目次
 
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太閤記 巻十八
 
 
○織田酒造丞
 

永禄之比、織田酒造丞サケノセウと云しは、尾州下郡人也、仁義之勇あくまてに真忠之志篤し、三州小豆坂七本鑓の其一人にして、進退カケヒキ之下知此人せしか、尤得自由たりしとかや、常々子共或親族或朋友などに対し諫られし事は、士者唯士の格あり、格外に労するは人非人也と、心の底より思ひしめ云しかは、人皆耻つゝ、其比之士風は錦之上にウスモノをおほひしやうにふかゝりき、格外之事に溺るゝ者をはいなみ思はれつれ共、家長たるものは、広く狭く衆を変せさらんは狭き事なりと、カタマシきをも捨かたく、怠りかちなるをも、其程に沙汰し置ぬ、朝夕望み思はるゝ品は、士之心一致し、十矢一矢之剛を立、戦功之誉を得まく欲し思へま、戦を挑みあふか、向城に在て番等を勤られし時も、自然之越度出来なは、酒造丞此表に在て如此之事有しなと云れん事、偏に耻辱なるへしと、惣軍中無恙やうに心を賦り、夜をしも更に閑にせす、或他之夜番他の遠見なとにも、自分之カチ士を相添、惣軍を己独のおもにのやうに労せしなり、是をかさ有勇士と云し也、最初ハナ鑓六度つき侍りしか、左様の事にも驕す、唯美婦人のやうに有しか、又云へき事におゐては、時々あらましうも有しと也、牢人を能あはれひ、身上をもすくひ立、主君の為によき人をは分て寵し、たのもしく有てもをのか党なく、貧窮を恤しか共、富つゝ、朝夕出入ぬる人々には、一汁一菜の振廻にてしとなけに大やうに有しか、諸人の難義なる事出来しかば、思ひ入たる見廻一入忝存せしやうに勤めをこなひしとかや、因之此人の下知をは誰もいなまんと思ふ心、露なかりしなり、

 
○松山新助
 
永禄年中に、松山新助と云し三好家におひて、爪牙之臣に備りし者は、其初本願寺に番士なとつとめ居たりしか、素姓ゆうにやさしく、毎物まめやかに、万の裁判もおさしう、小皷尺八早歌に達し、酒を愛して興有し者なり、其比泉州堺之津にして、三好家或方々之勇士、或其家々におゐて司有者共、此新助を呼出し、酒飲て浮世忘れん、互に戦場に可赴身なり、寔に無は数そふ世に在て、何を期せんや、唯隙々求め遊ひ戯れんと云つゝ、敵味方堺の南北に打寄、酒なと愛し興する時は、必松山をいさなひ出し慰しなり、かやうの次てに戦場の物オープンアクセス NDLJP:440かたりを好んて聞しか、行年三十五之比、武者修行して見んと思ふ心初て出来、三好家へ奉公に出、摂州有馬之南山田くつれと云しヲクレ合戦に、追付首一討捕し也、是より武家を経て駆挽之達者は松山なるへしと誉を得、其後は五千石余之地を知侍るに因て、名士を求め、傍輩のやうに寵愛し、二千余人之勢を進退せし也、其中に畿内におひで隠れなき者を且記すに、郡兵大夫林又兵衛〈鑓林と謂れしは此者也〉中村新兵衛〈鑓中村是なり〉三田弥九郎、具弟九郎三郎、中西権兵衛、成合又大夫、神谷甚八郎、井中蛙助、市田鹿目カナメノ介、小河新右衛門、林源太郎、桑原久井之助なと云し、一人当千共いはれつへう覚えたる兵共数多抱へ置、腹臣之養に愛せし故、相随ふ事、恰骨節之相救ふか如し、凡新介志の程を老人語しは、自他共に戦功あらん事を思ひ入、貧士には取分親しみ深かりし也、
 
○中条小一郎
 
永禄之初、あまたゝひ戦功重累せしかは、其家々之長子十二三歳之比、具足を着せ給り候やうに頼入し時は、近所に下方左近、岡田助右衛門尉なと御入候、是宜しからむと功をゆつり、十人に一人ならては其需に応せさりし也、十六歳之春手柄なる太刀うちをし、膝の口をわられ、行歩も不叶しを、織田孫三郎殿聘し置れしか、海津合戦に最初ハナ鑓をつきしなり、
 
○竹中半兵衛尉
 
此竹中は濃州菩提之城主にして、安藤伊賀守か聟也、従十四五歳之比武略之智人に替り、何事も平人之及へき行ひも多はなく、眼さしなとも一簾有て、度量は江海に等く、のどめる心かちに見え、暁かりし事おこかましき事打交へつゝ、極て云へき所もなかりしなり、爾々物をもいはさりしか、偶云へは理に当れり、小信にも不屈、小利にも溺す、正に帰し、万の緩急も理に違ふ事なく、傑出之地位、二十計の比より、漸く見え初し也、戦場之出立は、静かなる馬に乗、虎御前と云刀〈元重〉を常の如くにさし、具足は馬皮のうらを表に用ゐ、つふ漆にてあらとぬりたるを、あさ黄の木綿糸にておとし立、甲は一谷の立物打たるを猪首に着なし、餅の付たる青黄之木綿筒服を長々と打はをり、ゆらりと打見えしなり、寔に雷電左に落れ共不動、麋鹿右に起れ共目不瞬、体の素性にして、惣軍ををのが任とし、勇道之工夫之外は雑事也と心得し故、強て小事に不精、万自然と任せしなり、此人魁殿に在し時は、軍中何となう心を安んしけり、世人此半兵衛は心バヘ大やうにのひ、国守之長子となしつかへまほしきやうに云しを、竹中打聞腹くろに腹立し、隣国まても耳目を驚す程の事をして見せんと謀り、稲葉山之城を己一身之手柄を以かつき見んと支度し、先人質に出し置し舎弟久作を持病再発と披露し、看病のためと云つゝ勇士六七人山上させ置しなり、かくて三月十八日唯一人登城し、案内もなく広間に入見れは、斎藤飛騨守、番頭とし歴々並居たりしを、上意候と云もあへすぬきうちに打たれは、意得たると云よりはやく抜合せ戦しか共、難なく飛騨を切伏、向ふ番士を五六人なき伏てけり、龍興こは口おしき次第也と息まきて、切て出んとひしめきあへりしを、長井新八郎新五郎をしとゝめ、今日之謀反竹中一人之覚悟ては有へからす、某罷出防候へしと、兄弟切て出しか、竹中善左衛門其外六七人込入し者共と渡し合せ、散オープンアクセス NDLJP:441々に戦て兄弟忠死をそしたりける、善左衛門尉鐘の丸へ走り上、鐘をつきしかは、相図之勢安藤伊賀守半兵衛か手勢二千余人噇と山上し、則龍興へ使者を立、急下山し給へ、何かと時を移しなは可打果由申けれは、反り攻の忠義之者来る事もやと、権現迄のきしを、又使者を立、終にをしおろし、主城と成かはりぬ、信長公此旨聞召、稲葉山を渡し置候へ、左もあらは濃州半国可扶助之旨御内状有しか共、他国へ相渡し国を領しなは、後難も口おしとて、曽て同心せさりしか、期年之比龍興へ城を返しけり、其後信長公へ事奉り、秀吉を親長ヨリオヤとし属せし比、秀吉江北横山之城に向て、構要害対陣有し折節、浅井下野守卒七千余騎朝妻さして発向せしを、秀吉卿御覧し、よきして取物也と、勢をはや推出さんと有しを、半兵衛いや、あの勢は朝妻へ行やうに見せしか共、左にはあらす、合戦を思ひこめし勢也、大略是へ切て懸り候へし、御勢出過申候、急き上之段へ引上させ給ひ、合戦をかけ候共、一人も御出しなされす、避来鋭惰帰をうち給へと諫しかは、尤也とて、上之段へ曳上、備を固くし有し処に、如案秀吉卿之備に向て、真黒に成てそかゝりける、半兵衛合戦之義は某に御任せ置候へと、思度計なけに云つゝ、手勢千計を二手になし、節所を前にあて一足も出さす、弓鉄炮遠矢な射そと堅く制し置し処、敵侮り来りしを、五間十間に引付、すはうてや射よや者共と下知し、二十騎計射たをしけれは、是に辟易し進み得す、然共猶静り反て一人も出さす、備を固し有し也、とかうせし間に晩日に及ひしかは、敵引とらんとそみえにける、爰に至て半兵衛手勢之者共に、送る事も有へし、其分心得候へと云つゝ、馬引よせゆらりと打乗、左右之山々谷々へ、弓鉄炮其組頭共を相そへ、よきに相計ひうたせ可申、敵帰し候はゝ、ざつと引、弥日をくらし方々より曵々声をかけ付候へしと申付しかは、其道に得たる者共にて、嶺々谷々よりむつかしきやうにしかけ送りけるに、日は弥暮、道もたとしく成しにより、足はやに引とらんとしける処を、半兵衛噇と時を作り立、引付て首少々討捕、鯢波を上、さつと引取けり、

 評曰、かやうなる魁殿に宜しきは、其時も稀にして、何も寵愛ふかゝりしなり、

又三州長篠合戦之時、勝負何共未知し折節、勝頼右備を秀吉卿之対陣し有ける左之方へ二町余に移備しを、秀吉之臣谷大膳是を見て、此備も武田か勢に随ひ移し候へしと下知しける処に、竹中いやあの備は本之陣へ帰るへき勢也、只其まゝ備を固め可然と云しか共、大膳はいなひおもひ、秀吉へ申、敵の向ふに順ひ、味方の勢をも備をなをし可然候はんやと云しを、半兵衛達てあしかりなんと云つゝ諍論せしを、秀吉聞給ふて、何を争ひ候そや、我勢はわれ次第たるへしとて、大膳さしつの所へ勢をうつし候ぬ、然有に半兵衛手勢千計は不動、弥備を堅くし有ける処に、半時も未過に、勝頼備を元之陣に帰ししかは、秀吉之勢も又元の陣に帰し来たりし也、半兵衛なみの存分ならは、扨も右往左往なる体とて、しこしかるへきに、還て笑止なるやうに云しかは、大膳事外痛、無面目由云しなり、其比半兵衛挙動おさしき事かなと感しけり、凡て素性己之長を舒巻せんと思ふ心もなく、他之短を求めあらはさんともせす、如何にも大やうに有て、大形は信長公に似たる事も有しと諷しき、

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或曰、半兵衛十九歳にして岐阜之城を己一人之覚悟を以乗捕、其後於戦場進退之達者自然に得其所、大望大志有しを以、大身にもなされす、与力之士を多く附なとし、おしみつなをさし引寵し給ひしも亦不宜乎、竹中も其心の程を能暁察し、書写山にして沙門之具をかひ求め、高野山へ上せ置し也、三木落城ぜしかは及請暇、高野山之僧侶と成て、世の形勢を見はてんと思ひ侍りき、斎藤龍興に対し深き恨もなきに、岐阜之城を乗捕しは非儀也、此伝に記し付ん事いかゝあらんと、牧野弥九郎十八歳之春、予に諫書ありし、寔に理に暁達なる素性也とおもひ侍るにより、如此、又龍興之行に捨所多く、竹中行跡に取所あまた有しを以記之、

 
○日根野兄弟
 
日根野備中同弥次右衛門尉と云し兄弟は、美濃国人也、同しはらからにはあらさりけれと、親愛尤厚し、備中守廿六歳之時、斎藤山城守二男喜平次孫四郎を、城州長男右兵衛大夫義龍に頼れ、二人を一刀つゝに弑しけり、此起は義龍を山城守さみし下し、両人之弟を甚愛せしに因なり、倍疑侍義龍は度々マゲて堪忍しつゝ、大とかに沙汰し侍れ共、弟之倍臣事外驕り、美龍の諸臣を動もすれはをし下さんとせしを、各憤り此催しをすゝめし故也、是皆下より驕出したる災なりとかや、備中守長島一揆蜂起せし折節も、手柄なる働有、弥次右衛門尉森部合戦にはな鑓之佳名有、龍興自国を去てより、武者修行之為、関東に下り、兄弟ウトハを預り、下知等得其所しに因て、得大利武名香しく成しか、信長公被召寄馬廻りにし給ひ、忝御懇共有し也、秀吉公天下を舒巻し給ひてより、秀吉公に順ひき、
 
○毛受勝介
 
毛受勝介は尾州春日井ノ郡稲葉村人也、柴田修理亮勝家に、十二歳の比より事へ、後は小性頭に任し、領一万石地、素性信篤く、古風を事とし母に孝有、勝家敗北の折節、舎兄茂左衛門尉諸共に、忠死を快くし、其名尤かうはし、凡て朋友に信愛厚く、貧士を憐愍し、旅人等に恵み深く有し也、無比類忠死六之巻に委し、
 
○岡田助右衛門尉
 
永禄之初ナリ出し、岡田助右衛門尉は、尾張国春日井郡小幡郷人也、武勇之道たしなみの真なる事、諸人ふかみあへりき、歌道に精しく有て、花車キヤシヤ風流に身を労せし、其行自然に高く、卑俗之風会てなかりし也、三州小豆坂七本鑓之内に加りぬ、有人其武名之香しき事を諷しけれ共、他又其言をヘダテす、実に左もあらんやうにおもひ入しなり、永禄之初下方左近将監鑓六度、柴田修理亮五度、岡田助右衛門尉四度とかそへ云しは、皆最初ハナ鑓之事也、若き人たち其鑓のやうすを助右衛門に問しかは、面はゆくみえ赤面有し也、昔人はうす物にて錦をつゝみしややうにふかゝりし、其比尾州にはなしの上手は野間藤六、岡田助右衛門尉と云しか、はなしの風かはりし也、野間かはなしは背も腹もきるゝ計に笑しかりし、岡田のはなしは、扨も風味はけにかく有へし、其義理は尤左も有へきやうに、ふかうしみて思はれ、後々まても忘れやらさりしやうに有て、香しく侍りしなり、
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○和田弥太郎
 
同し比和田弥太郎と云しは、濃州西方人也、其常美婦人のやうにやさしく、物ことおいらかに侍りき、戦場にして魁殿之時も一向さはかしからす、動する心も見えさりしかは、何共知ぬ男にて有よなと、老若沙汰しけるに、浦野若狭守日根野兄弟、日比野下野守なとは、とまれかくまれ、つまる所の武篇は、和田弥太郎すへきそと、かね云しか、果して三十六歳之春、江北浅井古備前と云し人、越前勢をかたらひ、一万五千之着到にて、濃州西方表に発向し振猛威、味方危くみえしに、諸人之目を驚かす程の鑓を、二日之間に三度合せ、敵を突退け、終に土岐ノリ頼運を開き、泰平をとなへしとなり、

楊子方曰、是龍知龍、是聖知聖と云か如き、日根野なとか武勇之目キヽは違はさりしも尤也、其道にうとき人、是は能勇者也と、国守へ取成を言侍るは、聊不仕付之意味なるか、

 
○浦野若狭守
 
此浦野は若き時半三郎と云しか、山城守小小姓にて、そは近く侍りしに、戦場にして夜半之比さはかしく成し時、物見につかはすへき者を呼候へと申付しに、某参り見計ひ可申とて走参し、其様子委看得ミスマし、頓て立帰り申上しか、山城守聞届実左も有へしと納得トツトクせしとかや、かやうなる事共度重り候て後は、あしかる大将のカヒと取し也、此人魁殿せし時は、軍中何となふ心安く有て、軍に利あらん事は必のやうに諸人思ひしと、其比之老人予に語り侍りし也、下知に随ふ事、風に任する草の如く有しと諷しあへりき、
 
○武市常三
 
天正之初於濃州武市常三と云者有、其兄善兵衛討死せしに、三歳のミナシゴ有常三則三才之甥を養育しヒトとなし、父之名なれは善兵衛と名付、兄の家を修理し、勿論知行所家財等コトヽく相渡し、常三はかんなべ壱つ手鑓一本とつて出しなり、

評曰、異朝にはかやうの信あつき人あれは、ふかく感し物に記し付をきぬ、其後かやうに有し人たち甥に渡すは稀なり、

 
○古田大膳大夫
 
秀吉公播州三木之城を打囲たまふ比、古田吉左衛門と云し小将有しか、三木より夜討入し時討死してけり、其子古田兵部少輔同大膳大夫とて二人有、慶長五年勢州松坂之城主として六万石を領しけり、其後兵部少輔身まかりぬ、三歳のミナシゴ有、前将軍家康公より、大膳大夫兄之跡を相続し、則兵部少輔となのるへき旨御諚有しかは、忝御事此上有へしとも覚え奉らす、孤をヒトとなし、父の名なれは兵部少輔となのらせ申度由望けり、家康公より、大膳大夫兄之跡をし給ふ、孤漸長と成しかは、父か茶具不残目録を以、一元和六年之比相渡し、勿論六万石之地をも附与し、其身は物さひしきさまにて在江戸し侍りき、潔白なる事誰か此上に立んや、稲葉内蔵介一柳監物なとも兄之跡を名代として相続せしか、いつれも武市古田には反しけり、

松倉豊後守評曰、大膳大夫甥に知行家財等渡し侍りし事、其身、病者なれは隠居し世を静に暮すへき事にや、尤なる裁判なりと思し処に、今亦在江戸世にあかぬサマに見えぬ、爰オープンアクセス NDLJP:444に至て大膳信弥高き事限なく思はれにけり、左も有ぬへき評なりと、在同席分部ワケベ左京亮、小倉忠右衛門尉、野々口彦助、此評尤深く有し旨感しあへりき、

 
○篠岡平右衛門尉
 
滝川左近将監一益之旧臣に、篠岡平右衛門尉と云し者有、わつかなりし身なれ共、智謀武勇兼備り、大忍之気象有し故、後は人数千計の小将に任す、或時聊相違之事有て、一益折檻有しかは、柴田修理亮なとより急まいれよと使札有、篠岡中々其返簡にも及す、我は一益の厚恩ふかゝりし事、多く侍るなり、元のことく一僕の身となして置給いん共、御計ひ次第とて他家の望曽てなかりしかは、一益終に大臣となし給へり、斯て武蔵野合戦之時津田次右衛門尉其弟八郎五郎に向て云やうは、極運爰に至れり、某貴方三人が勢二千は有ぬへし、いざ苦戦し打死を遂、其隙に一益を退んと思ふはいかにと問、津田兄弟打聞て尤なる事に侍るとて、一益へ其旨急度使者を以達し、まん丸に成てかゝり合せ、悉く打死し、一益を無恙退侍りし忠死又あらんや、

評曰、篠岡二君に終につかへす、忠死を快くせし事、君臣共に名誉なり、一益篠岡か志を初よりよく知給ふて、其養ひもいと清く、古風にて有けん、或問、今も篠岡かやうなる志士あらんや、答云、たとひ有共其養ひに損益あらむか、アヽくたれる世となるあさましさよ、名士志士を聘し得て、養ふ法は織田備州にノツトリなは可ならんか、

 
○堀尾帯刀先生吉晴伝
 
先生吉晴は尾州上郡供御所人也、父は堀尾中務少輔吉久とて、国人クニヒド三十六人の内にして、尾州上四郡の沙汰を知侍りぬ、帯刀先生童名仁王丸とそ申せし、其比は物ことおこかましく、しか世味なとも得知す、人の見ることもまれに有しかは、父の跡をしらん事もいかゝ有へきかと思ふ処に、十六歳の春夜軍の有し時一番首捕てけり、雖然皆人此首はお仁王なにとして捕へきそなと云しろひつゝ、還て笑ひし也、翌日同国岩倉勢とイドミ合戦あひし時、味方失利及敗軍悉く退散し、おのかさまになりし時、仁王丸は馬よりヲリてしつ心して有しを、伯父堀尾修理亮是を見て、なにとしたるさまそ、急き退候へとあらゝかに云けれは、わかたうて有山田小一郎未参とて、終に待えて召連退しかは、さては前夕の首も仁王丸捕たるにこそと、始てふかみ出にけり、来歳十七の夏茂助と名をかへしなり、物まめやかに美婦人のやうに有しか、云へき事あれは相手をも不嫌き、されは相州山中之城に向て、堀尾陣場能所なりしを、中村式部少輔関白秀次公へ望みつゝ取てけり、是に便を得、中村一番に山中之城へ乗しかは、帯刀先生秀次公の御前にて恨たてまつる事、大かたならぬさまに見えしにより、いかゝあらんすらむとおとろき、御前に侍るれきの大臣、左はなかりし事にて有しとて、左右の手を取て引立んとしけれは、大の眼に角を立散々にのゝしつて、既にさしちかへんとし、終に申度事共露のこさす悪口してけり、十六歳の時之高名より、三州池鯉鮒にて加賀野井弥八をしたかへしまて、武功二十二度重累せしとかや、初は秀吉卿の寄子ヨリコとして信長公へつかへ奉りしか、秀吉卿江北横山之城を取巻居られし時、戦場の事なるに因て、堀尾もオープンアクセス NDLJP:445番横山せしより、秀吉の臣と成て、江北長浜にして百五十石領せしより、飛龍天に在かことく万幸長し来て、雲隠二州の守護と成て、号帯刀先生吉晴、然共足る心は露なかりしなり、子息出雲守忠氏に、ある人父先生の武功を問し事の有しに、しかと不覚によつて答さりしを、問人此道にたしなみなき故に不知よと思ふけしき見えけれは、ハヅカしくて、先生大坂貝殻カイガラ塚を一人して取給ひしを、父へ問れしに、はや久しき事にてなと云まきらかしさたかならす、其時忠氏聊うらみかほに見えて、父の武功を人の問しに不答、此道をすかざる故なるへしと、他亦思ふへし、卑下も物によるへき事なりと、重て問申されけれは、あらまし語り侍りき、父子の間にても、武名なとを強てかたり侍る事、いかゝ有へきにやと思はれしなり、况他人なとにかたらん事は、おもはゆく恥しき事に思へり、
 
○帯刀先生吉晴行状
 
○士たる上或国郡或、深き恩禄をかうふるよりは、其報をふかう可存義、理之常然なり、然るに此理不存、他事に労するは禄を盗むなりと、つね油断なかりしなり、

○国士は諸芸を聊シルは宜し、達せんと思ふは私意なり、人なみの士は芸を知たるもあしきに非す、しかはあれと、長したるはよろしからすといはれしなり、

○信長公につかへ侍りし織田金左衛門尉は、勇功且有て、公の親属にても有けれは、大臣になるへき人なりしか共、タカ方事外功者なる故、御そはを遠くし給ふ事いなみおほしつゝ、遠国へつかはし給はて、千石計にて病死せられしなり、かくのことき事を思へは、士は士の格を違す、一心不乱に忠を立んと思へは、天の冥感有て、諸候大夫にも経上る事多しとおもへり、

仕置者シヲキシヤ、堀尾民部に雲州松江之地下人便タヨツて云やうは、佐陀江〈此所鯛鯰なと多く取し所也〉の水口を銀子二十章〈二十枚なり〉にて請申度由望しかは、即奉行人宜しき事に存知、先生にかくと云しかは、曽て同心なかりしなり、人皆不審しのへりぬ、予いかゝおほしていなみ給ふそやと問し時、いやとよそれをいなむにはあらす、他所ならは同心すへく侍らん、佐陀江は我につかへし士共の遊山所也、国の乱に及時は敵の寄来る方へつかはす事有物なり、かゝる士の慰を銀子にかへ止なん事思ひもよらぬ事なりとて、其後はしか返事もし給はす、士をふかう思ふ事あふさきるさにあさからさりしなり、士もし病の床に有し時は医師二三輩、小姓両人ほと付をき、保養油断なき様にと沙汰し給へり、

○牢人を多く才覚し、数多他家へ在着られしなり、秀次公につかへし者三度ありつけ申されしを、先生に浅からぬ友諫云、牢人の事なれは一度は有つけ給ふて宜しからんや、三度に及ふは老体に似合申さぬ事に有へしやと諫し時、一入の御心付にとダクしき、其後密に予にかたり給ふは、若野心之輩出来ん時、家康公某馳向て可征とあらんに、雲州に至て勢を呼上せは其期に合ましきか、かゝる時内々の牢人の方へ五三人つゝ相語ひ、伏見へ越候へと合力を請んに、五百騎三百騎は書状にても可相調か、是忠也、牢人かゝへて給へかしと、ヤハラケヲ面束、国守へいひし事、一入痛み思へ共、自然の時軍忠を立むとテツシ骨髄思へれは、さのみむつかしき事にもあらさらめりと也、被在着し人、百余人に及へり、

オープンアクセス NDLJP:446 或曰、此格堀尾か素性なり、

前学校三要予に不審し給ふは、帯刀先生の心バヘを伝へても聞、見もし侍るに、わかき比仏茂助と市豎孩童シシユカイドウまて云し事宜なり、かくて子孫多く亡ひし事はいかにそや、答曰、異朝のむかし孔夫子に子孫多く侍らさりし也、是に対し云へきにはあらねと、平泰時なとにも子孫おほからしとなり、

 
○仏茂助名にしおはて還て殺人事
 
明智日向守光秀、天正四年丹波国を受領せしか共征しかね、国人等所々にして一揆を起し還て光秀武威衰へ、亀山に蟄居之体、有甲斐もなきさまなりしかは、信長公聞召及給ふて、羽柴筑前守秀吉、丹羽五郎左衛門尉長秀、滝川左近将監一益、筒井順慶、都合其勢三万余騎、助成として同五年八月中旬被遣けり、各至彼国令発向、方々之一揆等大半攻平及帰陣けるに、殿シツハラヒは鬮とりにて秀吉なり、山おくへ相働任々を打破て乱妨狼藉思ふまゝにし侍りて、さらは退ノキなんとせしか、未之下刻に成て、山路といひ、節所と云、いかゝあらんすらむと、堀尾茂助案しつゝ、仰にてもなきに、今晩之殿は某に被仰付候、日くれなは人足以下難義に及事もあらむ、能に計ひ申せとの事に候とて、弓鉄炮之組頭へ五人十人つゝ、五調ガンテウなる者をやとひにけり、漸百余人に及ひしかは、アハレ一揆共付よかし、夜合戦してんよと、且は楽み且は如何有けんやと案しもしけるか、夕陽西山にかたふきしかは、急き退候へと下知の声々のみにて、物の分も聞えさる折ふし、ミネ々には火をともし立、谷々よりは声を挙、けにも一揆国とおほしくて、何となう心ほそけに成つゝ、心悸ムナサワキ殊にしきれり、折節小雨して、雨雲幾重共なくおほひつゝ、道猶たとし、目さす共知ぬ計に闇けれは、郷人共使を得て声をも不立、味方に紛れ来て、荷物を取事夥し、とられたる人足共声をはかりに呼るに付て、堀尾茂助も百人余の弓鉄炮の者に声ばし立な、鉄炮をうつほとならは、取し荷物をうちすて可退也、吾も一揆にまきれて近つくへきそと云合せ、悲ふこゑを心あてに急きつゝ行見れは、郷人共数百人手々に荷物を取持てみえにけり、弥遠矢射ておとしいなすなとさゝやきよりつゝ、五間十間許にして、百余人の弓鉄炮一度に噇と射かけはなちかけたれは、中取合せ戦はん共せす、荷物を拾をき、十人許手をおひし者をもかこはんともせす、蜘の子を散したるやうに成しかとも、よるの事なれはおひすてゝ、弓鉄炮にあたりし者十八人首捕てけり、かくて荷物を取返し、とられたる者共帰れと声々に呼はり、過半返しけり、大利は得つのけやとていそき一里計も退し処に、又一揆共細道を便り、左右の山の尾さきを取て、弓鉄炮を射かけうちかけにけり、近く寄なは仕やうも有けめと、一揆も用心して中々よりもつかず、遠矢に射てとれやと声々にのゝしつてしたひぬ、堀尾も今度は大事に思ひけれは、先へ行過て高き所より坂おとしに追詰、手あらき事を見せすはのき得なん、明智も此所にして越度を取て多くうたれしと也、十死一生の夜軍せんと、百余人の勢を二に分、左右の山へ上つて噇と帰しけれは、初の一揆原とは事替で、一支へさゝへんとあけれ共、一心を如金石極て帰しつる勢ひなれは、なしかはたまるへき、カイ吹て退ノキし処を、堀尾か行し左の手にて首十、右の手にて八オープンアクセス NDLJP:447討捕、凱歌トキノコヱを挙たりけり、如此あらくあてゝより一人も不付は、心しつかに人足を警固して退にけり、秀吉御前にして斯夜に入んと兼て期したらは、勢を残し侍らん物をと悔給ひつゝ、いかゝあらんと心もとなけに被仰しかは、木下将監奉り、堀尾は殿を被仰付候条、某鉄炮之者を合力せよかしと申越し候に付て、わかき手きゝ共を三十人つかはし申候由言上せしなり、跡に打て来りし者共、人足をは茂助よきに計ひ退申候条、被御心候へと申上しかは、けしからぬ御感なり、堀尾亥之下刻に帰陣し、御前へ出つゝひそかに見えにけり、秀吉茂助をめして御褒美甚以あさからす侍れとも、聊驕けしきもなく、木下将監を以申上けるは、今晩一揆共少々蜂起し、人足を追散し荷物を取候しを追払ひ、荷物を取もとしイウ人原にておはしませ共、首卅六討捕候旨言上せしかは、即御覧有へき之条首共持て参れよと仰有、茂助おんびんなる体に持出、討捕し弓鉄炮之者たれと、仮名実名申上しかは、扨も仏茂助といはれつる名にしおはぬ手柄よな、仏は人を助くる物なるに、還て首を捕たるよな、けふよりは鬼茂助と云へしとて御感なり、しかはあれと肩をすほめつゝ其さま穏便なり、三十六之内茂助三捕しが共、弓鉄炮之者にゆつりにけり、
 
○稲葉覚之丞
 
稲葉覚之丞と云しは河内人なり、三好笑岸につかへ侍りしが、十七歳の春木沢大和守と三好家合戦有し時、朝夕二度の戦に鑓を二度合せ無比類働してけり、其外よき首を取し事もあまたたひなりしかは、堀尾帯刀先生篤く聘し取て甚愛し侍りき、つぬ主のために労を尽し侍る事大かたならす、たとへは秀吉公来年は作事をいとなみ給はん有増を且聞ては、土佐紀州の山をくへ立入、材木を多く出しつゝ、城州木津川辺より、引出すへき材木あれは、川にそひたる里々の長に一樽送りつゝ、よきにさしづを憑み入よし沙汰し置ぬ、他の勢露知さるに、彼里のおさ稲葉に水しほこそ能侍れ、いさゝせ給へ、材木流してむやとあなひし、千人も入へき材木を百人計にて、水に任せ、其所まて付をきしなり、万の手廻しかやうに有しに依て、堀尾普請は離倫出群の功おほうして、秀吉公感しおほし給ひしとなり、
 
○板倉伊賀守
 
板倉伊賀守勝重は、三河国碧海アヲウミ郡中島人也、勝重智人に勝れ、素性忠孝慈仁理義等に篤し、以之聴訴則直而尽実、以之事君則有功而不誇、以之交友則有信而無偽、以之脩身則有礼而且正、以之恵下則恩沢深而且清、故に万民喜ひ悦て、楽ひ自然也、因之洛中洛外畿内に至て枕を泰山之安におきつゝ、此人之寿命は千とせを限り、万幸は尽る事なきやうにと、兆民まても願望せしか、果して二代に至て淳直弥増威権しとやかに重し、

或人間、津田幸菴曰、伊賀守万事之裁判、おひらかに私心なかりしやうに世諷しけり、左やうの事何有や、聞まほしき由望しかは、答曰、訴に出、まけぬる者も心服し、恨る事なし、爰を以余は知ぬへしとなり

 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。