし、寔に其初中後其時に応する事、能々沉思すへし、及はれぬきはあらんか、

文禄三年二月初比より、廿五万人之着到にて、醍醐山科比叡山雲母キラヽ坂より、大石を引出す事夥し、伏見には堀普請に勢を分て掘せけるに、奉行衆打かはり、見舞しかば、はかの行事中々申もおろかなり、其外材木は、木曽の谷々土佐の嶺々にて、大木を伐置けれは、又の年の夏の洪水に、をのつから流出ぬ、誠に天公も助成し給ふやと、疑れにけり、如此手廻し無油断相勤ぬる由聞召、六人奉行に加増之地恩賜有けれは、伝聞すゑまても聊労をもいとはす、奉公の勤懈怠なし、年月も累り来て、石垣二重三重出来けれは、はや御台所長屋など立て、作事此彼に急なり、山下の河辺に二十丈に山を筑上、諸木を植ならへ、枝を争ひ深山のことし、松柏生茂りし中に、堂塔伽藍を立並へ、号学文所古今すきの御講尺あり、朱光古市播磨守、宗珠、宗悟、紹鴎か風と、千宗易、北向之道珍などか流と引合、其中の宜しきに付、沙汰しオープンアクセス NDLJP:423候へしと説給へり、山里には沉香の長木を以、四畳半と、二畳半あきに、すきやを立、此道すける面々に御茶を被下、茶道の講尺ましけり、囲炉裡緑も沉香なるに依て、焼火なと物し給へは、潤衣異香ハラツリテてかうはしけれは、心も空に成ぬ、

 
○醍醐之花見
 
夫惟、原本題目之上提頭有太閤記三字今削之与前文密着白髪は貴賤を不分、月は雲を不除、花は風を不厭、死は時を期せぬ習、目前なり、いさ此春は北政所に、醍醐の花を見せしめ、環堵の室を出やらぬ女共にも、いみしき春に合せ、胸の霞をはらし、一栄一楽に世を忘れさせんと、思ひ寄しなり、いかゝ有へきと徳善院玄以に被仰談し時、尤宜しき御催にておはしまさんと申上しかは、御気色なり、さらは其あらましを、はやく政所へ告侍りて、あまたの日数を、楽しましめんとて、尼孝蔵主をもつて仰られしは、三月十五日醍醐の花見を催され候はん、政所殿も見物あるへきよし申候へと宣ふにより、則孝蔵主まいり侍りてかくと申上しかは、一入めつらしき事なるべしと、御うれしさのあまりに、御ふみを以仰上らる、

一筆申上まいらせ候、此春だいごの春にあひ候へとの御をとづれ、こよなふ御うれしく存まいらせ候、誠にうつしゑの花にのみ、としとし山家の花をながめ、春をくらし侍りつる、あさからぬ御さた共、いとめてたく存しまいらせ候、局もめしつれ候へのよし、積りぬる鬱々を、だいごの山の春風に、ちらしすてん事、おさしき恩風にてこそ候へくはしは、孝蔵主申上候はんまゝ、筆をとめまいらせ候、めてたくかしこ

     正月十五日       北政所内 小少将

           参る 人々申給へ

  醍醐御普請之覚

三宝院小破之所をば可修理也、大破なる所は新儀に立直し、たゝみ以下も、あたらしく可申付候事、

院外五十町四方、三町に一ケ所宛、番所を立、弓鉄炮之者を置、かたく番を沙汰し可申事

伏見よも醍醐に至て、道の両辺に埓を結せ、可申事、

寺々宿札を打候て、破壊之所あらば、可修理之事、

院内院外、掃除念を入可申付之事、

振舞等其外、万潤沢に可之事、

百姓以下往還之旅人等、不迷惑様に可之之事、

右堅可申付者也

 慶長三年戊戌正月廿日      徳善院玄以僧正

      浅野弾正少弼殿 増田右衛門尉殿 石田治部少輔殿 長束大蔵大輔殿

 
○醍醐惣構近辺之御奉行衆
 

 大津宰相        福島左衛門大夫        増田右衛門尉

 右三人として、供之上下みだりかはしき事なきやうに可相計之、

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○惣構之内へ出入人々奉行事
 

 山中山城守       中江式部大輔

 右両人として人を撰み、御用人之外一切出入可停止者也、

御幸山を、はヾかり給ひつゝ、一首かくなん、

 名をもかへあらためてみん御幸山花はむかしにかはらさりけり  秀吉公

 万代をふるや御幸の山さくら松に小松の色をそへつゝ      木食興山上人

となん祝したてまつる

  御輿之次第

一番 政所殿            御こしそひかしら小出播磨守 田中兵部大輔

二番 西之丸                  木下周防守 石河掃部助

三番 松之丸                  朽木河内守 石田木工頭

四番 三之丸                  平塚因幡守 太田和泉守

五番 加賀殿利家卿之息女                河原長右衛門尉吉田豊後守

六番 東御方    但利家卿女中

三実院におひて、御成まして、こしそひの諸侍なと返しつかはし、及夕日下々めしつれ可相越との御事なり、則此院にて右之御うへ将東かへ給ひしか、花やかなる粧いとおひたゝし、各思ひおもひの出立、異やうなるしな、いつれもはれならすと云事なし、これ、より寺々の名花、所々の花園まて、道の左右に埓をとをし、五色の段子のまんまくをうち、秀吉公父子其外上臈衆かちにて、いとしづかなる有さま、人間の住家にはあらざるにやと、おもはれて艶なり、麓には当山の鎮守たうとく物さひてけり、左には鐘楼堂あり、右には五重の塔婆有、桜にあらぬ諸木まて、木たち物ふりつゝ、又在へきとも覚えさりき、谷々の水落あふて、清き流の末々、魚の遊ひたはふれ、をのかさまなるを御覧しつゝ、尚楽あへりぬ、古き石の橋に枯木を欄干に、しつらひをのづから山路に事足て、寂莫たり、世にかゝつらひ、事しけき住家に事かはり、世のうき事を忘れつゝ、寔に七年の夜雨を悔しも、実理とこそ覚えたれ、石橋の左に当て、さひ渡りたる堂に、益田少将此所を便りとして、茶屋をいとなみ一献すゝめ奉る、殿下御気色在しなり、二三町山上し給へは、谷の右左り咲も残らす、散そめもせぬ、花あまたにして、実枝をならさぬ風、香を吹送りしかは、温問此上あるへきとも更に覚えさりけり、心ある御供之中に、

 聞説醍醐花世界、見来此処雪乾坤、

 又有人の あめか下残らぬ花の盛には山より山や風にほふらん

となんよめりけり、

上なか下の人々長閑やかにうちみえ、あはれ此日を山の端よぎて、入すもかなとかねことの願もふかく、花に戯れ水に心をすましめ慰給ふ、御心のうち当なふこそみえにけれ、

仙洞にも、けふは風も心し雨もはれ、長閑なる花をみるらむとて、広橋中納言を勅使につかオープンアクセス NDLJP:425はされしかは、摂家衆も清花のかたもことく使者まいらせられにけり、御供にあらぬ諸侯大夫、京堺の歴々より、折作物珍物尽其員名酒には加賀の菊酒、麻地酒、其外天野、平野、奈良の僧坊酒、尾の道、児島、博多之煉、江川酒等を捧奉り、院内に充て院外に溢にけり、寔に門前市をなすとは過にしかたも、かやうの事有て俗云初けるかやと思はれしなり、岩下聊平かなる所に松杉の大木、椎檜の老木数千本茂りあふて、日影を知ぬ地有、新庄雑斎是を奇なりと悦ひつゝ、茶屋を建置、物さひたる茶具なとを以御茶を上奉りぬ、殿下一入に興し給ふ、三番に小川土佐守茶屋を営みしか、是は前の両人に事替て、手のこもりたる事をもし侍らす、三間廿間にあらましき、かやふきして、垣はよしを以かこひこめ、そさうなる畳をしき渡し、幕屏風をあまた所に置けり、其外九尺四方ヨホウに、いと気たかく作りなせるかやふきの辻堂有しか、荷なひ茶やと云物に茶具あり、只渇を補はんためとみえつるに、殿下此所にしはしおはしまし、てくる坊の上手、あやつりの名人を長谷川宗仁を以召て、色々風流を尽へしと宣ひつゝ、各を慰め給ふ、秀吉公小川か倫をはなれたる作分なりと感し給ふ、土佐守茶屋より十五六町も上に、岩崛の便おかしき所あり、増田右衛門尉これに茶屋をしつらひ渡しつゝ、御父子の御座所、政所殿の旅舘、局々のおはし所、御行水所あまたこしらへてけり、はや午後に及ひしかは、殿下も御行水せまほしき折を得しかは頓て御装束脱給ふて、御湯をかゝらせつゝ御気色なり、御上々もゆると湯を物し給ひて後御膳を上奉りしか、御心よけに見えて、増田悦ひあへりぬ、其よりきさはしをのほりに歩行し給ひつゝ、御覧あれは、町屋耳、商売の物と見えて、ひなはりこ、櫛針畳紙糸やうの物なり、其裏屋に茶屋をさしかけにいとなみ、色々の道具を置合セ御心の行所おほし、書院に義之子昂か墨蹟、和筆は初の三蹟か歌書、山谷か硯を以かざりをきしかは、吉公亭主心有よなと、ふかみ給ひぬ、東なる谷を見渡し給へは、紅の糸をもつて、たくましくうちたる綱を永く引はへ、鈴をあまた所につけ、花にあつまる鳥をおふ、けにも兼載か護花鈴の発句に、

 鳥はなしあらしに付よ花の鈴、となん云置し事をもおほし合せ給ふて、弥御感有、又中将秀

頼卿の御慰のため、庭の遣水に、小舟を作り人形をのせ、岩に当りおとろきあへりぬる体は、唯人かと疑にけり、又巣鷹を作り餌乞の声を出し、とはへぬる体、たくめはけに工まるゝ物やと思はれぬ、これやうのあやつり物、おほかりけれは、羽林の御気嫌事外にそよかりける、五番徳善院玄以は、有へき式のかりやかた営み奉りぬ、いかにも大やうに、大体のよきを本意とせり、秀吉公立よらせ給ふて、折なと上り給ひつゝ返り給ふ、

 評曰、徳善院気象つね大体を本意として、こましき事なとは、強て不勤なり、

六番長束大蔵大輔茶屋は、晩日に及へきを兼て期せしに依て、御膳の用意なり、将軍この茶屋へ成せられ、饗膳あらは急き上よと仰しかは、大蔵大に悦ひ、則上奉る、政所殿其外之御上々いつれも御膳あかり給ふて、御機嫌いと宜しくおはしまし、各装束をかへさせ給ふに、異やうなる御出立もあり、又おほとかなるもあり、何も衣香撥当薫し、心も空になりぬ、方々よりの捧物なと披露有しかは、則ひらきたまふて、下々御下行有之、ゆると御休息オープンアクセス NDLJP:426ましつゝ、短冊をも御覧しなされ、褒貶之事なと委御沙汰、有七番御牧勘兵衛茶屋、是もけつかうを尽しけり、八番新庄東玉、種々の異風体をいとなみ、御機嫌を望にけり、鞍馬のふこおろしなとを沙汰し、其下に岩つたふ流を手水に用ひ、山居の興を尽せり、此茶屋をも御覧有て過させ給へは、よしありけなる柴垣なとしつらひ、竹の編戸したる茶屋あり、又町屋有、色々の売物をいたしおき、茶屋にやき餅有しを、御心よけに上りしかは、則おあしをと乞奉る、みせたなにありつる瓢簞を御腰に物し給へは、是もかはりを被下候やうにと乞つゝ茶屋のかゝ廿はかりなる二三人、両の御手にすかり、おあし給り候へ、すまさせ給へとて笑をふくみかけ申せは、秀吉公も殊外打ゑませ給ひつゝさらは算用をとけ御すまし有へきとて、内へ入給ひしか、勘定の声はなく御酒宴と見えて、目出たや松の下千世も幾千代、ちよなと云、小歌の声に夜いたく更行けれは、奉行共めし、能に申付よと被仰付立去給ふ、思へは我朝のせはき国の興さへ、甚以おひたゝしき事共也、さて唐玄宗後宮の花軍に戯れし風流之陣、隋煬帝か宮女を集め、花に月に興せし夜遊之庭、おひたゝしき事になん有へし、是よりは回翁のたのしみは、ふかき意味も有へしと思ふ人も有へし、秀頼卿より三宝院へ銀子二百枚小袖拾重、政所殿より鳥目百貫精糸二十疋まいらせらる、其外之御局かたよりも其沙汰おひたゝし、今度殿下三宝院万の馳走をのつからなるを、殊勝に覚しめし、新知千六百石寄附し給ふ、所は日野三ケ村勧修寺村笠取村小野村なり、来秋又紅葉を御覧あるへきと御約諾まして、還御なりにけも、

翌日目録を以醍醐之寺々、門前之下々、今度御供之人々、殊には八幡山比叡山愛宕山等之寺院なとへも、方々よりの捧物を分与し給ふ、伏見大坂之普請衆へも、酒肴恩賜有て、聊労を報し給へりき、

評曰、今度花見之事三月十五日たるへしと、兼ての御定にて有しに、上旬の比より風雨あらましく侍りしかは、いかゝ延給はんやとの、とりにて有し処に、十四日之暮かたより晴に赴き、十六日の暁天まて長閑に有しか、午前より雨そほちつゝ、廿日比まてしつかなる事なかりしなり、秀吉公の徳、天感の及へき事は、聊もなかりし、自然之天なるへし、太田和泉守記には、此事を天ことしう感し給ふやうに、記し侍りぬ、

 
○遊撃将軍日本再渡之事
 
大明正使参将謝用梓龍岩副使フス遊撃将軍宇愚ウグ両人小西摂津守同船にて八月晦日至大坂着岸せしかは、正使は羽柴備前中納言秀家所にて馳走可申、副使は蜂須賀阿波守所にしてもてなし候へとなり、九月朔日御礼申上、即大明之皇帝より御装束紅葉衣〈赤色〉袖紫緋大口献輸書  生物

孔雀 靡香 白象 黒象 唐犬

 織物

金襴百巻 段子 百端 五十巻 繻子二百巻 早綾サアヤ二百端 三十枚 豹皮 唐革 青皮 猩々皮

オープンアクセス NDLJP:427大明之両使、宿より御城まての行列は唐の乗物にのり、盖をさし掛られ、笙筆篥笛太皷なとの鳴物にて、幢をさゝせて参りし也、千畳敷にして御対面、即饗膳給り、御茶過侍りて、御暇之時、忝旨しめやかに御礼取つくろひ立にけり、二日大坂を立伏見をさして上りけるに、午の刻より雨そぼち出しかば平方に泊りぬ、打続き大雨なるに依て逗留し、五日の日伏見上着、六日御城へ被召寄、饗膳被下、其後殿守へめされけり、青貝の刻橋を上りけれは、段々に以金銀瑩き立たる種々の調度、様々の屏風、𢁒帳御座敷の見事さ、興さめ詞も難及と感しけり、ヤガておりさせ給ふ、渇する事もやと山里へ物し給ふ、富田左近将監を亭主に定められ、麪子の御振廻にて有つるか、かよひはつゝ廿許なる美女を十五六人勝り出し、輝ばかりなる衣装にて、はなやかに出立せ給へは、露をふくめる花のかほばせ、風にしたかへる柳の姿共云つへし、頓て御酒宴始りてより、今やうの小歌など一やうにうたふて、時々一かなで物しけれは、唐使もわれからなく見えにけり、かくて御茶に成しかは、施薬院の手前にて御茶被下けるに、富田さゝやきけるは、同しくは小督の御かたか、おいまの御かたなとの手前ならは、一きは興あらんかしとなり、両使感悦し、御恩情に依、離苦得楽一世の初におはしまし候旨申上、謹て見えて立にけり、秀吉公朝鮮之帝王を帰朝させ給ひし事腹立給ふて、大明も朝鮮のことき虚演有へきとやおほしけん、今度は御返簡もなく唐使をも留給はて、早々に帰し給ひぬ、大明人上下三百余人舟にて下し給ふ、八日には堺の津へ着しかは、小西もてなし善尽しけり、九日滞留、十日に出船いたすべきと催し候所へ、増田右衛門尉御使として下向し、種々の御音信おびたゝしき事共なり、唐使立帰り忝旨御礼申上侍らんと云しを、増田固辞しけれは、順風に帆を挙、慶長元年壬辰九月十一日帰国してけり、

 
○土佐国寄船之事
 
土州長曽我部居城、ちようかの森、かつら浜、うら戸の湊より、十八里澳に夥しき大船、慶長元年九月八日寄来之旨、長曽我部方へ告来し也、即小船を仕立見せにつかはしけれは南蛮国より、のひすばんと云国へ、商買のため通ふ舟にて侍りけるか、甚風に遇て、楫折、船損じ先より塩入、水に渇し過半死して候、残て黒坊二百五十人しんによろ十人余、商人卅人許有、其外五百人余はかなく成しとなり、国主御憐愍に、水を被下候へかしと有し処、長曽我部より水は勿論、樽肴十五荷白米五十俵恩賜あり、かくて黒舟に番船二十艘付をき、翌日十日増田右衛門尉方へ飛羽檄其旨申上しかは、将軍事外なる御機嫌にてぞ有ける、即右衛門尉令下向之上候へと被仰付しかは、はや船に乗て下り行無程着船し、舟の大さを大工にうたせ見れは、長き事三十間横廿二間なり、カチの入たる穴の広さ、五畳布八帆ヤホハシラは風のために切折しとなり、残りたる所かいに余れり、かくて船中を改め見むと有し時、通辞の者さし出、是を精しく沙汰し給はゝ五六十日も御隙入候へし、積入申候時如此おはしまし候とて、其時か積日記を出しけれは、増田任其旨止ぬ、こざかしき者の云けるは、積日記之外私物に、か子共の積し物多く有べしとなり、長盛聞て此注文之面さへことしき事なるに、不入事をさし出申と白眼せしかば、おだやかなり、其日は注文を請取、元親館オープンアクセス NDLJP:428に帰て、此黒船の一艘分八段帆の小船いかほどに積大坂へ参るべきぞ、勘弁して先船を寄給候へと元親へ申けれは、通辞又商入などよびよせ、穿鑿精しくせしかば百五十艘に積候はんと申けり、さらば近き浦々明日より船をよせられ候へと、長盛沙汰しけれは、元親船奉行共に其旨申付、土州の浦々を改め七十艘よせぬ、其外は廻船可然候はんとて、阿波讃岐其島々へ奉行をつかはしけれは、八十艘余来りぬ、同九月廿日より注文の分、請取かゝり、十月二日に相究畢、かくて増田も翌日三日百五十艘を召連、ざゞめき渡て上りけるか、廿町許おし出してより順風に成て六日の晩に、大坂へ着にけり、即注文を以掛御目候処、不大形御悦喜にてぞ有ける、   注文

一上々繻子 むれう 五万端 一唐木綿      二十六万端 一金襴   純子  五万端 一白糸       十六万斤 一ゐんす  千五百内ひか三百 一麝香箱      一但二人持 一生たる庁香    十 一生たる猿     十五
  猿之輔車ツラカマチ黒く尾長く鼠尾に似たり
一鸚鵡       二

殿下注文之旨御覧まして禁中へ生たる鸚鵡一、二人持の麝香箱一、金襴純子二百端奉之、其外摂家清花諸侯大夫御馬廻等中間に至るまて、それに応し御支配いとおひたゝしき事になん有しなり、京堺大坂奈良の町人等にも被下、何方もにきはひわたり、長曽我部には、銀子五千枚其外色々諸侯なみに被下、家中のヲトナ共にも御配当有、増田にも銀子五百枚何もなみに種々拝領あり、黒船の者共に扶持方八百人分、酒肴薪毎日五百人之御下行にてそ有ける、船大工をも右衛門尉申付、しんによろあんじ好み侍るやうに、黒船を修理しとらせよと被仰付しかは、十月より明年正月に至て出来侍りしなり、因之帰朝之御暇申上けれは、可入物共を注文を取て、令下行つかはし可申旨なるに因て、注文を出し候へと長盛申つかはしけれは、八木五百石、ぶた百、鶏千疋と申上けり、秀吉公へ即其旨披露せし処、白米千石ふた二百疋鶏二千酒大樽百、種々の肴五十荷、饂飩之紛五百石、可下行旨被仰出しかは、増田奉て早速相調渡し侍れは、事外忝存知せし趣申上、三月初旬帰朝に赴きにけり、

 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。