目次
 
大塩謀叛を計画す大坂城守護の準備諸士役宅を固む姫路より出勢大塩叛乱勃発の状況大塩の軍装大塩の炮術方殺さる大塩徒党の警戒を厳にす大塩等跡をくらまし人心兢競たり大坂放火の惨状張本人召捕らる大塩跡を眩ます松平主計頭来坂綾川豊吉吟味を受く大塩父子自害す大塩召捕に付いての口達美吉屋五郎兵衛自殺す大井庄一郎捕らはる米価騰貴し非人乞食をする者多し世澆季に及び天災地妖愈多し広瀬重兵衛見聞記落し文落し文連判の名前落し文入の袋木筒大井庄一郎庄司儀左衛門渡辺良左衛門近藤梶五郎白井幸右衛門橋本忠兵衛松田軍次瀬田済之助竹上万太郎猟師金助平八郎は今川義元の裔なり大西与五郎吉見九郎右衛門河合郷左衛門平山助次郎宮脇志摩大塩一件に付江戸より来状の写熊見六竹が日記大坂出火鴻池焼かる三井両替店焼失をまぬがる三井呉服店へ乱入一揆平野町にて散散に敗る井戸より鉄大炮出づ諸橋の惨状凶徒紀州侯の荷物を打たんとす羽州の僧雪堂恵源大塩市民を語らふ大塩の扮装凶徒の器大塩蔵書を売りて市民に施行す大塩凶乱に就ての諸異説岡翁助の書状石火矢蔵炮の者召捕らる吹田の神主大塩召捕の風聞上町石火矢の為め焼かる鴻池の蔵を焼く
 
オープンアクセス NDLJP:8
 
浮世の有様 巻之七
 
 
天保八年雑記
 
大塩謀叛を計画す天満組与力大塩格之助隠居大塩平八郎は、先年町奉行高井山城守勤役中用ひられ、平八郎計り提刀を免され、吟味与力外になきが如し。其頃京都八坂住居神女豊田貢と中す者、切支丹末流にて、大坂にて召捕り拷問に及び候へば、聊責苦に至るのみ不申□。平八郎仏学演舌にて終に罪に伏し、三郷引廻し磔に行はれ候。其頃但馬守転役平八郎も隠居罷在候。去る申年当奉行跡部山城守学業才智と承り候て、内座へ招寄候て、公事相談も之有る中に、米高直市中施行の儀に付、平八郎が申す条不是より怒り、再び罷出でず候。尤此度の逆意当奉行を相手取るには無之、天保四年の頃より企て申候由。当年も中々二月頃斯様の儀に相成候訳合には見え申さず候。正月廿八日同心厄介の内、一味の者余の儀にて家出致し、行方知れず候故、万一彼が密謀企を洩らし候はんと心いらち候間、俄に相成候。且摂・河・泉・播の百姓オープンアクセス NDLJP:9共政事を誹謗致し、自分の奉行頭人迄も討果し、大坂豪富の町人を焼打ち、其余米等貧人に与へ、此節の難渋救ひ遣し可申間、一市中騒動に及び候を承候はゞ、近郷・近村より駈付申すべく、夫々に配分致すべき由を心斎橋河内屋武兵衛を初、本屋へ植字板にて知れざる様に申付け、作文致すべく候。紙五枚程の物を天より下し候等書致し、村々郷々へ捨可申心掛に候。扨其事整候如何様の企にて候はんの処、前書の出奔人より心急ぎ、二月十九日堀伊賀守新役故、山城守同道の処にて巡見の砌、同与力平八郎が宅の向なる、朝岡助之丞方に休息の節、一味なる河内般若寺村忠兵衛手下百姓旅行と申しなし、呼寄せ置き不意に押寄せ、両奉行を殺し、留守は十八日夜詰なる与力一味たる瀬田済之助・小泉淵次郎、両人留守宅へ火を掛け申すべき手筈に候処、一味同心平山助次郎変心に相成り、跡部へ其旨密訴致し候間、夜中泊詰なる与力瀬田・小泉と閑室に入れ、吟味致候趣にて、山城守家来両人を呼寄せ候節、帯刀を取懸り候て、両人事露顕と心得刃向ひ候故、小泉淵次郎をば討寄せ、奉行所にて斬殺し申候。瀬田済之助は逃出し、裏手垣を押破り、平八郎方へ参り候に付、今は是非に及ばず。十九日の朝自宅より近隣人大筒を以て焼之煙の中に支度致し、自宅に火を懸け押出し、天満天神堀川境迄残らず放火致し、天満橋迄押渡し申ずべく存候処、御鉄炮方同心御城代家来橋の前後に固め居候間、よしや一重相破り候ても亦橋向にも之有り、爰にて手間取るも残念とや存候はん、天神橋へ参り候処、橋折り切落し候間渡り難く、終に難波橋へ参り候に付、未だ杣の京橋へ斧を打込候に付、追散し押渡り、鴻池初め今橋筋の豪富の町人共へ大筒放火、焼立々々東奉行所へと志候にや、高麗橋押渡り候処、奉行出馬にて場合悪しく、平野橋を取て返し、思案橋より乱入る。淡路町にて奉行は玉造京橋与力等加勢出馬故、大筒を居ゑ、其人数打倒さんと向ひ候処、小筒与力・同心放し候儘にて引退き、思ひも寄らぬ横合を迫り、先に進み来候玉造与力坂本源之助・柴田勘兵衛、同心山崎弥四郎・糟谷助蔵を始め、一同筒口を揃へ打立候間、雑兵等散乱に及び候。大筒打手・捧島縮緬小袖に黒き羽織著用の者、大筒を仕掛居候を、横合より右の仕合故組直さんと致候内、坂本源之助彼を狙候玉込致す内、用水桶脇に一人の賊小筒以て出で、源之助が大筒先に狙オープンアクセス NDLJP:10居候を狙ひ、今や放さんとするを、与力同列本多為助見留め、二声程声掛け候へば、源之助は一向ひたすら大筒元を狙居候を存申さず、為助是非なく賊徒へ小筒で玉込致し狙候。源之助・為助、賊徒此玉の鉄炮一同にはつと打ち候趣にて、源之助は陣笠の左の端を賊に打抜かれ、為助が鉄炮で賊徒の笠の上をすつて外し申候。源之助が鉄炮はかの大筒先の腰を左より右へ打払ひ候間、忽ち倒れ申候処、与力・同心一度に声を掛け立寄り申候。此時一同賊徒右往左往に散乱致候。山城守下知にて大筒先の首を取り、槍に貫き持帰り申候。此余乱玉に打倒れ候賊徒両三人、淡路町高麗橋へ散乱の節捨置き候は、百目玉車付大筒三挺・四五貫目玉木炮一挺・火薬・葛籠拾計り程長持二棹・旗二本・槍四五本・具足櫃二つ・大小一腰皆々奉行の手へ取入申候。此長持内に百姓へ散らすべき落文多く之有り候由、右にて市中も放火は之無く、廿日は余煙広がり、谷町迄焼け申候。

大坂城守護の準備一、御城守護の儀は他へ洩らすべきにあらず候へ共、京橋は未だ米倉殿在府に付、明き申さず。追手玉造は桝形内へ大筒三挺出し土俵に居ゑ、外へは柵を結ひ、甲冑へ火事装束を著け、御城代家来与力・同心相固め、其余は尼ヶ崎の松平遠江守手勢・岸和田岡部内膳正手勢能越し、左右陣列。郡山松平甲斐守手勢闇峠迄勢を出し、御下知を相待ち申候。高槻永井飛騨守も近く口上の使を以て、御下知を相待ち申候。

諸士役宅を固む一、跡部山城守云ふに任せ、玉造御定番遠藤但馬守・御目附中川半左衛門指図にて、玉造与力は坂本源之助・本多為助・柴田勘兵衛・蒲生熊次郎・脇勝太郎・石川彦兵衛・米倉伊次郎七人、同心三十二人、但馬守殿用人畑佐秋之助陣代として出勢致候。京橋与力広瀬次左衛門・沖鉄之承・清水理兵衛・武蔵八十之助、同心召され御役宅の固め致候。

一、山城守に附添ふ与力七人・同心三十二人平野町辺にて、西奉行伊賀守に出会ふに付、伊賀守手へ脇勝太郎・石川彦兵衛・米倉伊次郎の三人同心召連れ、先へ陣列渡し候節瓦町へ押行き、西方より立狭申すべき段、勝太郎申聞候へ共、伊賀守先づ見合候様指図之有る内、源之助打留散乱と相成申候。

一、十九日夜八つ時に至り、俄に指図、賊集り候はん事気遣はしく、御鉄炮奉行御手オープンアクセス NDLJP:11洗伊右衛門組下召連れ、大坂より二里余在方保科□□預り所長興寺村御焰硝蔵固め罷越す。

一、筋鉄御門其外玉造固め与力・同心、隠居・次男・三男都て十五以上男子等罷出で候。筋鉄の手にて落行き候賊両三人召捕り申候。

一、玉造丸御蔵新御塩噌奉行堀田甚兵衛・仁科次郎太郎以差遣手玉造へ篝焚き申候。

一、御本丸は御番衆十六人張御城代御上り、度々西番頭北条遠江守殿与力・同心相詰め、東番頭菅沼織部殿組与力・同心玉造を固め申候。

一、場所外固めの外、甲冑著用に跡部山城守は勿論御城内にては、東番頭〈玉造方守候殿なり〉遠藤但馬守殿計り、余は火事装束計り。

一、御蔵奉行を以て、玉造御蔵より五百俵差出し、雑人兵糧御春屋に於て焚出し候は、御塩噌奉行相詰め指図致し候。

     大坂大変に付姫路より人数

  壱番手姫路より出勢

武具小笠原助之進、組三十人小頭一人・具足。同久松辰吉、〈右同断〉。大目附根岸源太兵衛。使番鈴木善之介、上下二十人・具足。旗奉行深津補之助、〈右同断〉。中目附小林権太左衛門・中野啓次・川端戸右衛門。硝方小幡孫次郎、上下五人。鈴木弥三郎、上下五人。高橋岩蔵、上下五人。


  弐番手

武具永井弥市、上下廿人。大筒三挺、人数不知。旗奉行福島市郎兵衛、具足上下三十人。武具谷九郎兵衛、組卅人・小頭一人・具足。右同断高須与右衛門、〈右同断〉。長柄・奉行蘆谷卯兵衛、組三十人・小頭一人・具足。騎馬吉田孫右衛門、上下廿人・具足。同内海宗次郎、〈同断〉。同間原覚右衛門、〈同断〉。同岡田出来蔵、〈同断〉。同西松五太郎、 〈同断〉。同丹羽新助、〈同断〉。同赤堀左源太、〈同断〉。同重田三十郎、〈同断〉。同井上理左衛門、〈同断〉。同山口長左衛門、〈同断〉。番頭河合孫一郎、上下八十人・具足・淵田伊三郎。大目附黒田権左衛門、組三十人・小頭一人・具足。中目附岡部順蔵、上下五人。中目附荻原兵蔵、上下五人。同田島藤馬、上下五人。太鼓方大沢善七、上下五人。オープンアクセス NDLJP:12貝方大山伴平、上下五人。大筒四挺、人数不知。騎馬〈高須隼人内〉、宇野左馬蔵、下人廿人。同〈同内〉三間定蔵、下人廿人。家老高須隼人、家来百五十人・下部七十人・鉄炮廿挺・弓廿張・槍廿筋・〈高須隼人内書役〉高頭蜂人永井梶五郎・〈同〉根淵貴八。内書役一足一本、細井市太夫・深瀬精左衛門・佐治幾蔵・本田辰蔵・福田軍十郎・長谷川郡治・本間益五郎・大塚秀三郎・戸田惣左衛門・牛込十左衛門・戸倉左源太・岩松鋪三郎・福島信次・高橋伊三郎・境野源助・柴田九郎助・鈴木小市郎・八森伝五右衛門・村角権十郎・矢野又兵衛、右二十人槍一本。使番河合宗兵衛、下人廿人・具足。医師中根善堂、家来十五人。鉄炮方下田五郎太夫・三保宗之進・熊谷来之助・高須伝内・松原善蔵・豊田粧蔵。武具布川丈太夫、組三十人・小頭一人・具足。乗方下境惣左衛門・田中銀介・三原友七。旗奉行治田半十郎、組廿人・小頭一人・具足。硝方砂川金次・小林伊三郎・池谷周五郎。他事方高橋善右衛門、添人五十人・大工五十人。中目附三石友右衛門、上下五人。秋間磐八、上下五人。金井小左衛門、上下五人。米沢半之丞、上下五人。宿割中村辰蔵・関口万助。

 総人数二千五百人余、馬百五十疋余、長持五十棹。

右天保八丙二月十九日大坂在天満与力町より出火乱妨一件に付、三月三日申の刻江戸表より早打使を姫路へ御入、即夕戌の刻より寅の刻迄三番手迄御出立有之、一番手は西の宮迄二番手は兵庫迄乗出し候処、大坂より悪党乱妨相治り候に付、入込に不及候旨被仰上候故引取有之候。

     長浜屋八之助が見聞の記

大塩叛乱勃発の状況一、天保八年丁酉二月十九日朝辰の刻、天満町与力大塩平八郎・同格之助・瀬田済之助徒党の者共、放火・狼藉市中乱妨致し候。先づ最初与力町大塩向に朝岡助之丞宅へ一番に四方より大筒を打込み放火致し、東照権現宮を焼き、其外与力町残らず放火。夫より西与力町へ廻り、方々火を放ち、寺町より天神宮・仏正寺・興正寺等へ火矢・鉄炮を打込み、十丁目を南へ渡り、方々大筒を打込み候て、天神橋を南へ渡懸り候に付、討手の衆中橋を切落し懸り候故、直に難波橋へ廻り船場へ渡り、一番に今橋通り鴻池善右衛門宅井に土蔵等へ大筒を打込み、天王寺屋五兵衛・平野屋五兵衛・山本三次郎等を始め方々打廻り、高麗橋筋にて三井・岩城等を始め所々へ打込み、上町オープンアクセス NDLJP:13へ渡り方々打込廻り、米屋平右衛門を始め処々へ放火致し、又候船場へ渡り米屋喜助・炭屋善五郎・同彦五郎・茨木屋万太郎・鉄屋庄右衛門等を始め、其外豪富の大家を目掛け、数十ヶ所大筒を打込み廻り申候。誠に其有様恰も軍の如く、右張本人大塩平八郎の出立は、大塩の軍装鍬形付の兜を著し、黒き陣羽織下に鎧を著し槍を携へ、其外徒党の者共銘々下に著込を著し、陣羽織・野袴或は立付・火事頭巾等著用致し、雑兵共は茶色の法被はつぴ、或は紺の法被等一様に揃へ、各〻白木綿の鉢巻を締め、槍・長刀或は刀・脇指・鳶口等の獲物々々を提げ、大筒五六挺・鉄炮廿挺余、其外白木長持・革葛籠・白旗・半幟・吹貫等、其外兵糧に至る迄用意致し、凡人数三百人余引率致し隊伍を乱さず列を正し、人を見掛け「味方に附けよ」と異口同音に呼罵り、否と言はゞ一討と抜身槍を振廻し、縦横無尽に斬廻り、悠々として市中を致横行致し、猥に乱妨・放火恣に致狼藉候故、忽ち一面に四方八方より黒煙と成り焼出し、折節風烈敷焰を飛ばし、猛火天を焦し円の声地を動かし、以の外の大変に相成申候。大坂市中不残焼亡し焦土に致し候と申触らし、市中の騒動・周章不大方、上を下へと混乱し、諸人不意の事に候へば、誠に恐驚し老若・男女東西に逃廻り、南北に駈迷ひ、別て老人・子供・女子或は病人抔歩行成難く候者は、逃ぐる事も不叶途方を失ひ声を限りに泣叫び狼狽廻り、大筒の音に胆を消し、槍・長刀の白刃に魂を飛ばし、死人・怪我人夥しく誠に心痛ましく哀れと云も愚の事に候。併右大変蜂起白昼の事といひ、諸人利欲を離れ今限衣服・家財等に至る迄打捨置き、老人・子供を相扶け、取物も不取敢皆我一と逃行き候へば、死人・怪我人等格別数多無之候。右悪党者の為に鉄炮或は槍・長刀・鳶〈口脱カ〉等にて手負ひたる者余程有之由、或は火に包まれ井戸へ飛込み、又は船に飛乗り弥が上に乗込み候て沈み候船も有之候。右の混雑を窺ひ盗賊共方々徘徊致し、恣に悪事相働き申候。諸人木津・難波・住吉・堺・尼ヶ崎・池田・伊丹其外近辺の在に逃行き候者夥敷、誠に大乱世と相見え、此上如何相成候事哉と恐居候処、十九日八つ時頃淡路町一丁目にて、大塩の炮術方殺さる右炮術方鉄炮に取巻かれ打殺され候故、飛道具は不残御取上げに相成候て、諸人少しは安心の思を致し候。今一時手後に相成候はゞ、大坂中一軒も不残焼亡し可申候処、折能く討留候故外町無難に相残り申候。斯く大変に相成候事故尼ヶオープンアクセス NDLJP:14崎松平遠江守、殿・泉州岸和田岡部美濃守殿、兼て当地御手当の事に候へば不申及、摂州高槻永井飛騨守殿・播州明石松平左兵衛督殿・丹波亀山松平紀伊守殿、其外麻田青木甲斐守殿・和州郡山柳沢甲斐守殿等の諸侯方より、追々御加勢数百人武具・馬具用意にて警固に被馳向候。御城代土井大炊頭殿・御定番・御加番、御城固め厳重にて、誠に美々敷事に候由。御奉行其外諸役人・諸家蔵屋敷役人衆、銘々槍・長刀悉く抜身にて、鉄炮・切火縄にて方々相固め被成候。誠に稀代の珍事に候。火消方面々精々相働候へ共、何分風烈敷其上右乱妨の者共火矢・大筒にて、爰を先途と放火致し候事故、容易に難相防、同廿日夜亥の刻に漸く鎮火に相成申候。夫より右徒党の者共討手の役人方へ令出張、大塩徒党の警戒を厳にす市中は勿論京街道・紀州街道・南都道、尼ヶ崎街道・淀川上下三十石船其外出口々々、官道・野道・間道に至る迄厳重に御穿鑿、往来人武士・坊主は不申及、男女諸売人等に至る迄、一人吟味に相成申候。其外諸国諸侯方へも早々人相書を以被触廻候候、其所の地頭・領主より在々・山々・谷々迄御吟味有之候に、何国へ逃行候哉、右奸賊首領大塩父子其外瀬田・渡辺・近藤・庄司を始め、一騎当千の族一人も相見え不申。大塩等跡をくらまし人心兢競たり船にて九州路等へも逃行候哉と、津々・浦々迄御吟味有之候。其外残党余類の輩、或は一味同心致し候百姓共は、不日して数多御召捕に相成候へ共、右肝心の張本人未だ手廻り不申候故、衆人如何相成候哉と渡世向売買も余所に致し、銘々すはといはゞ疾く逃行く用意のみ致し、日夜危ぶみ居候事に候。二月廿八日御触には「右悪党者共の内、重立候者は追々召捕或は自殺致し候へば安心致し、渡世向商売其外是迄の通り雛祭り等可致様」被仰出候。京都も右狼藉人蜂起致し候哉と、禁裏御守護不申及、諸寺・諸山門を閉候様伏見山崎・八幡迄、京都両御奉行始め出張被致候由承り候。誠に未曽有の騒動に有之候。

一、右焼失船場にて中橋筋より東、北浜より南は安土町迄、東堀へ焼抜申候。上町にては京橋六丁目八軒屋辺より、南は本町橋筋北側迄、松屋町筋・骨屋町筋・御祓筋・善安筋迄、但し両御奉行所無難天満にて川崎より堀川一筋内迄不残、北寺町・同心町・津国町・南市場迄不残焼失、此度の大変尋常の火事ならず候へば、諸人狼狽、住宅を打捨、逃行候へば相応に商居候者も丸焼に相成り、哀なる事共に候。

オープンアクセス NDLJP:15大坂放火の惨状一、右類焼人の内極難渋にて、親類方へも可便処無之者は、道頓堀中の芝居・角の芝居・其外若太夫・大西の小屋々々へ御救有之候て、皆々入込申候。凡二千余人日々罷越居候様承り申候。尤朝夕は白粥、昼は握飯三つ宛御与へ被成候由。其外町人よりも米或は炭薪・香の物・味噌・塩・茶等に至る迄施行差出し申候。然る処三月四日より別に御救小屋御修造にて、天満組支配天満橋北詰・同組支配南詰並に南組支配・天王寺御蔵跡、已上三ヶ所へ小屋出来に付、右の処へ御救置被成下候。誠に御仁恵の程難有事に候。

一、右類焼に付、其外難渋の者へ、御城代様より玄米二千石為御救出候。其外町人より銭百貫文・十貫文・二百貫或三五千貫宛追々差出し候。加島屋作兵衛は銭一万貫文差出し申候。

一、三月五日暁寅の刻、東照宮神輿天満川崎社仮宮造営に付、還御有之候。御城代・両御奉行・和田寿八別当其外諸役人御供にて、厳重の事に候。但し右大火に付神輿生玉北向八幡社へ御立退有之候。

張本人召捕らる一、右奸賊の者の内重立ち候張本人御召捕に相成り、不申残党・余類の面々は追々御召捕に相成候。瀬田済之助河内恩地と申す所にて縊死と云ふ。庄司儀左衛門は此頃紀州にて被生捕、当所へ御引立日々厳敷拷問に相懸り居候由、色々浮説申触らし候。瀬田藤四郎且済之助の妻子召遣し、下女三人共に和州にて被召捕候由、但二月廿八日の事に候由、南都同心松田七九郎召捕り候由承り申候。大塩跡を眩ます

一、大塩平八郎当時行衛不知候故、或は渡海致候と云ひ、又は甲山に楯籠と云ひ、或は切腹致し候共云ひ、或は吉利支丹の邪法を学び、妖法を遣候て形を隠し居候共云ひ、浮説区々に候。右此度の乱妨致候趣意相分不申候へば、世人かく落首致しけり。

   我為か人の為かは知らねども切支丹やら何したんやら

一、右乱妨大変後も東御奉行昼夜甲冑を脱がず、厳しき御要害之あり候。

松平主計頭来坂一、御上使松平主計頭殿三月十六日当地御著。平野町総会所に御逗留。同十六日御帰府、但し右は今般の一件に付、御上使御出坂と云ひ、又御定番御引渡の御役共云ひけり、

オープンアクセス NDLJP:16綾川豊吉吟味を受く一、相撲取綾川豊吉といふ者、兼て大塩氏と心易く出入致候故、右発起騒動の節、直様駈付候処、「味方に附けよ」と申し、無拠承知致し、折を見合逃出し候処、一旦参り合候事故、御番所へ召され御吟味有之候由承り申候。其外右等の事共数多有之候。

大塩父子自害す一、大塩平八郎父子大坂市中勿論、近国・近在・山々谷草を分けての御穿鑿有之候処、何処へ隠れ居候哉頓と行衛相知不申候。然る処天罰難遁、三月廿七日当地油掛町美吉屋五郎兵衛と申者の方に忍居候風聞有之候に付、同朝五つ時御奉行所より召捕の為め、内山藤三郎其外組の衆数十人被差向候処、内より焰硝にて火を放ち、黒煙の中にて忰格之助の首を討ち、自分も共に自殺致罷在候。直様火を防ぎ死骸相改め候処、大塩父子相違無之由にて、御奉行所へ右死骸駕籠に打込被相運〈但し右駕籠は近辺の医者方にて御借被成候由長棒乗駕籠に候事〉、先づ右大塩父子召捕られ候故市中穏に相成り、諸人安心致し申候。其節三郷町中御触の写左に、

     口達

去月十九日市中放火乱妨に及び候、大塩平八郎并同人忰大塩格之介儀、油掛町美吉屋五郎兵衛方に忍居候風聞有之為、大塩召捕に付いての口達召捕組の者差向候処、両人共自殺致し相果候。其外徒党の者共追々召捕又は自殺致し候間、其段令承知。無掛念普請等致し、諸人共無危踏あやぶみ売買等可致候。

 右の趣三郷町中不洩可申聞候事、三月

の通被仰出候間町々末々迄入念可相触候已上。

三月廿七日酉上刻               北組総年寄

美吉屋五郎兵衛自殺す大塩父子を囲置候美吉屋五郎兵衛と申者は、更紗染屋にて、元来大塩へ心易く致出来、今般乱妨の一件に付ても、陣幕或は幡幟・手掛等迄相染申候由御疑有之、先達てより御吟味有之候。其節町預けに相成居候内、如何致候て大塩父子を囲置候哉、薄薄風聞有之候故、前夜より美吉屋近辺十重・廿重に取巻き御囲有之候由。翌廿七日早朝内山差向ひ、「尋常に切腹致候哉、猶予に於ては討取可申候」と互問答に及び、最早天罰可逃処無之哉思ひけん、自殺致し相果て候。

一、玉造与力大井伝次兵衛久離忰大井庄一郎右徒党の一味にて候処、三月三十日京オープンアクセス NDLJP:17都にて被召捕候由。大井庄一郎捕らはる右庄一郎儀今般の乱妨一味の風聞有之候故、玉造御定番遠藤但馬守殿御計らひを以て、「庄一郎親を召寄せ勘当致し候者なる哉」と御尋有之。親并親類共へ早々捜出る首討取可差出候様」可申聞候由、直様親類共方々相尋申候処、一向に不相知、終に京都にて生捕に相成申候。遠藤殿の智略可賞。

一、去甲年諸国違作に付、米穀至て高直の処、右乱妨火災後、搗米屋に仕込有之候米穀并町家自分一己飯料に貯置候米穀等、米価騰貴し非人乞食をする者多し焼失致し候事夥しく有之候故歟、又は当春已来兎角雨繁く降続気候不順に候故歟、当時米穀其外何品不寄、食料の品物は格別に直段高価に相成候て、小前の者共は勿論、一統に令難渋候。末々・小前の者は大困難に及び、或は渡世糊口の致方無之者共、非人・乞食に相成候者夥しく、又は子を川に投入れ、夫婦諸共水中へ飛入り溺死致候者も有之、又は縊死候者数多有之、皆飢渇に逼り世を無果思ひ候ての事にて候。実に哀なる事共にて候。別て非人・乞食等食物を囉候事も不相成、青腫となり、道路巷街に行倒れ、餓死致し候者日々数多有之。

世澆季に及び天災地妖愈多し一、此節疫癘流行致し、病死致候者夥しく有之候。世も澆季に及び、天変・地妖・飢饉・疫癘・乱妨・火災と相成、此上如何相成可申哉と色々申触れし浮説に雷同致し、諸人危踏恐居候事に候。乍併日月未だ地に不墜、神徳尚炳然と有之候へば、太平の治世何事も有之間敷とも云、種々浮〔〈説脱カ〉〕有之候。

一、此節悪党者方々所々致徘徊、強盗・追剥又は口過難出来候破落戸共、豪家へ大勢踏込み酒飯等を乞ひ、否と云はゞ致狼藉申と押乞致し、或は搗米屋其外諸商売の家々に猥に踏込、押買等致し、価等不相渡掠取逃行、或は夜陰追剥・押入其外小盗人(以下脱)


     広瀬重兵衛が見聞記広瀬重兵衛見聞記

 二月十九日致乱妨候者、名前并取上候武器類書上之写

  先手

一、木筒壱挺一、大筒弐挺、大塩格之助・大井庄一郎・庄司儀左衛門〈但右三人共外に十匁筒一挺宛携へ罷在候由。〉

  中備

オープンアクセス NDLJP:18一、木筒弐挺、大塩平八郎〈総大将〉、渡辺良左衛門・近藤梶五郎・白井幸右衛門・橋本忠兵衛・茨田軍次・深尾次平・安田図書・上田孝太郎、〈但良左衛門始、外七人之者儀は、大将分の由〉杉山三平・西村利三郎・高橋九右衛門・柏岡源右衛門・同伝七・志村周次・堀井儀三郎・阿部長助・曽我岩助。但中備之内より立代り、後陣よりも相加り候由。尤槍・長刀携罷在候由。

  後陣

一、木筒弐挺、瀬田済之助・竹上万太郎・平八郎中間〈喜八・忠五郎・七助・金助・十四才松本麟太夫〉 右之外駈集候人足百七八十人計御座候。尤此分右侍・百姓共にて、召捕当時入牢。但松本麟太夫儀は、高麗橋通松本寛吾と申す医師の忰にて、七年以前より平八郎方へ寄宿、学文等致し罷在候由。此度の一揆に加はり、淡路町堺筋にて御先手人数に打乱され逃去候、後召捕に相成候。


  武器類

一、拾匁筒拾挺、〈此分取上げ有之。尤多分与力屋敷にて集取候品に付、追々主相分り候分はもどし遣さる。〉一、三匁筒七挺・槍長刀廿筋余・大小十四五腰・具足八領・救民之四半幟壱本・旗三梳・帆木綿幟壱本・半鐘一・螺貝二・〆太鼓一・葛籠二・長持一、

 右之品々は皆取揚有之。此外に有之候へ共、雑物故不印。

一、板木師市田次郎兵衛・同河内屋喜兵衛・ ・同源内、此四人は黄袋入。触書を仕入れ候者、外一人喜兵衛雇人、江之子島東町船大工次助〈此者大筒の台火矢等拵候也。〉

右夫々召捕入牢又は手鎖等被仰付候事。落し文

平八郎元妾尼ゆう・前書橋本忠兵衛娘当時妾ゆき。  今川弓太郎但平八郎実子。去十二月廿三日妻ゆき出産のよし。 下女五人但尼は下の者共摂州沢上村上田与右衛門方へ引取候よし。召捕。  〆十三 大尾。

     落し文てふもの〈別紙欠げ書写有之。〉

右の物大熨斗紙四枚半に、堅物板行するなり。尤五文字・七文字程宛、小刺にして板木彫刻せしものと相見え、板木の継目と覚えて、行々に纍□ありて無器用なる認方に見ゆる。譬へば鰥寡孤独に於て尤も哀みを加ふべくは是仁政之基と被仰置。右の □みぶりは前末同様也。そは彫刻師も何の書も不心付、請合候様の手段と思はる、オープンアクセス NDLJP:19夫れにて板木師三人計り御召捕に相成、厳しく手鎖被仰付候由。三月上旬の噂也。右紙面堅く巻物にして黄色薄絹の袋に入れて、裏に大神宮御祓、餬にて、堅く張附ある。〈但し連判の末に画図有之候。〉

     連判名前

落し文連判の名前一、三月廿七日油掛町美吉屋五郎兵衛宅にて自殺〆弐人共〈与力〉大塩平八郎・〈同〉同格之助。一、忍知村山中にて縊死、〈同〉瀬田済之助。一、二月十九日未明遠国方役所にて御公用人に被打殺、小泉淵次郎。一、召捕〈与力〉大西与五郎・〈同心〉吉見九郎右衛門。一、河州田井中村にて自殺〈同〉渡辺良左衛門。一、行方不〈同〉河合郷右衛門。一、三月八日自宅焼跡へ立戻り見事に切腹〈同〉近藤梶五郎。一、於南部召捕〈同〉庄司儀左衛門。一、返忠 〈同心〉平山助次郎。一、召捕〈伊勢御師〉安田図書・〈御弓組同心〉竹上万太郎。一、入水〈吹田神主〉宮脇志摩・〈玉造与力〉 大井岩三郎。一、召捕〈守口村〉白井幸右衛門。一、京にて召捕〈般若寺村〉橋本忠兵衛。一、召捕 〈般若寺村〉柏原源右衛門・同伝七・松田軍治・高橋九右衛門。一、行方不〈弓削村〉西村利三郎。一、召捕〈猪飼野村〉木村主馬助・深尾次平。一、南部にて召捕上田孝太郎。一、行方不知志村周次。

右連判状は平八郎所持立退に付、此余不分明の由。右は生捕庄司儀左衛門白状の由に御座候。

     落し文入の袋左の通落し文入の袋

                  御師曽禰二見太夫とあり

〈[#図は省略]〉

一、大塩平八郎・同格之助は剃髪致し逃去候。当日所々及放火焼払、歩行淡路町堺筋にて、先鋒の者三人鉄炮に当り打殺され、右に恐怖して皆々武器捨置き、石辺の井戸へ投込み逃去候由。其節麟太夫召捕り、大体当日の成行き相分り候。

一、取上候武器の外、棒火矢其余火術道具様々有之候。

木筒一、木筒は松の木にて、丸さ差渡し一尺計り丈、半間余、穴の差渡し七寸許も有之、オープンアクセス NDLJP:20外には竹の輪入有之。尤雕ぬきに有之候。

大井庄一郎一、庄一郎は玉造口御組与力大井伝兵衛忰にて、先立より久離に相成候。

庄司儀左衛門一、儀左衛門は全体平八郎槍の弟子にて、当日格別剛勢に相働、打節大筒火巡り兼候付、附木に火を附置き乍ら、火口を覗き候砌、過て火傷致し、片手不自由。且焰硝の煙眼中に入候哉、歩行少々不自由にて右人数逃去候節邪魔に相成候哉、於途中にまかれ候由。

渡辺良左衛門一、良左衛門も剃髪致し、右村にて自殺致し余人を頼候哉、首切有之。

近藤梶五郎一、梶五郎も其砌は一緒に逃去候得共、致如何候哉、立前一人当月八日夜窃に立戻り、居宅焼跡に残候雪隠の前辺にて切腹致し候。殊の外見事に有之候由、首も塩詰に致し有之。

白井幸右衛門一、幸右衛門は質屋渡世にて、至つて身上柄宜敷候由。是も伏見表にて御召捕に相成候。

橋本忠兵衛一、忠兵衛逃去候折節、平八郎家内の者に出合ひ、一集に旅行。江州路にて京都の御役手に召捕られ候由。

松田軍次一、運次(軍カ)は御城代にて御召捕の由、其外は先の連判の上に書入候通り。

瀬田済之助一、済之助は一旦逃去候へ共、手当厳しく且は諸向御手配にて出張。御役方多く難逃去、是も剃髪致し甚だ見苦敷相成り、忍知村山中にて縊死致し、死骸は当時塩詰に相成候。

竹上万太郎一、万太郎、騒動の前夜平八郎方にて荷担人一統酒宴相催候砌立去、翌日右一条を承り、血判致しながら当日朝未練発心致し、家族の家へも申聞逃去候抔と申陳べ、其場より逃去候。所々・方々へ立退き、無致方、又々中山寺辺若□と申茶屋迄立戻り候。同人方にて御召捕に相成り候事。

猟師金助一、猟師金助は至て鉄炮の名人にて、平八郎より兼ねて被相頼候様にも相聞、既に当て連参に付、歩行にて召捕に相成候。

一、百姓共百七八十人の内には、随分剛気の者も有之、是等は刀・脇指を貰ひ帯刀致し、且は槍など用ひ候由。

オープンアクセス NDLJP:21一、大工次助の外にも両三人有之、召捕御調中に有之候。

平八郎は今川義元の裔なり一、平八郎は今川義元の末孫の由にて、則ち実に今川弓太郎と名乗らせ、又平八郎所持の兜は、義元より相伝の由にも聞伝へ居候。是も取上げ有之候。

一、連判巻は平八郎所持致居候哉不見。当荷担人追々召捕り上げ申候て、先づ名前計り相分り申候。

一、済之助・淵次郎は連判に加り、企の次第助次郎返忠にて相顕れ候に付、十九日早天淵次郎一人奥向より呼びに参り、生捕に可致と捕に懸かり候処逃去候に付、遠国方御役所に於て御手打に相成り、右の様子聞付け、済之助裏手土塀を飛越え逃帰り、平八郎方へ急に鉄炮を打出し候。

大西与五郎一、与五郎は連判に不相加と申候へ共難聞、専御取調有之。乍併騒動を聞付け逃行候砌帯刀不致、過□にて先其廉にて当時入牢、忰善之丞も入牢に相成有之候。

吉見九郎右衛門一、九〔〈郎脱カ〉〕右衛門右企の次第平八郎折を見合せ、諫言も可致と、最初より右の次第は変心致し、身を隠し心得に候哉、当日騒動を聞付け、五百羅漢・堂島迄逃行候処被召捕候。

河合郷左衛門一、郷左衛門も同様右企は不承知に候へ共、師弟の間柄故、断りの申様も無之、且は剛勢に恐怖致し、一応断の上諫致し誠候処、殊の外平八郎に叱られ、少々手込に合候由、右騒動十日程前に出奔致し候。

平山助次郎一、助次郎は返忠にて、企の次第露顕致し、当時は江戸へ遣有之候由。

宮脇志摩一、志摩は吹田村神主にて、平八郎伯父に有之。当日人数に加り、其後居宅へ帰り、養母を及殺害、其身切腹可致処死おくれ、其儘近辺川へ飛込候由。

一、触書は所々・方々村方へ手を廻し投込、又は張置、百姓共を手に入候手段に有之。態と御祓札張り有之。

一、焰硝玉の鉛船など夥しく買込有之。革葛籠に入れ、皆々取込み有之。

     江戸より到来状の写

                        ​於江戸​​ 松平甲斐守家来へ​​ ​

大塩一件に付江戸より来状の写大坂町奉行組与力大塩格之助父隠居平八郎頭取、与力・同心并百姓共徒党致し、火矢オープンアクセス NDLJP:22等相用、大坂町中所々へ火を懸け及乱妨候に付、早々人数差出し召捕可申候。時宜次第打払ひ斬拾に致し、且著込も相用ひ候儀勝手次第可致候。尤様子に依り候へば、出馬をも可致候。酒井雅楽頭・松平遠江守・青山因幡守・岡部内膳正へも人数差出し候様相達候間、可貴意候。  二月

     右同断

此度大坂町奉行組与力大塩格之助父隠居平八郎頭取、大坂町中及乱妨候に付、早速人数差出候様越前守殿より、御書附を以被仰渡候。依是在所播州姫路早打差立申候に付、心得申上候。                        ​於江戸​​ 酒井雅楽頭​​ ​

     頭註此以下は熊見六竹が筆記なり

熊見六竹が日記一、天保八年丁酉春二月十九日〈丁卯好天気西南風〉五つ時、天満与力町の東四軒家敷与力宅より出火。大坂出火追々広くなり、東天満不残類焼。尤此出火石火矢にて焼立候出火故、殊の外火早く、同日正九つ時頃難波橋より石火矢を引渡し、第一番に、鴻池善右衛門宅を石火矢にて三度打候処、忽ち焼上り、夫より三井・岩城等の呉服店又は鴻池屋庄兵衛・同善五郎・平野屋五兵衛・天王寺屋五兵衛杯段々打立て焼立候処、暫時に船場一面其火と相成候。船場西は北にて中橋筋迄、夫より東へ段々寄り、下にては難波橋筋辺にて、南の方安土町南側迄不残類焼。夫より上町は八軒屋より段々、尤米平へ石火矢打込候由。天神橋焼落し、上町西は川端東へ東御番所迄、夫より下は谷町筋内本町迄、南は去年の焼場迄。誠に広大の大火なり。但し両御番所并思案橋東詰にて四五軒不思議に相残り候由。

一、抑〻当一件は天満与力大塩平八郎・同苗格之助〈平八子息〉・瀬田済之助父子・小泉并同心組近藤梶五郎・庄司儀左衛門・渡辺良左衛門等の逆謀にて、石火矢は炮烙火矢又は棒火矢の由。石火矢五挺共云ひ又は八挺共云ふ。第一番に与力町不残右石火矢にて焼打、夫より段々市中に及候由。天満東照宮御霊屋天神社黄門御堂抔不残類焼。

一、石火矢を難波橋引渡り候節、天満市の側東より引出候を見懸け候。人各〻遁候て見受候者有之。又橋を渡懸け候処、向より石火矢引来候故、驚き皆々散々に逃げ候処、或人南詰にて遁路なく、西の欄干より飛下り岸岐にて見受候処、橋七八分位のオープンアクセス NDLJP:23処にて西欄干の間より一と放し致し、北浜の俵屋と申す宿屋の西隣酒屋へ打当、艮の刻火燃出る由、夫より鴻善の西横町へ引附け、鴻善横裏より一と放し、又表へ廻り二つ三つ打込候処、早速燃上り候由。尤裏より打候故に立退き可申由、案内致し候と申す事なり。

鴻池焼かる一、鴻池大方丸焼け、土蔵三四ヶ所焼落ち候。鴻池善五郎は向ひ故、直様打込候由。扨鴻庄は其次に打込申候。尤其節未だ店の者多分残り居候処、立退可申案内致し候由。土蔵目塗り致し候間もなき故に、土蔵不残焼落候由。但し石火矢は土蔵一ヶ所より打込不申候へ共、余は類焼の由に相聞申候。

一、鴻池本家鴻庄にて金銀沢山に奪去り候由、風聞相聞え申候。

三井両替店焼失をまぬがる一、鴻池より天五・平五を打潰し高麗橋筋へ出で、三井両替店を打候積りにて、表の暖簾を引ちぎり居候内、石火矢を引通り過候て、両替店は難を遁れ候由。類焼も不致大に仕合なり。石火矢打候に暖簾邪魔になり候由、後来相心得長暖簾懸け申度きものなり。

三井呉服店へ乱入一、夫より三井呉服店を戸を大槌を以て二ヶ度打摧き候て、おたれの上の窓へ向け石火矢三打。其後入口より蔵々へ打当て、殊に唐物蔵は戸前を開き打候由。夫故一番に焼落申候。其次岩城を打摧候事三井同様の事。

一揆平野町にて散散に敗る一、夫より平野町へ出候て、茨木屋万太郎を〔脱カ〕候積りの処、茨木屋は早朝四つ時は立退き、長町下屋敷へ皆々遁行き一人も居合せ不申、殊に表側余程毀ち有之候を見懸け、此処を行過ぎ候処、茨木屋の内より公儀の伏勢起り、忽ち玉薬持を鳥銃にて打伏せ、其外鳥銃凡二三十挺にて石火矢に附添居候百姓共を打散候処、石火矢引き乍ら淡路町へ難波橋筋を遁行候処、淡路町にて又々尼ヶ崎の勢に出会ひ、鳥銃にて打倒され、槍にて突かれ、此処にて大将と覚しき者一両人打取られ申候由、此処へ死屍三つ、一つは首なし。此淡路町の東にて槍にて突伏せられ候死屍一つ。

一、此死骸の残りの首は、廿一日晩方又々不残公儀より斬帰り候由。

一、此処にて大筒・石火矢一挺公儀へ御取上げに相成候事。

一、此処の近辺にて、廿一日に井戸より鉄大筒二挺引上げ申候由。十九日御取上げオープンアクセス NDLJP:24に相成候を、直様台の車を離し、井戸へ打込置き候のなりと申沙汰す。井戸より鉄大炮出づ但し十九日に此処にて一挺取られ候由風聞候へ共、二挺取られ候哉とも被察候。

諸橋の惨状一、蘆屋橋・今橋焼落ち、高麗橋・平野橋・思案橋等或は半分又は少々落懸け、危うく相成候由。但し通行はかなりに出来候由。

一、天神橋は焼落ち、橋杭水の上に一二尺計り相見え申し候。

一、此度の総大将大塩平八郎父子天満より行方なく落行申候。并に瀬田済之助・近藤梶五郎・渡辺良左衛門・庄司儀左衛門〈三人は同心〉に以上落行申候。

一、十九日朝樋口氏与力某〈善人の部〉方へ火事見舞に行候処、同席に木屋善七〈伏見町唐物屋〉糟谷某の息小鼓抔居合候由。然る処表に鳥銃の音頻りに聞え候故、出て見候処、鳥銃処々に鳴り、抜身の槍・長刀・劒抔を持ち徘徊する者多く、石火矢を東より引来り打放し候を驚き、家来を連れ其儘遁出し、天神橋へ来り候処、通し不申故西へ遁来候処、青物市場辺にて一人抜身の槍にて乾物屋の表の物を突砕き居候が、樋口氏を見て、槍を以て向ひ来り候故又々取て返し遁候処、跡より追懸け来候故、最早間近く相成、無拠一刀を抜立戻り斬払はんと致し候へば、勢に恐れ候哉遁行候由。其時自身も亦天神橋へ来り候処、通行出来候間漸く遁帰り候由。扨々危き事なり。自身の話なり。

一、篠崎の西隣山田屋大助と云ふ者、天神の社南門を出候時、東より石火矢を引来り大言声にて、「来来の者早く遁げよあぶな」と呼ばり候故、東を顧み候処、石火矢に旗を立て、大将と覚しき者鍬形打つたる兜を著し、羽織・袴の侍手に火縄と采配を持ち附添居候を十間計りに見懸け、驚いて一散に遁帰候由

一、或人難波橋北詰へ出候処、東より石火矢を引来り候故、驚き西へ遁げ尼の屋敷にて見受候処、大将と覚しき「者焰硝を持来れ」と頻りに呼はり候得共、焰硝折節なかりしや、如何致し候か、其内橋を南へ石火矢を引渡しけり。橋の上なる人々一度にどつと遁行きしを見懸けたり。橋の北詰にて斯く呼はりしは、大根屋を打潰さんとの為なりける由、後に風説せり。

一、或人曰く其時橋詰の青物市場へ、紀州侯の荷物を揚げ候に付、悪党共石火矢にオープンアクセス NDLJP:25て打たんとせしかば、凶徒紀州侯の荷物を打たんとす荷物附きの人二十人計り、「是は紀州様の御荷物なるぞ、慮外すな」と呼はり「打たんとならば、我々を打つべし」と云ひければ、其人に向ひ空筒を打ちければ、人々ぱつと散りけるとぞ。

一、或者難波橋を半分渡りける処へ、石火矢を引来り候故、驚き立戻り遁げけるが、こけたりける其上へ追々こけゝる。欄干を持ち漸々立上り一散に遁げけれども、橋の南詰にて石火矢に追詰められ、欄干を越へ岸岐え飛下りすくみ居て、南詰の俵屋の西隣の酒屋を打つを見たりと云へり。

一、天満十丁目筋鳥居通り北へ入る所に、山本屋治兵衛と云ふ木綿屋は、我等知る人なり。其向に紙屋あり、其家へ吉田屋藤兵衛〈船津橋北詰の砂糖屋〉出火見舞に行き酒飲み居候処へ、ばらと来る故、覗き見候処、一人店の紙へ焰硝を懸け火を附け候故、驚き候て「御助け御助け」と呼はり候処「助けてやる、裏へ遁げよ」と云ふ声と「殺してしまへ」と云ふ声と一時に聞え候故、其儘家内諸共裏へ遁出候処、石火矢を表の二階へ向け打放し候由、跡を見ずして遁出たりとぞ。是亦危き事なりける。夫故山本屋は丸焼に遇ひたる由、今廿二日迄山治に逢はず。

一、天満南は大川、西は堀川、北は寺町通迄。東は川崎野原迄一円に類焼。朝五つ半時より九つ時迄に焼込す、誠に早き火事なり。

羽州の僧雪堂恵源一、羽州の僧雪堂・恵源と申すは、七絃琴の上手にて歳六十計り、書も能く書き申候。堺筋淡路町北へ入る西側の裏に寓居せり。出火の節手廻りの物を持遁げんと表へ出で、南の辻へ出かけ候処、辻の真中に石火矢居置き有之候故、驚き立戻り軒下に彳み居候内、大勢辻にて石火矢を見物致し居候者有之、甚だ悠々緩々たる事なりける。暫くして石火矢を少し西へ引戻し候故、此隙にと一散に南へ走り、人影十人計りと思ふ程行過候処へ、南より鳥銃持ちたる人三十人計り来り候て、「辻へ出火此処を打て打て」と頻りに下知する声の聞えけると、一時にぼんと夥敷鳥銃の声聞えける時、南の瓦町の辻近くにてこけたるが、此和尚のこけた脊の上を、三四人も踏越えたりと覚ゆる時漸〻起上り、北久太二丁目某寺へ遁行たりとぞ。察するに此所は彼首なき死骸の有りし処なれば、南より来りしは尼ヶ崎衆なるべし。扨此話を聞くに、オープンアクセス NDLJP:26石火矢を大勢見物し居たる抔甚だ緩々ゆるしたる事なり。天満を引き歩行たる時も、甚だ優長なる事にてありける由は、車を曳くに無拠捕へられて、暫時曳いて能き程にて遁げたる者の話なりけると聞きし事。

一、石火矢の前に小旗三本、三社の託宣を書ける由。大旗は上に二つ引き桐の紋附き、下に救民の二字ありける由、何れも白縮緬に染込の幟なりける由。

一、逆賊大塩平八郎始め同人党の出立は、肌に著込様の物を著用、上に具足を著たるもあり。火事羽織もあり。色々ありけるとぞ。又兜を著たるもあり。兜頭巾もありけるとぞ。百姓の方は常体の日庸体なりける由。

一、蕗州子曰く「与力町へ火事見舞に行きたる時、出掛に石火矢を引行くを見たれば、一人白垢を数枚重ねたる者附添ひたり。大方賊首大塩ならん」と云へり。

一、十九日出火天満と聞き、我等天満与力町辺に一向知音もなければ、五つ過堂島船大工町難波屋・鶉屋抔へ行き、火見より火を見るに、驟の事故暫時店にて話し居候処、角力取帰、り「今日の火事は恐しき火事なり。鳥銃抜身にて一向近辺へ行かれ不申、遁帰る由」申候。店方にて話しゝは、「与力町に喧嘩抔出来斬合候由、自焼して切腹致すならん。四軒屋敷故多分大塩氏対手ならん」抔話したり。扨帰りにも処々にて其噂計りなり。帰宅後船場へ火移りける後、逆謀の由風聞人々驚き擾乱となれり。我等も荷物片附け、廿二日夜此迄を認め終りぬ。

一、当一件は一朝一夕の企に無之由、西御奉行様御巡見の御通行天満へ御出の節、七つ時にも相成候へば、其節途中にて変事を起し、直様旗上げ可申巧にて有之候処〈従是上は風聞の説也〉十八日夜泊り番大塩格之助与力小泉某・同心両人其手都合内々申合せ居候処、立聞の者有之、早速公用人槍を以つて小泉を突留め候処、格之介は稲荷の社を越え遁亡候由風聞。〈此一条後に岡氏の文面にて実説相分り候。〉

一、十九日御巡見は十八日御触有之候処、十九日早朝俄に延引の由、御逹し有之。

一、或説に云く、十八日夜小泉某返忠にて内々巧の段、御奉行様へ申上候に付、大塩父子并瀬田(斉カ)之助御召寄御吟味対決中、返答に行詰り候節、格之介刀を抜き、小泉某が腕を斬落し候に付、御奉行様御怒りにて御手打に可成候処、瀬田(済カ)之助抱オープンアクセス NDLJP:27留め候間、其隙に大塩父子遁去候由、瀬田は連判切腹致し候共申候事。

一、十八日夜守口村吹田の百姓に施行致し遣候間、十九日暁天より大塩宅へ皆々可参候由申触候由。夫故早朝より百姓追々大塩宅へ参り候由。北より走来候百姓共、大塩は何処に御出にて御座候哉と相尋走り参り候者、何十人共不知と風聞。

大塩市民を語らふ一、十九日朝大塩宅にて百姓に申聞け候は、「此度万民救の為市中を焼打に致し候間、一味仕り石火矢の車を押行可申段申聞、不承知の者数人斬捨て候に付、百姓皆々恐れ一味致候由。〈後に大塩家宅焼場に死骸六つ埋め有之全一味に背き候者と被存候。〉

一、十八日夜八つ時過天満与力町にて、合図の烽火三つ上げ候由。

一、十九日朝百姓の目前にて、自分の妻・格之助妻子等不残斬殺し候由申候。或説には伊丹紙七と申す者へ、十四日頃大塩中八郎婦人を五六人召連れ参り、預置帰候故、家内には児女の類一人も無之共申す事。

大塩の扮装一、十九日与力町へ火事見舞に参り候人、石火矢押行くを見掛け候処、石火矢に附添居候者一人、白無垢の袴幾枚も重ね候者兜を著し居候由。其傍に抜身の槍又は刀を持候者数人附添ひ居候由。長刀も一人有之候由。白袴は大塩平八郎也と申候由。

一、十九日多坂氏〈与力にて善人方〉へ見舞に参り候者承り候は、早朝多坂氏の門長家の壁を摧き、蘆の長さ三四尺計りにて、円行灯位のもの一把擲込候処、忽ち火発し長家・屋根・床も一時に砕け候由、併し能防ぎ候哉、多坂氏一軒は残申し候由。門前は抜身奔走致候由見請帰り申候。帰路裏の竹藪を切開き、遁退き候由。藪間龍吐水の幅より五六寸も広く候に付、棄置候龍吐水を立戻り取帰り候由、此人は平生臆病らしき人に候処、今度は余程勇気の働に御座候。此一条自身の話なり。

一、十九日淡路町一丁目某家内夫婦・子供二人・下女□人の処、主人長病、妻は熱病にて平臥。下女も病気の処火事近く相成候処、頃長柄村親類より参り、妻を駕籠にて連れ、主人を負ひ遁退候節、下女・子供両人を背負ひ家を出でて半町計り参候処、抜身の真中故下女病中と云ひ、旁〻以斃れ候て、漸〻起上り後を顧み候処、已に其家へ石火矢を打ち、黒煙纒ひ候、見ながら遁退候由。

凶徒の器一、同日天満焼き歩行候節、旗三本三社の託宣并に桐の紋の旗は前条に記する如し。オープンアクセス NDLJP:28其外に題目の旗一本有之候由、見請候者有之の事、其外旗竿に巻附け有之候旗数本有之候由風聞。

一、十九日或人大塩方へ見舞に行き候処、大塩抜身の槍を提げながら、「其方は味方致すべくや不致哉」尋候間、恐敷候故「御身方致すべし」と申候へば、 て振り飯飯つ兵糧と唱へ相渡し、又喰はせもさせ、扨「何ぞ武術を心得候哉」相尋候間、「弓を少々致候由」申候へば、早速弓矢を渡し候間、彼弓矢を持ち跡に付いて、十丁目筋辺にて隙を考へ遁帰候との事。

一、十九日又或者参候処、以前之通申聞け承知の上、金子二両差出し、「是を持て」と申候間、其者申候には「金子は用意御座候」と辞退致し候へば、「然らば車を押せ」と申すに付車を押し、是も天神の東横町辺より遁出し、難なく遁帰り候由。

一、握り飯は五合の飯を二つ宛に握り候を、長持に凡そ五棹も有之と申す事。此五棹の飯出し候事、小人数にては相不成儀、如何致し候哉と申居る者有之、是は実説哉否哉を知らず。

一、伊丹の某と申す馬士両人を正月何れの頃か召寄候処、一人は不参、一人は参り候処、金子五両与へ、「其方に相頼候用事有之候。近日に人足入用に候間仕立申すべく、其節可申遣由」申聞候て帰宅の後、不参の一人へ右金子見せ候処、其者後悔致し参候はゞ、「我も五両貰ひ可申に」と申居候由。其後十八日夕俄に右の者を呼寄せ、金子十両与へ、人数何十人とか仕立て申旨申付候由。因て其者伊丹に帰り、彼一人にも申聞かせ、人足頼候へ共、夜中と云ひ急なる事にて人足一人前一朱宛可遣申候得共、一人にも出来不申故、今一人の彼不参後悔致候者と二人連にて、又々大坂へ参り候道にて、間道より歩行き途中何か道々一人々々まき参候間、彼一人拾取り見請候処、お祓の裏に紙を附け、「今度万民救の為、大坂市中焼打に致候間、皆々加勢可致候旨」附附け有之候に付、彼者驚き遁帰らんと致し候処、先の一人大に怒り、脇指出抜き斬付けんと致候に付、早速遁出し漸〻遁帰り候由、先の一人は参り味方致候哉、又は他所へ出奔にや帰り不来との事。

一、十九日朝大塩内に居申候若き書生、是は高槻か淀かの五百石も知行を取候侍のオープンアクセス NDLJP:29子息の由。勿論一味同心の腹心の若者に候処、大塩命令にて「兜を著よ」と申候へ共、著不申故、強て申候へ共、一向承知不致候処、引捕へ咽笛を抉り殺し候由。

大塩蔵書を売りて市民に施行す一、当月六日大塩平八郎所蔵の書物五百両計りの物を売払ひ、市中へ施行に金子を遣す由にて、書林四人に申付け、入札にて両度に売払候由。尤先の一度に売払候節の金子、天王寺辺端々へ施行に遣候由。二度目の金子は施行に施し候事は無之との事、此一段正月下旬より略〻相聞え申候。施行の節長文句のちらし版木に彫り配り候由、此ちらし如何様の書面なるや知らね共〈淡路町辺の井戸より揚候書物別紙に写栗亭に其書有之〉施行は乱妨前故、人々能く存居候。実説無相違也。

一、同廿日の説に、「各施行の儀は、平八郎隠居の身分にて〈天満与力の隠居は格録共無之者故町人も同様の事との御叱の由〉 気儘の致方なり」と、御奉行にて御叱り有之候処、平八郎申し候は、「斯る時節柄上より被仰付、大坂中豪富の町人に申付け、大施行可致申処、左様の事もえ不致、都て某の施行を御咎候事不其意候」抔、上を不憚法外の言共申出候て遁帰り、夫より逆謀を思付候抔との風聞有之候へ共、中々左様の急速の事にては無之哉との風説、翌廿二三日頃相聞候也。廿日頃には専ら是無相違様申触らし候事。

一、又或説に云く、右施行の御糺しの節、返答に行詰り、帰り候後御奉行様を怨み、弑逆の悪謀を思ひ付候とも申す事。

大塩凶乱に就ての諸異説一、又或説に云く、西御奉行様近来御出の節、両御番所御立会にて、平八郎を召出し被仰付候は「其方儀未だ老人と申すにも無之事故、斯る時節柄再勤致し、政事御手伝可申旨」御町嚀に御頼の処、平八郎大に立腹致し何か悪言を致し、不承知申し立帰り、其節より謀逆存付とも申候事。

一、又或説に、去冬平八郎東奉行所へ申出候には、「当時米価殊の外高直に相成候間、下々貧窮の者難渋仕候。何卒富豪の町人共へ被仰付、御城の馬場に於て大施行被取行、一人前余程の金子与へられ、并近年の闕所米を市中へ施行被成候へば、一軒前二三俵も当り可申候間、さ候へば市中余程の潤にも可相成候間、早々取行ひ被成度」との事故、御奉行にも尤に被思召、則ち十人両替へ被仰付候処、町人共御断申上候筋有之。御聞済に相成、殊の外立腹致し、夫より隠謀を企て、両御奉行所并豪オープンアクセス NDLJP:30富の町家を、今度打破りに懸かりしなりとの風聞。

一、或説に云く、元来去年来出雲屋孫兵衛と申合せ、江戸へ廻米の手段有之候処、江戸にて出雲屋の同類被捕召此儀白状致し隠謀露顕に及び候間、出雲孫は御吟味最中故、俄に旗上げなりとも申候事。

一、廿一日平野町辺の井戸より、鎧にて御出候由。尤公儀役人取出し能居候を見受候者の風説なり。取出し候節、早速古葛籠様の物へ被入候間、如何様なる鎧なりしや相分り不申候事。或者の云く「是は鎧ではなし、鎖帷子にて揚羽の蝶の紋〈賊首大塩の定紋也〉 附きたるなりし」との事、又其辺の井戸より白縮緬の幟一本引出し候由。是も公儀役人取揚候を見請候者の咄の由、如何なる旗なりしや知らず。此等は実説なれ共何れが実説なるや分り難し。是やこれ空にて誠にもありつくしなるらん。

岡翁助の書状

玉造与力岡翁助殿より道修町五丁目原左一郎殿へ来状の写し。〈但し原氏の子息の妻は翁助殿娘故縁者なれば〉

昨日は御手紙只今始て帰宅拝見仕候。十八日夕泊番より帰宅不仕候仕合、十九日午時東奉行山城守殿より、玉造方与力・同心御頼に付、無余儀与力五人・同心廿人罷越し手伝仕候。同日八つ時頃淡路町二丁目にて、大塩組の者平士二人士分と思しき者一人打留め申候。夫より大塩方何れへ参候哉、相知れ不申候。廿日夜には玉造町中焼討との流言に付、余程の手当致候処、何の沙汰も無之候。一昨日には東奉行・御城代より、段々の御頼に付、守口へ大塩組在之由に付、打取可申様被相願罷越し候処、守口庄屋三郎兵衛留守中へ参及吟味候処、何れも不相分。夫より吹田村へ罷越し吟味致候処、是も同様。乍去此地にて平八郎伯父罷在候。召取り申すべき心得の処、此伯父権八郎と申者、致切腹候由に付、引取申候。昨日伏見にて平八郎家来二人、守口村三郎兵衛三人手に入申候。未だ平八郎住居相知不申、扨々面白き事共に御座候。十九日より時夜迄伏不申候へ共、草臥不申候。右の事両三年目に有之候へば、術を退け不申は大慶仕候。一両町奉行衆京橋組与力は腹巻計り著用致候事にて、玉造方は平八郎如きに、右様の手当等は不致申候。乍去平八郎組ゟ打出し候鉄炮、玉造方陣笠へ当り打抜申候へ共、一人も疵負候者無之候。唯今オープンアクセス NDLJP:31より御城入に付、荒増申上候。尚拝面御咄可申上候 以上。

  当廿二日                   ひがし

      西様

右書状の名当の処西様と有之は、原氏の事。東よりとあるは岡氏自身の事にて、懇意の縁者故、東西にて事済候事と相覚え候。道修町五丁目は玉造より半里も西に相当り候故、如斯歟。

一、廿一二日平野町辺井戸の内より、革葛籠一つ出申候由。内には書物類入れ有之候と申す風聞。如何なる書物なる書物とも見たる人なし。

一、同じ辺の井戸より槍又は鉄炮抔も出で候由風聞。

一、難波橋通り何れか、路次の内に槍一本棄て有之候と申す者あり。

一、勘助島にて大塩組十四歳に相成候者被召捕候由。此者大筒を能く打ち候者の由、但し廿一二日頃也〈但し此者大塩出懸列に□歳にて松本林太夫と有之、其者ならんか〉

石火矢蔵炮の者召捕らる一、十九日八つ時頃、石火矢を平野町東より引来り、茨木屋の前より南へ一二挺引行く処、淡路町二丁目にて此石火矢・鉄炮召捕られ候由。尤大塩組遁退候節、自身に井戸へ槍・長刀・刀・石火矢・鉄炮の類抛込置き候哉共被察候。大塩組の遁退候節は、衣類も脱替遁退候哉とも申す人有之候。

一、十九日七つ時頃、堂島巴の辻にて、鉄炮かたげ候平士二人其辺の者集り、討斃し捕へ候由。又蜆橋を北へ一人遁候者有之候をも捕へ候との事。

吹田の神主一、吹田西の社の神主は其頃信濃守と申す由、平八郎弟也と申す事。此者前文岡氏書状中に有之。権八郎と申すは同人異名也。此者切腹と申す噂、其後養母を槍にて突殺し〈一説には刀にて両段に切候とも、〉百姓一人に手負せ候処、村中の者驚き表門に集り、彼首騒動致居候内、裏の竹藪を切開き遁亡候由。其跡妻子被召捕、養母の死骸は御検使立ち候て相済み、吹田村は人出入一切禁制致し居候由。

一、伝法屋親類右辺の在に有之。其大庄屋の後に御米蔵有之。其廻りに大池あり。其縁に人一人伏居候を危み、百姓二三人見に行き候処、大に叱候故皆々驚き引返し候へば、直接に咽へ刀を突刺し、其儘ざんぶとはまり候。早速神崎御張へ訴出で候オープンアクセス NDLJP:32へば、役人御出被改候処、切腹致し有之、仍て首切落し持帰られ候。其後死骸を長持に入れ来る様被仰付候て、大に騒動致候事右伝法屋へ見舞に見え咄有之候。是誠の吹田村の神主也。

一、又或説に右神主宅吟味致し候節、庄屋二人一町程も手前に牀几に懸かり、百姓大勢先に立たせ候処、気味悪しく候てどや申居候処、中に強気の者両三人竿の先へ提灯を括附け、わつと差出し候処、提灯の弓外れ候にや、そりやこそと遁出し候へば、跡の庄屋も牀几を返し、どつと一同に遁出し候。何の事も無之候故又々詰寄せ、今度は漸〻四五人内に入り候へば、味方の内よりやいと一言悪ちやり申候故、又々先の如く周章あわて候事、実に可笑き次第なりと申候事。

一、此玄蕃信濃守事、十九日早天長柄の渡場にて申候には、「我等も此渡場渡り候事今日限なり」とて、金一歩渡守に遣す。尤火事装束に槍を持居候由。扨其後其辺の穢多村へ行き、穢多を駆催し加勢に参り、終日相働夜に入り、吹田村へ引取候由風聞す。

一、本町辺の人、十九日出火見舞に参り候処、石火矢に出会ひ、悪党共不知見物致し居候処、先に鉄炮二三十挺切火縄にて行き、次に旗立て大勢抜身にて火事装束を著し参り、其次石火矢、其跡抜身刀三十人計り、其次革葛籠三荷、其次又抜身槍刀三十人計り、其次長持一棹、又抜身三十人計、其外色々物有之候由、都合二三百人も有之候由。難波橋を渡候間、跡に附参り候処、橋の中程迄石火矢放し候に驚き後へ遁戻り、本町へ遁帰り候処、本町辻にも亦、抜身槍・刀二十人計り立並び居候に驚き、其うしろを通り候処、「前を通れ」と申候故前を通り、漸〻帰宅致候由。本町の抜身は御手当の御人衆なりけり。扨天満にては、諸人一向逆謀とは不心付候故、優々たる事にて皆々見物致候程の事なれば、船場へ渡り候て人々始めて驚ける故、類焼は過半丸焼の由。

一、廿一日船場井戸より引揚げ候槍・大筒と申すは、十匁筒なるべし。石火矢は皆木筒なりけるとぞ。

一、十九日に大筒打ち歩行き候節。東与力町にて二挺破砕け、西与力町にて三挺破候由。大筒都合八挺の処、五挺は与力町にて破れ、船場へ引渡り(しカ)は三挺にて有りけオープンアクセス NDLJP:33るとぞ。

一、或人廿五日与力へ見舞に行候処、主人は留守にて僕計り囲ひを致し居しが申候は、「船場は大に仕合に御座候。八挺の石火矢五挺は与力町にて、三挺引行候なり。八挺皆船場へ行候へば、大変無此上事、大坂中を焼可尽も知れず」と申居り候。

一、二十三四日頃野鴫辺か、悪党の内一人切腹致し居候由風聞。

一、同日頃闇峠にて、一人縊死居候由〈具足著用の儘に候故大笑なりと申事〉

大塩召捕の風聞一、廿六日実説相分候。大塩父子専ら江州彦根にて被召捕候由風聞致候へ共、是は人違にて候と被存候。彦根家中の子息一人、大塩門人にて大坂へ参り居候へば、乱妨の節相雑り居候由。夫故彦根へ落行候哉と申す事、鳥井本より高宮へ越し、山中にて被召捕候と申す事此人ならんか。

一、四つ橋の下より刀五本水中より取揚げ候由。悪党共の抛込み置候なりとの風聞、但し八本抛込み置候と申す事。

一、庄司儀左衛門の妻乳呑子を抱へ、下部一人を召連れ、兵庫の親類へ落行候処、向に寄不付候故、有野屋徳蔵を相頼み候処、是も本人はえ不留段々の頼みに、下部の持居候包み出預り置候。三人は宿へ行候処、早被召捕候。有野家内不残大坂表へ御召出に相成候。右は実説。其外悪党共の妻子皆々縁者へ預置き候処、其頃早速被召捕候と申す事。

一、大坂宅焼跡に兜の鉢一つ・刀の身二本焼けて有之候。見来候者有之候。

一、勘助島にて召捕候十四歳の者、白状に、「去年三月頃より炮烙・火矢の玉を数百も張りて計り居申候」との事。

一、一件以前に焰硝蔵にて、革葛籠に二つ焰硝を相求候処、焰硝蔵にて余り沢山に買候故不審致し候処、何れか御大名方の御頼の由、焰硝蔵にも買人大塩故其儘に相渡し候由。但し其節角力取二人にて脊負帰候由風聞。

一、十九日淡路町にて被打捕候侍分と覚しきは、大坂近辺の神主にて、炮術師範仕候者打殺され候故、大塩組大に力を落し、夫より落行候事。坂本源之介是も炮術師範仕候者、右同辺にて被打殺候。

オープンアクセス NDLJP:34一、廿五日召捕人二人〈実説従是上〉胴丸駕籠に網を著せ来候由。此召人は与力・同心にて、廿三四日頃大坂近辺にて手に入申候なりとの事。但し廿一日伏見にて被捕候大塩守口村庄屋様にては無之候。

一、忠間と申す人の咄に「難波新地の縁家へ見舞に行き承るには、十九日七つ時頃火事装束にて、抜身の槍刀にて二十人程皆々に申候には、「権現様を和泉の岸和田へ奉(警カ)固の役人なるぞ、驚く事なかれ」と申し、南へ行候。其辺の者誠にと存居候処、東照宮様は生玉へ御越に候故、皆々不審致し居候処、大船一艘何丸共不知、行方の不分る船有之、是全く大塩組船にて遁出し候哉と皆々存居候事。」

一、中国屋の親類茨木にて大庄屋、此村尚御城代の領分に候。其故右庄屋百姓数人召連れ又同御領の庄屋是も百姓を召連れ、御城へ御窺に出候処、定路は吹田村への討手にて差支候と存じ、京橋への道へ巡り候処、渡場の(警カ)固皆槍・鉄炮にて相改、無障相済又候哉京橋にて、鉄炮の火蓋を切り抜身にて押捕に懸かり候故、我等御城代へ窺に出候由申し候へ共一向不聞入、皆々縄に懸り候。其故庄屋両人は頭へ疵を講け、人足も余程怪我或は袖を落され、又固障半被を抜捨抔を致し、大に騒ぎ申候。今朝河内より来る大塩組の百姓、多く此所にて被召捕、同日故斯不思仕合に及候。然れ共御正しの上早刻相済申候。

上町石火矢の為め焼かる一、十九日石火矢一挺高麗橋を渡り上町へ行き、八軒家より辺を打ち、夫より米平を打候故、上町の類焼殊の外火早く、殊に大火に相成候。

一、十九日に加島久加作抔を打立候由流言にて、此辺の者大に恐怖致し遁惑候なり。按ずるに、石火矢八挺なればさも有之処、三挺に相成候故、西辺へ持来候事不相叶と被存候。

一、鴻善は石火矢打候を内より戸を鎖し、畳三畳宛重ね防ぎ、其隙に土蔵を目塗り致候処、大塩組大槌にて戸を打砕候故、畳前へ倒れ候処へ、石火矢打込候間、皆々裏へ遁出候由。

一、或説にはさにあらず。裏より打込候に驚き、皆々土蔵戸前鎖し候て、目塗も不致遁行候故、蔵へ火入候。但し三ヶ所也。亦二畳は重置き打候処、畳へ小さき矢のオープンアクセス NDLJP:35如き物、幾つも火になり候が立候との事、遁後れ候者見請候と申事。

鴻池の蔵を焼く一、又或説に、鴻善奥方表より大筒打込候に付、大に周章蔵へ遁込候処へ鉄炮を放し候。其故死去被致候との風聞。但し後に実説は、衣裳蔵一ヶ所・手道具蔵一ヶ所・納屋蔵一ヶ所此内米も漬物も有之候故、漬物蔵或は米蔵抔と風聞致候。右三ヶ所火入申候事、

一、十九日平野町・茨木屋にて見居候者有之。石火矢平野町東より引来り、直に難波橋筋を淡路町へ引行候や。茨木屋前にて鉄炮にての出合は、無之候と申風す風聞有之。前文に記置候とは大違の事なり。何れか実説なるやを知らず。

一、天神表門少し西北側の餅屋表通を、十丁目へ大筒引行候を見て、大に周章店の戸をさし切候。悪党者偏執を起し、竹箒へ火を懸け、軒裏を焼廻り候。其故うち裏は土手の石塀にて遁道無之、家内不残焼亡候由。

 
 
 

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