目次
【 NDLJP:374】
巻之十
見しは今、江戸いせ町に
高岡浄和軒と云
知人子を二人持り。
浅草観音へ日まうでして、子共の命長かれと祈る。然に子一人死にたり。され共観音へ参る事常のごとし。
愚老云けるは子供の命を祈り給へど一人の子は死にたり、夫にてもいんぐわをわきまへ給はずや。
寿命の
長短福徳の大小是皆前世の
業因にこたへたる
定業なりといさめければ、
浄和軒聞て先の子の死たる事、観音を
恨み申べからず。われ二人を祈りつる事二
念疑心におつれば也。いま一人を祈るは一念なれば、などか
御恵にあづからざるべき。観音品の明文にしゆおんしつたいさんと説給ふ、観音妙智力とて妙の力にて世間の苦を
救ひ給ふ、猶
頼み有り。
定業亦能転はぼさつのちかひなり、大聖のせいやくあに
虚妄にあらずやといふ。誠に信心有難き人にこそあれと愚老云ければ、或
能化のたまはく、観音は
大慈大悲の
𦬇にて一
切衆生を平等にすくひ給ふ。
慈といふは父の子を思ふかたち、悲と云は母の子をかなしむすがた也。一度も
観音を念ずれば、諸々の苦をはなれ願ひをみてり。まして
毎日詣でて念ずる
功力をや。
仏𦬇の御身体はたとへば鏡のごとし。向ふ者まことを以て祈らば
利生有るべし。
踈心をもつていのらば利益有るべからず。是
鏡の
影あきらか成るがごとし。
世間の
目前にさへ多くもつて奇特あり。
似我と云虫有り、
件【 NDLJP:375】の虫は
蜂の一
類也。
毛詩に云、
螟蛉子有螺羸是を
朝野に負と云々。彼はち他の虫をふくんで我が巣の中に入て呪して
似我々々といへば、すなはち蜂に成るなり。かるが故に、似我々々といふ也。われにによによといのる心也。
真言の
呪とは、皆
正覚の
仏の名也。是を
衆生となへて
正覚をなせよと教給ふ。衆生をしへのごとく是を
数遍となふれば正覚をなすも、たゞ此
似我々々の我にによ
〳〵と度々呪願すれば、蜂になるが如しといへり。呪とはしゆぐわんとて仏の願ひ也。
諸仏の名を衆生となへて仏になれかしと願ひ給ふを呪といふ。
南無観世音と一度となふれば、
今生の願ひをみてるのみならず、
来生には必観音のれんだいに乗じてながくたのしびにあへり。大慈大悲のせいぐわんには、枯れたる木にも花さき実のなるとかや。
清水観音の御歌に、たゞたのめしめじが原のさしも草我世の中にあらんかぎりはの
御慈詠、
有難やあふぐべしたふとむべし。
聞しは昔、
愚老若き
頃坐頭平家を語る、其中に
右兵衛佐頼朝公、伊豆の国の
目代八牧判官平兼隆を夜討にし義兵を挙し事を、諸国の
坐頭八牧判官とかたりけるに、
城言といふ一人の坐頭有てやすぎ判官と語る。此すぎとまきとの
両説をやゝともすれば問答しつるが、一人の
坐頭片意志者にて、わが
師匠城慶坊は
生国伊豆の人にて、やすぎの事をよく知て教へなりとて語りやまず。皆人じやうごは坐頭とあだ名を付て笑ひたりしといへば、
寿斎と云人聞て、いや一人の
坐頭やすぎと語るも仔細有るべし。此両説おぼつかなし。今人毎に賞ひ給へる
盛衰記平家物語に八牧と記し、
東鑑には山木とかき、扨又或文には
矢杉と記せり。いづれもすり本にて
古今用ひ来れり。然るときんば、正字確ならず。是に付て思ひ出せり。
本田出雲守と云入四五年
以前上総の国中おだきと云所
知行し、をたぎとは何と書くぞととはれければ、里の
翁答て、
仔細はしらず昔より小滝と書くといふ。
出雲守聞て小を捨て大をとると古人もいへり。前々はさもあれ今より大滝と書くべしと申されければ、
地頭の気にしたがひ大滝と書く。
在所の者共げにも小より大がまさりなるといひたるとかや。是義は時の
宜しきにしたがふ心也。すべてたしかなる文に矢杉と記すといふ共、あまねく人の云伝ふる八牧を用ひてよろしかるべし。是のみならずいにしへよりあやまり来れる事多し、
夢々とがむべからず。
古歌に秋の夜は春日わするゝ物なれや
霞にきりはちへまさるらんと詠ぜり。此歌ちへと
得心してはことわり聞えがたし。され共ちへに
仔細ありと云人もあり。又或人申されしは、立といふ字を昔見誤まり、かなよみにちへととなへ来れるにや、立にて此歌の
義理すなほに聞えたり。扨又
鶉の字を日本の
俗鳥と作す、是もあやまり来れり。
此類多し、あげてかぞふべからず。しかるに右の
両説を察するに、杉と牧とはすがた似たる字也。又仮字に書きてもまきとすぎは見まがへるなれば、
筆者書きあやまりたるにや、たゞとにもかくにも
世上にひろくさたするをとなへてよかるべしと申されし。
【 NDLJP:376】
聞きしは今、伯斎と云関西人云ひけるは、我東国を大かに見たりしが、宮寺に大きなるは一つもなし。鎌倉鶴岡の古宮たゞ一つ有りけれ共、大社とはいひがたし。五山を尋行き見れ共名のみ計の小寺也也。昔かまくらはんじやうなれば、大寺大社も有りぬべし。文治五年六月鶴岡塔供養の事古記にあり。其塔も損ずる、大仏あれ共堂はなし。此大仏殿は建武二年八月三日大風に破損す。関東下手大工立しゆゑ風に皆損じたり。扨又奈良の大仏殿は聖武天皇御宇天平壬午十四年より御建立、同十七年八月二十三日先しき地のだんをかまへ仏のうしろに山をつき、同十九年九月二十九日仏を鋳奉る。孝謙天皇の御宇天平勝宝元年其こう終る。三年の間八ヶ度鋳なほし、同十二月七日供養有り。仏の御長十六丈金銅るしやな仏の像を安置し給ふ。此仏の御法有難き事花厳経にのべ給へるとかや。然に安徳天皇御宇、治承四年庚子十二月二十八日、平相国入道前業の悪行により、四百三十年有つて大仏殿もえくひとなる所に、しゆんせう坊重□上人法皇の命旨を承り、寿永二年癸卯四月十九日に、大宋国陳和卿をしてはじめて本仏の御頭を鋳奉らしむ。同き五月二十五日に至て首尾す。三十余日冶鋳十四度にようはんして功成りをはんぬ。文治元年乙巳八月二十八日に太上法皇てづから御開眼、時に法皇数重の足代によぢのぼり十六丈の形像を見あふぎ給ふ。供奉の卿相以下目眩き足ふるひて皆半階に止まる。供養せしむる昌導は当寺の別当法務僧正定遍、呪願の師は興福寺別当権僧正信円、講師は同き寺権別当大僧都覚憲すべてぞくする処也。納衣一千口也。其後上人往昔の例を尋ね大神宮に参り造寺の祈念を致すの所に、風の社の□によてまのあたりに二顆の宝珠を得たり。当寺の重宝とし勅封の蔵にあり。建久六年乙卯二月十四日巳刻、将軍家鎌倉より御上洛し給ふ。是南都東大寺供養の間御結縁有るべきによて也。御台所ならびに男女の御息等進発し給ふ。畠山次郎重忠先陣と云々。三月十一日将軍家馬千疋を東大寺にほどこし入せしめ給ふ。義盛景時昌寛等是を奉行す。およそ御奉加八木一万石黄金一千両上絹一千疋と云々。将軍家大仏殿に御参、爰に陳和卿は宋朝の来客として和州工匠に応じ、およそ其るしやな仏の修餝を拝しほとんど、びしゆかつまの再誕といひつべし。よて将軍重源上人を中使としてちぐ結縁のために和卿をまねかしめ給ふ所に、国敵を退治の時多く人の命をたち罪業深重也。論ずるにおよばざるの由再三す。将軍かんるゐをおさへ、奥州征伐の時着し給ふ所の甲冑、ならびに鞍馬三疋金銀等を和卿に送らる。和卿甲冑を給り、造営の釘料としてがらんに施入す。其外領納するにあたはず悉もて是をかへし奉ると云々。然に此大仏三百七十余歳をふる所に、永禄八乙丑の年、松永弾正少弼又焼けほろぼしたり。此大仏殿数百年をふるといへども終に風には破損せず、二度ながら灰となる。されば関西の寺社は能く工み立たる故風にも損せずるふりたる大がらん多し。南都七大寺を初め京の五山四ヶの本寺三十三間堂、祇園、清水、東寺、嵯峨何れも〳〵広大なる伽藍有り。去程に関東は是を見て目をおどろかすといふ。老人聞て伯斎の物しりきそくこそほいなけれ。扨こそ古人もほしいまゝに言葉をもらすは失のもとなりといへり。四ヶの本寺は関西に有りとかや。延暦寺園城寺は近江の国な【 NDLJP:377】り。江州は関東にあらずや。後拾遺に、相阪は東路とこそ思ひしに心づくしの関にぞありける。又風雅集に、御調物たえず備ふる東路の瀬田の長橋音もとゞろくと兼盛詠ぜり。よくわきまへたる事は、必口重く、とはぬ限りはいはぬこそいみじけれ。されば昔関東弓箭有つて国乱れふるき寺社共灰燼となる。然るに頼朝公治承四年十月六日鎌倉へ打入る。先はるかに鶴岡八幡宮ををがみ給ひ、同十七日に鳥居を立られたり。扨若宮御建立有るべしとて大工を尋ね給ふ所に、武蔵国浅草に卿司といふ工匠の棟梁有り。是を召され養和はじまる丑の年此宮建立し給ふ。四面のくわいらうあり。作り道十余町てうまう殊に勝れたり。慶長十九当年迄四百三十五歳に当りぬ。続古今集に、宮柱ふとしき立て万代に今ぞさかえん鎌倉の里と、鎌倉右大臣よめり新拾遺に、鶴岡木高き松を吹く風の雲ゐにひらく万代の声と、右兵衛督基氏詠ぜり。然るに当代中井大和守と云ふ大工の棟梁有り、京大仏殿江戸駿河の殿主をも立て上手の名をえたり。大和守大阪御陣へ馳参する所に、軍中にさいづちの指物あり。諸人是を見て扨もめづらしき指物哉。是たゞものに有るべからず。天下に其名をうる工大和守としられたり。かれがつちにあたる所せいろう矢倉はいふもさらなり、岩垣鐡門もみぢんにくだくべしと諸侍はうびし前代未聞の名工也。大和守鎌倉八幡宮を見て申しけるは、社のかつかふ大工の秘術七宝しやうごんしきしやうの次第をば口舌にてのぶべからず、筆にも記し難し。いはんや末代において是を学ぶ人有るべからず。たゞ目をおどろかす計也。されば縄をけづると云ふ事有り。尭の代に匠石と云ふ工あり。又野人と云白土ぬり有り。或人此ふたりを頼み屋作りしらかべをぬる所に、亭主扨も上手のかべぬりかなとあふのきに成つてほめける時に、かべぬりへらをちやくと亭主の鼻の先に白土を付る、薄きはへの羽の薄さに付る。是を湯水にてあらひぬぐひすれ共落ちず。家主めいわくするに、工見てさらばわれ釿にてけづりおとさんと云ふ。あぶなく思へ共よんどころなし頼むと云ひければ、鼻の皮をもきらず土をけづり落したり。それより蠅けづりと云事天下において沙汰せり。然るに我朝武蔵の国のがうしは匠石がゆかりにてこそ有るべけれ。其上おほくの工有つて品々に心をつくし、神妙不思議を残す事言葉にのべがたしとぞほめたる。万の道をば道が知ると云て、其家々の者ならずしてよくは知りがたし。おろかなる人は難を求めて言葉を工みにし、いさゝかの事をもいみじと自讃し、かへつてあざけりとなる事を知らず。是浅知の有ることなりといへり。
見しは昔、
上野の
国岡根と云ふ
山里に、藤次と云て身まづしく
姿無骨なる者有りしが、六七年前江戸へ来り、
志葉の町はづれにちひさき
草の
庵をむすび月日を送りしが、年をおひ其身よろしくなり、今は江戸さかゆる町にて
家屋敷を求め、
万什物をたくはへ人のまじはりをむつまじくす。
常の
振舞こと
人に
勝れたりと諸人にほめられ、目出度ぞさかえける。
賤しき身とて思ひ捨てめやと云前句に、立ちよる人をいとはぬ花の
蔭と
兼載付給へり。此者
古郷に
居るならば
一期まづしく、心おろかに有はつべ
【 NDLJP:378】き身が、
生所なれ共見捨て
繁昌の江戸へ来り、人の
形儀作法を見習ひ
仁義の道を学び、
今人といはるること是よき
住所にあるが故也。
人間は
天理といひて此理をもたぬ人はあらねども、それを
分明せざりによつて、
万にまよへり。其上心おろかなる人学ばずんば道を知りがたし。
先哲も一
期の
大事は
住所といへり。
実に
人間一期たのしむべき
栖を
肝要と求めずして、
生所をしたひ
旧縁につながれ、いたづらに一
生涯をおくり
暮すは
常の
習ひなり。
孟母と云は、
孟軻が母也。母、
家を
墓所のちかくに作る。
軻いとけなうしてたはふれに
葬送の事を
明暮なす。母是を見て、此所しかるべからずと市のかたはらに住す。
軻又
売買の事を学ぶ。母
玆も
益なしとくわんがくゐんの
傍に住す。
学者達出入にしよじやくをもてあそぶを見て、
軻是を学ぶ。時に
学半に母の家に来る。母の云く、学びえたりやと問ふ。
軻半学とこたふ。その時母はた物を
織りけるが、中より切つて見せたり。軻是を見て、
頓て
心得学堂に帰つて学をきはめ天下一の
学匠となる。扨又頭武と云つてしらみは
住所によつて色々なり。
首に住むはくろし。身に住むはしろし。ぢやうこうはかやを食してかうばし。かくのごとく人も
住所によつて
悪人共智者共成るべし。
花山院御製に、木のもとを
栖とすればおのづから花見る人と成りぬべきかなと詠じ給ふ。扨又
昌叱、
侘びて住むとも都也けりと前句をせられしに、
遠近の花の
梢をみぎりにてと
紹巴付けられたり。かゝる
目出度江戸の花の都をよそに見て、かた
田舎に住みはてんはおろか成る心にあらずや。
見しは今、小坂熊居助と云者、
明暮世を
恨み人をうらやみて云ひけるやうは、この
比たてばかたをならべ、ゐればひざをくみし、友人も俄におのれいみじげなる
風情、見ても聞きてもきのどくや
腹立やと、ひゐする人をうらやめり。是ひが事也。おのれすなほならねば人の賢を見てうらやむは
尋常也。
過去の
善悪の
業因によりて今世のひんぷく
苦楽有り。
悪念化して地ごく
鬼畜と
現じ、善因つもつて
浄土ぼだいとあらはる。
後漢書に人の恨る所は天のさる所也、人の思ふ所は天のくみする所也と云々、歌に、おのが身のおのが心にかなはぬを思はば物を思ひしりなんと詠ぜり。誠に我身を心に任せぬ世の習ひなれば、まして人をうらむるはおろか也。
先哲もまさるをもうらやまざれ、
劣るをもいやしむなとこそ申されし。
古歌に、世やはうき人やは
辛き
海士のかるもにすむ虫のわれからぞうきとよめり。
子夏がいはく、
死生命に有り、
富貴天に有りと也。皆是
過去のいんなるべし。扨又
末代のくわをしらんとほつせば
現在のいんを見よと也。かくのごとくわきまへしりぬれば、三
世くらからず。
見しは昔、
慶長二年の
比ほひ
行人江戸へ来り云様、神田の
原、
大塚の本にて来六月十五日
火定せんとふれて町をめぐる。
漸く
定日もきはまりぬはば。
老若男女大塚とのち、有り難き事にや、是を拝まんと
貴賤群集し、広き
野原も所せきたちどなかりけり。
塚本に
棚をゆひて
行人あがり、其下に
薪をつみ火
【 NDLJP:379】を付け
焼立つる処に、
行人火中へ飛入たるともいふ。飛びかぬるを
弟子の
行人共そばよりつきおそむたる共いふ。我も
慥には見ざりけり。次の口
朋友とうちつれとぶらひ行き大塚のあたりを見るに、人気はひとりもなく跡には
骨交りの
灰計残りたり。又かたはらに
蟻さいげんなう見ゆる。古歌に、みな月や
照日のうつのあわれのみよあもの
通路行きちがふ也とよみしも
思出せり。東西へ行き南北へはしる
行方あり帰る栖あり。たゞきのふ
此所へ集しわれ人に
異ならず。虫にはなにたる物か生れ来て
歩く。足の下に
如何計の
蟻をかふみころしつらん。きのふ
行人と共にやけ死にたる蟻ごうがしやよりも多かるべし。此
蟻は
焼残り也。妻を尋ね子を尋ぬると覚えたりと笑へば、友人聞きて、愚なる云事哉。其方蟻をふみころす事
慈悲なきによつて也。いきとしいける
物前世の兄弟
生々の父母也。一
切のものをわが
親子のごとくおもはんにいかで
殺さん、
善業のみなもとは
慈悲をもつてむねとすといへり。其上
五戒のはじめに
殺生戒を第一とす。
此戒を
破る事
慈悲なき故也。
慈悲有る人をば
仏もあはれみ神も
納受たれ、其人のかうべにやどり給ひぬ。
経に一足千虫を殺すと説かれしは、其方の事なるべし。
昔或る
沙弥蟻一つ水にながるゝをみて取りあげいかしけるによつて、
今生の命をのびたると古記に見えたり。きのふの
行人けふ
白骨となるを見て、誰か是にちやくしんをなさゞらん。此
観念をなさん時、むし
生死のさいしやう悉くめつすべし。此故に慧心
僧都はふじやうくわんをなさんと思はゞ、常に
塚のほとりに行きて
死人の
尸を見よとのたまひき。夫れ
四種の
葬礼とて、
火葬、
水葬、
野葬、
土葬といふ事あり。人をやく
事は
人王四十二代
文武天皇御宇四年の春
元興寺の
道昭入滅、これ日本
火葬の始也。
朝に
紅顔有つてせいろにほこるといへ共、身は
忽に
化して
暮天数片の
煙と立ちのぼり、
骨は
空しく
留つて
卵塔一
掬のちりとなる。是
生死の習ひ
有為てんべんのことわり也。
荘子に形は
誠に槁木のごとくならしめつべしや、しかうして心まさに
死灰の如くならしめつべしやと云々。
万心念のおこるは
陽気の生じて
発動するゆゑなり。それをよく
閑にをさめて
枯木のごとくひえたる
灰のごとくせよと云荘子が
心法也。
本来の
面目と云ふも外になし。わが心ををさむるにあり。人死して
白骨となり
蟻人に似たると
計見て
無情をわきまへざるはおろか也。一
切生類蟻に至る迄も心を付て能く見給へ。子を思ひ、
親をなつかしみ、夫婦
伴ひ、妬み怒り、欲あり、命を惜む事
人間にたがはず。故に一
切の
有情を見て無事をもくわんぜず
慈悲の心なからんは、
鬼畜木石也。人虫ことなれ共其志は
同じ。無益の事をなし年月を送るは、
抂て一生を過ぎて
蟻磨を廻るに似たり。此心
文選にも
陳翰が
大槐官記にも有り。
流転生死の
縁たる事は多く
後世ほだいの
便となる事は
稀にもなく、
当来の
生所を思はざるは愚なり。
仁政の道に叶ひ給はゞ、おのづから
和光の深き意をもしり、
仏陀の広き恵みをも信じ、
経文のかすかなる
趣をも悟り給ひぬべしと云へり。誠に有がたき
朋友のいさめとこそ思ひ侍れ。
聞きしは今、江戸に於てさる
屋形へ過ぎし夜
大名衆集り給ひ、
酒宴の上、
盃に付て
口論有り。
互にか
【 NDLJP:380】たなを抜合せ、一方には弓のうでを打ち落され、あまつさへ又面を二刀切られ給ひぬ。
独は手も
負ひ給はず。皆人中へ入れて両方へ
引分け、夜中に乗物に乗り
屋形へ帰り給ひしが、手負ひたる大名の方より夜中におしよする由聞えしかば、一方には門をかため今や
〳〵と待ちたり。あたりの
大名屋形にも夜もすがらさわぎおびたゞしかりしが、過ぎし夜は何事もなし。此
大名衆は天下において五人三人のうちの
頭大名にてましませば、此けんくわ後は何とかをさまらん。両やかたに
人数取籠り、
甲冑を帯し
弓鉄砲の
用意有つて上を下へ騒ぐといへ共、門を打て出入なし。その上此人々の一
門広し、
親類縁類に至るまでも
内々の
仕度有りとかや。
如何成る大事が出来ぬべきと、よる者も
〳〵此事いひやまず。され共われ
両屋形の
中に
知人なければ、
大名衆の
事町の者にかゝらずと聞き居たり。其後此
喧嘩の事人に尋ねければ、町にて此ほど
沙汰せし
大名衆のけんくわ一
円なき事也。何者か此
悪事を云ひ出しけん、江戸より外へ出づる口は
品川口、
田安口、
神田口、
浅草口、
舟口共に五口有り。江戸町より一日のうち外へ出行く者、
幾千万共数しらず。さぞ此
悪事日本国へ聞えつらん、
好事もなきには如じとこそいへ、かゝる
悪説是
天魔の
所行成るべし。以来人の云事を誠と思ひかたるべからずといへば、老人の有りしが聞いて、いや人の
物語を聞いていはじと云ふは愚也。昔より記し置いたる抄物も、皆人の物語を聞きて書きおきたり。此四五日江戸町にて
沙汰せし
大名衆の
喧嘩のみ
多かるべし。然るは
盛衰記を見るに、平家のちやく
〳〵小松内大臣重盛公の
子息権助三位中将
惟盛は、
讃岐の
八島の
戦場をのがれ出て三
所権現をじゆんれいをとげ、
那智の
浦に来て松の
皮をけづり、一首の和歌をぞ残されける。生れ来て終にしぬてふことのみぞさだめなき世に定めありける。
元暦元年三月廿八日生年二十二歳と書きおき、
那智の
浦にて
入水し終んぬ。又
或説に、中将殿を
那智のきやくそうあはれみて、滝の奥山中にあんじつを結びかくしおき、是にて果て給ひぬ。又
或説に、
中将殿は三山を
参詣し、都へ上りとらはれてかまくらへ下る時、飲食をたち、十一日といへば、
相模の国
湯本のしゆくにて卒し給ひぬ。但し是はせんちうきに有りと書きたり。此中将の果てし処を、此
物語の内に三
説迄記せり。此物語は
相国入道清盛公の事を書きはじめ、なかんづく公家の事を委しく記したれば、都あたりにて書きたると覚えたり。然ば中将殿都にて捕はれ給ひなば、世に
隠有るまじきに、三説しるしたるもふしん也。又
平家物語は
信濃入道行長作りて
生仏と云ふ
盲に教へ、ふしを付てかたらせたり。此入道も人の
云伝へをや記したりけん、此物語も盛衰記に
相違の事多し。扨又源平の事を
謡舞に作りたり。是も右の両書物にちがふことのみあり。如何なる文を見たるや、是又おぼつかなし。かくのごとく説多ければ虚言さぞ多からん。然るときんば、いづれをか虚とし、いづれを実とせん。此程江戸町のざうせつ多かるべしといへり。
見しは今、江戸
大橋のあたりに何となく
売刀を持出しが、近年は
貴賤くんじゆし
刀市立て、刀を抜連
【 NDLJP:381】れ物すさまじき
体也。かたき持ちたる人此道通りてえき有るまじ。其上
大盗人多く立交はり、人の
財珍をうばひ取るをとらへ、
御奉行所へつれて行けば、火あぶりはり付にかけ給ふ。扨又
小盗人は腰にさげたる
火打袋いんろう刀のさげ
緒など切取るをとらへ、手足の
指をもぎて
日本橋にさらしおく。かく
罪科の
軽重に
随ひて罪におこなひ、其上盗人の
宿同類迄も御せんさく有て
同罪になし、諸国の
御法度右の如くなれば、今はぬす
人絶えはで天下おだやかに、諸人
正直けんぱふを心に嗜み、仁義を本とし
仏法を
信敬し目出度
世上也。
孟子に
尭舜の仁はあまねく人を愛せず、賢を親する事をすみやかにすと云々。
尭舜程の君もなけれ共、世間の者を皆あいする事はなし。賢人をしたしみ持ちて、それ
〴〵に国の
政道をさわがせ給へるによつて、世も太平にて
万民豊にさかえたり。
史記に千金のかは
衣一
狐の
腋にあらず、
台樹之根は一木の枝にあらず、三代の間は一士の智にあらずと也。誠に今代々の
将軍相つゞき国を治給ふ事一人の
智恵にあらず。
名目も多く出来、政を行ひ給ふ故なるべし。其上太平の
御代には弓を
袋に入れ
太刀を箱にをさむとかや。大橋に市を立ぬき刀くせ事
停止の旨仰出されたり。
竹林抄に、包むとすれど名はしられけりといふ前句に、武士の此時弓を袋にてと
専順付られたるも、今爰に思ひ出けり。
誠に有がたき君の御時代と万民よろこびあへり。
見しは今、天下治り国民
豊にして
有難き御時代に生れあひたり。
諸人仁義を専とし
慈悲あいきやうをもとゝし給ふ。仁と云は父の子をいつくしみ思ふかたち、母の子をかなしむ姿也。
仏教にも
慈悲心則仏心と説き給ふ。
慈悲あらん人をば
親踈をいはず親のごとく思ひ、恩あらん
輩には
貴賤を論ぜず
主従の
礼をいたす、是仁の道也。
猶以て君子は
情ふかく慈悲有るべき事也。
情には命を捨て恨には恩をわする。是よのつねの習ひ、上に義あれば下あへて服せざる事なし。
孟子にそくいんの心は仁の
端なりと云々。仁、心にあれば、用外にあらはるゝ者也。
爰に或君子まします、いときなき御時より
愚老をあはれみ
思召、
遠国より毎年江戸へ
御下向の
砌、予
参向いたす所に、老いたる身なれば死ても有るかと思召出さるゝに、そくさいなるよと
仰也。
忝も賤き身が如何なる先世の
御縁を結び、御れんみんに
預り候ぞと涙を流し申す計也。昔
文王城洛に行くに老馬
臥してあり。帝いかなる馬ぞと問ひ給ふ。臣下答て、よはひ老いたりとて捨つると申す。王あはれんで此馬を養ひ給ひければ、四方の
古老是を聞きて帝にしたがふ者三十余国也。今われ
老馬のごとし。君の
御恵みに預る事
古今ことならず。又
或時愚老鳩の杖にすがり
御屋形へ
御見廻申したり。君仰に云、
老足にて町より
是迄遠路をはこぶ志
感悦に
思召す。折しも今日は
寒天、見るに、
翁薄衣にしてふびんの
次第也。さぞな
路次中寒からんと、君
上にめされたる
帋子を脱せ給ひ、
年寄の身は風しみ易し、是を着て
寒風をよき
私宅に帰り候へと下されたり。
拙者是をいたゞき
感涙肝にめいずる計也。私
宅に帰り妻子共に此由を語り、いやしき身を上としてあはれみ給ふ
御情山海よりもふかしと、たゞ袖をぬらすより外はなし。仁者は人をあいすと
孔子のたまひ
【 NDLJP:382】しも思ひしられたり。
昔良将の兵を用ゐる時にたんらうを一河の水に
味へり。
士卒是をかんじ君の為に死をかろんず、
誠に
恩愛のふかき
滋味のおのれにおよぼすをもつて也。
愚老つれ
〴〵に思ふ事を書くまゝに、余りに物にいひはやりてかやうの事迄記し侍る事、他の
嘲をかへり見ざるか、されば古き
連歌に、年こそ今は立ち帰りけれと云前句に、老いぬればいときなかりし心にてと
救済付給へるも、翁が心におなじ。老いて二度ちごになると
世俗にいへるがごとし。捨てえぬ身こそ袖はぬれけれと云前句に、たどるまに年は老いにき歌の道と宗砌付給へり。其上われに等しき友もなし、
桃李物いはねば、せめては
独言に思ふ事などかいはでたゞにややみぬべき。老いたる
形をば見る人是をううとみ、聞く人かれをにくむ。
年寄をわらはん人の
行末の命ながかれ思ひしらせんと、古き歌をも思ひ出で侍りぬ。予老いおとろへ、いきの松原いきてかひなき
命何かくるしからん。
情は中にうごけば
言葉は外にあらはるる世のならひと、見捨て聞きすてらるべし。
見しは昔、
湯島天神の御社あれ果て、
社壇はむぐらの下に
埋れ、
社頭はひとへに
塵に交はり、神は
威を失ひ
祭礼礼典も時を
忘れ、
権実霊社も
泥土にくちぬ計にて、
和光同塵の
結縁も余り有る計也。かゝる所に神ぞましますと云前句に、捨てぬべき
塵の
浮世に交りてと、
専順付けたるも思ひ出でけり。然に
当君江戸へ打入り給ひしよりこのかた、民
豊に
繁昌他に異なり。ていれば
今湯島の
社へ
祈をかけ
往きかひする事さりもやらず、
社壇の
塵をはらひいがきをみがき如在の
敬見えたり。
霊験あらたにおはしますと云ひならはし
詣でおこたらず、
取分毎月の
縁日其
前日一夜
籠て、十八
時中は
貴賤くんじゆをなす。
現当二
世の
願望成就し
祭礼の袖つらなりて
海道に
寸土見えず。
去程に
下向の人々は道をたがへてかへさせり。
天神別当申されけるは、そのかみ天神はつくしだざいふにてこうぜらる。
時平が
無実のざんそう
御恨海よりも深く山よりも高し。此
怨念を達せんと
思召し都へ飛来り、
大嶺のたけにのぼり
唐笠程の雲を先にたて
虚空をへんまんし、百千万億らいでんしんどうし都をくつがへさんとし給へば、
洛中洛外の
貴賤男女たましひきえはてぬ。
御門大きにおどろき思召し、ひえい山法性
坊の
僧正を急ぎ召されければ、僧正かんたんをくだき
御祈誓有るによつて、
天地変異もしづまりぬ。
村上天皇の
御宇天暦元年丁未九月九日
天神北野へせんぐう、
正暦四年癸巳五月廿日
正一
位太政大臣大相国と
贈官有り。然るに鎌倉殿
御成敗の
式目のおく書
起請文に諸神をのせらるゝ事、
梵天は三
界の主也。
帝釈は
欲界のしゆごたり。四
大天王はしゆみの四
州をつかさどる主也。
惣じて日本国中六十
余州大小の
神祇と有るは残さゞる儀也。
殊には
伊豆箱根両所権現三島大明神此三社は関東の
惣社、
八幡大菩薩は
関東武士の
氏神、
天満大自在天神は
鎌倉の
鎮守なるが故也。
総て
起請文に其所のちんじゆ
氏神を
入るゝ事定れる法也。それ
起請文は意のまことを引きおこし
諸神をくわんじやうする也。
昔諸社の
神官神人ら
起請文書きつる事有り。
他の
社を
停止し、
関西は
北野関東は
荏柄に於て書かしめ給ふ。是大神の
明徳也。
往事【 NDLJP:383】鎌倉繁昌する事ひとへに
荏柄天神の
御威光と知られたり。扨又
湯島天神は当君
江戸御打入以前よりの霊、今
江戸日を追ひ年を重ぬるに随つて
繁昌する事、いにしへ
鎌倉殿御在世にことならず。然ば
湯島天神の
鎮守とや申さん。其上
天神は
文道の
大祖風月の主たり。此
御神の御あはれみをば草木迄もかつがうの思ひ浅からず。中にも松梅は天神御慈愛の木也。唐国にて梅を
好文木と名付くる事、とうしんの王にあいていと申王まします。此王書をよみ給へば、春にあらざれ共梅ひらく又
霊巌寺の松はげんしやう
三蔵渡天に
随つて松の枝西にかたぶきぬ。又我朝にて梅桜松きどくをあらはせり。それ天神は
時平の大臣のざんそうによりつくしへさせん、
延喜元年正月廿九日あんらくじに移らせ給ふ。住みなれし
古郷の恋しさに、
常に都の
雲を
詠め給へり。
比は二月の事なるに、
日影長閑に照しつゝ
東風吹きけるに思召出で、こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとてれるな忘れそと
詠じ給ひければ、
天神の
御所たかつじ東の
紅梅殿の梅の枝さけ折れて、
雲井遥かに飛行きてあんらくじへぞ
参りける。桜も
御所に有けるが、御歌なかりければ、梅桜とておなじまがきのうちにそだち、おなじ
御所に枝をかはし有りつるに、いかなれば梅は
御言葉にかゝり、われはよそに
思召るらんと
恨奉りて、一夜が中に
枯れにけり。御歌に、梅は
飛び桜は
枯るゝ世の中に何とて松のつれなかるらんと遊ばしければ、松は一夜のうちに筑紫へ
飛びて
参りたりけるが故に、老松の
明神とはいはゝれたるとかや。
天神のたまはく、我いたらん所にはかならず
老松の
種をまかする神詫有りて、
天暦九年三月十二日
北野右近の
馬場に、一夜に松千本
生ひたり。
委しく
縁起に有り。又御歌に、梅あらばいかなる
賤がふせやにもわれ立ちよらん
悪魔しりぞけとの
御神詠、有難き御誓ひ也。或時人
尋来て、
紅梅殿より飛び参りたる
西府の梅はいづれなるらんと、口々に云て見まはる所に、いづくともしらず、十二三ばかりなる童子来り、或古木の梅のもとにて、これや此のこち吹く風にさそはれてあるじ尋ねし梅のたちえはと
打詠めて
失せにけり。
北野の
天神の御やうがうと
覚えて、各々かつがうのかうべを傾ぶけ給ひけり。是により松梅をば
御神木と
諸人あがめ給へり。其上
神社仏事の
外耳にふれ目に見る事、いづれか
大慈大悲のせいぐわんにもるゝ事や有る。木の本かやの本に至るまで、
和光のすゐじやくの居にあらずや。故に
経に
神仏一
致水波のごとしと説かれたり。かゝるしんりきを誰かあふがざらん。
見しは今、江戸町に
長光法眼と云人有りしが、
俄に其身
福有にして、
家作り
美々敷衣服いちじるく、有る時は
乗物、或時は
乗馬して往来をなし、成るにまかせて雲の上までも上るべき
振廻なせしが、ほどもなくおとろへ
果て世上をへつらひかなしめり。
知人見ていさめけるは、
肩をそびやかしへつらひ笑ふ、
夏畦よりもやめりと
曽子はいへり。其方今ひんにてましますとも、さのみなげき給ひそとよ。身あればくるしみあり。心あればうれひあり。
此苦を
仏は火にたとへられたり。人としてのうある者は天のかごにより、人としてさい有る者はなげきによる。
万にさきのつまりをるはやぶれに近き道也。月
【 NDLJP:384】みちてかけ物さかんにしておとろふ習ひ、其上
富時へりくだらざればまづしき時
悔るといへり。扨又まづしうしてへつらふ事なく、とんでおごる事なし。かるが故に君子はゆたかにしておごらず、小人はおごつて
豊ならずと、古人は申されし。馬はやせて
毛長し、人はひんにして智みじかしといへるなれば、身の
程をわきまふべき事也。たとひおもてに
好相を備へ、りようらきんしようを身に纒ひたる共、心おろかにましまさば、
虎皮に
犬糞をつゝめるがごとし。故に人はおのれをつゝまやかにしておごりをしりぞきて
財をたくはへず、世をむさぼらざらんこそいみじかるべけれ。昔より
賢き人のとめるはなし。べんくわが持ちし玉は石かはらに似たりといへ共、三
代に出てつひに光りにあふ事を思へば、
頼む
袖の白玉と
詠ぜり。孔子曰、昔はわれ其言を聞きて其功を信じき。今われ其人を見て其行を見る。予において是を
改むと申されし。たゞ身の程をわきまふべき事也。
人間万事さいおうが馬と云事、是は
宋人晦機師の
頌の
句也。
人間万事塞翁が
馬、枕を
軒の
頭に
推して雨を聞きてねぶると云云。此
句の心は、
人間は
万事善も必しもよきにあらず悪も必しも悪ならず、悦ぶべからず、
悲しむべからざるの
義也。
淮南子に云、
塞上に一
翁あり馬を失ふ。人皆是を
弔ふ。翁が云、悪きもなんぞ必しもあしからんといふ。
数月有つて此馬をひきゐて来る。人
皆是を
賀す。翁が云、善も必しもよきならんやと云ふ。翁が子このんで馬を乗り、落ちて
臂を
折る。皆人是を
弔ふ。翁が云、
悪もなんぞ必しも悪ならんと云ふ。一年有つて
胡国大きに
乱るゝ。
壮年の者
戦ひ皆悉く死す。此翁が子ひとり
臂折りたる故に
戦ひに出ず
命を
全うする事を
得たり。是に
依て是を見れば、誠に
善悪はかられず。
世俗の
口号に、此
句を
吟ず。すべて世の
理悦ぶべからず悲むべからずと諫められたり。
聞きしは今、
安斎と云人いふやう、世に人のあそび給ひけるは、雪月花にしくはなし。中にもわれは
四時ともに
色香妙なる花こそ
面白けれ。され共
散るわかれを悲しみ、
咲かぬまをおそしとなげき、
菊後梅前花を待つ心、
釈迦みろくの
間と詩に作りたるも、我心におなじ。
天智天皇近江国志賀の郡
大津の
宮にまします時、
四季に花咲く桜を植ゑおき
詠めたまふ。是を
志賀の
花園といへり。かばかり
目出度桜今の世にもねがはしき事ぞかし。
欧陽公花を
種うる詩に、
浅深の
紅白よろしく相まじふべし。
先後なは宜しく
次第に
植うべし。我
四時酒をたづさへさらんとほつす。一日をして花ひらけざらしむることなかれといひしも、誠に
優しき心也。
自然斎の
発句に、咲かぬ
間をなぐさめぐさの花もがなとせられしも
殊勝也。昔人は
色ことなる
品々の
詠にも、似物を花と
名付けて
詩人歌人の
詠吟せり。雲を見て
円徳法印の歌に、おしなべて花の盛になりにけり山の
端ごとにかゝるしら雲。是を
雲の花といへり。波を見て
伊勢が歌に、波の花おきから
咲きてちりくめり水の春とは風やなるらん。是
波の花と也。雪を見て
友則の歌に、雪ふれば木
毎に花の咲きにけりいづれを梅とわきてをらなん。是雪の花といへり。扨又そうけい
連無が詩に、富士山を見て、六月の雪花そせいをひるがへすと作りたるも
面白といふ。
【 NDLJP:385】古庵といふ人聞きて、
安斎古歌を
覚えて花をのみ
色々様々にあいし給へるといへ共、世のならひとして色ある物つひにはきえ失せぬ。われはとこしなへに
散らぬ花をこそ
詠むれといふ。
安斎聞きて是は
不思議也、いづれの花ぞと問ふ。
古庵答へて、其方の
詠もわが
詠もおなじ詠也。され共、
見所に
相違有り。それいかにとなれば、
安斎は
目前の花を見るによつてちる。我は其
言葉の花をながむる故に
散らず。歌に、如何にしてことばの花の残りけん移ろひ
果てし人の心にと
詠ぜり。又、をしめども
散る
紅葉なりけりと云
前句に、いつも見る心の花に
伴ひてと、
宗祇付け給ひぬ。是皆
自己目前の
見所にかはりあり。
古今和歌集に、それ
大和歌は人の心を
種として
万の
言のはとぞなれりけると書かれしは、
月花をめで鳥をうらやみ
霞をあはれみ
露をかなしみ、
昔神代より今に至る迄、
万の
言の葉をよみおき給へ共、
風情つくる事なし。此
言葉の
林の花は咲きしよりちる事なく、
種にたねの
数そひ枝に枝ひろごり、
世界にみちてよとともにくんず。いにしへ歌の
聖と聞えし
柿本人丸、ほの
〴〵と
明石の浦のあさ
霧に島がくれ行く舟をしぞ思ふとよまれたるは、
三世不可得の
道理をあらはせるとかや。
能因法師伊予の国へ下りし時、雨をいのりて、
天河なはしろ水にせきくだせあまくだります神ならばかみとよみ給ひければ、たちまち大雨ふりしぞかし。
西行法師の詠に、
埋木の人しれぬ身としづめども心の花は
残りける哉とよみしをこそ
信用すべけれと、
互に
証歌を引きて
意趣をあらそふ。老人聞きて、いやいやいづれの詠も
誠にあらず。
自他のしやべつあるは
妄想也。
真実の
道理といふは、
自己目前一枚と見るまなこに、
自他のへだてあるべからずといへり。
夫
貧家には
親知すくなく、いやしきには古人
疎しといへる古き
言葉、今予が身の上にしられたり。
老悴とおとろへ、いよ
〳〵友ぞうとかりける。童子をかたらひまことならざる昔を
語り友となせば、昔を
語り尽さずんば有るべからずといひてやむ事なし。いたくいひし事なれば、
或時は
黄葉を金なりとあたへてすかし、或時は顔をしかめ、がごうじとおどせ共問ひやまず。其せめもだしがたきによつて、小童をなぐさめんがため、
狂言きぎよのよしなしごとを書きあつめたる笑ひ草、
讃仏乗の因とも成るべきか。又近き年中
世上のうつりかはれる事共を愚老見聞きたりし故、此物語のはじめ
毎に
見聞の二字をおき、
古今ことなる事をすこしもかざらず
言葉をくはへず、其
時々の
有体をしるし侍れば、やさしき
風俗面白事候はず。是世のため人のためにもあらず、たゞみづからが心をなぐさめん為なれば、
清書にも及ばず
草案のまゝにて打ちおき侍りぬ。然共、
古今集に
行末は我をも忍ぶ人やあらんむかしを思ふ心ならひにと
詠ぜし歌の心もあり。され共、
古語に言葉すくなきはあやまちすくなきとこそ申されしに、まのあたりの
塵語を拾ひ、
世間の
物語の中に思出づるにまかせ、心得ぬ
古人の言葉を書き加へ、長々敷
戯言をつゞつてもつて
禿筆をそめ、
冷灰の
胸次卑懐をあらはすこと、さぞひが事侍らん。誠にかたはらいたくひとへに
鸚鵡の物いふに似たり。
後賢のあざけりあにざんきをあらはす也。しか
【 NDLJP:386】はあれ共、人たる身は安からずといへり。
此翁は
無智愚鈍にして人たらぬ安かる身なれば、
難波江のよしあしとも
誰かは是をはめそしらん。古き歌に、
何事も思ひ
捨てたる身ぞやすき老をば人の待つべかりける。
実やおろかに送りこし春秋の
霜の
色はまゆの上にかさなり、よはひは山の
端の月よりもかたぶき、身は
狩場の
雉子よりもつかれ、なげきこりつむすゑも、今
薪尽きなん時至りぬれば、世の
望一
塵もなし。たゞ一
息の絶えなんを待つばかり也。つら
〳〵往事を思へばきのふのごとし。
後果を
期すればあすを頼みがたし。たもちこしいそぢは、
只夢に住みて
現とす。扨又ろせいは夢のうちに五十年のたのしびにあひて、何事も一
炊の
夢の世ぞとさとり得しこそ、げに
殊勝なるべけれど、予もまことしくそゞろごとを書置きぬれども、まさに
生死長夜の夢は
覚めがたし。
浄き心にあらざれば、
口号侍る、よしあしの人のうへのみいひしかど言葉にも似ぬわが心かな。
于時慶長十九年のとし
季冬後の五日記
㆑之
畢。