<< 種々なる事項に就て問答。>>
問 人心は悪に向はざらんが為に如何なる鏈鎖にて縛らるべきか。
答 恒に睿智に従ひ生命の教へに富むを以て縛らるべし。けだし意の放恣を抑へんがために、かくの如く有力なる鏈鎖は他に之あらざるなり。
問 睿智に従ふ者の進行の終極は何の処に之ありや、その学習は如何して完うせらるべきか。
答 その進行に於て此終極に達せんことは、実に能はず、何となれば諸聖人も此事に於ては完全に至る迄達せざればなり。睿智の路に終なし。之に由りて行く者が神と合するに至る迄は、上へ上へと進行す。無限に彼を追求するはこれその表徴なり、何となれば睿智は神自からなればなり。
問 我らを睿智に近づかしむる第一の途は如何なるか、その途の起首は何にあるか。
答 神の睿智の跡を慕ひ、全力を以て進行すると、此の進向に於て生命の終に至る迄全霊を以て急ぐと、もし必要あるときは生命そのものをも脱し之を自から抛つことをさへ神を愛するにより等閑視せざるとにあり。
問 誰か才智ある者と当然に名づけらるべきか。
答 此生命に界限のあるを真実に暁る者是なり。彼は犯罪にも界限を置くを得べし。けだしいかなる知識或は如何なる通暁は之より高尚なるか、即人が智慧附けられ、欲望の悪臭に汚されたる一の部分をも有せず、又欲望の甘きに留めらるる霊魂に何等の汚点をも有せずして、此生命より出て不朽に入るを暁るより高尚なるものありや。けだしもし何人か天地万物の奥秘に透徹せんが為に、その思想を練り、発明と観察とによりてもろもろの知識に富むも、その霊魂は罪の汚穢にけがされ、心中の希望に於ては証明を受けざるに拘はらず、希望の湊に幸に入りたりと思ふならば、世に彼より愚なる人やある、何となれば彼の行為は世に向て不断進行するにより彼をただ此世の希望にみちびきしのみなればなり。
問 誰か真実に最剛なるか。
答 生命と勝利の栄が隠るる一時の苦阨には心を慰めて、地獄の悪臭が潜伏し尋ぬる者に嘆息の分子を飲ましむる寛縦[1]を願はざる者是なり。
問 もし誰か誘惑に因りて善なる行為より離るるならば神に進行するに如何なる害あるか。
答 患難なくんば神に近づくあたはず、患難なくんば人間の正義も不変不易に守られざるなり、もし人は正義を増殖する行為を棄つるならば、之を保護する行為をも棄てん。されば彼は保護せられざる宝と同じかるべく、敵軍が囲繞せる時武装を剝がれたる戦士と同じかるべく、綱具を有せざる船と同じかるべく、渾々として流るる水の泉を以て多く潤されざる園と同じかるべし。
問 誰か悟性を光照せられたるか。
答 世の甘味の中に潜まれる苦味を尋ぬるを能くし、その口に此盃を飲むを禁じ、如何してその霊を救はんかと常に捜索し、此世を離るるに至る迄はその進行を止めず、五感の門を閉ぢて、此生命に対する執着の念を入らしめず、彼をしてその奥密なる宝を奪はしめざる者是なり。
問 世とは何ぞや。彼を如何に認識すべきか、彼を愛する者に幾何害あるか。
答 世とはその美を慕ひ之を熟視する者を引誘して之を愛せしむる淫婦なり。されば聊たりとも世を恋愛する情の主たるありて、之に絆さるる者は、その手より脱する能はずして、世はその生命を奪ふに至らん。而して世が人より一切を剝ぎ取りて、死する日に彼をその家より持去るならばその時人は実に世は淫者たると騙者たるとを確知せん。しかれども誰か此世の暗中に匿まるる間は之より脱せんと尽力するも、その路を覚るあたはざるべし。かくの如くなれば世はその門徒と諸子とを自己に引止むるのみならず、世に縛らるれど貪らざる苦行者らをも、又世の鏈鎖を破りて一時世より上に立ちし者らをも引止るなり。視よ種々の手段を以て彼らをその行為に於て擒へ、之をその足下に投じて、蹂躙するを。
問 病と困難とが身体を囲み、之と併せて意思は善なるものを願ふの望とその最初の堅きとに於て弱るときは、我ら之を如何に為すべきか。
答 一半は主の跡を追ふて行けども、他の一半は世に止まりて、その心は此世にあるものより脱せず、自己を分割して、或時には前を望めども、或時には後を顧みる者らを見ること稀なりとせず。ゆえに智者は『二心を以て主に就くなかれ』といひ〔シラフ一の二十八〕蒔く者の如く穫る者の如く就くべしといへるは、思ふに此の自己を分割して神の睿智の路に近づく者らに教訓を與ふるなり、主も此の不充分に世を棄てて自己を分割したる者らが肉体の慾を未だ自から棄てざるにより、畏懼と患難とに口を籍り、心意を以て、否確言すれば思念を以て後を顧みるを知り、此の心意の衰弱を彼らに擲たしめんと欲し、彼らに一定の教訓を告げていへり『我に従はんと欲せば先づ己を棄つべし』云々といへり〔マトフェイ十六の二十四〕。
問 己を棄つとは何を謂ふか。
答 十字架に上らんと準備せし者は、その心に死の一念を有し、かくの如くして十字架に上り、現世の生命に再び分を有するを思はざるならん。己を棄つることを実行せんと欲する者も此の如し。けだし十字架とは如何なる患難をも受けんとの意思是なり。主は此事の何故かくの如くなるべきかを教へんと欲するや、告げていへり、此世に生きんと欲する者は真生命の為に己を亡ぼさん、しかれども此処に於て我が為に己を亡す者は、彼処に於て己を得ん、〔マトフェイ十の二十五〕即十字架の路を進行してその足を彼処に於て立つる者は己を得んと。されどもし誰か此生命のことを更に慮るならば、これその出でて患難に向ひし希望を彼は自から奪へるなり。けだし此念慮は彼に神の為に患難に近づくを許さずして、彼が此念慮に従ふにより、漸々彼を誘ふて、苦行的有福なる生涯の中より引去るべくして、彼を征服するに至る迄は此念慮は彼に増々成長せん。我を愛するにより、『我が為に己の生命をその心に於て亡す者は、』間然する所なく傷はれずして、永遠の生命に守られん、『我が為に其生命を亡す者は之を得ん』とは即此義を示すなり。されば猶此世に於て此生命の為に己の生命を全く亡すに自から備へよ。もし此の生命の為に己を亡すならば、主は亦同じ意味にていへり、『汝に永遠の生命を與ふること』我が汝に約せし如くせん〔イオアン十の二十八〕。されど汝は此の生命に留まるならば、我が約束と未来の幸福に於る保証とを猶此処に実際を以て汝らに示さん。此生命を軽んずるときは、永遠の生命を得ん。此の武装を以て苦行に出発する時は、凡て患難憂苦と思惟せらるる所のものは、汝の眼中に軽んぜられん。けだし心が此の如く武装せらるるときは、彼の為に戦もなく、死の危きに臨みて憂愁することもあるなし。ゆえにもし人は未来の有福なる生命を望むが為に此世に於る自己の生活を憎まずんば、毎時毎刻来る所の種々なる患難と労苦とを全く忍耐する能はざる所以を確として知らんこと肝要なり。
問 如何して人は従前の習慣をすてて、欠乏と苦行的生活に慣るべきか。
答 身体は奢侈と懦弱とに資くるものの為に囲まるる間は、その必要を充たさずして生活するを甘んぜざらん、而して身体が凡て懦弱を生ずるものより除かれざる間は、智もその体を奢侈より止むるあたはざるべし。けだし奢侈と浮華との観場がその前に開かるるありて、懦弱に資くる所のものを殆ど毎時見ざることなき時は、火焔の如き欲望起りて、彼を衝動すること焼くが如くならん。故に贖罪者たる主はその跡に従て行かんことを約束したる者に、裸体にして世より出づべきを最善く誡命し給へり、何となれば人は凡て懦弱に資くる所のものを先づ自から抛棄して、その後事に着手せんを要すればなり。主も自から魔鬼と戦を始むるや、最無趣味なる野に於て開戦し給へり。パウェルもハリストスの十字架を己れに任ふ者に邑より出づべきを勧告す。いへらく『我らは彼の辱を任ひ、邑外に出でて彼に就くべし』〔エウレイ十三の十三〕、何となれば主は邑外に於て苦をうけたればなり。けだし人は世とすべて世にある所のものより己を分離するや、その従前の習慣と従前の生活の有様とを速に忘れて、此らの為に永く占有せられざらん。之に反して人を世と世の事物に近づかしむるにより、直にその智力を弱めん。ゆえに此の救済的及び苦行的の戦に大なる進歩を為すが為に、特に協力して之を導くは何物なるを知らんこと肝要なり、修道士の庵の貧しく欠乏なる状態にあらんことと、修道士の為に庵は空虚にして、安息の望を挑発すべきものを一も蓄へざらんことは有益にして、此戦に助くるなり。けだし人を懦弱ならしむる原因より遠ざかるときは、人は二様の戦に於て、即内部と外部の戦に於て危きを免れん。かくの如く安逸に資くるものを自から遠ざくる人はその欲望を起すものの近きに居る者に比すれば労せずして勝利を得ん。けだしここには二倍の苦行あるなり。
人はその住所の整頓設備の為に必要なるものを欠く時は、人の要求も易すく軽んぜらるべく、その要求を適宜に充たさざる可らざる緊要の時に於ても、人は之を視るに欲望を以てせず、何等の微物を以ても体を悦ばしめずして、之を見ること或る軽んずべきものを見るが如くし、食に近づくも之を甘んずるが為にあらず、性を助けて之を堅むるが為にせんとす。かくの如きの勉励は速に人を導きて憂ひず哀まざる意思を以て苦行に着手せしむるに至らん。ゆえに凡て修道士と戦ふものをば、之を避けんが為に疾足して、後を顧みづ、彼と開戦せんとするものと交通せず、之を一見するだも節制して、もし近づき来るときは、出来得るだけ之に遠ざかるは、勉励なる修道士に適当なり。予が此事を言ふはただ腹の為に言ふにあらず、すべて修道士の自由の誘はれ且試みらるべき誘惑と戦とにみちびき入れんとするものにつきて言ふなり。けだし人は神に来るときは、すべて左の件々を節制することを神と約束するなり、即婦人の面を窺はざること、美なる容顔を見ざること、何物に対しても願望を抱かざること、奢侈に耽らざること、装飾せる衣服を見ざること、俗人が開設したるすべての陳列場を窺はざること、彼らの言説を聴かざること、及び之を好着せざらんことを約す、何となれば慾念は凡て此らのものと接近するにより、大なる勢力を得て苦行者を懦弱にし、その思想と企図とを変ぜしむるによる。それ或る善なるものを一見するは、真の熱心者の同意を喚起して、善を成すに傾かしむるならば、之と反対なる所のものも心意を圧して、之を奴隷にする勢力を有すること明なり。而して黙想する心意と遇会するものは、或る大なるものには非ずして、ただ之を戦闘苦行に陥るるのみなるも、これ亦既に大なる損失なり、即心意そのものを平安なる状態より混乱なる状態に随意に陥るるなり。
それ奮闘に於て試みられたる老苦行者の一人は、鬚なくして婦人の如くなる青年を認め、之を以て思念の為に害ありとなし、その苦行の為に毒なりとなせしならば、此聖人の入りて兄弟を接吻するを躊躇したりしを、誰か之を等閑視してこれ我が事にあらずと為すを得ん。賢なる老人は熟々思ふやう『もしただ是夜に於て此処に之と相類する事のあらんを少しにても思ふならば、これ亦我が為に大なる害とならん』と。ゆえに彼は入らずして告げていへり、『子よ予は恐れず、さりながら何の為に予は徒らに自己に向つて戦を起すを願はんや。之と相類する何事をか想起するは、心に大なる混乱を生ぜん。餌は此身の各肢にかくるるありて、之により大なる戦は人に臨まん、されば人は自己を保護して、その来らんとする戦をば己の為に緩うして、逃走を以て救はれんこと肝要なり。然れども人よ、何事か接近し来るときは、たとひ己を善に強ゆといへども、常に之を見、且は之を願ひつつ早くも危きに瀕せん』。
地中には多くの埋没せる薬物を見るべきも、夏は炎熱の故に何人もこれを知らず、然るに滋潤至りて清涼なる空気の力に触るる時は、各薬物の地中何処にか埋まりしものあらはるるなり。かくの如く人も黙想の恩寵と節制の温暖に居るときは、実に多くの慾念より休止せん、然れどももし世事に関渉するならば、その時各慾念は起りてその首を昂るを見ん、矧や安息の香気に触るる時に於てをや、予が之を言ふは、此肉体に居る間、死せざる間は、誰も自負に陥らざらんが為なり、且予はすべて邪なる生活にみちびく所のものを避け、且之に遠ざかり、苦行的戦闘に於て大に人に助くる所のものを示さんと欲するなり。或る想起の我らに耻をかうむらしむるものを畏るること又之と同じく良心を蹂躙せざることと之を軽んぜざることは、常に我らに肝要なり。終に我らは身体を一時野に遠ざくるを試み、之をして忍耐を得せしめん。しかれども最重要なるは、おのおの〈此事は各人の為に心を痛ましむべしといへども之が為に人は最早何も恐るる所あらざるべし〉何処にありとも、戦の原因となるものより遠ざかるに尽力するにあるべし、これ需要が生じ来らん時、その要求を充たすべきものの近きにあるがため之に陥るを免れん為なり。
問 種々の引誘を自から絶ちて苦行に入る者は、罪と戦ふに如何なる起初を為し如何に奮闘し始むべきか。
答 すべて罪と欲望とに戦ふが為に起初となるべきものは、労苦と儆醒と禁食となることは衆人の知る所なり、矧やもし誰か我らが内部に居る所の罪と闘ふに於てをや。此の見えざる戦を作す者らが罪と欲望とに対して之を憎むの徴候は此を以て認らるべくして、彼らは禁食を以て之を始め、その後夜間の儆醒は苦行に助くるなり。