目次
【 NDLJP:287】
巻之四
聞しは昔、鎌倉の
公方持氏公御他界より、東国乱廿四五年以前迄、諸国において弓矢をとり治世ならず。是によつて其時代の人達は、手ならふ事やすからず。故に物書く人はまれにありて、かゝぬ人多かりしに、今は国治り天下太平なれば、高きもいやしきも皆物を書きたまへり。尤
筆道は是諸学のもとといへるなれば、誰か此道を学ばざらんや。ゑいくわん法師は人木石にあらず、このめばおのづからほつしんすといへり。わかうしてならはざれば老て後くゆと、しばをんこう六悔の中に見えたり。然れば天下をたもち国土を治せる君子は、文武両道を学び給はずんば有るべからず。いさめをきかずんば有るべからず。古文に文字は貫道の客なり。文と道と相はなるゝことをえず。文を以て道を達するときんば通ぜずと云事なしと云々。文を以てはんきの政を助け、武を以て四夷の乱を治む。此の道なくして弓矢のはかりごとしやうばつ義理うとかるべし。かるが故に君子は文徳を先とし、武力を後にすと云へり。
文武は車の両輪のごとし。此両道
造次てんぱいおもひ給はゞ、子夏が賢意に叶ひ子路が仁勇を継給ひぬべし。四書五書軍書等に
顕然たり。扨又下の下までも、物をかゝでは私用弁じがたし。されば手のわろき人のはゞからず文書きちらすはよし。見苦しとて人に書かするはうるさしと、古人云へり。たゞ
〳〵よくもあしくも物をば書くべき事也。されども能筆の文字かな遣ひの相違あるは、悪筆にもおとれり。故如何といふに、悪筆は常なれば人見とがむる事なし。扨又悪筆の文字仮名遣ひをしりて書きたるは、奥ふかく
心床しきものならし。
見しは今、江戸町口川多しといへども、皆堀川にて御城の堀を廻り、日本橋へ流るゝ川是一筋本川なり。然るに此川より北東は神田明神の
氏子、西南は山王権現の
氏子なり。今江戸町さかえ民安全にゆたかなる事、ひとへに神と君との道、直に国家を守給ふ御めぐみなるべしと申ければ、老人云、神を祭る事神武天皇の御時より始れり。委く日本記に見えたり。忝も我朝は和光の神明先跡をたれて、人のあしきこゝろをやはらげ、仏法を信ずる便りとなし給ふ。本地の深き利益を仰ぎ、和光のちかき
方便を信ぜば、今生にて
福財安穏の望をとげ、来生には無為常住のさとりをひらき給ひぬべし。神は非礼を請給はねば、
疎心なく、神のいますがごとく祭り給ふべし。然らば神に三熱のさた、世話に申しならはせり。天神七代地神五代の出世の後、其沙汰なし。扨又人皇よりこのかた
見所一ゑんなきことなり。夢々おろそかに思ふべからず。神の神たるは人の礼によりてなり。人の人たるは神の加護によるがゆゑ也。信ずべし神道の
奥儀、
深秘のべつくすべからず。
【 NDLJP:288】
みしは今、時なる哉。夕凉しきはしゐしてながむれば、蜘虚空に糸はへて飛行の虫を止むる。されば蟷螂手をあげて毒蛇をまねき、蜘蛛あみをはつて飛鳥をおそふとかや。ある詩に、蜘、山だちに似たりと作られしは、をかしきたとへをひかれたり。昔将軍頼光公、瘡病をわづらひ給ふ。ある夜灯の影よりみれば、長七尺計の法師走り寄て、頼光へ縄をかけんとす。頼光公膝丸と云名劔を抜てはたと切りたまへば失せぬ。血流るゝの跡をもとむれば、北野の後ろに大なる塚あり。かの塚へ入りたり。掘つて見るに、四尺計なる山蜘なり。黒がねのくしにさし大路をさらし給ふ。是より膝丸を蜘切丸と改号す。此劔にて末代迄も御門世を治め給ひぬ。かゝるおそろしきくもいにしへは候ひしとなり。されども蜘蛛さがりて悦有と云ふ本文有り。故に人待つ夕暮近う軒にさがりたるを見て、我せこがくべき宵なりさゝがにのくものふるまひかねてしるしもと、そとほり姫はよみ給ひけるとかや。人をもまたぬ愚老が門のあたりに、くものいかぎりなくあり。是を日毎にはらへども絶えず。人云けるは、蜘をころさずばたゆべからずとなり。然れども仏は罪としりて蚊足をももがず。蟻の子ころす者猶地獄におつといましめ給ふ。又梵網経に一切の男女三界輪廻の四生皆是我父母也。しかるをころし食するは、我父母をころし食するなりと説給へば、目の慰せんとて他生の苦をわきまへざるは愚痴の至り也。其上観音は大悲分身化をたれ蜘蛛と現じ給ふ事有り。吉備大臣は元正天皇のけんたうしなり。在唐の時やばだいの文を、唐帝より是を読みとかずんば殺さんとなり。吉備是を見るに文義さとしがたし。蜘蛛糸を引て是ををしゆる、則よむことを得たり。蜘は是和州泊瀬観音の冥助によつてなり。糸をかけたる神のさゝがにと云前句に、をしへある文字の数々あらはれてと、賢盛法師付給ひぬ。扨又山川大地何物か実相にあらざる。しんらまんざう悉仏心なり。されどもくものいとにふれてえきなし、いかゞせんとおもひしが、捨てゝ見よ野にも山にもいづくにも身一つすまぬ隠れ家はなしとよみける歌を、おもひ出て、わらはの有りしにをしへて、竹の筒を持せ蜘を拾ひ入れて、虫ははふ方にゑありとて外へ捨つる。生ものをころさずしてわれ利を得たり。天運限りあれば、かならずうゑこゝえずと云へば、かたへなる人是を聞て愚成る云事ぞや、くものいをやぶりたるもとがなるべし。その上おのが住みなれし所をはなれ、親も子も妻もあるべし。愛別離苦のことわり、人間にかはるべからず。などか是罪にあらずやと云。されども罪を作るに軽重あり。小罪をばなすとも大罪をばなす事なかれと、仏もいましめ給ひしとなり。
世に住侘びて当年の春江戸へ来り、一所に宿をかり、
傭夫と成て其日々々の
身命を送る所に、兄云様、此中病気なり、床にふすならば宿かす人有るべからず、如何にもして古郷へ帰り生所の土にならんと云ふ。弟聞てあら
笑止や、上州迄の路銭一銭もなし。一衣きたるまゝなれば、
売代返すべきものもなし。友どちに詫て銭を借り、兄へ路銭に渡し、我同道致度はおもへども、此借銭を済し、やがて跡より
【 NDLJP:289】参るべしと暇乞して兄を出し、弟は両日二人に雇れ、銭をとつてかりたる人へ返し、三日めに跡をしたひ尋ね行所に、武蔵こうの巣の里人云けるは、二日已前旅人日くれて此里に来り宿をかりつれども、病者と見えければ、宿かす人なくて辻に臥したり。いづくのものぞととへば、
生国は上州山梨のの者なり。江戸に三郎と云弟を一人持たり。定めて尋来るべしと云つるが、夜中に死たり。里人
不便に思ひ、あれなる野辺に塚につき込たると語れば、三郎聞て、扨は疑もなき某が兄なり。掘出しひざの上にかきのせ、願はくば
仏神の御恵みにて、今一度我に言葉をかはさしめ給へと、なきくどきかなしむ有様、目もあてられぬ有様なり。里人云やう、我も人も兄弟持ちたり。
有為無常のならひ
跡か先に別れん事は
治定なれども、此兄弟のごとく誰か孝の志のあらん。人々我身に負たる物をと、ともに涙を流さぬはなかりけり。其上夏の事、三日過ぎぬれば肉もくさり果づべきと思ふ所に、気色少も変らずたゞいきたるものゝ姿也。是は弟にあはんとおもふ兄の志し深きゆゑなるべし。此なげきに心なきのべの草葉もしをれ、鳴く鳥虫の音も是をかなしむかと覚えたり。兄弟の志深ければ、おつる涙が口に入てよみがへることもあるべしと云所に、海道とほる旅人立ちとゞまり申しけるは、昔もさるためしあり。内大臣金房が
御息さごろも中将の
妻飛鳥井と聞えしは、死て七日めにその子きたりて母の別れをかなしみ、塚より
死骸を
掘出しみれば、しゝむら朽ちず。其子天をあふぎ地に臥して、本の姿へ
魂を入れかへさせ給へと
仏神にいのりければ、天に声あつて孝子を感ずる故、本の姿に返しあたふるとよばはつて生返りたり。其時
飛鳥井姫、形見ともなでしこなくはいかでかは別れし人に又もあふべきとよみ給ふ。
狭衣物語に
委敷みえたり。兄は親にてあらずや、弟は子に替らず、至孝の志しをば天地も神明も皆感応し給ふ、などかあはれみたすけのなかるべき。扨又人として此あはれをとはざらんは、
鬼畜木石にてこそ有るべけれ。願はくば生返し、兄弟言葉をかはさせ給へと、里人集て我親子兄弟の別れをしたふごとくなみだを流し、
天道三
宝へいのれども、
定業不転のならひその甲斐なし。里人薪を集めて灰になしたり。弟
白骨を拾ひ首にかけもとゆひをきり、さまをかへ、高野山へ参り、兄の
菩提を長くとぶらふべしと、此在所を立たり。其折ふし我此里を通りしが、立止りて此人を見、此もの語りを聞て、こゝろなき愚老も涙を催し侍りぬ。実にも兄弟となる事、三世のきえんなくして生れあひがたし。孝悌は夫仁を行ふの本也。人として万にあはれみかなしむこゝろなくんば、
何〔本ノマヽ〕にそむけり。是人にあらず。
虎狼も仁あると云て、虎狼も母の乳をのむ時はひざについてのむ。鳥は哺をかへす。雁は兄より先へは行かず。歌にも、鴈のおとゞひつらを乱れぬとよめり。鳥類迄も仁を行ふ事あげてかぞふべからず。孟子に仁の実は親につかふまつる是なり。義の実はこのかみにしたがふ是なりと云へり。仁義の二つは親兄に孝悌あるを以てせり。兄にそむくは親にそむくに同じ。
後漢書に兄弟は左右の手也と云々。扨又仁は愛の理なりといへるなれば、他人をさへあいするは仁義也。まして父母兄弟を愛せざらんや。此太郎三郎兄弟のちなみあはれなる事を、予見しまゝ書きとめ侍る。
【 NDLJP:290】
見しは今、
下総国小弓の
大厳寺は
浄土宗関東第一の学寺たり。先年此寺に
安誉和尚と申す
名匠まします。五百人の
所化を集めて
法幢をとり給ひぬ。中に清林と云
所化、
才智にして一事を聞て万事を
準らひ知る。学問世にすぐれて
文殊の
智恵徳相を得たりと云ならはす。
法問の時に至て、此寺のばんとうを初め、
老僧達牙をかみて、此清林と論談するといへども、
清林仏祖の
妙文明句をとつて合せ、一問答に押つむる。或時は孔孟老荘の金句を以て答へ、或時は世俗の言葉目前の
境界を以てしめし、狂言きぎよを以てさつし、言葉に花を咲かせ、理に玉をつらね、ふるなの弁をふるふ事以てたとふるにたらす。故に老僧達しんいをおこし、夫智者は其功をたてん事を願ひ、威名を四方にたつせんとする処に、あの清林一人此寺に有故、我等が廿年三十年の修行もむなしく
埋れ、
見仏聞法の人に無智におもはる事の無念さ口惜さよ。あの小僧めをいかにもして寺中を追ひはらはゞやと、のゝしりあへり。古語に尊きをばいやしきがそねみ、智者をは愚人がにくむといへる事おもひしられたり。ある時一老と清林と言葉どがめして、いさかふ。一老心いられたる人にて、あのたがし入道めと
悪口する。清林も腹こそ立ちつらめ、
妻ぐし入道めと返答する。一老聞て言語に断たる悪言かな。
妻ぐし入道の仔細聞くべしといふ。五百人の
所化此よしを聞き、あのたがし入道めを、年月日頃にくし
〳〵とおもひつるに、かゝる悪言はく事、大巌寺末代
未聞の悪僧たり。一老におそれもなく、却て
災難を申
懸る事、末代迄も大巌寺をけがし、
浄土一
宗にきずをつくる事、悪逆無道其罪のがるべからず。只石子
積みにするにはしかじと、五百人の
所化共石を持寄て庭につみ、已に清林をかしやくせんとす。上人せんかたなく、清林を衣の袖の下へ隠置給へども、徒なる所化ども乱入てかなふべしとは見えざりける。上人
覚召すやう、此清林はこうさい
弁舌世に越え、
当意即妙をばはき、きてん坊主なれば、君めぐしのはつしやあらんと、上人清林を引つれ庭へ飛でおり、まてしばし所化ども、
双方たいけつし、妻ぐし入道の仔細を聞き、非におつる所を以て、とかくに行ふべしと
宣ふ。五百人の所化ども、此義尤と同じ、大庭へ出て
双方仔細をきく所に、一老申されけるは、あの清林めは伊勢の国わたらひの郡山ぎしと云里にて生れたり。親をば弥五郎といひて、其里の桶のたがを懸て
身命を送る。其たがしの子なるが故に、たがし入道と云ひたり。扨妻ぐし入道の仔細聞べしといふ。清林答へて、尤道理なり。さればこそ其方がてゝは
妻をぐして汝生れたり。其めぐしの子成るが故めぐし入道と云。其時上人をはじめ五百人の所化、きどく
凡慮におよばぬ
即妙なる返答、世にこえたるきてん坊主哉と感じ、一同にどつとわらひて退散する。誠に仏道に叶へる人は、
毒蛇の口をのがれ矢石も身にたゝず、災難をのがるるといへる事
実義なり。孟子に、
是非の心は智の
端なりと云々。智者は聡明叡智と云て、耳に聞き理非を
分明にして、それ
〴〵に即時に
気転をめぐらす。かるが故に智と云字をばしりまうすと書きたり。鏡の
姸醜を弁ずるがごとく、けんしう智者は万にくらからず。論語に言をしらずんば人をしることなしと
【 NDLJP:291】云々。扨又
樊遅智をとふ。子答へて、人をしるといへり。
安誉上人は誠に智者にてよく人をしり給ふ。五百人の所化ども、すでに石こづみにする処を、清林は目聞心聞智者とよく知りて庭へとつて出されたるは、師弟同心の智者にてまします。此清林
修行成就の後、琴上人と申して関東にて
法幢をとり、智徳れいげんにまします、他にことなることたとへがたし。今は京東山の黒谷に侍り給ひけり。
大御所様殊更もつて
御信敬なり。諸人かつがふのかうべをかたぶけずといふことなし。
当代浄土の名智識と聞えたり。
見しは今、人間万事
不如意、月に
浮雲有り花に風あり。歌に、うきはたゞ月に村雲花に風おもふに別れおもはぬにそふ。愚老当年の夏のころ、何とやらん例ならずこゝろぼうぜんとありければ、往来の人をみて気もはるゝやとおもひ、街道を詠め居しに、ふりうりとて万のものを売らんとよばる。爰にくすしひとり西大寺長命丸有り。
万病円うらんとよばはる。我医師を呼入れ、夫人間の病といふは、四百四病あり。内百一病は薬を以て治す、百一病は灸にて治す、百一病は針をもて治す、百一病は祈祷を以て治すと、千金方に記せり。其上一病さへ治することかたし。如何にいはんや万病をや。然れども此薬万病を治する医法やある語り給へ。くすし答へて、かしこくも尋給へるものかな。おのが心ざしなければ不審すべき力もなきものなり。夫医者と云は忝も薬師如来のへんげ、薬師は衆生の病を除滅せんとの御ちかひなり。くすしの始る仔細は、天竺に
耆婆大臣薬師経をよみて伝へたり。我朝へ渡る事は、りうじゆぼさつのひろめ給ふ。然る間くすしの
師匠は、
薬師祖師はりうじゆぼさつにてまします。是
衆生利益大慈大悲の御方便なり。我等ごときの藪くすしをも深くたつとぶべし。扨又命をやしなふものは、病のさきに薬を求むと、
潜夫ろんに見えたり。されば人間の病の数四百四病といへどもいはれなし。
病源論に
中風の名計を四百四つ顕はせり。人気無量なれば、気に応じて病有り。
万病囘春に
委記せり。又薬師三願経に万病
悉滅と云々。此意を以て万病円と名付たり。万の病といふに限りはなきとなり。すべて人病をうくること只心より受け、外より来る病はすくなし。有る文に薬をのみて汗を求むるには印なきことあれども、一旦耻
怖るゝ事あれば、必汗を流すは心のしわざなりと知るべしといへり。夫人間の病といふは、血気の二つより起る。先出気と云は喜怒憂思悲恐驚是なり。其土気は無量にして、万病悉く気より生ず。又血筋は十二経、其筋限りなくわかつて
脉中を血の順行する事、長流水のごとし。されば気とゞこほる時、血又とゞこほる。栄衛調を失する時、万病生ず。此万病円といふ血気の良薬を調合し、人参国老を加へてあたふる。此二味先だち余薬を導き、五臓、六腑、足の爪先、かうべのいたゞきに至るまで、病のある所を尋さぐりて、寒をばあたゝめ熱をばさます。然る時に気血のとゞこほりは、水の日輪にあへるがごとく消散する也。かるがゆゑに、
血脉の
水道さはりなければ、気血
順還する事、
頭上漫々脚下まん
〳〵たり。此万病円を用ひ給ふ人はいかなる
【 NDLJP:292】宿病なりとも、忽ちいえて天命を全くすべし。ゆいけう経に我は良医の病を知て薬をはどこすがごとし。服すると服せざると医のとがにあらずと説かれたり。
四季調神大論に聖人は已病を治せず、未病を治す。已乱を治せず、未乱を治すと云々。扨又
扁鵲も、
針薬をしやうせざる病をば治せずといへり。所望ならば是万病円うるべし。かゝる妙薬をのまずして死せん事は、たゞ昆ろん山に入り
玉を得ずしてかへり、せんだんの林に入て枝を折らずして出るならば、後悔するともよしなかるべしと云。我是を聞て、扨々難有薬の威徳かな。墨老わづらはしき
時節、
生薬師の現来ぞと
殊勝尊くおもひ、此万病円を一貝かうて用ひれば、即時に気はれ
皮肉もうるはしく、こゝろ凉しく成りぬ。有がたや、万病気より生ずるとは、今おもひ知られたり。
聞きしは今、江戸町に高屋久喜と云て
有徳なる人あり。
芸能もいらず、たゞ金持人こそ人なれと云て、
欲心のみに明しくらせり。老人是を見て申されけるは、欲にはいたゞきなしとて、
欲心は其きはまる所をしらず。たゞ人は外物をほしくおもはで、仁義をほしく
思ひとむれば、外物のほしきことは自然なくなるものなり。古へ顔囘と云し人有り。
高才にて世に秀づ。敏にして又学を好み、後代の
亀鑑にそなはり給ふ。然るに恵子じよふしや百乗にして以て孟諸をすく、
荘子是をみて其余魚をすつ。実に殊勝なる賢人のこゝろ也。人富といへども心に欲多し。名付て貧者とす。貧と云ともこゝろにたんぬとおもふを名付て福人とはいへり。扨又とんで礼を好みまづしうして道をたのしむは、せつさたくまの人なり。行に余力あるときんばすなはちもつて文を学ぶと、孔子はいへり。かねあらば猶道をまなぶべきことなり。
聞しは今、正慶と云人云けるは、近年
世間流布する筆作のあたらしき
抄物ども、皆聖賢のいひ置たる言葉を作りたる計にて、珍敷かはる句なし。其上詞ふつゝかの事のみあると難ぜり。かたへなる人聞て、愚なる正慶の云事哉。人臣の忠を納る事、たとへば医者の薬を用るがごとし。薬医よりすゝむといへども、方はおほく古人より伝ふと、
東坡はいへり。
縦正慶珍重詞を聞と云とも、それも皆いにしへの聖賢の人のいひ置たる詞の外は有るべからず。山谷こふくふに答て曰、古へのよく文章を作る者は、誠によく
陶冶して物をなす。古人
陳言をとつてかんぼくに入といへども、宝丹一粒鉄を点して金と成るがごとしといへり。いづれも古き言葉を用ふれども、其こゝろあたらしくして古き様にも見えず。是を分明する人まれ也。孔子のたまはく、述べて作らず信じていにしへを好むと云々。是に付ておもひ出せり。長斎と云うて碁うつ人あり。常に我に三つ四つつよし。此長斎別の人と碁うつを我そばにてみれば、見落し多くありてもどかはしくおもふ。さらばとおもひ長斎と我碁をうてば、我およばず。そば目八目と俗に云しを、其時おもひ知られたり。然則ば人の筆作をみて笑ふ。正慶我碁打に同
【 NDLJP:293】じかるべし。
碁助言上手にありて更にえきなし。さればかしこき人は一理を以て万事をつらぬき、一心を以て諸事に通る。其理と云物則わがこゝろなり。こゝろの外に別に理なし。其理をよくをさむれば物に不審は有るべからず。扨又正慶云、唐国より渡る文多し。一字として読残すことなしと
広言をはき
自讃す。然ば古き文にいはく、貞応元年の冬高麗の乗船越後の国寺泊の浦へ流れより、此荷物を鎌倉将軍へさゝげ奉る。是を見るに、品さま
〴〵知れぬ道具多し。されば形を以て大形はすゐりやうに知られたり。其中に帯一
筋有り、絹を以て是をくむ。皮帯の中央に銀の
札有り、長さ七寸広さ三寸なり。其中に銘を注する事四字あり。世点茉族此四字の銘においては、文士参集せしめ見るといへども、是をよむ人なしと記せり。愚老幸かな、是を正慶に見せければ、読事あたはず。兼ての
放言虚笑となりぬ。
見しは昔、十年已前の事かとよ。江戸町のうちにひとりふたりのり物に乗り、異様を好みよぜいして往来するものあり。是をみて其町人は申に及ばず、よの町衆までも、他の
非を
疾み腹をすゑかねて云ける様は、乗物にのる人は智者上人高家の面々、其外の人達にも位なくては乗りがたし。されば、江戸町には奈良屋、樽屋、北村とて、三人の年寄あり。町の者がのるならば、先此等の人こそのるべけれ。人もえしらぬ町人の分として、上もおそれず世のひけんをわきまへず、推参やつめが
振舞かな。あはれ我人に路次にてさはれかし、こととがめして、よりあうて乗物をふみ破り自慢顔する男めを、海道にふみころばし頭をもたげさせず、物はきながらむず
〳〵としやつらをふみたくり、土にまみれて見たもなき姿を、往来の人に見せばやなんとてしかりつるが、今みればいかなる町人も乗と見えたりといへば、かたへなる人の曰、義は宜也、時の宜にしたがふといへるなれば、当世流行物たれとても乗りて見よきなり。さればせつなの栄花も、こゝろをのぶることわりを
思へば、
無為のけらくにおなじ。
寿命は
蜉蝣のごとし、あしたに生じてゆふべに死す。今時の風としてひつこみじあん一
期人にえならず、一生は夢のごとし、誰か百年を送らん。一日さへながらへがたき露の世にの前句に、友とぞ見まし
槿の花と兼載付給へるこそ殊勝なれ。松樹千年つひに朽ちぬ、
槿花一日おのづから栄えたりなど云て、高きも賤しきも
乗輿する所に、此由
公方に聞召し、慶長十九年御法度被仰渡趣、
雑人ほしいまゝに乗輿すべからざる事
古来其人に依て、御免なく乗家有之、御免已後乗家有之、然るを眤近家老諸卒に及ぶ迄、乗輿誠にらんすゐの至りなり。向後に於ては、国大名以下一門の歴々并医陰の両道、或は六十以上之人、或は病人等は御免におよばず乗るべし。国々の諸大名の家中に至りては、其主人仁体をえらみ吟味をとげ、是をゆるすべし。みだりに乗らしめばくせ事たるべき者也。但し公家、門跡、出家の衆は、制のかぎりにあらずと云。是に依て今は諸人仔細なくして乗輿することあたはず。
【 NDLJP:294】
見しは今、江戸町に五官といふ唐人あり。此者云けるは、世界広き国の中に、此
葦原国は名にしおうたる小国なり。
其かみ一つの
蘆生たる故
蘆原国と名付、又いざなぎいざなみの出世の
時、砂を集て山となす、其砂の跡なるがゆゑ、
山跡の国ともいふ。また日本の地形は蜻蜓といふ虫の両つばさのべたるが如し、故に
秋津島と名付たり。扨又天竺に一つの山あり。わしに似たる故、
霊鷲山と名付。
天竺には山一つを鳥にたとへ、日本国を虫に
譬ふるも大に替りたり。仁国経に十六の大国五百の中国、十千の小国無量
粟散国あり。世界にかくのごとくの大国有り、故に
金翅鳥といふ鳥は、其つばさ
金色なり。
両翅相去る事長さ三万六千六百里あり。荘子に呼て大鵬と名付、大鵬つばさをのべて十州におよぶともいへり。
鷦鷯といふ小鳥深き井に巣をくふ。食する事一日に半粒をすごさず。
舎那といふ鳥は
芥子一粒を七日にめぐりきる、松の葉一つに九億の鳥ども集りて巣を作る。大国にはかゝる大小の鳥類ありけり。此国はぞくさん国のうちにして、中にも粟なからほどの国なればとて、片州とは名付たり。誠に見ても聞ても小国なりと笑ふ。日本人是を聞て
愚なる五官のいひ事ぞや。世界に国多しといへども、
天竺、
唐土、
日域をさして三国といふ。それはいかにとなれば、天竺を
月氏国と名付、唐土を
震旦と号し、我朝は南州といひながら、辰巳にて日の境なる故、日輪をかたどりて日域と名付。ゆゑに大唐を
日没所といひ、日本を
日出所といへり。扨又天竺にては
陀羅尼をとなへ、震旦にては
詩賦をうたひ、我朝にては是を和らげて三十一字の歌とせり。然れば此国を倭国ともいへり。伝へまほしき此大和歌といふ前句に、もろこしもはぢぬ計りの君が代にと、兼載つけ給へり。又大日の本国と云うて、大日本とも名付られたり。青海のうへに先此島うかみ出、其後天竺唐土其外万国皆ひらけり。此三光の恵なくして、いかで万物生ずべきぞや。古歌にあはじしまおのころ島の顕れて、我すべらぎの御代ぞ久しきと詠ぜり。其上我朝は神国たり、仏法繁昌せり。昔より三国つたふる法の水流れてすめる四つの海なりとよめり。はんぎのまつりごとおだやかにして、慈悲の清水上よりおつれば、下もにごらぬ流れをくむ。後深草の院の御歌に、石清水ながれの末のさかゆるはこゝろのそこのすめるゆゑかもと、詠じ給ふの有がたさに、あまねく
仁義礼智信を専とし、国とみ民豊かにさかえ、一天に風治り、四海浪おだやかなる事、誠に国は治めざるに治まるとは、今将軍の御時代なり。他国より
御調の船毎年おこたる事なし。五官是を見るといへども、其わきまへもなくこと葉をもらすの愚さよ。小国たりといへども、三国超過する我朝也。十六の大国五百の中国にこえ、尭舜の御代にもまされるとかや。
見しは今、江戸寺町の
門前に
道見といふ
沙弥あり。此沙弥いひけるは、我等此頃釈迦達摩の夢まぼろしに付そひ、いにしへしやばにて修行の有様目の前に顕し、扨もの語りし給ふといふ。愚老聞て、是はきとくなり、釈迦達摩の物語聞かん。道見答て、夫元来を尋ぬるに、こくうは鶏のかひこのごとく
【 NDLJP:295】成るが、すめる物は自然におほうて天となり、にごれるものは下りて地となる。扨天地とひらけたり。その中に理といふ一物あり。此理則陰ととりり五行とわかつて万物生ず。されば此理体をば不生不めつの体とも、又は仏とも名付たり。然るに釈迦は五百ぢんてん久遠実成の古仏といへども、
衆生まよふ故、利益方便にかりに分身して、しやば往来八千度、難行苦行の有様を、目前にあらはせり。其後荘王九年四月八日、天竺まかだ国くびらじやうにて賢国樹の木下にて、まやの右の脇より生せり。
天龍下り水をそゝぎしかば、其時四方へ七歩して天上天下
唯我独尊と指をさしゝよりこのかた、三十年修行のていたらくを爰にあらはし、扨わづか成る
方丈に、八万の大衆をとり入れ説法し給ふ。夫人間は一日の内に八億四千念あり。念々につくりとづるは是三途のごうなり。かるが故に、けごんあごんほうとうはんにやほつけねはんと、四十九年が間、人気に応じて八億四千のけふくわんをとかれたり。又或時は、世尊一花をねんじて衆生に示す。八万の大衆、十大御弟子も是をば心得ず。もくぜんとふる処に、
迦葉一人
微笑せり。其時
世尊不立文字教外別伝、まか
迦葉に附、属といへる木は、時をしりてれいらくし、
時をしりてひらく。是は元来古仏のこゝろ
桃李ものいはずゑみを含む所、りよふせんの
迦葉好知音の所なり。然れば
世尊生者必めつのことわりを衆生にしめさんが為、七十九歳にてしやうそう樹の元にして、かりに病の床に、
頭北面西にして臥れたり。
耆婆大臣が医術医方もえきなし。ねはんに入せ給ふべしといへば、一
切衆生、
草木、
国土、
螻蟻、
蚊虻、
蠢動、
含霊のたぐひ迄も、集りて釈尊まつごにいたり、仏にならんずる大事のさとりをやをしへ給ふべきと、耳のあかを払ひ是を聞かんと相待つ所に、
世尊大音をあげ、一代五時せつけう、一
字不説といひて、
二月中の
五日に
入滅せり。五十二類、
非情草木、かうがのうろくづにいたるまでも、是を聞て力をおとし、仏に成るべき便りなしとて、呆れ果てたる有様なり。扨あるべきにもあらざれば、皆々たいさんしておのれ
〳〵が
栖にかへり、たゞあんかんと夜を明し日をくらす。然るに人皇三十七代けいてい天皇の御宇に当て、
達摩天竺より諸越に渡る。梁の武帝普通元年庚子の年なり。達摩は南天竺、香至国王第三の王子、釈迦より此年に至て一千四百六十九年なり。此達摩の曰、我より以前釈迦と云人
雪嶺に行て、六年修行たへさせられしときく。此人定力がつよかりしにつき、かつきて、苔ひざをうがち、鳩、すめる耳ひたひに巣をくひつるが、雨気などに鳩の鳴声が時々は耳にかしましといはれたり。げにもさも有りぬべし。世尊六さいしゆぎやう、明星げんずる時、こつねん大悟といひて、自己目前のさとりを得られた。我もちと修行とやらんをして見んとて、達摩熊耳山中に入て眼を壁におしあて、九年有つれば、眼の上ぶたが腐りたり。又ねぶたさのまゝ引きちぎり捨てられたともいふ。是は一口両舌なり。扨又耳の左右を、あり、きり
〴〵すが行きかよひて、おのれが
栖とせしとなり。是も秋になれば、きり
〴〵すの鳴声がちと耳にさはつたといはれた。然れば達摩九年面壁、ゐんらく三更の雨、きんくわい六月の霜と、六
根浄を得て、肉眼のまゝにて三千世界を一目に見、大乗の法門に於ては、
直指人心見性成仏と談ぜり。
【 NDLJP:296】かく明眼の人成るにより、今時さいかとうかなどの寺に、ゑぞう木像に作りてみえたる、おもてにくしに、眼の大なる顔相、生身の達摩によくも似たり
〳〵と云て、から
〳〵とうちわらふ。皆人聞て世にもふしぎ成る道見が夢物語、有りがたしといへり。
見しは昔、愚老若き比関東にて、をのこの額毛頭の毛をば
髪剃にてもそらず、けつしきとて木を以てはさみを大にこしらへ、其けつしき頭の毛をぬきつれば、かうべより
黒血流れて物すさまじかりし也。頭はふくべの如くにて、毛のなきを男の本意風俗とす。扨又髭はえたる人をば、面にく体髭男と云てほむる故に、皆人髭を願ひ給へり。されば建久三年壬子十月三十日鎌倉に焼亡す。
牧三郎宗近が家より出来たり。折節宗近他所にありしが、煙を見て走向ひ、きやうを取出さんと欲する間、左の方のほう髭を焼と云々。諸人沙汰し給ひけるは、
唐国たいそうの髭は薬を給るの
仁にたち、我朝の宗近が髭は経ををしむの志を現はす。焼所は同じけれども、用る所は相ことなるものは、宗近は髭を焼きて旧記にのり、名誉をあらはせり云々。髭はえたる人はじまん顔して、気晴れては風
新柳の髭をあらふと、作れる詩の心も面白し。昔頼義さだたふむねたふをせめられし時、度々に及んで十人の首を髭ともに切りたる剣あり、故に髭切と名付。源氏重代の宝劔、奥州の住人文寿と云かぢゐたり。此等も髭のゐとくならずやなどと云ひて、明けくれ髭をなであげなでおろしひねり給ひけり。又ひげはえぬをばをんなづらと云てあざらひ笑ふ。
催馬楽にけふくならとは髭なきことゝ有り。万葉に、かつまたの池はわれしる蓮なししかいふ君が髭のなきごととよめり。しかるに髭はえぬ男は一
期の片輪に生れけることの無念さよ、女づらと見らるゝ口惜さよと人の余所言いふをも、我髭のとがとはづかしさのおもひ内にあれば、色顔にあらはる。されば天正の頃ほひ、小田原にて岩崎嘉左衛門、片井六郎兵衛といふもの、ざれごとを云あがりいさかふ。嘉左衛門が
髭なし、六郎兵衛あの
髭なしと悪口しければ、即時にさしちがへ死たり。さる程に男たる人の髭なしといはるゝは、おく病者といはるゝ程のちじよくに思ひ給へり。故に髭なき男は、あはれ髭はゆるものならば、身をしろかへて毛髭をはえさせばやとねがひたる。此十四五年此方頭に毛のなきを、
年寄のきんかつぶり、はへすべりなどと、あだ名を云て若き人達笑ふ。扨髭はえたるつらはどんなるつら、えぞが島の人によく似たりと云ならはし、上下の髭残さず
毛抜にてぬき捨る。
然間笠を著、頭包みたる人をみれば、法師とも男女とも見分がたし。されどもむかしに返る事も有るべければ、異相なる人ありて、頭毛をぬき髭をはえさせたらんには、皆人髭はえて昔男のなりひらとやいはん。
聞きしは今、さんぬる六月十五日炎天の事なるに、
玄好法師と云人申しけるは、けふは頭うづきもたげられず、わるゝ心ちこそすれ、明日は大雨ふらんといふ。愚老聞きて、夫れ人間の
五体は天地にかた
【 NDLJP:297】どれり。故に天くもれば人の心もう
〳〵として頭うづく人もあり。是頭風の病なり。痾をのぞくといふは魏の
曽公頭風を病時、
陳琳といふ人頭風のやむ
檄書を作りて曽公に見せしむ。是をみて薬用ひ頭風平愈すといへり。医者に聞て此薬を用ゆべし。扨又今日は白昼
炎天なり。旱ゆゑ頭いたみなば、
頭巾をかぶり給へ、昔大唐に大旱の有し事あり、人の頭を照りわり往来することなし。帝よりろさんじの
恵遠禅師を召れ
雨乞を祈らせ給ふ時に、忝も帝御衣の袖を引きむしり法師が頭にかぶらせ、御手をのべさせ給ひ水といふ字をあそばしけり。夫よりもうす始まれり。故に帽子の上のひたの姿水の形なう。其方頭早にてうづくならば、只々頭巾をかぶり給へと教へければ、玄好聞て、いや我頭は照る曇るによらず頭うづけば、明日はかならず雨か雪かふると云。我聞きて夫は誠しからずとあらそひけるに、あくる日大雪ふり、後は大雨になりたり。此不審晴れがたしといへば、老人聞て、夫一年に四時あつて寒暑時をたがへず。されども夏さぶくして
雪雹ふることあり。冬あたゝかなることあり。是等は知れぬまれごとなり。いでさらば昔六月雪丸雪ふりたることどもを語りて聞かせん。人皇十一代垂仁天皇十四年
乙巳みちのくに赤雪降る。三十四代推古天皇二十四年
丙戌六月晦日大雪、三十六代皇極天皇二年
癸卯四月丸雪一寸降、天平四年
壬午六月奥州に赤雪あつさ二寸、同六月京中に飯ふる。宝亀七年
丙辰九月廿日石瓦雨のごとくに降る。同京中夜毎に石ふる。仁和元年
乙巳七月砂石ふる。延長八年
庚寅六月八日大雪、永長元年
丙子五月五日
雹大如
㆓梅子㆒。長治二年
乙酉六月二日紅雪五寸、保延三年
丁巳黍ふる。其色黒く
葉〔本マヽ〕ふるての葉のごとし。承久二年
庚辰雪ふらず。三年正月十一日薄雪降る。是を初雪とやいはんと鎌倉中諸人沙汰せり。安貞二年
戊子六月九日信濃高田庄に大雪、同十月十六日夜石雨のごとくふる。件の石一つ鎌倉殿へ奉る。大柚のごとくしてほそ長し。寛喜一年
庚寅六月九日濃州に大雪ふる。同七月十六日霜冬のごとく降る。建長二年
庚戌正月三日下総
結城郡に麦ふる。文永三年
丙寅二月一日泥さがみに雨のごとく降る。永仁三年
乙未四月廿四日丸雪降る。康安三年
辛丑六月廿二日大雪、文安元年
甲子三月二日大豆小豆ふる。世俗是を植るに生えたり。同年四月十日大丸雪ふる、大梅子。文明九年
丁酉七月紅雪一寸、水正十年
丙子四月十一日大雪、大梅子。天正十九年
辛卯六月廿八日大雪ふる。
件のことは年代記
東鑑に見えたり。扨又玄好が頭にふしぎ有とて、此一人をえらみ出し天下の人に論ぜんはひがごとなるべし。凡天道は広大にして一人のために寒熱風雨を改めず。仏平等説如一味雨随衆生性所受不同と薬草ゆぼんに説かれたり。大雪に雨は分ちてふらねども受くる草木はおのがしな
〴〵と僧都源信詠ぜり。故に一
切善悪あつて
思量することなかれと古師もいへり。世間のならひとして道理に叶ひさうなることか、さもなく字面にあふべきことが相違し、違さうなることが、
啐啄する事のみなり。狂歌に、
長からんさゝぎの花はみじかくて短き粟の花の長さよと詠たるは理を尽せり。
淮南子に云、菟子、根なくしておひ、蛇、足なくして行き、魚、耳なくして聞き、蝉、口なくして鳴く、皆是自然の道理なり。すべてあふもまうざう、あはぬもまうざう、此理心得なき人がもの言
【 NDLJP:298】にふしんを立つる、知人に
不審なし。あへて
妄想なかれと申されし。
見しは今、人間のたのしめる本を尋ぬるに、財宝にしかじ。故に福貴をねがひ身よろしく成にしたがひて欲心かさなり、
今生にいつまでもあらばやと
願をかけ、
後生のことをばうとみはつるなり。或老人申されけるは、浮世のはかなきことは夢まぼろしのごとし、日月の鼠とは無常の譬へなり。経に云、王に逃人有酔象を以て是を追はしむ。にぐる道に枯れたる井あり。此井の中へこゝろならず落入りぬ。わづかなる草の有にとり付て、底へも落ちずかつ此草に取付ながら、井の底をみやれば、大蛇ありてくらはんとす。然るに黒白の二鼠来て此取付たる草の根を代る
〴〵かぶり喰ふ。此草の根絶果なんこと唯今なり。かゝる所に井の上に木あり、しづく口の中へ落入あまきことみつのごとし。この露のあまきに着して彼是のうれひを悉わするゝと云へり。たとへば王とは我身の作る処のざいごふなり。すゐざうとは無常の使なり。枯井は悪道なり。草の根は命の根なり。二鼠は日月なり、光陰なり、大蛇はごくそつなり。
蜜滴は五欲のたのしびなり。一切衆生罪あるも罪なきも無常の使の昼夜に追立もしらず、日月の身にせまることは、かの草の根よりも程なし。只今かの草の根のごとく、命根絶えなば、悪道に落付て、ごくそつのかしやくを蒙らんと云事、人々しるといへども、かのみつてきのごとく、眼耳、鼻、舌、身、意の六根ことふるゝ所の
愛欲にとんじやくして、只今なる苦しみ忘るゝといふたとへなり。黒白の二鼠は、
経論の説皆日月なり。此心を俊頼卿の歌に、我頼む草の根をはむ鼠ぞとおもへば月のうらめしきかな。扨又後京極の歌に、後の世に
弥陀の
利生をかぶらずばあなあさましの月の鼠やとよみ給へり。誠に此ことわりを聞に付ても、道なき
事を弁へず、
罪業のみに明しくらせるは、是愚なるこゝろなり。古人は清貧にしてたのしみ、
濁富にしてかなしび多しといへり。伝へ聞く、はうこじは持ちたる宝を船につみ海へ捨て、どくしんに打成て世をたのしび給ふ。扨又九年已前の事なりしに、われ知る人多気九郎左衛門と云ひし人は、江戸本両替町に家屋敷有り、福徳にしてしかも若き人なりしが、湯島の寺におはしける
称往上人のけうげを聞き、
後生こそ大切なれとて、持たる財宝打捨髪をそぎおとし
西誉一入と改名し、
念仏三昧の
行人となつて師弟ともなひ国々をめぐられしが、
死期を待つこそおそけれとて、伊勢の国わたらひの郡ほだいせんといふ処にて、慶長十二年
丁未五月廿五日にしやしんし、師弟同じ日果てられたり。皆人是を見、此由を聞てゑんりゑどごんぐ
浄土不惜身命往西方のけうげなれば、有がたしといひける処に、長生といふ人聞て、いや
〳〵此こゝろには大に相違せり。新古今に、うきながら猶をしまるゝ命かな後の世とてもたのみなければと、よめり。此歌
殊勝なり。夫命といつぱ、三千大千世界にみちたる大切の宝なれば、我は此世に千年
迄もあらばやといふ。愚老是を聞き、あら面白の御沙汰どもや。
龐居士は世をのがれてたのしび、九郎左衛門は死て後の世をたのしみ、長生は此世をたのしむ。いづれを是とやいはん非とやいはんと、此義をたつとき御僧に尋
【 NDLJP:299】候へば、是非の理誰か是を定めん。いづれもたふとしとぞのたまひける。
見しは今、年久国治り万民安穏に栄え目出度御時代なり。然処に当年秀頼公逆心に付て、江戸より御出馬され大阪落城す。いよ
〳〵天下太平弓矢治り
閑なる御世上なり。されども文武二道をわするときんば、必国乱るといへる本文有り。万事常に油断ありて其乱にのぞんでなさんとほつする事、軍みて矢作るがごとし。然るに将軍家諸侍の
御法度を大阪御城に於て仰触らるゝ旨、則是をのせ奉る。
一文武弓馬の道専可㆓相嗜㆒事。
文を左に武を右にするは古への法なり。兼備へずんばあるべからず。弓馬は是武家の要枢なり。兵を号て兇器とす。やむ事を得ずして用ゆ。治にも乱をわすれず。何ぞ修練をはげまざらんや。
一可㆑制㆓群飲佚遊㆒事。
令条に載る所、厳制殊に重し。好色にふけり博奕を業とするは、是亡国の基なり。
一背㆓法度㆒輩不㆑可㆑隠㆓置於国々㆒事。
法は、是礼節の本也。法を以て理を破り、理を以て法を破らず。法を背くの類其科軽からず。
一国々大名並諸給人、各相㆓抱士卒㆒有㆘為㆓反逆㆒殺㆓害人㆒告者㆖、可㆓追出㆒事。
夫野心をさし挿む者は、国家をくつがへす利器、人民を絶つの鋒劔也。あに許容するにたらんや。
一諸国居城雖㆑為㆓修補㆒、必可㆓言上㆒、況新規構営堅令㆓停止㆒事。
城の百雉に過ぎたるは国の害なり。塁を峻くし湟を浚くするは大乱の本なり。
一於㆓隣国㆒企㆓新義㆒結㆓徒党㆒者有㆑之、早可㆑致㆓言上㆒事。
人皆党あり亦達する者少し。是を以て或は君父に順はず、たちまち隣里に違ふ。旧制を専とせずして、何ぞ新義を企てんや。
一私不㆑可㆑結㆓婚姻㆒事。
それ婚合は阴阳和同の道なり、容易にすべからす。睽に云、寇あるにあらずんば、婚媾してんと志し、将に返さんとすれども、寇有則は時を失ふ。桃夭に曰、男女正を以て婚姻時を以てすれば、国に鰥なる民なしと、縁を以て党を成すは、是姦謀の本也。
一衣裳之料不㆑可㆓混乱㆒事
君臣上下各別たるべし。白綾、白小袖、紫の袷、紫の裏練、無紋の小袖、無紋の小袖、御免なき衆みだりに着用有るべからず。近代郎従諸卒綾羅錦繍等飾服古法にあらず、是を制す。
一雑人恣に不㆑可㆓乗輿㆒事
古来其人に依て、御免なく乗家有㆑之、御免已後乗有之。然るを近来家老諸士におよぶまで、乗興誠【 NDLJP:300】に濫吹の至りなり。向後においては国大名以下一門の歴々、并医陰両道或は六十以上の人、或は病人等は御免に及ばず乗るべし。其外眠近の衆は御免以後乗るべし。国々諸大名の家中に至りては、其主人仁体を撰び吟味をとげ、是を免すべし。みだりに乗らしめば越度たるべき也。但公家門跡諸出世の衆は、制の限にあらず。
一諸国諸士可㆑被㆑用㆓倹約㆒事
富者愈ほこり、貧成者は及ばざる事を恥ぢ、俗の凋弊是より甚しきはなし。厳制せしむる所也。
一国主可㆑撰㆓政務器用㆒事
凡国を治むる道は人を得るにあり。明に功過をさつし、賞罰かならず当る。国に善人有則者、其国弥殷なり。国に善人なき則は、其国かならず亡ぶ。是先哲の明誡なり。右可㆑守㆓此旨㆒者也。
慶長十九極月日
かくの如くの御法度天下の諸侍違背せんと云事なし。いにしへ月氏国の照尭、震旦の魏文、日域の聖徳是らの先徳、文を以て世を治め給ひぬ。今の御時代普ねく文を厲し、武をたしなんで五常を専とせり。其上将軍家仏神を信敬し給ふ。数百年天下治らざるに依て、日本国中の霊寺霊社絶果野干の栖となる処に、絶えたるをおこし破損を再興有て、先例を尋とはしめ給ひ、皆悉御黒印を以て寺領社領を出さるゝ事、あげてかぞふべからず。夫天台山は王威の鐘守として八百五十余年におよび、我朝第一の霊山也。此山めつばうせば、国家もめつばうせんと大師の給ひけるに、永禄年信長焼亡ぼし、既に絶えはてたる跡を、又あらためて寺領をあておこなはる。御教書に云、比叡山延暦寺領、近江国志賀郡内所々都合五千石〈目録在別書〉事、永代令㆓寄附㆒畢、全可㆑被㆓寺務㆒之状如㆑件。
慶長十五年七月十七日山門三院執行代
右のごとく御政道たゞしくおはし候ゆゑ、仏法主法繁昌なし、四海遠く浪の上汝もおだやかに、万民たのしびあへり。詞花に、君が代は白雲かゝる筑波根の嶺のつゞきの海となるまで、久しかれとぞ祝し申しける。
見しはむかし、江戸繁昌のはじめ、天正十九年
卯年夏の頃かとよ、伊勢与市といひしもの、銭瓶橋の辺に、せんとう風呂を一つ立る。風呂銭は永楽一銭なり。みな人めづらしきものかなとて入り給ひぬ。されども其頃は風呂ふたんれんの人あまた有りて、あらあつの湯の
雫や、いきがつまりて物もいはれず、烟にて目もあかれぬなどと云て、小風呂の口に立ふさがりぬる風呂を好みしが、今は町毎に風呂あり。びた十五文廿文づつにて入るなり。
湯女といひてなまめける女ども廿人三十人ならび居て、あかをかき髪をそゝぐ。扨又其外に、ようしよくたぐひなく、こゝろさま優にやさしき女房ども、湯よ茶よと云ひて持来りたはむれ、うき
世語りをなす。かうべをめぐらし一度ゑめば、
百のごひをなし
【 NDLJP:301】て男のこゝろをまよはす。されば
太公望が敵を計るに、利を好む者には
財珍をあたへて是を迷はし、色を好む者には
美女をあたへて是をまどはせとをしへしも、おもひしられたり。よくあかぼんのうふかき吉原町の古狐にはばかされて、今宵こん明日の夜もこう
〳〵といひかたらひて、皆人あつ風呂を吹きあへり。
野干と書てむば玉と読めり。狐は百歳をへぬれば、うばの姿になる故也。
順が
和名に鳥羽を
射干とかく。此声をもて野干と書といへり。白氏文集第四
新楽府に、
古塚の狐
姙じてしばらく老いたり。好人と化して
顔色よし。見る者十人に八人は迷ふといへり。誰はからるゝなるべきと宗長前句をせられしに、さらに若狐のかよふ影にしてと、
宗碩付られたるも思ひ出せり。扨又狐と女とは元来一生にして人をまどはす情有り。遊女を愛する事古今の例たりといへども、世にこえてもてあそぶときんば、いたづらに財をつくし、或は家を失ひ、或は命をやぶる、つゝしむべき事なり。
聞しは今、尊きも賤しきも謡うたはぬ人なし。上かゝりをうたふ人あり、下がかりを好む人ありて、こゝろ
〴〵うたひ給へり。此頃は
観世左近大夫かゝりとて皆人うたふ。此左近大夫は観世の家始て、
前代未聞謡の名人と天下において沙汰せり。然れば
岡崎左兵衛と云ふ人、愚老の宿へ来たり云やう、
昨夜其方所へ
観世左近大夫来り、
謡あるよしほゞ聞て、やれ夫は誠か嬉しや謡を聞くべしと、是へ来りたり。我此謡を聞覚え、水いらずの観世ぶしを謡ひ、人にほめられ利口をいはんと思ひ聞所に、福王大夫脇にて
熊野を一番うたひたり。此内に珍らしきふし一つもなし。あらなにともなや不審におもひしに、二番目左近子息三十郎
忠度をうたひたりしが、声もよくちと替るふしもありつるが、是計にては残り多き事哉。今一番聞かばやと願ひしに、左近大夫又松風をうたひ出したり。あらうれしやはじめのゆやの時は、我此事聞きあへず宿より遠き道をいそぎ、息をもつきあへず来るゆゑ、むねとゞろき心閑ならねば、おぼろにこそきゝつらめ。此松風にて替るふしを覚えんと、耳をそばだてこゝろをしづめてきゝしに、是にも珍らしき節面白き音曲一つもなし。何故に左近を謡の名人と天下にする事ふしん千万なりと云。愚老聞て、愚なる人の云事かな、世上に万上手の名をうる事、その道をよく知る人ありてほむる故に、あまねくその聞えあり。万の道をば道が知ると云て、
吉野龍田の
紅葉、
須磨明石の月の詠めは、其里人はしらねども、歌人是を知らざるほどに、ものゝ上手は下手にほめらるゝをかなしみ、そしらるゝを却て悦び給へるといへば、
有識の人聞て、我聞及しは観世左近大夫
若年の頭、つくづくおもひけるは、我家の道万事の品有て事広ければ、さらに善悪の道理弁へがたし。古人も学ばずんば道を知らずといへり。論語に、切するがごとく琢するがごとく磨するが如くと云々。
夫謡の神代より始まれりとなれば、もとを勤ずんば有るべからずと、先神道の仔細を尋ね、其後儒道歌道にもとづき、仏道に心をつくし、
悟道はつめいして後、我家の道に取付、是を委しくせんさくするに、謡一番の次第、ふしはかせをうかがふに、
天地阴阳万物に相応せずと云ふ事なし。謡といつぱ、かれい
延年の
法、
【 NDLJP:302】世の為人の為、我家の道なれば
分明せずんば有るべからずと、こゝろをくるしめ骨をくだき、日夜
朝暮、寸陰ををしみ分陰もけたいなく、年久敷是を
詮索し、言句の内をも悪をのぞき善をくはへ、きうしやうかくちう五音の位に、直なるふし、そるふし、すくむふし、ゆるふし、のるふしの味ひを分明し、末代愚人の為とてあらためて句にしやうをさし直し、希代の名人なり。扨又口あひのてにはの次第に四十五字の品あり。すべて五調子をしる事
肝要なり。なかんづく
呂律を専とす。呂は
歓の声、律はかなしびの声なり。羽黄越のみ
調子は呂の音とす。是をば地につかさどる。其上一
調二
機三
声といふならひあり。座席をうかゞひ時の調子をうたひ出し、文句にこゝろを付、大夫を花のしんとし、役者を
下草とこゝろえ、
序破急の位をそむかず、大竹のごとく直に、ふしすくなきを本意と謡ひ給へり。是に依て左近大夫を天下の名人と申伝へたり。僧
祖可が詩に、琴むげんに至りて聞者稀也。古今たゞ一
鍾期あり。いく度か
陽春の曲をぐする事をぎす。月きよだうにみちて指をくだす事おそしと作れり。琴を弾き琴を聞くもの多けれども、至極の所に至りてはかならずまれなり。
伯牙が琴の音聞知るはたゞ鐘期一人のみなり。
阳春の曲は歌の極位にしてとなへがたし。謡も左近大夫がごとくうたふ人有るべからず。是を又聞知る人まれなるべし。故に
子期去て
伯牙絃をたつ。そのかみ
伶倫と云人は耳とき人にて、一里の外に蚊のをどる
脚音を聞く。黄帝みことのりして音律を作らしむ。こんろんざんの北に行て、かひこくに生たる竹をとり、ひちりきをつくり、
鳳凰の声を聞きて六律をなし六
呂をなす。十二律をもつて十二の楽を作りたり。此呂律に能く通ずれば、鳥獣の声を聞きしる。公冶長は鳥雀の声をしり、りうさんふくは馬語に通ずる。我朝の仲国はさがの
法輪へ
小督のつぼねを尋行き、夫をおもひてこふると読む、
想夫憐といふ楽を聞知りたり。今の時代呂律を知る人も聞人もまれなるべし。我身不能にして人の智恵ある事を知らずと、古人もいへり。
観世左近大夫謡ふを、岡崎左兵衛いかで聞知らんやと云り。