浮世の有様/4/分冊6

目次
 
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浮世の有様 巻之九上(前)
 
 
天保十年雑記
 

騒々しき年も漸々と過行ぎて、天保十己亥の春を迎へぬ。然るに元朝も曇天なりしが、辰の刻より雨降り出でて、午の刻に至り漸々と止みぬ。されども曇りがちにして、晴るゝ事なし。二日辰の刻雨、巳の刻より午の刻迄大雨にて暫く止み、未の刻より時々小雨降る。三日晴曇不定、四日晴曇不定、巳の刻雪程なく止みしが、夜に入り再び降る。此日淀屋橋浜にて、米初相場を聞くに、

米穀の初相場肥後米百十九匁五分 同古米百二十四匁 同餅米百二十八匁 中国米百十一匁 同古米百十四匁 筑前米百九匁五分 同古米百十四匁 広島米百三匁三匁 同古米百十 肥前米百十四匁 同古米百十四匁 さ〆米百目 備前米百十 淡州米百十七匁八分 豊前米百十四匁 薩摩米百二十三匁 岡米百三百三 筑後米百十四匁 柳川米百十六匁 伊予米八十九匁 中津米百十四匁 加州米百二 米子米九十八匁 出雲米九十 秋田米九十八匁 岡大豆九十九匁五分 大豆百十一匁 大豆九十 帳合寄附百十三匁 高直 下直 大引 肥後米百十九匁より廿匁 大引九匁五分 筑前米百九匁三匁八分ゟ 十匁

 越年前凡  七十三万三千五百俵

昨年初相場との比価米価も高き頂上に比すれば、大に下直なる様に思はるれども、昨年の初相場よりも肥後米一石に付、十二匁計り高価なり。九州・中国筋等に沢山に占囲へる米を積登せなば、如此直段にて諸人困窮する事少なかるべきに、憎むべき人気なり。総べて米価につれて物毎に貴うして、何一つも安き物なし。諸人の困苦憐むべき事なり。

当月十五日、昨年来有栖川宮御内鎌田一件にて、御咎蒙り病死せし加島屋藤八が跡、悉く闕所となる。

盗賊横行近年盗賊至つて多く、傍若無人の有様なりしが、当春に至り所々方々へ、押入或は土蔵を焼切、往来の人を剥取る抔、言語に絶えし事共なり。大抵毎町に盗賊の入らざる町とてはなけれ共、尤も甚しき町は、一町内にて十軒より十二三軒余も門口・格子等をこじ放し、同類五六人より八九人連にて押入をなし、奪取りし品物を仰山に荷ひオープンアクセス NDLJP:157行過ぐる盗賊幾組共なく往来すれ共、町々の番人は申すに及ばず、盗賊方の役人と雖も之を見ながら、自身より之を避けて捕ふる事能はず、公儀もなきが如くにて、諸人夜も安眠する事なく恐怖する事限りなし。騒々敷事なり。斯かる中にて、早春より彼猫間川を玉造へ掘込み、東堀迄掘抜かんとて、玉造上町高津辺の人家の座敷・台所・土蔵等の差別なく、諸堀川修川筋の杙を打廻り、家蔵不残川筋に取られ、或は半ばを川筋に取られ抔して、如何とも仕難し。尤も夫々に代地を下し置かるゝ事なれ共、其処にて年来仕にせぬる商売の者外へ到りては其詮なく、差当り家建普請等に当惑致し、癪気暴に差込み、之よりして病人となりし者も少なからずといふ。斯様の事にて「跡部早く引取れかし」とて、諸人恨み思へる事甚し。之に限らず松島川筋等昨年来拵へし所の島を、次第々々に長くなし、大江橋の遥下迄打続く様になりぬ。早春よりして大勢の人夫此事に打掛り、盗賊の噂と川せゝりの評判区々の事なり。

唐津侯預所の一揆昨年来唐津侯公儀より御預所二万石計りの所、一揆をなす。元来此二万石は、当時浜松の城主水野越前守〈御老老中の筆頭大坂町奉行跡部城州の兄なり〉未だ左近将監と云ひて、唐津の城主たりし時、知行の外に密に私せし処なり。此人外様にて、御当家へ続き由緒ある家柄なれ共、御役を持ちて自己の権威を振はんと思へるにや、頻に御役家へ取入り、種々手入をなし、御譜代となられしが、其折節下地浜松の城主井上河内守鷹野に出でて、理不尽に百姓の妻を犯して、其咎に依りて奥州棚倉へ所替となるにぞ、是迄棚倉の城主たりし小笠原は唐津へ、水野は浜松へ所替仰付けられしにぞ、其節に至り年来密に私せし地面を公儀へ差出す。

之を其儘にて小笠原へ引渡さば、小笠原の益となるべき事なるに、是を公儀へ差出せしは、知行の外に浜松にて別に二万石の代地を下置かるゝ様にとの、欲心にて差出だせしといふ事也。此地所水野が力を尽し開発せし地面ならば、さもあるべし。所替に付ての私見之を是迄公辺を掠めて私せし田地なり。急度公儀よりして、其御咎有るべき事なるに、其御沙汰なく相済みしは、如何なる事にや不審千万の事なり。此一条に就て水野しくじりとなるべしと、世間にて専ら取沙汰せしが、更に其事なく却て引越せし後、間もなく大坂御城代となり、京都所司代を経て御老中となる。オープンアクセス NDLJP:158当時の勢飛鳥も落つるが如くにして、其盛なる事限りなしといふ事なり。又唐津を立退く節、寺沢志摩守已来城付武器其外諸道具等を多く持行きぬ。元来唐津は長崎の役を勤むる事故、城付の海船多く有る事なるに、新しき船をば悉く高直に売払ひ、何の益にもならざる破損せし古船を下直に買集め、船の員数を揃へて小笠原へ引渡せしといふ。士道に於て有るまじき事なり。又唐津焼の陶器を造れる者共は、其所の名物故一人も他へ出す事は勿論其処限りにて、他郷と縁組する事も、御公儀より御制禁にて唐津侯より左様の事之なき様、此者共を公儀より預り奉りて、厳しく之等の事なき様に制せらる事なり。然るに陶器造れる者共三人、地頭の権にて之を取込み、浜松に連行きて陶器を焼かしむ。之等の事、公儀へ対しても申訳なき事といふべし。又或寺に狭手彦が其妻佐用姫が菩提の為にとて、高麗より持帰り寄附せし半鐘ありしを、之を取寄せ城下の鋳物師久兵衛と云へる者に其通りなる似せ鐘を造らせ、之を其寺に返し、古半鐘をば之を取上げて、之をも浜松へ持行きて、其家宝とす。之等其寺に伝へ、天下に聞えし名器なるを、取去る事不法の業といふべし。主人如此所作なる故、一家中不残畳・建具は云ふに及ばず、家の敷居・鴨居其外何に寄らず悉く取放し、之を売払ひ大破に及び、其跡へ引移れる者如何共成し難き様になして引渡せしといふ。言語に絶えたる振舞といふべし。已に水野の前には土井大炊頭当城守たりしが、所替にて水野と交代の節、畳の表替襖障子の張替迄なし、破損せし処は夫々造作をなし、遠方より交代の事なれば、何れも差当り当惑なるべしとて、勝手廻りの諸道具抔其儘に附譲りになして、一家中不残引渡せしといふ。如此にあるべき事なり。水野侯の所行姦商よりも甚しく、武士道に於てあるまじき事なり。

年貢不納の村民騒動す此故に、右二万石の所公料となりて、其已後は小笠原の預りとなりて、之を支配し来りしに、昨年の年柄にて三箇村年貢聊も上納せず、之に連れて外に四箇村も不納なるにぞ、上納の儀頻に唐津より追立せりたつれども、公料にて御預地の事なれば、之を自由に取締まる事も成難く、百姓共も其心なる故、之を侮り少しも頓著せざる故、其趣を公儀へ訴へぬる内、はや年貢を積登せる船日の丸の印を立てゝ、貢米受取にオープンアクセス NDLJP:159出来れるにぞ、之を渡さゞる時は、小笠原の支配行届かずして公儀へ対し申訳無之故、小笠原手元にて上納米の員数を揃へ、其船に積登せしが、されども其儘にては捨置き難き故、頻に庄屋・年寄を招寄せ、百姓共へ厳しく申渡せしにぞ、何れも大に怒り、七箇村徒党をなし一揆を催す。人数千余人に及び大に騒動す。唐津より之を取鎮めんとて、郡奉行両人騎馬にて、其外代官・手代に至る迄、大勢の供廻りに、馳行きしに、忽ち百姓共両人の奉行を馬より引落し、散々に之を打擲し、半死半生にて如何共仕難きに至る。其余の者共も大きに辛きめに遇はされ、命から這々の体にて逃帰りしかば、案外の事故唐津にても此度は其手配りをなして、之を取鎮めんと思へ共、百姓の方には内家の浪人又先代の城主水野の浪人共数十人〈水野浜松へ所替の節、家来多く暇を出す。此者共詮方なく唐津近在に住居して、哀れなる暮しをなす者大勢あり。又小笠原の家中不埒にて浪人せし者共、何れも申合せ一揆の中に打交りて、何事も指図するといふ事なり。〉 一揆共に加担にして、其指図をなす事故、容易ならざる大変と思ひ、其備を設けて之を鎮めんと思へ共、山上に籠り、樹木・岩石を投落しぬる故、其辺へは寄付き難く、思の外なる大変なる故、甲冑を帯せざれば成難けれ共、是迄太平の沢を蒙り、浮々うか奢暮おごりくらせるのみにて治乱の事に疎く、小笠原家に於て甲冑の用意乏しき事故、肥後の小城へ暴に使者を遣し、具足百五十計り貸し給はれと頼みしに、小城とても同様の事にて、具足至て乏し。小笠原家肥後の小城へ援を乞ふされども無之と云へるも恥かしく思へるにぞ、「当家は万事本家よりの指図を受けざれば、我儘になし難し。其旨承知は致せしかども、一応熊本へ申遣し、指図を受けし上にて兎も角も致すべし。併し越中守在府の事故、江戸表へ申遣しぬる上にて、其返答承り候上ならでは相成難し」と、尤もらしく返答を取繕ひしにぞ、唐津には今眼前に一揆起り、一日も猶予なし難きに甲冑には乏し、小城の返答右の如くなれば、大に当惑せしかども、詮方なくて種々手段を尽し、一たんは一揆を取納めぬ。一度一揆を鎮定す〈一揆等の答に、唐津より種々手段を尽し、納得をなしぬる様申しぬる故、「然らば相鎮まり申すべし。さりながら偽りを以て吾々共を騙し、事納まりし上にて発頭人を吟味して、之を召捕らんとならば、訳て鎮まり難し。急度其事なく年貢不納も其儘に相済ましぬる様に」と申せしに、「願の筋は勿論、発頭人の吟味等は決して致す事なく、只何事も穏便に致すべし」と申すにぞ、「さ有らば兎も角もせん」とて一揆の者共相鎮まりしにぞ、かく賺し鎮めし上にて、発頭人数人を召捕へ、入牢せしむるにぞ、其約に背きし事を憤り、当正月より一揆再発し、又千余人党を結び、此度はあめ岳山とて唐津より五六里計り隔りし深山に楯籠り、其山の麓一方は鍋島家の領地なり。同家の領内の百姓も味方すべしとて、一揆共へけしかけし故、之が尻押を頼みにして、破竹の勢を振ふにぞ、小笠原より此事詳に公儀へ訴へしかば、直に鍋島家へ其旨御察当有りしかば、同家にも大に驚き、早使にて国元へ申遣し、あめ岳山の麓なる領分境に、大勢の人数出張し、之を厳しく相固め、山上の一揆一人も吾領内に入るゝ事なく、オープンアクセス NDLJP:160吾領中の者をも一人も境を出す事なく、厳重に其固をなしぬる故、一人も山を下る事成難しといふ。〉一揆再発す早春に至り、再び一揆起りし故、大勢の人数を以て、小笠原と鍋島と両家よりして前後の麓を固めて、一人も山を出る事ならざる様に之を取切りて、厳重に固めぬる故、後には一揆大に困窮しぬれども、両家とも江戸伺にて、公儀の御指図を待ちぬる事故、互に陣を張りて動く事なしといふ事なり。小笠原家至て困窮故、領分は申すに及ばず、御預地迄に畳一畳敷に付、八文宛の銭を取立てし故、一揆等小笠原家の不法を訴ふ之よりして一揆起りし故、郡奉行両人騎馬にて之を鎮めんとて馳付きしを、鳶口にて馬より引落し、散々に打擲せし故、家来共は主人を見捨て、這這の体にて逃帰りしといふ。之に大に狼狽うろたへ出し、小笠原の手にて取鎮め難き故、鍋島家を頼みしかば、鍋島家より役人を遣せしに、一揆一人も之に手指しする者なく、無礼なき様に道路を警固し掃除をなし、頭立ちし者共之を出迎へ、大庄家の宅にて種々馳走をなす。役人よりして其趣意を尋ねられしに、小笠原家の無道なる事を申立て、奉行・代官等三四人の名前を指して、「其者共を退役せしめ政道正しき様になし下さるべし。さあらば速に相鎮まり申すべし。斯かる仕義に及びぬる無拠故の事也」と、申すにぞ、其旨一々聞糺し、「何事も唐津へ掛合ひ程能く取計らふべし」と之を諾ひしにぞ早速に治りしかば、其上にて発頭人を詮議して、之を召捕へぬるにぞ之を憤り、

名指されし処の唐津の役人共は、皆押込と成る。又百姓共不法の願ひ有れ共、一揆を取鎮めんと思ふにぞ、「一々之を聞届くべし」といへるにぞ、「然らば其旨承知して、打鎮まるべし。併ながら相鎮まりし上にて、発頭人を詮議し召捕らんとならば、之に従ひ難し」といへるにぞ、「決て其事なし相鎮まるべし」と之を賺し、鎮まりし上にて数人召捕り入牢せしめし故、一揆等之を憤り、当正月の始めより七箇村申合せ、あめ岳山の半腹に小家掛をなし、米穀多く貯へ、先代唐津の城主水野の浪人当時の浪人共大勢寄集り、百姓共を引廻すといふ事なり。水野所替の節家来大勢暇を出し、此者共是非なく在・町等に住居すと雖も、近年の年柄にて大に困窮せし故、一揆へ悉く加りしといふ。又小笠原唐津へ入城以後、不恙の事にて町人・百姓・馬士の類に辱めを蒙り、手疵を受け大小を奪はれし者、又は不義密〔〈通脱カ〉〕の事抔にオープンアクセス NDLJP:161浪人となりし者共、所替りてより未だ格別の年数にも非れども沢山の事にて、此者共対州領・公料等其近辺に住居して有りし者共、大体一揆の加担すといふ。斯る騒動故唐津にても人数足らざる故、一揆に組せざる浪人共を悉く召返しと成りて、手配の人数へ差加へられしといふ。小笠原家の狼狽甚しき事なりといふ。又一説に、小笠原困窮に付、公儀御預所迄も畳一枚に付八文宛の日銭を軒別に取立てし故に、一統大に困窮に迫り、依之一揆起りしといふ噂あり。されども之は信用し難き事なり。自己の領地に於て、斯かる苛政なせる事諸侯の中にも之有りて、已に先年一揆を起せし事あり。丹後の宮津之なり。小笠原いかに不道なればとて、御預地へかゝる事なしぬる様なし。こは全く浮説なるべし。自己の領中には其事を申出し、厳しく之を申付けしかども、其折節公料に一揆起りし故、領中へ申付けし日銭の沙汰も其儘に止まりぬ。已に領中の者共も公領と共に一揆せんとするの勢せし故、早々其事を止めにせしといふ説あり。こはさもあらん様に思はる。同家所替以来の不始末は、委しく聞込みし事有りて、前巻に書記し置きぬ。夫等の事とよく符合をなす、詰らぬ事といふべし。之を見て思ひ計るべし。又小笠原の政道不法なる事故、之を他国へ所替なさしめんとて、昨年公儀御巡見の節、無法の事共数箇条駕籠訴せし事有りしかども、之取上げぬれば、騒動を引出しぬる故、御巡見にもこれをば取上げなかりしともいふ。

当春早々より再発し、山中へ引籠りしにぞ、小笠原・鍋島等の人数にて、双方より山下を固め、公儀よりの御指図待ちて只其出口を取切りしのみにて、双方共一向に手出しをなさゞれば、一揆共山籠りせしのみにて、一人も出る事能はず、貯置きし処の食物も次第に乏しく相成り、鍋島領の加勢を頼みしに、之も一人も出来らざれば、何れも大に困窮し後悔するに至るといふ。

関播磨守仕官に失敗す近江国日野川筋に、関播磨守とて五千石を領する旗本、此人御役に就かんと思へども、当時節には過分の賄を以て権門家に取入らざれば、立身も役就きも成し難き事なり。され共勝手向不如意なる故、領知の百姓共へ賄金を過分に申付けしか共、百姓共も至て迷惑の事なる故、之を軒別に差出しぬれ共、申付けられたる員数の半ばオープンアクセス NDLJP:162にも至らざる故、彼此と呵責をなして余程隙取りしにぞ、其間に外の旗本何某とやらんいへる人、権門家へ過分賄をなして、播磨守目指せる処の役となりぬ。播磨守には賄を遣捨てながら、少かりし事故、賄の金子遣ひし丈は同人の損となりて、空しく埋木となりしかば、大に力を落せしが、之全く領分の百姓共が、申付けし如く用金を出さゞりし故なりと之を憤り、大島某の奸計用人大島何某〈之は先年石山の辺、鈍子の口を切開き、湖水の水を落し、近江にて新田をこしらへんともくろみをなせし、今平といへる中村玉助といふ河原者の召遣し者が、手代に使ひし者なりしが、山子にて今平と共に少々金儲せし故、其金を以て関が家の用人に住込みし者なりとぞ。〉とやらんいへる者出来り、「主人播磨守が望を失ひしは、全く己等が用金を出さゞりし故なり。其分に拾置き難ければ、新規の田畑残らず取上げ、公儀へ差出しぬる故、其旨急度心得べし」と厳重に申渡せしにぞ、〈日野川筋年々の洪水にて、播磨守が領地へ土砂流込み、之迄数十年来の事故、本高の外に新規の田畑多く有りて、其中には無年貢にて百姓の作りなるも、年貢を出せる処とても、新田の事なれば聊の事なる故、之等悉く取上げらるるに於ては、百姓何れも大に迷惑なり。大島は素より山子にて金子を貯へ、用人に住込む程の曲者にて、今平と共に先年此辺の有様をも篤と心を留置きし事故、何事も委しく知れり。主人役付きなば己も多く利を得んと思ひしに、其事ならざりし故、其仇にかゝる事申出し、領内の痛をも構はず、右の新田悉く公儀へ差上げなば、其功によりて御恩借を蒙りて、役付の道を開くべしとかゝる事申出でて、只己を利せんと謀りぬる事と覚ゆ。〉領内の百姓共之を聞いて大に驚き、愁訴せんとて一統に申合せ、凡そ六百人計りの人数、日野河原に寄集りて其評定をなし、百姓騒動大に騒動する様子なる故、大島が計らひにて、之を驚かして取鎮めんと思ひ、陣屋よりして空鉄炮を百姓の集まりし方を目当に、三つ四つ計り放し掛けしかば、百姓共大に憤り、之よりして人気立逆り、銘々河原にて手頃の石を携へ、陣屋を目当打付くるにぞ、大島も今はたまりかね、何卒して之を鎮めんと門外へ馳せ出でて、百姓共を言ひ宥めんとせしかば、わざとに之を手近き所迄誘寄せ、百姓共何れも銘銘に持てる処の石を打掛け、此期に臨んで何事をか聞くべきや、「やつ故にこそ斯かる大変をも引出されぬ。敲殺せ、打殺せ」とて、六百人余りの者共が銘々打付くる石なれば、総身共に何処彼処用捨なく、滅多無上に打付けられ、一身大に疵を蒙り、命から這々の体にて漸々に陣屋の中へ這入り、之より固く門戸を閉して、大に狼狽す。斯様なる有様故、其防ぎはいふに及ばず、外方へ其防を頼に遣す人をも出す事能はず、大に慄ひ居るのみなりしにぞ、近辺に有りぬる旗本の陣屋よりして、彦根へ加勢を頼み遣せしにぞ、物頭四人大勢の人数を引連れ早速に馳来り、直に之を取鎮め、大島をば京都へ差出しになりしといふ。之も正月下旬の事なりし、

オープンアクセス NDLJP:163西国に米成金を生ず近年凶作にて高価の米穀なりしにぞ、九州より中国筋は年々宜しく、米穀も沢山なりしにぞ、之を占売りになして高価に売払ひ、格外の金儲せし事と見えて、正月の末よりして、九国・中国筋よりして伊勢へ参詣する者仰山なる群集にて、一頃は寅年の御蔭参の如し。沢山なる米を占囲ひて、多くの人の咽締をなし、之に依つて餓死せし者数十万人に及べり。人倫の道に背きたる所行にて、神明納受あるべきものに非ず。悪むべき事なり。〈沢山なる米を占囲ひ、利を貪りし事は昨年は申すに及ばす、巳年已来の筆記に委し。〉

梶木町の火事に就いて所罰旧冬変を引出せし梶木町天川屋の火事によりて、其々罪科を蒙りしが、鎌田追放となりし跡、家財不残当八日悉く闕所と成り、其外旧冬手錠と成りて、町々へ御預けとなりし、講世話方屋敷・家守等手錠を免さる。大変の事なりし。

備中松山城下の大火当月中旬の頃より、米直段少々宛下落す。廿五日晴、廿六日晴、廿七日晴、申の刻微雨直に止む。廿八日晴、廿九日曇晴不定、今日備中松山城下七部通りの大火已に八箇年大火にて八部通り焼失せしに、今亦大火にて焼失す。彼地より申越せし書状の写、左の通り。

去月廿九日午の上刻、間の町足軽長屋ゟ出火致し候処、殊の外大火に相成り、松山七分程焼失仕り候。怪我人等は御座なく候。漸〻、暮方下火に相成り申候。毎度の大火恐入り恥入り候次第に御座候。小生同町は幸にて今度も免かれ、有難き御事に御座候間、御同慶可下候。未だ火残居候処も有之、尚又焼出され宿かり客も有之、混乱中甚だ乱筆一寸右の段申上候。尚重便可申上斯に御座候。

恐惶謹言

  三月三日                  佐木弁内

三月十日曇、辰の刻雨、直に止む。午後より快晴。今夕上町に火事ありしが聊の事なりし。米価次第に下落し、肥後米一石九十三匁五分、長門米一石九十匁位となる。十七日晴、当月始めより平野大念仏寺、其外難波等に開帳ありて参詣人引きも切らず。昨年道明寺の開帳に等し。盗賊の噂相変らず甚し。当月二日江戸大火、左の通り。

江戸大火当月二日申の刻、本所中の郷表続き、荒井町より出火、折節西南風強く、同所一町程焼オープンアクセス NDLJP:164け、向ひ松浦肥前守殿中屋敷へ火移り、表門御殿向残らず、尤長屋は少し残り、夫ゟ中の郷元町へ飛火、西側半町、同所北条采女殿屋敷残らず、猶又小梅代地町業平橋通り此辺四五町程焼け、三廻別当延命寺表門計り、隣南蔵院残らず、此時風烈しく小梅瓦町中程へ飛火、板行屋の板行夫より引船通り百姓家・町家南側残らず、小梅・四谷百姓家・受地・幸島辺迄所々焼け、漸々子の刻頃に火鎮まり申候。同日申の中刻小日向莚谷(逸が谷カ)五軒町より出火、折節西南風激しく大塚台町へ焼抜け、小石川御簞笥町凡そ二町四方程焼け、近辺残らず、同極楽水松平播磨守殿上屋敷・松平大学殿上屋敷・白山御殿跡へ飛火、夫より巣鴨御駕籠町町家・姫路下屋敷・土井大炊頭殿下屋敷残らず、千駄木へ飛火、御鷹匠組屋敷焼け、其外近辺所々焼け、同夜子の中刻に火鎮まり申候。

 右之通り従江戸申越候に付、此段為御知申上候。已上〈同日同刻に焼出し、同夜同刻に双方共火鎮りし事、怪むべき事也。〉 当年は豊作なりと一統に見込みし事と見えて、九国・中国よりして追々米を積登せぬる故、人気も少し立直りしと見えて、板行屋出せる番付等の板行を見るに。

     天保十亥年大新板 有難い御治世御治世末代ばなし 米価の比較文政十二年丑十一月白米一升に付 代百二十四文 天保四年已七月迄格別の高下なし同年八月下旬米一升に付 代百四十文 同九月中旬 代百四十八文 十二月迄格別の高下なし天保五年午正月より 代百五十四文 二月中旬 代百五十八文 三月中旬 代百六十四文 四月下旬 代百七十文 五月中旬 代百八十文 六月中格別の高下なし七月上旬 代百三十二文 八月中格別高下なし九月中旬 代百十文 十月・十一月格別の高下なし十二月上旬 代百文 天保六年未の正月 代八十四文 八月迄高下なし九月上旬 代百四十文 同十二月迄格別の高下なし天保七年申四月白米一升に付 代百二十文 同年七月迄格別高下なし八月上旬 代百六十四文 九月上旬 代百七十八文 十月中格別の高下なし十一月中旬 代百五十文 十一月より 代百八十文 十二月迄格別の高下なし天保八年酉正月白米一升に付 代百七十文 二月上旬 代百八十八文 同十八日 代百七十六文 同日夕方には 代二百廿四文 二月十九日大火にて、相場相分らず四五日も相休む。尤市中米売買相休中にも、商ひ致候店は、直段左之通二月廿一日朝 代二百十八文 同廿二日 代二百三十二文 同廿三日・廿四日 代二百四十文 オープンアクセス NDLJP:165同廿五日より堂島相場改始まる 代二百五十文 三月節句迄相場変らず同九日より十二日迄 代二百五十六文 同十二日より十八日迄 代二百五十八文 同下旬 代二百六十文 四月上旬 代二百六十四文 四月中旬より五月上旬迄 代二百七十文 五月下旬より六月上旬まで 代二百八十四文 七月上旬麦一升に付 代二百五十文 六月中旬より七月上旬迄代三百八十文・三百九十六文〈御上様より米銭御施行、端々裏々迄も残らず頂戴す。又町町の大家よりも、米銭の施行余多之あり恐多くも御仁政の程末々迄も子孫に伝へ御厚恩の有難きを忘るゝなかれ〉小豆一升 代二百三十文 大豆一升 代百九十二文 空豆一升 代二百四十文 薩摩芋百目に付 代三十八文 きらず玉一つ 大代六十八文小 三十八文 握飯一つ 代十五文 南瓜煮売一切れ 代五文 わらび餅 代二文右等の店出し市中辻々に之あり何れも大はやり 同七月下旬白米一升に付 代二百六十文 八月上旬 代二百五十文 九月上旬 代二百四十文 十月上旬 代百六十文 十一月中旬 代百三十文 十二月下旬 代百二十文 天保九年戊午月上旬白米一升 代百三十文 二月上旬 代百二十四文 三月上旬 代百三十二文 四月上旬 代百二十四文 閏四月中旬 代百十六文 五月上旬 代百二十四文 六月上旬 代百五十文 七月中旬 代百五十八文 八月上旬 代百五十四文 九月中旬 代百五十八文 十月上旬 代百六十文 十一月上旬 代百七十四文 十二月中旬 代百六十二文 天保十亥正月上旬 代百六十文 同中旬 代百五十六文 二月上旬 代百四十二文 同中旬 代百三十六文 同下旬 代百十八文 三月上旬 代百十六文 同中旬 代九十六文 同下旬 代八十六文 〈追々米其外諸色共下直に相成候故、市中自ら賑ふも、実に治まれる御代の功也。猶今年より豊作打続く前表なるべし。〉

 
 
 

この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。