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巻之二
 
 
 
見しは今、上総国富津と云浜辺の里に、正左衛門と云漁翁有しが、江戸へ魚うりに切々せつ来る。此者言けるは、今年有難き御霊夢を蒙りたり。阿弥陀金色あみだこんじき身相しんさうを現じ来迎らいがう有て、来々年の十月十五日にはかならず迎に来り、我を西方極楽へつれ立つべしとのたまふ。かたく約束申したりとて、夜昼怠らず念仏をとなふ。扨知る人に逢ては其由を語り、来世にてこそ又逢はめといとまごひする。皆人聞きて沙汰しけるは、正左衛門が申所さらにうたがひなしといへども、かゝるためしはいにしへを伝て聞かず、おぼつかなしと云所に、老人聞て、去る事も有ぬべし。建久五年五月二日、鎌倉由井の浦辺の漁父ぎよふ病なうして頓死とんしす。往生わうじやう瑞相ずゐさう有と諸人こぞつて是を見るに、端座かづしやうしていさゝかも動揺せず、生きたる者を見るがごとし。頼朝公此由を聞召し、随喜ずゐきの余り梶原三郎兵衛景茂を以て尋ねしめ給ふの所に、此男日比魚釣を以て世渡のはかりごとゝなす。たゞし其間に弥陀の名号みやうがうを専ととなへ、後世をいとなむの由申と云々。扨又成元二年九月三日熊谷小次郎直家鎌くらを立て上洛しやうらくす。是又直実入道蓮生坊れんしやうばう来十四日に京東山の麓に臨終すべき由をしめし下すの間、是を見とぶらはんが為也。直家云、我進発しんぱつの跡に此事御所中に披露すべき由申に依て、直家鎌倉を立て後此事披露ひろうする。珍事ちんじの由各御沙汰共有り。然るに因幡前司広元朝臣云、兼て死期しごしるごん化の者にあらすば、うたがひ有るに似たりといへ共、彼入道は世塵せぢんをのがるゝの後、浄土じやうどをごんぐし所願堅固にして称念修行しようねんしゆぎやうす、あふいで信ずべきかと云々。然に十月廿一日東平太重胤しげたね京都より鎌倉へ帰参す。則御所に召る。洛中の事を問しめ給はんが為也。重胤しげたね先申て云熊谷次郎直実入道去ぬる九月十四日の未の刻をもて、しゆくゑんの期たるべきよし相ふるゝの当日に至て、京中結縁けちえん道俗だうぞく東山の草庵さうあん群参囲繞ぐんさんゐねうす。其時刻じこく直実入道衣袈裟けさを着し、礼盤らいばんのぼ端座たんざしてたなごころを合せて、高声かうじやう念仏ねんぶつをとなへてしうしゆうす。兼ていさゝかも病気なしと東鑑に記せり。すでにかくの如き仔細有り。此正左衛門は穢土ゑどをいとひ、浄土じやうどを願ひ、一心不乱ふらんに弥陀をとなふるより外に他事なし、申所決定けつぢやうるべしといへり。やうやく三年の月日きはまり、当年十月十三日十四日にも成りければ、正左衛門が死日こそはやめぐり来りたれ。是を見んとて、相模国三浦より舟にて渡海とかいし、安房、上総、下総よりも人参りて正左衛門が死さまを見んといふ。此在所このざいしよ小笠原安芸守といふ人の領地也。正左衛間が女房子共にようぼうこども地頭ぢとうへ行き、さを聞名及ばれて候らん。はやみとせの日数めぐり来て、明日は夫の正左衛門が死日にあたりたり。阿弥陀の迎に来り給はん事は不定、さなくば正左衛門は一すぢに思ひきりたる事なれば、首をくゝるか海へ身をなげ候べし。我等が異見叶ひがたし。ともかくも死なざるやうにはからひ給へ地頭殿と、なきくどき申ければ、地頭より使を立られたり。明日正左衛門西方極楽ごくらくへ行事誠しからず。夫世間の定相ぢやうさうなき事をばによむげんはうやオープンアクセス NDLJP:261如露亦如電によろやくによでんと仏も説れたり。故に聖人に夢なしと文中子ぶんちうしに見えたり。医書いしよに五夢と記したるは是五ざうの病也。されば夢のうちの有無は有無共に無也。其上をのれば、明暮あけくれ魚の命を殺し地獄ぢごくすみかを願ひ、くるしみの海にしづむべき造悪ざうあく無善の者が、何善根ぜんごん有てか極楽参り覚束おぼつかなし。然といへども、阿弥陀来りつれ立ならば是非に及ばず行候べし。さなくして川へ身をなぐるか首をくゝる事ならば、三年の間きよごん者曲事たるべし。女房子共火あぶりはり付にかけべしと、さもあらけなく申されければ、正左衛門聞て、是は思ひもよらぬ地頭殿の仰かな。阿弥陀の約束むなしくば、阿弥陀のきよごんにてこそ候べけれ。此正左衛門が恥にて有べからず、などか無理は行けん□。扨又如来不取正覚ふしゆしやうがくの御せいやく、あに虚妄きうばうにあらんや。それ人間命を養ふ事わざ品々ありといへども、われ若年のいにしへより、此浦にすなどつて一生悪縁あくえんをむすび其罪おびたゞし。生死しやうじの海にちんりんし、六だうしやうごふのがれ難し。然といへども宝王論はうわうろんに、一念弥陀仏即滅無量罪ねんみだぶつそくめつむりやうざいと説き給ふ。法然上人ほふねんしやうにんの御言葉に、往生極楽わうじやうごくらくの為には、南無阿弥陀仏と申せば、疑なく往生わうじやうするぞと思ひこりて申外に、別の仔細しさいは候はず。此外に奥深き事を存ぜば、二尊の御あはれみにはづれ本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人は縦一代の御法をよくよく学ずとも、一文不知の愚鈍ぐどんの身になして、あま入道の無智の輩におなじくして、智者の振舞をせずして、たゞ一向念仏いつかうねんぶつすべしとのたまへば、愚なる身もたのもしきかな。八十億刧おくごふの生死のつみきえ、来迎引接即得往生らいがういんぜふそくとくわうじやううたがひなしと云。十月十四日の夜も、明十五日にも成ぬれば、正左衛門を近所大乗寺と云浄土寺へ行き、仏前ぶつぜんに高く床をかゝせ、其上にのぼつて西方に向ひたなごころをあはせ、りんじう正念しやうねんしてしようみやう念仏十ぺん計となへ、声とともに大往生をとぐ。動きはたらかず生たる者の如し。貴賤老若群参きせんらうにやくぐんさん礼拝らいはいせずと云事なし。是をみし人夢に不思議ありと物語りせり。
 
 
見しは今、江戸繁昌にて、屋作やづく家風いへふう尋常に、万美々敷事よろづびゞしきこと前代未聞ぜんだいみもんなれば、田舎人ゐなかびと見物に来りくんじゆをなす。爰に室町むろまちの棚に、平五三郎と云て心横道わんだうなる人有り。此者つく思ひけるは、今江戸の町我人の風体ふうていいしやういちじるしければ、田舎者はぢらひてあたりへ寄附よりつきがたし。我そらばかをつくり、田舎者を近付て物をうらんとたくみて、髪ひげむさとはえさせ、かみ頭巾づきんを目の上まで引かぶり、つゞりたる古小袖のえりをふかく折て、衣紋えもん引つくろひ木綿もめん袴のよごれたるをむな高に着なし、手に長数珠ながじゆずをつまぐり、口に題目をとなへ見せ棚に打かゝり、そらいねぶりして居たり。知る人たち是をみて、古き文に、官禄をよくする者は其詞かざる、忠義を思ふ者は其詞直なりといへるは、是にておもひしられたり。平五三郎が作りばかの有様あれ見よと、皆人ゆびさし口びるをうごかさゞるはなかりけり。然に田舎人江戸を見物し、帰るさ在所へのみやげ物をかはんとて、室町むろまちを見めぐりけるに、からあやの狂文きやうもん唐衣からぎぬ朽葉地くちばぢむらさき、どんす、りんず、金襴きんらんにしき、色々様々の美麗なる物どもをつみかさね、ぶげんさうなる人たちのならび居て、何をかめす御用かと問ふ。田舎者の事なれば、はづかしオープンアクセス NDLJP:262がほにて物かはんといひ出さん事は思ひもよらず。見世の方をばまなじりにかけ腰をくゞめ、御免候へ御免候へとふるへ棚の前を通り行計にて、立とゞまり、物かふべき所なし。見れば是なる棚に長じゆずをつまぐり、後世願ごしやうねがひと相見えて、まらうど一人有り。無骨ぶこつなる姿風情すがたふぜいは我等が里のいくじなし左衛門四郎によく似たり。此棚にて物をかはでは有るべきかと思ひ、是なるきるものむすめに似合たり。ねはいかほどぞととへども、此者時々目を開き耳をそばだて、ありと云て口をあき、我は耳が遠きと云て、又ねぶり、口に題目だいもくをとなふ。田舎者是を見て、江戸の都にもかゝる姿ぶこつにてばか者ありけるぞやと思ひ、なう棚主殿たなぬしどの是なるきる物銭三貫にらしめと、耳の方へ口をよせてよばはる。ねぶりをのこ是を聞き、此小袖こそで一貫にもとくうりたし。扨三貫にうらんと云ならば、田舎者こひそこなひと思ひてにぐべし。何々此きる物二貫にかひ度とや、やすく候、いやと面をふり又いねぶり、題目だいもくをとなふ。田舎者是を見て我三貫と云しを二貫といふは、誠に耳がきかざるや、たぶらかさばやと思ひ、扨々おぬしはよくとくにもとりあはず、後世ごせの事のみ思ひ給ふ有がたき人なり。我里の左衛門四郎と云人に、よく似させ給ひたり、誠の仏よといふ。其時ねぶり男目をひらきにつこと笑ひ打うなづき、其事よ、今は皆夢のたはむれ、我人あすをも知らぬうき世也。おわれの里の左衛門四郎殿はおきやうしうにておはするか、あらありがたや、正直捨方便しやうぢきしやはうべんと一の巻に説たまふ。たとひおきやう宗にあらずとも、神は正直のかうべにやどり給ふ。皆人の物うるを見るに、おぬしたちのやうなる山家の人には、を高く云かけ、一貫のきるものを二貫三貫に大利を取て売るおそろしや。神仏のいましめをも思はず人をたばかるとがにより、地獄にて鬼にせめらるゝ事を知らず。われは平五三郎といひて、江戸にて隠れなき後世願ごしやうねがひの正直者也。一貫の売物に銭五十の利あればとくうり、二貫の小袖に銭百文の利あれば、早くうり其の日の口を養ふ。とかく此口ある故、かゝる少しの利銭を人前より取と思へば、一日も早くりやうぜん浄土じやうどへ参りたしと願ぶ計なり。唯々正直正路しやうじきしやうろなる人こそ神なれ仏なれ。何々此きるものおぬしの娘子似合たるとや、我もむすめをもちたり。誰とても子には着せて見たき物ぞ。おきやう御本尊おだいまんだら、此じゆずぞ代物だいもつ二貫はやすけれども、おぬし真人まにんさうなる人なれば後迄の知る人に成べし。人には逢て見よ、馬には乗て見よと也。なんぞまれ用あらば、又も尋ね来り給へ。其しるべに此きるもの二貫文にまけ候ぞよと云てうりたり。おそろしき平五三郎がたばかり、いふに絶えたり。されば人の心の好意かうあくはなはだ常ならずし、白氏文集はくしぶんしふに見えたり。白頭あらたなるがごとし。がいをかたむけていにしへのごとし。いかんとなれば、知るとしらざると也。是雛陽が伝思ひしられたり。人はたくみにしていつはらんより、つたなうして誠有にはしかじ。扨又虎班こはんは見やすく、じん斑は見がたしとなり。知らぬ人には心ゆるし給ふべからず。
 
 
聞しは今、或人云けるは、和漢合運わかんがふうんと号し、日本は人皇神武此方このかた、慶長十六年迄の支干しかん、年数世間のオープンアクセス NDLJP:263有様うつりかはれる事迄もつぶさに記せり。我是を見るに、慶長けいちやう十年十二月十五日、南海八丈島辺に大山一夜にわき出、今に其山有と書たり。ふしんに思ひ、近年八丈島渡海する者に、此義を尋るに、一円なき事也といふ。かく誠にもあらぬそゞろ事、末の世迄も云伝ふべし。扨又日本六十六ヶ国の郡、山、海、草木、田畑、村里の事迄も如何なる人かよく知りて記したる文あり。其中に伊豆国は、三郡此外大島ひる島有りと記せり。是に一つの相違さうゐあり。豆州の海には、大島、桑島、戸島、新島、幸津島、宮城島、都島、三倉島、八丈島と名付、大きなる島九つあつて人里多し。されども蛭島ひるがしまと云島はなし。然るに平相国清盛へいしやうごくきよもり公平治の合戦に討勝うちかち、源義朝公一類を亡ぼし、鎮西八郎為朝右兵衛佐頼朝をば命をたすけ遠島へ流罪せらるべしとて、日本の島々を是彼と尋給ひしが、右の書物をや見たりけん、為朝をば伊豆の大島へ流されけるに、嘉応二年三十三歳にして島にて自害じがいす。頼朝をば同国蛭島ひるのしまへ流し給ひぬ。其蛭島ひるのしまと云は島にはあらず、田方の郡北条の近所きんじよに在る里の名也。然るに清盛公の使者伊豆へ来て、ひるしまは是かと云々。頼朝は北条へ流され、二十一年の星霜せいさうをむなしくおくり給ひしが、治承四年平家追討つゐたう院宣ゐんぜんを給はり、清盛公をほろぼし、一天四海を治められたり。是ひとへに聞あやまつて無き事を書伝し故、頼朝公徳をうけ給ひたり。わざはひも幸も事世の不思議也。扨又唐国に禹が筆といふ、夏の禹王の時の能書のうしよ也。黄帝くわうてい玄孫げんそんあざ名は文命と申き。流るゝ水に文字を書に、水流れず。此人天下の境、一切万物さいばんもつを書記す。是を山海経さんかいきやうと名付。是はたゞ人にあらず、権化ごんげの人なれば虚言きよげん有るべからずと云々。人も知らざる事を我身いみじく心えたるよしして、口才利口こうさいりこうがほせり。老人聞て、愚なる事云事哉。和漢合運わかんがふうんにかぎらず、いにしへより記し置きたる書物に相違さうゐ多し。内典外典ないてんげてんは広き事なれば一様にあらず。三国共に摺本すりほんなどにもあやまり来れる事共有、とがむべからず。すべて世間の事は、定不定也ぢやうふぢやうなり。悪とてもうれふべからず、善とても悦ぶべからず。天道は広大にしててんねん也。此理を分明ぶんみやうせざる故に、万に疑心ぎしん有りといへり。
 
 
聞しは今、江戸町に仲信と云人なまがしこき事計いへり。強く世間のげんさうをくわんずるに、飛花ひくわ落葉らくえふの風の前には、有為うゐのてんべんをさとり、電光石火でんくわうせきくわの影のうちには、生死の去来きよらいを見ると、皆人柏崎かしはざきの謡にうたひ給へるこそ殊勝なれ。されば天ものいふ事なうして、物々みな是をしめす。扨又孔子物いはじと思ふと云時、子貢が云、門弟何をかのべん。子のたまはく、四時現はれ万物生ずること、天のなす所也と云。言葉はなくて色に見えけりといふ前句に、春秋をくさ木にうつす天津空あまつそら宗祇そうぎ付たり。然るに仏は見る事聞事に迷ふと、いづれの経にも説置給ふといへども、是に一つの相違あり。見るはうつゝ迷ふべきに非ず、聞くは夢の如し、迷へるはことわり也。夫いかにといふに、仏は三がいまよひのぼんぶを安楽世界あんらくせかいへむかへんとて、八万四千の教化けうげとき置給ふ。此有がたき御法みのりを、智者上人たちは種々様々のたとへを引き、手を取り道引やうに、廿年三十年教へ給ふといへども、流転生死るてんしやうじオープンアクセス NDLJP:264の業はなせ共あきたらず、浄土菩提じやうどぼだい妙楽めうやくめでたかるべき事をも、迷ひの耳にて聞けば、白川をも渡らざる旅人の物語とうたがひ迷ひせかせり。さて見るは、万箇目前の境界きやうがい、柳はみどり花はくれなゐ疑心毛頭ぎしんもうとうなし。後拾遺しふゐに、思ひねのよな夢にあふ事を、たゞ片時のうつゝともがなと詠ぜり。扨又面影のみはいかゞ頼まんと云前句に、絵にかゝぬ誠を見ばや彼仏と、法印行助付給ひぬ。然則ば迷はぬ目にて極楽ごくらくのしやうごんのたのしみを一目見るならば、などか後世をねがはざるべき。故に古人は千聞一見にはしかじとこそ申されしと云。老人是を聞て、夫れ人の心づかひおろかにしてつゝしめるは、徳のもと也。工にしてほしいまゝなるは失のもと也。夫仏法僧それぶつぼふそうをあざむく者はむげん地獄のすもりとなる。維名といつし者、僧をあなどりしかば、九十一ごふ虫に生まれて苦しみをうくといへり、後撰集ごせんしふに、なほき木にまがれる枝も有るものを、けをふききずをいふぞはかなきと、かなり高津親王たかつしんわうえいぜり。己が利根りこんに迷ひ、毛を吹て過怠くわたいのきずをもとめんとする人也。漢書かんじよにくだを以て天をうかゞひ、貝を以て海をはかり、いをもつて鐘をつくといへるがごとし。奸智かんちの者一人国にあれば、万民のわざはひとなる故に、正道をぎやうずる者は、仏意神慮ぶついしんりよに叶ひ、邪道じやだうを行ずる者は、人のあざけりを請て咎を招く。百様を知て一様を分がたきは、世のならひ也。腹中に味ふる事もなく、世上をはゞからず口にまかせ仏法をそしり、うかべがほにくてい見苦敷覚侍り。其上不勘ふかんにして歌を引事ひがこと也。住吉、玉津島、天満天神の神慮もおそろし。天道を恐れず仏説を軽じあざむく事、まづ世の外道げだういふにたらずと申されし。
 
 
見しは今、江戸通町に久斎きうさいと云針たて医師いしの有しが、去廿五日湯島の天神へ参詣さんけいせしに、神田町にてざうりの緒をふみ切り、せんかたなくあたりを見れば、見世棚みせだなにわらざうり一足さげ置たり。此棚へたちより、我天神へ参る者なるが、草履の緒をふみ切り、中途にて詮方なし。此ざうりかはん、さりながら代物しろもの持ちあはせず、借し給はぬかといへば、ざうり主此体を見て、わら草履一足安き価なり。其方にあたふる、はきて天神へまゐり給へと云。しらぬ者にやさしき志をかんじ、はきて天神へ参りたり。帰るさに是なる町を見れば、爰かしこの家よりけてんがほにて人走出で、是なる家にあつまりて、扨も

俄事笑止にはかごとせうしやいたはしの事やと云て啼声なきごゑする。久斎如何なる事ぞと思ひ立ちとゞまり、よく見れば、先程わらざうりもらひし家也。是は何事ぞ、問ばやと思ひ立寄り、此家に如何なる事の有りけるぞやと問へば、此家主宗円入道十四五の独りむすこの有りつるが、俄に喉痺出来、喉つまり半時はんときに死たりと云。久斎人中を分入り、いかにや亭主、我先程天神へ参るとてわら草履貰し者、針たて医者也。喉痺の煩にて死たるとや、我針をたてむすこの命を助くべしといふ。親是を聞てよろこび、頼申す、はやと云。久斎巾着より針取出し一針さしければ、此者いきをつき出しよみがへりたり。皆々これを見て、扨も不思議の出合にて命たすかりたる事、天神の御利生ごりしやうかや、又は生薬師きやくし現来げんらいかと思ひに沙汰するオープンアクセス NDLJP:265処に、かたへなる人申されけるは、かゝる奇特きとくなる仕合、いづれ仏神ぶつじんの御恵にて有べし。されば月は四州を照し給ふといへども、分てはたゞ慈悲正直のかうべにやどり給ひぬ。扨また人を利するものは天必是に幸す、人を賊する者は天かならずこれが為にわざはひすといへり。慈悲ある人はよく天道てんだうに叶ひ自然に感をもよほせり。列女伝れつぢよでんに陰徳ある者はやう是にむくゆ。徳は不祥にかち百くわをのぞくと云云。かるが故に陰徳有者は、必陽報やうはうり。楚の孫叔敖そんしくがうは両頭の蛇を見て殺し埋みたりしも、陰徳いんとくあるに依て、はたして令尹れいいんの官にのぼり、後は楚国そこくの政を行ひしも陽報の理にかなひたり。扨又周の文王の時、一国の民あぜをゆづること有り。はかなや今の国のあらそひと云前句に、いにしへの小田の畔をもゆづる世にと、行助付給ひぬ。文王一人の徳諸国にあまねきが故、万人やさしき道をまなべり。古き言葉に、国正しき時は天心したがふ。官清きときんば民おのづから安しといへり。今の御時代君の御心無欲むよくにまして、賞罰しやうばつの間に私の御心なきが故、万民是にはぢ欲心よくしんうすくやさしき心也。此宗円そうゑんわら草履一足、わづかの心ざしたりといへども、誠の慈悲心じひしんたちまち通じ、現当げんたうなるめぐみにあづかる事、是天地の神明の感ずる処にあらずや。

 
 
見しは今、国治り土民迄も安楽あんらくたり。世澆季よげうきに及ぶといへども、君じんとくを、ほどこし給ふによつて、仏法王法ともに繁昌す。ありがたき御時代也。然ば日本五畿七道は、人王三十二代用明天皇御宇に定まり、六十六ヶ国に分けらるゝ事は、四十二代文武天皇御宇也。道をば四十五代聖武天皇の御宇に行基ぎやうき菩薩ぼさつ六町一里につもりて王城よりみちのく東浜ひがしばまに至りて、三千五百八十七里に極め、又長門西浜にしばまにいたりて、一千五百七十八里に慥に図書にしるし置給ふといへども、其境さだかならず。是に依て当君の御時代に一里塚をつくべきよし仰出たり。されば日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町わりの時節新敷出来たる橋也。此橋の名を人間はかつて以て名付ず。天よりやふりけん地よりや出けん、諸人一同に日本橋とよびぬる事、きたいの不思議とさたせり。然に武州は凡日本東西の中国にあたれりと御諚ごぢやう有て、江城日本橋を一里塚のもとゝ定め、三十六町を道一里につもり、是より東のはて西のはて五畿七道残る所なく一里塚をつかせ給ふ。年久治ならず、諸国乱れ辺土遠境へんどゑんきやうせばくなる処に、曲たる処をば見はからひ直につけ道をひろげ、牛馬のひづめの労せざるやうに石をのぞき、大道の両辺に松杉を植ゑ、小河をば悉く橋をかけ大河をば舟橋を渡し、日本国中民間往復のたよりに備へ給ふ事、慶長九年也。万人喜悦の思ひをふくみ、万歳を願ひあへり。有がたき将軍国王の深恩しんおん、末代迄もいかで是をあふがざらん。
 
 
見しは今、三縁山増上寺住持貞蓮社慈昌源誉普光観智国師と申は、浄土の明智識にてまします。是弥陀みだの来現か、善導法然ぜんだうほふねん化身けしんかと沙汰し侍る。天にも師匠にあふぎ給へば、此国師を諸宗共に尊敬そんきやうす。オープンアクセス NDLJP:266其上増上寺は公方家くばうけ御菩提寺ごぼだいじ仏閣ぶつかくいらかを並べ七実をちりばの、御建立こんりふ誠に祇国精舎しやうじやもかくやらん。僧俗門前市そうぞくもんぜんいちをなす。諸行無常の鐘の声に、百八ぼんなうの生死の罪をめつし、すみやかにさとり得てねはんの門にいたらざる人やあらん。されば此寺御普請ごふしんの時分、人足共石をよわく引き土を少う持を国師御覧じて、にくいかれらが振舞哉。いにしへも仏道修行として、きそう石を引き、うんかん土を運ぶ。其上一向専修かうせんしうといへば、是万事に通ずる所の仏法の大意也。無法者をかしやくするは、是師家しか持戒ぢかいとせり。いで物見せんと大声を立て眼をいからし棒を取て出給へば、とがあるもとがなき者も肝を消し、嵐に木の葉の散る如く、四方八面へにげ行く。あらおそろしや俗儀のつよき増上寺の上人や、地獄遠きにあらず、目の前の境界ぎやうがい悪鬼あくき外になし、所化しよけ共をかしやくせしくせとして、すでに人足ども打ころされんとしたりといひて、ためいきつく事度々に及ぶと皆人云。老人聞て、尤此上人外相ぐわいさう荒人神あらびとがみに見ゆれ共、内は慈悲にんにくの生仏いきぼとけにてまします。夫はいかにといふに、慶長十八年卯月十六日の事なるに、常陸国三戸に於て菊蓮寺きくれんじといふ浄土坊主湯殿供養塚じやうどばうずゆどのくやうづか卒都婆そとばを立置候処に、真言宗三千人程集り相談し、卒都婆を打つ折、其塚の上に高札を立る。抑時供養は湯殿大日より仏法大師相伝有て、我宗に弘る儀式也。然るを浄土宗つとむる事、師教相違しけうさうゐせり。是に依て卒都婆を折て捨る道理有においては、塚本へ出合、一問答是非を決すべしと書て立る。菊蓮寺きくれんじ是を見て、又塚本に返札を立る。かの湯殿山ゆどのさんは三身円満ゑんまんの何ぞ浄土の供養をきらふや、其上塔婆たふばにあたること五逆の人すでに仏身を損す。如何々々と云て立る。夫より互に筆記を取かはす事数通に及べり。真言宗しんごんしうには筑波山つくばさん智足院ちそくゐんを頭として此いきどほりやむ事なくして、法論ほふろんいたし勝負を決すべき旨しきりに申によつて、三戸少将頼房卿より、佐野弥次右衛門、新家忠右衛門、此両使真浄しんじやうの僧とさしそひ、江戸へのぼつて此旨御奉行所へ申上られたり。各々沙汰し給ひけるは、智恵有といへどもいきほひに乗るにはしかず、しき有りといへども、時を待つにはしかずと孟子に見えたり。いま浄土増上寺じやうどぞうじやうじの御威光は一天四海にあまねくおほひ、十宗において此徳をあふぐ。其上将軍御信敬あさからず、下万民に至るまでかつがうのかうべをかたぶけずと言ふことなし。しかるに増上寺へ、浄土一宗の御法度ごはつとを将軍家より御黒印おんこくいんを以ておほせ出さる。
 
 

知恩院之事、立置宮門跡領、各別相定上者、不雑寺家、引導仏事等者、定脇住持、如先規執行、於十念結縁、門主自身可授与事。

京都、門中択器量之仁、大人為役者、可諸沙汰、曽不贔屓偏頗事。

碩学衆於円戒伝授者、調道場之儀式、可執行、浅学之輩、猥不授与事。

在家之人、不伝五重血脉事。

浄土修学不十五年者、不両脉伝授、殊更於璽書許可者、雖噐量之仁〈[#返り点「二」は底本では「三」]〉、不廿オープンアクセス NDLJP:267者、堅不相伝事。

糺明学問之年臘、増上寺当住并其談義所之能化、以両判添状、可本寺、於満足廿年之稽古者、可戴正上人之綸旨、不廿年者、可権上人、附十五年以来之出世之坐頭、可正権之分別事。

古来之学席者、私不常法幢事。

事理縦横之深義、着相憑文之族、貪着名利、不法談、縦亦蒙尊宿之許可、雖勧化、空閣仏経祖釈、偏事狂言綺語、妄荘愚夫耳、剰自讃毀他、最是為法衰之因諍論之縁、堅可制止事。

往来之知識等、其所之門中無許容、聊爾不法談事、

若輩之砌、及十年致学文、其後令退転之僧、望色袈裟者、依其人体、六十歳以後可之、但於上人之義者、可斟酌事。

平僧分、縦雖老年、不引導事。

浄土宗諸寺家者、縦雖師匠之附属、恣不住職事。

相替古跡之住持者、可血脉附法相続、於前住歿後之入院者、至流義之便、可伝受事。

紫衣之諸寺家之住持、致隠居之時、可紫衣事。

大小之新寺、為私不建立事。

借在家構、仏前不利養事。

智識坐頭者、以血脉論旨之次第、上下品可相定事。

法問商量之座敷者、以学文之戒臘、可上下、其外之至衆会者、以出世之前後、可着座事。

所化寺僧之会合者、選択以上者、平僧之上、可列座事。

平僧分中声明法事等之役儀、有其嗜輩者、同臘内可上座事。

階級之浅深、恣高挙自身、対上座緩怠輩者、永不会合事。

諸寺家之住持、任自己之分別、背世出之法義者、為寺中之老僧、兼日可異見、不然者、可同罪事。

白旗流義諸国之末寺、随其大小、集調報謝銭、三個年一度宛、以使僧影前事。

出世之官物之事、綸旨之分、銀子二百文目、参内之分五百文目、若為両様同時者、七百文目相定上者、不米穀之高下事。

末々諸寺家者、徒其本寺可任置、若有理不尽沙汰者、可本寺之私曲事。

オープンアクセス NDLJP:268一向無智之道心者、等対道俗、授十念男女、与血脉寔以法賊也、自今以後、堅可停止事。

悪徒出来、近年興邪教、違経文釈義、私勧安心、闕六字名号、唯称三字、廻種々謀計、令惑衆生、是天摩之所行、速可追払事。

霊仏霊地之修理、不諸国勧進事。

旧例、夏安居従四月十五日六月廿九日、冬安居従十月十五日極月十五日、聊不延促事。

一夏中、客殿之法問十則下読、法問十一則無闕減、可決択、并湯日之外、不談場懈怠、冬安居可同前事。

解間之事、春従二月朔日三月廿九日、秋従八月朔日九月廿七日、如両安居物読法問、不懈怠事。

頌義十人以下之僧、不寮坊主事。

諸談所之所化、自今以後、縦雖山老、若共不替因名事。

一寺追放之所化者、諸談所之会合、不之事。寺僧同宿等、可同前事。

諸檀林所化之法度、悉以可従上事。

右三十五個条之旨、永可守其趣者也。

 慶長十九年正月日 増上寺観智国師

かくのごとくの禁法きんぽふ、浄土一宗に於て信敬しんきやうせずと云事なし。故に浄土の仏法いよ繁昌他にことなり。扨又慶長年中、公方様より関東真言宗へ八ヶ条の御法度仰出さるゝ其中に常に仏法興隆ぶつぽふこうりうの宗として如法によほふ行義ぎやうぎを専とすべしと有処に、修善禁法しゆぜんきんぼふのたしなみはなく、あまつさへ仏体ぶつたい□性の卒都婆そとばを折て捨る事、悪逆無道はなはだし。世のにくむ所人の指さす所也。是ひとへに真言宗しんごんしう破滅はめつ前表ぜんぺうるべしと申あへる処に、増上寺ぞうじやうじ聞召きこしめし釈尊四十九年の御説法も、たゞ一じようの法のみ有て、二つもなく又三つもなし。此土西天一乗の法一相一味なれども、衆生の情欲異なるによつて、解する処の法門おのしや別有り。然るを邪人正法じやにんしやうぽふをとけば、正法も又邪法じやほふと成り、正人邪法を説ば邪法も則正法しやうぽふと成る。仏道の心能く開きぬれば、世間の相皆一味の仏法也。爰を密宗みつしうに一切衆生さいしゆじやう草木国士悉大日と談ず。扨又浄土宗には、八万諸聖教皆是阿弥陀と見奉る。他日たじつ実体じつたい法門ほふもんに至ては、色心実相しきしんしつさうにして、森羅万象山河大地弥陀しんらまんざうさんかだいぢみだにあらずと云事なし。如此きんば自他の勝劣しようれつも有るべからず。自心他心じしんたしん一まいにして凡聖不二ぼんしやうふじなり。何をか求め何をか捨てん。新古今に、いづくにか我法ならぬ法や有ると、空敷風に問と答へぬ。是唯有一乗の法の心を前大僧正慈円じゑんは詠ぜり。双方さうはう無用の諍論さうろんなりとのたまへば、此法論ほふろん無事に成りぬ。難有やこの国師慈悲平等こくしゞひゞやうどうを宗とし、諸宗の心を我心とし給ふ。真実修道しんじつしゆだうの人は他人の是非をとがめずといへる古人の言葉思ひ知られたり。夫多聞たもんほこを横たへ愛染あいぜんは弓に矢をはげ給ふ。是皆方便はうべんオープンアクセス NDLJP:269殺生せつしやうにて、𦬇ぼさつの六道にもすぐれたるとかや。古語に心荒だつ時んば三宝荒神ばうくわうじん、静なるときんばほんうの如来といへり。誠に聖国師にてましますたふとかりけり。

 
 
見しは今、上野国石根と云所に光円寺くわうゑんじと云坊主永伝ぼうずえいでんと云弟子を一人もてり。住持は七十余り、弟子は四十に及べり。師弟二人有けるが、弟子寺を早く請取べしといへども、老僧渡し給はず。有夜弟子師匠の首をくゝり殺し、頓死とんし也と檀那だんなに知らする。然共天罸てんばつのがれがたく此儀あらはれ、弟子の首に縄かゝり江戸へ来りたり。御奉行衆聞召きこしめし、五逆の罪人言にたえたりと仰有て、浅草原あさくさはらにはたものにかかりたり。是を見て、老人申されけるは、世に忠孝有て親しきは、君臣師弟父子の道にはしかじ。然共欲心に迷ひしたしき中もかたきとなる。夫人間は天理自然の性を請、五常の道そなはらざるはなしと雖、人欲じんよくの私に引落され、様々と悪念あくねん出来無始できむしよりなれたる所の悪逆をほしいまゝに作りて、われと身をくるしめり。法華経に諸の苦みのよる処、貪欲どんよくを本とせりと説り。一切の境界きやうがいはわが心の善悪に在り。迷ふときんば、塵々妄縁ぢんぼうえん也。悟時は法々実相ほふじつさう也。当来たうらいの生所はたゞ今生の心にこのみてなす業因果報にあらば、三どくよくの悪業を好むは、三あくしゆ悪道あくだうを願ふ。持戒修善ぢかいしゆぜんを好むは、浄土天上の善所ぜんしよを願ふ人也。扨又五常を専と行ひ給ふも是同じ。仁者しづか也と云て、第一無欲成故心しづかなり。不仁者各利にふけり、心さわがしく隙なし。然に此弟子師匠を殺す源を尋るに、欲心より起る。五逆とはしんぶつ羅漢らかんそうを殺すをいふ。此罪作る者は、無間むげんにおつ。無間むげんとは隙なしと書り。須臾しゆゆせつなの程も苦しみにひまなく、さか様に落る事二千年也。一日ならず二日ならず無量無数却むりやうむすうごふの間くるしむといへり。仏神ぶつじんにも祈り情欲じやうよくをやめて、真実解脱しんじつげだうの門に入らん事こそあらまほしけれ。無始輪廻多生むしりんゑたしやう流転るてんたゞ此一事也。人間の慎しみ欲心にしかじといへり。
 
 
見しは今、天下治り将軍国王武州江城におはしまし、目出度御世上みよのうへなり。故に御門より慶賀をのべ給ひ、毎年勅使ちよくし怠る事なし。慶長十一年近衛殿このゑどの江戸へ御下りの時節、ねがはくは都にまだき花ぞ見んけふくる方の春に行く身は。九条殿注戸に御座し立春に、あひとありぬ時をあづま旅衣たびごろも春をむかふる君がめぐみにと詠じ給ふ。此外月卿げつけい雲客うんかく殿上人てんじやうびと、東国の山を越海を渡り、年毎に江戸に下向げかう有て、将軍を尊敬そんきやうし給ふ。海山もわれをばしるや東路あづまぢになれて往来ゆきゝの近き年々と、三条中宮大夫ちうぐうのだいぶよみ給ひぬ。然間江戸を都と云ならはせり。真斎しんさいといふ人申されけるは、天に二つの日なし、地に二人ふたりの王なし。其上内裏だいり造進ざうしんせずあさまつりごとなくして、都といはんはひが事なり。天下に王も一人ひとり、都も一つならでは有るべからずといふ。此義尤ことわりなり。然りといへども、天下を守護し将軍国王ましますところなどか都といはざらん。されば鎌倉は頼朝公治承四年の冬の比より取立られし処也。古歌に、鎌倉や鎌くら山に鶴が岡柳の都諸越の里と詠ぜり。むかし将軍頼朝公在世の時、二ヶの都と号し、鎌倉を都と云オープンアクセス NDLJP:270ならはせし事、今の世に用ひざれども、鎌倉の人りんぐんりんがうへ行ては、田舎へ行て候と云、是云伝へたる所の言葉、鎌倉の人は今に於ていへり。扨又東鑑あづまかゞみの文書を見しに、万鎌倉よりの御法度ごはつと以下皆田舎へ触遣ふれつかはすべしとあり。其上我朝は天竺震旦てんぢくしんたんの古き跡を尋て、其例を用ひ給へり、世界に王の数一万七千一十八王有と云々。そのかみ三皇五帝世ををさめ給ふ事、天の道に叶ひ人民の政道をおこなへり。是天よりあたふる所の一人なるが故に、地に二人の王なしと孟子に見えたり。周の文王代を治め赧王たんわう迄十六代相続さうぞくせしかども、其内にも七御門有て戦国七雄あり。帝の末子諸国にわかれ自立し、国王と号し其国々の民をなで、政道有し事春秋しゆんじうに委しくしるせり。項羽かうう高祖かうその戦ひ史記にあり五常も他国よりはじまれり。我朝には聖徳太子しやうとくたいしの御時より是を学び給へり。まもるに他国ひとのくにの苦しさといふ前句に、昔日そのかみは五つのおきてあらぬ世にと、紹巴ぜうは付られたり。先聖孔子先師顔回の御顔大学寮にまします。供具をそなへ詩を作り、春秋の礼贄れいしを奉る。唐人のかしこき顔をうつしおきて聖の時とけふ祭る哉と詠ぜり。されば、大国には御門数多なるゆゑ、都も多しと聞えたり。然ば過去にほつしやうの都あり、未来に無為の都あり、天上にじやつくわうの都有り、水下に龍の宮古あり。かくの如くmi過去くわこ未来らい天上てんじやう水底すゐてい迄も都あり。かるが故に、現在にも都あり。是ひたすらたのしむ所、繁昌の地を都とはいへる成るべし。扨又山野にも都あり。宗砌の発句に、秋の野は千種ちぐさの花の都かな。ひなの都と歌によみたるは、国府也。又国の政する所を、田舎の都と記せり。又人々に付て都あり。野の末山の奥にも住ば都、すまざれば都もたび也。然ば今江戸より京の人を召し、又御用を仰付らるゝ其御請おんうけ返答にも御諚かしこまつて可罷登候、御用とゝのへのぼせ候と言上する。また京の人江戸へ付いては、昨日罷上り候、今日のぼり候と申さゝる也。かく京の人をはじめ諸国より江城へのぼるといへば、江戸は都にあらずや。万事に随て時々に進退有るべしとこそ古人も申されしか。其上尚書しやうしよに、周公基をはじめ東国のみやこに新邑をつくると云々。然るときんば、東国の洛古今漢和に其ためしあり。誠に有難き将軍国王の御時代、天下の安楽思ひ知られたり。
 
 
見しは今、らうさいはやり、皆人煩へり。去程にくすしたちは此時花病はやりやまひをなほし手柄てがらにせんと、術をつくし良薬をあたへ給ふといへども治する事かたし。爰にくすしにもあらざる老人申されけるは、此煩のおこりを伺ふに、風邪寒冷ふうじやかんれいよりも出でず、心よりおこる病也。然間此病を心気と名付たり。心をいたましむる病也。さればいにしへ聖人世に出て義ををしへ道をたゞす時だにも、智はすくなく下愚は多しといへり。ましてや今は末世混乱まつせこんらんの時節なれば、智慧はすくなく、却而かへつて愚痴ぐちにして、我より上を見てはうらやみ、心にかなはざる事をのみなげき、開事に迷ひ心散乱さんらんして気の煩ひなせり。たとへば者婆ざば扁鵲へんじやくが来現し、医術医方いじゆついはうを尽すといふ共、此病くすりにては治しがたし。たゞおのれが心をてんじかへべき也。淵にのぞんて魚をうらやまんより、しりぞいてあみをむすばんにしかじ。堀川右大オープンアクセス NDLJP:271臣の御歌に、身を知らで人をうらむる心こそちる花よりもはかなかりけれと詠じ給ふ。扨又孔子は天をも恨みず人をもとがめずといへり。気の煩は気をもてよく治すべし。縦ば塩魚を塩水にひたしぬれば、よく塩出るが如し。人何ぞ心をもて形の役とするや。
 
 
聞しは今、江戸町に浅井源蔵と云若き人いひけるは、をさなきころ手習をしへし師匠今我にあひて、いにしへ金銀米銭をもあたへ、深恩をなしたる様に云る事、さらに覚がたし。我をさなき時にいたはる事なく、却てにくみちやうちやくせられ物をば得かゝず、其しるしなしと云ふ。かたへなる人是を聞て、おろか也とよ。源蔵師げんざうしの恩深き事其かぎり知られず。故に七尺去て師の影をふまずといへり。唐にて師弟の契約するには、北方に向ていけにえをそなへ、茅をもて酒を供し、神を祭り誓文せいもんをするに、蘆毛馬あしげうまの血と白鶏の血と合て飲ませ、ちかつて後師となり、弟子と成らざれば、師匠弟子をうつ。憎むにあらず、よからしめんが為ぞとよ。一字を学ぶ共たゞ宝珠はうじゆをうる心地有るべし。一字千金にもあたると云も、一点他生をたすくる道理有が故也。心地観経しんぢくわんぎやうに天地の恩、国主の恩、父母の恩、師匠の恩、是を四恩と云り。是を知を以て人倫知らざるを鬼畜と名付く。少にしてまなんで老て忘るゝ是一つのつひえなりと曽子は申されし。其上学道のしな多かるべし。物書事第一といふは見る事聞事書とゞむれば、忘るゝ事なし。故に古人も手半学とはいへり。いづれの道を学ぶともをしへの筋をよくあらたむべし。師は針の如く弟は糸の如しと、天台大師てんだいだいしはしやくし給へり。おろかに学ばゝ聞ても聞ざるにおなじ。たゞ樹頭を風吹海底の群魚のうしほにしまざるが如し。却て悪弟は恥を師にゆづるとなれば、師弟共に恥辱にあらずや。扨又君子は下問にはぢず、しかうして後下学して上達す。一人のまたをくゞつて千人の肩をこゆると也。荀子に青は藍より出てあゐよりも青し、氷は水是をなして水よりもさむしといへり。学文よくつとむれば、弟子も師匠にまさる。能筆のうひつなれば帝王将軍の御手にもかゝる事筆道にしかず。され共今神妙の名を得る事はかたし。我朝にて筆道にて名を得給ひしは、弘法こうぼふ道風だうふう佐理さり行成ぎやうせい、其外すぐれたるはなし。能筆ならずとも、たゞ俗にならざるやうに書ならふべき事也といへり。
 
 
見しは今、江戸町に金六といふ者有り。大御所様おほごしよさま三河岡崎におはします時より、御存知の町の者なるが、関東へ御伴申下り、江戸本町一丁目に居たり。御所様外城へ出御の度毎に、金六御城の大手御門外につくばひぬ。御所様御覧有て、やがて金六と御言葉をかけられほゝゑみ給ひけり。金六竹杖をつき御乗物の真先に立ち海道の下知し、右ひだりの町を見廻し、上様の御通りを町の者共に拝み奉れと云。上様御覧有て何とか思召しわらはせ給ふ。皆人是を見て、扨も金六は果報くわはうの者かな。上様の御自愛浅からず、侍たらば過分の知行をも下さるべき者也と諸人云ひけり。然に金六日暮ぬれば、江戸町をめオープンアクセス NDLJP:272ぐり、辻の火番をあらため火をけすかとぼする哉を見ては、此町に月行事つきゞやうじはなきか、何とて火番をかたく申付ざるぞ、其家主をからめ籠者ろうしやさすべしとをめきければ、町の者ども肝をけし御奉行衆の御とがめかと、あわてふためき出て見れば金六也。夜更け人しづまつて戸あきたる家あれば、金六刀を抜持て門に立ふさがり、如何に此家へ盗人入たるぞ、町の者ども出合討とめよとよばはりければ、四方の町どうえうし槍刀棒やりかたなぼうをひきさげ松明を手毎に持て、盗人はいづくに有ぞととへば、家主出て盗人家の内へはいらず、よひに忘て戸を明置たるといへば、皆さりぬ。下部の者共いひけるは、金六も町のもの、われらが親方おやかたどのも町人、皆人金六におぢおそれ給ふのおろかさよ、御奉行衆ごぶぎやうしゆの仰にてもなし、町の者もたのまず、いらざる金六がせんじやう哉。夜毎に町をさわがし諸人のわざはひとなる。其上町人ちやうにん似合にあはぬ大かたなを肩に打かたげ、年は七十に余り白がしらをふつて、毎夜町をめぐる。かゝる性根しやうねつよきえせもの世にも有けり。金六なくば夜番も心安かるべし、早くしねかしといふ。家主共聞て言語同断ごんごどうだん曲事くせごとを云者哉。此事金六殿聞くならば、おのれら籠に入べし。上様は町繁昌し盗人火事なきやうにと御あはれみ覚しめす。是によつて金六殿は上様への御忠節に、夜毎に町をめぐり給へるぞ。江戸町の為にたからになる人なれば、百迄も命ながかれとこそ思へとしかりぬ。されば下郎共人もたのまぬ事にいらふをば、不入金六といふ。此言葉世上へひろまり、皆人云ひならばす。下人の口に戸はたてられぬと俗にいふも加様の事なるべし。
 
 
見しは今、佐渡島正吉といふ遊女、かみがたより江戸へ下る時節、伊豆の三島に泊る。此里に平太郎といふ油うりあり。正吉を一目見しよりうつゝなき心の闇に迷ひ、是は天人てんにん影向やうがうかや。玄宗皇帝げんそうくわうていの代なりせば楊貴妃、漢の武帝の時ならば李夫人、我朝のいにしへならば陽成院の御宇出羽のよしざねが娘小野小町といふとも、是にはいかで増るべき。形は秋の月、ゑめるまなじりには金谷きんこくの花くんじ、此油男の袖の移り香も、是他生のえんぞかし。されどもおよばぬ恋なりと身を打わびてたふれふし、今をかぎりの有さまなり。友だちの油売ども是を見ていさめけるは、おろかなりとよ平太郎、我々江戸よし原町にて年月油をうり、ぢようらう町の作法を見しに、下のけいせいは一夜がしろがね十匁廿匁、中は卅目一枚也。扨此正吉殿はおしやうくらゐの人たちなれば、金一両が定まりにて、高きいやしきゑらびなくあふぞかし。平太郎は金持つまじ、あなかはゆげに、友だち共くわんじんして金一両作り出し、此度平太郎が一命を助くべきぞ、気よわるな心づよく思へといふ。平太郎是を聞きかつぱと起上り、あらうれしの人のをしへぞや、友達衆の勧進くわんじんまでも及ぶべからず、我此年月油うりため金一両持ちたるが、常にはたおびに結び付夜のねざめ昼のまぎれにも、此金をこそ一代のたからと思ひつれども、命のあらば又も金は持つべしと、此一両の金を取出し、正吉殿に一夜あはんと云。正吉、平太郎を見てあなみたもなのむくつけき男の有様や、中々逢はざらまし物をと云て、簾中深くにげ入る。平オープンアクセス NDLJP:273太郎是を見てあら情なの正吉様の御風情や、いもせの道といふ事はわたくしならず、いづもしの神のむすびあはせにて、高きいやしき隔なし。いかなる鯨のよる浦虎ふす野辺を蹈みわけ、草村くさむらの露ときえんも此道なり。たとひかたちこそ深山がくれのくち木なれ、こゝろは花になさばなりなん。古今いせ物がたり源氏にも、か様の事をこそ書かれたり。昔も思ひ深草の四位の少将は、心づよくも小町がもとへ、九十九夜迄通ひけるとかや。われはせつなる恋なれば、いきてよもあすまで人はつらからじ、この夕暮をとはゞとへかしとよみ給ひし式子内親王の御心もよそならず、中々に死なん。たゞいくれば人の恋しきに、いやまだしなじ、あふ事もありと思へども、数ならぬ身はかひもなし。されば仏も最期さいごの一念に依て三界の生を引くと説給へば、死てたちまちに赤鬼しやくきと成てわが怨念をんねんをはらさんといふかと見れば、狂乱の心つきて声かはりけしからず、あらくるし目まひやむねくるしやと云。中たち是を聞き哀にも又おそろしくもや思ひけん、正吉に此由を語る。正吉さればこそとよ、其男を見つればつら打よごれ髪ひげむさとはえたるは、おどろのごとし。手にはひゞきれ足にはあかゞりゑめり。身に著たる木綿布子もめんぬのこは油じみて肩さへもわかず。只是島のえびすとやらん中々聞も身の毛よだつといふ。中立なかだち聞て、なう此男の有様おそろしや執心しふしん鬼と成て狂乱し候ぞ。仏はけねん無量却むりやうごふと説給ひて爰に死にかしこに生れ、鳥けだもの江河のうろくづに生をかへて、愛着あいぢやうのきづなはなれがたし。只一夜逢てかれが思ひをはるけさせ給へ。されば姿こそ島のえびすに似たれども、心言葉は花の都人やさ男にて候といへば、正吉聞て心うくおもへども、媒のいさめに随ひ、其夜平太郎と同じむしろにふす。平太郎むつ事に、扨も正吉様に逢ひ奉る事の忝さよ有がたさよ、それ夫婦男女のかたらひを守らんとちかひ給ふ御神は、あしがら、箱根、玉津島、きふねや三輪の明神、殊にあからさまに正吉様をかいまみ、島大明神の御引合せぞや。一樹の陰の宿やどり一河の流を汲む事さへ他生たしやうえんと承る。ましてや天下無双の音に聞えし正吉様と、此あぶら男が一つ床にふしまゐらする事は、此世ならぬちぎり、いく生のきえんぞかし。神や仏はよくしろし召れけん、此平太郎は夢にも知りま。ゐらせざりし。さぞな後の世も又後の世もめぐり逢て、ひとつはちすのうてなの縁と生れん事のうれしさよ。もしわれさきに立ならば、同じはちすの半座をあけて待申さんとくどきけり。正吉はさもうるさくおもひ、とかく物いはずうしろむきて、例ならぬ声をなす。平太郎是を聞、御虫いたくやおはすらん、あらせうしの折からやと、おきつふしつ是をなげく間に、はや夜も明行きぬればかなしびて、平太郎秋の夜の千夜ちよ一夜ひとよになぞらへて、やちよしねばやとぞくせゝりける。正吉聞て秋の夜の長きも夏のみじかきも、あふ人がらの心ぞかしといひて、夜の明るを待兼て、急ぎ江戸へと立出る。平太郎わかれをかなしみ、余りのせんかたなさに、正吉様の御乗物をかゝばやとねがふ。君がてゝ君がはゝとやらんいふ人は、よくふかきばかりにてあはれも知らぬ人達なれば、此由を聞きねがふこそ幸なれ、はやかゝせよとて乗物をかきて江戸へ来りぬ。扨又三年つきそひ、正吉が乗物をかきて江戸町をめぐる。皆人此平太郎を見てオープンアクセス NDLJP:274ゆびさして笑ひあへり。是ひが事也。昔もさるためしの候ひける。用明天皇さへ恋路に迷ひ、三年があひだ牛をひき草をかり給ふとかや。草かりぶえといふ事、此時よりはじまれりと也。さのみ平太郎を笑ひ給ふべからず。
 
 
見しは今、江戸吉原町にて、来三月五日かつらぎ大夫かぶきをどり有りと、日本橋に高札を立る。江戸に名を得し女かぶき多しといへども、中にも葛城大夫は世にこえみめかたちやさしく、ようがん美麗成ければ、此かぶきをこそ見めと、老若貴賤らうにやくきせんくんじゆし見物す。大夫舞台たいふぶだいへ出秘曲を尽し舞よそほひ、ただ是れ天人の舞楽ぶがくかや、少進法印せうしんほういん今春八郎も及ぶべからず。大鼓おほつづみ小鼓こつづみふえ太鼓たいこの役者は男也。かれら打合せ入乱たるこまかなるほど、拍子ひやうしは天下に名を得たる四座の役者もまなぶべからず。弥兵衛善内が狂言の風情ふぜい、をどりはぬる乱拍子らんびやうしは、鷺大夫弥太郎が式三番しきさんばの足ぶみも、是にはいかでまさるべき。取分猿若とりわけさるわか出て色々様々の物まねさるこそをかしけれ。はうさい念仏、猿廻し、酒に在郷ざいがうの百姓、かたこといひていくぢなき風情、ありとあらゆる物まね扨もよく似たる物哉。弁舌たれる事ふるなの変化へんげかや。かゝる物まねの上手、あめが下第一の名人奇特ふしぎと皆人かんじたり。はや舞もをさまる時分なれば、みな人名残惜しく思ふ処に、風呂あがりの遊びをどりを芝居やぶりに仕るべしとことわる。是をこそ見めと待所に、大夫を初其外名をうる遊女ども、よはひ二八ばかりなるが、形たぐひなういとやさしきかほばせあいしく、もものこびをなし、花の色衣を引かさね、二三十人伴ひ出て酒宴し、一人づつ立て思ひの芸を一曲一かなでらうえいし、座しづまつて其後大小の役者二人出て形儀たゞしく、鼓をしんにかまへりつき顔にて打ならす。皆人ふしんに思ひ、なりをしづめて見る処に、かつらぎ扇を取て、自然居士じねんこじ曲舞くせまひ皇帝の臣下と謡出うたひいだしたり。謡の役者自慢顔にてふしはかせ音曲を専とたしなみ、誠に本の能大夫のうだいふのまねをして舞ひをさめければ、皆人是を見て、一度にどつと笑ひけり。故いかんとなれば、かれらがかぶき舞馬鹿のまねにて打おくならば、誠にかぶきの上手也。己がわざに及びがたき本の能のまねをすれどもさらに似ず、かへつておのが家職まで下手と人に笑はれ、それより皇帝の葛城大夫と異名をよばれ、不繁昌に成りぬ。是のみならず万の道、わが家の芸をかろく思ひ、人の芸まで知り顔する故、おのが芸一段下手へたの名をよばはるゝはこれよの常のならひ也。或人の云、猿若利根才智者さるわかりこんさいちしやにて琴、碁、書、画をも学びえつべし。六げいのうのうちいづれ成とも一芸学ぶならば、一代身上のたからをまうくべし。あはれ猿若が利根にあやからばやと思ひけるに、此猿若世に人の用ひ給へる所の芸能をば、中々一つも学びえず。故にばか猿若がまねをなし、身命しんみやうをかつつなぐといふ。万つたなくよこざまなる道は学びやすく、すなほにたゞしき道はまなびがたしと知れたり。