慶長見聞集/巻之六
< 慶長見聞集
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【 NDLJP:318】巻之六 見しは今、江戸にて六七年以来高きもいやしきも杖をつく。扨又桑の木は養生 によしとて皆人このみければ、木こり爪木 をこる者が、深山 をわけて是を尋ね、せなかにおひ馬につけて江戸町へうりに来る。当世 のはやり物よせい道具なればとて、若人たちかひとりて、炎天 の道のよきにも杖をつき給ふ事、誠に人の非間世のおきてをもはゞからざる振舞 云にたえたり。楽天 が詩に朝来 鏡に向て多疑 を生ず。白髪せんきやう我は是たそ。竹馬春秋 猶 昨日、何 れの年の雪のばんとうの糸をそむと作れり。此心を和歌に、乗捨し昔の竹の馬もがな老のさか行く杖とたのまんと詠ぜり。了角 の童子をさして竹馬の年といへり。されば杖つく事昔より仔細有つてつくとしられたり。龍杖とは、費長房仙翁 にあひて仙 をまなぶ。仙翁 一つのつぼの中に長房を引入て、仙術 ををしへけり。仙翁 がつぼの中には日月の光空にやはらぎ、四方に四季の色をあらはし、百二十丈のくうでんろうかく有、天にしやうじつ舞遊び、かうがんえんわう声やはらかにして、池にはぐぜいの舟をうかべり。其壺中別世界 にて人間世 にあらず。壺中の天地乾坤 の外と作れるも是也。仏の境堺 なる故也。長房此つぼを出て家に帰る時、仙翁 青き竹杖を一つ長房にあたへたり。此竹杖を葛陂と云所にて捨てければ、忽にこの杖龍 と化してのぼる。詩文に杖の異名多し。あげてかぞふべからず。扨又歌道に用ひ来れる卯杖 とは、正月初卯 の日の節会 に用ふる、長さ五尺三寸なり。八千べん君が為にと神山 の白玉椿卯杖 にぞきると詠ぜり。みつゑ共云。いはひの杖とは、古歌に、つきもせぬいはひの杖を亀山の尾上行きてきるにこそあれとよめり。山人の杖とは、拾遺 に、相坂をけふこえくれば山人の千年つけとや杖をきるらんと詠ぜり。つら杖とは、つくづくとしも物思ふころと云ふ前句に、つら山は打なげきぬる折々にと、玄仍付給ひぬ。狩杖 とは、此比兼如の席に杖つくと云前句に、狩場と付ければ、狩杖 ははらひ杖にて有るべしと申されければ、其句かへりたり。棒しもとは人を打杖、あふごとは、物になふ杖を名付、拐とかけり。いせものがたりにあふごをかごとよめり。などてかく逢期 かたみに成りにけん水もらさじとむすびしものを。ばちは鼓 を打つ杖、そくぢやうは東司 の具 也。毬杖 は正月是を用ふる。柱杖 とはかしやうと云虫の中の骨なり。其虫の骨をひやうする也。しつべいは禅家 に用ふる人を打杖也。しやくぢやうは𦬇 の持ち給へり。弓杖は的に用る。竹馬杖とは了角 の童子をさす。竹馬を杖ともけふはたのむかなわらはあそびを思ひ出でつゝとよめり。はとの杖とは老人の杖の頭に鳩の頭をきざみてつく事、鳩は物にむせぬ鳥也。老人それにあやかり、物にむせじとのまじなひ也。新後拾遺 に、八幡山神やきりけん鳩 の杖老いてさか行く道のためとてと詠ぜり。梨の杖とは、ほそ長く梨をむくに頭の方よりむきて杖をのこす法なり。人にたぐへては梨のごとく杖つく共いへり。或説にさうれい中陰 の磚義あり、父にはさんいの色を著て、【 NDLJP:319】桐 の木の杖をつき、母にはしさいの色を著て竹の杖をつくともあり。ほとんど杖には桑を用ふと云々。老いたる人は杖つき虫の身をかゞめるごとく行歩自由 ならず、故に老人には昔より杖をゆるし給へるいはれ有り。礼記 に五十にして家に杖つく、六十にして郷に杖つく、七十にして国に杖つく、八十にして朝に杖つくといへり。みちぬべき年の末々悦びのと云前句に、杖もゆるさん九重 の内と紹巴 付けたり。若き人はつゝしみ有べき事也。
見しは今、大鳥 一兵衛 と云若き者有り。士農工商の家にもたづさはらず、当世異様 をこのむ若党と、伴ひ男のけなげだてたのもし事のみ語り、常にあやうき事を好んで、町人にもつかず侍にも非ずへんふくの人なり。若き者共是を聞て、一兵衛と云者は、人頼むならば命の用にも立つべしといふ。世にたのもしき人こそあれと云て、まねかざるに来り期 せざるに集り、筒樽を持寄て知人となる。此一兵衛知ざる人をば男の内へ入るべからずと、居たる跡をばほこりを払てなほり、同座すれば立しりぞく。子華子に云、子車氏がゐのこ、其色もつぱらにして黒し、一度子をうんで三つのゐのこ有り、其二つは則粋 にして黒し。其一つは則まだらにして白し。其おのれが類にあらざる事をにくんで是をかみころす。其おのれにおなじき者をば、是をやしなふ事たゞつゝしみて其やぶらん事を恐ると、いへるにことならず。又若き殿原達 は一兵衛をまねきよせ物語せよとあれば、馬といはゞ蛇に綱を付ても乗べし、すまふならば鬼ともくまん、兵法 ならばしらはにて太刀打せんなどと、利口 をいへば引出 物をとらせ、明暮 伴ひ給ふ事だゞ虎を愛してみづからうれひをまねく成るべし。古人の言葉に好友 にともなへば芝蘭 の室に入るがごとく、悪友 にちかづくときんば、鮑魚のいちぐらに入るがごとしといへり。故に善悪のかげひゞきのごとし。いさめる者はかならずあやうき事有り。夏の虫飛んで火に入る。爰に北河権兵衛と云人罪 有り。被官 を手打にせし所に、石井猪助と云者わきよりはしりよつて、権兵衛をさしころす。此者をからめ仔細をとへば、別のゐこんなし。我権兵衛がわかたうと知音なり、互に命のように立べしと兼約せし故也と云。皆人聞て、かやうのいひあはせ世にためしなきいたづら者、火あぶりにすべしときせられければ、猪助四方をはつたとにらんで、侍と侍が云あはせ一命を捨つる程の義理だてを、いたづら者とはひがごとなり。然ば大鳥一兵衛とて名誉のをこの者世にたのもしき知人あり。此人と盃を取かはしたる若き者、死生 もしらぬふてきなるあふれ者、江戸中に千人も二千人も有るべし。其者共の知音の中われにひとしかるべしといふ。諸侍是を聞き、若き者を召使 ひせつかんに及ぶ時に至ては、たゞ龍の髭 をなでてたましひをけし、虎の尾をふみてむねひやす心地有て安からずといへり。江戸御奉行衆 聞召しおどろきさわぎ、先一兵衛をからめ、くびがねをかけ、かなほだしをうち、問注所 におき、かれを見るに、よの男に一かさ増して足の筋骨 あら〳〵とたくましうして、二王を作り損じたる形体 なり。扨同類 有 るべしとて大名小名の家々町中までもさがし出し、首を切てさらす事【 NDLJP:320】限りもなし。大名衆の子供たちをば命をたすけ、奥州つがる、はつふ、そとの浜、西はちんぜい、鬼海島 、北は越後のあら海、佐渡島 、南は大島、戸島、八丈へながし給ふ。扨一兵衛をばすねをもみひざをひしぎ、夜る昼問へども同類 をばいはずしてにつこと打笑ひ、愚なる人々かな、からだをせめて、など心をばせめぬぞといへば、にくきやつが、くわうげんかなとて、荒手 を入れかへて五日七日十日二十日水火のせめにあて、様々 に推問 、がうもんすれども、更にくるしむ気色なく、其心あくまでふてきにして、誠に血気の悪者 也。そら笑ひするつらだましひ、せいりきこつがら人にかはつて見えにけり。皆人せむべきやうなしとて、あきれはて居たりしに、一兵衛云けるは、何とやらんいま程はあたりしづまり物さびしければ、物語しておの〳〵にねぶりさまさせ申すべし。われ武州八王寺の町酒 やに有て酒をのみしに、古無殿 の一人尺八 を吹 いて門に立ちたり。我此者をよび入れ、あら有難の修行 や、御身ゆゑある人と見えたり。世におち人にやおはすらんと酒をもてなし、此一兵衛も若き比は尺八を吹きたり。古無殿 の尺八一手 望みなりといへば、此者曲 を一手 吹きたり。我聞て打笑ひ、しりをくりあげ尻を打たゝいて、古無殿の尺八ほどはわれしりにても吹くべしといへば、古無大きに腹を立て、無念至極 の悪言かな。われいにしへは四姓 の上首 たりといへども、今は世捨人 となる。然ども先業 をかへり見、貧賤をなげかずして仏道 の縁 に取付、空門 に思ひをすまし、内に所得 なく外に所求なく、身を安くして、普化上人 の跡をつぎ、一代教門 の肝要出離解脱 の道に入り、修行をはげますといへども、悪逆無道 の一言にわれしんいのほのほやみがたし。すがたこそ替れども所存において替るべきか。是非 尻 に吹せて聞べしといふ。此一兵衛も尤しりにて吹くべしといへば、互にかけ物をこのみしに、古無 云ひけるは親重代 に伝はる吉光 のわきざし一腰持ちたりとて坐中へ出す。此一兵衛も腰 の刀を出すべし。此刀と申すは、われしたはら鍛冶を頼み、三尺八寸のいか物作 にうたせ、二十五までいき過ぎたりや、一兵衛と名を切付、一命にもかへじと思ふ一腰を出す。町の者共両方のかけ物を預り、一兵衛が尻にて吹く尺八きかんと云ふ。其時我古無が尺八おつとつてさかさまに取りなほし尻にて吹きければ、皆人聞て、実に古無が口にて吹きたるより、一兵衛が尻にて吹きたるが増りたるといへば、われ此あらそひにかちたり。各かやうの事にそにんあらば、八王寺町の者共へ尋給へと云。皆人聞きて、扨こそ一兵衛木石にても非ず物をいひそめけるぞや。爰 に彦坂 九兵衛と云ふ人たくみ出せる駿河とひとて、四つの手足 をうしろへまはし一つにくゝり、せなかに石を重荷 におき、天井 より縄をさげ中へよりあげ一ふりふれば、たゞ車をまはすに似て、惣身 のあぶらかうべへさがり、油のたること水をながすが如 し。一兵衛今ははや目くれたましひもきえ果てぬと見えければ、すこし息 をさすべしと縄をおろし、とひへ水をそゝぎ、口へ気薬 を入れ、扨もかひなし一兵衛同類をはやく申せいはずんば又あぐべし。なんぢせめ一人にきすといへば、其時一兵衛いきのしたよりあらくるしやかなしや候。いかなるせめにあふとてもおつまじきとこそ存ずれ共、此駿河とひにあひていかでいはでは有るべきぞ。それがし知人【 NDLJP:321】数しらず。先紙を百枚帳にとぢ持来り給へ。同類 残りなく申上書付べしと云。望のごとく帳をとぢ筆取出て、扨同類はと問ば一兵衛が存知の人々を残なく申べしとて、日本国の大名衆をかぞへたつる。御奉行衆 聞召し、とふにたえたるいたづら者先 禁獄 さすべしと引立て籠 に入る。もんぜんの言葉に、むかでは死に至れども、うごかずといへるは、此者の事也と諸人云ひあへり。
見しは今、大鳥一兵衛と云者、江戸町に有て世にまれなる徒者 、是によつてきんごくす。仔細は前に委記せり。然に一兵衛籠中 東西をしづめ大音あげていふやう、なにがし生前 の由来 を人々に語て聞せん。武州大鳥と云在所 に、りしやうあらたなる十王まします。母にて候者、子のなき事を悲み此 十王堂 に一七日籠 り、まんずる暁 霊夢 のつげあり、くわいたいし、十八月にしてそれがしたんじやうせしに、こつがらたくましくおもての色赤く、むかふば有て髪はかぶろにして立て三足歩 みたり。皆人是を見て、悪鬼 の生れけるかと驚き、既 にがいせんとせし処に、母是を見て云ひけるやうは、なうしばらく待給へ、思ふ仔細有り。是は十王へ申子なれば、其しるし有ておもての色赤し。伝聞 く、老子は神武天皇御宇五十七年に当てそこくへたんじやう、支那は周 の二十二代宣王 三年丁巳九月十四日也。胎内 に八十一年やどり、白髪に有つて生れ給ひぬ。故に老子と号す。成人 の後、身の長 一丈二尺、龍眼 にしてひたひ広く金色 なり。耳ながく目ふとく眼に光りあり。くちびる大にして紋 あり。歯は四十八有り。足のうらに紋あり。手の内の筋 直にしてまがらず、其形尤奇異 なり。かやうのためしあれば鬼神にても候はじ。たすけおき給へと申されければ、我をたすけおきをさな名を十王丸といべり。其十王の二字をへんじて一兵衛と名付事、十方地獄中唯有 一兵衛無二又無三の心なり。されば籠内 をば地獄 、外をしやばと罪人 云ふ、是道理也。しやばよりあたふる手一合の食物を、朝五夕晩五夕是を丸して、ごき穴より此くらき地ごくへなげ入るを、数百の罪人共是をとらんとどうえうする。がうりきなる者共は他の食をうばひとる。無力の者わづらはしき者共は、あたふる食をえとらずしてつかみあひはりあひする事、餓鬼道 の有様なり。つら〳〵是を案ずるに、それがし裟婆 にて十王といはれし身が、此地ごくへ来る事いんぐわれきぜんのことわりのがれがたし。然りといへども、仏は極楽 のあるじとし、十王は地獄の主と成る事、是順逆 の二道 、魔仏 一如 にして、善悪不二 の道理也。釈尊 たうりてんに御座て、十方の諸仏𦬇 集り給ふ中において、地蔵𦬇 につけてのたまはく、未来悪世 の衆生をば、汝にふぞくす。悪道へ落し給ふことなかれと有りしにより、或はえんま王となり、中有 の罪人をたすけ、或は十王と成て六道の群類 をとぶらはんと毎日地獄に入り、衆生 の身がはりに立て苦しみを請、諸々の罪人をすくひ給ひぬ。経に一切衆生五逆罪 を作る共、十王を信ぜば地獄に入り罪人にかはつて苦をうけん事決定 也と説かれたり。それ娑婆において泰時が記したる成敗 の式目 は、日本国の亀鑑題目 十三人奉行の内仁知をかね、六人に文章を書事、六地蔵六観音を表す。十三人の奉行は十三仏とす。将【 NDLJP:322】軍を閻 魔王につかさどり、善悪理非をさたする事閻魔 の帳に罪の軽重を付るを学ぶ。是今生後世利益 方便 自業得果 の道理をたゞし、終には仏道に引入る方便とす。然るにわれ娑婆 に有つてむじつのざんにより、此地ごくに来る事、右の経久 の如 く各々に成りかはつて我くるしびを請け、籠中の罪人をすくはんための方便なり。いかで罪をまぬかれざらん。自今 以後 において十王地獄の法度 を定むべしと云。籠中の罪人此由を聞き、有がたし尤と同じ、夏の事なれば南の風おもてごきあなあかりをかたどり、たゝみ三畳かさね、其上に一兵衛をなほし、今日より地獄のあるじえんま十王様とぞあふぎける。其時十王ゑみを含 み、もとより宏才利口者 地ごくの法度を定る。第一よこはし付たり高雑談 、然るにわれしやばの法度 を見しに、けんくわ口論をば理非 共に非におつ是非なり。地ごくの法度は理ある者をば十王があたりにゆるかしくおくべし。非有者 をば食事をとゞめ、かはやのねにおくべしと云ふ。然間地獄しづか成事前世未聞、是一兵衛が威徳 なるべし。
見しは今、仏法繁昌故、江戸寺々に説法あり。老若貴賤参詣 の袖つらなりくんじふせり。愚老も神田の浄西寺 の談義 を聴聞 し、帰るさにかたはらを見ればほそき山道有り。此末に山居の寺有りと聞き、なぐさみがてら、此寺を見んと草村 を分行所に禅宗 の小鹿あり。人倫 絶 え、あたりに古狸 一つ二つ見えたり。狸は昼穴にねて夜る出て人をまよはすとかや。此たぬき昼出てあるく。古歌に、人すまで鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓うちけれと、よめるも思ひ出せり。我住持 に逢て山居さびしき体さつし申たりといへば、老僧聞てさびしきが我宗 の本意なりと返答なり。我いはく、今江戸町繁昌故、仏法もさかんにして諸僧寺々にて檀那 を集 め談義 をのべ給ひ、爰に浄西寺 の上人智徳世にこえ、釈迦一代の法門 を手びろく説法し給ふ。今日なかんづく禅法 を沙汰 したまひたり。夫本来面目を知らんとほつせば、先 父母 末生已前 を知るべし。然るに世尊霊山 に有つて、一枝のこんはらげを拈 じて、大衆にしめす。迦葉 独はがん微笑 す。是 不立文字 教外別伝 にして、大切の法門なり。達摩 は直指人心見姓成仏 と談じ、趙州 は有にあらず無にあらずといひて、心々に悟 をあらはせり。龐居士馬祖 に問て云、万法 と侶ざるもの是なん人ぞ。祖の云ふ、汝一口に西江水 を吸尽 させんを行て、則称に向ていはんと返答せり。居士 は此水をのみえずして地ごくに落ちたり。此坊主は西江水を一口にのみ尽し、海底 の沙石 をありありと見て心清涼 たり。其上四大海の大魚小魚悉くわが腹に入て、共に成仏 せりと放言 はき給ひぬと語りきれば、禅師 聞きて、夫 の釈尊 一代の法門は一口 一呑 にして一味 の法たりといへども、日本においては十宗 に分つて宗々 法門 かくべつたり。しかるに、末世において一宗の教法 を修行成就する事一人も有るべからず。其宗の義理をかたはし聞き覚えて早まんきをおこし、仏法知りがほして高座 にあがり説法 す。故に能化 のさはりはまんしん也。今時の僧皆名利 のためにほだされて苦 の法門 をさへづり、無道心 にしてねんじゆをくりまんしんおこすにより、十七八九は必天魔 と成てかへつて仏法をばめつ【 NDLJP:323】せんとす。我朝の柿本の紀僧正 と聞えしは智徳れいげんの聖にて有しが、大法慢 をおこし、日本第一の天狗あたごさんの太郎坊 是なり。昔日不立文字教外別伝 などといひし禅 の祖師 は、先教意をよく胸にをさめて、其上釈迦 智音底 の言葉をのべられたりいかで末世の僧、是をしきとくせん度に思ひあはする事有り。唐国 に猩々 と云者は、人の面にして身は猿 に似たり、よく物いふ。古語に猩々よく物いへども走獣 をはなれず。扨又我寺のあたりにふる狸古狐多く有て、暮れば人の形に化して夜毎に来てわれに言葉をかはすといへ共、是も獣をばのがれず。山海経 に、黄山に鸚鵡 と云鳥あり。其かたち鶚 に似て、青き羽赤きくちばし人の舌のごとくにて、よく物いふと云々、万の声を聞きて其まねをなす。歌にあはれともいはゞやいはん言の葉をかへすあふむの同 じ心をとよみたり。礼記 にあうむよく物いへども飛鳥 をはなれずといへり。日本にもくろつくみと云小鳥、諸鳥のなく声を聞きて其まねをなす。是がをかしさに籠に入て皆人飼ひ給へり。きんじうに此類多かりき。皆是似たる物也。蝙蝠 と云物は鳥と虫との形に似て、其身黒くくさくして闇所 を好む。或時は土穴 に入り、或時は雲ゐを飛行し□をなして人をあざむく。かるがゆゑに、契経に末世 の比丘 にたとへて、僧に似て僧にあらざるを、へんぷくの比丘 と名付、仏蔵経 には鳥鼠比丘 とも説かれたり。此虫百年の後、白蝙蝠 と成つて、さかしまに木の枝、岩岸 にかゝつて人のたゞしく行くを見て、却て倒行と思ふ。然に我宗 、禅 の沙門 廿年三十年仏法修行 し、本来の面目 と云ものは何者ぞ〳〵と尋来れども、其形目 にも見えず、聞くにも聞えず、手にもとられず。仏祖 もかれをしきとくするによしなし。仏さへあらはしがたきまことにてと云句に、人にしたがふ心なりけりと紹巴 付けたり。然に他宗 の坊主 禅法 を唱ふる事、たゞ是くろつぐみが鶯の声を聞きて法花経 とさへづり、とけんの声を聞きては時鳥 と鳴く。されども誠の鶯時鳥には争およばんや。かんてうには蝙蝠比丘 あり。本朝にはくろつぐみ比丘 あり。万事わがたもつ所の道を思ひ、他をあざむく事なかれと物がたりし給ひぬ。
見しは今、品川に五重 のたふ有り。里の翁語りけるは、昔鈴木道印 と云有徳なる町人立たり。幸順 と云息あり。父子連歌数寄 なり。其比 都に権大僧都 心敬と云連歌師 あり。道印父子と知音なり。心敬東に下り侍し時、海づら近き宿りにて、朝霜 はひさき風吹浜辺哉、東にあまた年をおくりし比、月こよひ月に忘るゝ都哉。白川のせきを見侍る時、関も関梢 も秋の木ずゑ哉。東に侍りし次の年、初冬の比、めぐるまを思へば去年の時雨 哉。品川九本寺にて、九つのしなかはりたるはちすかなと発句有りしに、人聞きて、河に蓮 、珍事 と沙汰しければ、極楽のまへにながるゝあみだ川はちすならではこと草もなしと、心敬証歌 を引かれたり。心敬と道印父子他にことなる知音故、品川にては毎年心敬の下向を待ちかね、京にて心敬は、秋来るをおそしと待ちていそぎ品川へ下り、明 くれ連歌せられたりと語る。我聞て道印父子七堂がらんを建立 し福徳 のしるし見えたり。扨又連歌数寄といひしかど、下手 故にや【 NDLJP:324】道印とも幸順とも名付たる発句付合、古き文に一句もなし。其ころ都に其名聞えし連歌師専順 、智薀 、宗祇 、紹永 などあり。詩は詩人に向て吟ずといへるなれば、心敬京都に有つて右の連歌とは詠吟なく、東のはてなる品川の鱸 を懐み、年々遠国 の山をこえ海を渡て、はる〴〵来ぬる旅衣 、心敬の所存 計り難 しといへば、里の翁聞て旅人の不審尤也。されば心敬は鱸 なますを好み、秋風たてば鱸 つりに品川へ下り給ひぬと返答する。われ聞て其方は年にも似ぬ戯語 をいふ人かなと笑ひければ、翁聞きていやいにしへもさることあり、張輪 と云者、古郷の鱸のなますをくはでと願ひければ、おしはかりて、秋風に鱸のなます思ひ出て行きけん人の心地こそすれとよみたり。此古歌の心をや思ひ出でけん、品川のわらはべの落首 に、年毎に秋風たてば品川の鱸をつりに下る心敬とよみければ、此歌にはぢ、其後は心敬下り給はず。されば歌に、鱸つるさほのたわみのをゝよわみ波のたよりによせてこそひけ、と詠ぜり。鱸を名所に多くよみたり。続草庵和歌集 に、あさなぎにすゞきつりにやあはぢがたなみなきおきにふねもいづらん。是は草の名十よめり。鱸つる更井の浦、すゞきつる藤江浦 、きの国にも読めり。玉葉 に、鱸つる干瀉 の浦の海士 の袖、鱸とる海士 の小舟 のいさり火とも詠ぜり。昔堀川江城において千句あり。連衆は心敬、宗祇、元祐、道印、幸順、印幸なり。開題 の発句に、幸順、春も来て帰らん雪の朝哉とせられたり。扨又幸順はいかい数寄 にや有りつらん、ほこのうらに書残したる付合あり。桜井元祐は生国 下総船橋 の人連歌師なり。都へ上り連歌に長ずるが故、参内 せられたるとかや。下向 に品川幸順宿へ立寄り給ひき。此人上 りにはまづしき体なりしが、いしやういちじるかりければ、幸順出逢興じて、あやしや御身誰にかりきぬといへば、此小袖人のかたよりくれはとりと、やがて元祐付けたり。然者 幸順七堂がらんを立てられしが、悉く風にそんじ、塔 一つ計 は如何なる上手 の工みが立てけん、風にも損ぜず。此塔は文安三丙寅年成就せしとなり。つき鐘にも、年号切付 見えたりしが、当年風に損じたりと委しく語る。愚老聞きて、有がたや道印塔を立て置き、自他の利益をなせり。寺塔に向へばおのづから罪業除滅 すと経に説きたり。昔寺の始る事漢の明帝の時、仏法漢土に渡る。此時寺を立る。寺は仏の廟 也。白馬寺 と号し仏法をあがめたまふ。我朝に寺塔はじまる事欽明天皇の御宇 、大和久米寺おなじく塔をも立てられし。是寺塔 の始なり。大日経に、塔の深秘至極 ありと云々。然に慶長十九年甲寅年八月二十八日未刻 大風吹きて、此塔百六十九年を盛 にして滅する時節に遇 りといへば、品川の人云ひけるは、此塔品川の名物 、所 のかざりなるを悪風そんさすもの哉 と風を恨む。我聞きてそれはひが事也。古歌に、いづくにて風をも世をもいとはまし吉野のおくも花は散りけりと詠ぜり。かるが故に咲けばちる理 りしらぬ花も哉 とせられたる専順の心を、品川の里人はづべし。たゞ〳〵時刻到来 は恨みて益なしといへば、海道とほる老人聞きて、いや〳〵品川の里人 風を恨るこそあはれなれ。王元之 が詩に、りやうちうの桃杏 まがきにえいじてなゝめなり。さうでんす商州刺史 の家、何事ぞ春風ゆるしえざる。鶯に和して吹たる数枝の花と作りたり。此詩誠に哀 なり。二本の桃杏籬 にうつろひし、や【 NDLJP:325】うじう刺史 が家のかざりなるを、何故し春風は情なく為の飛来る花の枝を吹き折るぞと歎 きしも、品川の里人風をうらむにあひおなじ。やさしく有りけりといへり。
聞きしは昔、園碁 の道は尭舜 の時分より有りとかや。我朝には吉備 大臣遣唐使 の比まであらずとしられたり。されば碁の上手 は人の石の善悪を分別して、わが利を得給へり。然ば基を能くうつ人は万 損益 をしり、物毎に案ふかゝるべしと思ふ処に、下手 にかしこき人有り。上手 に愚人有り。むかしわれ知人なりし真野仙楽斎は、関東にて碁の上手といはれしが、よの事はかたくなにゆくりなき人にて候ひし。又伊豆国下田と云在所に、山田と云者あり。此者万にたらざりけるゆゑ、皆人ばか山田と名をよべば、なにぞとこたへて腹立る事をしらず。され共基をばよくうちたり。先年北条氏直公 存世の時分、其ばか山田所用有りてや、折々小田原へ来り、舟方村 に宿有りしに、其比小田原に武与左衛門、須衛木、斎藤などといひて基よく打者共あり。ばか山田にたがひせんの碁、いづれも真野 には三つ四つの碁也。これらの人やれ下田のいくぢなしのばか山田の、舟かた村へ来り居ると云ぞ、急ぎつれてこよ、くまじきと云とも頭をもたげさすな、首に縄を付て引てこよとてつれよせ、集て打けれども、終に碁には打負けずと語れば、人聞きて孔子のたまはく、狂にして直ならず、伺にして愿 ならず、悾々として信ならず、吾是を知らずと云々。此三つは悪くとも又とりえ有る所あらば、せめての事なり。若さもなくば何のやうにもたゝぬ捨者 、孔子も如何共すべきやうなしと云々。此山田は、碁を打一道のとりえあり。笑ふべからずといへり。彼馬鹿 山田今江戸へ来り、石町の六郎右衛門が処に有りて入道し、仙栄 と名付けたり。今の上手には二つの碁なり。此者碁ずきにてあひてをきらはず夜昼わかで打ちけり。或時仙栄 碁打所へ、兄の六郎左衛門病死、唯今成るべし、急来れとつぐる。仙栄聞きて、此碁打はたさずして兄の死めにいかであはんやといふ間に、死たりとわらへば、人聞きて物にすき勝負をあらそふには賢愚 によらず、むかしもさる事あり。嗣宗と云人は、七賢の内の随一 、もとはばくえきをこのみいぬるをも忘れ食をもわすれ、終夜脂燭 を尽し、ばくえきす。此人父死すとつげ来る。相手さてはやめんといふ。嗣宗大事の勝負なり。たゞはたさんとて親の死目 をしらず。かゝる徒なる人も気を転じかへ、後は賢人と名をよばれ、金句を云おき、人の為に成り給ひぬ。仙栄も後は如何なる者になり、如何様なる金言をいひのこさんもしらずといふ。或時仙栄鼻紙を十帖慈悲 なる人より得たりとて持てあるき人に見せ、鼻紙かけに碁を打つべしといふ。我も人も是がをかしさによび入れ、人集つて四つ五つせいもくおき、鼻紙がけにうたんとて、手を見、石をつきよせ集つて助言 をいひ、ともかくもして打勝つて、ばか仙栄を笑はんとせしかども、碁には賢 くして却て紙をとられ、こなたがばかに成りし事の無念さよといへば、仙栄聞きて、いや方々は勝つべきと思ふ故にまくる。我はまけじと用心する故に勝つ。おの〳〵の宝をたくはへ給ふも、得失の心持は、わが碁 打 つに定めて同 じ事成るべし。得をばおこ【 NDLJP:326】る事なくしてわざはひの来らん事をつゝしむ。失をよくつゝしめば必得来るべしといふ。せいは道によて賢とかや。橘中仙 と云は、昔橘の木をわりて見れば、中に仙人有り。碁を打つて居たり。其仙人は商山 の四皓 にてぞありけるとなん。花橘のうちかをるかげと云前句に、仙人や碁に生死を忘るらんと宗砌付けられたり。碁には仙人も愚人も他念を忘るゝ事変らずと知られたり。されども或文に、囲碁 しゆごろく好みて明し暮す人は、四十五逆 にも勝れる悪事と書きたれば、此者の罪業鉄札 にも付所やなからん。そのうへ仙栄鼻紙がけを好み欲心に著する事、ばくえきは仏ふかくいましめ給へり。地獄の栖 をまねく者也といへば、仙栄聞きてわれ明暮碁にすく。是観念也 。はながみを見せねば、碁相手なし。石の上にも世をぞいとへると云前句に、乱碁 に我生死のあるを見てと、権大僧都 心敬付る。然者人の石死する時、欲心に亡ぶる事をあはれみかなしむ。我石死する時みやうじう当来 を悦び、無常を観ずるといふ。愚老此是非 分明 ならず。或時禅師 に此義を尋ねければ、師答て仙栄が観念殊勝 なり。昔達摩 天竺 にて修行の時、無智の僧二人有り。彼僧碁をうつより外はなし。見る人是をにくみ聞者かれをそしる。達摩 此事をしづかにうかゞひ給ふ時、二人の僧答て云、黒死 する時は黒ぼんなうのうする事を悦び、白死 する時はびやく煩悩 のうする事を悲しみて、無常ぼだいを観ずる也と申しけるが、みやうじうの時紫雲 たな引き、聖衆来迎 有て往生 のそくわいをとげたり。観念 をもて往生する事うたがひなし。仙栄が返答有がたし。昔しんの王質 といふ者薪をきりに山に入りけるに、仙人碁をかこみて居たる所に行きぬ。しばらく斧をひかへて是をみるに、仙人なつめのごとくなる物を王質にあたへぬ。是をくひけり。さて日暮れ薪きらんと思ひ、斧をもたげければ、え朽 ちたゞれぬ。恠 しみて家に帰りて見れば面影もなくあれはてぬ。知人一人もなし。不思議に思ひて人にとへば、われ七世のむかし王質といふ者有りて、山に入りて帰らずと語りけり。七世の孫にてぞ有りけるとなん。古今集に、故郷はみしこともあらず斧のえの朽ちし所ぞ恋しかりけるとよめり。碁に他念をわするゝ事、古今ことならず。
見しは今、江戸町に大谷隼人 と云者有り。此人世に珍らしき事をたくみ出して、人にほめられん事をのみいみじく思へり。或時うすきねを川辺へ持出て水車を作り米うつ事をせしに、諸人米を持寄て白米にうたせつるが、えきなきにや重て人是をまなばず。又或時はせんたう風呂をたて、衣類をばかきに縄を付、天井へ引上げておき、こふろの内に火をあかし、湯をも内にてつかふ事をせしかども、是をも人学 ばず。扨又すゐふろと云物を我たくみ出したるといひて人に見する。是には徳有りとて皆人毎にまなび、今家々に見えたり。是計 は隼人が工み奇特 なり。此すゐふろ上がたには有るべからず。いで是をこしらへ船につみ、関西へ持行き、京堺辺 にて売るべしと、俄に用意す。老人見て、いや〳〵すゐ風呂と云物はむかしより上方に有事なれども東国になし。是を隼人みるか聞くかして、江戸にてこしらへはじめたり。後漢書 朱浮 が伝にれうとうにゐの子あり。子をうめり。白頭ことなりとして是を【 NDLJP:327】献 ず。行きて河東に至 つてたんしを見れば皆白し。恥ぢていだいて帰る。かるがゆゑにみづからよしとほこるを遼東 の豕 といへり。其方かみ方へ持行き、京堺家毎に有るすゐ風呂見るならば、恥ぢて江戸へ持帰るべし。万珍らしき事をば、当世やうとてかしこき人の今工み出せるやうに思へり。それも皆智恵 有る昔人のたくみなれど、はじめある物はかならずをはり有る習ひ、或時はとなへうしなひ、或時は其跡中絶せしを、又あらためてまなべり。一得 をあいして余の失を忘れ、一失をきらひて余の得を忘るゝは人の常の心なり。故に智者は千度おもんぱかつてかならず一失あり、愚者は千度おもんぱかつてかならず一得有り。古人はあらためて益 なき事をば、あらためぬをよしとすとこそ申されし。此心論語にも見えたり。万珍敷事をもとめ異様を好むは浅才の人かならず有る事なり。ある書にわが悪を云ふ者はわが師なり。わがよきをいふ者はわが賊なりと記せり。子路は人の告るに過をもつてする則 悦ぶと申されし。わづかの徳をほむるにより、まんしんをおこす。ほむる下にかならずそしり有るべし。其上末世 の人下智下劣にして奇特 なる工みなりがたし。物毎に興 あらせんとする事はあいなきものなり。興は自然に出来るが面白し。たゞつひえもなくて物がらのよきが能きなり。扨又今珍らしき事様々あれども益なしとて、やがて捨つる、それこそ誠にかしこからぬ当世人の工 み成るべし。
見しは昔、江戸町 の跡 は今大名町に、今の江戸町は十二年以前まで大海原 なりしを、当君の御威勢 にて南海をうめ陸地 となし町を立て給ふ。然るに町ゆたかにさかゆるといへども、井の水へ塩さし入り、万民是をなげく。君聞召し、民をあはれみ給ひ、神田明神 山岸 の水を北東の町へながし、山王山本 の流を西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給ふ。此水をあぢはふるに、たゞ、是薬 のいづみなれや、五味 百味 を具足 せり。色にそみてよし、身にふれてよし、飯をかしいでよし、酒茶によし。それ世間 の水は必大海に入る。一切の善は必法性 に帰すと云々。此水大海へいらずして悉く人中に流入る。元来此水は明神山王 の御方便 にて、氏人をあはれみわき出し給ふといへども、人是をしらず。其上此流の中間に悪水 有りて、流をけがすにより、徒に水朽 ちぬ。然るに今相がたき君の御めぐみにより、中間の濁水 をのぞき去つて、清水 を万人に与 へ給ふ。古語に、せんきうの水清けれども山がらす流をけがすと云々。せんきうより流出づる河は、仙人集つて仙薬 をあらひすゝぐ故に、河流を汲 む者迄長命なり。所に其川の中間にかけ山の鳥、其流をあぶる時水却つて毒とへんずといへり。新続古今 に、君をこそ神もあはれと石清水 外より出でぬ流と思 へばと詠ぜり。誠に流を汲んで水上を知るといへる、古人の言葉思ひあたれり。其上日本国の人あまねく此水をあぢはへり。神と君慈悲 平等 の御心より流れ出づる清水 、誰かかつがう信敬 せざらん。伝へ聞く、いにしへ後漢 の武師将軍 は城中に水尽き、かつにせめられける時、刀を岩石にさしゝかば、たちまち泉わき出で、人民命をつぎたりしに、江戸の流ことならずや。扨又昔、薬の泉出来たるためし有り。雄略天皇 の御宇 に、美濃国本巣 【 NDLJP:328】の郡 にふしぎなる泉わき出づる。老いたる者此水をのみぬれば。老を忘れ、わかきにかへる心いさぎよく、夜のね覚もなく老をやしなふゆゑ、養老 の水と名付けたり。いはんやわかき身に薬と成つて命長くさかえ、万民楽にあへり。今天下太平目出度御時代 なれば、仙家 の水の流を汲み、皆人一舌 の上に万徳 の薬味 をなめ、寿命長遠 ならん事を悦びあへり。
見しは今、世間の知人あまた有りといふ共、親 しかるべき隣近所 の人なり。不慮 なるいひごと悪事出来の時は、奉行所 へ召され、左右のとなりの者は知つたるかと御尋ね有つて、隣の者のいひ口を正路 となし給ふ。下郎のたとへに、遠くの親子より近くの他人といへるは寔 に実義 なり。めをといさかひも女はかならず隣をたよりとする習ひ有り。然らば江戸町わりは十一年已前 の事なり。其比売買に金一両二両の屋敷は、今百両二百両五百両のあたひする、町さか行くまゝ、皆人屋敷を高くつきあげ家をあたらしく作りなほす。昔の境ぐひを尋ぬるに、ほそきくひを立置きつれば、皆くさりて其印一つもなし。然る間寸地分地 の境をあらそひ、人毎に云事して近き隣も心遠くへだたりぬ。されば通町小西三右衛門、宮本市兵衛と云人、屋敷境 をあらそふ処に、町衆出合 両屋敷の本間 を打つて見れば、三右衛門屋敷一寸たらず。市兵衛屋敷柱の内に一寸のあまりあり。町衆云ひけるは、過分 の出入かと思ひつるに、たゞ一寸のちがひなり。市兵衛前々よりあやまり来り家を作る事なれば、三右衛門堪忍 し給へ。わづかの事にいさかひ、末代 隣と中悪くせんは愚なるべしと云ふ。三右衛門聞きて町衆の御異見 さる事なれども、われ此面五間 うらへ町なみの屋敷を各々御存知 の如く、当年 過分 の金にて買ひとり今新屋敷 を作りなほす。此屋敷は孫、ひこ、やしはごの末々までもつたはる五間の屋敷に、一寸のきずつけん事思ひもよらず。かしこき人はあたふる物をさへことによりてとらず。むらうたうと云は、糸の一筋 針一本も主ある物をば取るべからずと仏もいましめ給ひたり。いはんや此一寸の地は金にて買ひとりたる人の地をほしがるは非道也 。曲れる人の隣にすぐなるそれがしむつびがたし。しきりに此一寸の地をわれに堪忍 せよとは、各は欲を離 れたる人々、誠の生仏 にてかくのたまふか、此三界中 に欲をはなれたる人間一人も有るべからず。其上天よりあたふる宝をとらざれば、却つてわざはひをうくといへる本文ありと云て、一寸の地を取りかへしたり。皆人沙汰 しけるは、元より一寸は三右衛門地也といへども、わづかの寸地をあらそひ取りかへしたるは人欲ふかきによつて也。運命論 に云、張良 、黄石 の符をうけて三略の説をしゆしてもつてぐんゆうにあそぶ。其言や水をもつて石に投ぐるがごとし。是を受ことなしと云々。誠に三右衛門に異見、水を石になげ入るがごとし。説文に度量衡 粟をもつて是を生ず。十粟一分となし、十分を一寸となし、十つ寸を一尺とすと云々。此寸地を積りぬれば、粟百粒のあらそひわづかの事なりといひてあさらひ笑ふ。老人聞きて申されけるは、いや〳〵一寸のわが地を三右衛門取返したること本意に叶ひたれ。古人の言葉に、悪人のほろぶるをいたみおも【 NDLJP:329】ふは、鼠の死ぬるをかなしむが如しといへり。然るときんば、道理なくして人の物とるをよしと思ふは、鼠の物くらふをあいするがごとし、是本意にあらず。道理とひが事をならべんに、誰か道理につかざらん。その上よき者にはよみんぜられ、よからざる者にはにくみんぜらる。是聖人のをしへ也。扨又天理に私の心なし。一毫 の人欲 私なしといひて、無理に人の物をほしがるはひが事なり。夫聖人の道は見るべきをば見てみまじき事をば見ず。聞くべき事をば聞きて聞くまじき事をば聞かず。いふべき事をばいひていふまじき事をばいはず。とるまじき事をばとらず、取るべきことをばとる。一つも道理にたがふ事なし。或人道を行くに金を見付けながら、是をとらず。供人 見て、何とて是をば取給はぬぞといへば、天しり地しり汝しりわれしる。主にしられぬ物をばいかで取るべきとて終に取らず。四知 をはづるとは是をいふ。人はたゞ心のうちにある五常 七情 をよくをさめて、たゞしくせんには如 じ。先哲 もあやまつてあらためざるをとがといひ、あやまつてよくあらたむるを善の大なるといへり。然る間、君子はふたゝびあやまちせずとなり。そのうへ綸言 再びしがたしといへども、あやまりては則あらたむるにはゞかる事なしとあり。ことわるべきにあたつてことわらざれば、かへつて乱をまねく、屋敷の境には、ふときくひを打おくべき事なりといへり。
見しは昔、江戸町にて金に判する人、四条 、佐野 、松田 とて此等三人也。砂金 を吹きまろめ、一両、一分、一朱、朱中などと、目をも判をも紙に書付取渡する事、天正十八寅 の年より未迄六年用ひ来る。此判 自由 にあらずとて、後藤庄三郎 と云ふ人、京よりくだり、おなじひつじの年より金のくらゐを定 め、一両判 を作り出し、金の上に打判 有つて是を用ふる。又近年は一分判 出来て、世上にあまねく取あつかへり。されば愚老若き比は、一両二両道具のはづし金を見ても、まれ事のやうに思ひ、五枚三枚持ちたる人をば、世にもなき長者有徳者 などといひしが、今はいかやうなる民百姓 にいたる迄も金を五両十両持ち、扨又ぶげんしやといはるゝ町人連 は五百両六百両もてり。此金家康公御時代より諸国に金山出来たり。又万民金持事は、秀忠公 の御時より取あつかへり。そのかみ金は奥州より出来はじまりぬ。然るに出羽 陸奥 押領使 鎮守府将軍 藤原朝臣基衡 は、世にこえたる福徳の人なり。奥州平泉 に広大なる堂塔 を建立 し、たくはへ置きたる珍宝 を残さず、皆 仏師運慶 に取らする。鷲 の羽 、あだちぎぬ、狭布 のほそぬの、信夫 もぢずり、白布 、ぬかべの駿馬 、七間 まなか有る水豹 の皮六十枚、すゞしのきぬ一品ばかりを舟六艘につみて渡す。其注文 第一に砂金 百両と記せり。其頃迄は金まれなりと知られたり。扨又頼朝公天下を治め給ふによつて、基衡 が子息 秀衡入道 出羽奥州 の年貢 と号し、金四百五十両鎌倉殿へ奉る。頼朝公御覧有て希有 に思召し喜悦なゝめならず。此内を急ぎ御門 へ進 ずべき由仰 也。建久元年十一月十三日頼朝公上洛 のみぎり、三井寺 平家のために一宇も残らず灰燼 となる。青龍院 は八幡殿のことに御きゝやうし給ひ、御髪 を埋 まるゝと云々。是によつて此寺の修理料 として十二月八日【 NDLJP:330】頼朝公御剣 一腰 、砂金 十両ほどこさしめ給ふ事を記せり、ていれば建久四年みづのとの丑十月十一日、鎌倉中の法度 を定めつる文に、○炭一駄代銭百文○薪一駄卅束、但し三ばづけ代百文○かやぎ一駄八束代五十文○わら一駄八束代五十文〇ぬか一駄代五十文、くだんの雑物 近年かうぢきにして法に過ぎたり、売人に下知すべき者也と云々。是は天正十九当年迄三百六十二年以前の事也。今の売買にたくらぶれば、銭のあたひは少もかはらず。昔金一両の代に米銭のさた古き文をも見ず。天正年中の比 金一両の代に米は四石、永楽 は一貫、但しびた四貫にあたる。三十余年以前の事也。其比金一両見るは、今五百両千両見るよりもまれなり。然れば、今は国治り民安穏 の御時代、皆人金沢山に取あつかふといへども、あたひは古今同じ事にてめでたき宝なり。夫れこがねの正体 は、打つても砕きても、火に入り水にうもれ、まんごふをふるとても色性 かはらず。かるが故に、仏をこんがうふえの正体 とはいへり。
見しは今、愚老箱根地を通りけるが、逆縁 ながら、泰庶山金剛王院 へ参詣 せしに、聞きしにこえてたつとく有りがたき霊地 也。うしろには高山峨峨 とつらなり、真如 の月影 をやどす。前には生死 の海まんまんとして、波ぼんなうのあかをすゝぐかと覚えたり。本尊 は文珠師 利𦬇 にておはします。衆生 をけどし給へば、うゐの都と名付、関東第一の霊山 なり。文応元年八月廿八日鎌倉の将軍箱根において御ほうへいし給ふ。山の衆徒 ら湖の上に舟をうかべ、延年すゝいはつ廻雪袖をひるがへし、歌舞 の伎楽 を尽す。御遊覧 の事古記 に見えたるも思ひ出侍りぬ。実朝公 の歌に、玉くしげ箱根の海にけえ〔本ノマヽ〕ありや二国かけて中にたゆたふと詠ぜり。此歌の心をうかゞふ、海より東は相模、西は伊豆の国なるべし。然るに、名所集には、此水海を相模の内に入れられたり、此説覚束 なし。扨又宋朝のけいれんが詩に、ぞうしようぜつにうする富士がん根にわだかまつて、直に三州の間におすと作れり。此両山二国三国にひろごりならびて高き山也といへば、里の翁聞きて、富士は三国のうちにありといへども、歌には駿河の富士とよみ、箱根の水海も二国の中にあれども、相模の国に詠ずる事、小を捨て大に付くが故の名也といへり。又続後撰 に、箱根路を我越えくれば伊豆の海や沖 の小島に波のよるみゆとよめり。此歌の心相違 せり。伊豆の海箱根路よりは見えがたし。沖小島 と詠みけれども、伊豆の海北の海辺に島は一つもなし。足柄箱根路 をこえ山中を下り、三島を行き過ぎ、駿河の国浮島 が原 にて伊豆の海は見ゆる。此歌人は箱根路をも通らずして聞き伝へてよみけるか、又は歌の五文字を書きちがへたるにや。伊豆の国南の海には大島も小島もありといへば、かたへなる人聞きて、愚かなる人の歌物語 こそほいなけれ。此歌は鎌倉右大臣 よみ給ふ。玉葉集にも載 られたる名歌 、短才 にしてある深き心をはかりしらんや。月影に海の千里の詠してと、古歌によめるは千里の外迄も見ゆる由、是和歌の風流 なり。其上、沖小島 、浮島 、足柄 、三島 、大島 は国替へておなじ名の名所あれば、歌も又しかなり。千載集 に、さつまがたおきの小島にわれありとおやにはつげよ八重の潮風 とよめるは薩州 、隠岐 の小島の浜びさしと詠ずる【 NDLJP:331】は隠州、さて又丹後豊前にもよみたり。新勅撰 に、足柄 の関路越え行くしのゝめに一村かすむ浮島が原と詠ぜり。足柄は相模、浮島は駿河なり。万葉にとぶさたてあしがら山に舟木きる木にきりかけてあたら舟木を。是は筑前観音寺 沙弥満誓 よめり。続千載集旅の歌に、陸奥 はよを浮島も有りといふせきこゆるぎのいそがざらなんと、小町詠ぜり。浮島は奥州、こゆるぎのいそは相模 なり。あはれなる三島の神の宮柱 只 爰にしもめぐり来にけり。安嘉門院 伊豆の三島を詠めり。新古今 に、三島江や霜もまだひぬ蘆 の葉に角 ぐむ程 の春風ぞふく。是は摂津国なり。続後撰集 に、三島の浦のうつせ貝とよみし国、いまだかんがへずと歌集にも記せり。新拾遺 に、三島野やかた尾の鷹とよめるは越中 なり。雪消えて大島しろき朝なぎに篠 の葉うかぶ沖の釣舟 と詠ぜしは伊豆、新勅撰に、都にもいそぐかひなく大島のなくのかげぢは塩みちにけり。是は備前、新千載に、大島岑に家居せましをとよみしは大和、つくしぢやかたの大島と詠ぜしは周防、かくのごとく国かはつておなじ名所多ければ、歌も分明しがたし。すべて古歌をそしりあざむく事、北野の神慮 もおそろし、ゆめ〳〵難 ずる事なかれといへり。
【 NDLJP:318】巻之六 見しは今、江戸にて六七年以来高きもいやしきも杖をつく。扨又桑の木は