<< 種々なる事項に就て問答。>>
問 使徒が『ハリストスと共に復活せしならば』〔コロサイ三の一〕といへる霊魂の復活は如何なる意味を含むか。
答 使徒は『暗より光の照るを命ぜし神は我等の心を照せり』〔コリンフ後四の六〕といひて、旧きより出づるを名づけて霊魂の復活といふべきを示せり、是即旧き人に属するものは一もあらざる新らしき人の生出することなり、録していふ如し、彼に『新しき心と新しき神とを與ふ』と、〔イエゼキイリ三十六の二十六〕けだしその時ハリストスはハリストスを識る睿智と黙示の神を以て我らの中に像らるるなり。
問 黙想を勤むるの力は(簡短に言へば)如何なるか。
答 黙想は外部の感覚を減殺して内部の活動を喚起す。然れども外部に属するものを勤むるは、之と反対なるものを生じ、外部の感覚を喚起して内部の活動を減殺せん。
問 何物か異象と黙示の原因たるや、けだし或者は異象を有すれども、或者は多く労するに拘はらず、異象はそれ丈に彼には感徹せざるなり。
答 これが原因は多く之あり、その一は摂理的原因にして、一般の利益を以て目的とするなり、然れども他の原因は劣弱者の慰安と奨励と訓示とを以て目的と為す而して第一此のすべては人類に対する神の憐により備へらるるものなれど、多くは左の三種の人類の為に備へらるるなり、或ひは純僕にして至て無悪なる人の為、或は完全にして聖なる或者の為或は燃ゆるが如くなる神の熱心を有する者の為に備へらるるものにして、彼らは世をすてて、之より全く脱し、人々と共に社会に住するより遠ざかり、一切をすてて、有形物体よりは何等の助も待たず、神の跡を慕ふて行きしによる。彼らはその状態の孤独なるにより、突然恐れを生ずべく、或は飢餓の為、疾病の為、或は或る事情の為、又は患難の為に死の危きは彼らを囲まん、よりて彼らは殆ど失望せんとす。ゆえにかくの如き者らには慰藉の来るあれども、労苦を以て彼らより大に超越する者らに慰藉のあらざるは、之が第一の原因は欠点の有ると無きとによる、即良心の欠点の有る無きによるなり。然れども第二の原因は必ずや次の如くなるべし、もし誰か人間の慰藉、或は何か有形物体よりする慰藉を有するならば、その者には一般の益の為或は摂理に属するものの外、かくの如きの慰藉はあらざるべし。我らは遁世者につきて言を為す、ゆえに神父らの一人を以て此事の證者とすべし、彼は慰藉を祈願したりしに、左の言をきけり、曰く『汝の為には人間の慰藉と人々との会話にて足れり』と。
これと同様他の或者も遁世者の身となりて、遁世的生活を送りしときは、恩寵の慰藉を以て日々自から楽めり、しかれども世と接近するや、例の如く慰藉を尋ねたりしも得ざりければ之が理由を示されんことを神に願ふて言ひけるは、『主よ、恩寵の我より離れたるは主教職の為にあらざるか』と。然るに彼に告げていへり、『否之が為にあらず、神は野に居る者らを慮るによりかくの如きの慰藉を彼らに賜ふなり』と。けだし人類中何人か有形的慰藉を有すると共に恩寵に属するものをも受くることは上文にしるしし如く、かくの如き場合に於て一の摂理する者にのみ知らるる神秘なる摂理によるの外は能はざるなり。
問 異象と黙示とは同じきか、或は然らざるか。
答 然らず。却て彼らには差異あり。彼と此とは共に黙示と名づけらるることも屡々之あり。けだし神秘なるものを異象によりて顕はさるるにより、すべての異象は黙示と名づけらる、然れども黙示は異象と名づけられざるなり。黙示といふ言は意識せらるべきものと智力を以て試さるべきもの、且は想像せらるべきものに往々用ひらるるなり。されど異象は種々の方法によりて之あるべし、例へばいにしへ旧約の人々にありし如く形像又は豫象に於てするあり、深睡に於てし、或は覚醒なる状態に於てするあり、而して或時には全くの的確を以てすれども、或時にはたとへば幻影に於てする如く、多少明白を欠くことあり、ゆえに覚醒なる状態に於て見るか或は睡眠に於て見るか、異象を有する者自からも之を知らざることしばしば之あり。或は救助の声を聞くこともあるべく、時としては最顕然として面り相対して見且談じ且問ふて、問の為に答を得ることもあるべし。聖なる能力は之に堪ふる者にあらはれて、其者に黙示を與ふるなり。而してかくの如きの異象は、極めて荒涼寂寞たる原野の地の人類に遠ざかりて、人の之に必要を有することの免れざる処に於て之あり、何となれば其処よりは彼に他の助けも慰藉もあらざればなり。然れども智力を以て感知せらるべき黙示は浄潔に由り易すく受けらるべくして、ただ完全にして練達なる者に之あるなり。
問 誰か心の浄潔に達せしならば、其徴證は如何なるか、又其心の浄潔に達したるを人は何時認識するか。
答 誰か悉くの人を善視して、彼の為に何人も不潔汚穢なる者と見へざる時は、実に彼は心にて浄潔なり。けだし善なる目は悪を見ず〔アウワクム一の十三〕といへる言の如くならずんば、如何して我等は誠実の心より衆人を一様に『尊視して、己より愈れりとせよ』〔フィリッピ二の三〕といへる使徒の言に的応せんや。
問 浄潔とは如何なるか、其界限は何処にありや。
答 浄潔とは世に人性を以て想出せられたる知識の悖理なる方法を忘るる是なり。然れども此等より免れて、其外に立たんとせば、視よ其界限は左の如くなるべし、即人が其性の元始の醇樸と元始の無邪気とに達して、恰も小児の如くになり、ただ小児の欠点のあらざること是なり。
問 此の階段に誰か昇ることを得るか。
答 然り。けだし視よ、或者等は此度に達せり、たとへば父ソシイの如きも此度に達して門徒に左の如く問ふに至れり、言へらく『予は食せしや、或は食せざりしや』と。又他の或神父も此の如きの醇樸に達して、殆ど小児の如き無罪に至りぬ、けだし此世にあるものをすべて全く忘れたり、ゆえにもし門徒等が止めざりしならば、領聖に先だちても食せしならん、よりて門徒等は彼を小児の如く領聖にみちびくに至れり。しかれども彼は世の為には小児なりしも、神の為に霊魂は完全なりき。
問 黙想の庵に在りて、黙想に専なる苦行者は、何を業とし、何を沈思するを要するか、其智を空想の為に暇あらしめざらん為に彼は不断何を為すべきか。
答 人が庵中に在て死者の如くなるを得るときは、業務と沈思とのことを問はんや。勉焉として心の安定なる人の独り自ら居るあるや、如何に己を導くべきを問ふの要あらんや。修道士には庵中に在て、哀泣するの外、他の如何なる業務ありや、彼には哀泣より他の思想に転ずる遑ありや。且如何なる業務は此よりも更に愈れるか。修道士の寓居と其独棲とは、人間の喜より遠ざかる墓に居るに譬ふべくして、其勤めは即哀泣なるを彼に教ふるなり。而して其名の意義も彼を同時に喚起して、同く之を信ぜしむるなり、何となれば彼は悲嘆する者と名づけらる、即心に悲哀を満たさるる者と名づけらるればなり。すべての聖人は哀泣に於て此生命より移るに至る迄、其目は常に涙に満たされしならば、誰か哀泣せざるべけんや。其目前に横たはる死者ありて彼は自から罪の為に殺されしものなるを目撃する者に、涙を益用すべきを教ふるの要ありや。汝の為に全世界よりも貴き汝の霊魂が罪に殺されて、汝の目前に横たはらば、汝に哀泣を催さしめざらんや。故にもし黙想を始め、忍耐を以て之に専ならば、哀泣にも専らなるを能くすべきは無論なり。ゆゑに我等に哀泣を賜はらんが為に其心中に於て屡主に祈らん。けだし他の賜よりも最善にして最愈れる此恩寵を求め得ば、其助により浄潔をも得ん。然してもし此を得ば我等が此生命より出づる迄は最早浄潔を我等より奪はれざるべし。
ゆゑに心の清き者は福なり、何となれば彼等は此の涙の甘きを楽まざるの時あるなく、之によりて彼等は常に主を見ればなり。彼等の目に涙ある間は、彼等は其祈祷の高きを以て神の黙示を見るを賜はるべくして、涙なき祈祷は彼等に之あらざるなり。「泣く者は福なり。彼等は慰められんとすればなり」〔マトフェイ五の十〕と主の述べられし言は亦此意味を含有す。けだし泣くによりて人は心霊の清きに達せん。ゆゑに主は「彼等は慰められんとすればなり」と言ひて、其慰の如何なるを説明せざりき。けだし修道士が涙の助により、慾の範囲を踰えて、心の清潔の平原に入るときは、かくの如きの慰は彼を迎へん。ゆゑにもしここに慰を尋ぬる者等の中誰か此平原に達し、此処に於て得られざる慰を彼処に於て迎ふるならば、其時彼は泣くによりて如何なる慰を自から期待したると、神は泣く者の清潔の為にいかなる慰を與ふるとを終に了解せん、けだし不断に泣く者は慾に擾さるるあたはざればなり。涙を流して哀泣するは、これぞ無慾なる者の賜なる。而して一時泣て嘆息する者の涙さへ彼を無慾にみちびくのみならず、智力をも慾の記憶より全く潔めて、彼を自由ならしむるならば、認識と共に日夜此行為を練習する者のことは之を何とかいはん。ゆゑに独り己の霊魂を此行為に供へたる者の外は何人も哀泣によりて生ずる助を知らざるべし。凡の聖人は此門口に向ふ、何となれば慰藉の方面に入るが為の門は涙を以て其前に開かるればなり、而して至仁にして救済的なる神の跡は此方面に於て黙示により顕はさるるなり。
問 或者は身体の薄弱の故に不断に泣くことを得ず、智を保護するが為に何を有すべきか、けだし智が何物にも占有せられざる時は、之に対して慾は起らざればなり。
答 それ何等の放心にも遠ざかる遁世者の身を以て、其心は生活上の為に占有せられずんば、慾は心に蜂起して、苦行者を擾すあたはざるべし、ただ彼は怠慢にして其本分に不注意なることはあらん。然れどももし彼は神の書を研究練習するならば、其旨趣の討求に特に心を奪はれつつ、慾の為には少しも動揺せざるものとなりて存せん。けだし神の書に暁通することの益長じて其根を張るときは、空想は彼より逃るべくして、其智は聖書を読み、或は読みし所を考へんと欲するの望より離るる能はざるべし、されば深き原野の沈黙の中に在て、聖書の為に心を奪はるる彼は、其業を楽む最大なる悦楽に因り、現生には少しの注意も向けざるべし。此により自己と其性とを忘れて、恰も憤心したる人の如くなるべく、此世の事はすべて記憶せずして思想は神の大なることの為に特に占領せられん、されば心を此に沈潜して言はん、『光栄は彼の神性に帰す』と。又言はん『光栄は彼の奇跡に帰す、奇異なる哉、非常なる哉、彼のすべての行事よ、彼は予の貧寒を如何なる高処に昇せたるか、我等に何を学ぶを賜ひ、意思を如何に大胆ならしめて、我が霊を楽ましむるか』と。此奇跡に意思を向けて、常に之に驚かさるる彼は、不断酩酊の中にあること、復活の後の生命を既に味ふ如くなるべし、何となれば黙想は此恩寵に最大に助くればなり。けだし彼の智力は黙想に於て求め得たる平安と共に自から止まるを得べきを看破するのみならず、併て之を以て喚起せられて其生命の秩序と適応せし所のものを記憶せん。けだし来世の光栄と、彼の霊的生命と神とに止まる義人等の為に其望の如く備へらるる凡ての幸福と、其新なる興復とを心に想像しつつ此世にあるものは思にも記憶にも存せざるべし。然れども此を以て酔はしめらるるや、更に直覚を以て其処より彼が自から生在する所の此世に転回し来るときは、愕然として驚て言はん、『嗚呼深い哉、究む可らざる神の富と智恵と知識よ、聡明と、睿智と摂理よ、其定は如何に測り難く、其道は如何に究め難きや』と〔ロマ十一の三十三〕。けだし何れの時、彼はかくの如き奇異なる別世界を備へて、之にすべての聡明なる実体を導き入れ、彼等を終りなき生命に守り給ふか、何の故に彼は此の第一の世界を造り、之を拡大にして、種類の群集と万物の許多とを以て之を此の如く富まし、彼処に於て多くの、慾の原因と、慾を養ふものと、又之に抵抗するものとにも位置を與へたるか。而して何の故に最初より我等を此世界に置き、世に長寿せんを愛するの情を我等に固めたりしも俄に死を以て我等之より奪ひ去り、少からざる時の間無感覚無動作を以て我等を守り、我等の形像を滅し、我等を融解し、掛廻して、之を土と混じ、我等が組織を破壊し腐敗滅尽して、人の性中一物も全く残らざるに至るか、然れども崇拝せらるべき睿智を以て定めたまひし時に至り、欲するあるや、ただ彼にのみ知らるる他の形像に我等を再興して、我等を他の状態に導き入るるは何故なるか、こは我等人々の希望する所なるのみならず、此世界に必要を有せずして、其性の非常なるにより、僅に完全を欠くところの最聖なる天使等も、我等諸族の塵より起きて、其敗壊の新にせらるるとき、我等が敗壊より起るを待つ、けだし、我等の為に彼等も入るを禁ぜられたれば、彼等も新世界の戸の一回開かるるを待つなり。而して我等を苦しむる肉体の重きは釋かれたるにより、此受造物(天使等)も我等と共に安んずるを得ること使徒のいふ如し、けだし此世の構造はすべて全く破壊して、我等が性は元始の状態に回復するにより、『受造物自らも神の諸子の顕はるるを俟つ、即敗壊の奴より釋かれて神の諸子の光栄の自由に入らんこと是なり』〔ロマ八の十九、二十一〕。
而して此より其智力を以て昇り、此の世界の合成に先だちて、如何なる受造物も、天も地も、天使も、存在にみちびかれたる何等の物も未だあらざる時と、神が独一の恩恵により、俄に一切を無より有となして、すべての物が神の前に完全にあらはれたる時に至らん。然るに彼は再び其智力を以て神の悉くの造成に下り、神より造を受けたる物の奇々妙々と神の所為の睿智とに注意を向け、愕然として自から判断して言はん、『吁奇なる哉彼の摂理と照管は何等の概念よりも高きこと幾ばくなる、此の受造物、即此の種々様々なる物体の数へ尽されざるの多きを如何して彼は無より有となしたるか。然るに又此の奇異なる好順序と、天地萬有の此美麗と、受造物と、時と年の整然たる此運行と、昼夜の此配合と、年と共に合する空気の変換と、地より発萌する殊異多様なる此花卉と、此の都府の美麗なる築造と、其中に最荘厳に飾られたる宮殿と、此の人類の敏捷なる活動と、彼等が世界に入りしより出づるに至る迄、労苦を任はしめられたる此存在とを滅して、此の受造物を破壊するは何故なるか。而して此の奇異なる秩序は俄に、熄んで、他の世界至り、此の最初の造物に於る記憶は何人の心にも全く浮び来らずして、他の之と異なる種類と他の所思と、他の配慮とを生ずるは何故なるか。之と同く人性は此の世界の事と其生活の最初の状態の事とは全く想起せざらん、何となれば人智は彼も状況を直覚するに密着して、人々の智は血肉の戦に再び帰るの遑あらざればなり。けだし此世の破壊と共に来世は直に始まればなり。されば悉くの人は其時左の如く言はん嗚呼母よ、生み且養ひて智慧附けたる其子の為に忘れられたる者よ、彼等は瞬間に他の懐に集められて、孕まざる者と決して生まざる者の眞の子となれり。『孕まず、生まざる者よ、謳歌せよ』〔イサイヤ五十四の一〕地が爾の為に生みたる子の為にと言はんとす。
其時彼は恰も大なる熱中にあるものの如く、沈思して、左の如く言はん、『此世は猶幾時存するか、来世は何時始まるか。此室に此の状態を以て寝ねて、肉体が塵と混ぜらるるは、猶幾時あるか。彼の生命は如何なるか。此の性は如何なる状態に復起して組織せらるるか。彼は新なる造物に如何様変化するか。』と此等の事を沈思するや、彼は大悦、駭異、寂然、沈黙に至らん、而して彼は此時に起つて膝を屈め、滂沱
たる涙と共に独一睿智の神に感謝し、常に最)睿智なる作為に於て頌美せらるる者に讃栄を献げん。かくの如きことを賜はりし者は福なる哉、昼も夜も此の如きの勤行に専らなる者は福なる哉。其生命の日子を挙げて此等の事を沈思する者は福なる哉。然るにもし人は其黙想の始めに於て、心意の高超の故に、かくの如き直覚の力を感ぜずして、上文に述べたる如き神の奇跡の力に上進する能はずんば、煩悶を来すなかれ、黙想的生活の安静を棄つるなかれ。けだし農夫も種子を種くと共に、直に穂を見るべきには非ずして、種きし後も、憂愁と、労苦と、肢体の衰弱と、同輩に遠ざかると、家人に分るる等の事あるべし。然れども此を忍耐するときは、當時者が楽み、且躍り、且喜んで欣々たる新なる時期の至るあらん。
然るに是は何の時なるか。彼が己の汗を以て獲たる餅を食ひ、沈黙を以て其の瞑想を守るを得るの時ならん。けだし沈黙と、沈黙を以て忍耐し得る此瞑想とは、大にして終なき愉快を心に喚起して、其智を言ふべからざる驚異にみちびかん。ゆゑに忍耐して此に止まる者は福なり、何となれば此の神出なる泉は其目前に開けて、彼は之を飲みて楽むべく、昼夜何れの時にも何れの刻にも常に之を飲むをやめずして全く暫時なる此生命の終と最後の際に至るべければなり。