<< 種々なる事項に就て問答。>>
- 禁食と儆醒の事。
畢生の間、此一対と交ることを愛する者は、貞潔の友とならん。腹を安んじ、睡眠を以て己を懦弱にして淫欲を燃すは萬悪の始なる如く、禁食と儆醒と、眠らずして神の奉事を行ひ、終日終夜身を十字架に釘して、睡眠の甘きに反対するは神の聖なる途とすべての道徳の基なり。禁食はすべての道徳の保障なり、奮闘の始なり、節制者の冠なり、「ハリステアニン」の首途なり、祈祷の母なり、貞潔と善智の源なり、黙想の師なり、あらゆる善行の率先者なり。光を願ふは健全の目に適する如く、祈祷を願ふは思慮を以て守らるる禁食に適す。
もし誰か禁食し始むるならば、最早是時より智を以て神とともに交はるを願望せん。けだし禁食する体は全夜を床上に寝通すに堪ふる能はざればなり。人がその口に禁食の印を押さるるときは、その意思は痛悔を学ぶべく、その心は祈祷を流すべく、その面に憂色ありて、耻づべき思念は人より遠ざかり、その眼中に欣喜の色は見えざるべし、彼は淫欲と空談の敵なり、思慮深き禁食者が悪慾の奴隷となりしことは未だ嘗て見たる者あらざりき。思慮を以てする禁食はもろもろの善の為に廣大なる第宅なり。之に反して禁食を等閑にする者はすべての善を動揺せしめん、何となれば禁食は最初食を甞むるとき、預防の為に我らが性に與へられたる誡命にして、禁食を破りし為に、我らが造成の始は堕落したりき。さりながら苦行者らは神の法を守るを始むるならば、最初の貶黜の成れるそのものよりして神を畏るるの畏れに大に進歩するを始めん。
救世主も世にイオルダンの河濱に現はるるや、此より始めたまひき、けだし洗礼の後神は彼を導きて野に至り、彼処に於て彼は四十日四十夜禁食せり。之と同じく凡て救世主の跡を慕ふて出づる者らも、その苦行の始を此基上に確立せん、何となれば禁食は神の備ひ給ひし武器なればなり。ゆえにもし此を等閑にするならば、之が為にか叱責を被むらざらん。もし立法者が自から禁食するならば、その法を守る者は、誰か禁食せざるべけんや。此に由て見るに人間は禁食に至る迄は、勝利を知らずして魔鬼も未だ嘗て我らの性により攻撃を試みざりしが、此武器の為に彼は先づ弱りぬ。而して我らの主が此勝利の大将となり、及び冢子となり給ひしは、第一勝利の栄冠を我らの性の首に加へん為なり。ゆえにもし魔鬼は人類中何人に於てか此武器を見るならば、此反対者と苦虐者は即時に恐を生ずべく、救世主の為野に於て撃敗せられしことに直に想到し、之を記憶して、その力は挫折せらるるべく、我らが元帥を以てわれらに與へられたる武器を望むは彼を焼尽さん。如何なる武器は之より有力なるか、狠悪の霊と奮闘するに当り、心に勇気を添ふるはハリストスの為に飢うるに如くものありや。けだし魔鬼の軍の人を囲むに当ては、身体を労らし且苦しむ程心は希望を以て満たさるるなり。禁食の武器を着るものは、何れの時にも、熱心を以て、烈しく焼かるるなり。けだし熱心者イリヤも神の法律に熱心し始むるや、此行為を務めたりき。禁食者は之を獲たる者に神の誡命を想起せしむるなり。彼は旧き法律とハリストスを以て我らに與へられたる恩寵の間の仲保者なり。禁食に等閑なる者は他の苦行に於ても懦弱、怠慢、無力にして、その霊魂を弱らすの始と悪しき徴候とをあらはすべく、彼と戦ふ者に勝利の機会を與ふべし、何となれば裸体にして武器を持たず、苦行に出づればなり。ゆえに勝利なくして戦闘より退かんこと明なり。何となれば彼の肢体は禁食に飢るの温情を以て包まれざればなり。禁食はかくの如し之を務むる者の心は毅然として、凡の猛烈なる慾を逆へて之を反拒せんとす。多くの致命者の事を傳へ言ふあり、彼らは致命の栄冠を受けんを期する日に当り或は黙示により、或はその朋友中或者の報告により之を豫知するや、全夜何物をも食はず、晩より朝に至る迄眠らずして祈祷に立ち、詩頌歌章霊賦を以て神を讃栄しつつ愉快と欣喜とを以てその時刻を待ちしこと、或る婚姻に豫備する者の如くし、禁食に於て剣を迎へたりと。ゆえに見えざる致命者の行に召されたる我らも、成聖の冠を受けんが為に儆醒すべく、我が身の一肢体をも又一部分をも辞する兆候をその敵に示さざるべし。
問 或者は此らの行為を屡し、多くの者も多分之を行為しつつあらんも、寧静と慾の鎮止と思念の平安を感ぜざるは何故なるか。
答 兄弟よ、霊底にかくるる慾は肉体上の労苦のみにては矯正せられず、肉体上の労苦は常に五感によりて起さるるものを思ふ意思を止めざるべし。此らの労苦は人を欲望より保護して、之に勝たしめず、魔鬼の誘惑よりも人を保護すれども、霊魂に平安と寧静とを得しめざるなり。けだし動作と労苦とは黙想と連合一致し、外部の感覚に擾乱熄みて若干時間睿智の行為に止まる時は、霊魂に無欲を與ふべく、地にある肢体を殺して、思念の安息を與へん。之に反して人は人々と交際し得ることを奪はれずして、その肢体をも自己をも意思の衰弱の為に自己に集中するに至らざる間は己の慾を確知する能はざるべし。黙想は聖ワシリイの言ふ如く霊魂を浄潔にするの始なり。けだし外部の肢体に於て外部の擾乱と外部に於る引誘が熄む時は、智は外部の引誘と高超とより自己に帰りて自己に安んじ、心は覚醒して、内部心霊上の思を研究せん。ゆえにもし人は善く此に堅立するならば、漸々心霊上の浄潔に進行するを得るに至らん。
問 霊魂は戸外に居る時に於ては潔めらるる能はざるか。
答 樹は毎日灌がるるならば、その根は何れの時か乾かん。器中に於て毎日加へらるるならば、何れの時か減ぜん。それ浄潔は人々と交る自恣の交際を知らずして、此習慣を棄つるに外ならずんば、旧き習慣の記憶即悪癖の認識を実際自己を以て、或は他人を以て、五感に頼り、之を己れに新にする者は、何の時かその霊魂の清潔になるを望むべけん。その霊魂は何れの時に之より潔まるを得るか、或は彼は何れの時外部の抵抗より免れて己を察するを得るか心が日々汚さるるならば、人は汚穢より潔めらるべきか。人は外部の勢力の運動に対抗する力あるなく、軍営の中にありて頻繁の戦報を聞くを日々待つあらば、心を潔むる能はざるにあらずや。然らば如何にして人はその霊魂の為に平和を宣言するを敢てすべきか。されどもし此より遠ざかるならば先づ第一に内部の怒涛を少しづつ鎮静するを得ん。川は上方を塞がれざる間は下方の水は涸れざらん。人は黙想に入るときは、霊魂は諸慾を弁別して、その智慧を聡明に試みるを得ん。その時は内部の人も霊的行為に覚醒せられて、霊中に花咲く神秘なる智慧を日にますます感知せん。
問 人は如何なる確実の指示又は近き徴候により、霊中に隠れたる果を自から見るを始めたるを感知すべきか。
答 誰か強ふることなしに流れ出づる多涙の恩寵を惠與せらるる時感知せん、けだし智の為に涙を置かるるは、形体に属するものと、霊神に属するものと、慾に従ふ状態と、浄潔との間に置かれたる或る界限の如し。人は此賜を受けざる間は、その行は猶外部の人に成るのみにて、内部の人に隠れたる者の勢力を人は未だ全く感ぜざるなり。けだし人が此世の形体に属するものを棄つるを始め、此界限を踰えて、性中実に内部に属する者のあるを認むる時は、速に此の涙の恩寵に達せん。此涙は神秘なる生涯の第一の院に始まり、人をして神の愛の完全に上らしむべくして、人が漣々たる流涕により、食にも飲にも涙を交へて泣飲し始むるに至る迄は、いよいよ進歩する程益々此恩寵に富まさるるなり。
これぞ智が此の世界より出でて彼の霊的世界を感知したる確実の徴候なる。然れども人は智を以て此の世界に近づけば近づく程、此涙は減少すべくして、智が此の世界に全く止まるときは此涙は全く奪はるるなり。これぞ人が慾中に葬むられたる徴候なる。
- 涙の区別
焼尽す涙あり、又肥太らす涙あり。ゆえにすべて罪を悲むにより心の真髄より出づる涙は、肉体を乾かして之を焼尽さん、然れども涙を注ぐ時に当り、霊中に主たる所のそのものも之より害を感ずること稀なりとせず。人は先づ必ず涙の此階段に入らざるを得ざるべし、然れども人の為に第一の階段より更に愈れる第二の階段に入るの門戸は、之を以て開かるべくして、此涙は肉体を飾りて之を肥太らすべく、強ひずして、自然に流れ出づるものにして、已にいひし如く、こは人体を肥太らすのみならず、之が為に人の容儀も変ぜられん。けだし録して言へり、『心に喜楽あれば顔色よろこばし、心に憂苦あれば気ふさぐ』〔箴言十五の十三〕。