目次
【 NDLJP:260】
巻之二
見しは今、上総国富津と云浜辺の里に、正左衛門と云漁翁有しが、江戸へ魚うりに
切々来る。此者言けるは、今年有難き御霊夢を蒙りたり。
阿弥陀金色の
身相を現じ
来迎有て、来々年の十月十五日にはかならず迎に来り、我を西方極楽へつれ立つべしとのたまふ。かたく約束申したりとて、夜昼怠らず念仏をとなふ。扨知る人に逢ては其由を語り、来世にてこそ又逢はめといとまごひする。皆人聞きて沙汰しけるは、正左衛門が申所さらにうたがひなしといへども、かゝるためしはいにしへを伝て聞かず、おぼつかなしと云所に、老人聞て、去る事も有ぬべし。建久五年五月二日、鎌倉由井の浦辺の
漁父病なうして
頓死す。
往生の
瑞相有と諸人こぞつて是を見るに、端座かづしやうしていさゝかも動揺せず、生きたる者を見るがごとし。頼朝公此由を聞召し、
随喜の余り梶原三郎兵衛景茂を以て尋ねしめ給ふの所に、此男日比魚釣を以て世渡のはかりごとゝなす。たゞし其間に弥陀の
名号を専ととなへ、後世をいとなむの由申と云々。扨又成元二年九月三日熊谷小次郎直家鎌くらを立て
上洛す。是又直実入道
蓮生坊来十四日に京東山の麓に臨終すべき由をしめし下すの間、是を見とぶらはんが為也。直家云、我
進発の跡に此事御所中に披露すべき由申に依て、直家鎌倉を立て後此事
披露する。
珍事の由各御沙汰共有り。然るに因幡前司広元朝臣云、兼て
死期を
知事
権化の者にあらすば、うたがひ有るに似たりといへ共、彼入道は
世塵をのがるゝの後、
浄土をごんぐし所願堅固にして
称念修行す、あふいで信ずべきかと云々。然に十月廿一日東平太
重胤京都より鎌倉へ帰参す。則御所に召る。洛中の事を問しめ給はんが為也。
重胤先申て云熊谷次郎直実入道去ぬる九月十四日の未の刻をもて、しゆくゑんの期たるべきよし相ふるゝの当日に至て、京中
結縁の
道俗東山の
草庵に
群参囲繞す。其
時刻直実入道衣
袈裟を着し、
礼盤に
上り
端座してたなごころを合せて、
高声に
念仏をとなへてしうしゆうす。兼ていさゝかも病気なしと東鑑に記せり。すでにかくの如き仔細有り。此正左衛門は
穢土をいとひ、
浄土を願ひ、一心
不乱に弥陀をとなふるより外に他事なし、申所
決定成るべしといへり。やうやく三年の月日きはまり、当年十月十三日十四日にも成りければ、正左衛門が死日こそはやめぐり来りたれ。是を見んとて、相模国三浦より舟にて
渡海し、安房、上総、下総よりも人参りて正左衛門が死さまを見んといふ。
此在所小笠原安芸守といふ人の領地也。正左衛間が
女房子共此
地頭へ行き、さを聞名及ばれて候らん。はやみとせの日数めぐり来て、明日は夫の正左衛門が死日にあたりたり。阿弥陀の迎に来り給はん事は不定、さなくば正左衛門は一すぢに思ひきりたる事なれば、首をくゝるか海へ身をなげ候べし。我等が異見叶ひがたし。ともかくも死なざるやうにはからひ給へ地頭殿と、なきくどき申ければ、地頭より使を立られたり。明日正左衛門西方
極楽へ行事誠しからず。夫世間の
定相なき事をばによむげんはうや
【 NDLJP:261】う
如露亦如電と仏も説れたり。故に聖人に夢なしと
文中子に見えたり。
医書に五夢と記したるは是五
臓の病也。されば夢の
中の有無は有無共に無也。其上をのれば、
明暮魚の命を殺し
地獄の
栖を願ひ、くるしみの海にしづむべき
造悪無善の者が、何
善根有てか極楽参り
覚束なし。然といへども、阿弥陀来りつれ立ならば是非に及ばず行候べし。さなくして川へ身をなぐるか首をくゝる事ならば、三年の間きよごん者曲事たるべし。女房子共火あぶりはり付にかけべしと、さもあらけなく申されければ、正左衛門聞て、是は思ひもよらぬ地頭殿の仰かな。阿弥陀の約束むなしくば、阿弥陀のきよごんにてこそ候べけれ。此正左衛門が恥にて有べからず、などか無理は行けん□。扨又如来
不取正覚の御せいやく、あに
虚妄にあらんや。それ人間命を養ふ事わざ品々ありといへども、われ若年のいにしへより、此浦にすなどつて一生
悪縁をむすび其罪おびたゞし。
生死の海にちんりんし、六
道四
生の
業のがれ難し。然といへども
宝王論に、一
念弥陀仏即滅無量罪と説き給ふ。
法然上人の御言葉に、
往生極楽の為には、南無阿弥陀仏と申せば、疑なく
往生するぞと思ひこりて申外に、別の
仔細は候はず。此外に奥深き事を存ぜば、二尊の御あはれみにはづれ本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人は縦一代の御法をよくよく学ずとも、一文不知の
愚鈍の身になして、あま入道の無智の輩におなじくして、智者の振舞をせずして、たゞ
一向念仏すべしとのたまへば、愚なる身もたのもしきかな。八十
億刧の生死のつみきえ、
来迎引接即得往生うたがひなしと云。十月十四日の夜も、明十五日にも成ぬれば、正左衛門を近所大乗寺と云浄土寺へ行き、
仏前に高く床をかゝせ、其上に
上つて西方に向ひたなごころをあはせ、りんじう
正念してしようみやう念仏十ぺん計となへ、声とともに大往生をとぐ。動きはたらかず生たる者の如し。
貴賤老若群参し
礼拝せずと云事なし。是をみし人夢に不思議ありと物語りせり。
見しは今、江戸繁昌にて、
屋作り
家風尋常に、
万美々敷事前代未聞なれば、
田舎人見物に来りくんじゆをなす。爰に
室町の棚に、平五三郎と云て心
横道なる人有り。此者つく
〴〵思ひけるは、今江戸の町我人の
風体いしやういちじるしければ、田舎者はぢらひてあたりへ
寄附がたし。我そらばかをつくり、田舎者を近付て物をうらんとたくみて、髪ひげむさ
〳〵とはえさせ、かみ
頭巾を目の上まで引かぶり、つゞりたる古小袖のえりをふかく折て、
衣紋引つくろひ
木綿袴のよごれたるをむな高に着なし、手に
長数珠をつまぐり、口に題目をとなへ見せ棚に打かゝり、そらいねぶりして居たり。知る人たち是をみて、古き文に、官禄をよくする者は其詞かざる、忠義を思ふ者は其詞直なりといへるは、是にて
思ひしられたり。平五三郎が作りばかの有様あれ見よと、皆人ゆびさし口びるをうごかさゞるはなかりけり。然に田舎人江戸を見物し、帰るさ在所へのみやげ物をかはんとて、
室町を見めぐりけるに、からあやの
狂文、
唐衣、
朽葉地、
紫、どんす、りんず、
金襴、
錦、色々様々の美麗なる物どもをつみかさね、ぶげんさうなる人たちのならび居て、何をかめす御用かと問ふ。田舎者の事なれば、はづかし
【 NDLJP:262】がほにて物かはんといひ出さん事は思ひもよらず。見世の方をばまなじりにかけ腰をくゞめ、御免候へ御免候へとふるへ
〳〵棚の前を通り行計にて、立とゞまり、物かふべき所なし。見れば是なる棚に長じゆずをつまぐり、
後世願ひと相見えて、まらうど一人有り。
無骨なる
姿風情は我等が里のいくじなし左衛門四郎によく似たり。此棚にて物をかはでは有るべきかと思ひ、是なるきるものむすめに似合たり。ねはいかほどぞ
〳〵ととへども、此者時々目を開き耳をそばだて、あり
〳〵と云て口をあき、我は耳が遠きと云て、又ねぶり、口に
題目をとなふ。田舎者是を見て、江戸の都にもかゝる姿ぶこつにてばか者ありけるぞやと思ひ、なう
棚主殿是なる
着物銭三貫に
売らしめ
〳〵と、耳の方へ口をよせてよばはる。ねぶりをのこ是を聞き、此
小袖一貫にもとくうりたし。扨三貫にうらんと云ならば、田舎者こひそこなひと思ひてにぐべし。何々此きる物二貫にかひ度とや、やすく候、いや
〳〵と面をふり又いねぶり、
題目をとなふ。田舎者是を見て我三貫と云しを二貫といふは、誠に耳がきかざるや、たぶらかさばやと思ひ、扨々おぬしはよくとくにも
取あはず、
後世の事のみ思ひ給ふ有がたき人なり。我里の左衛門四郎と云人に、よく似させ給ひたり、誠の仏よといふ。其時ねぶり男目をひらきにつこと笑ひ打うなづき、其事よ
〳〵、今は皆夢のたはむれ、我人あすをも知らぬうき世也。おわれの里の左衛門四郎殿はおきやう
宗にておはするか、あらありがたや、
正直捨方便と一の巻に説たまふ。たとひおきやう宗にあらずとも、神は正直のかうべにやどり給ふ。皆人の物うるを見るに、おぬしたちのやうなる山家の人には、
直を高く云かけ、一貫のきるものを二貫三貫に大利を取て売るおそろしや。神仏のいましめをも思はず人をたばかるとがにより、地獄にて鬼にせめらるゝ事を知らず。われは平五三郎といひて、江戸にて隠れなき
後世願ひの正直者也。一貫の売物に銭五十の利あればとくうり、二貫の小袖に銭百文の利あれば、早くうり其の日の口を養ふ。とかく此口ある故、かゝる少しの利銭を人前より取と思へば、一日も早くりやうぜん
浄土へ参りたしと願ぶ計なり。唯々
正直正路なる人こそ神なれ仏なれ。何々此きるものおぬしの娘子似合たるとや、我もむすめをもちたり。誰とても子には着せて見たき物ぞ。おきやう御本尊おだいまんだら、此じゆずぞ
〳〵代物二貫はやすけれども、おぬし
真人さうなる人なれば後迄の知る人に成べし。人には逢て見よ、馬には乗て見よと也。なんぞまれ用あらば、又も尋ね来り給へ。其しるべに此きるもの二貫文にまけ候ぞよと云てうりたり。おそろしき平五三郎がたばかり、いふに絶えたり。されば人の心の
好意はなはだ常ならずし、
白氏文集に見えたり。白頭あらたなるがごとし。
蓋をかたむけていにしへのごとし。いかんとなれば、知るとしらざると也。是雛陽が伝思ひしられたり。人はたくみにしていつはらんより、つたなうして誠有にはしかじ。扨又
虎班は見やすく、
人斑は見がたしとなり。知らぬ人には心ゆるし給ふべからず。
聞しは今、或人云けるは、
和漢合運と号し、日本は人皇神武
此方、慶長十六年迄の
支干、年数世間の
【 NDLJP:263】有様うつりかはれる事迄も
具に記せり。我是を見るに、
慶長十年十二月十五日、南海八丈島辺に大山一夜にわき出、今に其山有と書たり。ふしんに思ひ、近年八丈島渡海する者に、此義を尋るに、一円なき事也といふ。かく誠にもあらぬそゞろ事、末の世迄も云伝ふべし。扨又日本六十六ヶ国の郡、山、海、草木、田畑、村里の事迄も如何なる人かよく知りて記したる文あり。其中に伊豆国は、三郡此外大島ひる島有りと記せり。是に一つの
相違あり。豆州の海には、大島、桑島、戸島、新島、幸津島、宮城島、都島、三倉島、八丈島と名付、大きなる島九つあつて人里多し。されども
蛭島と云島はなし。然るに
平相国清盛公平治の合戦に
討勝、源義朝公一類を亡ぼし、鎮西八郎為朝右兵衛佐頼朝をば命をたすけ遠島へ流罪せらるべしとて、日本の島々を是彼と尋給ひしが、右の書物をや見たりけん、為朝をば伊豆の大島へ流されけるに、嘉応二年三十三歳にして島にて
自害す。頼朝をば同国
蛭島へ流し給ひぬ。其
蛭島と云は島にはあらず、田方の郡北条の
近所に在る里の名也。然るに清盛公の使者伊豆へ来て、
蛭の
島は是かと云々。頼朝は北条へ流され、二十一年の
星霜をむなしくおくり給ひしが、治承四年平家
追討の
院宣を給はり、清盛公をほろぼし、一天四海を治められたり。是ひとへに聞あやまつて無き事を書伝し故、頼朝公徳をうけ給ひたり。わざはひも幸も事世の不思議也。扨又唐国に禹が筆といふ、夏の禹王の時の
能書也。
黄帝の
玄孫あざ名は文命と申き。流るゝ水に文字を書に、水流れず。此人天下の境、一
切万物を書記す。是を
山海経と名付。是はたゞ人にあらず、
権化の人なれば
虚言有るべからずと云々。人も知らざる事を我身いみじく心えたるよしして、
口才利口がほせり。老人聞て、愚なる事云事哉。
和漢合運にかぎらず、いにしへより記し置きたる書物に
相違多し。
内典外典は広き事なれば一様にあらず。三国共に
摺本などにもあやまり来れる事共有、とがむべからず。
都て世間の事は、
定不定也。悪とてもうれふべからず、善とても悦ぶべからず。天道は広大にしててんねん也。此理を
分明せざる故に、万に
疑心有りといへり。
聞しは今、江戸町に仲信と云人なまがしこき事計いへり。強く世間のげんさうをくわんずるに、
飛花落葉の風の前には、
有為のてんべんをさとり、
電光石火の影のうちには、生死の
去来を見ると、皆人
柏崎の謡にうたひ給へるこそ殊勝なれ。されば天
物いふ事なうして、物々みな是をしめす。扨又孔子物いはじと思ふと云時、子貢が云、門弟何をかのべん。子のたまはく、四時現はれ万物生ずること、天のなす所也と云。言葉はなくて色に見えけりといふ前句に、春秋をくさ木にうつす
天津空と
宗祇付たり。然るに仏は見る事聞事に迷ふと、いづれの経にも説置給ふといへども、是に一つの相違あり。見るはうつゝ迷ふべきに非ず、聞くは夢の如し、迷へるはことわり也。夫いかにといふに、仏は三
界まよひのぼんぶを
安楽世界へむかへんとて、八万四千の
教化を
説置給ふ。此有がたき
御法を、智者上人たちは種々様々のたとへを引き、手を取り道引やうに、廿年三十年教へ給ふといへども、
流転生死【 NDLJP:264】の業はなせ共
〳〵あきたらず、
浄土菩提の
妙楽めでたかるべき事をも、迷ひの耳にて聞けば、白川をも渡らざる旅人の物語とうたがひ迷ひせかせり。さて見るは、万箇目前の
境界、柳はみどり花はくれなゐ
疑心毛頭なし。後
拾遺に、思ひねのよな
〳〵夢にあふ事を、たゞ片時のうつゝともがなと詠ぜり。扨又面影のみはいかゞ頼まんと云前句に、絵にかゝぬ誠を見ばや彼仏と、法印行助付給ひぬ。然則ば迷はぬ目にて
極楽のしやうごんのたのしみを一目見るならば、などか後世をねがはざるべき。故に古人は千聞一見にはしかじとこそ申されしと云。老人是を聞て、夫れ人の心づかひおろかにしてつゝしめるは、徳のもと也。工にしてほしいまゝなるは失のもと也。
夫仏法僧をあざむく者はむげん地獄のすもりとなる。維名といつし者、僧をあなどりしかば、九十一ごふ虫に生まれて苦しみをうくといへり、
後撰集に、なほき木にまがれる枝も有るものを、けをふききずをいふぞはかなきと、かなり
高津親王詠ぜり。己が
利根に迷ひ、毛を吹て
過怠のきずをもとめんとする人也。
漢書にくだを以て天をうかゞひ、貝を以て海をはかり、いをもつて鐘をつくといへるがごとし。
奸智の者一人国にあれば、万民のわざはひとなる故に、正道を
行ずる者は、
仏意神慮に叶ひ、
邪道を行ずる者は、人の
嘲を請て咎を招く。百様を知て一様を分がたきは、世のならひ也。腹中に味ふる事もなく、世上をはゞからず口にまかせ仏法をそしり、うかべがほにくてい見苦敷覚侍り。其上
不勘にして歌を引事ひがこと也。住吉、玉津島、天満天神の神慮もおそろし。天道を恐れず仏説を軽じあざむく事、まづ世の
外道いふにたらずと申されし。
見しは今、江戸通町に
久斎と云針たて
医師の有しが、去廿五日湯島の天神へ
参詣せしに、神田町にてざうりの緒をふみ切り、せんかたなくあたりを見れば、
見世棚にわらざうり一足さげ置たり。此棚へたちより、我天神へ参る者なるが、草履の緒をふみ切り、中途にて詮方なし。此ざうりかはん、さりながら
代物持ちあはせず、借し給はぬかといへば、ざうり主此体を見て、わら草履一足安き価なり。其方にあたふる、はきて天神へ
参給へと云。しらぬ者にやさしき志をかんじ、はきて天神へ参りたり。帰るさに是なる町を見れば、爰かしこの家よりけてんがほにて人走出で、是なる家にあつまりて、扨も
〳〵
俄事笑止やいたはしの事やと云て啼声する。久斎如何なる事ぞと思ひ立ちとゞまり、よく見れば、先程わらざうり貰ひし家也。是は何事ぞ、問ばやと思ひ立寄り、此家に如何なる事の有りけるぞやと問へば、此家主宗円入道十四五の独りむすこの有りつるが、俄に喉痺出来、喉つまり半時の間に死たりと云。久斎人中を分入り、いかにや亭主、我先程天神へ参るとてわら草履貰し者、針たて医者也。喉痺の煩にて死たるとや、我針をたてむすこの命を助くべしといふ。親是を聞てよろこび、頼申す、はや〳〵と云。久斎巾着より針取出し一針さしければ、此者いきをつき出しよみがへりたり。皆々これを見て、扨も不思議の出合にて命たすかりたる事、天神の御利生かや、又は生薬師の現来かと思ひ〳〵に沙汰する【 NDLJP:265】処に、かたへなる人申されけるは、かゝる奇特なる仕合、いづれ仏神の御恵にて有べし。されば月は四州を照し給ふといへども、分てはたゞ慈悲正直のかうべにやどり給ひぬ。扨また人を利するものは天必是に幸す、人を賊する者は天かならずこれが為にわざはひすといへり。慈悲ある人はよく天道に叶ひ自然に感をもよほせり。列女伝に陰徳ある者は陽是にむくゆ。徳は不祥にかち百禍をのぞくと云云。かるが故に陰徳有者は、必陽報有り。楚の孫叔敖は両頭の蛇を見て殺し埋みたりしも、陰徳あるに依て、はたして令尹の官にのぼり、後は楚国の政を行ひしも陽報の理にかなひたり。扨又周の文王の時、一国の民あぜをゆづること有り。はかなや今の国のあらそひと云前句に、いにしへの小田の畔をもゆづる世にと、行助付給ひぬ。文王一人の徳諸国にあまねきが故、万人やさしき道をまなべり。古き言葉に、国正しき時は天心したがふ。官清きときんば民おのづから安しといへり。今の御時代君の御心無欲にまし〳〵て、賞罰の間に私の御心なきが故、万民是にはぢ欲心うすくやさしき心也。此宗円わら草履一足、わづかの心ざしたりといへども、誠の慈悲心たちまち通じ、現当なるめぐみにあづかる事、是天地の神明の感ずる処にあらずや。
見しは今、国治り土民迄も
安楽たり。
世澆季に及ぶといへども、君じんとくを、ほどこし給ふによつて、仏法王法ともに繁昌す。ありがたき御時代也。然ば日本五畿七道は、人王三十二代用明天皇御宇に定まり、六十六ヶ国に分けらるゝ事は、四十二代文武天皇御宇也。道をば四十五代聖武天皇の御宇に
行基菩薩六町一里につもりて王城よりみちのく
東浜に至りて、三千五百八十七里に極め、又長門
西浜にいたりて、一千五百七十八里に慥に図書にしるし置給ふといへども、其境さだかならず。是に依て当君の御時代に一里塚をつくべきよし仰出たり。されば日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町わりの時節新敷出来たる橋也。此橋の名を人間はかつて以て名付ず。天よりやふりけん地よりや出けん、諸人一同に日本橋とよびぬる事、きたいの不思議とさたせり。然に武州は凡日本東西の中国にあたれりと
御諚有て、江城日本橋を一里塚のもとゝ定め、三十六町を道一里につもり、是より東のはて西のはて五畿七道残る所なく一里塚をつかせ給ふ。年久治ならず、諸国乱れ
辺土遠境せばくなる処に、曲たる処をば見はからひ直につけ道をひろげ、牛馬のひづめの労せざるやうに石をのぞき、大道の両辺に松杉を植ゑ、小河をば悉く橋をかけ大河をば舟橋を渡し、日本国中民間往復のたよりに備へ給ふ事、慶長九年也。万人喜悦の思ひをふくみ、万歳を願ひあへり。有がたき将軍国王の
深恩、末代迄もいかで是をあふがざらん。
見しは今、三縁山増上寺住持貞蓮社慈昌源誉普光観智国師と申は、浄土の明智識にてまします。是
弥陀の来現か、
善導法然の
化身かと沙汰し侍る。天にも師匠にあふぎ給へば、此国師を諸宗共に
尊敬す。
【 NDLJP:266】其上増上寺は
公方家の
御菩提寺、
仏閣甍を並べ七実をちりばの、御
建立誠に祇国
精舎もかくやらん。
僧俗門前市をなす。諸行無常の鐘の声に、百八ぼんなうの生死の罪をめつし、すみやかにさとり得てねはんの門にいたらざる人やあらん。されば此寺
御普請の時分、人足共石をよわく引き土を少う持を国師御覧じて、にくいかれらが振舞哉。いにしへも仏道修行として、きそう石を引き、うんかん土を運ぶ。其上一
向専修といへば、是万事に通ずる所の仏法の大意也。無法者をかしやくするは、是
師家の
持戒とせり。いで物見せんと大声を立て眼をいからし棒を取て出給へば、とがあるもとがなき者も肝を消し、嵐に木の葉の散る如く、四方八面へにげ行く。あらおそろしや俗儀のつよき増上寺の上人や、地獄遠きにあらず、目の前の
境界、
悪鬼外になし、
所化共をかしやくせしくせとして、すでに人足ども打ころされんとしたりといひて、ためいきつく事度々に及ぶと皆人云。老人聞て、尤此上人
外相は
荒人神に見ゆれ共、内は慈悲にんにくの
生仏にてまします。夫はいかにといふに、慶長十八年卯月十六日の事なるに、常陸国三戸に於て
菊蓮寺といふ
浄土坊主湯殿供養塚に
卒都婆を立置候処に、真言宗三千人程集り相談し、卒都婆を打つ折、其塚の上に高札を立る。抑時供養は湯殿大日より仏法大師相伝有て、我宗に弘る儀式也。然るを浄土宗つとむる事、
師教相違せり。是に依て卒都婆を折て捨る道理有においては、塚本へ出合、一問答是非を決すべしと書て立る。
菊蓮寺是を見て、又塚本に返札を立る。かの
湯殿山は三身
円満の何ぞ浄土の供養をきらふや、其上
塔婆にあたること五逆の人すでに仏身を損す。如何々々と云て立る。夫より互に筆記を取かはす事数通に及べり。
真言宗には
筑波山、
智足院を頭として此いきどほりやむ事なくして、
法論いたし勝負を決すべき旨しきりに申によつて、三戸少将頼房卿より、佐野弥次右衛門、新家忠右衛門、此両使
真浄の僧とさしそひ、江戸へのぼつて此旨御奉行所へ申上られたり。各々沙汰し給ひけるは、智恵有といへどもいきほひに乗るにはしかず、
識有りといへども、時を待つにはしかずと孟子に見えたり。
今浄土増上寺の御威光は一天四海にあまねくおほひ、十宗において此徳をあふぐ。其上将軍御信敬あさからず、下万民に至るまでかつがうのかうべをかたぶけずと言ふことなし。しかるに増上寺へ、浄土一宗の
御法度を将軍家より
御黒印を以ておほせ出さる。
一知恩院之事、立㆓置宮門跡領㆒、各別相定上者、不㆑可㆑混㆓雑寺家㆒、引導仏事等者、定脇住持、如㆓先規㆒可㆑被㆓執行㆒、於㆓十念㆒為㆓結縁㆒、門主自身可㆑有㆓授与㆒事。
一於㆓京都㆒、門中択㆓器量之仁㆒、大人為㆑役者、可㆑致㆓諸沙汰㆒、曽不㆑可㆑有㆓贔屓偏頗㆒事。
一碩学衆於㆓円戒伝授㆒者、調㆓道場之儀式㆒、可㆑令㆓執行㆒、浅学之輩、猥不㆑可㆓授与㆒事。
一対㆓在家之人㆒、不㆑可㆑令㆑相㆓伝五重血脉㆒事。
一浄土修学不㆑至㆓十五年㆒者、不㆑可㆑有㆓両脉伝授㆒、殊更於㆓璽書許可㆒者、雖㆑為㆓噐量之仁㆒〈[#返り点「二」は底本では「三」]〉、不㆑満㆓廿【 NDLJP:267】年㆒者、堅不㆑可㆑令㆓相伝㆒事。
一糺明学問之年臘、増上寺当住并其談義所之能化、以㆓両判添状㆒、可㆑啓㆓本寺㆒、於㆑令㆓満足廿年之稽古㆒者、可㆑令㆑頂㆓戴正上人之綸旨㆒、不㆑至㆓廿年㆒者、可㆑為㆓権上人㆒、附十五年以来之出世之坐頭、可㆑有㆓正権之分別㆒事。
一非㆓古来之学席㆒者、私不㆑可㆓常法幢㆒事。
一不㆑解㆓事理縦横之深義㆒、着相憑文之族、貪㆓着名利㆒、不㆑可㆑致㆓法談㆒、縦亦蒙㆓尊宿之許可㆒、雖㆑合㆓勧化㆒、空閣㆓仏経祖釈㆒、偏事㆓狂言綺語㆒、妄荘㆓愚夫㆒耳、剰自讃毀他、最是為㆓法衰之因諍論之縁㆒、堅可㆓制止㆒事。
一往来之知識等、其所之門中無㆓許容㆒、聊爾不㆑可㆑致㆓法談㆒事、
一若輩之砌、及十年致㆓学文㆒、其後令㆓退転㆒之僧、望㆓色袈裟㆒者、依㆓其人体㆒、六十歳以後可㆑許㆑之、但於㆓上人之義㆒者、可㆑有㆓斟酌㆒事。
一為㆓平僧分㆒、縦雖㆓老年㆒、不㆑可㆑致㆓引導㆒事。
一於㆓浄土宗諸寺家㆒者、縦雖㆑為㆓師匠之附属㆒、恣不㆑可㆓住職㆒事。
一就㆓相替古跡之住持㆒者、可㆑令㆓血脉附法相続㆒、於㆑為㆓前住歿後之入院㆒者、至㆓流義之便㆒、可㆑致㆓伝受㆒事。
一紫衣之諸寺家之住持、致㆓隠居㆒之時、可㆑脱㆓紫衣㆒事。
一大小之新寺、為㆑私不㆑可㆑致㆓建立㆒事。
一借在㆓家構㆒、仏前不㆑可㆑求㆓利養㆒事。
一於㆓智識㆒分㆓坐頭㆒者、以㆓血脉論旨之次第㆒、上下品可㆓相定㆒事。
一於㆓法問商量之座敷㆒者、以㆓学文之戒臘㆒、可㆑定㆓上下㆒、其外之至㆓衆会㆒者、以㆓出世之前後㆒、可㆓着座㆒事。
一於㆓所化寺僧之会合㆒者、選択以上者、平僧之上、可㆓列座㆒事。
一平僧分中声明法事等之役儀、有㆓其嗜㆒輩者、同臘内可㆑居㆓上座㆒事。
一不㆑弁㆓階級之浅深㆒、恣高㆓挙自身㆒、対㆓上座㆒致㆓緩怠㆒輩者、永不㆑可㆓会合㆒事。
一諸寺家之住持、任㆓自己之分別㆒、背㆓世出之法義㆒者、為㆓寺中之老僧㆒、兼日可㆑加㆓異見㆒、不㆑然者、可㆑属㆓同罪㆒事。
一白旗流義諸国之末寺、随㆓其大小㆒、集㆓調報謝銭㆒、三個年一度宛、以㆓使僧㆒可㆑備㆓影前㆒事。
一出世之官物之事、綸旨之分、銀子二百文目、参内之分五百文目、若為㆓両様同時㆒者、七百文目相定上者、不㆑可㆑論㆓米穀之高下㆒事。
一末々諸寺家者、徒其本寺可㆑致㆓任置㆒、若有㆓理不尽沙汰㆒者、可㆑為㆓本寺之私曲㆒事。
【 NDLJP:268】一一向無智之道心者、等対㆓道俗㆒、授㆓十念㆒勧㆓男女㆒、与㆓血脉㆒寔以法賊也、自今以後、堅可㆓停止㆒事。
一悪徒出来、近年興㆓邪教㆒、違㆓経文釈義㆒、私勧㆓安心㆒、闕㆓六字名号㆒、唯称㆓三字㆒、廻㆓種々謀計㆒、令㆑誑㆓惑衆生㆒、是天摩之所行、速可㆑令㆓追払㆒事。
一号㆓霊仏霊地之修理㆒、不㆑可㆓諸国勧進㆒事。
一如㆓旧例㆒、夏安居従㆓四月十五日㆒期㆓六月廿九日㆒、冬安居従㆓十月十五日㆒可㆑至㆓極月十五日㆒、聊不㆑可㆑有㆓延促㆒事。
一於㆓一夏中㆒、客殿之法問十則下読、法問十一則無㆓闕減㆒、可㆑令㆓決択㆒、并湯日之外、不㆑可㆑有㆓談場懈怠㆒、冬安居可㆑為㆓同前㆒事。
一解間之事、春従㆓二月朔日㆒期㆓三月廿九日㆒、秋従㆓八月朔日㆒可㆑至㆓九月廿七日㆒、如㆓両安居物読法問㆒、不㆑可㆑有㆓懈怠㆒事。
一頌義十人以下之僧、不㆑可㆑為㆓寮坊主㆒事。
一諸談所之所化、自今以後、縦雖㆑令㆑作㆓山老㆒、若共不㆑可㆑付㆓替因名㆒事。
一於㆓一寺追放之所化㆒者、諸談所之会合、不㆑可㆑有㆑之事。付寺僧同宿等、可㆑為㆓同前㆒事。
一諸檀林所化之法度、悉以可㆑復㆓従上㆒事。
右三十五個条之旨、永可㆑相㆓守其趣㆒者也。
慶長十九年正月日 増上寺観智国師
かくのごとくの禁法、浄土一宗に於て信敬せずと云事なし。故に浄土の仏法弥繁昌他にことなり。扨又慶長年中、公方様より関東真言宗へ八ヶ条の御法度仰出さるゝ其中に常に仏法興隆の宗として如法の行義を専とすべしと有処に、修善禁法のたしなみはなく、あまつさへ仏体□性の卒都婆を折て捨る事、悪逆無道はなはだし。世のにくむ所人の指さす所也。是ひとへに真言宗破滅の前表成るべしと申あへる処に、増上寺聞召釈尊四十九年の御説法も、たゞ一乗の法のみ有て、二つもなく又三つもなし。此土西天一乗の法一相一味なれども、衆生の情欲異なるによつて、解する処の法門おの〳〵しや別有り。然るを邪人正法をとけば、正法も又邪法と成り、正人邪法を説ば邪法も則正法と成る。仏道の心能く開きぬれば、世間の相皆一味の仏法也。爰を密宗に一切衆生草木国士悉大日と談ず。扨又浄土宗には、八万諸聖教皆是阿弥陀と見奉る。他日実体の法門に至ては、色心実相にして、森羅万象山河大地弥陀にあらずと云事なし。如此きんば自他の勝劣も有るべからず。自心他心一まいにして凡聖不二なり。何をか求め何をか捨てん。新古今に、いづくにか我法ならぬ法や有ると、空敷風に問と答へぬ。是唯有一乗の法の心を前大僧正慈円は詠ぜり。双方無用の諍論なりとのたまへば、此法論無事に成りぬ。難有やこの国師慈悲平等を宗とし、諸宗の心を我心とし給ふ。真実修道の人は他人の是非をとがめずといへる古人の言葉思ひ知られたり。夫多聞は戈を横たへ愛染は弓に矢をはげ給ふ。是皆方便の【 NDLJP:269】殺生にて、𦬇の六道にもすぐれたるとかや。古語に心荒だつ時んば三宝荒神、静なるときんばほんうの如来といへり。誠に聖国師にてましますたふとかりけり。
見しは今、上野国石根と云所に
光円寺と云
坊主永伝と云弟子を一人もてり。住持は七十余り、弟子は四十に及べり。師弟二人有けるが、弟子寺を早く請取べしといへども、老僧渡し給はず。有夜弟子師匠の首をくゝり殺し、
頓死也と
檀那に知らする。然共
天罸のがれがたく此儀あらはれ、弟子の首に縄かゝり江戸へ来りたり。御奉行衆
聞召し、五逆の罪人言にたえたりと仰有て、
浅草原にはたものにかかりたり。是を見て、老人申されけるは、世に忠孝有て親しきは、君臣師弟父子の道にはしかじ。然共欲心に迷ひしたしき中もかたきとなる。夫人間は天理自然の性を請、五常の道そなはらざるはなしと雖、
人欲の私に引落され、様々と
悪念出来無始よりなれたる所の悪逆をほしいまゝに作りて、われと身をくるしめり。法華経に諸の苦みのよる処、
貪欲を本とせりと説り。一切の
境界はわが心の善悪に在り。迷ふときんば、
塵々妄縁也。悟時は
法々実相也。
当来の生所は
只今生の心にこのみてなす業因果報にあらば、三
毒五
欲の悪業を好むは、三
悪四
趣の
悪道を願ふ。
持戒修善を好むは、浄土天上の
善所を願ふ人也。扨又五常を専と行ひ給ふも是同じ。仁者
閑也と云て、第一無欲成故心
閑なり。不仁者各利にふけり、心さわがしく隙なし。然に此弟子師匠を殺す源を尋るに、欲心より起る。五逆とは
親、
師、
仏、
羅漢、
僧を殺すをいふ。此罪作る者は、
無間におつ。
無間とは隙なしと書り。
須臾せつなの程も苦しみに
隙なく、さか様に落る事二千年也。一日ならず二日ならず
無量無数却の間くるしむといへり。
仏神にも祈り
情欲をやめて、
真実解脱の門に入らん事こそあらまほしけれ。
無始輪廻多生に
流転たゞ此一事也。人間の慎しみ欲心にしかじといへり。
見しは今、天下治り将軍国王武州江城におはしまし、目出度
御世上なり。故に御門より慶賀をのべ給ひ、毎年
勅使怠る事なし。慶長十一年
近衛殿江戸へ御下りの時節、ねがはくは都にまだき花ぞ見んけふくる方の春に行く身は。九条殿注戸に御座し立春に、あひとありぬ時を
東の
旅衣春を
迎ふる君がめぐみにと詠じ給ふ。此外
月卿、
雲客、
殿上人、東国の山を越海を渡り、年毎に江戸に
下向有て、将軍を
尊敬し給ふ。海山もわれをばしるや
東路になれて
往来の近き年々と、三条
中宮大夫よみ給ひぬ。然間江戸を都と云ならはせり。
真斎といふ人申されけるは、天に二つの日なし、地に
二人の王なし。其上
内裏を
造進せず
朝まつりごとなくして、都といはんはひが事なり。天下に王も
一人、都も一つならでは有るべからずといふ。此義尤
理なり。然りといへども、天下を守護し将軍国王ましますところなどか都といはざらん。されば鎌倉は頼朝公治承四年の冬の比より取立られし処也。古歌に、鎌倉や鎌くら山に鶴が岡柳の都諸越の里と詠ぜり。むかし将軍頼朝公在世の時、二ヶの都と号し、鎌倉を都と云
【 NDLJP:270】ならはせし事、今の世に用ひざれども、鎌倉の人りんぐんりんがうへ行ては、田舎へ行て候と云、是云伝へたる所の言葉、鎌倉の人は今に於ていへり。扨又
東鑑の文書を見しに、万鎌倉よりの
御法度以下皆田舎へ
触遣すべしとあり。其上我朝は
天竺震旦の古き跡を尋て、其例を用ひ給へり、世界に王の数一万七千一十八王有と云々。そのかみ三皇五帝世ををさめ給ふ事、天の道に叶ひ人民の政道をおこなへり。是天より
与ふる所の一人なるが故に、地に二人の王なしと孟子に見えたり。周の文王代を治め
赧王迄十六代
相続せしかども、其内にも七御門有て戦国七雄あり。帝の末子諸国にわかれ自立し、国王と号し其国々の民をなで、政道有し事
春秋に委しく
記せり。
項羽高祖の戦ひ史記にあり五常も他国よりはじまれり。我朝には
聖徳太子の御時より是を学び給へり。まもるに
他国の苦しさといふ前句に、
昔日は五つのおきてあらぬ世にと、
紹巴付られたり。先聖孔子先師顔回の御顔大学寮にまします。供具をそなへ詩を作り、春秋の
礼贄を奉る。唐人のかしこき顔をうつしおきて聖の時とけふ祭る哉と詠ぜり。されば、大国には御門数多なるゆゑ、都も多しと聞えたり。然ば過去にほつしやうの都あり、未来に無為の都あり、天上にじやつくわうの都有り、水下に龍の宮古あり。かくの如くmi
過去未来天上水底迄も都あり。かるが故に、現在にも都あり。是ひたすらたのしむ所、繁昌の地を都とはいへる成るべし。扨又山野にも都あり。宗砌の発句に、秋の野は
千種の花の都かな。ひなの都と歌によみたるは、国府也。又国の政する所を、田舎の都と記せり。又人々に付て都あり。野の末山の奥にも住ば都、すまざれば都も
旅也。然ば今江戸より京の人を召し、又御用を仰付らるゝ其
御請返答にも御諚かしこまつて可罷登候、御用とゝのへのぼせ候と言上する。また京の人江戸へ付いては、昨日罷上り候、今日のぼり候と申さゝる也。かく京の人をはじめ諸国より江城へのぼるといへば、江戸は都にあらずや。万事に随て時々に進退有るべしとこそ古人も申されしか。其上
尚書に、周公基を
始め東国の
洛に新邑を
造ると云々。然るときんば、東国の洛古今漢和に其ためしあり。誠に有難き将軍国王の御時代、天下の安楽思ひ知られたり。
見しは今、らうさいはやり、皆人煩へり。去程にくすしたちは此
時花病をなほし
手柄にせんと、術をつくし良薬をあたへ給ふといへども治する事かたし。爰にくすしにもあらざる老人申されけるは、此煩のおこりを伺ふに、
風邪寒冷よりも出でず、心よりおこる病也。然間此病を心気と名付たり。心をいたましむる病也。さればいにしへ聖人世に出て義ををしへ道をたゞす時だにも、智はすくなく下愚は多しといへり。ましてや今は
末世混乱の時節なれば、智慧はすくなく、
却而愚痴にして、我より上を見てはうらやみ、心にかなはざる事をのみなげき、開事に迷ひ心
散乱して気の煩ひなせり。たとへば
者婆扁鵲が来現し、
医術医方を尽すといふ共、此病くすりにては治しがたし。たゞおのれが心をてんじかへべき也。淵にのぞんて魚をうらやまんより、しりぞいてあみをむすばんにしかじ。堀川右大
【 NDLJP:271】臣の御歌に、身を知らで人をうらむる心こそちる花よりもはかなかりけれと詠じ給ふ。扨又孔子は天をも恨みず人をもとがめずといへり。気の煩は気をもてよく治すべし。縦ば塩魚を塩水にひたしぬれば、よく塩出るが如し。人何ぞ心をもて形の役とするや。
聞しは今、江戸町に浅井源蔵と云若き人いひけるは、をさなき
比手習をしへし師匠今我にあひて、いにしへ金銀米銭をもあたへ、深恩をなしたる様に云る事、さらに覚がたし。我をさなき時にいたはる事なく、却てにくみちやうちやくせられ物をば得かゝず、其しるしなしと云ふ。かたへなる人是を聞て、おろか也とよ。
源蔵師の恩深き事其かぎり知られず。故に七尺去て師の影をふまずといへり。唐にて師弟の契約するには、北方に向ていけにえをそなへ、茅をもて酒を供し、神を祭り
誓文をするに、
蘆毛馬の血と白鶏の血と合て飲ませ、ちかつて後師となり、弟子と成らざれば、師匠弟子をうつ。憎むにあらず、よからしめんが為ぞとよ。一字を学ぶ共たゞ
宝珠をうる心地有るべし。一字千金にもあたると云も、一点他生をたすくる道理有が故也。
心地観経に天地の恩、国主の恩、父母の恩、師匠の恩、是を四恩と云り。是を知を以て人倫知らざるを鬼畜と名付く。少にしてまなんで老て忘るゝ是一つの
費えなりと曽子は申されし。其上学道のしな多かるべし。物書事第一といふは見る事聞事書とゞむれば、忘るゝ事なし。故に古人も手半学とはいへり。いづれの道を学ぶともをしへの筋をよくあらたむべし。師は針の如く弟は糸の如しと、
天台大師はしやくし給へり。おろかに学ばゝ聞ても聞ざるにおなじ。たゞ樹頭を風吹海底の群魚のうしほにしまざるが如し。却て悪弟は恥を師にゆづるとなれば、師弟共に恥辱にあらずや。扨又君子は下問にはぢず、しかうして後下学して上達す。一人の
胯をくゞつて千人の肩をこゆると也。荀子に青は藍より出てあゐよりも青し、氷は水是をなして水よりもさむしといへり。学文よくつとむれば、弟子も師匠にまさる。
能筆なれば帝王将軍の御手にもかゝる事筆道にしかず。され共今神妙の名を得る事はかたし。我朝にて筆道にて名を得給ひしは、
弘法、
道風、
佐理、
行成、其外すぐれたるはなし。能筆ならずとも、たゞ俗にならざるやうに書ならふべき事也といへり。
見しは今、江戸町に金六といふ者有り。
大御所様三河岡崎におはします時より、御存知の町の者なるが、関東へ御伴申下り、江戸本町一丁目に居たり。御所様外城へ出御の度毎に、金六御城の大手御門外につくばひぬ。御所様御覧有て、
頓て金六と御言葉をかけられほゝゑみ給ひけり。金六竹杖をつき御乗物の真先に立ち海道の下知し、右ひだりの町を見廻し、上様の御通りを町の者共に拝み奉れと云。上様御覧有て何とか思召しわらはせ給ふ。皆人是を見て、扨も金六は
果報の者かな。上様の御自愛浅からず、侍たらば過分の知行をも下さるべき者也と諸人云ひけり。然に金六日暮ぬれば、江戸町をめ
【 NDLJP:272】ぐり、辻の火番をあらため火をけすか
灯する哉を見ては、此町に
月行事はなきか、何とて火番をかたく申付ざるぞ、其家主をからめ
籠者さすべしとをめきければ、町の者ども肝をけし御奉行衆の御とがめかと、あわてふためき出て見れば金六也。夜更け人
静まつて戸あきたる家あれば、金六刀を抜持て門に立ふさがり、如何に此家へ盗人入たるぞ、町の者ども出合討とめよとよばはりければ、四方の町どうえうし
槍刀棒をひきさげ松明を手毎に持て、盗人はいづくに有ぞととへば、家主出て盗人家の内へはいらず、
宵に忘て戸を明置たるといへば、皆さりぬ。下部の者共いひけるは、金六も町の
者、われらが
親方どのも町人、皆人金六におぢおそれ給ふのおろかさよ、
御奉行衆の仰にてもなし、町の者もたのまず、いらざる金六がせんじやう哉。夜毎に町をさわがし諸人のわざはひとなる。其上
町人に
似合ぬ大かたなを肩に打かたげ、年は七十に余り白がしらをふつて、毎夜町をめぐる。かゝる
性根つよきえせもの世にも有けり。金六なくば夜番も心安かるべし、早くしねかしといふ。家主共聞て
言語同断曲事を云者哉。此事金六殿聞くならば、おのれら籠に入べし。上様は町繁昌し盗人火事なきやうにと御あはれみ覚しめす。是によつて金六殿は上様への御忠節に、夜毎に町をめぐり給へるぞ。江戸町の為にたからになる人なれば、百迄も命ながかれとこそ思へとしかりぬ。されば下郎共人もたのまぬ事にいらふをば、不入金六といふ。此言葉世上へひろまり、皆人云ひならばす。下人の口に戸はたてられぬと俗にいふも加様の事なるべし。
見しは今、佐渡島正吉といふ遊女、かみがたより江戸へ下る時節、伊豆の三島に泊る。此里に平太郎といふ油うりあり。正吉を一目見しよりうつゝなき心の闇に迷ひ、是は
天人の
影向かや。
玄宗皇帝の代なりせば楊貴妃、漢の武帝の時ならば李夫人、我朝のいにしへならば陽成院の御宇出羽のよしざねが娘小野小町といふとも、是にはいかで増るべき。形は秋の月、ゑめるまなじりには
金谷の花くんじ、此油男の袖の移り香も、是他生のえんぞかし。されどもおよばぬ恋なりと身を打わびてたふれふし、今をかぎりの有さまなり。友だちの油売ども是を見ていさめけるは、おろかなりとよ平太郎、我々江戸よし原町にて年月油をうり、ぢようらう町の作法を見しに、下のけいせいは一夜がしろがね十匁廿匁、中は卅目一枚也。扨此正吉殿はおしやうくらゐの人たちなれば、金一両が定まりにて、高きいやしきゑらびなくあふぞかし。平太郎は金持つまじ、あなかはゆげに、友だち共くわんじんして金一両作り出し、此度平太郎が一命を助くべきぞ、気よわるな心づよく思へといふ。平太郎是を聞きかつぱと起上り、あらうれしの人のをしへぞや、友達衆の
勧進までも及ぶべからず、我此年月油うりため金一両持ちたるが、常にはたおびに結び付夜のねざめ昼の
紛れにも、此金をこそ一代のたからと思ひつれども、命のあらば又も金は持つべしと、此一両の金を取出し、正吉殿に一夜あはんと云。正吉、平太郎を見てあなみたもなのむくつけき男の有様や、中々逢はざらまし物をと云て、簾中深くにげ入る。平
【 NDLJP:273】太郎是を見てあら情なの正吉様の御風情や、いもせの道といふ事はわたくしならず、いづもしの神のむすびあはせにて、高きいやしき隔なし。いかなる鯨のよる浦虎ふす野辺を蹈みわけ、
草村の露ときえんも此道なり。たとひかたちこそ深山がくれのくち木なれ、こゝろは花になさばなりなん。古今いせ物がたり源氏にも、か様の事をこそ書かれたり。昔も思ひ深草の四位の少将は、心づよくも小町がもとへ、九十九夜迄通ひけるとかや。われはせつなる恋なれば、いきてよもあすまで人はつらからじ、この夕暮をとはゞとへかしとよみ給ひし式子内親王の御心もよそならず、中々に死なん。たゞいくれば人の恋しきに、いやまだしなじ、あふ事もありと思へども、数ならぬ身はかひもなし。されば仏も
最期の一念に依て三界の生を引くと説給へば、死てたちまちに
赤鬼と成てわが
怨念をはらさんといふかと見れば、狂乱の心つきて声かはりけしからず、あらくるし目まひやむねくるしやと云。中たち是を聞き哀にも又おそろしくもや思ひけん、正吉に此由を語る。正吉さればこそとよ、其男を見つればつら打よごれ髪ひげむさ
〳〵とはえたるは、おどろのごとし。手にはひゞきれ足にはあかゞりゑめり。身に著たる
木綿布子は油じみて肩さへもわかず。只是島のえびすとやらん中々聞も身の毛よだつといふ。
中立聞て、なう此男の有様おそろしや
〳〵、
執心鬼と成て狂乱し候ぞ。仏はけねん
無量却と説給ひて爰に死にかしこに生れ、鳥けだもの江河のうろくづに生をかへて、
愛着のきづなはなれがたし。只一夜逢てかれが思ひをはるけさせ給へ。されば姿こそ島のえびすに似たれども、心言葉は花の都人やさ男にて候といへば、正吉聞て心うくおもへども、媒のいさめに随ひ、其夜平太郎と同じむしろにふす。平太郎むつ事に、扨も
〳〵正吉様に逢ひ奉る事の忝さよ有がたさよ、それ夫婦男女のかたらひを守らんとちかひ給ふ御神は、あしがら、箱根、玉津島、きふねや三輪の明神、殊にあからさまに正吉様をかいまみ、島大明神の御引合せぞや。一樹の陰の
宿り一河の流を汲む事さへ
他生の
縁と承る。ましてや天下無双の音に聞えし正吉様と、此あぶら男が一つ床にふしまゐらする事は、此世ならぬちぎり、いく生のきえんぞかし。神や仏はよくしろし召れけん、此平太郎は夢にも知りま。ゐらせざりし。さぞな後の世も又後の世もめぐり逢て、ひとつはちすのうてなの縁と生れん事のうれしさよ。もし
我さきに立ならば、同じはちすの半座をあけて待申さんとくどきけり。正吉はさもうるさくおもひ、とかく物いはずうしろむきて、例ならぬ声をなす。平太郎是を聞、御虫いたくやおはすらん、あらせうしの折からやと、おきつふしつ是をなげく間に、はや夜も明行きぬればかなしびて、平太郎秋の夜の
千夜を
一夜になぞらへて、やちよしねばやとぞくせゝりける。正吉聞て秋の夜の長きも夏のみじかきも、あふ人がらの心ぞかしといひて、夜の明るを待兼て、急ぎ江戸へと立出る。平太郎わかれをかなしみ、余りのせんかたなさに、正吉様の御乗物をかゝばやとねがふ。君がてゝ君がはゝとやらんいふ人は、よくふかきばかりにてあはれも知らぬ人達なれば、此由を聞きねがふこそ幸なれ、はやかゝせよとて乗物をかきて江戸へ来りぬ。扨又三年つきそひ、正吉が乗物をかきて江戸町をめぐる。皆人此平太郎を見て
【 NDLJP:274】指さして笑ひあへり。是ひが事也。昔もさるためしの候ひける。用明天皇さへ恋路に迷ひ、三年があひだ牛をひき草をかり給ふとかや。草かりぶえといふ事、此時よりはじまれりと也。さのみ平太郎を笑ひ給ふべからず。
見しは今、江戸吉原町にて、来三月五日かつらぎ大夫かぶきをどり有りと、日本橋に高札を立る。江戸に名を得し女かぶき多しといへども、中にも葛城大夫は世にこえみめかたち
優しく、ようがん美麗成ければ、此かぶきをこそ見めと、
老若貴賤くんじゆし見物す。
大夫舞台へ出秘曲を尽し舞よそほひ、ただ是れ天人の
舞楽かや、
少進法印今春八郎も及ぶべからず。
大鼓、
小鼓、
笛、
太鼓の役者は男也。かれら打合せ入乱たるこまかなるほど、
拍子は天下に名を得たる四座の役者もまなぶべからず。弥兵衛善内が狂言の
風情、をどりはぬる
乱拍子は、鷺大夫弥太郎が
式三番の足ぶみも、是にはいかでまさるべき。
取分猿若出て色々様々の物まねさるこそをかしけれ。はうさい念仏、猿廻し、酒に
酔ふ
在郷の百姓、かたこといひていくぢなき風情、ありとあらゆる物まね扨もよく似たる物哉。弁舌たれる事ふるなの
変化かや。かゝる物まねの上手、あめが下第一の名人奇特ふしぎと皆人かんじたり。はや舞もをさまる時分なれば、みな人名残惜しく思ふ処に、風呂あがりの遊びをどりを芝居やぶりに仕るべしとことわる。是をこそ見めと待所に、大夫を初其外名をうる遊女ども、よはひ二八ばかりなるが、形たぐひなういとやさしきかほばせあい
〳〵しく、もものこびをなし、花の色衣を引かさね、二三十人伴ひ出て酒宴し、一人づつ立て思ひ
〳〵の芸を一曲一かなでらうえいし、座
静つて其後大小の役者二人出て形儀たゞしく、鼓をしんにかまへりつき顔にて打ならす。皆人ふしんに思ひ、なりをしづめて見る処に、かつらぎ扇を取て、
自然居士の
曲舞皇帝の臣下と
謡出したり。謡の役者自慢顔にてふしはかせ音曲を専とたしなみ、誠に本の
能大夫のまねをして舞ひをさめければ、皆人是を見て、一度にどつと笑ひけり。故いかんとなれば、かれらがかぶき舞馬鹿のまねにて打おくならば、誠にかぶきの上手也。己がわざに及びがたき本の能のまねをすれどもさらに似ず、かへつておのが家職まで下手と人に笑はれ、それより皇帝の葛城大夫と異名をよばれ、不繁昌に成りぬ。是のみならず万の道、わが家の芸をかろく思ひ、人の芸まで知り顔する故、おのが芸一段
下手の名をよばはるゝはこれよの常のならひ也。或人の云、
猿若利根才智者にて琴、碁、書、画をも学びえつべし。六
芸十
能のうちいづれ成とも一芸学ぶならば、一代身上のたからをまうくべし。あはれ猿若が利根にあやからばやと思ひけるに、此猿若世に人の用ひ給へる所の芸能をば、中々一つも学びえず。故にばか猿若がまねをなし、
身命をかつ
〳〵つなぐといふ。万つたなくよこざまなる道は学びやすく、すなほにたゞしき道はまなびがたしと知れたり。