目次
【 NDLJP:362】
巻之九
見しは昔、慶長三年の事かとよ、夏の
暮かた四五人
門立して涼し処に、
小者にはさみ箱かつがせ
海道を通る人有り。あらふしぎや大名にはあらず
伴する者もなし、誰にてましますらんと能く見れば、江戸本町のなまりや六郎左衛門なり。我も人も是を見て、
扨々きやつは出過者、ぜんたい国大名のまねをして、はさみ箱をかつがせとほるぞや町人のぶんとして似合はぬ振舞かな、よもおのれがにてはあらじ、
大名衆のはさみ箱をやかりつらん、たそがれ時なれば人はしらじと、世勢をするのみたもなさよ。我等が前を過ぐる時はづかしくや思ひけん、頭をもたげず通り行うしろすがたのをかしさよ。只是大名と太郎冠者が
狂言に
能似たりと、指をさして笑ひたりしが、今は高きも賤きも皆はさみ箱をかつがする、是のみならず、
当世の
風俗昔に
替り
美々敷事のべ尽すべからず。
見しは今、
老楽といひて年よりたる
下郎有り。若き
比骨を
砕きて
身上をかせぎ銭をたくはへて後、
山城の国愛宕山のふもと谷水といふ
在所のほとりに居住して有りしが、毎月朔日一度づつ
世間の
身持を
沙汰する。此
物語を聞く人はかならず福者となりて、
長くえいぐわにあふべしといひならはす。我
其比京へ上りたりしが、此由を聞き願ふに
幸哉、さやうの事ならば関東より
態々上りても是を聞かでは有るべきかと、月の
朔日を待ちえて、いそぎ谷水といふ
在所を尋行きしに、この
談義を
聴聞せんと、
老若男女群集す。八十有余の翁びんひげ白髪なるが、三尺ほど高き
床にのぼりて云ふやう、それ
仏法世法は車の
両輪のごとく鳥のりやうよくにたとへたり。然に
仏法修行と云ふは若き
比けうげを廿年三十年
修行し、後の世にこがね仏と成つてたのしみにあはん事をよく
推量したるを、
智者上人とはいへり。
爰に
春屋和尚と申してたつとき人まします。
檀那問ひけるは、
極楽へとく参りたしといふ。
和尚一首を詠ず。つみとがのおもきをすくふ
方便は
極楽よりも
地ごく成りけり。ぼんなうの大海に入らずんば
菩提の国をうべからず。先
地ごくに入るべしとのたまふ。是もつとも
殊勝也。又或人善をば何となすべきやらんと問ふ。僧答へて、
殺生せよせつしやうせよ、殺生をなさば地獄に入る事矢の如しといはれたり。是も有がたし。されば仏は
現在の
過を見て
過去未来を知ると説かれたり。然るときんば、
現在にて三
世明白也。
今生まづしければ
後生またしか也。故に
仏法世法は車の
両輪といへり。扨また世法修行と云ふは、
身体はつぷを父母に
請けし形をかへず、そのまゝにて
若き
比より老いてたのしむべき事を
修行せり。身体あへてそこなひやぶらざるを孝のはじめなりと、
孝経にもかゝれたり。
楽天が云く、一
期のはかりごとは
幼稚に有りと也。
道品々にかはるといふとも、他の宝をかぞへて半銭の得あるべからず。たゞわが身をかへりみ
油断不機根にして立身なりがたし。人となる者は安からず。安か
【 NDLJP:363】る者は必人とならず。銭をたくはへて後、
現世安楽の
福人とよばれんは仏の位にひとしからずや。我等かた
〴〵請けがたきぼんぶ、
人身をこゝにうけて一世たのしみにあふ事、たゞ是銭にしくはあらじ。され共是をうる事かたし。
爰に
貧者くらまのびしやもんへ
参籠し福を祈りける処に、しやだんよりむかで一つはひ出でたり。是はいかなる
仔細ぞと神主に問へば、あのむかでの
隙もなく手足をうごかすをみよとの教へなり。是に付ても皆人
宿に
昼寐して心安く有るべき身が、是まで遠路をはこび給ふ心ざしかへす
〴〵も有がたくたのもしく覚え侍る。遠き所もいで立つ足もとよりはじまると、古人の申置きしも
立身の
肝要、いさめを云へる成るべし。山もふもとのちりひぢより起つて
天雲のたな引く迄おひのぼるがごとし。されば
堺にもずや
宗安といひてうとくなる人有り。此人に貧者あひて云けるは金を願へども来らざるはいかにと問ふ。
宗安答へて、
先銭を願ふべしといふ。実に銭はねがひ安かるべし。一銭かろしといへ共重ぬれば貧しき人を富める人となす。扨又京たちうり
宗和が所にて、
碁会有り。
本因坊と
利玄との
碁うちみだれ興に乗じ、
利玄一
手打ちて尾張の国うつみの浦に大網をおろしたりと申しければ、
本因坊一手打ちて、一目づつもはまをたしなめといはれたりと人かたる。
本因坊の云へるこそ
金言なれ。此
心持有る故に、利玄に
半石つよく、
名人のほまれ天下に聞え有り。此人
算砂と名付たるは、猶以
殊勝也。いさごをかぞふるならば其中にかねをひろふべし。
古記にも
砂石をひろふ者必
金玉をうべしといへり。されば
沙汰の二字はいさごをえるとよめり。それいかにとなれば、金といさごと取まじへ、それ
〴〵にえりわけ、金の道理を取て非のいさごをえらび捨て、
是非分明也。然に今日の
世法旁々徳分に五ヶ条の
金言を沙汰する者也。是をよく聞覚えつかの
間も忘るゝ事なかれ。
一、第一人間の定命百歳其上不定の事
一、第二家職に油断なき事
一、第三一銭をつかふに安からざる事
一、第四みぢんつもつて山となる事
一、第五しやつくわくが身をつゞむるも、一たびはのべん為なり。然に銭有て用ひざらんは、有財餓鬼となづく。其上われだによく物くひ、心安くあらばと願ふは、たゞぶんちうのごとし。小人は独たのしむ、君子は衆とたのしむと古人も云へり。是を耳のそこによくとゞめなば、徳の来る事火のかわけるに付、水のくだるにしたがふが如し。などか富貴の家にいたらざるべき、あなかしこといひければ、皆人聞きて有難しとて退散せり。
見しは今、
知人四五人同道し
愚老所へ尋ね来り給ひぬ。われ出逢たまさかの御出何をかもてなし申さん、あたらしき
肴はなきかとひとりごといへば、客の中に一人申されけるは、
亭主は我等を
馳走ぶり見えたり。余の物は
無用、皆々
鰒汁
好物なれば、
肴町に鰒有るべし。たゞ鰒汁よといへる処に、又一人鰒
【 NDLJP:364】汁のもてなしならば、
鶴白鳥にもまさり成るべし。たゞ鰒のあつ物よと口々にいへり。
愚老聞きて鰒汁安き
御所望也。然共
爰に
物語の候、我知人に
中嶺源右
衛門と云ふ人、常に鰒汁を好みしが、
去年の
夏鰒
肝にあたつて血をはき忽死にたり。愚老それを見しより、鰒はおそろしく候。又
当年伝馬町にて、彦三と申者鰒を好みしが、ある時
干鰒をくひ死たり。扨又此程こあみ町にて鰒をくひ、親子けんぞく七人家一つにて死たり。是を見しよりわれおくびやう心にや、鰒の沙汰を聞けば身の毛よだつ也。此度鰒汁をば免るし給へと申しければ、其中に竹田庄右衛門と云
年比五十
計の老士聞きて、亭主の申す処
理しごくせり。唯今思はずしらず鰒のさた有りしに、若き衆たはぶれ事に
所望なり。我も此
已前人の相伴に鰒汁をくひつるが、くふうちにも少心にかゝり、食して後も何とやらん忘れがたかりし。鰒を食しては酒をのみたるがよきと聞きつれば、われ下戸なれ共酒を多くのみたりしに、却て酒に酔ひて胸とゞろく。是は鰒故か酒故かとしばしが程心えなく思ひつれば酒さめたり。鰒食しては誰がおもはくも同じかるべし。然るときんば客に鰒をもてなす
亭主は
無分別者成るべし。鰒無用と申されければ、若き
衆是非のさたなし。爰に或老人此物語を聞きていひけるは、
医書に鰒は大温肝に毒ありとしるしたり。然るに去年
通町にて人々
寄合鰒料理せしが、此鰒人ためならずとて手づから生鰒をあらひ、肝を取て捨て血あひ骨迄も切捨て、みどころ計をよくこしらへ、にごり酒に一時ひたし料理して、八人
寄合しよくせしに、其内五人は則時に死、三人は十日程病みて後
本復す。此人々町にても人にしられたる人也。鰒をくひあまた死にたると
沙汰あらば、かばねの上の
恥辱なるべし。時のくひちがひとてさたもせず。上代と
末代は人の性も違ふ故か、
肉計くひて人多く死する事必定なれば、鰒を食して益有るまじくかく、
愚かなる人を仏は
譬へて、経に犛牛尾を愛するが如しと説かれたり
〈[#「犛」は底本では「(牙+攵)/耳」]〉。此牛の尾に
劔有り。是を牛ねぶれば舌きれ血出る、血の味ひすうして甘し。是によつて好みて尾をねぶり、終には舌破れて死すと説けり。牛は
畜生たるにより物をしらず。それ欲のきはめは命に過ぎたる物なし。天下にかへざる大切の命を持ちていける間よろこばず、
毒魚と知つてふくすは、世のしれものなりと申されし。
聞きしは今、江戸町に
兼然法師と云人云けるは、世間の人万物いはひさらに道理なし。諸人年の内より春の来るをおそしと待つ事如何なる
仔細ぞや。紀伊が歌に、はかなしやわが世も残りすくなきに何とて年のくれをいそぐぞとよめり。また
基俊、いづくにもをしみあかさぬ人あらじこよひばかりのことしと思へばと詠ぜり。然に皆人
極月廿九日
晦日に成りぬれば、元日の祝の
為にとて
魚鳥畜類の肉を
用意す。是は何事ぞ、経に肉を食する口は
死尸を捨る
塚なりと
戒め給へば、却てわざはひをまねくにあらずや。
節分の夜大豆をまき、
明春元日にはまづ
年神を祝ひ、
詩人歌人は詩を作り歌をずし
連歌をつらね悦びのみいへり。是又
心得がたし。
俊成卿述懐の歌に、沢におふる
若菜ならねどいたづらに年をつむにも袖はぬれけりと詠ぜり。元日人来て愚老を若く成たるといふ、
仔細分別なし。言葉計のあらま
【 NDLJP:365】しはうしと云前句に、身をいはふ
初春毎に老の来てと
宗砌付給ひぬ。我は去々年よりも去年、こぞよりもことし、年をとり重るに随て、
眉白くなり
腰屈み、眼かすみ耳聞えず万苦み重る事、
惜みても余りあるは
年の
暮、うらみてもうらめしきは年の初也。
拾遺に、かぞふればわが身に積る年月を送りむかふと何急ぐらんと、
兼盛よめり。人間春を
重ね月日を過す事、たとへば
屠処の
羊のごとし。
歩々死に近し。故に
兼然春をいはふ事なしと云ふ。我聞きておろかなる
法印の云ひ事ぞや、
節分の
夜鬼は外へ福は内へとをさめ、
煎大豆をかぞへ、舟をゑがきて敷などするを、なやらふ鬼やらひ共
歌連歌に詠ぜり。是は
大内にてのまつりごと万民是をまなべり。天下において春の初のことぶき、是仁義のもと
人倫のたもつ所の命也。古歌に、むつきたつ春のはじめにかくしこそあひしゑみては年はけめかもと詠ぜり。年のはじめしたしき中あひ見えていはふ事、
寿命延年の法也。天子も元正の
寅の時清凉殿東庭へ出御有つて星を拝し給ふ。すべらぎの星をとなふる雲の上に光のどけき春は来にけりと詠ぜり。ぞくしやうを拝し
災難を
除く
趣は、大地ずゐしやうしに見えたり。雲の上に聞えあげよとよばふらん年のはじめの
万代の声とよめり。旗をふりて万代の声と万歳をとなへ給ふと也。正月の神は
女体ばんご大王の
乙姫にてまします。
本地文珠師利ぼさつ御名は待連神と申也。一
切草木
国土いきとしいける物
有情非情迄も、春の来るをよろこばずと云ふ事なし。春は東よりはじまる故、草木春をつかさどる、陽に向へる花木は春に逢ふ事安し。まして人間においてをや。正月
朔日の
御節会に
子の日の祭りとて、
諸卿達集つて二枝の松を持寄て、朔日
辰の時是を植ゑ、神歌をうたひ政をなし給ふ。扨又白散と云
薬を正月
朔日一人是をのめば一家
無病、一家のめば一里
無病と云々。元日の祝言目出度仔細あげてのべ尽すべからず。昔
天竺仏性国に一人の
大外道有り、名付て
大量王といふ。三
界にあらゆる所の大外道にて、
仏神三
宝王法をけがしさまたぐる者也。その国にいます加璃帝王彼雲王をせめ殺て、肉をげんたんと云ふ薬にねりて、
国土の人民に与へ給ふ。是を
食服する者悉若きに返り、病有る者は則ちいゆ。国土
豊饒にして
長命富貴也。天より請次て三国に是を用る。正月七日を五
節供の第一として七種の糝する事、彼大曇王が
肉皮を切集めて
肉遠丹にせし
姿也。是を食して一
切の人民の
命を延ると云々。
惣じて五
節句は曇王が政也。正月七日を
人日と云ひ、三月三日を
仙源と云ひ、五月五日を
端午と云ひ、七月七日を七夕と云ひ、九月九日を
重陽といふ。皆其日々々に
仔細有り。元日を
祝ふ事、
漢土には詩を作り和国のことわざには歌をよむ事常也。三元悦びの言の葉をば高も賤も詠じ給へり。
尋常の詞も和歌に用ひて思ひを述れば
感応有りとかや。おろかなりともよし和歌と云前句に、春秋のあはれをしらぬ身はかなしと
紹巴付給ひぬ。予も又人の数ならねど心ざしさえ
難きあまりに、
蜂腰卑詞を語りて
当春の元日に、日の本や
人の国までけふの春と申し侍りぬ。新古今に、けふといへば
諸越までも行く春を都にのみと
思ひけるかなと詠ぜり。
昌琢の
発句に、老木にも花さく春のめぐみ哉とせられたり。
法印老いたりともいかで春をよろこばざらん。悦ぶ気の前に幸の来る事、
内典外典に多く記せりと、皆人も申されけれ
【 NDLJP:366】ば、
法印返答なかりし。
見しは今、
角田川は武蔵と下総のさかひをながれぬ。されば河なかばよりこなたには石有るあなたはみなぬまなり。
爰に浅草の者云ひけるは、下総の国に石なき事を、浅草の童部どもあなどり笑つて、五月になればゐんぢせんとて舟に石をひろひ入れ、河向ひに見えたる
牛島の里の
汀へ舟をさしよせ、
牛島の
童どもをつぶてにて打勝ちて利口を云つて、年々笑ふ。古歌に、うなゐ子が打ちたれ
髪をふりさげて向ひつぶての袖かざすなりと
詠しは、下総の国
牛島の童子どもの事かと思ひ出せり。
去程に牛島のわらは是を
無念に思ひ、常に
武蔵の石をひろひぬすみおき、五月
浅草の子共側の舟に取乗来る時、牛島のわらは岸根に出てゐんじをする。其岸へ打ちたるつぶて
頓てこなたの
岸へよると語る。
愚老聞きて、木石心なしといへども花実の時をたがへず。武蔵の石は下総の地にとまらず。かくのごとくの国境を如何成るか、よくしりて分られたる事の不思議さよといへば、老人云り、石に
性有り水に音有りと古人も申されし。此国を六十六ヶ国に分る事は、
行基菩薩国々の水をのみ分給へば六十六
味也。然る間、六十六ヶ国に定め給ふ事、忝も
文武天皇の
御宇慶雲の
比ほひ也。此行基ぼさつはそのかみ三十九代
天智天皇の御時たんじやうしてよりこのかた、
天武天皇、
持統天皇、
文武天皇、
元明天皇、
元正天皇、
聖武天皇、
孝謙天皇迄八代の御代を経たりと云々。八十二歳にて
入滅す。和泉の国
大鳥の郡の人
高志氏、
百済国王の
流也。聖武の時代に、
大僧正と号す。
孝謙の
御宇に
菩薩号をおくり給ひぬ。日本において
寿命の人也。扨又国かはれば人形心声言葉もかはる。
鳥類、
畜類、
虫魚、
草木、
山川、土石に至るまで国々によつてかはる事、今さら
不審までも有るべからずと申されし。
見しは今、
佐々木大学助と云人、
山上半蔵と云者に申されけるは、近日大阪へ
御陣立の御ふれ有り、
能よろひは持ちたるが、かぶと気に入らず。御目をかけらるゝ大名着料のかぶと多く有り、一押
所望の状を遣すべし、其方
能筆なれば書きてたべと硯を出す。半蔵筆をとり、扨かぶとゝいふ字をばいづれを書候べしといふ。大学助聞きて、われ不文字也、かぶとゝいふ文字数多あらば、
何成とも書給へ。半蔵聞きて、されば
甲冑の二字を日本にてはかぶととよろひとよみ来る所に、
礼記の書には甲をよろひ冑をかぶとゝよみ候。此二字のよみさかさまに
漢和相違せり。然るに日本読によむ人有り。
礼記〈[#ルビ「らいき」は底本では「らいれ」]〉のよみこそ本なれと用ひ給へる方も有り。人々心にかはる。すべて此かぶとの文字に相違あらん時は、ひたすら筆者のあやまりにこそなり候べけれと、筆を捨て
退出す。われ此義を能筆の人に語りければ、老士聞て、日本は
万唐国の例を学ぶといへども、又相違の義多し。あげて記しがたし。されば遠州につさかといふ里に、
当年仔細有つて
数多所より江戸御城へ申来る文に、日坂、新坂、入坂、外坂と書きたり、正字覚束なし。是に依つて、此中此里の
御制札にも仮名に書遣したり。正字は其在所の者知るべし。
【 NDLJP:367】しかればかぶとゝ云ふ字、甲冑二字の外に多し。
執筆の
半蔵不文字にて是を知らざるや。
縦正字を知るといふとも、さし当て用の事あらば、仮字に書いてよるしかるべし。
難字を書きて読とかずは、其用
調ひがたし。扨何の益あらんと申されし。
見しは今、江戸通町に
喜斎と云老人有り。新五郎といふ若き
知人あひて云ひけるは、御身そくさいにて長命をたもち給ふ。扨御年はいかほどぞととふ。老人聞きて腹をたて、牛馬のうりかひにこそ年の尋はする物なれ。ほれ者うつ気
者也とさん
〴〵に悪口する。
新五郎聞きて年の尋に
御腹立実々是は
御道理至極、我
若輩にていひあやまり
許させ給へと、詞をやはらげたぶらかし云ければ、老人いよ
〳〵腹をたて、さやうに道理を分る奴めが、年の尋はきつくわい也と、心いられたる老人にて、こぶしを握つて新五郎がしやつらをはりければ、鼻のあたりやいたみつらん、鼻血ながれて見えにけり。新五郎
無念にや思ひけん、はり返さんとちからを出し、鼻のあたりを心がけさん
〴〵にはりければ、又老人のはなよりもくろ血たりてぞ見えにける。去程に此人たちつかみあひはり合ひて、上をしたへとせし程に、ふたりの人の姿をみれば、たゞくれなゐの小袖をきたるふぜい也。其
町人があつまり
月行事先立て云けるやうは、此程
御服町のたなにて
与三郎と云者柳枝をけづるとて小刀にて指をきり、少し血の出たるさへ
御奉行所にて
疵帳に付けられたり。かほどまで血をあやめし人達なれば、御奉行所へつれて行き、きず帳に付べしと云ふ。あたりの町衆是を聞き、御服町の与三郎は小刀にてもきれ、それは
切疵なれば、手おひ帳に付られたり。是はこぶしきずなれば鼻のそここそ痛みつらめ、はなの穴より血は出でたり。あたり
腫れたる
計なるを
手負帳には付がたし。以後に
訴人有りとても、あたりの
町衆も見たりといひて相談してぞさりにける。かたへなる人此けんくわを見て申されけるは、老人に対して戯語を云ふは、先づもてあやまり也。されば
先哲の
遺文を見るに、心上にやいば有つておほくは人命をやぶる。川下に火有りてこれがために人身をそんずといへり。是すなはち
忍災の二字をさす也。一旦のいかり
堪忍しぬれば、心上の刄をまぬかれ、水火をふまずして
災難のうれひなかるべし。然間小人は
遠慮なきをうれふと云々。世間は虎おほかみもなにならず人の口こそ猶さがなけれと
詠ぜり。
養生に耳目は是うれひをなす、
口舌はわざはひをなすと也。又云、口は是わざはひの門、舌は是わざはひの
根、
万般のわざはひ皆
口舌より出るといへり。
獺と云ふけだものはたはぶれくるひあそび、はてには一方くひ殺す。かるが故にたはぶれして後に
腹立人をば、をそのたはれといふ。古歌に、世中はをそのたはれのたゆみなくつゝまれてのみすぎわたる哉とよめり。戯言なれども思ふより出といへるなれば、出言につゝしみなきは愚なり。老者を敬し少者をあはれむは、是義なり。此理知らざる故のわざはひなりと申されし。
【 NDLJP:368】
見しは今、江戸の町人とめるもまづしきも心やさしくありけり。わづかなる庭のほとりにも、花木を植置き詠給へり。誰とてもかゝるみやびこそねがはしき事ならめ。一花開くれば四方の春長閑にて、紅花の春のあした、こうきんしうのよそほひかや。りうこうそんが詩に、洛陽三月春錦の如しと作れり。げにも花故に里も鄙びねば、江戸はさながら花の都、匂ひ芬々として、わうさきるさに花のすり衣、色香に染まぬ人もなし。伝へ聞く、だいご雲林院の花は九重の匂ひくんず。其比は君も君たる故、政ただしく仏法王法さかんにして、花も香をまし色も妙也。此花を見る人は、憂ひを忘れ悦びあへり。去程に忘憂花合歓桜と、皇より号し給へり。今又目出度御時代なれば、花も心有てや匂ふらん。若俄に山風野風吹来て妙なる花をやちらさんと、硯薄紙をくわいちうし、花の下の狂仁雲に似、霞の如し。心々に詩をうそぶき歌をずし給へり。是に付ても、いにしへ詩人歌人の花の詠こそ面白けれ。躬恒が歌に、いもやすくねられざりけり春の夜は花の散るのみ夢に見えつゝと詠ぜり。西行法師、ねがはくは花の下にて春しなんその二月の望月の比と、よみしもいとをかし。楽天が詩に、はるかに人家を見て、花あれば便ち入る、貴賤と親疎とを論ぜずと作れり。紹巴の発句に、武蔵野もはてあらん花の吉野山。又智薀は花一木植ゑぬ都の宿もなしとせられしも、今江戸町の様に思ひ出でられたり。昔或王、都の内の家居毎に花を植ゑてあいし給ふ。夫より花洛と云事始りぬ。古今集に、見渡せば柳桜をこきまぜて都は春の錦なりけりと、素性法師詠ぜり。昔都に桜町の中納言と云人は、桜を愛し給へり。猶も吉野の桜を移し四方に植ゑおき、其中に屋を立て住給ひければ、皆人此町を桜町と云。中納言をば桜町の中納言とぞいひける。七日に花の咲きちるを歎き、たいさんぶくんを祭り給へば、三七日よはひをのべたりければかくぞ思ひつゞけて、千早振荒人神のかみたれば花もよはひをのべにける哉と詠ぜり。皆人今宵は花の下臥しておぼろ月夜にしく物はなしと打詠め、ねぬる夜を花の思はん朝哉と聴雪せられしも、花に来てねぬる者をば花も大切におもはんと云心かや。され共、花見にと家路におそく帰るには待つ時すぐといもやいはましとよみしも又をかし。誠に人の心のうき立つ物は春の気色也。宗砌の発句に、いづれ見ん花の俤月のかほとせられたり。てうとくりんがこうせいろくに、春の月をもてあそぶに、秋の月にもまされりといへり。月さへ春は秋にまされりなどと、思ひ〳〵心々にふる事をまじへいひかたらひ、木本毎にやすらひ花を友と明し暮し給へり。或人是を見て申されけるは、夫人のおそるべきは、執着愛念也。生死の久く流転する事あいよくのいたす処也。古今集に、大かたは月をもめでじ是れぞこのつもれば人の老となるものと詠めり。此歌をよく沈吟せば、人の教誡のはしたるべし。草木経をとくと云は、春花咲秋紅葉する是をしへ也。たゞ人は無常の身にせりぬる事を心にひしとかけて、つかの間も忘るまじきは此一事也。さあらば此世のにごりもうすくなり、仏道を勤むる心もまめやか成るべし。執心をたち色欲をやめて、真実の解脱の門にいらん事こそねがはしき事ならめ。心を物にとどむるときんば、微物といへども以て病とす。されば謝良佐は程子のよき弟子也。一つの硯を持て宝【 NDLJP:369】としけるを、程子物をもてあそべば志をうしなふといひければ、良佐汗をながして其まゝ硯を捨てたり。志を寓すると、とゞむるの二つをよくわきまふべき事也。いにしへの荘周は片時のねぶりのうちに、胡蝶と成つて百年が間、花の園に遊ぶと見て覚めぬ。詞花に、百年は花に宿りて明しけん此世は蝶の夢にこそあれとよめり。又人に見えなば夢よことわれと云前句に、たが玉かあはれこてふとなりぬらんと、宗祇付られたるこそ殊勝なれ。この句にもとづき察するに、江戸の町衆には、胡蝶や生れ来ぬらん、荘周や分身したりけん、花のもとの狂仁はかなき夢のたはぶれをなせり。新古今に、ながむとて花にもいたくなれぬれば散るわかれこそかなしかりけれと詠ぜり。かく色にめで、香にそむることをもとゝしてよき道をしらず、人間は色欲の二つに迷へり、おそるべし。此執心執着をはなれ浮世を夢とさとり、身命をまぼろしのごとく思ひて世をいとひ、出離げだつの道に入給へかしとぞ申されける。
見しは昔、江戸
町屋敷のわりあましに
洲崎有りしを、
新福寺と云
坊主此洲を
屋敷に
拵へ寺を建ておく。此
坊主つく
〴〵案をめぐらし云けるやうは、夫江戸は天下のみなもと
諸侍の集るちまたといへども、八幡の宮立なし。われ此洲を石にてつきたて、其上に新八幡宮
武士の
氏神を
建立すべしと云て、日木六十六ヶ図を大ぬさをかつぎ廻り、
大名小名の家々
村里浜辺の
在所迄も、残りなくくわんじんする。それははや七八年以前よりのはかりごとぞや。いまだ
宮柱一本のしたくも見えず。
史記に大行はさいきんをかへりみずと云々、如何なる小事にかゝはり
延引ふしぎ也。但広大なる工故、こんりふなりがたくや有りぬらん。昔頼朝公
治承四年の冬鎌倉へ打入り、
先鶴岡の
若宮を建て給ふ。同五年に至て、仰には
当宮去年かりに
建立そこつの義なれば、松を柱かやの
軒を用ひらるゝ、
若宮再興有るべしとて、武蔵の国
浅草に
郷司と云大工の
棟梁を召され、
梶原平三
景時、
土肥次郎実平、
大庭平太景能昌寛等を奉行として、花構の義をなし
専神威をかざり、
養和元年七月廿日
宝殿棟上の
儀式ありと云々。此宮を
末代迄も
関東の弓矢の
鎮守にいはひ奉る。ていれば、
新福寺先大かたにも社を建給へかしといふ。傍へなる人云、それはまだ遠き引句なり。夫人の家ををさむる
次第は内より外におよぼし、近きより遠きにおよぼすと、先哲も申されし。是
金言也。されば十年
以前の事かとよ、桜田山へ
愛宕飛び給ふと
風聞する。是は
希代不思議哉と、われも人も此山へのぼりて見れば、草村の中にたゞ
幣帛ばかりを立置きたり。其後草のかり
屋を結び御幣ををさめ、
愛宕をしゆご申せしが、今みればしやうごん
殊勝におはします。扨又
神田山の
近所本郷といふ
在所に、昔より
小塚の上にほこら一つ有りて、
富士浅間立たせ給ふといへ共、
在所の者
信敬せざれば、他人是をしらず。然所に近隣こまごめと云里に人有て、せんげんこまごめへ飛来り給ふと云て塚をつき、其上に草の庵りを結び、御幣を立ておきつれば、まうでの
袖群集せり。本郷の
里人是をみて、わが
氏神をとなりへとられうらやむ計也。今見れば、こまごめの
社建直しあけの玉がき前に
大鳥井立て、しやうごん
殊勝に有て、皆人是へ参る。神は人のうやまふに
【 NDLJP:370】よて威をますと云事思ひ知れたり。れいげんあらたにおはしますと云ならはし、近国他国の
老若貴賤皆悉くこまごめの富士せんげんへ
参詣し、六月一日
大市立て
繁昌する事
前代未聞なり。かくのごときの二つの大円鑑日前に有て、新福寺
明暮拝すといへども、其わきまへなきをいかゞせん。古語にがつはうの木も毛末よりおこるといへるなれば、まづわづかに草のかりやしろを結び、
御幣なりともたておき、そんじようそこに
新八幡宮御立有と、日本橋のほとりに
高札立ておくならば、江戸は
物見たけき所にて
貴賤群集をなし、はんじやういやましならん事をしり給はぬのうたてさよ。
見しは今、江戸町に
幾右
衛門と云人有り。
謡ひを
明暮にうたへり。しる人有りていさめけるは、其方
謡をふかくならひ給ふは、
芸者になりたき望かや。さればある歌に、おんぎよくはたゞ大竹のごとくにてまつすぐにしてふしすくなかれとよめり。其方の謡を聞けば、
上がかりに
似ず
下がかりにもあらず、ふし
多くしてことば直ならず、かなはぬ
芸をば打捨て、よの芸をならひ給へ。賢よりかしこからんとならば色をかへよと、
子夏は申されしに、がひさわにもとりえとて、人には必生つき一つは有る物也といふ。
幾右
衛門答て、
御異見尤道理至極せり。去りながらわれまつたく
芸者の望にあらず。然に
寒山と云ひし人は、常に手にはゝきをさげて五ぢんろくよくの
塵埃をはらへり。我は
謡をけいきよくの口舌にあつらへて
胸塵をはらふ。其上謡のおこりを尋ぬるに、
地神五代あまてるおんかみの御時、天の
岩戸の前にて、
八百万神あそび
神楽歌をそうし給ひしよりはじまれりと也。是昔神代のまなびなる故、能謡をば何たる祭り
祈祷よりも神は請給ふとかや。扨又
猿楽と云事は、
人皇五十代の帝
桓武天皇の
御宇、ひえいざんのふもと
坂本に猿三疋
寄合、二疋は
舞楽をなし一疋は楽に合て手をたゝく。是則ち
山王権現の
示現なれば、或大臣是を学ぶ。四
座に
定舞楽をなし能と雖するは、四天王をかたとれり、其子孫金剛、
金春、
観世、
宝正是也。人間のはじまり
恋無常仏法世法有りとあらゆる道理をわきまへ、
過現未迄もくわんずる事、此一曲の徳ならずや。されば
高徳下賤の
座席にも
千秋万歳の悦びをうたひ給ふ事、世もつてさらに尽すまじ。又
老若酒宴遊楽にじようじて同音にうたひ給ふ時には、
自他のしうたんをのぞき、たしやう一ぺんの所得道也。扨又夜つれ
〴〵の折から一曲をかなでし時に、百八ぼんなうの雲はれ、
五濁の水かげ清く
真如の月ほがらか也。されば謡をうたふ事人間のみにかぎるべからず。花に鳴く鶯水に住む
蛙の声を聞けば、いきとしいけるものいづれか歌をよまざりけると、顕昭文に書かれたり。爰をもつて
文選には、
声曲有るを詠といひ声曲なきを謡とは云へり。謡歌と書てはくせゝり歌とよむ。謡うたふともよめり。皆人の歌ひ給ふ
高砂に
有情非情の其こゑ皆歌にもるゝ事なし。
草木土沙風声水音皆是仏事をなせり。是を名付て経とすとしやくし給へりと云。皆人此物語を聞きて、
実も謡はあまたの徳義ありけるぞや。春の林の
東風にうごき、
秋の虫の北露に鳴くも、皆謡のすがたならずや、有がたしといへり。
【 NDLJP:371】
見しは昔、
慶長年中家康公唐船を造らしめ給ひ、浅草川の
入江につながせ給ふ。かゝる大船をつくり海にうかべる事、
汀にては人力も及びがたかるべし。いかやうなる手だて有て出るや、
更に分別におよばず。先年
江戸御城石垣をつかせらるゝによつて、伊豆の国にて大石を大船につむを見しに、海中へ石にて島をつき出し、
水底深き岸に舟を付、陸と舟との間に柱を打渡し舟をうごかさず、
平地のごとく道をつくり石をば台にのせ、舟のうちにまき車を仕付て綱を引き、陸にて
手子棒を持ちて石をおしやり舟にのする。舟中にまき車の工み
奇特也。古歌に、我
恋は
千引の
石のなくばかりと詠るは、千人して引く石をちびきの石といへり。今の時代には
大名衆西国の大石を大舟に積江戸へ持来て、千人引は扨おき、三千人五千人引の石を幾千とも数しらず引給ふ事おびたゞしかりけり。扨又唐船海中へ出す事、海に
綱引まき車も立て難し。
陸にて
手子ぼうも及ぶべからず。されば昔
実朝の時代鎌倉
由井浜において唐船を作らしめ給ふ。是に
仔細あり。
奈良より
陳和卿と云者鎌倉に
参著す。是は
東大寺の大仏を作りたる宋人なり。されば
東大寺供養の日、
右大将家奈良へ
進発此寺へ
御参詣けちえんせしめ給ふの次でに、頼朝公
和卿に
対面有て、
後世の道を聞せしめんが為、しきりに以て命ぜらるゝといへども、
和卿が云、
貴客は多く人命をたゝしめ給ふの間、
罪業是重し、
値遇し奉り難し、其はゞかり有と云々。依てつひに謁し申さず。然共
当時将軍実朝に於ては、
権化の再誕
恩顔を拝せん為
参上をくはだつるの由是を申す。則ち
筑後の
左衛門尉朝重が宅を
転ぜられ、
和卿が
旅宿とす。先
大膳大夫広元朝臣を
御使としてつかはさる。其後
和卿を
御所に召され
御対面有り。
和卿実朝を三度拝し奉り、すこぶる
沸泣す。
将軍家其礼をはゞかり給ふの所に、和卿申て云、
貴客はいにしへ
宋朝育王山の
長老たり。時にわれ
門弟に列すと云々。実朝
仰せられて云、此事さんぬる
建暦元年六月三日
丑の
刻将軍家
御しんの間に、
尊僧一人
御夢中に入て此趣をつげ奉る。
御夢想の事あへて以て御言葉に出されずの処に、六ヶ年におよびて
忽以て
和卿が
申状に
符合す。
仍て
御信仰の外他事なし。然処に将軍家
先生の
御住所育王山を拝し給はんが為、
諸越に渡らしめ給ふべき由思召立によつて唐舟を
修造すべき由、彼和卿宋人に仰付られたり。
御供の人六十余
輩に定め、
結城朝光是を
奉行す。
相州武州しきりに是をいさめ申さるゝといへども、
御許容にあたはず舟の沙汰に及ぶ。漸唐船出来し、彼舟を出さん為、
建保五年四月十七日
数百輩の匹夫をもろ
〳〵の御家人等に仰付、彼船由井の浜に浮べんとぎす。実朝公御出有てかんりんし給ふ。
信濃守行光今日の
行事として、諸人是を引事午の
刻より申のなゝめに至る。然ども此所の
為体唐船出づべき海浦にあらずと諸人申ければ、将軍も見捨て
還御し給ふ。此舟いたづらに砂の上に
朽ちそんずと古記にみえたりといへば、人聞て唐舟作るは
地形と
湊をもつぱら見立る。鎌倉の浦は常に汀の波高く、
遠浅海にして小舟の出入も安からず。いかに況や唐舟をや。天下の主の
御威勢にても出づべからず。
宋人も
番匠も舟を陸にて作る事のみ思ひて、海へ出すべき事を
弁へざるは愚の至なり。
陸より
【 NDLJP:372】唐船を海へうかべる
方便なくして出でがたし。夫大石に足はなしといへども、舟におきぬれば
大海万里を過ぐる、是も
方便に依つて也。先年作らしめ給ふ浅草川の
唐舟は、伊豆の国
伊東といふ
浜辺の
在所に川あり。是こそ唐舟作るべき
地形なりとて、其浜の砂の上に柱をしき台として、其上に舟の敷を置き、半作の比より砂を掘上げ
敷台の柱を少しづつさげ、堀の中に舟をおき、此舟海中へ浮べる時に至て
河尻をせきとめ、其河水を舟のある堀へ流し入れ、水のちからをもて海中へおし出す。此たくみを昔鎌倉の人はしらざるにや。
見しは今、木の実様々有る中に、かきは
異名多し。木練、木淡、
熟柿、しぶ
柿、めうたん、
串柿、
柿餅は
古来仕出せり。つるし柿は近年出来たるが、犬鼻とは悪柿の名也。色品により味ひもかはれり。されば
濃州に大なるじゆくし有り。
大御所様御自愛浅からず。故に人はうびして
御所柿といひならはす。然ば
愚老さる
屋形へ
伺候の
折節、主人の御前へ
杉箱を五あたらしく葢を釘にて打付持出る。主人云、
上書に進上御所柿百入と書付候へ
執筆かゝんとせしに、まてしばし是は
御年寄衆へ進上也。上書に御所柿とはおそれすくなからずや。たゞじゆくしと書くべきかと家老を召て問ひ給ふ。
家子申て云、熟柿と書ては常の柿と
覚召さるべし。此大柿を御所柿と天下にさたし、
進物の
上書に皆遊ばし候、苦しかるまじと申ければ、則書付送り給ひぬ。主人念を入給ふもすこぶる
神妙也。長臣申つるもしか也。され共この
両条分明しがたしと、朋友の中にて
愚老語りければ、一人云けるは、此柿は
美濃の国より
毎年江戸へ奉る故、余へもらす事を
禁制し、此国にて
信敬の
異名也。其あまる所世上にひろまりぬ。ほとんど皆人のとさんなどに御所柿と号する事はゞかり有るべきか、ていれば
御年寄衆の中に一人、其つゝしみ有て御所を略し、熟柿到来と返札有るならば、
諸士いかでおそれなからんやといへば、又一人云、いや世上の人口を一人してあざむかん。
屈原が世こぞつて皆
濁れり、我ひとりすめり、衆人皆
酔へり、我独さめりといふに
似て、
賢人がましからんか、屈原は此言葉故に
流罪せられたり。いま
目出度御時代にて、
諸侍仁義を専とし文を学で物を知給ふといへども、知らざる体につゝしみあり。此かきのみならず、世間にいひ伝ふるそゞろごと多し。文字も一
点のあやまり有て
漢和相違の有事を、今
下学集などにおほく記し出せり。此等の一字
両様の異逆それをそれと知りながら、古風をとがめず今をもすてず、両字共に皆人用ひ給へり。すべて儀といふも事の字義にしたがひ、一様に定おくべからずと
孟子に見えたり。万事はわが心に
具足せり。たゞ時のよろしきにしたがふを善とすと古老いへるなれば、あながちにとがめて益なしといふ。老人聞て夫みきとは酒の名也。
三木とかく一説有、又
神酒と書り。此故にや神へ
供する時はみきといふ。御供みごくといふ
崇敬の故也。いはゆる御の字は天子の外に用ひがたし。御門の奉供をば
供御贄と
号す。されば、
磯菜品多き中に伊豆の国のあまのりは
名物也。
甘苔紫苔共書けり。治承の比ほひ、
頼朝公天下を治め
武将にそなはり給ふに依て、
【 NDLJP:373】翌年の
春豆州より、ぐごの
甘苔と号しかまくら殿へ奉る。頼朝
聞召し是は伊豆の国より
御佳例として、
毎年御門へさゝぐる
供御のあまのり、
則御門へ奉り給ふ。又
腹赤のにへとは魚也。九州
宇土郡長浜より帝へ奉る。
景行天皇の御時はじまる。
元日節会に奉供事は
聖武天皇の御宇に
始まる。下々においてくひやう取渡御書御教書と号す。然に
御所とは
公方の御名也。
末代に至ては
御所柿と云伝るとも、
当御時代において
御所柿と号し、どさんなどにほどんどはゞかり
少なからずやと申されし。
見しは今、江戸
繁昌にて諸人ときめきあへる有様、高きも賤も、老いたるも若きも、かしこきも愚なるも、彼まどひの一つやんごとなし。されば吉原町を見るに、遊女共我おとらじとべにおしろいをかほにぬり門毎に立ちならびたるは、誠に六宮のふんたいの
顔色も是にはまさらじといへば、
中立聞きてなう御身たちはしろしめされずや、ふんたいをめさるゝはかたち愚なる人のはかり事也。此
上臈衆の外に和尚さまと名付、容色
無双の
美人達おはしますが、此人々は生れながらの色かたち其まゝにて、ふんたいと云事をば名をもしり給はず。其
面影花にも月にも
譬へがたし。はら
〳〵とこぼれかゝりたるびんのはつれより、ほのかに見えたる
眉の匂ひ、ふようのまなじり、たんくわの
唇、心
言葉もおよばれず。
金翠のよそほひをかざり
桃花の
媚をふくみ、人目をよぎておくふかく
屏風きちやうの内にまします。
御面影あからさまにかいま見る事もかたし。せめて御身達に玉簾の隙よりもれ出る衣のかをり計をそとふれさせまゐらせばや。つたへ聞く、
業平の中将にちぎりをむすぶ女三千七百三十三人侍るうちに、べつして十二人を書きあらはし侍る中に、
紀在常のむすめ第一に書れたりしも、此
上臈衆によもまさらじ。
此和尚さま達の
御姿をばかんの
李夫人をうつせし画工もゑがくべからず。梅が香を桜の花に匂はせて柳が枝にさかせたらんこそ、此姿にもたとふべけれ。昔かぐや姫といふ美人有りしが、是に皆心まどはせり。此姫のいはく、我に逢みん人は
龍の首に
五色に
光る玉あり、それを持来りたまへ。
諸越に有るひねずみの
皮衣を取りてたべ。天竺こうがの底に有るこやす貝を取て給べ。東の海にほうらいと云山有り、それに銀を根とし金をくきとし白き玉を実として立る木あり。一枝折つて給はらんと仰有りしかば、皆人聞きて世にも有る物なればこそ、かぐや姫のこのみ給へるとて、こま、
諸越、天竺へ宝をもたせ人を数多遣はして、是彼と求め来るを姫に奉れば、是にはあらず益なしとのたまふ。また
金銀珠玉にて物の
上手に玉の枝を作らせ送給へば、誠かと聞きて見つれば言の葉を飾れる玉の枝にぞ有りけるとて、終に人間に逢給はずして、天人と成て天上へあがり給ひぬと、竹取物語に見えたり。若此かぐや確にやたとへん。たゞ是天人の
影向し給ふぞとかたれば、皆人聞て其
面影を一目見ばやと心空にあこがれ浮立雲のごとくなり。
去程に此遊女を諸人に見せ心をまどはせんとはかり事をめぐらし、
能かぶきの
舞台を爰かしこに立ておき、そんじようそれさまの御能有り、かぶき舞有りと高札を立ておけば、是を見んと
貴賤くんじゆをなす処に、
笛太鼓つゞみ
謡のやくしやをそろへはやし立
【 NDLJP:374】つる時に、をしやうぶたいへ出ひきよくを尽す遊舞の袖、是や
誠の
天人ぞと皆人見ほれまよひて、此世は夢ぞかし、命も
惜からじ、宝もようなしと、蓄へ持ちたる財宝を皆尽し果て、そのうへはせんかたなく人をすかして銭金をかり、身のおき所なうしてかけおちする者もあり、ばくちすご六を打ちて御
法度におこなはるゝも有り、
主親の
貴命にそむきちくてんするもあり、盗みをなして首切らるゝも有り、女をさしころし
自害し共に死するもあり。下べの者は其家のふだいにつかはるゝも有り。身のはて色々様々也。
此由御奉行衆聞召、とかく彼らを江戸におくべからずと女の数をあらため給ふに、をしやうと号する
遊女三十余人、その次の名をうる
遊女百余人、皆こと
〴〵く
箱根相坂をこし西国へ
流し給ふ。
実にや此道は智者も愚者もかはる事なし。
戦国策に
男色老をやぶる、
女色舌を破るといへり。此道ふかくつゝしむべき事也。