【年始より祥瑞あり】旧冬廿九日、夜に入る迄も雨天なりし故、元朝の天気如何あらんやと思ひしに、思の外に快き天気となりぬ。二日も同じく晴渡りて、当年も豊かなる瑞相を年の初に顕れぬる事のいとめでたくぞ思ひ侍べる。斯る瑞祥の現れぬる年柄なれば、人間の私を以て好悪なる業をなせる者なくして、天理人事に背く事なくば、天下も太平にして四つの海も浪立たぬ様にはなりぬべし。昨冬の事なりしが、太上天皇よりして、関の東へ贈らせ給ひしといへる御詠歌を承りしに、
民草に露のなさけをかけよかし治まれる世を掌る身は
と御詠ませられしとなん。三日曇晴定まらず、暮前よりして雨少しく降出でしが、初更過に至りて雨止みぬ。四日晴、当春の淀屋橋南詰にて米の初相場を定めぬる直段書を見しに、
【米穀初相場】筑前米六十一匁八分 同古米六十七匁五分 肥後米六十二匁五分 同古米六十五匁 同餅米九十五匁 中国米六十二匁五分 広島米五十七匁五分 肥前米六十一匁七分 讚岐米五十三匁五分 備前米六十一匁五分 淡路米六十五匁七分 筑後米五十八匁 豊前米六十匁八分 薩摩米六十九匁 岡米五十五匁 柳川米六十三匁五分 中津米六十二匁五分 伊予米四十八匁 米子米五十二匁五匁 出雲米四十六匁 岡大豆七十五匁 大洲大豆七十二匁 帳合寄付六十一匁八分より二匁 金銭相場六十匁七分九匁
越後小千谷春相場【越後小千谷春相場】
一、米四斗四升俵金十両に付三十俵 一、大豆六斗入二貫五百文 一、小豆六斗入一歩三朱
一、金相場六貫五百文
【九州中国の豊饒】近年諸国凶作なれ共、九州・中国は豊作にて多くの米穀を占囲ひ、過分の金儲をなせし上、昨年は取分豊作なるに矢張占売になして大に利を得し事故、農商共に鼓腹して楽しむと見えて、正月の末より伊勢参宮に出来れる者其数限りなく、先年の御蔭参りに異ならず。
【各所の開帳】当月初より京都を始め所々に開帳ありしが、京都・近江・石山・三井寺等は参詣人大に【 NDLJP:186】群をなして仰山なる金儲せしといふ。中山・甲山・摩耶山・西宮・人丸等の開帳は、散々の事に参詣する人甚だ稀にして大損をなせしといふ。中にも明石の人丸の開帳には狂女有りて髪を取乱し、参詣の小児に喰付きし事ありしにぞ、「鬼出て人を食ふ」とて其悪説を頻に言触らせしかば、愈〻参詣もなかりしといふ。
【各所の砂持】五月上旬より北神明・堀川の蛭子・霊府の稲荷・平野町の神明・博労町天皇の御旅所・茨・住吉等に砂持あり。中にも北神明には堂島の者共大に踏込みて、血汗を流し黄金を費し、大働にて所々に
【九州中国の大風雨】同四日・五日、九州より中国筋至つて大風雨にて洪水出で、筑前・筑後等は、水家の棟に及び多くの家を流す。され共人は格別損ぜざりしといふ。筑前は田地二万石計り流失せしといふ。長門も同様の洪水なりしか共、至つて水捌けよき所故、家も田地も損ぜざりしといふ。安芸・備中・備前等何れも少々宛の水損あり。備後にては山崩れ、其辺の人家は残らず押潰し押流し、人死八十三人・田地四万石計り流失し、悉く河原と成りしといふ。
【諸々の天変地異】信州上田も其頃なりしが、先年の浅間焼の如く山より火燃出で、石を飛ばし砂を降らす。其辺の家悉く焼失す。されども人死はなかりしといふ。同じ頃江戸大に地震せしとぞ。其後の事なりしが、下総の百姓親の敵を討つ。至つて柔弱なる敵にて、名乗掛かると逃出しゝを、後より斬倒せしといふ。【 NDLJP:187】【米価下落し盗賊横行す】米価大に下落し、四月の末五月中旬頃迄も六十一二匁位になる。近来諸国より登りし米も大層の事なるに、当年も気候宜しく豊年の様子なる故也。されども油・炭・薪・紙・臘其余何によらず、悉く高価の事なり。何れの品も之れを占囲へる者ある故なりといふ、憎むべき事なり。又盗賊頻に徘徊し、一市中大に恐れをなす。御仕置も多き事なれども、悪徒絶ゆる事なし、歎くべき事なり。
【物価騰貴】七月三日晴、今日に至り時候の模様土用相応にして、始めて天気快晴なり。土用前より雨天続にて、土用に入りては同様にして時候不順なるにぞ、忽ち奸商等時を得て米価を無上に引上げて、一と頃は九十四五匁となりぬ。近年凶作に依つて越年米纔か七八十万位なりしに、当年は八月半ばに至れ共追々に諸国より登り来りて、有米百四十万計りも有るに、土用半ば過よりして気候も直り、天気も至て宜しく、二百十日も風なく至て穏かなるに、米価は格別減ずる事なく八十五六匁位にて、小売の米屋等には下直には九十二文、高直なるは百十二文位なり。其上二た枡を遣ひ、又桝の底に煉糠を塗付け抔して、不埒なる者共大勢召捕られ、其外紙の価は平常に倍し、是も買占むる者有りて大勢召捕らる。其外油屋・酒屋・臘屋等不正の買占、酒の過造等をなせる者共大勢召捕らる。奸商・悪徒の輩、御政道も厳しき事なれども絶ゆる事なし。炭薪の類も平常に価倍せり。何一つも下直なる物なければ、貧窮せる者共の口過成り難き事なり。
【米価下落】奸商等肝胆を砕いて、米価を無上に引上げんとすれ共、気候聊か申分なくして、米も綿も至て豊作なる故、詮方なくして当月二日には次第下りにて、六十八匁位となる。十九日時々雨。今日主殺の女、御仕置有り。此者玉造与力多期権之助と云へる者の方へ奉公し、【主人殺しの女を所罰す】主人の母親并妹弟三人とも夜中に殺害し金を盗取り、盗賊入りし様に言為し、自若として有りしが、天命逃難くして直に白状に及び、高麗橋東詰にて三日曝され、鋸引の上磔となる。此女牢番と姦通し、此節懐姙月重りし故、金を盗取り借宅せんと思込み、斯る大悪逆をなせしといふ。余りに稀有なる悪者故、之を見んとて男女・老少の別なく、大騒なる見物にて、其辺往来もなり難き程の事なりし。【米価下落】九月に御調になりし処の紙屋仲間・油屋仲間等は、無事に御叱・御利害等にて相済み【 NDLJP:188】しか共、酒屋の過造りせし者共、天満辺にて二三軒闕所となる。又木炭等大に高直なるにぞ、是も買占の者之あるべしとて、木炭の問屋は云ふに及ばず、仲買迄も御吟味あり。大勢押込・他産(参カ)止め等之あり、米は至て沢山の事にて、此節に至りても当年の米の登れるは至て稀にして、昨年の国々にて占囲ひし古米数限りもなく、追々積登せるにぞ、奸商共如何に気をあせれ共詮方なく、米価も次第々々に下落し、当月半ば頃には筑前米一石に付五十五六匁の相場となる。諸侯達も米価下落にて大に算用違ひ、金子を借らんと、町人を対手に種々無量なる仕法立ありといふ事也。
廿四日曇、午の刻より少雨、申の刻より大雨、来春正月に閏月有りて十三日に当月の節に入る事なる故、時候も例年より暖かにして至て暮しよき事なり。中旬よりして天満天神本社の地築始まり、上り物・花角力等にて賑かなる事なり。〈江戸にては所々方々に桜花を開き見物大に群集せしといふ。〉
諸侯所替之儀被㆓仰出㆒。武州川越より出羽庄内へ、松平大和守。越後長岡より川越へ、牧野備前守。庄内より長岡へ、酒井左衛門尉。松平兵部大輔明石弐万石御加増にて十万石の格となる。
【米価と諸物価との調節を失ふ】十二月二十日晴曇不㆑定。近来米価のみ下直にて、諸品高直なる故世間至て淋しく、又盗賊至て多し。町家に於ても鴻池善右衛門手代不埒の事をなし、其掛り多勢入牢し、善右衛門も御召出に相成り、散々の有様なりといふ。是等は町人の事なる故論ずるに足らず。其外種々様々の宜しからぬ事多き事なりし。
当年仕舞相場【米穀納相場】筑前米五十九匁五分 同大豆八十五匁 肥後米六十三反五分 同古米六十二匁五分 同餅米九十八匁 同太米四十七匁 同小麦六十七匁五分 同宇土米六十二匁 中国米五十九匁五分 古米五十八匁 広島米五十五匁五分 同古米五十四匁五分 沼田米六十三匁 田安三木六十八匁 同島下六十四匁 同西成米六十三匁 同有島米六十匁 同河辺米五十九匁 同泉州米五十九匁 弘前米六十匁 肥前米六十匁 同古米六十匁 忍米五十五匁 若狭野米六十八匁 采女米六十二匁 八代米六十二匁 同出口米六十匁 小田原米六十一匁 【 NDLJP:189】大村米五十八匁 秋田米四十二匁 同地廻米四十八匁五分 延岡米五十七匁 城附米五十六匁 同餅米八十三匁 同宮崎米五十四匁 中津米六十三匁 同餅米九十五匁 同筑前米五十八匁 相良米四十五匁 金谷米七十五匁 一橋米六十八匁 唐津米五十五匁 島原米四十五匁 同豊後米四十七匁 加州米五十三匁五分 伊予米四十七匁五分 山形米六十三匁 長門米六十一匁 同粟米六十三匁 岡米五十四匁 同大豆八十四匁五分 備前米六十一匁 同撰米五十六匁 平戸米五十三匁五匁 大洲大豆八十五匁五分 宇和米五十七匁五分 同小豆八十二匁 秋月米五十八匁五分 同餅米九十五匁 米子米五十一匁 日出米五十一匁 筑後米五十一匁五分 同大豆九十匁 姫路米五十七匁 清末米四十七匁米五分 徳山米六十二匁 柳川米六十三匁五分 讚岐米六十匁 淡路米六十九匁 丹後米五十八匁 龍野米五十匁 津山米六十匁 同飛米五十六匁五分 豊前米六十二匁 同生餅米七十六匁 薩摩米六十六匁 林田米七十四匁 佐土原米五十四匁 伊東米五十四匁五分 同精米四十五匁 高鍋米六十五匁 新田豊前米六十匁 出雲米四十五匁 吉田米五十九匁 森岡大豆六十七匁
越年米 百六十一万六千俵
筑前米五十七匁八分 同古米五十四匁五分 肥後米小分一匁八分 同古米六十匁五分 同餅米百目 中国米五十七匁八分 広島米五十三匁八分 肥前米五十八匁 讚岐米五十八匁 備前米六十目 淡路米六十七匁五分 筑後米五十六匁 豊前米六十一匁五分 薩摩米六十五匁 岡米五十三匁 柳川米六十一匁五分 伊予米四十六匁五分 中津米六十三匁 米子米五十匁 出雲米四十四匁五分 岡大豆八十四匁 大洲大豆八十四匁五分 帳合寄付五十六匁五分より五分
正月八日晴、今日川口に於て炭薪を積みし船難風にて覆らんとす。上荷船之を助けんとて乗出せしに、却て其船覆り、船頭九人一人も助かる者なし。春来の寒気近年覚えざる程甚しき寒気なる故、凍死せし様子なりし。
【諸所の大風難船】廿六日の風にて、下関に於て二百艘余りの船を覆し、乗合の人船頭に至る迄一人も助かりし者なく、悉く死失せしといふ、大変の事なり。此日播州室・紀州浦等にても難船あり。其余猶多かるべし。遠州灘の辺は定めて多く有りし事ならん。痛み思ふべき事なり。
【諸色暴騰】近来木炭・紙・油其外諸色至て高価なりしが、春来愈〻高くなりて、雑木一掛七百文余、炭一俵九匁、油一升七百文、上よりして種々に御取調べ之れあり、厳しく夫々へ仰渡され、聊かにても買占致しぬる者は、乍ち御咎を蒙りぬる事なれ共、夫にても下落せず、諸人困じぬる事共なり。又昨冬已来魚類至て稀にして、之迄鰤一尾にて十二三匁位なりしが、二貫五百文位なりしに、春になりて愈〻上り、三貫八百文後に四貫文位に至る。至て下魚にて、下賤の者ならでは食せざる処の【 NDLJP:191】【暴風】閏月廿六日暴風雨にて下関計りにて船二百余艘覆り、船中に乗合せし人々十にして九分九厘迄水死し、波にて海浜へ打上げし人々の死骸又助船にて引上げし死骸等山の如く、岡に積並べ、何が何共分ち難く誠に大変の事にて、無事の船とては下関湊へ繋げる船辛じて三艘計り助かりしといふ。此日紀州沖其余所々浦々にて仰山に船を覆し、人死数多有りしといふ。晦日晴曇不㆑定。江戸西の丸大御所様薨御。二月五日御停止の急御触ある。【肥後の百姓一揆】二月五日曇、午の刻より雨、夜に入り益〻甚し。今日肥後国相良に百姓の一揆起り、城下へ押詰め家老屋敷を打潰す。家老田代善右衛門這々の体にて裏より逃出で走りしが、詮方なく寺院へ逃込み、腹を切りしといふ。 〈〔頭書〕後に至りて、灰屋九兵衛別家英木屋源左衛門に委しく此事を聞きしに、屋敷へ押掛け散々に打崩しぬる故、大に恐怖し、裏道より逃出て或寺へ走込みしが、百姓共次で追付、当人を大勢にて取囲ひ、詰腹を切らせしにぞ、詮方なくして死失せしと云ふ。見苦しき事なりしとぞ。〉一揆の者共は十分に狼藉をなし、速に引取りしといふ。斯る事に至れる事定めて姦曲甚しき家老なるべし。されども大任を蒙れる家老善悪は格別、百姓共の為に斯る事に及べる事相良侯の恥辱此上もなき事にして、公儀はいふに及ばず、他国へ対し面目なき事といふべし。同国八代の城代長岡監物より、近辺の事なる故加勢の手配をなし、二番手の備を用意せしか共、百姓共十分思へる儘に仕おほせし事故、速に引取つて其間にはあはざりしといふ事なり。
【諸士所替を命ぜらる】松平大和守殿・酒井左衛門尉殿・牧野備前守殿何れも所替之儀、旧冬被㆑蒙㆑仰候処、出羽の庄内旧主を慕ひ、所替の儀御止被㆑下候様にと公辺願ひ書を以て、水野越前守・太田備後守・脇坂中務大輔・御大老井伊掃部頭殿・水戸侯等へ駕籠訴訟致し、此儀御取上無㆑之に於ては、領内の百姓一人も不㆑残長岡へ御供可㆑被㆓仰付㆒、此儀も相叶申さず候はゞ、酒井侯の発駕を見送り、領分境に於て一人も不㆑残餓死をなすべしといふ。領内一統大に騒動を〔〈脱カ〉〕神君世を治め給ひてより、以来国替の諸侯其数限りなしと雖も、斯る殊勝の騒動せし事なく、感涙に堪へざる事也。〈余り長文故委しくは別記す。〉是全く侯の憐愍深き故にして、其徳此度顕れし者なり。外の両家に於ては何等の事なし、如何なる事にや。百姓共公儀を重じ奉りて相慎めるにや、又地頭を慕へる心なき事なるや、何とも分り難き事なり。
廿三日午の刻より雨、終夜降続く。御停止被㆓仰出㆒候より、町々木戸〆切にて昼夜自【 NDLJP:192】身番廻り通し、与力・同心総年寄の類、何時となく見廻り厳重の事なり。【春来怪聞あり】今日初て神明六斎の夜店其外も御免なる。春来奇怪の浮説種々の事を申触らす。紀州侯無礼せし小児、其親等を掛川の宿にて斬殺し、箱根に於て鉄炮にて打殺され給ひしなど、先年明石侯の打殺されしを、少し
【諸物価騰貴】昨年来炭・薪・紙・油其外諸色高価なりしが、炭は日向にて五万俵計りも海辺へ積出し、船へ積込む計りなりしに、何者の所為にや之に火を掛け、一夜の内に焼失す。追々人馳集りしかども、塩水計りにて川水なき所なる故、塩水にて之を消せしとて、其炭用に立たざる故、眺めながら詮方なかりしといふ。斯る評判聞くと其儘当国灘辺の者共両三人申合はせ、紀州熊野へ人を遣し炭仰山に買求め、之を船に積込みしに、其船難風に遭ひ、悉く破船せしといふ。新も亦一向に積上す事なく、木一掛七百文より八百文に至り、炭は熊野の小俵一俵二朱、油一升七百五十文、其余之に准じ諸色同様の割合なり。薬種・呉服物等も常に倍し、中には十層・二十層も高価に至る薬品等少なからず、斯様の事は前代未聞なり。
【諸士所罰せらる】十七日晴、未の刻大雨〈御停止御免の御沙汰は之なく候得共、今日より世間緩やかになる。〉今日江戸に於て、若年寄林肥後守殿一万八千石の内、八千石被㆓召上差控㆒居屋敷・家作共被㆓召上㆒、御側御用人水野美濃守殿高八千石の内五千石被㆓召上㆒、居屋敷・家作共同断。新番頭格御小納戸美濃部筑前守、高七百十四石九斗の内三百石被㆓召上㆒、小普請入甲府勝手被㆓仰付㆒、其余奥向女中等の失策も多く有りしといふ。
【天保山改築】五月朔日辰の刻より雨、申の刻大雨夜に入り風。先月中旬に至り御停止緩むや否や、直に川口浪除山〈天保山の事也〉兵庫よりの見当の山不㆑宜候間、三郷より之を築直す様にと御沙汰之有るにぞ、町々雇人足を出せしに、「先年の如く、町々より直くに出候様致すべし」と総年寄より申渡せしといふ。又入梅の時節とは申しながら、梅雨甚だ繁く今日に至る迄冷気にて、未だ時服を用ふるに至らざる故、暴かに米価十匁余り高くなる。此節富士山七合の雪なりといふ。
【津山侯高松侯国替せんとす】早春の事なりしが、作州津山〈当将軍の御弟なり〉読州高松へ所替の御望有りて、尾州侯を御頼【 NDLJP:193】ありて、公儀へ御願込みありしにぞ、高松侯へ国替の御内意有りて其御噂有り。「若し望の儀有らば申出らるべし」と仰有りしにぞ、高松には存寄らざる事なる故、大に途方にくれられしが、「望の所申上げよ」との事なる故、「摂州兵庫を拝領仕度き由」申出られしにぞ、「望の如く兵庫は下置かるべし。さりながら城なき処なり、新に城を築きぬる事は神君の御遺命にて御法度なる事故、尼ヶ崎の城を下さるべし」といふ事なるにぞ、高松侯大に仰天に及び、折節水戸侯には御在国〈水戸侯には副将軍の大任なる故、御一代に一度御家督の節に、御入部ある計りなるに、御大老井伊侯・御老中水野侯天下政道を我儘に取計らひ、肝要なる水戸侯へは何事も御伺不㆓申上㆒候故、侯には之を憤り「吾は江戸に有りても無用の者なり」とて本領へ引籠り給ひしとの事なり。〉なる故、家老を以て右の趣を申上げ、「何卒御免被㆓下置㆒候様御取執下さるべし」と申入れられしにぞ、水戸侯の仰に、「其儀は尾州侯を頼みて断を執成し貰ふべし、夫にて御免蒙らば仔細なし。強いて仰付けらるとも、決して御受け申すべからず。其内には吾出府してよきに計らふべし」と仰せられしといふ。其の如くに尾州侯御断の執成を頼まれしにぞ、尾州侯にも水戸侯へ対し申訳なしと思はれしにや、「此方大に心得違にて深く御心配を掛け申したり、程能く取計らひ申すべく候間安心致され候様に」と赤面にて、之を諾はられしといふ。高松には之にて漸々と安心する様になりぬ。之迄高松の心配容易ならざる事にて、国許への早打ち櫛の歯を引くが如く、何事の起りしにやと上下薄氷を踏む心地せしといへり。〈「頭書」高松の所替止めになりしにぞ、津山には何分にも四国の内へ所替致し度き旨内願あるにぞ、夫れよりして伊予松山候をおだて返さるゝと云ふ事なり。津山には元来越後の高田本領なれども、至て寒国にて土地も不足故、右様の事を内願せらるゝと云ふ事なり。〉 高松も近来至て不締りにて、御家中心々になりて少しも和する事なし。昨年の事なりしが、ほた織五十反〈高松侯より公儀へ献上の絹にして、決して他へ出さるゝ事なし。〉金子弐万両国許よりして江戸屋敷へ慥に届けぬるに、屋敷に於てほた織も金子も悉く紛失せしにぞ、種々様々に吟味すれ共、一向に分ることなし、怪しき事といふべし。
【井伊掃部頭大老を辞す】御大老井伊掃部頭殿至て不評判なるに、大勢仕くじれる人之有るにぞ、其身に及ばん事を恐れ、退役願差出されしといふ。
井伊掃部頭殿御事御懇之以㆓上意㆒、御役御免被㆑成候。是迄出精相勤候に付、御手自御指料の御刀被㆑下、向後も折々は御用部屋へ罷出候様去十三日被㆓仰出㆒候段、従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、此旨三郷町中可㆓触知㆒者也。
【 NDLJP:194】 丑五月
【庄内の百姓国替を停止せん事を愁訴す】旧冬より当春に至り、庄内の百姓出府致し、御大老始め御老中等へ国替相止め候様頻に愁訴せしにより、領中の百姓外へ出る事成難き様、総て往来筋をば悉く関を居ゑ、番人を以て厳重に固められしに、それにても道なき嶮難の山々を抜出で出府せしにぞ、後には抜道はいふに及ばず、道なき所迄も厳重の備にて、今は出府の道断えしにぞ、百姓共三百六十六人密に相談し、奥州路の固め少し緩やかなるにぞ、密に湯殿山を忍び越え、奥州岩手山へ出しに、余り多人数の事故此処にて之を押留む。此処の領主は伊達弾正といふ仙台の内取なり。自ら出馬にて利害を説聞かせ、百姓五人を留めて其旨早打にて江戸へ注進し、余の百姓共を受取り帰りしといふ。 〈酒井左衛門尉殿には三月十八日出府被㆑致候得共、道中より病気の由にて出府の御礼も代人にて申上げられ直に引籠らるゝといふ事也。〉
太田備後守殿、五月廿七日於㆓殿中㆒水野越前守殿と何か争論有りしといふ噂にて、廿八日急病差起りし由にて、退役の願ひ差出され候処、直に御免にて「御役屋敷三日の内に早々引払ふべし」と仰出されしといふ。〈之迄病気にて退役の御願差出さるゝ時は、直に御取上げなく、暫く養生せよとの御沙汰にて、二十日余りも猶予有りて、月日数位ちち上上にて再び願出で御聞届あり。役屋敷も勝手に引払ふべしと被㆓仰渡㆒るといふ。〉庄内を引懸け国替を押へし故なりなど、種種の風説あり。此人引かるゝと直に早々国替をなすべき旨、三諸侯へ御沙汰有りしなどいへる噂ありしが、如何なる事にや。
【川越侯猶子を上野に葬る】五月十五日川越へ御養子に、公儀より入らせられし大蔵大輔殿、御逝去有り。六月四日上野へ御葬送ありしとぞ。斯様に上野へ諸侯を葬りし事一向先例なき事なりといふ。併し葬式の入用一万両余り入りし由にて、困窮の上の物入にて大に難渋に及ばれ、大坂の銀主共へ無心を云はれ、何れも困果てしといふ噂なり。〈国替に付五万両の金子借入れんと大にもがき、家老始め元〆・元方・用人等出来り、大汗を流して大坂にて館入の町人六十軒の者共に頼込みぬれ共、何れも不承知にて漸く二万五千両出来せし位の事なるに、此度又思掛けなき事にて、一万両余りの入用なりし故、大に途方にくれられしといふ噂なり。〉六月晦日快晴。入梅の頃に雨至て繁く降りしにぞ、時節の雨にて少しも稲作に構ふ事なき事なるに、奸商米価を引上げて相場をあやくりしにぞ、欲深き愚人等、何れも之に迷はされて大に損をせしといふ。可笑き事なり。水野越前侯種々様々の悪評限りなき事なるに、如何なる事にや、公儀の思召に叶ひ、御馬を拝領し、当十一月右大将様へ有姫様御婚姻の掛り被㆓仰付㆒しといふ事なり。【 NDLJP:195】 【米価騰貴】七月廿九日雨、辰の刻止む。同下(上カ)刻止み同下刻降る。巳の下刻止み、午の刻雨、同下刻止む。諸蔵屋敷有米払底になりし故、新米入津迄の処米至て乏しく、其上諸国思の外に米の実入少き抔と風説をなし、米価七八匁も引上ぐる。こは堂島の問屋共客をあやかし、利得るの手段なり。之迄も常に斯様なる事にておだてられ、産を失ふ狼狽者少なからず、此頃も同様の事なるべし。
出羽庄内国替の一件も、百姓一統歎訴深切なる事、酒井侯の仁政故と天下の人々其徳を賞美し、川越の不評なる事言語にも演じ難き事共なりしが、終に公儀よりして所替御拾免になり、川越侯には兵部大輔存生中願の筋も之ありし故とて、新に二万石下し置かるゝ様になりぬ。
【水野美濃守等知行を減ぜらる】水野美濃守大に仕くじり、御咎中なるに、不慎にて隠居仰付けらる。感応寺不如法奥女中を犯し、美濃守・肥後守・筑後守など心を合せ、及ばざる工み事有りしを、御老中脇坂侯に見顕はされし故、此の者共申合せ、医者両人に申付け、殿中に於て之を毒殺せしなど種々の取沙汰なり、如何なる事かは知らね共、皆々御咎にて知行を減ぜられ、奥女中大勢仕くじり、感応寺は申すに及ばず、医者両人も入牢せしといふ事なり。美濃部筑前守も知行を減ぜられ、甲府へ赴くに極りしに、外に悪事せし事顕れし故、揚屋へ入れしといふ。
【諸士所罰せらる】長崎奉行田口加賀守長崎詰中頻に賄賂を貪りしが、水野の引立にて五百石の増加有り。三十日程して此事顕れ、五百石御取上となり、小普請入仰付けらる。中野関翁も御咎を蒙り、御門留仰付けらる。
五月三日内藤中務少輔・織田図書頭・石谷市正・村越若狭守・京極右兵衛佐・辻定右衛門・戸田六郎右衛門、右思召有㆑之、御役御免、寄合被㆓仰付㆒。
六月二日南町奉行所に於て同心佐久間源助と申す者、傍輩堀口定治郎を切害し、高木平治兵衛へ手疵を負はせ、其身は柱に寄掛り、咽を突貫いて死す。此騒動にて当日の公事悉く流になりぬ。
小従人本田左京組大野権之丞といへる者、御政事其外大切なる事にて、他に洩らす間敷き事共相認め、【本田左京改易】絵本屋伊助といへる者に彫刻せしめたる科に依りて、九鬼式部【 NDLJP:196】少輔へ御預けとなり、忰鏃之助改易となる。
【倹約令発布】八月、質素倹約の仰出されありて、公方様には夏は葛袴、余は京奥島の袴を召させらるゝ由、余は之にて知るべし。当年も関東筋川々の水損容易ならざる事なるに、諸侯へ御手伝の御沙汰之なく、御手金のみにて御普請あり。又御三家始め御老中其外諸役人方の供廻り等大に之を減じ、質素倹約を仰付けられ、下々は尚更厳重に倹約致し候様御触有り。
【将軍馬術上覧】八月、将軍家御譜代の諸侯の馬術御上覧有りしに、柳沢伊勢守・本庄伊勢守落馬にて甚だ見苦しき事なりしといふ。其内一人は甚だ見苦しき有様なりし故、差控仰付けられしといふ。
【僧侶の不法】或寺の住職女犯・不如法甚しかりしにぞ、将軍家其吟味を障子の内にて聞召され、之が相手の内にて、吉原の太夫金山屋の金山といへる女をも召出されて、其吟味白状の由をも聞召されしといふ。御先代よりして斯様なる事は、御当家に於て先例もなき事なり。【霊泉の風評】九月中旬の頃より、ふと産湯稲荷の辺なる井戸にて染物出来ぬる由こは弘法大師の奇特なりなど言触らし、浪華一円に浮かれ出し、木綿切を何れも持行きて染めぬるに、こは鉄気と泥とにて染まりぬるなれば、藤色・生壁色などになりぬ。藍にて下染せし物は真黒く濃き色になりぬ。奇妙不思議なりとて大に群集せしが、後には鉄気と泥とにて染まりぬる事を何れを会得せしにぞ、堺・大坂等の井并に川々の流れの滞れる所、材木の間水道近き処、又は池中などにて泥を塗付け、水にて洗ひぬる事を数々すれば、よく色付きぬるにぞ、大師の霊験ならざる事を諸人弁知りぬ。こは近年打続きて藍の不作なるに、其藍を買占めて高利を貪れる事なる故、自然と斯の如き事に至り、泥水にて染まれる色は紺屋へ持行く事なき様になりぬ。斯様の事に付ても忽ちに山子共時を得て、播州の内にて何とやらんいへる処の天神の山よりして、酒の出る流を生じ、又其辺りにて油の生ずる所ありなど言触らし、油・酒等を流して人寄せをなす、甚しき事なり。斯様なる浅はかなる事に迷ひ、狼狽へて之を信用せる事可笑き事なり。
【山崎主税検地の一件】備中国成羽山崎主税といへるは、小身の旗本なり。太閤秀吉公よりして給はりし領【 NDLJP:197】地にして、領内も高よりは至つて広き事なる故、之に検地を入れて万石以上の諸侯の列に加はらんと思立ちぬ。され共左様に検地を入れらるゝ時は、大に百姓共の難渋となりぬる事なる故、百姓一統江戸へ訴訟せんと申合せ、大勢立出でぬる様になりしを、近辺の諸侯よりして之を取押へて、漸々と其事止みしといふ、大騒動なりしとなり。
【江戸出火】十月九日江戸木挽町より出火にて大火となる。同十日出火あり。近来箱根より東甚だ物騒にて、盗賊・追剥頻に徘徊し、三度飛脚などを槍にて究殺せるにぞ、之迄六日切の便有りしに、六日切にては夜深に歩行かさればなり難き事故、飛脚屋よりして諸屋敷へ之を断り、早き便り八日切となりしといふ事なり。十六日晴、巳の下刻より酉の下刻止み、未の刻より雨降り申の刻に至りて止む、〈〔頭書〕十月十六日より泉涌寺に於て光格天皇様御一周忌御法事之有る処、十五日夜庫裡より失火にや、残らず焼失す。〉【勧修寺の宮不義を行ふ】廿二日京都に於て、勧修寺宮〈二十五〉伏見宮の姫君〈二十〉と密通ありしが、山口周防守といへる諸大夫、丹羽典膳乳人と共に三人附添ひ、京都を出奔し、有馬へ来り給ひしが、この所には隠れ難く思ひ給ひしにや、廿六日播州姫路へ到り、浜田屋義兵衛とやらんいへる宿屋へ居給ひしを、追々追手掛り、大坂の与力之を迎帰りしといふ。
【物価騰貴】十一月晦日晴。米も沢山に有りながら、其価八十匁に近く、大豆八十匁余、小豆一升百四十より五十文、黒豆百八十文、
【入江殿穢多を妾とせらる】京都に於ては、入江殿といへる殿上人へ穢多の娘紛込み、奉公して居たりしに、斯る者とも知らずして其女に手を掛けられし処、其女はいふに及ばず、親も大に悦べる事限りなく、素より勝手能く暮しぬる穢多なる故、嬉しさの余りに種々の物を仕送りぬ。入江殿には御蔵米にて至つて貧窮に暮さるゝ事故、金銀の無心など其女に頼まるゝにぞ、何時にても之を宿元より取寄せて奉りぬるにぞ、入江殿には能き妾【 NDLJP:198】を得たりとて之を寵愛せられしに、其穢多なる事の知れぬるにぞ大に後悔せられぬれ共詮方なし、其噂世間にて専ら評判する様になりしにぞ、詮方なく思はれしにや、其女を連れて出奔せられしといふ。浅ましき事といふべし。
【政道の緊張】十二月。江戸に於て、近来御厳重の御政道これ有り、不良の者共御旗本以下町人に至る迄悉く御仕置、法華坊主の不如法二百人に余り、流罪・追放・晒等種々の事なりしといふ。又江戸中不頼の食客主人に不忠にて暇出しゝ者、親へ不孝にて勘当せられし者、其外不埒にて出奔致せし者共、悉く御呼出しにて御利害の上、親・主人等へ夫々に御返しに相成る。尤も主人有りし者共は、何れも無給にて三箇年大切に奉公致し候はゞ、其上給銀も遣し、召仕へし若し夫迄に不埒の筋之有るに於ては、早々申出づべく、公儀より御計らひ方之ある旨仰渡され、如㆑此に御調之有りし上にて、無宿に相成り帰する方無㆑之者六百余人有りしといふ。此者共をば残らず御召出にて、近来諸色高直に及べる事何れも横著に相成り、身を安楽に暮さんとて働をなさゞる故、其方共の如き身の上とはなれり。何れも身の冥加を思ひ、今日よりして急度相働き候て口過をなすべし。何に寄らず物毎に高価なるも諸品は沢山なれ共、働かざる故物毎に払底なり、今日よりして油〆をなすべし」とて御利害仰渡されしかば、何れも是を御受申上げしにぞ、其日より油直段二十目下落せしといふ。有難き事なり。
矢部駿州密夫一件、又喧嘩等の御捌面白き事あり。之等は別に相記せる故之を略す。十組の株を御潰しにて諸商売勝手次第に商ひ致し候様仰出さる。此者共公儀へ金一万二千両の御益を差上げ、諸品を占囲ひ高利を貪りし故なり。此者の仲間七百人計りありといふ、心地よき事なり。深川の遊所其外火除地の人家端々に建出し候人家、【盛場の取締】悉く取払ひ仰付けられ、当十月上旬大火にて、芝居小屋焼失致し候故、此度市中を離れ在領に引移りとなる。市中には漸く一箇所残れる計りなり。之も無難なる故先は其儘なり。追つて引移しになるといふ事なり。遊所も吉原の外は残らず取払ひ、料理屋の類も差留められしもの多く、其外荷売・出し店の類大方停止せられしといふ。堂島米仕舞相場も相潰れ、米の相場立たざる故、上より御さつと入り、浜方大【 NDLJP:199】に騒動す、
【阿波侯の酷政】阿波に於て年貢米納を上にも囲ひ、「米沢山なる故銀納にすべし」と百姓へ申渡す。され共米価六十匁なるを代銀にて七十目宛の相場にて相納むべしといへるにぞ、百姓大に困りて米納を銀納にする時は、米を売払ひて上納する時は、何れに損耗有る事なるに、六十匁の米を七十目にて上納する時は、一統に一石に付十匁余りの損となる事故に、「何分にも米納是迄の通りになし下さるべしと願ひぬれ共、之を聞届けなきにぞ、然らば当りまへの相場にて納め給はれ」と願ひぬれ共、聞入なし。「然らば代銀の引違ひ工面出来難たければ、他国へ行きて日傭持をなし、其賃銭を以て跡より追々に上納すべければ、先づ当時の所にては当りまへの相場にて御納め下さるべし」と歎きぬれ共、「他所持の共は決して相成らず、是非共只今上納すべし。此儀等閑に致すに於ては急度曲事申付くべし」とて、如何程に歎きしとて之を聞届けざる故、百姓共大に怒り恨み憤り、山しろ谷とて七里計りの間の百姓三千人計り申合せ、伊予の今治に到りて此事を歎訴ふにぞ、今治候には之を取上げて阿波へ掛合はれしにぞ、一阿州侯には、「右様の事は少しも知らざる事なり」とて大に驚き、此一条に掛りし者共悉く押込となし、今治に掛合ひ百姓共を渡し給はれとて、之を受取りに遣はせしか共、今治にては「一たん境を越えて出来り、此方へ便り来れる者共なれば、此趣を公儀へ申上げ、其上にて公儀よりの御指図に任すべし」とて、百姓を止め置きて之を渡す事なし。こは先年今治の百姓三人申合せ、地頭を恨み阿州へ立越え歎訴せし者止置き、今治へ返さいりし事有りし故、其返報にて之を止置くといふ事なり。領内の民悪政に因つて他邦へ赴きぬる様の事有りては、地頭の罪逃れ難き事也。如何なる事にや。
【米納相場】当年米納相場、筑前米七十三匁五分なり。余は之に准ず。正米の相場は如㆑此なれ共帳合は高潰にて相場相立たず、米相場始りてより納相場相立たずして、訳なき様になりぬる事、此度始めなりといふ。此事に付き公儀より御察度にて、堂島浜方大に騒動す。越年米百二十。
【水越の布】丑十一月十八日水野越前守殿より大目附神尾山城守へ被㆓申渡㆒、諸向へ御用【 NDLJP:200】回状にて御触出左の通り
【芝居を取締る】此度市中風俗改候様にとの御趣意も有㆑之候処、近来役者共、芝居近辺住居致候町屋の者同様に立交り、殊に三芝居狂言仕組風俗推移り、近来別て野卑に相成、又又時々流行の事抔、多くは芝居より起り候様に候ては、御城下市中に差置候ては、御趣意迄も相戻り候事に候。一体役者共の儀は、身分の差別も有㆑之処、何となく其隔も無㆑之様相成候へば、不取締の事に付、此節堺町・葺屋町両狂言座并繰り芝居、其外右に携り候町屋の分不㆑残引払被仰出候。乍㆑併弐百年来も土著の地相離候に付ては品々難渋の筋も可㆑有㆑之哉に付、相戦の御手当被㆑下候。替地之儀は取調追て可㆑及㆓沙汰㆒候。木挽町芝居之儀は追て類焼致候か、普請及㆓大破㆒候節は、是又引払可㆓申付㆒間、兼て其旨可㆑存尤権之助狂言座の儀は、来春興行相始め候ても、狂言仕組并役者共猥に素人へ不㆑交様、取締方の儀厚く其旨可㆑致、右之通被㆓仰渡㆒奉㆑畏候。以上
天保十二丑十二月十八日
堺町・葺屋町・木挽町 狂言座
総茶屋連印
出方の者
十二月廿六日江戸御町奉行遠山左衛門尉殿於㆓北御番所㆒諸商人共被㆓召出㆒御演舌被㆓仰渡㆒之写
商人共呼出したるは叱るでなし、吟味するのでもなし。兼て存知居るであらふが、【 NDLJP:201】士農工商とて士は身命を捨てるを奉公とする。農は粗服を用ひ粗食を喰ひ汗を流し、耕作を持ぐ。工は其職に骨を折る。商人は御静謐の御代故、御城下に泰々家業を楽しみ、相応の利分を取り、正路の働にて辱も御国思不㆑忘様可㆑致の処、寝て居なが多分の利を貪る事を相考へ候者有㆑之様相聞え、以の外の事、士農工は夫々勤めあり。乱世にてもあらば士は一番に身命を的にして働き、農は汗水を流し耕作を持ぎ歩役を働き、工は加役にも用ふ。商人は其時には武具より外に調ふる物なし。其時に至て渡世なし如何様に致す哉、商ひ物は調ふる物あり共払方致すまじ。御政道もなし、押領を被㆑致候ても制する事なりかね、難渋致し候計り、夫故商人は訳て泰平の御国恩を難㆑有相心得、追々触出候趣相守り、正路質素倹約を可㆑存の処、段段御国恩を忘却し奢侈に移り、衣食の分限を弁へず、三百目・五百目の品を用ひ、或は結構の新織物新形抔不益に手間掛り候物を拵へ、無輻紋・八つ藤其外高家装束の紋柄を手拭迄に染出し、湯に入り尻・前を拭ひ、七八十文の事足る物迄心を込め、又小道具抔を色々の細工物に金銀を費し、高価の品を作り、皮抔には武具の威にも可㆑致物を履み鼻緒に致し、以の外の事、沓は新しく共冠にもならず、紙入・烟草入抔に細工を込め、其外の品にも右に准じ金補・毛類に至る迄異風を好み、其分限を弁へず贄沢屋抔と家号を唱ふる者有㆑之様相聞え、次に食物売買の者に申聞け置いたが、四文・八文の鮨も何時頃か二十・三十に相成り、中には殊の外の高価の食物身の分限を弁へず高家の食物を食ひ、
【倹約令の効果】此度江戸表御趣意に付、諸仲間行司・組合等唱へ候株札并問屋と唱へ候事、総ての事御停止被㆓仰付㆒、市中株札不㆑残御取払ひ右問屋仲間・組合行司と唱へ候儀、一円不㆓相成㆒、商売向勝手次第可㆑致様被㆓仰出㆒。尤銘々新に諸商売等店出し、手広に致し候儀、勝手次第不㆑苦候様被㆓仰出㆒候に付、諸色直段下著の分左に記す。
酒一升〈三百文の処〉百六十四文 風呂代叶〈十文の処〉八文 蕎麦代〈十六文の処〉十五文 豆腐代 〈五十六文の処〉四十八文 男髪結〈三十二文の処〉廿四文 女髪結御取払 地面料一割半直下げ 山本山茶屋直段不㆑定 青物類同断 炭割木同断 料理向一統直下げ 金物類一匁五分より三匁五分迄直下げ すし類〈百文に付廿四切の処〉廿八切と成る上鮓屋は三十二人召捕と成り、以来停止す 根津遊女茶屋御取払 浅草御門跡前女郎不㆑残召捕、茶屋向は取払 深川新地同断 地岳女類町・芸妓類百六十人召捕に相成り、余は不㆑残逃去り候て一人もなし。一、江戸中茶屋商売寅三月十三日に店締め相休み遊女は逃行く。一、市中寄合御停止・興行事停止事。御役所向代人不㆓相成㆒事。一、新吉原明地両町奉行様十五日・十六日以前直に御見廻り被㆑為㆑遊候事。
この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。