浮世の有様/4/分冊3

目次
 
正月の日次狂歌米穀金銀の相場変動す道頓堀芝居の大当二月の日次前田家の騒擾大坂市中盗賊すりの横行東御奉行の土地繁栄策大塩一件連類者を再吟味す江戸城西の丸火災落首張暫々貨幣の改鋳を行ふ通貨と物価との関係世間の風説西の丸炎上の模様材木売買并普請禁止西の丸焼失に付き用金仰付られし諸侯西の丸焼失に付落首及び口合諸侯の貧窮と起債天神砂持の盛況砂持の批判年賦上納金旗本への配分金町人へ下賜金金銀吹替に付いての落語矢部駿河守役替に付いての落首西丸出火に付呼出されし人々西の丸炎上に付役人の処刑中村藤左衛門榊原藤十町家へ仰書の写西の丸普請に付諸大名の献上品尾張大納言より献上品紀伊大納言より献上品倹約獎励の触甲州騒動落著永見伊勢守処罪山口鉄五郎の処罰井上十左衛門処罰西村貞太郎処罰宮島騒動を忠臣蔵に作替ふ抜文句落首諸国巡見の役人へ渡されし書附大塩の余類召捕らる戸田三治郎と肴屋箱根の火災川越の火災本願寺の強欲長崎の大火江戸の火災天神砂持始まる江戸の大火江戸の火災御霊砂持と寄付金の強請丹波織田家の御家騒動御霊猫間川の砂持の賑盛砂持連中と大坂番所御霊社の小火社内観音堂下の盗人猫川堀抜の奉行の内心六月天候の不順松屋町と砂持砂持に就ての仇口砂持に付ての狂句節季囃砂持と身延山の出持餅屋の報条呉服屋の報条砂持風流連句菖蒲ヶ池御霊神社の縁起堂上侍と二条城詰侍の喧嘩砂持と種種の催物奸商虚説を流布して米価を引上ぐ
 
オープンアクセス NDLJP:63
 
浮世の有様 巻之八
 
 
天保九戌年
 

正月元日、晴曇定らず、午の刻少し雨降りしが直に止みて、夫よし風吹出し、未の刻に至り霰少しく降りしが、正月の日次之も暫しの間にて止みしか共、北風烈しくして終夜不止、二日に至り晴天となりて、風も少しは穏かなりしが、未の刻より又烈しく吹出でて、終夜吹通しなり。三日には晴天なりしが、又巳の刻より風吹出しぬ。九日晴午の刻より曇り微雪降りしが、酉初めより大雨大雷甚しくして、処々方々へ落ちぬ。れども火災・人死等もあらず、二更に至り雷雨共に止みしか共、北風烈しく吹出でて砂を飛ばし寒気堪へ難し。十日に至り風は少しく和ぎしか共、曇天にて寒気甚しく、昨今両日は今宮なる蛭子社へ諸人群をなして詣でぬる事なるに、人の出盛りにオープンアクセス NDLJP:64至つて暴雨・大雷にて大いに混雑せしと云ふ。斯様の天気なるに明くる日も寒気甚しくして、風吹きし事なれば参詣する人も至つて少く、淋しき事なりと云へり。十一日晴曇定まらず、未の刻微雪。十二日晴天なれども寒気甚し。十三日晴れざれ共風は益〻烈しく吹きぬ。十四日晴曇定らず風甚しく、午の刻より雪。十五日晴曇定らず、寅の刻より雨、暁に至りて止む。十六日晴、風益〻甚し。十七日晴、風は前日に同じ、夜半過より雪。十八日曇、前夜より降積りし雪六寸計〈京都にては一尺三寸、北山に近き辺は、二尺計も降ると云ふ。〉十余年已来の大雪なり。当月初よりして十七日迄は手水鉢其外の物迄、水気ある物は悉く氷張詰め、寒気堪難かりしが、十八日朝よりして風穏になりしかば、寒気も緩かになりぬ。夫よりして廿六七日頃迄は日々暖にして、至つて凌ぎよかりしが、廿七日の夜よりして又寒気甚しくなりぬ。去年の憂かりしも幸にして事なく凌ぎつゝ、新玉の春を迎へしかば、歳旦に長崎詞にて戯れ歌を詠める、

狂歌   恐しき年はいぬにばつてん嬉しけれ之で世の中総てよか

     同じく十八日の雪を見て

   木々に咲き四方に散りしく六つの花のながめも年も豊かなりけり

     当年の大小を詠める

   豊かなる年二逢ふこそ嬉しけれ六十四州な二ごとも七九なく

   米の実いり十一分まで五三正ござんしやう後の四五に八麦も沢山

米穀金銀の相場変動す昨年飢渇に迫りし者共の袖乞・乞食と成下りて、哀れげなる声にて泣叫び、昼夜の分もなく往来せしも、大方は死失せしと見えて、乞食の数も大に減少す。され共当初相場よりして米価又々上りて、肥後一石百七匁五分余の米直段にて、雑穀等も之に准じ、一として安き価の物なし。近年金銀の品数多き上に度々吹替となりぬる故、相場も大に狂ひ、一昨年来は金一両六十匁より一二匁の間なりしに、昨秋より冬に至りては、度々六十匁より内へ入り、□□の末には五十八匁五七分となりぬ。こは小判にて一両の価なり。中にも段々と甲乙あれども、別けて一朱金の位賤しとて、金百匁に付小判よりは五百目余も蹴落されぬる上に、諸人此金をば大に忌嫌ふ有様なり。巳に正月四日初相場左の如し。

オープンアクセス NDLJP:65

正金〈五十九匁四分五厘、五分段々七分五厘、〉 引方〈六分五厘七分〉 地〈七分位〉 のべ〈五分七八厘・五分八九厘・六分一二厘・六分一厘〉  正銭 〈九匁八厘・一分〉 〈白中印小口赤〉二十四匁引  一朱〈二百五十匁より三百五十匁〉引 大判〈廿七匁より三十匁〉 小玉〈無印より引〉〈五十九匁五八分九匁より二分〉

  右両替方より、得意先々へ触廻りし書付の写なり。

一昨年の冬よりは昨年の冬には米高も登来りて、越年米もすこし多きと、極貧の者・非人・乞食等の数限りもなく死失せしとにてやらん、当春は昨年の春よりも世間も少し穏なり。され共盗賊・淫奔等の事は甚しと云ふ。市川団蔵といへる河原乞食は、江戸に於て御碁処の弟子と成り、道頓堀芝居の大当大坂に帰来りて頻に太平楽をいひ、中村歌右衛門といへる河原者は、江戸に於て多く借金ありて、此度彼地に召下さるゝに付、名残狂言なりとて道頓堀中の芝居にて興行す。此狂言大流行にて、五日も十日も前以てより見物の場所を取らざれば、之を見る事能はずとて、我一にと之を争ひ、大入にて群をなし、此辺の有様を見れば誠に別世界の如しと云ふ。冥加を知らざる馬鹿者共は限りなき事と云ふべし。二月朔日晴曇不定、二日も同じ天気なりしが、夕方より少し天気の模様雨気を含みて暖なり。二月の日次三月辰の刻雨、直に止む。申の刻より風大に吹く。四日曇、少しく霰降り寒気烈しく、五日曇、六日より十日迄晴、十一日未明より雪降り、巳の刻に至り止みしが、夫より大風吹出し砂石を飛ばし、終夜止まずして十二日も大風なり。十三日晴天なれ共、矢張風は強かりしが、十四日よりして十六日迄は晴天なり。十七日に至り晴曇定らざりしが初更より風雨、十八日暗曇不定にて風至つて烈しく、未の刻霰降る。十九日夜中雨、今日は昨年大塩が乱妨せし日に当れば油断成り難く、大塩平八未だ死せず、昨年油掛町にて殺されしは影武者なり、平八は加賀に在り、奥州に隠れし抔とて、種々の流言を言触らし、前田家の騒擾又昨年加賀候を毒殺せんとせし者ありしが忽ち相顕れ、其掛りの者共誅せられ、侯には本国へ引取り頻に武備をなし、武具を多く買入れ、加・能・越三国の百姓共より、一人前に日日五足宛の草鞋を作らせて、一足六文宛に之を買上となり、金銀貨借は悉く徳政となして、今にも軍の起りぬる様に専ら風説をなすに、又かゞと云ふ節にて、怪しき唄大に流行す。之も加賀大乱の兆なりとて、江戸にて専ら取沙汰するにぞ、此オープンアクセス NDLJP:66唄を謡ふ事忽ち御停止となりしと云ふ。然れ共大いに流行し、追々上方へ流行はやり来り、京摂にても専ら謡ひぬる様になりて其評判をなすにぞ、京都にても此唄を停止せられしと云ふ。又早春より芸州にも一揆起り、石火矢を打立て城近く迄押詰め、櫓抔打崩せし抔いへる噂之有りしが、こは虚説なりしと云ふ。侯の勝手差支へ銀札不通用となり、之が為に大いに騒動せしと云ふ事なり。廿一日晴曇不定にて、未の刻より大風吹きて砂石を飛ばす。廿二日終日大風吹き、未明より時々雪降る。大坂市中盗賊すりの横行晦日晴、近来盗賊・巾著切の類大に勢、振ひ、住吉街道・天王寺辺は申すに及ばず、市中にても往来の者共白昼に剥取りぬる事、傍に人なきが如く甚しき事なりと云ふ。北野・曽根崎の辺には頭突連中と唱へ、大勢の党を結び、頭を以て人に突掛り喧嘩をなして、大いに人をゆすり打擲せし上に金銀を奪取る、此連中には角力取抔打交り、甚しかりしか共、追々に此悪徒共は召捕へられしと云ふ。

東御奉行の土地繁栄策東御奉行には昨年大塩一件にて、大いに不評判なりし故、之を取直さんと思はるゝにや、玉造辺は物の運送悪しき処故、自ら不繁昌にて困窮の者多き故、之を繁昌せしめ町人共を悦ばしめんとて、猫間川〈一名鯰川と云ふ〉の川幅を広げ、二軒茶屋の辺迄船の著きぬる様になし、一昨年来酒の過造をなして、御取上となりし酒の明株を下され、川の堤には多くの桜を植ゑ、諸人を此処へ浮かれ来る様になして、処の賑ひになさんとす。未だ事成らざるに其景気を見んとて、大坂三郷市中の溢れ者共我一にと浮かれ立ち、酒肴を携へ見物大群集するにぞ、仰山に掛茶屋をなし、力持・見せ物等の小家をも立連ね、騒々しき有様にて、先年川口の浪除山〈天保山と云ふ〉の出来ぬる時に等し。奇事と云ふべし。

大塩一件連類者を再吟味す大塩一件は昨年江戸より吟味役上られ、町奉行の手を離れ、鈴木町御代官屋敷にて御取調ありしに、何か是迄と相違せし事ありぬる由にて、是迄無事にて有りし者の旧冬押詰りて江戸に引かれ、再吟味となれる者抔有りて、御仕置も捗行かずと云ふ事なり。

三月朔日晴天なりしが、未の刻より曇り、日暮より雨、初更より雨愈〻強く風大いに吹く。十日晴、今日寅の刻、江府西の丸御台所より出火〈実は大奥より出でし火なる由〉にて、辰の刻迄オープンアクセス NDLJP:67に御殿向残らず焼失す。江戸城西の丸火災前将軍には吹上へ御立退き、御錠口を明けずして女中多く焼死し怪我人数知れずと云ふ。御門々々は悉く閉して、外より人を入れられず、諸侯残らず門外に駈付けしか共、一人も門内へは入れられずして、何れも門外に控へられしと云ふ。明暦・延享の頃、御本丸・二の丸等、自火・類焼等の事はありしかども、西の丸焼失せしは此度始めてなりと云ふ。これ迄結構に建連なりし上に、昨年御代替りに付いて、前将軍御隠居の御殿新に御普請有りて、美麗を尽されしも一時に焦土となりしと云ふ。是非なき事と云ふべし。夫につき西の丸御老中堀田摂津守殿御留守居矢部駿河守殿など切腹せられし抔云へる風説なりしが、こは虚説なりしと云ふ。其外種々の仇口を書きて、張紙落首抔ありしと云ふ。矢部駿河守西の丸御留守となりて間もなく出火故、申訳なく切腹し、御老中堀田摂津守にも同様に切腹せられし抔いへる噂ありしと云ふ。矢部の事を書きたるを聞きしに、

落首張

コレ金サンモ銀サンモヨク聞キネイ、一歩モ抜目ノネイ矢部様ヲ、一朱意恨モアルカ知レネエガ、二朱ノ丸ヘヤルトハ五両金違ヒダ。アラウ丁銀トモ力ヲ落シ、豆銀デアラウナラ、大番頭ニモナル人デアロ。

暫々貨幣の改鋳を行ふ〔頭書〕近来金銀の吹替度々の事なり、廿年余り已前始めて二歩金・一朱〔〈銀脱カ〉〕出来し、間もなく小判・一歩・二朱等の吹替あり。小判は厚くなり、二朱目方少くなる。其後間もなく一朱銀・二朱金出来し、銀も同じく吹替となる。金銀の位下地より又大に劣れり。然るに又間もなく二歩金吹替となり、是も其性下地の金に比すれば、遥に劣れりと云ふ。又近来百文銭を新に吹出されしが、至つて是も不便利のものなり、又昨年に至り五両金出る。目方金五両に比すれば漸く三両余りの目方なり。又一昨年御触有りて、小判・二歩金・一歩金・二朱銀等悉く御取上となり之も吹替になれ共、又二歩・一歩等の金は停止になるとも云ひ、新に一歩銀出来す。烟草入・紙入等の金物の如し。目方下地の二朱銀より軽し。如此に散々金銀の吹替ありて、其度毎に次第に其位悪くなり、目方も減じぬる事故、下方にて相場を〔立て脱カ〕天下の宝に甲乙を付けて、大いに相場下落するに至る。斯様の事なる故、近来何によらず諸の品物高価ならずと云ふ事なし。是全く金銀の位オープンアクセス NDLJP:68賤しきが故なり。通貨と物価との関係和漢に限らず、古より金銀の位貴き時は品物の価賤しく、金銀の位賤しき時は品物必ず高価なり。一是自然の理にして止むべからざるものなり。文銭も其性至つて宜しき故、軈て是をも御取上げとなりて、鉄銭計りになる由なり抔とて、種々の風説有り。こは如何成行ける事にやあらん、公辺計り難し。二歩金は文政の初、酒井讚岐守御老中にて始めて之を吹ける間もなく、水野出羽守其二歩金を引上げ、二歩金の文字真なりしを草に変へて吹直さる。下地の金に比すれば位大に劣れり。又始めて一朱金を吹立てらる、前代未聞の悪金なり。夫より金二朱・銀一朱吹立となる。松平周防守百文銭を始む、小判形にして至つて不便の銭なり。水野越前守銀一歩を吹立てらる、下地の二朱よりも目方軽くして烟草入の金物の如し。

世間の風説昨年大坂を乱妨せし大塩が徒の御仕置も未だあらざる故、世間にては専ら、大塩親子・瀬田済之助など昨年死せしは偽りにて、今以て存生すなどと風説区々なる事なれば、西の丸の出火せし時、此者共の紛込みしにや、又は彼に同意せし逆叛人のなせる業にやなど思ひ誤りて、さぞ大いに狼狽へて騒動せし事ならんと思はる。将軍家御代替りに付、諸国へ御巡見の御旗本の内、何某とやらん云へる人呉服町に止宿せられしが、大塩平八郎は未だ死せずとて、江戸にては専ら風聞す。誠なるや承りたしとて、密に尋ねられしと云ふ、之等の事にても其騒動せし事共思ひ遣るべし。又町人共より堀田・矢部等の切腹せしといへるを此人へ尋ねしに、こは虚説にて、両人共無事なりと答へられしと云ふことなり。

     江戸表より来状の写

西の丸炎上の模様当月十日暁六つ時、乍恐西御丸様御湯の間ゟ出火仕り、直様〈但し御召上りの御湯の間に御座候、〉吹上御殿へ無御別条御立退被遊候。折節西北風にて格別風も烈敷無御座候得共、時節と乍申、御殿向并に諸御役所御部屋々々御焼失に相成り、御櫓も一つ御同様に相成り、御大切の御道具抔も夥しく御焼失仕る。乍併御怪我人の有無聢と相分り不申候。何分御場所に無之、近辺ゟ駈付け可申様無之故、無拠大火に相成り申候。早速大名衆・御役人衆総登城にて御見舞、御火消并に定御火消・町火消不残総掛りにオープンアクセス NDLJP:69て命打捨て相働き候得共、何分御場所柄にて骨強く井戸深にて、中々防ぎ兼ね、不止事残焼失に相成り、誠に恐入り奉存候御儀に御座候。漸く同日七つ時に静るなり。其節御大名衆・諸家様不残、立派なる頭中・火事羽織并に御用意に鉄炮抔は、大手口・桔梗口明放しにて御登城有之、中々御供廻り間に合ひ兼ね、一騎乗にて大乱軍の如く、下馬先群集誠に前代末聞の事に御座候。彦根様も一騎御登城被遊、御供廻りは跡ゟ馳付き、御装束の儀は御供廻に至る迄、立派は第一番なりとの評判仕り居り申候。

材木売買并普請禁止一、火消人足共今以御召上げに相成り、町役人相添ひ御府内中は日々跡取片付被仰付、御場所柄にて焼木抔は外へ持出し相成不申、不残焼切に相成申候。右に付材木売買并普請止め被仰付候。右乍序荒増奉申上候。此余は評判ゟ大変に御座候. 御推察可下候。

  三月十四日出                江戸店ゟ

大手御門并に御高塀向御無難に御座候。併し高塀二三間計り損じ申候所御座候。御角矢倉一ヶ所焼け申候。古き御城に御座候処、残念の御儀に御座候。御女中様方三百余も御座候処、余りの急火にて御丸焼の由。御役方様御泊り番の御方、大小を御持ち逃出で来り申候御方は、宜しきと申す位の事に御座候。御存外の事に御座候。

御大老様彦根様・御老中脇坂様は早く御登城の由、殊の外御評判宜しく御座候。是迄頓と無御座御事故、小子も罷出で、両御丸大手に奉伺候処、諸家様方誠に厳重の御固めにて美々しく、前代未聞の御儀に御座候。扨々恐入候大変に御座候。

     西の丸焼失に付三月十六日御用被仰出候諸侯左の通。西の丸焼失に付き用金仰付られし諸侯

一、金八万三千二百五十両 紀州様 一、同九万七千三百六十四両 尾州様 一、同一万五千両 水戸様 一、同十五万三千七百五十両 加州様此御家准清華御三家格に御座候 一、同四万七千両 伊井掃部頭 一、同三万四千五百両 松平肥前守 一、同一万六千五百両 松平越中守 一、同二万二千五百両 酒井雅楽守 一、同二万千十両 松平左兵衛 一、同二万千五百両 松平隠岐守 オープンアクセス NDLJP:70一、同四万八千五百九十両 藤堂  一、同一万五千両 松平下総守 一、同二万二千五百両 小笠原大膳大夫

細川越中守上納米七万石・藤堂  ・松平美濃守  ・榊原式部少輔、右四人上納米被致候に付、御時服十五宛拝領。

紀伊大納言殿・尾張大納言殿、右西の丸御座所大奥向御手伝被仰付。松平加賀守・松平越中守・酒井左衛門佐・小笠原大膳大夫、右同断被仰付。井伊掃部頭、右同断。松平肥後守・酒井雅楽守・松平隠岐守・藤堂和泉守・松平下総守、右同断在国に付、以御奉書仰付。松平讚岐守、西丸炎上に付、上納金仕度き旨、内願御聞済にて二万両被仰付。右の外御用御掛り、国産松板枚〈一万枚〉水戸、金三千両づつ上納、寺社御奉行衆。金三千両づつ、御奏者衆。万石以下五百石以上、百俵に付金二両宛上納、五百石以下百俵以上、百俵に付金一両二歩宛上納。

西御丸焼失に付いて、種々の浮説あり。御勘定奉行矢部駿河守金銀の吹替并に大坂へ御用金被仰付候事を相拒みて、御老中と大に争論し、其用ゐられざるを憤り、西の丸焼失に付落首及び口合西の丸へ火を掛けて切腹せし抔とて、とりの噂なりし。又落首・口合ひの類も沢山に拵へしと云ふ其中に、「このしろを焼いて親父が味噌つけた」。こは旗本の作の由、忽ちに相顕れ閉門せしと云ふ。又丸薬に仕立てし有り。西城丸・ぶし・こんきゆう・わうごん・さいかく、右四味丸薬となし、町人のしぼり汁にて用ふ。斯様の類少なからずと云ふ事なり。

諸侯何れも平常の時さへ貧窮にして、大坂の町人を頼みて勝手向の仕送りをなし貫ひて、諸侯の貧窮と起債漸々と参勤をなして公務をも勤むる位の事なるに、此度臨時の物入出来せし事故、早々家来を大坂へ遣し、兼ねて館入をなす町人は云ふに及ばず、其余にも金持てる町人共へ金子借らんとて、種々に心を砕きぬれ共、町人の大家も多くは昨年大塩が難に逢ひぬる上、諸侯よりも飢饉にて差引無之、此度手積りをなし、夫々へ出銀致したる跡にて、公儀より御用金被仰付候ては、大坂の町人総潰れとなるべしと、何れも身用心して之を諾はず。〈於江戸三井へ十万両、又当国にても此辺の大家へ二万両の御用金有り。何れ大坂は難逃とて事ら取沙汰なり。〉大差支大困難の事なるに、其中にて天神の砂持大流行にて、大坂中をあへかへし、鴻池オープンアクセス NDLJP:71善右衛門・加島屋作兵衛・炭屋彦五郎、其余大家の主共手代引連れ、砂持に浮かれ出でて処々方々を踊り廻るに、天神砂持の盛況蔵屋敷にても阿波の留守居・安芸の留守居等異形の様にて踊り歩行き、与力・同心の内にも異形にやつし砂持に出で踊りしと云ふ。かゝる程の事なれば、中人已下は一向に人倫なく、男女混雑して大いに浮かれ廻れる中にも、女の赤裸にて踊り廻れる抔ありて、目も当てられぬ事共にて悉く狂人の如く、之を譬ふるに物なし。斯かる様なれば砂持の評判諸国へ聞え、国々より態々見物に出来りぬる者抔多く有りて、砂持の批判大騒動の事なりし。西の丸御焼失にて、大御所には仮の御住居にて御座します事なるに、上へも憚らず、近年飢饉にて四百十六文の米喰ひて、大に困窮せし事をば打忘れ、諸国の変を聞きながら百目の米を喰潰し、身の廻りには大いに金銀を費し、踊り歩き飛廻れる有様、前代未聞の珍事怪しむべき事なり。又閏四月中旬の事なりしが、天神の砂持半ばに、前にも云へる所の彼の猫間川を掘りし土をも玉造稲荷の辺に持運ぶべしとて、阿波座・解船町へ命ぜられ、大勢行きて砂持をなすにぞ、石屋仲間・砂糖仲間よりも追々に人を出し、何れも紅摺の衣服・縮緬の玉襷の揃にて、御加勢と印せし大幟を建連ねて、踊り廻れる有様騒々しき事なるに、御奉行・与力等見分の前をも憚らず踊りぬる事なりとぞ。斯様の事なれば時々喧嘩口論等有りて、怪我人少からず死人等もあり。然るに閏月廿一日大坂中の年寄を総年寄の宅へ相招き、三郷町々より一町毎に人足五人・踊子五人宛猫間川砂持の御手伝に出でぬる様にとの内意あり、すべて見聞する毎に、怪しむべき事のみなり。〈〔頭書〕猫間川を玉造へ切抜き、道頓堀川迄其流を通じ、船の往来自由に出来ぬる様になして、玉造繁昌なさしめん為なりとの表向の趣意なれ共、こは全く昨年大塩が乱妨せし時、大川を隔てし事故、天神橋を切落して御城へ近く事なかりし故、南にも外堀を拵へ非常の備になさんとて跡部先生の思付にて、夫となく其事を隠して町人共を悦ばしめて、密に之を計れるものならん。先生が昨年の大狼狽せし事を思へば、若しや乱妨するも〔の脱カ〕ありて、南よりして押寄せなばいかんとも為し難かるべしと、深く心配せらるゝ事ならんと思ひぬれば、可笑しき事になん思ひ侍べる。〉昨年乱妨をなして大に騒動し、諸人をして困苦せしめたる所の大塩・能勢郡等の一件も今以て其儘にて御仕置もなく、諸国より追々変を告げ参る時に当りて、如此有様、心之有らば大に恐れ思ふべき時節ならんか。

大手御番小笠原信州・西の丸下馬先阿部播州・紅葉山青山大膳・百人御番所摂田二郎兵衛、西の丸御成の警固。細川越中西の丸を固む。松平奥州品川・千住を固む。浅野オープンアクセス NDLJP:72因州登城、拝借銀左の通り。

年賦上納金銀百貫目、一万石より一万五千石迄。二百貫目、四万六千石より五万五千石迄。百三十貫目、一万六千石より二万五千石迄。二百五十貫日、六万六千石より八万五千石迄。百五十貫目、二万六千石より三万五千石迄。三百貫目、八万六千石より九万五千石迄。百七十貫目、三万六千石より四万五千石迄。右戌年より十ヶ年々賦に上納、

     御旗本衆へ御配分金

旗本への配分金百石に付金十五両〈但九百石迄五十石に五両増〉 千石に金百両〈但千四百九十石迄同〉千五百石に百五十両〈但千九百九十石迄同二千石より五千九百九十石迄百石五十両増〉 百石以下は増多し。御扶持方は切米の高に入れ、幼少病人は石高に入れ、御扶持方一人に米五俵宛、右江戸の金は焼失によりて、大坂・駿河の御金を宛行はる。

町人へ下賜金金十六万両を江戸中類火の町人に給ふ。〈間口一間に金一両二歩・銀六匁八分、〉此節の大変、当時の大変、大小不同と雖も、其変は異なる事なし。右今世の異なれる事之にて思ひ計るべし。

     江戸表より長門屋敷へ来りし書付の写

高六万石、〈大阪御井上河内守城代〉

天保頃七賢人 〈御老中〉太田備中守・〈寺社奉行〉阿部能登守・〈留守居〉米津周防守・ 〈町奉行〉大草安房守・〈長崎〉戸川播磨守・〈御厩詰組頭〉村田栄之進・〈勘定〉内藤隼人正

向不見七本槍 〈御老中〉水野越前守・〈勘定〉矢部駿河守・〈大坂町奉行〉跡部山城守・朝倉播磨守・〈長崎〉久正伊勢守・〈勘定吟味〉河野三右衛門・〈奥詰組頭〉田中休蔵。

強慾之五家臣 林肥後守・土岐豊前守・水野美濃守・井上備前守・林大学頭。

越人前人如薄氷、以中庸政務、下民大鋪気和、政備而後天下治。

  評判 備後守・越前守・中務大輔

金銀吹替に付いての落語一歩銀もすかねへ、矢部を弐朱の丸へやるとは五両金違だ。然し丁銀共が悦ぶだらう。此上豆銀で長生し、当百(〈百文銭のこと〉)までも勤めたらば、一銭様の御結びを小判だといふ、一朱意恨も消えて首尾の直つて、大判頭迄も出世されう。夫は兎もオープンアクセス NDLJP:73角も金銀に小普請支配受合だ。

何事も皆矢部こべとなりにけり三ツのともゑが廻りわるさよ

自分から地金を出して新吹の吹直されて今日の役がへ

矢部駿河守役替に付いての落首そろ盤を取上げられて今日よりはなんと駿河の不時の役がへ

今までは駿河のふじの山をとこすべり落ちたる二千石高

けふよりはよくの深きを矢部にして五座を大事に駿河一番

広屋敷普請駿河出来ません留守にふつたら矢部にしませう

   右は矢部駿河守留守居転役

せいしつの破れかゝつた江戸合羽あめが下には心ゆるすな

   当月十日出火一条  三月十二日呼出し姓名

西丸出火に付呼出されし人々〈西丸御膳所御台所人〉相沢久助・里村定五郎・〈表御台所組頭〉山口正蔵・〈同改役〉中島伴三郎・〈同御台所人〉松坂長之助・〈御膳所御台所人〉里村勇三郎・由井久平・斎藤忠三郎・窪川滝蔵・乙津太三郎・田中九右衛門。

 尋之上差返す。

御賄組頭当分の内出口鉄三郎・御賄進上役井上平蔵 一通り尋の上差返す。

 右於評定所初鹿野河内守・大草安房守・由田修理立会、安房守申渡す。

天保九戌年閏四月四日夜、亥の中刻頃麴町十丁目心法寺と申す寺より出火と申事す。折節西北風大いに烈しく、暫く大火に相成り、翌五日朝五ツ半頃鎮火。

     四月廿九日被仰渡

西の丸炎上に付役人の処刑一、遠島 〈西丸御膳所御台所人〉相沢久助〈四十二歳〉 一、役儀取放押込 田久順蔵〈四十二歳〉 一、押込〈同表火之番〉 依田彦兵衛〈二十同御膳所九歳。御台所人〉里村勇三郎〈四十五歳〉・由井久兵衛〈六十病気三歳。付代〉小孫兵衛・窪川滝三郎 〈二十八歳〉

 右於評定所初鹿野河内守・大草安房守・池田修理立会、安房守申渡、

     申渡之覚

                    ​西丸御膳所御台所頭​​   磯部平右衛門 ​​ ​

去月十日西丸致炎上之一件に付、支配之者共夫々御仕置被仰付候。右に付被御詮議候処、去月九日御夜詰引之節御用多きに付、御台所向見廻り不申候由、火之オープンアクセス NDLJP:74元之儀に付、兼而被仰出も有之候処、跡之始末殊に支配向之者共申付方も等閑の儀と相聞え、不束之至に候。依之差控被仰付候。

                       ​同御台所頭​​  中村藤左衛門​​ ​中村藤左衛門

                         榊原藤十郎榊原藤十

去月於同断去月九日御夜詰引之節、当番磯部平右衛門御用多に付、御台所向見廻り不申由、火之元之儀に付、兼而被仰出も有之候処、右体不行届支配向之者共申付方も等閑之儀と相聞え、不束之事に候。依之御目通差控被仰付候。

 右於相模守宅、同人申渡之、御目附水野舎人罷越。

     町家へ被仰出之写町家へ仰書の写

一、日本橋ゟ今川橋迄両側〈但浮世小路共〉 一、本町両側

一、道浄橋ゟ大横町通り地蔵橋迄類焼の分、

 右之場所土蔵造の普請不苦、並家作之分、本普請見合之事。

一、本銀町北側之分       一、龍閑町河岸通り

一、紺屋町二丁目通り      一、龍閑橋鎌倉横町

一、永富町新革屋町代地     一、横大工町・新銀町・青物役所南北の所

一、新銀町・雉子町通両側    一、三河町三丁目・四丁目、表町・四軒町

 右之場所土蔵造並家造共、本普請見合之事。

   閏四月十四日

三月三日西の丸御柱立

     西の丸御普請に付、諸大名より献上物。西の丸普請に付諸大名の献上品

一、鉄三千貫目 松平肥前守 一、銅一万貫目 松平陸奥守 一、畳表二千枚 細川六丸 一、銅一万斤 松平長門守 一、綱苧二千貫目 松平越後守 一、金箔十万枚 松平越前守 一、漆三十貫目 丹羽左京大夫 一、鉄三千貫目 松平相模守 一、石井筒二組 松平新太郎 一、青竹三千束 京極丹後守 一、鉄五千貫目 森内記 一、八布千匹 松平犬千代 オープンアクセス NDLJP:75一、高宮布千匹 井伊掃部頭 一、畳表三百枚 相馬大膳亮 一、同三百枚 仙石越前守 一、金箔十万枚 鍋島信濃守 一、漆五十桶 松平下総守 一、綱苧三百貫目 秋田河内守 一、三寸釘十万本 浅野内匠頭 一、鉄千貫目 松平淡路守 一、畳表三百枚 松平飛騨守 一、同千枚 藤堂大学頭 一、畳縁五百枚 有馬中務大夫 一、鳥の子真似合五千枚 松平但馬守 一、唐紙一万枚 松平千菊 一、大真似合三千枚 松平辰之助 一、四寸釘十万本 溝口出雲守 一、真似合三千枚 岡部美濃守 一、鉄千貫目 松平式部大輔 一、小鳥部家一組 松平伊賀守 一、障子紙五十束 松平主殿頭 一、鉄千貫目 松平周防守

一、杉丸太三間半末口一尺三寸五十本・同四間末口一尺三百本・七寸角長十二間五百本・六寸角(衍カ)〈二同〉五百本・六寸角〈二間〉五百本・尾張大納言より献上品一尺二寸角〈三間〉百本・七寸角〈□間〉百本・杉五百本、右松平薩摩守献上。

一、檜三間一尺角五百本・同三間九寸角五百本・同三間八寸角五百本・同二間九寸角五百本・木五百挺椹檜板子 一間二百枚。半右尾張大納言殿

紀伊大納言より献上品一、栂三間径尺四寸幅七寸二百本・同三間八寸角四百六十本、松三間八寸角三十四本・同七寸二百本、栂三間七寸角 三百本・同二間六寸三百本、檜二間六寸角五百本、松二間五寸角千本、松板長一五千枚、栂板長一間尺三寸一万五千枚、棚板二万枚、右紀伊大納言殿

一、大竹廻り八寸廻り二千本・同五寸廻り三千本・同六寸廻り五千本、小竹三千本、右水戸中納言殿

一、檜二間半六寸角三百本・杉戸板百枚・杉大樹二百挺。右松平阿波守

銅千貫目・畳縁二百端石川主殿頭一、漆二百貫目 佐竹修理大夫 一、金箔三百枚 本多内記 一、真似合三千枚 本多八郎兵衛 一、判唐紙三万枚 松平山城守 一、真似合一万枚 立花飛騨守 一、石灰三百石 松平越中守 一、障子紙十帖 松平丹波守 一、釘三千斤 本多能登守 一、白土千俵 戸田左門 一、畳表千五百枚 伊達遠江守

右之通献上、安藤右京進西御丸御普請奉行、同年九月廿日大納言様西御丸へ御オープンアクセス NDLJP:76移徙

     江戸御触出之写

奢侈の儀に付ては、前々ゟ町触申渡も在之処致忘却、近来衣類・髪飾之類別て超過致し、其外町人共身分不相応の儀相好み僭上、高金之品相用候者有之由不埒之事に候。倹約獎励の触公儀にても御倹約被仰出、諸家にも格別質素節倹被致旨御触有之間、町方も向後身分不相応奢倹借上之儀急度相慎み、前々町触申渡候趣堅く相守可申。若相背者於之者、吟味之上急度可申付候。右之通御奉行所ゟ被仰渡候間、町中家持・借家・店借裏々迄不洩様入念可相触候。

  五月廿二日                 ​町年寄​​ 役所​​ ​

今般町触之趣、名主共支配限り精々被申諭、此上遺失心得違無之様可致。尤も町人共之儀は武家と違ひ、金銀融通を以て家業相続致候事に候間、一概に倹約質素のみ心掛候様申渡候はゞ、業体に寄つては差支之儀も可之哉に候へ共、譬ば町人共衣類之儀一体絹紬・麻布を可用之処、身分をも不顧紗綾・縮緬・縫模様抔之類相用候は、不相応之儀にて、則僣上と申す者に有之、又何にても用弁可成品を華美風流に致し、高金之品相用候は則奢侈に有之。右様にては無益の金銀費のみならず、貴賤之無差別も御制風俗にも拘り候事に候間、右品商ひ候町人共に至る迄、右等の意味能々相弁へ、此度之町触并前々触申渡之趣、無遺失相守候様可致候。若し相背候者有之咎受候様にては、名主・町役人共迄可越度候。猶此者共より組合限り精々心付、下々迄行届き、心得違之儀無之様厚く世話可致候。右之通被仰渡畏候。為後日仍而如件。

  天保九戌五月廿四日

 右は紀伊守様於御白洲渡之

     甲州騒動落著天保七申八月廿一日の一揆也

      五月七日申渡之覚

                     ​甲府勤番支配​​ 永見伊勢守​​ ​

                         ​名代​​ 梶川庄兵衛​​ ​

オープンアクセス NDLJP:77甲州騒動落著其方儀、甲州村々之者共騒立ち甲府町方へ乱入可致趣相聞き候上は、戸田下総守と申合せ速に市中へ出馬致し、組同心共手を分け差出し相制し、猶及狼藉候はゞ、鉄炮を打掛候か亦は切捨候共厳重の可指図候処、右様之取計にも不及、御代官ゟ防ぎ方の儀申越し候砌、永見伊勢守処罪甲府東入口板垣村并南入口遠光寺村へのみ人数差出し、徒党之者共甲府町方へ押入り、緑町藤兵衛宅打毀し諸品焼払ひ、市中及出火に候節に至り出馬致候故、既に与力・同心共防ぎ方不行届之次第と相成候段、不束之至りに候。依之御役御免逼塞被仰付候。

 右於増山河内守宅若年寄中出座、河内守申渡之、御目附水野采女・一色主水相越。

                       ​小十人小沢勘兵衛組​​  山口鉄五郎​​ ​

其方儀甲斐国御代官相勤候節、村々之者共騒立ち陣屋へ押寄候趣に候上は、仮令病気に候共、押しても出張致し候か亦は厳重の可指図処、防ぎ方の儀本締手代高橋仁右衛門へ任せ置候上野村神主内膳父市川又六、山口鉄五郎の処罰防として罷越し候節、徒党之者共不押来候とて為引取、夜中油断致し候故、終に陣屋元へ乱入致し、其節防方等不行届、殊に病気にて出張難相成候書面差出置き、追て右の次第以来書相尋候節、防方として自身出張致し候趣、或は西村貞太郎陣屋へ及加勢、手代・足軽差遣候様品品取繕ひ候相達之答書差出候段、旁〻不埒之至に候。依之御番御免、小普請入逼塞被付之

  右於増山河内守宅同人申渡、御目附水野采女・一色主水相越。

                        ​御代官​​ 井上十左衛門​​ ​

井上十左衛門処罰其方儀甲州村々之者共騒立ち、支配所同国酒折・板垣両村押通候節、為防方手付手代のみ差出し、其身は追々御城内御米蔵へ相詰め、最初酒折村等へ出張不致候故、出役之手付手代共利解申諭候迄にて、鉄炮等用意不致打払も不致、制し方手弱ゟ弥増多人数に相成り、甲府市中へも致乱入候及仕儀候段、畢竟心得方等閑の儀不束の至に候。依之御役御免小普請入差控被付之

                        ​御代官​​ 西村貞太郎​​ ​

其方儀在府中、支配所甲州都留郡村々之者共并同郡谷村陣屋先之者共騒立ち候趣、オープンアクセス NDLJP:78手付手代共ゟ申越し、西村貞太郎処罰其段申出で出立致候は、如何様共差急可罷越候処、讒之道法五日之日数にて右陣屋へ著致し候段等閑之至、畢竟右体之心得方故、手付手代共取鎮め方不行届国中及騒動候仕儀と相成り、殊に右次第封書を以て相尋候節、名和陣屋へ夜通し罷越候趣、兼ねて届書差出乍置、右様之儀は不申越哉之心得に候抔、其外彼此取繕候相違之答書差出候段、旁〻不埒之至に候。依之御役御免小普請入逼塞被渡之

御扶持方被召放 〈井上十左衛門手付〉西原大治郎。 無構 北村運平・三枝寛五郎・佐藤丈助。手代奉公構 秋山小八。  同 上越周助。御扶持被召放 〈西村貞太郎手付〉松岡啓二・大滝新三郎・中山鹿之助。江戸払 〈元山口鉄五郎元締手代〉高橋仁左衛門。御扶持被召放守 〈永見伊勢守組与力〉 大竹伝蔵・郡司和十郎。御料所奉公構 村井東太郎・阿部仁蔵・佐久間忠蔵・直原喜作。 押込 〈同組同心〉藤井巻太・〈外三十人名代〉久保田弥門・中島梁作。 武家奉公構 〈伊勢守家来〉山本茂兵衛。 御扶持被召放 〈同留番所番人〉二宮三之助・名取慶助。小宮山格左衛門。 〈阿部遠江守組与力〉吉川忠太郎・小泉市左衛門。 押込 〈戸田七内家来〉宮野庫兵衛。 同 〈同人組同心〉堀田逸平太・〈外三十人名代〉中島元助。

当三月安芸広島に大騒動有りし由、専ら風聞せしが、其後の噂に銀札不通用にて百姓共少々騒立ちし迄にして、事なく治りしと云ふ事なりしが、此度或人よりして、其騒動の事を忠臣蔵といへる芝居の(九カ)段目に見立てゝ、書記しぬる戯れ言を見せぬ。之にて其騒動の実事をしるに足りぬれば、其儘こゝに書附けて置きぬ。こは安芸領内の者の作なりといへり。

宮島騒動を忠臣蔵に作替ふ戌三月芸州宮島於大芝居。仮名手本忠臣蔵末世となり、逆臣連の不忠臣蔵(九カ)段目見達。

     大序

家老有りと雖も、職に付かざれば其味ひを知らず、国賊禄に蔓れば智勇兼備も隠るゝ習ひ、乱れたる世を幸ひに逆意を振ふ役人の例を爰に書記す。されば諸国は米安し、頃は天保九年の春、上の御不徳四方に響き、あらゆる草葉喰尽し、万民塗炭の苦しみは、前代未聞の事なりける。されども執権関蔵人・今中大学・松野唯次郎愈〻オープンアクセス NDLJP:79奸智逞しく、厳命なりとも己等が心にそまねば、空吹く風人を芥の振舞は、うたてかりける次第なり。

     抜文句抜文句一、日本一の  阿房の鏡 御家老 一、暫く座を立つて  貰ひたい 関蔵人 一、しやちちばつてゐる  いかいたわけ者 今中大学 一、寐覚にも  現にも 年寄木村丹波 一、大功は細瑾を  かへりみず 沢讚岐 一、錆たりな  赤いわし 大橋主税 一、死人も  同前 御番頭中 一、御家の筋目、殿の御名代もなされまする御身の上 浅野唯之進 一、暦々様の御中見る  蔭もない私めを 同監物 一、善悪の明りを  てらす 築山為蔵 一、ねてござる  さうな 山下重右衛門 一、結構過ぎた  御身の上 辻五郎太夫 一、御国を取直す  所存はないか 御用人中 一、強欲者で  ござる 天野兵衛 一、風に吹かれて  居るわいなあ 植木孫六 一、天晴大丈夫  末頼もしい 二川清記梶川角左衛門 一、獅子身中の虫とは己が事めた百石の九太夫本川で水雑水くらはせい 松野唯次郎 一、御免候へ  たわい 池田直一 一、御台様の  御つひしよう 承野千九郎 一、いつそ気違で   ござろ 諏訪民次郎 一、どうやら  面白さうな黒田斎 一、下には  おかれぬ 木村一学 一、ふし喰うた様な顔 して居る御侍 西山造酒 一、木にも萱にも  心をおく 小池源六 一、様子を見届け  跡より知らせん 小笠原主馬 一、花に遊ばゝ祇園辺の色揃へと出かけて貫ひたい 植木兵太郎・瓦道奉行・木村幾三郎・青野小太郎・穴長左衛門 一、とかく浮世は  かうした物か 上坂加膳 一、足軽ではない  えらい口軽ぢや 植田小三郎 一、筒井のはし店  わすれぬ 石津五郎九 一、勝手が違つて  どうやらあぶない 幸丈右衛門 一、うつゝ  抜かして 寺川直勝 一、御目さまされ   ませう 湯川静次郎 一、あはういはん    すな 岡田定六 一、あぶないこはいは  むかしのこと 河瀬左門 一、足元もしどろもど  ろの浮拍子 蘆田太郎助 一、高うは云  はれぬ 伴左内 一、是は何共  御気の毒 阿部松岡家内 一、やあ本心な   こと 阿部半右衛門松岡源内 一、これは  かたいは 横山十助 一、南無三宝  しまうた 中野蔵人 一、驚きは尤々まだまだ悲しい事がある 中島家内 一、さぞ痛かつたで  ござんせう 中島登 一、精進する気は  みぢんもござらぬ 御祈祷寺明星院 一、おかるは思案  とり積り方 オープンアクセス NDLJP:80一、なにして  ござる 御用達所 一、嬉しい   町方附 一、是は恥かしい所  であひました 小川来蔵小田八十右衛門 一、くるしうない   松島久助 一、人は一代名は末代  誰ぞ出てこい 総家中

落首  安芸地島かよふに民が泣く声は幾夜ねためもあはぬ関もり

  安芸足れば足るに任せて遣過し安芸足らぬからかゝる騒動

諸国巡見の役人へ渡されし書附天保九戌年、公儀御代替に付、巡国御使被仰付候黒田五左衛門殿・中根伝七殿・岡田右近殿へ公用人より相渡候書付写如左。

     覚

一、公儀御代々御位碑所有之哉之事。 一、公儀御関所有之哉之事。但公儀手形歟領主手形か之事 一、御朱印地寺社数并除地之事。 一、御預所有無之事。 一、切支丹并類族之事。 一、宗門人別毎年御改有之哉之事。 一、百姓飢人等御手当之事。 一、孝人有無之事。 一、御領分郡村名之事。 一、他国へ出口番所有之哉之事。但番人何人之事 一、船掛之浦々何れの所有之哉之事。但地名并江戸・大坂迄船路里数之事 一、名産有之哉之事。 一、名有る大山・大川有之哉之事。但薬草有之候はゞ其品の事且山海品之事 一、金銀・銅鉄・錫鉱山有無之事。 一、巣鷹有無之事。 一、温泉有無之事。 一、名所有無之事。 一、御預り人有無之事。

右之通り巡見之節、於先々相尋候儀も可之候得共、先づ書面之趣御逹申候。御預処へ御参著の砌、書面の趣書付、御調御差出可成候。其節此書附御返し可成候。已上。

   十二月

京橋口与力何某といへる方へ訪ひしに、先年同家に召遣ひし下女、三田出生の者なるが、其家を暇取りて後、在処に帰りて緑付きてありしが此者用事有りて天神の砂持見物旁〻出来る。三田辺の寺々へは大塩平八郎昨年油掛町にて自滅せしか共、何分にも一身真黒に焼焦れて、面体少しも分難く、其上平八郎は奥歯少々抜けてあるオープンアクセス NDLJP:81に、此死骸は総歯一枚も別条なし。大塩の余類召捕らる故に甚だ疑はしければ、今以て存生にて身を隠し、坊主抔に成りて、寺の事故入込むまじきものにもあらず、若し怪しき者出来らば早々訴出づべしと云ふ御触廻りしとて、此女語りしと云ふ。今迄身を全うして隠れ廻る程の器量ある大塩ならば、昨年の如き無謀の働き何故にかあらんや。油掛町にて真黒に焼焦れぬること、其首尾相応の事と云ふべし。大塩一味の者何某とやらんいへる者江戸に出でて、烟管屋の仕にせを買ひて隠れ居しが、召遣ひの者不審に思ひぬる事有之。〈此者商人になれ共算盤を少しも知らず、其国処も詳かにいはず、金銀を多く持ちぬる様子なる故、大塩が余類とは心付かざれども、盗賊にても有らんかと不審故申出でしと云ふ。〉町御奉行所へ内分にて申し出しにぞ、直に召捕られ有体に白状す。此の者の白状に依つて、外方に隠れ住める坊主一人召捕られしと云ふ。大坂にても先年大塩方に召仕ひし僕の、外方へ奉公して有りし者、召捕られ江戸へ引かれしと云ふ。

戸田三治郎と肴屋京橋与力戸田三治郎と云へる者、出入所の肴屋掛取に来りしを、払ひ難し。暫く相待つべしと断りぬるを、強ひて申受けんといひぬる故、大に憤り槍を以て追掛けしが追付き難かりしかば、鉄炮を打ちしと云ふ。此者乱心なりとて、座敷牢を作りて押込められしが、当四月町奉行の手に引渡しと成り、牢屋敷にて討首となる、大馬鹿と云ふべし。

箱根の火災閏四月上旬、相州箱根大火にて町家大抵焼失す。折節土州侯同所の泊なりしに、出火故近習五六人引連れ本陣を逃出で、一町計り隔りし寺へ逃込みて、火を避んけとせられしに、爰へも飛火来り忽ち燃上りぬるにぞ、漸々湯本迄逃行き火を避けられしと云ふ。家来の向は何れも相隔りて別々に宿を取り、又銘々預りの道具を守り居る事故、早速にも本陣へ駈付け難く、手明の者のみ早速に駈付けしが、主人の行衛一向に相分らず、何れも大に狼狽へ廻りしと云ふ。風火殊の外烈しくして、持道具は云ふに及ばず道中金迄悉く焼失ひしと云ふ事なり。

川越の火災同じく武州川越松平大和守城下失火有り。之も風至つて強く吹きしにぞ、以の外なる大火となり、市中残らず焼失せしと云ふ。近来は火事とさへいへば何れにても皆大火にて、焼失仰山の事なり。恐れ慎むべき時節と心得べし。

オープンアクセス NDLJP:82本願寺の強欲本願寺、将軍御代替りにつき拝礼、血判の為に江戸へ往来とも廻り道をなし、金儲けの為に所々を経巡り、富人は云ふに及ばず、婆々・嚊の銭金まで絞取つて帰りしと云ふ事なり。昔よりして怪有の宗門と云ふべし。

四月二日晴、今夕二更頃より阿波座出火にて、南北三町・東西六町余、家数三千余焼失し、三日申刻に至り漸々火鎮る。

当年は閏月ありて時候おくれぬるとは云ひながらも、余りに寒過ぎる程にて、当月半ばに至れ共未だ綿入の重ね著をなす。され共麦の出来諸国一統に至つて宜しく、又諸侯にも西の丸御普請に付.過分の上納金する事なれば、何れも囲ひ米を多く売払はずんば、金の工面も六ケ敷からんといへる見込にて、米価も次第に下落の様子にて、肥後米一石九十三四匁、長州米一石八十八匁五分位となり、人気も大に穏になりぬるに、三月十一日頃は河内の道明寺・誉田八幡・藤井寺其外大和にても南都は申すに及ばず、所々に開帳ありぬるにぞ、何れも大に浮れ立ち、之に参詣する者引きも切らず。去る寅年の御蔭参の如し。


     長崎出火〈御奉行所へ書出に相成候写〉長崎の大火

当四月四日夜五つ半頃より出火、翌五日八つ時頃に火鎮まる。小川町残らず焼ける〈長岡焼ける小間物屋より出火、〉恵間比須町二三軒焼け、内中町〈西側計り焼〉・船津町〈新橋近辺浦町計り残り〉・本興善町〈残らずやけ、すが屋焼失。〉後興善町〈不残やけ〉・新興善町〈のこらず参会所焼〉・豊後町〈同〉新町〈西側計り〉・堀町〈のこらず〉・金屋町〈同〉〈小坂屋焼失〉・今町〈同、仲間内竹のや喜・有田伊・馬場善・佐野善・菱喜・三木屋・焼失〉・本多博町〈同、大坂会所・江戸会所村上鈴清焼失。〉・本五島町〈同、黒田家老屋敷焼〉・浦五島町〈同、諫品屋敷焼失・佐野屋大半焼、筑前屋敷より北の方片側丈残る、〉麴島町〈同、中の焼山中勘定場土蔵に火入、前夜荷送り致し置候反物.砂糖知道く・凡二百五十貫目計の品の由〉・大村町〈同、堺会所焼失〉 島原町〈同・高木・後藤・高島三軒共焼失〉・半戸町〈吉川焼、浜蔵焼、唐館渡鯣・昆布凡千両計の品焼失し〉・江戸町〈出島より大波戸の方丈け残らず残り、余は残らず焼失。〉 本下町〈船番屋敷長家三十七軒共焼但し今町も二三軒丈け焼く〉・西東〈西は長久橋際にて取切、東は万屋町へ渡る橋の際にて取切、築町より下町へ参る築町処より材木町の方丈け残り、〉三地 〈鹿島屋敷・対州屋敷焼け〉・外浦町〈上村屋・蒔絵屋・小口屋焼失、西御役処丈け残り、御馬小屋丈焼失。〉〆二十五町、竈焼数千三百六十三軒、土蔵五十八戸前、年寄三軒、土蔵二戸前。蔵屋敷四ヶ所〈鹿島・対州黒田・諫早〉・船番屋敷〈長屋三十七軒〉・死人 〈四人・内一人不相分。〉

右長崎の火事にて唐物類多く焼失せし由にて、薬種・砂糖・織物の類に至る迄忽ちに高直となる。

オープンアクセス NDLJP:83十三日晴申の刻より曇、米価も追々下落して肥後米一石八十九匁五分、長門米八十三匁五分位となりしが又九十三四匁・八十七八匁位となる。

江戸の火災当月十七日午の刻、江戸日本橋小田原町より出火にて、大に焼広がり、其夜子の刻に至り漸〻と火鎮りしと云ふ。余程大層なる焼と云ふ事なり。〈〔頭書〕十七日小湊御門下より焼出し、西南の風烈しく北に焼広がり、尾張・水戸等の屋敷前を過ぎて伝通院の裏手にて焼止り、小田原町よりの出火と一つになりし故、仰山に焼失せしと云ふ此日御本丸も奥御殿焼失す。され共此事は大に秘して、其噂する事を厳しく御停止にて、若し其噂する者あれば直に召捕られてお牢す抔とて、種々の風説がしましき事なりし。〉当所に於は廿四日より天満天神の砂持始まる。天神砂持始まる晴天三七日の願の由、北の新地よりは石の鳥居を寄附し、青楼残らず遊女を出して之を引かしめ、老少男女の差別なく、種々の形をなして砂を持運び囃し立てゝ浮れ歩行く有様、何れも夢中の如し。軈て節季に至らば其夢忽ち覚めて、臍を嚙んで後悔する輩も定めて多くありぬる事なるべし。先達てより大に浮かれ立ちて、我一に見物に行きし。彼の猫間川は素より辺土にて行詰りし処なれば、三月下旬よりしては、一向に行きぬる人とてもなくて、森の宮の開帳も参詣する者一人もなく、至つて淋しき事なりと云ふ事なり。

     江戸出火

江戸の大火四月十七日午の中刻、日本橋小田原町二丁目より出火、南風強く同町残らず、伊勢町・同塩川岸・本船町・魚川岸・瀬戸物町・室町一・二・三丁目・品川町・同裏川岸釘店・北鞘地町・駿河町・両替町・金吹町・本革屋町・本町一・二・三・四丁目・本石町一・二・三・四丁目・本銀町一・二・三・四丁目・神田紺屋町三丁目・下白壁町・三島町辺にて焼留り、夫より東風にて神田今川橋・元乗物町・鍛冶町一・二丁目共鍋町迄、夫より西へ蠟燭町・関口町・多町・堅大工町・横大工町・三河町残らず、鎌倉川岸残らず、龍閑町・松屋町残らず、夫より神田橋外小川町通御屋敷方、遠藤但馬守・本多豊前守・平岡石見守・板倉伊予守・榊原式部少輔・松平紀伊守・本庄伊勢守・内藤火消屋敷本郷丹後守・白須甲斐守、右之外御旗本屋敷多分御焼失、同夜子の刻火鎮り申候。〈〔頭書〕西の丸御普請の材木、仰山に護持院が原に小家掛して、幾所ともなく積みて有りしに、之に飛火して火移りぬる故、亀山等の屋敷も焼失する様になりて、殊の外なる大火となる。〉

先月下旬以来、天神の砂持大はずみにて男女の別なく、種々様々の形をなして、大坂市中も花街も一円に浮かれ立ち、大に震動す。其騒々しき事之を譬ふるに物なオープンアクセス NDLJP:84し。何れも悉く狂人の如し。性気正しくしてはなり難き事共なり。此末恐るべき事なり。〈幸町にても諭加権現の処替ありて砂持、をなす、天神と一時にて大騒ぎなり。〉

     閏四月江戸出火

江戸の火災当月四日亥の刻、麴町九丁目より出火、折節西北風強く大火に相成り、同町より同四丁目迄南側残らず、同町二丁目迄南側計り焼け、夫より山本町・平川町辺天神前通西側計り表通り共、三軒屋下通小田切様御屋敷際迄、麴町貝塚迄南側通赤坂御門通際迄、尾州様中の屋敷・稲垣様・松平出羽守様中屋敷・阿部大学様、其外寺数多御類焼御座候。漸々翌辰の刻頃火鎮り申候。此段為御知申上候。

但し尾州様中屋敷・松平出羽守様下屋敷類焼。稲垣対馬守様・阿部大学様御類焼、其外御旗本屋敷数多類焼之事。

廿四日雨、今日堂島の姦商米価を引上げんと博奕徒・芝居の木戸などの悪徒五十人計り雇ひ来りて、不法の業をなし、米価一石に付二匁程上りぬ。之に依つて公儀より百三十人計り召捕らる。廿八日丑の刻江戸丸の内大名小路松平備前守殿屋敷焼失、隣家堀田殿類焼之由。

来月十日より御霊宮に砂持始まるとて、当廿日頃より此地一統に地車・囃子抔を出すとて、御霊砂持と寄付金の強請一統乱心の如く大騒に騒ぎ廻りて、町々毎に飛上の狼狽者共、軒別に銭を出せとて頻りに無理を言廻り、其人々の身分によりて、「廿貫・十五貫・十貫・七貫・五貫・三貫・二貫・一貫宛出すべし」と云ひ、裏家にて三枚敷哀れなる家に住みて、人に雇はれ又は按摩抔する位なる極貧困の後家婆に迄も、五百文宛出せとて、不法の事に及ぶと雖も、町内にて之を取締る事能はず、中にても尤も甚しきは、靭油掛町は大塩を囲まひし美吉屋が町にて、未だ御仕置もなく当人夫婦は江戸に引かれぬれ共、子供等は町内預けとなりて、厳重に番人を付けて之を守れる事なるに、公儀を憚らず此町より練物を出し、斎藤町は能勢郡一揆の発頭山田屋大助が町にて、是も未だ裁許なく妻子町預け被仰付、番人を付けて厳重に之を守れる事なるに、此町よりも地車を出す。公儀へ対し恐れ入るべき事なるに、公儀よりして是等の事御咎めなきも、亦其意を得ざる事なりと云ふべし。七日晴、今日初相場米の立替にて、加賀米二オープンアクセス NDLJP:85俵七十六匁なり。又今日も悪徒両人、米価を狂はせんとて召捕られしと云ふ。

丹波織田家の御家騒動五月中旬、丹波柏原織田山城守家老鈴木主税と申す者召捕られ、京都にて入牢す。主人山城守未だ幼年なる故、之を毒殺し己れが忰を以て之に代らしめんとす。此悪事為んとせるに相迫りぬる時に至り、一味の者より内通に及び露顕せしかども、其騒動せん事を恐れ、密にして一人加賀の屋敷へ馳込みて、之を取鎮むる事を頼みしにぞ、同家よりして京都屋敷へ向けて捕手の者出来り、彼をだまし捕りにせんとす、織田家近来至つて貧窮の事故、京摂の間にて類に金を借入れんとす、され共之迄館入の町人共何れも多くの金を借り納れしのみにて、之を返す事なければ、何れも之を頓著する者なし。然る処此度京都に於いて、柏原の御祓所〈御祓所へも銀子入用の事なれば、金を借り出し候様類に申付けて之迄数々催促をなせしと云事なり。〉に金を借出し申すべき由、兼ねて言ひ付けてありぬるにぞ、加賀の捕手之と相計り、「其手筋にて金子程能く出来す。され共一応御家老へ御目に掛り、直に御面談申せし上ならでは相成り難し。御祓処計りの引合にては取引なし難しといへる故、早々上京にて御借入れ然るべし」と言遣りしかば、之を誠なりと心得て、直に上京せんとて、大勢の供廻引連れて柏原を出立す。加賀よりの捕手は途中に待伏せし、柏原の領分境にて之を召捕り、大小を取上げ乗物に網打掛け、何の苦もなく之を召捕り、京都へ連帰り所司代へ御手渡しせしと云ふ。一昨年既に但州出石に於て、仙石左京が悪事有之、其事忽ちに露顕し罪科に行はれぬ。れ隣国の事にして、柏原とは至つて近し。殊に左京は松平周防守といへる後楯を丈夫にして姦悪をなしぬれ共、天命遁るゝに道なくして、其罪に伏しぬ。かゝる前車の覆へれるを見ながら、一己の力にて斯様なる悪事を工みぬること、はかなき者と云ふべし。之とても明君上に有りて賢臣之を輔する時は、此の如きの悪人有りと雖も、其悪を施す事なり難し。これ全く上下共に愚人のみ寄集へること故にして、かゝる悪事を生ずるに至る、浅ましき事と云ふべし。其上に程よく内通有りて、其姦計の頭人を知りぬる事なるに、其家にて之を誅する事能はずして、加州を頼みて之を召捕へ、京都へ御引渡となり、公辺を労し奉ること、いかにしても余りに拙き業にして、武門に於て町人・百姓は云ふに及ばず、犬猫までに恥思ふべき事なり。オープンアクセス NDLJP:86御霊猫間川の砂持の賑盛御霊砂持は云ふに及ばず、猫間川砂持如何程に華麗を尽しても苦しからざれば、随分賑やかになし申す様にと、総年寄より内意有りぬるにぞ、三町も五町も一処になり。紅染の高張灯灯を長き竿の先に附け、之に御加勢と書記し、其上に種々思ひの出車を金銀五色の細工にて之をつけ、真先に持行く様は指物・馬印の如し。其跡に引続き千も二千も紅摺の鉄炮・襦袢・同じき股引を穿き、五色縮緬の玉襷をかけ、紅摺手拭の鉢巻なし、又は種々の細工物を頭に戴き、中には羅紗・猩々緋・天鵞絨錦・縮緬等の衣服を著用し、鉦・太鼓にて囃子立て、一統に「負けなよ」といへる掛声にて、一群々々駈行く有様なるに、其是を出せる町毎に其寄場を構へ、大なる杉丸太にて垣を結ひ、掟書を張付くる。予通り掛りに砂場の寄場張紙を見しに、「未明一番の太鼓にて銘々仕度をなし、二番太鼓にて白髪町観音堂へ集り、三番の太鼓にて人数を出し候事。但し弁当は何れも宵仕込に可致事。」此の如き文面にて、一日猫間川砂持をなす事なるに、遥前より大騒に騒立ち、一日は足揃、二日目足固めなど名目を付け、三日計りは大勢一群に成りて、大坂中を負けなよと掛声して駈廻ることなり。砂持連中と大坂番所然るに「地車・囃子は申すに及ばず、御霊の砂持も猫間川の砂持も御番処へ出で来れ」と云ふ事なるにぞ、何れも囃し立てゝ行く事なり。中にても囃子方・練り物等の趣向、面白き練り子の美麗なる衣服を揃へたる抔をば、明日も来れと云ふ事なる故、何れも御番所の事にて気の張りぬる事故、心には欲せずと雖も、拠なく明る日又持行けば、「又明日も来るべし」と言付けられ、種々断を云へるに困りぬるも有りと云ふ。御番所には砂持往来の競を見んとて、新に物見を出来なりしと云ふ。不怪事と云ふべし。御霊の砂持も雨天有りしにぞ、廿三日にて晴天、十日の定日なれ共亦三日の日延を願ひ、廿四日よりは座摩宮の御旅処も砂持の願ひ御聞済にて、三郷市中大飛上りに飛上り、所々にて行合の喧嘩抔ありぬる故、如何あらんと恐れ危ぶみしに、廿二日の暮前に至り、徳川刑部卿様御逝去の由にて、廿八日迄御停止の御触有る。されども浮かれ立ちぬる人気故、之を少しも頓著せざる様子にて、御霊社の小火何処彼処の差別なく、鉦・太鼓にて、負けなよとて大騒ぎにて、地車・離子等御霊社内へ持込みしに、初更の事なりしが、蠟燭の火倒れて寄進小家へ移り、其オープンアクセス NDLJP:87火芝居小屋へ移りて夫より表へ出で、餅家其外出し店等悉く焼失す。され共大勢群集せし最中故、寄進せし処の金銀・米銭一つも残さず之を取除け、火方と共に出精して火を防ぎしかば、外に餅屋一軒と出し店の類計り焼失せしのみにして、本社を始め末社に至るまで悉く別条なし。社内観音堂の床の下に三年来隠れ住める盗人あり、社内観音堂下の盗人両人は俗にて一人は坊主の由、火事騒動に依つて露顕し、忽ちに召捕られしと云ふ。御霊は社内に盗賊を構ひ、観音は盗賊の落し宿をなす、何れも不埒の事と云ふべし。男女・老幼、参詣・見物等大群集せし者共大に狼狽へ、総崩に成つて逃行くことなれば、押倒され踏倒され、怪我人多く有りし事なるべし。翌日に至り御停止と御霊火事にて世間も穏になりぬ。此度人気の浮立ちぬる有様にては、如何なる大変も出来ぬる事もあらんかと思ひ、密に案じ煩ひしに、此位の火事にて事済みぬるは大幸と云ふべし。

猫間川を玉造へ掘抜き、道頓堀へ船の往来成りぬる様になして、玉造の繁昌をなさしめんとの趣意なる由、こは定めて表向の事にして、内実の処は御城要害の為に外堀の構へになれる事ならんと思はる。猫川堀抜の奉行の内心既に昨年大塩が乱妨の節、大川の橋を切落し、夫故直に御城へ向ふ事なかりしかば、是等の事より思付き、若し昨年の如き乱妨ありて、御城の南手より押来らば之れを防ぐの手術なく、御城迄も押寄せらるゝに至らば如何んとも為し難しと、其用心よりして之を申立てゝ、爰に至れる事と思はる。され共銀の簪其外金物類に金銀を遣ふ事をば、厳しく御法度仰出さるゝ中にて、莫大の金銀を捨て費し、縮緬・天鵞絨・羅紗・猩々緋の類ひ切散じ、是を身に纏ひ不法なる大騒をなす事は申すに及ばず、高金を出さゞれば手に入難き鼈甲にて作れる櫛・警等の事は、聊か御頓著も之無き様子なり。又近年凶年にて諸人大困窮せし上に、西御丸御炎上、夫に付いては種々無量の風説あり。其中にも「せいひつの破れかゝりし江戸合羽天が下には心許すな」。此の如き落首抔江戸にてなせし者有るなど、専ら善からぬ風評なれば、踊に紛らし人気を鎮めんとの手段の由云ひぬる者もあれども、困窮の国々多く、又所々に一揆・内乱等有りて、諸国穏ならぬ時節なるに、大坂計り飛上り踊り廻り、人気夢中になりて、うかオープンアクセス NDLJP:88うか日月を送りぬればとて、何の益にもなり難き事ならんと思はる。既に先年川口に波除山〈天保山と云ふ〉出来して、市中大騒ぎにて莫大の黄金費しゝ事なりしが、是よりして入船の模様至て善からぬにぞ、又二百間海中へ坡塘を築出す、之より後は其坡塘へ船を打付け、船多く打砕きしかば、忽ち之を取払ひとなる。され共海中へ多くの捨石をなしたる事なれば、水際より下の石をば取上ぐる事なり難し、是何時迄も大なる川口の病と云ふべし。廿九日曇、辰の刻微雨、〈今暁丑刻土用に入〉今日より猫間川砂持又騒出す。〈御霊は未だ十日の内一日残り有り、三日の日延も之有れ共、出火に付いての事なりと思はる其切に止になる。〉

六月朔日、終日雨、〈今日より晴天、十日の願にて座摩御旅処砂持始る〉二日曇、辰の刻より雨、未の刻より大雨、暮過止む。三日晴曇不定なれ共雨ふらざる故、猫間川・座摩等の砂持一処に混じ、負なよ」とて大はずみとなる。

先月廿三日より廿五日迄は、大に暑気を催せし故、土用前の奇特ならんと思ひしに、廿六日頃より冷気となり、六月天候の不順廿九日より寒気烈しく、六月朔日・二日・三日の頃は、布子にても寒き程のことなるにぞ、暴に米価十匁余り高直になり、斯くては当年も如何あらんと年柄を案じぬる者も少なからず。斯る中にても破持は益〻壮盛んなり。猫間川砂持せる人の中にて、此節土用に入りて雨天打続き寒さ強し。先にて旱り上りなば米に気遣する程なることはあるまじけれ共、綿は又当年も不作ならんと、云ひし者有りしかば、「斯る太平の御代に不吉の詞を出す憎き奴なり」とて、其者引立行き、鉄刀にてしたゝか打叩きしかば、其群の者共大に恐怖して、悉く逃げ帰りしと云ふ。又松屋町にては先達て天神の砂持に若き者共、老分の制するをも聞かず、仰山なる地車を出し過分の物入有りしにぞ、松屋町と砂持此度猫間川御手伝も申付けぬれ共、町内の者をば一人も出さずして、働く一方なる雇人足を仕立て之を出せし処、総年寄へ其町の年寄呼付けられ、大に之を叱付けられ、無拠其町も揃の衣裳・鉦・太鼓にて踊り行きしと云ふことなり。五日朝曇、昼頃より晴。六日晴天、一昨日頃より冷気失り、大抵暑気の模様となる。

此度の砂持には種々の仇口出来せし中にて、二ツ三ツこゝに記す。之にて其有様を知るべし。

オープンアクセス NDLJP:89      乍踊埴汁奉書候

                      願人  ​天満菅原町​​ 梅八屋紋之助​​ ​

                      相手  ​津村町鎌倉屋権五郎借家​​   巴屋加右紋  ​​ ​砂持に就ての仇口

一、私儀古来ゟ天満住居にて、先祖ゟ悪筆引立渡世仕来り候処、昨年無実の難に出合ひ及類焼、甚難渋仕り、未だ仮宅に罷在候て、三七日の間土砂渡世相始候処、私得意方は申すに及ばず、外方も段々御揃御用向賑々敷、昨年の無御厭も竹馬抔にて、一駄・二駄宛金銭大差にて御用に預り、既に右日限相済候故、本宅普請に取掛り可申処、景気とは多分致相違、売掛代銀余程不寄に御座候。なれ共数代の御得意方の儀故、押して催促も難相成、且は正遷宮家業方妨に相成哉と差控居候処、此度右相手加右紋儀、私同商ひ相始候由承り候。都て土砂商ひ之儀、当月両三日後ゟ商売大行に可相成筈の儀に候処、当日前々ゟ鉦・太鼓にて打囃し、浮気は見せ掛にて私客先迄可取込工み、存外の致方に付、私ゟ否哉於申すには、御輿或だんぢり抔可持込風聞も相聞え、重々心外に奉存候。且又加右紋儀も私に続候商人に御座候。

別て類焼も不致候得共欲心にて、右様に土砂家業相始候旨奉察候。併末々に至つて土砂商ひの儀、不景気に可相成哉と存候得共、何分当時の勢ひ恐下にていじ砂持訳も無之、何卒御町遊行様の以御慈悲、相手加右紋御召被成下、如法に渡世仕候様御利解大勢踊りは賃が多分に御座候。以上。

  天神七代いじの五霊十日               紋之助

   右でん町遠々相違無御座候     又出る町装束目兼帯

    御町遊行様                 ​古手屋​​  新造​​ ​

天保九戌四月廿四日より、天満砂持三七日の間致し候処、道頓堀幸町諭如山社地是も同様砂持相始候処、市中一統に殊の外大はずみ、種々の組々ゟ趣向にて出候に付て、ねり物番付に形取候書付如左。

   夜見せひまの内         見附し台

      はやくねるもの         雲に掛出し霞にはしり砂持に付ての狂句

オープンアクセス NDLJP:90一、てんてこ舞子二人 親心我等は著ずとも子に著せて​ぶた尾屋​​ しやうらひ​​ ​ 一、陽気火 足元は闇くとままよおもしろや​あたま栄​​ 野瀬 ​​ ​ 一、しのぶ売 蝶々で菜種に困る客もなし​こそや​​  一朱​​ ​ 一、湯あがり あすも又踊るつもりの足休め​大勢風呂​​  入口​​ ​ 一、宇長天 砂持が金も持つたか知らねども​とん藤​​ 若蘭​​ ​ 一、踊子二人 親父めが叱るとまゝよまゝの皮​それ水​​ せつ・この​​ ​ 一、浮れ女 男にもなりたきけふの思ひかな​黒藤​​ ひめ​​ ​ 一、梅鉢の木 豊作を守らせたまへ天の神​ゑらひ​​ はずみ​​ ​ 一、白舞天 すし米も大かた百になりにけり​米も​​ やす​​ ​ 一、乙女 砂持や国々までも鳴りひゞく​すゞや​​  かね​​ ​ 一、不時儲 借り集め犬や牛迄たかせけり​下駄屋​​  駒​​ ​ 一、きぬた 色々と売りて上げます忙しき​大丸小橋屋​​  ゑつ ​​ ​

     節季所はやし節季囃一、さア味縁​ない庄​​ つけ ​​ ​ 一、弁慶太鼓​こちや​​ しらん​​ ​ 一、かね​大ぶん​​ いろか​​ ​ 一、ふえ​はらい​​ つまらん​​ ​

      以上

   仇口をゆふがさんやら恥もかきつくしのかみの無筆おゆるし

砂持と身延山の出持砂持最中、甲州身延山よりも金儲の為に大坂へ出来り、法華宗の寺々に十日・五日・三日程づつ巡行し、したゝか金を取り手繰り帰りしと云ふ。之が出迎へ見送り抔とて、堅法華の凡俗共我もと浮れ立ち、砂持に負けじ劣らじとて山上講の幟を建飾り、馬に米俵をつけ竹馬に金銀銭を飾付けて之を担はせ、何れも一様なる踏込はき練行ける有様は、阿房の昼狐に化されしとは、かゝる事をいふものなるべし。南無妙阿房連出行と云ふべし。

      浮世替りもち所

一、菅原もち ​価三七​​ 二十一文​​ ​ 一、しんけんもち ​同​​此品遠方へ御遣ひ被遊候共、足強し。​​ ​

一、浮気もち ​同​​此品久敷受合難し。​​ ​    一、猫間川包 ​同​​ 御望次第取々​​ ​

一、河内製道明寺と有、  五十文。

      新製御霊餅  外に小餅いろ 御進物見附台にのせ奉差上候。

餅屋の報条右の品々当春以来ゟ相始め候処、昨年に引替へ御町中様我もと御揃ひにて、御入来御注文被成下候段、屋体の銘々打囃し奉悦入候。随て冥加の為め寄進之、尚此度新製御霊神末もちとなぞらへ、来る十日ゟ売始め申候。尤御添物として未熟の諭伽おこし奉差上候間、晴天十日の間多町に不限御用向御捨置、賑々敷く御来オープンアクセス NDLJP:91駕偏に奉希候。已上


    月 日

 御目印には紅摺挑灯差出置申候。    ​町人迷惑筋二度目​​    大悦堂 藤原神主​​ ​

       ​げんさい​​ 正札附​​いろけなし​     ​大方こうくわい橋​​  うはきます屋  ​​えらうかうじ増同店​

           ざつ物類大安売                  煮売屋

                                    呑屋

呉服屋の報条一、気違島類 市中 一、しわ縮緬類 夫婦喧嘩・女房 一、濃良島類 一、陽気島類 老若共 一、同はぢ晒類 裸子はだか并にぱつち 一、本もみ裏地類 装束出来首尾あしく 一、新好色々夕方地 おそろひ 一、花売秩父類 芸子 一、​大目玉紬類 井にしゆんとめ類​ 息子・奉公人 一、厚板帯地類 大方女仕立 一、婦えた島類 道化色々 一、苦労繻子帯地 子供ある母 一、馬鹿多男帯地 連なし一人好色々 一、当惑島御袴地 五月節季 一、貧窮紬類 質置装束拵へ出る人

  別て高値に奉差上候。                        三雲屋かつらや

 御ぼん出は うば しようらい 御神うき 市中 御あたま著 あんど鬘

一、御町中様益〻御機嫌能く御踊り被遊、狂乱至極に奉存候。随つて神主事御贔屓に厚く日増に増長仕り、賑々敷く御気毒に奉存候。扨又世話方講中ゟ進寄る時節宜しき頃を考へ、砂持相始め飛上り舞上り連・あわて連揃へ沢山に出来有之候。御町中様殊の外騒々敷く、老若男女に不限昼夜御厭ひなく御踊り御勝手次第、将又砂持猫間川・天満川崎迄追々仕掛御座候間、御心の儘に御踊り被下度、別して奉公人宿預け足上り等の類多く追々出来申候。請人は多少に不限御用向被仰付下候。以上。

   月 日

     砂持風流連句集(〈此れは梶木町渡辺筋の四辻に掛けおり掛行灯に記せしものなり〉

オープンアクセス NDLJP:92砂持風流連句楽車だんじりやさても夜なかの人のおと 飛起 起て見ず寐て見ずほれのぬるさ哉 耳遠 道端のむく犬は人に追はれけり 押合 八九けん跡で褒めたるにはかかな 天狗 八釜しい無茶にして置け家賃取 持友 練ものや裸で起きてはし二つ 酢二 紅襦袢きのふはひがし今日は西 蝶々 往来にきかばや衣裳のはで姿 親達 初夜と四つと争ひよつに成に鳬 言訳 砂持にひめもす出たり 物九庵

     鎌倉権五郎景政 氏子家中

近藤見物紀浮助 荒神くわうじん松之進橘年久 無闇一三太源軽躬かるみ 手塚弥九郎ともの持行 馬場孫太郎大江手彦 淀谷庄司とも蛸住 高息なめ五郎平金持

御当家の御代と成りて遥か後迄も、今の御霊の辺は池にして、其の池の中に島ありて樹木生繁り、菖蒲ヶ池小やかなる古き社ありて、池中菖蒲多く生ひぬるにぞ、世人此池を名付けて菖蒲が池と云ふ。島に有りぬる社の神名も知れ難き程なることの由、 〈按ずる之は定めて荒神か又は天神の類なるべし。〉其社の側、森の中に小家掛けして、五郎といへる乞食の住処なりしにぞ、世人其社をさして五郎の宮と呼びなせしが、其辺人家立連り、追々繁昌するに就ては、御霊神社の縁起所の氏神なりとて社を大に建立せしが、乞食五郎にては面白からざる故、誰云ともなく鎌倉権五郎なりと云ひくろめて、乞食五郎の名を打消しゝが、鎌倉権五郎と何の縁りもなき事にて、之も亦格別名の通りて、人の知りぬる程の事にてもなくして、之れを尊き神なりと敬する者も稀なるに、余の氏神は座摩・生玉・高津・稲荷・難波・天神、何れも異なる霊神なる事故、乞食五郎・鎌倉権五郎位にては神主の肩身もすぼり、氏子も鼻の挫げぬること故、権五郎の御霊に変化せしは余りに遠からぬ事なりとて、三十年計り以前の事なりしが、六十四五の老人の予に語り聞かせぬるにぞ、筆の序に此処へ記し置くものなり。

五月中旬の事なりしが、京都千本通三条の茶店に、二条御城詰の士両人休らひて酒を飲みて居たりしに、堂上侍と思しき者、娘一人召連れしが、之も同じく其茶店に休らひしに、両人の士其娘を捕へ、尻を捻り手を引張り、酒の酌せよなど種々法外の事を言掛け、堂上侍と二条城詰侍の喧嘩無理に之を手込にせんとなしぬる故、之を振切りて、かゝる者共に出会し、彼此無礼咎めするも詮なき事と思ひしと見えて、何気なく其茶屋を立出で早々オープンアクセス NDLJP:93歩み行きぬるに、両人の士も同じく之に引添ひ立出でて、途中に於て其娘に抱付き不法の事に及びぬるにぞ、今は拾置き難く、両人の士を其所に投捨て其儘に行かんとせしに、何れも起上り大に怒り、「武士の身にして人に投げられしとてに、其儘に為し難し、尋常に勝負すべし」と、刀に手をかけ頻りに之を言募るにぞ、一方には事を好まざる事故、其場を避け遁れんとすれ共、両人の士更に許さゞれば、「今は詮方なし。然らば其方共の望に任せ勝負すべし」とて、親子共裾をからげ股立を取り、襷をかけて身拵へし立向ひしにぞ〈かゝる程の事なりしかば、人通り多き場所柄の事故、大勢立止りて是を始めより見物す。両人の士其不埒なる事言語に絶せし事なれ共、之を堪へ忍びし事一通りの事には非ざりしか共、今は無拠場に至りし故、両人とも腹を居ゑて身拵に及ぶ、至つて勇勇しき事なりしと云ふ親子が斯る有様なるを見て、両人の悪党共も案の外なる様子にて今更如何とも仕難く困りし様子にて、見物の目に止りし程の事なりと云ふ。〉双方共刀を抜合せしが、始め其間を三間計りも隔たりしが、次第に双方より進み寄りて一間余りになりぬ。こゝに於て互に暫しためらひて、勝負何時か果つる事あらんと思へる程に間取りしに、如何仕たる事にや、娘倒れて地に手をつきぬるにぞ、其相手踏込みて之を横なぐりに切払ひしかば、娘沈んで之を避け、直に踏込みて其相手の脇腹を尖通す。相手之に堪兼ね、其疵口を押へて三町計り逃行きしが、忽ち其処に倒れて動くこと能ずと云ふ。娘沈んで相手の横に斬付けし刀を避けしか共、娘の事なれば島田わげの大なる故、之を根本より切払はれ、遥なる外へ其わげ飛びしといふ、危き事なりしといふ噂なりしが、双方立向ひし迄の事にて、切合へるにてもなく、何の故もなくして倒れて手をつきぬる事あるべからず。こゝに倒るゝ程の不覚人ならば、身構へして斯かる事に及ぶべきことには非ず、余りに勝負はてしなき事故、態と相手をそびかん為め、手をつきて見せたるなるべし。其これをかはし直に踏込んで其脇腹を尖貫きしにて思遣るべし。其わげを切られぬるは、娘の事にて大なる島田ゆゑ、其刀にて切払はれしものなるべし。娘が相手の腹を貫くと其儘に、親父も踏込みて今一人は其場にて之を斬倒し、親子とも刀の血をぬぐひ鞘に収め、身繕ひをなして其儘立去らんとせしが、親父振帰り之に留めを刺さんといひぬるを、其娘之を止め、「苦しからじ捨置き給へ」と云ひつゝ、親子とも其場を立退きしと云ふ。是等は全く其親の教へ宜しく、其娘も之をよく心得て、平日の心掛よき処より斯かるをりに臨みぬれども、其恥辱を受オープンアクセス NDLJP:94くる事なく、却つて諸人の目を驚かしぬるに至る。士は申すに及ばず、其家に生れぬる者は、女たりともかく有るべき事なり。公家侍には珍しきことなりとて、其評判高かりし。此親子に殺されし奴等も、定めて主人あるべし。此者共の大白痴たはけなるは論なしと雖も、かゝる者共を召仕ひぬる其主人たる者の、大馬鹿なることを思遣るべし。

砂持と種種の催物九日晴、天神の砂持より打続き種々華麗を仕尽しぬるにぞ、是等に負けまじとて、座摩の氏子色々と珍しき事を思付きて仕出せる中にても、十二月とて正月より極月迄種々の事共をなして、是を囃立てゝ練り歩行きける。至つて大層の事にて、諸人の目を驚かす事共なり。其外菓子商人虎屋より造り出したる虎は、家の大屋根と等しく、加島屋作兵衛が出入れる者共へ言付けて出しぬる大鯛も之に劣る事なし。何れも種々の囃子に大坂中を練廻りぬるに、顕如が叛逆に其門徒等が味方せし如く、此処も彼処も御加勢といへる大印を建連ね、ドンチヤン太鼓・鉦など叩き立てゝ騒ぎぬる有様は、何とも快からぬ有様なり。十二日曇、午の刻より雨、冷風夜に入りて益〻甚しく、袷・布子抔に非れば其冷気に堪へ難き程のことなり。十五日曇、十二日より今日に至れ共冷気甚し。堂島の姦商時を得たりと頻に米価を引上げ、肥後米一石百三匁、奸商虚説を流布して米価を引上ぐ正米の売買は百十六七匁と云ふ事なり。已に先月下旬より当月初にかけて、天気宜からざりしに、別けて廿七日の大風は九州一統大変にて、肥後の城大に損じ、其殿主を吹飛す。此の如き大風なれば、人家の倒れし事は其数を知らず。又津浪にて田地仰山に流れし抔、跡形もなき悪説を頻に言触らしぬ、憎むべき事なり。其外にも北国大じけ、当月二日降ふりしと云ふ。同日江戸にも紀州にも雪降りし抔専ら風説す。雪の事は知らざれども、大坂抔のかく冷気なる事なれば、北国辺は嘸甚しきことなるべし。十六日曇、辰の刻より時々雨、申の刻より大雨雷鳴にて、初更前に至り大雨は止むと雖も、終夜時々少雨降る。十七日曇、巳の刻雨、休降不定、未の下刻大雨。昨今御霊の神事なれども、前以て砂持に騒ぎぬる故、一統大に弱り果てしと見えて至つて淋しく、人形船・地車の類一つも出づる事なく、少しも祭りらしき事あらざるに、両日共雨天にて猶更物淋しき事共なり。

 
 
 

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この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。