金沢の敵討仇討の原因華奢の取締旗本への触書座摩の宮奉仕の神主の不行跡虎薬師猫間川へ清正を勧請加藤清正家中の掟天候不順なれども米価下落す盗賊の横行浮説紛々大塩一揆の狂言大入狂言の外題大塩一件脚本の筋書安治川口酒宴の場山中善右衛門宅の場三井呉服店の場大将軍御殿の場天王寺の場三字屋五郎兵衛宅の場川口の場脚本の作に対する評論江州三上山の女泥棒女賊公儀の不行届を嘲る強欲なる商人と士丹州織田家のお家騒動九州中国の不作大なる蜂の巣山蜂の闘争江戸作割水戸侯の御触書米価騰貴と売買の取締り佐渡の一揆京都明暗寺虚無僧一揆所司代の悪徳と町奉行の貧民救助米価調節占買占売惜の禁制物価調節と運賃の制令大坂の火災東町与力萩野庄助と有栖川家役人との争闘藪医者鎌田碩安米屋佐兵衛の悪謀米屋佐兵衛手代の狂言自殺有栖川蔵屋敷留守居の不礼鎌田修理の傲慢調達講の仕置島屋理右衛門の不埒後家傘屋梅近江屋藤兵衛の不埒加島屋伊助の淫行三つ子を生む紀国屋武兵衛妻の不行状森本市蔵の妻八百屋平兵衛阿蘭陀屋彦右衛門妻の不義悪行篠崎長左衛門町預となる法華不受不施の徒召捕らる有栖川宮一件沸騰す有栖川宮家の諷歌酒造制限と悪徒の謀計飛田の怪虫の噂船大工の妻の珍事金銀の金物買上げ西の丸普請金銀召上げ倹約と御老中評定
敵 二百五十石 馬廻り組山本次太夫舎弟 山本孫三郎生年三十三歳
討手 三十俵 御供押へ足軽 近藤忠之丞生年三十五歳
【仇討の原因】右忠之丞実父雲田忠太夫、七ヶ年以前山本氏へ取(立カ)替銀在㆑之処、返済方遅滞に及び、数度之催促致し候得共、最早十二月廿九月に至り手段無㆑之、右に付議定を破り候事共申立て候得共理合に迫り、不㆑得㆓止事㆒夜半堀川笠市場途中にて透し討に討果候。然る処見使場にて口書の趣過言申聞、聞捨て難く候と申す事なり。元来忠太夫儀、当所御大名の家来小性組を相勤め居候得共、六十余歳年老と申し、一円手向ひ不㆑得㆑致殊に闇討の事に候へば無敢相果申候。併し武士道を失ひ老体ゆゑ、主人其儀を憤り、組柄を足軽の由にて相答へ、無是非山本切徳に事落著、誠に忠之丞に於ても嘸残念千万、如何之有るべき哉と取沙汰致し候。其砌忠之丞在江戸にて詰中に候へば、日頃実体の人柄御奉公全く相心得、帰国も不㆑致其儘に打過候処、同人妻儀さる人の娘にて其親達薄情の人柄故、不取敢娘に申含め暇を乞はせ候処、忠之丞折好くも幸ひと心得、暇を遣し独身に相暮し申候内、月日推移り当年迄無㆓何儀㆒、世上の如何様なる評議も不㆑厭御奉公相勤居候。中には朋友共噺に事寄せ色々諫め候節も、聊〻左様の気色も見えず、跡にて聞候へば是迄の骨折種々有之様子、何分敵孫三郎夜分抔外出致さず、学校へ出候外多分他出の砌は、多くの連も有㆑之故、兎角手掛りの時節無㆑之、其内に或婦人を以て謀候事有㆑之候得共、中々図に落不㆑申、彼此と忠之丞心配の程被㆑察候。其外密に出でんと謀り候事候へ共、数度に候へば略㆑之。于時天保九年五月十三日朝五つ時過ぎ、孫三郎学校稽古に出で、其節の衣類藍納戸に片喰の紋、馬乗単袴にて通行の処、道に待受け、則高岡町小堀平右衛門殿門前に出合声を懸け候処、孫三郎若し人違には無㆑之哉、推参なりと言儘刀を抜き放し候へば、忠之丞不㆑透抜合せ、思込みたる刀の切先、不㆑計も孫三郎受太刀となる所を畳掛けて切結ぶ。然る処忠之丞、孫三郎が真向に斬付くる引刀にて、右の腕に深手をおほせ候へば、孫三郎堪兼ね其儘脇指に手を掛候処、飛還り組留め、終に首を討取り、孫三郎小風呂敷に書物を懐中せしが、血付きし首を傍なる溝川にて洗ひ、其風呂敷【 NDLJP:96】に包み、又自分の刀を洗ひ拭ひ鞘に納め、其儘菩提処堀川智覚寺廟所へ持参、花を手向け其前に首を居置き、念仏を称へ直様本堂に拝し、終つて向の川を渡り行かんとする処を、多の見物跡を付けしが振返り見て、笑を含み安々川を渡り、夫より老母の方へ立寄り、早々に物語せし処、母も仰天し声も不㆑合打臥候へ共、見捨て乍ら立出で、大樋町端奥深き宮境内にて、浅黄縞単物・葛布袴に血の付きたるを脱捨て、終に逐電致候。誠に白昼と申し、忠之丞勇々しき有様、皆人感じ申候。且孫三郎舎弟此事聞くと等しく、抜身の槍を携へ駈付候へ共、行方不㆑知空しく帰り候由に候。依㆑之御縮方喧嘩追掛者役二騎早馬にて御駈付御座候得共、事済みし跡故、先夫々其処御堅め有㆑之、忠之丞召捕の役人追々出立有㆑之候得共、是は掟と申す者、多分召捕は有間敷と申沙汰に候。前代未聞の事に御座候。
諸大名方へ被㆓仰出㆒書付之写楯紙也
【華奢の取締】近来質素節倹の儀取失ひ、専ら外見をのみ心掛け、奢箇間敷き、族も有㆑之哉に相聞候。右の風儀に有㆑之候へば、自ら勝手向も不如意に相成候て、勤向并武備の心掛、家中領内の手当迄も心底に不㆑任様に可㆓相成㆒哉に候。常々倹素にても不如意に候者は不㆑及㆓是非㆒候。倹素の儀を心掛け不㆓行届㆒候。不如意の儀のみ相欲候は、一己の不覚悟にて候。享保年中に被㆓仰出㆒候通り、衣食は勿論、嫁娶の規式・饗応并普請、其外道具類及び供廻り等の儀迄堅く相守り、倹素相用候て、下々風儀の手本弥〻厚く可㆑被㆓相心懸㆒候。
未八月
右之通天保七未年相触候処、近来忘却致し、衣食住共奢侈相募り、又は供連候外見を飾り、自然困窮に及び候族も有㆑之哉に相聞候。殊に此度西の丸炎上に付ては、莫大の御入用に候間、公儀にても格別御倹約被㆓仰出㆒候事に候へば、何れも厚く心を用ひ、来々子年迄三ヶ年の間厳敷省略可㆑被㆑致候。且又右年限中は供連の儀、一統格外に致㆓省略㆒、減少の趣等銘々大目附・御目附へ相届候様可㆑被㆑致候。尤衣類等随分麁服を著し、召連候家来共�類見苦しく候共苦しからず候。都て無益の費を省き、武備非常の手当専一に心掛け可㆑被㆑申候。右之趣可㆑被㆓相触㆒候。
【 NDLJP:97】 四月
万石以下御旗本之面々へ申聞候覚半切紙
【旗本への触書】一、衣服・諸道具等随分有合を用ひ、古く候共見分無㆑構可㆑用㆑之、新規の儀可㆑為㆓無用㆒候。朔・望・廿八日、其外御規式等の節は格別、平日白小袖著用に不㆑及候事。
但上著只今迄島類著用無㆑之候。向後有合に著用すべき事。
一、家来の衣服猶以て見苦敷候とも、被㆑用候程は可㆑用㆑之、并綿布取交候共、何れにも勝手能き様に可㆓申付㆒候。尤女の衣服可㆑為㆓同然㆒事。
一、家作等不㆑急儀は無用の事。
一、総て公儀へ懸り候儀は各別、家督・嫁娶を始め、一類中贈答只今迄の半分たるべき事。
一、家督・嫁要の振舞は近年御定の趣を以、尚又軽く致すべし。其余の祝儀等は吸物・盃事にて振舞無用に候。小身の輩は一向に無吸物・盃事たるべき事。
但、常々参会平日用ひ候給物の外、少しも取繕申間敷事。
一、可㆑成程は知行所の者召置可㆑然候。総て相対に召置候者も何様にも用事相弁じ候はゞ、男振に無㆑構可㆓召置㆒事。
右之通三ヶ年急度可被相守候。已上、
亥二月
近年町方・在方にて菓子類・料理等、無益の手数を相掛け結構に致候者共有㆑之由に候。右之類其儘に差置候ては、風俗益〻奢侈に相成り不㆑可㆑然儀に付、差留候様可㆑被㆑致候。都て食物類高直の品売買致間敷き旨申渡候歟、不㆑用者有㆑之者吟味之上急度咎申付、且又食物商人迄も相減候様可㆑被㆑致候事。
一、往来にて無益の食物商ひ候者、近年増長致し候段不㆑宜事に付、向後可㆓相成㆒丈け、相減じ候様可㆑被㆓申付㆒事。
【座摩の宮奉仕の神主の不行跡】十八日時々雨にて、申半ば過ぎ迄降りしが、夫より雨止みし故御霊の渡御ありしかども、此間よりの雨にて川水高き故、淀屋橋の浜迄にて川の渡御はあらず、粛々たる有様なり。十九日晴曇定まらず、夜に入りて雨終夜止む間なし。慕過に雷鳴有り。【 NDLJP:98】二十二日晴、座摩祭り至つて淋し。此宮の神主至つて不行状者故、至つて貪窮し、己が諸道具・衣類等悉く売払ひ、屋敷は家質に入れて利銀さへ遣すことなく、神宝は申すに及ばず、神輿其外祭の道具迄悉く質物に差入れぬる故、昨年の祭礼には例年の渡御をなす事能はざりしが、今年は御旅所の砂持をなし、其上りし所の金子にて漸く質受をなして、当年は渡御有りしと云ふ。不埒なる事と云ふべし。博労町難波天王の祭も至て淋しき事なりと云ふ。〈之も神主不埒にて、御咎を蒙り籠居中なりと云ふ事なり〉廿三日曇、未明より雨、午の刻止みしが又時々降り、暮より雨は止み冷風吹く。廿五日晴。昨今天神祭、是は外々の神事と違ひ、地車十番も出でて至て賑はしき事なりし。廿八日曇、辰の刻ゟ雨休降定まらず、此四五日は先日頃と違ひ、漸々と冷気、少しく残暑らしき様子になりしか共、何分不時候にて雨天続なりしかば、種々に宜しからぬ取沙汰をなし、米価四十匁余り引上がる、姦商の所業悪むべき事なり。当四月の事なりしが、【虎薬師】東御奉行の指図にて、北新地三丁目に在る所の薬師堂を猫間川へ引移す。之にて人寄せをせんとの思付きなりと云ふ。元来此薬師は堀江に在りぬるを〈此薬師如何なる故にや、虎薬師と云ふ。年来堀口にあれども格別之を信ずる者なし。北の新地近来至つて淋しく、遊処立行き難き様子なる故、之にても引受けなば相応に参詣人も有りて、自ら所の賑ひにもならんかと、人家を取払ひ暴に薬師堂を建立し、娼婦等大勢群れ集ひ、囃子・練物等にて仰山になして連れ来りしが、よく〳〵不徳の薬師と見えて、一向に参詣する者も稀にして、処の繁昌どころにてはなく、処の厄介物なりし。〉三四年已前此処へ移せしなり。【猫間川へ清正を勧請】又御奉行より肥後の屋敷へ御頼にて、熊本の清正公を猫間川へ勧請有る。六月廿二日屋敷よりして猫間川へ送る。〈之は肥後の旅宿屋松屋何某とやらん云へる者の家に持伝へたる木像なりと云ふ事なり。〉清正は、太閤秀吉公肱股の一人にして、諸人能く知れる処なり。此度鳳城の南へ勧請せらるゝ事、彼神霊も嘸満足なる事なるべし。是全く生前に智仁勇の三徳を兼備へしが故なり。此人の生前家中へ被㆓申出㆒し箇条書左の如し。
大身小身に限らず侍共可㆓覚悟㆒条々【加藤清正家中の掟】一、奉公の道油断すべからず。朝寅の刻に起き候て兵法を遣ひ、食を喰ひ、弓を射鉄炮を打ち、馬を可㆑乗候。武士の嗜能き者には別して加増可㆑遣候事。
一、慰に可㆑出存候はゞ、鷹野・鹿狩・角力、斯様の儀にて可㆑遊山事。
一、衣類の事、木綿・紬の間たるべし。衣類に金銀を費し、手前不㆑成旨申者可㆑為㆓曲事㆒。不断身上相応に武具を嗜み、人を可㆓扶持㆒。軍用の時は金銀可㆑遣候事。
【 NDLJP:99】一、平生傍輩附合客一人、亭主の外咄申間敷く候。食は黒飯たるべし。但、武芸執行の時は多人数可㆓出合㆒事。
一、軍礼法侍の可㆓存知㆒事、不入事美麗を好む者可㆑為㆓曲事㆒候事。
一、乱舞方一円停止たり。太刀を取るは人を斬らんと思ふ。然る上は万事は一心の置き処より生ずるものに候間、武芸の外乱舞稽古の輩可㆑加㆓切腹㆒事。
一、学文の事可㆑入㆑精。兵書を読み忠孝の心掛専要たるべし。詩・聯句・歌を詠む事停止たり。心華奢風流に成りて弱き事に存候へば、いかにも女の様に成るものにて候間、武士の家に生るゝよりは、太刀・刀を取つて死する道本意なり。常々武道の吟味をせざれば、潔き死は仕憎き者に候間、能々心を武に極む事肝要に候事。
右条々昼夜可㆓相守㆒、若右之箇条難㆑勤と存輩於㆑有㆑之者、暇を可㆑申。速に遂㆓吟味㆒男道不㆑成者の印を付、可㆓追放㆒事不㆑可㆑有㆑疑、仍如㆑件。
加藤主計頭清正在判
侍中
右の如き三徳を兼備へし名将にて、諸人其霊を尊び、神と崇めぬる程の人なれども、其子広忠至つて愚人にして、其家滅亡するに至る、可㆑惜事なり。
五月奥州に一揆起り騒動せしと云ふ。
【天候不順なれども米価下落す】晦日曇、巳の刻微雨、夜に入り大雨冷気甚し。肥後米一石百二十五匁、之は公儀より厳しく御取締り有る故に、是より直段引上ぐる事なり難き故なり。さらば米一石を買はんといひぬれば、百三十五匁位価を出さゞれば手に入る事なし。稲に実のれる時節に到り、此の如き雨天続にて冷気甚しき時には、大に不熟なれども、当時にては少しも構ふ事なく、稲も程能く立延びて株も十分に張りて、さのみ稲の構ひになれる程の事には非ざれ共、種々様々の風説をなし、米価を引上げんとのみ計りぬる事悪むべき事なり。かゝる悪商共三五人程宛毎度召捕られぬれ共、頓と絶ゆる事なし。七月朔日晴、之よりして天気定まり暑気も烈しくなりて、二日・三日・四日とも晴天にて残暑益〻甚し。こゝに於て姦商もせんすべなくて、米価十匁計り下落するに至る。 【 NDLJP:100】【盗賊の横行】七月二日御城代井上河内守殿著、四日御入城有り、近来盗賊五七人程づつ一組になりて頻に徘徊し、処々方々に押入をなし、土蔵の錠前を焼き切るなど甚しき事なりと云ふ。其外白昼に家々の昼寝油断等を考へ、密に物を盗める賊抔沢山の事なり。処に寄りては大抵戸毎に物を取られぬる事なりといへり。
盆前米も大に下落せし故、盆後初相場よりしては次第に下落すべしと、諸人何れも其心なる故に、姦商共利を貪らん迚其裏をかき、九州筋は大雨降続き、洪水にて仰山に田地を流し、中国筋同様の事にて至つて不作なり。【浮説紛々】北国は大しけにて寒気冬の如くにて、苗かじけて一円に延びず、奥羽は飢饉にて関東筋も至つて不作なり抔とて、頻に悪しき風説を言触らし、次第々々に米の価を貴うす。九州洪水の噂は虚説には非れども、稲は元より水草の事なれば、何の障れることも非ず。尤も久留米領は九州の内にても地形至つて低き処故、大に不作なりと云ふ。されども久留米の不作と他国の豊作と等しき事にて、格別に水の患ひなき年には、米の取入他国の三増倍も之有ありと云ふ事なり。此外米一条に拘はらず、宜しからざる取沙汰のみなり。先御老中水野越前守不首尾にて籠居せられしが、終に切腹せられぬ。石川主殿頭と土岐山城守と、殿中に於て争論し刃傷に及ぶ、赤穂已来の大変なり抔と少しも跡形もなき浮説を言触らす。又跡部城州は
【大塩一揆の狂言大入】昨年二月大塩が乱妨の事を、軍書の講釈共早速に之を書記し、四五月の頃には九州辺にて之を講じ、大に流行りしと云ふ噂なりしが、当年は又市川海老蔵抔といへる【 NDLJP:101】芝居の者共九州へ下り、【狂言の外題】肥後熊本に於て芝居興行し、大流行にて数十日見物に行く者群をなせしと云ふ。外題は其暁汐満干といへるとぞ。夫より下の関に到り又之れを興行す。此所には外題を大湊汐満干と改め、芸も少々仕組を変へしと云ふ。是まで下の関にて芝居をなすに、三十日の芝居未だ二十日に至らずして、見物人大に減少することなるに、此芝居始りて百日に余りぬれども、見物する人愈〻増さりぬ。五里も十里も隔りし所よりして、大坂の騒動見物に行くとて、出来れると云ふ事なり。【大塩一件脚本の筋書】大序の幕を開くと、大坂安治川口の掛りにて、足利将軍此所に遊宴有り。執権職に阿曽部山城といへる者有り、此者叛逆なり。【安治川口酒宴の場】此者の思付にて、川口に浪除山を拵へ、木津川口に千本松を植ゑ、入船の便利宜しく、土地繁昌なさしめんとて専ら其催し有り。小塩貞八といへる者其叛逆を知り、浪除山の無用なる道理を述べて、将軍の前にて大に争論有りて、山城、小塩に言ひ伏せらる。将軍之を大に憤り、其場に於て小塩貞八に暇を出し、遊宴しらけしとて、場処を木津川千本松に移して再び酒宴を設く。小塩一人捨てられて先の処に在り。貞八が女房忰弓太郎を召連れて出来り、色々の仕打有りて幕。【山中善右衛門宅の場】其次山中屋善右衛門とて大金持の町人の宅にて、主人善右衛門は大馬鹿者作りなり。此者新町の太夫に惚込みて他愛なき仕打、手代に長兵衛・伊兵衛といへる有り。此者共は至つて律儀者なり。此店へ浪人せし処の小塩貞八。筑前屋敷の使者と偽り、大金を騙りに来る。伊兵衛・長兵衛騙られて已に金を出さんとす。此家の出入に三字屋五郎兵衛と云へる者、其騙なる事を見顕して、密に伊兵衛・長兵衛へ囁きぬるにぞ、両人共之を心付き、品よく其場を云ひくろむ。小塩貞八は騙を仕損じ、悠々として立帰る。夫より廻り道具にて夜中の体、主善右衛門蚊帳を垂れて、太夫と寝て居る処の座敷の模様なり。此処へ小塩貞八大勢の手下を引連れ出で来り、蚊帳の四方を切落し善右衛門を踏飛ばし、刀にて脊打にし、太夫を己が側に引寄せ置き、手下共は土蔵の戸前を打破り、金子十万八千両奪取り、貞八が前に之を持運ぶ。貞八是を指図して手下共へ持たせ、太夫を引立てゝ出行くにぞ、阿房仕立の善右衛門手下に締上げられて居ながら、つまらぬ顔をなし、慄ひ慄ひ可笑き身振あり。手下の者小塩に向ひ、「此阿房奴は殺すべきや」と云ふ。貞【 NDLJP:102】八振返り、「其阿房殺すに及ばず、助けやれ」と言捨てゝ出で行く。それにて幕。【三井呉服店の場】三段目は三井呉服店の掛り、此家の番頭阿曽部山城が叛逆に与みし、大悪無道の者にして主家を押領するの工み有り。此家の娘至つて美しきにぞ、之をも己が妻にせんとて、頻に之を附廻しぬれ共、娘之を嫌ひて諾はず。店に新参の手代格助といへる者有り。娘之を恋慕し数々口説きぬれども、格助其心に随はず、娘大に之を恨み恥ぢて死せんとするにぞ格助其本心を明し、「我が此家に奉公に来れるも大望ある故なり。其望さへ叶ひなば其心に従はん」と云ふ。娘「其望いかなる事」と問ふにぞ、過分の金子入用の事を云ひ、「金蔵の鍵を盗み出し我に与へなば、金は勝手に我取出すべし。此事聞入るゝに於てはわが妻とすべし」と云へるにぞ、娘大に悦び、「心易き事なり」とて、金蔵の鍵を密に盗取りて、格助に之を手渡せんとするに、番頭忽ち是を見付けて、其鍵を取上げて大に騒動と成り、娘を折檻し格助を打擲せんとす。かゝる折から遠攻の太鼓聞え、大勢の軍兵此処へ攻来り、瀬田才蔵といへる者、槍を引提げ一番に店先へ踏込み、大に勇を振うて突いて廻ると、舞台は云ふに及ばず見物の場中思ひも寄らぬ処よりして鉄炮数十打立てゝ、暴卒に大変の騒となる。夫より廻り道具にて、此度は座敷先金蔵の前にて、格助は娘を後に囲ひ、乱髪大肌脱ぎにて必死の働をなし、其場を切抜け娘と共に立退く。之にて幕。其次に幕開くと、足利将軍御殿の掛りにて将軍出座、【大将軍御殿の場】局頭三津ノ局に付いて、小塩貞八帰参の事を願ふ由を云ひて、程よく御前へ執成をなす。将軍暫く思案有り、「外ならぬ其方が執成なれば、許して帰参を致さすべし。此後急度相心得、決して諫言致さじるやう急度申渡すべし」との上意故、三津ノ局大悦びにて、直に貞八を御前へ召出し、上意の趣を三津ノ局より篤と言渡し、御目見をなし、将軍よりも直の上意にて、「此後急度相心得、神妙に相勤め、決して無用の諫言致すべからず。許し難き者なれ共、外ならぬ三津ノ局が執成故許遣す」となり。。貞八大に悦び、平伏して之を謝し、直に開き直つて種々の諫言をなすにぞ、将軍大に叱り、「帰参申付けたる其席に於て、又もや入らざる諫言、今は其儘捨置き難し、手討にせん」と言儘に立上りて、太刀に手を掛け、已に之を抜かんとする処に、「先づ暫く御待あれませい」と、花道より声掛け、阿曽部山城悠々と出【 NDLJP:103】で来る。貞八は少しも騒がず、「諫言御聞入なきに於ては、死は素よりの覚悟なり」とて、少しも動ずる事なく、始終平気の体なり。阿曽部将軍に向ひ、「委細はあれにて承る。重々不埒の貞八、御憤は御尤なれども、御前の御手を下されるはいかにしても余りに勿体なし。私に御任せあるべし」とて之を止め、貞八に向ひ、「只今御手討に相成る処なれども、古傍輩の好を以て、之を申し宥め遣す間、此処に於て切腹致すべし」と申渡すにぞ、貞八大に悦び、「素よりかく御諫め申上ぐるの上は、御用ひなきに於ては、御手討になる事は覚悟せし事なるに、士道を以て切腹仰付けらるゝ事、全く傍輩の好を以て貴殿の計ひ忝し。切腹すべし」と其座を去らず、差添を抜き腹に尖立て、左より右へ切廻し苦しきこなし有るを、阿曽部山城大に悦び、之まで邪魔に成りし奴を殺しぬれば、今は我が思ひの儘なりと云ふ様子にて、こゝに於て忽ち叛逆の色を顕す。貞八之を見済し引廻せし差添を取直し、後ろ様に山城を突貫き、左の手にて懐より血だらけになりし猫の死骸を取出し、側へに之を打付け立上りて、山城を切伏せといめを刺す。之に依つて御殿大に騒動し、大勢の捕手貞八を取巻き、大取合と成ると遠攻にて太鼓聞ゆ。之を相図に桟敷場・舞台の差別なく、思ひも寄ざる処より頻に鉄炮を打立て、大軍攻寄せ大合戦となり、御殿を打砕く。正面の襖ばた〳〵にて倒るゝと、向大坂市中の体にて、一面の火にて大焼打の体。暫く取合有りてばた〳〵にて道具替ると、【天王寺の場】天王寺の東御勝山の体、夜の景色にて至つて物凄し。小塩貞八乱髪にて敵を切抜け、血刀を引提げ此処へ出来り、市中の焼くる様子を眺め、一息つきぬる処に、どろ〳〵にて貞八が後ろに三津の局が姿顕れ出で、貞八々々と呼立つるにぞ、振返りて何事と問ふ。局貞八に向ひ、「今迄は深く隠せしが、汝は我等今川家に仕へし時、誰とやらんに忍び合ひ懐妊せしが、世間奥向を憚り、生み落すと其儘汝を捨てしが、後の印に斯様々々の物をば添へ置きぬ。其方に其覚えあらん」といへるにぞ。貞八大に驚き、何事も符節よく合ひぬるにぞ、扨は誠の母なりと打解けて談じ、「将軍は今川家の讐なれば、其讐を報ぜよ。今汝に授くる物有り」とて一巻を取出して、之れを手渡しす。之切支丹の妖術の巻物なり。之を渡し何かと言残し、暫くすると又どろ〳〵にて、局其処へ倒れ伏すと其儘白骨となる。〈之、先年大塩【 NDLJP:104】が戴許せし切支丹豊田貢が事を取組みしなりと云ふ事也。〉遥か脇より龕灯灯灯を以て、其始末を始終見て居る者有り、之を宇治山藤三郎と云ふ。貞八と顔見合せ、双方共無言にてこなしありて、其儘幕なり。此度幕開くと、ちやり場にて何かちやら〳〵せし事の由、其次の幕開きぬると、此度は三字屋五郎兵衛が宅にて、【三字屋五郎兵衛宅の場】蔵の内に格助と三井の娘と両人を囲まひ有り。宇治山藤三郎討手に出で来り、五郎兵衛取合有り。一五郎兵衛が計ひにて、両人共密に落し遣りぬる仕打なり。【川口の場】夫より廻り道具にて川口の体、小塩貞八は甲冑を帯し、弓太郎と共に船中に宇治山藤三郎は大勢の捕手を連れて岡に有りて、互に闘争あり。小塩貞八重ねて再会し、勝負を決すべしと船を漕出す。之にて芸終ると云ふ。
【脚本の作に対する評論】右は戯場の様子委しく聞きぬれ共、余りにくだ〳〵しければ之を略し、只其大意を記すのみ。川口浪除山無益なりと云ふにつきて、神武天皇東征の節、川口に於て難船ありて、浪速の故事に始り、紀貫之が土佐へ下る迚、此処にて難に遭ひし抔、古今の証歌を引き、其外川口の事につき、水利の事を考へ、其難なからん事を欲し、古今種々に手を尽し、色々の評論あれども、川上に近江の湖水・木津川加茂川・桂川等ありて、上より自然と土砂流れ出でて川口に湛へ、潮の差引につれて揺流し押上げ抔して、日夜に水筋種々に変化する事故、人力を以て如何共成し難く、夫故古より其儘にして有る事なるに、多くの金銀・人力を費す迄の事にて、今浪除山を拵へ大浚へをなせしとて、何の詮なき上に市中の遊び場所となるのみにして、其無益なる事を論じ、山城を言込めし処、其外一体の趣向文盲なる者の作意とは思はれず。大塩一件未だ其御戴許さへ之なき程の事なるに、人々の名字さへ一二字計り変へしのみにて、公儀をも憚らず、斯る事に及びぬるは如何なる事とも分き難し。
【江州三上山の女泥棒】近江なる三上山に、十四年余り住める女の強盗有りて、百人近き手下を引廻せしと云ふ。昨年十二月下旬、近辺の町へ此者の手下出で来り、鰤三頭を買ひて持帰りぬるに、商人の云へる儘なる直段にて一銭をも値切る事なく、速に其価を払ひしにぞ、豊かなる年と雖も、其近辺にて一頭の鰤を買求むる者は至つて稀なる事にて、大方は切売をなすと云ふ。殊に昨年は諸国飢饉にて、乞食となり餓死する者其限り知られざる程の時節なる故、鰤など買へる人は定めて稀なるべしとの見込にて、いつも【 NDLJP:105】仕入れぬる三分一計り手当致しぬるに、一向に之を求むる者なければ、商人も大に困り果てぬる事なりしに、其価をも値切らずして三頭迄求めぬる事故、之をいぶかしく思ふ処より、其買人を心に留めて見るに、何とも怪しき様子なる故、其帰りぬる跡を見え隠れに付けて行きしに、三上山に入込みし故、山中に盗栖家有る事知れて訴出でしかば、地頭より之を取巻き、終に賊主の女并手下の二人を召捕り、直に京都へ差出しと相成り、御奉行処に於て是を御吟味あるに、元来「京都西陣の産れなるが、十九歳より賊となり、三上山に隠れ栖みて当年三十三歳に至る。【女賊公儀の不行届を嘲る】多くの手下を引廻し、年来盗賊をなし、手近なる三上山に住居せるを、十四年余も之を知れる事なく、漸く昨年手下の鰤を買ひしに依りて御召捕となる。鰤を買はずば定めて今に知らるゝ事はなかるべし。公儀の御政道も不行届にして、至つて鈍きものなり」とて、嘲り笑ひぬると云ふ。又「是迄賊をなし、押取又人を殺害せしこと如何程なりや」と尋ねらる。「年来の事故、其数限なし。され共人を殺害せし事なし」と云ふ。是迄強盗をなして押取せし処々家々の名を吟味有るにぞ、女は笑を含み、「賊をなして人家へ押入る者、大抵富家にして、金銀多くあらんと思へる家へ押入りて、財宝を奪へる事故、素より其名を知れる先々に非ず、何の故にか其町処其家名等を知り弁へんや。少しも用なき事なり。左様なる馬鹿々々しき事御尋御無用」と云ふ。「然らば是迄多くの金銀を奪取り、如何やうなる事に遣ひ捨てしや」と尋ねらる。「是迄奪取りし金子は多くは貧人へ施し、又難渋にて借らんといへる者にも之を借しぬ。借らんといへる者に遣らんといへるも如何なれば、其言に任せて貸しぬれ共、借すといへるは只名目のみにて、元来富家の金銀たゞ取来れるなれば、始より遣る積りなる故に、其人々の処も名も知らず。書付など取りしは一人もなし。例へ如何程厳しき責に遭へれば迚、此外に申す事なし。早く死罪に行はれよ。素より覚悟せし事なり」迚、其後はいかなる拷問に掛かりても、口を閉ぢて一言の答もせざりしと云ふ。されど手下の者共厳しき責に遭ひて、何か白状せしと云ふ。六月に至り、引廻し獄門となりしと云ふ。至つて手強き女賊にて、大に評判す。此者の手下なりし男女の賊共大坂へ出で来り、死あばれにあばれ廻れる故に、盗賊至て多く、騒々しき事な【 NDLJP:106】りなど、専ら風説せし事なりし。
【強欲なる商人と士】尾州名古屋何町とやらんに、香貝物を商ふ人と呉服屋とやらんと、二軒共至つて欲深き商人有りて、其利強き事甚しく、諸人之を悪まざる者無しと云ふ。されども左様に利強き者共なれば、二軒共に至つて勝手向宜しく、金銀多く蓄積すと云ふ。七月十四日の事なりしが、徒士一人此家に七十五匁の払あるにぞ、之を払ひに出で来り、銀子を出し、七十五匁の払なれ共、五匁丈は負けになしくるゝ様にと、之を断りぬれ共、一向に之を聞入れず、数〻押して断りしかば、「決して一銭もまくる事はなり難し。然らば其五匁の銀子夫程ほしくば進んずべし」と云ひしにぞ、其士大に憤り、「買物の直を直切るは相対の事なり。我は上より御扶持切米を給はる身分の者なり。其方共の合力を受くる身分に非ず、不埒の言を申す者なり。今は負くるに及ばず」とて、七十五匁速に払ひ、「今日は用事有れば重ねて思ひ知らすべし」とて、其場を引取りぬ。十六日に至り、一統に精霊送りする事、世間一統の事なるに、町家にても此両人を悪まざる者兼ねてなかりし事なるが、此度何れも申合せて、両人の表へ精霊送りなし来りて、山の如くに積立てぬ。内より出でて之を制すれ共、数百人の事故力及ばず、門を閉ぢて密み居しに、士千二三百計り何れも手拭にて其面を包み、手々に棒・斧の類ひを持ちて両家の門を打破り、家財・雑具は云ふに及ばず、家・土蔵迄も打砕くにぞ、町家の者共大に悦び、何れも是に加勢し、数万人の人数にて大あばれせしと云ふ。家内の者共命から〴〵逃出でて、早々上へ訴へ出しかども、兼ねて不評の者共なる故、何者がせし事共知れざる由にて、事済みしと云ふ。百姓共の潰ちせる事は珍らしからざる事なれども、士の徒党して町家を打潰せる事は、世間にも稀なる事なりと云へり。
丹州柏原織田家騒動の一件
当戌六月二日九つ時頃、脇坂中務大輔様表御門潜りの方より、婦人一人素足にて駈込み、「主人一命に掛り候大事、御助け可㆑被㆑下候様奉㆓頼上㆒候。【丹州織田家のお家騒動】委細は口上にて可㆓申上㆒候へ共、先づ荒増は願書に相認め候由にて、西の内紙にて書認め、上包美濃紙折懸にて持参仕候に付、先例の如く取扱ひ、自分参上の間へ入置き休息申付け、番人【 NDLJP:107】其外諸事手当御座候。極内願の趣は、主人先々代出雲守様御嫡子織部様、公儀御目見も相済み御勤の処、年過ぎて御死去被㆑成候に付、御次男大学頭様を以て御嫡子に被㆑成、先代山城守様と申候処、御実子様御二方迄御座候へ共、是を差置き御舎兄様への御孝心の儀に被㆓思召㆒、右織部様御子を以て御順養子に被㆑成候処、無㆑程御家督御譲り山城守様も御隠居に御座候。当近江守様は如何思召候哉、御養父山城守様御実子御二方御懇にも被㆑為㆑在候へ共、皆廃人迚何の御沙汰も無㆑之、御実子を以て御嫡子に御願可㆑被㆑成御内存にて、両三年以前ゟ内工相催し、松平伯耆守様御家老河村又左衛門殿を以て内望相催候へ共、兎角御隠居山城守様御部屋おほの殿事不承知にて、品々理を尽し御諫め被㆑成候事故、御内巧の妨に相成候迚、御勝手向に事寄せ、御在所丹波国柏原表へ追登せ候思召に有㆑之候処、此儀は難渋の由にて、此度は権威を以て押して可㆑申迚、伯耆守様御下地なれば、来春正月中には早々御国元へ罷登り可㆑申由、若又及㆓故障㆒候はゞ、首に縄を付け候ても引立可㆑申由、厳密に被㆓仰渡㆒候段、無㆓是非も㆒仕合、全く柏原表へ追登せ候後は、非業の死亡も可㆑仕。眼前の様子内々風聞承り候上は、主家の大事・主人の存亡、不㆓容易㆒企、寝食不㆑被㆑仕、卑女の身分にて対㆓御上㆒恐多く奉㆑存候へ共、不㆑得㆓止事㆒御訴訟奉㆑願候。
右一条に付、御用人共より松平和泉守様へ参上仕り、御内々相何候処、此儀水野越前守様へ相伺候様御指図故、直に罷越し前文の通り相伺候処、何れも御主人様御殿の御事故、早々可㆓申送㆒御報は是ゟ可㆓申述㆒旨御挨拶に仍つて、夕方御切紙にて家来召出し、使差遣候処、無㆑程越前守様ゟ御直書を以て、右の一条は両三年巳前ゟ内々流布も有㆑之、則ち大切の一件にて候へば不㆑成㆓等閑㆒明日登城の上、御用部家へ御差出可㆑然哉と思召候。右婦人儀は御手厚被㆓取扱㆒御尤の由、被㆓仰進㆒の御切紙差出、使の儀は公用方物書心得違にて差出候由、右切紙の儀は取戻し使差遣候へ共、御留守居添役体の仁御掛合にて取戻し候由、翌三日登城の節御用部家へ御持参御列座、御内意有㆑之、同四日夜五つ時過、御切紙にて家来召出し右の一条、未だ聢と致候事も無㆑之哉、寛宥の御沙汰被㆓申聞㆒、急度家事穏便に取計可㆑然様被㆓仰渡㆒候。
【 NDLJP:108】 山城守妾ほの〈六十歳、〉 ほの召使しま〈三十歳〉 〈しま宿神田富山町二丁目代地家主革足袋商売〉丸屋小右衛門
五月廿五日
〈織田近江守家来家老代用人〉岡田五郎左衛門〈四十歳〉 佐々敬象〈六十一歳〉 大目附槙田慎輔 高山八郎兵衛〈三十八歳〉 〈留守居添役〉田村要右衛門〈四十歳〉
右於㆓評定所㆒一通尋の上揚屋へ入、出牢の心得を以て有馬其太郎へ御預被㆓仰付㆒、寺社奉行牧野備前守・大目附神尾豊後守・町奉行筒井伊賀守・御勘定奉行深谷遠江守立会、紀伊守申渡候。御目附柳生伊賀守罷越。
岡田五郎左衛門 佐々敬象 槙田慎輔 高山八郎兵衛 田村要右衛門
右の者共今日評定所に御呼出に付差出候処、入牢の心得を以て、吟味中有馬其太郎へ預け申渡候段、附添差出候。家来の者へ申渡候段家来の者へ申渡御座候。此段御届申候。
織田近江守
生駒主鈴
京都町奉行所へ御呼出の上、彼地にて被㆓召捕㆒、道中網乗物にて五月廿七日著、同廿八日出評定所揚屋へ入、同廿九日御預け。
松平伯耆守〈五月廿六日より登城無之〉右一件御用掛り水野越前守
封廻状
〈織田近江守召〉しま・〈近江守養父隠居、山城守妾〉ほの 尋の上大和守家来へ預け差返す。〈織田近江守家来家老〉生駒主鈴。尋の上森肥後守家来へ預け差返す。〈同家来家老代〉岡田五郎左衛門・佐々敬象・〈大目附〉槙田慎輔・高山八郎兵衛・〈留守居助〉田村要右衛門。尋の上有馬其太郎家来へ預け差返す。〈組頭〉須佐美茂三郎・〈賄頭奥勤兼帯〉富本卯兵衛・〈徒士目附〉幸加納幸六郎、尋の上揚屋へ差遣す。〈神田富山町二丁目〉家主七左衛門・〈同人女房〉かよ。尋の上町役人へ預け差返す。
六月七日
六月下旬の頃なりかと覚ゆ、酒井大和守殿へ御預となりし処の、柏原の囚人自害せしと云ふ。同じき頃松平大和守殿へ御預となりし大塩掛り平山助右衛門も自害せしと云ふ事なり。
【 NDLJP:109】八月七日、夜三更上町出火、家数二十五軒計り焼失。七月下旬より此節に至るまで寒気至つて甚しく、布子を著するになほ寒き程の不順の気候なり。米価百二十五六匁位。十五日晴、今夕月蝕。
【九州中国の不作】豊後国明礬山より水溢れ出で、至つて洪水の由。筑前国洪水にて、蘆屋辺三万石計りの処溜水一丈計り、六月より七月にかけて田畠一面に浸りし事故、水引きて後稲株腐りしに、其腐りし株よりして新芽を生じ、穂を出す。其実入大抵七分作位の事なり。是等すら此の如き事なれば、九州より中国筋すべて七八分の作なりと云ふ噂なり。されども近年米価高直なる故、何れも身分相応に米を貯へぬると、諸侯にも近年は世間騒々しく、折々一揆乱妨等の事抔国々に有りぬる故、少し其心構も有りぬるにや、何れも米を貯へ持てる事と見えて、長州萩の城下にて白米一升百六十文、長府の辺にては百三十八文なりと云ふ事なり。
廿三日未明より雨、夜に入り風雨烈しく終夜止まず。米価此五□前には百十五六匁位に至りしに、次第上りにて百二十匁位と成り、一石の米を求むれば百三十目余に成る。之を白米になす時は百五十文余に当る。盆後よりして堀川の砂持又々大はずみにて、近来に至りては身廻り行粧、天神・御霊等に異なる事なく、戎島よりは神事に出す処の人形船を飾り、囃したて行きぬる抔けしからざる事なり。廿四日曇、未の刻より雨、【大なる蜂の巣】先達てより福島上の天神の宮へ蜂巣をかけしに、玉子形にして高さ一尺廻り二尺八九寸計り、又高松の屋敷山本半九郎能舞台にも同様に巣をかけぬ。之は天神の巣よりも少々大なり。山蜂の里に出でて巣をかけし事、是迄大坂抔には古来よりなき事なれば、大に之を珍らしがりて、見物群集すること日々に甚し。之に依つて天神の社内にては見せ物・力持等を始むる程の事なりし。又西の宮蛭子の社にも同様に巣を作りぬる故、之も珍らしがりて大勢の見物絶えざりしに、廿四日何れより出来りしやらん、【山蜂の闘争】大なる山蜂数百其巣を破らんとするにぞ、巣中の蜂悉く出でて之を破られじと争闘すれども、之に敵し難く、外より来れる一羽の蜂に十計り掛りて挑み戦ふと雖も、悉く整殺されて之を防ぎ難く、残る蜂皆散乱して巣を十分に破られぬ。同廿五日上福島天神の巣も同様の事にて大戦有りしが、之も仰山【 NDLJP:110】に喰殺されて巣を散々に破らる。其辺の人々大勢来りて、外より来れる山蜂を多く打殺せしかども、之を事ともせず十分に巣を乱妨し、悉く飛去りしと云ふ。予も其噂を聞きし故、其後通り掛り之を見たりしに、巣は大に破られ、蜂の死骸其辺に散乱し、奇怪なる有様なりし。九月朔日辰の刻微雨、午の刻止み、未の刻より再び降、夜に入り止まず、二日曇、時々雨、昨年七月五日能勢郡乱妨の者妻子・余類御呼出と成り、悉く手軽く御免有り。
江戸作割の写九月六日
【江戸作割】五畿内〈六分三厘〉東海道〈六分〉から東山道〈五分五厘〉北陸道〈五分二厘〉・山陰道〈五分〉・山陽道〈六分〉・南海道〈六分二厘〉・西海道〈五分〉 奥州〈三分六厘四分七厘〉・関八州〈五分九厘五分五厘〉 平均五分四厘七毛
十五日晴、今夕大塩一味の者の内、肥後御預りの者共到著す。十八日快晴、今日大塩を始め其党何れも御仕置有る。
〈与力〉大塩平八郎・大塩格之助・瀬田済之助・小泉淵治郎・〈同心〉渡辺良左衛門・庄司儀左衛門・近藤梶五郎・〈摂州吹田村神主〉宮脇志摩〈般若寺村庄屋〉忠兵衛・〈年寄〉源右衛門・〈百姓代〉伝七・〈猪飼野村百姓〉司馬三助・〈木村小路村医師〉 文蔵・〈阿州守口村百姓〉孝右衛門・〈門真三番村百姓〉郡次・〈同〉九右衛門・〈弓削村七右衛門事〉利三郎・〈無宿〉正一郎、以上十八人塩漬死骸・〈御弓奉行組同心〉竹上万太郎以上十九人、於㆓飛田㆒磔なり。〈平八郎下人〉三平、於㆓千日㆒被㆓獄門㆒。 〈平八郎忰〉今川弓太郎永牢。瀬田済之助・竹上万太郎其外被㆑刑候妻子存生の分、何れも助命にて重中軽追放。大西与五郎、遠島。同忰善之丞、〈中追放〉美吉屋五郎兵衛存生に候はゞ獄門。五郎兵衛妻つね存生に候はゞ死罪。重中軽追放四十余人。〈此内にて三人改めて入牢・五人新に手錠〉九十余人切(所カ)払、百六十人無事に御免。美吉屋五郎兵衛娘押込にて家に別条なし。油掛町年寄・五人組等過料にて相済候由、尚委しきは別記に詳に記す。十八日には大坂市中は云ふに及ばず、近国よりも大塩の御仕置見んとて大勢出来り、其群集せし有様目を驚かせし事共なり。怪我人多く有りしと云ふ。予も見物に行きしが、十九人の磔、十八人は死人にて、漸く竹上一人存命故、甚だ間抜けし事なりし。
昨年七月能勢川辺南(両カ)郡騒立候一件、当九月二日御戴許。
遠藤但馬守組同心本橋岩治郎、遠島。其余山田屋・今井等の妻子何れも無㆓御構㆒御免。摂州鉢山村頭百姓定右衛門、右徒党の者より廻文相廻候へ共、人足不㆓差出㆒
当年も違作の趣申立て、十六七日の頃迄には肥後一国(石カ)百三十八匁の相場と成り、次第に上りにて当年も二百位になるべし抔、専ら風説をなす故に、厳しく御触有りて忽ち十匁計り下落す。され共一石の米を買求むれば、百四十匁位も出さゞれば手に入れ難し。肥後抔にては是迄米仰山に囲ひ置ける事故、当年出来せし米を取入る場所なき故、追々当所へ積登せぬる米、悉く一昨年の古米なりと云ふ事なり。
水戸侯御家来へ被㆓仰渡㆒候書付の写
【水戸侯の御触書】巳年・申年両度の凶作にて米穀共乏敷候処、此気候にては此上何共難㆑計、万々一今年凶作に候へば、国中土民扶助如何せんと、日夜心思を苦しめ候。天地の変災は人の力に不及候へ共、人は万物の霊にて有之候へば、上下一致いたし候て人事を葢し候へば、其心天地に通じ変災も甚しきに至らず、変災不止とも人力を尽したる上にて、上下諸共飢に及ぶは天命なり。君子は民の父母と有㆑之候へば、仮初にも国中数十万人の父母と仰がれ候上は、争か子飢に迫るを見るに忍びんや。是に依りて今日ゟ七日の間精進潔斎して、鹿島・□□(香取カ)・吉田等へ五穀成就・万民安穏の大願を立候へば日々平世の食を用ひ候ては恐懼の事故、我等を始め一同今日ゟ粥を食し候。上は天の怒を慎め、下は民の患を救ひ候心得に候。此上何程凶年にても、国中の米穀にて我等の食物には差支無㆑之、又粥を用ひ候迚余りたる米穀国中の湿ひにも不㆓相成㆒候へ共、重役始め国中の人我等の心を推察致し、人々心次第に米穀を余し候はゞ、国中の飢餓の民は無き道理、例へば爰に兄弟十人有り、一人は富貴にて珍味美食を用ひ、二人は相応の勝手にて十分に飲食す。二人は平生の食を用ひ、其余五人は飢ゑて死なんとする時、初の五人己々の食を分け十人共平生ゟ悪しき麁食を用ひ候はば、十人の命全かるべし。我等愚なる身にて国中土民の父子となせば、国中の土民は相互の兄弟同様に思ひ、貧しき者は倹約して、富める者は我独富まず、一粒宛も余して世の中の湿ひに相成候様心置候はゞ、国中に飢民有㆑之間敷候。貴賤・上下によらず心あらん者は、夫々其処の鎮守氏神へ実意を以て五穀成就の願を込め、一粒宛も食余し一人をも助けんと志し候様致し度き事に候。
【 NDLJP:112】 六月三日
近来米価次第に高くなりぬる故已に当十一日御触有り
米価の儀、当春已来追々引下り候処、土用前後不順の気候にて人気相動候故哉、又候直段引上げ候。去年作方宜しく、当年迚も気候見競候ては、存外出来方宜しく相聞え、【米価騰貴と売買の取締り】新穀入津も相進み物沢山に有㆑之候処、払底にも可㆑至との人気にて、買持ち居候分は不㆓売出㆒、猶買持候様仕成候者有㆑之候に付、糶売に相成り弥増直段引上候哉にも相聞え、以の外の事に候。堂島米方へも精々申渡置候事に候へ共、搗米屋を始め米売買に携候者共、素人にても一己の利徳に不㆑抱、時節を弁へ直段引下げ候心得を以て売買可㆑致候。此上にも高直に可㆓相成㆒と見越候て、占売又は多分の買方致し候者有㆑之候はゞ、無㆓用捨㆒召捕急度可㆑及㆓沙汰㆒候。右の通三郷市中不㆑洩様可㆓申聞㆒候事。
其後も引続度々御触之有候へ共、米価次第上りにて
【佐渡の一揆】八月佐渡国へ御巡見御渡海これ有りしに、一揆起り御巡見を追散し、奉行所を打潰し、御奉行擒にし大騒動に及びし故、榊原式部大輔台命を蒙り渡海ありしと云ふ。同じき頃京都明暗寺に虚無僧共大勢徒党をなし、甲冑・弓・鉄炮を多く用意し、甲州の虚無僧寺〈明安寺乎〉を攻潰しに行かんとての事と云ふ。【京都明暗寺虚無僧一揆】〈又一説に、遠州浜松の普大寺を攻めんとて、徒党せしとも云ふ。〉こは西三十三箇国は明暗寺の支配、東三十三箇国は甲州の支配なる故、双方共近江国に出張所之あり、互に虚無僧共を其支配地に入るゝ事を禁ずる掟なるに、其法度を破り、互に他の支配地を修行せんとす。是に於て前々より度々喧嘩をなし、
【所司代の悪徳と町奉行の貧民救助】所司代間部下総守は至つて貧乏人なり。京都洛中・洛外の差別なく、身代宜しき町人共へ悉く私の用金を申付け、不法に取立てんとするにぞ、何れも之を患ひ、市中至つて淋しき事なりと云ふ。偶〻花見・遊山等に行きぬる者など見当りぬれば、役人其跡を附来り、町所・名前等を書記し、直に其者を呼出し直に用金を申付けらる事なりと云ふ。市中一統大に困り入りぬると云ふ。近来打続き米価高く、困窮の者多く変死する者夥しきにぞ、町奉行より厳しく困窮せる者共の取調べありて、仁慈の御取計ひ之有るにぞ、自ら町々にても是等の者を救助するに至る。此故に奉行の評判は至つてよろしく、所司代の評判至つて悪るし。
早春より下関・宮島等にて、大坂騒動の事を作りて劇場せし者共、悉く召捕られ入牢せしと云ふ。さも有るべき事なり。
十一日晴、米追々登りぬれど、其価弥〻高きにぞ、下直に商ひをなしぬる様にと数々御触有り。又酒屋仲間より昨年は三分一の仕込なりしより、当年も米価高き故尚ほ其仕込を減じ、当年は四分一の仕込になすべしとて、此度は下より願ひ出でしと云ふ。され共米価下らざりしが、厳重なる御触有りし。一日二十匁計り下りし事有り、され共下りしといへる名目計りにて、肥後一石百四十匁も出さゞれば手に入れ難し。十五日曇、未の下刻少雨直に止む。初更梶木町御霊筋出火、直に消火。〈〔頭書〕十月十三日江戸麴町出火、春来両度の火事に焼残りし処、大方焼失せしと云ふことなり。〉
九州・中国筋其外諸国共米価高く、百四五六十文位なり。されども肥前鍋島の領中【 NDLJP:114】計り、百文に商ひぬる様に上より定められて、至つて穏なりと云ふ。これ全く田久美作が善政なるべし。
十九日晴、初更江戸堀二丁目に失火有り。直に消火、近来所々に少々宛の失火・付火等あり。又盗賊も大に徘徊し、処々に押入をなし、又喧嘩等にて人を殺害する事度度、所々方々に有りと云ふ。
【米価調節占買占売惜の禁制】近来米価高直にて、当春已来は追々引下げ候処、土用前後不順の気候等にて人気に障り候哉、去年作方宜しく当年迚も気候に見競候へば、存外出来方宜しき由の処、夏已来又々直段引上げ候に付、引下げ方の儀其筋の者は精々申渡候事に候。追々新穀出来物、沢山に可㆓相成㆒儀と払底にも可㆑至。此上直段引上げ可㆑申抔との見越を以て、余分の米は不㆓売放㆒と弥増実持候様
一、酒造の儀、去る酉九月相触候通、追々及㆓沙汰㆒候迄、弥〻三分一造の積可㆓相心得㆒儀は勿論、
右の通三郷町中可㆓触知㆒者也。
九月十七日
当九月口達を以て相触れ置候通り、夏以来の気候に見競候へば、存外新穀実入宜しく、追々諸蔵廻米并納屋物に至り候迄、夥しく入津有之物沢山に可相成、人気に於ては
十月
近年当表へ入津の諸品不㆓廻著㆒の趣にて、諸問屋共追々及㆓衰微㆒、摂州兵庫の津又は泉州堺、其外最寄浦々にて廻船の者荷物直売等多き故の儀に相聞候に付ては、沖取・川内相働候上、【物価調節と運賃の制令】荷船・茶船運賃の儀、前々ゟ規定も有㆑之候処、右船方の者共猥に相心得候哉、運送の遠近に付け迚高場・安場抔と唱へ、定式・汐待・常水にても川水濁候へば、水増と唱へ運賃定の外色々名目を付、米銀増方為㆓差出㆒、其上日
【 NDLJP:116】【大坂の火災】当十五日初更、梶木町天川屋長右衛門〈〉〈町年寄なり〉と申す者の納家蔵出火、之は折節蔵の普請をなし、大工手伝の者共焚火をなせしが、其火の仕舞不行届の故に燃上りしと云ふ。天川屋長右衛門事、近来不如意の事故、先達てより隣家なる己が借家の小家に迫塞し、本宅は明家なる故、家人も更に心付かでありしと云ふ事なり。一両日已前より、長崎御奉行久世伊勢守殿当著にて、過書町銅座に滞留なり。かゝる折柄の近火なる故、早速に東西両町奉行堀・跡部両人共馳付けられ、其外町火消・諸蔵屋敷等よりも大勢馳付、与力・同心其外四箇の者共頻に鉄刀を振廻し、往来の者を打払ひ、銅座屋敷は其固め別して厳重の事なりし。【東町与力萩野庄助と有栖川家役人との争闘】〈有栖川宮役人と東町奉行組下与力萩野庄切と争論の事有りて、大変を引出す。前に略記すといへ共、其事詳ならざる故再びこゝに、出記すものなり。〉一元来大坂に於て、宮様の御屋敷といへる事は、古来よりして其例なき事なりしに、大川町両国橋の辺に、大西屋金蔵といへる至つて貧窮にて、其日を暮し兼ぬる程の難渋人にて、やゝもすれば飢触に堪へ難き事故、其所の住居もなり難くして、西国にや行かん、京都へや走らん抔大に狼狽し、破れ著物に尻切草履にて浅ましき有様なりしが、此者の兄に鎌田碩安といへる医師、京都姉小路に住居して、有栖川宮の御家来分なり。此者世間にて云ふ大山師なり。此者享和・文化の頃は至つて貧困し、誰有りて彼が治療を受け候者もあらざりしかば、暴に寺を改宗し日夜六条なる本願寺へ参詣し、【藪医者鎌田碩安】心にもあらぬ念仏を唱へ、一向専修の信心者の様をなして六条参せし愚蒙にして、何の弁別もなき相応の身元なる婆々・嚊をたらし込み、講中の睦びをなし仏法信者の様をなして、多くの人をたらし込み、年若き医師なれども至つて有難き御方なりと評判せられる工夫をなし、法談坊主の説法の如きは、少しく弁才ある者はいと易き事なるに、彼は元来医業にて山子せんと工みぬる程の者なれば、少しくは文字もありぬるにぞ。門徒の法談位は物の数にもあらざる故、口に任せて有難咄をなし、涙を流して様子振りしかば、婆々・嚊の類ひ之に随喜し、有難き医師なり。鎌田殿々々々とて之を尊敬す。本願寺又俗家にて、彼等が勤めぬる御再講・報恩講抔いへる席には遠方迄も参詣し、病人有る咄する人ある時、頼まざるに其家へ見舞ひ診察して薬を勧め、己が治療にて死する事あれば因果因縁を説き悟し、仏前に向ひ誦経して帰る。此山大に当りて後には志を得て、鎌田碩安と世間【 NDLJP:117】に名を知らるゝ様になりぬ。され共少しく心有る者、彼が所行を笑はざる者なし。山子の中にても至つて拙き業と云ふべし。彼大西屋金蔵といへる謡曲屋素より之と兄弟の事なれば、其手筋よりして有栖川宮へ取入り、大坂なる
【島屋理右衛門の不埒】米屋佐兵衛が前に年寄役を勤めし島屋理右衛門といへるは、此者の親父は玉水町島屋市郎兵衛手代なりしが、本家を守り立てし功に依つて別家して、後本家よりして一家並となりしが、斎藤町にて両替店を出し之を商売とす。其子当時の年寄なり。此者大に身体を持崩し、諸人の金銀を取込み門口を閉し、本家を相手に分家・別家の争ひをなして、本家へ対し不埒なりしかば、本家是を憤り、分家並を取上げて元の別家とす。世間の人々の金銀多く取込みし故、諸処・方々より町内へ引合入り、目安断る事なし。中にも大川町加島屋又兵衛は銀子五六十貫目取込まれ、何程に掛合ひ
【後家傘屋梅】傘屋の梅といべる後家〈島屋市郎兵衛出品入の者なり〉ありしが、此者至つて欲深き吝嗇にて、世間の人も之をよく知る所なり。かゝる欲人故少々銀子を蓄積す。其容貌至つて悪醜にて、其面を見ても嘔吐を催す程の有様なりしが、出雲屋新三郎と云ふ口入、其家へ入込み之を犯し、其銀子取出さんとすとて、世間にて其評判有る。然るに此後家堺より養子をなし置きしに、かゝる婆々なれば養子其心に叶はずして、之を親元へ帰すにぞ、此者かゝる六箇敷き婆々に仕へ年久しく辛抱せしも、其家に少々銀子蓄へある故なるに、今更離縁せられぬる事口惜しと思ひしにや、〈出雲屋新三郎婆々をたらし込み、之を犯し其銀子を繰出すに、養子が邪魔になりぬる故、婆々に謀りて之を離縁せしめし抔、種々の風説あり。〉或夜其家に忍込み婆々を殺害す。直に検使有りしが養子・新三郎等に不審掛り、両人共召捕られしが、養子の所為なりし故此者磔と成り、新三郎は仔細なく差戻さる。
【近江屋藤兵衛の不埒】近江屋藤兵衛と云ふ乾物屋あり、此者四国・九州辺の商ひを専らにするにぞ、下よりの注文諸道具何に寄らず之を引受けて商ひす。故に太鼓・雪駄等迄の注文有りて穢多に取引有りしが、諸商人は云ふに及ばず穢多の代物迄取込み、後には南部の者の大楓子数十斤を取込み、之を質物に差入れて返さゞる故、其公事となり、南部より願ひ付となり、大楓子をば質屋にて其切を過ぎし故之を流し売払ひぬ。其銀子調ひ難く、其折節大楓子に直段を持ち、質に置きし時よりも倍々の価となりしにぞ、大楓子を返せとて厳しく願ひ付くるにぞ、其工面出来難く、当人町預けと成り町内の者共毎々南部へ引付けられ、後には人質の如くなりて〈当人病気の由にて行かざる故なり。〉彼地に引付けられ、盆も正月も彼地にてなし町内大難儀なる事凡一箇年計りも掛りしかと覚ゆ。此事漸く事済するや否や、肥前大村の城主大村上総介殿の金子数百金を取込み、大村より願ひ付けらる。是迄悪諸侯の町家の金を借込み之をへたりて、町人共を困苦せしむる事は常の如くにて珍らしからざる事なれ共、町人の諸侯の金取込みし【 NDLJP:122】は此者計りなるにぞ、町奉行所に於て御咎蒙れる中にても、己れはえらき者なりと云はれしと云ふ。之等の事にて町内の難儀例ふるに物なし。終に近江屋藤兵衛も斯かる曲者なれども、詮方なくして四国へ出奔せしと云ふ。之に於て彼が家屋敷を町内より大村へ引渡せる様に成りて、漸々と事済みぬ。
【加島屋伊助の淫行】加島屋伊助といへる者あり、此者後家にて娘ある。家に、丹波より出来りて養子となり、子四五人を産む。此男其性善からぬ者にして、常に不良の事多し。別けて養母に不孝にして、主家へ対し不埒の事をなしぬるも数々なりしかば、主家の出入を差留めらる。其後妻病死せしにぞ、暫く寡なりしが、此間に己れが骨肉を分ちたる処の娘を犯し、男子を産ましめ、少しも恥づる事なかりしが、後に小児を連れたる女を迎へ取つて之を妻とせしが、相変らず娘との邪淫止まずして、親子心を一つにして後妻を苦悩せしむるにぞ、其家常に騒動す。親類近隣厳しく異見せしかば、無㆑拠其娘を奉公に出す。かゝる曲者なれば人の金・代物等を取込み抔して、町内を立退き横堀京町橋東詰に変家し、灰商売(炭カ)をなせしが、程なく後妻一子を生む。其小児二歳位の正月上旬、伊助他行せし留守中、其家の下人妻子両人を殺し、賊をなして逃去らんとせしが、忽に召捕られ磔となりぬ。
阿波屋伊助妻盗賊をなす、近隣之に物を盗取られざる者なし。其後曽根崎新地にて盗賊をなし、此事露顕して召捕らる。
三井三郎助借家に狂人有りて切腹し、三十日を経て死去。検使を引受け騒動す。
【三つ子を生む】播磨屋喜兵衛妻三つ子を生み、検使を受く。三十日計りの内に三人共死去す。其後堺屋繁蔵妻又三つ子を生む。されども之は死胎なりしにぞ、検使等の騒ぎなし。纔かなる小町にして、天下稀なる三つ子を両人迄産せしも奇事と云ふべし。
【紀国屋武兵衛妻の不行状】紀国屋武兵衛妻出家をなして弟子大勢あり。此者子なきにぞ姪を以て養女とし、之に壻を取りしが、武兵衛存生中より此者と不義し、死後淫事甚しく養子も姪も大に困り果て、夫婦連にて其家を出奔す。世間にて種々評判あり。寺屋の師匠には珍らしき事なり。其後弟子も次第に離れ、町内の住居なり難くして播州明石へ引取りしが、巳年の飢饉に遇ひて乞食となりて、大坂へ出来りて町内を徘徊す。恥を【 NDLJP:123】も知らざる者と云ふべし。
【森本市蔵の妻】森本市蔵といへる者の妻、之も出家をなして大勢の子供を世話をなす。主市蔵は芝居の手うち連中の小使をなして、此家に芝居役者共平日に出入す。折々此家に於て淫事の仲人抔なすと云ふ噂有り、是も其行状大に道に背きし事なり。
【八百屋平兵衛】八百屋幸助といへる者有りしが、此者ふと家出をなす。家内驚き一家近隣大に騒ぎ尋ね廻りしが、其行衛知れずと云ふ。跡にて聞けば川へ投身せしと云ふ事なり。此家の妻子詮方なくて当町を立去り、裏家の小屋に引取しが、其跡の家に平兵衛といへる者出来り、八百屋商売をなせしが、此者至つて不人物にて、常に人と喧嘩口論をなす。後疳症にて陰嚢を切つて死せんとす。未だ切放すに及ばずして、家人庖丁を奪取りしと云ふ。陰嚢切放れずと雖も半ば切込みしが、其後又井に投身せんとして大に騒動す。此者の子大勢有り。兄は盗賊をなし入牢し、弟は町内の子供同士喧嘩をなし、石を打付けて相手の足を損ず。之に依り町内検使を引受けて大なる騒動す。
【阿蘭陀屋彦右衛門妻の不義悪行】阿蘭陀屋彦右衛門といへる馬具屋有り、此者白痴なり。之が妻は籠屋町にて畳屋の娘なりと云ふ事なり。此者至つて奸悪なる淫婦にて、此家の番頭新七といへる者と不義し、主の前にて少しも憚る事なく淫事をなし、番頭と両人して主をば小児の如く追廻す。姑に不孝にして之を追出し、姑の従弟なる者不仕合にて此家に厄介となれるを、納家に押込め飲食をも与へずして、之を干殺にせんとす。出入する者之を憐み密々握飯を与へしとて、直に此者の出入を差留む。其後番頭新七病に臥す。始の程は心を用ひ看病せしが、其治し難きを知り、淫事のなし難ければ暴に之を忌嫌ひ、飲食薬をも与へず、早く死ねよとて之に取合ふ事なく、手代下女の類ひ之を憐み、飲食を進むる者あれば忽ち之を打擲す。斯るあくたれ者なれば、女の身にして米相場をなし、又堀江に於て新に魚市場を始むるといへる山子に引掛けられ、過分の損失をなせしかば、人を欺き金を借出し、後には家迄家質に入れ、処々方方より願付けられ、公訴絶ゆる事なかりしにぞ悪計をなし、己が淫せる勝三郎を此家の主とし、神辺より嫁を迎取り、間もなく其嫁を追出し、其荷物を取込みて之を以【 NDLJP:124】て金銀の遣繰す。勝三郎は老婆と違ひ若き女を妻とせし事故、之を最愛せしに左様に成行きしかば、自ら不快の色を顕はせしにぞ、老婆之を憤り、勝三郎を見限りて上町辺の医者を引入れ此者と邪淫す。彦右衛門の阿房故とは云ひながら、世間無類の悪女なり。終に町内の住居なり難くして、家財残らず其医者の方へ持行きぬ。此医妻子ある者にして、之も大欲心にて此仕業なりしと云ふ。
【篠崎長左衛門町預となる】篠崎長左衛門と云ふ儒者、世間にて人も知れる高名の者なり。昨年大塩が落文の事に付いて、坂本源之助が名を騙り公儀を偽り、御咎を蒙り町預けとなる。
能勢郡一揆の張本山田屋大助当町なり。昨年来町内へ妻子御預にて、漸々当九月二日に御免蒙りしかども、家財は今以て町預けなり。
【法華不受不施の徒召捕らる】八月の始め法華不受不施大勢召捕られしが、町内にも一人有りて入牢せしが、町内へ近頃御預けとなる。此余にも尚有るべきなれども、今思ひ出せし所かくの如し。其外博奕の掛り・借金の願付けられ等は、折々之ある事なり。
有栖川一件も追々仰山に相成り、調達講の御取調べとなり、此掛り凡六百人計り悉く闕処と成る。【有栖川宮一件沸騰す】凡銀高三千貫余目なりと云ふ事なりと、宮の名目にて出銀いたし諸侯へ貸附けし町人共も、定めて薄氷を踏める心地なるべし。此大変にて町人共も懲り果て、已来有栖川の名目を借れる者もあるまじければ、此屋敷も定めて衰微する事ならんと思はる。
【有栖川宮家の諷歌】 積上げし親の山をば子が潰し大壊れにて修理もせられず
大塩が難をのがれて有栖川も元の鎌田となりはてにける
有川栖宮へ大坂奉行所より掛合之有ありし節、所司代間部下総守殿、宮様へ参殿致され候にぞ、「大坂よりかゝる事申来れり。無事に取計ひくれられよ」と御頼み之有りしにぞ、所司代より大坂へ使者を以て挨拶ありしに、以ての外の事にて頓著なき趣なれば、宮に対して頼まれし甲斐なければ、若し参殿せば御殿へ引付け帰されまじと是々を思ひ、又如何なる事を此讎に致さる事も計り難しとて之を危踏み恐れ、病気なりとて引籠られしとて、京都にて専ら風説すと云ふ。され共かゝる事あるべき道理なし。こは跡形もなき事なるべけれども、何分此一件に付ては種々の取【 NDLJP:125】沙汰を大層に世間にてする事なりとぞ。
【酒造制限と悪徒の謀計】二十二日晴、今日山崎に於て大変有り。其故は伊丹酒造共大坂町奉行所より、「当年も米価高直にて、諸人困窮する事故、矢張当年も三分一の仕込にすべし」と申渡されしに、酒屋一統申合せ、「当年も斯かる年柄故、御国恩を思ひ奉る故三分一を減少し、四分一の仕込に致すべき由」申出で、神妙の事なりとて賞美せられぬる程の事なり。之に悪徒共両三人申合せ、城州山崎八幡宮の御神領は、往古よりして守護不入の地なれば、酒家一軒有りと雖も八幡宮の神酒を造る由にて、無株にて何程造り出しても仔細なき事なれば、彼地に於て酒場を営み、過分の金儲けをせんとて七人計り申合せ、大なる酒場を七軒建連らね、一軒に五十宛の唐臼を居ゑ、近国より京都へ登せる米を一石に付、五匁宛の直上にて之を押へ悉く買取り、七軒の者共昼夜の分ちなく酒の仕込をなせしにぞ、京都にては米払底に及び、諸人大に難渋す。此事上聞に達し、京都より大勢捕手来る、六七十人計り召捕へ引立て帰りしと云ふ。山崎役人共の中にも、袴著ながら引括られて連行かれしと云ふ。七軒の者共此処にて数万の酒を造り、伊丹へ運び取り、之を処の酒にして江戸廻しになし、大利を得んと謀りし事なりと云ふ。悪徒の所行憎むべし。何分にも世間騒々しき事なり。
十一月朔日未明より雨、未の下刻止む夫より風吹く。今日北野辺にて人を欺き怪しき富を致す者共五十人計り召捕られ、大騒動なりしと云ふ。
先月下旬より九条村に新川を掘抜き、海へ水を通ぜんと其催し有りて、御代官日々見分にて、其水筋に杙を打たせ、古田を潰し百姓共へ其替地を下さる。其替地何れもよからぬ処故、百姓共何れも大に難儀すると云ふ。
【飛田の怪虫の噂】同じき頃よりして、飛田・葮島等より長さ五六寸位にて、其色至つて美くしく人の面せる、遂にこれ迄見馴れざる虫仰山に這廻る。こは大塩等が亡念ならん。誰彼も之を見しなど専ら風説し、総代共の中にも其虫の姿を書きて、諸人へ見せ廻りし者など有りて、何れも召捕られしと云ふ事なり。是迄悪徒の屍長く塩漬の間に、何等の事もなく骨肉枯れ果てし者共の屍より、何ぞ左様の怪しき事あらんや。只奇怪なる噂を聞きて珍しがる世間の有様故、かゝる事を言出せる馬鹿者、之を聞きて誠【 NDLJP:126】なりと思へる阿房共限りなき事と思はる。笑ふべし。
伏見堀西千秋橋の辺に、近江屋源兵衛といへる者有り。此者の借家にて裏住居する船大工、平野屋 といへる夫婦暮しの者有り。至つて貧窮の由、之が妻といへるは、元来兵庫にて至つて下品なる遊女なりしが、此大工之を妻となせしと云ふ事なり。【船大工の妻の珍事】主も至つて人物善からぬ人物なるに、此妻も亦悪る者にて、常に大酒・博奕等をなして日を送ると云ふ。然るに此女懐妊して臨月に及びぬるに、主は他処へ働に行きて留守中なるに、暴に産の催有り。此女臍下に腫物有りて、是迄も之を患ひしかども、貧人の事なれば医に托して之を療する事もなく、只売薬の膏薬を買求めて、之を腫物に張りて居し事なりとぞ。然るに臍上より心下に於て痛甚しく、苦るしみに堪へ難きにぞ、近隣の人を頼み産婆を迎へし。三日程は七転八倒し其叫ぶ声哀れに物凄く、隣家の婦女何れも之を恐れて、他へ行きて之を避けしと云ふ。かゝる中にても気の丈夫なる近隣の嚊一人と産婆と両人して、之を介抱せしが、暴に心下破れ裂けて臓腑と共に子を出す。其子初声を揚げし迄にて忽ち死す。其女声を放ちて、「腹裂けて子を産めり。早く外医を頼み疵口を縫ひてよ。しかすれば命は助かるなり」と云ひしが、之を物言ふ納めにして、其儘次第弱りにて死失せしと云ふ。斯かる事なれば両人共大に仰天し、直に片岡・岩田など云ふ外科出来りしか共、最早如何ともせんすべもなかりしと云ふ。天竺に於て摩耶夫人なる者、脇の下裂破れて、釈迦を産みし抔いへる奇怪の説を仏家にて云ひぬる事なれ共、和漢は云ふに及ばず、外夷の国にても斯る例有りし事、昔よりして之を聞ける事なし。此女臍下素より腫物有る事なれば、其腫物腐爛して潰れ破れ、此処より出でしとならば左も有るべき事なるに、其腫物は何の仔細もなくして、故もなき心下裂破れて、其処よりして子を出せし事、常理を以て之を論じ難し。其破裂せし時ぼんといひし音近隣へ響きし程なりしとぞ。斯る大変なれば早速に家主・年寄等へ其由を告げ行きしかば、何れも早速に出で来り胆を潰せしが、其儘捨置き難く、直に訴出でしかば、早速に検使来りて、其疵を篤と改めしが、自然の事にして内より張破れしにて、外に怪しき事なし。されども余り不思議の事なりとて、何れも呆れはて、其女の素【 NDLJP:127】姓平日の行状など篤と聞合せ、厳密にして引取られしが、余り怪しき事なりとて、検使三度に及びしと云ふ。此女未だ其町内の人別に入らず、無人別の者故、死骸取片付に隙取り、又早速に「其男を呼寄せよ」と検使にも沙汰ありしにぞ、之を呼寄せんと思へども、近隣の者も其行衛を知る者一人もあらざるにぞ、家主の事なれば近江屋源兵衛困りはて、此一件に付二十金計りも黄金を費せしと云ふ事なり。此家主源兵衛といへるは、北江戸堀五丁目近江屋五郎兵衛といへる明口座の別家なり。此一件の咄は、其産婦を診察せし岩田といへる外医が、外方にて咄しぬるを聞きて之を書記しぬ。かゝる怪しきことなりしかば、此噂世間に高く種々の評判有りしことなりし。
【金銀の金物買上げ】金銀の簪・紙入其外烟草入・諸道具等の金物に至るまで、悉く御取上げ同様に下直に御買上に相成り、若し聊にても隠置く者之有るに於ては再吟味にて、何時となく家毎に公儀よりして家探し有りて、一品にても隠せる者は闕処と成りて、追放せらるる抔専ら風説有りて、其騒々しき事限りなく、諸道具の金物は云ふに及ばず、蒔絵に遣ひし金銀迄も掘起し持出づる者有れば、医師の身分にて有りながら、何の差別もなくして、薬箱の金物・匙・卦算に至る迄持出づる馬鹿者有り。是等は定めて薬店又は町人の医者に変化して、何の弁もなく故実を知らざる狼狽者なるべし。斯かる事にて世間至つて騒々しき事なり。又加州侯には本国へ引籠り、専ら軍用の手当のみにて、是迄大坂へ登せし米を今年より一俵も登す事なく、近々に蔵屋敷も引払になる抔とて、種々の風説有り。京都三条の橋に落首を建てゝ、
君か代や松の緑も延び過ぎて梅にならうか竹にならうか
梅は加賀にて竹は仙台の事なりといへる噂なり。又江戸表より申来りしとて、「銀なれば金となる、角なりて王つまる」と将基にて口合を致し有り。又大坂にて咄に作り、「金銀の金物・簪何に寄らず、悉く奉行所へ差出し申すべし。毎町に何れも羅紗・猩々皮・天鵞絨・縮緬等にて、砂持同様の仕立にて衣裳を飾り、金太鼓にて賑々しく囃立てゝ奉行所へ持出よ」と云ふ事なり。何れも其如くなして大に囃立て、一度戻れ〳〵〳〵云ひて種々の金物を奉行所へ持出でしに、奉行所【 NDLJP:128】其囃子につれてさし上げい〳〵〳〵と言はるにぞ、奉行の側に総年寄共詰めて居たりしが、どでたん〳〵〳〵と云ひしとぞ。
〈〔頭書〕仙洞様より、「西丸の普請至つて結構に出来する由、御所は仮家にて捨置きながら、かゝる事に及びぬるは如何なる事にや。先づ西丸よりは此方の普請取急ぐべて」との勅証ありしにぞ、西丸の普請も御遠慮にて休止せしと云ふ噂なり。さもあるべき事なり。又西丸普請に付て、大工・人夫の類日々怪我人・死人絶ゆる事なしと云ふ噂なり。こはいかゞなる事にや之を知らず。され共余りよからぬ風説なり、恐るべし。〉
御老中評定の上にて、近年は年々に世間行き詰り、公儀にも不時の御物入続きなる故、【倹約と御老中評定】公方様にも無用の御道具類悉く御売払にて、総べて物事是迄とは半減にすべしとなり。先づ第一に禁裏様をばぎんり様と唱へ、仙洞様をば五百銅様と唱へ、公方様は四方半様、御老中は二老半中、大名は小名、旗本・御家人の類も是に准じ、大納言は【 NDLJP:129】中納言、大臣は大納言、中納言は少納言、少納言は宰相、宰相は中将、中将は侍従、侍従は大夫、其外士は一むらひ半、百姓は五十姓と云ふべき由に相定りしと云ふ。公方様より仰出さるゝ様は、「此度倹約に付て、御先代より伝来の諸道具と雖も、差当り無用の物は悉く売払ひしが、今一つ至つて大切なる物なれ共、是を売払はゞ大なる利徳得べしと思ふ故、是を売払ふべし」と仰せらるゝにぞ、「夫は如何なる物にて候や」御老中より御尋ね有りしに、「外の物にてはなし。葵の定紋なり。此度何事も半減なれば、三つ葵はいらぬ事なり。已来一つ葵にして二つは之を売払ふべし」との上意なるに、「こは怪しからぬ御事なり。三つ葵も一つ葵も之を付くるに直段・染賃等の甲乙なし。然るに之を御払ひになりしとて、御紋の事故如何共なし難く、之を買ふ人は決して有るまじき事なり。甚以て心得難き御上意なり」と申さるにぞ、「怪む事なかれ。売りさへすれば買人は沢山なる事なり」との上意なる故、「其買人と申すは如何なる者に候や」と伺はれしに、「外にてもなし。町人共へ売りさへすれば、何程にても悦んで買ふべし。此間物見に出て外を眺め居たりしに、町人共大勢連れにて物見の下を通りしが、何れも口を揃へ、時節が悪るうて青ひ顔〳〵と申したり。之を売らば大なる益ならん」と仰られしとぞ。物事に行き詰り困窮して困れる事を、近年京摂にて「青ひ顔ぢや」といへる流行詞有り。此詞によりての咄なれば、こは京摂の間にて作意せし咄ならんと思はる。
十月廿四日東御役所へ被㆑召㆓出於御前㆒東西御奉行様御立会の上左の通被㆓仰渡㆒候
四十一町総代
〈四軒町年寄〉伊丹屋三郎兵衛
〈北久太郎町五丁目年寄〉綿屋七郎兵衛
〈堂島新地中三丁目年寄〉河内屋彦兵衛
其方共儀、去る酉二月十九日、悪徒共当表市中放火及㆓乱妨㆒、三郷町々其外焼失致す節、類焼の難渋人共施行物三郷出す段、一同奇特なる事に付、為㆓褒美㆒四十一町は銀四枚、銀五両被㆑下候間割符致せ。右の段従㆓江戸表㆒依㆓御下知㆒申渡す間、一同難㆑有承知致せ。右被㆓仰渡㆒候に付、左の通御礼申上候。
【 NDLJP:130】 乍㆑恐口上
一、去る二月大火に付、類焼難渋人御救小屋にて御救被㆑為㆓成下㆒候に付、為㆓冥加㆒私共町々聊施行仕候に付、今日御召の上結構の御褒詞被㆓成下㆒候に付、其上御銀被㆑為㆓下置㆒、冥加至極難㆑有奉㆑存候。依㆑之為㆓総代㆒乍㆑恐書付を以て御礼申上候。以上。
〈北組八町組総代四軒町年寄〉伊屋三郎兵衛
〈南組十八町組総代北久太郎町五丁目年寄〉綿屋太兵衛
〈堂島新地中三丁目年寄〉河内屋彦七
東西御奉行様
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